夜の帳が降りる魔法の森。霧雨魔理沙は鼻歌まじりに歩いていた。
頭上では、黒々とした枝の隙間から、満ちかけの月が覗いている。
魔理沙の隣には、誰もいない。
初冬の風が木々を渡り、落ち葉を転がしていく。頬を刺すほどの冷たさも、彼女を震わせる事はできない。
さっき別れたばかりの少女の手の感触が、掌の奥に微かに残っていた。その柔らかさを思い出すたびに、胸がぽっと熱を帯びて、暑いくらいだった。
友人であり、ライバルであり、そして恋人である少女。
実は少女と呼ぶにはちょっと年上の人形使い、アリス・マーガトロイド。
魔理沙は歩きながら、宝箱を開けて玩具の宝石を並べる子供みたいに、交わした会話や、アリスの浮かべた表情をひとつひとつ思い返していく。
ふと見せた横顔の柔らかさ。
私の冗談にこぼれた微笑み。
そのどれもが、胸の奥でじんわりと溶け合い、身体の芯まで温かくしていく。
まるで心の中に小さなランプが灯ったようだった。冷たい空気が肺に入るたび、炎がぱちぱちと音を立てて揺れる。
最近の魔理沙は、アリスと別れた後はいつもこうだった。
満腹にも似た充足感に包まれ、理由も無く空を見上げてしまう。
繋いだ手の形を確かめるように、指をぎゅっと握ると、そこにまだアリスがいるような気がして、それだけで胸が高鳴る。
幸せの余韻は、会っている時以上に魔理沙を酔わせた。
好きだと、何度も思い知らされる。
けれどその幸福の裏側には、どうしようもない焦燥も滲んでいた。
いつか終わるという予感。
自分は人間で、アリスはそうではないという現実。
夜空に浮かぶ月が、手を伸ばしても届かないほど遠いように、アリスもまた、永遠の側にいる存在なのだ。
――もし、あの月に触れられるのなら。
――もし、自分もあの永遠の中に行けるのなら。
魔理沙は立ち止まり、吐いた息が白く消えるのを見つめた。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
アリスと会う度、流れる時間の違いを思い知る度、魔理沙の中で、願いが具体的な形を作っていく。
どんな代償を払ってでも、アリスと同じ時を生きたい。
永遠に、隣にいたい。
それが例え、罪だと言われようとも。
「私は、妖怪になる」
呟きは風に溶け、森の闇へと消えていく。
その声を追いかけるように、夜空の雲が流れ、月光が降り注いだ。
◇
翌日、未明——
魔理沙は、まだ薄暗い世界の中、輪郭が溶け落ちたような霧の中で目を覚ました。
土は夜露に濡れ、頬に触れる草は冷たかった。
霧があまりに濃く、空も地も曖昧で、自分の存在さえ霞むようだった。
未覚醒の頭で、ここはどこだろうかと考える。魔法の森だろうか、或いは別の何処かだろうか。昨晩は自宅のベットで眠ったはずだ。記憶が無くなる程、酒を飲んだ覚えもない。
耳を澄ませば、かすかに風の擦れる音。そして、霧に混じって、胸を締め付けるような甘い香りが漂ってくる。
その香りの先に――一本の“線”があった。
霧の中央を貫くように、茶色の棒が浮かんでいる。
細く、それでいて異様に長い。
まるで空間そのものを縫い合わせ、幻想郷を貫く針のように、遥か霧の果てまで続いていた。
視界の奥で、ぼんやりと光を反射している。
鼻腔を擽るその甘さには、覚えがあった。紅魔館で提供された茶菓子と、同じ匂い。
「……チョコレート、なのか?」
「その通りよ、魔理沙」
思いがけない返答に、心臓が一拍跳ねた。
振り返ると、白い霧を裂いて現れた女がいた。
——八雲紫。
裂け目の奥から半身だけ現れ、まるで霧を支配する神のように佇んでいた。
その眼差しは氷のように冷たく、何の感情も宿していない。
口元は笑っているのに、何ら安らぎも親しみも抱く事が出来ない。
存在そのものが圧。空気さえ軋むように感じられる。
「魔理沙。あなた――人間を捨てるつもりね?」
その言葉が、胸の奥に針のように突き刺さった。
紫は何もかも知っている。
一夜の独り言すら、聞き逃れてはいなかった。
幻想郷の全てを見ているのだろうか。
或いは、私が監視されているのだろうか。
「……あぁ。悪いか?」
乾いた声で返す。
紫は、ゆっくりと扇を広げた。
空気が、ビリビリと震える。
見えない圧が周囲を満たし、温度が急激に下がったように寒気がする。全身が総毛立つ。
喉を掴まれたみたいに息が苦しくなり、背中を汗が伝う。
「人間が妖怪になる。それは幻想郷における大罪。それでも——」
「やるさ」
短い言葉だった。
胸に刃物を突き付けられるような重い恐怖の中、それでも迷いはなかった。
「そうしたら、私を——殺すのか?」
紫なら、それも一瞬だろう。けれど魔理沙は、自分の心を偽らなかった。
紫は少しだけ目を伏せ、そして顔を上げた。
「いいえ。その覚悟を、貴方達が示せるならば」
「……何をすればいいんだ?」
紫の扇の先が、宙を指す。
一本の、途方もない長さのチョコレート菓子。
それは霧の奥、遥か見えぬ先にまで伸びている。
「外の世界に存在するゲームよ。やる事は、愛する者同士が両端からこのお菓子を食べ切るだけ。それが出来れば、永遠に結ばれるという。但し――一度でも口を離したら、即座に終わり」
魔理沙は黙って聞いていた。
甘い香りの中に、かすかな鉄の匂いを感じた。
「貴方達にはそのゲームをやって貰う。成功すれば、私は貴方を認めましょう。けれど、もし失敗したら、その時はただの人間として生きて、死んでもらう」
声の奥にあるのは、明確な裁きの響き。
そこにいるのは、友人としての紫ではなく、幻想郷の管理者としての八雲紫だった。
凍り付くような冷徹さを前に、魔理沙はそれでも怯まない。
八雲紫が用意したゲームが、簡単なわけが無い。私に諦めさせる為に用意された罠の可能性すらある。けれど魔理沙は、蜘蛛の糸に縋る囚人のように、細い希望から手を離さない。
「……いいぜ。やってやる」
静かに、息を整えて言う。
紫の瞳が細められる。
「言っておくけれど、アリスもこのゲームに乗る保証なんてないのよ」
「関係ない」
「……信じているのね、アリスを」
「いや」
霧の中で、魔理沙の瞳がかすかに揺れた。
