パチュリー・ノーレッジは、生まれながらに魔女だった。
それは17世紀のこと。後の世で産業革命と呼ばれる文化革新の始期にあたる頃である。パチュリーは英国の片田舎のごく平凡な家庭に生を受けた。
物心が付いた頃には、彼女はすでに自分が魔女であり、周囲とは異なる存在であることを自覚していた。
その認識を決定的なものにする出来事が起こったのは、彼女がまだ五歳の頃だった。
町の教会で、シャンデリアが落下する事故が発生した。讃美歌を歌って菓子を貰おうと集まっていた子供たちの頭上めがけて、ガラスの塊が容赦なく降り注いだ。居合わせた人々は、誰もがその先に訪れる惨状を思い描き、思わず目を覆った。
しかし、シャンデリアが子供たちの柔らかな頭を押し潰すことはなかった。
それは子供たちの頭上でぴたりと静止し、全員の避難が終わるのを待ってから、ゆっくりと床に着地した。
無論、パチュリーの仕業である。
彼女にとっては、ごく当たり前な行為に過ぎなかった。しかし人々は感涙し、天を仰ぎ、神を讃えた。その光景を目にして、パチュリーは自分の力はやはり異質であり、知られれば面倒であると確信した。
そんなパチュリー自身は、ただ平穏な生活を望んでいた。しかしその願いとは裏腹に、身体の奥底に渦巻く魔力は日を追うごとに膨張していった。一方で肉体の成長は十五歳頃から止まり、やがて飲食や睡眠すら必要としなくなった。
周りに合わせ、食事が出されれば口にし、夜になれば横になったが、空腹や眠気を覚えることはなかった。
両親のことをそれなりに愛していたパチュリーは、十八歳になる前に家を出る決意をした。田舎ではいまだ魔女狩りの気風が色濃く残っており、自分の存在が原因で両親に災いが及ぶことを避けたかったからである。
そうして彼女は町から町へと移り歩く生活を始めた。飲食も睡眠も必要としない身であれば、山奥に籠もる方が安全だったはずだが、不思議と集落を離れすぎると身体が重く感じられた。
町では歌を歌い、日銭を稼いだ。パチュリーが広場に立つと、整った容姿と魔法で調律された美しい歌声のおかげで、箱代わりの帽子はすぐにおひねりで溢れた。
必要なのは、夜をやり過ごす為の宿代と、季節ごとに新調する衣服代だけだったので、金は貯まる一方だった。余った分は宝石に換え、持ち歩いた。
だが、歌えばすぐに話題になることは、彼女の悩みでもあった。魔女という身分上、目立ちすぎるわけにはいかなかったのだ。
その為、一つの町に長く留まることはせず、短い滞在を繰り返した。
そうして辿り着いたのが、彼女の生まれ故郷よりもさらに小さく、ひっそりとした寂れた村だった。
◇
「だ、大丈夫ですか!?……い、生きてますか!?」
そう言ってパチュリーの顔を覗き込んだのは、見た目は彼女とさほど変わらない年頃の少女だった。背中まで伸びた赤い髪が朝日に照らされ、燃えるように輝いている。
一方のパチュリーは、村の入口まであと一歩というところで力尽き、うつ伏せに倒れ込んでいた。徒歩で山を越えた疲労が祟り、持病の喘息の発作が出て身動きが取れなくなっていたのだ。
無論、人間ではない彼女は、しばらく休めば命に別状はない。しかし、赤い髪の少女がそんなことを知るはずもなかった。山菜採りのために山へ入ろうとした矢先、見知らぬ女が倒れていたのだから、慌てるのも無理はない。
少女は、パチュリーの喉から漏れるヒューヒューという呼吸音を聞き、生きていることにひとまず安堵したような顔をした。そして。
「お水を持ってきますね!」
そう叫ぶと、村の中へと駆けていった。パチュリーは声を出せないまま、赤い髪が遠ざかっていくのをただ見送った。
しばらくして戻ってきた少女の手には、小さな水瓶が抱えられていた。
「お水ですよー……聞こえてますか?」
耳元で寄り添うように囁かれ、パチュリーがこくりと頷く。少女は水瓶の口をそっとパチュリーの唇に当てた。
「ゆっくり飲んでくださいね」
言葉に従い、パチュリーは水を含む。飲食を必要としない身体ではあったが、差し伸べられた優しさは受け入れる事にした。家を出て二十余年を孤独に生きてきた彼女にとって、その優しさが臓腑に染み渡るように感じられた。
冷たい水が胃へと落ちていく感覚が、ひどく心地よい。
やがて呼吸が落ち着くと、パチュリーは静かに身を起こした。
「ありがとう。もう大丈夫よ」
そう礼を述べて立ち上がると、心配そうに見つめていた少女と並ぶ形になる。背丈は、パチュリーの方がわずかに高かった。
「本当に大丈夫ですか?」
「ええ。お水、とても美味しかったわ。何かお礼ができればいいのだけれど」
靴の中に手を入れかけると、少女は慌てたように両手を振った。
「いいんです、いいんです!」
その仕草があまりに素直で、パチュリーは思わず微笑んでしまう。胸の奥に、小さな灯がともったような気がした。
人を見て、こんなふうに温かい気持ちになるのは久しぶりだった。
「ところで、この村に何かご用ですか?」
少女の表情が、わずかに訝しげに変わる。感情がそのまま顔に出るところが、ひどく愛らしい。
パチュリーは、こうした場面のために用意していた嘘を口にした。
「地方風俗の研究をしているの。ここへは、その一環で来たわ」
その言葉を聞いた瞬間、少女の顔がぱっと明るくなる。
「それって、もしかして……ロンドンから来たんですか!?」
「ええ、まあ」
少女は今にも踊り出しそうに身体を揺らし、輝く瞳でパチュリーを見つめた。その羨望の眼差しがあまりに眩しく、パチュリーは思わず視線を逸らす。
実のところ、ロンドンへ行ったのは一度きりだった。それも人の多さに辟易し、すぐに別の町へ移ってしまった。
人間が住む場所ではあるのだろうが、魔女の住む場所ではない――そう思ったのを覚えている。
「ロンドンのお話、聞かせてください!」
「え、ええ?」
「その代わり、この村のこと、何でも教えますから!」
勢いのままに、少女はパチュリーの手を握った。包み込むような温もりに、パチュリーは思わずたじろぐ。久しぶりに触れた人間の体温が、懐かしく感じられた。
困ったことになった、とパチュリーは内心で思う。地方風俗の研究などと言ってはみたものの、偶然辿り着いただけの寂れた小村に、特別な興味があるわけではなかった。
だが、ここで断れば変に怪しまれるだろう。
「……それは助かるわ」
そう告げると、少女の顔に再び花が咲いた。手を引かれるまま村へと足を踏み入れながら、パチュリーは思う。
この強引さを、不思議と嫌だとは感じていない――と。
◇
パチュリーの目の前で、少女の身体が横に吹き飛んだ。
話は、十分ほど前に遡る。
村の中へ引き込まれたパチュリーが最初に案内されたのは、少女の自宅だった。
古く小さな建物で、家というよりも小屋と呼んだ方がしっくりくる。そこに父親と二人で暮らしているらしい。
親と一人娘という家族構成に、パチュリーは思わず懐かしさを覚えた。
しかし、宝物を披露する子供のように意気揚々と扉を開けた少女の表情は、その瞬間に凍り付いた。
扉を開けたまま硬直し、肩を小刻みに震わせながら、「……お、お父さん。仕事は……?」と、囁くような声を漏らす。
その視線の先には、げっそりと頬のこけた小柄な男が椅子に座っていた。三白眼で、睨みつけるような眼差しをしている。
少女の言葉から父親であることは分かったが、醸し出す雰囲気はあまりにも異質だった。牧歌的な少女とは正反対で、乾ききった砂漠のような印象を受ける。
自信の経験から優しさに満ちた家庭を想像していたパチュリーは、怯える少女の様子を見て、それが見当違いだったことを悟った。
「こんだけ水が無くちゃ、仕事になんねぇって帰されちまった」
男は吐き捨てるように言った。
「そ、そうなんだ……」
「で、そいつは誰だ」
鋭い視線が、少女の背後に控えていたパチュリーを射抜く。
「この人は、えっと……」
「パチュリーよ」
「そう、パチュリーさん。ロンドンから来たんだって」
少女の言葉に、男は興味なさげに鼻を鳴らした。だがその視線が、少女の手にした水瓶に移った瞬間、顔つきが変わる。
察した少女が慌てて背中に隠すが、すでに遅かった。
「お前、まさかそいつに水をくれてやったんじゃねぇだろうな?」
低い声に、少女の肩がびくりと跳ねる。男は立ち上がり、怯える少女に詰め寄った。荒い鼻息がかかるほどの距離で、
「どうなんだ、おい」
と問い詰める。
「……だって、倒れてたから……」
直後、男の拳が少女の横面を捉えた。
細身の身体は軽々と宙を舞い、鈍い音を立てて頭から床に叩きつけられる。
「てめぇ、この村の状況が分かってんのか!」
怒声が小さな家に響いた。少女は床に倒れたまま、唇から血を流し、
「……ごめんなさい」
と、か細い声で呟く。
男は容赦なく近づき、その腹を蹴り上げた。少女の口から、息が漏れるような苦悶の声が溢れる。腹を押さえ、顔を歪めて呻し声をあげる。
その姿にも構わず、男は再び足を上げた。
「――止めてください」
思わず、パチュリーが口を挟んだ。事情は分からないが、あまりにも度を越している。少なくとも、彼女の知る家族のコミュニケーションとはかけ離れていた。
「私が無理に頼んだんです」
「てめぇには関係ねぇ」
男は一瞥するだけで、冷たく言い捨てる。
「私が飲んだのだから、無関係ではありません。お金なら払いますから、もう止めてください」
怒気にまったく動じないパチュリーの様子に、男は一瞬、面食らったような顔をした。
そして乱暴に、「……高ぇぞ」とだけ吐き捨てた。
◇
少女の説明をまとめると、こうだ。
この村は地下水源に恵まれており、生活用水から飲料水までをそれに頼っていた。ところが、ここ数ヶ月間、まったく雨が降らない日が続いている。そのせいで、井戸から汲み上げられる水の量は日に日に減少している。
また、村では金属加工を主な産業としており、少女の父親もそれに従事している。しかし、仕上げの工程で大量の水を使用するため、最近は稼働状況も悪化している。
これまでは生活用水の廃水などを再利用して何とか凌いできたが、それも行き詰まりつつある。
土壌に恵まれず農作物の育たないこの村では、金属加工による稼ぎが途絶えることは死活問題だ。さらに短期的な問題として、このままでは近いうちに飲料水の確保すらままならなくなることが予想されている。
そのため、村中に殺伐とした空気が漂い、皆がぴりぴりしているのだという。
「それで、あれほど怒ったのね」
説明を聞き終えたパチュリーが言うと、少女は申し訳なさそうに肩を小さくすくめた。
今は少女の自宅を出て、村の状況を聞きながら要所を巡っているところだった。
とはいえ、人口が千人にも満たない小さな村なので、目ぼしい建物といえば集会所くらいしかない。
「あの……お金、すみません」
少女はおどおどと謝罪の言葉を口にする。その唇は腫れ上がり、痛々しかった。
少女の父親に請求された金額は、「高ぇぞ」という言葉どおりのものだった。パチュリーが先日まで滞在していた山一つ向こうの町では、十分の一の価格で買うことができた。
あまりにも暴利なその値段を聞いた少女は、一瞬だけ父親に抗議するような視線を向けたが、睨まれてすぐに目を逸らした。そして、パチュリーが躊躇いもなく支払うのを見て、今度は目を丸くした。
「いいのよ。たくさん持っているから」
「すごいですね……ロンドンの人は……。たぶん、私と同じくらいなのに」
尊敬の眼差しを向けられる。本当は倍以上生きてきたのだけれど、とは言えずに、パチュリーは微笑みで返した。
それから、自宅での一件以来すっかり元気をなくした少女に、パチュリーは村についてあれこれ尋ねた。実際のところ、微塵も興味はなかったが、話をすることで少しでも元気を取り戻してほしかった。
所々抜け落ちた村の歴史を一生懸命説明する少女を見て、パチュリーは何かしてやりたい気持ちになる。
意図せずとはいえ、随分と迷惑をかけてしまった。それに、これほど厳しい状況の中でも村外の人間に優しくできる少女の性分を、パチュリーは気に入っていた。
どうしたものかと考えているパチュリーの顔を、少女が覗き込んだ。
「ところで、パチュリーさん。今夜は泊まるあて、ありますか?」
言われて、はっとする。
何も考えていなかった。
「そうねぇ。この村は宿なんて……」
「ないですね……。本当は、私の家に泊めてあげられればいいんですけど」
あの父親の態度を見る限り、それは厳しそうだった。
山菜採りをやめて村の案内をすることを許してもらえただけでも、僥倖と言える。
もしかしたら、パチュリーと仲良くさせればまた金銭を取れると考えたのかもしれない。それならば、相場よりずっと高い金額を積めば、首を縦に振る可能性もある。
だが、そうすれば今度はこの少女が、申し訳なさに身を縮めて消えてしまいそうだ。
「外の人が来ることなんて滅多にありませんから。あ、でも。たまーに大きな町から来る偉い人は、村長の家に泊まりますね。私から村長に話してみましょうか?」
「構わないわ。旅をしているから、野宿には慣れているもの」
それは嘘ではなかった。
町から町へと放浪する中で、野外で夜を明かしたことは一度や二度ではない。喘息持ちとはいえ、根本的な頑丈さは人間を遥かに上回っている。野宿そのものは、まったく問題ではなかった。
それに、村の中でもひときわ小さい少女の家を見れば、その立ち位置も何となく想像がつく。
村長がどんな人物かは知らないが、彼女に頭を下げさせてまで宿を探させるのは、どうにも忍びなかった。
「そんな、駄目ですよ!もし野盗なんかに襲われたら、どうするんですか!」
少女は声を荒らげ、一歩踏み出す。
その必死さに、パチュリーは目を瞬かせた。
これでも魔女の端くれだ。戦闘経験は無いが、野盗程度なら何とかなるだろう。
軽く笑って受け流そうとしたが、少女は引き下がらない。このままでは、一軒一軒回って「泊めてあげてください」と頭を下げかねない勢いだった。
たまらず、パチュリーは話題を逸らす。
「あの建物は?」
目に付いた建物を指さす。
少女の自宅より少し大きく、そして明らかに古い木造の家屋。人の手が長く入っていない朽ち方をしていて、誰も住んでいないことは一目で分かった。
「あれは……確か、昔は教会だったらしいです」
少女はそう答えた後、「私も、あんまりよく知らないんですけど」と付け足した。
教会、と聞いて見直してみても、その名残はほとんど感じられなかった。
十字架もなければ、ステンドグラスらしきものもない。信仰の匂いは、とうに風化している。
だが、パチュリーはそれを見て、内心で小さく頷いた。丁度いい。
「あそこに泊まらせてもらうわ」
「え、あそこですか!?」
「誰かの許可が必要かしら?」
「そ、そういうわけじゃないですけど……鍵が掛かっていて、入れないんですよ」
少女はまた申し訳なさそうに視線を落とす。
まるで、この村で起こる不都合のすべてが自分の責任だとでも思っているかのようだった。
パチュリーは、短く息を吐く。
それは優しさというより、自己を削る癖に近い。
「まあ、とりあえず行ってみましょう」
「え、ちょっと……」
戸惑う少女を伴って元教会の扉の前に立つと、確かに無骨な金具が取り付けられ、立派な南京錠が掛けられていた。
小さな建物には不釣り合いなほど頑丈で、外の世界を拒む強い意志を感じた。
しかし、それは人間を拒むためのものだ。理を別とする魔女には意味を成さない。
パチュリーがそっと南京錠に触れると、鉄の輪は音もなく崩れ落ちた。
「……古くなっていたみたいね」
何事もなかったかのように言う。
背後で、少女が息を呑む気配がした。
そしてパチュリーが取っ手に手を掛けた瞬間、少女の顔からさっと血の気が引く。
「ほ、本当に開けるんですか……?」
「扉は、その為にあるものよ」
「でも、錠前はそうさせない為にあります」
「ええ。そうね」
一拍、間を置いて。
「――でも、錠前があったのは過去の話」
扉を押し開けようとしたその腕が、途中で止まる。振り向くと、服の裾を少女がぎゅっと掴んでいた。
少女は青ざめた顔で、ガタガタと震えていた。
「じ、実はここ……出るんですよ」
「出るって、何が?」
「だから、その……お化けが」
「お化け」という言い方が可愛くて、思わず吹き出してしまう。
すると少女は、ぐっと距離を詰めて真剣な顔を向けてきた。
「笑い事じゃないです!何人も聞いてるんですよ!夜になると、中から聞こえてくる物音を!」
幽霊なら歓迎だ。
人間より、むしろ同類に近い存在である。
気にも留めない様子のパチュリーに、少女は目を吊り上げた。
「本当にここはやばいんです!物音だけじゃなく、音楽を聞いたって人もいるんですよ!?」
芸能の心得がある幽霊なら、なおさら会ってみたい。
「あなたも聞いたことがあるの?」
「私が夜に近付くわけないじゃないですか!」
呆れたように叫ぶ少女。
まるで自分が阿呆なことを言っているかのような反応に、パチュリーは一瞬だけ言葉を失った。
釈然としないまま、取っ手を握る手に力を込める。
「それはさておき、開けるわよ」
「ひ、ひぃっ……!」
怯える少女を尻目に、ギィと木材が軋む音を立てて、扉はあっけなく開いた。
少女は慌てて服の裾から手を放し、両手で顔を覆う。
パチュリーはそれを横目で見て、もし本当にお化けがいるのなら、随分と無防備だと思った。ボディがガラ空きだ。
そして建物の中を見渡すと、確かに元は教会だったことが分かる。
奥には講壇があり、それに向かうように会衆席が並んでいる。
変わっているのは、大量の本が無造作に散らばっていることと――講壇の前に、大きな棺桶が転がっていることだった。
今のところ、幽霊の気配は感じられない。
「大丈夫よ。お化けはいないわ」
優しく声を掛けると、少女は恐る恐る腕を下げ、中を覗き込み――
「棺桶あるじゃないですかぁ!」
悲鳴に近い絶叫が上がる。
いたいけな少女には、いささか刺激が強すぎたらしい。
僅かに期待していた通りの反応に、パチュリーは小さく笑って中へ踏み入れた。
「ちょ、ちょっと、パチュリーさん!」
制止の声も聞かず、ずかずかと進んでいく。
少女は止めはするものの、追ってこようとはしない。
「先ほど、あなたは言ったわね。錠前は、扉を開けさせない為のものだって」
「えっと……はい」
「それじゃあ、座る為のものは何かしら?」
「……椅子、ですか?」
突然の禅問答のような問いに、少女は戸惑いながら答える。
パチュリーは満足げに微笑むと、棺桶の前に立ち、少女を振り返った。
そして、そのまま腰を下ろす。
「そう。だからこれは――ただの椅子よ」
棺桶に腰掛けて笑うパチュリーに、少女は言葉を失う。
パチュリーが手招きすると、へなへなと力の抜けた笑顔を浮かべた。
「……ははは。なんだか、私も怖がるのが馬鹿らしくなりました」
そう言って、教会の中に足を踏み入れる。
足はまだ震えていたが、一歩一歩、確かに前へ進み、無事にパチュリーの前まで辿り着いた。
パチュリーが隣をぽんぽんと叩く。
少女は一度大きく息を吸い、えいや、と意を決して腰を下ろした。
「よく頑張ったわ」
「……えへへ」
二人で笑い合う。
「……ロンドンの人は、怖いもの知らずですね」
「都会では、棺桶に座るのが流行っているのよ」
「絶対、嘘だ」
また、笑い声が重なる。
今日会ったばかりだというのに、ずっと前から知っていたような、不思議な感覚があった。
パチュリーは名前を呼ぼうとして、まだ知らない事に気付く。
尋ねると、少女は答えた。丘に揺れる花のような名前だった。パチュリーは、素朴で素直な少女によく合っていると思った。
やがて、少女がそっと口を開く。
「ねえ、パチュリーさん」
「なにかしら?」
「私に……ロンドンの話を聞かせて」
約束だったとはいえ、パチュリーは少し戸惑う。語れるほどの知識はない。
だが、少女の真っ直ぐな瞳を見て、断ることは出来なかった。
「そうね。例えば……」
数少ない実体験を軸に、文献や人づてに聞いた話を継ぎ足して語る。人間に混ざって生きる為に、他人の会話を盗み聞きしたり本を読み漁ったりしたのが功を奏した。
中にはパチュリー自身も真偽の怪しい話も混じっていたが、少女は一つも逃すまいと、目を輝かせて聞き入っていた。
両手ですくった水を零さないようにするみたいに、慎重に。
その姿を見て、パチュリーはもし妹がいたらこんな感じなのだろうかと思った。
それにしても、少女のロンドンへの憧れは相当に強いようだった。話すほどに元気になっていき、遠くでカラスが鳴く頃には、村に入った時の快活さをすっかり取り戻していた。
世界は夕焼けに染まりゆく中、遠くで鐘が鳴った。その音に、少女はハッと顔を上げた。
「ごめんなさい!まだ聞いていたいけど、帰ってご飯の用意をしなくちゃ」
少女がそう言い出して、パチュリーは内心ほっとする。
そろそろロンドンの話題も尽きかけていた。
