「ぎゃっ」という情けない声が青娥の眠りを妨げた。どうも夫の霍桓の声に聞こえたが、あるいは蛙の潰れたような声でもあった。
陽はまだ昇り始めたばかりである。窓の外は朝靄に沈んでいる。青娥はくあっとあくびを一つしてからまた眠りに戻ろうとした。
が、どたどたと情けない足音がまた青娥を此岸に連れ戻そうとする。
「なにかしら」
心配より苛立ちが勝った。
そもそも青娥は霍桓との庵を分けている。仙術をして三日三晩飛び続けなければ辿り着けぬほどの隔たりである。それが起き抜けに彼の悲鳴を聞いたという事は、日も明けぬうちから霍桓が青娥の庵に忍び込んできた事を意味する。
もちろん二人は夫婦なのだから何か問題があるわけでもない。庵を分けているのも、青娥としてはただ霍桓のような人種と同じ屋根の下で過ごすのは耐え難いというだけで、まったく自分の側に寄り付いて欲しくないというまでではなかった。確かにまだ人里に暮らしていた頃は誰もが、霍桓のように純朴で、無知で、愚かな男がなぜ青娥を手にできたのかと不思議がったものだが――青娥にも色々と思うことはあった。
人の色恋の趣味など放っておけという話だ。
そもそも青娥は色恋に趣味を持ち込むタイプでもなかった。彼女は自分の器を懇切丁寧に形造り上げ、たまたま霍桓はそこに収まりが良かっただけである。
「青娥! 見てくれ青娥!」
その霍桓が飛び込んで来る頃には既に、青娥は身のこなしも美しく整え終えている。
霍桓が唾を飛ばす勢いで食いついてくるのを、青娥はやんわりと押しのけて尋ねた。
「どうしました? そんな風に慌てて」
「あ、ああ……まさか寝ていたのか?」
「朝ですもの」
「死神が怖くないのか!?」
「何を言うんです? 死神が来れば起きたらいいでしょう」
「い、いや……とにかくこのヒゲを見ておくれよ!」
「おヒゲ?」
言われるまでもなく青娥はそれを目にしている。それはそうであろう。霍桓の顎には真っ白い髭がたっぷりと蓄えられ、当に絵巻物に伝えられる仙人そのものといった風体だ。見るなと言われる方が無茶だった。
「しばらく見ない間に随分とまあご立派に」
「え? ああ、そうだな……かなり久しぶりだものな」
「そうですねえ……いつ以来かしら? 百年は経っていないはずですけれど……」
「そんなにじゃないだろう!?」
「ああいえ、五十年は経っていないと思います」
「まだ三十五年と三ヶ月だよ! 君は……」
「それにしても仙人らしくなられて」
青娥が微笑むと、霍桓はその場に腰を下ろして嘆息した。そうすると長過ぎる顎髭は足元にまで及び、霍桓が鬱陶しげにそれを押しやる。
「君の庵には鏡があるんだね」
「あなたの方にはないの?」
「ないよ」
「あら、まあ……」
「久しぶりに来たら君の庵が随分と様変わりしてるものだから。物珍しくってな」
「物色ですか? また盗人みたいなことを。悪い癖ですわ」
「君は怖くないのか?」
「え?」
「いや、だから……」
「鏡を見て叫んだんですか? 自分の姿に驚くだなんて」
「そうなんだ! 随分と久々に自分の姿を見た……」
「水鏡くらい見るでしょうに」
「そんな余裕があるか!? 君は変わらないな」
「仙人ですから」
無論、霍桓も仙人なのだが、その姿は老人のそれだ。青娥は朝靄に目をやる。まだ明けぬ。霍桓はいよいよ語気を強めてまた詰め寄った。
「この三十年余り、僕は怯えてばかりだった。何度も君に頼ろうと思ったくらいだ」
「頼ってくださったら良かったのに」
「それは……」
