たぶん私は、ヒトのことが心の底からどうでもいいのだと思う。
ソラを泳いでいるだけで満たされている。適当に笑っているだけでヒトと最低限の話は通じた。ヒトと話す時に使うのはもっぱら皮膚の感覚で、頭のリソースを割いていない。考えずに喋っているのかと指摘されれば、確かにその通りだ。ヒトとの関わりは風を読むことに似ている。
楽しければそれで良いじゃないの。そういう良い意味で、良い意味で? ヒトのことが心の底からどうでもいい。
深く考えるほどの価値を見出せないのではなくて、もし仮に深く考えようものなら、恐らく私は人付き合いをやめてしまう。
だって私の頭の構造が、おサカナさんなんですもの。だったらもうしょうがないわよね、諦めましょう。
泳ぐように息をして、息をするように虚言を吐く。
◇
上空50キロメートルから85キロメートル、星霜圏よりもう一つ上の宙環層に、龍の墓場がある。
己で死期を悟った龍は、彼らが普段棲み処とするオゾン層の中から宙環層の高度にまで上がって来る。そうして死んだ龍は地上に落ちるわけでなく、宙環圏と熱圏層と熱圏の境界、宙環圏界面にまで浮上する。
上空の空気の層が分かれているのは主に大気中の成分の質による。重力の影響により水素やヘリウムなど軽い気体ほど上に、酸素や窒素の重い気体は下に偏る。また、太陽光の影響の内でも特に紫外線やX線の影響を受けやすい上空では、地上では見られないイオン化などの化学反応が頻繁に起こる。結果として高度ごとに温度には差が生まれ、それらが層の形で自然と分かたれることになる。
大気の温度は基本的に上の方ほど冷たくなるのだが、各層ごとの特徴がその限りでない。例えばオゾン層を含む成層圏ではオゾンが熱を吸収するため、やや高温となる。熱を吸収する分子の薄い中間層は極寒の世界であり、その上の熱圏は太陽の強烈な放射線を直に浴びるため、名前の通り非常に熱い。
人間たちの飛行機が飛ぶのは高度10キロメートルから上あたり、宇宙ステーションが周回するのは熱圏だ。また、いわゆるカラマン線が高度100キロメートル、このラインからが宇宙空間とされる。
一方、天人たちの天界、天界の宮殿はオゾン層の下あたりの高度20キロメートルの星霜圏に位置する。広義には星霜圏から宙環層までを天界と言うが、主だった施設はやはり星霜圏にあった。宙環層は主に、天界の原棲生物たちの棲み処である。
さて、それで龍の墓場の話だ。
筋肉質な龍であっても、脂肪組織は多く含まれている。分解過程でメタンガスや硫化水素が発生し、といった基本は他の大多数の生き物と大差が無い。大きく異なっているのは、その時間のスケールだ。例えば全長1キロほどの小型の龍であっても、一頭の龍が死んで、死骸が完全に分解されるまでは、人の世で王が何度代替わりするか計り知れたものじゃない。
よりずっと巨大な龍の骨格が白く褪せているなら、彼、あるいは彼女は、どれほど太古の時代に息絶えたのだろうか。
宙環層と熱圏の境界、つまり天界の最上部に当たる高度には、東西に途方もなく巨大なアーチが架かっている。
天人の中でも若い者らは、あれを天の梁だと言ってのける。かの梁は天界の天井を支えているのだ、とも。
全然、違う。あのアーチ構造、巨大な龍の背骨は、流木が堰き止められてられるようにして、あの界面で引っ掛かっているだけだ。
とは言え、その巨大さはまるで、かつての龍の王のような威容だ。ソラの原棲生物たちもそれなりに敬意を払っていることだろう。
龍の死骸に含まれる脂肪組織は分解過程でメタンガスや硫化水素を発生させる、という話は既にした。
場所によってはマイナス100度の、地球上で最も寒い環境。生き物や資源の少ない宙環圏にあって、巨大な有機物の塊は貴重だ。浮き上げられた龍の死骸の周辺には、独自の生態系が形成される。
これが世に言う、竜骨生物群集である。
ちょうど空の一画に死亡から三百年から五百年ほどが経過した小型龍がいるので観察してみよう。
ご馳走として見た時、宙環圏頂に堰き止められた龍の死骸は、まず移動性のスカイフィッシュ類の捕食者によってナイフを通され、肉と脂肪の柔らかい部位から食事に饗される。この段階のペースは全体を通して見ると非常に早い。
そうして龍の骨格が残される。が、完食と言うにはまだ食べ残しがあるだろう。地上と同様に死骸の分解を始めるのは、地上と同様の細菌たちだ。
