夢を見ていた。
あたたかく、胸をくすぐるような夢。
具体的なことは覚えていない。思い出せない。何も――それでも。
それでも。
夢の中の私は笑っていた。笑っていた? それこそ笑える話じゃないか。
最後に笑ったのは何時以来だろう。ひょっとしたらそんな日は一度もなかったのかもしれない。
私は死に損なった死者だった。
紅茶の香りが花開いた。
誰かが笑っていた。
けれども所詮、それは夢。最後にはまた私は、現に引き戻されるのだ。
●
「卿、スカーレット卿! ご気分でも優れないのですか?」
もう夜だというのにまだ夢に囚われている。私の眷属の一体が何事か喚いている。気分など優れた試しはない。吸血鬼とは病み人なのだ。こいつはまだ若い奴だなと検討をつける。清らかで清潔な世界から我々は永久に軽蔑されたんだ。
百年前なら声を荒らげたかもしれない。二百年前ならこの場で捻り潰したことだろう。
今はそのどちらでもない。
私はただため息を付いて、そいつが差し出した報告書の束を更なる山のてっぺんら辺に、適当にうっちゃっておく。
「どうせわかる。いずれわかる」
「はい?」
「もう下がれ。仕事は山積みだ。見ての通り。それとも貴様の目は節穴なのかい」
「申し訳ありません!」
そうとも。いずれわかる。私は無言のままで、あの無知な若者を見送ってやる。そういう時、老いの気配とは蛇のように背に這い上ってくるものだ。もちろん、この肉体は老いない。どうあれ老いさらばえることはない。姿見の前に立てば変わらず幼い少女が映っていることだろう。しかし老いとはそのようなものじゃない。月下に咲く一輪の秋桜は、間もなく老いて土に還る前兆に過ぎない。そのように思うことこそ老いだった。近頃は失うことばかりが意識に昇る……。
「それが公務をサボって図書館に入り浸る理由?」
友人の態度は冷たかった。
その冷たさが慰めになった。
私は素直に首を縦に振る。報告書の束はもう無い。代わりに眼前にはコゾナック(ケシの実を練り込んだ菓子パンの一種)の薄く切ったのが汚れた皿の上に並べられている。カトラリーは永遠に不揃いのままらしい。経費さえ申請すればいつでも補充してやるのに。だが例え新品のフォークが百万本もあったとて、この若い魔女は変わらずティースプーンでコゾナックを食べるのだろう。
「近頃、奇妙な夢を見るの」
なるべく綺麗なフォークを選び、菓子パンを切り出す。机の上をハエトリグモが我が物顔で横切っていく。分厚い本に目を落とす魔女は、パチュリー・ノーレッジはそれに対して見向きもしない。
「夢」
「同じ夢を繰り返し見る。何かの前兆じゃないか」
「そういうのはジプシーの神がかりでも掴まえて聞いた方がいい」
「そんな気休めじゃなくって……」
「あんたに必要なのは最新の夢分析より、くだらない気休めと華やかな踊りだと思うけどね」
「そういうことをズケズケと言う?」
「言ってほしいから来たんでしょ」
まあ、そうなのだけど。しかしこうあけすけにされると立つ瀬がない。吸血鬼にとって立つ瀬がないのは深刻なことだ。だが確かにそう言って欲しくて来たんでもある。だがそれをこうはっきり言われると――パチュリーが薄く顔を上げる。思わず身構えたが、コゾナックを取ろうとしただけだった。彼女がもぐもぐしている間、私はどっと疲れた気がしてボロ椅子に身を預ける。いや、本当に疲れているんだ。もうずっと疲れている。しかしこの城にジプシーの御一行を連れてきてどんちゃん騒ぎをさせるなんて案はどう考えても馬鹿げていた。もういつ戦争が始まっても、おかしくないというのに。
