四畳半程度の木造の小屋、内部は少女が2柱座っている以外にはもぬけの殻と言ったところで、家具も照明もなければ、ランタンを吊るすフックすらない。
外へ向けて両開きの脆い戸が開け放たれている。眩しすぎて真っ白に映った外の景色が室内を覗き、窓1つない小屋の中央を薄明るく照らしていた。
冷たく、乾き切った風が外から吹き込み、壁材の隙間へと吹き抜けていく。時折強い風が吹いて床の上でコロコロと音が鳴る。そこかしこに散乱している稲籾が風に吹かれて、ささくれた杉板材を鳴らしていた。
慣性で転がる稲籾の1粒が、その足裏をぴったりと床につけていて薄く砂埃に煤ける、内股気味の1組の素足にぶつかった。
小屋の板壁に背後を預けて、床板に腰かけていた秋 穣子が膝を抱える両腕の中に突っ伏してうずくまっていた。
秋 静葉は小屋の中央でしゃがんでいる。膝から崩れ落ち、その身を支えるように両腕で床を突いている。その手元にF字型の合歯を備えた鋼鉄の鍵が下敷きにされていて、右手がぐいっとそれを握りしめた。まばゆく純白な外世の光に背を向けて、彼女はふるふると身を震わせてうなだれていた。
「きっと、」
秋姉妹のどちらかが言った。秋 穣子は袖広の腕の中にうずめて、秋 静葉は垂れ下がったセミロングの頭髪の向こうに覆い隠されていて、共にその口元も、表情もうかがい知ることはできなかった。
「きっと、すごく、貧しいひとだったんだよ。盗みに入らなきゃ、ごはんも食べられないくらい。」
わずかばかりに顔をあげて、ヒクッという小さい息継ぎを2回しながら、秋 穣子が続けて言った。どこを見るともなく両目をうるうる潤ませて、唇の端をきゅっと噛み締めながらの言葉だった。
秋 静葉はその視線を少しずらして、片方の目だけで妹を見つめた。垂直に垂れる毛髪の幕に隙間ができて、彼女の顔がわずかに見えた。妹を見つめ、知らぬ間に向き出させていた歯を唇で隠すと、またうつむいてその表情を隠してしまった。彼女は血走った瞳を見せていた。
「大丈夫だよ。」
秋 穣子は視線を落としたまま、ぎこちなく口角を上げて、1人つぶやくように話した。
「それに、ほらきっと、大丈夫だよ。おねえちゃん。わたし達には農家さんがいるよ。ご飯なら畑のある農家さんから分けてもらえばいいし、また来年も豊作になるよ。大丈夫だよ、おねえちゃん。わたし達、神さまだもん。これまでも上手くやってこれたんだし、また一緒に、頑張ればいいんだよ。」
秋 穣子はにっこりと両目を細めてみせた。しかし秋 静葉は反応せず、彼女に目も向けなかった。こわ張らせたこめかみの力を抜くと、秋 穣子はぐったりと顔を沈めた。
「いや、」
しばらくしてふいに秋 静葉がつぶやいた。秋 穣子が顔を上げ、彼女を見る。
深く息を吸って深く吐き、ひと呼吸置いてもう一度深呼吸すると、秋 静葉は右の袖で目元のあたりをひと拭いして、右足、左足の順ですくと立ち上がった。
秋 穣子が彼女を見上げる。秋 静葉が右に回ってそれに向き合う。すごくまっすぐな眼差しを妹に向けた。
「いや、探そう!穣子。私たちで、盗まれたお米を取り返すのよ!」
秋 静葉は脇を絞めて肘の高さで拳を握ると、清々し気な薄笑顔で秋 穣子を見下ろしながら言った。
「おねえちゃん?」
秋 穣子は左眉をひそめ、両手で1、2歩前に歩くと、もう一度姉を見上げた。
「よーし、今すぐ行こう!お米泥棒を捕まえるわよ!!」
「え?」
妹の同意を待たずして振り返り、秋 静葉は外へ向けて歩き出した。
「おねえちゃんちょっと待って!」
自身に背を向けて離れ行く秋 静葉の膝関節に狙いを定めて、秋 穣子がダイビングタックルよろしく飛びついた。
「うわっギャッ!!!」
前へ向けて歩き出そうとしていたのに両足首をホールドされた上、全体重をかけて膝カックンされた秋 静葉は受け身もできず前のめりに転び、床板めがけて自身の鼻先を勢い任せに殴りつけた。
「、、、うおぉぉぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛おおおお。。。。。ちょ、ちょっと。穣子。いきなり何するのよ。凄く、痛かったじゃない。。。」
名状しがたいうめき声に続いて、息切れぎれに妹へ不平を訴えると、秋 静葉はのそりと四つん這いに起き上がって、右手で鼻元を覆いながら中腰のまま振り返った。目に涙が溜まっている。右手指の隙間という隙間から溢れ出る赤黒い血液がだらだらと流れ落ち、袖の中、床の上へとこぼれ落ちた。
彼女は焦ることすらできず血みどろの手のひらをまじまじと見つめると、少し上向いた状態で下目づかいになって、ポケットから水玉模様の手ぬぐいを1枚取り出し、その端をちぎって小さく丸めて左鼻の穴へ押し込んだ。
「おねえちゃん、わたしの話し聞いてた?きっと犯人さんは貧しかったからわたしたちのお米を盗んだんだよ?私たちが泥棒さんを捕まえて盗まれたお米をとりかえしたら、泥棒さん、ご飯がなくて死んじゃうかもしれないんだよ?それに捕まえるだなんて、そんな手掛かりなんてあるの?」
「甘いよ穣子!」
秋 静葉は勢い任せに立ち上がり大手を広げて訴えた。
「第一、ここにあったお米は私たちのじゃない!あくまで、私たちを信じてくれてる農家さんたちのお米なんだよ!それだけじゃない、ここにはまだ10俵以上のお米が残っていた!私たちで食べるために精米した半端を除いてもだいたい15俵も!うちの農家さんたちの食べ物がなくなっても、2か月か3か月は食べ続けることができるだけのお米が備蓄してあった!それが全部盗まれたんだよ!確かに穣子の言うとおり、お米泥棒はお金も食べ物もなくて、やむにやまれずうちのお米を盗んだのかもしれない。だけど、それにしても全部持っていくのはやりすぎだよ!」
「それでも、またお米を奪ったら泥棒さん死んじゃうよ!」
「違うよ穣子!」
秋 穣子は膝立ちに立ち上がると両方の握り拳を胸の高さに構えて反論した。しかし秋 静葉はすぐに答えた。
「なにが違うって言うのおねえちゃん!」
「泥棒を見つけるのは、捕まえるためでも奪い返すためでもない。話し合うためなんだよ。後のことは、その後に考えればいいと思ってる。」
「え?」
秋 穣子はきょとんと表情を変えた。姉を見上げたまま考えて、おのずと腕を膝に乗せた。
「じゃあ、1人でも行くね。このままじゃ私、農家さんたちに顔向けできないのよ。」
声のトーンは少し落ち着いていた、腰くらいの高さに構えていた握り拳をほどき、垂直に垂らすと、秋静葉は再び外へ向き直って歩き出した。
「おねえちゃんちょっと待って!」
「えっあ!っっギャッ!!!」
再び足首を掴まれて再び転倒し、秋 静葉は再び鼻先から床に激突した。
「うぉぉぉぉ゛ぉ゛ぉ゛おお、、こ、こ、こんどはなに?」
息切れ切れに身を起こし、右手で鼻元を覆って中腰のまま振り返ると、秋 静葉は再び妹に不平を問うた。
「おねえちゃん、わたしも行きたい。」
「いや、いいけど。押し倒すことなくない?」
「それと、」
秋 穣子は目を逸らすように視線を落としてしょぼんと小さく口をつぐんだ。
秋穣子はそれを見ると妹に向かって座り直し、血染めの右手をまじまじと見つめた後、5分の1程幅に短縮された手拭いからもう5分の1ちぎり取って丸め、右鼻の穴に押し込みながら問い返した。
「それと?」
上目づかいに秋 穣子が姉と目を合わせると、漏らすようにつぶやいた。
「おなかすいた。」
秋 静葉はなにも答えずぽかんと口を開けた。その時2人が座る小屋のどこかでお腹が鳴った。どちらかから鳴ったかは分からない、もしかしたら両方かもしれない。
「しかたない。」
秋 静葉は妹を見つめながらつぶやくと、のそりと立ち上がってワンピースの膝元をパンパンとはたいた。両腰に握り拳を当てながら清々し気な笑顔を妹に向け、秋 静葉は籠りに籠りきったとてつもない鼻声で彼女に言った。
「お芋掘って蒸かして食べるか!」
全面紅葉に覆われた山野のけもの道を秋姉妹が歩いていた。先頭を行く姉の両鼻には、もう詰め物はなくなっていた。
2柱とも額に日の丸鉢巻きを付け、右手で備中くわを上げ下げしながら「えいやえいや」と言っている。そして2柱ともなぜか威勢ありげに笑っている。
彼女らは山の中で1時間ほど前からこのように歩いていたが、1時間ほどすると向かい合って体育座りしていた。
「見つからないね、おねえちゃん。」
「私ってばどこに向かって歩いてたんだろう。」
「もうちょっと、手掛かりを見つけてから探すんだったね。」
秋 穣子が顔を上げて姉と見合う。
しかし秋 静葉は視線を落とし腕の中に顔を埋めてしまう。彼女の身はわずかに震えていた。
「秋の、神さまですよね?」
誰かが声を掛けた。顔を上げて姉妹が互いを見合わせるとその方向へ視線を変えた。
声の主は河城 にとりだった。彼女は墜落してきたUFOでも見るかのような眉のひそめ方で秋姉妹に歩み寄り、声を掛けたのだった。様子をうかがうように秋姉妹は慎重に立ち上がろうとする。
「えっと、、、手伝ってもらえませんか。車輪がハマっちゃって。」
河城 にとりが指差す。見ると数歩先にある山道を少し登ったところに6俵の米が縛り付けられた4輪の荷車があり、それが左前輪側へと地面側へおよそ30°ばかり傾いていた。姉妹は慌てて立ち上がり、河城 にとりすら追い越さんばかりに駆け寄って3神妖力を合わせて荷車を持ち起こした。そして彼女らはそのまま車を押し続けた。
「いやぁ、助かりました。これだけ積んでると1人じゃどうやっても直せなくて。しかも一緒に運んでくれるなんて。」
「いいんですよ。困ったときはお互い様です。そんなことより、河童さんも田んぼを持っているんですね。立派なお米じゃないですか。」
「いえ、これは守矢神社さんからもらったお米なんですよ。今年から精米設備を整えたんで、藁か殻付きから持ってきてくれれば白米にするよ、手数料払ってくれればこっちで俵も作ってお宅まで持ってくよっていう、精米代行業を始めたんです。」
河城 にとりが先頭で舵取りをして、後ろから秋姉妹が押していた。河城 にとりは前を向きながらも精一杯に秋姉妹へ向いて話し続けた。
「そしたら守矢さんから、信者の米全部精米してくれって頼まれましてね、あそこ人類の信者さん、ほとんど百姓ですから。それでお得意さんのよしみで支払いは米でいいよってしたら、うちの里でも食べきれないくらい沢山もらいましてね、人里に売ることにしたんですよ。というかうちじゃあ、ほとんどきゅうりしか食べないんですけどね。」
それを聞いて秋 穣子は腹部に手を当ててクスリと笑った。彼女らはしばし談笑しながら荷車を押し続けた。
「それで、何かあったんですか。あんな所で、暗そうにして。」
話題が付き掛けた頃に、河城 にとりが声のトーンを落として聞いた。
秋姉妹は互いに顔を見合わせて、暗い表情をした。しばしの間を置いて、秋 穣子が話した。
「実は、盗まれちゃったんですよね。わたしたちのお米。それでどうにか取り返そうと探し回ったんですけど、見つからなくて。」
突然荷車が止まり、河城 にとりが秋姉妹へ振り返った。
「そんな、すみません、なんか、その、、」
「いいんですよ、あなたはなにも悪くありませんから。私がいけないんです。なんの手掛かりもないのに見つけ出すだなんて。」
秋 静葉が笑いながら間を置かずに答えた。苦い笑顔だった。
「それに、きっと泥棒さんも、ご飯がなかったんですよ。仕方なく、私たちの蔵に忍び込んだんだと思います。いいんですよ。誰かの生活が助けられたのなら。」
秋 穣子は笑顔を浮かべているようだが笑っていなかった。
「ささ、私たちのことは気にしないで先を急ぎましょう。私たちのことは良いんですよ。私たち、神さまですから。何とかやっていけるんです。」
河城 にとりはうつむいたまま、動こうとしなかった。
「おねえちゃんの言う通りです。にとりさんは何も悪くないですよ。行きましょう。」
秋姉妹は河城 にとりに衝突することも気にせずに荷車を押し始めた。彼女は何も言わずに、姉妹に従って荷車を引き始めた。
山道を過ぎ、農地に降りた。しばらく農道を進み続けると人里へと到達する。
「きっと、どこかの米蔵ですよ。」
荷車を引く河城 にとりがふいに言い出した。
「例え食べる飯に困っていたとしてどれだけ共犯が多かったとしても、あれだけの米を1度に食べ切れる訳がない。だから盗まれた米は…」
「盗まれたお米は?」
秋姉妹は互いに見合わせると河城 にとりに問いかける。彼女は振り返ることなくそれに答えた。
「きっとどこかの本百姓の米蔵か、裕福な町人や問屋の蔵の中にあるはずですよ。」
「そっか、そうだよ、そうだよおねえちゃん、今度は米蔵の中を探してみよう。!」
秋 穣子は明るくはれ上がった笑顔を姉に向けた。秋 静葉は表情を曇らせた。
「でも、そんなことしたら罪のない農家さんまで疑うことになっちゃうよ。」
「それに盗まれた米は盗人自身の米に紛れ込ませて隠してあるはずです。例えそいつの蔵に辿り着いたとしても、盗まれた米と盗人自身の米とを見分けられませんよ。」
河城 にとりの助言を聞いた秋 静葉は、突然に無表情になって、小声で言った。
「いえ、あります。見分ける方法。」
「え?」
河城 にとりが1声聞き直すが、秋 静葉は繰り返さなかった。3神妖は荷車を押し続けた。
堅牢な塀の大きな家屋を1、2軒過ぎると長屋が並び始め、桶屋、鍛冶屋といった職人街、寺子屋を超えた頃に貸本屋、八百屋、呉服屋と諸々の商店が現れ始めた。造り酒屋に喫茶店、2軒の居酒屋と水茶屋を過ぎて次の居酒屋を左に曲がって、造り酒屋を超えたところで人里の中心街に出た。罠網の結び目のように賑わう人だかりをぺこぺこと片手念仏しながら押し抜けて、大路の隅を軒先にぶつからないよう注意深く進み、快活なおばの笑い声と寡黙な揚げ煙のほのかに香るカツレツ飯屋の煤けた看板を見上げて頬拭おうと口元に袖寄せたところで荷車が止まり、秋 静葉は数歩目先から自身のすぐ脇へと視線を移した。
「ここで、ちょっと待っていてください。」
3神妖と6俵の米は米問屋の前に到着した。荷台の上に乗り上がり、車を巡る紐を解いて、えいと1俵を抱え上げると河城 にとりは建物に入り、店先で帳簿取りをしていた番頭に俵の中を見せて商談を始めた。番頭が指図して弟子奉公が外に出てくると、彼の案内に従って秋姉妹は裏の米蔵へと俵を運び出した。河城 にとりが店から出てきて「そんなことしなくていい」と彼女らを制止するが、秋姉妹はそれを聞き入れずに、笑いながら蔵へと向かって行った。
「お米だ。」
「たくさんあるね。」
最後の俵を運び終えて秋 穣子が外に出ようとしたとき、視界の端で秋 静葉が立ち止まっていることに気が付いて彼女は振り返った。
秋 静葉は蔵の中いっぱいまではいかない程度に積み上げられた50俵近い米俵を見上げていた。
おのずと彼女はそれらのうちの1つに手を当てて、その中腹にあるたが紐へ手を滑らせると、たが紐と米俵の両端へと延びる縦紐との結び目を2ヶ所見つけて、顔を近づけて注視した。結び目を手でいじり、数秒間顔を離さずにいたものの、身を起こして少しの間うつむいていた。
「わたし達の、じゃなかったみたいだね。」
何も答えずに秋 静葉はうなずいた。そしてすぐ隣の俵、別の俵と次々に結び目を確認した。
「秋の神様、本当に、ありがとうございます。よかったら、買ってもらえませんか。」
河城 にとりの声が聞こえる。振り返ると外から大袋のような物を抱えた誰だかが地数いて来ていた。彼女が抱えていた物は上から3分の1くらいのところですぼまった米俵の半端物だった。
「盗まれちゃったんですよね、お米、全部。私共も食べて行かなくちゃいけないですし、上納というか人頭税みたいなのもありますから、手伝ってくれたお礼とするにはがめついことも承知なのですが、相場の3割程度までお売りできますよ。買ってもらえますか。」
姉妹は互いを見合わせると河城 にとりへ向き直り、同時に深く頭を下げた。
四畳半程度の木造の小屋、その中央に半端な分量の米俵が置かれている。それを挟むように秋姉妹が床に座り、まじまじとそれを見つめている。
「よかったね、おねぇちゃん。」
「でも、こんなんじゃ全然足りないよ。農家さんには返せない。」
「河童さん、盗まれたお米は蔵の中にあるって、言ってたよね。」
「うん。」
「でも、米蔵のある家なんてきっと、農家さんくらいだよね。」
「うん。」
会話が一時止まる。重々し気な口調で秋 穣子が言う。
「でも、まさか、うちの農家さんじゃ」
「そんな訳ない。」
間髪入れずに秋 静葉は反論した。妹と全く同じ声色だった。
「畑のある農家さんなら自分たちのお米があるし、畑の無い農家さんだって私たちに相談してくれる。他のどこの農家さんかもわからない農家さんならいざ知らず、私たちの農家さんが、私たちから盗むはずなんてあり得ないよ。」
「それじゃあ、私たちの農家さんじゃないなら、」
米俵から目を離し、互いが見合わせた。秋 静葉は米俵へ目を戻した。
「他の農家さん。私たちの守っている農家さんじゃない。他の神社の農家さんが怪しいと思う。」
「でも、どうするの?よその神社の農家さんだからって、怪しいから蔵を見せてください、なんて言ったら、わたしたち嫌われちゃうよ。」
秋 静葉が立ち上がりながら言う。
「仕方がないよ。誰に嫌われてでもお米を取り返さないと、私たちは、私たちの農家さんからすらも、見放されちゃうよ。」
秋 静葉は髪飾りの落ち葉を2枚つまみ取り、米俵の、1番下のたが紐と縦紐との結び目の、隣り合う2ヶ所に1枚ずつ挟み込ませた。
「すみません!お隣の秋です!すみません!開けてください!」
ドンドンドンと木板が鳴る。秋姉妹が自身等の居宅から1.5kmほど離れた邸宅の表門に横に並んでいて、秋 静葉が戸を叩いている。
「お願いします!お願いがあるんです!どうか私たちを入れてください!」
「はーい。」
奥から女性の答えが聞こえて秋 静葉は笑みを浮かべる。間もなく木製の引き戸が横にずれて割烹着をまとった中年女性が現れた。
戸の開くが早いか、秋姉妹は女性のいることに気付くや否や、互いに見合わせることすらなく、姉妹揃って全く同じ、凄まじく速い動作でもって、にこやかに出て来た女性へ向かって土下座をした。
「お願いします!私たちの農家さんのお米が盗まれました!今!盗まれたお米を探しています!どうかお宅の蔵の中のお米を見せてください!」
中年女性はきょとんとしたまましばらく立ち尽くしていたが「ちょっと待っていてください。」と姉妹を制止すると母屋へ戻って行き今度はだいぶ渋い顔をした中年男性と共に戻ってきた。中年男性はスタスタと歩いてきたが、来客へ声を掛けようとしたところで表門の下で土下座する秋姉妹を見て1歩後ずさった。
男性が秋姉妹を3言4言かけて起き上がらせると、蔵まで案内すると言って付いて来させ、母屋を時計回りによけて裏へ向かった。
表門をくぐり抜けた時、秋 静葉は母屋の屋根の上を見て、すぐ目を逸らした。そこには少女が立っていた。敷き詰められた瓦屋根の末端に紋様の掘り込みすらない簡素な鬼瓦が設けられている。そこから棟瓦を2、3枚ほど家屋内側へ寄ったところに誰かが今しがた空から降り立った。距離があって判然としないものの、彼女は色とりどりの衣服をしていて、どうやら表門の方を見つめているらしい。
「あれって、商売繁盛の神さまじゃ、なかったっけ?」
秋 静葉が妹に寄り添って小声で耳打ちした。
秋 穣子が振り返ってあれを見る。レインボーを呈したワンピース姿の白マントは前触れもなく、例えばシェーのポーズか、あるいは、はにわの構えのように、その黄色い長袖を上下へとあべこべに歪曲させて、まるで見せ付けるかのようにそれを彼女らへ向けていた。確かにその少女は天弓 千亦だった。秋 穣子は2回まばたきすると、すぐ目を逸らした。
中年男性が鋼鉄製の錠前を取り出して、鋼鉄製の南京錠を開錠する、秋 静葉は彼が開こうとする米蔵を見上げていた。
石積みの基礎に厚い漆喰塗りの土壁、両開きの頑丈な土戸は握り拳より巨大なぶ厚い南京錠で施錠されている。2階建てもある蔵は全面ヒビも穴もなく、天井も瓦が隙間なく積まれている。見るからに燃えることもなく、崩れることもなく、ひとが盗みに入ることもない、それはあまりにも大きく、あまりにも重厚な蔵だった。
中年男性が南京錠を取り外して力一杯に土戸を引き開け、燭台に火をともして秋姉妹に手渡すと、「さあ入りなさい」と促した。
秋姉妹は深々と頭を下げて土蔵へと入った。入室ざま、秋 静葉はもう1度振り返って母屋の屋根の端へと目を向けた。天弓 千亦は表門に背を向けるように立ち、上下に差し向けた両の手を目元へ運んだ。まるで両の親と人差し指によって、自身の視界に長方形のフレームを形作って、こちらに見せているようだった。秋 静葉は眉間に眉をひそめると、すぐ目を逸らした。
蔵の中には米問屋にあったものに迫るほどの米俵が積み上げられている。秋 静葉が照らす蝋燭を頼りに2人は俵を1つ1つ調べていく。俵の中身までは確認しない。彼女らは俵のたが紐両端の隣り合う2ヶ所、計4ヶ所だけを確認して目当ての俵でないとすぐ別の俵を確認した。その間中年男性が出入口の前で彼女らを見守り続け、中年女性は彼の指図を受けてどこかへ走って行った。
しばらくの間、秋姉妹は談笑することもなく黙々と俵を調べ続けて中年男性、天弓 千亦もまた黙々とそれを見守っていた。そして1番最期の米俵の、両端のたが紐から手を離して姉妹はうつむき、秋 静葉がゆっくりと左右に首を振った。
中年男性に連れられて秋姉妹が表門に向かう。うつむきながらも秋 静葉は目の動きだけで母屋の屋根上を見て、すぐ目を逸らした。
天弓 千亦は腹元で腕を組み、首を傾げながら米蔵に背を向けて直立していた。
「ねえ、おねぇちゃん。」
中年男性の慰めの言葉を後にして、秋姉妹がその農家を立ち去った。
粗末な一本道。水の抜かれ、稲わらやたい肥の丹念に混ぜ込まれた田干し途中の耕作地が左右に広がる農道を歩き、もう高くに上がった太陽を前にしながら、秋 穣子が姉に訊いた。
「本当に、守矢さんなのかなぁ。」
秋 静葉が妹へ振り返り、その向こうを見やって、すぐ目を逸らした。向こうには今しがた立ち去った邸宅があって、その母屋の屋根が見えた。そこに少女の姿はなくなっていた。
「違うかもしれない。でも、私はもし断られても、忍び込んででも探そうと思ってる。蔵を持っている農家さんが犯人なのは間違いないから、守矢さんで見つからなかったなら、他を探せばいいって、そう思ってる。」
「少し、気が遠くなっちゃうね。」
「うん。」
秋 姉妹が農道を歩いている。しかし2柱とも前は向いておらず、むしろ足元を見ているようだった。
「相変わらず不景気そうな顔してますね~。」
突然声が聞こえた。秋姉妹は顔を見合わせると声の主を探して上を向いた。
「どうもどうも、いつもお世話になっております、豊穣の神様がた。皆さんご存じ、清く正しい射命丸 文です。」
黒く艶やかな翼をばさ、ばさと羽ばたかせて射命丸 文が2人の前に降りてきた。そして彼女は見るからにエネルギッシュな笑顔を、ものすごくにっこりとした笑顔に変えて、秋姉妹に問いかけた。
「いくつか取材をさせてください。」
「いいですけど、なんのですか?」
「盗まれたんでしょう、あなたがたのお米。」
秋 姉妹は互いに顔を見合わせ、2柱同時に問いかけた。
「どうしてそれを?」
「ご心配には及びません、何も怪しいことはしていませんので。理由はとても簡単です。うちの下っ端が翌朝、掘っ立て小屋の中で落ち込んでいるあなた達を見かけたんですよ。それで詳しく聞いてみまして、こいつは、このひとたちも米泥棒の被害者だなと、そう思ったんでございます。」
「...も?って。」
眉をひそめながら、秋 穣子が首を傾げて射命丸 文に訊く。
「米の窃盗被害はあなた方で5例目です。」
「...そんなに?!」
射命丸 文は万年筆と手帳を取り出して質問した。
「それで、被害状況はどの程度で?」
「被害、状況?」
秋姉妹は首を傾げて互いを見合わせる。射命丸 文が問い直す。
「米はいくらほど盗まれましたか?」
「ああ、たぶん、15か、6俵と少しくらい。」
「相当ですね、米はどこに置いていましたか。」
「わたしたちの、お米や作物を入れておく蔵の中です。」
「なるほど、犯人はその小ッ、蔵の鍵を破壊して中の米を盗み出したと。」
「いいえ、泥棒さんは鍵を開けて中に入ったんです。」
「なるほどなるほど、つかぬことをお聞きしますが、鍵を掛け忘れましたか?」
「冗談じゃない!」
秋 静葉が声を張り上げて反論した。
「蔵の鍵は河童さんの作ってくれた、かなり丈夫なのを使っているし、開ける時も閉める時も必ず穣子と一緒に確認しながらやっている。第一蔵の中の作物は、私たちを信じてくれている農家さんから預かっている、私たちにとって一番、いや農家さんの次に大切なものなんだ、家の戸に鍵がないから誰かに盗みに入られるならいざ知らず、蔵の鍵を掛け忘れることなんてあり得ないよ!」
「おねえちゃん。」
激しい身振りを展開する秋 静葉の肩を、彼女の妹が優しくつかんだ。
「となると、ずいぶん不可思議ですねぇ。」
筆の後端を唇に当てて射命丸 文が眉をひそめる。秋 静葉は恐る恐る聞いた。
「どうして?」
「これまでの4例はいずれも命蓮寺の檀家が被害者です。どれも防犯意識の薄い水飲み百姓で米の被害も2、3俵程度でした。狙う相手も犯行手口も被害の規模も全部違います。あるいはこれまでの4例と今回の事例とは別の犯人によるものだと考えるべきでしょうか。」
秋姉妹はぽかんと口を開けると2柱揃って首を上下に頷かせた。
「それで、今あなたがたは何をしているのでしょうか?」
「盗まれたお米を探しています。」
射命丸 文は筆を止め、品を定めるように秋姉妹を睨みつけると、また筆を進めた。
「こんなだだっ広い田園地帯のど真ん中で、どうやって?」
「俵を見れば、盗まれたものかどうか、見分けることができるわ、だから農家さんに1軒1軒回って、蔵の中を見せてもらっているのよ。」
再び筆を止め、上目に何かを睨む、秋姉妹を向いているようで彼女を睨んでいる訳ではない。しばらく考えると、秋姉妹に言った。
「悪いことは言わない、こんなこと無駄だから別の方法を考えましょう。」
「でも、他にいい方法なんて思いつかないよ。結局いつだって地道に努力して積み重ねていく以外じゃ上手くいかないんだ。」
「果たして、あなた方が今積み重ねている努力に、目的は伴っているのか。」
「お米を取りかえ」
「そうではない。」
射命丸 文は秋姉妹を制した。ゆっくりと落ち着きのある態度だった。
「私にはどうもあなたがたが、非常に刹那的に、或いはもうヤケクソになって走り回っているようにしか見えません。あなたがたは農民にあたりを付け、その米蔵を怪しみましたが、本当はそこに、まともな理由なんて無いんじゃないのでしょうか。ただあなたがたが農民だから、農民の他に憎しみを向けるのが恐ろしかっただけ、米の隠し場所といえば蔵だと思ったから、蔵のある長者の家を狙っただけなのでは。あなたがたが先程押しかけた家は守矢神社の信徒の家ですね。あなたがたはその感覚のどこかで、守矢神社とその信徒を、敵であると認識しているのではないでしょうか。だから犯人は守矢信徒の蔵を持った富農に決まっていると、そう信じるのが一番、楽だっただけなのではないでしょうか。そう思ってしまったんです。あなたがたが、理由や根拠を持って捜査しているのではなく、ただ一番楽な探し方をしているだけなんじゃないかと。」
話し終えた頃には、秋姉妹は2柱ともうつむいていた。射命丸 文はパタンと手帳を閉じると、側頭部を搔きむしって笑った。
