白のカーテン越しに広がるのは幾度となく目にしてきた、燃えるような夕焼け。
今日も強い陽光を放っていたであろう太陽が間もなく、一日の役目を終えようとしていた。
「もうお目覚めだったのですね」
背後からの聞き慣れた声。
視線は窓に向けたまま応える。
「今日はあの日だからね。準備は?」
間髪入れずに返事が返ってくる。
「勿論、出来ております」
流石は私の完璧な従者。
そう、と返そうとしたところで彼女、十六夜咲夜が艶のある銀髪を揺らしながら横に立つ。
手にはティーセットを乗せたトレイを持っていた。
「丁度起こしに行こうとしていましたのに」
「あら、手間が省けてよかったじゃない」
そう言いながら部屋に備え付けの椅子に座ると、咲夜は何故か少し残念そうに苦笑しながら紅茶を淹れ始める。
「それはそうですが……」
予定のある日は咲夜が自室まで私を起こしにやって来る。
そしてそれは幾度となく繰り返されたことなのに、何故か彼女はいつも楽しそうに口元を緩めている。
でも、それは予定が昼にある場合に限られる。
私は元々種族柄夜型の生活をしているから、今日のように予定が夜の場合は自然と目が覚める。
カップを手に取り、口をつける。
紅茶の味もさることながら、カップの持ち手まで熱が伝導しない、絶妙な加減で温められている。
そしてお茶請けはその全てが同じ大きさ、焼き色に仕上げられたスコーン。
いつもながら完全な仕事ぶり。
普段の彼女は本当に隙一つない。
時々思いもよらぬ天然ぶりを露わにすることもあるけど、
それさえもどこか魅力的に感じられるのは決して主人の身内びいきというわけではあるまい。
そんなことを考えながら紅茶をすすっていると、門が開くのが見えた。
今日の演者が到着したようだ。
「来たようね」
咲夜の顔を見ると、彼女は首を傾げている。
「ええ、ですが変ですね。二人一緒に来るはずなのですが……」
「そう言えば姉妹だと言っていたわね」
「彼女が姉だったと思います。とにかく、出迎えてきますわ」
「ええ、よろしく」
咲夜は会釈とともに一瞬で姿を消した。
紅茶を飲み干し、カップをテーブルに置くと先日収束したばかりの異変がその景色とともに追想される。
その異変は打ち出の小槌という鬼の秘宝が引き起こしたものだった。
普段は大人しい妖怪を凶暴化させ、物言わぬ道具達には命を吹き込んだ。
魔力の源だった空中の逆さ城、輝針城は未だ宙に浮いたままだが現在は誰も住んでいないと聞いている。
首謀者二人のうち、天邪鬼は早々に逃亡し行方不明。
もう一人、小人族の子どもは博麗神社に居候しているらしいが、直接会ったことはない。
この異変自体からは特に大きな被害も受けなかったし、大して気にも留めなかったというのが正直なところだ。
それよりも、異変の調査のために出掛けていた咲夜の土産話を聞くのが楽しかった。
普段はなかなか年相応の顔を見せない彼女も、こと異変に関する調査の報告をする時だけは違う。
まるで子どもが冒険の武勇伝を語るかのように、実に嬉しそうに話をするのだ。
こんな妖怪に出会った、勿論弱すぎてナイフの錆にもならなかった。
こんな景色を見た、悪くなかったけど宴会の会場には不向きだった、等々。
バルコニーから中庭を見下ろしていると、先程の少女が鎖の付いた木箱をのような物を抱えてエントランスに入っていく。
髪はツインテールにしており、肩どころか腰あたりまである。
離れているからはっきりとは分からないが、背丈は咲夜と同じか少し低いぐらいだろうか。
彼女が視界から消える直前、一瞬だけ顔が見えたが浮かない表情をしているように見えた。
気のせいだろうか。
***
館のメイドに案内されるまま、廊下をひたすらに真っすぐ進む。
今日、私と八橋はここ紅魔館に演奏をしに訪れた。
人里で音楽活動を始めてからまだ一カ月足らず、外部での活動をするのは今日が初めてだ。
依頼を受けるかどうかも、本当は落ち着いて考えたかった。
だが生憎と、それは出来なかった。
先日、ほんの一週間前の光景が頭に浮かんでくる。
人里の集会場で演奏を終え、二人で同じ建屋の控室に足を踏み入れる。
「あー暑かったー」
少しでも涼みたいのか、八橋が上衣の襟元をぱたぱたと揺らし始める。
私はポケットからハンカチを取り出し、手渡した。
「ほら、使いなさい」
「ありがと、姉さん」
八橋が襟元と額の汗を拭きながら続けた。
「姉さん、さっき人間の女の子が言ってたんだけどさ」
私は持ってきた水筒の水を一口飲んでから応えた。
乾いた喉が心地良い冷たさで潤う。
「ん、なあに?」
「人間は自分の誕生日をご馳走でお祝いするんだって」
聞き慣れない言葉に、私はオウム返しをしてしまった。
「……誕生日?」
私が知らない言葉を知っていることが嬉しいのか、八橋が得意そうに目を細めて続ける。
「うん、自分の生まれた日をお祝いするの!」
「生まれた日……」
八橋の言いたいことはなんとなく窺える。
でも私はあえて言わなかった。
本当は自分から言いたい気持ちはある。
けれど姉として、こういう話に勢いよく飛びつくのはなんとなく品がないような気がしてしまう。
そんなことを思っていると彼女は予想通り、すぐに痺れを切らしたように自分から語り始めた。
「だからさ、私達もえっと……あと十一ヵ月ぐらい? 誕生日には一緒にご馳走でお祝いしようよ!」
「いいけど、お祝いって……具体的には何を食べるの?」
「えっとねえ……」
いくらでも喋りそうな勢いだった八橋が急に静かになる。
ああ、そこまでは聞いていなかったのね。
私は一旦話を着地させるつもりで言った。
「なんにせよ、いい物を食べるにはしっかり貯金をしないとね」
それだけ言って荷物を持ち、部屋を出ようとしたところで八橋が思い出したように言った。
「そうだ、ケーキ!」
「……ケーキ?」
「うん、ケーキっていうお菓子に自分の年の数だけ蠟燭を立てて火を点けるんだって」
「……そうなの?」
私が知る「お菓子」は今のところ差し入れでもらったことのある、お饅頭、お煎餅、金平糖の三つぐらいしかない。
「ケーキ」というのはどんな物なのだろう。
火の点いた蝋燭など立てれば溶けだした蝋が落ちたりしないのだろうか。
それに八橋の説明通りなら私達の場合は蝋燭を一本、いや二本立てることになるわけだけど。
例えば里の大人が同じようにお祝いをしたら一体何十本の蠟燭を立てることになるのだろう。
お饅頭に数十本の蝋燭を刺す光景が不意に脳裏を過る。
……まるでハリネズミではないか。
人間の文化と言うのはさっぱり訳が分からない。
八橋も先程から腕を組んでうーうーと唸っている。
自分で言いながら訳が分からなくなってきたようだ。
いつまでも控室に居たら迷惑だろうし、私は今度こそ一度話を終わらせるために言った。
「まあ、まずは頑張ってお金を貯めなきゃね。さ、出ましょう」
まだ唸っていた彼女も間延びした声と一緒に着いて来た。
「はあい」
集会場の裏口から外に出て、一息つく。
さて、今日は他に予定もないけどどうしようか。
早めに引き上げるか、それとも人里を散策するか。
そんなことを考えながら、往来に出る方角に向かって狭い路地を進む。
もうすぐ広い場所に出る、というタイミングで急に背後から声がした。
この声、どこかで聞いたような。
「こんにちは」
二人で後ろを振り返ると、そこにはメイド服姿の銀髪の女性が立っていた。
背は私達二人よりも高く、表情は引き締まっている。
そうだ、思い出した。
私達が生まれたばかりの時、輝針城を囲む雲海の中で戦った謎のナイフ使い。
その恐ろしいほどに正確なナイフ捌きは対峙する私の弾幕をことごとくすり抜け、時には搔っ切った。
今は殺気こそ感じられないものの一瞬、背中に冷や汗が流れる。
だが、妹の前で弱気な態度は見せられない。
しっかりしないと。
私は八橋よりも一歩前に出た。
言葉を紡ぎ出す前に、眼前の女性は急に破顔し滔々と喋り始める。
「お嬢様が貴女達の演奏に興味をお持ちなの。報酬はこのくらいでいかがかしら」
前置きもなにもない、簡潔に要件だけを告げる短い言葉。
先日の異変で交戦したばかりなのだが、それについても一切触れてこない。
この時私は「勿論請けるでしょ」、と言わんばかりの強い圧を感じ気付けば即座に承諾の返事をしていた。
本当はその回答を出すまでの一瞬の間にいろんな葛藤、損得勘定があったはずだった。
妹の前では常に強くありたいとか、優柔不断なところは見せたくなかったとか。
それだけではない。
報酬が破格の金額だったことに心惹かれたこと。
初めての外部での仕事に興奮、同時に不安も感じていたこと。
「では、よろしくお願いします。詳しい内容については追って連絡しますわ」
こちらの返事に満足したのか、彼女は嬉しそうに去って行く。
私は彼女が去ったあとも数秒間、その後姿に見とれていた。
現れてから経過した時間、僅か一分足らず。
得られた情報も、当然ながら僅かだった。
依頼主が霧の湖近くに建つ洋館の主、レミリア・スカーレットであること。
彼女はそこで従者として働くメイド長の十六夜咲夜であるということ。
これだけは辛うじて確認することが出来た。
しかし、人間相手に完全に呑まれた。
手玉に取られたと言ってもいいかもしれない。
幸いだったのはその日の帰り道、八橋が
「あの大きなお屋敷からのオファーなんてついに私達もメジャーデビューね!」とはしゃいでいたことだろうか。
最近急に横文字なんか使い始めて、可愛い。
幸い、私の中の揺れ動く感情には気付かれていないようだった。
翌日は報酬の多さに喜んだ八橋に下見だと言って引っ張られ、人里の様々なお菓子屋さんを回った。
そして四つ目に訪れたお店のショーウィンドウを見た途端、私達は同時にそれに近づいた。
そこにあったのは丸い円筒型の生地に白いクリームが塗られ、赤いいちごが乗ったお菓子。
さらに白い蝋燭が何本か刺さり、橙色の火が点いていた。
間違いない、これがケーキだ。
柔らかそうな生地に、真っ赤で大きないちご。
美味しそう。
でも、このままでは蝋燭が溶けて生地に落ちてしまう。
大丈夫かな。
私達はしばらくの間、じっとそこを動かなかった。
十分ほど経ったところで、白いコック帽を被ったおじいちゃんが笑いながら店先に出て来た。
これは作り物。
つまり見本で、食べられないらしい。
……これからは物を見極める力もつけなくちゃ。
依頼の報酬がもらえれば、十分に買える値段。
でも、これを我慢すれば数日食べていけるのも確かだ。
ここは「誕生日まで待ちましょう」と妹を納得させないと。
―無理だった。
結局八橋は勿論、私も「早くこれを食べてみたい」という欲求には勝てなかった。
