「おや、まほうのもりに ちいさな どくきのこ」
おつきさまが そらからみて いいました。
おひさまがのぼって
あたたかい にちようびのあさ。
ボンッ!と まほうのもりで ばくはつがうまれました。
いえがこわれたまりさは おなかがペッコペコ。
まりさは たべるものを さがしはじめました。
そして げつようび。
まりさは どくきのこをひとつ みつけて たべました。
そのばん――
まりさは おなかがいたくて なきました。
⸻
朝、霧雨魔理沙が目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な青虫に変ってしまっているのに気付いた。
「なんじゃこりゃあああああああ」
という思いは叫び声にはならず、空気すら漏れ出なかった。喉の構造がそもそも違うらしい。
未だ悪い夢の中にあるみたいに頭がぼんやりとする中、「私はどうしたのだろう?」と、魔理沙は思った。原因の心当たりとしては、拾って食べた怪しいキノコ。どうしようもなくお腹が減っていて、つい口にしてしまったが、まさか……。
昨日は食べてから暫くして、あまりの腹痛に意識を失ったが、いったいいつ身体が変質してしまったのだろう。魔理沙は、ベッドの上で棒状の体をもぞもぞと動かした。
都合よく視界に鏡があったので自分の姿を確認する。全体的に緑色の、丸太のような胴体。手は無く、代わりに短い足が8対程。大きさはおそらく、元の身体の半分程度。それらが自分の体だと認識したとき、ぞっとするほどの実感が全身を走った。
とてつもなく気分が悪い。こんな姿を誰かに見られたら、最悪だ。というかそもそも、私だと認識すらされないか。
などと思っているところで、がちゃりと部屋のドアが開く音がした。
魔理沙は思わず布団の下に隠れようともがくが、この身体は遅過ぎる。木の床が軋む音と共に侵入者は近付いてきて、やがてその影が魔理沙を覆う。
観念した魔理沙が振り向くと、影の主はアリス・マーガトロイドだった。寝間着姿のまま、髪も整えていない。
動転していて気付く余裕すら無かったが、そもそもここは魔理沙の部屋では無かった。よく見知ったこの内装は、アリスの部屋だ。
そういえば、自分の家は研究の犠牲となって爆散した。きっと倒れていた自分をアリスが見つけて介抱してくれたのだと、状況を理解する。
「あれ、魔理沙──」
そのアリスは部屋をキョロキョロと見渡しながら言いかけて、やがて言葉を止めた。
青虫魔理沙を見つけて、目が合った。アリスの瞳が、一瞬にして硬直する。
視線の先にいるのは、友人である少女ではなく、巨大な青虫。
血の気が引いて、顔が青ざめていく。
いなくなった友人と、巨大な虫。そして虫から発せられる、馴染みのある魔力。
点と点が繋がって、歪な形が出来上がる。
「もしかして……ま、魔理沙?」
アリスは一歩、後ずさった。だが逃げない。
信じられないものを前にしても、彼女は息を整え、震える声で続ける。
「あなた……なのね?」
魔理沙は上手く動かない身体を必死にくねらせ、布団を擦る音で返事をした。
その仕草を見て、アリスは確信したように息を呑む。
「……そんな。なんてこと」
アリスは両手で口を抑え、それ以上言葉を発せなかった。それなりに長く生きてきて、色々経験してきたけれど、友人が虫に変わったなんて事は初めてだった。こんな時に適切な行動も言葉も見付からない。
暫く放心した後、やがて椅子を引き寄せ、魔理沙のそばに座り込む。手は震えている。それでも、恐る恐る白い指を伸ばし、魔理沙の背中にそっと触れる。
ぬるりとした感触に一瞬ひるむが、アリスはすぐに離さなかった。指から直接感じる魔力は、やはり疑う余地無く魔理沙のものだった。