「レミィ」
「ああ……」
「あなたはよくやってると思う」
「そう……」
「あなたがやらなければ、もしあのまま知識人ぶった人間の政治家達に地位と権力を譲り渡していれば、今頃は――」
「今はそんな話よして」
「……そうね」
「どうせ、誰かがやらなきゃならなかったのよ」
そうだ。別に私でなくともよかった。あの人間達の言う通りにしても良かった。私はよくやった。言われるまでもない。もはや我々は時代遅れの産物だった。私は引退すべき時期を逃したのかもしれない。かつて互いに心臓を奪い合ったこの世界の神秘達はどこへ行ってしまったんだろう。今や人類は神秘の力無くして空さえ飛べるようになった。蒸気機関、電気、機関銃、飛行機……お次は何が出てくる? ひょっとして私は彼方の神秘の最後の生き残りなのじゃないか? でもそれは……しかし誰かが殿を務めなければならない。それに少なくとも私には守りたいものがまだある――。
「夢を見るのよ」
目を閉じると蘇るものがある。紅茶の香り。干したてのシーツのあたたかさ。なんてありえない夢想なんだろう! 吸血鬼とその眷属ばかりのこの城で(唯一の例外は完全に引きこもりで)、誰が日差しの下にシーツを干したりできるものか! けれどもなにより不思議なのは、私がそれを太陽のにおいだと理解できることだった……。
「夢ねえ……」
「流行りの精神分析ってのはこんなのにも理由をこじつけられるのかしら」
「素人でもわかる。あなたは疲れてる」
「だけども、疲れてるだけなら、もう少しバリエーションってものに富んでもいいはずだわ。どうして同じ夢ばかり見るのだろう。しかも全くありえないような光景を」
「紅茶と、シーツと、誰かの笑顔?」
「そう」
「それ誰が、もしかして私?」
「いや……」
「まさか妹様?」
またしても私は首を横に振る。
「あの子の笑顔なんて夢に見始めたら、それこそ国も責任も投げ捨てて棺桶に引っ込む頃合いだな」
「じゃあ誰なのよ」
「わからない」
「わかったら苦労しないか。それでも夢とは記憶の産物よ。基本的には。仮に全く見ず知らずの相手だとしても、これまでに出会った人々のコラージュなのかもしれない。なにせあなたはもう四百年も生きてる。記憶をどうやって整理しているの? 興味深い話だわ」
「ともかく生きすぎたのよ」
「無いの? 面影。誰でもいい。あなたが止まったらこの国も止まる。酷い話だと思う。私だったら耐えられない」
「そういうこと言う? 本当にまあ……」
それでも考えてはみる。夢の中の君。まるで童貞の少年みたいな話だ。記憶の壺をまさぐる。指先に当たるのは粘つく過去ばかりだ。夢とは忘れゆくものだ。パチュリーがため息を一つ吐き出した。
「いっそ阿片でも吸ってみる? 楽にはなるよ」
冗談とも思えない口ぶりでそんなことを言う。実際、悪くは無い話だ。それでも我が領土を清朝の二の舞にするわけにはいかない。嗚呼我が肩に手を置くは、いつも責任ばかりと来たもんだ!