お菓子、甘味とはなんとおそろしいものなのだろう。
「地下劇場はこちらですわ」
咲夜の案内に従い、後をついていく。
それにしても、三百六十度どこを向いても赤、赤、赤。
館に足を踏み入れた時からずっと感じていたけど、目が痛くなってくる。
これまでにも自分の視力に違和感を持ったことはある。
八橋と一日行動をともにし、同じ景色を見て過ごしたのに私だけが目に疲労を感じたこともあった。
日常生活に支障があるほどのものではない。
先日読んだ本によると、視覚過敏と言う言葉があるらしい。
色が濃い物を見続けると目が疲れやすい症状なのだとか。
勿論、これが奏者としてハンデになっているとは全く思っていない。
視力に難がある分、聴力には自信があった。
演奏会では普段から八橋の奏でる音は勿論、最後尾の観客の声までしっかりと聴き分けることが出来る。
でも、さすがにこれだけ濃い色の景色を見続ける機会は今までになかった。
今日は演奏が済んだら、早めに休んだ方がいい。
終了後は夕食に誘われているから、それには出ないといけないだろうけど。
天井に視線を向ける。
この館の廊下にはやたらと窓が少なく、その位置も極端に高い。
これでは折角の豪奢な装飾が施されたそれも採光にはほとんど役立ちそうにない。
この異様な光景が、嫌でも認識させてくる。
今自分は吸血鬼という得体の知れない存在が支配する館にいるのだということを。
駄目だ、こんなことでは。
もう演奏は始まっていると思わなければいけない。
観客は演奏中以外でも、演者をよく見ているものなのだから。
そうしてなんとか自分を奮い立たせると、ステージのある地下劇場に着いた。
咲夜が脇の扉を指差して言った。
「演者の控室はあそこです、出番までゆっくりお寛ぎください。妹さんも後で私が案内してきますので」
「ごめんなさい、手間を増やしてしまって」
「いいのよ、美鈴も話し相手が増えて嬉しそうにしてたし」
その言葉を最後に、咲夜と一旦別れる。
八橋とは門のところまで一緒だった。
でも、門番の紅美鈴といつの間に親しくなったのか門前で彼女と和やかに話し始めた。
それに私はなんとなく居心地の悪さを感じてしまい、時間に余裕もあるからと後で落ち合うことにしたのだ。
私達は大抵二人一緒に行動するけど、さすがに四六時中ずっとじゃない。
だからお互いに相手が一人の時に何をしているのかまでは知らないし、無論それは各々の自由なんだけど。
妹に友人が出来たのはいいことだし、別に嫉妬なんかしていないけど。
初対面で少し言葉を交わしただけでも分かるぐらいに、美鈴は気さくで優しそうな妖怪だったけど。
なんとなく、もやもやする。
駄目だ、冷静にならなきゃ。
心の乱れは、そのまま音に現れる。
あらためて辺りを見渡すと、劇場の想像以上の広さにただただ驚かされる。
どう考えても外から見た館の敷地内に納まる大きさではない。
地下を掘り進めて拡張したにしても無理がある。
ここ紅魔館には魔女も暮らしていると言うし、空間を広げる魔法でもあるのだるうか。
とにかく、広い空間に負けないだけの音を。
半身の琵琶を支える腕につい力が入る。
咲夜が指差した控室に向かって歩を進める。
客席はステージに対して左、中央、右の三つの塊に分けて並べられているのが分かった。
その数はざっと見ただけで百席以上はある。
仮に館の住人全員が座ってもだいぶ余るのではないだろうか。
中央、左側の席の間の通路を通って控室に足を踏み入れた。
壁の一面は全て化粧台になっている。
一度に五人は座れそうだ。
取り敢えず、部屋の中央に置かれた丸型のテーブルを囲む椅子の一つに腰を下ろす。
やはりというべきか、この部屋も化粧台がある方向以外の壁と天井は赤一色に統一されている。
鏡に視線を向けると、花を模した白の髪飾りが少し曲がっていることに気付く。
花弁が斜め前方を向くように位置を調整する。
その後もなるべく赤い壁の方は見ないようにして過ごしていると、足音が近付いて来た。
ノックの音に返事をすると八橋が咲夜に先導される形で控室に入室した。
部屋の置時計を見ると、時刻は予定の丁度五分前。
八橋が片手を上げながらいつもの朗らかな笑顔で口を開く。
「お待たせ、姉さん」
「リラックスできた?」
八橋は得意げにピースをして応える。
「えへへ、ばっちり」
美鈴とどんな話をしたのだろう。
なにか共通の話題があったのかな。
そんなことを考えていたところ、客席の方で物音がした。
気付けばすぐ傍にいたはずの咲夜が姿を消している。
ステージの裏手から客席を覗き見ると館の住人達が既に客席の最前列に座っていた。
全部で三人。
咲夜以外は初めて見る顔だったけど、名前と特徴は事前に聞いている。
一番遠くの席には丈の長いローブ姿の少女、パチュリー・ノーレッジ。
背凭れを使わず、背中を丸めて座っている。
どこか眠そうな目で前方をじっと見つめているようだ。
その隣にはドレスのように裾の長いピンク色の服を纏った少女が座っている。
ここ紅魔館の主、レミリア・スカーレット。
そしてパチュリーとともに彼女を挟む形で、咲夜も隣に姿勢よく腰を下ろしている。
背の高い咲夜が横にいるからだろうか。
こうして見ていると、背丈だけならレミリアのそれは人間の幼子と変わらなく思える。
その時ステージ正面を見ていたはずの彼女が不意にこちらに視線を走らせ、目が合った。
病的に白い肌に薄っすらと開いた口元から覗く牙。
そしてこの距離でもはっきりと視認出来るほどの、深紅の瞳。
それはほんの一瞬のことで、彼女はもうこちらを見ていない。
けれどしばしの間、まるで吸い寄せられるように私の眼は彼女だけを映していた。
さっきのは一体なんだったのだろうか。
八橋とともに幕が下りた状態のステージに上がる。
準備を整え、幕の内側にいた妖精メイドの二人組に合図を送った。
すると彼女達は透明な羽を揺らしながら壁面のハンドルを勢いよく回し始める。
幕がゆっくりと上がり、地下劇場とは思えないほどの広大な空間が目の前に広がった。
そこは一面の、紅い世界。
一瞬、軽い頭痛とともにその光景がぼやける。
やっぱり、この濃い色は苦手だ。
だが、ここはステージの上。
演目をやり切って館を出るまで、顔をしかめることなどあってはならない。
私が左、八橋が右。
いつもの配置に着く。
二人で一度視線を交わし、私だけが一歩前に出て開演の挨拶。
幾度となく行った、いつも通りの手順。
最初の一音を出そうとした途端、眩暈が襲ってきた。
視界が微かに歪む。
咄嗟に視線を客席に向ける。
この世界に存在する唯一の安全地帯。
今宵の観客達と再び眼が合った。
普段の人里での演奏会では、一カ所だけを見つめ続けることはまずない。
だが、今の自分にはもう他に視線を向けられる場所が存在しない。
私は視線を固定したままの状態で半身の琵琶を構え、最初の一音を鳴らした。
私の琵琶と、八橋の琴。
同じ赤光の弦に指を滑らせ、二人で音を奏でる。
いつもと少し変えた内容の演目を一つ、また一つと終えていく。
その間私の意識は視線を絶えず観客の三人に向け続けることに集中していた。
彼女達は大きく表情を変えることもなく、落ち着いた表情で演奏に耳を傾けてくれている。
八橋の音の響きもよく、これなら劇場の広さにも決して負けていない。
そのまま最後の演目を終え、二人で視線を交わす。
終幕の挨拶とともに頭を垂れる。
次に頭を上げると、レミリアと咲夜が拍手とともに壇上の私達に視線を送っている。
パチュリーは座ったまま、静かに軽く一礼だけすると早々に劇場を出て行った。
三人とも、満足してくれたかは分からない。
しかし、なんとかやり遂げることが出来た。
ほっと息をついたその時だった。
世界が大きく歪み、私の手足が何もない場所で空を切った。
「姉さん!」
八橋の叫び声が聞こえたのを最後に、私の意識はなくなった。
次に目を覚ました時、私はベッドに横たわっていた。
慌てて布団から出て部屋の一面を見渡したところ、おそらくここが館の客室の一つであることが窺えた。
半身の琵琶は鎖とともにテーブルに置かれている。
壁面のアンティーク時計を見ると、時刻は既に深夜十時過ぎ。
演奏を終えてから三時間近く経過している。
意識を失った後、誰かが私をここまで運んでくれたのだろう。
部屋は一人用なのかベッドは一つで、八橋の姿はない。
意識が鮮明になっていくに連れて、心底に重く粘ついたなにかが蠢き始める。
……そうだ、せっかく初めて私達を呼んでくれたお客さんに大きな迷惑をかけてしまった。
ちゃんと謝らないと。
こんな時間だし、普通の人妖ならもうとっくに寝ているだろうけど。
それでも、このまま布団でじっとしている気にはなれない。
私は布団の皺を出来る限り伸ばし、綺麗な状態にしてから部屋を出た。
左右に細長い道が続いている。
廊下はほぼ全てが夜の闇に包まれ、目算で十メートル先も見えない。
光源は高い位置に長い間隔で設けられた窓からの月明りしかない。
当然ながら、耳をすませても物音一つ聞こえてこない。
代わりに私の耳朶を震わせるのは、高まった動悸だけだった。
日中に比べてひんやりした空間に、自分の吐息が漏れ出す。
私を運んでくれたのは誰だろうか。
八橋か、それともメイド長の十六夜咲夜か。
勢い余って部屋を出て来たものの、この場所が館のどこに位置するのかは全く見当もつかない。
このまま闇雲に廊下を突き進めば、最悪誰にも会えず迷子になるかもしれない。
そうなれば、館の住人にさらに迷惑をかけることになる。
先刻の演奏が不意に脳裏を過る。
演奏自体にミスはなかった。
八橋のコンディションも間違いなくよかった。
だが視覚過敏を患っている身である以上、今回のような事態を引き起こす可能性は当然想定していなければならなかった。
視線を走らせる方向に注意を払っていれば今日一日ぐらいは大丈夫。
今日のことはそんな自分の見通しの甘さから起こった。
……もう、余計なことはせずに大人しく明日になってからにした方がいいかな。
客室に戻ろうとした直後、背後から声が聞こえた。
「あら、起きたのね」
慌てて振り返る。
そこにはレミリアが藍色に近いブルーのドレス姿で優雅に佇んでいた。
その視線は真っすぐに、どこか愉快そうな表情で私を見つめている。
彼女の紅い瞳から目を逸らすことが出来ない。
そうだ、まずは謝らないと。
「あ、あの……」
だが、緊張で続く声が出せない。
喉が急激に乾き、潤いを求めざわざわと騒ぎ立てる。
動揺し硬直する私に、彼女は構うことなく近づいて来る。
「ねえ、今起きたのならどうせすぐには眠れないでしょう?
