Coolier - 新生・東方創想話

獣を野に放て

2025/10/12 20:32:45
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序:饕餮尤魔

 地獄でぶどう酒を作っていると知った時は、どうせいいかげんなつくりのものだろうと思っていた。しかし口にしてみるとやや強い酸味があって、濃い肉料理によく合う、などと同席者が食通っぽいようなそうでもないようなコメントを残す。
「……ふん、地中海風っすね」
 と、彼女は酒を口の中で転がしながら軽い調子で付け加えもした。だが、饕餮尤魔は自分の杯にまだ手を伸ばしていなくて、相手の更なるうながしに応じて、ようやく杯を手に取った。
「あんたも見ていたろうが、ちゃんと毒見はしましたぜ」
 なぜか三下口調で相手は言ってくれたが、別に毒といったところに、尤魔の懸念があったわけではなかった。
「毒殺の危険は……もとよりないと思う」
「でも本拠地で身の危険を感じたから、こっちまで亡命してきたんでしょ」
「毒殺なんかしてくるような相手じゃないって事」
「わかんね話っすね。あんた、畜生界の抗争でこてんぱんにのされたんじゃないの……」
「ただの抗争だったらそうだろうな。ただの抗争じゃなかったんだよ。抗争っていうのは、読んで字のごとく、拮抗関係が釣り合った上で揺れ動く争いってやつなんだろう」
 尤魔はそう言いながらぶどう酒を口に運び、目の前にけぶる血の池地獄を、なにか景勝地でも眺めているつもりになった。
「……てことは、相手との力量差は一目瞭然だったわけっすか」
「こりゃとんだバカンスよね」

 やけ食いはいくらでも腹に収まる気分だったが、適当なところで切り上げて、食後の散歩に出かけた。ごつごつした岩石の野をサンダル履きで歩いていると、足裏の感じがねとねとし始めた。ゴム底が融けているらしい。
「ふうん、あんたら好き勝手しくさっているところに、神様が、ねえ」
「別にそこまで好き勝手してたわけじゃないよ」尤魔はぶすりと不機嫌そうに言った。「長い時間がかかっていたし、情勢は二転三転していたけれど、混乱の中で事態の収拾にあたっていた、と言わせてもらいたい」
「ものはいいよう」
 と道先案内をしてくれる相手はちょっと振り返り、ニマッと笑いかけながら言った。
「ただのグダついた主導権争いをしてただけじゃないすか?」
「畜生界をはたから見ればそんなもんだろうねというのは、否定できないな」
 だが、そんな情勢も例の“神様”のご降臨で、すべてご破算になった。それは身勝手すぎるほどの権能を使って兵団を編成して、自分たち以外はこの世界に無いもの同然のように蹂躙し始めたのだった。
 尤魔は、さっさと畜生界の外へ奔ってしまった。こうした判断の素早さと上手さは、かえって彼女が戦下手などあらぬ評を受ける原因の一つにもなっていたが、少なくとも今回の状況把握としては冷静だった。はなから抗しきれるような相手ではなかったのだ。世の中には、自分にコントロールできる領域と、できない領域がある。
 相手が言った。
「でも、神様といっても色々、その力の及ぶところも様々ですよね。そいつ、何の神様だったんです?」
「ありていに言えば、軍事と造作」
 旧来の畜生界の組織を粉砕したのは、極言すればこの二つの権能だっただろう。
 先を歩く相手も、その答えを聞き、肩をすくめてニヤと苦笑いした。
「そりゃ最悪だ」

 天火人ちやりという不思議な現地人――その後、付き合いが深まってからも、この独特な調子の女が血の池地獄あたりの勢力家なのか、なんなのか、それすらわからない――の庇護を受けながら、尤魔はしばらくの潜伏生活と、その割には緊張感の少ない日々を過ごす羽目になった。
 もっとも、尤魔と畜生界との縁が別に切れたわけではない。なおも饕餮尤魔が保有する畜生界の不動産を、現地に残って経営している、部下、構成員、郎党といったふうに呼ばれる者たちが少なからずいたし、たとえ抗争のさなかであったとしても、法理の上ではそうした権利をたやすく侵す事はできない。むしろ当時の尤魔が懸念していたのは、現地で活動するこうした配下どもの専横や勝手といったもので、それを統制するためにかえって連絡と指導は密にしなければならないだろう。
 なので、埴安神袿姫が発動させてから進行していく畜生界の動乱の推移は、それなりに細かく耳にしていたのだ。しかし、事態は尤魔の予想外の方向へと進んでいるようだった。