●
朔の夜だった。私は確か、屋敷のバルコニーで星明かりを浴びていた。というか、公務をしていたところ窓辺の星空につられてふらふらと出てきたと言うのが正しい。
星空に願いをかけるのは人の業だ。私は人でなしだ。この美しい星空の下に自分の居場所はどこにも無い気がした。そう、たぶん、全ては朔夜のせい。神秘は月光の中でこそもっとも強く浮かび上がる。けれどもその月は今夜、地上の誰にも微笑まないことを決めたのだ。
私は自分が人間になっていることに気がついた。人間のように思考し、人間のように自由で、人間のように死ぬ。もちろんそんなはずはない。私は化け物で、吸血鬼で、どうしようもなく人でなしなんだ。ただ、月のない夜が私を狂気から解き放ってくれただけ。そんな事はザラにあることでもない……あの頃はまだ、私は運命の主人であったから。全てこの世は我が意のままになると思っていたから。
事実、そうだった! 私は頂に立っていた。私は遍く運命の王だった。いくらか公務は退屈でもあったけど、それは領土が富と平穏に満ちている何よりの証で……ようするに、私はまだ若かった。
だけどもその私を、あの星空は不思議に解きほぐした。それで、私は運命の岐路に立っているんだと理解した。予感のようなもの。私を人間に貶めるほど強大な運命が夜の中に蠢いた。ぞわぞわと全身が底冷えしたように震え、鳥肌が立つ。何故だかフランドールと、我が妹と百年ぶりに再会した日のことが脳裏によぎった。無性に誰かに話を聞いてもらいたかった。けれどもそんな相手は誰もいなかった。
私は立ちすくんでいた。それでも、もしこの先も永遠に運命の主人でありたいのなら、この闇夜を屈服させねばならない気がした。同時に、そんなことをすれば私を取り巻く何もかものものは変わってしまうだろうとも。
私は翼を広げかけていた。
もう飛び立とうとしていたんだ!
そのはずだったんだ。
だけどもどうしてか私は……理由はもう思い出せない……本当に取るに足らない理由だったと思う。部屋の方から物音がしたとか、ネズミの駆け出すのが見えたとか、本当に取るに足らない……だけども、今ならわかる。それは奇跡のようなたった一度だけの機会だったんだ。だがどうあれ私はそれを逃した。あれほど恐ろしく蠢いていた巨大な運命は幻のように消えてしまい、見上げた空には月が出ていた。
それ以来、私は運命の奴隷に落ちぶれたのだと思う。
●
また夢を見た。例の夢を。でもその頻度は着実に少なくなっていた。と同時に、実はその夢はずっと昔から見てきたのだと思い出した。時たま、漣の打ち寄せるように私の眠りを侵蝕する。そしてまた去っていき、全ては忘却の凪に還る。
いつからなのだろう、と思い返してみたら、あの朔夜の日に行き着いた。その話をパチュリーは興味深く聞いてはいたが、特にこれといった考えは浮かばなかったらしい。
「運命か……あなたの勘は検討に値する神秘の直感。ただねぇ、ひよっこ魔法使いには難儀すぎる相手だわ」
「あの日、もしも夜に飛び出していたら私は……どうなってたんだろう。何を手に入れていたんだろう。きっとそれは、私のすべてを文字通り一夜の内に一変させてしまうようなもので……きっとそれは、それは…………でも、そうはならなかった。ならなかったのよ。どうして運命は私を見限ったんだろう。あの夜、なにか致命的なものが狂ってしまったんだわ。いいえ、何か致命的な狂気が私から取り去られてしまったのかもしれない……」
「まあ仮に運命なるものに意思があるとして、きっと、思い上がった吸血鬼の若僧の鼻っ柱をちょっとへし折ろうとしただけよ。そう考えるべきよ、レミィ」
「私はどこへ向かうのだろう」
「レミィ、ねえ、レミィ! 考えすぎよ。そんなこと……だって、あなたはまだ立派に運命の手綱を握ってる。この国の運命を握ってるのだから、この国に生きる全ての者たちの未来を手にしているのだから」
「ええ……」
「あなたさえ良ければ、よく眠れるまじないをかけてあげる。夢も見ないくらい強烈なやつを。それと公務も何日か休んだらいい。私もね、あなたの役に立てる方法を探していたの。低級の悪魔を眷属にして――」
それからのパチュリーの話はあまり頭に入らなかった。図書館を後にして、少し外の空気を吸いに出ると、遠くの方で空が明るくなっていた。今宵も朔の夜だった。星明かりは地上の光にかき消されてもう薄らいでいる。