少し付き合って頂戴」
悪戯っぽく笑いながら細く白い腕で手招きしている。
その指先では鋭い爪が月明りに反射し薄く光っていた。
答えに窮しているうちに、彼女の手はすぐ目の前に迫っていた。
ひんやりした冷たい指で手を握られる。
それになにかの甘い香りが鼻をくすぐってくる。
多分、香水かなにかだろうか。
「さ、こっちよ」
私は彼女に導かれるまま、後ろを着いていった。
握る手は、優しい手つきだった。
何度か階段を上った後に招かれた部屋は、多分館で一番高い場所のように思えた。
扉は大きく、いかにも重量がありそうだ。
しかしレミリアは私の手を握ったまま、片手間でそれを簡単に開いた。
部屋の中はとても広く、高価そうな物ばかりが置かれている。
バルコニーに続くガラス扉のすぐ前には大きな木製の執務机。
出入口のすぐ傍には六人掛けのテーブル、応接セット。
壁面には西洋のお城のような建物が描かれた立派な絵画。
そして当然ながら、部屋の壁面は全て赤一色で統一されている。
先程までは暗い廊下を歩いていたので、すっかり忘れていた。
そうだ、早く謝らないと。
言葉を頭の中でまとめる余裕もなかったが、意を決して口を開いた。
「あの、えっと、この度は急に倒れて迷惑をかけて、すみませんでした」
途中で声が震えてしまったが、言い終えたタイミングで私は頭を下げた。
少し待ってから面を上げると、レミリアは何も言わないまま私をバルコニーへと誘った。
導かれるままに外に出る。
するとそこには暗い闇、幻想郷の夜が広がっていた。
灯りは門のあたりに微かに灯っている火、そして。
この世界をぼんやりと照らす月の光だけだった。
しばしその美しい夜景に見とれていると、レミリアが握っていた手をそっと離してから言った。
「落ち着いたかしら?」
「え、あ、はい……」
すると彼女は目を細め、口元を緩めながら言った。
「……貴女の眼、濃い色は苦手なようね」
「えっ」
「演奏中あんなに必死そうに見つめられたら、誰だって気が付くわ」
そうだ。
考えてみれば、当たり前のことだった。
演者が私と八橋の二人いて、そのうち一人がずっと自分の方を見てくればなにか違和感ぐらい持ってもおかしくない。
私が黙っていると、一息おいてからレミリアが続けた。
「貴女、咲夜の話とは随分違うわね。異変の時は自信満々に挑みかかってきたと聞いたのだけど」
先日の異変で十六夜咲夜と対峙した時の光景が追想される。
逆さ城を囲むように広がる紫色の雲海を足場に、強風の中で繰り広げた弾幕ごっこ。
確かにレミリアの言う通り、あの時の私は根拠のない自信に満ち溢れていた。
妹がいるから。
私をこの世界に生み出してくれた、小人のお姫様がいるから。
それにあの時はまだ、あいつもいた。
仲間がいるだけで、なんでも出来そうな気がしていた。
結果は彼女のナイフの雨を浴びてあっけなく敗北したのだけど。
「それは、その……」
「別に私は怒ってるんじゃないわ、ただ」
レミリアはそこで一旦言葉を切り、一度夜空の方を向いてから言った。
「言いたいことがあるのなら、はっきりと言いなさい。いい?」
「……はい」
「赤を見続けるの、きつかったんでしょう?」
「……はい」
「それなら最初からそう言えばいいの。それに夜の中庭での演奏会と言うのも面白そうじゃない。
あと、演奏はもう終わったんだから敬語もいらないわよ」
ここにきて、ようやく気付くことが出来た。
彼女は私が色の濃い壁面を見ずに済むように、半ば強引にこの美しい夜景広がるバルコニーに案内してくれたのだ。
私は頭を下げ、あらためてお礼を言った。
「……ありがとう」
そんな私を見て、レミリアはにこりと微笑んだ。
先程までの威厳に満ちたそれとはまた違う。
白い歯を見せつつも、その眸は油断なく相手を見据えている。
「よろしい。じゃあ咲夜、お願い」
「畏まりました、お嬢様」
彼女が人差し指を鳴らすと、誰もいない場所から咲夜の返事が聞こえてきた。
次いで、その数秒後にもう一度声がした。
「お待たせしました、お嬢様。連れて参りましたわ」
その言葉とともに、咲夜は扉から入室した。
そして彼女に連れ添われる形で、八橋の姿もそこにあった。
寝起きなのか髪が少し乱れている。
まさか、今の数秒の間に起こして連れて来たというのか。
私が思わずレミリアの方を見ると、彼女は苦笑しながら言った。
「この程度で驚いているようではまだまだね。
それより早く行ってあげなさい、心配していたのよ」
私は頷き返し、八橋のもとに近づいた。
客先で他者の目もあるし、とても恥ずかしい。
私が頭を垂れながら告げた言葉は、とても短いものになってしまった。
「……ごめん」
すると八橋は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに首を横に振った。
「姉さんが無事なのが一番だよ、でも」
「……でも?」
少しだけ頬を膨らませて続けた。
「今度はちゃんと相談してくれないと、怒るかも」
「うん……ごめんね」
「えへへ、いいよ」
不機嫌そうな顔をしていたのは数秒だけだった。
八橋はそのまま手を握り、レミリアのもとまで私を誘った。
「あの、えっと……」
八橋が最後まで言い終える前に、レミリアが頷き応える。
「咲夜」
「勿論、出来ております」
咲夜がバルコニーを指差す。
するとそこにはいつのまにかテーブルと椅子のセットがあった。
机上には白いプレートに並べられたなにかの焼き菓子、それにティーセットも置かれている。
それを見たレミリアが咎めるように告げた。
「一人分足りないじゃない、貴女も座るのよ」
咲夜は一瞬きょとんとしていたが、すぐに表情を引き締め一礼した。
「ありがとうございます、お嬢様」
その後、レミリアの好意で深夜のお茶会が始まった。
夕食を食べていないせいもあって、私のお腹はしきりに空腹を訴えていた。
咲夜の出してくれた焼き菓子(クッキーと言うらしい)は麦の匂いが香ばしかった。
紅茶も初めて飲んだけど、甘いお菓子によく合っている気がする。
レミリアが向かいの席の八橋を一瞥した後、私に言った。
「貴女が目を覚ますまでずっと起きてる、なんて言うものだから説得するのに苦労したわ」
言葉とは裏腹に、顔は愉快そうにしている。
八橋はさすがに恥ずかしいのか、頬を染めて口をあわあわさせていた。
「う、それはその……」
「ふふ、いいじゃない。姉妹仲がいいのはなによりだわ。
それに咲夜がちゃんと起こしに行ったでしょう」
八橋はなおも顔から火が出そうになっていいたが、レミリアに向かって小さく頷いた。
私はふと思い出して言った。
「……私が目を覚ましたのには、すぐに気付いたの?」
レミリアは紅茶を一口飲んでから応えた。
白い牙を見せて微笑んでいる。
「運命、って言ったら貴女は信じるかしら」
「運命……」
理由付けとしてはあまりに突拍子もない言葉だが、不思議と冗談に聞こえない。
私達よりもずっと永い時間を生きているであろう彼女には、本当に運命が見えているのだろうか。
私が肯定の返事をしようとしたところで、咲夜が珍しく感情を表に出した声で言った。
「そう、お嬢様には見えているのです。
この度貴女達二人と出会うことも、弁々さんがお嬢様達に抱いた強い想いでその心を焦がすことも」
知り合ってからつい数秒前までの咲夜の姿が脳裏を過る。
綺麗で、大人っぽくて、隙のない完璧なメイドさん。
だが今は別人のように恍惚とした表情で自分の主と私を交互に見ている。
レミリアが口を挟んだ。
「あーちょっと、咲夜」
「確かにお嬢様もパチュリー様も魅力的ですから、弁々さんが熱い視線を送りたくなる気持ちはよく分かります。
そう、お二人は本当に毎日見ていても決して飽きないんです、なにせ」
完全に自分の世界に入り込んでしまった従者を見て、レミリアが呆れたように短く息をつく。
私と八橋に向かって言った。
「あー……この子ちょっと天然入ってるからあんまり気にしないであげて」
私と八橋が顔を見合わせ困惑しているのも構わず、彼女は両手の指を絡めながら自分の主達について嬉しそうに語っている。
知り合ってからはじめて、彼女の年相応な一面を見たかもしれない。
レミリアは説明するのが面倒になったのか、訂正は入れないまま咲夜に向かって言った。
「……後で説明するわ。それより咲夜、例のものをお願い」
「畏まりました、お嬢様」
咲夜は少し残念そうな顔をしたが、一瞬で従者の貌を取り戻した。
数秒後、相変わらずまるで手品のような俊敏さで蓋のついた銀色のプレートを持って再び姿を現した。
先程もそうだが、この大きな屋敷をどうやってこんな異常な早さで移動しているのだろう。
そんなことを考えながら、隣に座る八橋の方を見やる。
彼女の視線は新しく持ち込まれたプレートに注がれている。
私の目線に気付いたのか、にこりと微笑みながら答えた。
「楽しみだね、姉さん」
中身の見当がついているのだろうか。
意味を聞こうとしたところで、レミリアが蓋を取り外しながら私に向かって言った。
「貴女が目覚めるまで待っていたのよ。はじめてのケーキはお姉ちゃんと一緒に食べると決めてるんだ、ってね」
そこにあったのは、先日洋菓子屋さんで見た物とそっくりなケーキ。
真ん丸の生地に隙間なくクリームが敷き詰められ、たくさんのいちごが縁を彩るように並べられていた。
甘くて美味しそう。
いちごもとっても大きい。
空腹も手伝って小さくお腹が鳴ってしまった。
「おいしそう……ありがとう、八橋」
