血と肉を喰らい喰らって何のことがあろう。酔いの香を萃め萃めて何のことがあろう。
千の魑魅供と万の魍魎を従えて、京の都を攻め入って、米を、酒を、宝を、肉を根こそぎにして、今やその配下供は益々に栄え栄えて果てなき酒宴に興じている。それでも、伊吹の鬼はいつものようには配下供に混じって行く気にもなれなかった。いっそこの薄ら無能達がとっとと死んでくれないかと、酒と血と歓喜と恐怖の香りに取り囲まれながら願い続けていた。
しかし願うと言って鬼である身が願う先も無いのである。
だから伊吹の鬼は始終底抜けにむっすりとした顔を保って、まあまあ「この親分に話しかける阿呆は直ちに紅い霧となるぞ」と馬鹿供に示し続けるだけだった。神も仏もないとは正にこの事。なにせその神だの仏の遣いだのが来るたびにどうしようもなく殺してしまうのだ。殺さずにはいられない。身を守るためではないし、脆弱な部下供のためなどではもっとあり得ない。ただ連中の吐く息、吐く言葉、纏う清浄で高潔な香り、全てが腹に据えかねる。いったいどこからそんな不快極まる気配を持って来れるのか。どうしてそれに我慢ができるのか。しかるにカッとなって殺してしまう。思えばそういうことをずっと繰り返してきている。いや、そういう意味では身を守るためにやったとも言える。不快の元を取り除こうとしてやったのだ。人間が糞便を見たらギョッと身を退くのと同じだし、それがその人間の家の中ならカッとなって取り除こうとするだろう。
伊吹の鬼にとって万事とはそんな調子だった。だから酒宴の端の方が俄かに騒然となってもどうとも感じなかった。
ただ、ああまたかと。また来たのか、清浄な世界からご苦労にも生き血と生肉を届けにやって来たのかと。立ち上がってみる手間さえかけなかった。もはや味もわからぬような、都で一番の酒をばしゃばしゃと足元の岩砂に溢していた。その一杯でたぶん何百という貧農が一生を暮らせる貴酒なのだろうが、心底何も感じない。そうこうしている内、随分と配下達が斬り殺されている様子である。当然の帰結だろう。連中ときたら、自ら畏怖を掻き集める訳でもなく、武やら芸やらその手のものを追い求めてみる訳でもなく、この伊吹の鬼のお溢れを狙ってうろちょろしてるだけなのだ。伊吹の鬼とて自分で動いて物を取るよりは「おい」と言って取ってくる連中がいた方が便利だから、殺さずに侍らせているに過ぎない。しかし、一寸荷が重くなるとこれだ。
「おうい、おぉうい、伊吹の鬼を探してんだろう。伊吹童子様を殺しにきたのだろう! 私はここにいるぞ。さっさと来て、死ねや」
これは一種の符号のようなもので、「ああもうわかったから私がケツを拭く」というような意味で、ざわざわと魑魅魍魎が道を開ける。しかしどうしたって鬼の首魁となってなおする事が無能な部下供のケツを拭いてやるばかりなのだろう? もう伊吹の鬼は考えるのをやめた。ともかく清潔な連中が何十人と勝鬨を上げて突入してくる。燻りきっていた灰が少しだけ掻き混ぜられ、酸素を受け取る。
けれども、伊吹の鬼は最早それに期待もしなかった。そうこうしてる内に数十の人間の首がまとめて飛んでいく。どっと群衆から冒涜的な歓声が上がる。それが轟く程に鬼の心は冷めていく。
(あぁ、あいつがまだいりゃな。茨木童子……あいつはまだマシだったのに。腕一本斬り落とされたくらいでまァ……)
等と想いに耽ってる間、また別の人間の胸を鬼の片腕が貫いている。刀が取り落とされ、鬼の手の中、心の臓腑の拍動がゆっくりと弱くなっていく。それはまるで鬼自身の心が死んでいく様のようだと鬼には思えた。いや、もうとっくにそうなっているのかもしれない。死んで、死んで、死にきって、凍りつき、石となった心だけがある。
それでもまだ半分以上が残っていて、おまけに欠片も士気を失わない。だがそれだけのことだ。悲壮な武士が猛る程に伊吹の鬼の心は冷たくなる。士気など如何程の事になろう。全ては時間の問題である。動ける人間が一人また一人とただの肉塊に刻まれていき、ついに最後の一人が呪詛を吐き出し地に伏せった。
……いや。
「なんだよ、まだ残ってんのか」
山伏の姿をした人間が、ゆらゆらと死骸の山に歩み寄って何か呪文を唱えてそれを弔っている。
不思議だったのは伊吹の鬼がその接近に気がつけなかった事である。他のどの妖怪も気がついていなかった事である。それだから興を削がれた。本来ならものの勢いで首を撥ね飛ばしたはずなのに。
