楽器の寿命は無限ではない。あらゆるものはいずれ朽ちるというシニカルな極論ではなく、普通に妖怪や霊の寿命よりも楽器の寿命の方が短いという意味だ。なんなら普段使いして酷使するならば、人間が使う場合も、使い手が死ぬよりも先に楽器の方が壊れてしまうことが多い。
私達姉妹は楽団結成からそれぞれ三度目か四度目かの楽器供養をしていた。楽器も道具だから壊れたら適切に供養しないと付喪神化する。それはちょっと困るのだ。仲間が増えて結構なこと、とはならない。楽器の付喪神には先客がいる。あの子達は商売敵でもあるが同時に幻想郷を音楽で染め上げる同志であり、それなのに「望まれない子」をうっかり増やしてしまったら彼女達に申し訳が立たない。しかも私達が楽器の後始末に失敗したら生まれてくるのは多分、「壊れた」楽器の付喪神だろう。不協和音!!
なので楽器が壊れたら都度供養しなければならない。普段は持ち主が一人で供養するのだが、今は三人全員喪に服している。これは単純に偶然。たまたま同時に楽器が壊れてしまったのだ。
ただ、幸運といえば幸運でもある。スケジュールを空けるのが一度で済む。まあ、一人でも楽器が無事だったらソロライブで繋げた気もするけれど。
「ぼくの だいすきな クラリネット パパから もらった クラリネット」
楽器供養は我流で、私の場合は日本の『クラリネットをこわしちゃった』、姉さんはポルトガルの『Eu Perdi o Dó da Minha Viola』、リリカはフランスの『La chanson de l'oignon』をそれぞれ演奏し、演奏終わりと同時に滅茶苦茶に騒々しく楽器をぶっ壊し、それを丁寧に箱詰めして家の前に埋める。ちなみに三曲ともメロディは全く同じ歌の派生なので、今回の場合は半分くらい同じ曲を三人で演奏する。サビでは「オーパキャマラド」の大合唱だ。
壊れた楽器で演奏してるものだから他人に聴かせて金を取れるようなものでは到底ないが、それでもこの子達の最後の晴れ舞台。葬式という言葉に予想される陰鬱さはそこにはない。もっとも姉さんは辛気臭そうにしてるが、それは本人の性格が悪い。リリカは三番を演奏するときに理由もなくオーストリア人に敵意をむき出しにするが、それは曲の歌詞が悪い。
演奏が終わると同時に、数字の「8」みたいな形の木材とぐねぐねした金属管とお歯黒を半端に染めた怪物の口みたいな見た目の機械とを天井に放り投げ壁に打ち付け床に衝突させる。見た目のお行儀が悪いという自覚はある。楽器葬儀は身内だけでやってるサバトみたいなものなのだが、昔通りすがりの妖怪に見られ、「あの楽団は楽器を粗雑に扱っている」という悪評を立てられてしまったことがあった。
私達に言わせれば、壊しているそれらはもう楽器ではない。例えば人間は死んだ人の体を燃やす。遺体は人間とは見なされていない、と表現すると今度は人間から顰蹙の嵐なのだろうが考えてほしい。生きている人間を炉にくべた場合と死んだ人間を炉にくべた場合の倫理の是非が変わるのだから、両者は同等の扱いはされてはないというのは自明だ(もし貴方が土葬文化圏なら「炉にくべる」を「棺桶に入れて地中に埋める」と置き換えてもらっても構わない。私達は外国人ルーツの多文化配慮ができちゃう騒霊なのだ)。火葬にしろ土葬にしろ、死んでしまった後はいかに肉体の不用意な蘇生を防いで魂魄の分離を確実なものにするか、というのに焦点が当てられているように思える。私達がこうやって楽器を壊すのだって同じで、葬儀の一環なのだ。
と、確か悪評が流れたときだったかに姉さんが言ってた。姉さんは理屈っぽい。私は単にその方が楽しいと思って今のやり方を提案した。最初は工具で一本一本ネジやら何やらを外して分解していく、それはそれは辛気臭いものだった。私がそれは嫌だといって、リリカが「それに分解するだけじゃ泥棒が盗んで組み立て直しちゃうかもしれない」ともっともらしい懸念を述べて一対二の多数決で二度目から騒々しくするようになった。
私達が住み着いてここに転移し、今に至るまでのかなり長い歴史の中でこの家で死んだのはレイラただ一人だ。が、庭(と名前がついた花もない空間)には死者の人数に対して不釣り合いに多く十字架が立っている。
「その墓標を別に用意して『ストラディヴァリウスなんとかかんとか ここに眠る』って毎回書くの面倒じゃない?」
「いやいやちゃんとその作り手に恥じぬ活躍をしたんだからちゃんとナンバリングもして供養しないと」
「ストラディヴァリウスって言ってるの姉さんと道具屋の店主だけだけれどね。番号をわざわざローマ数字で振るのも性格出てる」
「なにさ姉を変人みたいに。大体メルランだってその十字架、土の下に誰がいるのよ。大司教猊下?」
他の二人は木の枝を糸で結んだだけの十字架を使っていたが、私か刺した十字架は金色の金属製で複雑な装飾が施されていた。逆にそれだけといえばそれだけなのだが。
「傘の付喪神が鍛冶屋してて、その子に頼んで作ってもらったのよ。自腹だから安心して」
「食費足りないって泣きついても知らないよ」
「メッキよメッキ。金じゃないからそんな高くない」
†
新しく楽器を調達するときに、姉さんはまず里の道具屋を巡り、リリカは香霖堂に行く。
これは「勝率」を最大化させるための適応の結果である。
一つ、幻想郷には腕の良い木工職人が多い。そして職人というのは往々にして酔狂だから、わざわざ無縁塚から拾ったり古道具屋から買ったりした外の世界の物品(木製楽器もここに含まれる)を修繕したり改造したりに、もっとお金が儲かる量産家具の製造よりも時間をかける。職人は音楽家ではないから、一見すると観賞用にしかならないような、音が外れる魔改造を施された楽器をお出ししてくるようにも思える。しかし実際には、足りない部品を幻想郷産の木で補修したそれらは、無論多少の調律はこちらでしないといけないとはいえ、ほぼ正しいオクターブを鳴らすのだった。「健全に正しい形の楽器は健全に正しい音を発する」。この理論で意気投合した里の職人達とルナサは、楽器の手配において同盟関係となっている。
二つ、幻想郷にいる機械技士は木工職人より遥かに少ない。あるいは、河童が音楽に素養があったらリリカの楽器調達先にも少しはヴァリエーションが出たのかもしれないが、生憎彼女らは無縁塚に捨てられた機械楽器を「部品をはぎ取れるジャンク寄せ集め」くらいにしか思っていないらしい。楽器としてそれらを欲するならば、森の外れに店を建てている偏屈な道具屋を頼るしかないのが現状である。ここの店主は、偏屈であると同時に無縁塚にあるものはとりあえず可能な限り全部回収するという末期の蒐集癖持ちでもある。幸いというべきかなんというべきか、三姉妹の常識人ポジションですという顔をしてるリリカだが、ここの変人店主と妙に相性が良いようで、楽器の調達先候補が一つだけでも困ってはないようだ。もっとも、「あまりにも仕様が玄人向けすぎて外の世界でも少数生産に終わったシンセサイザー」だのそういうのを掴まされた挙句、本人は嬉々としてそれを使っているというのもしばしばだが……。