無性に涙が出た。それは夜風にのって漂ってきた火薬のにおいのせいだと思う。
私はもう吸血鬼ではいられないだろう。
あたたかく、胸をくすぐるような夢。
具体的なことは覚えていない。思い出せない。何も――それでも。
それでも。
夢の中の私は笑っていた。笑っていた? それこそ笑える話じゃないか。
最後に笑ったのは何時以来だろう。ひょっとしたらそんな日は一度もなかったのかもしれない。
私は死に損なった死者だった。
紅茶の香りが花開いた。
誰かが笑っていた。
けれども所詮、それは夢。最後にはまた私は、現に引き戻されるのだ。
●
「卿、スカーレット卿! ご気分でも優れないのですか?」
もう夜だというのにまだ夢に囚われている。私の眷属の一体が何事か喚いている。気分など優れた試しはない。吸血鬼とは病み人なのだ。こいつはまだ若い奴だなと検討をつける。清らかで清潔な世界から我々は永久に軽蔑されたんだ。
百年前なら声を荒らげたかもしれない。二百年前ならこの場で捻り潰したことだろう。
今はそのどちらでもない。
私はただため息を付いて、そいつが差し出した報告書の束を更なる山のてっぺんら辺に、適当にうっちゃっておく。
「どうせわかる。いずれわかる」
「はい?」
「もう下がれ。仕事は山積みだ。見ての通り。それとも貴様の目は節穴なのかい」
「申し訳ありません!」
そうとも。いずれわかる。私は無言のままで、あの無知な若者を見送ってやる。そういう時、老いの気配とは蛇のように背に這い上ってくるものだ。もちろん、この肉体は老いない。どうあれ老いさらばえることはない。姿見の前に立てば変わらず幼い少女が映っていることだろう。しかし老いとはそのようなものじゃない。月下に咲く一輪の秋桜は、間もなく老いて土に還る前兆に過ぎない。そのように思うことこそ老いだった。近頃は失うことばかりが意識に昇る……。
「それが公務をサボって図書館に入り浸る理由?」
友人の態度は冷たかった。
その冷たさが慰めになった。
私は素直に首を縦に振る。報告書の束はもう無い。代わりに眼前にはコゾナック(ケシの実を練り込んだ菓子パンの一種)の薄く切ったのが汚れた皿の上に並べられている。カトラリーは永遠に不揃いのままらしい。経費さえ申請すればいつでも補充してやるのに。だが例え新品のフォークが百万本もあったとて、この若い魔女は変わらずティースプーンでコゾナックを食べるのだろう。
「近頃、奇妙な夢を見るの」
なるべく綺麗なフォークを選び、菓子パンを切り出す。机の上をハエトリグモが我が物顔で横切っていく。分厚い本に目を落とす魔女は、パチュリー・ノーレッジはそれに対して見向きもしない。
「夢」
「同じ夢を繰り返し見る。何かの前兆じゃないか」
「そういうのはジプシーの神がかりでも掴まえて聞いた方がいい」
「そんな気休めじゃなくって……」
「あんたに必要なのは最新の夢分析より、くだらない気休めと華やかな踊りだと思うけどね」
「そういうことをズケズケと言う?」
「言ってほしいから来たんでしょ」
まあ、そうなのだけど。しかしこうあけすけにされると立つ瀬がない。吸血鬼にとって立つ瀬がないのは深刻なことだ。だが確かにそう言って欲しくて来たんでもある。だがそれをこうはっきり言われると――パチュリーが薄く顔を上げる。思わず身構えたが、コゾナックを取ろうとしただけだった。彼女がもぐもぐしている間、私はどっと疲れた気がしてボロ椅子に身を預ける。いや、本当に疲れているんだ。もうずっと疲れている。しかしこの城にジプシーの御一行を連れてきてどんちゃん騒ぎをさせるなんて案はどう考えても馬鹿げていた。もういつ戦争が始まっても、おかしくないというのに。
「レミィ」
「ああ……」
「あなたはよくやってると思う」
「そう……」
「あなたがやらなければ、もしあのまま知識人ぶった人間の政治家達に地位と権力を譲り渡していれば、今頃は――」
「今はそんな話よして」
「……そうね」
「どうせ、誰かがやらなきゃならなかったのよ」