正直なところ、アリスが私と共に永遠を生きたいと願ってくれるか、自信は持てなかった。
少なくとも、アリスからそんな言葉を聞いた事は無い。
それとなく捨虫の願望を匂わせてみても、いつもはぐらかされていた。
それでも、それはゲームを止める理由にはなり得ない。
「信じてるわけじゃないさ。私が、アリスと生きたいんだ。例え私1人でも、全部食べ切ってやる」
紫の唇が僅かに動いた。
何かを、納得したように。
「いい覚悟ね」
そして、彼女は呟く。
まるで儀式の詠唱のように、静かに。
「――Persevere Over Chocolate, Keep Yearning.」
「……は?」
聞き慣れない響きに、魔理沙が眉をひそめる。
「このゲームの名よ。“チョコレートを乗り越え、渇望を抱き続けなさい”。頭文字を取って――P.O.C.K.Y. Gameと呼ばれているわ」
風が霧を裂き、果ての見えないチョコレート菓子が微かに輝いた。
「P.O.C.K.Y. Game、か……」
魔理沙は唇の端を上げる。
未知を前にした魔法使いは、いつだって良い顔で笑う。
「——面白い。私がクリアしてやるよ」
霧がゆっくりと揺れた。
まるで幻想郷そのものが、これから起こることを息を潜めて見守っているかのように。
魔理沙は、視線を茶色の棒へと移す。
細く、果てが見えず、霧の奥へ吸い込まれていく。その長さに、喉がひくりと動いた。
緊張ではない。
恐怖でもない。
――これは、願いのための食卓だ。
自分が選んだ道だ。
誰にも強いられていない。
誰にも奪われたくない。
魔理沙は、霧の冷気を深く吸い込み、
震える息をそっと整えた。
「始めなさい、魔理沙」
紫の言葉に魔理沙は頷く。
ゆっくりと、浮かぶチョコレート棒の先端へ顔を寄せる。
近付くにつれて、甘い匂いが強くなる。
息を吸うだけで胸が締め付けられるほど濃厚で、不思議と涙腺がじんと熱くなる。
アリスも――どこかで、この同じ匂いを嗅いでくれるのだろうか。
霧の向こうで、この棒の向こう側で、同じように決意を抱いてくれるのだろうか。
分からない。
何ひとつ保証はない。
けれど――。
——私は、行く
魔理沙は、そっと口を開いた。
歯が、チョコレート菓子の表面に触れる。
冷たい。
代わりに、指先から心臓へかけて、熱が一気に駆け上がる。
覚悟は、とっくに決まっている。
――ぱきり。
静寂を切り裂く、小さな音。
霧が、世界が、揺れる。
千里の道も一歩から。永遠の命も一口目から。
試練の幕が、静かに上がった。
◇
食べ始めてから数分が経ち、数十分が経った。
世界はずっと静まり返っている。
正確には、霧が音を吸い込んでいく。
風の気配さえ感じられない。
魔理沙の耳に届くのは、自分の噛む音と呼吸の音だけだった。
――ぱき、ぱき。
そのたびに、冷たいチョコレートが舌の上で溶け、甘さが喉へ落ちていく。
最初は美味しかった。
だが、食べても食べても、ただ前へ伸びているだけの茶色の線は、まるで自分の覚悟を試す物差しのように見えた。
指先が微かに震える。
緊張なんて、朝のうちに置いてきたはずなのに。
——食べ続けるしかない。
その事実だけが、霧の中心で凛と光っている。
霧の密度は変わらない。
魔理沙はひたすら、黙々と噛み続けた。
甘い、甘い、甘い。
舌が痺れてくる。
口の中が飽和するような甘さに溺れ、喉の奥がじんと焼ける。
食べ始めて一時間が経過する頃、胃が拒否のサインを出し始めた。
——気を抜けば吐き出しちまう。
それでも進むしかない。
口を離すことはできない。
離した瞬間、すべては終わる。
——アリス……お前は、この先にいるのか?
不安が胸に広がるたび、魔理沙はわざと噛む音を強く、乱暴にした。
チョコレートが砕ける乾いた音が、霧の中に散る。
——いや、信じるんじゃない。私は……。
噛む。
噛む。
噛む。
——私は、私の分を食べ切るんだ。私自身の望みのために。
そう言い聞かせても、孤独はゆっくりと滲み出してくる。
霧の中は広すぎて、自分の存在が薄まっていく錯覚に襲われる。
やがて、空がゆっくりと明るくなり、日が上りきったことが分かる。周りの明るさだけが、時間の経過を教えてくれた。
胃は早くも限界に近い。
唇は甘さでひりついている。
頬の筋肉は痛み、噛むたびに鉛のようなだるさが襲った。
けれど、魔理沙は食べ続けた。ただ、黙々と。
しかし、夕暮れが近付く頃、魔理沙の足がパタリと止まった。
まだまだ、果ては見えない。
霧は最初と同じ密度のまま、茶色の棒はどこまでも伸びている。
本当に終わりなどあるのかすら分からない。
——これ、やっぱり紫の罠じゃないのか?
そんな弱音が、ほんの一瞬だけ心に浮かんだ。
その瞬間。
チョコレートの甘ったるい匂いがついに限界を超え、魔理沙は喉の奥から込み上げる吐き気に顔を歪める。
「っ、……ぐ……っ」
胃がひっくり返る。
口から離れそうになる。
肩が震える。
目の奥に涙が滲む。
——ダメだ。ここで離したら……私は、一生後悔する。
魔理沙は拳を握り、涙を流しながらもチョコレートを飲み込んだ。無理矢理流し込まれた喉が痛む。
——まだだ……。まだやれる……!
そう心中で叫んだ時、太陽が沈み始め、霧が薄い橙色に染まった。
そして、夜が来た。
魔理沙は疲労の極致にいた。
腹は重く、喉は焼けるようで、視界が揺れる。
それでも口を離さず、眠ることもできず、ただひたすらに――前だけを見ていた。
永遠への、果てしない線の先を。
◇
また朝が来た。
それから夜が来て、さらにまた朝が来た。
眩しい日差しが、瞼をふやかすように眠気を増大させる。
丸二日、一睡もせずにチョコレート菓子を食べ続けている。疲労感と眠気は限界に近く、気を抜くと意識を持っていかれそうになる。
けれど魔理沙は眠れない。
眠れば、口が離れる。
離れれば終わる。
魔理沙は冷たく湿った霧の中で、ただひとり菓子を噛み続けた。
甘さはもう味と呼べない。
舌の上に広がるのは、ほとんど痛みだ。
唇には細かい裂け目が入り、口を動かす度に血が滲む。
——こんな事に本当に、意味があるのだろうか?