「魔理沙、私どうしたら……」
途方に暮れるアリスに、魔理沙は私にも分からないぜといった具合に身体を捻らせた。
◇
そうして、魔理沙とアリスの奇妙な生活が始まった。
人形たちは主人の命令に従い、部屋の掃除や調合の手伝いをいつものようにこなしている。その部屋の中心には、小さな布を敷いた「寝床」があった。
そこに鎮座しているのは、一匹の青虫。
アリスの友人であり、いまや彼女の最も手のかかるペットでもある。
毎朝、アリスは森からなるべく青々とした美味しそうな葉っぱを採ってきて、青虫に与えている。紅魔館で借りた図鑑によると、この種の青虫は柑橘系の植物を好むらしかった。
今も丁度、カゴいっぱいに採ってきた蜜柑の葉っぱを青虫に差し出すところだった。
「ほら、魔理沙。ご飯よ」
青虫はそれをもそもそと口にする。とても食欲旺盛で、どんどんと平らげていく。
沢山用意した葉っぱは、すぐに青虫のお腹に消えていった。
「魔理沙、美味しい?」
言葉を交わすことはできなくても、アリスは語りかけることをやめなかった。
魔理沙は言葉を発せないけれど、理解は出来ている。身体を捻ったり転がったりして、何らかの返事はしてくれる。
それにもしアリスが語りかけるのをやめたら、魔理沙はいよいよ本当の虫になってしまうように思えた。
「まだ食べる?」
アリスが訊くと、青虫は身体を僅かに右に捻った。いつの間にか、それは「イエス」という意味で定着していた。
アリスは立ち上がり、再び葉っぱを採りに森へ向かった。
それにしても、自分の身体の半分程の葉っぱを食べてまだ満足しないとは、どれだけ腹ペコな青虫なのだろうか。
◇
それからアリスは、魔理沙のご飯の時間以外を、研究に費やした。
その結果、魔理沙の身に起きている事象について幾らかの事が判明した。
これは変身呪詛でも、妖精の擬態でもない。
むしろ、生物学的な変態に近い。
だが、そこには確かに魔力が介在している。
魔理沙はその魔力に促されて、青虫に自分の身体を作り変えた。
そしてどうやらそれは、まだ途上にあるようだった。魔理沙はまだ、別の何かになろうとしている。
「つまり、これは……変化というより進化?」
アリスは頭を抱える。
魔理沙の進化のスピードに、付いていける気がしなかった。
◇
やがて夜になると、アリスは魔理沙の寝床に布をかけてやる。青虫がどの程度寒さを感じるか分からないが、震えて眠るのは可哀想だ。
その下で、青虫の体は規則的に、静かに小さく伸縮していた。
呼吸をしていて、確かに生きている。
「……魔理沙」
アリスは呟き、目を伏せた。
眠りにつく前、必ず魔理沙を一度見やるのが習慣になった。
青虫というと、どうしてもすぐに死んでしまうイメージがあった。
図鑑によると、自然界で成虫になれる確率は1%にも満たないらしい。
――今日も生きている。
そう思えるだけで、少し安心できた。
◇
数日後の朝、目覚めたアリスは仰天した。
青虫が二匹に増えていたのだ。
しかし動転しつつもよく見てみると、片方はしぼしぼで、生の気配は無い。脱ぎ捨てられた衣服のように、皮だけがだらんと転がっている。
アリスは、図鑑に書かれていた一節を思い返した。
「これは……脱皮?」
アリスが呟くと、青虫は嬉しそうに身体を揺らした。その身体は確実に昨日より大きく、魔理沙の進化が順調に進んでいる事を示していた。
◇
少しの月日が流れた頃、青虫の背に変化が現れる。
薄く、透けるような白い膜ができ始めた。
そして身体の変化とは対照的に、青虫は段々と動かなくなっていった。
アリスが新鮮な葉っぱを差し出しても、小さく首を振るだけで、口にしようとはしない。
触れるとひんやりと冷たく、震えている。
まるで内側から殻を形作っているようだった。