家まで送ろうとすると、少女はここでいいと首を振った。
「本当に、ここに泊まるんですか?」
「ええ。風を凌げるだけ、外よりずっといいわ」
笑って答えると、少女も「分かりました」と微笑んだ。
そして、赤い髪を揺らしながら、それと似た色をした夕陽の中へ消えていった。
◇
「これは……とんでもないわね」
村中がしんと寝静まった頃、暗闇の中でパチュリーは小さく感嘆の声を漏らした。
人口が千人にも満たない狭い村だ。自分が来たことも、教会に泊まっていることも、とうに知れ渡っているだろう。
怪しんだ誰かが様子を見に来る可能性もある。昼間、少女に案内されて村を歩いた時も、向けられた視線は決して友好的とは言えなかった。
それを見越して、彼女は真夜中になるまで待ってから動き始めていた。
今、パチュリーの視界に広がっているのは、床や椅子の上に無造作に散らばる大量の本だった。
教会に入った時から、彼女の目を引いていたのは棺桶ではなく、この本の山だった。
印刷技術が普及してきた今でこそ、本はそれほど珍しいものではない。
だが、この教会が機能していたであろう年代を考えれば、これほどの冊数が一箇所に集められているのは明らかに異常だった。
そして、何より――その内容。
表向きは宗教書が大半を占めている。だがそれは、偽装に過ぎなかった。
魔女には分かる、魔女にしか分からない術式が施されている。魔力を通して頁をなぞると、聖句の裏側から、まるで別の文字列が浮かび上がってくる。
つまるところ、それは魔術書だった。
しかも、相当に高度なものばかりだ。
容姿を変える魔法、ひよこを一晩で鶏に成長させる魔法、人を眠らせる魔法。さらには、多数の犠牲を前提とした禁術の類まで――様々な魔法が、無造作に放置されている。
魔女ではあるが、本格的な魔法の勉強をした経験を持たないパチュリーにとって、それはまさしく宝の山だった。
物を止める、壊す、魔力をぶつけるといった単純な物理干渉は自然と出来たが、何かを作ったり、変質させる類の複雑な魔法は知らなかった。
だからこそ、密かな憧れを抱いていた。
朝になれば村を出るつもりでいたが、理由を付けてしばらく滞在するのも悪くない。そう思えてしまう。
さて、何から読もうか。
視線を巡らせて――見つけた。
少女に村の話を聞いた時から、もしあればと思っていた魔法。
パチュリーはその魔導書に手を伸ばし、静かに頁を捲った。
その時、扉の方から、コツンと小さな音がした。
顔をあげるが、気のせいかと思い再び視線を落とす。
するとまた、コツン、コツンと音がした。
はぁ、とため息が漏れる。
邪魔をするなと思いながらも、仕方なく魔導書を閉じ、扉へ向かう。
来訪者に心当たりはあった。
――あれだけ怖がっていたのに、ずいぶん立派になったものだ。
内鍵を外し、扉を開けると、やはりそこには赤い髪の少女がいた。
「ごめんなさい……寝てました?」
小さなランプを揺らしながら、申し訳なさそうに笑っている。
もう片方の手には、小さな包み。
「ご飯、食べてないですよね?こっそり持ってきちゃいました」
その言葉で、すっかり忘れていたことに気付く。
飲食は必要ないが、何も口にしなければ不自然だ。
「ありがとう。いただくわ」
そう言って中へ招き入れる。
灯りは少女の持ってきたランプだけ。二人で棺桶に腰掛けた。
棺桶に辿り着く途中、パチュリーはわざと本に足を取られてみせた。夜目が利く彼女にとっては問題の無い暗さだが、ささやかな人間アピールだった。
隣合わせになって棺桶の上で包みを開く。中に入っていたのは硬そうなパンだった。
それを見た瞬間、胸の奥がじんわりと痛む。
村の状況を知っていれば、この一切れがどれほど貴重かは想像に難くない。
そして、少女がそれをどうやって持ってきたのかも。
これは、自分が食べるべきものではない。
「あまりお腹が空いていないの。半分ずつにしましょう」
そう言って、パンを手で割ろうとする。
だが思った以上に硬く、南京錠を壊すよりむしろ手こずった。
ようやく二つに割れたパンを見比べて、パチュリーは大きい方を少女に差し出した。
自分に向けられたパンを見て少女の瞳が一瞬だけ輝き、すぐに赤くなって首を振る。
その仕草を見たパチュリーは、失敗したことを悟る。
自分が見透かしたように、少女もまた、こちらの意図を見抜いたのだ。
優しさを示したつもりで、優しさを否定してしまった。
「……ごめんなさい。いただくわ」
パンを齧る。
硬く、ぼそぼそとして、口の中の水分が奪われる。
かつて故郷で食べたパンも決して上等では無かったが、これはそれとも比べものにならない。
正直、吐き出したくなる味だった。
それでも無理に飲み込み、笑顔を作る。
「美味しいわ」
少女と目が合い、そして俯かれる。
――また、間違えた。
そりゃそうだ。あまりにも分かりやすい嘘だ。このパンが美味しいわけがない。
見え透いた情けで、少女を惨めにさせただけだった。
それでは、何と言えば正解だったのか。
答えの出ない問いを抱えたまま、不味いパンをせっせと口に運ぶ。
その時間は、地獄のようだった。
家を出てからというもの、歌を聞かせて金を得る以外、人とまともに接してこなかった。正しい関わり方が、すっかり分からなくなっていた。
最後の一欠片を無理矢理飲み込み、パチュリーは少女の手に、そっと自分の手を重ねた。
上手な取り繕い方が分からないから、せめて可能な限り本心で向き合おうと思った。
「ご馳走様。それと、ごめんなさい」
少女は驚いたように顔を上げ、不思議そうにパチュリーを見つめる。
「不用意に嘘を吐いて、ごめんなさい。本当はとてもお腹が空いていたし、全然美味しくなかった」
パチュリーは、一つ嘘を吐き、一つ本当のことを言った。自分なりの「正しい答え」だった。
一瞬の沈黙の後、少女はぷっと吹き出した。
「パチュリーさん、急に正直過ぎです」
そう言って、はにかむように笑う。
その笑顔を見て、パチュリーはようやく胸の奥の力を抜くことができた。
同時に、まだ残る後ろ暗さに小さく目を伏せる。
「けど、とても嬉しかった。ありがとう」
それは紛れもない本心だった。
おそらく少女は、自分の食事を削ってパンを持ってきてくれた。
それを目にした瞬間、申し訳なさと同時に、胸が震えるほどの温かさが込み上げた。乾いた土に水が染み込むように、少女の優しさはパチュリーの心に浸透した。
パチュリーの言葉に少女は照れくさそうに頬を掻き、おずおずと口を開いた。
「また……お話、聞かせてくれます?」
「ロンドンの話?」
「ここじゃないところなら、どこでも」
その言葉に、パチュリーは内心で大きく息を吐いた。
ロンドンに限らないなら、いくらでも話せる。
パチュリーは実際に見た景色や、立ち寄った店の話を語った。途中、「あんまり何を食べたって話しませんね」と言われて一瞬言葉に詰まった。なんとか、「食に興味が無いのよ」と誤魔化した。
少女は洋服店の話を特に気に入ったようだった。
大きな町で見た奇抜な衣服の話に、その目を爛々と輝かせた。
年頃らしいその反応が、パチュリーには微笑ましく思えた。
やがて一段落すると、少女は小さく息を吐き、背筋を伸ばす。
そして、意を決したようにパチュリーを見た。その瞳が、緊張により細かく揺れる。
「ねぇ、パチュリーさん」
「何かしら?」
ゴクリと、生唾を飲み込む音。
「私を……外に連れて行ってくれませんか?」
パチュリーは、深く息を吐いた。
少女にそういう願望がある事は、話の端々から感じ取れていた。
少女は村の外、とりわけロンドンに強い憧れを持っている。
また、開け広げた窓のような風通しの良い性格も、閉鎖的な田舎の小村では浮いてしまうだろう。
孤立する姿が、容易に想像できた。
理解はできる。憐れみもある。
だが、連れていくことはできない。
魔女と共に生きるということは、光の当たらない道を延々と歩くということだ。この村にいても日の目を見る事は無いだろうが、それ以上の日陰者として生きる事になる。
優しい彼女に、そんな生き方を背負わせることはできなかった。
「ごめんなさい。できないわ」
そう言うと、少女は食い下がることなく笑った。
「……ですよね」
小さく呟く。そして、懐から何かを取り出し、パチュリーの手に置いた。
ランプにかざすと、それは深紅の石だった。
おそらく宝石ではないが、灯りを乱反射するその石は幻想的な美しさを纏っていた。
「綺麗でしょう?」
少女は自慢げに笑う。
「山で拾ったんです。たぶん、ただの石ですけど。私の髪と同じ色で、気に入っちゃって」
その髪が、ランプに照らされて儚く揺れた。パチュリーはそれを石と同じくらい美しいと思った。
けれど、何故だかその言葉は口にできなかった。
「それを……私の代わりに、連れて行ってくれませんか?」
最初から分かっていたのだろう。
一緒に村を出る事なんて叶わない事を。
だからせめて、この小さな石に願いを託そうというのだ。
パチュリーは、その健気さを拒むことができなかった。
「承ったわ」
「約束ですよ」
「ええ、連れて行くわ。うんと遠くまで」
パチュリーは深く頷き、石を握り込む。そして割れないよう丁寧に布で包み、鞄にしまう。
その仕草を、少女は満足そうに見つめていた。
その後も二人はポツポツと会話して、少女は夜が明ける前に帰っていった。
パチュリーは、「また来ます」と言うその少女に、朝食も昼食も不要だと念押しするのを忘れなかった。
そして少女の影を見送った後、「また」が来るのを楽しみに思う自分に気が付いた。
◇
翌日の昼過ぎ、教会に現れた少女は小さく震えていた。
元々白い顔が青ざめて、まるで少女自身が幽霊になってしまったかのようだった。
ぎょっとしたパチュリーが何があったのかと訊くと、少女はその胸に飛び込み、わんわんと声をあげて泣き始めた。
取り留めもなく溢れる言葉を繋ぎ合わせていくと、彼女は町に売られることになるらしい。
どうやら水不足は少女が認識していたより逼迫しており、すぐにでも手を打たなければいけない状況にあったようだ。
その中で、村の大人たちは遂に一つの「解決策」を選び取った。
それは、子供を町へ売り、その金で水を買うことだった。少年より少女の方が高値で取引される為、先に売られるらしい。
その中でも順番は子供自身がくじを引いて決めるという。
くじ引き大会は村長の家の前で行われ、その記念すべき第一回が、今日の夕刻に予定されているとのことだ。
すでにブローカーとは話がついており、一人売れば三日分の水が買えるという。
つまり、水不足が解消されるまで、三日に一人ずつ子供が消えていく計算になる。
口減らしと水の調達を同時に叶える、あまりにも効率的で、狂った方法だった。
恐怖と絶望に声を詰まらせる少女の頭を撫でながら、パチュリーは怒りに身を震わせた。
幼い少女がどこへ送られ、何をさせられるのか。想像するまでも無かった。
自分の子供を、そんな場所へ差し出す親が存在する。それを「仕方ない」と受け入れる大人たちがいる。
これが人間かと、失望が胸を満たす。
この種族の血が自分にも流れていると思うと、吐き気すら覚えた。
少女の為にと村を救う方法を考えていた自分が、急に馬鹿らしくなった。いっそ滅ぼしてしまおうか、そんな考えすら頭をよぎる。
だが、それを少女が望むはずもない。
結局パチュリーにできたのは、少女が泣き止むまで、その頭に手を置き続けることだけだった。
◇
夕刻。
少女の強い願いで同席したパチュリーは、自分がいかに場違いな存在であるかを嫌というほど自覚していた。
余所者が混じることを、村人たちは誰一人として歓迎していない。
反対の声は次々に上がったが、パチュリーはそれらをすべて無視して居座った。
地方風俗の研究のために訪れており、とある貴族の認証を受けている――そう書かれた証書を示すと、大人達も認めるしか無かった。
その証書は覚えたての魔法で捏造したものだったが、田舎村の人間に真偽を見抜く術はない。
人身売買が倫理に反する行為であっても、違法ではない。知れ渡ったとしても、罰せられるわけではない。
それもまた、渋々ながらパチュリーの同席を認めた理由だった。
「いいか。繰り返すが、一人ずつ順番にくじを引く。先端が赤いものが“当たり”だ。当たりが出た時点で、残った奴は引かなくていい」
短く刈り上げた髪の男が、藁の束を掲げて告げる。
藁は二十本。
その前で横に並ばされている少女の数も、二十人。
年齢は全員、十五前後。
一様に青白い、浮かない顔をしている。
「さあ、誰から引く」
男が促すが、誰も動かない。
互いに牽制し合い、沈黙だけが重く垂れ込める。それも当然で、誰しもが進んで危険に飛び込む勇気を持っているわけではない。
「今引けば、当たりは二十分の一だ。残れば残るほど、確率は上がるぞ」
その言葉に押されるように、一人の少女が前へ出た。そばかすの目立つ、考えの浅そうな少女だった。
そばかすの少女は無言のまま、震える手で藁を掴み、引き抜く。
——外れ。
少女は安堵し、歓声を上げた。
それを合図にしたかのように、次々と少女たちが前へ進む。
外れ。
また外れ。
またまた外れ。
泣き崩れる者、座り込む者。外れを引いた少女はそれぞれ全身で安堵を表現した。
そうして数は減っていき、残るは二人だけになった。
パチュリーのよく知る赤い髪の少女と、もう一人。そのもう一人は、村長の孫娘であった。 意地悪そうな顔をして、腕を組んで仁王立ちしている。
「さあ、どちらから引く」
男が問う。
村長の孫娘は余裕の笑みを浮かべ、「どうぞ」と譲った。
赤い髪の少女が、ふらつきながら前へ出る。
額に冷や汗をかき、今にも倒れそうな顔色だった。
震える指で、藁を掴む。
その瞬間、背後にいるパチュリーと、藁を持つ男の目が合った。
パチュリーが睨みつけると、男は気まずそうに視線を逸らした。
少女は目を閉じ、藁を引き抜いた。
――会場にどよめきが走った。
少女は結果をすぐには見られず、ゆっくりと、恐る恐る目を開いた。
藁の先端を見つめ――そして、崩れ落ちた。
安堵ではなく、絶望で。
力なく手から溢れたその藁の先端は、彼女の髪と同じ色に染まっていた。
◇
その晩、少女はぼうっと月を眺めていた。
村はすっかり寝静まり、父親も隣の部屋で寝息を立てている。
"当たり"を引いたあと、村長の家からどうやって帰ったのか、ほとんど覚えていない。
無理を言って付き添ってもらった村外の友人のことも、きっと放り出してしまった。
家に戻ると、いつもより少し豪華な夕食が用意されていた。
滅多に口にできないチーズ。それから初めて、ワインを飲む事を許された。
どちらも貴重なもののはずなのに、どこに隠していたのだろうと不思議に思った。
勿体なくて、ワインはほんの一口しか飲めなかった。
明日の朝、迎えが来るらしい。
それから自分は、どうなるのだろうか。
アルコールのせいか、思考がうまく回らない。
ただ、じわりと涙が滲んできた。
ずっと憧れていたはずの、村の外の世界に行ける。
それなのに、かび臭い部屋や、固いベッド、小さ過ぎる毛布がひどく愛おしく感じられる。
少女は首を振り、その感情を振り払った。
外の世界に行けるという事だけを考えよう。上手くいけば、ロンドンにだって行けるかもしれない。
そうやって、自分を慰める。
出来立ての友人から聞いた、外の世界の話を思い出す。
どれも眩しくて、胸が躍るものばかりだった。
深い海に沈んでいくようだった心が、ほんの少し浮かび上がった気がする。
もっとも、その海も見たことはない。でも、これから見られるかもしれないのだ。
無理矢理、胸に灯をともす。そして、ここから見る最後の月に別れを告げる。
昔から、村の友人達とは話が合わなかった。相談相手はずっと、この月だけだった。
「さような——」
言葉は途中で途切れた。
黒い影が、ぬっと視界を塞いだからだ。
驚きで声も出せずにいる間に、鍵をかけていたはずの窓が音もなく開く。黒い影が部屋に入り込んだ。
叫ぼうとした口を、即座に塞がれた。
「んーっ!」
「静かにしなさい」
囁くような声。
最近知った、透き通った声だった。
少女が暴れるのをやめると、手はそっと離された。
暗くて姿ははっきりしないが、月明かりに揺れる髪は、艶やかな紫色を帯びている。
「……パチュリーさん?」
小さく名前を呼ぶと、侵入者は緩やかに笑った。はっきり視認できたわけでは無いが、漏れる息や頭の動きで何となく画が浮かぶ。そのくらい、パチュリーは少女の心に浸透していた。
パチュリーは少女の手に、自分の手を重ねる。その指先はじんわりと汗ばんでいた。その手から、彼女自身の緊張が伝わってくる。
「逃げるわよ」
パチュリーの言葉に、少女の心は大きく跳ねた。
村の外に出る。
その時に隣にいるのが、見知らぬ男では無くパチュリーだったら。
それはどれだけ幸せな事だろうか。
その未来に待っているのは、黄金に輝く日々に違い無かった。パチュリーと顔を合わせて笑う自分の姿が脳裏に浮かんだ。それは大きな綿菓子に飛び込むみたいに、ふわふわして甘い誘惑だった。
しかし同時に、少女の心には別の映像も浮かんでいた。
自分以外の誰かが、連れて行かれる映像。身代わりになった少女は、嫌だ嫌だと泣き叫び、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしていた。
その叫び声が少女の心に突き刺さり、怨嗟の眼差しは胸を抉るようだった。
何故だか村長の孫娘で再生されたその映像は、少女の心を引き留めるには充分だった。
少女はパチュリーの手の中からそっと自分の手を抜いた。
「……できません。パチュリーさんに迷惑が掛かるし、私が逃げたら他の人が代わりに連れていかれます」
パチュリーは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに声を低くする。
「私の事は気にしなくていい。それにこんな村なんて、知ったことじゃないわ」
「私にとっては、知ったことです。くじで選ばれた以上、責任があります」
「あんなの、出来レースに決まってるでしょう」
呆れたように放たれるパチュリーの言葉に、少女は息を呑んだ。
「どうせ、くじを持つ手に染料の袋でも仕込んでたのよ。それをあなたの番で潰したの。あなたが"当たり"を引いた後、残った藁を随分と慎重にしまっていたわ」
「……そんな」
「権力者の血族を、最初に差し出すわけないでしょう?」
淡々とした声が、容赦なく現実を突きつける。
「買う側にしても、子供が一律同じ値段なんてあり得ない。当然、健康で容姿に優れた子は高いし、そうでなければ安い」
少女は、聞いている内に頭がくらくらする。 受け入れがたい現実が突きつけられるが、小さな部屋に逃げ場は無い。
「村としては、なるべく値段が高く、且つ卑しい者を先に売りたいはず。そうなると、最初に差し出される候補は……あなたしかいないのよ」
昨日来たばかりで、この村の何を知ったつもりかと言いたくなる。しかし、パチュリーの主張は筋が通っていた。
容姿についてはともかくとして、地方風俗を研究しているパチュリーから見れば、村で一番小さく、端にある家がどういう扱いを受けているかなんて、想像に容易いのだろう。
少女はぎゅっと唇を噛む。悔しさがこみ上げてくる。
「それでも、私が逃げたらお父さんが……」
「まだ分からないの?」
パチュリーは苛々を隠さなくなっていた。
「大人達の間で話は付いているのよ。分け前が多く貰えるとか、立場の改善とか条件は知らないけど。そうでなきゃ、こんなあからさまな出来レース、黙っていられる筈が無い」
パチュリーは、こんな事を言わせるなという風に苦虫を噛み潰したような顔をした。
そして、とどめの言葉を繰り出した。
「あなたは父親に売られたのよ」
言葉が、胸に叩きつけられる。
しばらく、何も言えなかった。
怒りも悲しみも、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、言葉にならない。腹の底で、悔しさがぐらぐらと煮えたぎる。
パチュリーはもう一度、少女の手を掴んだ。
先程よりも力強く、少女を導くように。
その手に引っ張られて、少女の身体が前に傾いた。
「理解したなら、行きましょう。外に見張りもいたけど、都合良く眠っていたわ。そういう運命なのよ」
パチュリーが窓に向かって足を向けた。けれど少女は、その場に立ち尽くしたままだった。
「何してるの?いいから、早く」
「……ごめんなさい。やっぱり行けません」
少女の言葉に、パチュリーは理解出来ないというような顔をした。
頭がおかしいと思われただろうか。それも仕方ないと思う。
「あなた……悔しくないの?」
パチュリーの声には、焦りと侮蔑が混ざっていた。
その言葉に、少女の肩がピクンと跳ねた。
——悔しくないかだって?