「すみません、言い過ぎました。世間知らずな天狗女のざれ言だと思ってお聞き流し下さい。これ以上私がいては邪魔でしょう、ここで退散いたします。取材協力、ありがとうございました。豊穣神様がたのご健勝を心よりお祈り申し上げます。」
射命丸 文は深く一礼すると振り返り素早く飛び去って行った。秋姉妹はしばらく立ち止まっていたが、秋 静葉が歩き出し、秋 穣子もそれを追った。2柱の足取りは少し重くなっていた。
次の邸宅の門前へ辿り着いた。戸を叩いて人を呼ぶと、案外早いうちにそれは開き、どっぷりとした老齢な男性が出迎えた。
しかし秋姉妹が何か言うよりも先に男性は「帰ってください。」と答えてすぐにその戸を閉めようとした。
「ちょっとまって!」
秋 静葉が慌てて引き戸を掴み、戸が閉め切られることを制止した。老齢の男性と閉める閉めないの力比べをしながら、彼女は頼んだ。
「お願いします、私の、農家さんたちの、お米が、盗まれたんです。どうか、見つけるの、手伝ってください。」
「ご近所から連絡が回ってきましてね、豊穣の神様が米を盗まれたと因縁をつけて蔵の中を嗅ぎ回っているって、迷惑だとは思いませんか。言われもないのに犯人扱いされて、好き勝手に蔵の中いじくりまわされるなんて。うち等は何も悪いことしてないですから、どうぞお引き取り下さい。」
「そこをなんとか、絶対に、見つけなきゃ、いけないんです。農家さんの、生活にも、関わることなんです。どうか、助けてください。」
「それじゃあ、うちじゃないですよ!他当たってください!」
秋 静葉が戸板を手放して後ずさる。老齢の男性は戸を閉めるのも忘れて彼女を見つめる。秋 静葉はすかさずしゃがみ込んで額を地面につけて叫ぶように言った。
「お願いします!ご迷惑はおかけしません!お願いします!」
「お願いします!」
秋 穣子も続けざまに土下座をした。間もなく疲れたようなため息が聞こえて、シャー、パシンと戸の閉まる音が聞こえた。それでも秋姉妹は頭を上げることなく、そこに留まり続けた。そのうちにどちらかから、むせび泣く声が聞こえるようになった。
東風谷 早苗が走っていた。彼女は守矢神社で洩矢 諏訪子、八坂 神奈子と共に味噌汁、焼きしゃけと中さじ1杯の大根おろし、白米を並べて小つぶ納豆をかき混ぜていたところ、突然守矢信徒が境内に駆け込んできて秋姉妹が暴れていると訴えて来たため、すぐさま彼女を抱えて現場まで飛び、詳細を聞いたのち近くの守矢信徒邸宅まで走っていた。
邸宅が近づいてその表門を見やった時に東風谷 早苗は全体重で急停止し、それに加えて3歩後ずさった。表門の前には建物に向かって土下座する秋姉妹が土下座したまま泣いているのが見えた。
隙のない木塀の腰板付近に3柱の神が座っている。横一列に膝を抱えて並んでいて、その中央にいる秋 静葉は既に落ち着きを取り戻し、涙も乾いていた。
「なるほど、盗まれたお米を見つけたくて、うちの信者さんにお願いして蔵の中を見せてもらうとしていたと。」
「はい、そうなんです。疑うようなことしちゃって、ごめんなさい。」
「いいんですよ、お百姓さんがそんなにも追い詰められたんです、仕方ないことです。それにしたって、うちの本百姓さんの米俵を見ても、なにか分かるんですか?中を見ても、入ってるのは白いお米だけですよ。」
「私たちのお米は、まだ殻が付いていますので。」
「なるほどぉ、まだ殻が付いているから全部殻が取れてる私たちのお米とは見分けられるってことですね。じゃあ取っちゃったら分かんないんじゃ?」
「もう1つある。」
頭上を飛び越えて会話する2柱の間から、秋 静葉は漏らすように言った。
「私たちの農家さんのうち、畑を持っていない人には、私たちの田んぼでお米を作ってもらっている。そうして作ってもらったお米はまず全部収穫して、私たちの蔵の前に集めてもらって、そこから人里に卸す分と、みんなに配る分と、うちに貯めておく分とに分けている。そして貯めておく分にだけ目印をつけている。目印のない方だけを売りに出したり、農家さんに配り直したりしている。だから盗まれた俵にはみんな目印が付いているはずなんだ。」
「それはどんな目印ですか?」
「お米を縦に立てた時の1番下の横紐と、縦紐との結び目4個のうち、手前の2個にもみじの葉っぱを織り込んでいる。結び目にねじ込ませているから簡単には取れない。もしそれが見つかって取られたとしても、葉っぱのくずが縄に残っているはず。今の私たちには、それしか残っていないんだ。」
「なるほど、盗まれたお米にはもみじの目印が付いている。もみじの葉っぱが見つかれば事件が解決すると。」
秋 静葉が「そうよ。」と答えながら東風谷 早苗を見上げた。彼女は秋 姉妹に見向きもせず困ったような表情であごに指を当て、空を見上げていた。そして空を見上げたまま口を開いた。
「秋姉妹さん。」
「はい?」
「私たち守矢のお米をくまなく調べて、そのどこからも、もみじの葉っぱが見つからなかったら、うちのお百姓さん達の潔白は、証明されますね。」
「はい。間違いなく。」
「うーん。よし!そいじゃあ一丁、片づけますか!」
東風谷 早苗は立ち上がり表門へと駆け寄って、戸板の縁に手を掛ける。それを開ける前に彼女は秋姉妹へ向き、晴れやかに笑って「ちょっと待っててください!」と言って戸を開けると、間もなく誰かに挨拶しながら入って行き戸を閉めて、すぐにまた戸を開けて顔だけ出すと「もう入っていいですよ!」と言って2柱を招き家屋へ入らせた。
結局、盗まれた米は見つからなかった。
「うちの本百姓さんはあと4軒、ちゃっちゃと探してちゃっちゃと終わらせちゃいましょう!」
粗末な一本道、左右に耕作地が広がる農道を歩きながら、東風谷 早苗はやけに明るく秋姉妹に言った。
「えっと、早苗さん?」
大きく左右に広げた手を後ろに回した頃に声を掛けられ、東風谷 早苗は振り返って後ろ歩きしながら首を傾げて聞いた。秋 穣子は眉を八の字にしながら笑っていた。
「どうかしまたか?」
「一緒に手伝ってくれるのはありがたいんですけど、どうして?」
「困ったときはお互いさまって、言うじゃないですか~。それに、うちの信者が潔白だって分かってるんなら何も隠し立てだっていらない訳で、早いとこ終わらせちゃった方が手間が少ないんです!こうやって秋姉妹さんのお手伝いをすれば、うちの信者さんのためにもなるんですよ。」
秋 静葉はむっとした顔で問いかけた。
「それにしたって、あなた達からすれば、さっきの農家さんみたいに相手にしなくてもいいはずだよ。それなのにどうして、こんな親身になってくれるなんて。」
「どうしてなんでしょうねぇ、まぁ、そういうもんなんですよ!」
「そんなことない、おかしいよ。」
東風谷 早苗は秋 静葉にむっとした表情を見せ返し、胸の高さに両握り拳を構えて反論した。
「おかしいとは何ですかおかしいとは!まあ確かに、私も今はただの人間ですけど、これでも立派な神さまのひと柱、とまで言えなくても、ちゃんとした神さまの端くれに、毛が生えたくらいではあるんですよ。いま目の前に苦しみに苛まれて、悲しんでいるひとがいるのなら、例えわが身を犠牲にしてでも手を差し伸べて、救い出してあげたいって、そういう気概くらい、私だって持ち合わせているんですよ!ばかにしないでください!」
言い切ると東風谷 早苗は秋姉妹に背を向けてしまった。秋 静葉は困惑した。
「べ、別に馬鹿にしたわけじゃ。だって私たちって、同じ農家さんたちを奪い合う、言わば敵同士じゃ」
「敵じゃないですよ!」
いきなり高いトーンの声で東風谷 早苗が言い返した。
「へ?」
「なんだそんなことか~まったく秋姉妹さんったらばかだなぁ。」
「へ?」
東風谷 早苗が再び振り返ると両手を一杯に広げながら、曇りなき笑顔を秋 静葉に見せた。秋 静葉は口の形が「へ」になった。
「私たち神さまにとって未信者ってのは誰であれ、まだ信じてないひと、これから信じてくれるひとのことを言うんですよ!今日信じてないだけで明日信じてくれる、今間違えているだけであって、これから正してくれる、いえ私たちがこれから正してあげなきゃいけない!救ってあげなきゃいけない!ただの可哀想なひとたちなんですよ。だから私たちにとってあなた達は、助けてあげなきゃいけないひとであって、決して敵なんかじゃないんです!」
秋姉妹はぽかんとして彼女を見つめていた。東風谷 早苗はまたにこりと首を傾げて続けて言った。
「だから秋姉妹さん、あなた達だっていま困ってるんですから、どうぞ気兼ねなく、私達に助けられてください!」
秋 静葉は全身が脱力し切って、握り拳もほどけていた。向こうに邸宅が見えて、東風谷 早苗が指差した。
「あ!本百姓さんの家が見えてきましたよ!ちょっと話をつけてきますね!」
東風谷 早苗がタッタッタッタと走って行く、それを見届けた秋 静葉は立ち止まって、それを見て秋 穣子も立ち止まった。
「立派なひとだなぁ。」
「うん、立派な神さまだね、おねえちゃん。」
左右に耕作地の広がる農道、まだ高くにある太陽を背後に構えて秋姉妹が歩いている。秋 静葉は遠くを見据えて、秋 穣子はうつむいていた。
「見つからなかったね、おねえちゃん。」
結局、盗まれた米は見つからなかった。彼女らは守矢信徒の全ての米蔵を見て回り、東風谷 早苗は彼女らに対して文字通り献身的なほどに協力したが、最後には「自分にできることはここまで」と告げて、彼女とは別れることとなった。
「でも、よかったよ。守矢さんじゃないって分かったから。1回、お家に帰ろっか。次にどこの農家さんに当たるか、一緒に考えよう。」
「どうもどうも秋の神様がた。」
秋姉妹の頭上から声が聞こえた。聞き覚えがある。姉妹は空を見上げた。
「どうも、清く正しい射命丸 文です。泥棒探しの調査はいかがですか?」
「私たちが探してるのはあくまで盗まれたお米だよ、泥棒じゃない。」
「おお、これは失礼いたしました。まま、そんなことはさておき、盗まれたお米は見つかりましたか?」
秋姉妹はどちらも答えず、彼女から目を逸らした。
「そうですか、残念です。さて、先ほどは、守矢神社の早苗さんとご一緒でしたね、やはり何かトラブルでも?」
「いいえ、早苗さんはとても親身になって手伝ってくれましたよ。トラブルなんてありませんでした。」
「ほうほう。」
射命丸 文は開いた手帳にメモをして少しの間質問しなかった。ペンを止めてから彼女は話した。
「ですが教祖は寛大でも信者はそうとも限らないようで、あなたがたが守矢の農家に押し掛けたとして、さきほど守矢信徒の有力者達が会合を開きました。議題が議題ですので、会合が終わり次第、彼等からあなたがた、あるいはあなたがたの信徒等に対し、何らかのアクションがあると考えるべきでしょう。」
「そんな。」
秋 穣子が口元に両手を近づけて言った。秋 静葉は今もうつむいている。
「仕方がないよ。」
「取り越し苦労であればそれに越したことはありませんが、どうぞお心に留め置いてください。それともう1つ、この辺では、あなた方のことはもう既にちょっとした噂になっているらしく、あなた方の、」
「…―い。」
秋 穣子が顔を上げて周囲を見回す。どこかから声が聞こえたような気がした。
「噂をすれば。」とつぶやいて射命丸 文は頭襟を押さえて飛んで行った。
「おーい。」
秋 静葉が一本道の向こうへ目を凝らす。声は前よりも少しだけはっきりと聞こえた。
「おねえちゃん、あのひとってたぶん、」
「おーい、穣子さぁーーん!」
備中ぐわを1本、両手に抱えて駆けて来る中年の男性の姿があった。
「あ、農家さんだ。どうしたんだろ。」
四畳半程度の木造の小屋、中には40名余りの老若男女と2柱の神がぎゅうぎゅうに詰まっている。脆い両開きの戸は閉め切られ、人と神の狭間にあるわずかな隙間に置いたオイルランタンの、ごま油と低含水エタノールの混成油が灯す、申し訳程度の炎だけが部屋の中を照らしていた。
秋姉妹は1番奥の壁に背を付けて、腕を隣り合わせて正座していた。会衆は彼女らの目の前にいる数名のみが座り、他は立っている。壁に近い者ほど年若く、少年少女は皆壁に張り付くように並びながら、集いの内容に耳を傾けている。
姉妹の正面には口元に髭を蓄えて顔中に皺の入った老人が、床板に正座して、腕を組みながら眉間にまで皺を寄らせていた。両者の間には、そこに残された僅かばかりの籾が寄せ集められ山を作っていた。秋 静葉の脇にはオイルランタンが、秋 穣子の脇には3分の2ほどのところですぼんだ米俵の半端が置いてあった。
2柱とも、その視線は彼からそれているようだった。
「水臭いじゃありませんか、穣子さん、静葉さん。」
老人が口を開いて、2柱は彼へ目を会わせる。
「言ってくれれば、私共総出で泥棒探しを手伝いましたのに。」
秋 穣子は表情を一切変えず彼へまっすぐに向く。秋 穣子は両手を組み合わせて口元をほころばせた。
「2人だけで探すより3人で、3人で探すより4人で、5人で探す方が、よっぽどいいじゃありませんか。私たちはね穣子さん、静葉さん、あなたの大切なものが何であれ、何者か悪い奴に盗まれたとあっちゃ、いつだって、その悪い奴を探し出し、取っ捕まえて、あなたに全部お返しする、ともすればあなたを枕に討ち死にする、その準備も、覚悟も、いつだって、できているんですよ。ここにいる全員ね。なぁ、そうだよな!!」
「おお!!」
老人が振り返りながら会衆に問いかける、会衆は皆ほぼ一斉に声をあげた。特に青年衆の声が大きく、小屋の外までも確実に響いている掛け声は凄まじく野太かった。老人は無邪気に笑い深く座り直すとその表情を秋姉妹へ向けながら言った。
「そういうことです、穣子さん、静葉さん、今すぐ行きましょう、盗まれた、あなたのお米と泥棒を探しに。守矢農家の蔵を探している途中でしたんでしょう、早く次へ向かいましょう。ここにいる全員が、あなたについて行きますよ。」
「でも、私たち、守矢神社の早苗さんにすごく良くしてもらって、守矢神社の農家さんの蔵はもうぜんぶ見せてもらったんです。それでも、見つからなかったから、たぶん守矢さんじゃ、」
秋 静葉が両手のひらを老人と全会衆に向けながら答えた。彼はきょとんと眼を丸めると、長いあご髭を右手で2回なでおろした。すると背後から誰か若い男の声がした。
「蔵に無かったんなら、きっと床下に埋めてるんだ!」
「そうよ、その通りだわ!守矢の床下が怪しい!」
「やるぞみんな!守矢の床下ぜんぶ掘り返してでも穣子様の米を取り返すんだ!」
小屋中から色々な声があがる、聞き取ることのできるようなものもあれば、できないものも沢山あった。
半身をねじって老人が会衆を見回している。そして上体を戻すと、彼と秋 静葉の目が会った。彼はしきりにあご髭をつまみ、力無く小口を開けて眉をひそめ、ゆっくりと小さく首を左右に振っていた。
秋 静葉は再び会衆を見回すと慌てて立ち上がり、肩の高さに突き出した両手のひらを床方向へ緩やかに振りながら全員に向け叫ぼうとした。
「ちょ、みんな!ちょっと待っ」
しかしそれはできなかった。
「よかったねおねえちゃん!みんな、わたしたちのこと助けてくれるって!よかったね!」
会衆に向けた秋 静葉のその両手を秋 穣子が奪い取り、力一杯にぎゅと握りしめ、涙ながらに笑って彼女を止めた。秋 静葉は続きの言葉を失って、ただ彼女を見つめていた。秋 穣子は姉の両手をぎゅと握ったまま2回膝だけを折り曲げる形で飛び上がると手を離し右人指し指で両目を拭うと会衆に向け立て続けにお辞儀しながら「ありがとうございますありがとうございます」としきりに礼を言っていた。彼女にあわせて会衆の声はだんだんと大きくなっていき、老人はうつむいているようだった。
左右に耕作地の広がる1本の農道を数十人の老若男女と秋姉妹が歩いていた。皆一様に日の丸鉢巻きを付け、誰もが木製の鍬や鋤を持ち、秋 穣子は右手に掲げた鍬を上下させながら「えいやえいや」と掛け声をあげて、大多数の会衆もそれに続いていた。
秋 静葉はうつむいていた。
昼前彼女らが歩いたのと同じ道、間もなく最初に中に入れてもらった農民の家が見えてきた。それと共に会衆の声は一層大きく張り上がり、秋 静葉は顔を蒼ざめ足を止めるが、背後の声が間近に迫ったためすぐまた歩き出すも、その歩幅はとても小さく、妹について行くためか1歩1歩が素早かった。
家屋の表門から割烹着姿の中年女性が飛び出してくると、すぐ家屋へと飛び込んでいった。会衆がとてつもない雄叫びをあげた。
炸裂音と共に目の前の農道が吹き飛んだ。辺りに砂埃が舞い上がり、会衆の雄叫びが凍り付いた。一行の目の前に誰かが無数の弾幕を打ち込んだ。
会衆と2柱の神が天を見上げた。青空の下、空高く照る太陽を背に向けて、誰か少女がそこにいた。しかしそれが誰かに疑問はなかった。日に全てを隠され影まっているようでも、しかし会衆にはそれが見えた。彼女は色とりどりのワンピースを身にまとい、逆光でも白いと分かるマントをはためかせ、シェーか、あるいははにわのポーズのようにその黄色い長袖を上下にねじって、間違いなく全会衆へその全身を向けていた。誰も目を逸らさなかった。
天弓 千亦が言った。
「今すぐこの暴徒を解散させなさい。貴方達がこれから試みようとしている行為は、市場を破壊する行為に他ならない。貴方達は今、宗教的相違を理由に他の生産農家を襲撃して農耕資源を簒奪しようと試みている。それは市場への農耕資源供給の停止或いは著しい遅延或いは著しい偏りを招き、食糧価格や一次産業における経営環境の急変といった不必要な市場の混乱を招くことになる。市場はそのような身勝手な経済工作を許す訳には決してならない。今すぐこの暴徒を解散させなさい。さもなくば貴方達にとっても、市場にとっても、誰にとっても望まない結果が、訪れることであろう。」
「簒奪とは何よ!人聞きの悪い。私たちは取り返そうとしているだけなのよ!私たちが盗まれたお米を私たちが取り返して何が悪いって言うの!」
誰よりも前に出て、誰よりも先に張り裂けんばかりの大声で彼女に異を唱えたのは秋 静葉だった。言い終えた瞬間、彼女はハッと息を呑んで我が目を丸めた。
天弓 千亦は力強い、しかし勢いのない落ち着いた声で一行に返した。
「酷い建前だ。自分達がただ闇雲に他人に因縁を付け、暴力を振るおうとしていることを、気付いているはずだというのに、目を背けようとしている。自業自得という、その真実に。」
「自業自得?私たちが何したって言うの!悪いのはお米を盗んだ泥棒じゃない!」
秋 静葉が言った。動揺の色を隠せない瞳とは裏腹にその声は一層強く荒げていた。言い終わった頃に彼女は自分で自分の口を両手で押さえようとしていることに気が付いた。
「守谷系の農家では被害が無く、命蓮系の農家は軽微な被害で済んでいるのに、なぜ貴女達はこれだけ大きな被害を出したのか、貴女達の備蓄米倉庫は本来、全信徒の資産を一手に握る貴女達にとっては最重要な施設であるはずなのに、その防犯設備と言えば建て付けの悪い木造ドアに外付けの錠1つだけ、他勢力との被害の違いは防犯設備への投資量にある。そう言っても過言じゃないでしょう。被害の原因として犯人を非難するのは楽なものの、その根本問題は自己の資産に対する防犯対策を怠った貴女達にあると言わざるを得ない。」
秋 静葉は答えなかった。震える呼吸を肩でして、同じ瞳のまま天弓 千亦を見つめていた。
「ひどい!!このまま泣き寝入りしろって言うんですか!!!」
秋 穣子が答えた。秋 静葉が自身の隣を向き、妹の鬼気迫る面持ちを見つめた。それは彼女の知る限り間違いなく、今年度最も強く張り上げられた、妹の発する叫びだった。
秋 静葉が背後の会衆を見回す、妹に続いて彼女の農民たちが口々にざわめき始め、中には天弓 千亦に何か訴える者もいた。
「第一!」
会衆の声が止まる、天弓 千亦の一言によって。彼女は続ける。
「これから貴女達が向かおうとするあの家屋は、既に貴女達が昼間押しかけて蔵の中を調べ、自分達の米が無いことを確認した生産農家の家屋のはず、2度も押しかけて一体何をするつもりか。」
天弓 千亦は頭上へ向ける右指先を背後の邸宅へ差し向けると、こめかみのすぐそばへと元に戻した。秋 穣子は口をつぐんで、まぶたを揺らしながら後ずさった。
「蔵がなんだ!おれらは守矢の床板ぜんぶ剥がしたって穣子様の米を掘り返すんだ!部外者は黙っとれ!!」
「そうだ!よそ者は出て行け!」
「あたしらの邪魔をするな!!!」
秋 穣子の後ろから野太い男声が怒鳴り上がった。それを追って全会衆が一斉に声をあげ、天弓 千亦へ雑言を浴びせた。その声に押されて秋 穣子も絶叫し、半身を揺らして何やら訴えた。秋 静葉は恐る恐るに妹の肩を掴もうとするも、それは指先が触れただけに過ぎず、のたうつ身体に弾き飛ばされるだけだった。
天弓 千亦は足元へ差し向けた左手を腰に据えたままに、こめかみに添えた右手を天上、正面、天下へと大回しにゆっくりと動かして、その人差し指を秋姉妹ら全会衆へとまっすぐに向けて突き付けた。罵詈する会衆の轟音が止まり秋 穣子の怒号だけが残った。
「わたしたちは戦う!わたしたちは!!!あんたなんかに!!あんたなんかには絶対に止めさせない!!」
秋 静葉が秋 穣子の右肩を左手で堅く握りしめて彼女の揺動を強く引き留めたが彼女は止まらなかった。枯渇する呼吸に気すら留めずに彼女はなおも怒鳴り続けた。
「これ以上わたしたちを踏みにじるなこのく
秋 静葉は秋 穣子の胸元を経由して右手を回り込ませて彼女の左肩を握りしめ、妹のことをぐいんと力一杯にねじり回し、彼女と自身を密着させて向き合わせた。秋 穣子は姉と向き合うと目の色を変え、荒げる呼吸を整えると言葉を止めた。そして左頬に涙を伝わらせた。
「おかしいんじゃないですか、親切にも1度受け入れてもらえた家へ2度も押しかけて家中を荒らした挙句、基礎まで掘り返すとは、そんなことして彼らが許すと思うんですか、許すはずがない。全ての守矢信徒は皆一様に堪忍袋の緒を切らして、武器を取り貴女達に戦いを申し込むでしょう。そして圧倒的な人員、物量、力で貴女達を屈服させ、貴女達全員に、謝罪と、賠償と、そして死を要求するでしょう、守矢相手に規模も資本力も、いや何もかも敗けていることなど貴女達だって知っているでしょう、それなのになぜ立ち向かおうとする、立ち向かうことが出来るとでも思ってるんですか。」
「できる!わたした、。おねえちゃん?」
再び肩を掴まれたため、秋 穣子は振り返った。秋 静葉は妹に手を乗せたまま鉢巻きを外して首を横に振っていた。
「できないよ、私たちがおかしかった。」
「おねえちゃん。」
秋 静葉は手を離し腕を降ろすと彼女らの農民へ向かい立ち直した。彼らは彼女へと注視する。
「盗まれたお米は、私と穣子で必ず見つけ出して、皆さんにお返しします。今日、皆さんの生活に関わる大切なお米が盗まれてしまったこと、皆さんに大変なご心配をおかけしてしまったこと、本当に申し訳なく思います。」
震える声で秋 静葉が会衆に言う。そして右足、左足と膝を折り曲げ、地面に座った。
「だけど、今日のところはここでお気を静めてください。これ以上行き過ぎたことをすると、取り返しのつかないような酷いことが、皆さんにまで降りかかってしまいます。」
「おねえちゃん?」
秋 静葉は右手、左手と握り拳を開いて、地にぺたりと貼り合わせて身を支えた。日の丸の鉢巻きが泥の中で擦りにじられる。
「いつか、いつになったとしても、盗まれてしまったお米は、私たちが必ず見つけ出して、皆さんに必ずお返しします。だから皆さん、今日のところはどうか、お帰りください。」
秋 静葉は両肘をぐぐぐと折り曲げて深く腰をかがめると、農民に向かって地面にその額を擦り合わせ、土下座した。
「そんな、だめだよおねえちゃん、神さまが土下座なんて。」
秋 穣子は姉の肘を掴んで引っ張り上げようとするも彼女はそれを振り払ってなおも額を地べたに押し続けた。会衆が口々に話し合いだんだんと姿勢を低め始める。ある者は後ずさり、ある者はかえって秋姉妹に歩み寄り、ほとんどはその場に立ち尽くすが、四半数は秋 静葉を見下ろし、四半数は天弓 千亦をけげんに見上げ、残る半数は秋 穣子の顔をうかがっていた。
秋 穣子は、彼らを見ることができなかった。今一度秋 静葉を起こそうと試みるもそれも叶わなかった。姉のことも見ていられなくなって、会衆へ目を向けた。
崩れるように両膝をついて、両手をつくと、伏し目がちに首をうつむかせて、秋 穣子はその額を地に着けた。
「どうもどうも、豊穣の神様がた。」
しばらくが経ってからのことだった。すぐ脇から声が聞こえた。誰かがすぐ傍まで立ったかと思うと、その奥から「帰るぞ、そうするしかないんだ。」と聞こえたのを最後に、数分ぶりの人語だった。
「頭をお上げください、色んなひとから笑われますよ。私です、清く正しい射命丸 文です。あなたがたの信徒はみんな素直に帰りました。よく見まわしましたので間違いありません。あなたがたは既に直近の義務を果たされたんですよ。もう大丈夫です。頭をお上げください。」
秋 静葉はそこまで言われると身を起こした。秋 穣子は既に起きていて、地べたに正座したままうなだれていた。すぐ脇には射命丸 文がかがみ込んでいて、どこか安堵したような表情を浮かべていた。
「さて、秋の神様がた、悪いお知らせがあります。先ほど守矢信徒幹部陣の会談が終了しました。守矢の農民連中から壮年男子を集めて自警団とし、あなたがたに抗議に向かうことが議決したと言います。このことは既に早苗さんにも伝えておりますので、守矢信徒とあなたがたの直接的な衝突は避けられるとは思いますが、武器を持った集団があなたがたの目の前まで迫ってくることは覚悟していただいた方が良いかも知れません。」
秋 静葉が立ち上がり、空を見上げ、すぐ目を逸らした。もう既に天弓 千亦はいなくなっていた。妹はまだ座っていた。
「穣子、おうちに帰ろう。今日はもう、疲れちゃったよ。」
「どうして。」
「え?」
「どうして!どうしてみんな帰しちゃったの!おねえちゃん!せっかく農家さんが手伝ってくれるって言ってくれたのに!ひどい!ひどいよ!」
秋 穣子は突然立ち上がって秋 静葉へ向かって声を荒げた。
「ひどいって、だってあのままじゃ」
「第一お米見つけようって言ったのおねえちゃんじゃん。だからわたしたちはおねえちゃんのために、みんなでお米探そうって頑張ったのに、なんでおねえちゃんが土壇場になって全部投げ出しちゃうの!おかしいよ!」
「おかしいのは穣子の方よ!農家さんにバレたのをいいことにみんなのこと焚き付けて、守矢さんが怪しいなんていい加減なこと鵜呑みにして、終いには暴動じゃない!あのまま進んでたら本当に何が起きてたか分からなかったのよ!」
「ちょ、ちょっと、私がいる前で喧嘩は」
射命丸 文の仲裁はどちらも聞いていなかった。
「そんなことないわ!ちゃんと守矢さんにも事情を話してからじゃないと絶対に守矢さんの家を掘ったりしなかったし、掘った穴もちゃんと埋めてたよ!」
「いい加減なこと言わないで!あの人数で押しかけるのよ、事情を話しても入れてもらえないし穴掘るどころじゃないくらい色んなものを荒らすに決まってるじゃない!」
「なんで農家さんのことを信頼できないの?おかしいよ。盗まれたことも農家さんに隠そうとするし、農家さんが助けてくれるなんてこれっぽっちも思わないし!農家さんに対しても、わたしに対してもカッコ付けることばっか考えてるよ!おねえちゃん変なとこでプライドが高すぎるよ!」
「逆よ!穣子が農家さんに甘えすぎてるのよ!農家さんが私たちを助けてくれるなんて発想がそもそもおかしいのよ!私たち神さまなんだよ?私たちが農家さんを助けなきゃいけないのよ!私のプライドが高いんじゃない、穣子が神さまとしての自覚がなさすぎるのよ!」