また山伏の方はつっと顔を上げると、凄惨な血溜まりが足を洗うのも気に留めず、ちょっと親しみさえある微笑みの中で白い歯を見せさえした。
「畏み畏み、伊吹山にこの鬼ありと名を轟かせ、今やこの大江山さえ掌中とする伊吹童子様とお見受け致します」
「まず自分の名を名乗ったらどうだい、無礼者」
「これはとんだ粗相をば。よもや鬼の首領が『礼』を気にさいますとは思いもよらず。いや、いや、確かに孔子様は鬼のような偉丈夫であったと聞きますが。とはいえまさかこの化け物供の群れを法や礼節で治めてるとは仰いませんでしょう」
「治は力なりさ」
「恐ろしい事にございます」
「結局おまえは名乗る気もないのかい」
「畏れ多くも名乗るほどの者ではございませぬ」
「ならば何故のこのことやって来た? この私が人喰いの鬼だと云う事無論承知の上なのかい? 先の脆弱な肉塊達はオマエの差金かね?」
「疑問が多いようで御座いますね。是非にお力添え致します」
「……巫山戯ているのか」
「己が命をアナタ様に弄ばれておりますこの状況、どうして巫山戯る事などできましょう」
いいや、この山伏は巫山戯ている。伊吹の鬼をはなから馬鹿にしに来ている。そんな事がわからぬ鬼の首魁ではない。だがわからぬ。わからぬのはこの山伏の胸の内である。本人の言葉通りなのである。どうしてこの状況で茶化したりできるものか。
(何かの計略なのか? 都では源頼光とかいう武将を擁立してはまた懲りずに私を討てと命じたらしいじゃないか。そうとも、先の武士達は源頼光の手下に違いない。ではこいつがその頼光なのだろう。そうとも。ならば私を討ちにきたのか? こんな様子でか? わからん、どうにもわからん)
少なくとも眼前の山伏は伊吹の鬼が再びその気になったなら、瞬く間散る儚き命である。それとも先の連中に勝る、鬼にも勝る程に腕が立つというのか。それも違う。一端の武人と立ち会えば気配でそうとわかるものだ。また、何よりもである。この山伏からは例の感覚が無いではないか。
例のあの、清浄な香り。高潔な態度。世を荒らし、人を喰らう悪鬼羅刹をば必ず之を殺し尽くさんという高邁な覚悟。鬼の最も忌み嫌うもの……正義の心の感覚が。
「恐ろしいですか」
つと顔を上げる。歪んだ伊吹の鬼の口元から血に汚れた牙が覗く。
「なにがだよ」
「不変……即ち、今日と同じ明日が来ることが」
山伏のぬら黒い瞳が伊吹の鬼を見据えた。そいつの枯れ枝みたいな首を鬼の右手がギュッと掴む。その首へし折る事、なんと簡単な業だろう。しかしそれができない。この人間の言葉を聞き捨てる事ができない。そうできない事がもう既に伊吹の鬼の致命的な何かを曝け出していたが、彼女にはその自覚も既に無い。
「ちまたに不思議の多かれど、誠に不思議にございますは、音に妖怪退治と聞く御業にございます」
「今度は、何の話だ」
「畏み畏み……ご承知おきます通り、妖怪とは天を変じ地に異を発する当に怪力乱神の化身。それを我ら葦の如く頼りなき人間が、どうして退治することなどできましょう。これこのように、首根っこをへし折られて終いとなるのが関の山」
「茨木の腕を斬り落としたのも人間だ。嘆かわしい。妖怪はこの時世、腑抜けて弱くなっていくばかりだ」
「否、どれ程の油断があったとしても、鬼切丸がいかなる大業物であったとしても、人の身の刃がどうして山の四天王に届くでしょう」
「では何とするのさ! 貴様は――」
「茨木童子は心に毒を抱えておりました」
「毒だと……?」
「そうでなくば、どうして茨木童子程の悪鬼が、腕を切り落とされた程度で世を儚んだりするのでしょう。確かに妖刀鬼切丸は茨木童子の邪気を封じ込め、腕と共に切り飛ばしたと聞きますも、茨木童子こそ甘寧邪智の大悪鬼。これ即ち邪気そのもの。どうして片腕ばかりに封じ込める事ができましょう……もしそのような御業の有り得るとするならば、人や刀の業よりは、むしろ鬼の心に秘密があろうと思うは当然の事。きっと偏りがあったに違いありますまい。つまりは心の偏りに御座います」
話は佳境にかかりつつあった。首根っこ押さえられているのに山伏は平気な顔をして言葉を紡ぎ続ける。平時ならば命乞いのため必死に弁舌振るう様だと良いモノ笑いの種にもなろうが、この人間に関しては顔色の一つとして移ろわない。もし恐怖の一つでも過ったならば伊吹の鬼は待った無しで右手の中身を捻り潰すつもりでいたのだが。