そうだ。別に私でなくともよかった。あの人間達の言う通りにしても良かった。私はよくやった。言われるまでもない。もはや我々は時代遅れの産物だった。私は引退すべき時期を逃したのかもしれない。かつて互いに心臓を奪い合ったこの世界の神秘達はどこへ行ってしまったんだろう。今や人類は神秘の力無くして空さえ飛べるようになった。蒸気機関、電気、機関銃、飛行機……お次は何が出てくる? ひょっとして私は彼方の神秘の最後の生き残りなのじゃないか? でもそれは……しかし誰かが殿を務めなければならない。それに少なくとも私には守りたいものがまだある――。
「夢を見るのよ」
目を閉じると蘇るものがある。紅茶の香り。干したてのシーツのあたたかさ。なんてありえない夢想なんだろう! 吸血鬼とその眷属ばかりのこの城で(唯一の例外は完全に引きこもりで)、誰が日差しの下にシーツを干したりできるものか! けれどもなにより不思議なのは、私がそれを太陽のにおいだと理解できることだった……。
「夢ねえ……」
「流行りの精神分析ってのはこんなのにも理由をこじつけられるのかしら」
「素人でもわかる。あなたは疲れてる」
「だけども、疲れてるだけなら、もう少しバリエーションってものに富んでもいいはずだわ。どうして同じ夢ばかり見るのだろう。しかも全くありえないような光景を」
「紅茶と、シーツと、誰かの笑顔?」
「そう」
「それ誰が、もしかして私?」
「いや……」
「まさか妹様?」
またしても私は首を横に振る。
「あの子の笑顔なんて夢に見始めたら、それこそ国も責任も投げ捨てて棺桶に引っ込む頃合いだな」
「じゃあ誰なのよ」
「わからない」
「わかったら苦労しないか。それでも夢とは記憶の産物よ。基本的には。仮に全く見ず知らずの相手だとしても、これまでに出会った人々のコラージュなのかもしれない。なにせあなたはもう四百年も生きてる。記憶をどうやって整理しているの? 興味深い話だわ」
「ともかく生きすぎたのよ」
「無いの? 面影。誰でもいい。あなたが止まったらこの国も止まる。酷い話だと思う。私だったら耐えられない」
「そういうこと言う? 本当にまあ……」
それでも考えてはみる。夢の中の君。まるで童貞の少年みたいな話だ。記憶の壺をまさぐる。指先に当たるのは粘つく過去ばかりだ。夢とは忘れゆくものだ。パチュリーがため息を一つ吐き出した。
「いっそ阿片でも吸ってみる? 楽にはなるよ」
冗談とも思えない口ぶりでそんなことを言う。実際、悪くは無い話だ。それでも我が領土を清朝の二の舞にするわけにはいかない。嗚呼我が肩に手を置くは、いつも責任ばかりと来たもんだ!
●
朔の夜だった。私は確か、屋敷のバルコニーで星明かりを浴びていた。というか、公務をしていたところ窓辺の星空につられてふらふらと出てきたと言うのが正しい。
星空に願いをかけるのは人の業だ。私は人でなしだ。この美しい星空の下に自分の居場所はどこにも無い気がした。そう、たぶん、全ては朔夜のせい。神秘は月光の中でこそもっとも強く浮かび上がる。けれどもその月は今夜、地上の誰にも微笑まないことを決めたのだ。
私は自分が人間になっていることに気がついた。人間のように思考し、人間のように自由で、人間のように死ぬ。もちろんそんなはずはない。私は化け物で、吸血鬼で、どうしようもなく人でなしなんだ。ただ、月のない夜が私を狂気から解き放ってくれただけ。そんな事はザラにあることでもない……あの頃はまだ、私は運命の主人であったから。全てこの世は我が意のままになると思っていたから。
事実、そうだった! 私は頂に立っていた。私は遍く運命の王だった。いくらか公務は退屈でもあったけど、それは領土が富と平穏に満ちている何よりの証で……ようするに、私はまだ若かった。
だけどもその私を、あの星空は不思議に解きほぐした。それで、私は運命の岐路に立っているんだと理解した。予感のようなもの。私を人間に貶めるほど強大な運命が夜の中に蠢いた。ぞわぞわと全身が底冷えしたように震え、鳥肌が立つ。何故だかフランドールと、我が妹と百年ぶりに再会した日のことが脳裏によぎった。無性に誰かに話を聞いてもらいたかった。けれどもそんな相手は誰もいなかった。
私は立ちすくんでいた。それでも、もしこの先も永遠に運命の主人でありたいのなら、この闇夜を屈服させねばならない気がした。同時に、そんなことをすれば私を取り巻く何もかものものは変わってしまうだろうとも。
私は翼を広げかけていた。
もう飛び立とうとしていたんだ!