ということで、姉さんとリリカは確固たる楽器の調達先を見つけているが、私はそうではない。
三つ、幻想郷にいる金物職人は、木工職人より少なく機械技士よりは多い、なんとも半端な人数だ。そして微妙な人数の金物職人達は、金属の中でも真鍮の加工にはそれほどの熱意を見せず(大抵は鉄製品にお熱だ)、こちらから楽器を持ち込んだら微調整に協力してくれるくらいの関係性は結べるものの、元となる楽器を店頭に並べてるかというと、里全体を巡ったら時々一、二個あるが必ずしも置いてるわけではないという確率。
じゃあ香霖堂はどうかというと、あの店は何でもあるが故に何でもはないのだ。彼の蒐集癖を止める唯一の要因が建物の物理的な容量で、店(と外のガラクタの山と化した物置場)の体積以上には物は存在できない。リリカが香霖堂をお得意様にできてるのは店主の嗜好がいかにも「外の世界っぽい」機械らしい道具にあるからで、ただそういう物品は、キーボードがそうであるように、大抵大きい。そうなると、機械と、機械でないが店を圧迫しない小物類が店の容量の多くを占めるようになり、トランペットという「機械ではないが置き場を食う」道具の優先度は、ここの店主の中ではだいぶ下がってしまうらしい。
なので私の場合、里か森かのどっちかにその日の気分で向かって、そこで空振ったら無縁塚に行き自分で適当なものを探す、というのが一番多い。今回も無縁塚で拾った、何の変哲もない普通のトランペットが次の相棒になった。
「メルランが一番楽器の質をこだわらないよね」
とは姉妹の上下からよく言われる。
†
男は自宅で作業をしていた。
パソコンの横には珈琲の入ったカップがある。彼は、その業績と同じくらい酒豪ということでもよく知られていて、若い頃は同じ場所にビールジョッキがあった。しかし五十手前ともなると、流石に昼間から酒を飲んで仕事をするのは自重した方がいいだろうと考えるくらいには健康志向に傾く。
彼の主な仕事はゲーム制作だった。会社で部門ごとに分かれて、というのとは違い、彼のそれは家族経営な(彼の妻は絵が上手いのだ)同人活動だった。そういう意味では、彼はプログラマーであり、イラストレーターであり、作曲家だった。
パソコンで音楽を作る手法は色々あって、一番アナログな方法だと楽器を自分で演奏してその音をオーディオインターフェースで取り込むというやり方になり、デジタルには音源となるソフトを用意してパソコン内で演奏させるやり方となる。この音源にも、ソフトをインストールするだけで完結するものから外部機器の形でパソコンに接続して使うものまで色々である。
「ん……?」
楽曲用の編集ソフトを立ち上げたときに彼は異常に気が付いた。パソコンに接続している音源機器の一つが認識されないのだ。
彼のゲーム制作歴は長い。今異常を起こしているのは活動の初期の方から使っている最古参の機器だからこの時点で覚悟しているところもあった。無論、メンテナンスには常日頃から気を配っている。そのおかげで今も音源側はまだまだ元気なようだが、これがパソコン作業である以上どうしようもないことだってある。
彼は珈琲のカップに少し口をつけた。
†
私が楽器の質にそこまでこだわらないことについて、楽器の品質志向の姉と妹からは時折いじられるのだが、結局、音というのは最初から自然の中にあるのであり、自然の中の良い音を上手く引き出すことができるならば、楽器のブランドの名前にはそれほどの意味はないし、極論鳴らすものが楽器である必要すらない。あ、私今凄く芸術家っぽいこと言った。
私は三姉妹の中では一番世界を観察するのに時間を使う。それが苦にならない性格だからというのが大きいだろう。私は世界を楽観的に見る。ルナサは悲観的に見る。リリカは打算的に見る。一見リリカが三姉妹の中間のようで、あの子は自分にとって得かどうかで見る見ないの初手を決めるから、実は姉さんより世界を観察することに時間を割かない。まあ、リリカの場合、その短い時間で必ずいい音を探し出してくる。それは純粋に称賛すべき才能の一つだ。
私のことに話を戻して、何がいいたいのかというと最近の世界の音はとても楽しいということだ。ボジョレー・ヌーヴォーの品評の如く毎年言っているが、これは真理である(というか、ボジョレー・ヌーヴォーだって知ったかぶりが馬鹿にしてるが、毎年「最高の出来」になり続けることは別におかしくともなんともないんだって)。
環境音からインスピレーションを得て、早速鳴らしてみる。すると、これが実によく馴染んだ。
自然から音を見つけ出してそれをそのまま演奏するというのは、本来ならばリリカの領分だ。絵で例えると、リリカの音は写実主義の油絵みたいなもので、天狗の撮る写真ばり、いや、それ以上のリアリティを届けてくる。幻想とは非実在とは違う、ということをリリカの音楽を聴くたびに強く感じる。
私の音はどっちかというとクレヨンだと思ってる。無邪気さとか楽しさとかそういうのがウリ。「正しさ」とか「巧さ」とかは評価基準じゃない。……いや、私のトランペットは巧いよ? 何分天才だから、巧さを求めてなくても巧くなっちゃうんだな。ふふん。
ただ、巧くはあってもリアルではない。流石に私くらいの自己肯定感でも自然環境にトランペットの音が高らかに流れていると大真面目に熱弁することは普通しない。
が、今回ばかりはそうとしか表現できないように「自然」だった。
楽器を新調してから最初のセッションにして、
「なんかメル姉の音、ちょっと私っぽくない?」
リリカは当然のようにそのことに気が付いた。
「音外れてた?」
「別にそんなことはないけれど……」
音楽界の水墨画枠な姉さんも気が付いていたらしい。
「じゃあいいじゃん。それかリリカがこの音使う?」
「いやいいよ。メル姉の音ではあるし。姉さんがその音出す分こっちで調整しないとなって」
「そんな気にしなくても大丈夫じゃない? 変な言い方だけれどものすごく自然な音だし」
姉さんが柄にもなく適当なことを言った。いつもは神経質にテンポの一ビーピーエム、音の高さ一ヘルツにまで口出ししてくるのだが。
この音にはある種の魔力があるのだと思う。「適当」という魔力。適当という言葉は妥協という悪い意味にも捉えられがちだけれど、あるべきものがあるべきところにある、適当ってそういうのだ。目玉焼きが上に乗ってフライドポテトが横についたハンバーグを前にして「こういうのでいいんだよこういうので」と思うような。別にそのハンバーグが牛百%か合い挽き肉かなんてどうでもいいし、ポテトの切り方がシューストリングかウェッジカットかなんてのも些細なことだ。この音が、私のトランペットから出ていて、私達のアンサンブルの一要素を形成している。それが適当。
†
私達は家でレコードを聴いていた。
レコードというのは便利だがちょっと難儀な性質をもった道具だ。家には蓄音機が一台ある。この蓄音機が結構な高性能で、一台で家全体をカバーしている。便利!! でもちょっと待ってほしい。今はクラシックが流れている。ジャズを聴きたい私の人権はどうなるの? 不便!!