「偏りを産むは疎と密の業。茨木童子の鬼の心にもまた疎なる部位と密なる部位が生じたに違いありますまい。おわかりでしょうか。無論の事おわかりに御座いましょう」
「話してみろ」
「畏み畏み……密とは人を喰らう鬼の業。好きに呑み、好きに喰らい、好きに殺す、正に鬼畜の所業。それこそ飽くなき欲。無限に肥大する密なる心」
「そうとも。それが我らさ。それが化け物ということさ」
「然しよく練った餅の密なるを、火にかけ膨らかせば、その生地の疎らになるもの。これは童でも解する物の道理に御座います故に……密なる心は軈て疎を孕み、偏りを産むので御座います。かくて鬼の自ら疎らの身となるが故、鬼切丸は茨木童子の邪神を封じ込める事能い、泡沫たる人間は妖怪を退治する事能うというわけに御座います」
「ははァ……読めたぞ、おまえの思惑」
山伏はピタリと口を閉ざした。が、それは伊吹の鬼の反駁に恐れをなしたのか、単に語る席次を譲り渡しただけなのか……いずれにせよ、もう、伊吹の鬼はこの人間の言葉に興味など無かった。
「私に仏門に入れと言うのだろう。わかったわかった。もういい、もう何も言ってくれんな。先の武士連中は鬼退治の為の最後の手勢だったのだろう。事実、私の下に犇くしか脳の無い配下達には善戦していたようじゃないか。ねえ。しかしそれも大江山の血煙に消えた。おまえさんはその最後の手段だ。泣き脅しだろう。私に世の儚さを訴え、摩訶不思議の釈迦牟尼尊三千世界の教えに取り込み、弥勒復活の五十六億七千万年ほど出家させておこうと言うんだろ。はは……あるいは隠居して仙人にでもなれてか」
山伏は沈黙したままだが、伊吹の鬼は自由な方の片腕をぬっと伸ばすとその者の肝臓のあたりに爪を添える。チリチリと爪の差し込まれていくに合わせ、山伏の衣装が血染めに染まる。
「痛がれ」
白い牙の隙間から熱い吐息を吐き出していく程に、ぬらぬら濡れた爪が山伏の生肝を弄ぶ程に、さしものこの人間も歯を食いしばり脂汗を浮かべ始める。伊吹の鬼はずっと乾いていた器にようやく美酒を得た気がした。指先で肉と血の温度を感じていた。
「どうした、泣き叫ばないのか? よく回る口はそれで仕舞いか。ふん。確かにそうさ。おまえは正しい。化け物は化け物であるが故に、その身に不合理と不調和を萃めてこそ妖怪変化たる故に、寧ろ却って疎を抱える。だからあらゆる妖怪は必ず弱点を持つさ。妖怪退治とはそういうものなのさ。そんな事はこちとらようく知っている。だから私もまたいずれは殺されるだろう。全ての欲と生を萃めた暁に斬り捨てられ、果てるのだろう。だがね、そりゃ今ではないし、お前にでもないんだよ」
そのまま生肝を力尽くで引き摺り出すと、無理矢理にひっぺがされた毛細管と肝臓につながる大血管から、どばっと塊のような血が吹き出した。即死して当然の大怪我だがその人間の命は辛うじてまだ繋がっているらしい。脂汗の量はいよいよ酷く、顔は亡者のように青ざめているが、それはどうにもならならい肉体的現象に過ぎなかった。鬼は不愉快げに生肝を僅かばかり掲げて見せる。脂肪の全くない美しい肝である。それをこれみよがしに喰らってみせる。山伏はまだ首を掴まれているので目を逸らす事は不可能だ。それでも目を閉じるくらいは出来よう。そうでもしたらつぎは別の臓腑を抉り取ってやろうと伊吹の鬼は考えていたが……そうはならなかった。肝を飲み下し、口元を拭って、もはや命を失った肉塊を放り投げると、べしゃっと水っぽい音がした。
「浅はかなもんだ。この私を改心させようなんてさ」
それでは倒せない。そんな程度で鬼は狩れない。全くなんともどかしいのだろう! 理想の相手がやってくるのをただ待つしか無いなんて!
「……今までの私はちっとばかし甘かったかな。次はもっと徹底的にやる。徹底的に奪い、徹底的に壊し、徹底的に燃やし、徹底的に殺そう。そうしよう! この私を舐めやがって、だ。全く浅はかな血の頭陀袋共!」
立ち上がり息を吸い込む。号令をかけるのだ。無論彼女の号令はただの号令にあらず。ろくすっぽ考える脳の無い連中でも使い用だった。百鬼夜行の勝鬨だ。今こそ再びに、この腑抜けた世界に、百鬼夜行を起こそうじゃないか!
