Coolier - 新生・東方創想話

タイム・マシン

2025/11/11 02:47:20
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―紅魔館の図書館。

永遠のような静寂が支配していた。
頁をめくるかすかな音だけが、広大な空間に微かに響く。

「パチェ~!」
突如として静寂が破られた。
声の主は、館の主にして吸血鬼、
青みがかった銀髪の幼い少女―レミリア・スカーレットだった。

「退屈で仕方ないのよ。弾幕ごっこでもやりましょう?」
軽やかな声音に、返事はない。
艶のある紫の髪に、ネグリジェのようなローブを着込んだ少女―
パチュリー・ノーレッジは、指先を止めることなく、頁の向こうに意識を沈めていた。

「ちょっと、親友の私を無視する気?」
小さく膨れたような声。
レミリアは後ろに回り込み、肩越しに覗き込む。

「何を読んでるの?」

「…H・G・ウェルズ。『タイム・マシン』」
ようやく返事をするも、視線はなお紙面に落とされたままだ。

「へぇ、貴方もそういう小説を読むのね。
てっきり魔導書とか、もっとアカデミックな本ばかり読んでるのかと思ってたわ」

「…心外ね。名著であれば、ジャンルは問わないわ」
そう言って、ようやくパチュリーは振り返った。

「また今度、おすすめを教えてよ。えっと…」
レミリアが頁を覗き込み、指先で一節をなぞる。
そして、声に出して読んだ。

「『時間と、空間の三つの次元との間には、なんら違いはない。
唯一の差は、われわれの意識が時間に沿って動いているというだけだ』
…これって、どういう意味?」
パチュリーも、自然とその文を目で追った。
次の瞬間―世界が、軋むように歪んだ。

視界が揺れ、音が遠のく。
空気がねじれ、心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いた。

そして、目眩、頭痛、吐き気が同時にパチュリーを襲った。

「……っ!」
額を押さえ、浅く息を吐く。
こめかみが痛い。呼吸が重い。だが、どうにか意識を保った。

本の読みすぎか―そう思った。
けれど、顔を上げた時には、もうレミリアの姿はなかった。

「…レミィ?」
呼びかけても、返事はない。見渡す限り、いつもの図書館。
変わらぬ本の匂い。変わらぬ静寂。
―なのに、何かが確かに、違っていた。

  ◆

不意に、扉が荒々しく開かれた。
静寂が、刃物で裂かれたように弾ける。

「パチュリー様、大変です!侵入者です!」
白いシャツに黒いベストを着込んだ赤髪の少女―小悪魔だった。
顔は青ざめ、羽は緊張でわずかに震えていた。

「…図書館では静かにしなさい。どうせまた魔理沙でしょ」
やれやれ、またか―そう呟いてページを閉じる。

「まりさ…?えっと、侵入者は博麗の巫女と白黒の魔法使いです。
すでに正門は突破され、メイド妖精が迎撃していますが…まるで歯が立ちません!」
小悪魔がわずかに震える声で報告する。

パチュリーは眉をわずかにひそめた。
あの二人が正面から?
いくら非常識でガサツで無鉄砲なあの二人といえど、
そんな手荒な真似をするとは思え―――いや、あり得るか…。
しかし、まるで紅霧異変のあの日をなぞるようではないか。

「巫女は館内へ直進、魔法使いは図書館へ向かっているとのことです。
私が迎え撃って、少しでも時間を稼ぎます。パチュリー様はその間に、戦いの準備を!」
小悪魔が悲壮な表情でそう告げると、慌ただしく去っていった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
だが、その静けさはもう先ほどまでのものとは異質に感じた。

パチュリーは手元の遠見の水晶球に魔力を込めた。
淡い光が広がり、遠く紅魔館の外景を映し出す。
そこには、紅い霧が立ちこめていた。

「…これは」
息を呑む。間違いない、あの日のままだ。
紅霧異変の最中、その瞬間の世界。

「時間が戻っている…?いえ、これは夢…?
それとも、今まで見ていた未来のほうが夢だったのかしら」
周囲を見回す。目を凝らしてみる。しかし、視界に入る世界は明晰だった。
夢にしては、あまりにもリアリティがあった。

ならば、これは現実。
何故こうなったのか、それは今この瞬間では重要ではない。
もし本当に時間が巻き戻っているのなら、まもなく、魔理沙が現れる。

どうするべきか。
あまり時間はない。一体どう行動するのが最善手なのか。

「…いっそ、歴史を書き換えてみようかしら」
一瞬、暗い考えが頭をよぎった。
紅霧異変は、スペルカードルール成立後、初の大規模異変だった。
つまり、当時は霊夢も魔理沙も含め、誰もが同ルール下における弾幕ごっこの『初心者』だった。
だが今の私は違う。
あれから幾多の戦いを重ね、知識を積み上げ、新たに編み出した多くの魔法もある。
霊夢や魔理沙とも何度も戦い、その動きや弾幕の特徴や癖といったものも熟知している。
今なら、あの二人に容易に勝てる自信がある。

紅魔館が博麗の巫女を討ち、幻想郷にその名を轟かせる。
私は興味がないが、レミリアはきっと喜ぶだろう。
親友の覇道を参謀として影から支え、この頭脳を如何なく発揮するのも悪くないと思えた。

…が、すぐに首を振った。

「いや…私は一体、何を考えてるのよ…」
思わずそう呟いた。
妖怪が異変を起こし、人間に恐れを抱かせ、そして巫女に討たれる。
その循環こそが、この世界の均衡を保っている。
もしそれを崩せば、巡り巡って妖怪の側にまで悪影響が及ぶ。