「魔理沙……あなた、もしかして」
返事の代わりに、魔理沙は体を丸め、深い眠りについた。
それから数日後には、身体全体が変質し、足も無くなり、一つの大きな塊になっていた。
図鑑で見た通りの蛹の姿。
もう、語りかけても身体を揺すって返事をする事は無い。
けれど緑色の塊からは、確かな生命力を感じる。
この中で、魔理沙は成り代わろうとしているのだ。
「……魔理沙、頑張って」
アリスは蛹にそっと寄り添いながら、呟いた。
◇◆◇
——暗闇が、果てしなく続いていた。
上下も前後も分からない。
ただ重く、湿った静寂の中に、魔理沙は閉じ込められていた。
蛹の殻の中。
自分の輪郭が消え、身体が溶け、形を失っていく。
ドロドロした中で意識だけが取り残され、外の声は何も届かない。
自分以外何も存在しない世界で、やる事も無く、意味も無い自問自答だけが繰り返される。
――私は、いったい何者なんだろう。
思えば、ずっと中途半端だった気がする。
今も人か虫か微妙なところだけど、こうなる前からずっと半端者だった。
普通の人間とは言い難く、かといって巫女のように役割があるわけでもない。魔法使いなんて自分で定義付けているけど、妖怪にもなれていない。人里からしたら、自称魔法使いも落伍者も大した違いなんかない。
『霧雨家の面汚し』
『魔法使いを名乗っても、所詮まがいもの』
『才能が無い。普通に生きればいいのに』
蛹の内部から声が響く。それは、幼い頃より染み込んだ、実家の声だった。
何度も繰り返し聞かされた言葉。脳裏にこびり付いて離れない呪詛。
私の在り方を否定する、重く錆びた楔。
私は昔からずっと、何者かになりたかった。婿を受けて「道具屋店主の夫人」におさまる未来を想像したら、まるで自我を失うようで恐ろしかった。
だから、自分にしかなれない何かになる為に、逃げ出すように森へ入った。
それから、何かになる為に、何もかも自分で作り上げてきた。
そう、自分で作り上げたんだ。
そう思った途端、暗闇の中で、ぼぅっと誰かの姿がぼやけて浮かぶ。
——香霖。
よく知ったその存在は、無表情のまま、静かに首を横に振る。
私が馬鹿な事をした時に嗜める時の仕草。
「無理をするな、魔理沙。どうせ君は一人では生きていけない」
その声は、冷たい。
優しい口調ながら、私の積み上げを否定する。
何でそんな酷い事を言うのだろうか。本物の香霖も同じ様に思っているのだろうか。
——けれど確かに、私が魔法の森で生きてこれたのは、香霖のおかげだ。八卦炉が無ければ、私は忽ち妖怪の餌食になっていただろう。
自らの愚かさに自嘲じみた笑いが漏れる。一人で作りあげたなんて一瞬でも思いあがったのは、あまりに浅はかだった。
そして次に現れたのは、霊夢だった。
遠くから静かにこちらを見下ろしている。
その目は優しいけれど、距離はあまりにも離れている。
「もう飛ばない事ね。あんたに怪我して欲しくないのよ」
そう言って、背を向ける。
その姿がゆっくりと闇の中に溶けていく。
魔理沙は手を伸ばそうとした。
だが腕は無い。
身体はもうドロドロで、意識だけが浮かぶように存在している。
「待ってくれ……頼む、置いていかないでくれよ……」
声にならない叫びが胸を焼く。
闇はさらに濃くなり、音も匂いも、世界の全てが消えていった。
何も無い。
誰もいない。
――私は、何者にもなれない。
心がぐちゃぐちゃで泣きたくなるが、涙さえ流れない。
このまま閉じた蛹の中で終わりたいとさえ思えた。中途半端な私には、中途半端な最期が相応しいだろう。
——そのときだった。
不意に、愛しい声が聞こえた。くぐもっていて内容まではハッキリしないが、私がそれを聞き間違えるはずも無い。
――アリス!