そのはずだったんだ。
だけどもどうしてか私は……理由はもう思い出せない……本当に取るに足らない理由だったと思う。部屋の方から物音がしたとか、ネズミの駆け出すのが見えたとか、本当に取るに足らない……だけども、今ならわかる。それは奇跡のようなたった一度だけの機会だったんだ。だがどうあれ私はそれを逃した。あれほど恐ろしく蠢いていた巨大な運命は幻のように消えてしまい、見上げた空には月が出ていた。
それ以来、私は運命の奴隷に落ちぶれたのだと思う。
●
また夢を見た。例の夢を。でもその頻度は着実に少なくなっていた。と同時に、実はその夢はずっと昔から見てきたのだと思い出した。時たま、漣の打ち寄せるように私の眠りを侵蝕する。そしてまた去っていき、全ては忘却の凪に還る。
いつからなのだろう、と思い返してみたら、あの朔夜の日に行き着いた。その話をパチュリーは興味深く聞いてはいたが、特にこれといった考えは浮かばなかったらしい。
「運命か……あなたの勘は検討に値する神秘の直感。ただねぇ、ひよっこ魔法使いには難儀すぎる相手だわ」
「あの日、もしも夜に飛び出していたら私は……どうなってたんだろう。何を手に入れていたんだろう。きっとそれは、私のすべてを文字通り一夜の内に一変させてしまうようなもので……きっとそれは、それは…………でも、そうはならなかった。ならなかったのよ。どうして運命は私を見限ったんだろう。あの夜、なにか致命的なものが狂ってしまったんだわ。いいえ、何か致命的な狂気が私から取り去られてしまったのかもしれない……」
「まあ仮に運命なるものに意思があるとして、きっと、思い上がった吸血鬼の若僧の鼻っ柱をちょっとへし折ろうとしただけよ。そう考えるべきよ、レミィ」
「私はどこへ向かうのだろう」
「レミィ、ねえ、レミィ! 考えすぎよ。そんなこと……だって、あなたはまだ立派に運命の手綱を握ってる。この国の運命を握ってるのだから、この国に生きる全ての者たちの未来を手にしているのだから」
「ええ……」
「あなたさえ良ければ、よく眠れるまじないをかけてあげる。夢も見ないくらい強烈なやつを。それと公務も何日か休んだらいい。私もね、あなたの役に立てる方法を探していたの。低級の悪魔を眷属にして――」
それからのパチュリーの話はあまり頭に入らなかった。図書館を後にして、少し外の空気を吸いに出ると、遠くの方で空が明るくなっていた。今宵も朔の夜だった。星明かりは地上の光にかき消されてもう薄らいでいる。
無性に涙が出た。それは夜風にのって漂ってきた火薬のにおいのせいだと思う。
私はもう吸血鬼ではいられないだろう。
レミィがここまで落ち込んでいるところは考えたことがなかったのでとても新鮮でした。
ここまで追い込まれたレミィがどんな運命でもって、夢にまで見た彼女の笑顔を我が物にするのか、知りたくて知りたくてうずうずしています。
パチュリーが励ますほど弱ってるお嬢様が新鮮でした