思考の中に、弱い声がふっと立ち上がった。
アリスの顔が浮かび、その目が曇る。
もしかしたら、私なんかが――と。
私の存在は、あの完璧な魔法使いの胸を曇らせてしまうのではないかと、暗い思考に囚われる。
——怖い。誰より好きなのに。
一緒に生きたいって叫びたい程好きなのに……。
魔理沙は痛む顎を押さえ、震える呼吸を整える。
霧のせいか、世界は白く濁っている。自分がどれほど進んだのかも、どれほど残っているのかも分からない。
そんな中、ふいに足元がふらついた。
「っ……!」
倒れたら終わる。すべてが無になる。
根性が、折れかけた膝を支える。
息を吸うのも痛い。吐くのも苦しい。
胃は膨れ、胸苦しさで汗が止まらない。
足は震え、視界が霞む。
未だ終わりは見えず、アリスの影も無い。
魔理沙の心は、いよいよ折れかけていた。
——私はどうして、頑張っているんだろう。
自分の姿を俯瞰してみたら、酷く滑稽だった。
妖怪に憧れ、踊らされ。
考えてみたら、紫が約束を守る保証も無い。
仮に守られたとして、アリスが永遠を共に生きてくれるとも限らない。
人間の私にしか興味無いと、捨てられないとは誰にも言い切れない。
それにきっと、私が妖怪になると悲しむ奴だっている。
私がアリスに抱いていたものと同じ苦しみを、数少ない友人達に背負わせる事が、正しい行いだとも思えない。
口が、チョコレート菓子から離れかける。
今すぐ倒れ込んで、何もかも忘れて深い眠りに落ちたかった。
——人間として生まれた私は、人間として死のう。もう、無理だ。
そう思った。
そう思ってしまった。
そして――その瞬間だった。
霧の奥から、微かな声がした。
「……ん……」
息を呑む。
それは幻聴ではなかった。
その声は次第に大きくなる。よく知った声だ。魔理沙を導く、いつものあの声。
魔理沙は吸い寄せられるように、足が自然と前に進む。段々と肥大していく声は、やがて霧を掻き払うような鋭い叫び声となる。
「魔理沙ぁーっ!!」
霧の端に、巫女装束の紅が揺れた。
博麗霊夢が、そこにいた。
紫から話を聞いたのだろうか。優しい眼差しで、魔理沙を見つめている。
その姿に、瞳に、魔理沙は目頭がじんと熱くなる。
「頑張りなさいよ、あんた」
柔らかい口調で、包み込むように声を掛けてくれる。
口が離せない魔理沙は、目線で思いを伝える。
——いいのかよ、手を貸して。
「応援するなとは言われてないわ」
チョコレート菓子を咥えたまま、思わず笑みが溢れる。母親を見つけた子供みたいに、安心感が込み上げて涙も溢れる。
——ありがとな、来てくれて。
「どういたしまして」
——でも、霊夢はいいのか?
「何が?」
——私が人間じゃなくなっても、さ
「そりゃ、見送られるのは寂しいけどね。あんたにはあんたの道を生きて欲しいのよ」
霊夢の言葉に、まるで羽が生えたかのように、体が軽くなる。
まるで瓦礫の山が崩れて、隠されていた扉が姿を現したみたいだ。進むべき道がハッキリとする。
折れかけた心に、脚に、力が甦る。
「それに、そう思ってるのは、私だけじゃないわ」
魔理沙は思わず目を見開いた。
ぞろぞろと足音がして、霊夢の背後から沢山の影が現れる。
紅魔館の連中、命蓮寺の住人、地底の民、天狗、河童、妖精、鬼――
幻想郷中の人妖が駆けつけていた。
「行けぇっ!」
「最後まで食べろー!」
「負けるなぁっ!」
口々に、魔理沙を鼓舞する言葉をかける。それは次第に大きくなり、重なり、霧が揺れる。
大声援に耳が痺れながら、魔理沙は力が漲っていくのを感じた。
異変解決に飛び回って出来た絆が、魔理沙を支え、奮い立たせた。
涙を拭い、力強くチョコレート菓子を噛む。
「進めぇ!」
「頑張りなさいっ!」
「食えー!」
地面を揺らす程の声量が、魔理沙の背中を強く押す。
先程までの弱い気持ちは、何処かに掻き消えていた。
決意を新たに、大地を踏み締める。
——私はもう、絶対に諦めない。
◇
「頑張れぇ!」
「魔理沙ぁっ!」
「食べ切ったら最強ね!」
人妖たちの声は、もはや潮騒のようだった。
背中を押すように届くその波に支えられながら、魔理沙は歩を進める。
昼になり、夕方になり、また夜が来ても魔理沙は歩み続けた。
足にはもう感覚は無い。芋虫が地面を這うように遅い。しかし、着実に前に進んでいる。
世界が徐々に白んでいく。
食べ始めてから三度目の夜明けの光が、霧を薄く染め始めたその時——。
白銀の世界の中、遠くで、黄金が揺れた。
最初は蜃気楼のように頼りない光だった。
けれど、一口、また一口と近づく度に、その光は確かな輪郭を帯びていく。
魔理沙の胸が震える。
——アリス!!!
叫びたくなるのを、必死に我慢した。音にならない愛しい名前は、喉の奥でほどけて涙に変わる。
すべての疲労が、溶けるように消えていく。
だが、気の緩みは命取りだった。
胃がぎゅっと痙攣し、チョコレートの甘い酸味が逆流してくる。
——ダメだ。今、離すわけには……!
魔理沙は喉の奥に力を込め、込み上げるものを飲み下した。
喉がじんじんと痛み、口の中に鉄の匂いが広がる。
それでも、また一口、魔理沙はチョコレートを咀嚼する。
食べていく程に黄金の光は濃度を増し、ぼんやりした情景は徐々に輪郭を得て、愛しい少女の形を結ぶ。
霧の向こうで、金髪が朝日に濡れたように輝き、潤んだ青い瞳がこちらを見つめていた。
目の下にはクマがくっきりと浮かび、頬は汗ばんで薄汚れている。
——酷い顔だ。私もきっと、同じ顔なのだろう。
その姿を認識した瞬間、魔理沙は胸の奥が弾けるように痛く、そして温かくなる。
お腹は重くとも、足取りは軽い。
ふたりの距離は、もはやお互いの息遣いが分かる程に近かった。
周囲の喧しい程の応援は、まるで霧に吸い込まれるように遠ざかっていく。
世界が、二人を中心としてゆっくりと静かに回りはじめる。
二人以外の存在が全て消え去ったかのように、魔理沙にもアリスにも、お互い以外は視界に入らなかった。
視線を合わせたまま、ただ黙って、一口――また一口と、確実に進んでいく。
チョコレート菓子は、まるで赤い糸のように二人を繋げ、最後の瞬間へと導いていった。
——あと、数センチ。
口が塞がっていて、声は出せない。
けれど、言葉なんてもう必要ではなかった。
風がそっと吹き抜ける。
霧が透け、朝日が世界の端から登っていく。