「は? 人間霊?」
 当時の尤魔にしてみれば、それは意表の外にあった言葉だった。埴安神袿姫を召喚し推戴したのは、非力な人間霊たちだという言説が、ちらちらと聞こえるようになってきたのだ。
「なんで?」
 たしかに、あのか弱く器用な者たちは、彼女たちの抗争を取り巻く要素の一つではあった。しかしそれがただ一つの大問題のように喧伝されるのは、尤魔にとっては違和感がある。やがてその違和感はいっそう増していった。袿姫自身の公式見解によって、事態の背景には、畜生組織による人間霊への、奴隷扱いにも等しい弾圧、迫害、労役、強制移住などがあった事が述べられたというのだ。
「たしかに私たちは連中を迫害して、都合の良い時ばかり使役していたよ。だから、彼らが解放されるのも別にいい。それはただのなりゆきだもんな。――だが、なんで一連の流れがそういう話になっているんだ?」
 当時の情勢を語る上で見過ごされがちな話だが、畜生界で横行していた奴隷のような扱いといったものは、なにも人間霊ばかりが受けていたわけではない。むしろそうした被害者意識は、下から上まですべての種族と階級が有していた。誰も彼も、自分たちこそ被害を受け、損害を被っていると感じていたし、その不満と鬱憤があるために、畜生界には暴力的な組織が幅をきかせる土壌が存在していた。
「そんな仕打ちを受けたのは彼らだけじゃないはずだぜ」
 にもかかわらず、畜生界で起きた一連の異変は、搾取され続ける人間霊が神に祈り、それに応えて神様が降臨なされた、という神話がいつしか完成してしまっていた。――しかし、それは人間霊だけの神話的ナラティブにすぎないだろう。埴安神袿姫の降臨の目的は、本当は別にあったのかもしれないのに、狡猾でしたたかな人間霊たちはこれを自分たちだけの救済神話にすり替え、埴安神袿姫が持つ神様としての権能を完全に手中にしていた。
 もちろん、この事態にしたところで、冷静に様相を観察すれば、人間霊にとっては単に支配者が変わっただけの話である。そうした皮肉はあったが、当人らがその皮肉に無自覚だったとは思えない――不感症的であったとは言える。別にそれでも構わなかったのだろう。
「しっかし人間霊の奴ら、結局ケツ持ちが変わっただけじゃんね」
 ちやりも同様の皮肉を言っていたが、その指摘になんの鋭さもない事を、尤魔は感じていた。

 そういった情報が数日のうちに錯綜していく中で、畜生界との連絡係を任じられていたオオワシ霊たちが、奇妙な情報を携えてやってきた。
「……反攻計画があるらしい」
「お友達も頑張っているっすね」
「いやべつに友達ではないんだけどね?」
「でもたびたび同盟関係になったり、かと思えば喧嘩したりなんでしょ。友達じゃん」
「いわゆる、つかの間の同盟関係ってやつでしかないし、喧嘩の理由だって、同盟によって急場をしのいだ後の主導権争いだ。お前が思っているような微笑ましいもんじゃないよ」
「でも、そんなのを飽きもせず長いことやってたんですよね。なんでそいつらを滅ぼそうとしなかったんです?」
 と、ちやりにからかわれたが、尤魔自身は、そうした敵対する勢力を滅ぼそうとはせず、時には積極的な協力関係にまであった矛盾に対して、確固とした理由を堂々と言う事ができた。
「あいつらにはまだ利用価値があるからだ」
 ちやりはその答えに目をぱちくりさせて、イヒッと笑った。
「やっぱりお友達だった」
「だからそういうのじゃないって……わからんやつね……」

 畜生界で頑張っている連中――鬼傑組の吉弔八千慧、勁牙組の驪駒早鬼といったやつらが、剛欲同盟の長である饕餮尤魔に提案した反攻計画は、しかし軍事的なものではなかった。
「幻想郷を今回の騒動に巻き込む」
「幻想郷っすか」
「ここいらに棲んでいるなら、私らより絡みがあるだろ」
「地獄からしてみれば、へんてこな秩序を振りかざしてイキってるだけの、単なるヤカラです」
「旧地獄で起きたごたつきにも介入して、解決した事があるとか」
「ありゃマッチポンプっしょ」
 ちやりはばっさり言い放った。それくらいの断定をするくせに、本当のところは幻想郷の事はよく知らない。さして興味もないようだった。
「……まあしかし、あれくらいへんてこな連中の方が、あなたがたの敵に肘を喰らわすには都合がいいかもしれませんがね」
「少なくとも、単純な軍事力で勝つのはもはや不可能に近い。だとすればそうした秩序に従って争いを儀式化するしかない、というのは、まあわかるのよね」
「従来の闘争を捨てる事にはなるが、新たな闘争のルールを持ち込み、それを承認させますか。たしかに神様には効果があるでしょうな」
 と、ちやりは遠い目をしながら、ふと、ものを考える表情になった。
「……なんであんたがそこに一枚噛ませてもらえるんすか?」
「だから言っただろ、私に利用価値があるからだよ」
 尤魔はそう言っている間にも、身支度を整え始めている。
「幻想郷の勢力を畜生界に呼び込むには、まず地獄を経由するのが一般的なルートだ。そうした物騒な連中が、このあたりの領域も行ったり来たり通過する。こっちの抗争に巻き込むつもりはないが、土地の連中に事前に一言あった方が、面倒は起こらないだろ? そういう役目」
 尤魔自身、自信ありげに言いながらも、言うは易しだろうが……という感情にもさせられる役目だった。ともあれ時間は残されていない。もう一日二日もこの事変が進行すれば、畜生界の暴力組織はすべて辺境の向こうに叩き出されているだろう。叩き出された先は地獄や地上を始めとした周辺世界である。当地のあなたがたにとってもそれは混乱のもとであり、都合が悪いのではないか。
 交渉材料になりそうなものにしても、その程度の妙にへりくだった卑屈な脅迫くらいしか持ち合わせていなかったが、不思議なことに、地獄の勢力家たちとの折衝はすらすらと上手くいった。