言うまでもない事だが、仙人は老いない。というより、仙術によって老いを克服した者を仙人と呼ぶ。だが寿命を克服した代償として、その仙人は死神に目をつけられる事となる。寿命という自然の摂理に逆らった当然の報い。故に仙人は仙術を磨き続け、死神を撃退し続けなくてはならない。
この霍桓という者も確かに仙人として死神を撃退してきたはずだ。そうでなくば青娥の眼前に立っている筈がない。彼が立ち上がると長い白髭がざわざわと揺れ動く。
「僕は随分と老いてしまった。君の鏡を見るまでそうと気がつきさえしなかった!」
「おヒゲが伸びればそうと気がつくでしょう」
「違う、僕の顔を見てくれ! まるで老いさらばえた老人だ!」
「我々は老いませんわ。もはや私の子供たちは死に絶え、孫達が老境にかかってもなお」
「そうだ、子供たち! なぜあの子らを置いてきてしまったのだろうといつも夢に見る」
「あらまあ、今更何を言ってらっしゃるの? 自分も仙術を学びたいと言ったのはあなたですよ」
「青娥、青娥よ、君は変わらず美しいんだね」
「この美もまた私のものですから。あなたはそうではないの?」
「僕は死神に怯えてばかりだった」
「何を怯える必要があるのです、あなた」
「青娥、頼ってくれと言ってくれたね。本当はそうだ、君を頼りに来たんだ! 僕はもうダメだ、一人では次の死神を撃退しきれない。君も困っていると思ったんだ! 二人なら……共に戦わなくては!」
「えー……」
もちろん青娥は困ってなどいない。困ってなどいないが、霍桓はそうと言って納得しそうな様子でもなかった。
「三十年だか前にも申しましたけれど、仙境は各々が持つべきでしょう。仙人が群れて暮らすなどぞっとしない話ですわ。仙術を失っていることを吹聴して回るようなものですから」
「青娥!」
霍桓は哀れを誘う声で青娥にすがりつこうとする。青娥はそれをひょいと躱しながら、食い下がるこの夫をなんとか諌めようと続ける。
「仙術を鍛える丹を練って差し上げましょう。向こう百年は死神にもおくれをとらぬような丹を」
「それでは駄目なんだよ。わからないのか。わかってくれないのか」
「いえ、まあ……」
「この姿か? 君は昔から何でも一等だった。君は変わらない。僕だってそうだ」
「さっきから朝靄が晴れませんわ」
「またもう一度一緒に暮らそう」
「あなた……何のためこれまで苦しい修行に耐えてきたのです」
嘘だ。青娥は修行を苦しいと思ったことなど一度もない。
「君のためだ青娥。僕は、君と時を刻むために、君と同じ道を選んだんだ」
「あなた……」
青娥は微笑んだ。観念したかのように。
それを目にした霍桓の目の色がギッと移ろう。そこに虹がよぎる。シワだらけだった老人の姿が、時の螺旋を逆回しにするかの如く見る間に若い青年へと戻っていく。その両腕がわーっと伸びて、青娥の細く白い肢体を引き倒す。
「君は何も変わらないままだ」
「あなたも何も変わらないままでした」
「青娥、人は必ず死ぬんだよ」
「誰が私を人と決めたのです?」
「愛してるんだ、青娥……」
「ありがとう、あなた」
「聞かせてくれ。僕を愛していたと言ってくれ!」
青娥は微笑んだ。それっきりだった。霍桓の全身からぐにゃりと力が抜けてもたれかかってきたのを、青娥はその細腕からは考えられない膂力で押し除けて見せた。束の間に若い青年に見えたその死骸は今や齢百を超え二百を数えるかというばかりの大老に変じていた。
「まるで人の干物のようじゃ」
そう言ったのは青娥ではない。いつしか部屋の中にもう一つ分の人影がいるではないか?