その光の中で――
二人が同時に、最後の欠片を噛み切った。
チョコレートがぷつんと弾けるように切れた瞬間、魔理沙とアリスの唇が、静かに触れ合った。
「んっ」
二人は、唇を重ね合わせたまま微動だにしない。目を閉じ、ただお互いの感触を静かに確かめ合う。呼吸する度にお互いの匂いを感じて、安心感に包まれる。夢見心地で、油断すると本当に眠ってしまいそうだった。
魔理沙が自分の存在を知らせるように唇を押し付けると、アリスも同じように押し返してくる。その柔らかな弾力に、もう独りきりじゃないんだと幸福感が込み上げる。自分がいて、アリスがいる。確かに繋がっている。目を瞑ったまま、完璧にアリスの姿を心に描く事ができる。
やがて、押し合う力が自然と弱まる。言葉は無くても、次にやる事を共有できた。二人は舌先をそっと伸ばし、乾き切ったお互いの唇を湿らせる。
裂創に唾液が沁みてヒリヒリすると同時に、頭の奥がピリピリと痺れる。それからジリジリと舌を伸ばし、ゆっくりと絡め合う。
柔らかい物を舌で味わうのは久しぶりに感じる。チョコレートとは違う甘さが胸を満たす。
丸三日間、ずっと口をすぼめていた為、舌を伸ばすと頬の内側が痛い。しかし、張り裂けそうなくらい脈打つ心臓の方がずっと痛い。
魔理沙はアリスの頭部に手を回し、引き寄せる。そして自分の唇でアリスの下唇を挟み込み、柔らかい感触を堪能する。強く、弱く、はむはむと繰り返す。その度にアリスの呼吸は深く、熱を帯びていく。
「それじゃあ皆さん、二人きりにしてあげましょうか」
最前列に陣取っていた射命丸文が後ろに向き直り、人妖達に向けて声をあげた。手には自慢のカメラ。翌日の一面記事が決まって、良い写真も撮れて、ホクホク顔だ。
射命丸の言葉に、人妖達も口々に同意する。人間の倫理観から外れた彼女達からしても、他人の恋路を邪魔するのは野暮であった。
「そうね。帰るわよ」
「はい。お嬢様」
「咲夜ー、私もあれやりたい!」
「こらフラン。はしたないわ」
「まぁまぁ。後でパチュリー様に頼んでみましょう」
紅魔館の女達がまず帰っていく。
「な、なぁ慧音。今夜さ……」
「あぁ、分かっている。分かっているが……」
「何……?」
「……今夜はその、満月だ。自分を制御できないかもしれない」
「死ぬ程愛されちゃうって事?」
「いっそ私が殺してあげようか!?」
「輝夜、お前が死ね」
竹林の人間と半人も帰っていく。
「さぁ皆、行きましょう」
「そうだね、命蓮寺に帰ろう」
「違いますよ、ナズーリン」
「えっ?」
「……応援中に宝塔を落としました」
「ご主人……」
命蓮寺の妖怪達は来た道を辿っていく。
そうして各々が三々五々に解散し、残されたのは魔理沙とアリス、そして霊夢だけとなった。
——魔理沙。
霊夢は熱のこもった眼差しで親友を見つめる。目の縁に、じんわりと涙が滲む。
魔理沙は、妖怪になる。
同じ時間を生きて死ぬ事はもう、叶わない。
ずっと手を引いてきたけれど、魔理沙は立ち止まる事を選択した。自分は先に進まなくてはならない。手を離して、置いていく時がやって来た。
いつかこうなる予感はあったけど、いざ来てしまうと、感情の置き場が分からなくなる。
魔理沙がどうなっても、親友には変わりはない。それが魔理沙の幸せなら、祝福もするし、後押しもする。けれど、同時にどうしようもない寂しさや、激しい憤りも湧き上がる。
投げかけた応援の言葉は本心であったが、強がりでもあった。
どんな顔をすれば良いのか分からず、消去法で不器用な笑顔を浮かべる。どうせ魔理沙もアリスも目を開けていないが、悲しい顔や泣き顔をするのは違う気がした。
なんとか涙が溢れるのだけは堪える霊夢が見つめる先で、魔理沙の舌がゆっくりとアリスの口内に侵入した。
「んんっ……!」
アリスの吐息が熱を帯びて漏れる。魔理沙の舌が機嫌を窺うように舌先にちょこんと触れると、アリスの身体がびくんと小さく跳ねた。
その反応を感じて、魔理沙の舌は水を得た魚みたいに奔放に、アリスの口内を動き回る。アリスの体温を舌で感じて、軽い熱中症みたいに頭がぼんやりする。思考を支配されたみたいにアリスの事しか考えられなくなり、欲望のまま貪る。
そうして暫く魔理沙がアリスを味わったところで、徐にアリスが魔理沙の背中に手を回した。そうして強く抱き寄せ、舌を絡め取る。仕返しとばかりに口内に這入り、飴玉を転がすように魔理沙の味を堪能する。
そのまま、唇の裏、歯の裏、上顎など口内を余す事なく蹂躙していく。どうやら魔理沙は上顎がお気に入りのようで、重点的に舌を這わせると、ビクビクと身体が跳ねた。
アリスからの逆襲に、魔理沙は酒に酔ったみたいに足の力が抜けていく。アリスはそんな魔理沙を手で支える。そして優しく舌を吸い上げると、魔理沙は「んあっ」と甘い声を漏らした。
アリスは口を離して魔理沙の蕩ける表情を見たい衝動に駆られるが、堪えて魔理沙を味わう。一瞬たりとも、魔理沙から唇を離したく無かった。
魔理沙はあまりにも甘く、アリスはこの果実を誰にも渡したくないと強く願った。柔らかい舌も、触れ合う身体も、溢れる吐息も、全てが愛おしかった。チョコレート菓子よりもずっと、飽きが来ない。頭のてっぺんからつま先まで、愛がたっぷりだ。
——私が全部、食べ尽くしてあげるんだから。
魔理沙の吐息はどんどん荒く、激しくなっていく。
そうして、二人の舌は蛇が交尾するかのように絡み合う。
漏れる吐息と水音、たまに唾を飲み込む音が響く中、霊夢は静かに二人を見据えていた。
愛を確かめ合う様子を目の当たりにして、少しだけ自分の気持ちに整理をつける事ができた。
魔理沙とアリスの気持ちは本物だ。それならばと、自分に言い聞かせる。
心中でそっと、二人に語りかける。
——魔理沙。そしてアリス……。
「はぁっ……」
——きっと貴方達には、これからも困難がある。
「アリ……スぅ……ふあぁっ」
——それでも、私は信じる。
「あぁっ……」
——貴方達なら、乗り越えられると。
「んんっ……!」
霊夢が優しく見つめる先で、二匹の蛇がまた交わり合った。
◇
数日後。
「でな、結局食べ切ったんだよ。もうチョコは見たくねぇ」
守矢神社の縁側で、早苗は魔理沙の話を聞いていた。外せない用事で魔理沙達の応援に行けなかった早苗は、せめて話だけでも聞こうと興味津々だ。
魔理沙は笑い、アリスはその隣で紅茶を啜る。
