寒い。
痛い。
どうしよう。
男の思考はずっとその三つを堂々巡りしていた。
辺りは木々に囲まれて見通しがきかず、その枝はしとしと降り注ぐ小雨を集めて大粒の雨だれを滴らせている。
服に染み込んでくる雨だれは冷たく、男の体温を容赦なく奪っていく。
足元はぬかるんで滑り、一歩歩くたびに男の体力を消耗させていた。
男の身につけている蓑笠はところどころ破損しており、降りかかる雨だれを防ぎきれていない。その下に着た野良着もところどころ破れていて、血の滲んだ肌が見えている箇所もあった。
男は山道から滑落したのだった。
山、と言っても妖怪の山のような高山ではない。人間の里からもほど近い里山である。
男は山菜を取りに朝から山へ入っていた。彼は里山の奥に、いくつかの山菜の群落を見つけていて、時折世話をしながら旬の時期を待っていたのだった。
狙っていた場所についたときは良い天気だったのが、持ってきた袋いっぱいに目指す山菜を集め、そろそろ切り上げるか──と思い始めた途端、日が陰ってきた。
慌てて帰り支度を整えたところで、
ざあ──っ………
という音とともに本降りの雨が襲ってきた。
それでも初めのうちは「雨具の用意をしてきてよかった」と思える余裕があったが、道が木々の影に入ったところで、みるみるうちに辺りが暗くなり、土砂降りになった。
これはいかん──と思いながら数歩歩いたところで、踏み出した足が滑り、あっと思った次の瞬間、体ごと急斜面を滑り落ちていた。
かろうじて斜面に張り出した灌木に引っかかり、谷底まで転げ落ちることだけは免れたが、全身打ち身と擦り傷だらけになっていた。
転落時のパニックがいくらか落ち着くころには、雨は小ぶりになってきていた。
なんとかぬかるむ斜面を元の道まで戻ろうと試みたが、危うく再度転落しそうになって諦めた。
その後はなんとか脱出しようと斜面を横に移動しながら、いつの間にか出た獣道らしきものを辿って歩き続けている。
──どうしてこんなことに。
山道とはいえ何度も通り慣れた道であり、普段ならそうそう滑落などしそうにない場所だったはずだ。
だが、あのときは急に目の前が暗くなり、焦ったところで足をすべらせたのだ。
変わりやすい山の天気のせいか、あるいは。
(もしや、いたずら者の妖精にでも化かされたか)
妖精の中には妙な目くらましを操ったり、あるいは変な音を立てたりして、人を迷わせる者がいるという。
そういえば、自分が滑落したとき、どこからかクスクスと笑う声を聞いたような気もする。
それも思い過ごしか、記憶違いか。
今となってははっきりしなかった。
いつの間にか雨は止んでいたが、日が傾いてきたせいか、辺りは薄暗いままだった。
脚は機械的に動かしていたが、すでに登っているのか下っているのか、判然としなかった。
時間の感覚はとうに失われて久しい。
凍えた手足から這い上がる冷気が、体の芯まで染み通ってくる。
男の脳裏に「死」という単語が浮かび上がってきた。
死ぬ?
死ぬのか、俺が?
そんな馬鹿な。
ここで死んだらどうなる。
こんな誰も来ない山の中で。
こんなところで死んだら、獣の餌になるのだろうか。
それとも、妖怪の餌だろうか。
いやだ。そんな最期は嫌だ。
怨むぞ。
男はふと、子供の頃に祖父から聞かされた言葉を思い出していた。
──あまり人を怨んではいかん。怨みを呑んで死ぬと化け物になるぞ。
孫が友達と喧嘩などして怨み言を言うと、祖父はよくそう言って彼をたしなめたものだった。
男の祖父は、いわゆる「外の世界」から来た人間であった。祖父は元の故郷で火に追われて逃げ惑っているうちに、結界の隙間に迷い込んで幻想郷に入り込んだのだと聞かされていた。
祖父はまだ幼い孫に、自分が子供の頃に聞いた妖怪や化け物の話をよく聞かせてくれた。
いわく、ある峠道には通行人を襲う化け物が出たが、それは追い剥ぎに殺された旅人が、怨みのあまり化けて出たものだと。
またいわく、とある岬(幻想郷で生まれ育った男は海を見たことがなく、岬の風景もぼんやりとしか想像できなかったが)の近くの海には、沈んだ船に乗っていた船乗りたちの怨みが炎となって飛び交い、そんな日に船を出すと海に引きずり込まれて死霊の仲間にされてしまうのだという。
怨みを呑んで死んだ人間は化けて出る。
そして怨霊になったり、妖怪になったりする。
祖父は、孫に対してそんな話をしていた。
そうか。
怨んで死ねば妖怪になれるのか。
男の冷え切った体に、冷たい怒りの炎が広がってきた。
よし、化けて出てやる。
このまま死んで妖精の笑いものになったり、妖怪の餌になったりするだけで終わってたまるか。
化けて出て、俺自身が妖怪になってやる。
──それは困ります。
俺は死んだら化けて出る。妖怪になって、世間に復讐してやる。
──やめてください。
いいや、やめるものか。絶対に化けて、妖怪になってやる。
「──だから、困るんですってば」
「え」