「じゃあ何で!おねえちゃん農家さんに向かって、土下座なんかできるのよ。矛盾しすぎじゃない!。。。」
秋 穣子のその声には怒号と共に涙が含まれていた。
「それは、私も、穣子も、神さまとして失格なくらい、情けないからだよ。」
その声にも涙が混じっていた。彼女はそれをこらえるべく、それを言い切ると口も目も、堅くつぐんだ。
「そんな、どうしろって言うのよ、わたしたちの農家さんだって」
「違う、私たちの農家さんじゃない。」
秋 穣子は目を丸めて、秋 静葉を見つめた。秋 静葉は彼女と目が会うが、すぐにうつむくように目を逸らし、力一杯に両瞼を閉じた。
「穣子の、農家さんだよ。」
「そんな、ひどい。どうしろって言うのよ、どうしろっていうのよ!」
秋 穣子が必死に目をつむるが、その隙間を押し広げて涙が溢れ、「あああぁ、あああぁ、」と、彼女は声をあげて泣き出した。
秋 静葉はふさいだ両目を咄嗟に両手で覆い、唇から歯がむき出しになる程に口を強く噛み締めた。
射命丸 文は静かに首を振ると、振り返り、何も言わず飛んで行った。残された2柱は向かい合って泣き続け、秋 穣子は膝を突いて座り込んだ。袖で目元を拭って、秋 静葉が妹に寄り、語り掛けた。
「ごめんね、穣子。私、言い過ぎちゃった。おうち、帰ろう。守矢さんにも、謝らなきゃ。」
折り曲げた人指し指に涙を1粒移し替えて、秋 穣子は姉を見上げた。
「。。。おねえちゃ。あ、泥棒だ。」
「え?」
秋 穣子は姉を見上げながら、唐突に目を丸めた。秋 静葉はそれに気づいて眉をひそめた。しかし厳密には彼女は姉を見上げている訳ではなかった。そのことに気が付いて秋 静葉は振り返り、見上げた。
「あ、泥棒だ。」
山の上空から森の奥へと、等速で直進し続ける黒い点が空にあった。
目を凝らすとそれは黒い点ではなく生き物らしく、直進しているのではなく箒に乗って飛んでいるらしいことが分かった。
秋姉妹は互いに見合い同時にうなずくと彼女へ向かって浮かび上がった。彼女らの瞳の涙はもう乾いていて。むしろ血走っていた。
「待て!泥棒!!私たちのお米を返せ!」
秋姉妹が彼女へ飛び寄りながら大声でそれを呼び止める。
声に反応してか空中で止まり、霧雨 魔理沙が振り返った。彼女は左手で箒の柄と竹皮を握って、右手で1握りのおむすびを持ってそれをもぐもぐと頬張っていた。頬や下あごに2粒の米を付け、きょとんとした眼で秋姉妹を見つめていた。
「泥棒?米を返せ?いったい何の話なんだぜ?」
「問答無用!あんたの手にあるそのおにぎりが何よりの証拠よ!どこからそんな物を手に入れた!」
「これは今朝、霊夢が私のために作ってくれたものであって、断じて」
霧雨 魔理沙が風の中に竹皮を投げ捨てながら秋姉妹に答える。
「問答無用!今すぐわたしたちと勝負なさい!わたしたちが勝った暁には、あなたの盗んだお米を、1粒残らず返してもらうわよ!さあ覚悟なさい!」
秋姉妹が霧雨 魔理沙へ両手を指し向けて2柱同時に立ち向かった。
霧雨 魔理沙は指に付いた3、4粒の米を舐め取るとトンガリ帽子のツバをめくってその奥から取り出したミニ八卦炉を彼女らへ向け、何も言わずにマスタースパークによく似たビームを放った。
七色の閃光と奇妙な発射音が伴う、見るからにマスタースパークな極太ビームで、隣り合って突撃してくる秋姉妹を一飲みに焼き尽くしたが、カードの提示やスペルの提唱すらないあたり、マスタースパークではないことだけは確実だった。
真っ黒に焦げた秋姉妹が力なく自由落下して雑木林に衝突した。その顛末を見届けた霧雨 魔理沙はミニ八卦炉を帽子に戻し、口周りの米をつまみ取って唇に運び、「ったく、迷惑な妖怪だぜ。」と小言を漏らしながらパタ、パタと両手のひらの埃を打ち払って箒の木の柄を握り直すと、再び森の奥へと飛び去って行った。
八方道の塞がった森林地帯の木々の隙間に秋姉妹が横たわっていた。一見死んだのかと思えるほどにぐったりと横たわっているが、生きていた。それでも彼女らは、起き上がることも立ち上がることもなく、向かい合い話し合うこともなかった。笑うこともなければ、もう涙も流れなかった。
何もしないことにも飽きた秋 静葉は雑草の長いのを選んで、指に絡めさせていた。
その指先の向こうに、ディープブラウンのレザーブーツが歩いて来た。ブーツの手前で虹色のスカート裾が、奥で真っ白なマントの端が揺れていた。
目を逸らそうかと迷うも諦めて、秋 静葉は彼女を見上げた。
「まったく、貴女達ときたら。」
天弓 千亦は相も変わらず、人指し指だけ伸ばした両手の左を脇腹に、右を側頭部に抱え込んで、片眉を垂れ降ろさせて彼女のことを見降ろしていた。
「蔵を見せなさい。貴女達の、盗まれた現場を。」
秋 穣子は反応を示さず、秋 静葉も言葉では答えず、せいぜい目だけで見上げていたのを首をひねらせて見上げ直した程度の反応だった。
「あーもう!」
天弓 千亦は秋 静葉を肘を掴んで引き起こし、両肩を握って立たせると前後ろ前後ろに振り回してから彼女の顔をまじまじと見つめ、彼女の左頬を右手で間髪入れずにひっぱたいた。彼女は右へ2歩よろめいて立ち止まると、左頬を押さえて天弓 千亦にうそぶいた。
「なんですか、いたいじゃないですか。やめてくださいよ。」
「良いから、そんなこと。さっさと妹さん起こして、現場案内なさい、あんた達の蔵を見せるのよ。あと全部終わったら竹林の医者にでも診てもらいなさい。」
「ええ、なんで。」
「見つけてあげるって言ってんのよ!あんた達の備蓄米を盗んでった、米泥棒を!」
純白のマントをはためかせ、左手を腰に右手をこめかみに当て天弓 千亦は言い放った。
そしてそれを聞いた秋 穣子は、藪の中に横たわっていた。左頬を押さえた秋 静葉は茂みに立ち力無く口を開け放ったまま天弓 千亦を見つめて、まばたきを2回した。
日がだんだんと傾き空が赤らみ始めた。節だらけの杉の木板もうっすらオレンジに染め上げられている。両開きの小屋の戸に鋼製の金具が鉄釘で打ち込まれ、それを鋼製の南京錠が施錠していた。F字型の合歯を備えた鋼鉄の鍵を穴に差し込み、秋 静葉はそれを肩で2度ぐいと回して開錠した。
留め具から錠を除去して、秋姉妹はその杉板の戸を両に開いて小屋の中を開放した。
足元の柔らかな土に、角材でも押し付けたような幅数センチの長い溝が8本も、9本も遠くへ続いている。それに指を当て、何やら確認していた天弓 千亦は立ち上がり、小屋の中へ視線を向けると高床に続く低い木段を登り、その小屋のうわがまちと腰に手を当ててもぬけの室内を見回した。
彼女らが小屋にたどり着くまでに日暮れ前までかかった理由は寄り道していたからだった。天弓 千亦は秋姉妹を藪の中から引っ張り出すと農道を渡り、秋姉妹の自宅前を素通りして人里の中央まで入って、そこで彼女らに食事を取らせた。カツレツを指名したのは秋 静葉だった。大通りに出て米問屋隣の看板を彼女が指差したのを見て、天弓 千亦はだいぶ渋い表情を見せたが、結局3柱はそこで皆同じく、お品書きの右から3番目の品を頼み、入るようなら白米のおかわりも取らせて、愛想は天弓 千亦が支払うこととなった。退店して3柱はすぐ小屋へ駆け飛ぶも、到着した頃には日は既に傾きつつあるところだった。
「この血痕は?」
出入口の足元にはテニスボール大の黒々とした血だまりが2つ木目に浸み込んで乾ききっている。天弓 千亦がかがみ込んでそれを見ていた。
「それは、私の鼻血です。」
「朝おねえちゃんが垂らしました。」
「関係ないみたいね。」
天弓 千亦は立ち上がり、のっそ、のっそといった具合に中央へと歩む。
「全部盗まれたって言うのに、鍵なんて掛ける必要あるの?」
「朝河童さんから買った半端がある。それに俵が盗まれても、籾が残っている。こぼれ落ちたちょっとだけの粒だけど、私たちには粗末にすることはできないんだよ。」
「なるほどねぇ」
天弓 千亦は薄暗がりの奥に積み上げられた籾米の小丘を摘み上げ、小丘に振りかけた。秋 穣子は戸板の片方を掴み、小屋の内部を覗き込んでいる。オイルランタンに火を灯して秋 静葉が天弓 千亦のすぐそばまで歩み寄る。
「それ、そのカギ、それは今日盗みに入られたから新しくつけたもの?それとも前からつけてたのに盗まれたの?」
「前からつけていた。」
「じゃあ掛け忘れた?」
「あり得ない、この鍵は必ず穣子と一緒に掛けたことを確認しているし、他に鍵はないから他に気を取られて忘れることもない。この鍵を掛け忘れることだけはあり得ないよ。」
「この壁や戸は直したの?それとも壊されなかったけど盗まれた?」
オイルランタンの明かりを頼りに室内の壁を見回し、両開きの戸に手を掛け前後の稼働を確認しながら天弓千亦は問いかけた。
「壊されなかったけど、どういう意味?」
「そうですよ、お米を盗まれて落ち込んでるのに、すぐ直せるなんて変じゃないですか。」
「それもそうね。」
天弓 千亦は戸から手を放して木段の上から外の芝面を見降ろし、問いかけた。
「貴女達は今日や昨日、車は使った?」
「収穫の時期は過ぎてるから、全然使ってないよ。」
天弓 千亦はもう1度小屋へ入り、まっすぐ奥まで歩きしゃがむと、再び小丘になった籾米をすくいあげた。
「ここにあった米は全部精米されていなかったのね。」
「わたしたちが今食べていた分、1俵に満たない半端だけ殻のないお米でした。」
「どれだけの米が盗まれたの。」
「15か6俵と半端が1個。」
2度3度それをすくい、流し落とすと脇へ目をやって、半端な米俵に手を伸ばし、その上に乗せた。
「事件当時、これは無かったのね。」
「さっき買ったものだから、朝はなかった。」
天弓 千亦が立ち上がり振り返って、秋姉妹を見る。
「犯人は、どんな奴だと思う?」
秋 静葉はうつむき気味に口を紡いで、答えなかった。
「今日食べるお米もない、貧しい農家さんだと思います。これだけたくさんのお米を盗んだんです、きっと家族がたくさんいるはずです。何世帯かの農家さんが協力して泥棒に入ったのかもしれません。貧しい農家さんですので、きっと自分の畑もない農家さんたちだと思います。」
秋 穣子が答えた。
天弓 千亦は2柱の間を通り抜けて再び外に出てそこで立ち止まった。外の景色を見渡しているらしい。
「盗まれたことにはいつ気付いた?」
「今日の朝、日が出てすぐの頃よ。ご飯を炊こうと穣子と一緒にここまでお米を取りに来た時、この蔵の扉が開いていて階段の足元に鍵が捨てられていることに気が付いた。その時にはもう何も残っていなかった。」
「では犯行があったのはどのくらいの時刻だろうか。」
「たぶん、真夜中だと思う。」
「そうじゃない、この小屋が荒らされてないことを最後に確認したのはいつ頃かと聞いているのよ。」
「昨日の日暮れに穣子と一緒に畑の様子を見に行った時はまだ蔵は閉まっていた。それが一番最後ね。」
天弓 千亦は振り返り、腰とこめかみに手を当てて秋姉妹に言った。
「つまりは、犯行推定時刻は昨晩から翌朝未明、その錠前を何らかの方法で開錠して戸を開き、そこから米を運び出して逃走した。犯人はもちろん貴女達ではない。」
「私たちが本当は犯人で、わざとお米をどこかに隠して農家さん達をごまかそうとしていただけだったなら、丸1日無駄にして身内にもご近所にも迷惑かけた上に何もかも嫌になって自暴自棄になった挙句カツレツ奢ってもらったりはしてないよ。」
「おねえちゃんの言う通りです。」
「ほんとだよ。」
「ま、こんなもんか。出かけるよ、戸締まりしなさい。」
高床の木造小屋を名残惜し気に見上げた後それに背を向けながら、天弓 千亦が秋姉妹に言った。
「たのもー!」
張りのある女声が秋姉妹の居宅向こうから響いて来た。
「あの声は、」
「早苗さんだ。てことは、まさかさっき天狗さんが言ってた!」
高床の木段の上で両開きの戸を閉めようとしていた秋姉妹が動揺して言った。
「ま、大丈夫でしょう。その鍵かけたら、何もしないで付いて来なさい。怖気付いちゃ駄目よ。」
天弓 千亦はそれ以上言わず秋姉妹宅の表へ歩いて行く。戸を閉め、それを施錠して、秋姉妹もそれについて行く。
「たのもー!」
女声がだんだんと鮮明に聞こえてくる。家から農道までをつなぐ藪を切り開いたような道、暮れ近い暁の中を人だかりが埋め尽くしていて、その中央に白っぽい人影が浮かび上がっている。
天弓 千亦は黙々とそこへ近寄って行く、
両のこめかみを左の親と中指で押さえていた東風谷 早苗が上目気味に彼女を睨む。
約3歩の距離を置いて互いが向かい合う、天弓 千亦は軽く会釈して東風谷 早苗の脇を素通りすると右手念仏を構えてそれを会衆の人と人との隙間に差し込ませ、更に前進して自身の腕、肩、全身を彼らの中へと滑り込ませた。
「ちょっとすみませんよ~。」
そう言いながら天弓 千亦はどんどんと人だかりの向こうへ進んで行き、後には彼女がそこを通ったことを証する人1人分の一本道だけが残った。
そこへ秋姉妹が接近する、会衆と姉妹が間もなくなった頃、秋 穣子がふいか否か、姉の肩に手を掛けて身を寄らせた。それに気づいた秋 静葉は妹の両肩に手を乗せて静かに引き寄せ、自身に寄り添わせた。
両手で2柱を掴み、東風谷 早苗が彼女らを引き留めた。秋姉妹がどきりと後ずさり、会衆の所々がざわめき、一本道の向こうで天弓 千亦が立ち止まって振り返った。
一度それを横目に見て、また秋姉妹に向き直ると、東風谷 早苗は渋い顔で問いかけた。
「秋姉妹さん、あの方、お友達ですか?」
「カツレツごちそうになったから頭が上がらなくて。」
姉に一度目を配せた後、秋 穣子がなんだかぼそりと答えた。
「カツかぁ、幻想郷でしかもお店のやつ。それは勝てない。」
あごに手を当ててどこか上の方を見ていた東風谷 早苗は、その目の形を片方は一、もう片方は「を反時計回りに90°横に回したようにしてつぶやいた。
「を横に向けた方の目だけを開いて秋姉妹を一瞥すると、もう一度「を横に向けた形に戻して少し考え、両目を開いて彼女らに向き直った。
「仕方ない、悪いようにはしません。後でお話があります。必ず今晩中に、ここに帰って来てください。」
再び姉に一度目を配せて、秋 穣子が答えた。
「はい、わかりました。それではまた後で。」
姉妹は深く会釈して、切り開かれた道へと歩を進めた。会衆のざわめきが再び強まった。秋姉妹はそこを通りながら、愚直にその道を護り続ける会衆の面々を覗き込んだ。彼らの表情にはポジティブなものはほとんど見られなかったものの、ことさらネガティブに顔を歪める者もほとんど見られなかった。大部分はきょとんとしていて、もの珍し気に2柱を見つめる者ばかりだった。人々の胸の高さほどの中からひょこりと1人の少年が顔を出して彼女らに笑いかけたので、秋 穣子も笑い返した。
「待てこの疫病神!逃がさんぞ。」
突然会衆から怒鳴り声が上がった。それに伴い会衆が口々に叫びあい、身の引き締まった老人が飛び出して秋姉妹に1本の鉄管を突き付けた。その根元には引き起こされた撃鉄が縄を咥えていて、縄は赤々とした炎を灯していた。
「キャーーーーー!!!」
怒鳴り声と老人とに驚いた秋姉妹はとてつもない悲鳴を上げて後ずさった。特に秋 静葉の驚きようは計り知れず、その絶叫は妹も老人をも凌駕して、妹の肩に添えるだけだったその手を、両方とも秋 穣子の背面へと回り込ませては、胴と胴とを密着させ、肋骨がミシミシときしむほどに彼女を強く抱き締め、敵前逃亡よろしく、その銃口に完璧に背を向けて妹のことを抱きながらに押し出し、押しのけるかのように3歩、4歩と後退した。
「こらぁ!!」
両者の間に入って東風谷 早苗が秋姉妹に向けられた銃口を全身とその幅広の右袖で遮った。
「私を信じてくださいって、言ったじゃないですか。私の許可なしにひとを撃つことは私が許すことができないんです。今すぐその銃を降ろしてください。」
会衆の中から1人の青年が出てきて老人の突き出す銃身を掴み地面へ向けさせながら何やら相談する。老人は銃を横斜め足元に向け抱え直すと東風谷 早苗を睨みながら群衆の奥へと消えていった。青年もそれに続いて行った。
秋 穣子を抱きしめる秋 静葉の、背面の襟を誰かが摘み上げた。秋 静葉はビクリと小さく跳ねると、目の形を><の形にして秋 穣子を更に強く抱き締め直した。
摘み襟を持ち上げて秋姉妹を自身に引き寄せた天弓 千亦は東風谷 早苗に向けて言った。
「少しの間、借して貰えませんか。この赤いの。市場の健全化の為に必要なんですよ。私の方で用事が終わったら、この赤いののことなんて、どうぞ皆さんでお好きな様にひっ捕らえて、ポタージュにするなりスウィートポテトにするなり好きにしていただいて構わないですから、私の用事が終わるまでの間だけ、借して貰っても構わないでしょうか、この赤いの。」
そう話す間、天弓 千亦は秋 静葉の頭をすりすりと撫でて、話し終わるとデコピンした。その始終で彼女は相も変わらず秋 穣子を堅く抱き締め、><の形で堅く目を閉じていた。天弓 千亦が続ける。
「私の方で用事が済めば、貴方達の潔白も証明されます。この赤いのも自分達が間違えていたことを理解するでしょう。そうしたら、この赤いのだって喜んで貴方達の前に出て行って、土下座なりスウィートポテトなりなんでもすると思いますよ。」
「秋姉妹さんを連れて、どこへ行くおつもりですか。」
東風谷 早苗が口をへの字に曲げて、目を見開き眉をひそめて聞いた。
「決まっているでしょう、犯人の所です。この赤いのが盗まれた米を、取り返してあげるんですよ。丁度良い、良ければ皆さん、一緒に来ませんか。念願の米泥棒探しが解決したとなれば、この赤いのだってホクホク顔でスウィートポテトになるでしょう。」
「ちょっとあんたたち、魔理沙見なかった?」
日の沈みかけた農道を人里に背を向けて歩いている。その道中で博麗 霊夢が降りてきて誰にともなく問いかけた。
「何かあったんですか?」
「私がキノコ狩りのお弁当に握っといたおにぎりが、全部盗まれたのよ。こんなことするのは魔理沙以外にあり得ないわ。」
「お昼過ぎくらいでしたけど、魔理沙さんならお山の方からきのこの森の方に飛んで行くのを見かけましたよ。」
「あんにゃろう、佃煮弁当にしてくれるわ。」
そう漏らすと博麗 霊夢は森の方向を向いて飛び立っていった。
「霊夢さんも大変だね。」
「これから大変になるのは魔理沙さんだと思いますけどね。」
日がほぼ沈み道が見えなくなってきた。秋 穣子が鉄板で石を打ち鳴らして綿火口に灯し、秋 静葉が持つオイルランタンを点火させた。
「あの、あなた、名前は。」
「千亦でいいよ。」
「千亦さん。なんで私たちのこと、助けようとしてくれるの?」
彼女らは斜面を登り始めていた。先頭を天弓 千亦が、それとほぼ横並びに秋姉妹が、秋 静葉が夜闇を照らしながら歩き、その後ろを守矢信徒の会衆が、東風谷 早苗を先頭にして歩いていた。
天弓 千亦は問いかけには答えなかった。秋 静葉へと向くそぶりすら見せずにスタスタと歩き続けていた。
「うちの神社にでも参拝するつもりですか?」
「違いますよ。ご心配なさらずに、ついて来てください。」
「でもおかしいですよ。さっきは盗まれたわたしたちの自業自得だなんて言って、いきなり助けてくれるなんて、なにかやましいことでもあるんじゃないですか?」
秋 穣子が首を傾げながら問う。天弓 千亦は口角を上げて答えた。
「まあ私としても、今回の出費分は償ってもらわないと、引き下がることはできないのかもね。」
秋 穣子が目を丸くして立ち止まった。
「じゃあ初めから、わたしたちの農家さんのお米が目当てで。」
「米なんかいらないよ。それに言ったでしょ、私の用事は市場を健全化させること。貴女達が出来る仕事じゃないわ。」
「市場の、健全化?」
秋 静葉も首を傾げて訊いた。それに答えるように天弓 千亦は言った。
しかし彼女が言う前には喉が鳴るような声にならないうめきが声が彼女からあった。
「妖怪を含め、この幻想郷の人々が1年間に、問題なく十分に食べることの出来る、最小限度の米の量を10とした時、今年の、いや昨年でも良い、幻想郷全体での米の収穫量は、どの程度の数値になると思う?」
秋姉妹と東風谷 早苗は互いに見合わせて考えた。最初に答えたのは秋 穣子だった。
「うーん、8割くらいかなぁ。今年も豊作だった訳じゃありませんでしたし、きっと来年も厳しいでしょうね。」
次は東風谷 早苗だった。
「でも最小限ってことは、お米の備蓄もできないくらいギリギリの、飢餓発生ラインのことですよね。うちでもちょっとくらいの備蓄は残りましたし、米不足の記事なんかよりもよっぽど、お酒不足の一面記事の方がよく見ましたから、12くらいにはなるんじゃないですか?」
けげんそうな面持ちで、秋 静葉も答えた。
「いや、それなら10を上回るくらいで11まで行かないよ、きっと。私たちなんて、土地のない農家さんの余剰が尽きて、備蓄を全部開放してやっと収穫まで間に合ったくらいだったから。12も行かない。」
彼女らの答えを聞いて、天弓 千亦はいっそううつむいたようだった。それに気づいた東風谷 早苗は、ぐいと腰を曲げて上半身を前へ突き出し、少し低い位置から天弓 千亦の表情を覗き込もうと試みた。
「それで、千亦さん?今年はどのくらい収穫できたんですか?」
「34」
「え?」
天弓 千亦の背後で3柱の神が立ち止まる。それに気づいたのか彼女もまた立ち止まり、守矢信徒一行も全員が立ち止まった。
「ちょ、ちょっと。千亦さん、今なんて言いましたか。おかしくないですか?」
「幻想郷には米の市場流通を一元管理する組織は無い。販売業者が生産者から直接取引で買い取って市場へと直接販売する流通方式が一般的で、誰しもその収穫量を記録しようと試みてはいない。帳簿を確かめ直すだけでは正確な数値は得られないから、収穫期が過ぎた可能な限り短い期間の内に、分かる限り全ての米の貯蔵施設に忍び込んで米俵の貯蔵数を数えたの。今日貴女達がやったみたいにね。」
「失敬な!私たちは忍び込んだりしてないよ。」
「正直これでも正確な数値になるとは言えない。だけど私の確認した上では、この幻想郷には収穫直後の時点で、妖精を除く幻想郷全人口が1年間に要する総量の、優に3倍以上の米が貯蔵されていたわ。」
落ち着いて、淡々と語るように天弓 千亦が説明した。飛び掛かるかのように、秋姉妹は血相を変えて彼女に対して訴えた。
「そんな、そんなの嘘ですよ。じゃあなんで毎年お米が足りなくなるんですか!」
「十分量の最低ラインにある程度の備蓄、運搬時の損失や野良妖怪、妖精に盗まれる分、それにある程度の余裕を加味しても、16か7割程度あれば食用の米は満足に供給出来て余りあるはず。」
「だから何で、まだ10割以上あるじゃん、1年分だよ!」
秋 静葉が息を荒げる。天弓 千亦はしばらくの間沈黙を作り、何も言わずに歩き出した。3柱は再び互いを見合わせ、東風谷早苗が信徒ら一行を見回す。彼らの間では既に何やらざわめきが立っていて、彼女のことを心配げに見つめている。
秋 静葉がとぼとぼと歩き出し、秋 穣子もそれを追った。それを見届け、東風谷 早苗と信徒ら一行も後に付いて行った。
「1年分の収穫の間違いなく半分以上、いえ恐らく倍以上が、二次加工用途に回されている。」
「二次加工?それって、お餅とか、お煎餅とか?」
「ええ、しかしそれら製菓用途の占める割合は二次加工用途全体で見れば微々たる量で、そのほぼ全ては酒造用途、日本酒の醸造の為に消費されている。」
「お酒って、確かにここのひとたちはみんな、ばかが付く所かキチが付くくらいお酒が好きですけど、お米で食べるのの2倍もお酒で飲むだなんて、流石にオーバーじゃ。」
東風谷 早苗が眉間に皺を寄せて天弓 千亦に駆け寄った。
「市街地にある複数の酒造業者にはいずれも生産効率の最適化を目的とした原材料の出納帳が設けられていて、詳細さの違いはあれど、どれも原料米の仕入量、仕入値、大まかな品種、推定される生産量の記載が1ヶ月刻みでありました。昨年の収穫量が判然としないためこれが全米生産の何割を占めたかまでは定かではありませんが、昨年の酒造用途での使用は飢餓ライン10に対して21にまで上りました。はっきり言って驚異的な数値です。」
「でもでも、うちのお百姓さんにだってお酒用のお米を作っている人はいますけど、そんな半分もいませんよ。」
「どの業者も酒造用品種の買い付けの記載は年明けすぐまでで止まっており、それ以降は一様に、食用米の品種が記載されています。つまりは年明け以降には酒造用品種は全て消費し切って、それ以降は食用米を代用としているのです。」
「みんな忘年会で飲む酒はうまい!って言ってるのはそういうことだったんですね!」
「ちがうとおもうなぁ」
秋 穣子がきょとんとして言った。あるいは半ば放心状態の発言だった。彼女を一目して天弓 千亦が続ける。
「酒造用途での米の精米歩合は多くても7割、業者によっては5割まで削り落とす場合もある。特に食用米で代替えする場合は酒造用品種より一層多く精米する傾向にあり、それだけに幻想郷における日本酒醸造は食用米供給を強く圧迫している。またもう1つの原因として、散発的に催される宴会等での飲酒に関しては、基本的にすべての妖精について広く許容されている。米需要に関与しないはずの膨大な数の妖精が、日本酒の消費という形で人類への米の供給を阻害している。小麦や薩摩芋を用いた蒸留酒による代替えが試みられているものの影響は無く、却って小麦や薩摩芋の市場流通が減少した雰囲気さえ見られる始末。」
「そういえば酔っ払った神奈子様が言ってましたね、焼酎なんて乞食の飲み物だって。」
「それはひどい」
「何よりの問題は、酒造の為に幻想郷のほぼ全ての一次生産能力が、米に注力されていること。本来、というよりも酒造圧力がもっと低ければ割くことが出来るリソースが全て奪われ、大豆や果物、あるいは牧草といった生産資源の多様化が著しく阻害されていること。」
「アホみたいに納豆が高いと思ったらそのせいでしたか。」
「納豆だけじゃない、ブドウさえ生産できればワインを作れる、牛乳が取れればチーズもバターも得られる。品種によればそのまま肉になる、酒造業者から排出された米糠を上手く転用出来た養豚業が唯一事業化出来ているものの、未だ富裕層の玉の贅沢程度、全大衆が金を出してくれるような出資出来る事業にまでは未だ程遠い。小麦がもっと作れれば、個人製パンが普及して製麺業も事業化するし、どれか1つ畜産業が軌道に乗り大衆に浸透するだけで自然発生的に皮革加工業が始まるのに。酒が減るだけで大衆に普及させることの出来る事業がいくらでも増える、市場が一気に活性化するのに。」
両手に腰を当て、天弓 千亦が一層深くうつむいていることに秋 静葉は気が付いた。
「これが私の用事です。」
それでも一層スタスタと軽妙な素早い足取りで坂を登って行くその後ろ姿を、押し黙りながら不思議と見上げていた。
「誰かが反省すれば納豆が値下げする。誰かが、一体誰が。」
「でも、お酒を造りすぎていることと、農家さんのお米を見つけてくれることに、何の関係が。」
「聞かないでよ。」
間違いなく天弓 千亦はそう言った。一行には後ろ姿しか見えず、表情を除こうとする者はもういなかった。
「思い出す方もいるかもしれない。かつて同様の問題が取り返しの付かない程に発展して、異変に乗じて解決が試みられたことを、しかしその対策の大部分は的外れで有効な取り組みも途中で止まり、問題の改善は限定的なものに留まったことを。その原因は改革者側が問題の根本要因を取り違い、最も深刻な問題への対応から目を逸らしたから。今回の事例を機に改革できる誰かが問題の根本を正しく理解し真摯に取り組めば、市場は健全化するかもしれない。」