「……?」
そう叫ぼうとして開いた口から吐き出されたのは血の反吐である。
伊吹の鬼は不思議そうに夜を見た。そういえば今日は新月じゃないか。僅かに遅れて、また配下達が騒がしくなった。雨が降り始めた。矢の雨だ。敵? すでに包囲されていた? うち一本が鬼の肩を貫き、その影を歪ませる。ありえない事だった。幾許かの陰陽術こそ込められているようだが、それも粗製濫造の間に合せ。そんなものに皮と肉を貫かれ、手傷を負わされるなどと。
「第二陣、放て! 対妖部隊は前へ!」
風に乗って聞こえる号令。
「鬼は毒酒に酔うている! 恐れるな! 頼光様に続け!」
毒酒だと? たたらを踏みながらも辛うじて伊吹の鬼が見渡すと、先の襲撃とは比べ物にならぬ数の武士の気配がする。先のはこちらを油断させる為の捨て駒だったのか? いやそれよりも毒酒とは、そんなものをいつ口にした? いつ……
「そうかよ」
すぐ側に転がっている山伏の死体がある。そうだ。確かに口にしていた。あの者の生肝。だがそれだけだ。つまりそれに間違いないと言う事じゃないか。
ふらふらと覚束ぬ意識の中、徐々に包囲網が狭められていくのがわかる。敵将は噂に違わず源頼光なる武将らしい。この山伏がそうでは無かったのだ。
(最初から決死てか……全身に毒を充して私に一服盛ろうと……ただそのために……そのためだけの……)
力を振るおうにも毒は確かに伊吹の鬼を戒めていた。余程に強烈な猛毒に違いない。万が一に鬼から逃れたとて、これだけの毒を身に充たせば一夜と生き残れぬ。いや、生き残れぬのは伊吹の鬼である。陣は完全に包囲され、戦力と戦略とで圧倒されている。
ここで死ぬのだ。ここで死に、果てる。まんまと毒を口にして、抵抗もできぬまま退治されるそれが定め。
「なんだよ……終わる時はこんな呆気ない……もんか……」
呂律も満足に回らぬ。次々と切り伏せられる魑魅魍魎の霞の奥から一騎の武者が駆け込んでくる。
「我こそは源の雷光頼光なり! 音に聞きし伊吹童子よ! その首貰い受ける!」
なるほど都の生きたがり共から鬼退治を言い渡されるだけの事はある大丈夫である。家柄も能力も申し分無しという訳である。このままあの男は伊吹の鬼の首を献上して英雄となるのだろう。それこそ鬼退治の決め事だ。だから鬼にとって源の何某には興味もなかった。位でも土地でも何でも貰うがいいのだ。
死ぬのは恐ろしくない。寧ろずっと待ち侘びていた。最早この世に未練などありはしない。やっと終わってくれるのかという突き放した冷笑があるだけだ。
それよりも。
伊吹の鬼が、最期の時に考えたのはあの山伏の事だった。そも、平時であれば毒を満たした肝などひと舐めでそれとわかるではないか? それがわからなかったのは、あの山伏の言葉に耳と意識を奪われていたからだ。しかしそれさえも、である。身の丈を弁えず鬼に取り入ろうとする人間など掃いて捨てる程にいるのだ。そんな塵芥に一々耳を奪われているような伊吹の鬼ではない。
夜に土煙を巻き上げて騎馬が迫ってくる。翻る刃が星空を浴びて冷たく闇に溶けている。
あの山伏の言葉につい耳を傾けてしまったのは、奴輩が、普通の正義漢が纏うはずの清涼な臭いを持っていなかったからだ。当然、人は鬼を憎むものだ。奪い、壊し、殺す鬼の所業に心揺さぶられる物だ。揺れながらなお向かってくるのはそして、強烈な正義の心。あるいは憎悪の心。何にせよ、鬼を鬼と思う事はその時点で自らを人として置く事である。
あの山伏はそうでは無かったのか? 奴もまた確かに人だった。奴は正義も憎悪も伊吹の鬼に向けては来なかった。そのくせ全身に毒を充し、命懸けで鬼を討つ手助けをした。
それは矛盾だ。
正義にせよ、憎悪にせよ、その衝動がために人は鬼退治を為せるのだ。しかし山伏はそのどちらも持っていなかった。だのに鬼退治を成し遂げた。
(何を考えていたんだ? おまえ、何を考えていた! 何を!)
その問いに答えるべき人間は他ならぬ伊吹の鬼の手によって永久に全ての可能性を奪われてしまった。受け取った言葉はごく僅かである。それでも、鬼は必死になって考えた。この気持ち悪さを抱えたまま死ぬのだけは嫌だった。何か緒があるはずだ。奴の言葉に。奴の……
「恐ろしいですか」
それは電流のような閃きだった。全く完全に時が巻き戻ったかと思える程にはっきりと、あの山伏の声が思い起こされた。それでわかった。なんとはなしにわかった。わかってしまった。
(あの野郎)
わかってしまったのである。
(私を憐んでいたのか)
それは例えば声の調子かもしれないし、表情筋の僅かな変化だったのかもしれない。あるいは全然に的外れで、伊吹の鬼の一方的な妄想でしかないのかもしれない。
(私を憐んでいやがった。人間が、私を知った気になって……私を救おうてか!)
救う為に身を捧げたのだ。百鬼夜行に鏖殺された都の人命より、無辜の民の人生より、悪逆非道と傍若無人を尽くすこの悪鬼を!