そんなもの、そんなもの……!
「悔しいに……決まってるじゃないですか!!」
抑えていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「仕組まれて!売られて!しかも親に!!それなのに……それなのに……!」
声を殺して泣き叫ぶ。
決壊した感情は、留まる事を知らない。
自分を助けようとする友人に、声を殺して当たり散らす。
「それでも、この村の人を……お父さんを、見捨てられないんですよ!!?そんなの、悔しくないわけ無いでしょうが!!!」
あまりにも、惨めだった。
外の世界に憧れて、村の人からは虐げられて、それでも捨てられなくて。
どこまでも弱く、情けない自分が嫌になる。
パチュリーは何も言い返さず、部屋に沈黙が落ちた。
やがて、パチュリーはゆっくりと手を離した。
少女は涙を拭い、震える声で尋ねる。
「ねぇ、パチュリーさん。私……売られたら、どうなるんでしょう?」
パチュリーは、しばらく答えなかった。
その沈黙が、何よりの答えだった。
「お願い。正直に答えてください」
「……大きな町に連れていかれるわ」
「それから?」
「名前を奪われて、働かされる」
声は低く、静かだった。
「運が良ければ給仕や掃除。そうで無ければ……娼館よ」
「……」
「身体を売らされる。休みも無いし、拒否権も無い」
「……」
「病気になって、使えなくなったら捨てられる。早ければ、三年も生きられない」
淡々とした言葉が、少女の心を切り裂いた。
少女は震えながら笑おうとする。
「……優しい人に引き取られる可能性は?」
「ないわ」
「……ロンドンに行けたり」
「まず無理ね。遠過ぎる」
涙が、止まらなくなる。
差し伸べられた手を振り払ってまで向かう場所は、どうやら地獄のようだった。
身体を売るってどんな感じなのだろうか。そういう経験は無いけど、痛いのは嫌だ。
それに、早ければ三年なんて、早過ぎる。まだ見たい物も、やりたい事も沢山ある。
「……嫌だ。まだ、生きたい……生きたいよぉ!!」
涙がどんどん溢れて、床に落ちる。手で拭おうとすると、その顔を柔らかいものが覆った。
パチュリーだった。ぎゅっと抱きしめてくれる。少女はずっと昔に無くした母親を思い出すようで、その胸に縋り付く。
「もう一度だけ言うわ。私と逃げるのよ」
パチュリーは、なんでこんなに優しくしてくれるのだろうか。これまで、ここまで自分を想ってくれた人はいなかった。
少女の胸に、再び灯がともる。
どこに連れて行かれようとも、この幸せの思い出を糧に生きようと思えた。
「ごめんなさい。やっぱり、出来ません」
少女の返答に、パチュリーは困ったように眉を下げて笑った。そして少女を強く抱き寄せる。
それから耳元で、魔法のような言葉を囁いた。
◇
朝の空は、やけに高く、青かった。
土の広場の端に、馬車が止まっている。
馬車の前では、黒い革靴を履いた男——町から来た人買いが腕を組み、値踏みするような目で少女を見ていた。
狐を思わせる細い目と、舐め回すような視線に、少女の喉はひりつく。
少女を取り囲むように立つ村の男達は口数少なく、張り詰めた重い空気が広場を覆っていた。
「……お父さん」
震える声で呼びかけると、隣に立つ父親は不機嫌そうに眉をひそめた。
「何だ」
「最後に……少しだけでいいから、村の子と遊びたい」
父親は露骨に顔を歪め、舌打ちする。
「何を今さら。そんな暇があるか」
その言葉に、少女の肩が小さく跳ねた。
やはり駄目かと、諦めが胸に広がる。
「まぁまぁ」
そこに、意外な声が割って入った。
軽い調子で、人買いが口を挟む。
顔に張り付いた薄ら笑いに、異物を飲み込んだような不快感が込み上げた。
「いいじゃないですか。可愛らしいじゃないですか。まだ時間にも余裕がありますし」
「……」
父親の鋭い視線にも、人買いは怯まない。
一歩近づき、耳元で囁いた。
「お願いしますよ。娘さん、上玉じゃないですか……他の子供も、少し見ておきたい」
父親は再び睨みつけたが、やがて鼻で笑った。
「……好きにしろ。ただし、目の届くところでだ」
少女は、深く頭を下げた。
「ありがとう、お父さん」
声は小さく、震えていた。
そうして村中に声がかかり、集まった子供は九人だった。
皆、どこかぎこちなく、互いの顔をうかがっている。
これから売られる少女に、どう接すればいいのか分からない。次は自分かもしれない――そんな不安が、沈黙となって滲んでいた。
それでも、来てくれただけで十分だった。
赤い髪の少女は、そっと手を差し出す。
少女が提案した遊びは、後に Ring-a-Ring-o’ Roses と呼ばれるものに近い。
輪になって歌い、歌の終わりにリーダーの指示で動く――遅れた者が負けという、単純な遊びだ。
差し出された手から、一人、また一人と、恐る恐る手が重なる。
やがて、大きな輪ができた。
少女の胸の奥で、昨晩の記憶が再生される。
耳元で告げられた、パチュリーの言葉。
——私が雨を降らせてあげる。
御伽話みたいに、馬鹿馬鹿しい。
せっかくの助けを断られた腹いせの、冗談かもしれない。
それでも、信じてみたくなる何かが、あの友人にはあった。
——そのためには、十人以上で輪を作る必要があるの。
自分を含めて、ぎりぎり十人集まったのは、幸運だった。
後はもう、友人を信じ切るしかない。
どうせ、失うものなんて、もう残っていない。
少女は、息を吸い、歌い始める。
それは、創造主に捧げる感謝の歌だった。
「♪ Praise the Lord, Praise the Lord ♪」
最初は、一人きりの、ぎこちない声。
だが、次第に歌は輪の中に満ちていく。
声と声が重なり、歌声が広場に広がっていった。
「♪ From tales of noble and beautiful humans and spirits, God taught me dreams ♪」
その頃、風が変わった。
ひゅう、と冷たい空気が頬を撫でる。
「……雲?」
誰かの呟きに、視線が空へ向く。
青空の端に、薄灰色の影が滲み始めていた。
「♪ Illusions shone bright within our hearts ♪」
雲は、確実に数を増していく。
広場を照らす光が、目に見えて弱まった。
「♪ Praise the Lord, Praise the Lord ♪」
空はすでに雲に覆われ、曇天と呼んで差し支えない。
見上げる村人の目に、期待の色が浮かぶ。
「♪ Wishing you happiness, I offer these words of celebration ♪」
黒い雲が空を埋め尽くし、冷たい風が唸りを上げる。
そして、少女は最後の言葉を告げた。
「Jump!」
合図と同時に、子供達が一斉に跳ねる。
着地した、その瞬間。
——ぽつ。
頬に、冷たいものが触れた。
——ぽつ、ぽつ。
そして。
ざああああ、と、世界が音を立てて崩れ落ちる。
「雨だ!」
「降ってきたぞ!」
「桶を出せ!」
「壺もだ!水を入れられるもの全部だ!」
「急げ!」
大人たちが叫び、走り回る。
村は一気に混乱に包まれた。
呆然と立ち尽くす人買いを、誰も気に留めない。
少女は、広場の中心で空を見上げていた。
目を閉じ、雨粒を全身に受け止める。
髪を濡らすその感触は、あまりにも優しかった。
その混乱の中、パチュリーは広場の端に立っていた。
向かい合うのは、村長。
「……雨が降りましたね」
雨音に埋もれない、静かな声。
「あの子は、どうなりますか?」
村長は空を仰ぎ、しばらく黙ってから答えた。
「……様子見だな」
パチュリーは、少女の方を見た。雨に濡れた赤い髪は流れる血のように艶やかだった。
パチュリーはそれを、とても美しいと思った。
雨は一週間、降り止まなかった。
◇
雨が止んだ翌朝、パチュリーは村を後にした。
山へと続く細い道を歩きながら、背後で徐々に小さくなっていく村を振り返ることはしなかった。振り返らなくても、もう十分に見届けたと思えたからだ。
長すぎるほどの雨は、確かに村人たちの態度を変えた。
枯れた井戸に水が戻り、地面は黒々と湿り、村長はついに「様子見」を「中止」に言い換えた。人買いは不満げな顔を隠そうともせず、だが逆らう理由も失って、馬車に乗って帰っていった。
雨の間、パチュリーは教会に留まり続けた。
朽ちた床に散らばる魔導書を読み漁った。棺桶の上でページを捲ることが、いつの間にか習慣になっていた。
そして、夜ごとに少女はやって来た。
小さな包みに入ったパンを、今度は遠慮なく受け取った。
相変わらず不味いパンだったが、毎日食べていれば不思議と慣れてくる。味覚が順応したのか、或いは別の何かが上書きしたのか分からなかった。
「ねぇ、パチュリーさん」
ある夜、少女はぽつりとそう切り出した。
「パチュリーさんって……その、もしかして……」
パチュリーが顔を上げると、視線がぶつかった。
そこにあったのは恐怖ではない。純粋な憧れだった。
しかし少女は、すぐに目を伏せた。
「……やっぱり、なんでもないです」
パチュリーは、ページに視線を戻しながら告げた。
「賢明ね」
ほとんど答えのようなその言葉に、少女がどんな表情を浮かべたのかは分からない。
けれど、それ以降も態度が変わることはなかった。距離も、声の調子も、パンを差し出すときの手つきも。
その姿を思い出すと、不思議と胸が暖かくなった。
教会で過ごした夜を思い返しながら歩く山道は、雨を吸った土の匂いを濃く残していた。
——これで終わり。
そう思えるだけの満足感が、胸の奥にあった。やり遂げた、そんな静かな達成感だった。
この村に来て、良かったと思う。
沢山の本に出会い、初めて本当の意味で"魔法"を知った。
少女との関わりの中で、その"使い方"も学んだ。
目の前に、魔女としての道が拓けたような気がした。
靴底に伝わる感触は柔らかく、歩くたびにくぐもった音がする。
ぬかるみに足を取られながらも、パチュリーの足取りは軽かった。
目的地のない旅路に戻ったというのに、心は妙に浮き立っていた。
ふと、道の端で光るものが目に留まる。
しゃがみ込んで拾い上げると、それは小さな石だった。
紫色。深く澄んだ色合いで、濡れた表面が淡く光を返している。
自分の髪と、よく似た色。
その瞬間、赤い石を思い出した。
最初の夜に渡された、小さな願いの塊。
あの時の、少し照れた笑顔まで、鮮明に蘇る。
「……ふふ」
思わず、口元が緩んだ。
返礼がまだだった。
あれほどの願いを預かっておいて、何も渡さずに去るなんて、どう考えても落ち着きが悪い。
それに——。
この石を渡したら、少女はどんな顔をするだろう。
驚くだろうか、喜ぶだろうか。それとも、また申し訳無さそうな笑顔を見せるだろうか。
そんなことを考えている自分に、パチュリーは内心で苦笑した。
ずいぶんと、人に情を移すようになったものだ。
まぁそれも、悪くない。
パチュリーは踵を返した。
村へ戻る道は、ほんの少しだけ遠く感じられたが、足は自然と速まった。
理由は明白だった。
少女の顔を、早く見たかった。
軽い足取りのまま、村の端の少女の家に辿り着く。
見慣れた扉。小さく、歪んだ木製のそれ。
ノックをしようとして、やめる。
昼間だ。返事を待つ必要はない。
少女が教会にやって来る時だって、いつの間にかノックは省略されていたし、自分も鍵をかけなくなっていた。
——私達はもう、そういう間柄なのだ。
その事実が、少しだけ可笑しくて、胸の奥が温かくなる。
ふふっと、小さな笑いが漏れた。
あの父親が吃驚するかもしれないが、自分の娘を売ろうとした奴の事情なんて、知るもんか。
パチュリーは扉に手をかけ、押し開いた。
その瞬間、鈍い音がして、何かが足元に転がった。
視線を落とす。
赤い髪をした少女の首が、そこに転がっていた。
◇
赤い髪の首を、パチュリーは見下ろしていた。
瞬きの仕方を忘れたように、ただ、そこにあるものを視界に収め続けている。
悲鳴は出なかった。
涙も、怒りも、恐怖すらも。
それらが生まれる前段階。
現実を理解するための思考が、完全に停止していた。
これは、何だ?
一体、何が起きている?
頭の中で言葉を探そうとするたび、指の隙間から零れ落ちるように、意味が掴めない。
「……どうして?」
喉の奥が引き攣り、かろうじて音だけが転がり落ちた。
問いは、首に向けたものか、それとも自分自身に向けたものか、分からなかった。
返事は、家の奥から届いた。
「そりゃあ、決まってるだろうが」
低く、湿った声。
はっとして視線を上げると、薄暗い家の奥に、数人の男たちが立っていた。
その輪の中に、少女の父親もいる。
机の上を見て、息を呑む。
乱雑に掛けられた布の上に、首と泣き別れた少女の胴体が横たえられていた。
理解が追いつくより先に、胃の奥がひっくり返る。
視界がぐらりと揺れ、床が傾いたように感じる。
斧を持った男が、一歩前に出た。
くじ引きの時、少女たちを並ばせていた男だった。
その斧から、血が滴っている。
床に落ちる音が、異様に大きく響いた。
男は、血のついた刃先で、少女の首を指した。
「お前も見てただろ。そのガキは、雨を降らせた」
——何を、言っている?