「なるほど……私の知ってるポッキーゲームとちょっと違いますねぇ」
「そうなのか?それにしても、最初から最後までチョコたっぷりでさぁ」
魔理沙の一言に、早苗はやや引っかかるものを感じる。
なんか、何処かで聞いた事あるような台詞……。
「ま、というわけで土産にやるよ。紫に余ったやつ貰ったけど、もう見たくもない」
そう言って手渡された箱に、早苗は目をやった。
外の世界で見た、懐かしいお菓子の箱。
――白いパッケージに、黒い文字が踊る。
『TOPPO』
頭上では、黒々とした枝の隙間から、満ちかけの月が覗いている。
魔理沙の隣には、誰もいない。
初冬の風が木々を渡り、落ち葉を転がしていく。頬を刺すほどの冷たさも、彼女を震わせる事はできない。
さっき別れたばかりの少女の手の感触が、掌の奥に微かに残っていた。その柔らかさを思い出すたびに、胸がぽっと熱を帯びて、暑いくらいだった。
友人であり、ライバルであり、そして恋人である少女。
実は少女と呼ぶにはちょっと年上の人形使い、アリス・マーガトロイド。
魔理沙は歩きながら、宝箱を開けて玩具の宝石を並べる子供みたいに、交わした会話や、アリスの浮かべた表情をひとつひとつ思い返していく。
ふと見せた横顔の柔らかさ。
私の冗談にこぼれた微笑み。
そのどれもが、胸の奥でじんわりと溶け合い、身体の芯まで温かくしていく。
まるで心の中に小さなランプが灯ったようだった。冷たい空気が肺に入るたび、炎がぱちぱちと音を立てて揺れる。
最近の魔理沙は、アリスと別れた後はいつもこうだった。
満腹にも似た充足感に包まれ、理由も無く空を見上げてしまう。
繋いだ手の形を確かめるように、指をぎゅっと握ると、そこにまだアリスがいるような気がして、それだけで胸が高鳴る。
幸せの余韻は、会っている時以上に魔理沙を酔わせた。
好きだと、何度も思い知らされる。
けれどその幸福の裏側には、どうしようもない焦燥も滲んでいた。
いつか終わるという予感。
自分は人間で、アリスはそうではないという現実。
夜空に浮かぶ月が、手を伸ばしても届かないほど遠いように、アリスもまた、永遠の側にいる存在なのだ。
――もし、あの月に触れられるのなら。
――もし、自分もあの永遠の中に行けるのなら。
魔理沙は立ち止まり、吐いた息が白く消えるのを見つめた。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
アリスと会う度、流れる時間の違いを思い知る度、魔理沙の中で、願いが具体的な形を作っていく。
どんな代償を払ってでも、アリスと同じ時を生きたい。
永遠に、隣にいたい。
それが例え、罪だと言われようとも。
「私は、妖怪になる」
呟きは風に溶け、森の闇へと消えていく。
その声を追いかけるように、夜空の雲が流れ、月光が降り注いだ。
◇
翌日、未明——
魔理沙は、まだ薄暗い世界の中、輪郭が溶け落ちたような霧の中で目を覚ました。
土は夜露に濡れ、頬に触れる草は冷たかった。
霧があまりに濃く、空も地も曖昧で、自分の存在さえ霞むようだった。
未覚醒の頭で、ここはどこだろうかと考える。魔法の森だろうか、或いは別の何処かだろうか。昨晩は自宅のベットで眠ったはずだ。記憶が無くなる程、酒を飲んだ覚えもない。
耳を澄ませば、かすかに風の擦れる音。そして、霧に混じって、胸を締め付けるような甘い香りが漂ってくる。
その香りの先に――一本の“線”があった。
霧の中央を貫くように、茶色の棒が浮かんでいる。
細く、それでいて異様に長い。
まるで空間そのものを縫い合わせ、幻想郷を貫く針のように、遥か霧の果てまで続いていた。
視界の奥で、ぼんやりと光を反射している。
鼻腔を擽るその甘さには、覚えがあった。紅魔館で提供された茶菓子と、同じ匂い。
「……チョコレート、なのか?」
「その通りよ、魔理沙」
思いがけない返答に、心臓が一拍跳ねた。
振り返ると、白い霧を裂いて現れた女がいた。
——八雲紫。
裂け目の奥から半身だけ現れ、まるで霧を支配する神のように佇んでいた。
その眼差しは氷のように冷たく、何の感情も宿していない。
口元は笑っているのに、何ら安らぎも親しみも抱く事が出来ない。
存在そのものが圧。空気さえ軋むように感じられる。
「魔理沙。あなた――人間を捨てるつもりね?」
その言葉が、胸の奥に針のように突き刺さった。
紫は何もかも知っている。
一夜の独り言すら、聞き逃れてはいなかった。
幻想郷の全てを見ているのだろうか。
或いは、私が監視されているのだろうか。
「……あぁ。悪いか?」
乾いた声で返す。
紫は、ゆっくりと扇を広げた。
空気が、ビリビリと震える。
見えない圧が周囲を満たし、温度が急激に下がったように寒気がする。全身が総毛立つ。
喉を掴まれたみたいに息が苦しくなり、背中を汗が伝う。
「人間が妖怪になる。それは幻想郷における大罪。それでも——」
「やるさ」
短い言葉だった。
胸に刃物を突き付けられるような重い恐怖の中、それでも迷いはなかった。
「そうしたら、私を——殺すのか?」
紫なら、それも一瞬だろう。けれど魔理沙は、自分の心を偽らなかった。
紫は少しだけ目を伏せ、そして顔を上げた。
「いいえ。その覚悟を、貴方達が示せるならば」
「……何をすればいいんだ?」
紫の扇の先が、宙を指す。
一本の、途方もない長さのチョコレート菓子。
それは霧の奥、遥か見えぬ先にまで伸びている。
「外の世界に存在するゲームよ。やる事は、愛する者同士が両端からこのお菓子を食べ切るだけ。それが出来れば、永遠に結ばれるという。但し――一度でも口を離したら、即座に終わり」
魔理沙は黙って聞いていた。
甘い香りの中に、かすかな鉄の匂いを感じた。
「貴方達にはそのゲームをやって貰う。成功すれば、私は貴方を認めましょう。けれど、もし失敗したら、その時はただの人間として生きて、死んでもらう」
声の奥にあるのは、明確な裁きの響き。
そこにいるのは、友人としての紫ではなく、幻想郷の管理者としての八雲紫だった。
凍り付くような冷徹さを前に、魔理沙はそれでも怯まない。
八雲紫が用意したゲームが、簡単なわけが無い。私に諦めさせる為に用意された罠の可能性すらある。けれど魔理沙は、蜘蛛の糸に縋る囚人のように、細い希望から手を離さない。
「……いいぜ。やってやる」