瞬間に流星のような輝くものが空を明るく照らした気がした。火花がばつばつと鬼の胸の中で爆ぜていた。その素っ首を頼光の刃がパンと跳ね飛ばす。血の跡を引いて鬼の首が夜空に舞った。だが、残された肉体は倒れない。駆け抜けた頼光が不審を抱いて振り返った先、伊吹童子の巨体がばがっと霧のように広がり、その中から、元の捩れ二本角を有した少女らしき影が飛び出すと、凄まじい速さで夜の闇を駆け出した。
「丑寅の方角だ! 矢をかけろ!」
だがそれも無意味だった。頼光は何かを悟りながら、地に転がった鬼の生首を掴み上げた。
実に満足した死に顔をしていた。それから伊吹童子なる鬼が都を襲う事は二度と無かったと謂う。
千の魑魅供と万の魍魎を従えて、京の都を攻め入って、米を、酒を、宝を、肉を根こそぎにして、今やその配下供は益々に栄え栄えて果てなき酒宴に興じている。それでも、伊吹の鬼はいつものようには配下供に混じって行く気にもなれなかった。いっそこの薄ら無能達がとっとと死んでくれないかと、酒と血と歓喜と恐怖の香りに取り囲まれながら願い続けていた。
しかし願うと言って鬼である身が願う先も無いのである。
だから伊吹の鬼は始終底抜けにむっすりとした顔を保って、まあまあ「この親分に話しかける阿呆は直ちに紅い霧となるぞ」と馬鹿供に示し続けるだけだった。神も仏もないとは正にこの事。なにせその神だの仏の遣いだのが来るたびにどうしようもなく殺してしまうのだ。殺さずにはいられない。身を守るためではないし、脆弱な部下供のためなどではもっとあり得ない。ただ連中の吐く息、吐く言葉、纏う清浄で高潔な香り、全てが腹に据えかねる。いったいどこからそんな不快極まる気配を持って来れるのか。どうしてそれに我慢ができるのか。しかるにカッとなって殺してしまう。思えばそういうことをずっと繰り返してきている。いや、そういう意味では身を守るためにやったとも言える。不快の元を取り除こうとしてやったのだ。人間が糞便を見たらギョッと身を退くのと同じだし、それがその人間の家の中ならカッとなって取り除こうとするだろう。
伊吹の鬼にとって万事とはそんな調子だった。だから酒宴の端の方が俄かに騒然となってもどうとも感じなかった。
ただ、ああまたかと。また来たのか、清浄な世界からご苦労にも生き血と生肉を届けにやって来たのかと。立ち上がってみる手間さえかけなかった。もはや味もわからぬような、都で一番の酒をばしゃばしゃと足元の岩砂に溢していた。その一杯でたぶん何百という貧農が一生を暮らせる貴酒なのだろうが、心底何も感じない。そうこうしている内、随分と配下達が斬り殺されている様子である。当然の帰結だろう。連中ときたら、自ら畏怖を掻き集める訳でもなく、武やら芸やらその手のものを追い求めてみる訳でもなく、この伊吹の鬼のお溢れを狙ってうろちょろしてるだけなのだ。伊吹の鬼とて自分で動いて物を取るよりは「おい」と言って取ってくる連中がいた方が便利だから、殺さずに侍らせているに過ぎない。しかし、一寸荷が重くなるとこれだ。
「おうい、おぉうい、伊吹の鬼を探してんだろう。伊吹童子様を殺しにきたのだろう! 私はここにいるぞ。さっさと来て、死ねや」
これは一種の符号のようなもので、「ああもうわかったから私がケツを拭く」というような意味で、ざわざわと魑魅魍魎が道を開ける。しかしどうしたって鬼の首魁となってなおする事が無能な部下供のケツを拭いてやるばかりなのだろう? もう伊吹の鬼は考えるのをやめた。ともかく清潔な連中が何十人と勝鬨を上げて突入してくる。燻りきっていた灰が少しだけ掻き混ぜられ、酸素を受け取る。
けれども、伊吹の鬼は最早それに期待もしなかった。そうこうしてる内に数十の人間の首がまとめて飛んでいく。どっと群衆から冒涜的な歓声が上がる。それが轟く程に鬼の心は冷めていく。
(あぁ、あいつがまだいりゃな。茨木童子……あいつはまだマシだったのに。腕一本斬り落とされたくらいでまァ……)
等と想いに耽ってる間、また別の人間の胸を鬼の片腕が貫いている。刀が取り落とされ、鬼の手の中、心の臓腑の拍動がゆっくりと弱くなっていく。それはまるで鬼自身の心が死んでいく様のようだと鬼には思えた。いや、もうとっくにそうなっているのかもしれない。死んで、死んで、死にきって、凍りつき、石となった心だけがある。
それでもまだ半分以上が残っていて、おまけに欠片も士気を失わない。だがそれだけのことだ。悲壮な武士が猛る程に伊吹の鬼の心は冷たくなる。士気など如何程の事になろう。全ては時間の問題である。動ける人間が一人また一人とただの肉塊に刻まれていき、ついに最後の一人が呪詛を吐き出し地に伏せった。