胎内で聞く母親の声のように、重く優しく響く声。まるで私の不安を溶かしてくれるような甘い安心感。
神経を集中させ、その声を拾い上げるように、無い耳を澄ます。
「腹ペコでしょ?」
……何だそれ。
漸く聞き取れた言葉に、笑いが漏れた。
けれど、大した意味も無いだろうその言葉は、確かに胸を打った。
水面に石が投げ込まれたみたいに、心に波紋が広がっていく。
「腹ペコ」なんて間抜けな表現が、私にはぴったりだ。
どうやらアリスが毎日美味しい葉っぱをくれたおかげで、一時的に満腹になって忘れてしまっていたらしい。
食べても食べても満足しない。もっともっとと欲しがり続ける。
それが私だ。
そうやって、生きてきた。
何者でも無いなんて、当たり前だろうに。
私はまだまだ食べ盛りだ。
食らって食らって、それから何かになってやれば良いんだ。
蛹の殻が、微かに開く音が聞こえた。
◇◆◇
魔理沙が蛹になってから、アリスはまるで時が止まったかのように過ごしていた。
暇さえあれば蛹の様子を確認し、魔力の流れを記録する。彼女の机にはびっしりと観察ノートが積み重なっていった。
十日目。魔力反応は安定。
眠っているようでいて、確かに生きている。
内側で構造が再編されている気配。
これは……再誕の儀?
アリスは書きながら、何度もペンを止めた。
蛹を通して伝わるぬくもりが、どうしようもなく愛おしい。
友人であり、ライバルであり、それ以上の存在。
ある夜、風の音が静まるころ、アリスは蛹にそっと語りかけた。
「ねえ、魔理沙。目を覚ましたらご飯作ってあげるわ」
当たり前だが、何の返事も無い。声はおそらく届いていないだろう。それでもアリスは声を掛け続ける。蛹を魔理沙たらしめる為に。
「そろそろ、腹ペコでしょ?」
すると蛹が、ほんの一瞬だけ淡く光った。
その瞬きは、確かに返事のように思えた。
◇
そして、ある朝。
アリスは蛹の表面に細い亀裂を見つけた。
そっと指で触れると、亀裂は少しずつ広がっていった。
息を呑む。指先が震える。
ぱきり、と乾いた音が部屋に響く。
ひびが広がり、光が溢れた。
それはまるで夜が破られ、朝が生まれる瞬間のようだった。
アリスの眼前で、蛹の中から一匹の巨大な蝶が姿を現す。
金色の光を帯びた翅。
星屑を散らしたような模様。
「……綺麗」
蝶はふわりと舞い上がり、アリスの肩にとまった。
そして、ほんの一瞬――
「ありがとな」
確かに、声が聞こえた。
「うん……おかえり」
蝶はそれから窓から飛び立ち、風に乗り森の空へ上っていく。
いつの間に雨が降っていたのか、空には虹が掛かっている。それはまるで、彼女を祝福するかのようだった。
蝶もまた全身に喜びを纏い、軽やかにひらひらと飛び回る。羽ばたく度に金色の粒子が溢れ落ちて、魔法の森を鮮やかに照らした。
◇
「あ、ちょうちょ!」
金色に輝く蝶を見て、子供達が歓声をあげた。美しい光の粒子を振り撒くその蝶は、見るものを幸せにするとして、幸福の象徴のように扱われていた。
ただ、滅多に人里には姿を現さない為、多少の危険を冒してでも魔法の森に近付いて見ようとする子供が後を絶たなかったので、大人達は頭を悩ませていた。
そしてそんな聞かん坊な子供達の中でも、特に目を輝かせる少女が一人。
その潤んだ瞳が湛えるのは、強い憧れ。非日常、超常的な存在への、溢れんばかりの憧憬。
それは、かつて別の少女が流星群に抱いたのと同じ、幻想への恋心。
「私もいつか、特別な何かになれるのかな」
人知れず想いを吐露するその頭上に、黄金の光の粒が静かに降り注いだ。
おつきさまが そらからみて いいました。
おひさまがのぼって
あたたかい にちようびのあさ。