パチュリーの頭が、じわじわと混乱で満たされていく。
雨を降らせたのは、自分だ。
間違いなく、自分がやった。
だが、降らせたから、どうした。
降ったから、何だというんだ。
「魔女だったんだよ」
言葉が、脳裏で反響する。
——魔女。
その単語が意味を結ぶ前に、背筋が冷たくなった。
理解した。
つまり。
——少女は、自分の代わりに。
別の男が、事務的に続ける。
「魔女を村に置いておくわけにはいかねぇ。それに……魔女の肝は高く売れる」
声に、感情はなかった。
作業手順を確認するような口調。人間のそれとは思えなかった。
パチュリーは、縋るように少女の父親を見た。
「……あなたは、それでいいの……?」
声が、震えていた。否定して欲しかった。
父親は、唾を吐くように答えた。
「まさか自分のガキが魔女とはな。まぁ、肝が売れりゃこの村は三年は潤う。俺は一生遊んで暮らせる」
耳鳴りがした。
世界が遠のく。
信じたくない、ではない。
信じるという行為そのものが、馬鹿らしくなった。
言葉を失ったパチュリーに、斧を持った男が近付いてくる。
血と鉄の匂いが、否応なく鼻を突いた。
「せっかく、部外者のお前が出て行くのを待ってたってのによ」
男の影が、覆い被さる。
「戻ってきやがって……運が悪かったな」
斧が、高く掲げられた。
「口封じだ」
理解するより先に、体が反応した。
後ずさり、避けようとして、足が縺れる。
どさり、と尻もちをついた。
次の瞬間。
ぐしゃり。
鈍い衝撃と、焼けるような痛みが、額を貫いた。
視界が一気に赤く染まり、温かいものが頬を伝う。
血だ。
世界がぐるりと反転する中、男がとどめを刺そうと、再び斧を振り翳す。
その光景を見た瞬間、胸の奥で何かが、音を立てて切れた。
「……っ!」
声にならない音と同時に、魔力が爆ぜた。
空気が破裂し、衝撃波が走る。
斧の男の身体が宙を舞い、机に叩きつけられた。
一瞬の静寂。
男たちの視線が、一斉にパチュリーへと集まる。
「……そうか」
「お前が、魔女だったか」
その声に、恐怖はなかった。
あるのは、納得と、次の手順を決めた目。
殺される。
パチュリーは、立ち上がり、走った。
「追え!」
怒号と足音が、背後から迫る。
視界は揺れ、呼吸は乱れ、血が目に滲む。
それでも、足を止めなかった。
教会の扉が、前方に見えた。
◇
縋るように教会の中へ滑り込んだパチュリーは、内側から鍵をかける。
内鍵を落とした瞬間、パチュリーの足から力が抜けた。後ろから、力任せに扉を叩く振動が背中に響く。
背中を扉に預けたまま、ずるずると床に崩れ落ちる。
「……っ、は……」
息が、うまく吸えない。
喉の奥がひくりと引き攣り、空気が途中で詰まる。
ごほ、と短く咳き込む。
次の瞬間、胃の奥から込み上げてきたものに、思わず前屈みになった。
「……う、っ……」
吐瀉物は出なかった。
代わりに、苦い唾液と、鉄の味が口に広がる。
——血だ。
額から垂れた血が、唇に触れていた。
床に落ちる赤い雫を、ぼんやりと見つめる。
その色は、あまりにも見慣れた色だった。
赤い髪。
赤い石。
そして、赤く濡れた床。
「私の、所為……?」
声は、掠れていた。
自分が、村に来なければ。
自分が、雨を降らせなければ。
自分が、あの子に関わらなければ。
「……馬鹿ね」
自嘲が、喉を焼く。
魔法で救ったつもりでいた。
雨を降らせ、運命を変えたつもりでいた。
だが現実はどうだ。
救われたのは村で、殺されたのは少女だった。
「どうして……」
問いが、何度も頭の中を巡る。
どうして、あの子だった。
どうして、あんなに優しい人間が。
何も奪わず、何も求めず、自分を犠牲にして誰かのためにパンを運ぶようなあの少女が。
——どうして、死ななきゃいけなかった?
胸の奥で、何かが歪む。
それは悲しみでは無かった。
激しい怒りだった。
「こんな村……!」
歯を食いしばる。
思い出されるのは、雨に歓声を上げる大人たちの顔。
桶を抱え、空を仰ぎ、恵みだと叫んでいた声。
最初からもう、決まっていたのだ。
水が戻ればいい。
土地が潤えばいい。
——そのためなら、子供一人くらい。
「……吐き気がする」
パチュリーは、ふらつく身体で立ち上がり、棺桶の前まで歩いた。
少女と時間を過ごした思い出に縋りたかった。
古い木箱。
祈りの象徴であるはずのそれが、今はひどく歪んで見える。
棺桶に手をついた瞬間、再び咳き込んだ。
赤黒い血がボタボタと棺桶に溢れる。
「……っ、ごほ……っ」
背中が丸まり、肩が震える。
涙は出なかった。
代わりに、胸の奥が、空洞のように冷えていく。
「……何が"魔法"だ。何が"魔女"だ」
自分はこんなにも、無力じゃないか。
救うなら、最後まで救うべきだった。
中途半端な奇跡など、希望ではない。
ただの餌だ。
「……許さない……」
誰に向けた言葉かは、自分でも分からなかった。
村か。
男たちか。
それとも、自分自身か。
棺桶の前で、パチュリーは俯いたまま、息を整えようとする。
しかし、呼吸は浅く、胸は苦しい。
その時。
——ぎし。
木の軋む音がした。
パチュリーは、顔を上げた。
棺桶の蓋が、ゆっくりと——内側から、動いていた。
◇
「……ふぁ」
ひどく気の抜けた声だった。
死と怒号と血の臭いが渦巻くこの場に、あまりにも不釣り合いな音。
棺桶の蓋が内側から押し上げられ、水色の髪の少女がゆっくりと上体を起こした。
大きく背を反らし、腕を伸ばす。
関節が鳴る音が、生々しく響いた。
「よく寝たわ……あら?」
眠たげに瞬いた赤い瞳が、当惑するパチュリーを捉えた、その瞬間。
——ドンッ!!
轟音と共に、教会の扉が内側へ吹き飛んだ。
木片が弾丸のように飛び散り、男たちが怒号と共に雪崩れ込んでくる。
「そこだ!!」
「逃がすな!!」
目をぎらつかせた男たちの中から、斧を持った男が飛び出した。
昏倒から復帰したばかりらしく、足取りは荒いが、殺意だけは真っ直ぐだった。
一直線に、パチュリーに向かう。
パチュリーは息を吸い、反射的に魔力を練ろうとする。
しかし。
喉が焼ける。
肺が悲鳴を上げ、激しくむせ返った。
「っ……!」
視界がぶれる。
男が迫る。
こんなところで死ぬのだろうか。あの少女に何ら報いる事さえ叶わないまま。
痛む喉を押さえながら、目だけは閉じてやるもんかと斧を振り翳す男を睨み付ける。
「待ちなさい」
背後から、澄み切った声が落ちた。
次の瞬間。
——ぶつり。
音が、遅れて届いた。
男の首が宙を舞う。
噴水のように血が吹き上がり、首のない身体が二歩、三歩と進んでから、崩れ落ちた。
どさりと床に転がる音。
血が跳ね、壁を汚す。
教会の中が、一瞬で静まり返った。
「……待ちなさいと言ったはずよ、フランドール」
水色の髪の少女が、溜め息交じりに言った。
「だってぇ」
いつの間にか、パチュリーのすぐ前に、別の少女が立っていた。
蜂蜜のような金色の髪と甘い声。
棺桶の中には、二人いたのだ。
「お姉様が言うの、遅いんだもん」
赤い瞳が、楽しそうに細められる。
少女は、落ちてきた男の首を軽く受け止めると、ぽん、ぽん、と手のひらで弾ませた。
玩具で遊ぶ子供のようだった。
パチュリーの思考は、目の前に現実に追い付けない。
ただ、本能が理解する。
——これは、人間ではない。
それどころか、魔女であるパチュリーすらも超越している。
水色の髪の少女が棺桶から降り立つ。
一歩踏み出しただけで、空気が震えた。
見えない刃物を喉元に突き付けられたような緊張感。
「寝ながら聞いていたけど……金欲しさに魔女狩りとは、この村の連中は変わらないな」
呆れたような冷たい声。
その主は、パチュリーの隣に立ち、その顔を見上げる。
「私の名前は、レミリア・スカーレット」
幼い声。
だが、その名を告げるだけで、この場の主が誰かを理解させる響きがあった。
「吸血鬼よ」
レミリアは、パチュリーの額に流れる血を見つめて不敵に笑った。
「あなたの血で、目が覚めたわ」
そう言って、優雅に一礼した。
「礼をしなきゃいけないわね」
赤い瞳が、真っ直ぐパチュリーを射抜く。
目が合うだけで、心臓を掴まれたかのような恐怖に襲われる。
「何か、望みはあるかしら?」
パチュリーは、血に濡れた前髪を掻き上げた。指先が震えているのが分かる。
頭はまだ混乱の中にあった。
けれど、確信だけはあった。
——この二人なら、村のすべてを簡単に壊せる。
「……この村の人間を」
喉の奥から低い声が絞り出される。
これが本当に自分の声なのかと思った。
「皆殺しにして」
吸血鬼の唇が、愉快そうに歪んだ。
◇
赤い霧が、村を覆っていた。
血の色をした霧は、空気そのものを汚染するように立ち込める。それは太陽の光から吸血鬼を守る盾でもあり、人々を逃さない檻でもあった。
その中を、二つの影が自由に跳ね回っていた。
悲鳴が上がる。
直後に、途切れる。
誰かが逃げようとする。
次の瞬間、その影は地面に倒れ、赤い染みとなって広がった。
レミリアとフランドールは、壊していい玩具を与えられた子供のようだった。
「きゃははっ、もう壊れちゃった!」
「もう少し優雅にやりなさい、フラン」
軽い声。
笑い声。
それらは、叫び声と同じ重さで、空気に混じっていた。
パチュリーは、教会の入り口に立ったまま、それを眺めていた。
足は動かない。
止めようとも、逃げようとも思わなかった。
ただ、見ていた。
村が壊れていく様を。
人が、命が、音を立てて消えていく光景を。
不思議と心地よく、胸は静かだった。
——まるで、優しい夢の中にいるみたいだ。
現実感がない。
もし本当に夢なら、覚めなくてもいいとすら思った。
誰かが泣きながら祈る。
誰かが家族の名を叫ぶ。
誰かが許しを乞う。
それらすべてが、赤い霧に溶けて消えていく。
ひどく気分が良かった。
「……報告しなくちゃ」
ふと、パチュリーは呟いた。
あの赤い髪の少女に、教えてあげなければ。
——悪魔達はちゃんと、地獄に落ちるよ。
少女を売ろうとした悪魔達。
魔女と決め付け、殺した悪魔達。
子供達には罪は無いかもしれないが、所詮は悪魔の子だ。少女のような例外を除いて、同じく悪魔になるに違いない。
また、少女が殺される引き金を引いた自分も同罪で、やはり悪魔だろう。
いつかきっと、地獄に落ちる。
それを聞いたら、あの子はどんな顔をするだろう。
きっと、困ったように笑うんだろう。
少女の顔を思い描いたら、記憶が次々と浮かび上がってきた。
夜の教会。
小さな包み。
硬くて不味いパン。
それを差し出しながら、少し照れたように笑う顔。
そして、月明かりに照らされながら静かに激昂した姿。
——あの夜、彼女は何を望んだ?
パチュリーは、初めて強く、胸を押さえた。
息が、詰まる。
心臓が痛いほど強く脈打った。
この光景を、あの子は望んだだろうか。
違う。
あの子の望みは、こんな事では無かったはずだ。
——私は、とんでも無い思い違いをしていた。
パチュリーは、ふらふらと歩き出す。
赤い霧の中を進み、レミリアを見付けて背後に立った。
楽しげに血を浴びる、幼い吸血鬼の姿。
「……もうやめて」
声は、思ったよりもはっきり出た。
レミリアが振り返る。
赤い瞳が、不快そうに細められた。
「臆病風にでも吹かれたかしら?」
パチュリーは、ゆっくりと首を振った。
「違うわ。……夢から醒めたの」
近くにいたフランドールが、不満そうに口を尖らせる。
頭部の無い村長の首に、頭部しか無い孫娘を置いて遊んでいるところだった。
「えー、まだ全然残ってるのにー!」
「我慢なさい、フラン」
レミリアは、肩を竦めた。
そして大袈裟にため息を吐いた。
「仕方ないわ。依頼主がそう言うのだから」
そのたった一言で、殺戮は止んだ。
レミリアはつまらなそうに教会に引き返し、フランドールも文句を言いながらその背中を追った。
残されたのは、赤く染まった村だけだった。子供が泣く声が、やけに遠くに感じられる。
パチュリーは、その中心に立ち尽くした。
ここはまるで地獄だ。
けれど、この地獄の中で、また始めなければならない。
——私は、あの子の願いを叶える。
何があっても。
どれほどの時間がかかっても。
パチュリーは、胸の奥で、固く誓った。
◇
「あなたには、心底失望したわ」
吐き捨てるような声だった。その声の主、レミリアは小さな棺桶に腰掛け、頬杖をついていた。
幼い吸血鬼は、赤い瞳に露骨な倦怠を宿している。
「皆殺しを望んだ時には仲良くなれそうと思ったのだけど」
教会の中は、朝の光で満ちている。
白い石造りの壁、磨かれた床、天井近くで揺れる簡素な十字架。
五十年前、血と悲鳴に塗れた教会は、今や村の中心に移され、立派にその機能を果たしていた。
祭壇の前に立ち祈りを捧げる修道女は、静かに目を伏せている。
灰色のヴェールの下で、黒い髪が揺れた。
パチュリーの、姿を変える魔法は完璧だった。
旅の修道女に扮したパチュリーが村にやってきたのは、惨劇の直後だった。
呆然とする生存者の前に現れ、何も問わず、ただ手を差し伸べた。
食べ物を与え、金を出し、井戸を掘り直した。
祈りを教え、死者を弔い、生き残った者たちの話を聞いた。
いつの間にか、誰もが彼女を「聖女様」と呼ぶようになった。
その導きで、村は少しずつ息を吹き返した。
家が建ち、子供の笑い声が戻った。
教会もまた、村の中心部に建て直される事になった。
大きく減った人口も、五十年の時をかけて増え続け、今ではあの頃よりも多い。
それはまさに、聖女の奇跡だった。
その聖女が祈りを捧げる中、教会の扉がきしりと音を立てて開いた。
「失礼します……」
腰の曲がった老人が、一人の若い女を連れて入ってくる。
女の腕には、生まれたばかりの赤ん坊が抱かれていた。
小さな命は、眠りながら、かすかな声を漏らしている。
「聖女様……どうか、この子にお名前を」
それは、この村の習わしだった。
生まれた子供には、教会で名を授ける。
五十年かけて、パチュリーが作り上げた慣習だった。
パチュリーは赤ん坊をそっと受け取る。
温かい。
確かな鼓動が、小さな胸の内で脈打っている。
「……よく、無事に生まれてきましたね」
慈愛に満ちた、暖かい言葉。
赤ん坊の額に指を当て、名を告げる。
祝福の言葉を添えると、老人と女は何度も頭を下げ、感謝の涙を浮かべて去っていった。
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
「……滑稽ね」
姿を消していたレミリアが、再び現れる。
棺桶の上から軽やかに床に降り立った。
「あの老人、誰だと思う?」
パチュリーは答えない。
「覚えているでしょう。あの少女の父親よ。娘を売り、殺した男」
レミリアの声には、老人とパチュリー、双方に対する軽蔑が滲む。
「生き残って、新たに若い妻を娶って、子を成して、孫まで抱いた。それなのに……あなたは、よく笑っていられるわね」
パチュリーは、レミリアの方をゆっくりと振り返る。
あまりにも満面の笑みで、レミリアは思わずぎょっとする。
「これが、笑わずにいられるものかしら」
声は静かだった。
だが、その奥には底知れぬ狂気が沈んでいる。
「ようやく……本当に、ようやくよ」
パチュリーは天井を仰いだ。
「今の赤ん坊で、この村の人口は丁度、千人になった」
「……は?」
レミリアが眉をひそめた、その瞬間。
パチュリーはヴェールを外した。
紫の髪が、朝の光を受けてゆっくりと揺れる。
「あぁ……準備は全部、整った」
——光が弾けた。
パチュリーの足元から、脈動するような魔力の線が走り出す。
命を持つ蛇のように床を這い、壁を越え、扉を抜け、教会を起点に、村全体へと広がっていく。
家々の床、畑の土の上、金属加工所。人々の足元に、等しく魔法陣が刻まれていく。
外から、声が聞こえ始めた。
困惑の声。
悲鳴。
祈り。
怒号。
ある者は膝を折り、ある者は家族の名を叫び、ある者は何が起きているのか理解する間もなく、倒れ伏す。
命が、村全体から同時に引き剥がされていく。悲鳴は連鎖し、やがて、一斉に途切れた。
完全な、死の静けさが訪れる。
レミリアは周囲から命の灯火が潰えた事を、その肌で感じとる。
そして、ぱあっと顔を輝かせる。
「……っ、パチェ……!」
両手を叩き、心から楽しそうに笑う。
「あなた……最高よ!!村を丸ごと生贄にするなんて!!あなたは私の親友だわ!!」
狂気と歓喜が、赤い瞳に宿っていた。
そう、これは村に初めて訪れた夜に見つけた、多数の犠牲を前提とする禁術。
千人の命と引き換えに、たった一人を蘇らせる禁断の魔法。
この魔法の為に、パチュリーは憎しみを抑え、八つ裂きにしたい衝動を堪え、この村を育てあげてきた。
その五十年に渡る努力が、漸く報われる時がきたのだ。
パチュリーの脳裏に浮かぶのは、五十年前の夜の出来事。
あの時、少女は確かに願いを口にした。
——『まだ生きたい』
ならば、その願いを叶えよう。
光が収束し、村人達の命が教会の奥へと流れ込み、小さな棺桶に吸い込まれていく。
そして——。
蓋が、きしりと音を立てて開く。
中で、赤い髪の少女が、ゆっくりと目を開いた。
「ここ、は……?」
怯えた声。
その懐かしい響きに、パチュリーは胸が苦しくなる。
「えっと……あれ?私は……誰だっけ?」
少女は周りをキョロキョロと見渡し、自分の手を不思議そうに眺める。
人格は一緒でも、記憶がそのまま戻るわけではない。
魔術書で読んで分かってはいた。
それでもパチュリーは、名前を呼ばれることを期待していた。
そして微笑みを向けられることを。
けれど、そんな都合の良い奇跡は起こらなかった。
「まぁ、やっぱり、ね」
小さく息を吐く。
膝を折り、目覚めたての少女と視線を合わせる。少女の肩がビクンと跳ねた。
「大丈夫。怖く無いわ」
この魔法で蘇った存在は、人間でも妖怪でもなく、妖精に近い存在だという。けれど、そんな事はどうでも良い。
種族が何であれ、この子はこの子だ。
千人の命を奪った自分は、いよいよ本物の悪魔になってしまった。
この子は、悪魔達の命を糧に、悪魔によって生まれ直した、悪魔の子。
「……あなたの名前は、小悪魔よ」
頬に手を置き、名前を告げる。
暖かな体温を確かに感じられた。
この子は、小悪魔。悪魔である自分と寄り添っていく存在。
これから、連れて行ってあげられなかった場所に連れて行こう。
見せてあげられ無かった景色を見に行こう。
共に、うんと遠くまで。
それは17世紀のこと。後の世で産業革命と呼ばれる文化革新の始期にあたる頃である。パチュリーは英国の片田舎のごく平凡な家庭に生を受けた。
物心が付いた頃には、彼女はすでに自分が魔女であり、周囲とは異なる存在であることを自覚していた。
その認識を決定的なものにする出来事が起こったのは、彼女がまだ五歳の頃だった。
町の教会で、シャンデリアが落下する事故が発生した。讃美歌を歌って菓子を貰おうと集まっていた子供たちの頭上めがけて、ガラスの塊が容赦なく降り注いだ。居合わせた人々は、誰もがその先に訪れる惨状を思い描き、思わず目を覆った。
しかし、シャンデリアが子供たちの柔らかな頭を押し潰すことはなかった。
それは子供たちの頭上でぴたりと静止し、全員の避難が終わるのを待ってから、ゆっくりと床に着地した。
無論、パチュリーの仕業である。
彼女にとっては、ごく当たり前な行為に過ぎなかった。しかし人々は感涙し、天を仰ぎ、神を讃えた。その光景を目にして、パチュリーは自分の力はやはり異質であり、知られれば面倒であると確信した。
そんなパチュリー自身は、ただ平穏な生活を望んでいた。しかしその願いとは裏腹に、身体の奥底に渦巻く魔力は日を追うごとに膨張していった。一方で肉体の成長は十五歳頃から止まり、やがて飲食や睡眠すら必要としなくなった。
周りに合わせ、食事が出されれば口にし、夜になれば横になったが、空腹や眠気を覚えることはなかった。
両親のことをそれなりに愛していたパチュリーは、十八歳になる前に家を出る決意をした。田舎ではいまだ魔女狩りの気風が色濃く残っており、自分の存在が原因で両親に災いが及ぶことを避けたかったからである。