静かに、息を整えて言う。
紫の瞳が細められる。
「言っておくけれど、アリスもこのゲームに乗る保証なんてないのよ」
「関係ない」
「……信じているのね、アリスを」
「いや」
霧の中で、魔理沙の瞳がかすかに揺れた。
正直なところ、アリスが私と共に永遠を生きたいと願ってくれるか、自信は持てなかった。
少なくとも、アリスからそんな言葉を聞いた事は無い。
それとなく捨虫の願望を匂わせてみても、いつもはぐらかされていた。
それでも、それはゲームを止める理由にはなり得ない。
「信じてるわけじゃないさ。私が、アリスと生きたいんだ。例え私1人でも、全部食べ切ってやる」
紫の唇が僅かに動いた。
何かを、納得したように。
「いい覚悟ね」
そして、彼女は呟く。
まるで儀式の詠唱のように、静かに。
「――Persevere Over Chocolate, Keep Yearning.」
「……は?」
聞き慣れない響きに、魔理沙が眉をひそめる。
「このゲームの名よ。“チョコレートを乗り越え、渇望を抱き続けなさい”。頭文字を取って――P.O.C.K.Y. Gameと呼ばれているわ」
風が霧を裂き、果ての見えないチョコレート菓子が微かに輝いた。
「P.O.C.K.Y. Game、か……」
魔理沙は唇の端を上げる。
未知を前にした魔法使いは、いつだって良い顔で笑う。
「——面白い。私がクリアしてやるよ」
霧がゆっくりと揺れた。
まるで幻想郷そのものが、これから起こることを息を潜めて見守っているかのように。
魔理沙は、視線を茶色の棒へと移す。
細く、果てが見えず、霧の奥へ吸い込まれていく。その長さに、喉がひくりと動いた。
緊張ではない。
恐怖でもない。
――これは、願いのための食卓だ。
自分が選んだ道だ。
誰にも強いられていない。
誰にも奪われたくない。
魔理沙は、霧の冷気を深く吸い込み、
震える息をそっと整えた。
「始めなさい、魔理沙」
紫の言葉に魔理沙は頷く。
ゆっくりと、浮かぶチョコレート棒の先端へ顔を寄せる。
近付くにつれて、甘い匂いが強くなる。
息を吸うだけで胸が締め付けられるほど濃厚で、不思議と涙腺がじんと熱くなる。
アリスも――どこかで、この同じ匂いを嗅いでくれるのだろうか。
霧の向こうで、この棒の向こう側で、同じように決意を抱いてくれるのだろうか。
分からない。
何ひとつ保証はない。
けれど――。
——私は、行く
魔理沙は、そっと口を開いた。
歯が、チョコレート菓子の表面に触れる。
冷たい。
代わりに、指先から心臓へかけて、熱が一気に駆け上がる。
覚悟は、とっくに決まっている。
――ぱきり。
静寂を切り裂く、小さな音。
霧が、世界が、揺れる。
千里の道も一歩から。永遠の命も一口目から。
試練の幕が、静かに上がった。
◇
食べ始めてから数分が経ち、数十分が経った。
世界はずっと静まり返っている。
正確には、霧が音を吸い込んでいく。
風の気配さえ感じられない。
魔理沙の耳に届くのは、自分の噛む音と呼吸の音だけだった。
――ぱき、ぱき。
そのたびに、冷たいチョコレートが舌の上で溶け、甘さが喉へ落ちていく。
最初は美味しかった。
だが、食べても食べても、ただ前へ伸びているだけの茶色の線は、まるで自分の覚悟を試す物差しのように見えた。
指先が微かに震える。
緊張なんて、朝のうちに置いてきたはずなのに。
——食べ続けるしかない。
その事実だけが、霧の中心で凛と光っている。
霧の密度は変わらない。
魔理沙はひたすら、黙々と噛み続けた。
甘い、甘い、甘い。
舌が痺れてくる。
口の中が飽和するような甘さに溺れ、喉の奥がじんと焼ける。
食べ始めて一時間が経過する頃、胃が拒否のサインを出し始めた。
——気を抜けば吐き出しちまう。
それでも進むしかない。
口を離すことはできない。
離した瞬間、すべては終わる。
——アリス……お前は、この先にいるのか?
不安が胸に広がるたび、魔理沙はわざと噛む音を強く、乱暴にした。
チョコレートが砕ける乾いた音が、霧の中に散る。
——いや、信じるんじゃない。私は……。
噛む。
噛む。
噛む。
——私は、私の分を食べ切るんだ。私自身の望みのために。
そう言い聞かせても、孤独はゆっくりと滲み出してくる。
霧の中は広すぎて、自分の存在が薄まっていく錯覚に襲われる。
やがて、空がゆっくりと明るくなり、日が上りきったことが分かる。周りの明るさだけが、時間の経過を教えてくれた。
胃は早くも限界に近い。
唇は甘さでひりついている。
頬の筋肉は痛み、噛むたびに鉛のようなだるさが襲った。
けれど、魔理沙は食べ続けた。ただ、黙々と。
しかし、夕暮れが近付く頃、魔理沙の足がパタリと止まった。
まだまだ、果ては見えない。
霧は最初と同じ密度のまま、茶色の棒はどこまでも伸びている。
本当に終わりなどあるのかすら分からない。
——これ、やっぱり紫の罠じゃないのか?
そんな弱音が、ほんの一瞬だけ心に浮かんだ。
その瞬間。
チョコレートの甘ったるい匂いがついに限界を超え、魔理沙は喉の奥から込み上げる吐き気に顔を歪める。
「っ、……ぐ……っ」
胃がひっくり返る。
口から離れそうになる。
肩が震える。
目の奥に涙が滲む。
——ダメだ。ここで離したら……私は、一生後悔する。
魔理沙は拳を握り、涙を流しながらもチョコレートを飲み込んだ。無理矢理流し込まれた喉が痛む。
——まだだ……。まだやれる……!
そう心中で叫んだ時、太陽が沈み始め、霧が薄い橙色に染まった。
そして、夜が来た。
魔理沙は疲労の極致にいた。
腹は重く、喉は焼けるようで、視界が揺れる。
それでも口を離さず、眠ることもできず、ただひたすらに――前だけを見ていた。
永遠への、果てしない線の先を。
◇
また朝が来た。
それから夜が来て、さらにまた朝が来た。
眩しい日差しが、瞼をふやかすように眠気を増大させる。
丸二日、一睡もせずにチョコレート菓子を食べ続けている。疲労感と眠気は限界に近く、気を抜くと意識を持っていかれそうになる。
けれど魔理沙は眠れない。
眠れば、口が離れる。
離れれば終わる。
魔理沙は冷たく湿った霧の中で、ただひとり菓子を噛み続けた。
甘さはもう味と呼べない。
舌の上に広がるのは、ほとんど痛みだ。
唇には細かい裂け目が入り、口を動かす度に血が滲む。
——こんな事に本当に、意味があるのだろうか?