これらの段階を経るのに三百年から五百年の時間が掛かる。いよいよ次に始まるのが骨の分解で、骨の髄までしゃぶるを地で行く生物たちが集まってくる。いかにも竜骨生物群集らしい特徴を持った珍しい生物たちだ。
竜骨生物群集を一躍世に知らしめたのはタツクイハナムシ、別名をドラゴンゾンビワーム。極めて原始的な原棲生物で、ムシとは言うが多毛類の一種──要するにゴカイの仲間だ。通常の生物の感覚で言う所の口や消化器官が無く、骨に穴を空けて棲み付くと、共生するバクテリアの力を借りて骨の中の脂質やコラーゲンを分解する。骨を直接齧る、と言うよりはバクテリアによる分解の過程で発生する有機物を栄養源にしている、といった具合だ。呼吸器官は空中に出てゆらゆら揺れており、この姿がまるで花が骨に根を張ったように見える。
骨格の一帯がピンク色の花畑と化している。遠目に見れば、宙環層を彩る花のようか。実態を知っていれば、摘んでみよう、などとは思うまいがね。
本来は天界全域に棲んでいるはずの生き物ではあるものの、これほど密集した花畑が見られるのは竜骨の花壇に限られる。
他にも多くの生物が確認され、共通する特徴として、化学合成菌を基盤とした生態を持つ。
宙環圏は空気の密度が薄く、気温が低く、その結果、生物が少なく、有機的な資源に乏しい。星霜圏付近にはまだしもスカイフィッシュが泳ぐが、頂部付近ともなると、有機物を捕食する機会は極めて貴重なものになる。
死した龍は骨の髄まで資源となった後だが、天界で最も巨大な龍の骨格は未だに形を残しているし、向こう数万年の間は崩壊することもないだろう。他の若い龍が死んで、いよいよ骨まで崩れ去る様を幾度も見届けているのだ。
ここは天界の上限、浮上の終着地。ここに浮上するのは龍の死骸ばかりでなく、スカイフィッシュなどの他の小さなソラの生き物たちも同様だ。彼らは龍ほどの大きさが無いから、ここまで来る頃にはすっかり分解されて細かな粒子となっている。その様子は逆さまに降る雪に喩えられ、昔の天人が好む詩の題材の一つだった。
搾りかすのような、しかし豊かな栄養素を、デトリタスと言う。ごく稀に浮かぶ龍の死骸はデトリタスの特大ケースだとも言えて、この巨大な恩恵は、竜骨生物群集という独特なコロニーを極限環境に作り上げる。
ところでスカイフィッシュとは俗的な総称で、リュウグウノツカイ属のサカナはここに含む。この種は主に宙環層頂部付近に生息し、地上はおろか星霜圏でもほぼ見られることが無い。紅い羽衣のような美しいヒレを持つのが特徴である。
◇
「まるで星のようね。前に、あれが欲しいとねだったことがあったかしら」
その当時より少し背が伸びた青い髪の女の子が、ちょっと試してみるくらいの何気なさで、星を掴もうとするように手を伸ばした。
夜空に見える白い光たちは、まるで煌く星々のようだ。──当然、違う。
天界では地上と同じ星空を見ることができない。スカイフィッシュの仲間には体内に蓄光器官や発光バクテリアを持つ種が多く、周囲が暗闇だとあのようにして光る。
アーチから見下ろすばかりだったけれど、星霜圏から見上げると、ああ見えるのか。宙環圏では生物の密度が低いとは言うものの、一望すれば意外と多いですね。
「気に入ったものがあれば、取って来ましょう」
「貴方はいつも調子の良いことばかりね」
その声には、笑い飛ばすような響きがあった。何をばかな冗談を、と言うよりは、ちぐはぐな答えをした相手への呆れ。
「じゃあ取って来て貰おうかしらと言っても良いのだけれど、もう要らないのよね」
と、会話に興じている。
面白いことに、この不遜なお嬢様は、ヒトとサカナで通じ合えると思っているらしい。宙環圏の生き物の奇妙さは先に述べた通りだ。
私は何か気の利いた適当を言ったと思う。いつも、そうだ。適当しか言ったことが無い。言うこと為すこと全部、なんとなくのフィーリングでやっている。
良い意味で、ヒトのことが心の底からどうでもいい。
深く考えるほどの価値を見出せないのではなくて、もし仮に深く考えようものなら、恐らく私は人付き合いをやめてしまう。
泳ぐように息をして、息をするように虚言を吐く。
もちろん、サカナは泳ぐことを嫌わない。
「要らないわ」
お嬢様はもう一度繰り返して、こうも続けた。
「星なら、もう落とした。そうでしょ? 衣玖」
ソラを泳いでいるだけで満たされている。適当に笑っているだけでヒトと最低限の話は通じた。ヒトと話す時に使うのはもっぱら皮膚の感覚で、頭のリソースを割いていない。考えずに喋っているのかと指摘されれば、確かにその通りだ。ヒトとの関わりは風を読むことに似ている。