そうして彼女は町から町へと移り歩く生活を始めた。飲食も睡眠も必要としない身であれば、山奥に籠もる方が安全だったはずだが、不思議と集落を離れすぎると身体が重く感じられた。
町では歌を歌い、日銭を稼いだ。パチュリーが広場に立つと、整った容姿と魔法で調律された美しい歌声のおかげで、箱代わりの帽子はすぐにおひねりで溢れた。
必要なのは、夜をやり過ごす為の宿代と、季節ごとに新調する衣服代だけだったので、金は貯まる一方だった。余った分は宝石に換え、持ち歩いた。
だが、歌えばすぐに話題になることは、彼女の悩みでもあった。魔女という身分上、目立ちすぎるわけにはいかなかったのだ。
その為、一つの町に長く留まることはせず、短い滞在を繰り返した。
そうして辿り着いたのが、彼女の生まれ故郷よりもさらに小さく、ひっそりとした寂れた村だった。
◇
「だ、大丈夫ですか!?……い、生きてますか!?」
そう言ってパチュリーの顔を覗き込んだのは、見た目は彼女とさほど変わらない年頃の少女だった。背中まで伸びた赤い髪が朝日に照らされ、燃えるように輝いている。
一方のパチュリーは、村の入口まであと一歩というところで力尽き、うつ伏せに倒れ込んでいた。徒歩で山を越えた疲労が祟り、持病の喘息の発作が出て身動きが取れなくなっていたのだ。
無論、人間ではない彼女は、しばらく休めば命に別状はない。しかし、赤い髪の少女がそんなことを知るはずもなかった。山菜採りのために山へ入ろうとした矢先、見知らぬ女が倒れていたのだから、慌てるのも無理はない。
少女は、パチュリーの喉から漏れるヒューヒューという呼吸音を聞き、生きていることにひとまず安堵したような顔をした。そして。
「お水を持ってきますね!」
そう叫ぶと、村の中へと駆けていった。パチュリーは声を出せないまま、赤い髪が遠ざかっていくのをただ見送った。
しばらくして戻ってきた少女の手には、小さな水瓶が抱えられていた。
「お水ですよー……聞こえてますか?」
耳元で寄り添うように囁かれ、パチュリーがこくりと頷く。少女は水瓶の口をそっとパチュリーの唇に当てた。
「ゆっくり飲んでくださいね」
言葉に従い、パチュリーは水を含む。飲食を必要としない身体ではあったが、差し伸べられた優しさは受け入れる事にした。家を出て二十余年を孤独に生きてきた彼女にとって、その優しさが臓腑に染み渡るように感じられた。
冷たい水が胃へと落ちていく感覚が、ひどく心地よい。
やがて呼吸が落ち着くと、パチュリーは静かに身を起こした。
「ありがとう。もう大丈夫よ」
そう礼を述べて立ち上がると、心配そうに見つめていた少女と並ぶ形になる。背丈は、パチュリーの方がわずかに高かった。
「本当に大丈夫ですか?」
「ええ。お水、とても美味しかったわ。何かお礼ができればいいのだけれど」
靴の中に手を入れかけると、少女は慌てたように両手を振った。
「いいんです、いいんです!」
その仕草があまりに素直で、パチュリーは思わず微笑んでしまう。胸の奥に、小さな灯がともったような気がした。
人を見て、こんなふうに温かい気持ちになるのは久しぶりだった。
「ところで、この村に何かご用ですか?」
少女の表情が、わずかに訝しげに変わる。感情がそのまま顔に出るところが、ひどく愛らしい。
パチュリーは、こうした場面のために用意していた嘘を口にした。
「地方風俗の研究をしているの。ここへは、その一環で来たわ」
その言葉を聞いた瞬間、少女の顔がぱっと明るくなる。
「それって、もしかして……ロンドンから来たんですか!?」
「ええ、まあ」
少女は今にも踊り出しそうに身体を揺らし、輝く瞳でパチュリーを見つめた。その羨望の眼差しがあまりに眩しく、パチュリーは思わず視線を逸らす。
実のところ、ロンドンへ行ったのは一度きりだった。それも人の多さに辟易し、すぐに別の町へ移ってしまった。
人間が住む場所ではあるのだろうが、魔女の住む場所ではない――そう思ったのを覚えている。
「ロンドンのお話、聞かせてください!」
「え、ええ?」
「その代わり、この村のこと、何でも教えますから!」
勢いのままに、少女はパチュリーの手を握った。包み込むような温もりに、パチュリーは思わずたじろぐ。久しぶりに触れた人間の体温が、懐かしく感じられた。
困ったことになった、とパチュリーは内心で思う。地方風俗の研究などと言ってはみたものの、偶然辿り着いただけの寂れた小村に、特別な興味があるわけではなかった。
だが、ここで断れば変に怪しまれるだろう。
「……それは助かるわ」
そう告げると、少女の顔に再び花が咲いた。手を引かれるまま村へと足を踏み入れながら、パチュリーは思う。
この強引さを、不思議と嫌だとは感じていない――と。
◇
パチュリーの目の前で、少女の身体が横に吹き飛んだ。
話は、十分ほど前に遡る。
村の中へ引き込まれたパチュリーが最初に案内されたのは、少女の自宅だった。
古く小さな建物で、家というよりも小屋と呼んだ方がしっくりくる。そこに父親と二人で暮らしているらしい。
親と一人娘という家族構成に、パチュリーは思わず懐かしさを覚えた。
しかし、宝物を披露する子供のように意気揚々と扉を開けた少女の表情は、その瞬間に凍り付いた。
扉を開けたまま硬直し、肩を小刻みに震わせながら、「……お、お父さん。仕事は……?」と、囁くような声を漏らす。
その視線の先には、げっそりと頬のこけた小柄な男が椅子に座っていた。三白眼で、睨みつけるような眼差しをしている。
少女の言葉から父親であることは分かったが、醸し出す雰囲気はあまりにも異質だった。牧歌的な少女とは正反対で、乾ききった砂漠のような印象を受ける。
自信の経験から優しさに満ちた家庭を想像していたパチュリーは、怯える少女の様子を見て、それが見当違いだったことを悟った。
「こんだけ水が無くちゃ、仕事になんねぇって帰されちまった」
男は吐き捨てるように言った。
「そ、そうなんだ……」
「で、そいつは誰だ」
鋭い視線が、少女の背後に控えていたパチュリーを射抜く。
「この人は、えっと……」
「パチュリーよ」
「そう、パチュリーさん。ロンドンから来たんだって」
少女の言葉に、男は興味なさげに鼻を鳴らした。だがその視線が、少女の手にした水瓶に移った瞬間、顔つきが変わる。
察した少女が慌てて背中に隠すが、すでに遅かった。
「お前、まさかそいつに水をくれてやったんじゃねぇだろうな?」
低い声に、少女の肩がびくりと跳ねる。男は立ち上がり、怯える少女に詰め寄った。荒い鼻息がかかるほどの距離で、
「どうなんだ、おい」
と問い詰める。
「……だって、倒れてたから……」
直後、男の拳が少女の横面を捉えた。
細身の身体は軽々と宙を舞い、鈍い音を立てて頭から床に叩きつけられる。
「てめぇ、この村の状況が分かってんのか!」
怒声が小さな家に響いた。少女は床に倒れたまま、唇から血を流し、
「……ごめんなさい」
と、か細い声で呟く。
男は容赦なく近づき、その腹を蹴り上げた。少女の口から、息が漏れるような苦悶の声が溢れる。腹を押さえ、顔を歪めて呻し声をあげる。
その姿にも構わず、男は再び足を上げた。
「――止めてください」
思わず、パチュリーが口を挟んだ。事情は分からないが、あまりにも度を越している。少なくとも、彼女の知る家族のコミュニケーションとはかけ離れていた。
「私が無理に頼んだんです」
「てめぇには関係ねぇ」
男は一瞥するだけで、冷たく言い捨てる。
「私が飲んだのだから、無関係ではありません。お金なら払いますから、もう止めてください」
怒気にまったく動じないパチュリーの様子に、男は一瞬、面食らったような顔をした。
そして乱暴に、「……高ぇぞ」とだけ吐き捨てた。
◇
少女の説明をまとめると、こうだ。
この村は地下水源に恵まれており、生活用水から飲料水までをそれに頼っていた。ところが、ここ数ヶ月間、まったく雨が降らない日が続いている。そのせいで、井戸から汲み上げられる水の量は日に日に減少している。
また、村では金属加工を主な産業としており、少女の父親もそれに従事している。しかし、仕上げの工程で大量の水を使用するため、最近は稼働状況も悪化している。
これまでは生活用水の廃水などを再利用して何とか凌いできたが、それも行き詰まりつつある。
土壌に恵まれず農作物の育たないこの村では、金属加工による稼ぎが途絶えることは死活問題だ。さらに短期的な問題として、このままでは近いうちに飲料水の確保すらままならなくなることが予想されている。
そのため、村中に殺伐とした空気が漂い、皆がぴりぴりしているのだという。
「それで、あれほど怒ったのね」
説明を聞き終えたパチュリーが言うと、少女は申し訳なさそうに肩を小さくすくめた。
今は少女の自宅を出て、村の状況を聞きながら要所を巡っているところだった。
とはいえ、人口が千人にも満たない小さな村なので、目ぼしい建物といえば集会所くらいしかない。
「あの……お金、すみません」
少女はおどおどと謝罪の言葉を口にする。その唇は腫れ上がり、痛々しかった。
少女の父親に請求された金額は、「高ぇぞ」という言葉どおりのものだった。パチュリーが先日まで滞在していた山一つ向こうの町では、十分の一の価格で買うことができた。
あまりにも暴利なその値段を聞いた少女は、一瞬だけ父親に抗議するような視線を向けたが、睨まれてすぐに目を逸らした。そして、パチュリーが躊躇いもなく支払うのを見て、今度は目を丸くした。
「いいのよ。たくさん持っているから」
「すごいですね……ロンドンの人は……。たぶん、私と同じくらいなのに」
尊敬の眼差しを向けられる。本当は倍以上生きてきたのだけれど、とは言えずに、パチュリーは微笑みで返した。
それから、自宅での一件以来すっかり元気をなくした少女に、パチュリーは村についてあれこれ尋ねた。実際のところ、微塵も興味はなかったが、話をすることで少しでも元気を取り戻してほしかった。
所々抜け落ちた村の歴史を一生懸命説明する少女を見て、パチュリーは何かしてやりたい気持ちになる。
意図せずとはいえ、随分と迷惑をかけてしまった。それに、これほど厳しい状況の中でも村外の人間に優しくできる少女の性分を、パチュリーは気に入っていた。
どうしたものかと考えているパチュリーの顔を、少女が覗き込んだ。
「ところで、パチュリーさん。今夜は泊まるあて、ありますか?」
言われて、はっとする。
何も考えていなかった。
「そうねぇ。この村は宿なんて……」
「ないですね……。本当は、私の家に泊めてあげられればいいんですけど」
あの父親の態度を見る限り、それは厳しそうだった。
山菜採りをやめて村の案内をすることを許してもらえただけでも、僥倖と言える。
もしかしたら、パチュリーと仲良くさせればまた金銭を取れると考えたのかもしれない。それならば、相場よりずっと高い金額を積めば、首を縦に振る可能性もある。
だが、そうすれば今度はこの少女が、申し訳なさに身を縮めて消えてしまいそうだ。
「外の人が来ることなんて滅多にありませんから。あ、でも。たまーに大きな町から来る偉い人は、村長の家に泊まりますね。私から村長に話してみましょうか?」
「構わないわ。旅をしているから、野宿には慣れているもの」
それは嘘ではなかった。
町から町へと放浪する中で、野外で夜を明かしたことは一度や二度ではない。喘息持ちとはいえ、根本的な頑丈さは人間を遥かに上回っている。野宿そのものは、まったく問題ではなかった。
それに、村の中でもひときわ小さい少女の家を見れば、その立ち位置も何となく想像がつく。
村長がどんな人物かは知らないが、彼女に頭を下げさせてまで宿を探させるのは、どうにも忍びなかった。
「そんな、駄目ですよ!もし野盗なんかに襲われたら、どうするんですか!」
少女は声を荒らげ、一歩踏み出す。
その必死さに、パチュリーは目を瞬かせた。
これでも魔女の端くれだ。戦闘経験は無いが、野盗程度なら何とかなるだろう。
軽く笑って受け流そうとしたが、少女は引き下がらない。このままでは、一軒一軒回って「泊めてあげてください」と頭を下げかねない勢いだった。
たまらず、パチュリーは話題を逸らす。
「あの建物は?」
目に付いた建物を指さす。
少女の自宅より少し大きく、そして明らかに古い木造の家屋。人の手が長く入っていない朽ち方をしていて、誰も住んでいないことは一目で分かった。
「あれは……確か、昔は教会だったらしいです」
少女はそう答えた後、「私も、あんまりよく知らないんですけど」と付け足した。
教会、と聞いて見直してみても、その名残はほとんど感じられなかった。
十字架もなければ、ステンドグラスらしきものもない。信仰の匂いは、とうに風化している。
だが、パチュリーはそれを見て、内心で小さく頷いた。丁度いい。
「あそこに泊まらせてもらうわ」
「え、あそこですか!?」
「誰かの許可が必要かしら?」
「そ、そういうわけじゃないですけど……鍵が掛かっていて、入れないんですよ」
少女はまた申し訳なさそうに視線を落とす。
まるで、この村で起こる不都合のすべてが自分の責任だとでも思っているかのようだった。
パチュリーは、短く息を吐く。
それは優しさというより、自己を削る癖に近い。
「まあ、とりあえず行ってみましょう」
「え、ちょっと……」
戸惑う少女を伴って元教会の扉の前に立つと、確かに無骨な金具が取り付けられ、立派な南京錠が掛けられていた。
小さな建物には不釣り合いなほど頑丈で、外の世界を拒む強い意志を感じた。
しかし、それは人間を拒むためのものだ。理を別とする魔女には意味を成さない。
パチュリーがそっと南京錠に触れると、鉄の輪は音もなく崩れ落ちた。
「……古くなっていたみたいね」
何事もなかったかのように言う。
背後で、少女が息を呑む気配がした。
そしてパチュリーが取っ手に手を掛けた瞬間、少女の顔からさっと血の気が引く。
「ほ、本当に開けるんですか……?」
「扉は、その為にあるものよ」
「でも、錠前はそうさせない為にあります」
「ええ。そうね」
一拍、間を置いて。
「――でも、錠前があったのは過去の話」
扉を押し開けようとしたその腕が、途中で止まる。振り向くと、服の裾を少女がぎゅっと掴んでいた。
少女は青ざめた顔で、ガタガタと震えていた。
「じ、実はここ……出るんですよ」
「出るって、何が?」
「だから、その……お化けが」
「お化け」という言い方が可愛くて、思わず吹き出してしまう。
すると少女は、ぐっと距離を詰めて真剣な顔を向けてきた。
「笑い事じゃないです!何人も聞いてるんですよ!夜になると、中から聞こえてくる物音を!」
幽霊なら歓迎だ。
人間より、むしろ同類に近い存在である。
気にも留めない様子のパチュリーに、少女は目を吊り上げた。
「本当にここはやばいんです!物音だけじゃなく、音楽を聞いたって人もいるんですよ!?」
芸能の心得がある幽霊なら、なおさら会ってみたい。
「あなたも聞いたことがあるの?」
「私が夜に近付くわけないじゃないですか!」
呆れたように叫ぶ少女。
まるで自分が阿呆なことを言っているかのような反応に、パチュリーは一瞬だけ言葉を失った。
釈然としないまま、取っ手を握る手に力を込める。
「それはさておき、開けるわよ」
「ひ、ひぃっ……!」
怯える少女を尻目に、ギィと木材が軋む音を立てて、扉はあっけなく開いた。
少女は慌てて服の裾から手を放し、両手で顔を覆う。
パチュリーはそれを横目で見て、もし本当にお化けがいるのなら、随分と無防備だと思った。ボディがガラ空きだ。
そして建物の中を見渡すと、確かに元は教会だったことが分かる。
奥には講壇があり、それに向かうように会衆席が並んでいる。
変わっているのは、大量の本が無造作に散らばっていることと――講壇の前に、大きな棺桶が転がっていることだった。
今のところ、幽霊の気配は感じられない。
「大丈夫よ。お化けはいないわ」
優しく声を掛けると、少女は恐る恐る腕を下げ、中を覗き込み――
「棺桶あるじゃないですかぁ!」
悲鳴に近い絶叫が上がる。
いたいけな少女には、いささか刺激が強すぎたらしい。
僅かに期待していた通りの反応に、パチュリーは小さく笑って中へ踏み入れた。
「ちょ、ちょっと、パチュリーさん!」
制止の声も聞かず、ずかずかと進んでいく。
少女は止めはするものの、追ってこようとはしない。
「先ほど、あなたは言ったわね。錠前は、扉を開けさせない為のものだって」
「えっと……はい」
「それじゃあ、座る為のものは何かしら?」
「……椅子、ですか?」
突然の禅問答のような問いに、少女は戸惑いながら答える。
パチュリーは満足げに微笑むと、棺桶の前に立ち、少女を振り返った。
そして、そのまま腰を下ろす。
「そう。だからこれは――ただの椅子よ」
棺桶に腰掛けて笑うパチュリーに、少女は言葉を失う。
パチュリーが手招きすると、へなへなと力の抜けた笑顔を浮かべた。
「……ははは。なんだか、私も怖がるのが馬鹿らしくなりました」
そう言って、教会の中に足を踏み入れる。
足はまだ震えていたが、一歩一歩、確かに前へ進み、無事にパチュリーの前まで辿り着いた。
パチュリーが隣をぽんぽんと叩く。
少女は一度大きく息を吸い、えいや、と意を決して腰を下ろした。
「よく頑張ったわ」
「……えへへ」
二人で笑い合う。
「……ロンドンの人は、怖いもの知らずですね」
「都会では、棺桶に座るのが流行っているのよ」
「絶対、嘘だ」
また、笑い声が重なる。
今日会ったばかりだというのに、ずっと前から知っていたような、不思議な感覚があった。
パチュリーは名前を呼ぼうとして、まだ知らない事に気付く。
尋ねると、少女は答えた。丘に揺れる花のような名前だった。パチュリーは、素朴で素直な少女によく合っていると思った。
やがて、少女がそっと口を開く。
「ねえ、パチュリーさん」
「なにかしら?」
「私に……ロンドンの話を聞かせて」
約束だったとはいえ、パチュリーは少し戸惑う。語れるほどの知識はない。
だが、少女の真っ直ぐな瞳を見て、断ることは出来なかった。
「そうね。例えば……」
数少ない実体験を軸に、文献や人づてに聞いた話を継ぎ足して語る。人間に混ざって生きる為に、他人の会話を盗み聞きしたり本を読み漁ったりしたのが功を奏した。
中にはパチュリー自身も真偽の怪しい話も混じっていたが、少女は一つも逃すまいと、目を輝かせて聞き入っていた。
両手ですくった水を零さないようにするみたいに、慎重に。
その姿を見て、パチュリーはもし妹がいたらこんな感じなのだろうかと思った。
それにしても、少女のロンドンへの憧れは相当に強いようだった。話すほどに元気になっていき、遠くでカラスが鳴く頃には、村に入った時の快活さをすっかり取り戻していた。
世界は夕焼けに染まりゆく中、遠くで鐘が鳴った。その音に、少女はハッと顔を上げた。
「ごめんなさい!まだ聞いていたいけど、帰ってご飯の用意をしなくちゃ」
少女がそう言い出して、パチュリーは内心ほっとする。
そろそろロンドンの話題も尽きかけていた。
家まで送ろうとすると、少女はここでいいと首を振った。
「本当に、ここに泊まるんですか?」
「ええ。風を凌げるだけ、外よりずっといいわ」
笑って答えると、少女も「分かりました」と微笑んだ。
そして、赤い髪を揺らしながら、それと似た色をした夕陽の中へ消えていった。
◇
「これは……とんでもないわね」
村中がしんと寝静まった頃、暗闇の中でパチュリーは小さく感嘆の声を漏らした。
人口が千人にも満たない狭い村だ。自分が来たことも、教会に泊まっていることも、とうに知れ渡っているだろう。
怪しんだ誰かが様子を見に来る可能性もある。昼間、少女に案内されて村を歩いた時も、向けられた視線は決して友好的とは言えなかった。
それを見越して、彼女は真夜中になるまで待ってから動き始めていた。