青娥は落ち着き払った様子で霍桓の死骸から何か細いものを取り出すと、そっと懐に忍ばせた。その様を見た人影が肩をゆすってごわごわと物音を立てる。どうも笑っているようである。
「それが万物を貫く神秘の蚤じゃね。お前さんも気の長い事をしたもんじゃ。その蚤を手に入れんがため、この哀れな青年を二百年も無駄に生きながらえさせ、儂らの仕事を随分と増やしてくれおった」
しゃがれ声は老婆のそれのようでもある。いつしか窓辺から流れ込んだ朝靄のような霧に包まれて、人影の全容は傍の青娥にさえ窺い知れない。
「別に」
冷たい声が言い放った。先程まで夫と話していた時には考えられないような、冷たい冷たい声だった。
「こんな蚤、取ろうと思えばいつでも取れたわ」
「かかか……」
「私の夫を随分と追い詰めてくれたみたいね? かわいそうに」
「まさか! 儂は何もしておらんよ。ただこの若いのが勝手に生きる事に飽いたのだね。それでもこのぼんくらをして生にしがみつかせたのは何事のためかね。そりゃおまえさんのためじゃろうね、霍青娥や」
青娥は答えず、得意げな顔と苛立たしげな顔を半分半分に浮かべていた。
「私はこの人の欲の核になった。この人を生きながらえさせたのだから、それは善行と褒められる事はあっても、そんな風に罵られるのは心外だわ」
「なにをぉぅいけしゃあしゃあと……ほん。まあ良いわ。儂もこれでようやく地獄に帰れる。お主とも縁の切れ目じゃ」
「あら、そうなんですの?」
「お主なぞ儂の手に負えぬ。後任が来る。しかし心残りは最後までその上っ面の下が見透せんかった事じゃ! 本来道の術とは欲を禁じ陰と陽の合一を果たす事にあろうもの、お主は斯様に欲に溢れながら生を如何に乗りこなしておるのかね」
「私は普通に生きてるだけよ。皆が欲張りすぎるのだわ、きっと」
「むわたもいけしゃあしゃあと! どうだね……儂らも二百年余の付き合いになった! お主の秘密を、せめてこの罪のない青年を誑かした理由ばかりを教えてはくれんかね。おんしいったい何を目指しておるのかね!」
青娥はぴたりと口を閉ざし、それは永遠に変わらない雰囲気である。今更こんな事で弱みを見せる仙女ではなかった。またごわごわと震え笑う声を残しながら、ついに異様な気配も消え、いつしか窓からは眩い日の光が差し込み始めていた。
「さてと」
大きくひとつ伸びをしてから、青娥が一歩を踏み出す。と、先程までそこにあった庵が幻のように消えている。日差しの向こう、山々の合間に日が昇り始めている。
「海にでも行こうかな」
陽はまだ昇り始めたばかりである。窓の外は朝靄に沈んでいる。青娥はくあっとあくびを一つしてからまた眠りに戻ろうとした。
が、どたどたと情けない足音がまた青娥を此岸に連れ戻そうとする。
「なにかしら」
心配より苛立ちが勝った。
そもそも青娥は霍桓との庵を分けている。仙術をして三日三晩飛び続けなければ辿り着けぬほどの隔たりである。それが起き抜けに彼の悲鳴を聞いたという事は、日も明けぬうちから霍桓が青娥の庵に忍び込んできた事を意味する。
もちろん二人は夫婦なのだから何か問題があるわけでもない。庵を分けているのも、青娥としてはただ霍桓のような人種と同じ屋根の下で過ごすのは耐え難いというだけで、まったく自分の側に寄り付いて欲しくないというまでではなかった。確かにまだ人里に暮らしていた頃は誰もが、霍桓のように純朴で、無知で、愚かな男がなぜ青娥を手にできたのかと不思議がったものだが――青娥にも色々と思うことはあった。
人の色恋の趣味など放っておけという話だ。
そもそも青娥は色恋に趣味を持ち込むタイプでもなかった。彼女は自分の器を懇切丁寧に形造り上げ、たまたま霍桓はそこに収まりが良かっただけである。
「青娥! 見てくれ青娥!」
その霍桓が飛び込んで来る頃には既に、青娥は身のこなしも美しく整え終えている。
霍桓が唾を飛ばす勢いで食いついてくるのを、青娥はやんわりと押しのけて尋ねた。
「どうしました? そんな風に慌てて」
「あ、ああ……まさか寝ていたのか?」
「朝ですもの」
「死神が怖くないのか!?」
「何を言うんです? 死神が来れば起きたらいいでしょう」
「い、いや……とにかくこのヒゲを見ておくれよ!」
「おヒゲ?」
言われるまでもなく青娥はそれを目にしている。それはそうであろう。霍桓の顎には真っ白い髭がたっぷりと蓄えられ、当に絵巻物に伝えられる仙人そのものといった風体だ。見るなと言われる方が無茶だった。
「しばらく見ない間に随分とまあご立派に」
「え? ああ、そうだな……かなり久しぶりだものな」
「そうですねえ……いつ以来かしら? 百年は経っていないはずですけれど……」
「そんなにじゃないだろう!?」