東風谷 早苗が首を傾げる。秋姉妹も互いを見合わせるとお互い山頂側に首を傾げた。
「異常な偏りが見られるとは言え、飲酒市場が非常に活発な形で継続しているということは、利益が出ていると言うこと。誰かが金を払っていると言うことよ。」
「当たり前ですね。」
「では買っているのは誰か、幻想郷人口の圧倒的大多数を占めるほぼすべての人類はほぼ無関係、その大多数を占める農耕従事者は自前の米で自家醸造する濁酒しか飲まないし、他のほとんどの人類も飲める量は知れている。幻想郷の酒の消費に影響を与えているのはごく限られた人類かあるいは全ての妖怪と妖精のいずれかと言える。」
「妖怪並みにお酒を飲む人か妖怪そのもの。うぅ、心当たりがありすぎる。」
「しかしこれは飲酒に対する需要と消費だけを観た場合の話。こういった限られた人類と全ての妖怪や妖精が、そのまま全員、飲酒市場に利益を与えている本質的な要因であるとは決して言えない。」
「それは、どうして?」
「妖怪と妖精の大多数は金を払わずに酒を飲んでいる。彼女等は大抵、何処かから盗むか、幻想郷の各地で散発的に催される会食行事で提供される酒を飲むか、あるいは誰か酒を持っている者から物々交換を通じて酒を得ている。つまり飲酒市場に対して利益を与えている本質的な要因は大多数の妖怪や妖精ではなく、彼女らと大なり小なりの交流を持つ、正規取引で酒を買い取って、会食や代物取引に供することが出来るごく一部の人類あるいは妖怪であると結論付けられる。」
「ぼんやりしていてよく分からないよ。」
「幻想郷の飲酒需要が過剰に肥大化している主要因はこの一部の人類と妖怪が儲けていることにある。提起すべきなのはこの全購入者と消費者の一部が一致していることに対して、全購入者と幻想郷における生産労働者が基本的に一致していないこと。言い換えれば、酒を買い求めている大多数の人間や妖怪が生産活動に従事していないにも関わらず、儲けていることよ。」
「儲けている?」
「何故稼ぐ様なことをしていないのに、彼女等は皆儲けているのか。結論から言ってしまえば、有る所から徴収しているから。ある者は信仰に、ある者は力に頼り、適当な理由を付けて或いは雰囲気で、ほぼ全ての生産労働者が自分達の稼いだ金を彼女等から要求され、何だかんだ素直に受け入れて疑い無く支払い続けて来た。払えば自分達の生活が安定する、脅かされずに済むと、そう信じて。」
「千亦さんそれって」
「だから私は提起しなければならない。彼女等の提示するその税が、真に彼女等のもたらす行政効果に見合っているのか。今まで通りに収穫を納め、酒を納め、金を納め、米価格まで犠牲にして、タダ同然の低価格の酒の生産に従事し続けることが、本当に賢い選択と言えるのか、或いは、これまでの所業を考え改め、正して行かなければならないのでは無いかと。そう提起しなければ、今の市場は健全化しないだろう。」
東風谷 早苗が天弓 千亦の肩を掴んで問いかけた。
「千亦さん、あなたは、この山で言っていいことを、言っていますか。」
天弓 千亦は振り返らずにうつむき、ゆっくりと首を横に振りながら言った。
「いいえ。」
ふと秋 静葉が立ち止まる。暗がりの先に紫が見えた。それは細い糸くずが絡まりあっているような塊状で、おぼろげな闇の中に訳もなく2つ浮いていた。意識づけてそれを照らすとそこには黒いハイソックスがあって、高下駄があって、紫はそれを縛っていた。
姫街道 はたてが仁王立ちしてみぞおちの高さで軽く腕を組んでいた。山道の中央から下界へ向き、秋姉妹らを待ち構えるかのように佇んでいた。彼女は右手の平を一行に突き出し、一行を制止した。
「全天狗は山中の秩序維持のため一時的に、ここから先の人類の立ち入りを堅くお断りしています。私の立会いのもと、全天狗は神様に限りこれ以降の入山を許可します。神様に限り、ご自由にここをお通り下さい。後ろを私が同行します。」
秋姉妹と天弓 千亦が振り返った。東風谷 早苗は信者らの1人に何か相談して軽く頭を下げると向き直り「お待たせしました、行きましょう。」と彼女の信者から離れて登り始めた。
天弓 千亦、秋姉妹が彼女を待ち、共に登り始めた。姫街道 はたては彼女らの通り過ぎるまでその背後の会衆を見つめ、通り過ぎると彼女らについて行った。
頭上から閃光が放たれ、一同が空を見上げた。月明かりに背を向けて大きな羽を生やした誰かが浮いていて、また1発その頭のあたりから閃光を発していた。どこかから笛の音が響いて彼女がどこかに飛んで行き、残された月明かりには彼女が飛び去ったのと正反対の方向から3羽程度の誰かが横切り、飛び抜けて行くのが見えた。
「あー、気にしないでください。特に関係ありませんので。」
姫街道 はたてが脱力気に言った。特に追及することなく、彼女らは先を急いだ。
「千亦さん、まさかこの先に泥棒がいるって、」
道を照らしながら秋 静葉が問いかけた。
「そうよ。」
「でもここ妖怪しかいないんじゃ、お米を欲しがる人なんて、」
「人なんて居ないわね、山の中に。」
「じゃあ、お米を食べる、妖怪さん?あ、仙人さん?」
秋 穣子がきょとんとして言った。天弓 千亦は彼女から目を逸らしながら話した。
「正直言って、貴女達の考えた犯人像は、だいぶ的外れよ。」
「だいぶですか。」
「まず最初に犯人が複数犯であること、これだけは正解よ。10数俵の米を1人で盗むことは出来ない。じゃあ犯人は明日食う米にも困る貧しい人類である。これはおかしい。貧しい人類に誰が挙げられる、都市労働者、町人の貧しいのか、あるいは一次生産の経営に関与しない従事者、いわゆる水飲み百姓のどちらか。町人が貴女達の小屋まで来て米を盗んでまた人里まで運ぶくらいなら米屋を襲うし、水飲み百姓なら貴女達を襲うよりも先に彼らの雇用主、つまり本百姓を襲うはず。また彼等には盗んだ米を運ぶ手段も隠す場所も持っていない。」
「農家さんなら車がありますし、蔵の中に隠すことができるんじゃ。」
秋 穣子が首を傾げながら聞いた。
「車や蔵を持っているのは経営者側、本百姓のみよ。いわゆる水飲み百姓が使う輸送手段は薪取等に用いる背負子が主であるし、蔵らしい蔵もない。それに盗みの為に経営者側が従事者に車や蔵を貸すなんて何の利益にならないリスクを踏む可能性なんてまず無いわ。第一、明日食う米に困るんなら究極、明日食う分盗むだけでも十分なはずなのに、10俵以上盗むのは多すぎるし、米の収穫は終わったばかりで世間には米が余っているのに、米不足で苦しむ人類がいるはずが無い。人類の貧乏なのが貴女達に狙いをつけるってのも、米が食べたくて10数俵も盗み出すってのも、どっちもおかしいのよ。犯人は人類じゃないし、犯行動機も、食べる為とは別にあるはずよ。」
「秋姉妹さんがあんな必死になってお百姓さん達の蔵の中を見て回った意味って。」
「それじゃあ誰が犯人だって言うんですか。」
「手掛かりは鍵、籾米、そして犯行動機の3つ。盗みに入られた蔵は高床式木造のお世辞にも堅牢とは言えない粗末な小屋で、立派なのは鋼製の南京錠とその留め具だけ、しかし犯人はこれを開錠して忍び込んだ、それがおかしい。あの錠は河童の金属加工職人が作った幻想郷でも比較的精密な代物。どれだけ精密な錠でも構造上の限度があって、合歯の形が似ていて合鍵より若干小さい鍵か、成形した太い針金でもあれば開錠は可能ではあるけれど、そんなことを知っている奴は限られてくる。錠を持っていてその構造を詳しく理解している者だったり、或いは作っている者だったり。勿論、生産従事者が知っている可能性は極めて低い。特にあの錠は風雨に晒されて内部に錆が入っているから合鍵を使っても体重を掛けて全力で回さなきゃ開かない。鍵開けのノウハウがある奴が道具を揃えても、開錠には相当の時間と労力を要するわ。恐らく、わざわざあの錠を開けるのよりもむしろ、小屋を壊した方が簡単に盗めるはずよ。力任せに斧で戸や壁を破壊するのも簡単だし、バールの様な物で南京錠を留め具ごと戸から引き剥がせば、もっと簡単にほとんど音も無く戸を開けることが出来たはず。学のない、合鍵無しで錠を開ける方法の思い付かない奴なら尚のことその方法を選んだはずなのに、犯人は結構な手間と少なくない時間を掛けて、あの小屋で一番破りにくい錠をわざわざ開けに掛かったことになるわ。重厚な錠前を一目見ても諦めずに、開けようと思って開けてしまえるだけの自信と実力を、犯人グループは兼ね備えていたのよ。」
「鍵を開けられる、河童さんの作ってくれた鍵を。」
「小屋前の地面に車輪痕が沢山あった。これは犯人グループが複数台の車を小屋の前に止めて備蓄していた米を運び出したことを意味しているわ。犯行推定時刻は昨晩日没以降から翌朝未明の間、小屋の内外は真っ暗だから犯人グループは自前で照明を用意したと思われる。盗まれた米のほとんどは外側に殻の付いた籾米で、俵も2重にしていない簡単な物だったんでしょう、俵からこぼれ落ちた籾が小屋の中に散らばっていたわ。だから何人もの窃盗犯が10俵以上の米を持ち出している途中で、必ず誰かが気付いたはずよ、精米してからじゃないと使い物にならないって。私の想像を絶する何らかの用途が無い限り、籾は殻を取ってからじゃないと商品価値が無い。にも関らず殻の付いた16俵の米全てを盗んで行ったということは、犯人グループには遅かれ早かれ16俵もの籾を全て精米し切る準備があったということ。つまり犯人グループ又はその一部は、籾米の精米技術を持っているか或いは遠くない内に入手することが可能だったということよ。」
「たくさん人がいて、設備もある。」
「最後になぜ貴女達が標的になり、貴女達で初めて甚大な被害になったか。防犯設備が脆弱だった?いいえ、貴女達の小屋は必要最低限度の防犯対策くらいは出来ているし、被害が甚大だったのは貴女達だけじゃない。」
「でも、わたしたちの他にお米を盗まれた農家さんは2、3俵だけだったって天狗さんが、」
「貴女達よりも前に命蓮系の生産従事者が4件被害にあっている。その被害規模はどの事例も2、3俵程度で、貴女達と比べれば大きいとは言い難いものだけれど、彼等はそもそも貴女達とは違う従事者側の人間、経営者から米を割り振られる側であって、貴女達ほど沢山の米は持っていなかった。1件あたりの被害規模2、3俵は決して少ない数じゃない。彼等は備蓄していた全ての米を盗まれたの、貴女達と同じようにね。標的の貯蔵する米を全部盗んで行くという点で、貴女達と命蓮系生産者の事例は同じ手口だったのよ。そこでおかしいのが守矢系の生産者、命蓮寺系で被害に遭ったのと同じくらい防犯の疎かな従事者が、貴女達よりずっと沢山の米をしまい込んでいる経営者も幾らでも居るのに、他で5例起きていて守矢では1例の被害も出ていない、まるで選り好みしているかのように見える程よ。」
「ちょ、ちょっと待ってください。千亦さん、あなた、うちの信者が、あのお百姓さん達の中に犯人がいるって言うんですか!」
「先述の通り一次生産者の関与は疑わしい、又、守矢信徒に被害が無いからと言って、必ずしも貴女の信徒が犯人だと言い切れる訳ではありません。しかし犯人かその一部は、貴女と敵対することを恐怖している。貴女と日常的な関与が何かしらあり、守矢と敵対するくらいなら、他の勢力と敵対した方がマシだと考えている。そう考えて動いていると判断せざるを得ない。」
「そんな、いったい。」
「何のために事件は起きたのか、守矢以外を標的に、忍び込めたならそこの米を1俵残らず盗み出してしまう様な過激な犯行は、何故行われたのか。全ての事例で総合して優に30人以上が1年間、食べ続けられる程の大量の米を、しかも少なくともその半分は精米処理が必要な籾米であるにも関わらず、何のために盗んだのか。食べられる量じゃない、精米する覚悟も余裕もある辺り食べる気も無い。なら何のために盗んだのか。」
「何のためって言うのよ。」
秋 静葉が問いかけた。それがやたらとまっすぐな視線であることに気が付いて、天弓 千亦もまたまっすぐに見つめ返して答えた。
「売って儲ける為、何らかの理由で金が必要になった犯人グループが、敵対勢力から盗んででも金を儲ける必要があったから。だから盗んだ。私だからいけないのか、私にはその答えしか考えられなかった。総合すると、犯人は生産従事者でも都市労働者でも人類でも無い。錠前破りのノウハウがあり10数俵の米を運搬できる輸送能力、精米できる工業力、それらを維持できる組織力がある。そして守矢神社と敵対を避ける程度に親交があり盗みに入ると根こそぎ盗まなければ気が済まない程金に余裕が無く、食べる為ではなく、売って儲ける為に米を盗んでいる。それらの条件が揃う様な勢力が、今回の連続窃盗を実行した。」
一行の会話が止まった。ある者は動揺し、ある者は放心し、ある者は聞き入っていた。山の中腹まで差し掛かり、水の流れる音が耳立ってきた。再び秋 静葉へ向き、天弓 千亦がふいに言った。
「私の検討が当たっていれば一件落着、犯人が分かって貴女達の米も帰って来るわ。でも見当が外れてたら、間違えてたわごめんって言って帰るわね。」
「そんな無責任なぁ。」
突然遠くで轟音が響いた。見るとどこか夜空で巨大な色とりどりの光球と虹色の光線がしのぎを削っていた。
「霊夢さんももうすぐ一件落着みたいですね!」
「魔理沙さんも大変だなぁ。」
山道に片側へ飛び出るような分岐が現れてそこへ曲がり、川に面する道に入った。
片側に斜面、片側に土手を経て河川があった道が、そのうちすぐ脇が川岸になり、対岸も平地が広がり始めた。だんだんと斜面がなだらかになり木々が生え始め、突然それが無くなって河川を中心とした民家群が姿を現した。
どの家にも照明が灯り、日も沈みしばらくするのに、そのどこからでも物を打つ音、何かを摩擦させる音が上がり、所々を誰や彼やが携帯照明を手に持つかあるいは胸元に挿して外を出歩いていた。
パリン!と近くで物が割れて、一行はそこを見た。建物正面の巨大な引き戸を閉めたばかりの河城 にとりが南京錠を手に一行を見つめていた。彼女は目を見開き、両腕をぷるぷると震わせていて、足元にはカバーガラスの割れたオイルランタンが火の消えた状態で横たわっていた。
天弓 千亦が川岸を離れ、彼女へと近づくが、河城 にとりは手早く扉を施錠し、破損したオイルランタンを拾い上げて里の奥側へ足早に歩き建物を離れようとした。
「ひゅい!」
天弓 千亦は河城 にとりを追い、その肩を掴んだ。河城 にとりは小さな悲鳴をあげながら振り返り、彼女を見上げた。秋姉妹、東風谷 早苗、姫街道 はたてが2者の元へ近付く。
「米の貯蔵所へ案内しなさい。」
天弓 千亦が言う。河城 にとりは肩で呼吸し、秋姉妹ら一行、背後の里一帯へ目を向けたが、天弓 千亦はすぐに彼女の肩を掴み直して、自身と面と向き合わせた。
唇を震わせながらも、河城 にとりはその口を開いた。
「い、い今、お、おこめは、せ、せ、精米所にあります。」
「では精米所へ案内しなさい。」
「精米所は、お、お見せすることは」
「案内しなさい。」
河城 にとりの両肩を握る手がぎゅと強まる。彼女は大きな深呼吸すら震わせながらもまぶたを強張らせて、声色を強めて彼女に答えた。
「精米所は!全精米手順の機械化と自動化を両立させた!私たち河童の技術と努力の結晶です!例え相手が神であろうと!そう易々と他人に見せることなどできません!」
「貴女達河童には幻想郷における備蓄米窃盗の容疑が掛かっている。貴女が我々の要請を拒絶することは自分達が犯人であることを認めることを意味する。それでも嫌だと言うつもり?」
「そんなこと言われたってね!私が判断できることじゃないじゃないですか!勘弁してくださいよ!」
「河童さん。」
両者の脇から声が掛けられた。河城 にとりだけがそれを見る。秋 穣子が彼女のすぐ目の前まで立ち、まっすぐに彼女を見つめていた。その目はうるうると湿り気を帯びていた。間もなく秋 静葉もその横に並んだ。
「河童さん、お米を見せてください、お願いします。」
秋姉妹はそう言って、河城 にとりに深く頭を下げた。全く同じ動作で、垂直に近く腰を曲げて。
それを見て、河城 にとりは口をつぐみ、何か身振りしようとしていた手をだらりと下げて、どこかに目を逸らした。天弓 千亦はそんな彼女の肩を2回、小刻みに振り、反応を待つが、それは返ってこなかった。天弓 千亦が言った。
「今すぐ案内なさ」
バシン!と強い打撃音と共に、河城 にとりは天弓 千亦の手を離れて建物の壁にぶつかる勢いで寄りかかった。天弓 千亦は困惑げに辺りを見回し、東風谷 早苗と姫街道 はたてが駆け寄った。河城 にとりは左の拳を堅く握って、力一杯に自身の左頬を殴り飛ばし、バランスを崩してすぐ脇の壁にぶつかったのだった。姿勢を立て直し、左頬を手で覆い、呼吸を整えると、河城 にとりは秋姉妹へ向き直り、穏やかな声で言った。
「すみません、取り乱してしまって。頭を上げてください、分かりましたから。すべて、すべてお見せします。ついてきてください。」
秋 姉妹が同時に顔を上げ、互いに見合わせると、晴れ晴れと笑って両手を合わせながら飛び跳ねた。
河童達の住む川岸の里を秋姉妹ら一行が歩いている。先頭を歩く河城 にとりは壊れたオイルランタンを手に提げ、それを軽々と揺らしながら、どこか軽やかな足取りで歩いている。そのすぐ後ろを秋姉妹、天弓 千亦、東風谷 早苗の順でついて行き、最後尾に姫街道 はたてがいた。
一行は躊躇なくずんずんと里の奥へ歩いている。外にいた複数の河童は彼女らから距離を取りながら様子をうかがい、ある者は近くの建物の中に駆け込んで行った。
月明かりと秋 静葉の持つオイルランタンの光だけを頼りに一行は歩いている。河城 にとりの先導に従っての移動であり、どこへと向かっているのかは定かではなかったものの、次第に彼女が何を目指して歩いているのか分かるようになってきた。
里の中央付近にある木造平屋建ての窓のない建物。よく見るとその奥側3分の1がレンガ造りになっていて、そこから細く高い煙突が伸びて色の分からない煙が月明かりをかすめていた。彼女はそこへ向かって歩いている。
目的の建物の前に誰かが歩いていて、一行に気づいたらしく立ち止まると建物の中へと走り込んで行った。間もなく一行は建物に着いて、河城 にとりがその鉄製の扉を、鉄パイプ材の取っ手を掴んで手前に開け、背後の少女たちの入場を促した。
その先は右に2個の扉が並ぶ通路があり、その奥も同様の扉に閉ざされ、その扉にスライドロックを掛けた河童が、一行へ振り返り両手を広げて睨みつけていた。秋姉妹が困り顔で互いを見合わせ、彼女らは立ち止まった。一行を縫って河城 にとりが通路へ抜け出し、通路の向こうにいる河童にゆっくり歩み寄って、両肩に手を乗せて小声で話し合った。河童は広げた両手を下げ、チラチラと秋姉妹らと河城 にとりとを交互に見た。河城 にとりがうつむいて首を左右に揺らしている。河童の顔から緊張が解けて悲し気に表情を歪めると、彼女は手に握った鍵を河城 にとりに手渡して、両膝を着いた。
河城 にとりがスライドロックを開錠し、鉄扉の取っ手を握った。秋姉妹ら一行は通路を前進し、彼女らのすぐ後ろまでやってきた。河城 にとりが振り返って一行を一目すると、取っ手を見つめ直して鉄扉を押し開けた。
むわりと蒸すような熱気が溢れる。重なりまくる作業音、継続的な金属摩擦、立て続けに吹く圧縮気体の噴出、力強く波打つ絶え間ない粒の音が部屋中にこだましていた。
1匹の河童がペダル稼働の回転機に藁を結わえて縄を結っている。
積み上げられたこもと桟俵の脇で河童が3匹がかりで俵袋を編み上げている。
奥の壁は赤レンガ貼りになっている。片隅にノブ付きの鉄扉があり、壁に沿うようにいくつもの機械が接続されていて、それらは壁から飛び出したギアから、1本のコアとギアやベルトを介して稼働している。
機械群の片側で1匹の河童が5合あろうかという器で米俵から籾米をすくい、横型ドラムに入口を付けたような機械に様子を窺いながら流し込んでいる。籾米は送風ファンの露出した機械を通り抜け、滑り台を流され縦型ドラムのような機械の上に落とされた。下部から2つのローラーが速度の違う2本のベルトで駆動しており、とてつもない量の粒が打ち付けられ続けるような音は金属摩擦音とともにこの機械から発生していた。
ドラム下部から玄米と籾殻とまだ殻の取れない籾米とが次々と排出され、そこから上り坂のレーンを、頭上から伸びたチェーンコンベアで動くブラシに押し出さされながら、下から上へと運び出された。
レーンには規則正しく穴が開けられていてその上を通過した粒々のうち玄米と籾殻の一部だけがそれを通過して下に落ちる。籾米と籾殻の残りはレーンの一番上まで掻き上げられるとドラム型の機械に再投入された。
レーン下には同様のふるい板が2枚、傾斜を付けて設けられていて、すべての籾殻とふるい切れなかった玄米は両脇の木箱に、大部分の玄米はふるい板から落下してサンドペーパーベルトのコンベアへ落ちた。コンベアの先には同じくサンドペーパーのベルトコンベアがコンベアの上に設けられていて、ふるい落ちた玄米は上下をサンドペーパーで挟まれながらコンベアを通過した。上面サンドペーパーが途切れてそこから多量の粉と白米が次々と流れ出て来て、それらはその先に置かれた木箱に流し込まれた。
1匹の河童が白米と糠の溜まった木箱を空箱と取り換えてそばにあるふるい機の脇に置く。レバーを引きふるい機を動力から切り離すとドラム型の深型ふるいを機械の3つの留め具から外して持ち上げ、更に脇にある大きな盆に乗った5合の枡に、中にふるい残された白米を流し込む。河童は空の深型ふるいを機械に着け直し、そこへ木箱の中の白米と糠を入れて下部の引き出しの中身を別の木箱に捨てると、ふるい機を再始動した。
河童は木片を手に取り山盛りの枡の上面を水平にならすと、それを持ち上げて傍にある俵に流し込み、枡を盆に戻した。俵の米は既に並々に山を作っていて、河童はその米面を手でならし、2枚重ねの残俵を乗せて縛り始めた。その傍には次々と米俵が10俵近く、横1列に並べられている。ドタバタと騒々しい足音が近づいて、誰かがそれら米俵のたが紐を順々に確認する。「ない、ない、」と弱々しいうめきを上げ、慌ただしい手付きだった。
反対側の壁、投入側にも俵が4つだけ並んでいて、河童がその1つを解いている。ドタバタと回収側から足音が来て、それらのたが紐にも手を掛けるとその手が止まった。
そのたが紐にはもみじが巻き込まれていた。
「あった。あった...!」
たが紐を力一杯に握りしめた秋 静葉が、声を上げて泣いた。
「うああああああぁぁぁぁ!うああああああぁぁぁぁ!」
しかし彼女の目に涙はなく、ただ肺活量の限り叫んで、一呼吸してまた肺活量の限り、米俵に顔を埋めながら叫んでいた。すべての河童が作業の手を止め、彼女と、その俵を見つめ、息が止まり、投入口にいた河童は手に持った籾米を木箱ごと床にぶちまけた。
「よかったね、おねえちゃん。これで農家さん、安心してくれるね。よかったね、おねえちゃん。」
彼女の肩に秋 穣子が手を当て、指で涙を拭い彼女を励ます。
たが紐を握って絶対に離さないその手の隣に、細くしなやかな手が伸びてきて、紐に巻き込まれたもみじの質感を確認すると、東風谷 早苗は身を起こし振り返って、河城 にとりに詰め寄った。
「にとりさん!これはあなた達がやったんですか!」
互いの胸と胸とが当たる程に間を詰められるため河城 にとりは背が壁にぶつかるまで後ずさって、何も答えず頷いた。
「なんでこんなことしたんですか!」
東風谷 早苗は凄まじいけんまくで彼女を見つめ、まぶたを震わせて怒鳴りつけた。
「なんで、どうして。」
上目づかいで河城 にとりは東風谷 早苗を見上げ目を丸めた。彼女は睨みながら涙を溜めていた。
「と、投資分を」
「私じゃ判断できない!来てください!諏訪子様と神奈子様にも聞いてもらわなきゃいけません!」
東風谷 早苗は河城 にとりの手を奪い取って引っ張ると鉄扉へ向けて駆け出した。扉を突き押そうとした時、彼女は後ろから誰かに肩を掴まれて一時バランスを崩した。振り返ると天弓 千亦がまっすぐに彼女を見つめて彼女を掴んでいた。
「公正なる処罰と厳正なる再発防止策を、その2つが達成されるのみで、市場は怒りを鎮めます。」
ドキリと息を呑み、言葉なく頷くと彼女は再び河城 にとりの手を引いて部屋を出て行った。ノブのない鉄製の扉だけがパタリパタリと動いている。
姫街道 はたては半目で後頭部を掻くと部屋の中央に歩み出てポケットから取り出した4つ折りの紙を開き、全員に聞こえるよう宣誓した。
「え~、全作業を中断し、機械を停止させすぐに離れなさい。あなた達は我々全天狗の許可無くしていかなる隠滅も、抵抗も、発言も、逃亡も、自殺も許されない。あなた達は我々が事件の終結を判断するまで我々の求めに応じ、我々に協力し、我々の命令に従わなければならない。これは大天狗、天魔様、守矢神社連盟の判断であり、あなた達全員に拒否権は無い。ふぅ、じゃあ、まずは機械止めてくださぁい。」
彼女の背後にいた河童の1匹が意を決して部屋を駆け出した。足音はすぐに聞こえなくなり、扉だけがパタパタと動く。がそれは突然止まり、ゆっくりと扉が開くと、今しがた出て行ったはずの河童が恐る恐る後ろ歩きで戻って来て、それを追うように犬走 椛が現れた。
犬走 椛が河童と向き合い彼女の肩をがしりと掴む。彼女はビクリと跳ね上がって固まる。犬走 椛の他、背後の鉄扉から3匹の白狼天狗が次々と出て来て部屋中の河童に声を掛けて回る。犬走 椛が言う。
「今すぐあなた達の長と米取引の帳簿係の元へ案内しなさい。その間一切の妨害、隠滅行為は許されない。あなた達に拒否権は無い。」
人指し指を突き立てたまま左腰と右こめかみに手を当てて、鉄扉の縁に肘を突き、天弓千亦は部屋中を見回した。
姫街道 はたてが部屋の中央に仁王のように立ちあばらの高さで軽く腕を組み、鉄扉に背を向けたまま右手でどこかに電話を掛けていた。
犬走 椛は目の前の河童を連れて部屋を後にした。
白狼天狗に押し出され河童が奥の鉄扉へ入って行き間もなく精米機械群が停止した。
別の白狼天狗は残りの河童を並ばせて1匹ずつ何やら質問している。
別の白狼天狗は若干身をのけぞらせて立ち止まっている。彼女は秋姉妹を目の前にしていた。
秋姉妹は未だに泣き叫んでいた、白狼天狗を優に圧倒するほどとてつもなく。
「最近の夏が長い訳だ。あれだけ秋が情熱的なら、一次生産に関してはもう心配いらないでしょう。」
天弓 千亦は力ない笑顔を浮かべながら、つぶやくようにそう言った。
白狼天狗が秋姉妹両方の肩に手を乗せて声を掛けた。
「この米は証拠の一部として我々が一時的に預かります。今すぐそれから離れて、以降は我々の指示があるまで何にも触れずここで待機していてください。あなた達に拒否権は在りません。」
白狼天狗を見上げると、秋姉妹は唐突に泣き叫ぶのを止めて露骨に渋い顔をした。
「いや何だか不安だ、永遠亭の医者に連絡しとこう。」
天弓 千亦は苦い顔をしてそうつぶやくと、鉄扉を押して部屋を出て行った。パタリパタリと前後する扉の向こうには通路の先へ向かって歩き、純白のマントをはためかせる彼女の姿が見えていた。しかし3度、4度と前後した時にはもうその姿はなくなっていた。通路の向こうは、同様の鉄扉がパタリパタリと前後して、その先に夜闇だけが見え隠れしているばかりだった。
おわり
外へ向けて両開きの脆い戸が開け放たれている。眩しすぎて真っ白に映った外の景色が室内を覗き、窓1つない小屋の中央を薄明るく照らしていた。