かくしてこの家の国技とはレコード争奪戦なのである。他の勝負事の景品として(相対的に)平和裏に決まることも稀にあるが、八割以上はほぼ競技カルタだ。私達はレコードと蓄音機の耐久力に感謝すべきなのかもしれない。
この時間クラシックが流れているのは姉さんが勝利したからだ。私だってクラシックは別に嫌いじゃないけど一番好きではないので勝負に負けたことも相まって流石に少し悔しい。あと『魔王』って絶対日曜日の昼下がりに流す音楽じゃないでしょ。
「思うことがあるんだけどさ」
リリカが話しかけてきた。
「何さ」
「レコードって大体外の世界から流れてくるものじゃん」
「そうだね」
そのことなら私も思うところがあるよ。あなたがセットし損ねて今膝の上に持ってる『ビスケットを食べる音ASMR』って書かれたレコードも外の世界産なの?
「あれってさ、音そのものが忘れられたのかな?」
「さあ? 普通にレコードの持ち主がなくしちゃっただけじゃない?」
もし音そのものが忘れられた結果ここにレコードが来るならば、外の世界の人はもうシューベルトを聴かないしビスケットを食べないということになる。どっちも奇妙なことだ。
「だよねー。だとしたら今も結界の中と外で同じ音を聴いてる人がいるのかもね」
リリカは戸棚からビスケットの箱を出して中身をボウルにあけた。余程音を聴きたいらしい。私はなんとなく紅茶に浸して音が鳴らないようふやかして食べることにした。
「レコードという道具が流行らなくなったのかもしれない」
姉さんが会話に混ざってきた。会話してるのを聞いたという風を装い、ビスケットがボウルに当たる音の方に誘導されていたように思える。真顔でビスケットを二枚同時に取って口に入れてバリボリ音を立てていた。
「ああそういう? レコードでも大概便利すぎるくらいなのに、それにも飽き足らないって人間は強欲だよねー」
「最近時々こっちに来るようになった外来人いるじゃん? あの人の持ってる板みたいな機械にも蓄音機機能があるらしいよ」
「あれってカメラじゃなかった?」
「カメラだし、蓄音機だし、他にも色々できるって」
「うわぁ、強欲」
リリカはドン引きしてたが、人間なんてのは欲深いのが性分だ。これは私と姉さん両方が共通して持ってる持論。姉さんはこのことをシニカルに見てて、私はある種リスペクトしてる(つまり、無欲な人間より欲にまみれてるくらいの方が楽しい)という違いはあるが。
「レコードが流行らなくなったからこっちでは入手に困らないってものだよ。嗚呼諸行無常諸行無常」
と、姉さんはまるで自分が欲のない覚者かのような言葉を吐きつつ、他二人より明らかに多い枚数のビスケットを手に取っていた。
「とにかくさ、話を戻すと、レコードが流れてきてるからといって、音そのものが消えたわけではないとみんな思ってると」
「そりゃそうよ。このペースで消えてたら、今ごろ外の世界は無音よ」
「でもさ、現に消えたであろう音もあるのよ。例えば河童が池に飛び込む音とか」
リリカがわざとらしく間を置いたので耳を澄ませてみたが、その音は聞こえなかった。リリカが鳴らしてくれるわけでもなければ、本物の河童の音が聞こえるわけでもない。そもそもこの家の周りに池はないのだ。代わりに朱鷺が鼻詰まりみたいな声で鳴いているのが聞こえてきた。
「難しく考えすぎよ。外の世界で消えた音だろうが消えてない音だろうが、それとは無関係に元の持ち主が無くしたくらいの理由でレコードは来る。それでいいじゃない」
「いーや、これは重大な問題だね。セッションするときの私の調整に関わる。つまりはだね、メル姉が今使ってる音が外の世界では消えたのかどうか。私は消えてると踏んでる」
「へえ」
リリカの「つまりはだね」が余りにもわざとらしくて思わず吹き出しそうになったがなんとかこらえた。
「じゃあ私は消えてない方に一円」
「……」
「……」
「……」
私とリリカの二人でルナサに視線を送る。
「えー。……じゃあ、消えてない方に」
テーブルの上に銀貨が三枚置かれた。「消えてない」派が二対一で優勢だが、これは多数決でなく正しい方が勝つというルールだ。
そして、その正しさを証明する手段はない。翌日、件の板型蓄音機(兼カメラ兼その他諸々)持ちの外来人を捕まえて私の演奏を聴かせて「聴いたことがない」という見解は貰ったが、残念ながら彼女がたまたま知らなかっただけかもしれないので音の絶滅の証明にはならない。いわゆる悪魔の証明だ。
私達は、こういう決着のつけようのない賭け事をすることがしばしばある。
確か、このときの掛け金は最終的にピザに化けたんだったかな。いや、ベッドが壊れたときの修繕費だったかな(壊れた家に住んでるのに、それ以上の不便になるだけの壊れにはきっちり対応する。それが私達三姉妹だ)。まあ、そんな感じで、決着のつかない掛け金は三人の共有資金として、適当なタイミングで、当人達すら覚えてないような適当な使途で消費されることになる。
†
彼とて、音源の不調を見て即座に見限る決断を下したわけではない。長年使い続けてきたこともあり相当に愛着はある。線を差し直し、再起動をし、ドライバーをインストールし直そうと試みる。そういう自分でできる範囲での対応は一通り試した。
が、ドライバーが再インストールできなかったところでついに匙を投げた。この手のものに詳しい知己に連絡をした上で、納期の近い次の作品はこの音源を使わずに作曲するという決断を下した。
「何を使おうかなあ」
彼はこの状況を心から面白いと思っていた。否応なしにレギュラーメンバーが戦力外になったことで、残る戦力から誰を登用するかとか、新しく補強する先はどこからにするかとか、そういう試行錯誤の楽しみというのは間違いなくある。
あらゆるものは変化し、不変というのはない。