一緒に食べるために自分を待ってくれた八橋にお礼を言い、次いでこれを作ったであろう咲夜に視線を送る。
彼女は穏やかに微笑むだけで、何も言わない。
レミリアがいちごのひとつを指して言った。
「ねえ弁々」
視線をその瞳に重ねると、彼女が一歩こちらに近付いて言った。
「―赤は、嫌いかしら?」
ケーキのいちごの濃い赤色と、彼女の眸の深紅色。
二つの赤が、私の脳内(なか)に広がっていく。
どこか温かささえ感じられるそれは、私の心をしんと落ち着かせた。
返事、答えは考えるまでもなかった。
***
「どうぞ、お嬢様」
翌日、昼食を終えてバルコニーに出ると咲夜が紅茶を淹れてくれた。
鈍色の曇り空のおかげで、今日は傘も必要なさそうだ。
付喪神の姉妹は早朝に帰っていったらしい。
「ありがとう、昨日は色々と忙しくさせたわね」
「あのくらい、忙しいうちに入りませんわ」
普段通りの、落ち着きに満ちた立ち振る舞い。
だが今日は心なしか、いつもより少しだけ浮かれているように見える。
「昨日は楽しそうにされていましたね」
「久しぶりの新しい来客だったし、いつもより色々と喋ったかもしれないわね」
「……プリズムリバー楽団が初めてうちを訪れた時は、昨日ほど奏者を気にかけておられなかったと思いますが」
成程、主のことをよく見ている。
いや、覚えていると言った方が正しいか。
「ルナサ達はそつがなさ過ぎて、こちらからなにか世話を焼く必要もなかったのよ。
貴女もテーブルマナーが完璧な客は珍しい、って褒めてたじゃない」
これは本当のことだった。
春雪異変が収束して以来、私は近所に居を構える騒霊の姉妹に定期的に演奏を依頼している。
元々洋楽には馴染みがあったし、その腕前は申し分なかった。
またプリズムリバー楽団は元々幻想郷で長い時間を過ごしており、それだけに場慣れもしていた。
そのため、昨日は無意識に比較をしていた部分も少なからずあった。
実際、目くじらを立てたくなるほどのことはなかったがテーブルマナーは勿論のこと、
会話や所作の一つ一つを取っても弁々達はなにかと不慣れな面が目立った。
「勿論、完璧であることを求めるつもりはありませんわ」
咲夜が一度言葉を切り、なにかを思い出したように一呼吸置いてから言った。
「……よく考えてみると、少なくともご馳走されることを当たり前のように振舞う
来客に比べたら昨日の彼女達は上客と言えますね」
誰のことを指しているかは考えるまでもなかった。
箒に乗った白黒の本泥棒、もとい魔法使いの姿が瞬時に目に浮かぶ。
咲夜は名前どころか外見の一つすら特徴を出していないのだが。
「咲夜、それは比較対象がおかしいわ」
昨夜、弁々達は出されたケーキを一口食べると感激して次々に口に入れ、彼女に何度もお礼を言っていた。
それを受けた咲夜はいつものすまし顔ながら、微かに口角が上がっていたのを覚えている。
長い付き合いだからこそ分かることだが、彼女は自分の料理を美味しそうに食べる相手にはなんだかんだで甘いところがある。
それがつい先日戦ったばかりの相手でも。
本泥棒の常習犯であっても。
私は一呼吸置いてから続けた。
「……貴女もなんだかんだで、悪い気はしなかったんじゃない?
お土産のお菓子、いつでも誰にでも渡してるわけじゃないでしょう」
気付かれていないと思っていたのか、僅かに彼女の眼が泳いだ。
どうやら、図星のようだ。
「……そうですね」
「貴女もここに来て、色々と変わったのよ」
「……それはきっと、お嬢様もですわ」
「……そうかもね」
そう、妖怪も人も、果ては神も幽霊も神霊も。
皆、様々な経験を経て「変わって」いく。
私達はどうだろうか。
きっと「変わった」後であり、「変わり続けている」最中でもある。
これが一番近いのではないか。
あの姉妹はどうだろうか。
生まれたばかりで、これから何色にも染まるであろう年若い付喪神の姉妹。
かたや妹のために強くあろうと、気を張る姉。
かたやそんな姉を想う優しい気持ちに溢れた、快活な妹。
頼りない雰囲気こそあったが、私はそんな二人を見ているのが嫌いではなかった。
親友が聞いたら昔より甘くなった、と言うだろうか。
尤もパチェだって、最初は私がプリズムリバー楽団の演奏会に呼んでもなかなか出席しなかった。
だが実際に演奏を聴くようになってからは、少なからず音楽に関心を持つようになった。
現在ではルナサ達とも交流を持っている。
さらに、今回は面識すらないであろう弁々達の演奏会にも顔を出した。
しかも演奏が終わり、咲夜達が弁々を客室に運んで一段落した後は私のもとに来て言ったのだ。
本によると彼女達の扱う楽器は「弾き語り」にも使われるそうだけど、普段の演目には入っていないのだろうか、と。
これについて、昨夜のお茶会の途中で本人たちに聴いてみた。
すると彼女達は少し気まずそうな様子で応えた。
弾き語りはある程度和楽、平曲について知っている人でないと面白くないかもしれないと思ったから演目からは外したのだと。
平曲とは「源平合戦」と呼ばれる外の世界で過去に起きた内乱の様子を唄い語ることを指すのだと言う。
私はパチェの話を聞くまで楽器を鳴らしながら奏者が物語を唄い語る演目が存在すること自体、知らなかった。
咲夜も同様だ。
「さるかに合戦」なら知っていますと堂々と答えたのだからまあ、そういうことだろう。
このことについては、おそらくパチェに言わない方がいい気がしていた。
一度気になったことは徹底的に調べようとする質である以上、弁々達に悪気がなくともこの気遣いが彼女の神経を逆撫でする可能性は相応にある。
弁々達がこちらを気遣って演目を決めたのは理解出来る。
私達の洋風の生活スタイルを見ればそう考えるのも無理のないことだ。
だが、音楽というのは予備知識など無くても気持ちの持ちよう一つでいかようにも楽しめるものだ。
家ではパチェに限らず、フランも最初は興味なさげだった。
だが妹もまた、最近は徐々に変わってきている。
プリズムリバー楽団の演奏会に出席するうちに、彼女は騒霊の姉妹の能力から入る形で少しずつ演奏にも興味を持ち始めた。
なんでも「三人とも魔力の色と流れが違う。姉二人が正反対の力を放出し、一番下の妹がその流れをコントロールしている」のだとか。
ふと思いつき、咲夜に聞いてみる。
「咲夜、貴女は昨日の演奏を聴いてどう思ったかしら」
咲夜は間髪入れずににこりと微笑んで言った。
「お嬢様達と一緒なら、私はなんでも楽しいですわ」
やはり、いつもと同じ感想だった。
だがこれは決して彼女が嘘を言っているのでも、演奏を軽んじているわけでもない。
真から出た言葉なのだと思う。
パチェやフランとは、また違った音楽の楽しみ方。
それはただ周りと一体となって音を「聴く」行為そのものを楽しむこと。
ここに来たばかりの頃は咲夜もまた館の住人、一部の知り合い以外とはあまり接点を持とうとしなかった。
幻想郷で過ごす日々、それに多くの異変から生まれた外部の人妖との出会い。
―咲夜もまた、少しずつ変わっている。
私は黙って頷き、続けた。
「ねえ、咲夜」
「なんでしょうか」
「この前の異変のお話、もっと聞かせてもらってもいいかしら」
私がテーブルの向かいを指して座るよう促すと、咲夜は嬉しそうに頬を緩めた。
ふと、白い湯気が立ち昇っていることに気付く。
いつの間にか新しい紅茶が淹れ直されていた。
「はい、喜んで」
今日も強い陽光を放っていたであろう太陽が間もなく、一日の役目を終えようとしていた。
「もうお目覚めだったのですね」
背後からの聞き慣れた声。
視線は窓に向けたまま応える。
「今日はあの日だからね。準備は?」
間髪入れずに返事が返ってくる。
「勿論、出来ております」
流石は私の完璧な従者。
そう、と返そうとしたところで彼女、十六夜咲夜が艶のある銀髪を揺らしながら横に立つ。
手にはティーセットを乗せたトレイを持っていた。
「丁度起こしに行こうとしていましたのに」
「あら、手間が省けてよかったじゃない」
そう言いながら部屋に備え付けの椅子に座ると、咲夜は何故か少し残念そうに苦笑しながら紅茶を淹れ始める。
「それはそうですが……」
予定のある日は咲夜が自室まで私を起こしにやって来る。
そしてそれは幾度となく繰り返されたことなのに、何故か彼女はいつも楽しそうに口元を緩めている。
でも、それは予定が昼にある場合に限られる。
私は元々種族柄夜型の生活をしているから、今日のように予定が夜の場合は自然と目が覚める。
カップを手に取り、口をつける。
紅茶の味もさることながら、カップの持ち手まで熱が伝導しない、絶妙な加減で温められている。
そしてお茶請けはその全てが同じ大きさ、焼き色に仕上げられたスコーン。
いつもながら完全な仕事ぶり。
普段の彼女は本当に隙一つない。
時々思いもよらぬ天然ぶりを露わにすることもあるけど、
それさえもどこか魅力的に感じられるのは決して主人の身内びいきというわけではあるまい。
そんなことを考えながら紅茶をすすっていると、門が開くのが見えた。
今日の演者が到着したようだ。
「来たようね」
咲夜の顔を見ると、彼女は首を傾げている。
「ええ、ですが変ですね。二人一緒に来るはずなのですが……」
「そう言えば姉妹だと言っていたわね」
「彼女が姉だったと思います。とにかく、出迎えてきますわ」
「ええ、よろしく」
咲夜は会釈とともに一瞬で姿を消した。
紅茶を飲み干し、カップをテーブルに置くと先日収束したばかりの異変がその景色とともに追想される。