冷たく、乾き切った風が外から吹き込み、壁材の隙間へと吹き抜けていく。時折強い風が吹いて床の上でコロコロと音が鳴る。そこかしこに散乱している稲籾が風に吹かれて、ささくれた杉板材を鳴らしていた。
慣性で転がる稲籾の1粒が、その足裏をぴったりと床につけていて薄く砂埃に煤ける、内股気味の1組の素足にぶつかった。
小屋の板壁に背後を預けて、床板に腰かけていた秋 穣子が膝を抱える両腕の中に突っ伏してうずくまっていた。
秋 静葉は小屋の中央でしゃがんでいる。膝から崩れ落ち、その身を支えるように両腕で床を突いている。その手元にF字型の合歯を備えた鋼鉄の鍵が下敷きにされていて、右手がぐいっとそれを握りしめた。まばゆく純白な外世の光に背を向けて、彼女はふるふると身を震わせてうなだれていた。
「きっと、」
秋姉妹のどちらかが言った。秋 穣子は袖広の腕の中にうずめて、秋 静葉は垂れ下がったセミロングの頭髪の向こうに覆い隠されていて、共にその口元も、表情もうかがい知ることはできなかった。
「きっと、すごく、貧しいひとだったんだよ。盗みに入らなきゃ、ごはんも食べられないくらい。」
わずかばかりに顔をあげて、ヒクッという小さい息継ぎを2回しながら、秋 穣子が続けて言った。どこを見るともなく両目をうるうる潤ませて、唇の端をきゅっと噛み締めながらの言葉だった。
秋 静葉はその視線を少しずらして、片方の目だけで妹を見つめた。垂直に垂れる毛髪の幕に隙間ができて、彼女の顔がわずかに見えた。妹を見つめ、知らぬ間に向き出させていた歯を唇で隠すと、またうつむいてその表情を隠してしまった。彼女は血走った瞳を見せていた。
「大丈夫だよ。」
秋 穣子は視線を落としたまま、ぎこちなく口角を上げて、1人つぶやくように話した。
「それに、ほらきっと、大丈夫だよ。おねえちゃん。わたし達には農家さんがいるよ。ご飯なら畑のある農家さんから分けてもらえばいいし、また来年も豊作になるよ。大丈夫だよ、おねえちゃん。わたし達、神さまだもん。これまでも上手くやってこれたんだし、また一緒に、頑張ればいいんだよ。」
秋 穣子はにっこりと両目を細めてみせた。しかし秋 静葉は反応せず、彼女に目も向けなかった。こわ張らせたこめかみの力を抜くと、秋 穣子はぐったりと顔を沈めた。
「いや、」
しばらくしてふいに秋 静葉がつぶやいた。秋 穣子が顔を上げ、彼女を見る。
深く息を吸って深く吐き、ひと呼吸置いてもう一度深呼吸すると、秋 静葉は右の袖で目元のあたりをひと拭いして、右足、左足の順ですくと立ち上がった。
秋 穣子が彼女を見上げる。秋 静葉が右に回ってそれに向き合う。すごくまっすぐな眼差しを妹に向けた。
「いや、探そう!穣子。私たちで、盗まれたお米を取り返すのよ!」
秋 静葉は脇を絞めて肘の高さで拳を握ると、清々し気な薄笑顔で秋 穣子を見下ろしながら言った。
「おねえちゃん?」
秋 穣子は左眉をひそめ、両手で1、2歩前に歩くと、もう一度姉を見上げた。
「よーし、今すぐ行こう!お米泥棒を捕まえるわよ!!」
「え?」
妹の同意を待たずして振り返り、秋 静葉は外へ向けて歩き出した。
「おねえちゃんちょっと待って!」
自身に背を向けて離れ行く秋 静葉の膝関節に狙いを定めて、秋 穣子がダイビングタックルよろしく飛びついた。
「うわっギャッ!!!」
前へ向けて歩き出そうとしていたのに両足首をホールドされた上、全体重をかけて膝カックンされた秋 静葉は受け身もできず前のめりに転び、床板めがけて自身の鼻先を勢い任せに殴りつけた。
「、、、うおぉぉぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛おおおお。。。。。ちょ、ちょっと。穣子。いきなり何するのよ。凄く、痛かったじゃない。。。」
名状しがたいうめき声に続いて、息切れぎれに妹へ不平を訴えると、秋 静葉はのそりと四つん這いに起き上がって、右手で鼻元を覆いながら中腰のまま振り返った。目に涙が溜まっている。右手指の隙間という隙間から溢れ出る赤黒い血液がだらだらと流れ落ち、袖の中、床の上へとこぼれ落ちた。
彼女は焦ることすらできず血みどろの手のひらをまじまじと見つめると、少し上向いた状態で下目づかいになって、ポケットから水玉模様の手ぬぐいを1枚取り出し、その端をちぎって小さく丸めて左鼻の穴へ押し込んだ。
「おねえちゃん、わたしの話し聞いてた?きっと犯人さんは貧しかったからわたしたちのお米を盗んだんだよ?私たちが泥棒さんを捕まえて盗まれたお米をとりかえしたら、泥棒さん、ご飯がなくて死んじゃうかもしれないんだよ?それに捕まえるだなんて、そんな手掛かりなんてあるの?」
「甘いよ穣子!」
秋 静葉は勢い任せに立ち上がり大手を広げて訴えた。
「第一、ここにあったお米は私たちのじゃない!あくまで、私たちを信じてくれてる農家さんたちのお米なんだよ!それだけじゃない、ここにはまだ10俵以上のお米が残っていた!私たちで食べるために精米した半端を除いてもだいたい15俵も!うちの農家さんたちの食べ物がなくなっても、2か月か3か月は食べ続けることができるだけのお米が備蓄してあった!それが全部盗まれたんだよ!確かに穣子の言うとおり、お米泥棒はお金も食べ物もなくて、やむにやまれずうちのお米を盗んだのかもしれない。だけど、それにしても全部持っていくのはやりすぎだよ!」
「それでも、またお米を奪ったら泥棒さん死んじゃうよ!」
「違うよ穣子!」
秋 穣子は膝立ちに立ち上がると両方の握り拳を胸の高さに構えて反論した。しかし秋 静葉はすぐに答えた。
「なにが違うって言うのおねえちゃん!」
「泥棒を見つけるのは、捕まえるためでも奪い返すためでもない。話し合うためなんだよ。後のことは、その後に考えればいいと思ってる。」
「え?」
秋 穣子はきょとんと表情を変えた。姉を見上げたまま考えて、おのずと腕を膝に乗せた。
「じゃあ、1人でも行くね。このままじゃ私、農家さんたちに顔向けできないのよ。」
声のトーンは少し落ち着いていた、腰くらいの高さに構えていた握り拳をほどき、垂直に垂らすと、秋静葉は再び外へ向き直って歩き出した。
「おねえちゃんちょっと待って!」
「えっあ!っっギャッ!!!」
再び足首を掴まれて再び転倒し、秋 静葉は再び鼻先から床に激突した。
「うぉぉぉぉ゛ぉ゛ぉ゛おお、、こ、こ、こんどはなに?」
息切れ切れに身を起こし、右手で鼻元を覆って中腰のまま振り返ると、秋 静葉は再び妹に不平を問うた。
「おねえちゃん、わたしも行きたい。」
「いや、いいけど。押し倒すことなくない?」
「それと、」
秋 穣子は目を逸らすように視線を落としてしょぼんと小さく口をつぐんだ。
秋穣子はそれを見ると妹に向かって座り直し、血染めの右手をまじまじと見つめた後、5分の1程幅に短縮された手拭いからもう5分の1ちぎり取って丸め、右鼻の穴に押し込みながら問い返した。
「それと?」
上目づかいに秋 穣子が姉と目を合わせると、漏らすようにつぶやいた。
「おなかすいた。」
秋 静葉はなにも答えずぽかんと口を開けた。その時2人が座る小屋のどこかでお腹が鳴った。どちらかから鳴ったかは分からない、もしかしたら両方かもしれない。
「しかたない。」
秋 静葉は妹を見つめながらつぶやくと、のそりと立ち上がってワンピースの膝元をパンパンとはたいた。両腰に握り拳を当てながら清々し気な笑顔を妹に向け、秋 静葉は籠りに籠りきったとてつもない鼻声で彼女に言った。
「お芋掘って蒸かして食べるか!」
全面紅葉に覆われた山野のけもの道を秋姉妹が歩いていた。先頭を行く姉の両鼻には、もう詰め物はなくなっていた。
2柱とも額に日の丸鉢巻きを付け、右手で備中くわを上げ下げしながら「えいやえいや」と言っている。そして2柱ともなぜか威勢ありげに笑っている。
彼女らは山の中で1時間ほど前からこのように歩いていたが、1時間ほどすると向かい合って体育座りしていた。
「見つからないね、おねえちゃん。」
「私ってばどこに向かって歩いてたんだろう。」
「もうちょっと、手掛かりを見つけてから探すんだったね。」
秋 穣子が顔を上げて姉と見合う。
しかし秋 静葉は視線を落とし腕の中に顔を埋めてしまう。彼女の身はわずかに震えていた。
「秋の、神さまですよね?」
誰かが声を掛けた。顔を上げて姉妹が互いを見合わせるとその方向へ視線を変えた。
声の主は河城 にとりだった。彼女は墜落してきたUFOでも見るかのような眉のひそめ方で秋姉妹に歩み寄り、声を掛けたのだった。様子をうかがうように秋姉妹は慎重に立ち上がろうとする。
「えっと、、、手伝ってもらえませんか。車輪がハマっちゃって。」
河城 にとりが指差す。見ると数歩先にある山道を少し登ったところに6俵の米が縛り付けられた4輪の荷車があり、それが左前輪側へと地面側へおよそ30°ばかり傾いていた。姉妹は慌てて立ち上がり、河城 にとりすら追い越さんばかりに駆け寄って3神妖力を合わせて荷車を持ち起こした。そして彼女らはそのまま車を押し続けた。
「いやぁ、助かりました。これだけ積んでると1人じゃどうやっても直せなくて。しかも一緒に運んでくれるなんて。」
「いいんですよ。困ったときはお互い様です。そんなことより、河童さんも田んぼを持っているんですね。立派なお米じゃないですか。」
「いえ、これは守矢神社さんからもらったお米なんですよ。今年から精米設備を整えたんで、藁か殻付きから持ってきてくれれば白米にするよ、手数料払ってくれればこっちで俵も作ってお宅まで持ってくよっていう、精米代行業を始めたんです。」
河城 にとりが先頭で舵取りをして、後ろから秋姉妹が押していた。河城 にとりは前を向きながらも精一杯に秋姉妹へ向いて話し続けた。
「そしたら守矢さんから、信者の米全部精米してくれって頼まれましてね、あそこ人類の信者さん、ほとんど百姓ですから。それでお得意さんのよしみで支払いは米でいいよってしたら、うちの里でも食べきれないくらい沢山もらいましてね、人里に売ることにしたんですよ。というかうちじゃあ、ほとんどきゅうりしか食べないんですけどね。」
それを聞いて秋 穣子は腹部に手を当ててクスリと笑った。彼女らはしばし談笑しながら荷車を押し続けた。
「それで、何かあったんですか。あんな所で、暗そうにして。」
話題が付き掛けた頃に、河城 にとりが声のトーンを落として聞いた。
秋姉妹は互いに顔を見合わせて、暗い表情をした。しばしの間を置いて、秋 穣子が話した。
「実は、盗まれちゃったんですよね。わたしたちのお米。それでどうにか取り返そうと探し回ったんですけど、見つからなくて。」
突然荷車が止まり、河城 にとりが秋姉妹へ振り返った。
「そんな、すみません、なんか、その、、」
「いいんですよ、あなたはなにも悪くありませんから。私がいけないんです。なんの手掛かりもないのに見つけ出すだなんて。」
秋 静葉が笑いながら間を置かずに答えた。苦い笑顔だった。
「それに、きっと泥棒さんも、ご飯がなかったんですよ。仕方なく、私たちの蔵に忍び込んだんだと思います。いいんですよ。誰かの生活が助けられたのなら。」
秋 穣子は笑顔を浮かべているようだが笑っていなかった。
「ささ、私たちのことは気にしないで先を急ぎましょう。私たちのことは良いんですよ。私たち、神さまですから。何とかやっていけるんです。」
河城 にとりはうつむいたまま、動こうとしなかった。
「おねえちゃんの言う通りです。にとりさんは何も悪くないですよ。行きましょう。」
秋姉妹は河城 にとりに衝突することも気にせずに荷車を押し始めた。彼女は何も言わずに、姉妹に従って荷車を引き始めた。
山道を過ぎ、農地に降りた。しばらく農道を進み続けると人里へと到達する。
「きっと、どこかの米蔵ですよ。」
荷車を引く河城 にとりがふいに言い出した。
「例え食べる飯に困っていたとしてどれだけ共犯が多かったとしても、あれだけの米を1度に食べ切れる訳がない。だから盗まれた米は…」
「盗まれたお米は?」
秋姉妹は互いに見合わせると河城 にとりに問いかける。彼女は振り返ることなくそれに答えた。
「きっとどこかの本百姓の米蔵か、裕福な町人や問屋の蔵の中にあるはずですよ。」
「そっか、そうだよ、そうだよおねえちゃん、今度は米蔵の中を探してみよう。!」
秋 穣子は明るくはれ上がった笑顔を姉に向けた。秋 静葉は表情を曇らせた。
「でも、そんなことしたら罪のない農家さんまで疑うことになっちゃうよ。」
「それに盗まれた米は盗人自身の米に紛れ込ませて隠してあるはずです。例えそいつの蔵に辿り着いたとしても、盗まれた米と盗人自身の米とを見分けられませんよ。」
河城 にとりの助言を聞いた秋 静葉は、突然に無表情になって、小声で言った。
「いえ、あります。見分ける方法。」
「え?」
河城 にとりが1声聞き直すが、秋 静葉は繰り返さなかった。3神妖は荷車を押し続けた。
堅牢な塀の大きな家屋を1、2軒過ぎると長屋が並び始め、桶屋、鍛冶屋といった職人街、寺子屋を超えた頃に貸本屋、八百屋、呉服屋と諸々の商店が現れ始めた。造り酒屋に喫茶店、2軒の居酒屋と水茶屋を過ぎて次の居酒屋を左に曲がって、造り酒屋を超えたところで人里の中心街に出た。罠網の結び目のように賑わう人だかりをぺこぺこと片手念仏しながら押し抜けて、大路の隅を軒先にぶつからないよう注意深く進み、快活なおばの笑い声と寡黙な揚げ煙のほのかに香るカツレツ飯屋の煤けた看板を見上げて頬拭おうと口元に袖寄せたところで荷車が止まり、秋 静葉は数歩目先から自身のすぐ脇へと視線を移した。
「ここで、ちょっと待っていてください。」
3神妖と6俵の米は米問屋の前に到着した。荷台の上に乗り上がり、車を巡る紐を解いて、えいと1俵を抱え上げると河城 にとりは建物に入り、店先で帳簿取りをしていた番頭に俵の中を見せて商談を始めた。番頭が指図して弟子奉公が外に出てくると、彼の案内に従って秋姉妹は裏の米蔵へと俵を運び出した。河城 にとりが店から出てきて「そんなことしなくていい」と彼女らを制止するが、秋姉妹はそれを聞き入れずに、笑いながら蔵へと向かって行った。
「お米だ。」
「たくさんあるね。」
最後の俵を運び終えて秋 穣子が外に出ようとしたとき、視界の端で秋 静葉が立ち止まっていることに気が付いて彼女は振り返った。
秋 静葉は蔵の中いっぱいまではいかない程度に積み上げられた50俵近い米俵を見上げていた。
おのずと彼女はそれらのうちの1つに手を当てて、その中腹にあるたが紐へ手を滑らせると、たが紐と米俵の両端へと延びる縦紐との結び目を2ヶ所見つけて、顔を近づけて注視した。結び目を手でいじり、数秒間顔を離さずにいたものの、身を起こして少しの間うつむいていた。
「わたし達の、じゃなかったみたいだね。」
何も答えずに秋 静葉はうなずいた。そしてすぐ隣の俵、別の俵と次々に結び目を確認した。
「秋の神様、本当に、ありがとうございます。よかったら、買ってもらえませんか。」
河城 にとりの声が聞こえる。振り返ると外から大袋のような物を抱えた誰だかが地数いて来ていた。彼女が抱えていた物は上から3分の1くらいのところですぼまった米俵の半端物だった。
「盗まれちゃったんですよね、お米、全部。私共も食べて行かなくちゃいけないですし、上納というか人頭税みたいなのもありますから、手伝ってくれたお礼とするにはがめついことも承知なのですが、相場の3割程度までお売りできますよ。買ってもらえますか。」
姉妹は互いを見合わせると河城 にとりへ向き直り、同時に深く頭を下げた。
四畳半程度の木造の小屋、その中央に半端な分量の米俵が置かれている。それを挟むように秋姉妹が床に座り、まじまじとそれを見つめている。
「よかったね、おねぇちゃん。」
「でも、こんなんじゃ全然足りないよ。農家さんには返せない。」
「河童さん、盗まれたお米は蔵の中にあるって、言ってたよね。」
「うん。」
「でも、米蔵のある家なんてきっと、農家さんくらいだよね。」
「うん。」
会話が一時止まる。重々し気な口調で秋 穣子が言う。
「でも、まさか、うちの農家さんじゃ」
「そんな訳ない。」
間髪入れずに秋 静葉は反論した。妹と全く同じ声色だった。
「畑のある農家さんなら自分たちのお米があるし、畑の無い農家さんだって私たちに相談してくれる。他のどこの農家さんかもわからない農家さんならいざ知らず、私たちの農家さんが、私たちから盗むはずなんてあり得ないよ。」
「それじゃあ、私たちの農家さんじゃないなら、」
米俵から目を離し、互いが見合わせた。秋 静葉は米俵へ目を戻した。
「他の農家さん。私たちの守っている農家さんじゃない。他の神社の農家さんが怪しいと思う。」
「でも、どうするの?よその神社の農家さんだからって、怪しいから蔵を見せてください、なんて言ったら、わたしたち嫌われちゃうよ。」
秋 静葉が立ち上がりながら言う。
「仕方がないよ。誰に嫌われてでもお米を取り返さないと、私たちは、私たちの農家さんからすらも、見放されちゃうよ。」
秋 静葉は髪飾りの落ち葉を2枚つまみ取り、米俵の、1番下のたが紐と縦紐との結び目の、隣り合う2ヶ所に1枚ずつ挟み込ませた。
「すみません!お隣の秋です!すみません!開けてください!」
ドンドンドンと木板が鳴る。秋姉妹が自身等の居宅から1.5kmほど離れた邸宅の表門に横に並んでいて、秋 静葉が戸を叩いている。
「お願いします!お願いがあるんです!どうか私たちを入れてください!」
「はーい。」
奥から女性の答えが聞こえて秋 静葉は笑みを浮かべる。間もなく木製の引き戸が横にずれて割烹着をまとった中年女性が現れた。
戸の開くが早いか、秋姉妹は女性のいることに気付くや否や、互いに見合わせることすらなく、姉妹揃って全く同じ、凄まじく速い動作でもって、にこやかに出て来た女性へ向かって土下座をした。
「お願いします!私たちの農家さんのお米が盗まれました!今!盗まれたお米を探しています!どうかお宅の蔵の中のお米を見せてください!」
中年女性はきょとんとしたまましばらく立ち尽くしていたが「ちょっと待っていてください。」と姉妹を制止すると母屋へ戻って行き今度はだいぶ渋い顔をした中年男性と共に戻ってきた。中年男性はスタスタと歩いてきたが、来客へ声を掛けようとしたところで表門の下で土下座する秋姉妹を見て1歩後ずさった。
男性が秋姉妹を3言4言かけて起き上がらせると、蔵まで案内すると言って付いて来させ、母屋を時計回りによけて裏へ向かった。
表門をくぐり抜けた時、秋 静葉は母屋の屋根の上を見て、すぐ目を逸らした。そこには少女が立っていた。敷き詰められた瓦屋根の末端に紋様の掘り込みすらない簡素な鬼瓦が設けられている。そこから棟瓦を2、3枚ほど家屋内側へ寄ったところに誰かが今しがた空から降り立った。距離があって判然としないものの、彼女は色とりどりの衣服をしていて、どうやら表門の方を見つめているらしい。
「あれって、商売繁盛の神さまじゃ、なかったっけ?」
秋 静葉が妹に寄り添って小声で耳打ちした。
秋 穣子が振り返ってあれを見る。レインボーを呈したワンピース姿の白マントは前触れもなく、例えばシェーのポーズか、あるいは、はにわの構えのように、その黄色い長袖を上下へとあべこべに歪曲させて、まるで見せ付けるかのようにそれを彼女らへ向けていた。確かにその少女は天弓 千亦だった。秋 穣子は2回まばたきすると、すぐ目を逸らした。
中年男性が鋼鉄製の錠前を取り出して、鋼鉄製の南京錠を開錠する、秋 静葉は彼が開こうとする米蔵を見上げていた。
石積みの基礎に厚い漆喰塗りの土壁、両開きの頑丈な土戸は握り拳より巨大なぶ厚い南京錠で施錠されている。2階建てもある蔵は全面ヒビも穴もなく、天井も瓦が隙間なく積まれている。見るからに燃えることもなく、崩れることもなく、ひとが盗みに入ることもない、それはあまりにも大きく、あまりにも重厚な蔵だった。
中年男性が南京錠を取り外して力一杯に土戸を引き開け、燭台に火をともして秋姉妹に手渡すと、「さあ入りなさい」と促した。
秋姉妹は深々と頭を下げて土蔵へと入った。入室ざま、秋 静葉はもう1度振り返って母屋の屋根の端へと目を向けた。天弓 千亦は表門に背を向けるように立ち、上下に差し向けた両の手を目元へ運んだ。まるで両の親と人差し指によって、自身の視界に長方形のフレームを形作って、こちらに見せているようだった。秋 静葉は眉間に眉をひそめると、すぐ目を逸らした。
蔵の中には米問屋にあったものに迫るほどの米俵が積み上げられている。秋 静葉が照らす蝋燭を頼りに2人は俵を1つ1つ調べていく。俵の中身までは確認しない。彼女らは俵のたが紐両端の隣り合う2ヶ所、計4ヶ所だけを確認して目当ての俵でないとすぐ別の俵を確認した。その間中年男性が出入口の前で彼女らを見守り続け、中年女性は彼の指図を受けてどこかへ走って行った。
しばらくの間、秋姉妹は談笑することもなく黙々と俵を調べ続けて中年男性、天弓 千亦もまた黙々とそれを見守っていた。そして1番最期の米俵の、両端のたが紐から手を離して姉妹はうつむき、秋 静葉がゆっくりと左右に首を振った。
中年男性に連れられて秋姉妹が表門に向かう。うつむきながらも秋 静葉は目の動きだけで母屋の屋根上を見て、すぐ目を逸らした。
天弓 千亦は腹元で腕を組み、首を傾げながら米蔵に背を向けて直立していた。
「ねえ、おねぇちゃん。」
中年男性の慰めの言葉を後にして、秋姉妹がその農家を立ち去った。
粗末な一本道。水の抜かれ、稲わらやたい肥の丹念に混ぜ込まれた田干し途中の耕作地が左右に広がる農道を歩き、もう高くに上がった太陽を前にしながら、秋 穣子が姉に訊いた。
「本当に、守矢さんなのかなぁ。」
秋 静葉が妹へ振り返り、その向こうを見やって、すぐ目を逸らした。向こうには今しがた立ち去った邸宅があって、その母屋の屋根が見えた。そこに少女の姿はなくなっていた。
「違うかもしれない。でも、私はもし断られても、忍び込んででも探そうと思ってる。蔵を持っている農家さんが犯人なのは間違いないから、守矢さんで見つからなかったなら、他を探せばいいって、そう思ってる。」
「少し、気が遠くなっちゃうね。」
「うん。」
秋 姉妹が農道を歩いている。しかし2柱とも前は向いておらず、むしろ足元を見ているようだった。
「相変わらず不景気そうな顔してますね~。」
突然声が聞こえた。秋姉妹は顔を見合わせると声の主を探して上を向いた。
「どうもどうも、いつもお世話になっております、豊穣の神様がた。皆さんご存じ、清く正しい射命丸 文です。」
黒く艶やかな翼をばさ、ばさと羽ばたかせて射命丸 文が2人の前に降りてきた。そして彼女は見るからにエネルギッシュな笑顔を、ものすごくにっこりとした笑顔に変えて、秋姉妹に問いかけた。
「いくつか取材をさせてください。」
「いいですけど、なんのですか?」
「盗まれたんでしょう、あなたがたのお米。」
秋 姉妹は互いに顔を見合わせ、2柱同時に問いかけた。
「どうしてそれを?」
「ご心配には及びません、何も怪しいことはしていませんので。理由はとても簡単です。うちの下っ端が翌朝、掘っ立て小屋の中で落ち込んでいるあなた達を見かけたんですよ。それで詳しく聞いてみまして、こいつは、このひとたちも米泥棒の被害者だなと、そう思ったんでございます。」
「...も?って。」
眉をひそめながら、秋 穣子が首を傾げて射命丸 文に訊く。
「米の窃盗被害はあなた方で5例目です。」
「...そんなに?!」
射命丸 文は万年筆と手帳を取り出して質問した。
「それで、被害状況はどの程度で?」
「被害、状況?」
秋姉妹は首を傾げて互いを見合わせる。射命丸 文が問い直す。
「米はいくらほど盗まれましたか?」
「ああ、たぶん、15か、6俵と少しくらい。」
「相当ですね、米はどこに置いていましたか。」
「わたしたちの、お米や作物を入れておく蔵の中です。」
「なるほど、犯人はその小ッ、蔵の鍵を破壊して中の米を盗み出したと。」
「いいえ、泥棒さんは鍵を開けて中に入ったんです。」
「なるほどなるほど、つかぬことをお聞きしますが、鍵を掛け忘れましたか?」
「冗談じゃない!」
秋 静葉が声を張り上げて反論した。
「蔵の鍵は河童さんの作ってくれた、かなり丈夫なのを使っているし、開ける時も閉める時も必ず穣子と一緒に確認しながらやっている。第一蔵の中の作物は、私たちを信じてくれている農家さんから預かっている、私たちにとって一番、いや農家さんの次に大切なものなんだ、家の戸に鍵がないから誰かに盗みに入られるならいざ知らず、蔵の鍵を掛け忘れることなんてあり得ないよ!」
「おねえちゃん。」
激しい身振りを展開する秋 静葉の肩を、彼女の妹が優しくつかんだ。
「となると、ずいぶん不可思議ですねぇ。」
筆の後端を唇に当てて射命丸 文が眉をひそめる。秋 静葉は恐る恐る聞いた。
「どうして?」
「これまでの4例はいずれも命蓮寺の檀家が被害者です。どれも防犯意識の薄い水飲み百姓で米の被害も2、3俵程度でした。狙う相手も犯行手口も被害の規模も全部違います。あるいはこれまでの4例と今回の事例とは別の犯人によるものだと考えるべきでしょうか。」
秋姉妹はぽかんと口を開けると2柱揃って首を上下に頷かせた。
「それで、今あなたがたは何をしているのでしょうか?」
「盗まれたお米を探しています。」
射命丸 文は筆を止め、品を定めるように秋姉妹を睨みつけると、また筆を進めた。
「こんなだだっ広い田園地帯のど真ん中で、どうやって?」
「俵を見れば、盗まれたものかどうか、見分けることができるわ、だから農家さんに1軒1軒回って、蔵の中を見せてもらっているのよ。」
再び筆を止め、上目に何かを睨む、秋姉妹を向いているようで彼女を睨んでいる訳ではない。しばらく考えると、秋姉妹に言った。
「悪いことは言わない、こんなこと無駄だから別の方法を考えましょう。」
「でも、他にいい方法なんて思いつかないよ。結局いつだって地道に努力して積み重ねていく以外じゃ上手くいかないんだ。」
「果たして、あなた方が今積み重ねている努力に、目的は伴っているのか。」
「お米を取りかえ」
「そうではない。」
射命丸 文は秋姉妹を制した。ゆっくりと落ち着きのある態度だった。
「私にはどうもあなたがたが、非常に刹那的に、或いはもうヤケクソになって走り回っているようにしか見えません。あなたがたは農民にあたりを付け、その米蔵を怪しみましたが、本当はそこに、まともな理由なんて無いんじゃないのでしょうか。ただあなたがたが農民だから、農民の他に憎しみを向けるのが恐ろしかっただけ、米の隠し場所といえば蔵だと思ったから、蔵のある長者の家を狙っただけなのでは。あなたがたが先程押しかけた家は守矢神社の信徒の家ですね。あなたがたはその感覚のどこかで、守矢神社とその信徒を、敵であると認識しているのではないでしょうか。だから犯人は守矢信徒の蔵を持った富農に決まっていると、そう信じるのが一番、楽だっただけなのではないでしょうか。そう思ってしまったんです。あなたがたが、理由や根拠を持って捜査しているのではなく、ただ一番楽な探し方をしているだけなんじゃないかと。」
話し終えた頃には、秋姉妹は2柱ともうつむいていた。射命丸 文はパタンと手帳を閉じると、側頭部を搔きむしって笑った。
「すみません、言い過ぎました。世間知らずな天狗女のざれ言だと思ってお聞き流し下さい。これ以上私がいては邪魔でしょう、ここで退散いたします。取材協力、ありがとうございました。豊穣神様がたのご健勝を心よりお祈り申し上げます。」