「ああいえ、五十年は経っていないと思います」
「まだ三十五年と三ヶ月だよ! 君は……」
「それにしても仙人らしくなられて」
青娥が微笑むと、霍桓はその場に腰を下ろして嘆息した。そうすると長過ぎる顎髭は足元にまで及び、霍桓が鬱陶しげにそれを押しやる。
「君の庵には鏡があるんだね」
「あなたの方にはないの?」
「ないよ」
「あら、まあ……」
「久しぶりに来たら君の庵が随分と様変わりしてるものだから。物珍しくってな」
「物色ですか? また盗人みたいなことを。悪い癖ですわ」
「君は怖くないのか?」
「え?」
「いや、だから……」
「鏡を見て叫んだんですか? 自分の姿に驚くだなんて」
「そうなんだ! 随分と久々に自分の姿を見た……」
「水鏡くらい見るでしょうに」
「そんな余裕があるか!? 君は変わらないな」
「仙人ですから」
無論、霍桓も仙人なのだが、その姿は老人のそれだ。青娥は朝靄に目をやる。まだ明けぬ。霍桓はいよいよ語気を強めてまた詰め寄った。
「この三十年余り、僕は怯えてばかりだった。何度も君に頼ろうと思ったくらいだ」
「頼ってくださったら良かったのに」
「それは……」
言うまでもない事だが、仙人は老いない。というより、仙術によって老いを克服した者を仙人と呼ぶ。だが寿命を克服した代償として、その仙人は死神に目をつけられる事となる。寿命という自然の摂理に逆らった当然の報い。故に仙人は仙術を磨き続け、死神を撃退し続けなくてはならない。
この霍桓という者も確かに仙人として死神を撃退してきたはずだ。そうでなくば青娥の眼前に立っている筈がない。彼が立ち上がると長い白髭がざわざわと揺れ動く。
「僕は随分と老いてしまった。君の鏡を見るまでそうと気がつきさえしなかった!」
「おヒゲが伸びればそうと気がつくでしょう」
「違う、僕の顔を見てくれ! まるで老いさらばえた老人だ!」
「我々は老いませんわ。もはや私の子供たちは死に絶え、孫達が老境にかかってもなお」
「そうだ、子供たち! なぜあの子らを置いてきてしまったのだろうといつも夢に見る」
「あらまあ、今更何を言ってらっしゃるの? 自分も仙術を学びたいと言ったのはあなたですよ」
「青娥、青娥よ、君は変わらず美しいんだね」
「この美もまた私のものですから。あなたはそうではないの?」
「僕は死神に怯えてばかりだった」
「何を怯える必要があるのです、あなた」
「青娥、頼ってくれと言ってくれたね。本当はそうだ、君を頼りに来たんだ! 僕はもうダメだ、一人では次の死神を撃退しきれない。君も困っていると思ったんだ! 二人なら……共に戦わなくては!」
「えー……」
もちろん青娥は困ってなどいない。困ってなどいないが、霍桓はそうと言って納得しそうな様子でもなかった。
「三十年だか前にも申しましたけれど、仙境は各々が持つべきでしょう。仙人が群れて暮らすなどぞっとしない話ですわ。仙術を失っていることを吹聴して回るようなものですから」
「青娥!」
霍桓は哀れを誘う声で青娥にすがりつこうとする。青娥はそれをひょいと躱しながら、食い下がるこの夫をなんとか諌めようと続ける。
「仙術を鍛える丹を練って差し上げましょう。向こう百年は死神にもおくれをとらぬような丹を」
「それでは駄目なんだよ。わからないのか。わかってくれないのか」
「いえ、まあ……」
「この姿か? 君は昔から何でも一等だった。君は変わらない。僕だってそうだ」
「さっきから朝靄が晴れませんわ」
「またもう一度一緒に暮らそう」
「あなた……何のためこれまで苦しい修行に耐えてきたのです」
嘘だ。青娥は修行を苦しいと思ったことなど一度もない。
「君のためだ青娥。僕は、君と時を刻むために、君と同じ道を選んだんだ」
「あなた……」
青娥は微笑んだ。観念したかのように。
それを目にした霍桓の目の色がギッと移ろう。そこに虹がよぎる。シワだらけだった老人の姿が、時の螺旋を逆回しにするかの如く見る間に若い青年へと戻っていく。その両腕がわーっと伸びて、青娥の細く白い肢体を引き倒す。
「君は何も変わらないままだ」
「あなたも何も変わらないままでした」
「青娥、人は必ず死ぬんだよ」
「誰が私を人と決めたのです?」
「愛してるんだ、青娥……」
「ありがとう、あなた」
「聞かせてくれ。僕を愛していたと言ってくれ!」
青娥は微笑んだ。それっきりだった。霍桓の全身からぐにゃりと力が抜けてもたれかかってきたのを、青娥はその細腕からは考えられない膂力で押し除けて見せた。束の間に若い青年に見えたその死骸は今や齢百を超え二百を数えるかというばかりの大老に変じていた。
「まるで人の干物のようじゃ」
そう言ったのは青娥ではない。いつしか部屋の中にもう一つ分の人影がいるではないか?