釈迦はそれを「無常」と呼んだ。この言葉には、どこか物悲しさのようなものがある。
古代ギリシャの哲学者は「万物は流転する」と表現した。世界の真理を淡々と述べる、中立的表現だ。
二十世紀後半に生まれ二十一世紀を生きる彼は、このことをもっと肯定的に捉えていた。大学時代から始まる長いキャリアの中で、多くのゲームを彼は作った。処女作を除きそれが「弾幕シューティング」という形態をとっていることは一貫しているが(なんなら、処女作でも弾幕があるかないかでいえばあった)、最初期の作品と最近の作品では全くの別物である。
こういう大御所に対する要望の常として、彼もまた黎明期の、現代のパソコンでは動作対象外になってしまい物理ソフトも絶版になってしまった作品のリメイクを望まれはするのだが、これには常に否定的な見解を示している。確かに自身の技術も使える道具の質も遥かに高い今の時点で作り直せば、(大衆目線で)よりよい作品を今の人達にも遊べる形態で出せる可能性は高い。が、今の作品が今の自分にしか作れないように、三十年前の作品は三十年前の自分にしか作れなかったものであり、果たして今の自分にはもう作れないものを作ろうとすることに意味はあるのか? と考えてしまうのである。そしてもっと重要なことに、この手の議論で何故か忘れられがちなことであるが、リメイクに時間を割くということは今新たに作品を作る時間を奪うということである。彼の哲学において、それは許されない。
変化は楽しい。不変はつまらない、とも言える。奇しくもそれは今回の作品のテーマの一つであり、変化を楽しむ愉快で繁栄した勢力と変化を拒絶する面白みのない奴らを対比的に描写する、という物語構造にしていた。
未来はどうなるか分からないからこそ楽しい。当然、ある程度の予測はできる。今回の場合、機材の不調解消は新作完成には間に合わないというのが確定した未来だ。だがその先、意外とこの機械を今の環境で使う方法が見つかって、次々作でしれっと復活するかもしれない。彼にとっては、それもまた変化だ。
人生は予測という懐中電灯の灯りで夜道を照らしながら歩むようなものだ。時折暗がりから何かが飛び出てきてそれが驚きとともに、あるときには恩恵を、別のあるときには損害をもたらす。
彼は暗がりの中に音源を置いた。心の奥底のどこかで、夜道を歩く彼の背後からまたこれが追いついてきてくれることを期待している節もありはする。機材を丁寧に片付けることでその可能性を最大化させはしたが、オッズがどうか、確率通りにことが運ぶかなんてことは分からない。悪魔が突然部屋に訪問して、未来を教えることを条件に取引きをもちかけてきたとして、彼はきっぱりと即決で断るだろう。
別の日に、彼はタイトル画面の画像を開いた。その左上には「東方錦上京」というロゴが力強く鎮座していた。
†
音の寿命は無限ではない。音は運動エネルギーであるから距離や材質により減衰してというようないけ好かない魔術理論ではなく、普通に流行り廃りがあるという意味だ。一つの音で生涯走り続ける音楽家は極稀である。
流行り廃りは聞き手だけでなく音を作る側にも。
私があの音をトランペットから出すことは少なくなっていった。普通、楽器と音は一対一対応なところがあるが、私達は普通に楽器を演奏するというよりも楽器の霊の潜在能力を引き出すような奏法を使っているから逆に今まで使っていた「ド」の出し方を封印して別の「ド」の音を出すようなこともできる。
今のトランペットを手に入れてから二十数年程経った。私達が使う道具の寿命を考えると折り返しは通り過ぎたくらいだろうか(閻魔様は「あなた達はかしましいから道具の扱いも乱暴なのです」と言いがかりみたいなことを言う。仮に私達の道具が人より長持ちしないとして、多分その理由は、一日あたりの使用時間が人間の音楽家より長いからじゃないかな。メンテナンスはちゃんとしてるもん)。出そうと思えば今もまだ、あの、英雄が行進しているかのような高らかに響く音をトランペットから出すことはできるし時々はそうする。でも、本当に熱狂していたときの、この音ありき、ではもうない。
姉さんもリリカもそのことを殊更指摘しようとはしない。二人にもそういうことはよくあるから、言ってもブーメランにしかならない。私も、姉さんがエレキギターによる退廃的鬱の表現を数年模索しそして何事もなかったかのように通過していったことの是非をどう思っているか、ということは胸の内に秘めておこうと思っている。
楽器の寿命も、音の流行も、悠久の時の流れに比べれば一瞬で過ぎ去ってしまうものだ。あのトランペットの音を鳴らしていたときは、幻想郷と外の世界のどこかで同じ音が流れているに違いないという確信のようなものがあったが、発さなくなったことで外の世界でももうこの音は鳴らないのかもしれないと思う気持ちが育ってきた。私の手を離れることで、この音は幻想の音として完成したのかもしれない。
私はそれを悲しいこととは思わない。音が過ぎ去った後に訪れるのは虚無ではない。音は、未来から来る別な音に押し流されることによって去っていくのだ。音が消えるということは、古い音の葬式じゃなくて新しい音の生誕祭。
だって、今の幻想郷にも、とても楽しくて幸せな音が流れ続けているのだから。
私達姉妹は楽団結成からそれぞれ三度目か四度目かの楽器供養をしていた。楽器も道具だから壊れたら適切に供養しないと付喪神化する。それはちょっと困るのだ。仲間が増えて結構なこと、とはならない。楽器の付喪神には先客がいる。あの子達は商売敵でもあるが同時に幻想郷を音楽で染め上げる同志であり、それなのに「望まれない子」をうっかり増やしてしまったら彼女達に申し訳が立たない。しかも私達が楽器の後始末に失敗したら生まれてくるのは多分、「壊れた」楽器の付喪神だろう。不協和音!!