……いや。
「なんだよ、まだ残ってんのか」
山伏の姿をした人間が、ゆらゆらと死骸の山に歩み寄って何か呪文を唱えてそれを弔っている。
不思議だったのは伊吹の鬼がその接近に気がつけなかった事である。他のどの妖怪も気がついていなかった事である。それだから興を削がれた。本来ならものの勢いで首を撥ね飛ばしたはずなのに。
また山伏の方はつっと顔を上げると、凄惨な血溜まりが足を洗うのも気に留めず、ちょっと親しみさえある微笑みの中で白い歯を見せさえした。
「畏み畏み、伊吹山にこの鬼ありと名を轟かせ、今やこの大江山さえ掌中とする伊吹童子様とお見受け致します」
「まず自分の名を名乗ったらどうだい、無礼者」
「これはとんだ粗相をば。よもや鬼の首領が『礼』を気にさいますとは思いもよらず。いや、いや、確かに孔子様は鬼のような偉丈夫であったと聞きますが。とはいえまさかこの化け物供の群れを法や礼節で治めてるとは仰いませんでしょう」
「治は力なりさ」
「恐ろしい事にございます」
「結局おまえは名乗る気もないのかい」
「畏れ多くも名乗るほどの者ではございませぬ」
「ならば何故のこのことやって来た? この私が人喰いの鬼だと云う事無論承知の上なのかい? 先の脆弱な肉塊達はオマエの差金かね?」
「疑問が多いようで御座いますね。是非にお力添え致します」
「……巫山戯ているのか」
「己が命をアナタ様に弄ばれておりますこの状況、どうして巫山戯る事などできましょう」
いいや、この山伏は巫山戯ている。伊吹の鬼をはなから馬鹿にしに来ている。そんな事がわからぬ鬼の首魁ではない。だがわからぬ。わからぬのはこの山伏の胸の内である。本人の言葉通りなのである。どうしてこの状況で茶化したりできるものか。
(何かの計略なのか? 都では源頼光とかいう武将を擁立してはまた懲りずに私を討てと命じたらしいじゃないか。そうとも、先の武士達は源頼光の手下に違いない。ではこいつがその頼光なのだろう。そうとも。ならば私を討ちにきたのか? こんな様子でか? わからん、どうにもわからん)
少なくとも眼前の山伏は伊吹の鬼が再びその気になったなら、瞬く間散る儚き命である。それとも先の連中に勝る、鬼にも勝る程に腕が立つというのか。それも違う。一端の武人と立ち会えば気配でそうとわかるものだ。また、何よりもである。この山伏からは例の感覚が無いではないか。
例のあの、清浄な香り。高潔な態度。世を荒らし、人を喰らう悪鬼羅刹をば必ず之を殺し尽くさんという高邁な覚悟。鬼の最も忌み嫌うもの……正義の心の感覚が。
「恐ろしいですか」
つと顔を上げる。歪んだ伊吹の鬼の口元から血に汚れた牙が覗く。
「なにがだよ」
「不変……即ち、今日と同じ明日が来ることが」
山伏のぬら黒い瞳が伊吹の鬼を見据えた。そいつの枯れ枝みたいな首を鬼の右手がギュッと掴む。その首へし折る事、なんと簡単な業だろう。しかしそれができない。この人間の言葉を聞き捨てる事ができない。そうできない事がもう既に伊吹の鬼の致命的な何かを曝け出していたが、彼女にはその自覚も既に無い。
「ちまたに不思議の多かれど、誠に不思議にございますは、音に妖怪退治と聞く御業にございます」
「今度は、何の話だ」
「畏み畏み……ご承知おきます通り、妖怪とは天を変じ地に異を発する当に怪力乱神の化身。それを我ら葦の如く頼りなき人間が、どうして退治することなどできましょう。これこのように、首根っこをへし折られて終いとなるのが関の山」
「茨木の腕を斬り落としたのも人間だ。嘆かわしい。妖怪はこの時世、腑抜けて弱くなっていくばかりだ」
「否、どれ程の油断があったとしても、鬼切丸がいかなる大業物であったとしても、人の身の刃がどうして山の四天王に届くでしょう」
「では何とするのさ! 貴様は――」
「茨木童子は心に毒を抱えておりました」
「毒だと……?」
「そうでなくば、どうして茨木童子程の悪鬼が、腕を切り落とされた程度で世を儚んだりするのでしょう。確かに妖刀鬼切丸は茨木童子の邪気を封じ込め、腕と共に切り飛ばしたと聞きますも、茨木童子こそ甘寧邪智の大悪鬼。これ即ち邪気そのもの。どうして片腕ばかりに封じ込める事ができましょう……もしそのような御業の有り得るとするならば、人や刀の業よりは、むしろ鬼の心に秘密があろうと思うは当然の事。きっと偏りがあったに違いありますまい。つまりは心の偏りに御座います」