思考の中に、弱い声がふっと立ち上がった。
アリスの顔が浮かび、その目が曇る。
もしかしたら、私なんかが――と。
私の存在は、あの完璧な魔法使いの胸を曇らせてしまうのではないかと、暗い思考に囚われる。
——怖い。誰より好きなのに。
一緒に生きたいって叫びたい程好きなのに……。
魔理沙は痛む顎を押さえ、震える呼吸を整える。
霧のせいか、世界は白く濁っている。自分がどれほど進んだのかも、どれほど残っているのかも分からない。
そんな中、ふいに足元がふらついた。
「っ……!」
倒れたら終わる。すべてが無になる。
根性が、折れかけた膝を支える。
息を吸うのも痛い。吐くのも苦しい。
胃は膨れ、胸苦しさで汗が止まらない。
足は震え、視界が霞む。
未だ終わりは見えず、アリスの影も無い。
魔理沙の心は、いよいよ折れかけていた。
——私はどうして、頑張っているんだろう。
自分の姿を俯瞰してみたら、酷く滑稽だった。
妖怪に憧れ、踊らされ。
考えてみたら、紫が約束を守る保証も無い。
仮に守られたとして、アリスが永遠を共に生きてくれるとも限らない。
人間の私にしか興味無いと、捨てられないとは誰にも言い切れない。
それにきっと、私が妖怪になると悲しむ奴だっている。
私がアリスに抱いていたものと同じ苦しみを、数少ない友人達に背負わせる事が、正しい行いだとも思えない。
口が、チョコレート菓子から離れかける。
今すぐ倒れ込んで、何もかも忘れて深い眠りに落ちたかった。
——人間として生まれた私は、人間として死のう。もう、無理だ。
そう思った。
そう思ってしまった。
そして――その瞬間だった。
霧の奥から、微かな声がした。
「……ん……」
息を呑む。
それは幻聴ではなかった。
その声は次第に大きくなる。よく知った声だ。魔理沙を導く、いつものあの声。
魔理沙は吸い寄せられるように、足が自然と前に進む。段々と肥大していく声は、やがて霧を掻き払うような鋭い叫び声となる。
「魔理沙ぁーっ!!」
霧の端に、巫女装束の紅が揺れた。
博麗霊夢が、そこにいた。
紫から話を聞いたのだろうか。優しい眼差しで、魔理沙を見つめている。
その姿に、瞳に、魔理沙は目頭がじんと熱くなる。
「頑張りなさいよ、あんた」
柔らかい口調で、包み込むように声を掛けてくれる。
口が離せない魔理沙は、目線で思いを伝える。
——いいのかよ、手を貸して。
「応援するなとは言われてないわ」
チョコレート菓子を咥えたまま、思わず笑みが溢れる。母親を見つけた子供みたいに、安心感が込み上げて涙も溢れる。
——ありがとな、来てくれて。
「どういたしまして」
——でも、霊夢はいいのか?
「何が?」
——私が人間じゃなくなっても、さ
「そりゃ、見送られるのは寂しいけどね。あんたにはあんたの道を生きて欲しいのよ」
霊夢の言葉に、まるで羽が生えたかのように、体が軽くなる。
まるで瓦礫の山が崩れて、隠されていた扉が姿を現したみたいだ。進むべき道がハッキリとする。
折れかけた心に、脚に、力が甦る。
「それに、そう思ってるのは、私だけじゃないわ」
魔理沙は思わず目を見開いた。
ぞろぞろと足音がして、霊夢の背後から沢山の影が現れる。
紅魔館の連中、命蓮寺の住人、地底の民、天狗、河童、妖精、鬼――
幻想郷中の人妖が駆けつけていた。
「行けぇっ!」
「最後まで食べろー!」
「負けるなぁっ!」
口々に、魔理沙を鼓舞する言葉をかける。それは次第に大きくなり、重なり、霧が揺れる。
大声援に耳が痺れながら、魔理沙は力が漲っていくのを感じた。
異変解決に飛び回って出来た絆が、魔理沙を支え、奮い立たせた。
涙を拭い、力強くチョコレート菓子を噛む。
「進めぇ!」
「頑張りなさいっ!」
「食えー!」
地面を揺らす程の声量が、魔理沙の背中を強く押す。
先程までの弱い気持ちは、何処かに掻き消えていた。
決意を新たに、大地を踏み締める。
——私はもう、絶対に諦めない。
◇
「頑張れぇ!」
「魔理沙ぁっ!」
「食べ切ったら最強ね!」
人妖たちの声は、もはや潮騒のようだった。
背中を押すように届くその波に支えられながら、魔理沙は歩を進める。
昼になり、夕方になり、また夜が来ても魔理沙は歩み続けた。
足にはもう感覚は無い。芋虫が地面を這うように遅い。しかし、着実に前に進んでいる。
世界が徐々に白んでいく。
食べ始めてから三度目の夜明けの光が、霧を薄く染め始めたその時——。
白銀の世界の中、遠くで、黄金が揺れた。
最初は蜃気楼のように頼りない光だった。
けれど、一口、また一口と近づく度に、その光は確かな輪郭を帯びていく。
魔理沙の胸が震える。
——アリス!!!
叫びたくなるのを、必死に我慢した。音にならない愛しい名前は、喉の奥でほどけて涙に変わる。
すべての疲労が、溶けるように消えていく。
だが、気の緩みは命取りだった。
胃がぎゅっと痙攣し、チョコレートの甘い酸味が逆流してくる。
——ダメだ。今、離すわけには……!
魔理沙は喉の奥に力を込め、込み上げるものを飲み下した。
喉がじんじんと痛み、口の中に鉄の匂いが広がる。
それでも、また一口、魔理沙はチョコレートを咀嚼する。
食べていく程に黄金の光は濃度を増し、ぼんやりした情景は徐々に輪郭を得て、愛しい少女の形を結ぶ。
霧の向こうで、金髪が朝日に濡れたように輝き、潤んだ青い瞳がこちらを見つめていた。
目の下にはクマがくっきりと浮かび、頬は汗ばんで薄汚れている。
——酷い顔だ。私もきっと、同じ顔なのだろう。
その姿を認識した瞬間、魔理沙は胸の奥が弾けるように痛く、そして温かくなる。
お腹は重くとも、足取りは軽い。
ふたりの距離は、もはやお互いの息遣いが分かる程に近かった。
周囲の喧しい程の応援は、まるで霧に吸い込まれるように遠ざかっていく。
世界が、二人を中心としてゆっくりと静かに回りはじめる。
二人以外の存在が全て消え去ったかのように、魔理沙にもアリスにも、お互い以外は視界に入らなかった。
視線を合わせたまま、ただ黙って、一口――また一口と、確実に進んでいく。
チョコレート菓子は、まるで赤い糸のように二人を繋げ、最後の瞬間へと導いていった。
——あと、数センチ。
口が塞がっていて、声は出せない。
けれど、言葉なんてもう必要ではなかった。
風がそっと吹き抜ける。
霧が透け、朝日が世界の端から登っていく。
その光の中で――
二人が同時に、最後の欠片を噛み切った。
チョコレートがぷつんと弾けるように切れた瞬間、魔理沙とアリスの唇が、静かに触れ合った。
「んっ」
二人は、唇を重ね合わせたまま微動だにしない。目を閉じ、ただお互いの感触を静かに確かめ合う。呼吸する度にお互いの匂いを感じて、安心感に包まれる。夢見心地で、油断すると本当に眠ってしまいそうだった。