気がつくと、奇抜な格好をした娘が、困った顔で男を見ていた。
丸顔で、どこか造り物めいて整った童顔を、緑色の髪が縁取っている。暗赤色の服や鮮やかな赤のスカートにも、髪に結んだリボンにも、ふんだんにフリルがついている。
どう見ても里の娘ではない。いや、そもそも人間ですら無さそうだった。
「普通は厄を移してしまうので人に近寄らないようにしているんですが……もうこんなに厄まみれなら構いませんね」
そう言われて思い出した。
毎年、春先に厄払いの流し雛を無人販売所で売っているという、妖怪の山の麓に住む厄神さまだ。
自身も流し雛だったと言われる厄神は西洋人形のような衣装をふわりと広げてその場でくるりと一回転した。
ふと、なにかが身の内から吸い出されていくような気配とともに、男は急に心持ちがすっきりしていくのを感じた。
同時に、視界を覆っていた薄い膜のようなものが晴れた気がした。
「とりあえずこんなものでしょうか」
厄神はそう言って男の顔をのぞき込んだ。
「これ以上厄を抜こうとすると返ってわたしの厄を移してしまいそうですし、あとは気をつけて帰ってくださいね」
男は困惑して言った。
「帰れ、と言われても帰り道なんて──」
「道なら、すぐそこにありますよ」
「え」
指さされた方を見てみると、思ったよりまばらな木立のすぐ向こう、人の背丈の半分ほどの高さを下ったすぐ先に、見覚えのある畑が見えた。
里山に入るときに横を通った、隣人の野菜畑だった。
畑の向こうには、夕暮れの薄明かりの中でもはっきりと、里への道が見えていた。
こうして男は生還した。
畑への斜面を降りるときに滑って足首を軽く挫いたものの、それでも足を引きずりながらなんとか家に帰り着き、そのまま三日ほど寝込んだが、それきりこれと言った障りはなかった。
その日から男は、行き場のないまま消えてしまった怒りと怨みの燃え滓を心の隅に抱えながら、微妙に落ち着かない気持ちで暮らしている。
痛い。
どうしよう。
男の思考はずっとその三つを堂々巡りしていた。
辺りは木々に囲まれて見通しがきかず、その枝はしとしと降り注ぐ小雨を集めて大粒の雨だれを滴らせている。
服に染み込んでくる雨だれは冷たく、男の体温を容赦なく奪っていく。
足元はぬかるんで滑り、一歩歩くたびに男の体力を消耗させていた。
男の身につけている蓑笠はところどころ破損しており、降りかかる雨だれを防ぎきれていない。その下に着た野良着もところどころ破れていて、血の滲んだ肌が見えている箇所もあった。
男は山道から滑落したのだった。
山、と言っても妖怪の山のような高山ではない。人間の里からもほど近い里山である。
男は山菜を取りに朝から山へ入っていた。彼は里山の奥に、いくつかの山菜の群落を見つけていて、時折世話をしながら旬の時期を待っていたのだった。
狙っていた場所についたときは良い天気だったのが、持ってきた袋いっぱいに目指す山菜を集め、そろそろ切り上げるか──と思い始めた途端、日が陰ってきた。
慌てて帰り支度を整えたところで、
ざあ──っ………
という音とともに本降りの雨が襲ってきた。
それでも初めのうちは「雨具の用意をしてきてよかった」と思える余裕があったが、道が木々の影に入ったところで、みるみるうちに辺りが暗くなり、土砂降りになった。
これはいかん──と思いながら数歩歩いたところで、踏み出した足が滑り、あっと思った次の瞬間、体ごと急斜面を滑り落ちていた。
かろうじて斜面に張り出した灌木に引っかかり、谷底まで転げ落ちることだけは免れたが、全身打ち身と擦り傷だらけになっていた。
転落時のパニックがいくらか落ち着くころには、雨は小ぶりになってきていた。
なんとかぬかるむ斜面を元の道まで戻ろうと試みたが、危うく再度転落しそうになって諦めた。
その後はなんとか脱出しようと斜面を横に移動しながら、いつの間にか出た獣道らしきものを辿って歩き続けている。
──どうしてこんなことに。
山道とはいえ何度も通り慣れた道であり、普段ならそうそう滑落などしそうにない場所だったはずだ。
だが、あのときは急に目の前が暗くなり、焦ったところで足をすべらせたのだ。
変わりやすい山の天気のせいか、あるいは。
(もしや、いたずら者の妖精にでも化かされたか)
妖精の中には妙な目くらましを操ったり、あるいは変な音を立てたりして、人を迷わせる者がいるという。
そういえば、自分が滑落したとき、どこからかクスクスと笑う声を聞いたような気もする。
それも思い過ごしか、記憶違いか。
今となってははっきりしなかった。
いつの間にか雨は止んでいたが、日が傾いてきたせいか、辺りは薄暗いままだった。
脚は機械的に動かしていたが、すでに登っているのか下っているのか、判然としなかった。
時間の感覚はとうに失われて久しい。
凍えた手足から這い上がる冷気が、体の芯まで染み通ってくる。
男の脳裏に「死」という単語が浮かび上がってきた。
死ぬ?