 その後起きた事は、なにより正史に詳しい。博麗の巫女を筆頭とした幻想郷のギャング(多少の語弊があるものの、本質的にはそうである)たちは、ちやりが言うところの“へんてこな秩序”を振りかざしながら、畜生界の混乱した状況を収拾した。
 尤魔も、血の池地獄の湯けむりが不思議と薄くなった晴れ間から、彼女たちが地獄の陰鬱な天井を背景に、幻想郷に帰っていくところを垣間見た。
「手を振ったら“勝利の舞”くらいやってくれるんじゃないすか?」
 ちやりがいつになくはしゃぎながら、そのひょろ長い腕をぷらぷらさせると、空中の相手はエルロンロールのマニューバで応えてくれた。

 ところが、その後、饕餮尤魔が即座に畜生界に復帰したという形跡はない。

 是非曲直庁幻想郷庁舎一階、庁舎食堂。
 ……の人気メニュー、トマト、ニンニク、唐辛子とチーズのパスタ。付け合わせはパンと日替わりのサラダ、スープ。
 ……を食する、四季映姫・ヤマザナドゥ。
「休憩中ですよ」
 昼の盛りを過ぎて客もまばらな食堂の、自分のテーブル席の目の前にわざわざ座ってきた相手を、映姫は言葉の上ではたしなめた。
「だがアポを取ったら、公式の会見は受け入れかねると答えたのはあんたらだからな。非公式の会見なら多少は許されている、と解釈させてもらった」
 同様のものを注文した饕餮尤魔も、さっそく子供のようにナプキンを肩にかけてから、フォークとスプーンででくるくると一口量を絡めとっていく。映姫も、黙々と自分の食物を口に運びながら言った。
「……畜生界の方ですね。ながなが雑談をするつもりはありませんが、ご要件は?」
「今のあそこの現状については、色々聞いている事もあると思うけど」
「力になれる事はあまりないと思います」
 ぴしゃりと即答されたが、尤魔は話を続ける。相手の口調はにべもないが、続けてもいい、と言われたような雰囲気もあったからだ。
「……だけど、かつて幻想郷がスペルカードルールを受け容れた時、あんたはこの公官庁の中でも、特別熱心にそのルールの普及につとめていたと聞く」
「そうです。この土地に、多少無理があり、へんてこであっても、秩序を敷くにはいい機会だと考えたんです。だから当時の私は、妖怪たちの中でそうした発議がかけられたと聞いて、他の十王たちを説得した」
「畜生界の場合、そうした公的な後押しや司法の後ろ盾が無かった。だからまだ混乱が続いているんだと思う」
「そりゃあ……ご愁傷様です」
 映姫は、よりによってそんな無慈悲な突き放しの中に、ちょっと茶目っ気をにおわせてきた。
「しかし不思議ですね……異変は解決したはずです。どういった混乱でしょうか?」
「一連の騒動は博麗の巫女どもが調停したはずなのに、埴安神袿姫の軍事行動は一切停止していない」
「ふむ」
 映姫は既にパスタを食し終えていて、付け合わせのパンを小さくちぎって皿の隅に置き、フォークで寄せた余りのトマトソースをそこに染み込ませつつ、しばらく放置して話の方に気を向けた。
「畜生界の情勢はよく知りませんが、決闘方式による紛争解決という秩序に染まぬ、当地の勢力はまだまだ多いようですね。……本来はそうした勢力も徐々に取り込んでいく政治的配慮が必要になりますが、埴安神袿姫はそうした慮りを一切行わず、スペルカードルールに従わない勢力はすべて軍事的に叩き潰そうとしている。そのため彼女はこちら側――幻想郷の視点では異変が解決したと判断された後も、軍事行動を停止していない」
(こいつ、全部知ってんじゃん)と尤魔は思った。
「しかし、これじたいは我々の法解釈的に問題のない範囲の行動ですね。なぜなら埴安神袿姫が戦闘を終結させる理由がない。むしろ彼女という神様の権能の根拠が、軍事と造作にあるのなら、埴輪兵団は常に運動させておく方が自然です。これは、その運動が必要であるとか不要だろうといった議論を起こす以前の問題でして、ただそうである事の方が自然なのです。しかも兵団は基本的に無尽蔵の運動力を有していて、畜生界にある他勢力の戦力は有限です。それを止められる者がいない。結局、あなたがたが彼女を押し留められないのが悪い、という話にしかならない」
 映姫はそこまで言うと、ソースをたっぷり吸ったパンくずをフォークで寄せて、上品に口に入れた。
「……まだ話が必要でしょうか?」
「あんたはとんだ法曹だよ」
「……結局、彼女はちょっとばかり、神様らしく独善的で、そのために従来のやり方からほんのわずか外れているだけです。こうしたほんのわずかのズレは、あなたがたにものすごい違和感を生じさせるでしょうが、どうしようもないでしょう。なぜなら、スペルカードルールにはこうした逸脱に対しての確かな罰則規定が存在していないから。あなた方が事態を調停するために頼ったルールは、幻想郷という土地で定められてわずか十年もしないうちに、本来あったはずの成文法的な性格は無効化されていて、代わりにある種の慣習法へとありようが移行しています。――いっその話、今では誰もあれを法とは認識していないのではないでしょうか。それによって無限の柔軟性を獲得したとも言えるし、合意形成されてきた慣例から外れる者が出てきても、実は法的な対処能力がないとも言える」
「外れた奴は、各々の判断で周りから囲んでタコにするしかないって事かい……」
「すべての行動が、今後に受け継がれる慣例となりえる事に留意すべきです。あまりに暴力的だったり、無秩序すぎるのも考え物ですね。しかし外れた行為や独善を諫める、という形式上の言い換えは可能かもしれない」
「諫める」
「彼女の誤謬をあばいて、彼女が間違っている事を、彼女自身に知らしめるのです」
 四季映姫・ヤマザナドゥが食事を終えて立ち上がると、周囲で食事を摂るふりをしていた職員たちまで、同様に一斉に立ち上がった。
 一分かからないうちに、食堂に残ったのは尤魔だけ。
 まったく、けっこうな警戒ぶりだった。