今、パチュリーの視界に広がっているのは、床や椅子の上に無造作に散らばる大量の本だった。
教会に入った時から、彼女の目を引いていたのは棺桶ではなく、この本の山だった。
印刷技術が普及してきた今でこそ、本はそれほど珍しいものではない。
だが、この教会が機能していたであろう年代を考えれば、これほどの冊数が一箇所に集められているのは明らかに異常だった。
そして、何より――その内容。
表向きは宗教書が大半を占めている。だがそれは、偽装に過ぎなかった。
魔女には分かる、魔女にしか分からない術式が施されている。魔力を通して頁をなぞると、聖句の裏側から、まるで別の文字列が浮かび上がってくる。
つまるところ、それは魔術書だった。
しかも、相当に高度なものばかりだ。
容姿を変える魔法、ひよこを一晩で鶏に成長させる魔法、人を眠らせる魔法。さらには、多数の犠牲を前提とした禁術の類まで――様々な魔法が、無造作に放置されている。
魔女ではあるが、本格的な魔法の勉強をした経験を持たないパチュリーにとって、それはまさしく宝の山だった。
物を止める、壊す、魔力をぶつけるといった単純な物理干渉は自然と出来たが、何かを作ったり、変質させる類の複雑な魔法は知らなかった。
だからこそ、密かな憧れを抱いていた。
朝になれば村を出るつもりでいたが、理由を付けてしばらく滞在するのも悪くない。そう思えてしまう。
さて、何から読もうか。
視線を巡らせて――見つけた。
少女に村の話を聞いた時から、もしあればと思っていた魔法。
パチュリーはその魔導書に手を伸ばし、静かに頁を捲った。
その時、扉の方から、コツンと小さな音がした。
顔をあげるが、気のせいかと思い再び視線を落とす。
するとまた、コツン、コツンと音がした。
はぁ、とため息が漏れる。
邪魔をするなと思いながらも、仕方なく魔導書を閉じ、扉へ向かう。
来訪者に心当たりはあった。
――あれだけ怖がっていたのに、ずいぶん立派になったものだ。
内鍵を外し、扉を開けると、やはりそこには赤い髪の少女がいた。
「ごめんなさい……寝てました?」
小さなランプを揺らしながら、申し訳なさそうに笑っている。
もう片方の手には、小さな包み。
「ご飯、食べてないですよね?こっそり持ってきちゃいました」
その言葉で、すっかり忘れていたことに気付く。
飲食は必要ないが、何も口にしなければ不自然だ。
「ありがとう。いただくわ」
そう言って中へ招き入れる。
灯りは少女の持ってきたランプだけ。二人で棺桶に腰掛けた。
棺桶に辿り着く途中、パチュリーはわざと本に足を取られてみせた。夜目が利く彼女にとっては問題の無い暗さだが、ささやかな人間アピールだった。
隣合わせになって棺桶の上で包みを開く。中に入っていたのは硬そうなパンだった。
それを見た瞬間、胸の奥がじんわりと痛む。
村の状況を知っていれば、この一切れがどれほど貴重かは想像に難くない。
そして、少女がそれをどうやって持ってきたのかも。
これは、自分が食べるべきものではない。
「あまりお腹が空いていないの。半分ずつにしましょう」
そう言って、パンを手で割ろうとする。
だが思った以上に硬く、南京錠を壊すよりむしろ手こずった。
ようやく二つに割れたパンを見比べて、パチュリーは大きい方を少女に差し出した。
自分に向けられたパンを見て少女の瞳が一瞬だけ輝き、すぐに赤くなって首を振る。
その仕草を見たパチュリーは、失敗したことを悟る。
自分が見透かしたように、少女もまた、こちらの意図を見抜いたのだ。
優しさを示したつもりで、優しさを否定してしまった。
「……ごめんなさい。いただくわ」
パンを齧る。
硬く、ぼそぼそとして、口の中の水分が奪われる。
かつて故郷で食べたパンも決して上等では無かったが、これはそれとも比べものにならない。
正直、吐き出したくなる味だった。
それでも無理に飲み込み、笑顔を作る。
「美味しいわ」
少女と目が合い、そして俯かれる。
――また、間違えた。
そりゃそうだ。あまりにも分かりやすい嘘だ。このパンが美味しいわけがない。
見え透いた情けで、少女を惨めにさせただけだった。
それでは、何と言えば正解だったのか。
答えの出ない問いを抱えたまま、不味いパンをせっせと口に運ぶ。
その時間は、地獄のようだった。
家を出てからというもの、歌を聞かせて金を得る以外、人とまともに接してこなかった。正しい関わり方が、すっかり分からなくなっていた。
最後の一欠片を無理矢理飲み込み、パチュリーは少女の手に、そっと自分の手を重ねた。
上手な取り繕い方が分からないから、せめて可能な限り本心で向き合おうと思った。
「ご馳走様。それと、ごめんなさい」
少女は驚いたように顔を上げ、不思議そうにパチュリーを見つめる。
「不用意に嘘を吐いて、ごめんなさい。本当はとてもお腹が空いていたし、全然美味しくなかった」
パチュリーは、一つ嘘を吐き、一つ本当のことを言った。自分なりの「正しい答え」だった。
一瞬の沈黙の後、少女はぷっと吹き出した。
「パチュリーさん、急に正直過ぎです」
そう言って、はにかむように笑う。
その笑顔を見て、パチュリーはようやく胸の奥の力を抜くことができた。
同時に、まだ残る後ろ暗さに小さく目を伏せる。
「けど、とても嬉しかった。ありがとう」
それは紛れもない本心だった。
おそらく少女は、自分の食事を削ってパンを持ってきてくれた。
それを目にした瞬間、申し訳なさと同時に、胸が震えるほどの温かさが込み上げた。乾いた土に水が染み込むように、少女の優しさはパチュリーの心に浸透した。
パチュリーの言葉に少女は照れくさそうに頬を掻き、おずおずと口を開いた。
「また……お話、聞かせてくれます?」
「ロンドンの話?」
「ここじゃないところなら、どこでも」
その言葉に、パチュリーは内心で大きく息を吐いた。
ロンドンに限らないなら、いくらでも話せる。
パチュリーは実際に見た景色や、立ち寄った店の話を語った。途中、「あんまり何を食べたって話しませんね」と言われて一瞬言葉に詰まった。なんとか、「食に興味が無いのよ」と誤魔化した。
少女は洋服店の話を特に気に入ったようだった。
大きな町で見た奇抜な衣服の話に、その目を爛々と輝かせた。
年頃らしいその反応が、パチュリーには微笑ましく思えた。
やがて一段落すると、少女は小さく息を吐き、背筋を伸ばす。
そして、意を決したようにパチュリーを見た。その瞳が、緊張により細かく揺れる。
「ねぇ、パチュリーさん」
「何かしら?」
ゴクリと、生唾を飲み込む音。
「私を……外に連れて行ってくれませんか?」
パチュリーは、深く息を吐いた。
少女にそういう願望がある事は、話の端々から感じ取れていた。
少女は村の外、とりわけロンドンに強い憧れを持っている。
また、開け広げた窓のような風通しの良い性格も、閉鎖的な田舎の小村では浮いてしまうだろう。
孤立する姿が、容易に想像できた。
理解はできる。憐れみもある。
だが、連れていくことはできない。
魔女と共に生きるということは、光の当たらない道を延々と歩くということだ。この村にいても日の目を見る事は無いだろうが、それ以上の日陰者として生きる事になる。
優しい彼女に、そんな生き方を背負わせることはできなかった。
「ごめんなさい。できないわ」
そう言うと、少女は食い下がることなく笑った。
「……ですよね」
小さく呟く。そして、懐から何かを取り出し、パチュリーの手に置いた。
ランプにかざすと、それは深紅の石だった。
おそらく宝石ではないが、灯りを乱反射するその石は幻想的な美しさを纏っていた。
「綺麗でしょう?」
少女は自慢げに笑う。
「山で拾ったんです。たぶん、ただの石ですけど。私の髪と同じ色で、気に入っちゃって」
その髪が、ランプに照らされて儚く揺れた。パチュリーはそれを石と同じくらい美しいと思った。
けれど、何故だかその言葉は口にできなかった。
「それを……私の代わりに、連れて行ってくれませんか?」
最初から分かっていたのだろう。
一緒に村を出る事なんて叶わない事を。
だからせめて、この小さな石に願いを託そうというのだ。
パチュリーは、その健気さを拒むことができなかった。
「承ったわ」
「約束ですよ」
「ええ、連れて行くわ。うんと遠くまで」
パチュリーは深く頷き、石を握り込む。そして割れないよう丁寧に布で包み、鞄にしまう。
その仕草を、少女は満足そうに見つめていた。
その後も二人はポツポツと会話して、少女は夜が明ける前に帰っていった。
パチュリーは、「また来ます」と言うその少女に、朝食も昼食も不要だと念押しするのを忘れなかった。
そして少女の影を見送った後、「また」が来るのを楽しみに思う自分に気が付いた。
◇
翌日の昼過ぎ、教会に現れた少女は小さく震えていた。
元々白い顔が青ざめて、まるで少女自身が幽霊になってしまったかのようだった。
ぎょっとしたパチュリーが何があったのかと訊くと、少女はその胸に飛び込み、わんわんと声をあげて泣き始めた。
取り留めもなく溢れる言葉を繋ぎ合わせていくと、彼女は町に売られることになるらしい。
どうやら水不足は少女が認識していたより逼迫しており、すぐにでも手を打たなければいけない状況にあったようだ。
その中で、村の大人たちは遂に一つの「解決策」を選び取った。
それは、子供を町へ売り、その金で水を買うことだった。少年より少女の方が高値で取引される為、先に売られるらしい。
その中でも順番は子供自身がくじを引いて決めるという。
くじ引き大会は村長の家の前で行われ、その記念すべき第一回が、今日の夕刻に予定されているとのことだ。
すでにブローカーとは話がついており、一人売れば三日分の水が買えるという。
つまり、水不足が解消されるまで、三日に一人ずつ子供が消えていく計算になる。
口減らしと水の調達を同時に叶える、あまりにも効率的で、狂った方法だった。
恐怖と絶望に声を詰まらせる少女の頭を撫でながら、パチュリーは怒りに身を震わせた。
幼い少女がどこへ送られ、何をさせられるのか。想像するまでも無かった。
自分の子供を、そんな場所へ差し出す親が存在する。それを「仕方ない」と受け入れる大人たちがいる。
これが人間かと、失望が胸を満たす。
この種族の血が自分にも流れていると思うと、吐き気すら覚えた。
少女の為にと村を救う方法を考えていた自分が、急に馬鹿らしくなった。いっそ滅ぼしてしまおうか、そんな考えすら頭をよぎる。
だが、それを少女が望むはずもない。
結局パチュリーにできたのは、少女が泣き止むまで、その頭に手を置き続けることだけだった。
◇
夕刻。
少女の強い願いで同席したパチュリーは、自分がいかに場違いな存在であるかを嫌というほど自覚していた。
余所者が混じることを、村人たちは誰一人として歓迎していない。
反対の声は次々に上がったが、パチュリーはそれらをすべて無視して居座った。
地方風俗の研究のために訪れており、とある貴族の認証を受けている――そう書かれた証書を示すと、大人達も認めるしか無かった。
その証書は覚えたての魔法で捏造したものだったが、田舎村の人間に真偽を見抜く術はない。
人身売買が倫理に反する行為であっても、違法ではない。知れ渡ったとしても、罰せられるわけではない。
それもまた、渋々ながらパチュリーの同席を認めた理由だった。
「いいか。繰り返すが、一人ずつ順番にくじを引く。先端が赤いものが“当たり”だ。当たりが出た時点で、残った奴は引かなくていい」
短く刈り上げた髪の男が、藁の束を掲げて告げる。
藁は二十本。
その前で横に並ばされている少女の数も、二十人。
年齢は全員、十五前後。
一様に青白い、浮かない顔をしている。
「さあ、誰から引く」
男が促すが、誰も動かない。
互いに牽制し合い、沈黙だけが重く垂れ込める。それも当然で、誰しもが進んで危険に飛び込む勇気を持っているわけではない。
「今引けば、当たりは二十分の一だ。残れば残るほど、確率は上がるぞ」
その言葉に押されるように、一人の少女が前へ出た。そばかすの目立つ、考えの浅そうな少女だった。
そばかすの少女は無言のまま、震える手で藁を掴み、引き抜く。
——外れ。
少女は安堵し、歓声を上げた。
それを合図にしたかのように、次々と少女たちが前へ進む。
外れ。
また外れ。
またまた外れ。
泣き崩れる者、座り込む者。外れを引いた少女はそれぞれ全身で安堵を表現した。
そうして数は減っていき、残るは二人だけになった。
パチュリーのよく知る赤い髪の少女と、もう一人。そのもう一人は、村長の孫娘であった。 意地悪そうな顔をして、腕を組んで仁王立ちしている。
「さあ、どちらから引く」
男が問う。
村長の孫娘は余裕の笑みを浮かべ、「どうぞ」と譲った。
赤い髪の少女が、ふらつきながら前へ出る。
額に冷や汗をかき、今にも倒れそうな顔色だった。
震える指で、藁を掴む。
その瞬間、背後にいるパチュリーと、藁を持つ男の目が合った。
パチュリーが睨みつけると、男は気まずそうに視線を逸らした。
少女は目を閉じ、藁を引き抜いた。
――会場にどよめきが走った。
少女は結果をすぐには見られず、ゆっくりと、恐る恐る目を開いた。
藁の先端を見つめ――そして、崩れ落ちた。
安堵ではなく、絶望で。
力なく手から溢れたその藁の先端は、彼女の髪と同じ色に染まっていた。
◇
その晩、少女はぼうっと月を眺めていた。
村はすっかり寝静まり、父親も隣の部屋で寝息を立てている。
"当たり"を引いたあと、村長の家からどうやって帰ったのか、ほとんど覚えていない。
無理を言って付き添ってもらった村外の友人のことも、きっと放り出してしまった。
家に戻ると、いつもより少し豪華な夕食が用意されていた。
滅多に口にできないチーズ。それから初めて、ワインを飲む事を許された。
どちらも貴重なもののはずなのに、どこに隠していたのだろうと不思議に思った。
勿体なくて、ワインはほんの一口しか飲めなかった。
明日の朝、迎えが来るらしい。
それから自分は、どうなるのだろうか。
アルコールのせいか、思考がうまく回らない。
ただ、じわりと涙が滲んできた。
ずっと憧れていたはずの、村の外の世界に行ける。
それなのに、かび臭い部屋や、固いベッド、小さ過ぎる毛布がひどく愛おしく感じられる。
少女は首を振り、その感情を振り払った。
外の世界に行けるという事だけを考えよう。上手くいけば、ロンドンにだって行けるかもしれない。
そうやって、自分を慰める。
出来立ての友人から聞いた、外の世界の話を思い出す。
どれも眩しくて、胸が躍るものばかりだった。
深い海に沈んでいくようだった心が、ほんの少し浮かび上がった気がする。
もっとも、その海も見たことはない。でも、これから見られるかもしれないのだ。
無理矢理、胸に灯をともす。そして、ここから見る最後の月に別れを告げる。
昔から、村の友人達とは話が合わなかった。相談相手はずっと、この月だけだった。
「さような——」
言葉は途中で途切れた。
黒い影が、ぬっと視界を塞いだからだ。
驚きで声も出せずにいる間に、鍵をかけていたはずの窓が音もなく開く。黒い影が部屋に入り込んだ。
叫ぼうとした口を、即座に塞がれた。
「んーっ!」
「静かにしなさい」
囁くような声。
最近知った、透き通った声だった。
少女が暴れるのをやめると、手はそっと離された。
暗くて姿ははっきりしないが、月明かりに揺れる髪は、艶やかな紫色を帯びている。
「……パチュリーさん?」
小さく名前を呼ぶと、侵入者は緩やかに笑った。はっきり視認できたわけでは無いが、漏れる息や頭の動きで何となく画が浮かぶ。そのくらい、パチュリーは少女の心に浸透していた。
パチュリーは少女の手に、自分の手を重ねる。その指先はじんわりと汗ばんでいた。その手から、彼女自身の緊張が伝わってくる。
「逃げるわよ」
パチュリーの言葉に、少女の心は大きく跳ねた。
村の外に出る。
その時に隣にいるのが、見知らぬ男では無くパチュリーだったら。
それはどれだけ幸せな事だろうか。
その未来に待っているのは、黄金に輝く日々に違い無かった。パチュリーと顔を合わせて笑う自分の姿が脳裏に浮かんだ。それは大きな綿菓子に飛び込むみたいに、ふわふわして甘い誘惑だった。
しかし同時に、少女の心には別の映像も浮かんでいた。
自分以外の誰かが、連れて行かれる映像。身代わりになった少女は、嫌だ嫌だと泣き叫び、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしていた。
その叫び声が少女の心に突き刺さり、怨嗟の眼差しは胸を抉るようだった。
何故だか村長の孫娘で再生されたその映像は、少女の心を引き留めるには充分だった。
少女はパチュリーの手の中からそっと自分の手を抜いた。
「……できません。パチュリーさんに迷惑が掛かるし、私が逃げたら他の人が代わりに連れていかれます」
パチュリーは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに声を低くする。
「私の事は気にしなくていい。それにこんな村なんて、知ったことじゃないわ」
「私にとっては、知ったことです。くじで選ばれた以上、責任があります」
「あんなの、出来レースに決まってるでしょう」
呆れたように放たれるパチュリーの言葉に、少女は息を呑んだ。
「どうせ、くじを持つ手に染料の袋でも仕込んでたのよ。それをあなたの番で潰したの。あなたが"当たり"を引いた後、残った藁を随分と慎重にしまっていたわ」
「……そんな」
「権力者の血族を、最初に差し出すわけないでしょう?」
淡々とした声が、容赦なく現実を突きつける。
「買う側にしても、子供が一律同じ値段なんてあり得ない。当然、健康で容姿に優れた子は高いし、そうでなければ安い」
少女は、聞いている内に頭がくらくらする。 受け入れがたい現実が突きつけられるが、小さな部屋に逃げ場は無い。
「村としては、なるべく値段が高く、且つ卑しい者を先に売りたいはず。そうなると、最初に差し出される候補は……あなたしかいないのよ」
昨日来たばかりで、この村の何を知ったつもりかと言いたくなる。しかし、パチュリーの主張は筋が通っていた。
容姿についてはともかくとして、地方風俗を研究しているパチュリーから見れば、村で一番小さく、端にある家がどういう扱いを受けているかなんて、想像に容易いのだろう。
少女はぎゅっと唇を噛む。悔しさがこみ上げてくる。
「それでも、私が逃げたらお父さんが……」
「まだ分からないの?」
パチュリーは苛々を隠さなくなっていた。
「大人達の間で話は付いているのよ。分け前が多く貰えるとか、立場の改善とか条件は知らないけど。そうでなきゃ、こんなあからさまな出来レース、黙っていられる筈が無い」
パチュリーは、こんな事を言わせるなという風に苦虫を噛み潰したような顔をした。
そして、とどめの言葉を繰り出した。
「あなたは父親に売られたのよ」
言葉が、胸に叩きつけられる。
しばらく、何も言えなかった。
怒りも悲しみも、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、言葉にならない。腹の底で、悔しさがぐらぐらと煮えたぎる。
パチュリーはもう一度、少女の手を掴んだ。
先程よりも力強く、少女を導くように。
その手に引っ張られて、少女の身体が前に傾いた。
「理解したなら、行きましょう。外に見張りもいたけど、都合良く眠っていたわ。そういう運命なのよ」
パチュリーが窓に向かって足を向けた。けれど少女は、その場に立ち尽くしたままだった。
「何してるの?いいから、早く」
「……ごめんなさい。やっぱり行けません」
少女の言葉に、パチュリーは理解出来ないというような顔をした。
頭がおかしいと思われただろうか。それも仕方ないと思う。
「あなた……悔しくないの?」
パチュリーの声には、焦りと侮蔑が混ざっていた。
その言葉に、少女の肩がピクンと跳ねた。
——悔しくないかだって?