射命丸 文は深く一礼すると振り返り素早く飛び去って行った。秋姉妹はしばらく立ち止まっていたが、秋 静葉が歩き出し、秋 穣子もそれを追った。2柱の足取りは少し重くなっていた。
次の邸宅の門前へ辿り着いた。戸を叩いて人を呼ぶと、案外早いうちにそれは開き、どっぷりとした老齢な男性が出迎えた。
しかし秋姉妹が何か言うよりも先に男性は「帰ってください。」と答えてすぐにその戸を閉めようとした。
「ちょっとまって!」
秋 静葉が慌てて引き戸を掴み、戸が閉め切られることを制止した。老齢の男性と閉める閉めないの力比べをしながら、彼女は頼んだ。
「お願いします、私の、農家さんたちの、お米が、盗まれたんです。どうか、見つけるの、手伝ってください。」
「ご近所から連絡が回ってきましてね、豊穣の神様が米を盗まれたと因縁をつけて蔵の中を嗅ぎ回っているって、迷惑だとは思いませんか。言われもないのに犯人扱いされて、好き勝手に蔵の中いじくりまわされるなんて。うち等は何も悪いことしてないですから、どうぞお引き取り下さい。」
「そこをなんとか、絶対に、見つけなきゃ、いけないんです。農家さんの、生活にも、関わることなんです。どうか、助けてください。」
「それじゃあ、うちじゃないですよ!他当たってください!」
秋 静葉が戸板を手放して後ずさる。老齢の男性は戸を閉めるのも忘れて彼女を見つめる。秋 静葉はすかさずしゃがみ込んで額を地面につけて叫ぶように言った。
「お願いします!ご迷惑はおかけしません!お願いします!」
「お願いします!」
秋 穣子も続けざまに土下座をした。間もなく疲れたようなため息が聞こえて、シャー、パシンと戸の閉まる音が聞こえた。それでも秋姉妹は頭を上げることなく、そこに留まり続けた。そのうちにどちらかから、むせび泣く声が聞こえるようになった。
東風谷 早苗が走っていた。彼女は守矢神社で洩矢 諏訪子、八坂 神奈子と共に味噌汁、焼きしゃけと中さじ1杯の大根おろし、白米を並べて小つぶ納豆をかき混ぜていたところ、突然守矢信徒が境内に駆け込んできて秋姉妹が暴れていると訴えて来たため、すぐさま彼女を抱えて現場まで飛び、詳細を聞いたのち近くの守矢信徒邸宅まで走っていた。
邸宅が近づいてその表門を見やった時に東風谷 早苗は全体重で急停止し、それに加えて3歩後ずさった。表門の前には建物に向かって土下座する秋姉妹が土下座したまま泣いているのが見えた。
隙のない木塀の腰板付近に3柱の神が座っている。横一列に膝を抱えて並んでいて、その中央にいる秋 静葉は既に落ち着きを取り戻し、涙も乾いていた。
「なるほど、盗まれたお米を見つけたくて、うちの信者さんにお願いして蔵の中を見せてもらうとしていたと。」
「はい、そうなんです。疑うようなことしちゃって、ごめんなさい。」
「いいんですよ、お百姓さんがそんなにも追い詰められたんです、仕方ないことです。それにしたって、うちの本百姓さんの米俵を見ても、なにか分かるんですか?中を見ても、入ってるのは白いお米だけですよ。」
「私たちのお米は、まだ殻が付いていますので。」
「なるほどぉ、まだ殻が付いているから全部殻が取れてる私たちのお米とは見分けられるってことですね。じゃあ取っちゃったら分かんないんじゃ?」
「もう1つある。」
頭上を飛び越えて会話する2柱の間から、秋 静葉は漏らすように言った。
「私たちの農家さんのうち、畑を持っていない人には、私たちの田んぼでお米を作ってもらっている。そうして作ってもらったお米はまず全部収穫して、私たちの蔵の前に集めてもらって、そこから人里に卸す分と、みんなに配る分と、うちに貯めておく分とに分けている。そして貯めておく分にだけ目印をつけている。目印のない方だけを売りに出したり、農家さんに配り直したりしている。だから盗まれた俵にはみんな目印が付いているはずなんだ。」
「それはどんな目印ですか?」
「お米を縦に立てた時の1番下の横紐と、縦紐との結び目4個のうち、手前の2個にもみじの葉っぱを織り込んでいる。結び目にねじ込ませているから簡単には取れない。もしそれが見つかって取られたとしても、葉っぱのくずが縄に残っているはず。今の私たちには、それしか残っていないんだ。」
「なるほど、盗まれたお米にはもみじの目印が付いている。もみじの葉っぱが見つかれば事件が解決すると。」
秋 静葉が「そうよ。」と答えながら東風谷 早苗を見上げた。彼女は秋 姉妹に見向きもせず困ったような表情であごに指を当て、空を見上げていた。そして空を見上げたまま口を開いた。
「秋姉妹さん。」
「はい?」
「私たち守矢のお米をくまなく調べて、そのどこからも、もみじの葉っぱが見つからなかったら、うちのお百姓さん達の潔白は、証明されますね。」
「はい。間違いなく。」
「うーん。よし!そいじゃあ一丁、片づけますか!」
東風谷 早苗は立ち上がり表門へと駆け寄って、戸板の縁に手を掛ける。それを開ける前に彼女は秋姉妹へ向き、晴れやかに笑って「ちょっと待っててください!」と言って戸を開けると、間もなく誰かに挨拶しながら入って行き戸を閉めて、すぐにまた戸を開けて顔だけ出すと「もう入っていいですよ!」と言って2柱を招き家屋へ入らせた。
結局、盗まれた米は見つからなかった。
「うちの本百姓さんはあと4軒、ちゃっちゃと探してちゃっちゃと終わらせちゃいましょう!」
粗末な一本道、左右に耕作地が広がる農道を歩きながら、東風谷 早苗はやけに明るく秋姉妹に言った。
「えっと、早苗さん?」
大きく左右に広げた手を後ろに回した頃に声を掛けられ、東風谷 早苗は振り返って後ろ歩きしながら首を傾げて聞いた。秋 穣子は眉を八の字にしながら笑っていた。
「どうかしまたか?」
「一緒に手伝ってくれるのはありがたいんですけど、どうして?」
「困ったときはお互いさまって、言うじゃないですか~。それに、うちの信者が潔白だって分かってるんなら何も隠し立てだっていらない訳で、早いとこ終わらせちゃった方が手間が少ないんです!こうやって秋姉妹さんのお手伝いをすれば、うちの信者さんのためにもなるんですよ。」
秋 静葉はむっとした顔で問いかけた。
「それにしたって、あなた達からすれば、さっきの農家さんみたいに相手にしなくてもいいはずだよ。それなのにどうして、こんな親身になってくれるなんて。」
「どうしてなんでしょうねぇ、まぁ、そういうもんなんですよ!」
「そんなことない、おかしいよ。」
東風谷 早苗は秋 静葉にむっとした表情を見せ返し、胸の高さに両握り拳を構えて反論した。
「おかしいとは何ですかおかしいとは!まあ確かに、私も今はただの人間ですけど、これでも立派な神さまのひと柱、とまで言えなくても、ちゃんとした神さまの端くれに、毛が生えたくらいではあるんですよ。いま目の前に苦しみに苛まれて、悲しんでいるひとがいるのなら、例えわが身を犠牲にしてでも手を差し伸べて、救い出してあげたいって、そういう気概くらい、私だって持ち合わせているんですよ!ばかにしないでください!」
言い切ると東風谷 早苗は秋姉妹に背を向けてしまった。秋 静葉は困惑した。
「べ、別に馬鹿にしたわけじゃ。だって私たちって、同じ農家さんたちを奪い合う、言わば敵同士じゃ」
「敵じゃないですよ!」
いきなり高いトーンの声で東風谷 早苗が言い返した。
「へ?」
「なんだそんなことか~まったく秋姉妹さんったらばかだなぁ。」
「へ?」
東風谷 早苗が再び振り返ると両手を一杯に広げながら、曇りなき笑顔を秋 静葉に見せた。秋 静葉は口の形が「へ」になった。
「私たち神さまにとって未信者ってのは誰であれ、まだ信じてないひと、これから信じてくれるひとのことを言うんですよ!今日信じてないだけで明日信じてくれる、今間違えているだけであって、これから正してくれる、いえ私たちがこれから正してあげなきゃいけない!救ってあげなきゃいけない!ただの可哀想なひとたちなんですよ。だから私たちにとってあなた達は、助けてあげなきゃいけないひとであって、決して敵なんかじゃないんです!」
秋姉妹はぽかんとして彼女を見つめていた。東風谷 早苗はまたにこりと首を傾げて続けて言った。
「だから秋姉妹さん、あなた達だっていま困ってるんですから、どうぞ気兼ねなく、私達に助けられてください!」
秋 静葉は全身が脱力し切って、握り拳もほどけていた。向こうに邸宅が見えて、東風谷 早苗が指差した。
「あ!本百姓さんの家が見えてきましたよ!ちょっと話をつけてきますね!」
東風谷 早苗がタッタッタッタと走って行く、それを見届けた秋 静葉は立ち止まって、それを見て秋 穣子も立ち止まった。
「立派なひとだなぁ。」
「うん、立派な神さまだね、おねえちゃん。」
左右に耕作地の広がる農道、まだ高くにある太陽を背後に構えて秋姉妹が歩いている。秋 静葉は遠くを見据えて、秋 穣子はうつむいていた。
「見つからなかったね、おねえちゃん。」
結局、盗まれた米は見つからなかった。彼女らは守矢信徒の全ての米蔵を見て回り、東風谷 早苗は彼女らに対して文字通り献身的なほどに協力したが、最後には「自分にできることはここまで」と告げて、彼女とは別れることとなった。
「でも、よかったよ。守矢さんじゃないって分かったから。1回、お家に帰ろっか。次にどこの農家さんに当たるか、一緒に考えよう。」
「どうもどうも秋の神様がた。」
秋姉妹の頭上から声が聞こえた。聞き覚えがある。姉妹は空を見上げた。
「どうも、清く正しい射命丸 文です。泥棒探しの調査はいかがですか?」
「私たちが探してるのはあくまで盗まれたお米だよ、泥棒じゃない。」
「おお、これは失礼いたしました。まま、そんなことはさておき、盗まれたお米は見つかりましたか?」
秋姉妹はどちらも答えず、彼女から目を逸らした。
「そうですか、残念です。さて、先ほどは、守矢神社の早苗さんとご一緒でしたね、やはり何かトラブルでも?」
「いいえ、早苗さんはとても親身になって手伝ってくれましたよ。トラブルなんてありませんでした。」
「ほうほう。」
射命丸 文は開いた手帳にメモをして少しの間質問しなかった。ペンを止めてから彼女は話した。
「ですが教祖は寛大でも信者はそうとも限らないようで、あなたがたが守矢の農家に押し掛けたとして、さきほど守矢信徒の有力者達が会合を開きました。議題が議題ですので、会合が終わり次第、彼等からあなたがた、あるいはあなたがたの信徒等に対し、何らかのアクションがあると考えるべきでしょう。」
「そんな。」
秋 穣子が口元に両手を近づけて言った。秋 静葉は今もうつむいている。
「仕方がないよ。」
「取り越し苦労であればそれに越したことはありませんが、どうぞお心に留め置いてください。それともう1つ、この辺では、あなた方のことはもう既にちょっとした噂になっているらしく、あなた方の、」
「…―い。」
秋 穣子が顔を上げて周囲を見回す。どこかから声が聞こえたような気がした。
「噂をすれば。」とつぶやいて射命丸 文は頭襟を押さえて飛んで行った。
「おーい。」
秋 静葉が一本道の向こうへ目を凝らす。声は前よりも少しだけはっきりと聞こえた。
「おねえちゃん、あのひとってたぶん、」
「おーい、穣子さぁーーん!」
備中ぐわを1本、両手に抱えて駆けて来る中年の男性の姿があった。
「あ、農家さんだ。どうしたんだろ。」
四畳半程度の木造の小屋、中には40名余りの老若男女と2柱の神がぎゅうぎゅうに詰まっている。脆い両開きの戸は閉め切られ、人と神の狭間にあるわずかな隙間に置いたオイルランタンの、ごま油と低含水エタノールの混成油が灯す、申し訳程度の炎だけが部屋の中を照らしていた。
秋姉妹は1番奥の壁に背を付けて、腕を隣り合わせて正座していた。会衆は彼女らの目の前にいる数名のみが座り、他は立っている。壁に近い者ほど年若く、少年少女は皆壁に張り付くように並びながら、集いの内容に耳を傾けている。
姉妹の正面には口元に髭を蓄えて顔中に皺の入った老人が、床板に正座して、腕を組みながら眉間にまで皺を寄らせていた。両者の間には、そこに残された僅かばかりの籾が寄せ集められ山を作っていた。秋 静葉の脇にはオイルランタンが、秋 穣子の脇には3分の2ほどのところですぼんだ米俵の半端が置いてあった。
2柱とも、その視線は彼からそれているようだった。
「水臭いじゃありませんか、穣子さん、静葉さん。」
老人が口を開いて、2柱は彼へ目を会わせる。
「言ってくれれば、私共総出で泥棒探しを手伝いましたのに。」
秋 穣子は表情を一切変えず彼へまっすぐに向く。秋 穣子は両手を組み合わせて口元をほころばせた。
「2人だけで探すより3人で、3人で探すより4人で、5人で探す方が、よっぽどいいじゃありませんか。私たちはね穣子さん、静葉さん、あなたの大切なものが何であれ、何者か悪い奴に盗まれたとあっちゃ、いつだって、その悪い奴を探し出し、取っ捕まえて、あなたに全部お返しする、ともすればあなたを枕に討ち死にする、その準備も、覚悟も、いつだって、できているんですよ。ここにいる全員ね。なぁ、そうだよな!!」
「おお!!」
老人が振り返りながら会衆に問いかける、会衆は皆ほぼ一斉に声をあげた。特に青年衆の声が大きく、小屋の外までも確実に響いている掛け声は凄まじく野太かった。老人は無邪気に笑い深く座り直すとその表情を秋姉妹へ向けながら言った。
「そういうことです、穣子さん、静葉さん、今すぐ行きましょう、盗まれた、あなたのお米と泥棒を探しに。守矢農家の蔵を探している途中でしたんでしょう、早く次へ向かいましょう。ここにいる全員が、あなたについて行きますよ。」
「でも、私たち、守矢神社の早苗さんにすごく良くしてもらって、守矢神社の農家さんの蔵はもうぜんぶ見せてもらったんです。それでも、見つからなかったから、たぶん守矢さんじゃ、」
秋 静葉が両手のひらを老人と全会衆に向けながら答えた。彼はきょとんと眼を丸めると、長いあご髭を右手で2回なでおろした。すると背後から誰か若い男の声がした。
「蔵に無かったんなら、きっと床下に埋めてるんだ!」
「そうよ、その通りだわ!守矢の床下が怪しい!」
「やるぞみんな!守矢の床下ぜんぶ掘り返してでも穣子様の米を取り返すんだ!」
小屋中から色々な声があがる、聞き取ることのできるようなものもあれば、できないものも沢山あった。
半身をねじって老人が会衆を見回している。そして上体を戻すと、彼と秋 静葉の目が会った。彼はしきりにあご髭をつまみ、力無く小口を開けて眉をひそめ、ゆっくりと小さく首を左右に振っていた。
秋 静葉は再び会衆を見回すと慌てて立ち上がり、肩の高さに突き出した両手のひらを床方向へ緩やかに振りながら全員に向け叫ぼうとした。
「ちょ、みんな!ちょっと待っ」
しかしそれはできなかった。
「よかったねおねえちゃん!みんな、わたしたちのこと助けてくれるって!よかったね!」
会衆に向けた秋 静葉のその両手を秋 穣子が奪い取り、力一杯にぎゅと握りしめ、涙ながらに笑って彼女を止めた。秋 静葉は続きの言葉を失って、ただ彼女を見つめていた。秋 穣子は姉の両手をぎゅと握ったまま2回膝だけを折り曲げる形で飛び上がると手を離し右人指し指で両目を拭うと会衆に向け立て続けにお辞儀しながら「ありがとうございますありがとうございます」としきりに礼を言っていた。彼女にあわせて会衆の声はだんだんと大きくなっていき、老人はうつむいているようだった。
左右に耕作地の広がる1本の農道を数十人の老若男女と秋姉妹が歩いていた。皆一様に日の丸鉢巻きを付け、誰もが木製の鍬や鋤を持ち、秋 穣子は右手に掲げた鍬を上下させながら「えいやえいや」と掛け声をあげて、大多数の会衆もそれに続いていた。
秋 静葉はうつむいていた。
昼前彼女らが歩いたのと同じ道、間もなく最初に中に入れてもらった農民の家が見えてきた。それと共に会衆の声は一層大きく張り上がり、秋 静葉は顔を蒼ざめ足を止めるが、背後の声が間近に迫ったためすぐまた歩き出すも、その歩幅はとても小さく、妹について行くためか1歩1歩が素早かった。
家屋の表門から割烹着姿の中年女性が飛び出してくると、すぐ家屋へと飛び込んでいった。会衆がとてつもない雄叫びをあげた。
炸裂音と共に目の前の農道が吹き飛んだ。辺りに砂埃が舞い上がり、会衆の雄叫びが凍り付いた。一行の目の前に誰かが無数の弾幕を打ち込んだ。
会衆と2柱の神が天を見上げた。青空の下、空高く照る太陽を背に向けて、誰か少女がそこにいた。しかしそれが誰かに疑問はなかった。日に全てを隠され影まっているようでも、しかし会衆にはそれが見えた。彼女は色とりどりのワンピースを身にまとい、逆光でも白いと分かるマントをはためかせ、シェーか、あるいははにわのポーズのようにその黄色い長袖を上下にねじって、間違いなく全会衆へその全身を向けていた。誰も目を逸らさなかった。
天弓 千亦が言った。
「今すぐこの暴徒を解散させなさい。貴方達がこれから試みようとしている行為は、市場を破壊する行為に他ならない。貴方達は今、宗教的相違を理由に他の生産農家を襲撃して農耕資源を簒奪しようと試みている。それは市場への農耕資源供給の停止或いは著しい遅延或いは著しい偏りを招き、食糧価格や一次産業における経営環境の急変といった不必要な市場の混乱を招くことになる。市場はそのような身勝手な経済工作を許す訳には決してならない。今すぐこの暴徒を解散させなさい。さもなくば貴方達にとっても、市場にとっても、誰にとっても望まない結果が、訪れることであろう。」
「簒奪とは何よ!人聞きの悪い。私たちは取り返そうとしているだけなのよ!私たちが盗まれたお米を私たちが取り返して何が悪いって言うの!」
誰よりも前に出て、誰よりも先に張り裂けんばかりの大声で彼女に異を唱えたのは秋 静葉だった。言い終えた瞬間、彼女はハッと息を呑んで我が目を丸めた。
天弓 千亦は力強い、しかし勢いのない落ち着いた声で一行に返した。
「酷い建前だ。自分達がただ闇雲に他人に因縁を付け、暴力を振るおうとしていることを、気付いているはずだというのに、目を背けようとしている。自業自得という、その真実に。」
「自業自得?私たちが何したって言うの!悪いのはお米を盗んだ泥棒じゃない!」
秋 静葉が言った。動揺の色を隠せない瞳とは裏腹にその声は一層強く荒げていた。言い終わった頃に彼女は自分で自分の口を両手で押さえようとしていることに気が付いた。
「守谷系の農家では被害が無く、命蓮系の農家は軽微な被害で済んでいるのに、なぜ貴女達はこれだけ大きな被害を出したのか、貴女達の備蓄米倉庫は本来、全信徒の資産を一手に握る貴女達にとっては最重要な施設であるはずなのに、その防犯設備と言えば建て付けの悪い木造ドアに外付けの錠1つだけ、他勢力との被害の違いは防犯設備への投資量にある。そう言っても過言じゃないでしょう。被害の原因として犯人を非難するのは楽なものの、その根本問題は自己の資産に対する防犯対策を怠った貴女達にあると言わざるを得ない。」
秋 静葉は答えなかった。震える呼吸を肩でして、同じ瞳のまま天弓 千亦を見つめていた。
「ひどい!!このまま泣き寝入りしろって言うんですか!!!」
秋 穣子が答えた。秋 静葉が自身の隣を向き、妹の鬼気迫る面持ちを見つめた。それは彼女の知る限り間違いなく、今年度最も強く張り上げられた、妹の発する叫びだった。
秋 静葉が背後の会衆を見回す、妹に続いて彼女の農民たちが口々にざわめき始め、中には天弓 千亦に何か訴える者もいた。
「第一!」
会衆の声が止まる、天弓 千亦の一言によって。彼女は続ける。
「これから貴女達が向かおうとするあの家屋は、既に貴女達が昼間押しかけて蔵の中を調べ、自分達の米が無いことを確認した生産農家の家屋のはず、2度も押しかけて一体何をするつもりか。」
天弓 千亦は頭上へ向ける右指先を背後の邸宅へ差し向けると、こめかみのすぐそばへと元に戻した。秋 穣子は口をつぐんで、まぶたを揺らしながら後ずさった。
「蔵がなんだ!おれらは守矢の床板ぜんぶ剥がしたって穣子様の米を掘り返すんだ!部外者は黙っとれ!!」
「そうだ!よそ者は出て行け!」
「あたしらの邪魔をするな!!!」
秋 穣子の後ろから野太い男声が怒鳴り上がった。それを追って全会衆が一斉に声をあげ、天弓 千亦へ雑言を浴びせた。その声に押されて秋 穣子も絶叫し、半身を揺らして何やら訴えた。秋 静葉は恐る恐るに妹の肩を掴もうとするも、それは指先が触れただけに過ぎず、のたうつ身体に弾き飛ばされるだけだった。
天弓 千亦は足元へ差し向けた左手を腰に据えたままに、こめかみに添えた右手を天上、正面、天下へと大回しにゆっくりと動かして、その人差し指を秋姉妹ら全会衆へとまっすぐに向けて突き付けた。罵詈する会衆の轟音が止まり秋 穣子の怒号だけが残った。
「わたしたちは戦う!わたしたちは!!!あんたなんかに!!あんたなんかには絶対に止めさせない!!」
秋 静葉が秋 穣子の右肩を左手で堅く握りしめて彼女の揺動を強く引き留めたが彼女は止まらなかった。枯渇する呼吸に気すら留めずに彼女はなおも怒鳴り続けた。
「これ以上わたしたちを踏みにじるなこのく
秋 静葉は秋 穣子の胸元を経由して右手を回り込ませて彼女の左肩を握りしめ、妹のことをぐいんと力一杯にねじり回し、彼女と自身を密着させて向き合わせた。秋 穣子は姉と向き合うと目の色を変え、荒げる呼吸を整えると言葉を止めた。そして左頬に涙を伝わらせた。
「おかしいんじゃないですか、親切にも1度受け入れてもらえた家へ2度も押しかけて家中を荒らした挙句、基礎まで掘り返すとは、そんなことして彼らが許すと思うんですか、許すはずがない。全ての守矢信徒は皆一様に堪忍袋の緒を切らして、武器を取り貴女達に戦いを申し込むでしょう。そして圧倒的な人員、物量、力で貴女達を屈服させ、貴女達全員に、謝罪と、賠償と、そして死を要求するでしょう、守矢相手に規模も資本力も、いや何もかも敗けていることなど貴女達だって知っているでしょう、それなのになぜ立ち向かおうとする、立ち向かうことが出来るとでも思ってるんですか。」
「できる!わたした、。おねえちゃん?」
再び肩を掴まれたため、秋 穣子は振り返った。秋 静葉は妹に手を乗せたまま鉢巻きを外して首を横に振っていた。
「できないよ、私たちがおかしかった。」
「おねえちゃん。」
秋 静葉は手を離し腕を降ろすと彼女らの農民へ向かい立ち直した。彼らは彼女へと注視する。
「盗まれたお米は、私と穣子で必ず見つけ出して、皆さんにお返しします。今日、皆さんの生活に関わる大切なお米が盗まれてしまったこと、皆さんに大変なご心配をおかけしてしまったこと、本当に申し訳なく思います。」
震える声で秋 静葉が会衆に言う。そして右足、左足と膝を折り曲げ、地面に座った。
「だけど、今日のところはここでお気を静めてください。これ以上行き過ぎたことをすると、取り返しのつかないような酷いことが、皆さんにまで降りかかってしまいます。」
「おねえちゃん?」
秋 静葉は右手、左手と握り拳を開いて、地にぺたりと貼り合わせて身を支えた。日の丸の鉢巻きが泥の中で擦りにじられる。
「いつか、いつになったとしても、盗まれてしまったお米は、私たちが必ず見つけ出して、皆さんに必ずお返しします。だから皆さん、今日のところはどうか、お帰りください。」
秋 静葉は両肘をぐぐぐと折り曲げて深く腰をかがめると、農民に向かって地面にその額を擦り合わせ、土下座した。
「そんな、だめだよおねえちゃん、神さまが土下座なんて。」
秋 穣子は姉の肘を掴んで引っ張り上げようとするも彼女はそれを振り払ってなおも額を地べたに押し続けた。会衆が口々に話し合いだんだんと姿勢を低め始める。ある者は後ずさり、ある者はかえって秋姉妹に歩み寄り、ほとんどはその場に立ち尽くすが、四半数は秋 静葉を見下ろし、四半数は天弓 千亦をけげんに見上げ、残る半数は秋 穣子の顔をうかがっていた。
秋 穣子は、彼らを見ることができなかった。今一度秋 静葉を起こそうと試みるもそれも叶わなかった。姉のことも見ていられなくなって、会衆へ目を向けた。
崩れるように両膝をついて、両手をつくと、伏し目がちに首をうつむかせて、秋 穣子はその額を地に着けた。
「どうもどうも、豊穣の神様がた。」
しばらくが経ってからのことだった。すぐ脇から声が聞こえた。誰かがすぐ傍まで立ったかと思うと、その奥から「帰るぞ、そうするしかないんだ。」と聞こえたのを最後に、数分ぶりの人語だった。
「頭をお上げください、色んなひとから笑われますよ。私です、清く正しい射命丸 文です。あなたがたの信徒はみんな素直に帰りました。よく見まわしましたので間違いありません。あなたがたは既に直近の義務を果たされたんですよ。もう大丈夫です。頭をお上げください。」
秋 静葉はそこまで言われると身を起こした。秋 穣子は既に起きていて、地べたに正座したままうなだれていた。すぐ脇には射命丸 文がかがみ込んでいて、どこか安堵したような表情を浮かべていた。
「さて、秋の神様がた、悪いお知らせがあります。先ほど守矢信徒幹部陣の会談が終了しました。守矢の農民連中から壮年男子を集めて自警団とし、あなたがたに抗議に向かうことが議決したと言います。このことは既に早苗さんにも伝えておりますので、守矢信徒とあなたがたの直接的な衝突は避けられるとは思いますが、武器を持った集団があなたがたの目の前まで迫ってくることは覚悟していただいた方が良いかも知れません。」
秋 静葉が立ち上がり、空を見上げ、すぐ目を逸らした。もう既に天弓 千亦はいなくなっていた。妹はまだ座っていた。
「穣子、おうちに帰ろう。今日はもう、疲れちゃったよ。」
「どうして。」
「え?」
「どうして!どうしてみんな帰しちゃったの!おねえちゃん!せっかく農家さんが手伝ってくれるって言ってくれたのに!ひどい!ひどいよ!」
秋 穣子は突然立ち上がって秋 静葉へ向かって声を荒げた。
「ひどいって、だってあのままじゃ」
「第一お米見つけようって言ったのおねえちゃんじゃん。だからわたしたちはおねえちゃんのために、みんなでお米探そうって頑張ったのに、なんでおねえちゃんが土壇場になって全部投げ出しちゃうの!おかしいよ!」
「おかしいのは穣子の方よ!農家さんにバレたのをいいことにみんなのこと焚き付けて、守矢さんが怪しいなんていい加減なこと鵜呑みにして、終いには暴動じゃない!あのまま進んでたら本当に何が起きてたか分からなかったのよ!」
「ちょ、ちょっと、私がいる前で喧嘩は」
射命丸 文の仲裁はどちらも聞いていなかった。
「そんなことないわ!ちゃんと守矢さんにも事情を話してからじゃないと絶対に守矢さんの家を掘ったりしなかったし、掘った穴もちゃんと埋めてたよ!」
「いい加減なこと言わないで!あの人数で押しかけるのよ、事情を話しても入れてもらえないし穴掘るどころじゃないくらい色んなものを荒らすに決まってるじゃない!」
「なんで農家さんのことを信頼できないの?おかしいよ。盗まれたことも農家さんに隠そうとするし、農家さんが助けてくれるなんてこれっぽっちも思わないし!農家さんに対しても、わたしに対してもカッコ付けることばっか考えてるよ!おねえちゃん変なとこでプライドが高すぎるよ!」
「逆よ!穣子が農家さんに甘えすぎてるのよ!農家さんが私たちを助けてくれるなんて発想がそもそもおかしいのよ!私たち神さまなんだよ?私たちが農家さんを助けなきゃいけないのよ!私のプライドが高いんじゃない、穣子が神さまとしての自覚がなさすぎるのよ!」
「じゃあ何で!おねえちゃん農家さんに向かって、土下座なんかできるのよ。矛盾しすぎじゃない!。。。」