なので楽器が壊れたら都度供養しなければならない。普段は持ち主が一人で供養するのだが、今は三人全員喪に服している。これは単純に偶然。たまたま同時に楽器が壊れてしまったのだ。
ただ、幸運といえば幸運でもある。スケジュールを空けるのが一度で済む。まあ、一人でも楽器が無事だったらソロライブで繋げた気もするけれど。
「ぼくの だいすきな クラリネット パパから もらった クラリネット」
楽器供養は我流で、私の場合は日本の『クラリネットをこわしちゃった』、姉さんはポルトガルの『Eu Perdi o Dó da Minha Viola』、リリカはフランスの『La chanson de l'oignon』をそれぞれ演奏し、演奏終わりと同時に滅茶苦茶に騒々しく楽器をぶっ壊し、それを丁寧に箱詰めして家の前に埋める。ちなみに三曲ともメロディは全く同じ歌の派生なので、今回の場合は半分くらい同じ曲を三人で演奏する。サビでは「オーパキャマラド」の大合唱だ。
壊れた楽器で演奏してるものだから他人に聴かせて金を取れるようなものでは到底ないが、それでもこの子達の最後の晴れ舞台。葬式という言葉に予想される陰鬱さはそこにはない。もっとも姉さんは辛気臭そうにしてるが、それは本人の性格が悪い。リリカは三番を演奏するときに理由もなくオーストリア人に敵意をむき出しにするが、それは曲の歌詞が悪い。
演奏が終わると同時に、数字の「8」みたいな形の木材とぐねぐねした金属管とお歯黒を半端に染めた怪物の口みたいな見た目の機械とを天井に放り投げ壁に打ち付け床に衝突させる。見た目のお行儀が悪いという自覚はある。楽器葬儀は身内だけでやってるサバトみたいなものなのだが、昔通りすがりの妖怪に見られ、「あの楽団は楽器を粗雑に扱っている」という悪評を立てられてしまったことがあった。
私達に言わせれば、壊しているそれらはもう楽器ではない。例えば人間は死んだ人の体を燃やす。遺体は人間とは見なされていない、と表現すると今度は人間から顰蹙の嵐なのだろうが考えてほしい。生きている人間を炉にくべた場合と死んだ人間を炉にくべた場合の倫理の是非が変わるのだから、両者は同等の扱いはされてはないというのは自明だ(もし貴方が土葬文化圏なら「炉にくべる」を「棺桶に入れて地中に埋める」と置き換えてもらっても構わない。私達は外国人ルーツの多文化配慮ができちゃう騒霊なのだ)。火葬にしろ土葬にしろ、死んでしまった後はいかに肉体の不用意な蘇生を防いで魂魄の分離を確実なものにするか、というのに焦点が当てられているように思える。私達がこうやって楽器を壊すのだって同じで、葬儀の一環なのだ。
と、確か悪評が流れたときだったかに姉さんが言ってた。姉さんは理屈っぽい。私は単にその方が楽しいと思って今のやり方を提案した。最初は工具で一本一本ネジやら何やらを外して分解していく、それはそれは辛気臭いものだった。私がそれは嫌だといって、リリカが「それに分解するだけじゃ泥棒が盗んで組み立て直しちゃうかもしれない」ともっともらしい懸念を述べて一対二の多数決で二度目から騒々しくするようになった。
私達が住み着いてここに転移し、今に至るまでのかなり長い歴史の中でこの家で死んだのはレイラただ一人だ。が、庭(と名前がついた花もない空間)には死者の人数に対して不釣り合いに多く十字架が立っている。
「その墓標を別に用意して『ストラディヴァリウスなんとかかんとか ここに眠る』って毎回書くの面倒じゃない?」
「いやいやちゃんとその作り手に恥じぬ活躍をしたんだからちゃんとナンバリングもして供養しないと」
「ストラディヴァリウスって言ってるの姉さんと道具屋の店主だけだけれどね。番号をわざわざローマ数字で振るのも性格出てる」
「なにさ姉を変人みたいに。大体メルランだってその十字架、土の下に誰がいるのよ。大司教猊下?」
他の二人は木の枝を糸で結んだだけの十字架を使っていたが、私か刺した十字架は金色の金属製で複雑な装飾が施されていた。逆にそれだけといえばそれだけなのだが。
「傘の付喪神が鍛冶屋してて、その子に頼んで作ってもらったのよ。自腹だから安心して」
「食費足りないって泣きついても知らないよ」
「メッキよメッキ。金じゃないからそんな高くない」
†
新しく楽器を調達するときに、姉さんはまず里の道具屋を巡り、リリカは香霖堂に行く。
これは「勝率」を最大化させるための適応の結果である。
一つ、幻想郷には腕の良い木工職人が多い。そして職人というのは往々にして酔狂だから、わざわざ無縁塚から拾ったり古道具屋から買ったりした外の世界の物品(木製楽器もここに含まれる)を修繕したり改造したりに、もっとお金が儲かる量産家具の製造よりも時間をかける。職人は音楽家ではないから、一見すると観賞用にしかならないような、音が外れる魔改造を施された楽器をお出ししてくるようにも思える。しかし実際には、足りない部品を幻想郷産の木で補修したそれらは、無論多少の調律はこちらでしないといけないとはいえ、ほぼ正しいオクターブを鳴らすのだった。「健全に正しい形の楽器は健全に正しい音を発する」。この理論で意気投合した里の職人達とルナサは、楽器の手配において同盟関係となっている。
二つ、幻想郷にいる機械技士は木工職人より遥かに少ない。あるいは、河童が音楽に素養があったらリリカの楽器調達先にも少しはヴァリエーションが出たのかもしれないが、生憎彼女らは無縁塚に捨てられた機械楽器を「部品をはぎ取れるジャンク寄せ集め」くらいにしか思っていないらしい。楽器としてそれらを欲するならば、森の外れに店を建てている偏屈な道具屋を頼るしかないのが現状である。ここの店主は、偏屈であると同時に無縁塚にあるものはとりあえず可能な限り全部回収するという末期の蒐集癖持ちでもある。幸いというべきかなんというべきか、三姉妹の常識人ポジションですという顔をしてるリリカだが、ここの変人店主と妙に相性が良いようで、楽器の調達先候補が一つだけでも困ってはないようだ。もっとも、「あまりにも仕様が玄人向けすぎて外の世界でも少数生産に終わったシンセサイザー」だのそういうのを掴まされた挙句、本人は嬉々としてそれを使っているというのもしばしばだが……。
ということで、姉さんとリリカは確固たる楽器の調達先を見つけているが、私はそうではない。
三つ、幻想郷にいる金物職人は、木工職人より少なく機械技士よりは多い、なんとも半端な人数だ。そして微妙な人数の金物職人達は、金属の中でも真鍮の加工にはそれほどの熱意を見せず(大抵は鉄製品にお熱だ)、こちらから楽器を持ち込んだら微調整に協力してくれるくらいの関係性は結べるものの、元となる楽器を店頭に並べてるかというと、里全体を巡ったら時々一、二個あるが必ずしも置いてるわけではないという確率。