 庁舎近くの河川敷にはグラウンドとして広めに整備された一角があって、尤魔が戻ってきた時も、ちやりは土手の上からそれを見下ろしていた。
「……けっこう強いんすよねぇ、ここのラグビー部」
 と彼女が言った通り、グラウンド上ではその競技の練習が行われているようだった。
「運動部に力入れてるんすよ。女子の方も、野球部がそろそろ全国のいいとこまでいきそうな気がしますし。最近、すっげえスライダー投げる死神がいるらしくって」
「お前、社会人スポーツとか追っかけるタイプなんだ?」
「面白いっすよ。ある程度入念に戦力調査をしておけば、予想を立てやすい――いえ、いい投機対象になりますし」
 スポーツ賭博(おそらく違法)に手を染めている告白はともかく、尤魔は血の池地獄への帰りをうながすしかなかった。
「ところでそっちの首尾はどうだったんです?」
「上々とは言えないけど、指針は決まった。“アンタそれ間違ってるよ”と誰かが言ってやらなきゃいかんらしい」
「誰かとは――博麗の巫女とかが?」
「そこなんだが、幻想郷の連中に言わせたらきっとダメなんだろうな。それをしてしまっては、とある世界から別の世界に対する、秩序や価値観の押しつけになってしまう――うん、たしかにそれは気に食わないな。たとえ袿姫が間違っていて、それで間違ったままなのはよろしくないが、だからといって、はいそうですかと全部幻想郷流に変えてしまうのもなんだか気に食わない」
「……やさしくどうぞ」
「幻想郷には幻想郷の異変解決方法があるように、畜生界にも畜生界の異変解決方法があっていい」
「それを許したら、全く別物になる可能性がありゃしませんか?」
「名目上は共通の認識や、意思や、精神を保持しているという建前さえ守られていれば、見てくれが別物になっても構わないものって、あるだろ?」
「そりゃそうですけど、わかんねえっすねえ」
 ちやりは首をかしげていたが、首をかしげている当人がそういった存在の可能性だってあるのだ、と尤魔は思った。
(のちの話になってしまうが、このとき尤魔がひそかに構想した「幻想郷には幻想郷の異変解決方法があるように、畜生界にも畜生界の異変解決方法があっていい」という理念は、結局大成する事はなかった。幻想郷勢力は、その後も畜生界の情勢にちょくちょくと介入する事で、当地の方式に多少の変質が起こっていたとしても、適宜矯正していったフシがある。ただこの当時、埴安神袿姫の暴走への対応に関しては、畜生界にとっては降って湧いたばかりの新秩序が押しつけがましいものになる事をおそれ、沈黙を守った。畜生界の問題は畜生界で解決して欲しかったようだった)

 血の池地獄の潜伏先に戻ってみると、部下のオオワシ霊たちの一団がまたぞろ増えていた。異変の際、吉弔八千慧や驪駒早鬼に貸し出して、作戦のためには好きに指図してよいと特に許可を与えていた与党たちが、約束通り返還されていたのだった。
「あなたの敵対者って、こういう事は特に約定破りしないんすね」
「向こうも鉄火場で私を敵に回したくないだろ。むしろめちゃくちゃ気を使ってくれていたと思うぞ」
(やっぱりそれってお友達なんじゃ……)と思っても、ちやりは音に出して言う事はもう諦めている。率直に言えば(なまぬるい、きもちわるい関係だな)と感じてもいた。
 それより、オオワシ霊たちが興味深い話を持ち帰っていたが、尤魔はそれを聞いて耳を疑った。客観的に聞いていれば愉快というか、どこか滑稽な面すらあって、尤魔もニヤついていただろうが、彼女の主観では不気味極まりない事態が、畜生界で展開されていたのだ。
「えぇ……どういう事……なんでそんな事するの……」
 我こそは正統の饕餮尤魔であると僭称する偽饕餮が複数出現して、埴安神袿姫の政治方針に反発し、畜生界で同時多発的に蜂起しているのだという。