その異変は打ち出の小槌という鬼の秘宝が引き起こしたものだった。
普段は大人しい妖怪を凶暴化させ、物言わぬ道具達には命を吹き込んだ。
魔力の源だった空中の逆さ城、輝針城は未だ宙に浮いたままだが現在は誰も住んでいないと聞いている。
首謀者二人のうち、天邪鬼は早々に逃亡し行方不明。
もう一人、小人族の子どもは博麗神社に居候しているらしいが、直接会ったことはない。
この異変自体からは特に大きな被害も受けなかったし、大して気にも留めなかったというのが正直なところだ。
それよりも、異変の調査のために出掛けていた咲夜の土産話を聞くのが楽しかった。
普段はなかなか年相応の顔を見せない彼女も、こと異変に関する調査の報告をする時だけは違う。
まるで子どもが冒険の武勇伝を語るかのように、実に嬉しそうに話をするのだ。
こんな妖怪に出会った、勿論弱すぎてナイフの錆にもならなかった。
こんな景色を見た、悪くなかったけど宴会の会場には不向きだった、等々。
バルコニーから中庭を見下ろしていると、先程の少女が鎖の付いた木箱をのような物を抱えてエントランスに入っていく。
髪はツインテールにしており、肩どころか腰あたりまである。
離れているからはっきりとは分からないが、背丈は咲夜と同じか少し低いぐらいだろうか。
彼女が視界から消える直前、一瞬だけ顔が見えたが浮かない表情をしているように見えた。
気のせいだろうか。
***
館のメイドに案内されるまま、廊下をひたすらに真っすぐ進む。
今日、私と八橋はここ紅魔館に演奏をしに訪れた。
人里で音楽活動を始めてからまだ一カ月足らず、外部での活動をするのは今日が初めてだ。
依頼を受けるかどうかも、本当は落ち着いて考えたかった。
だが生憎と、それは出来なかった。
先日、ほんの一週間前の光景が頭に浮かんでくる。
人里の集会場で演奏を終え、二人で同じ建屋の控室に足を踏み入れる。
「あー暑かったー」
少しでも涼みたいのか、八橋が上衣の襟元をぱたぱたと揺らし始める。
私はポケットからハンカチを取り出し、手渡した。
「ほら、使いなさい」
「ありがと、姉さん」
八橋が襟元と額の汗を拭きながら続けた。
「姉さん、さっき人間の女の子が言ってたんだけどさ」
私は持ってきた水筒の水を一口飲んでから応えた。
乾いた喉が心地良い冷たさで潤う。
「ん、なあに?」
「人間は自分の誕生日をご馳走でお祝いするんだって」
聞き慣れない言葉に、私はオウム返しをしてしまった。
「……誕生日?」
私が知らない言葉を知っていることが嬉しいのか、八橋が得意そうに目を細めて続ける。
「うん、自分の生まれた日をお祝いするの!」
「生まれた日……」
八橋の言いたいことはなんとなく窺える。
でも私はあえて言わなかった。
本当は自分から言いたい気持ちはある。
けれど姉として、こういう話に勢いよく飛びつくのはなんとなく品がないような気がしてしまう。
そんなことを思っていると彼女は予想通り、すぐに痺れを切らしたように自分から語り始めた。
「だからさ、私達もえっと……あと十一ヵ月ぐらい? 誕生日には一緒にご馳走でお祝いしようよ!」
「いいけど、お祝いって……具体的には何を食べるの?」
「えっとねえ……」
いくらでも喋りそうな勢いだった八橋が急に静かになる。
ああ、そこまでは聞いていなかったのね。
私は一旦話を着地させるつもりで言った。
「なんにせよ、いい物を食べるにはしっかり貯金をしないとね」
それだけ言って荷物を持ち、部屋を出ようとしたところで八橋が思い出したように言った。
「そうだ、ケーキ!」
「……ケーキ?」
「うん、ケーキっていうお菓子に自分の年の数だけ蠟燭を立てて火を点けるんだって」
「……そうなの?」
私が知る「お菓子」は今のところ差し入れでもらったことのある、お饅頭、お煎餅、金平糖の三つぐらいしかない。
「ケーキ」というのはどんな物なのだろう。
火の点いた蝋燭など立てれば溶けだした蝋が落ちたりしないのだろうか。
それに八橋の説明通りなら私達の場合は蝋燭を一本、いや二本立てることになるわけだけど。
例えば里の大人が同じようにお祝いをしたら一体何十本の蠟燭を立てることになるのだろう。
お饅頭に数十本の蝋燭を刺す光景が不意に脳裏を過る。
……まるでハリネズミではないか。
人間の文化と言うのはさっぱり訳が分からない。
八橋も先程から腕を組んでうーうーと唸っている。
自分で言いながら訳が分からなくなってきたようだ。
いつまでも控室に居たら迷惑だろうし、私は今度こそ一度話を終わらせるために言った。
「まあ、まずは頑張ってお金を貯めなきゃね。さ、出ましょう」
まだ唸っていた彼女も間延びした声と一緒に着いて来た。
「はあい」
集会場の裏口から外に出て、一息つく。
さて、今日は他に予定もないけどどうしようか。
早めに引き上げるか、それとも人里を散策するか。
そんなことを考えながら、往来に出る方角に向かって狭い路地を進む。
もうすぐ広い場所に出る、というタイミングで急に背後から声がした。
この声、どこかで聞いたような。
「こんにちは」
二人で後ろを振り返ると、そこにはメイド服姿の銀髪の女性が立っていた。
背は私達二人よりも高く、表情は引き締まっている。
そうだ、思い出した。
私達が生まれたばかりの時、輝針城を囲む雲海の中で戦った謎のナイフ使い。
その恐ろしいほどに正確なナイフ捌きは対峙する私の弾幕をことごとくすり抜け、時には搔っ切った。
今は殺気こそ感じられないものの一瞬、背中に冷や汗が流れる。
だが、妹の前で弱気な態度は見せられない。
しっかりしないと。
私は八橋よりも一歩前に出た。
言葉を紡ぎ出す前に、眼前の女性は急に破顔し滔々と喋り始める。
「お嬢様が貴女達の演奏に興味をお持ちなの。報酬はこのくらいでいかがかしら」
前置きもなにもない、簡潔に要件だけを告げる短い言葉。
先日の異変で交戦したばかりなのだが、それについても一切触れてこない。
この時私は「勿論請けるでしょ」、と言わんばかりの強い圧を感じ気付けば即座に承諾の返事をしていた。
本当はその回答を出すまでの一瞬の間にいろんな葛藤、損得勘定があったはずだった。
妹の前では常に強くありたいとか、優柔不断なところは見せたくなかったとか。
それだけではない。
報酬が破格の金額だったことに心惹かれたこと。
初めての外部での仕事に興奮、同時に不安も感じていたこと。
「では、よろしくお願いします。詳しい内容については追って連絡しますわ」
こちらの返事に満足したのか、彼女は嬉しそうに去って行く。
私は彼女が去ったあとも数秒間、その後姿に見とれていた。
現れてから経過した時間、僅か一分足らず。
得られた情報も、当然ながら僅かだった。
依頼主が霧の湖近くに建つ洋館の主、レミリア・スカーレットであること。
彼女はそこで従者として働くメイド長の十六夜咲夜であるということ。
これだけは辛うじて確認することが出来た。
しかし、人間相手に完全に呑まれた。
手玉に取られたと言ってもいいかもしれない。
幸いだったのはその日の帰り道、八橋が
「あの大きなお屋敷からのオファーなんてついに私達もメジャーデビューね!」とはしゃいでいたことだろうか。
最近急に横文字なんか使い始めて、可愛い。
幸い、私の中の揺れ動く感情には気付かれていないようだった。
翌日は報酬の多さに喜んだ八橋に下見だと言って引っ張られ、人里の様々なお菓子屋さんを回った。
そして四つ目に訪れたお店のショーウィンドウを見た途端、私達は同時にそれに近づいた。
そこにあったのは丸い円筒型の生地に白いクリームが塗られ、赤いいちごが乗ったお菓子。
さらに白い蝋燭が何本か刺さり、橙色の火が点いていた。
間違いない、これがケーキだ。
柔らかそうな生地に、真っ赤で大きないちご。
美味しそう。
でも、このままでは蝋燭が溶けて生地に落ちてしまう。
大丈夫かな。
私達はしばらくの間、じっとそこを動かなかった。
十分ほど経ったところで、白いコック帽を被ったおじいちゃんが笑いながら店先に出て来た。
これは作り物。
つまり見本で、食べられないらしい。
……これからは物を見極める力もつけなくちゃ。
依頼の報酬がもらえれば、十分に買える値段。
でも、これを我慢すれば数日食べていけるのも確かだ。
ここは「誕生日まで待ちましょう」と妹を納得させないと。
―無理だった。
結局八橋は勿論、私も「早くこれを食べてみたい」という欲求には勝てなかった。
お菓子、甘味とはなんとおそろしいものなのだろう。
「地下劇場はこちらですわ」
咲夜の案内に従い、後をついていく。
それにしても、三百六十度どこを向いても赤、赤、赤。
館に足を踏み入れた時からずっと感じていたけど、目が痛くなってくる。
これまでにも自分の視力に違和感を持ったことはある。
八橋と一日行動をともにし、同じ景色を見て過ごしたのに私だけが目に疲労を感じたこともあった。
日常生活に支障があるほどのものではない。
先日読んだ本によると、視覚過敏と言う言葉があるらしい。
色が濃い物を見続けると目が疲れやすい症状なのだとか。
勿論、これが奏者としてハンデになっているとは全く思っていない。
視力に難がある分、聴力には自信があった。
演奏会では普段から八橋の奏でる音は勿論、最後尾の観客の声までしっかりと聴き分けることが出来る。
でも、さすがにこれだけ濃い色の景色を見続ける機会は今までになかった。
今日は演奏が済んだら、早めに休んだ方がいい。
終了後は夕食に誘われているから、それには出ないといけないだろうけど。