そんなもの、そんなもの……!
「悔しいに……決まってるじゃないですか!!」
抑えていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「仕組まれて!売られて!しかも親に!!それなのに……それなのに……!」
声を殺して泣き叫ぶ。
決壊した感情は、留まる事を知らない。
自分を助けようとする友人に、声を殺して当たり散らす。
「それでも、この村の人を……お父さんを、見捨てられないんですよ!!?そんなの、悔しくないわけ無いでしょうが!!!」
あまりにも、惨めだった。
外の世界に憧れて、村の人からは虐げられて、それでも捨てられなくて。
どこまでも弱く、情けない自分が嫌になる。
パチュリーは何も言い返さず、部屋に沈黙が落ちた。
やがて、パチュリーはゆっくりと手を離した。
少女は涙を拭い、震える声で尋ねる。
「ねぇ、パチュリーさん。私……売られたら、どうなるんでしょう?」
パチュリーは、しばらく答えなかった。
その沈黙が、何よりの答えだった。
「お願い。正直に答えてください」
「……大きな町に連れていかれるわ」
「それから?」
「名前を奪われて、働かされる」
声は低く、静かだった。
「運が良ければ給仕や掃除。そうで無ければ……娼館よ」
「……」
「身体を売らされる。休みも無いし、拒否権も無い」
「……」
「病気になって、使えなくなったら捨てられる。早ければ、三年も生きられない」
淡々とした言葉が、少女の心を切り裂いた。
少女は震えながら笑おうとする。
「……優しい人に引き取られる可能性は?」
「ないわ」
「……ロンドンに行けたり」
「まず無理ね。遠過ぎる」
涙が、止まらなくなる。
差し伸べられた手を振り払ってまで向かう場所は、どうやら地獄のようだった。
身体を売るってどんな感じなのだろうか。そういう経験は無いけど、痛いのは嫌だ。
それに、早ければ三年なんて、早過ぎる。まだ見たい物も、やりたい事も沢山ある。
「……嫌だ。まだ、生きたい……生きたいよぉ!!」
涙がどんどん溢れて、床に落ちる。手で拭おうとすると、その顔を柔らかいものが覆った。
パチュリーだった。ぎゅっと抱きしめてくれる。少女はずっと昔に無くした母親を思い出すようで、その胸に縋り付く。
「もう一度だけ言うわ。私と逃げるのよ」
パチュリーは、なんでこんなに優しくしてくれるのだろうか。これまで、ここまで自分を想ってくれた人はいなかった。
少女の胸に、再び灯がともる。
どこに連れて行かれようとも、この幸せの思い出を糧に生きようと思えた。
「ごめんなさい。やっぱり、出来ません」
少女の返答に、パチュリーは困ったように眉を下げて笑った。そして少女を強く抱き寄せる。
それから耳元で、魔法のような言葉を囁いた。
◇
朝の空は、やけに高く、青かった。
土の広場の端に、馬車が止まっている。
馬車の前では、黒い革靴を履いた男——町から来た人買いが腕を組み、値踏みするような目で少女を見ていた。
狐を思わせる細い目と、舐め回すような視線に、少女の喉はひりつく。
少女を取り囲むように立つ村の男達は口数少なく、張り詰めた重い空気が広場を覆っていた。
「……お父さん」
震える声で呼びかけると、隣に立つ父親は不機嫌そうに眉をひそめた。
「何だ」
「最後に……少しだけでいいから、村の子と遊びたい」
父親は露骨に顔を歪め、舌打ちする。
「何を今さら。そんな暇があるか」
その言葉に、少女の肩が小さく跳ねた。
やはり駄目かと、諦めが胸に広がる。
「まぁまぁ」
そこに、意外な声が割って入った。
軽い調子で、人買いが口を挟む。
顔に張り付いた薄ら笑いに、異物を飲み込んだような不快感が込み上げた。
「いいじゃないですか。可愛らしいじゃないですか。まだ時間にも余裕がありますし」
「……」
父親の鋭い視線にも、人買いは怯まない。
一歩近づき、耳元で囁いた。
「お願いしますよ。娘さん、上玉じゃないですか……他の子供も、少し見ておきたい」
父親は再び睨みつけたが、やがて鼻で笑った。
「……好きにしろ。ただし、目の届くところでだ」
少女は、深く頭を下げた。
「ありがとう、お父さん」
声は小さく、震えていた。
そうして村中に声がかかり、集まった子供は九人だった。
皆、どこかぎこちなく、互いの顔をうかがっている。
これから売られる少女に、どう接すればいいのか分からない。次は自分かもしれない――そんな不安が、沈黙となって滲んでいた。
それでも、来てくれただけで十分だった。
赤い髪の少女は、そっと手を差し出す。
少女が提案した遊びは、後に Ring-a-Ring-o’ Roses と呼ばれるものに近い。
輪になって歌い、歌の終わりにリーダーの指示で動く――遅れた者が負けという、単純な遊びだ。
差し出された手から、一人、また一人と、恐る恐る手が重なる。
やがて、大きな輪ができた。
少女の胸の奥で、昨晩の記憶が再生される。
耳元で告げられた、パチュリーの言葉。
——私が雨を降らせてあげる。
御伽話みたいに、馬鹿馬鹿しい。
せっかくの助けを断られた腹いせの、冗談かもしれない。
それでも、信じてみたくなる何かが、あの友人にはあった。
——そのためには、十人以上で輪を作る必要があるの。
自分を含めて、ぎりぎり十人集まったのは、幸運だった。
後はもう、友人を信じ切るしかない。
どうせ、失うものなんて、もう残っていない。
少女は、息を吸い、歌い始める。
それは、創造主に捧げる感謝の歌だった。
「♪ Praise the Lord, Praise the Lord ♪」
最初は、一人きりの、ぎこちない声。
だが、次第に歌は輪の中に満ちていく。
声と声が重なり、歌声が広場に広がっていった。
「♪ From tales of noble and beautiful humans and spirits, God taught me dreams ♪」
その頃、風が変わった。
ひゅう、と冷たい空気が頬を撫でる。
「……雲?」
誰かの呟きに、視線が空へ向く。
青空の端に、薄灰色の影が滲み始めていた。
「♪ Illusions shone bright within our hearts ♪」
雲は、確実に数を増していく。
広場を照らす光が、目に見えて弱まった。
「♪ Praise the Lord, Praise the Lord ♪」
空はすでに雲に覆われ、曇天と呼んで差し支えない。
見上げる村人の目に、期待の色が浮かぶ。
「♪ Wishing you happiness, I offer these words of celebration ♪」
黒い雲が空を埋め尽くし、冷たい風が唸りを上げる。
そして、少女は最後の言葉を告げた。
「Jump!」
合図と同時に、子供達が一斉に跳ねる。
着地した、その瞬間。
——ぽつ。
頬に、冷たいものが触れた。
——ぽつ、ぽつ。
そして。
ざああああ、と、世界が音を立てて崩れ落ちる。
「雨だ!」
「降ってきたぞ!」
「桶を出せ!」
「壺もだ!水を入れられるもの全部だ!」
「急げ!」
大人たちが叫び、走り回る。
村は一気に混乱に包まれた。
呆然と立ち尽くす人買いを、誰も気に留めない。
少女は、広場の中心で空を見上げていた。
目を閉じ、雨粒を全身に受け止める。
髪を濡らすその感触は、あまりにも優しかった。
その混乱の中、パチュリーは広場の端に立っていた。
向かい合うのは、村長。
「……雨が降りましたね」
雨音に埋もれない、静かな声。
「あの子は、どうなりますか?」
村長は空を仰ぎ、しばらく黙ってから答えた。
「……様子見だな」
パチュリーは、少女の方を見た。雨に濡れた赤い髪は流れる血のように艶やかだった。
パチュリーはそれを、とても美しいと思った。
雨は一週間、降り止まなかった。
◇
雨が止んだ翌朝、パチュリーは村を後にした。
山へと続く細い道を歩きながら、背後で徐々に小さくなっていく村を振り返ることはしなかった。振り返らなくても、もう十分に見届けたと思えたからだ。
長すぎるほどの雨は、確かに村人たちの態度を変えた。
枯れた井戸に水が戻り、地面は黒々と湿り、村長はついに「様子見」を「中止」に言い換えた。人買いは不満げな顔を隠そうともせず、だが逆らう理由も失って、馬車に乗って帰っていった。
雨の間、パチュリーは教会に留まり続けた。
朽ちた床に散らばる魔導書を読み漁った。棺桶の上でページを捲ることが、いつの間にか習慣になっていた。
そして、夜ごとに少女はやって来た。
小さな包みに入ったパンを、今度は遠慮なく受け取った。
相変わらず不味いパンだったが、毎日食べていれば不思議と慣れてくる。味覚が順応したのか、或いは別の何かが上書きしたのか分からなかった。
「ねぇ、パチュリーさん」
ある夜、少女はぽつりとそう切り出した。
「パチュリーさんって……その、もしかして……」
パチュリーが顔を上げると、視線がぶつかった。
そこにあったのは恐怖ではない。純粋な憧れだった。
しかし少女は、すぐに目を伏せた。
「……やっぱり、なんでもないです」
パチュリーは、ページに視線を戻しながら告げた。
「賢明ね」
ほとんど答えのようなその言葉に、少女がどんな表情を浮かべたのかは分からない。
けれど、それ以降も態度が変わることはなかった。距離も、声の調子も、パンを差し出すときの手つきも。
その姿を思い出すと、不思議と胸が暖かくなった。
教会で過ごした夜を思い返しながら歩く山道は、雨を吸った土の匂いを濃く残していた。
——これで終わり。
そう思えるだけの満足感が、胸の奥にあった。やり遂げた、そんな静かな達成感だった。
この村に来て、良かったと思う。
沢山の本に出会い、初めて本当の意味で"魔法"を知った。
少女との関わりの中で、その"使い方"も学んだ。
目の前に、魔女としての道が拓けたような気がした。
靴底に伝わる感触は柔らかく、歩くたびにくぐもった音がする。
ぬかるみに足を取られながらも、パチュリーの足取りは軽かった。
目的地のない旅路に戻ったというのに、心は妙に浮き立っていた。
ふと、道の端で光るものが目に留まる。
しゃがみ込んで拾い上げると、それは小さな石だった。
紫色。深く澄んだ色合いで、濡れた表面が淡く光を返している。
自分の髪と、よく似た色。
その瞬間、赤い石を思い出した。
最初の夜に渡された、小さな願いの塊。
あの時の、少し照れた笑顔まで、鮮明に蘇る。
「……ふふ」
思わず、口元が緩んだ。
返礼がまだだった。
あれほどの願いを預かっておいて、何も渡さずに去るなんて、どう考えても落ち着きが悪い。
それに——。
この石を渡したら、少女はどんな顔をするだろう。
驚くだろうか、喜ぶだろうか。それとも、また申し訳無さそうな笑顔を見せるだろうか。
そんなことを考えている自分に、パチュリーは内心で苦笑した。
ずいぶんと、人に情を移すようになったものだ。
まぁそれも、悪くない。
パチュリーは踵を返した。
村へ戻る道は、ほんの少しだけ遠く感じられたが、足は自然と速まった。
理由は明白だった。
少女の顔を、早く見たかった。
軽い足取りのまま、村の端の少女の家に辿り着く。
見慣れた扉。小さく、歪んだ木製のそれ。
ノックをしようとして、やめる。
昼間だ。返事を待つ必要はない。
少女が教会にやって来る時だって、いつの間にかノックは省略されていたし、自分も鍵をかけなくなっていた。
——私達はもう、そういう間柄なのだ。
その事実が、少しだけ可笑しくて、胸の奥が温かくなる。
ふふっと、小さな笑いが漏れた。
あの父親が吃驚するかもしれないが、自分の娘を売ろうとした奴の事情なんて、知るもんか。
パチュリーは扉に手をかけ、押し開いた。
その瞬間、鈍い音がして、何かが足元に転がった。
視線を落とす。
赤い髪をした少女の首が、そこに転がっていた。
◇
赤い髪の首を、パチュリーは見下ろしていた。
瞬きの仕方を忘れたように、ただ、そこにあるものを視界に収め続けている。
悲鳴は出なかった。
涙も、怒りも、恐怖すらも。
それらが生まれる前段階。
現実を理解するための思考が、完全に停止していた。
これは、何だ?
一体、何が起きている?
頭の中で言葉を探そうとするたび、指の隙間から零れ落ちるように、意味が掴めない。
「……どうして?」
喉の奥が引き攣り、かろうじて音だけが転がり落ちた。
問いは、首に向けたものか、それとも自分自身に向けたものか、分からなかった。
返事は、家の奥から届いた。
「そりゃあ、決まってるだろうが」
低く、湿った声。
はっとして視線を上げると、薄暗い家の奥に、数人の男たちが立っていた。
その輪の中に、少女の父親もいる。
机の上を見て、息を呑む。
乱雑に掛けられた布の上に、首と泣き別れた少女の胴体が横たえられていた。
理解が追いつくより先に、胃の奥がひっくり返る。
視界がぐらりと揺れ、床が傾いたように感じる。
斧を持った男が、一歩前に出た。
くじ引きの時、少女たちを並ばせていた男だった。
その斧から、血が滴っている。
床に落ちる音が、異様に大きく響いた。
男は、血のついた刃先で、少女の首を指した。
「お前も見てただろ。そのガキは、雨を降らせた」
——何を、言っている?