ボンッ!と まほうのもりで ばくはつがうまれました。
いえがこわれたまりさは おなかがペッコペコ。
まりさは たべるものを さがしはじめました。
そして げつようび。
まりさは どくきのこをひとつ みつけて たべました。
そのばん――
まりさは おなかがいたくて なきました。
⸻
朝、霧雨魔理沙が目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な青虫に変ってしまっているのに気付いた。
「なんじゃこりゃあああああああ」
という思いは叫び声にはならず、空気すら漏れ出なかった。喉の構造がそもそも違うらしい。
未だ悪い夢の中にあるみたいに頭がぼんやりとする中、「私はどうしたのだろう?」と、魔理沙は思った。原因の心当たりとしては、拾って食べた怪しいキノコ。どうしようもなくお腹が減っていて、つい口にしてしまったが、まさか……。
昨日は食べてから暫くして、あまりの腹痛に意識を失ったが、いったいいつ身体が変質してしまったのだろう。魔理沙は、ベッドの上で棒状の体をもぞもぞと動かした。
都合よく視界に鏡があったので自分の姿を確認する。全体的に緑色の、丸太のような胴体。手は無く、代わりに短い足が8対程。大きさはおそらく、元の身体の半分程度。それらが自分の体だと認識したとき、ぞっとするほどの実感が全身を走った。
とてつもなく気分が悪い。こんな姿を誰かに見られたら、最悪だ。というかそもそも、私だと認識すらされないか。
などと思っているところで、がちゃりと部屋のドアが開く音がした。
魔理沙は思わず布団の下に隠れようともがくが、この身体は遅過ぎる。木の床が軋む音と共に侵入者は近付いてきて、やがてその影が魔理沙を覆う。
観念した魔理沙が振り向くと、影の主はアリス・マーガトロイドだった。寝間着姿のまま、髪も整えていない。
動転していて気付く余裕すら無かったが、そもそもここは魔理沙の部屋では無かった。よく見知ったこの内装は、アリスの部屋だ。
そういえば、自分の家は研究の犠牲となって爆散した。きっと倒れていた自分をアリスが見つけて介抱してくれたのだと、状況を理解する。
「あれ、魔理沙──」
そのアリスは部屋をキョロキョロと見渡しながら言いかけて、やがて言葉を止めた。
青虫魔理沙を見つけて、目が合った。アリスの瞳が、一瞬にして硬直する。
視線の先にいるのは、友人である少女ではなく、巨大な青虫。
血の気が引いて、顔が青ざめていく。
いなくなった友人と、巨大な虫。そして虫から発せられる、馴染みのある魔力。
点と点が繋がって、歪な形が出来上がる。
「もしかして……ま、魔理沙?」
アリスは一歩、後ずさった。だが逃げない。
信じられないものを前にしても、彼女は息を整え、震える声で続ける。
「あなた……なのね?」
魔理沙は上手く動かない身体を必死にくねらせ、布団を擦る音で返事をした。
その仕草を見て、アリスは確信したように息を呑む。
「……そんな。なんてこと」
アリスは両手で口を抑え、それ以上言葉を発せなかった。それなりに長く生きてきて、色々経験してきたけれど、友人が虫に変わったなんて事は初めてだった。こんな時に適切な行動も言葉も見付からない。
暫く放心した後、やがて椅子を引き寄せ、魔理沙のそばに座り込む。手は震えている。それでも、恐る恐る白い指を伸ばし、魔理沙の背中にそっと触れる。
ぬるりとした感触に一瞬ひるむが、アリスはすぐに離さなかった。指から直接感じる魔力は、やはり疑う余地無く魔理沙のものだった。
「魔理沙、私どうしたら……」
途方に暮れるアリスに、魔理沙は私にも分からないぜといった具合に身体を捻らせた。