天井に視線を向ける。
この館の廊下にはやたらと窓が少なく、その位置も極端に高い。
これでは折角の豪奢な装飾が施されたそれも採光にはほとんど役立ちそうにない。
この異様な光景が、嫌でも認識させてくる。
今自分は吸血鬼という得体の知れない存在が支配する館にいるのだということを。
駄目だ、こんなことでは。
もう演奏は始まっていると思わなければいけない。
観客は演奏中以外でも、演者をよく見ているものなのだから。
そうしてなんとか自分を奮い立たせると、ステージのある地下劇場に着いた。
咲夜が脇の扉を指差して言った。
「演者の控室はあそこです、出番までゆっくりお寛ぎください。妹さんも後で私が案内してきますので」
「ごめんなさい、手間を増やしてしまって」
「いいのよ、美鈴も話し相手が増えて嬉しそうにしてたし」
その言葉を最後に、咲夜と一旦別れる。
八橋とは門のところまで一緒だった。
でも、門番の紅美鈴といつの間に親しくなったのか門前で彼女と和やかに話し始めた。
それに私はなんとなく居心地の悪さを感じてしまい、時間に余裕もあるからと後で落ち合うことにしたのだ。
私達は大抵二人一緒に行動するけど、さすがに四六時中ずっとじゃない。
だからお互いに相手が一人の時に何をしているのかまでは知らないし、無論それは各々の自由なんだけど。
妹に友人が出来たのはいいことだし、別に嫉妬なんかしていないけど。
初対面で少し言葉を交わしただけでも分かるぐらいに、美鈴は気さくで優しそうな妖怪だったけど。
なんとなく、もやもやする。
駄目だ、冷静にならなきゃ。
心の乱れは、そのまま音に現れる。
あらためて辺りを見渡すと、劇場の想像以上の広さにただただ驚かされる。
どう考えても外から見た館の敷地内に納まる大きさではない。
地下を掘り進めて拡張したにしても無理がある。
ここ紅魔館には魔女も暮らしていると言うし、空間を広げる魔法でもあるのだるうか。
とにかく、広い空間に負けないだけの音を。
半身の琵琶を支える腕につい力が入る。
咲夜が指差した控室に向かって歩を進める。
客席はステージに対して左、中央、右の三つの塊に分けて並べられているのが分かった。
その数はざっと見ただけで百席以上はある。
仮に館の住人全員が座ってもだいぶ余るのではないだろうか。
中央、左側の席の間の通路を通って控室に足を踏み入れた。
壁の一面は全て化粧台になっている。
一度に五人は座れそうだ。
取り敢えず、部屋の中央に置かれた丸型のテーブルを囲む椅子の一つに腰を下ろす。
やはりというべきか、この部屋も化粧台がある方向以外の壁と天井は赤一色に統一されている。
鏡に視線を向けると、花を模した白の髪飾りが少し曲がっていることに気付く。
花弁が斜め前方を向くように位置を調整する。
その後もなるべく赤い壁の方は見ないようにして過ごしていると、足音が近付いて来た。
ノックの音に返事をすると八橋が咲夜に先導される形で控室に入室した。
部屋の置時計を見ると、時刻は予定の丁度五分前。
八橋が片手を上げながらいつもの朗らかな笑顔で口を開く。
「お待たせ、姉さん」
「リラックスできた?」
八橋は得意げにピースをして応える。
「えへへ、ばっちり」
美鈴とどんな話をしたのだろう。
なにか共通の話題があったのかな。
そんなことを考えていたところ、客席の方で物音がした。
気付けばすぐ傍にいたはずの咲夜が姿を消している。
ステージの裏手から客席を覗き見ると館の住人達が既に客席の最前列に座っていた。
全部で三人。
咲夜以外は初めて見る顔だったけど、名前と特徴は事前に聞いている。
一番遠くの席には丈の長いローブ姿の少女、パチュリー・ノーレッジ。
背凭れを使わず、背中を丸めて座っている。
どこか眠そうな目で前方をじっと見つめているようだ。
その隣にはドレスのように裾の長いピンク色の服を纏った少女が座っている。
ここ紅魔館の主、レミリア・スカーレット。
そしてパチュリーとともに彼女を挟む形で、咲夜も隣に姿勢よく腰を下ろしている。
背の高い咲夜が横にいるからだろうか。
こうして見ていると、背丈だけならレミリアのそれは人間の幼子と変わらなく思える。
その時ステージ正面を見ていたはずの彼女が不意にこちらに視線を走らせ、目が合った。
病的に白い肌に薄っすらと開いた口元から覗く牙。
そしてこの距離でもはっきりと視認出来るほどの、深紅の瞳。
それはほんの一瞬のことで、彼女はもうこちらを見ていない。
けれどしばしの間、まるで吸い寄せられるように私の眼は彼女だけを映していた。
さっきのは一体なんだったのだろうか。
八橋とともに幕が下りた状態のステージに上がる。
準備を整え、幕の内側にいた妖精メイドの二人組に合図を送った。
すると彼女達は透明な羽を揺らしながら壁面のハンドルを勢いよく回し始める。
幕がゆっくりと上がり、地下劇場とは思えないほどの広大な空間が目の前に広がった。
そこは一面の、紅い世界。
一瞬、軽い頭痛とともにその光景がぼやける。
やっぱり、この濃い色は苦手だ。
だが、ここはステージの上。
演目をやり切って館を出るまで、顔をしかめることなどあってはならない。
私が左、八橋が右。
いつもの配置に着く。
二人で一度視線を交わし、私だけが一歩前に出て開演の挨拶。
幾度となく行った、いつも通りの手順。
最初の一音を出そうとした途端、眩暈が襲ってきた。
視界が微かに歪む。
咄嗟に視線を客席に向ける。
この世界に存在する唯一の安全地帯。
今宵の観客達と再び眼が合った。
普段の人里での演奏会では、一カ所だけを見つめ続けることはまずない。
だが、今の自分にはもう他に視線を向けられる場所が存在しない。
私は視線を固定したままの状態で半身の琵琶を構え、最初の一音を鳴らした。
私の琵琶と、八橋の琴。
同じ赤光の弦に指を滑らせ、二人で音を奏でる。
いつもと少し変えた内容の演目を一つ、また一つと終えていく。
その間私の意識は視線を絶えず観客の三人に向け続けることに集中していた。
彼女達は大きく表情を変えることもなく、落ち着いた表情で演奏に耳を傾けてくれている。
八橋の音の響きもよく、これなら劇場の広さにも決して負けていない。
そのまま最後の演目を終え、二人で視線を交わす。
終幕の挨拶とともに頭を垂れる。
次に頭を上げると、レミリアと咲夜が拍手とともに壇上の私達に視線を送っている。
パチュリーは座ったまま、静かに軽く一礼だけすると早々に劇場を出て行った。
三人とも、満足してくれたかは分からない。
しかし、なんとかやり遂げることが出来た。
ほっと息をついたその時だった。
世界が大きく歪み、私の手足が何もない場所で空を切った。
「姉さん!」
八橋の叫び声が聞こえたのを最後に、私の意識はなくなった。
次に目を覚ました時、私はベッドに横たわっていた。
慌てて布団から出て部屋の一面を見渡したところ、おそらくここが館の客室の一つであることが窺えた。
半身の琵琶は鎖とともにテーブルに置かれている。
壁面のアンティーク時計を見ると、時刻は既に深夜十時過ぎ。
演奏を終えてから三時間近く経過している。
意識を失った後、誰かが私をここまで運んでくれたのだろう。
部屋は一人用なのかベッドは一つで、八橋の姿はない。
意識が鮮明になっていくに連れて、心底に重く粘ついたなにかが蠢き始める。
……そうだ、せっかく初めて私達を呼んでくれたお客さんに大きな迷惑をかけてしまった。
ちゃんと謝らないと。
こんな時間だし、普通の人妖ならもうとっくに寝ているだろうけど。
それでも、このまま布団でじっとしている気にはなれない。
私は布団の皺を出来る限り伸ばし、綺麗な状態にしてから部屋を出た。
左右に細長い道が続いている。
廊下はほぼ全てが夜の闇に包まれ、目算で十メートル先も見えない。
光源は高い位置に長い間隔で設けられた窓からの月明りしかない。
当然ながら、耳をすませても物音一つ聞こえてこない。
代わりに私の耳朶を震わせるのは、高まった動悸だけだった。
日中に比べてひんやりした空間に、自分の吐息が漏れ出す。
私を運んでくれたのは誰だろうか。
八橋か、それともメイド長の十六夜咲夜か。
勢い余って部屋を出て来たものの、この場所が館のどこに位置するのかは全く見当もつかない。
このまま闇雲に廊下を突き進めば、最悪誰にも会えず迷子になるかもしれない。
そうなれば、館の住人にさらに迷惑をかけることになる。
先刻の演奏が不意に脳裏を過る。
演奏自体にミスはなかった。
八橋のコンディションも間違いなくよかった。
だが視覚過敏を患っている身である以上、今回のような事態を引き起こす可能性は当然想定していなければならなかった。
視線を走らせる方向に注意を払っていれば今日一日ぐらいは大丈夫。
今日のことはそんな自分の見通しの甘さから起こった。
……もう、余計なことはせずに大人しく明日になってからにした方がいいかな。
客室に戻ろうとした直後、背後から声が聞こえた。
「あら、起きたのね」
慌てて振り返る。
そこにはレミリアが藍色に近いブルーのドレス姿で優雅に佇んでいた。
その視線は真っすぐに、どこか愉快そうな表情で私を見つめている。
彼女の紅い瞳から目を逸らすことが出来ない。
そうだ、まずは謝らないと。
「あ、あの……」
だが、緊張で続く声が出せない。
喉が急激に乾き、潤いを求めざわざわと騒ぎ立てる。
動揺し硬直する私に、彼女は構うことなく近づいて来る。
「ねえ、今起きたのならどうせすぐには眠れないでしょう?