「私たちは、『敗北』しなければならない…」
それこそが幻想郷にとって必要なのだ。
その言葉は、静かな決意のように空気へと沈んだ。

―次の瞬間、轟音。
扉が破砕され、爆風が本棚を揺らす。

白黒の影が、光の尾を引いて飛び込んできた。
魔理沙だ。

「わあ、本が一杯だ。後で、さっくり貰っていこ」

いつもと同じ口調、同じ軽さ。
だがその姿が、今はなぜか異様に遠く感じた。

来た―。

かすかな緊張…息を吸い、呼吸を整える。
歴史を変えないために、上手く『敗北』しなければならない。
静かに宙を浮き、魔理沙の行く手を阻んだ。

私の、一世一代の演技が始まった。

  ◆

魔理沙との会話内容がどんなだったか、記憶の底を掘り返す。
可能な限り、以前と同じ状況を再現するために。
…確か、こんな台詞だったはずだ。

「コホン……えっと、『も、持ってかないでー』」
…完全な棒読みだった。我ながら、酷い演技だった。
それでも、魔理沙は私の登場そのものに気を取られたのか、
幸いなことに口調の不自然さには気づいていないようだった。

「持ってくぜ」
魔理沙がにやりと笑う。
私は次の台詞を思い出そうと、必死に脳裏を探った。

「え、えぇっと……『目の前の黒いのを消極的にやっつけるには……』」
…駄目だ。今度はしどろもどろになってしまった。目も泳いでいる。
わざとらしく、本を開いて頁をパラパラとめくる。
だが、魔理沙の表情が訝しげに歪む。
彼女の目に映る私は「関わってはいけない不審者」に見えているのだろう。

…まずい。

私はすぐに思考を切り替えた。
大事なのは「自然に負けること」。
細部の再現に囚われるより、流れを崩さないことが肝心だ。
台詞の一字一句にこだわれば、かえって破綻する。

ここからは、即興で…自然な会話を心がける。

「コホン…この霧を止めに来たんでしょう?けど、お嬢様には会わせない。
先に進みたければ、この私を倒していきなさい。
…まあ、貴方のような未熟な魔法使いには、無理だろうけど」
普段の口調に戻す。
長く話せば綻びが出る。挑発して煽り、戦いへと移行し、さっさと会話を終わらせたかった。

「へっ、上等だ!未熟かどうか、その身で確かめさせてやるぜ!」
魔理沙が叫ぶ。ミニ八卦炉が唸りを上げ、魔力が空気を震わせた。
私は魔導書の頁を捲り、詠唱を紡ぐ。
魔法陣が幾重にも展開し、光弾が淡く浮かび上がる。

―弾幕ごっこが、始まった。

  ◆

「土金符『エメラルドメガリス』!」
詠唱が完成した瞬間、空間が震えた。
緑柱石が次々と中空に生成され、放たれる。そこから派生するように
無数の翠色の結晶が弾幕の雨となり、唸りを上げながら、魔理沙を襲う。
冷たい緑の輝きが、図書館を照らした。

魔理沙はそれを紙一重でかわしていく。
黒い影が緑の奔流を縫うたび、残光が尾を引いた。

―確か、これが私の最後のスペルカードだったはず。

ここまでは順調。
予想どおり、魔理沙の動きはまだ慣れていないせいか荒削りで、直線的だった。
弾幕の軌道も単調だ。

避けすぎず、当たりすぎず。
攻撃の軌跡を計算し、『互角の戦い』を演出していく。
あまり手を抜きすぎても不自然なので、時には魔理沙の動きを先読みし、
移動方向への偏差撃ちで何度か被弾もさせた。

「恋符『マスタースパーク』!」
魔理沙が叫ぶ。
ミニ八卦炉が閃光を放ち、凝縮された魔力の奔流が放射された。
白い光が空気を裂き、音すら追いつけぬ速さで一直線に突き抜けてくる。

―今だ!

私は何重もの魔法障壁を展開し、光を迎え撃った。
だが、それでも完全には防げない。
私は“避けきれずに”被弾してみせた。

障壁を貫いた衝撃波が、私の身体を後方へと吹き飛ばした。
背後の本棚に激突し、無数の本が舞い上がる。

「くっ……!!」
そのまま墜落した。本の山に沈み込み、私は膝を折る。
障壁で威力を相殺したとはいえ、衝撃の余韻が全身に残る。
―この時代であっても、魔理沙の高火力は健在だった。

目の前に降り立った魔理沙が、勝ち誇った笑みを浮かべていた。

「魔法が得意のようだな。まだ何か隠してるんじゃないのか?」
自身の勝利故か、魔理沙が得意げな表情で聞いてくる。

「…貧血で、スペルが唱えきれないの」
それは演技ではなかった。
何しろ、本当に貧血で辛かったからだ。

―これでいい。
この敗北が、歴史を繋ぐ。
ともかく、私は役割を演じきった。

  ◆

魔理沙は図書館の奥へと飛び去っていった。
残された空間には、焦げた匂いと、魔力の残滓だけが漂っていた。

「…やれやれ。わざと負けるのも、一苦労ね」
ふぅ、と息を吐き、私はゆっくりと立ち上がり、ローブについた埃を払う。
演技とはいえ、実際に受けた痛みと衝撃は、体の芯に確かに残っている。
自分で言うのも何だが、私の身体は並の人間以下の脆弱さだ。
肉体的なダメージはたとえ僅かであっても堪えた。

―だが、これでいい。
この後、魔理沙は咲夜と戦っている霊夢と合流する。
彼女が咲夜を足止めし、霊夢が最奥部へ進む。
そしてレミリアとの決戦に挑む―。
すべては、あの日と同じ道筋。
この世界は、再び“正しい過去”をなぞるはずだ。