話は佳境にかかりつつあった。首根っこ押さえられているのに山伏は平気な顔をして言葉を紡ぎ続ける。平時ならば命乞いのため必死に弁舌振るう様だと良いモノ笑いの種にもなろうが、この人間に関しては顔色の一つとして移ろわない。もし恐怖の一つでも過ったならば伊吹の鬼は待った無しで右手の中身を捻り潰すつもりでいたのだが。
「偏りを産むは疎と密の業。茨木童子の鬼の心にもまた疎なる部位と密なる部位が生じたに違いありますまい。おわかりでしょうか。無論の事おわかりに御座いましょう」
「話してみろ」
「畏み畏み……密とは人を喰らう鬼の業。好きに呑み、好きに喰らい、好きに殺す、正に鬼畜の所業。それこそ飽くなき欲。無限に肥大する密なる心」
「そうとも。それが我らさ。それが化け物ということさ」
「然しよく練った餅の密なるを、火にかけ膨らかせば、その生地の疎らになるもの。これは童でも解する物の道理に御座います故に……密なる心は軈て疎を孕み、偏りを産むので御座います。かくて鬼の自ら疎らの身となるが故、鬼切丸は茨木童子の邪神を封じ込める事能い、泡沫たる人間は妖怪を退治する事能うというわけに御座います」
「ははァ……読めたぞ、おまえの思惑」
山伏はピタリと口を閉ざした。が、それは伊吹の鬼の反駁に恐れをなしたのか、単に語る席次を譲り渡しただけなのか……いずれにせよ、もう、伊吹の鬼はこの人間の言葉に興味など無かった。
「私に仏門に入れと言うのだろう。わかったわかった。もういい、もう何も言ってくれんな。先の武士連中は鬼退治の為の最後の手勢だったのだろう。事実、私の下に犇くしか脳の無い配下達には善戦していたようじゃないか。ねえ。しかしそれも大江山の血煙に消えた。おまえさんはその最後の手段だ。泣き脅しだろう。私に世の儚さを訴え、摩訶不思議の釈迦牟尼尊三千世界の教えに取り込み、弥勒復活の五十六億七千万年ほど出家させておこうと言うんだろ。はは……あるいは隠居して仙人にでもなれてか」
山伏は沈黙したままだが、伊吹の鬼は自由な方の片腕をぬっと伸ばすとその者の肝臓のあたりに爪を添える。チリチリと爪の差し込まれていくに合わせ、山伏の衣装が血染めに染まる。
「痛がれ」
白い牙の隙間から熱い吐息を吐き出していく程に、ぬらぬら濡れた爪が山伏の生肝を弄ぶ程に、さしものこの人間も歯を食いしばり脂汗を浮かべ始める。伊吹の鬼はずっと乾いていた器にようやく美酒を得た気がした。指先で肉と血の温度を感じていた。
「どうした、泣き叫ばないのか? よく回る口はそれで仕舞いか。ふん。確かにそうさ。おまえは正しい。化け物は化け物であるが故に、その身に不合理と不調和を萃めてこそ妖怪変化たる故に、寧ろ却って疎を抱える。だからあらゆる妖怪は必ず弱点を持つさ。妖怪退治とはそういうものなのさ。そんな事はこちとらようく知っている。だから私もまたいずれは殺されるだろう。全ての欲と生を萃めた暁に斬り捨てられ、果てるのだろう。だがね、そりゃ今ではないし、お前にでもないんだよ」
そのまま生肝を力尽くで引き摺り出すと、無理矢理にひっぺがされた毛細管と肝臓につながる大血管から、どばっと塊のような血が吹き出した。即死して当然の大怪我だがその人間の命は辛うじてまだ繋がっているらしい。脂汗の量はいよいよ酷く、顔は亡者のように青ざめているが、それはどうにもならならい肉体的現象に過ぎなかった。鬼は不愉快げに生肝を僅かばかり掲げて見せる。脂肪の全くない美しい肝である。それをこれみよがしに喰らってみせる。山伏はまだ首を掴まれているので目を逸らす事は不可能だ。それでも目を閉じるくらいは出来よう。そうでもしたらつぎは別の臓腑を抉り取ってやろうと伊吹の鬼は考えていたが……そうはならなかった。肝を飲み下し、口元を拭って、もはや命を失った肉塊を放り投げると、べしゃっと水っぽい音がした。
「浅はかなもんだ。この私を改心させようなんてさ」
それでは倒せない。そんな程度で鬼は狩れない。全くなんともどかしいのだろう! 理想の相手がやってくるのをただ待つしか無いなんて!
「……今までの私はちっとばかし甘かったかな。次はもっと徹底的にやる。徹底的に奪い、徹底的に壊し、徹底的に燃やし、徹底的に殺そう。そうしよう! この私を舐めやがって、だ。全く浅はかな血の頭陀袋共!」
立ち上がり息を吸い込む。号令をかけるのだ。無論彼女の号令はただの号令にあらず。ろくすっぽ考える脳の無い連中でも使い用だった。百鬼夜行の勝鬨だ。今こそ再びに、この腑抜けた世界に、百鬼夜行を起こそうじゃないか!