◇
そうして、魔理沙とアリスの奇妙な生活が始まった。
人形たちは主人の命令に従い、部屋の掃除や調合の手伝いをいつものようにこなしている。その部屋の中心には、小さな布を敷いた「寝床」があった。
そこに鎮座しているのは、一匹の青虫。
アリスの友人であり、いまや彼女の最も手のかかるペットでもある。
毎朝、アリスは森からなるべく青々とした美味しそうな葉っぱを採ってきて、青虫に与えている。紅魔館で借りた図鑑によると、この種の青虫は柑橘系の植物を好むらしかった。
今も丁度、カゴいっぱいに採ってきた蜜柑の葉っぱを青虫に差し出すところだった。
「ほら、魔理沙。ご飯よ」
青虫はそれをもそもそと口にする。とても食欲旺盛で、どんどんと平らげていく。
沢山用意した葉っぱは、すぐに青虫のお腹に消えていった。
「魔理沙、美味しい?」
言葉を交わすことはできなくても、アリスは語りかけることをやめなかった。
魔理沙は言葉を発せないけれど、理解は出来ている。身体を捻ったり転がったりして、何らかの返事はしてくれる。
それにもしアリスが語りかけるのをやめたら、魔理沙はいよいよ本当の虫になってしまうように思えた。
「まだ食べる?」
アリスが訊くと、青虫は身体を僅かに右に捻った。いつの間にか、それは「イエス」という意味で定着していた。
アリスは立ち上がり、再び葉っぱを採りに森へ向かった。
それにしても、自分の身体の半分程の葉っぱを食べてまだ満足しないとは、どれだけ腹ペコな青虫なのだろうか。
◇
それからアリスは、魔理沙のご飯の時間以外を、研究に費やした。
その結果、魔理沙の身に起きている事象について幾らかの事が判明した。
これは変身呪詛でも、妖精の擬態でもない。
むしろ、生物学的な変態に近い。
だが、そこには確かに魔力が介在している。
魔理沙はその魔力に促されて、青虫に自分の身体を作り変えた。
そしてどうやらそれは、まだ途上にあるようだった。魔理沙はまだ、別の何かになろうとしている。
「つまり、これは……変化というより進化?」
アリスは頭を抱える。
魔理沙の進化のスピードに、付いていける気がしなかった。
◇
やがて夜になると、アリスは魔理沙の寝床に布をかけてやる。青虫がどの程度寒さを感じるか分からないが、震えて眠るのは可哀想だ。
その下で、青虫の体は規則的に、静かに小さく伸縮していた。
呼吸をしていて、確かに生きている。
「……魔理沙」
アリスは呟き、目を伏せた。
眠りにつく前、必ず魔理沙を一度見やるのが習慣になった。
青虫というと、どうしてもすぐに死んでしまうイメージがあった。
図鑑によると、自然界で成虫になれる確率は1%にも満たないらしい。
――今日も生きている。
そう思えるだけで、少し安心できた。
◇
数日後の朝、目覚めたアリスは仰天した。
青虫が二匹に増えていたのだ。
しかし動転しつつもよく見てみると、片方はしぼしぼで、生の気配は無い。脱ぎ捨てられた衣服のように、皮だけがだらんと転がっている。
アリスは、図鑑に書かれていた一節を思い返した。
「これは……脱皮?」
アリスが呟くと、青虫は嬉しそうに身体を揺らした。その身体は確実に昨日より大きく、魔理沙の進化が順調に進んでいる事を示していた。
◇
少しの月日が流れた頃、青虫の背に変化が現れる。
薄く、透けるような白い膜ができ始めた。
そして身体の変化とは対照的に、青虫は段々と動かなくなっていった。
アリスが新鮮な葉っぱを差し出しても、小さく首を振るだけで、口にしようとはしない。
触れるとひんやりと冷たく、震えている。
まるで内側から殻を形作っているようだった。
「魔理沙……あなた、もしかして」