じゃあ香霖堂はどうかというと、あの店は何でもあるが故に何でもはないのだ。彼の蒐集癖を止める唯一の要因が建物の物理的な容量で、店(と外のガラクタの山と化した物置場)の体積以上には物は存在できない。リリカが香霖堂をお得意様にできてるのは店主の嗜好がいかにも「外の世界っぽい」機械らしい道具にあるからで、ただそういう物品は、キーボードがそうであるように、大抵大きい。そうなると、機械と、機械でないが店を圧迫しない小物類が店の容量の多くを占めるようになり、トランペットという「機械ではないが置き場を食う」道具の優先度は、ここの店主の中ではだいぶ下がってしまうらしい。
なので私の場合、里か森かのどっちかにその日の気分で向かって、そこで空振ったら無縁塚に行き自分で適当なものを探す、というのが一番多い。今回も無縁塚で拾った、何の変哲もない普通のトランペットが次の相棒になった。
「メルランが一番楽器の質をこだわらないよね」
とは姉妹の上下からよく言われる。
†
男は自宅で作業をしていた。
パソコンの横には珈琲の入ったカップがある。彼は、その業績と同じくらい酒豪ということでもよく知られていて、若い頃は同じ場所にビールジョッキがあった。しかし五十手前ともなると、流石に昼間から酒を飲んで仕事をするのは自重した方がいいだろうと考えるくらいには健康志向に傾く。
彼の主な仕事はゲーム制作だった。会社で部門ごとに分かれて、というのとは違い、彼のそれは家族経営な(彼の妻は絵が上手いのだ)同人活動だった。そういう意味では、彼はプログラマーであり、イラストレーターであり、作曲家だった。
パソコンで音楽を作る手法は色々あって、一番アナログな方法だと楽器を自分で演奏してその音をオーディオインターフェースで取り込むというやり方になり、デジタルには音源となるソフトを用意してパソコン内で演奏させるやり方となる。この音源にも、ソフトをインストールするだけで完結するものから外部機器の形でパソコンに接続して使うものまで色々である。
「ん……?」
楽曲用の編集ソフトを立ち上げたときに彼は異常に気が付いた。パソコンに接続している音源機器の一つが認識されないのだ。
彼のゲーム制作歴は長い。今異常を起こしているのは活動の初期の方から使っている最古参の機器だからこの時点で覚悟しているところもあった。無論、メンテナンスには常日頃から気を配っている。そのおかげで今も音源側はまだまだ元気なようだが、これがパソコン作業である以上どうしようもないことだってある。
彼は珈琲のカップに少し口をつけた。
†
私が楽器の質にそこまでこだわらないことについて、楽器の品質志向の姉と妹からは時折いじられるのだが、結局、音というのは最初から自然の中にあるのであり、自然の中の良い音を上手く引き出すことができるならば、楽器のブランドの名前にはそれほどの意味はないし、極論鳴らすものが楽器である必要すらない。あ、私今凄く芸術家っぽいこと言った。
私は三姉妹の中では一番世界を観察するのに時間を使う。それが苦にならない性格だからというのが大きいだろう。私は世界を楽観的に見る。ルナサは悲観的に見る。リリカは打算的に見る。一見リリカが三姉妹の中間のようで、あの子は自分にとって得かどうかで見る見ないの初手を決めるから、実は姉さんより世界を観察することに時間を割かない。まあ、リリカの場合、その短い時間で必ずいい音を探し出してくる。それは純粋に称賛すべき才能の一つだ。
私のことに話を戻して、何がいいたいのかというと最近の世界の音はとても楽しいということだ。ボジョレー・ヌーヴォーの品評の如く毎年言っているが、これは真理である(というか、ボジョレー・ヌーヴォーだって知ったかぶりが馬鹿にしてるが、毎年「最高の出来」になり続けることは別におかしくともなんともないんだって)。
環境音からインスピレーションを得て、早速鳴らしてみる。すると、これが実によく馴染んだ。
自然から音を見つけ出してそれをそのまま演奏するというのは、本来ならばリリカの領分だ。絵で例えると、リリカの音は写実主義の油絵みたいなもので、天狗の撮る写真ばり、いや、それ以上のリアリティを届けてくる。幻想とは非実在とは違う、ということをリリカの音楽を聴くたびに強く感じる。
私の音はどっちかというとクレヨンだと思ってる。無邪気さとか楽しさとかそういうのがウリ。「正しさ」とか「巧さ」とかは評価基準じゃない。……いや、私のトランペットは巧いよ? 何分天才だから、巧さを求めてなくても巧くなっちゃうんだな。ふふん。
ただ、巧くはあってもリアルではない。流石に私くらいの自己肯定感でも自然環境にトランペットの音が高らかに流れていると大真面目に熱弁することは普通しない。
が、今回ばかりはそうとしか表現できないように「自然」だった。
楽器を新調してから最初のセッションにして、
「なんかメル姉の音、ちょっと私っぽくない?」
リリカは当然のようにそのことに気が付いた。
「音外れてた?」
「別にそんなことはないけれど……」
音楽界の水墨画枠な姉さんも気が付いていたらしい。
「じゃあいいじゃん。それかリリカがこの音使う?」
「いやいいよ。メル姉の音ではあるし。姉さんがその音出す分こっちで調整しないとなって」
「そんな気にしなくても大丈夫じゃない? 変な言い方だけれどものすごく自然な音だし」
姉さんが柄にもなく適当なことを言った。いつもは神経質にテンポの一ビーピーエム、音の高さ一ヘルツにまで口出ししてくるのだが。
この音にはある種の魔力があるのだと思う。「適当」という魔力。適当という言葉は妥協という悪い意味にも捉えられがちだけれど、あるべきものがあるべきところにある、適当ってそういうのだ。目玉焼きが上に乗ってフライドポテトが横についたハンバーグを前にして「こういうのでいいんだよこういうので」と思うような。別にそのハンバーグが牛百%か合い挽き肉かなんてどうでもいいし、ポテトの切り方がシューストリングかウェッジカットかなんてのも些細なことだ。この音が、私のトランペットから出ていて、私達のアンサンブルの一要素を形成している。それが適当。
†
私達は家でレコードを聴いていた。
レコードというのは便利だがちょっと難儀な性質をもった道具だ。家には蓄音機が一台ある。この蓄音機が結構な高性能で、一台で家全体をカバーしている。便利!! でもちょっと待ってほしい。今はクラシックが流れている。ジャズを聴きたい私の人権はどうなるの? 不便!!