秋 穣子のその声には怒号と共に涙が含まれていた。
「それは、私も、穣子も、神さまとして失格なくらい、情けないからだよ。」
その声にも涙が混じっていた。彼女はそれをこらえるべく、それを言い切ると口も目も、堅くつぐんだ。
「そんな、どうしろって言うのよ、わたしたちの農家さんだって」
「違う、私たちの農家さんじゃない。」
秋 穣子は目を丸めて、秋 静葉を見つめた。秋 静葉は彼女と目が会うが、すぐにうつむくように目を逸らし、力一杯に両瞼を閉じた。
「穣子の、農家さんだよ。」
「そんな、ひどい。どうしろって言うのよ、どうしろっていうのよ!」
秋 穣子が必死に目をつむるが、その隙間を押し広げて涙が溢れ、「あああぁ、あああぁ、」と、彼女は声をあげて泣き出した。
秋 静葉はふさいだ両目を咄嗟に両手で覆い、唇から歯がむき出しになる程に口を強く噛み締めた。
射命丸 文は静かに首を振ると、振り返り、何も言わず飛んで行った。残された2柱は向かい合って泣き続け、秋 穣子は膝を突いて座り込んだ。袖で目元を拭って、秋 静葉が妹に寄り、語り掛けた。
「ごめんね、穣子。私、言い過ぎちゃった。おうち、帰ろう。守矢さんにも、謝らなきゃ。」
折り曲げた人指し指に涙を1粒移し替えて、秋 穣子は姉を見上げた。
「。。。おねえちゃ。あ、泥棒だ。」
「え?」
秋 穣子は姉を見上げながら、唐突に目を丸めた。秋 静葉はそれに気づいて眉をひそめた。しかし厳密には彼女は姉を見上げている訳ではなかった。そのことに気が付いて秋 静葉は振り返り、見上げた。
「あ、泥棒だ。」
山の上空から森の奥へと、等速で直進し続ける黒い点が空にあった。
目を凝らすとそれは黒い点ではなく生き物らしく、直進しているのではなく箒に乗って飛んでいるらしいことが分かった。
秋姉妹は互いに見合い同時にうなずくと彼女へ向かって浮かび上がった。彼女らの瞳の涙はもう乾いていて。むしろ血走っていた。
「待て!泥棒!!私たちのお米を返せ!」
秋姉妹が彼女へ飛び寄りながら大声でそれを呼び止める。
声に反応してか空中で止まり、霧雨 魔理沙が振り返った。彼女は左手で箒の柄と竹皮を握って、右手で1握りのおむすびを持ってそれをもぐもぐと頬張っていた。頬や下あごに2粒の米を付け、きょとんとした眼で秋姉妹を見つめていた。
「泥棒?米を返せ?いったい何の話なんだぜ?」
「問答無用!あんたの手にあるそのおにぎりが何よりの証拠よ!どこからそんな物を手に入れた!」
「これは今朝、霊夢が私のために作ってくれたものであって、断じて」
霧雨 魔理沙が風の中に竹皮を投げ捨てながら秋姉妹に答える。
「問答無用!今すぐわたしたちと勝負なさい!わたしたちが勝った暁には、あなたの盗んだお米を、1粒残らず返してもらうわよ!さあ覚悟なさい!」
秋姉妹が霧雨 魔理沙へ両手を指し向けて2柱同時に立ち向かった。
霧雨 魔理沙は指に付いた3、4粒の米を舐め取るとトンガリ帽子のツバをめくってその奥から取り出したミニ八卦炉を彼女らへ向け、何も言わずにマスタースパークによく似たビームを放った。
七色の閃光と奇妙な発射音が伴う、見るからにマスタースパークな極太ビームで、隣り合って突撃してくる秋姉妹を一飲みに焼き尽くしたが、カードの提示やスペルの提唱すらないあたり、マスタースパークではないことだけは確実だった。
真っ黒に焦げた秋姉妹が力なく自由落下して雑木林に衝突した。その顛末を見届けた霧雨 魔理沙はミニ八卦炉を帽子に戻し、口周りの米をつまみ取って唇に運び、「ったく、迷惑な妖怪だぜ。」と小言を漏らしながらパタ、パタと両手のひらの埃を打ち払って箒の木の柄を握り直すと、再び森の奥へと飛び去って行った。
八方道の塞がった森林地帯の木々の隙間に秋姉妹が横たわっていた。一見死んだのかと思えるほどにぐったりと横たわっているが、生きていた。それでも彼女らは、起き上がることも立ち上がることもなく、向かい合い話し合うこともなかった。笑うこともなければ、もう涙も流れなかった。
何もしないことにも飽きた秋 静葉は雑草の長いのを選んで、指に絡めさせていた。
その指先の向こうに、ディープブラウンのレザーブーツが歩いて来た。ブーツの手前で虹色のスカート裾が、奥で真っ白なマントの端が揺れていた。
目を逸らそうかと迷うも諦めて、秋 静葉は彼女を見上げた。
「まったく、貴女達ときたら。」
天弓 千亦は相も変わらず、人指し指だけ伸ばした両手の左を脇腹に、右を側頭部に抱え込んで、片眉を垂れ降ろさせて彼女のことを見降ろしていた。
「蔵を見せなさい。貴女達の、盗まれた現場を。」
秋 穣子は反応を示さず、秋 静葉も言葉では答えず、せいぜい目だけで見上げていたのを首をひねらせて見上げ直した程度の反応だった。
「あーもう!」
天弓 千亦は秋 静葉を肘を掴んで引き起こし、両肩を握って立たせると前後ろ前後ろに振り回してから彼女の顔をまじまじと見つめ、彼女の左頬を右手で間髪入れずにひっぱたいた。彼女は右へ2歩よろめいて立ち止まると、左頬を押さえて天弓 千亦にうそぶいた。
「なんですか、いたいじゃないですか。やめてくださいよ。」
「良いから、そんなこと。さっさと妹さん起こして、現場案内なさい、あんた達の蔵を見せるのよ。あと全部終わったら竹林の医者にでも診てもらいなさい。」
「ええ、なんで。」
「見つけてあげるって言ってんのよ!あんた達の備蓄米を盗んでった、米泥棒を!」
純白のマントをはためかせ、左手を腰に右手をこめかみに当て天弓 千亦は言い放った。
そしてそれを聞いた秋 穣子は、藪の中に横たわっていた。左頬を押さえた秋 静葉は茂みに立ち力無く口を開け放ったまま天弓 千亦を見つめて、まばたきを2回した。
日がだんだんと傾き空が赤らみ始めた。節だらけの杉の木板もうっすらオレンジに染め上げられている。両開きの小屋の戸に鋼製の金具が鉄釘で打ち込まれ、それを鋼製の南京錠が施錠していた。F字型の合歯を備えた鋼鉄の鍵を穴に差し込み、秋 静葉はそれを肩で2度ぐいと回して開錠した。
留め具から錠を除去して、秋姉妹はその杉板の戸を両に開いて小屋の中を開放した。
足元の柔らかな土に、角材でも押し付けたような幅数センチの長い溝が8本も、9本も遠くへ続いている。それに指を当て、何やら確認していた天弓 千亦は立ち上がり、小屋の中へ視線を向けると高床に続く低い木段を登り、その小屋のうわがまちと腰に手を当ててもぬけの室内を見回した。
彼女らが小屋にたどり着くまでに日暮れ前までかかった理由は寄り道していたからだった。天弓 千亦は秋姉妹を藪の中から引っ張り出すと農道を渡り、秋姉妹の自宅前を素通りして人里の中央まで入って、そこで彼女らに食事を取らせた。カツレツを指名したのは秋 静葉だった。大通りに出て米問屋隣の看板を彼女が指差したのを見て、天弓 千亦はだいぶ渋い表情を見せたが、結局3柱はそこで皆同じく、お品書きの右から3番目の品を頼み、入るようなら白米のおかわりも取らせて、愛想は天弓 千亦が支払うこととなった。退店して3柱はすぐ小屋へ駆け飛ぶも、到着した頃には日は既に傾きつつあるところだった。
「この血痕は?」
出入口の足元にはテニスボール大の黒々とした血だまりが2つ木目に浸み込んで乾ききっている。天弓 千亦がかがみ込んでそれを見ていた。
「それは、私の鼻血です。」
「朝おねえちゃんが垂らしました。」
「関係ないみたいね。」
天弓 千亦は立ち上がり、のっそ、のっそといった具合に中央へと歩む。
「全部盗まれたって言うのに、鍵なんて掛ける必要あるの?」
「朝河童さんから買った半端がある。それに俵が盗まれても、籾が残っている。こぼれ落ちたちょっとだけの粒だけど、私たちには粗末にすることはできないんだよ。」
「なるほどねぇ」
天弓 千亦は薄暗がりの奥に積み上げられた籾米の小丘を摘み上げ、小丘に振りかけた。秋 穣子は戸板の片方を掴み、小屋の内部を覗き込んでいる。オイルランタンに火を灯して秋 静葉が天弓 千亦のすぐそばまで歩み寄る。
「それ、そのカギ、それは今日盗みに入られたから新しくつけたもの?それとも前からつけてたのに盗まれたの?」
「前からつけていた。」
「じゃあ掛け忘れた?」
「あり得ない、この鍵は必ず穣子と一緒に掛けたことを確認しているし、他に鍵はないから他に気を取られて忘れることもない。この鍵を掛け忘れることだけはあり得ないよ。」
「この壁や戸は直したの?それとも壊されなかったけど盗まれた?」
オイルランタンの明かりを頼りに室内の壁を見回し、両開きの戸に手を掛け前後の稼働を確認しながら天弓千亦は問いかけた。
「壊されなかったけど、どういう意味?」
「そうですよ、お米を盗まれて落ち込んでるのに、すぐ直せるなんて変じゃないですか。」
「それもそうね。」
天弓 千亦は戸から手を放して木段の上から外の芝面を見降ろし、問いかけた。
「貴女達は今日や昨日、車は使った?」
「収穫の時期は過ぎてるから、全然使ってないよ。」
天弓 千亦はもう1度小屋へ入り、まっすぐ奥まで歩きしゃがむと、再び小丘になった籾米をすくいあげた。
「ここにあった米は全部精米されていなかったのね。」
「わたしたちが今食べていた分、1俵に満たない半端だけ殻のないお米でした。」
「どれだけの米が盗まれたの。」
「15か6俵と半端が1個。」
2度3度それをすくい、流し落とすと脇へ目をやって、半端な米俵に手を伸ばし、その上に乗せた。
「事件当時、これは無かったのね。」
「さっき買ったものだから、朝はなかった。」
天弓 千亦が立ち上がり振り返って、秋姉妹を見る。
「犯人は、どんな奴だと思う?」
秋 静葉はうつむき気味に口を紡いで、答えなかった。
「今日食べるお米もない、貧しい農家さんだと思います。これだけたくさんのお米を盗んだんです、きっと家族がたくさんいるはずです。何世帯かの農家さんが協力して泥棒に入ったのかもしれません。貧しい農家さんですので、きっと自分の畑もない農家さんたちだと思います。」
秋 穣子が答えた。
天弓 千亦は2柱の間を通り抜けて再び外に出てそこで立ち止まった。外の景色を見渡しているらしい。
「盗まれたことにはいつ気付いた?」
「今日の朝、日が出てすぐの頃よ。ご飯を炊こうと穣子と一緒にここまでお米を取りに来た時、この蔵の扉が開いていて階段の足元に鍵が捨てられていることに気が付いた。その時にはもう何も残っていなかった。」
「では犯行があったのはどのくらいの時刻だろうか。」
「たぶん、真夜中だと思う。」
「そうじゃない、この小屋が荒らされてないことを最後に確認したのはいつ頃かと聞いているのよ。」
「昨日の日暮れに穣子と一緒に畑の様子を見に行った時はまだ蔵は閉まっていた。それが一番最後ね。」
天弓 千亦は振り返り、腰とこめかみに手を当てて秋姉妹に言った。
「つまりは、犯行推定時刻は昨晩から翌朝未明、その錠前を何らかの方法で開錠して戸を開き、そこから米を運び出して逃走した。犯人はもちろん貴女達ではない。」
「私たちが本当は犯人で、わざとお米をどこかに隠して農家さん達をごまかそうとしていただけだったなら、丸1日無駄にして身内にもご近所にも迷惑かけた上に何もかも嫌になって自暴自棄になった挙句カツレツ奢ってもらったりはしてないよ。」
「おねえちゃんの言う通りです。」
「ほんとだよ。」
「ま、こんなもんか。出かけるよ、戸締まりしなさい。」
高床の木造小屋を名残惜し気に見上げた後それに背を向けながら、天弓 千亦が秋姉妹に言った。
「たのもー!」
張りのある女声が秋姉妹の居宅向こうから響いて来た。
「あの声は、」
「早苗さんだ。てことは、まさかさっき天狗さんが言ってた!」
高床の木段の上で両開きの戸を閉めようとしていた秋姉妹が動揺して言った。
「ま、大丈夫でしょう。その鍵かけたら、何もしないで付いて来なさい。怖気付いちゃ駄目よ。」
天弓 千亦はそれ以上言わず秋姉妹宅の表へ歩いて行く。戸を閉め、それを施錠して、秋姉妹もそれについて行く。
「たのもー!」
女声がだんだんと鮮明に聞こえてくる。家から農道までをつなぐ藪を切り開いたような道、暮れ近い暁の中を人だかりが埋め尽くしていて、その中央に白っぽい人影が浮かび上がっている。
天弓 千亦は黙々とそこへ近寄って行く、
両のこめかみを左の親と中指で押さえていた東風谷 早苗が上目気味に彼女を睨む。
約3歩の距離を置いて互いが向かい合う、天弓 千亦は軽く会釈して東風谷 早苗の脇を素通りすると右手念仏を構えてそれを会衆の人と人との隙間に差し込ませ、更に前進して自身の腕、肩、全身を彼らの中へと滑り込ませた。
「ちょっとすみませんよ~。」
そう言いながら天弓 千亦はどんどんと人だかりの向こうへ進んで行き、後には彼女がそこを通ったことを証する人1人分の一本道だけが残った。
そこへ秋姉妹が接近する、会衆と姉妹が間もなくなった頃、秋 穣子がふいか否か、姉の肩に手を掛けて身を寄らせた。それに気づいた秋 静葉は妹の両肩に手を乗せて静かに引き寄せ、自身に寄り添わせた。
両手で2柱を掴み、東風谷 早苗が彼女らを引き留めた。秋姉妹がどきりと後ずさり、会衆の所々がざわめき、一本道の向こうで天弓 千亦が立ち止まって振り返った。
一度それを横目に見て、また秋姉妹に向き直ると、東風谷 早苗は渋い顔で問いかけた。
「秋姉妹さん、あの方、お友達ですか?」
「カツレツごちそうになったから頭が上がらなくて。」
姉に一度目を配せた後、秋 穣子がなんだかぼそりと答えた。
「カツかぁ、幻想郷でしかもお店のやつ。それは勝てない。」
あごに手を当ててどこか上の方を見ていた東風谷 早苗は、その目の形を片方は一、もう片方は「を反時計回りに90°横に回したようにしてつぶやいた。
「を横に向けた方の目だけを開いて秋姉妹を一瞥すると、もう一度「を横に向けた形に戻して少し考え、両目を開いて彼女らに向き直った。
「仕方ない、悪いようにはしません。後でお話があります。必ず今晩中に、ここに帰って来てください。」
再び姉に一度目を配せて、秋 穣子が答えた。
「はい、わかりました。それではまた後で。」
姉妹は深く会釈して、切り開かれた道へと歩を進めた。会衆のざわめきが再び強まった。秋姉妹はそこを通りながら、愚直にその道を護り続ける会衆の面々を覗き込んだ。彼らの表情にはポジティブなものはほとんど見られなかったものの、ことさらネガティブに顔を歪める者もほとんど見られなかった。大部分はきょとんとしていて、もの珍し気に2柱を見つめる者ばかりだった。人々の胸の高さほどの中からひょこりと1人の少年が顔を出して彼女らに笑いかけたので、秋 穣子も笑い返した。
「待てこの疫病神!逃がさんぞ。」
突然会衆から怒鳴り声が上がった。それに伴い会衆が口々に叫びあい、身の引き締まった老人が飛び出して秋姉妹に1本の鉄管を突き付けた。その根元には引き起こされた撃鉄が縄を咥えていて、縄は赤々とした炎を灯していた。
「キャーーーーー!!!」
怒鳴り声と老人とに驚いた秋姉妹はとてつもない悲鳴を上げて後ずさった。特に秋 静葉の驚きようは計り知れず、その絶叫は妹も老人をも凌駕して、妹の肩に添えるだけだったその手を、両方とも秋 穣子の背面へと回り込ませては、胴と胴とを密着させ、肋骨がミシミシときしむほどに彼女を強く抱き締め、敵前逃亡よろしく、その銃口に完璧に背を向けて妹のことを抱きながらに押し出し、押しのけるかのように3歩、4歩と後退した。
「こらぁ!!」
両者の間に入って東風谷 早苗が秋姉妹に向けられた銃口を全身とその幅広の右袖で遮った。
「私を信じてくださいって、言ったじゃないですか。私の許可なしにひとを撃つことは私が許すことができないんです。今すぐその銃を降ろしてください。」
会衆の中から1人の青年が出てきて老人の突き出す銃身を掴み地面へ向けさせながら何やら相談する。老人は銃を横斜め足元に向け抱え直すと東風谷 早苗を睨みながら群衆の奥へと消えていった。青年もそれに続いて行った。
秋 穣子を抱きしめる秋 静葉の、背面の襟を誰かが摘み上げた。秋 静葉はビクリと小さく跳ねると、目の形を><の形にして秋 穣子を更に強く抱き締め直した。
摘み襟を持ち上げて秋姉妹を自身に引き寄せた天弓 千亦は東風谷 早苗に向けて言った。
「少しの間、借して貰えませんか。この赤いの。市場の健全化の為に必要なんですよ。私の方で用事が終わったら、この赤いののことなんて、どうぞ皆さんでお好きな様にひっ捕らえて、ポタージュにするなりスウィートポテトにするなり好きにしていただいて構わないですから、私の用事が終わるまでの間だけ、借して貰っても構わないでしょうか、この赤いの。」
そう話す間、天弓 千亦は秋 静葉の頭をすりすりと撫でて、話し終わるとデコピンした。その始終で彼女は相も変わらず秋 穣子を堅く抱き締め、><の形で堅く目を閉じていた。天弓 千亦が続ける。
「私の方で用事が済めば、貴方達の潔白も証明されます。この赤いのも自分達が間違えていたことを理解するでしょう。そうしたら、この赤いのだって喜んで貴方達の前に出て行って、土下座なりスウィートポテトなりなんでもすると思いますよ。」
「秋姉妹さんを連れて、どこへ行くおつもりですか。」
東風谷 早苗が口をへの字に曲げて、目を見開き眉をひそめて聞いた。
「決まっているでしょう、犯人の所です。この赤いのが盗まれた米を、取り返してあげるんですよ。丁度良い、良ければ皆さん、一緒に来ませんか。念願の米泥棒探しが解決したとなれば、この赤いのだってホクホク顔でスウィートポテトになるでしょう。」
「ちょっとあんたたち、魔理沙見なかった?」
日の沈みかけた農道を人里に背を向けて歩いている。その道中で博麗 霊夢が降りてきて誰にともなく問いかけた。
「何かあったんですか?」
「私がキノコ狩りのお弁当に握っといたおにぎりが、全部盗まれたのよ。こんなことするのは魔理沙以外にあり得ないわ。」
「お昼過ぎくらいでしたけど、魔理沙さんならお山の方からきのこの森の方に飛んで行くのを見かけましたよ。」
「あんにゃろう、佃煮弁当にしてくれるわ。」
そう漏らすと博麗 霊夢は森の方向を向いて飛び立っていった。
「霊夢さんも大変だね。」
「これから大変になるのは魔理沙さんだと思いますけどね。」
日がほぼ沈み道が見えなくなってきた。秋 穣子が鉄板で石を打ち鳴らして綿火口に灯し、秋 静葉が持つオイルランタンを点火させた。
「あの、あなた、名前は。」
「千亦でいいよ。」
「千亦さん。なんで私たちのこと、助けようとしてくれるの?」
彼女らは斜面を登り始めていた。先頭を天弓 千亦が、それとほぼ横並びに秋姉妹が、秋 静葉が夜闇を照らしながら歩き、その後ろを守矢信徒の会衆が、東風谷 早苗を先頭にして歩いていた。
天弓 千亦は問いかけには答えなかった。秋 静葉へと向くそぶりすら見せずにスタスタと歩き続けていた。
「うちの神社にでも参拝するつもりですか?」
「違いますよ。ご心配なさらずに、ついて来てください。」
「でもおかしいですよ。さっきは盗まれたわたしたちの自業自得だなんて言って、いきなり助けてくれるなんて、なにかやましいことでもあるんじゃないですか?」
秋 穣子が首を傾げながら問う。天弓 千亦は口角を上げて答えた。
「まあ私としても、今回の出費分は償ってもらわないと、引き下がることはできないのかもね。」
秋 穣子が目を丸くして立ち止まった。
「じゃあ初めから、わたしたちの農家さんのお米が目当てで。」
「米なんかいらないよ。それに言ったでしょ、私の用事は市場を健全化させること。貴女達が出来る仕事じゃないわ。」
「市場の、健全化?」
秋 静葉も首を傾げて訊いた。それに答えるように天弓 千亦は言った。
しかし彼女が言う前には喉が鳴るような声にならないうめきが声が彼女からあった。
「妖怪を含め、この幻想郷の人々が1年間に、問題なく十分に食べることの出来る、最小限度の米の量を10とした時、今年の、いや昨年でも良い、幻想郷全体での米の収穫量は、どの程度の数値になると思う?」
秋姉妹と東風谷 早苗は互いに見合わせて考えた。最初に答えたのは秋 穣子だった。
「うーん、8割くらいかなぁ。今年も豊作だった訳じゃありませんでしたし、きっと来年も厳しいでしょうね。」
次は東風谷 早苗だった。
「でも最小限ってことは、お米の備蓄もできないくらいギリギリの、飢餓発生ラインのことですよね。うちでもちょっとくらいの備蓄は残りましたし、米不足の記事なんかよりもよっぽど、お酒不足の一面記事の方がよく見ましたから、12くらいにはなるんじゃないですか?」
けげんそうな面持ちで、秋 静葉も答えた。
「いや、それなら10を上回るくらいで11まで行かないよ、きっと。私たちなんて、土地のない農家さんの余剰が尽きて、備蓄を全部開放してやっと収穫まで間に合ったくらいだったから。12も行かない。」
彼女らの答えを聞いて、天弓 千亦はいっそううつむいたようだった。それに気づいた東風谷 早苗は、ぐいと腰を曲げて上半身を前へ突き出し、少し低い位置から天弓 千亦の表情を覗き込もうと試みた。
「それで、千亦さん?今年はどのくらい収穫できたんですか?」
「34」
「え?」
天弓 千亦の背後で3柱の神が立ち止まる。それに気づいたのか彼女もまた立ち止まり、守矢信徒一行も全員が立ち止まった。
「ちょ、ちょっと。千亦さん、今なんて言いましたか。おかしくないですか?」
「幻想郷には米の市場流通を一元管理する組織は無い。販売業者が生産者から直接取引で買い取って市場へと直接販売する流通方式が一般的で、誰しもその収穫量を記録しようと試みてはいない。帳簿を確かめ直すだけでは正確な数値は得られないから、収穫期が過ぎた可能な限り短い期間の内に、分かる限り全ての米の貯蔵施設に忍び込んで米俵の貯蔵数を数えたの。今日貴女達がやったみたいにね。」
「失敬な!私たちは忍び込んだりしてないよ。」
「正直これでも正確な数値になるとは言えない。だけど私の確認した上では、この幻想郷には収穫直後の時点で、妖精を除く幻想郷全人口が1年間に要する総量の、優に3倍以上の米が貯蔵されていたわ。」
落ち着いて、淡々と語るように天弓 千亦が説明した。飛び掛かるかのように、秋姉妹は血相を変えて彼女に対して訴えた。
「そんな、そんなの嘘ですよ。じゃあなんで毎年お米が足りなくなるんですか!」
「十分量の最低ラインにある程度の備蓄、運搬時の損失や野良妖怪、妖精に盗まれる分、それにある程度の余裕を加味しても、16か7割程度あれば食用の米は満足に供給出来て余りあるはず。」
「だから何で、まだ10割以上あるじゃん、1年分だよ!」
秋 静葉が息を荒げる。天弓 千亦はしばらくの間沈黙を作り、何も言わずに歩き出した。3柱は再び互いを見合わせ、東風谷早苗が信徒ら一行を見回す。彼らの間では既に何やらざわめきが立っていて、彼女のことを心配げに見つめている。
秋 静葉がとぼとぼと歩き出し、秋 穣子もそれを追った。それを見届け、東風谷 早苗と信徒ら一行も後に付いて行った。
「1年分の収穫の間違いなく半分以上、いえ恐らく倍以上が、二次加工用途に回されている。」
「二次加工?それって、お餅とか、お煎餅とか?」
「ええ、しかしそれら製菓用途の占める割合は二次加工用途全体で見れば微々たる量で、そのほぼ全ては酒造用途、日本酒の醸造の為に消費されている。」
「お酒って、確かにここのひとたちはみんな、ばかが付く所かキチが付くくらいお酒が好きですけど、お米で食べるのの2倍もお酒で飲むだなんて、流石にオーバーじゃ。」
東風谷 早苗が眉間に皺を寄せて天弓 千亦に駆け寄った。
「市街地にある複数の酒造業者にはいずれも生産効率の最適化を目的とした原材料の出納帳が設けられていて、詳細さの違いはあれど、どれも原料米の仕入量、仕入値、大まかな品種、推定される生産量の記載が1ヶ月刻みでありました。昨年の収穫量が判然としないためこれが全米生産の何割を占めたかまでは定かではありませんが、昨年の酒造用途での使用は飢餓ライン10に対して21にまで上りました。はっきり言って驚異的な数値です。」
「でもでも、うちのお百姓さんにだってお酒用のお米を作っている人はいますけど、そんな半分もいませんよ。」
「どの業者も酒造用品種の買い付けの記載は年明けすぐまでで止まっており、それ以降は一様に、食用米の品種が記載されています。つまりは年明け以降には酒造用品種は全て消費し切って、それ以降は食用米を代用としているのです。」
「みんな忘年会で飲む酒はうまい!って言ってるのはそういうことだったんですね!」
「ちがうとおもうなぁ」
秋 穣子がきょとんとして言った。あるいは半ば放心状態の発言だった。彼女を一目して天弓 千亦が続ける。
「酒造用途での米の精米歩合は多くても7割、業者によっては5割まで削り落とす場合もある。特に食用米で代替えする場合は酒造用品種より一層多く精米する傾向にあり、それだけに幻想郷における日本酒醸造は食用米供給を強く圧迫している。またもう1つの原因として、散発的に催される宴会等での飲酒に関しては、基本的にすべての妖精について広く許容されている。米需要に関与しないはずの膨大な数の妖精が、日本酒の消費という形で人類への米の供給を阻害している。小麦や薩摩芋を用いた蒸留酒による代替えが試みられているものの影響は無く、却って小麦や薩摩芋の市場流通が減少した雰囲気さえ見られる始末。」
「そういえば酔っ払った神奈子様が言ってましたね、焼酎なんて乞食の飲み物だって。」
「それはひどい」
「何よりの問題は、酒造の為に幻想郷のほぼ全ての一次生産能力が、米に注力されていること。本来、というよりも酒造圧力がもっと低ければ割くことが出来るリソースが全て奪われ、大豆や果物、あるいは牧草といった生産資源の多様化が著しく阻害されていること。」
「アホみたいに納豆が高いと思ったらそのせいでしたか。」
「納豆だけじゃない、ブドウさえ生産できればワインを作れる、牛乳が取れればチーズもバターも得られる。品種によればそのまま肉になる、酒造業者から排出された米糠を上手く転用出来た養豚業が唯一事業化出来ているものの、未だ富裕層の玉の贅沢程度、全大衆が金を出してくれるような出資出来る事業にまでは未だ程遠い。小麦がもっと作れれば、個人製パンが普及して製麺業も事業化するし、どれか1つ畜産業が軌道に乗り大衆に浸透するだけで自然発生的に皮革加工業が始まるのに。酒が減るだけで大衆に普及させることの出来る事業がいくらでも増える、市場が一気に活性化するのに。」
両手に腰を当て、天弓 千亦が一層深くうつむいていることに秋 静葉は気が付いた。
「これが私の用事です。」
それでも一層スタスタと軽妙な素早い足取りで坂を登って行くその後ろ姿を、押し黙りながら不思議と見上げていた。
「誰かが反省すれば納豆が値下げする。誰かが、一体誰が。」
「でも、お酒を造りすぎていることと、農家さんのお米を見つけてくれることに、何の関係が。」
「聞かないでよ。」
間違いなく天弓 千亦はそう言った。一行には後ろ姿しか見えず、表情を除こうとする者はもういなかった。
「思い出す方もいるかもしれない。かつて同様の問題が取り返しの付かない程に発展して、異変に乗じて解決が試みられたことを、しかしその対策の大部分は的外れで有効な取り組みも途中で止まり、問題の改善は限定的なものに留まったことを。その原因は改革者側が問題の根本要因を取り違い、最も深刻な問題への対応から目を逸らしたから。今回の事例を機に改革できる誰かが問題の根本を正しく理解し真摯に取り組めば、市場は健全化するかもしれない。」
東風谷 早苗が首を傾げる。秋姉妹も互いを見合わせるとお互い山頂側に首を傾げた。