少し付き合って頂戴」
悪戯っぽく笑いながら細く白い腕で手招きしている。
その指先では鋭い爪が月明りに反射し薄く光っていた。
答えに窮しているうちに、彼女の手はすぐ目の前に迫っていた。
ひんやりした冷たい指で手を握られる。
それになにかの甘い香りが鼻をくすぐってくる。
多分、香水かなにかだろうか。
「さ、こっちよ」
私は彼女に導かれるまま、後ろを着いていった。
握る手は、優しい手つきだった。
何度か階段を上った後に招かれた部屋は、多分館で一番高い場所のように思えた。
扉は大きく、いかにも重量がありそうだ。
しかしレミリアは私の手を握ったまま、片手間でそれを簡単に開いた。
部屋の中はとても広く、高価そうな物ばかりが置かれている。
バルコニーに続くガラス扉のすぐ前には大きな木製の執務机。
出入口のすぐ傍には六人掛けのテーブル、応接セット。
壁面には西洋のお城のような建物が描かれた立派な絵画。
そして当然ながら、部屋の壁面は全て赤一色で統一されている。
先程までは暗い廊下を歩いていたので、すっかり忘れていた。
そうだ、早く謝らないと。
言葉を頭の中でまとめる余裕もなかったが、意を決して口を開いた。
「あの、えっと、この度は急に倒れて迷惑をかけて、すみませんでした」
途中で声が震えてしまったが、言い終えたタイミングで私は頭を下げた。
少し待ってから面を上げると、レミリアは何も言わないまま私をバルコニーへと誘った。
導かれるままに外に出る。
するとそこには暗い闇、幻想郷の夜が広がっていた。
灯りは門のあたりに微かに灯っている火、そして。
この世界をぼんやりと照らす月の光だけだった。
しばしその美しい夜景に見とれていると、レミリアが握っていた手をそっと離してから言った。
「落ち着いたかしら?」
「え、あ、はい……」
すると彼女は目を細め、口元を緩めながら言った。
「……貴女の眼、濃い色は苦手なようね」
「えっ」
「演奏中あんなに必死そうに見つめられたら、誰だって気が付くわ」
そうだ。
考えてみれば、当たり前のことだった。
演者が私と八橋の二人いて、そのうち一人がずっと自分の方を見てくればなにか違和感ぐらい持ってもおかしくない。
私が黙っていると、一息おいてからレミリアが続けた。
「貴女、咲夜の話とは随分違うわね。異変の時は自信満々に挑みかかってきたと聞いたのだけど」
先日の異変で十六夜咲夜と対峙した時の光景が追想される。
逆さ城を囲むように広がる紫色の雲海を足場に、強風の中で繰り広げた弾幕ごっこ。
確かにレミリアの言う通り、あの時の私は根拠のない自信に満ち溢れていた。
妹がいるから。
私をこの世界に生み出してくれた、小人のお姫様がいるから。
それにあの時はまだ、あいつもいた。
仲間がいるだけで、なんでも出来そうな気がしていた。
結果は彼女のナイフの雨を浴びてあっけなく敗北したのだけど。
「それは、その……」
「別に私は怒ってるんじゃないわ、ただ」
レミリアはそこで一旦言葉を切り、一度夜空の方を向いてから言った。
「言いたいことがあるのなら、はっきりと言いなさい。いい?」
「……はい」
「赤を見続けるの、きつかったんでしょう?」
「……はい」
「それなら最初からそう言えばいいの。それに夜の中庭での演奏会と言うのも面白そうじゃない。
あと、演奏はもう終わったんだから敬語もいらないわよ」
ここにきて、ようやく気付くことが出来た。
彼女は私が色の濃い壁面を見ずに済むように、半ば強引にこの美しい夜景広がるバルコニーに案内してくれたのだ。
私は頭を下げ、あらためてお礼を言った。
「……ありがとう」
そんな私を見て、レミリアはにこりと微笑んだ。
先程までの威厳に満ちたそれとはまた違う。
白い歯を見せつつも、その眸は油断なく相手を見据えている。
「よろしい。じゃあ咲夜、お願い」
「畏まりました、お嬢様」
彼女が人差し指を鳴らすと、誰もいない場所から咲夜の返事が聞こえてきた。
次いで、その数秒後にもう一度声がした。
「お待たせしました、お嬢様。連れて参りましたわ」
その言葉とともに、咲夜は扉から入室した。
そして彼女に連れ添われる形で、八橋の姿もそこにあった。
寝起きなのか髪が少し乱れている。
まさか、今の数秒の間に起こして連れて来たというのか。
私が思わずレミリアの方を見ると、彼女は苦笑しながら言った。
「この程度で驚いているようではまだまだね。
それより早く行ってあげなさい、心配していたのよ」
私は頷き返し、八橋のもとに近づいた。
客先で他者の目もあるし、とても恥ずかしい。
私が頭を垂れながら告げた言葉は、とても短いものになってしまった。
「……ごめん」
すると八橋は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに首を横に振った。
「姉さんが無事なのが一番だよ、でも」
「……でも?」
少しだけ頬を膨らませて続けた。
「今度はちゃんと相談してくれないと、怒るかも」
「うん……ごめんね」
「えへへ、いいよ」
不機嫌そうな顔をしていたのは数秒だけだった。
八橋はそのまま手を握り、レミリアのもとまで私を誘った。
「あの、えっと……」
八橋が最後まで言い終える前に、レミリアが頷き応える。
「咲夜」
「勿論、出来ております」
咲夜がバルコニーを指差す。
するとそこにはいつのまにかテーブルと椅子のセットがあった。
机上には白いプレートに並べられたなにかの焼き菓子、それにティーセットも置かれている。
それを見たレミリアが咎めるように告げた。
「一人分足りないじゃない、貴女も座るのよ」
咲夜は一瞬きょとんとしていたが、すぐに表情を引き締め一礼した。
「ありがとうございます、お嬢様」
その後、レミリアの好意で深夜のお茶会が始まった。
夕食を食べていないせいもあって、私のお腹はしきりに空腹を訴えていた。
咲夜の出してくれた焼き菓子(クッキーと言うらしい)は麦の匂いが香ばしかった。
紅茶も初めて飲んだけど、甘いお菓子によく合っている気がする。
レミリアが向かいの席の八橋を一瞥した後、私に言った。
「貴女が目を覚ますまでずっと起きてる、なんて言うものだから説得するのに苦労したわ」
言葉とは裏腹に、顔は愉快そうにしている。
八橋はさすがに恥ずかしいのか、頬を染めて口をあわあわさせていた。
「う、それはその……」
「ふふ、いいじゃない。姉妹仲がいいのはなによりだわ。
それに咲夜がちゃんと起こしに行ったでしょう」
八橋はなおも顔から火が出そうになっていいたが、レミリアに向かって小さく頷いた。
私はふと思い出して言った。
「……私が目を覚ましたのには、すぐに気付いたの?」
レミリアは紅茶を一口飲んでから応えた。
白い牙を見せて微笑んでいる。
「運命、って言ったら貴女は信じるかしら」
「運命……」
理由付けとしてはあまりに突拍子もない言葉だが、不思議と冗談に聞こえない。
私達よりもずっと永い時間を生きているであろう彼女には、本当に運命が見えているのだろうか。
私が肯定の返事をしようとしたところで、咲夜が珍しく感情を表に出した声で言った。
「そう、お嬢様には見えているのです。
この度貴女達二人と出会うことも、弁々さんがお嬢様達に抱いた強い想いでその心を焦がすことも」
知り合ってからつい数秒前までの咲夜の姿が脳裏を過る。
綺麗で、大人っぽくて、隙のない完璧なメイドさん。
だが今は別人のように恍惚とした表情で自分の主と私を交互に見ている。
レミリアが口を挟んだ。
「あーちょっと、咲夜」
「確かにお嬢様もパチュリー様も魅力的ですから、弁々さんが熱い視線を送りたくなる気持ちはよく分かります。
そう、お二人は本当に毎日見ていても決して飽きないんです、なにせ」
完全に自分の世界に入り込んでしまった従者を見て、レミリアが呆れたように短く息をつく。
私と八橋に向かって言った。
「あー……この子ちょっと天然入ってるからあんまり気にしないであげて」
私と八橋が顔を見合わせ困惑しているのも構わず、彼女は両手の指を絡めながら自分の主達について嬉しそうに語っている。
知り合ってからはじめて、彼女の年相応な一面を見たかもしれない。
レミリアは説明するのが面倒になったのか、訂正は入れないまま咲夜に向かって言った。
「……後で説明するわ。それより咲夜、例のものをお願い」
「畏まりました、お嬢様」
咲夜は少し残念そうな顔をしたが、一瞬で従者の貌を取り戻した。
数秒後、相変わらずまるで手品のような俊敏さで蓋のついた銀色のプレートを持って再び姿を現した。
先程もそうだが、この大きな屋敷をどうやってこんな異常な早さで移動しているのだろう。
そんなことを考えながら、隣に座る八橋の方を見やる。