青娥は落ち着き払った様子で霍桓の死骸から何か細いものを取り出すと、そっと懐に忍ばせた。その様を見た人影が肩をゆすってごわごわと物音を立てる。どうも笑っているようである。
「それが万物を貫く神秘の蚤じゃね。お前さんも気の長い事をしたもんじゃ。その蚤を手に入れんがため、この哀れな青年を二百年も無駄に生きながらえさせ、儂らの仕事を随分と増やしてくれおった」
しゃがれ声は老婆のそれのようでもある。いつしか窓辺から流れ込んだ朝靄のような霧に包まれて、人影の全容は傍の青娥にさえ窺い知れない。
「別に」
冷たい声が言い放った。先程まで夫と話していた時には考えられないような、冷たい冷たい声だった。
「こんな蚤、取ろうと思えばいつでも取れたわ」
「かかか……」
「私の夫を随分と追い詰めてくれたみたいね? かわいそうに」
「まさか! 儂は何もしておらんよ。ただこの若いのが勝手に生きる事に飽いたのだね。それでもこのぼんくらをして生にしがみつかせたのは何事のためかね。そりゃおまえさんのためじゃろうね、霍青娥や」
青娥は答えず、得意げな顔と苛立たしげな顔を半分半分に浮かべていた。
「私はこの人の欲の核になった。この人を生きながらえさせたのだから、それは善行と褒められる事はあっても、そんな風に罵られるのは心外だわ」
「なにをぉぅいけしゃあしゃあと……ほん。まあ良いわ。儂もこれでようやく地獄に帰れる。お主とも縁の切れ目じゃ」
「あら、そうなんですの?」
「お主なぞ儂の手に負えぬ。後任が来る。しかし心残りは最後までその上っ面の下が見透せんかった事じゃ! 本来道の術とは欲を禁じ陰と陽の合一を果たす事にあろうもの、お主は斯様に欲に溢れながら生を如何に乗りこなしておるのかね」
「私は普通に生きてるだけよ。皆が欲張りすぎるのだわ、きっと」
「むわたもいけしゃあしゃあと! どうだね……儂らも二百年余の付き合いになった! お主の秘密を、せめてこの罪のない青年を誑かした理由ばかりを教えてはくれんかね。おんしいったい何を目指しておるのかね!」
青娥はぴたりと口を閉ざし、それは永遠に変わらない雰囲気である。今更こんな事で弱みを見せる仙女ではなかった。またごわごわと震え笑う声を残しながら、ついに異様な気配も消え、いつしか窓からは眩い日の光が差し込み始めていた。
「さてと」
大きくひとつ伸びをしてから、青娥が一歩を踏み出す。と、先程までそこにあった庵が幻のように消えている。日差しの向こう、山々の合間に日が昇り始めている。
「海にでも行こうかな」
青娥もなんだかんだ憎からず思っていたんだろうなと感じました
愛が無くても情があるのが熟年夫婦のよくある形だと思いますが、情が無くて愛だけある感じが仙人ぽくて良かったです