私はふらつきながらゆっくりと飛び、自室の書斎へ戻った。
椅子に腰を沈め、一息ついた。

壁を叩く音。控えめなノックが二度。
扉は粉砕されたので、代わりに壁を叩いたのだろう。
私は顔を上げる。

「どうぞ」
ぼろぼろの小悪魔が姿を見せた。服は裂け、髪は煤で汚れていた。
それでも律儀に頭を下げる姿に、思わず微笑がこぼれる。

「…随分手酷くやられたようね。ご苦労さま」

「パチュリー様…お役に立てず、すみません…」
小悪魔がしゅんと肩を落とす。
まるで叱られる子供のようだった。

「構わないわ。私ですら敗れたんだから。
貴方が無事だっただけで、十分よ」
その言葉に、小悪魔は小さく目を瞬かせた。
安堵と罪悪感が入り混じった表情だった。

小悪魔とは、使い魔として主従契約を結んでいる。
その代償として、私は魔力を小悪魔に供給している。
この魔力の共有を通じて、小悪魔の心の中の揺らぎはなんとなく感じられた。

「ありがとうございます…。
でも、レミリア様は…大丈夫でしょうか?」

「ま、なるようにしかならないわ。レミィを信じて待ちましょう」
私にとってはもはや見えている結末だからか、どこか他人事のように言い放っていた。

一瞬、小悪魔に全てを話してしまおうか、と考えた。
彼女はその契約ゆえに、私の命令には絶対に逆らえない。
秘密を漏らす心配も、裏切りもない。
そう、秘密を分かち合う相手としては、これ以上の適任はいないだろう。

…いや、今はやめておこう。
あまりの出来事に、自分自身、整理が追いついていない。
今は一人で集中したかった。

「それより―」
少しだけ柔らかい声で言った。
「疲れてるところ悪いけど、あの白黒のネズミが荒らした図書館を片付けておいてくれる?」

「は、はい!承知しました!」
小悪魔はぱっと顔を上げ、翼を広げて飛び去った。
その赤い影が視界から消えると、再び部屋には静寂が戻る。

カチ、カチ、と時計の音が響く。
私は椅子にもたれ、瞼を閉じた。

―さて。
何故時間が戻ったのか、原因を突き止めなければならない。

  ◆

机の上に置かれた一冊の本へ、自然と視線が落ちる。
H・G・ウェルズ著『タイム・マシン』―時戻りの、始まり。
あの瞬間から、すべての因果は動き始めたのだ。

改めて振り返ってみる。本の頁を開いていた時、世界が歪んだ。
時間が巻き戻り、紅霧異変の只中へと私は放り込まれた。
―ならば、この本が原因であることは、疑いようもない。
そして、その内容がまさに“時間旅行”を描いているというのが、何とも皮肉な話だった。

私は静かに詠唱を紡ぐ。
掌に淡い光が集まり、本の上を撫でるように滑っていく。
魔力感知の術。だが、反応はない。

「…やはり、ただの紙とインクね」
この本からは、少なくとも今の時点では何も感じられなかった。

私は次に装丁を調べた。
上質とは言えない紙質、擦れた背表紙、廉価なインクの匂い。
どう見ても、外の世界で量産された一般的な書籍だ。
いくら見ても、仕掛けの痕跡はない。

(…巧妙に術式が隠されているのだろうか?
特定の手順を踏んだ瞬間に発動する、トラップ型の術式かもしれない)

頭の中で、いくつかの仮説が立ち上がる。
だが、いずれも核心には届かない。私は本をそっと机に置いた。

そもそも、なぜ今この時間に巻き戻ったのだろうか。
そこには、何らかの理由があるはずだ。

私は瞼を閉じ、紅霧異変の記憶を辿る。
戦い、霧、そして…あの夜。

―そして、ふと思い至る。

「…そうか」
思わず声が漏れた。思考が一気に線を描く。
記憶の奥底、埃をかぶった断片が蘇る。

あの時、私は確かにこの本を読んでいたのだ。
そして、その頁には―

『時間と、空間の三つの次元との間には、なんら違いはない。
唯一の差は、われわれの意識が時間に沿って動くというだけだ』

―『タイム・マシン』作中の、“時間旅行者”の言葉。
あの印象的な一節を、私は確かに目で追っていた。
そして、未来においても、レミリアがその文を声に出して読み上げ、
私も目で読み、そして、世界が歪んだ。

(…なるほど)

私の思考は、ひとつの仮説に辿り着く。

―この本は、“時間旅行者”の台詞の一節が読まれた瞬間をトリガーとして、時間座標を“記録”する。
そして、再び同じ箇所を読んだ時、記録された時点へ、記憶を保持したまま“上書き転送”される。

そう考えれば、全て辻褄が合う。
まるで時間という書物のしおりを挟み込み、
もう一度開けば、頁そのものが過去へ戻る―そんな理屈だ。

私は、机の上の本を見つめたまま、沈黙した。
読み返せば、再びあの時へ戻れるかもしれない。
だが、安易に試す気にはなれなかった。

私は小さく呟き、本の上に手をかざした。
魔法陣が静かに浮かび上がり、薄い光が頁を舐める。
対象識別の術。
構成、刻印、書式、素材――。
ありとあらゆる角度から、その“異常”を探り、分析していった。

  ◆

長時間に渡った解析の結果は、私の予想を裏付けるものだった。
そして、恐ろしく単純で、同時に、底知れぬほど深淵だった。

空間の三次元に、時間という第四の座標を加えた転移術。
一度目に例の一節を読むことでその座標を「記録」し、
二度目に読むことでその座標へ「強制転送」―そして記憶を“上書き”する。