かくしてこの家の国技とはレコード争奪戦なのである。他の勝負事の景品として(相対的に)平和裏に決まることも稀にあるが、八割以上はほぼ競技カルタだ。私達はレコードと蓄音機の耐久力に感謝すべきなのかもしれない。
この時間クラシックが流れているのは姉さんが勝利したからだ。私だってクラシックは別に嫌いじゃないけど一番好きではないので勝負に負けたことも相まって流石に少し悔しい。あと『魔王』って絶対日曜日の昼下がりに流す音楽じゃないでしょ。
「思うことがあるんだけどさ」
リリカが話しかけてきた。
「何さ」
「レコードって大体外の世界から流れてくるものじゃん」
「そうだね」
そのことなら私も思うところがあるよ。あなたがセットし損ねて今膝の上に持ってる『ビスケットを食べる音ASMR』って書かれたレコードも外の世界産なの?
「あれってさ、音そのものが忘れられたのかな?」
「さあ? 普通にレコードの持ち主がなくしちゃっただけじゃない?」
もし音そのものが忘れられた結果ここにレコードが来るならば、外の世界の人はもうシューベルトを聴かないしビスケットを食べないということになる。どっちも奇妙なことだ。
「だよねー。だとしたら今も結界の中と外で同じ音を聴いてる人がいるのかもね」
リリカは戸棚からビスケットの箱を出して中身をボウルにあけた。余程音を聴きたいらしい。私はなんとなく紅茶に浸して音が鳴らないようふやかして食べることにした。
「レコードという道具が流行らなくなったのかもしれない」
姉さんが会話に混ざってきた。会話してるのを聞いたという風を装い、ビスケットがボウルに当たる音の方に誘導されていたように思える。真顔でビスケットを二枚同時に取って口に入れてバリボリ音を立てていた。
「ああそういう? レコードでも大概便利すぎるくらいなのに、それにも飽き足らないって人間は強欲だよねー」
「最近時々こっちに来るようになった外来人いるじゃん? あの人の持ってる板みたいな機械にも蓄音機機能があるらしいよ」
「あれってカメラじゃなかった?」
「カメラだし、蓄音機だし、他にも色々できるって」
「うわぁ、強欲」
リリカはドン引きしてたが、人間なんてのは欲深いのが性分だ。これは私と姉さん両方が共通して持ってる持論。姉さんはこのことをシニカルに見てて、私はある種リスペクトしてる(つまり、無欲な人間より欲にまみれてるくらいの方が楽しい)という違いはあるが。
「レコードが流行らなくなったからこっちでは入手に困らないってものだよ。嗚呼諸行無常諸行無常」
と、姉さんはまるで自分が欲のない覚者かのような言葉を吐きつつ、他二人より明らかに多い枚数のビスケットを手に取っていた。
「とにかくさ、話を戻すと、レコードが流れてきてるからといって、音そのものが消えたわけではないとみんな思ってると」
「そりゃそうよ。このペースで消えてたら、今ごろ外の世界は無音よ」
「でもさ、現に消えたであろう音もあるのよ。例えば河童が池に飛び込む音とか」
リリカがわざとらしく間を置いたので耳を澄ませてみたが、その音は聞こえなかった。リリカが鳴らしてくれるわけでもなければ、本物の河童の音が聞こえるわけでもない。そもそもこの家の周りに池はないのだ。代わりに朱鷺が鼻詰まりみたいな声で鳴いているのが聞こえてきた。
「難しく考えすぎよ。外の世界で消えた音だろうが消えてない音だろうが、それとは無関係に元の持ち主が無くしたくらいの理由でレコードは来る。それでいいじゃない」
「いーや、これは重大な問題だね。セッションするときの私の調整に関わる。つまりはだね、メル姉が今使ってる音が外の世界では消えたのかどうか。私は消えてると踏んでる」
「へえ」
リリカの「つまりはだね」が余りにもわざとらしくて思わず吹き出しそうになったがなんとかこらえた。
「じゃあ私は消えてない方に一円」
「……」
「……」
「……」
私とリリカの二人でルナサに視線を送る。
「えー。……じゃあ、消えてない方に」
テーブルの上に銀貨が三枚置かれた。「消えてない」派が二対一で優勢だが、これは多数決でなく正しい方が勝つというルールだ。
そして、その正しさを証明する手段はない。翌日、件の板型蓄音機(兼カメラ兼その他諸々)持ちの外来人を捕まえて私の演奏を聴かせて「聴いたことがない」という見解は貰ったが、残念ながら彼女がたまたま知らなかっただけかもしれないので音の絶滅の証明にはならない。いわゆる悪魔の証明だ。
私達は、こういう決着のつけようのない賭け事をすることがしばしばある。
確か、このときの掛け金は最終的にピザに化けたんだったかな。いや、ベッドが壊れたときの修繕費だったかな(壊れた家に住んでるのに、それ以上の不便になるだけの壊れにはきっちり対応する。それが私達三姉妹だ)。まあ、そんな感じで、決着のつかない掛け金は三人の共有資金として、適当なタイミングで、当人達すら覚えてないような適当な使途で消費されることになる。
†
彼とて、音源の不調を見て即座に見限る決断を下したわけではない。長年使い続けてきたこともあり相当に愛着はある。線を差し直し、再起動をし、ドライバーをインストールし直そうと試みる。そういう自分でできる範囲での対応は一通り試した。
が、ドライバーが再インストールできなかったところでついに匙を投げた。この手のものに詳しい知己に連絡をした上で、納期の近い次の作品はこの音源を使わずに作曲するという決断を下した。
「何を使おうかなあ」
彼はこの状況を心から面白いと思っていた。否応なしにレギュラーメンバーが戦力外になったことで、残る戦力から誰を登用するかとか、新しく補強する先はどこからにするかとか、そういう試行錯誤の楽しみというのは間違いなくある。