楽しければそれで良いじゃないの。そういう良い意味で、良い意味で? ヒトのことが心の底からどうでもいい。
深く考えるほどの価値を見出せないのではなくて、もし仮に深く考えようものなら、恐らく私は人付き合いをやめてしまう。
だって私の頭の構造が、おサカナさんなんですもの。だったらもうしょうがないわよね、諦めましょう。
泳ぐように息をして、息をするように虚言を吐く。
◇
上空50キロメートルから85キロメートル、星霜圏よりもう一つ上の宙環層に、龍の墓場がある。
己で死期を悟った龍は、彼らが普段棲み処とするオゾン層の中から宙環層の高度にまで上がって来る。そうして死んだ龍は地上に落ちるわけでなく、宙環圏と熱圏層と熱圏の境界、宙環圏界面にまで浮上する。
上空の空気の層が分かれているのは主に大気中の成分の質による。重力の影響により水素やヘリウムなど軽い気体ほど上に、酸素や窒素の重い気体は下に偏る。また、太陽光の影響の内でも特に紫外線やX線の影響を受けやすい上空では、地上では見られないイオン化などの化学反応が頻繁に起こる。結果として高度ごとに温度には差が生まれ、それらが層の形で自然と分かたれることになる。
大気の温度は基本的に上の方ほど冷たくなるのだが、各層ごとの特徴がその限りでない。例えばオゾン層を含む成層圏ではオゾンが熱を吸収するため、やや高温となる。熱を吸収する分子の薄い中間層は極寒の世界であり、その上の熱圏は太陽の強烈な放射線を直に浴びるため、名前の通り非常に熱い。
人間たちの飛行機が飛ぶのは高度10キロメートルから上あたり、宇宙ステーションが周回するのは熱圏だ。また、いわゆるカラマン線が高度100キロメートル、このラインからが宇宙空間とされる。
一方、天人たちの天界、天界の宮殿はオゾン層の下あたりの高度20キロメートルの星霜圏に位置する。広義には星霜圏から宙環層までを天界と言うが、主だった施設はやはり星霜圏にあった。宙環層は主に、天界の原棲生物たちの棲み処である。
さて、それで龍の墓場の話だ。
筋肉質な龍であっても、脂肪組織は多く含まれている。分解過程でメタンガスや硫化水素が発生し、といった基本は他の大多数の生き物と大差が無い。大きく異なっているのは、その時間のスケールだ。例えば全長1キロほどの小型の龍であっても、一頭の龍が死んで、死骸が完全に分解されるまでは、人の世で王が何度代替わりするか計り知れたものじゃない。
よりずっと巨大な龍の骨格が白く褪せているなら、彼、あるいは彼女は、どれほど太古の時代に息絶えたのだろうか。
宙環層と熱圏の境界、つまり天界の最上部に当たる高度には、東西に途方もなく巨大なアーチが架かっている。
天人の中でも若い者らは、あれを天の梁だと言ってのける。かの梁は天界の天井を支えているのだ、とも。
全然、違う。あのアーチ構造、巨大な龍の背骨は、流木が堰き止められてられるようにして、あの界面で引っ掛かっているだけだ。
とは言え、その巨大さはまるで、かつての龍の王のような威容だ。ソラの原棲生物たちもそれなりに敬意を払っていることだろう。
龍の死骸に含まれる脂肪組織は分解過程でメタンガスや硫化水素を発生させる、という話は既にした。
場所によってはマイナス100度の、地球上で最も寒い環境。生き物や資源の少ない宙環圏にあって、巨大な有機物の塊は貴重だ。浮き上げられた龍の死骸の周辺には、独自の生態系が形成される。
これが世に言う、竜骨生物群集である。
ちょうど空の一画に死亡から三百年から五百年ほどが経過した小型龍がいるので観察してみよう。
ご馳走として見た時、宙環圏頂に堰き止められた龍の死骸は、まず移動性のスカイフィッシュ類の捕食者によってナイフを通され、肉と脂肪の柔らかい部位から食事に饗される。この段階のペースは全体を通して見ると非常に早い。
そうして龍の骨格が残される。が、完食と言うにはまだ食べ残しがあるだろう。地上と同様に死骸の分解を始めるのは、地上と同様の細菌たちだ。
これらの段階を経るのに三百年から五百年の時間が掛かる。いよいよ次に始まるのが骨の分解で、骨の髄までしゃぶるを地で行く生物たちが集まってくる。いかにも竜骨生物群集らしい特徴を持った珍しい生物たちだ。