返事の代わりに、魔理沙は体を丸め、深い眠りについた。
それから数日後には、身体全体が変質し、足も無くなり、一つの大きな塊になっていた。
図鑑で見た通りの蛹の姿。
もう、語りかけても身体を揺すって返事をする事は無い。
けれど緑色の塊からは、確かな生命力を感じる。
この中で、魔理沙は成り代わろうとしているのだ。
「……魔理沙、頑張って」
アリスは蛹にそっと寄り添いながら、呟いた。
◇◆◇
——暗闇が、果てしなく続いていた。
上下も前後も分からない。
ただ重く、湿った静寂の中に、魔理沙は閉じ込められていた。
蛹の殻の中。
自分の輪郭が消え、身体が溶け、形を失っていく。
ドロドロした中で意識だけが取り残され、外の声は何も届かない。
自分以外何も存在しない世界で、やる事も無く、意味も無い自問自答だけが繰り返される。
――私は、いったい何者なんだろう。
思えば、ずっと中途半端だった気がする。
今も人か虫か微妙なところだけど、こうなる前からずっと半端者だった。
普通の人間とは言い難く、かといって巫女のように役割があるわけでもない。魔法使いなんて自分で定義付けているけど、妖怪にもなれていない。人里からしたら、自称魔法使いも落伍者も大した違いなんかない。
『霧雨家の面汚し』
『魔法使いを名乗っても、所詮まがいもの』
『才能が無い。普通に生きればいいのに』
蛹の内部から声が響く。それは、幼い頃より染み込んだ、実家の声だった。
何度も繰り返し聞かされた言葉。脳裏にこびり付いて離れない呪詛。
私の在り方を否定する、重く錆びた楔。
私は昔からずっと、何者かになりたかった。婿を受けて「道具屋店主の夫人」におさまる未来を想像したら、まるで自我を失うようで恐ろしかった。
だから、自分にしかなれない何かになる為に、逃げ出すように森へ入った。
それから、何かになる為に、何もかも自分で作り上げてきた。
そう、自分で作り上げたんだ。
そう思った途端、暗闇の中で、ぼぅっと誰かの姿がぼやけて浮かぶ。
——香霖。
よく知ったその存在は、無表情のまま、静かに首を横に振る。
私が馬鹿な事をした時に嗜める時の仕草。
「無理をするな、魔理沙。どうせ君は一人では生きていけない」
その声は、冷たい。
優しい口調ながら、私の積み上げを否定する。
何でそんな酷い事を言うのだろうか。本物の香霖も同じ様に思っているのだろうか。
——けれど確かに、私が魔法の森で生きてこれたのは、香霖のおかげだ。八卦炉が無ければ、私は忽ち妖怪の餌食になっていただろう。
自らの愚かさに自嘲じみた笑いが漏れる。一人で作りあげたなんて一瞬でも思いあがったのは、あまりに浅はかだった。
そして次に現れたのは、霊夢だった。
遠くから静かにこちらを見下ろしている。
その目は優しいけれど、距離はあまりにも離れている。
「もう飛ばない事ね。あんたに怪我して欲しくないのよ」
そう言って、背を向ける。
その姿がゆっくりと闇の中に溶けていく。
魔理沙は手を伸ばそうとした。
だが腕は無い。
身体はもうドロドロで、意識だけが浮かぶように存在している。
「待ってくれ……頼む、置いていかないでくれよ……」
声にならない叫びが胸を焼く。
闇はさらに濃くなり、音も匂いも、世界の全てが消えていった。
何も無い。
誰もいない。
――私は、何者にもなれない。
心がぐちゃぐちゃで泣きたくなるが、涙さえ流れない。
このまま閉じた蛹の中で終わりたいとさえ思えた。中途半端な私には、中途半端な最期が相応しいだろう。
——そのときだった。
不意に、愛しい声が聞こえた。くぐもっていて内容まではハッキリしないが、私がそれを聞き間違えるはずも無い。
――アリス!