あらゆるものは変化し、不変というのはない。
釈迦はそれを「無常」と呼んだ。この言葉には、どこか物悲しさのようなものがある。
古代ギリシャの哲学者は「万物は流転する」と表現した。世界の真理を淡々と述べる、中立的表現だ。
二十世紀後半に生まれ二十一世紀を生きる彼は、このことをもっと肯定的に捉えていた。大学時代から始まる長いキャリアの中で、多くのゲームを彼は作った。処女作を除きそれが「弾幕シューティング」という形態をとっていることは一貫しているが(なんなら、処女作でも弾幕があるかないかでいえばあった)、最初期の作品と最近の作品では全くの別物である。
こういう大御所に対する要望の常として、彼もまた黎明期の、現代のパソコンでは動作対象外になってしまい物理ソフトも絶版になってしまった作品のリメイクを望まれはするのだが、これには常に否定的な見解を示している。確かに自身の技術も使える道具の質も遥かに高い今の時点で作り直せば、(大衆目線で)よりよい作品を今の人達にも遊べる形態で出せる可能性は高い。が、今の作品が今の自分にしか作れないように、三十年前の作品は三十年前の自分にしか作れなかったものであり、果たして今の自分にはもう作れないものを作ろうとすることに意味はあるのか? と考えてしまうのである。そしてもっと重要なことに、この手の議論で何故か忘れられがちなことであるが、リメイクに時間を割くということは今新たに作品を作る時間を奪うということである。彼の哲学において、それは許されない。
変化は楽しい。不変はつまらない、とも言える。奇しくもそれは今回の作品のテーマの一つであり、変化を楽しむ愉快で繁栄した勢力と変化を拒絶する面白みのない奴らを対比的に描写する、という物語構造にしていた。
未来はどうなるか分からないからこそ楽しい。当然、ある程度の予測はできる。今回の場合、機材の不調解消は新作完成には間に合わないというのが確定した未来だ。だがその先、意外とこの機械を今の環境で使う方法が見つかって、次々作でしれっと復活するかもしれない。彼にとっては、それもまた変化だ。
人生は予測という懐中電灯の灯りで夜道を照らしながら歩むようなものだ。時折暗がりから何かが飛び出てきてそれが驚きとともに、あるときには恩恵を、別のあるときには損害をもたらす。
彼は暗がりの中に音源を置いた。心の奥底のどこかで、夜道を歩く彼の背後からまたこれが追いついてきてくれることを期待している節もありはする。機材を丁寧に片付けることでその可能性を最大化させはしたが、オッズがどうか、確率通りにことが運ぶかなんてことは分からない。悪魔が突然部屋に訪問して、未来を教えることを条件に取引きをもちかけてきたとして、彼はきっぱりと即決で断るだろう。
別の日に、彼はタイトル画面の画像を開いた。その左上には「東方錦上京」というロゴが力強く鎮座していた。
†
音の寿命は無限ではない。音は運動エネルギーであるから距離や材質により減衰してというようないけ好かない魔術理論ではなく、普通に流行り廃りがあるという意味だ。一つの音で生涯走り続ける音楽家は極稀である。
流行り廃りは聞き手だけでなく音を作る側にも。
私があの音をトランペットから出すことは少なくなっていった。普通、楽器と音は一対一対応なところがあるが、私達は普通に楽器を演奏するというよりも楽器の霊の潜在能力を引き出すような奏法を使っているから逆に今まで使っていた「ド」の出し方を封印して別の「ド」の音を出すようなこともできる。
今のトランペットを手に入れてから二十数年程経った。私達が使う道具の寿命を考えると折り返しは通り過ぎたくらいだろうか(閻魔様は「あなた達はかしましいから道具の扱いも乱暴なのです」と言いがかりみたいなことを言う。仮に私達の道具が人より長持ちしないとして、多分その理由は、一日あたりの使用時間が人間の音楽家より長いからじゃないかな。メンテナンスはちゃんとしてるもん)。出そうと思えば今もまだ、あの、英雄が行進しているかのような高らかに響く音をトランペットから出すことはできるし時々はそうする。でも、本当に熱狂していたときの、この音ありき、ではもうない。
姉さんもリリカもそのことを殊更指摘しようとはしない。二人にもそういうことはよくあるから、言ってもブーメランにしかならない。私も、姉さんがエレキギターによる退廃的鬱の表現を数年模索しそして何事もなかったかのように通過していったことの是非をどう思っているか、ということは胸の内に秘めておこうと思っている。
楽器の寿命も、音の流行も、悠久の時の流れに比べれば一瞬で過ぎ去ってしまうものだ。あのトランペットの音を鳴らしていたときは、幻想郷と外の世界のどこかで同じ音が流れているに違いないという確信のようなものがあったが、発さなくなったことで外の世界でももうこの音は鳴らないのかもしれないと思う気持ちが育ってきた。私の手を離れることで、この音は幻想の音として完成したのかもしれない。
私はそれを悲しいこととは思わない。音が過ぎ去った後に訪れるのは虚無ではない。音は、未来から来る別な音に押し流されることによって去っていくのだ。音が消えるということは、古い音の葬式じゃなくて新しい音の生誕祭。
だって、今の幻想郷にも、とても楽しくて幸せな音が流れ続けているのだから。
とても面白い繋げ方で、なるほどと膝を打ちました
三姉妹それぞれの哲学が垣間見えて素晴らしかったです
暮らしぶりも楽しそうでとてもよかったです
虎柄の毘沙門天が最初に浮かんできました>ZUNペット