竜骨生物群集を一躍世に知らしめたのはタツクイハナムシ、別名をドラゴンゾンビワーム。極めて原始的な原棲生物で、ムシとは言うが多毛類の一種──要するにゴカイの仲間だ。通常の生物の感覚で言う所の口や消化器官が無く、骨に穴を空けて棲み付くと、共生するバクテリアの力を借りて骨の中の脂質やコラーゲンを分解する。骨を直接齧る、と言うよりはバクテリアによる分解の過程で発生する有機物を栄養源にしている、といった具合だ。呼吸器官は空中に出てゆらゆら揺れており、この姿がまるで花が骨に根を張ったように見える。
骨格の一帯がピンク色の花畑と化している。遠目に見れば、宙環層を彩る花のようか。実態を知っていれば、摘んでみよう、などとは思うまいがね。
本来は天界全域に棲んでいるはずの生き物ではあるものの、これほど密集した花畑が見られるのは竜骨の花壇に限られる。
他にも多くの生物が確認され、共通する特徴として、化学合成菌を基盤とした生態を持つ。
宙環圏は空気の密度が薄く、気温が低く、その結果、生物が少なく、有機的な資源に乏しい。星霜圏付近にはまだしもスカイフィッシュが泳ぐが、頂部付近ともなると、有機物を捕食する機会は極めて貴重なものになる。
死した龍は骨の髄まで資源となった後だが、天界で最も巨大な龍の骨格は未だに形を残しているし、向こう数万年の間は崩壊することもないだろう。他の若い龍が死んで、いよいよ骨まで崩れ去る様を幾度も見届けているのだ。
ここは天界の上限、浮上の終着地。ここに浮上するのは龍の死骸ばかりでなく、スカイフィッシュなどの他の小さなソラの生き物たちも同様だ。彼らは龍ほどの大きさが無いから、ここまで来る頃にはすっかり分解されて細かな粒子となっている。その様子は逆さまに降る雪に喩えられ、昔の天人が好む詩の題材の一つだった。
搾りかすのような、しかし豊かな栄養素を、デトリタスと言う。ごく稀に浮かぶ龍の死骸はデトリタスの特大ケースだとも言えて、この巨大な恩恵は、竜骨生物群集という独特なコロニーを極限環境に作り上げる。
ところでスカイフィッシュとは俗的な総称で、リュウグウノツカイ属のサカナはここに含む。この種は主に宙環層頂部付近に生息し、地上はおろか星霜圏でもほぼ見られることが無い。紅い羽衣のような美しいヒレを持つのが特徴である。
◇
「まるで星のようね。前に、あれが欲しいとねだったことがあったかしら」
その当時より少し背が伸びた青い髪の女の子が、ちょっと試してみるくらいの何気なさで、星を掴もうとするように手を伸ばした。
夜空に見える白い光たちは、まるで煌く星々のようだ。──当然、違う。
天界では地上と同じ星空を見ることができない。スカイフィッシュの仲間には体内に蓄光器官や発光バクテリアを持つ種が多く、周囲が暗闇だとあのようにして光る。
アーチから見下ろすばかりだったけれど、星霜圏から見上げると、ああ見えるのか。宙環圏では生物の密度が低いとは言うものの、一望すれば意外と多いですね。
「気に入ったものがあれば、取って来ましょう」
「貴方はいつも調子の良いことばかりね」
その声には、笑い飛ばすような響きがあった。何をばかな冗談を、と言うよりは、ちぐはぐな答えをした相手への呆れ。
「じゃあ取って来て貰おうかしらと言っても良いのだけれど、もう要らないのよね」
と、会話に興じている。
面白いことに、この不遜なお嬢様は、ヒトとサカナで通じ合えると思っているらしい。宙環圏の生き物の奇妙さは先に述べた通りだ。
私は何か気の利いた適当を言ったと思う。いつも、そうだ。適当しか言ったことが無い。言うこと為すこと全部、なんとなくのフィーリングでやっている。
良い意味で、ヒトのことが心の底からどうでもいい。
深く考えるほどの価値を見出せないのではなくて、もし仮に深く考えようものなら、恐らく私は人付き合いをやめてしまう。
泳ぐように息をして、息をするように虚言を吐く。
もちろん、サカナは泳ぐことを嫌わない。
「要らないわ」
お嬢様はもう一度繰り返して、こうも続けた。
「星なら、もう落とした。そうでしょ? 衣玖」
>ご馳走として見た時
こんなに愉快でセンスな文頭、滅多に見れません最高でした!
空に上昇することが、ふたりの認識では「落ちる」ことなのでしょう、龍はオゾン層から宙環圏へ、天子は地上から天界へ、スカイフィッシュが分解者だとすれば……あれ……? 本当に衣玖は「フィーリングでやっている」のでしょうか……?
ファンタジーの生物が死した後に生態系を形成する悠久の姿が素晴らしかったです
竜骨生物群集というセンスと、その使い方か秀逸。