言葉にすればそれだけの話。
だが、実際の術式は桁外れの複雑さを誇っていた。
膨大な符号、数理的な構文、そして幾何学的な呪式。
記述の九割以上が、この一点、「時間の座標」をどのように定義し、扱うかに費やされていた。
しかも驚くべきことに、その構造には相対性理論を始めとした外界の物理学が組み込まれていた。
魔術と科学。
本来、相容れぬはずの二つの理が、まるで補い合うように美しく噛み合っている。
現実と幻想の境界線が消え、ひとつの“宇宙の真理”として完結していた。
それはもはや、単なる魔法術式ではなく、立派な芸術作品だった。

「…これは、すごいわね」
思わず呟いた。その指先が震えた。
これは間違いなく、とんでもない天才による仕事だ。
溢れ出る知的好奇心に、頬が紅潮し、熱を帯びるのを自覚する。
この術式を編んだ魔法使いがどんな人物なのか。
どんな思想のもとに、これを作り上げたのか。

(…私と同等の使い手。いや…あるいは、それ以上)
語り合うことができたなら、それだけで夜が明けるまで話し込んでしまうだろう。

他には何らかの作用を及ぼす術式は見られなかった。代償、回数制限、制約などは存在しないようだ。
理論上、何度でも使用できる。しかし一箇所、気になる部分があった。

「―記憶の“上書き”」

それは、過去の自分という存在を、未来の自分で物質的に重ね塗りするという意味を持っていた。
単純な筋組織、細胞、肉体ならば、そこまで難しくはない。
だが、記憶―脳において記憶を司る、極めて複雑な、海馬や前頭葉、大脳皮質を“上書き”する…?

私は脳裏に、時戻りの際の症状を思い出す。
頭痛、吐き気、目眩。

これが、脳の記憶の上書きによる副作用であるとすれば?

ゾッとする想像が脳裏をよぎる。一度なら軽症ですみ、許容範囲だろう。
だが、二度、三度と繰り返したなら…どうなるか。
複製を重ねた羊皮紙のように、輪郭が滲み、情報が壊れていくのではないか。

…単なる憶測だが、恐らく二回が限界。三度目は、脳が保たない―そう直感した。
どちらにせよ、極力連続で使用しないに越したことはなかった。

最後に一つ、違和感があった。
術式の構築や記述には、魔法使いそれぞれの個性が出る。だが、これは…
私の記述の癖と酷似していた。だからこそ、ここまで解析できたのだ。

荒唐無稽な仮説が浮かんだ。もしかして、この本は―

「パチェ~!」
突如、静寂が破られた。

  ◆

私は顔を上げた。
声の主を見た瞬間、心臓が跳ねる。

レミリア―。

そこに立つ彼女は、いつも通りの笑みを浮かべていた。
服装に乱れひとつなく、血のように赤い瞳が愉快げに輝いている。

「レミィ…!侵入者はどうしたの?」
嫌な予感が背筋を走った。

「あんな連中、私の敵じゃないわ。返り討ちにしてやったわよ」
意味を理解するまでに、数秒かかった。

「……勝ったの?」

「もちろん!」
レミリアは胸を張り、誇らしげに笑った。
まるで、子供のように。

(…そんなはず、ない)

紅霧異変は、霊夢の勝利で終わるはずだった。
それが“幻想郷の均衡”を保つ唯一の道。
だというのに、彼女は勝利を得てしまった。

嫌な汗が背中を伝う。

「…あの二人、かなり手強そうだったけど…よく勝てたわね?」
探るように言葉を選ぶ。

「ふふ。私の実力を持ってすれば、容易いことだわ」
その時、レミリアの視線が机上の本に落ちた。『タイム・マシン』。
紅い瞳が一瞬だけ鋭く光った。

「―貴方、“未来”のパチェでしょ?」
レミリアが輝く笑顔で尋ねる。

私は雷に打たれたような衝撃を受けた。
呼吸が止まり、世界が遠のいた。

「きっと、過去に戻ってくると思ってた。待ってたのよ…!
霊夢たちを退け、そして未来の貴方と再会する―まさに、今日は運命の日ね!」
レミリアの歓喜に溢れるその笑みは、底知れぬ自信に満ちていた。

私は必死に笑顔を作る。冷たい汗が首筋を伝う。
内心、心臓は激しく脈打ち、冷や汗がローブを肌に貼り付けさせていた。

「…ええ、まだ戻って間もないけれど。未来のレミィに会えて、安心したわ」
どうにか、それだけを口に出すことができた。
レミリアは満足げに頷き、軽やかに踵を返す。

「では、私は館中に我らの勝利を告げてくるわ。
―今夜、私の部屋で二人きりで話しましょう。未来のこと、これからのことを」
そう言うと、微笑を残しレミリアは去っていった。

  ◆

―まさか、レミリアも時を戻っていたとは。

その事実を、私はしばらく受け入れられなかった。
けれど、思い返せばその兆しは確かにあったのだ。

「へぇ、貴方“も”そういう小説を読むのね。
てっきり魔導書とか、もっとアカデミックなのばかりかと思ったわ」
あのときの、何気ない一言。
レミリアはすでにこの『タイム・マシン』を読んでいた。しかも、私よりも前の時点で。

私は、深く息を吐いた。
必死になって、今後どうすべきか頭脳をフル回転し、考えを巡らせる。
そして、思考を整理するために紙を取り出し、ペン先を走らせた。
簡単に、目的と時系列を記述する。


=====MEMO=====

大目的:歴史を元に戻す
小目的:紅霧異変でレミリアを霊夢に敗北させる

過去← →未来

――A――BC―――D―――

A:レミリア戻り時点
B:私(パチュリー)戻り時点
C:レミリアと霊夢の戦闘
D:私とレミリア、未来から過去への起点

==============

ペンを置き、しばしそれを眺める。

「…結局、選択肢は限られているわね」
私は自分に言い聞かせるように、声を出した。
頭の中で、思い浮かんだ案を具現化し、メモに記述していく。

案①:A地点より前に戻り、『タイム・マシン』を処分する。
これなら確実にレミリアを“読む前”に戻せる。
だが、私はB地点―自分の戻り時点―より過去へは行けない。
論理的に不可能。