死ぬのか、俺が?
そんな馬鹿な。
ここで死んだらどうなる。
こんな誰も来ない山の中で。
こんなところで死んだら、獣の餌になるのだろうか。
それとも、妖怪の餌だろうか。
いやだ。そんな最期は嫌だ。
怨むぞ。
男はふと、子供の頃に祖父から聞かされた言葉を思い出していた。
──あまり人を怨んではいかん。怨みを呑んで死ぬと化け物になるぞ。
孫が友達と喧嘩などして怨み言を言うと、祖父はよくそう言って彼をたしなめたものだった。
男の祖父は、いわゆる「外の世界」から来た人間であった。祖父は元の故郷で火に追われて逃げ惑っているうちに、結界の隙間に迷い込んで幻想郷に入り込んだのだと聞かされていた。
祖父はまだ幼い孫に、自分が子供の頃に聞いた妖怪や化け物の話をよく聞かせてくれた。
いわく、ある峠道には通行人を襲う化け物が出たが、それは追い剥ぎに殺された旅人が、怨みのあまり化けて出たものだと。
またいわく、とある岬(幻想郷で生まれ育った男は海を見たことがなく、岬の風景もぼんやりとしか想像できなかったが)の近くの海には、沈んだ船に乗っていた船乗りたちの怨みが炎となって飛び交い、そんな日に船を出すと海に引きずり込まれて死霊の仲間にされてしまうのだという。
怨みを呑んで死んだ人間は化けて出る。
そして怨霊になったり、妖怪になったりする。
祖父は、孫に対してそんな話をしていた。
そうか。
怨んで死ねば妖怪になれるのか。
男の冷え切った体に、冷たい怒りの炎が広がってきた。
よし、化けて出てやる。
このまま死んで妖精の笑いものになったり、妖怪の餌になったりするだけで終わってたまるか。
化けて出て、俺自身が妖怪になってやる。
──それは困ります。
俺は死んだら化けて出る。妖怪になって、世間に復讐してやる。
──やめてください。
いいや、やめるものか。絶対に化けて、妖怪になってやる。
「──だから、困るんですってば」
「え」
気がつくと、奇抜な格好をした娘が、困った顔で男を見ていた。
丸顔で、どこか造り物めいて整った童顔を、緑色の髪が縁取っている。暗赤色の服や鮮やかな赤のスカートにも、髪に結んだリボンにも、ふんだんにフリルがついている。
どう見ても里の娘ではない。いや、そもそも人間ですら無さそうだった。
「普通は厄を移してしまうので人に近寄らないようにしているんですが……もうこんなに厄まみれなら構いませんね」
そう言われて思い出した。
毎年、春先に厄払いの流し雛を無人販売所で売っているという、妖怪の山の麓に住む厄神さまだ。
自身も流し雛だったと言われる厄神は西洋人形のような衣装をふわりと広げてその場でくるりと一回転した。
ふと、なにかが身の内から吸い出されていくような気配とともに、男は急に心持ちがすっきりしていくのを感じた。
同時に、視界を覆っていた薄い膜のようなものが晴れた気がした。
「とりあえずこんなものでしょうか」
厄神はそう言って男の顔をのぞき込んだ。
「これ以上厄を抜こうとすると返ってわたしの厄を移してしまいそうですし、あとは気をつけて帰ってくださいね」
男は困惑して言った。
「帰れ、と言われても帰り道なんて──」
「道なら、すぐそこにありますよ」
「え」
指さされた方を見てみると、思ったよりまばらな木立のすぐ向こう、人の背丈の半分ほどの高さを下ったすぐ先に、見覚えのある畑が見えた。
里山に入るときに横を通った、隣人の野菜畑だった。
畑の向こうには、夕暮れの薄明かりの中でもはっきりと、里への道が見えていた。
こうして男は生還した。
畑への斜面を降りるときに滑って足首を軽く挫いたものの、それでも足を引きずりながらなんとか家に帰り着き、そのまま三日ほど寝込んだが、それきりこれと言った障りはなかった。
その日から男は、行き場のないまま消えてしまった怒りと怨みの燃え滓を心の隅に抱えながら、微妙に落ち着かない気持ちで暮らしている。
ルビが振ってあり、そして文章自体も雰囲気があるので民話のようで面白かったです!
民話のような雰囲気がとてもよかったです
話に対して長さもちょうどよく、すらすら読めました