彼女の視線は新しく持ち込まれたプレートに注がれている。
私の目線に気付いたのか、にこりと微笑みながら答えた。
「楽しみだね、姉さん」
中身の見当がついているのだろうか。
意味を聞こうとしたところで、レミリアが蓋を取り外しながら私に向かって言った。
「貴女が目覚めるまで待っていたのよ。はじめてのケーキはお姉ちゃんと一緒に食べると決めてるんだ、ってね」
そこにあったのは、先日洋菓子屋さんで見た物とそっくりなケーキ。
真ん丸の生地に隙間なくクリームが敷き詰められ、たくさんのいちごが縁を彩るように並べられていた。
甘くて美味しそう。
いちごもとっても大きい。
空腹も手伝って小さくお腹が鳴ってしまった。
「おいしそう……ありがとう、八橋」
一緒に食べるために自分を待ってくれた八橋にお礼を言い、次いでこれを作ったであろう咲夜に視線を送る。
彼女は穏やかに微笑むだけで、何も言わない。
レミリアがいちごのひとつを指して言った。
「ねえ弁々」
視線をその瞳に重ねると、彼女が一歩こちらに近付いて言った。
「―赤は、嫌いかしら?」
ケーキのいちごの濃い赤色と、彼女の眸の深紅色。
二つの赤が、私の脳内(なか)に広がっていく。
どこか温かささえ感じられるそれは、私の心をしんと落ち着かせた。
返事、答えは考えるまでもなかった。
***
「どうぞ、お嬢様」
翌日、昼食を終えてバルコニーに出ると咲夜が紅茶を淹れてくれた。
鈍色の曇り空のおかげで、今日は傘も必要なさそうだ。
付喪神の姉妹は早朝に帰っていったらしい。
「ありがとう、昨日は色々と忙しくさせたわね」
「あのくらい、忙しいうちに入りませんわ」
普段通りの、落ち着きに満ちた立ち振る舞い。
だが今日は心なしか、いつもより少しだけ浮かれているように見える。
「昨日は楽しそうにされていましたね」
「久しぶりの新しい来客だったし、いつもより色々と喋ったかもしれないわね」
「……プリズムリバー楽団が初めてうちを訪れた時は、昨日ほど奏者を気にかけておられなかったと思いますが」
成程、主のことをよく見ている。
いや、覚えていると言った方が正しいか。
「ルナサ達はそつがなさ過ぎて、こちらからなにか世話を焼く必要もなかったのよ。
貴女もテーブルマナーが完璧な客は珍しい、って褒めてたじゃない」
これは本当のことだった。
春雪異変が収束して以来、私は近所に居を構える騒霊の姉妹に定期的に演奏を依頼している。
元々洋楽には馴染みがあったし、その腕前は申し分なかった。
またプリズムリバー楽団は元々幻想郷で長い時間を過ごしており、それだけに場慣れもしていた。
そのため、昨日は無意識に比較をしていた部分も少なからずあった。
実際、目くじらを立てたくなるほどのことはなかったがテーブルマナーは勿論のこと、
会話や所作の一つ一つを取っても弁々達はなにかと不慣れな面が目立った。
「勿論、完璧であることを求めるつもりはありませんわ」
咲夜が一度言葉を切り、なにかを思い出したように一呼吸置いてから言った。
「……よく考えてみると、少なくともご馳走されることを当たり前のように振舞う
来客に比べたら昨日の彼女達は上客と言えますね」
誰のことを指しているかは考えるまでもなかった。
箒に乗った白黒の本泥棒、もとい魔法使いの姿が瞬時に目に浮かぶ。
咲夜は名前どころか外見の一つすら特徴を出していないのだが。
「咲夜、それは比較対象がおかしいわ」
昨夜、弁々達は出されたケーキを一口食べると感激して次々に口に入れ、彼女に何度もお礼を言っていた。
それを受けた咲夜はいつものすまし顔ながら、微かに口角が上がっていたのを覚えている。
長い付き合いだからこそ分かることだが、彼女は自分の料理を美味しそうに食べる相手にはなんだかんだで甘いところがある。
それがつい先日戦ったばかりの相手でも。
本泥棒の常習犯であっても。
私は一呼吸置いてから続けた。
「……貴女もなんだかんだで、悪い気はしなかったんじゃない?
お土産のお菓子、いつでも誰にでも渡してるわけじゃないでしょう」
気付かれていないと思っていたのか、僅かに彼女の眼が泳いだ。
どうやら、図星のようだ。
「……そうですね」
「貴女もここに来て、色々と変わったのよ」
「……それはきっと、お嬢様もですわ」
「……そうかもね」
そう、妖怪も人も、果ては神も幽霊も神霊も。
皆、様々な経験を経て「変わって」いく。
私達はどうだろうか。
きっと「変わった」後であり、「変わり続けている」最中でもある。
これが一番近いのではないか。
あの姉妹はどうだろうか。
生まれたばかりで、これから何色にも染まるであろう年若い付喪神の姉妹。
かたや妹のために強くあろうと、気を張る姉。
かたやそんな姉を想う優しい気持ちに溢れた、快活な妹。
頼りない雰囲気こそあったが、私はそんな二人を見ているのが嫌いではなかった。
親友が聞いたら昔より甘くなった、と言うだろうか。
尤もパチェだって、最初は私がプリズムリバー楽団の演奏会に呼んでもなかなか出席しなかった。
だが実際に演奏を聴くようになってからは、少なからず音楽に関心を持つようになった。
現在ではルナサ達とも交流を持っている。
さらに、今回は面識すらないであろう弁々達の演奏会にも顔を出した。
しかも演奏が終わり、咲夜達が弁々を客室に運んで一段落した後は私のもとに来て言ったのだ。
本によると彼女達の扱う楽器は「弾き語り」にも使われるそうだけど、普段の演目には入っていないのだろうか、と。
これについて、昨夜のお茶会の途中で本人たちに聴いてみた。
すると彼女達は少し気まずそうな様子で応えた。
弾き語りはある程度和楽、平曲について知っている人でないと面白くないかもしれないと思ったから演目からは外したのだと。
平曲とは「源平合戦」と呼ばれる外の世界で過去に起きた内乱の様子を唄い語ることを指すのだと言う。
私はパチェの話を聞くまで楽器を鳴らしながら奏者が物語を唄い語る演目が存在すること自体、知らなかった。
咲夜も同様だ。
「さるかに合戦」なら知っていますと堂々と答えたのだからまあ、そういうことだろう。
このことについては、おそらくパチェに言わない方がいい気がしていた。
一度気になったことは徹底的に調べようとする質である以上、弁々達に悪気がなくともこの気遣いが彼女の神経を逆撫でする可能性は相応にある。
弁々達がこちらを気遣って演目を決めたのは理解出来る。
私達の洋風の生活スタイルを見ればそう考えるのも無理のないことだ。
だが、音楽というのは予備知識など無くても気持ちの持ちよう一つでいかようにも楽しめるものだ。
家ではパチェに限らず、フランも最初は興味なさげだった。
だが妹もまた、最近は徐々に変わってきている。
プリズムリバー楽団の演奏会に出席するうちに、彼女は騒霊の姉妹の能力から入る形で少しずつ演奏にも興味を持ち始めた。
なんでも「三人とも魔力の色と流れが違う。姉二人が正反対の力を放出し、一番下の妹がその流れをコントロールしている」のだとか。
ふと思いつき、咲夜に聞いてみる。
「咲夜、貴女は昨日の演奏を聴いてどう思ったかしら」
咲夜は間髪入れずににこりと微笑んで言った。
「お嬢様達と一緒なら、私はなんでも楽しいですわ」
やはり、いつもと同じ感想だった。
だがこれは決して彼女が嘘を言っているのでも、演奏を軽んじているわけでもない。
真から出た言葉なのだと思う。
パチェやフランとは、また違った音楽の楽しみ方。
それはただ周りと一体となって音を「聴く」行為そのものを楽しむこと。
ここに来たばかりの頃は咲夜もまた館の住人、一部の知り合い以外とはあまり接点を持とうとしなかった。
幻想郷で過ごす日々、それに多くの異変から生まれた外部の人妖との出会い。
―咲夜もまた、少しずつ変わっている。
私は黙って頷き、続けた。
「ねえ、咲夜」
「なんでしょうか」
「この前の異変のお話、もっと聞かせてもらってもいいかしら」
私がテーブルの向かいを指して座るよう促すと、咲夜は嬉しそうに頬を緩めた。
ふと、白い湯気が立ち昇っていることに気付く。
いつの間にか新しい紅茶が淹れ直されていた。
「はい、喜んで」
弁々の儚げで繊細なイメージがとてもよかったです
お嬢様も懐が深い
変化途中、成長途中の九十九姉妹に対して、「変化を楽しめる」代表たるレミリアが良い道を示す全体としてのあらすじがまずよかったです。そこに、人間として変化途中の天然入っている咲夜と、それに他の紅魔館連中を、レミリアが少し上の視線で(しかし全く嫌味にならない様子で)見守っている姿が素晴らしかったです。
お茶会の翌日比較で咲夜が言及したのが魔理沙なのも好き
とても好きでした。有難う御座いました。