案②:レミリアに歴史を元に戻すよう説得し、
二人同時に『タイム・マシン』を読んでそれぞれA地点とB地点へ戻る。
唯一、理論的に成り立つ手段。
しかし、彼女を説得できる保証はない。
いや、そもそも“歴史を変えたい”と望み、かつ誇り高い彼女が、
再び敗北を受け入れるとは思えない。
それに、納得したふりをして、A地点で『タイム・マシン』を処分されたら…
私は打つ手を失う。

私は指先でこめかみを押さえた。
出口のない迷宮を彷徨っているような感覚に陥る。

小目的だけを満たすのならば、他にも案はあった。それらを書き足す。

案③:B地点に戻り、C地点のレミリアと霊夢の戦いへ密かに介入。
霊夢を勝たせる。

案④:B地点に戻り、私が魔理沙と霊夢に『タイム・マシン』を読ませる。
十分に修行を積んでもらった上で、
二人に再度『タイム・マシン』を読ませた上で過去へ送る。

案③④の最大の問題点は、結局のところ
レミリアが“未来を知っている”という一点が、全てを台無しにしてしまう。
本来の紅霧異変を形の上で再現できても、
以後の出来事―幻想郷の歴史全体に対するレミリアの介入は防げない。

(どうすれば……“最初の一点”を無かったことにできる?)

私は、メモに記載された神経質そうな文字の羅列をじっと見つめつつ、思索の海に沈んだ。

―壁をノックする音が響く。
小悪魔だった。その顔には疲労が滲み、けれど健気な笑みが浮かんでいた。

  ◆

「概ね、図書館の片付けが終わりました。
破損した本棚などは、後日人手を使って修復させますね」

「……あぁ、こあ。ご苦労さま」
私は労いの言葉を口にしながらも、
机の上に置かれた『タイム・マシン』の表紙から目を離せなかった。

心の中で頭を抱える。どうしても、答えが出ない。

「あれ、その本…私、H・G・ウェルズ好きなんですよね~」
小悪魔が興味深げに表紙を覗き込んでいた。

「科学と叡智を誇った宇宙人が、病原菌であっさり滅びる…
『宇宙戦争』なんて、皮肉が効いてて面白いですよね」
小悪魔ののんびりとした声に、思考の糸がふと途切れた。

「そうね…」
上の空で返事をし、再び視線を落とす。
―だが、次の瞬間。私の思考のどこかで、微かな閃光が弾けた。

私は、はっとして小悪魔を見つめた。
彼女は首をかしげ、きょとんとした表情をしている。

「こあ…貴方、この本を読んだことがあるの?」

「え?あ、はい。ありますよ。確か―図書整理の途中で、少し休憩がてらに。
短いお話なので、さっと読んじゃいました。…あ、サボってたわけじゃないですよ?」
小悪魔がバツの悪そうに頭を掻く。私の心臓は小さく跳ねた。

「…この図書館に、同じ『タイム・マシン』の本はあるかしら?」
念のために確認する。
もし同じ本が複数存在するなら、小悪魔が読んだ本が時戻りの本かどうか、確証が持てない。

「えっと…ちょっと待ってくださいね。私の能力で探してみます」
小悪魔は両手を耳に添えた。

「本たちよ。そのささやき声を、私に聞かせて…」
小悪魔には『目的の本を探す能力』が備わっている。
具体的には、本の声を辿り、どこに存在するのかを突き止めるらしい。
空気が静まり返り、そして彼女は目を開いた。

「『タイム・マシン』は、この一冊だけです」
小悪魔の声には迷いがなかった。

「…過去に『タイム・マシン』の本を廃棄したことは?」

「ありません。わたしの知る限りでは、一度も。
それに、パチュリー様の許可なしに書物を処分することは絶対にしません。
誰かが侵入して持ち出さない限りは」
最後の言葉に一瞬、魔理沙の顔が脳裏に浮かんだが、すぐに打ち消す。
魔理沙は今日初めて、紅魔館に来たのだ。持ち出せるはずがない。
私はゆっくりと息を吸い込んだ。次の瞬間、身体が自然と動いていた。

椅子を押しのけ、勢いよく立ち上がる。
小悪魔の方へ一歩踏み出し、その両肩に手を置いた。

「―こあ。貴方に、重要な話があるの」

  ◆

―紅魔館・主の私室。

銀の燭台の灯りが二人の影を壁に伸ばしていた。
私とレミリアは、テーブルを挟んで向かい合っていた。

「ふふ…まさに勝利の美酒ね。今日ほどワインが美味しいと感じた日はないわ」
グラスを軽く傾け、レミリアは愉悦に満ちた微笑を浮かべる。

「まさか、レミィまで時戻りをしていたとは思わなかったわ」
私も形だけ、グラスに口をつける。

「…私は魔理沙と戦う直前の時間に戻ったのだけれど、貴方は?」
私は平静を装って聞いたが、緊張のあまり、グラスを持つ手が震えた。

「そうね…紅魔館がちょうど幻想郷に転送された頃かしら。
まさかこんな結果を呼ぶとは夢にも思わなかったけど」
レミリアは優雅に肩をすくめ、楽しげに笑う。
終始、ご機嫌だった。だが、私はその言葉に確信を得た。
ならば―問題はない。

「きっと、貴方も過去に戻ると思っていたわ。だから紅霧異変までは極力、元の歴史と同じように振る舞ったの。
少しでも相違があれば、バタフライ効果のように、どんな因果がどう作用して歴史が歪むかわからない。
万が一、貴方が『タイム・マシン』を読む機会を失ってしまったら―貴方は過去に戻れなくなってしまうから」
レミリアが笑みを浮かべた。