破:吉弔八千慧

 文明に囲われている、という感じがする。
 一連の騒動の後、いよいよ装いを新たにしている畜生界のメトロポリスに対しての、吉弔八千慧の偽らざる所感だ。なにもかもがきらびやかで、ゆきとどいているはずだが、どこか満足はできない。
 とはいうものの、少なくとも経済活動自体は否定されていなかった。これは自分たちが一連の騒動で勝ち取った権利の一つであろう。八千慧はその点では満足している。
 いや、他の点でも、多少の思うところはあれど、全体的には満足しているのかもしれない。少なくとも彼女自身は、埴安神袿姫の軍事の専横に反発する気もなかった。
「こっちはもう、戦争はしばらくこりごりですからね」
 と人に嘯きもしたし、だから地獄方面に亡命している饕餮尤魔からの、焦りを含んだ便りが舞い込んだ時も、どちらかといえばさめた感覚で返信した。
 そもそも、饕餮尤魔の名を騙った偽饕餮による反乱は、どれもスペルカードルールに染まぬ勢力によって行われている。それは確かに困った話だが、杖刀偶磨弓が指揮する埴輪兵団は既に都市から辺境へと派遣されていて、あの強力な軍事力で乱は鎮定されようとしている。なにを焦る事があろうか、いっそ尤魔自身がさっさと畜生界に帰還して、その存在を喧伝してしまえば、もっと話が早い――と。要約してしまえば、そういった事を返信には記した。
「こっちも忙しいんですよ……」
 とぼやいたのも、あながち嘘ではない。組長自身がそうした野暮用をこなしている背後で、鬼傑組のオフィスには、業務用のコンピュータを始めとした新たな機器――こうしたものは以前も使っていたが、先の動乱によって都市郊外に脱出する際、物理的に破壊していた――の搬入作業が進んでいる。他の組員たちがそちらの作業にかかずらっているうちの事務所の留守番を、組長である彼女自身が買って出たのだが、そうしているとただの事務員のようななりの彼女だった。
 わざわざ電算室にまで出向いて、あれこれ指図する必要はない。むしろ、配下のエンジニアの技能を持っている者たちからは、頼むから来ないでくださいとすら言われている。
「まったく……みんな大げさなんですよ。サーバコンピュータだかなんだか知りませんがね、あんなもの、適当に配線繋いで電源挿してぷぃーのぴぃーで使えるんじゃないんですか」
 ……パソコン音痴であった。しかしけっして物事に対する勘が悪いわけではないので、普段使いや通常業務の上では、そうしたシステムともまともに付き合えてはいる。だが、それ以上の理解は持っておらず、持とうともせず、エラーやシステム障害等の非常事態に直面すると、すぐに地金の短気さが露出して、コンピュータとケンカを始めてしまう、そういうタイプだ(しばしば手も出た)。
 事務所の留守番といっても、やる事はといえば、電話番や配達の受け取りなど――畜生組織として、この点は細心の注意が必要だったが、ひとつ手堅い方策がある。運送会社や郵便機関の出先を買収して、配達員を専属にしてしまう事。いつもの配達員以外が来れば、追い返してしまえばいい。――もっとも、用心は徹底しておきたいところだが、今は先だっての異変を挟んだ後の、まだまだ混乱が残るさなかだ。こうした業者の出入りにあまり見覚えのない顔がやって来ても、多少はしょうがない場合もあった。
 事務所のインターホンが鳴ったので、八千慧はオフィスビル正面玄関のカメラを覗き込む。仕出し屋の給食だった。
「……給食は搬入用のエレベーターに載せて、そのまま待機しておいてください」
 と八千慧はアナウンスした。わざわざ待機させる理由は、純粋に保安上の観点からだった(ある種の人質でもある)。こうして拘束される配達員の待機時間は、オフィス内の組員全員の配膳が終わるまで――こうごたつく日だと、下手をすれば半日くらい拘束されたりもする。一階の待合室に取り残された配達員は見ない顔だったが、こうした仕打ちにも疑問を持っていないようだった。まったくくつろいでいて、この余暇をどう利用してやろうか、という事しか考えていないようだ。
(それでいいのです、それでこそ平穏だ)
 と、八千慧ですらそうした事を思わなくもない。そのまま、手すきの組員にはさっさと食事を摂れと指図しておいて、自分もそうする。
 仕出しは中華料理だった。この日のメニューは、蒸し鶏に熱した香味油をかけたものを主菜として、水餃子入りの羹、主食の後についてくるちょっとした饅頭と茶。鶏は丸ごとそのままの姿で搬入されてきたので、八千慧本人がそれに刃を入れて、組員の各々に切り分けてやる(畜生界では、こうした食事の分配を執り行う者が伝統的に群れの長とされた)。
――ついでに、下の階の配達員にも差し入れと称して、いくらか組員に持っていかせる。実は毒見係も兼ねさせているが、何も知らず、おいしそうに舌鼓を打っていた。
 配達員の反応は(ありがたいことに)嘘ではなかった。羹は嬉しい事に熱々だった――鶏油を浮かせて表面を蓋する事で、汁の熱を逃がさないよう上手く保温してある。その汁物を器によそって、箸を入れると、よく茹だった魂のような弾力の水餃子がたぷんと浮き上がってきて、皮のたっぷりした柔軟さは、中に包まれた汁の豊かさを予感させる。
 実際にかぶりついて熱いほどの肉汁を啜りながら感じるのは、中の餡に使われているのが、脂身の少ない赤身肉と、刻んだ酸菜という事だ。素朴な、あっさりした素材の組み合わせだが、他が油がちなのでバランスは取れている。
(あの埴輪兵団に追い散らされていたさなかでは、こんなに熱い料理を煮炊きするのすら難しかったのですよ)
 と、八千慧はふと思う。その感情の向けるところは、あるいはさっさと畜生界の外に亡命してしまって、本格的な戦役にも巻き込まれなかった、饕餮尤魔に対してだったかもしれない。
(たしかに、埴安神の身勝手にこちらも思うところはありますが、今はこうしてあたたかいごはんを食べられるのがなによりしあわせ……)
 と、意外に庶民的な気分に浸っている八千慧だった。