魔理沙が自分の存在を知らせるように唇を押し付けると、アリスも同じように押し返してくる。その柔らかな弾力に、もう独りきりじゃないんだと幸福感が込み上げる。自分がいて、アリスがいる。確かに繋がっている。目を瞑ったまま、完璧にアリスの姿を心に描く事ができる。
やがて、押し合う力が自然と弱まる。言葉は無くても、次にやる事を共有できた。二人は舌先をそっと伸ばし、乾き切ったお互いの唇を湿らせる。
裂創に唾液が沁みてヒリヒリすると同時に、頭の奥がピリピリと痺れる。それからジリジリと舌を伸ばし、ゆっくりと絡め合う。
柔らかい物を舌で味わうのは久しぶりに感じる。チョコレートとは違う甘さが胸を満たす。
丸三日間、ずっと口をすぼめていた為、舌を伸ばすと頬の内側が痛い。しかし、張り裂けそうなくらい脈打つ心臓の方がずっと痛い。
魔理沙はアリスの頭部に手を回し、引き寄せる。そして自分の唇でアリスの下唇を挟み込み、柔らかい感触を堪能する。強く、弱く、はむはむと繰り返す。その度にアリスの呼吸は深く、熱を帯びていく。
「それじゃあ皆さん、二人きりにしてあげましょうか」
最前列に陣取っていた射命丸文が後ろに向き直り、人妖達に向けて声をあげた。手には自慢のカメラ。翌日の一面記事が決まって、良い写真も撮れて、ホクホク顔だ。
射命丸の言葉に、人妖達も口々に同意する。人間の倫理観から外れた彼女達からしても、他人の恋路を邪魔するのは野暮であった。
「そうね。帰るわよ」
「はい。お嬢様」
「咲夜ー、私もあれやりたい!」
「こらフラン。はしたないわ」
「まぁまぁ。後でパチュリー様に頼んでみましょう」
紅魔館の女達がまず帰っていく。
「な、なぁ慧音。今夜さ……」
「あぁ、分かっている。分かっているが……」
「何……?」
「……今夜はその、満月だ。自分を制御できないかもしれない」
「死ぬ程愛されちゃうって事?」
「いっそ私が殺してあげようか!?」
「輝夜、お前が死ね」
竹林の人間と半人も帰っていく。
「さぁ皆、行きましょう」
「そうだね、命蓮寺に帰ろう」
「違いますよ、ナズーリン」
「えっ?」
「……応援中に宝塔を落としました」
「ご主人……」
命蓮寺の妖怪達は来た道を辿っていく。
そうして各々が三々五々に解散し、残されたのは魔理沙とアリス、そして霊夢だけとなった。
——魔理沙。
霊夢は熱のこもった眼差しで親友を見つめる。目の縁に、じんわりと涙が滲む。
魔理沙は、妖怪になる。
同じ時間を生きて死ぬ事はもう、叶わない。
ずっと手を引いてきたけれど、魔理沙は立ち止まる事を選択した。自分は先に進まなくてはならない。手を離して、置いていく時がやって来た。
いつかこうなる予感はあったけど、いざ来てしまうと、感情の置き場が分からなくなる。
魔理沙がどうなっても、親友には変わりはない。それが魔理沙の幸せなら、祝福もするし、後押しもする。けれど、同時にどうしようもない寂しさや、激しい憤りも湧き上がる。
投げかけた応援の言葉は本心であったが、強がりでもあった。
どんな顔をすれば良いのか分からず、消去法で不器用な笑顔を浮かべる。どうせ魔理沙もアリスも目を開けていないが、悲しい顔や泣き顔をするのは違う気がした。
なんとか涙が溢れるのだけは堪える霊夢が見つめる先で、魔理沙の舌がゆっくりとアリスの口内に侵入した。
「んんっ……!」
アリスの吐息が熱を帯びて漏れる。魔理沙の舌が機嫌を窺うように舌先にちょこんと触れると、アリスの身体がびくんと小さく跳ねた。
その反応を感じて、魔理沙の舌は水を得た魚みたいに奔放に、アリスの口内を動き回る。アリスの体温を舌で感じて、軽い熱中症みたいに頭がぼんやりする。思考を支配されたみたいにアリスの事しか考えられなくなり、欲望のまま貪る。
そうして暫く魔理沙がアリスを味わったところで、徐にアリスが魔理沙の背中に手を回した。そうして強く抱き寄せ、舌を絡め取る。仕返しとばかりに口内に這入り、飴玉を転がすように魔理沙の味を堪能する。
そのまま、唇の裏、歯の裏、上顎など口内を余す事なく蹂躙していく。どうやら魔理沙は上顎がお気に入りのようで、重点的に舌を這わせると、ビクビクと身体が跳ねた。
アリスからの逆襲に、魔理沙は酒に酔ったみたいに足の力が抜けていく。アリスはそんな魔理沙を手で支える。そして優しく舌を吸い上げると、魔理沙は「んあっ」と甘い声を漏らした。
アリスは口を離して魔理沙の蕩ける表情を見たい衝動に駆られるが、堪えて魔理沙を味わう。一瞬たりとも、魔理沙から唇を離したく無かった。
魔理沙はあまりにも甘く、アリスはこの果実を誰にも渡したくないと強く願った。柔らかい舌も、触れ合う身体も、溢れる吐息も、全てが愛おしかった。チョコレート菓子よりもずっと、飽きが来ない。頭のてっぺんからつま先まで、愛がたっぷりだ。
——私が全部、食べ尽くしてあげるんだから。
魔理沙の吐息はどんどん荒く、激しくなっていく。
そうして、二人の舌は蛇が交尾するかのように絡み合う。
漏れる吐息と水音、たまに唾を飲み込む音が響く中、霊夢は静かに二人を見据えていた。
愛を確かめ合う様子を目の当たりにして、少しだけ自分の気持ちに整理をつける事ができた。
魔理沙とアリスの気持ちは本物だ。それならばと、自分に言い聞かせる。
心中でそっと、二人に語りかける。
——魔理沙。そしてアリス……。
「はぁっ……」
——きっと貴方達には、これからも困難がある。
「アリ……スぅ……ふあぁっ」
——それでも、私は信じる。
「あぁっ……」
——貴方達なら、乗り越えられると。
「んんっ……!」
霊夢が優しく見つめる先で、二匹の蛇がまた交わり合った。
◇
数日後。
「でな、結局食べ切ったんだよ。もうチョコは見たくねぇ」
守矢神社の縁側で、早苗は魔理沙の話を聞いていた。外せない用事で魔理沙達の応援に行けなかった早苗は、せめて話だけでも聞こうと興味津々だ。
魔理沙は笑い、アリスはその隣で紅茶を啜る。
「なるほど……私の知ってるポッキーゲームとちょっと違いますねぇ」
「そうなのか?それにしても、最初から最後までチョコたっぷりでさぁ」
魔理沙の一言に、早苗はやや引っかかるものを感じる。
なんか、何処かで聞いた事あるような台詞……。
「ま、というわけで土産にやるよ。紫に余ったやつ貰ったけど、もう見たくもない」
そう言って手渡された箱に、早苗は目をやった。
外の世界で見た、懐かしいお菓子の箱。
――白いパッケージに、黒い文字が踊る。
『TOPPO』
(食べることを)応援したくなるポッキーゲームは多分初めて見ました。
見事やり遂げた魔理沙とアリスの拍手を送りたいです