パチュリーの頭が、じわじわと混乱で満たされていく。
雨を降らせたのは、自分だ。
間違いなく、自分がやった。
だが、降らせたから、どうした。
降ったから、何だというんだ。
「魔女だったんだよ」
言葉が、脳裏で反響する。
——魔女。
その単語が意味を結ぶ前に、背筋が冷たくなった。
理解した。
つまり。
——少女は、自分の代わりに。
別の男が、事務的に続ける。
「魔女を村に置いておくわけにはいかねぇ。それに……魔女の肝は高く売れる」
声に、感情はなかった。
作業手順を確認するような口調。人間のそれとは思えなかった。
パチュリーは、縋るように少女の父親を見た。
「……あなたは、それでいいの……?」
声が、震えていた。否定して欲しかった。
父親は、唾を吐くように答えた。
「まさか自分のガキが魔女とはな。まぁ、肝が売れりゃこの村は三年は潤う。俺は一生遊んで暮らせる」
耳鳴りがした。
世界が遠のく。
信じたくない、ではない。
信じるという行為そのものが、馬鹿らしくなった。
言葉を失ったパチュリーに、斧を持った男が近付いてくる。
血と鉄の匂いが、否応なく鼻を突いた。
「せっかく、部外者のお前が出て行くのを待ってたってのによ」
男の影が、覆い被さる。
「戻ってきやがって……運が悪かったな」
斧が、高く掲げられた。
「口封じだ」
理解するより先に、体が反応した。
後ずさり、避けようとして、足が縺れる。
どさり、と尻もちをついた。
次の瞬間。
ぐしゃり。
鈍い衝撃と、焼けるような痛みが、額を貫いた。
視界が一気に赤く染まり、温かいものが頬を伝う。
血だ。
世界がぐるりと反転する中、男がとどめを刺そうと、再び斧を振り翳す。
その光景を見た瞬間、胸の奥で何かが、音を立てて切れた。
「……っ!」
声にならない音と同時に、魔力が爆ぜた。
空気が破裂し、衝撃波が走る。
斧の男の身体が宙を舞い、机に叩きつけられた。
一瞬の静寂。
男たちの視線が、一斉にパチュリーへと集まる。
「……そうか」
「お前が、魔女だったか」
その声に、恐怖はなかった。
あるのは、納得と、次の手順を決めた目。
殺される。
パチュリーは、立ち上がり、走った。
「追え!」
怒号と足音が、背後から迫る。
視界は揺れ、呼吸は乱れ、血が目に滲む。
それでも、足を止めなかった。
教会の扉が、前方に見えた。
◇
縋るように教会の中へ滑り込んだパチュリーは、内側から鍵をかける。
内鍵を落とした瞬間、パチュリーの足から力が抜けた。後ろから、力任せに扉を叩く振動が背中に響く。
背中を扉に預けたまま、ずるずると床に崩れ落ちる。
「……っ、は……」
息が、うまく吸えない。
喉の奥がひくりと引き攣り、空気が途中で詰まる。
ごほ、と短く咳き込む。
次の瞬間、胃の奥から込み上げてきたものに、思わず前屈みになった。
「……う、っ……」
吐瀉物は出なかった。
代わりに、苦い唾液と、鉄の味が口に広がる。
——血だ。
額から垂れた血が、唇に触れていた。
床に落ちる赤い雫を、ぼんやりと見つめる。
その色は、あまりにも見慣れた色だった。
赤い髪。
赤い石。
そして、赤く濡れた床。
「私の、所為……?」
声は、掠れていた。
自分が、村に来なければ。
自分が、雨を降らせなければ。
自分が、あの子に関わらなければ。
「……馬鹿ね」
自嘲が、喉を焼く。
魔法で救ったつもりでいた。
雨を降らせ、運命を変えたつもりでいた。
だが現実はどうだ。
救われたのは村で、殺されたのは少女だった。
「どうして……」
問いが、何度も頭の中を巡る。
どうして、あの子だった。
どうして、あんなに優しい人間が。
何も奪わず、何も求めず、自分を犠牲にして誰かのためにパンを運ぶようなあの少女が。
——どうして、死ななきゃいけなかった?
胸の奥で、何かが歪む。
それは悲しみでは無かった。
激しい怒りだった。
「こんな村……!」
歯を食いしばる。
思い出されるのは、雨に歓声を上げる大人たちの顔。
桶を抱え、空を仰ぎ、恵みだと叫んでいた声。
最初からもう、決まっていたのだ。
水が戻ればいい。
土地が潤えばいい。
——そのためなら、子供一人くらい。
「……吐き気がする」
パチュリーは、ふらつく身体で立ち上がり、棺桶の前まで歩いた。
少女と時間を過ごした思い出に縋りたかった。
古い木箱。
祈りの象徴であるはずのそれが、今はひどく歪んで見える。
棺桶に手をついた瞬間、再び咳き込んだ。
赤黒い血がボタボタと棺桶に溢れる。
「……っ、ごほ……っ」
背中が丸まり、肩が震える。
涙は出なかった。
代わりに、胸の奥が、空洞のように冷えていく。
「……何が"魔法"だ。何が"魔女"だ」
自分はこんなにも、無力じゃないか。
救うなら、最後まで救うべきだった。
中途半端な奇跡など、希望ではない。
ただの餌だ。
「……許さない……」
誰に向けた言葉かは、自分でも分からなかった。
村か。
男たちか。
それとも、自分自身か。
棺桶の前で、パチュリーは俯いたまま、息を整えようとする。
しかし、呼吸は浅く、胸は苦しい。
その時。
——ぎし。
木の軋む音がした。
パチュリーは、顔を上げた。
棺桶の蓋が、ゆっくりと——内側から、動いていた。
◇
「……ふぁ」
ひどく気の抜けた声だった。
死と怒号と血の臭いが渦巻くこの場に、あまりにも不釣り合いな音。
棺桶の蓋が内側から押し上げられ、水色の髪の少女がゆっくりと上体を起こした。
大きく背を反らし、腕を伸ばす。
関節が鳴る音が、生々しく響いた。
「よく寝たわ……あら?」
眠たげに瞬いた赤い瞳が、当惑するパチュリーを捉えた、その瞬間。
——ドンッ!!
轟音と共に、教会の扉が内側へ吹き飛んだ。
木片が弾丸のように飛び散り、男たちが怒号と共に雪崩れ込んでくる。
「そこだ!!」
「逃がすな!!」
目をぎらつかせた男たちの中から、斧を持った男が飛び出した。
昏倒から復帰したばかりらしく、足取りは荒いが、殺意だけは真っ直ぐだった。
一直線に、パチュリーに向かう。
パチュリーは息を吸い、反射的に魔力を練ろうとする。
しかし。
喉が焼ける。
肺が悲鳴を上げ、激しくむせ返った。
「っ……!」
視界がぶれる。
男が迫る。
こんなところで死ぬのだろうか。あの少女に何ら報いる事さえ叶わないまま。
痛む喉を押さえながら、目だけは閉じてやるもんかと斧を振り翳す男を睨み付ける。
「待ちなさい」
背後から、澄み切った声が落ちた。
次の瞬間。
——ぶつり。
音が、遅れて届いた。
男の首が宙を舞う。
噴水のように血が吹き上がり、首のない身体が二歩、三歩と進んでから、崩れ落ちた。
どさりと床に転がる音。
血が跳ね、壁を汚す。
教会の中が、一瞬で静まり返った。
「……待ちなさいと言ったはずよ、フランドール」
水色の髪の少女が、溜め息交じりに言った。
「だってぇ」
いつの間にか、パチュリーのすぐ前に、別の少女が立っていた。
蜂蜜のような金色の髪と甘い声。
棺桶の中には、二人いたのだ。
「お姉様が言うの、遅いんだもん」
赤い瞳が、楽しそうに細められる。
少女は、落ちてきた男の首を軽く受け止めると、ぽん、ぽん、と手のひらで弾ませた。
玩具で遊ぶ子供のようだった。
パチュリーの思考は、目の前に現実に追い付けない。
ただ、本能が理解する。
——これは、人間ではない。
それどころか、魔女であるパチュリーすらも超越している。
水色の髪の少女が棺桶から降り立つ。
一歩踏み出しただけで、空気が震えた。
見えない刃物を喉元に突き付けられたような緊張感。
「寝ながら聞いていたけど……金欲しさに魔女狩りとは、この村の連中は変わらないな」
呆れたような冷たい声。
その主は、パチュリーの隣に立ち、その顔を見上げる。
「私の名前は、レミリア・スカーレット」
幼い声。
だが、その名を告げるだけで、この場の主が誰かを理解させる響きがあった。
「吸血鬼よ」
レミリアは、パチュリーの額に流れる血を見つめて不敵に笑った。
「あなたの血で、目が覚めたわ」
そう言って、優雅に一礼した。
「礼をしなきゃいけないわね」
赤い瞳が、真っ直ぐパチュリーを射抜く。
目が合うだけで、心臓を掴まれたかのような恐怖に襲われる。
「何か、望みはあるかしら?」
パチュリーは、血に濡れた前髪を掻き上げた。指先が震えているのが分かる。
頭はまだ混乱の中にあった。
けれど、確信だけはあった。
——この二人なら、村のすべてを簡単に壊せる。
「……この村の人間を」
喉の奥から低い声が絞り出される。
これが本当に自分の声なのかと思った。
「皆殺しにして」
吸血鬼の唇が、愉快そうに歪んだ。
◇
赤い霧が、村を覆っていた。
血の色をした霧は、空気そのものを汚染するように立ち込める。それは太陽の光から吸血鬼を守る盾でもあり、人々を逃さない檻でもあった。
その中を、二つの影が自由に跳ね回っていた。
悲鳴が上がる。
直後に、途切れる。
誰かが逃げようとする。
次の瞬間、その影は地面に倒れ、赤い染みとなって広がった。
レミリアとフランドールは、壊していい玩具を与えられた子供のようだった。
「きゃははっ、もう壊れちゃった!」
「もう少し優雅にやりなさい、フラン」
軽い声。
笑い声。
それらは、叫び声と同じ重さで、空気に混じっていた。
パチュリーは、教会の入り口に立ったまま、それを眺めていた。
足は動かない。
止めようとも、逃げようとも思わなかった。
ただ、見ていた。
村が壊れていく様を。
人が、命が、音を立てて消えていく光景を。
不思議と心地よく、胸は静かだった。
——まるで、優しい夢の中にいるみたいだ。
現実感がない。
もし本当に夢なら、覚めなくてもいいとすら思った。
誰かが泣きながら祈る。
誰かが家族の名を叫ぶ。
誰かが許しを乞う。
それらすべてが、赤い霧に溶けて消えていく。
ひどく気分が良かった。
「……報告しなくちゃ」
ふと、パチュリーは呟いた。
あの赤い髪の少女に、教えてあげなければ。
——悪魔達はちゃんと、地獄に落ちるよ。
少女を売ろうとした悪魔達。
魔女と決め付け、殺した悪魔達。
子供達には罪は無いかもしれないが、所詮は悪魔の子だ。少女のような例外を除いて、同じく悪魔になるに違いない。
また、少女が殺される引き金を引いた自分も同罪で、やはり悪魔だろう。
いつかきっと、地獄に落ちる。
それを聞いたら、あの子はどんな顔をするだろう。
きっと、困ったように笑うんだろう。
少女の顔を思い描いたら、記憶が次々と浮かび上がってきた。
夜の教会。
小さな包み。
硬くて不味いパン。
それを差し出しながら、少し照れたように笑う顔。
そして、月明かりに照らされながら静かに激昂した姿。
——あの夜、彼女は何を望んだ?
パチュリーは、初めて強く、胸を押さえた。
息が、詰まる。
心臓が痛いほど強く脈打った。
この光景を、あの子は望んだだろうか。
違う。
あの子の望みは、こんな事では無かったはずだ。
——私は、とんでも無い思い違いをしていた。
パチュリーは、ふらふらと歩き出す。
赤い霧の中を進み、レミリアを見付けて背後に立った。
楽しげに血を浴びる、幼い吸血鬼の姿。
「……もうやめて」
声は、思ったよりもはっきり出た。
レミリアが振り返る。
赤い瞳が、不快そうに細められた。
「臆病風にでも吹かれたかしら?」
パチュリーは、ゆっくりと首を振った。
「違うわ。……夢から醒めたの」
近くにいたフランドールが、不満そうに口を尖らせる。
頭部の無い村長の首に、頭部しか無い孫娘を置いて遊んでいるところだった。
「えー、まだ全然残ってるのにー!」
「我慢なさい、フラン」
レミリアは、肩を竦めた。
そして大袈裟にため息を吐いた。
「仕方ないわ。依頼主がそう言うのだから」
そのたった一言で、殺戮は止んだ。
レミリアはつまらなそうに教会に引き返し、フランドールも文句を言いながらその背中を追った。
残されたのは、赤く染まった村だけだった。子供が泣く声が、やけに遠くに感じられる。
パチュリーは、その中心に立ち尽くした。
ここはまるで地獄だ。
けれど、この地獄の中で、また始めなければならない。
——私は、あの子の願いを叶える。
何があっても。
どれほどの時間がかかっても。
パチュリーは、胸の奥で、固く誓った。
◇
「あなたには、心底失望したわ」
吐き捨てるような声だった。その声の主、レミリアは小さな棺桶に腰掛け、頬杖をついていた。
幼い吸血鬼は、赤い瞳に露骨な倦怠を宿している。
「皆殺しを望んだ時には仲良くなれそうと思ったのだけど」
教会の中は、朝の光で満ちている。
白い石造りの壁、磨かれた床、天井近くで揺れる簡素な十字架。
五十年前、血と悲鳴に塗れた教会は、今や村の中心に移され、立派にその機能を果たしていた。
祭壇の前に立ち祈りを捧げる修道女は、静かに目を伏せている。
灰色のヴェールの下で、黒い髪が揺れた。
パチュリーの、姿を変える魔法は完璧だった。
旅の修道女に扮したパチュリーが村にやってきたのは、惨劇の直後だった。
呆然とする生存者の前に現れ、何も問わず、ただ手を差し伸べた。
食べ物を与え、金を出し、井戸を掘り直した。
祈りを教え、死者を弔い、生き残った者たちの話を聞いた。
いつの間にか、誰もが彼女を「聖女様」と呼ぶようになった。
その導きで、村は少しずつ息を吹き返した。
家が建ち、子供の笑い声が戻った。
教会もまた、村の中心部に建て直される事になった。
大きく減った人口も、五十年の時をかけて増え続け、今ではあの頃よりも多い。
それはまさに、聖女の奇跡だった。
その聖女が祈りを捧げる中、教会の扉がきしりと音を立てて開いた。
「失礼します……」
腰の曲がった老人が、一人の若い女を連れて入ってくる。
女の腕には、生まれたばかりの赤ん坊が抱かれていた。
小さな命は、眠りながら、かすかな声を漏らしている。
「聖女様……どうか、この子にお名前を」
それは、この村の習わしだった。
生まれた子供には、教会で名を授ける。
五十年かけて、パチュリーが作り上げた慣習だった。
パチュリーは赤ん坊をそっと受け取る。
温かい。
確かな鼓動が、小さな胸の内で脈打っている。
「……よく、無事に生まれてきましたね」
慈愛に満ちた、暖かい言葉。
赤ん坊の額に指を当て、名を告げる。
祝福の言葉を添えると、老人と女は何度も頭を下げ、感謝の涙を浮かべて去っていった。
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
「……滑稽ね」
姿を消していたレミリアが、再び現れる。
棺桶の上から軽やかに床に降り立った。
「あの老人、誰だと思う?」
パチュリーは答えない。
「覚えているでしょう。あの少女の父親よ。娘を売り、殺した男」
レミリアの声には、老人とパチュリー、双方に対する軽蔑が滲む。
「生き残って、新たに若い妻を娶って、子を成して、孫まで抱いた。それなのに……あなたは、よく笑っていられるわね」
パチュリーは、レミリアの方をゆっくりと振り返る。
あまりにも満面の笑みで、レミリアは思わずぎょっとする。
「これが、笑わずにいられるものかしら」
声は静かだった。
だが、その奥には底知れぬ狂気が沈んでいる。
「ようやく……本当に、ようやくよ」
パチュリーは天井を仰いだ。
「今の赤ん坊で、この村の人口は丁度、千人になった」
「……は?」
レミリアが眉をひそめた、その瞬間。
パチュリーはヴェールを外した。
紫の髪が、朝の光を受けてゆっくりと揺れる。
「あぁ……準備は全部、整った」
——光が弾けた。
パチュリーの足元から、脈動するような魔力の線が走り出す。
命を持つ蛇のように床を這い、壁を越え、扉を抜け、教会を起点に、村全体へと広がっていく。
家々の床、畑の土の上、金属加工所。人々の足元に、等しく魔法陣が刻まれていく。
外から、声が聞こえ始めた。
困惑の声。
悲鳴。
祈り。
怒号。
ある者は膝を折り、ある者は家族の名を叫び、ある者は何が起きているのか理解する間もなく、倒れ伏す。
命が、村全体から同時に引き剥がされていく。悲鳴は連鎖し、やがて、一斉に途切れた。
完全な、死の静けさが訪れる。
レミリアは周囲から命の灯火が潰えた事を、その肌で感じとる。
そして、ぱあっと顔を輝かせる。
「……っ、パチェ……!」
両手を叩き、心から楽しそうに笑う。
「あなた……最高よ!!村を丸ごと生贄にするなんて!!あなたは私の親友だわ!!」
狂気と歓喜が、赤い瞳に宿っていた。
そう、これは村に初めて訪れた夜に見つけた、多数の犠牲を前提とする禁術。
千人の命と引き換えに、たった一人を蘇らせる禁断の魔法。
この魔法の為に、パチュリーは憎しみを抑え、八つ裂きにしたい衝動を堪え、この村を育てあげてきた。
その五十年に渡る努力が、漸く報われる時がきたのだ。
パチュリーの脳裏に浮かぶのは、五十年前の夜の出来事。
あの時、少女は確かに願いを口にした。
——『まだ生きたい』
ならば、その願いを叶えよう。
光が収束し、村人達の命が教会の奥へと流れ込み、小さな棺桶に吸い込まれていく。
そして——。
蓋が、きしりと音を立てて開く。
中で、赤い髪の少女が、ゆっくりと目を開いた。
「ここ、は……?」
怯えた声。
その懐かしい響きに、パチュリーは胸が苦しくなる。
「えっと……あれ?私は……誰だっけ?」
少女は周りをキョロキョロと見渡し、自分の手を不思議そうに眺める。
人格は一緒でも、記憶がそのまま戻るわけではない。
魔術書で読んで分かってはいた。
それでもパチュリーは、名前を呼ばれることを期待していた。
そして微笑みを向けられることを。
けれど、そんな都合の良い奇跡は起こらなかった。
「まぁ、やっぱり、ね」
小さく息を吐く。
膝を折り、目覚めたての少女と視線を合わせる。少女の肩がビクンと跳ねた。
「大丈夫。怖く無いわ」
この魔法で蘇った存在は、人間でも妖怪でもなく、妖精に近い存在だという。けれど、そんな事はどうでも良い。
種族が何であれ、この子はこの子だ。
千人の命を奪った自分は、いよいよ本物の悪魔になってしまった。
この子は、悪魔達の命を糧に、悪魔によって生まれ直した、悪魔の子。
「……あなたの名前は、小悪魔よ」
頬に手を置き、名前を告げる。
暖かな体温を確かに感じられた。
この子は、小悪魔。悪魔である自分と寄り添っていく存在。
これから、連れて行ってあげられなかった場所に連れて行こう。
見せてあげられ無かった景色を見に行こう。
共に、うんと遠くまで。
「より高値で取引される少女から先に売られるらしい」と書いてありますが、その後に「売られる順番は、子供自身がくじを引いて決めるという」とあったのが気になりました。勘違いでしたらすいません。
題名の“悪魔”とは一体誰のことなのでしょうか……
最後まで読んでくれた人がいる事がとても励みになります
ご指摘の箇所、「男より女の方が高いから女を先に売るね」という意味でした。読み返しましたが、確かにあれじゃ伝わらないですね。早速修正しました。