 電算室の作業は長引き、全員への配膳を終えた頃には、おやつ時を通り越して夕方ほどにもなっていた――畜生界のオフィス街では、食事休憩が存在するだけでも待遇が良い方だ。
「お世話になりました」
 とアナウンス越しに言って、長らく待機してもらっていた配達員に、配膳用具を返却する。オフィス機器のセットアップ作業も夜遅くまで続きそうなので、行って帰って、また夕食や夜食を運んでくるのを往復するのだろう。
 八千慧は事務所でくつろぎながら(みなさんご苦労様です)と、のんきに大きく伸びをして、それからちらと見かけた待合室の監視モニターから視線をそらした後、はっとしながらまたそのモニターを見返した。仕出し屋の配達員は帰ろうとせず、文字を書いた紙を監視カメラへと向けていたのだ。
『勁牙組の驪駒早鬼の行方を知っている』

 一連の異変が解決された後、驪駒早鬼とその一党が人間界にちょっかいを出しかけて、そのまま行方をくらませているという事までは、八千慧も知っていた。
「ばかな事していると思いますよ」
「私は面白そうだからついていってみたクチなんだけど。ただ、どうも犬とは相性が悪かったみたい」
「犬も狗もいっぱいですもんねえ、あそこ」
 事務所の応接室に案内された配達員は、孫美天と名乗った。
「でもまあ、あんたたちの色々の事情にちょっと興味が湧いて、ここまで流れてきたわけ」
「それで私とコンタクトを取るために、わざわざ中華の仕出しのアルバイトを?」
「ダメです?」
「いえ」八千慧は一瞬言葉を濁しかけたが、やっぱり言う事にした。「……ちと回りくどいですね、って」
「私だってもっとストレートな方法の方が好きだし、いくつか考えたのよ。でも、どーも行動が、怪文書を送ったりする人か、ヤクザの鉄砲玉かの二択になっちゃってさ、あまりよくないなあって」
「……まあ、面識のない相手にアポ無しで接近しようとすれば、必然的にその類型になりますよね」
 それで、と八千慧は美天に尋ねた。
「驪駒のやつはいずこに?」
「畜生界と地獄の境界あたりで、山賊をやりながら潜伏しているわ」
「わからん話ですね。あいつは別に、弾幕ごっこのルールに背いているわけではない。あの神様から弾圧を受けるいわれはないし、組としての経営だって、この都市の方がよっぽど楽にやれるじゃないですか」
「私にもよくわからない心理なんだけど、どうもここは意地を張り通すべきところだと思っているみたい」
「意地?」
「そう。別になんでもいいんだろうけど、なにかが気に食わないんじゃないの。知らんけど」
 美天の言い様は、早鬼への批評ともいいがたいものを感じさせられた。どちらかというと、目の前の八千慧に発されたような――見透かされているような感覚がある。
「……なにを言わんとしているかはかりかねますが、私は」
「各所で同時多発的に発生している偽饕餮の反乱を、あなたが経済的に陰ながら支援している事。あの人たちもちゃあんと知っているみたいよ」
 八千慧は美天の言いを聞きながら、それに対する生理的反応は目を細めるだけにとどめた。
「それで?」
「勁牙組にも、知恵が回って目端の利く奴がいるのよ――というか、先の騒動でそういう奴らも積極的に受け入れるようになった」
「……たしかに、私たちの事業が、巡り巡ってそうした敵対勢力の懐を潤してしまう事も、あるかもしれませんね……しかしながら、経済とはそういうものです。どれほど流通を統制したとしても、自分たちが社会に関わりを持とうとすれば、どこかでなにかしら繋がっている」
「別にそこを責めるつもりもないわ」
「あんた、どういう目的があって私に接触したの?」
「どうも私は勁牙組になじめなかったんだけど、それで喧嘩別れしたわけじゃないの。出ていく時、面白そうだからこのまま都市の方に行くって告げたら、メッセンジャーになってくれと頼まれた」
「では、あなたの抱いているメッセージ、とは?」
「さっきも言ったでしょ、彼女は意地を張り通すつもりらしいわ」
 はっきり言って、孫美天はメッセンジャーを買って出たものの、そのメッセージの意味がまったくわかっていない。先に八千慧自身が言ったように、彼女たちはすでにルールを受け容れた側――もっといえば、新秩序を積極的に呼び込むことによって状況を覆し、恩恵を受けた側なのだ。この点では、もはや埴安神袿姫と対立してはいない。袿姫は神様らしい柔軟さで新秩序に馴染み、そのため過激なくらいの熱心さで反対勢力を叩き潰していた。八千慧たちはそれを止める理由を持たない。
 なのに、畜生界の住人である彼女たちは、幻想郷からもたらされた新秩序に反抗しようとしてもいる。もっとおおっぴらに反対している者たちを陰ながら支援し、なんなら自分たちが蜂起する準備すらありそうだ。この畜生界住人たちのアンビバレンスが美天には理解しがたい。

 八千慧自身、同じ畜生界の住民としては早鬼に同情する部分はなくもないが、それでもその意図は理解しがたかった。なぜ彼女は意地を張るつもりなのか、なぜ彼女は都市生活なんか知らんとばかりに、辺境に沈んでいるのか……だが、早鬼からすれば、八千慧の考えこそ理解しがたいかもしれないのだ、という事に、この夜ふと気がついた。八千慧のやつは、上っ面では袿姫に従い、都市に住みながら、それでいてなぜ辺境の反乱を支援しているのか……向こうからしてみれば、こちらの方が理解不能な存在だろう。
 尤魔だってそうだ。知らぬ輩に饕餮の名を僭称されているのなら、さっさと身を明かせばいい話だ。なぜか彼女たちは、それぞれ、彼女たちなりの方法で身をくらませている。自分たちの立場を明らかにしようとしない。
 吉弔八千慧は、その晩、酒のせいで眠りが浅く、夜中にはたと起き上がった。なにか気にかかるものがあったらしいのだが、普通は二度寝の中で薄れていくべき発想だった。それが翌朝起きても意識の隅にいて、昼になる頃には更に肥大化して彼女の頭を占めていた。