「異常な偏りが見られるとは言え、飲酒市場が非常に活発な形で継続しているということは、利益が出ていると言うこと。誰かが金を払っていると言うことよ。」
「当たり前ですね。」
「では買っているのは誰か、幻想郷人口の圧倒的大多数を占めるほぼすべての人類はほぼ無関係、その大多数を占める農耕従事者は自前の米で自家醸造する濁酒しか飲まないし、他のほとんどの人類も飲める量は知れている。幻想郷の酒の消費に影響を与えているのはごく限られた人類かあるいは全ての妖怪と妖精のいずれかと言える。」
「妖怪並みにお酒を飲む人か妖怪そのもの。うぅ、心当たりがありすぎる。」
「しかしこれは飲酒に対する需要と消費だけを観た場合の話。こういった限られた人類と全ての妖怪や妖精が、そのまま全員、飲酒市場に利益を与えている本質的な要因であるとは決して言えない。」
「それは、どうして?」
「妖怪と妖精の大多数は金を払わずに酒を飲んでいる。彼女等は大抵、何処かから盗むか、幻想郷の各地で散発的に催される会食行事で提供される酒を飲むか、あるいは誰か酒を持っている者から物々交換を通じて酒を得ている。つまり飲酒市場に対して利益を与えている本質的な要因は大多数の妖怪や妖精ではなく、彼女らと大なり小なりの交流を持つ、正規取引で酒を買い取って、会食や代物取引に供することが出来るごく一部の人類あるいは妖怪であると結論付けられる。」
「ぼんやりしていてよく分からないよ。」
「幻想郷の飲酒需要が過剰に肥大化している主要因はこの一部の人類と妖怪が儲けていることにある。提起すべきなのはこの全購入者と消費者の一部が一致していることに対して、全購入者と幻想郷における生産労働者が基本的に一致していないこと。言い換えれば、酒を買い求めている大多数の人間や妖怪が生産活動に従事していないにも関わらず、儲けていることよ。」
「儲けている?」
「何故稼ぐ様なことをしていないのに、彼女等は皆儲けているのか。結論から言ってしまえば、有る所から徴収しているから。ある者は信仰に、ある者は力に頼り、適当な理由を付けて或いは雰囲気で、ほぼ全ての生産労働者が自分達の稼いだ金を彼女等から要求され、何だかんだ素直に受け入れて疑い無く支払い続けて来た。払えば自分達の生活が安定する、脅かされずに済むと、そう信じて。」
「千亦さんそれって」
「だから私は提起しなければならない。彼女等の提示するその税が、真に彼女等のもたらす行政効果に見合っているのか。今まで通りに収穫を納め、酒を納め、金を納め、米価格まで犠牲にして、タダ同然の低価格の酒の生産に従事し続けることが、本当に賢い選択と言えるのか、或いは、これまでの所業を考え改め、正して行かなければならないのでは無いかと。そう提起しなければ、今の市場は健全化しないだろう。」
東風谷 早苗が天弓 千亦の肩を掴んで問いかけた。
「千亦さん、あなたは、この山で言っていいことを、言っていますか。」
天弓 千亦は振り返らずにうつむき、ゆっくりと首を横に振りながら言った。
「いいえ。」
ふと秋 静葉が立ち止まる。暗がりの先に紫が見えた。それは細い糸くずが絡まりあっているような塊状で、おぼろげな闇の中に訳もなく2つ浮いていた。意識づけてそれを照らすとそこには黒いハイソックスがあって、高下駄があって、紫はそれを縛っていた。
姫街道 はたてが仁王立ちしてみぞおちの高さで軽く腕を組んでいた。山道の中央から下界へ向き、秋姉妹らを待ち構えるかのように佇んでいた。彼女は右手の平を一行に突き出し、一行を制止した。
「全天狗は山中の秩序維持のため一時的に、ここから先の人類の立ち入りを堅くお断りしています。私の立会いのもと、全天狗は神様に限りこれ以降の入山を許可します。神様に限り、ご自由にここをお通り下さい。後ろを私が同行します。」
秋姉妹と天弓 千亦が振り返った。東風谷 早苗は信者らの1人に何か相談して軽く頭を下げると向き直り「お待たせしました、行きましょう。」と彼女の信者から離れて登り始めた。
天弓 千亦、秋姉妹が彼女を待ち、共に登り始めた。姫街道 はたては彼女らの通り過ぎるまでその背後の会衆を見つめ、通り過ぎると彼女らについて行った。
頭上から閃光が放たれ、一同が空を見上げた。月明かりに背を向けて大きな羽を生やした誰かが浮いていて、また1発その頭のあたりから閃光を発していた。どこかから笛の音が響いて彼女がどこかに飛んで行き、残された月明かりには彼女が飛び去ったのと正反対の方向から3羽程度の誰かが横切り、飛び抜けて行くのが見えた。
「あー、気にしないでください。特に関係ありませんので。」
姫街道 はたてが脱力気に言った。特に追及することなく、彼女らは先を急いだ。
「千亦さん、まさかこの先に泥棒がいるって、」
道を照らしながら秋 静葉が問いかけた。
「そうよ。」
「でもここ妖怪しかいないんじゃ、お米を欲しがる人なんて、」
「人なんて居ないわね、山の中に。」
「じゃあ、お米を食べる、妖怪さん?あ、仙人さん?」
秋 穣子がきょとんとして言った。天弓 千亦は彼女から目を逸らしながら話した。
「正直言って、貴女達の考えた犯人像は、だいぶ的外れよ。」
「だいぶですか。」
「まず最初に犯人が複数犯であること、これだけは正解よ。10数俵の米を1人で盗むことは出来ない。じゃあ犯人は明日食う米にも困る貧しい人類である。これはおかしい。貧しい人類に誰が挙げられる、都市労働者、町人の貧しいのか、あるいは一次生産の経営に関与しない従事者、いわゆる水飲み百姓のどちらか。町人が貴女達の小屋まで来て米を盗んでまた人里まで運ぶくらいなら米屋を襲うし、水飲み百姓なら貴女達を襲うよりも先に彼らの雇用主、つまり本百姓を襲うはず。また彼等には盗んだ米を運ぶ手段も隠す場所も持っていない。」
「農家さんなら車がありますし、蔵の中に隠すことができるんじゃ。」
秋 穣子が首を傾げながら聞いた。
「車や蔵を持っているのは経営者側、本百姓のみよ。いわゆる水飲み百姓が使う輸送手段は薪取等に用いる背負子が主であるし、蔵らしい蔵もない。それに盗みの為に経営者側が従事者に車や蔵を貸すなんて何の利益にならないリスクを踏む可能性なんてまず無いわ。第一、明日食う米に困るんなら究極、明日食う分盗むだけでも十分なはずなのに、10俵以上盗むのは多すぎるし、米の収穫は終わったばかりで世間には米が余っているのに、米不足で苦しむ人類がいるはずが無い。人類の貧乏なのが貴女達に狙いをつけるってのも、米が食べたくて10数俵も盗み出すってのも、どっちもおかしいのよ。犯人は人類じゃないし、犯行動機も、食べる為とは別にあるはずよ。」
「秋姉妹さんがあんな必死になってお百姓さん達の蔵の中を見て回った意味って。」
「それじゃあ誰が犯人だって言うんですか。」
「手掛かりは鍵、籾米、そして犯行動機の3つ。盗みに入られた蔵は高床式木造のお世辞にも堅牢とは言えない粗末な小屋で、立派なのは鋼製の南京錠とその留め具だけ、しかし犯人はこれを開錠して忍び込んだ、それがおかしい。あの錠は河童の金属加工職人が作った幻想郷でも比較的精密な代物。どれだけ精密な錠でも構造上の限度があって、合歯の形が似ていて合鍵より若干小さい鍵か、成形した太い針金でもあれば開錠は可能ではあるけれど、そんなことを知っている奴は限られてくる。錠を持っていてその構造を詳しく理解している者だったり、或いは作っている者だったり。勿論、生産従事者が知っている可能性は極めて低い。特にあの錠は風雨に晒されて内部に錆が入っているから合鍵を使っても体重を掛けて全力で回さなきゃ開かない。鍵開けのノウハウがある奴が道具を揃えても、開錠には相当の時間と労力を要するわ。恐らく、わざわざあの錠を開けるのよりもむしろ、小屋を壊した方が簡単に盗めるはずよ。力任せに斧で戸や壁を破壊するのも簡単だし、バールの様な物で南京錠を留め具ごと戸から引き剥がせば、もっと簡単にほとんど音も無く戸を開けることが出来たはず。学のない、合鍵無しで錠を開ける方法の思い付かない奴なら尚のことその方法を選んだはずなのに、犯人は結構な手間と少なくない時間を掛けて、あの小屋で一番破りにくい錠をわざわざ開けに掛かったことになるわ。重厚な錠前を一目見ても諦めずに、開けようと思って開けてしまえるだけの自信と実力を、犯人グループは兼ね備えていたのよ。」
「鍵を開けられる、河童さんの作ってくれた鍵を。」
「小屋前の地面に車輪痕が沢山あった。これは犯人グループが複数台の車を小屋の前に止めて備蓄していた米を運び出したことを意味しているわ。犯行推定時刻は昨晩日没以降から翌朝未明の間、小屋の内外は真っ暗だから犯人グループは自前で照明を用意したと思われる。盗まれた米のほとんどは外側に殻の付いた籾米で、俵も2重にしていない簡単な物だったんでしょう、俵からこぼれ落ちた籾が小屋の中に散らばっていたわ。だから何人もの窃盗犯が10俵以上の米を持ち出している途中で、必ず誰かが気付いたはずよ、精米してからじゃないと使い物にならないって。私の想像を絶する何らかの用途が無い限り、籾は殻を取ってからじゃないと商品価値が無い。にも関らず殻の付いた16俵の米全てを盗んで行ったということは、犯人グループには遅かれ早かれ16俵もの籾を全て精米し切る準備があったということ。つまり犯人グループ又はその一部は、籾米の精米技術を持っているか或いは遠くない内に入手することが可能だったということよ。」
「たくさん人がいて、設備もある。」
「最後になぜ貴女達が標的になり、貴女達で初めて甚大な被害になったか。防犯設備が脆弱だった?いいえ、貴女達の小屋は必要最低限度の防犯対策くらいは出来ているし、被害が甚大だったのは貴女達だけじゃない。」
「でも、わたしたちの他にお米を盗まれた農家さんは2、3俵だけだったって天狗さんが、」
「貴女達よりも前に命蓮系の生産従事者が4件被害にあっている。その被害規模はどの事例も2、3俵程度で、貴女達と比べれば大きいとは言い難いものだけれど、彼等はそもそも貴女達とは違う従事者側の人間、経営者から米を割り振られる側であって、貴女達ほど沢山の米は持っていなかった。1件あたりの被害規模2、3俵は決して少ない数じゃない。彼等は備蓄していた全ての米を盗まれたの、貴女達と同じようにね。標的の貯蔵する米を全部盗んで行くという点で、貴女達と命蓮系生産者の事例は同じ手口だったのよ。そこでおかしいのが守矢系の生産者、命蓮寺系で被害に遭ったのと同じくらい防犯の疎かな従事者が、貴女達よりずっと沢山の米をしまい込んでいる経営者も幾らでも居るのに、他で5例起きていて守矢では1例の被害も出ていない、まるで選り好みしているかのように見える程よ。」
「ちょ、ちょっと待ってください。千亦さん、あなた、うちの信者が、あのお百姓さん達の中に犯人がいるって言うんですか!」
「先述の通り一次生産者の関与は疑わしい、又、守矢信徒に被害が無いからと言って、必ずしも貴女の信徒が犯人だと言い切れる訳ではありません。しかし犯人かその一部は、貴女と敵対することを恐怖している。貴女と日常的な関与が何かしらあり、守矢と敵対するくらいなら、他の勢力と敵対した方がマシだと考えている。そう考えて動いていると判断せざるを得ない。」
「そんな、いったい。」
「何のために事件は起きたのか、守矢以外を標的に、忍び込めたならそこの米を1俵残らず盗み出してしまう様な過激な犯行は、何故行われたのか。全ての事例で総合して優に30人以上が1年間、食べ続けられる程の大量の米を、しかも少なくともその半分は精米処理が必要な籾米であるにも関わらず、何のために盗んだのか。食べられる量じゃない、精米する覚悟も余裕もある辺り食べる気も無い。なら何のために盗んだのか。」
「何のためって言うのよ。」
秋 静葉が問いかけた。それがやたらとまっすぐな視線であることに気が付いて、天弓 千亦もまたまっすぐに見つめ返して答えた。
「売って儲ける為、何らかの理由で金が必要になった犯人グループが、敵対勢力から盗んででも金を儲ける必要があったから。だから盗んだ。私だからいけないのか、私にはその答えしか考えられなかった。総合すると、犯人は生産従事者でも都市労働者でも人類でも無い。錠前破りのノウハウがあり10数俵の米を運搬できる輸送能力、精米できる工業力、それらを維持できる組織力がある。そして守矢神社と敵対を避ける程度に親交があり盗みに入ると根こそぎ盗まなければ気が済まない程金に余裕が無く、食べる為ではなく、売って儲ける為に米を盗んでいる。それらの条件が揃う様な勢力が、今回の連続窃盗を実行した。」
一行の会話が止まった。ある者は動揺し、ある者は放心し、ある者は聞き入っていた。山の中腹まで差し掛かり、水の流れる音が耳立ってきた。再び秋 静葉へ向き、天弓 千亦がふいに言った。
「私の検討が当たっていれば一件落着、犯人が分かって貴女達の米も帰って来るわ。でも見当が外れてたら、間違えてたわごめんって言って帰るわね。」
「そんな無責任なぁ。」
突然遠くで轟音が響いた。見るとどこか夜空で巨大な色とりどりの光球と虹色の光線がしのぎを削っていた。
「霊夢さんももうすぐ一件落着みたいですね!」
「魔理沙さんも大変だなぁ。」
山道に片側へ飛び出るような分岐が現れてそこへ曲がり、川に面する道に入った。
片側に斜面、片側に土手を経て河川があった道が、そのうちすぐ脇が川岸になり、対岸も平地が広がり始めた。だんだんと斜面がなだらかになり木々が生え始め、突然それが無くなって河川を中心とした民家群が姿を現した。
どの家にも照明が灯り、日も沈みしばらくするのに、そのどこからでも物を打つ音、何かを摩擦させる音が上がり、所々を誰や彼やが携帯照明を手に持つかあるいは胸元に挿して外を出歩いていた。
パリン!と近くで物が割れて、一行はそこを見た。建物正面の巨大な引き戸を閉めたばかりの河城 にとりが南京錠を手に一行を見つめていた。彼女は目を見開き、両腕をぷるぷると震わせていて、足元にはカバーガラスの割れたオイルランタンが火の消えた状態で横たわっていた。
天弓 千亦が川岸を離れ、彼女へと近づくが、河城 にとりは手早く扉を施錠し、破損したオイルランタンを拾い上げて里の奥側へ足早に歩き建物を離れようとした。
「ひゅい!」
天弓 千亦は河城 にとりを追い、その肩を掴んだ。河城 にとりは小さな悲鳴をあげながら振り返り、彼女を見上げた。秋姉妹、東風谷 早苗、姫街道 はたてが2者の元へ近付く。
「米の貯蔵所へ案内しなさい。」
天弓 千亦が言う。河城 にとりは肩で呼吸し、秋姉妹ら一行、背後の里一帯へ目を向けたが、天弓 千亦はすぐに彼女の肩を掴み直して、自身と面と向き合わせた。
唇を震わせながらも、河城 にとりはその口を開いた。
「い、い今、お、おこめは、せ、せ、精米所にあります。」
「では精米所へ案内しなさい。」
「精米所は、お、お見せすることは」
「案内しなさい。」
河城 にとりの両肩を握る手がぎゅと強まる。彼女は大きな深呼吸すら震わせながらもまぶたを強張らせて、声色を強めて彼女に答えた。
「精米所は!全精米手順の機械化と自動化を両立させた!私たち河童の技術と努力の結晶です!例え相手が神であろうと!そう易々と他人に見せることなどできません!」
「貴女達河童には幻想郷における備蓄米窃盗の容疑が掛かっている。貴女が我々の要請を拒絶することは自分達が犯人であることを認めることを意味する。それでも嫌だと言うつもり?」
「そんなこと言われたってね!私が判断できることじゃないじゃないですか!勘弁してくださいよ!」
「河童さん。」
両者の脇から声が掛けられた。河城 にとりだけがそれを見る。秋 穣子が彼女のすぐ目の前まで立ち、まっすぐに彼女を見つめていた。その目はうるうると湿り気を帯びていた。間もなく秋 静葉もその横に並んだ。
「河童さん、お米を見せてください、お願いします。」
秋姉妹はそう言って、河城 にとりに深く頭を下げた。全く同じ動作で、垂直に近く腰を曲げて。
それを見て、河城 にとりは口をつぐみ、何か身振りしようとしていた手をだらりと下げて、どこかに目を逸らした。天弓 千亦はそんな彼女の肩を2回、小刻みに振り、反応を待つが、それは返ってこなかった。天弓 千亦が言った。
「今すぐ案内なさ」
バシン!と強い打撃音と共に、河城 にとりは天弓 千亦の手を離れて建物の壁にぶつかる勢いで寄りかかった。天弓 千亦は困惑げに辺りを見回し、東風谷 早苗と姫街道 はたてが駆け寄った。河城 にとりは左の拳を堅く握って、力一杯に自身の左頬を殴り飛ばし、バランスを崩してすぐ脇の壁にぶつかったのだった。姿勢を立て直し、左頬を手で覆い、呼吸を整えると、河城 にとりは秋姉妹へ向き直り、穏やかな声で言った。
「すみません、取り乱してしまって。頭を上げてください、分かりましたから。すべて、すべてお見せします。ついてきてください。」
秋 姉妹が同時に顔を上げ、互いに見合わせると、晴れ晴れと笑って両手を合わせながら飛び跳ねた。
河童達の住む川岸の里を秋姉妹ら一行が歩いている。先頭を歩く河城 にとりは壊れたオイルランタンを手に提げ、それを軽々と揺らしながら、どこか軽やかな足取りで歩いている。そのすぐ後ろを秋姉妹、天弓 千亦、東風谷 早苗の順でついて行き、最後尾に姫街道 はたてがいた。
一行は躊躇なくずんずんと里の奥へ歩いている。外にいた複数の河童は彼女らから距離を取りながら様子をうかがい、ある者は近くの建物の中に駆け込んで行った。
月明かりと秋 静葉の持つオイルランタンの光だけを頼りに一行は歩いている。河城 にとりの先導に従っての移動であり、どこへと向かっているのかは定かではなかったものの、次第に彼女が何を目指して歩いているのか分かるようになってきた。
里の中央付近にある木造平屋建ての窓のない建物。よく見るとその奥側3分の1がレンガ造りになっていて、そこから細く高い煙突が伸びて色の分からない煙が月明かりをかすめていた。彼女はそこへ向かって歩いている。
目的の建物の前に誰かが歩いていて、一行に気づいたらしく立ち止まると建物の中へと走り込んで行った。間もなく一行は建物に着いて、河城 にとりがその鉄製の扉を、鉄パイプ材の取っ手を掴んで手前に開け、背後の少女たちの入場を促した。
その先は右に2個の扉が並ぶ通路があり、その奥も同様の扉に閉ざされ、その扉にスライドロックを掛けた河童が、一行へ振り返り両手を広げて睨みつけていた。秋姉妹が困り顔で互いを見合わせ、彼女らは立ち止まった。一行を縫って河城 にとりが通路へ抜け出し、通路の向こうにいる河童にゆっくり歩み寄って、両肩に手を乗せて小声で話し合った。河童は広げた両手を下げ、チラチラと秋姉妹らと河城 にとりとを交互に見た。河城 にとりがうつむいて首を左右に揺らしている。河童の顔から緊張が解けて悲し気に表情を歪めると、彼女は手に握った鍵を河城 にとりに手渡して、両膝を着いた。
河城 にとりがスライドロックを開錠し、鉄扉の取っ手を握った。秋姉妹ら一行は通路を前進し、彼女らのすぐ後ろまでやってきた。河城 にとりが振り返って一行を一目すると、取っ手を見つめ直して鉄扉を押し開けた。
むわりと蒸すような熱気が溢れる。重なりまくる作業音、継続的な金属摩擦、立て続けに吹く圧縮気体の噴出、力強く波打つ絶え間ない粒の音が部屋中にこだましていた。
1匹の河童がペダル稼働の回転機に藁を結わえて縄を結っている。
積み上げられたこもと桟俵の脇で河童が3匹がかりで俵袋を編み上げている。
奥の壁は赤レンガ貼りになっている。片隅にノブ付きの鉄扉があり、壁に沿うようにいくつもの機械が接続されていて、それらは壁から飛び出したギアから、1本のコアとギアやベルトを介して稼働している。
機械群の片側で1匹の河童が5合あろうかという器で米俵から籾米をすくい、横型ドラムに入口を付けたような機械に様子を窺いながら流し込んでいる。籾米は送風ファンの露出した機械を通り抜け、滑り台を流され縦型ドラムのような機械の上に落とされた。下部から2つのローラーが速度の違う2本のベルトで駆動しており、とてつもない量の粒が打ち付けられ続けるような音は金属摩擦音とともにこの機械から発生していた。
ドラム下部から玄米と籾殻とまだ殻の取れない籾米とが次々と排出され、そこから上り坂のレーンを、頭上から伸びたチェーンコンベアで動くブラシに押し出さされながら、下から上へと運び出された。
レーンには規則正しく穴が開けられていてその上を通過した粒々のうち玄米と籾殻の一部だけがそれを通過して下に落ちる。籾米と籾殻の残りはレーンの一番上まで掻き上げられるとドラム型の機械に再投入された。
レーン下には同様のふるい板が2枚、傾斜を付けて設けられていて、すべての籾殻とふるい切れなかった玄米は両脇の木箱に、大部分の玄米はふるい板から落下してサンドペーパーベルトのコンベアへ落ちた。コンベアの先には同じくサンドペーパーのベルトコンベアがコンベアの上に設けられていて、ふるい落ちた玄米は上下をサンドペーパーで挟まれながらコンベアを通過した。上面サンドペーパーが途切れてそこから多量の粉と白米が次々と流れ出て来て、それらはその先に置かれた木箱に流し込まれた。
1匹の河童が白米と糠の溜まった木箱を空箱と取り換えてそばにあるふるい機の脇に置く。レバーを引きふるい機を動力から切り離すとドラム型の深型ふるいを機械の3つの留め具から外して持ち上げ、更に脇にある大きな盆に乗った5合の枡に、中にふるい残された白米を流し込む。河童は空の深型ふるいを機械に着け直し、そこへ木箱の中の白米と糠を入れて下部の引き出しの中身を別の木箱に捨てると、ふるい機を再始動した。
河童は木片を手に取り山盛りの枡の上面を水平にならすと、それを持ち上げて傍にある俵に流し込み、枡を盆に戻した。俵の米は既に並々に山を作っていて、河童はその米面を手でならし、2枚重ねの残俵を乗せて縛り始めた。その傍には次々と米俵が10俵近く、横1列に並べられている。ドタバタと騒々しい足音が近づいて、誰かがそれら米俵のたが紐を順々に確認する。「ない、ない、」と弱々しいうめきを上げ、慌ただしい手付きだった。
反対側の壁、投入側にも俵が4つだけ並んでいて、河童がその1つを解いている。ドタバタと回収側から足音が来て、それらのたが紐にも手を掛けるとその手が止まった。
そのたが紐にはもみじが巻き込まれていた。
「あった。あった...!」
たが紐を力一杯に握りしめた秋 静葉が、声を上げて泣いた。
「うああああああぁぁぁぁ!うああああああぁぁぁぁ!」
しかし彼女の目に涙はなく、ただ肺活量の限り叫んで、一呼吸してまた肺活量の限り、米俵に顔を埋めながら叫んでいた。すべての河童が作業の手を止め、彼女と、その俵を見つめ、息が止まり、投入口にいた河童は手に持った籾米を木箱ごと床にぶちまけた。
「よかったね、おねえちゃん。これで農家さん、安心してくれるね。よかったね、おねえちゃん。」
彼女の肩に秋 穣子が手を当て、指で涙を拭い彼女を励ます。
たが紐を握って絶対に離さないその手の隣に、細くしなやかな手が伸びてきて、紐に巻き込まれたもみじの質感を確認すると、東風谷 早苗は身を起こし振り返って、河城 にとりに詰め寄った。
「にとりさん!これはあなた達がやったんですか!」
互いの胸と胸とが当たる程に間を詰められるため河城 にとりは背が壁にぶつかるまで後ずさって、何も答えず頷いた。
「なんでこんなことしたんですか!」
東風谷 早苗は凄まじいけんまくで彼女を見つめ、まぶたを震わせて怒鳴りつけた。
「なんで、どうして。」
上目づかいで河城 にとりは東風谷 早苗を見上げ目を丸めた。彼女は睨みながら涙を溜めていた。
「と、投資分を」
「私じゃ判断できない!来てください!諏訪子様と神奈子様にも聞いてもらわなきゃいけません!」
東風谷 早苗は河城 にとりの手を奪い取って引っ張ると鉄扉へ向けて駆け出した。扉を突き押そうとした時、彼女は後ろから誰かに肩を掴まれて一時バランスを崩した。振り返ると天弓 千亦がまっすぐに彼女を見つめて彼女を掴んでいた。
「公正なる処罰と厳正なる再発防止策を、その2つが達成されるのみで、市場は怒りを鎮めます。」
ドキリと息を呑み、言葉なく頷くと彼女は再び河城 にとりの手を引いて部屋を出て行った。ノブのない鉄製の扉だけがパタリパタリと動いている。
姫街道 はたては半目で後頭部を掻くと部屋の中央に歩み出てポケットから取り出した4つ折りの紙を開き、全員に聞こえるよう宣誓した。
「え~、全作業を中断し、機械を停止させすぐに離れなさい。あなた達は我々全天狗の許可無くしていかなる隠滅も、抵抗も、発言も、逃亡も、自殺も許されない。あなた達は我々が事件の終結を判断するまで我々の求めに応じ、我々に協力し、我々の命令に従わなければならない。これは大天狗、天魔様、守矢神社連盟の判断であり、あなた達全員に拒否権は無い。ふぅ、じゃあ、まずは機械止めてくださぁい。」
彼女の背後にいた河童の1匹が意を決して部屋を駆け出した。足音はすぐに聞こえなくなり、扉だけがパタパタと動く。がそれは突然止まり、ゆっくりと扉が開くと、今しがた出て行ったはずの河童が恐る恐る後ろ歩きで戻って来て、それを追うように犬走 椛が現れた。
犬走 椛が河童と向き合い彼女の肩をがしりと掴む。彼女はビクリと跳ね上がって固まる。犬走 椛の他、背後の鉄扉から3匹の白狼天狗が次々と出て来て部屋中の河童に声を掛けて回る。犬走 椛が言う。
「今すぐあなた達の長と米取引の帳簿係の元へ案内しなさい。その間一切の妨害、隠滅行為は許されない。あなた達に拒否権は無い。」
人指し指を突き立てたまま左腰と右こめかみに手を当てて、鉄扉の縁に肘を突き、天弓千亦は部屋中を見回した。
姫街道 はたてが部屋の中央に仁王のように立ちあばらの高さで軽く腕を組み、鉄扉に背を向けたまま右手でどこかに電話を掛けていた。
犬走 椛は目の前の河童を連れて部屋を後にした。
白狼天狗に押し出され河童が奥の鉄扉へ入って行き間もなく精米機械群が停止した。
別の白狼天狗は残りの河童を並ばせて1匹ずつ何やら質問している。
別の白狼天狗は若干身をのけぞらせて立ち止まっている。彼女は秋姉妹を目の前にしていた。
秋姉妹は未だに泣き叫んでいた、白狼天狗を優に圧倒するほどとてつもなく。
「最近の夏が長い訳だ。あれだけ秋が情熱的なら、一次生産に関してはもう心配いらないでしょう。」
天弓 千亦は力ない笑顔を浮かべながら、つぶやくようにそう言った。
白狼天狗が秋姉妹両方の肩に手を乗せて声を掛けた。
「この米は証拠の一部として我々が一時的に預かります。今すぐそれから離れて、以降は我々の指示があるまで何にも触れずここで待機していてください。あなた達に拒否権は在りません。」
白狼天狗を見上げると、秋姉妹は唐突に泣き叫ぶのを止めて露骨に渋い顔をした。
「いや何だか不安だ、永遠亭の医者に連絡しとこう。」
天弓 千亦は苦い顔をしてそうつぶやくと、鉄扉を押して部屋を出て行った。パタリパタリと前後する扉の向こうには通路の先へ向かって歩き、純白のマントをはためかせる彼女の姿が見えていた。しかし3度、4度と前後した時にはもうその姿はなくなっていた。通路の向こうは、同様の鉄扉がパタリパタリと前後して、その先に夜闇だけが見え隠れしているばかりだった。
おわり
サイドストーリー的にレイマリも入っていて、飽きずに読ませて頂きました
河童は無茶な借り入れでもしてたんでしょうか。となると諸悪の根源は金融屋?
とりあえず搾取の物語だと解釈しました
よかったです
あまりにも河童が過ぎる
ここの表現が最高に気持ち悪かった(褒め言葉)
面白かったです!