胎内で聞く母親の声のように、重く優しく響く声。まるで私の不安を溶かしてくれるような甘い安心感。
神経を集中させ、その声を拾い上げるように、無い耳を澄ます。
「腹ペコでしょ?」
……何だそれ。
漸く聞き取れた言葉に、笑いが漏れた。
けれど、大した意味も無いだろうその言葉は、確かに胸を打った。
水面に石が投げ込まれたみたいに、心に波紋が広がっていく。
「腹ペコ」なんて間抜けな表現が、私にはぴったりだ。
どうやらアリスが毎日美味しい葉っぱをくれたおかげで、一時的に満腹になって忘れてしまっていたらしい。
食べても食べても満足しない。もっともっとと欲しがり続ける。
それが私だ。
そうやって、生きてきた。
何者でも無いなんて、当たり前だろうに。
私はまだまだ食べ盛りだ。
食らって食らって、それから何かになってやれば良いんだ。
蛹の殻が、微かに開く音が聞こえた。
◇◆◇
魔理沙が蛹になってから、アリスはまるで時が止まったかのように過ごしていた。
暇さえあれば蛹の様子を確認し、魔力の流れを記録する。彼女の机にはびっしりと観察ノートが積み重なっていった。
十日目。魔力反応は安定。
眠っているようでいて、確かに生きている。
内側で構造が再編されている気配。
これは……再誕の儀?
アリスは書きながら、何度もペンを止めた。
蛹を通して伝わるぬくもりが、どうしようもなく愛おしい。
友人であり、ライバルであり、それ以上の存在。
ある夜、風の音が静まるころ、アリスは蛹にそっと語りかけた。
「ねえ、魔理沙。目を覚ましたらご飯作ってあげるわ」
当たり前だが、何の返事も無い。声はおそらく届いていないだろう。それでもアリスは声を掛け続ける。蛹を魔理沙たらしめる為に。
「そろそろ、腹ペコでしょ?」
すると蛹が、ほんの一瞬だけ淡く光った。
その瞬きは、確かに返事のように思えた。
◇
そして、ある朝。
アリスは蛹の表面に細い亀裂を見つけた。
そっと指で触れると、亀裂は少しずつ広がっていった。
息を呑む。指先が震える。
ぱきり、と乾いた音が部屋に響く。
ひびが広がり、光が溢れた。
それはまるで夜が破られ、朝が生まれる瞬間のようだった。
アリスの眼前で、蛹の中から一匹の巨大な蝶が姿を現す。
金色の光を帯びた翅。
星屑を散らしたような模様。
「……綺麗」
蝶はふわりと舞い上がり、アリスの肩にとまった。
そして、ほんの一瞬――
「ありがとな」
確かに、声が聞こえた。
「うん……おかえり」
蝶はそれから窓から飛び立ち、風に乗り森の空へ上っていく。
いつの間に雨が降っていたのか、空には虹が掛かっている。それはまるで、彼女を祝福するかのようだった。
蝶もまた全身に喜びを纏い、軽やかにひらひらと飛び回る。羽ばたく度に金色の粒子が溢れ落ちて、魔法の森を鮮やかに照らした。
◇
「あ、ちょうちょ!」
金色に輝く蝶を見て、子供達が歓声をあげた。美しい光の粒子を振り撒くその蝶は、見るものを幸せにするとして、幸福の象徴のように扱われていた。
ただ、滅多に人里には姿を現さない為、多少の危険を冒してでも魔法の森に近付いて見ようとする子供が後を絶たなかったので、大人達は頭を悩ませていた。
そしてそんな聞かん坊な子供達の中でも、特に目を輝かせる少女が一人。
その潤んだ瞳が湛えるのは、強い憧れ。非日常、超常的な存在への、溢れんばかりの憧憬。
それは、かつて別の少女が流星群に抱いたのと同じ、幻想への恋心。
「私もいつか、特別な何かになれるのかな」
人知れず想いを吐露するその頭上に、黄金の光の粒が静かに降り注いだ。
あれ……?
魔理沙そのまま……?
なのにどうしてこの爽快感
不思議な読後感のお話でした。