 数日が経った。
 畜生界の辺境からこの大都市部に伝わってくる情報を信じるとするなら、杖刀偶磨弓率いる埴輪兵団は畜生界の野を駆けまわって、同時多発的に生えてきた偽饕餮の反乱を、順次ひねり潰していた。
 この兵団の主力は数千騎からなる騎兵で、その進退は実に巧妙に行われているだろうという事を、八千慧は先の騒動でいやというほど思い知らされていた。彼女が見るところ、あの兵団にはきわめて洗練された戦術データリンクが実装されているらしく、個々の兵員の立ち位置は、常に戦況全体にまで反映されていた。全体が一個を掌握していて、一個もまた全体の状況を捉えている――そんな兵団が存在するとすれば、彼らは巨大な化け物の手足のように自由かつ的確な機動を実現するだろうし、事実そうした。兵団の戦闘技術や武装じたいは剣、弓、馬といった古くさいものだったが、それはあくまでハード的な一側面を見ているにすぎず、ソフト面のテクノロジーは当時の畜生界のそれを遥かに凌駕していた。
「そういう敵です。だから私たちは敗北した――いや、実際には敗北すら許されず、外部の新勢力と新秩序を呼び込んで、うやむやにするしかなかった」
 と、八千慧は美天に説明した。美天はここ数日を、鬼傑組のオフィスで過ごしている。彼女はこの組の空気が気に入ったとみえて、バイトの仕出し屋に帰るそぶりも見せなかった。店の方ではもうクビになっているか、それともなにかしら出先でやらかして死んだものとされているのだろう(なんせあの鬼傑組への配達だ)。ついでに、今すすっている夜食の汁なし担担麵――肉味噌に混ぜられている香辛料の刺激と、刻んだ搾菜の歯ごたえがいい――は別の店の出前だった。
「全体が個々のように動けて、個々が全体のように見通せるっていうのは、ずっこいラグビーの試合みたいね」
 美天はからかうように言いながら、麺をずるずる啜った。八千慧も笑い返す。
「畜生界の荒野をフィールドにして、千倍くらいの規模でそういうのをやらかしたら楽しそうよね」
「つまり……そういうのをやるのね?」
「うん」
 と八千慧は素直に頷いた。その声が妙にすきとおっていて、ただの少女に戻ったようなところがあって、美天はどきりとさせられる。(吉弔八千慧とはこんな女だったのね)とも思った。話に聞くような畜生界の暴力組織の組長ではない。
「しかし、ラグビーを引き合いに出したのは上手いですね」
「……本当は、どういうゲームかあまり知らないけどね。人に教えてもらっただけよ。あいにく幻想郷の田舎育ちなんで」
「いいんですよ、あれほど陸上の機動戦を上手く説明しているスポーツも、そうそうありませんからね。戦線の構築と押し上げ、膠着と打破、対応と展開、防御と突破。あれには全部あります」
 そう屈託なく話す八千慧を、美天はぽかんと眺めるしかない。
「わかんないわ、私」
「きわめて単純な事です。ハメを外したくなったんですよ」
 翌日、彼女はメトロポリスの深部にある、霊長園に顔を出した。別れの挨拶をするためだった。

「野に帰る?」
 八千慧の言を聞いた埴安神袿姫は、訝しげにその言動をオウム返しにやった後で、少し考えた。
「……どういうつもり?」
「このメトロポリスは便利で、ゆきとどいておりますが、ちょっときらびやかすぎて、気疲れもします。力を蓄えるには向いていない」
「ふむ、力を蓄える」
「もちろん、組員のいくらかはこっちに残す事になりそうですがね。組の経営もようやく回復したところですし」
「そうですか」
「前回の異変で剛欲同盟から貸し出されていたオオワシ霊なんかも、ようやく全部返還できました。こちらとしても、戦力になるより連中を飼っておく負担の方が大きくて」
「饕餮尤魔は、まだ行方が知れないそうですけどね」
「公式にはね。……ともあれ、また自由に色々とやれるわけですよ」
 と、様々に含みを持たせて言った。叛意ともとれるし、そうでないともいえる。
「自由に、色々と、ね」
 含みに気がつかない袿姫ではない。にっこり笑って、言った。
「この世界では、まだまだなにかとたくらみごとが進行中のようです。あなたも気をつけた方がいい」
「あんたもね。かわいいお人形さんの軍隊だって、あっちこっち駆けずり回っているんでしょ」
「そうして東奔西走させて、磨弓たちを疲弊させる事が、敵のたくらみでしょう。しかし彼女たちは消耗しません――少なくとも、消耗する事を恐れはしない」
 ほほえんで、表情にそのほほえみを固着させるふたり。
 先に口を開いたのは八千慧だった。
「……まったく、あんたがまだ敵だったらと思うと、ぞっとしないわ」
「今となっては秩序を同じくしている身です」
 まるで相手の面従腹背を知っている事をほのめかすように、袿姫は言った。彼女の権能は、純粋な軍事力だけでなく、この都市の情報網すらもどうにかして統制下に置いているらしい。しかし八千慧も、それを予想していないわけでない――それでもよかったのだ。
「そろそろ行くよ」
 八千慧は言った。
「待って、最後にひとつ」
 袿姫がいったん止めた。
「私のなにが気に食わないんです?」
(……あー、こいつ、なんかめんどくさいマインド入ってるわね)
 八千慧は内心嘆息させられながらも、さっきよりは心のこもった苦笑いを見せる。
「別にあんたが気に食わないわけじゃないのよ。もっと言うと、幻想郷の新秩序が気に食わないわけでもない、変化を求めたのは私たち自身の意向でもある……ただ、変わりゆくものを受け容れるつもりはありますが、それを前にして、ひとつ、ありようを提示しておくのも大事だろう、と思いましてね」
「どういったありようです?」
「私たちが何者であったかよ。だから一旦、野に生きていたかつての姿に戻る」