「貴方の時戻りが、紅霧異変に間に合ってよかった。…これも、運命なのかもね」
その微笑みは美しく、友人への親愛なる情と、同時に僅かな狂気が垣間見えた。

「パチェ。貴方のその頭脳を存分に活かして、私に力を貸してほしい。
二人で共に幻想郷に覇を唱えましょう。
退屈な舞台に、一滴の紅い雫を垂らして波紋を広げる…。
―幻想郷の歴史という劇の主役、今度は私たちが演じましょう?」
差し出された、小さい白い手。
その吸血鬼の手は、かつてないほど魅惑的だった。

―正直、心が揺れた。
私は権勢や支配には興味がない。
だが、「未来の知」を用いて戦略を練り、盤面を操る―それは、最高の知的遊戯に等しかった。
親友の理想を叶える手助けにもなる。
だが―私はその誘惑を振り払った。

「…いいえ」
私は、首を横に振った。
胸の奥に、氷のような決意があった。

「レミィ…よく聞いてほしい。貴方も承知の通り、幻想郷には暗黙のルールがあるわ。
妖怪が異変を起こし、博麗の巫女が討伐する。その均衡こそが、幻想郷を幻想足らしめている」
レミリアの笑みが、すっと消えた。

「未来の知識を用いて結果をねじ曲げるのは、その均衡を壊す行為に他ならない。
これは長い目で見ると、妖怪の存在そのものすら揺るがしかねない」
夜の静寂が戻り、燭台の火が小さく揺れた。

「―つまり、親友の頼みを断るというのね」
レミリアの低く、冷たい声。

「心のどこかで、もしかしたら、こうなるんじゃないか…と思ってたわ。
貴方は保守的で、優等生すぎるから…」
寂しげな目だった。けれど、その奥に宿るのは決意の光。

「でもね、パチェ。だからといって、貴方に私を止めることはできないわ。
貴方抜きでも、私は紅魔館を幻想郷一の勢力にしてみせる」
その宣言は、不退転の意志を感じさせた。

私は深くため息をついた。

「…やっぱり、こうなるのね」
そして首を横に振った。ワイングラスを置き、立ち上がる。

「レミィ…貴方の失敗は、私と共に歴史をやり直すために、
『タイム・マシン』をすぐに処分しなかったこと。それが裏目に出たわね」
突き放すように、そう告げた。

「…何を言ってるの?
貴方は私より前の時間には戻れない。今さらどうしようも―」
言葉が途中で途切れた。
レミリアの瞳が、鋭く見開かれる。

「まさか……!」
次の瞬間、風が爆ぜた。
レミリアの姿が一瞬にして消えたかと思うと、轟音とともに、重厚な扉が粉砕された。

「こあ!やりなさい!!」
私の叫びは、声ではなく意志として、使い魔である小悪魔へ伝わった。

吹き荒れる烈風。
レミリアは暴風そのものと化し、廊下を、階段を、吹き抜けを、玄関ホールを、超高速で駆け抜けた。
その強烈な風圧によって絵画は壁から剥がれ、調度品は吹き飛び、数少ない窓のガラスは粉々に砕け散った。

その手には、極限まで細く収束した紅き光槍、グングニル。
紅魔の象徴たる必滅の一撃を携え、一直線に図書館を目指していた。

  ◆

―図書館・書斎。
小悪魔は本を開いた。震える唇が、一節を紡ぐ。

『時間と、空間の三つの次元との間には、なんら違いはない。
唯一の差は、われわれの意識が時間に沿って動いているというだけだ』

次の瞬間、空間が歪んだ、気がした。
小悪魔の視界が滲み、書架が波のように揺れたように見えた。

同時に轟音が響き、図書館の天井が裂けた。

―瞬間、その裂け目から紅い光が矢のように走り、グングニルが閃光を放ちながら
『タイム・マシン』の中心へと突き刺さった―

  ◆

目眩がする。同時に、耐え難い頭痛と、胃の底からこみ上げる吐き気が襲った。
たまらず、身体が一瞬ふらつく。本棚に手をつき、息を整え、ようやく落ち着かせた。

視界が少しずつ焦点を取り戻し、周りを見渡す。そこは未整理の書庫だった。
棚に積まれた本の山が影を落とし、薄暗い中に埃が舞っていた。

小悪魔は、自らの手に握られた一冊の本を見下ろした。
『タイム・マシン』―あの本だった。

「…本当に、戻ってきた?」
震える声が、誰もいない書庫に吸い込まれた。
確かめなければならない。夢ではないと、証明するために。

小悪魔はそっと詠唱した。
空気がわずかに揺らぎ、次の瞬間、空間が歪みを帯びて光を放った。
宙から一冊の本がゆっくりと姿を現す。

それは、日記だった。
使い魔として召喚されて以来、物心ついたときから、ほとんど習慣のように書き続けてきたもの。
もっとも“日記”といっても、感情の記録というよりは、図書整理の業務記録に近い。
無限に広がるこの大図書館では、記録がなければ自分がどこまで片づけたかすら分からなくなるのだ。

最後のページを開く。
そこに記された日付は、紅魔館が幻想郷に転移する前のものだった。

(…間違いない。私は過去に戻っている)

ページを閉じる手が、微かに震えた。
そして、ふと脳裏に、主との会話がよみがえった。

  ◆

「―というわけなのよ」
パチュリーは淡々と、これまでに起こった、時戻りを巡るすべての出来事を語った。

「…ふわぁ、そんなことが……」
小悪魔はあまりに壮大な話に、思わず間の抜けた声を漏らした。

「そこで、貴方に頼みがあるの」
主は静かに告げた。
「過去に戻り、『タイム・マシン』の本を処分してほしい。そうすれば、歴史は元に戻る」
小悪魔は少し考え、首を傾げた。