「……?」
そう叫ぼうとして開いた口から吐き出されたのは血の反吐である。
伊吹の鬼は不思議そうに夜を見た。そういえば今日は新月じゃないか。僅かに遅れて、また配下達が騒がしくなった。雨が降り始めた。矢の雨だ。敵? すでに包囲されていた? うち一本が鬼の肩を貫き、その影を歪ませる。ありえない事だった。幾許かの陰陽術こそ込められているようだが、それも粗製濫造の間に合せ。そんなものに皮と肉を貫かれ、手傷を負わされるなどと。
「第二陣、放て! 対妖部隊は前へ!」
風に乗って聞こえる号令。
「鬼は毒酒に酔うている! 恐れるな! 頼光様に続け!」
毒酒だと? たたらを踏みながらも辛うじて伊吹の鬼が見渡すと、先の襲撃とは比べ物にならぬ数の武士の気配がする。先のはこちらを油断させる為の捨て駒だったのか? いやそれよりも毒酒とは、そんなものをいつ口にした? いつ……
「そうかよ」
すぐ側に転がっている山伏の死体がある。そうだ。確かに口にしていた。あの者の生肝。だがそれだけだ。つまりそれに間違いないと言う事じゃないか。
ふらふらと覚束ぬ意識の中、徐々に包囲網が狭められていくのがわかる。敵将は噂に違わず源頼光なる武将らしい。この山伏がそうでは無かったのだ。
(最初から決死てか……全身に毒を充して私に一服盛ろうと……ただそのために……そのためだけの……)
力を振るおうにも毒は確かに伊吹の鬼を戒めていた。余程に強烈な猛毒に違いない。万が一に鬼から逃れたとて、これだけの毒を身に充たせば一夜と生き残れぬ。いや、生き残れぬのは伊吹の鬼である。陣は完全に包囲され、戦力と戦略とで圧倒されている。
ここで死ぬのだ。ここで死に、果てる。まんまと毒を口にして、抵抗もできぬまま退治されるそれが定め。
「なんだよ……終わる時はこんな呆気ない……もんか……」
呂律も満足に回らぬ。次々と切り伏せられる魑魅魍魎の霞の奥から一騎の武者が駆け込んでくる。
「我こそは源の雷光頼光なり! 音に聞きし伊吹童子よ! その首貰い受ける!」
なるほど都の生きたがり共から鬼退治を言い渡されるだけの事はある大丈夫である。家柄も能力も申し分無しという訳である。このままあの男は伊吹の鬼の首を献上して英雄となるのだろう。それこそ鬼退治の決め事だ。だから鬼にとって源の何某には興味もなかった。位でも土地でも何でも貰うがいいのだ。
死ぬのは恐ろしくない。寧ろずっと待ち侘びていた。最早この世に未練などありはしない。やっと終わってくれるのかという突き放した冷笑があるだけだ。
それよりも。
伊吹の鬼が、最期の時に考えたのはあの山伏の事だった。そも、平時であれば毒を満たした肝などひと舐めでそれとわかるではないか? それがわからなかったのは、あの山伏の言葉に耳と意識を奪われていたからだ。しかしそれさえも、である。身の丈を弁えず鬼に取り入ろうとする人間など掃いて捨てる程にいるのだ。そんな塵芥に一々耳を奪われているような伊吹の鬼ではない。
夜に土煙を巻き上げて騎馬が迫ってくる。翻る刃が星空を浴びて冷たく闇に溶けている。
あの山伏の言葉につい耳を傾けてしまったのは、奴輩が、普通の正義漢が纏うはずの清涼な臭いを持っていなかったからだ。当然、人は鬼を憎むものだ。奪い、壊し、殺す鬼の所業に心揺さぶられる物だ。揺れながらなお向かってくるのはそして、強烈な正義の心。あるいは憎悪の心。何にせよ、鬼を鬼と思う事はその時点で自らを人として置く事である。
あの山伏はそうでは無かったのか? 奴もまた確かに人だった。奴は正義も憎悪も伊吹の鬼に向けては来なかった。そのくせ全身に毒を充し、命懸けで鬼を討つ手助けをした。
それは矛盾だ。
正義にせよ、憎悪にせよ、その衝動がために人は鬼退治を為せるのだ。しかし山伏はそのどちらも持っていなかった。だのに鬼退治を成し遂げた。
(何を考えていたんだ? おまえ、何を考えていた! 何を!)
その問いに答えるべき人間は他ならぬ伊吹の鬼の手によって永久に全ての可能性を奪われてしまった。受け取った言葉はごく僅かである。それでも、鬼は必死になって考えた。この気持ち悪さを抱えたまま死ぬのだけは嫌だった。何か緒があるはずだ。奴の言葉に。奴の……
「恐ろしいですか」
それは電流のような閃きだった。全く完全に時が巻き戻ったかと思える程にはっきりと、あの山伏の声が思い起こされた。それでわかった。なんとはなしにわかった。わかってしまった。
(あの野郎)
わかってしまったのである。
(私を憐んでいたのか)
それは例えば声の調子かもしれないし、表情筋の僅かな変化だったのかもしれない。あるいは全然に的外れで、伊吹の鬼の一方的な妄想でしかないのかもしれない。
(私を憐んでいやがった。人間が、私を知った気になって……私を救おうてか!)
救う為に身を捧げたのだ。百鬼夜行に鏖殺された都の人命より、無辜の民の人生より、悪逆非道と傍若無人を尽くすこの悪鬼を!
瞬間に流星のような輝くものが空を明るく照らした気がした。火花がばつばつと鬼の胸の中で爆ぜていた。その素っ首を頼光の刃がパンと跳ね飛ばす。血の跡を引いて鬼の首が夜空に舞った。だが、残された肉体は倒れない。駆け抜けた頼光が不審を抱いて振り返った先、伊吹童子の巨体がばがっと霧のように広がり、その中から、元の捩れ二本角を有した少女らしき影が飛び出すと、凄まじい速さで夜の闇を駆け出した。
「丑寅の方角だ! 矢をかけろ!」
だがそれも無意味だった。頼光は何かを悟りながら、地に転がった鬼の生首を掴み上げた。
実に満足した死に顔をしていた。それから伊吹童子なる鬼が都を襲う事は二度と無かったと謂う。
これぞまさに鬼であり鬼退治
素晴らしかったです