「…でも、レミリア様がどの時点まで戻ったのか、わからないですよね。
もし私の戻る地点がそれより後だったら、意味がありませんよ」
率直に疑問をぶつける。

「レミィは、私に図書館を任せるまで放置していて、本には触れていなかった。
貴方はまだ未整理の書庫でこの本を読んだのだから、十中八九、貴方の方が“古い時間”になるはずよ」
そう言って、彼女は息をついた。そして、こう付け加えた。

「念のため、今夜のレミィとの夜会でどこまで戻ったのかを探るわ。
確信が持てたら合図を送る。
貴方は…すぐにでも読めるように準備しておいて」

その声は、決意に満ちていた。
ここまで真剣な表情、口調で頼み事をする主を見るのは、初めてだった。

「は、はいっ!承知しました!」

小悪魔は胸の前で拳を握った。
小さな翼が、緊張に小刻みに震えていた。

  ◆

暖炉の前。
薪がぱち、ぱち、と弾ける音が、規則的に空気を叩く。
小悪魔は、その橙の光の前に立っていた。

手には『タイム・マシン』の本。炎がその装丁を照らしていた。

(ここに投げ入れれば…パチュリー様の命令は果たせる)

だが、手が動かなかった。

(本当に…これでいいのだろうか?)

それは疑問というより、畏れだった。貴重な知識を焼き捨てることへの畏れ。
そして、何よりも―それが“本当に主の望みなのか”という迷い。

彼女とは主従の契約を結んでいる。
その契約の見返りの一つとして、主の魔力を共有され、供給を受けている。
思考の流れ、感情のさざ波―それらが、供給される魔力を通じて
うっすらと小悪魔の心にも伝わっていた。

だから分かる。
主は、葛藤していた。
理性では「本を処分すべき」と知りながら、心のどこかでは、その選択をためらっていた。

(パチュリー様…本当は、本を手放すことを望んでいないんじゃ…)

小悪魔は唇を噛んだ。
ぱち、ぱち、と薪が爆ぜる音が、ますます響く。

(―私がやるべきこと、それは…)

ゆっくりと本を抱きしめる。
そして、決意したように顔を上げた。

小悪魔は暖炉から離れ、長い影を引きずるように廊下へと出た。
図書館の奥―主の書斎を目指して。

その瞳には、恐れと使命感とが、入り混じった光が宿っていた。

  ◆

視界が揺れ、音が遠のく。
空気がねじれ、心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いた。

目眩、頭痛、吐き気が同時に襲った。
「……っ!」
額を押さえ、浅く息を吐く。
こめかみが痛い。呼吸が重い。だが、どうにか意識を保った。

本の読みすぎか―そう思った。

ぼやけた視界がゆっくりと焦点を取り戻す。
眼の前に、小悪魔がいた。

「おかえりなさいませ、未来のパチュリー様」
微笑みを浮かべながら、彼女は丁寧に一礼した。

「こあ…?何を言っているの。未来って…?」
声を出した瞬間、違和感が全身を包んだ。
見慣れたはずの書斎―だが、微妙に空気が違う。
小物や本の配置も、照明の明るさも。

「パチュリー様…どうかお聞きください。一体何があったのか、そのすべての顛末を…」
小悪魔は、静かに語り始めた。
時間を越える本の存在。
歴史を修正しようとするレミリアと、それを正そうとしたパチュリー。
そして、本を破棄するという小悪魔に託された使命。

「にわかには信じられないけど…」
そう言いながら、パチュリーは机の引き出しから遠見の水晶球を取り出した。
魔力を流し込むと、霧の湖が映し出される―はずだった。
広がるのは、欧州の黒々とした針葉樹の林。
どこか遠い、懐かしい景色。

つまり、幻想郷に転移する前の過去に戻っている。
…信じざるを得なかった。

「私は本を処分せず、今、この時間に、パチュリー様に読んでいただきました。
そして誰にも読まれないよう厳重に保管し、未来で再び取り出して、
貴方に読ませたのです。…いや、『今の私』の視点で正確に言うと、
『これからそうする予定』です」
小悪魔の真剣な色を帯びた瞳が、パチュリーを見据えた。

「これで、未来の知識と経験を引き継いだのは―パチュリー様、貴方おひとりです」
少し不器用で、真っ直ぐな笑みを浮かべる。

「さあ、パチュリー様。
貴方だけが、この先起こることをすべてを知っています。
どう動くかは、貴方次第です。
―その気になれば、この幻想郷すら、貴方の思考の延長線に置けるでしょう」
小悪魔の言葉は淡々としていた。そこに熱っぽい感情はなかった。

  ◆

パチュリーは静かに立ち上がった。
ローブの裾が擦れ、わずかに空気が動く。

「…貴方の話では、別の時間軸の私は本を処分するよう命じた。
けれど、貴方はそれに背いて、私を過去へ導いた…そういうことね」
パチュリーの詠唱が、静かに響く。空気が震えた。
掌の上に白い光が渦を巻き、やがて、超高温の疑似太陽が生成される。
熱が部屋を満たした。

「使い魔でありながら、主人の命に背いた…。
しかも、幻想郷の根幹に関わる大事な命令を。貴方は…危険すぎる」
冷徹な声で言い放つ。
疑似太陽―ロイヤルフレアが、頭上で静かに膨張していく。

「―貴方とは、単なる主従以上の絆を築けていると思っていた。
こあ。私にとって、貴方は………」
声が僅かに震えた。パチュリーは辛そうに、目を伏せた―
それ以上の言葉が、出せなかった。

「こんな結果になって…本当に残念だわ」
目を開く。一瞬、パチュリーの瞳が悲しげに揺れた。

小悪魔は軽く俯き、少し寂しげな表情を浮かべ…言葉を返した。

「…全ては、パチュリー様のためを思ってのこと。
契約違反で私を抹消するというなら、甘んじて受け入れましょう。
―ですが、本当にそれでいいのですか?」

「何を今さら。命乞い?」

「いいえ」
小悪魔はゆっくりと首を振る。
「私はどうなっても構いません。貴方のためなら喜んで殉じましょう。
ただ、パチュリー様ご自身の“意思”に問うているのです」
小悪魔のその澄んだ声は、静かにパチュリーの芯に響いた。

「本当は…未来を知り、時を遡り、その知をもって世界を動かしたい―
そう思ったのではないですか?」
パチュリーは表情を崩さなかった。だが、瞳の奥がかすかに揺れた。

「馬鹿なことを。私は知識と安定を尊ぶ。そんな野心家ではない」

「どうして歴史の“再現”にそこまでこだわるのでしょうか?
『タイム・マシン』にも書かれていましたよね―
時間とは、空間を示す四つ目の座標に過ぎず、一方向に進むそれを過去と未来で区別しているに過ぎないと。
過去も未来も、本来は同列です。“正しい歴史”なんて、幻想に過ぎない…私は、そう思います」
小悪魔が胸に手を当て、健気にその思いを伝える。
パチュリーは、黙って聞いていた。

「パチュリー様。貴方も本当は薄々気づいているはずです。
私には“主人の命令に逆らえない”という絶対の制約があります。
それなのに、私は貴方の命に背いた…いや、正確には背いたのではありません。
つまり、これはパチュリー様自身が“そう望んだ”結果…なのです」

「……!」
パチュリーの喉が小さく鳴る。
小悪魔の唇からゆっくりと、丁寧に言葉が紡がれる。

「魔理沙と戦った時―
本当は、魔法使いとしての力を見せつけ、完全な勝利を得たいと思いませんでしたか?
博麗の巫女を討ち、雪辱を果たしたいと思いませんでしたか?
一度も、一欠片でも、そう感じなかったと…断言できますか?」

「…所詮は弾幕ごっこ。些細な勝敗に私は拘泥しない」

「…では、紅魔館の、レミリア様の参謀として―
パチュリー様の知略で、紅魔館を幻想郷一の勢力に導いてみたいと思いませんでしたか?
全てを掌の上で操り、動かしてみたいとは思いませんでしたか?」

「……くだらない。そんなこと……」
その声は、掠れていた。
気づけば、頭上のロイヤルフレアは音もなく霧散し、消え失せていた。

―痛いほどの静寂。
淡い燭光の明滅だけが、二人の影を壁に映す。

「…私には判ります。パチュリー様の魔力を通じて。
貴方がその頭脳の使い道を、欲しているのを…」
小悪魔のその優しい笑みは、パチュリーの揺れる心に浸透した。

「さあ、ご自分に素直になってください。
そして、どうか…貴方の知が、“正しいと信じる”道を―」
小悪魔は胸の前で手を組んだ。
その瞳には、主に対する敬意と畏れ、忠誠心が宿っていた。

―沈黙。
永遠にも似た一瞬。

そして―

紅い蝋燭の炎が揺れ、二人の影がひとつに重なった。
最初は、もっとコメディタッチの、軽いお話のつもりでした。
…が、いつの間にかシリアス調になってしまい、その結果
作中のパチュリーと小悪魔が自分の中のイメージ像と乖離してしまいました。

2025/11/11 23:03追記
やはり納得いかなかったので、最後のシーンを結構修正しました。
もし修正前に読まれた方がいらっしゃったら、申し訳ないです。
Fio
https://x.com/Fio6786
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コメント



0.50簡易評価
1.100物語を読む程度の能力削除
すごく面白かったです!展開が流れるようで、難しいのにわかりやすかったです。その後、結局彼女たちはどうしたんだろう……と考えさせられました!!
2.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
3.80福哭傀のクロ削除
実は私もこのタイムマシンを読んで時間旅行をしているので、この感想を書くのは二度目なのですが。タイムスリップなり記憶喪失なりパラレルワールドなりその手のもので自分の現在の状況を正しく理解するまでの描写って必ず必要になってくるんですけど、それってもういろんなところで見飽きるくらいに擦られているので、そこをサクッと短くしたのは個人的に好きでした。タイムスリップの原理諸々はまあそういうものなんじゃろで。キャラ解釈の違いはあるし、現在時間軸の幻想郷を変えたいという意味で不満を持ってる(と私は捉えた)のとかはうーん……?ってところはあったのですけど、話の終りをこう描いた、二人の悪魔に魔女が誑かされるという形に舵を切ったのは、素直に感心しました。
4.90東ノ目削除
最後の方向性が書きかえられたこととそれを知っている読者もいれば知らない読者もいるという形で、メタ的に二次的に意味が付加された作品でもあると思いました。実はこっそりと投稿直後の方も読んでいて、「解釈としては修正前の方が好きだが物語の美しさは修正後の方が格段に上がった」というのが個人的な感想です。
変な例えですが歴史ゲームをすることで満たされる欲求の一つの中に、この作品で主題となっていた感情があるよな、と
5.90名前が無い程度の能力削除
よかったです
7.100南条削除
面白かったです
野心バリバリのレミリアと合理的になり切れないパチュリーとその思いを汲み取った小悪魔のそれぞれの思惑とやり取りがよかったです
8.90やんたか@タイ削除
面白かったです。パチェ想いのこあが可愛い
9.100ローファル削除
パチュリー視点「親友が過去を変えるのを止めた身で小悪魔の誘いに乗るわけが」と思いながら読み進めていたのですが本人の意思に揺らぎがあったからこそ小悪魔が命令に背いた、というのは思わず頷いてしまいました。
面白かったです。