 美天は、まだ意味がわからない。
「いったいなに考えてるのよ?」
「原点へ戻るのです。自分たちがいちばん有利だったフィールドへ」
「そういう話じゃなくって!」
 と二人がオフィスで言い合っている後ろでは、多くの鬼傑組の構成員たちが、資料の移動や破棄を行っていた。右往も左往も、上へ下へも、とにかく大騒ぎになっている。
「なんでそんなに突っ張ろうとしているの、って話よ……」
 呆れかえった美天が、ぶつぶつと言うのに八千慧は気がついた。それから、気色悪いくらいの満面の笑みで、言う。
「そう、その顔。見たかった顔です」
「はあ?」
「あんたは、幻想郷からこっちに流れてきたヤカラよ。だから、幻想郷産のその顔がぽかんとするのを見たくって、ここ数日、この組に置いてやっていた。ここでいったんお別れしましょ。また会うかもしれないけど。その時は利用したりされたりするかもしれないけど、ね」
「……意味わかんない」
「そう、その感想が正しいのよ。あんたらにはわからんだろうね」
 八千慧は皮肉な笑顔を浮かべて言った。
「あんたらにはわからんが、私たちにはわかるのさ、この世界にはこの世界のやり方っていうものがある」
「……ふうん。お友達の畜生組織と口裏合わせて、同時多発的に埴安神袿姫に反抗しようって腹かしらね?」
 悔しまぎれにそう言い放ってやったが、それは八千慧の苦笑を誘うほどの効果しか有していなかった。
「……別にそれでもいい。それはそれで先の異変の再上演のようで、ある意味面白い展開ですが。でも、私たちの通信は既にこのテクノロジーの迷宮の中で、埴安神方に完全に傍受されているか、それとも連絡を寸断されているでしょう。そもそも、鬼傑組・勁牙組・剛欲同盟は、埴輪兵団を凌駕するような連携行動を取る事はできない。野に下れば多少の通信手段があるかもしれないけれど、十中八九は兵団の哨戒に捕捉されると思っていい」
「じゃあもう無理筋じゃない」
「ですが、確信があります」八千慧はきっぱり言った。その時にはもう、彼女は下野の準備を終えて、出立しようとしていた。「他勢力ならいざ知らず、驪駒と饕餮がなにかしらやらかすつもりなら、私が仕掛けたたくらみを理解してくれます」
「わかんないわよ」
 少なくとも、八千慧の口ぶりからすると、その心算にはなんらかのたくらみが仕掛けられているらしい――だが、それがわかんない。
「ぶちころがされるだけよ」
「それでもやらねばならんのです。……これはそう、私たちの自己紹介かもしれませんし、そんな私たちを同じ秩序の傘に抱えこんでしまった方々に対する、挑戦かもしれない。あんたらは私たちを受け容れる勇気があるのかとね。この畜生界という世界は、彼らにとっても気軽に取り込むべき世界ではなかったかもしれない」
「……意味わかんねえ」
「まあ見てなさいよ――これは、この野で、私たちが何度となくやってきた事なのです――原点へ! 原点へ還りましょう!」
 吉弔八千慧はそう号令して、鬼傑組の多くをともなって下野した。取り残された孫美天にとっては、意味不明というか(きもちわる)という感想しかない。



急:驪駒早鬼

 そのまま、吉弔八千慧が都市郊外の沼沢地に潜んだ事が、辺境にて山賊生活を送っている驪駒早鬼にも聞こえてきていた。
「鬼傑組の公式声明は“原点へ還る”と。それだけ」
 三頭慧ノ子――近頃いっちょかみしてきただけなのに、すっかり早鬼の参謀のように馴染んでしまった、珍妙な女――が、そう言った。
「……読めた」
「私もこいつのたくらみは読めるけれど、勝算あるのかしらこれ。そりゃあ、鬼傑組の戦力を考えれば河水に拠って戦うのが正解なんだろうけど。それだと以前の異変で起きた事と大差ないじゃない」
「違う。八千慧はそんな事はしない」
「え?」
 早鬼がきっぱり言うのを聞いて、慧ノ子は首を傾げた。
「でも現に……こうして下野して、埴安神袿姫にふたたび反抗しようと――」
「世間はそう見るでしょうね」と早鬼も頷いた。「だが、私はそれだけとは思わない」
(なんだかきもちわるい信頼ね)と慧ノ子が考えているのを尻目に、早鬼はなにを思ったのか立ち上がって、勁牙組が現時点で有しているすべての糧秣を再確認した。
「……数日中には事を起こすわ。全部食べてしまいましょ」
「どういうこと?」
「やがてわかるわ――ああそれと、今はたらふく食うがいいけど、事を起こすその時は、できるだけ腹を空かせて、身軽になっておくのがいい。私の考えが正しいなら、その時になったら、身は速ければ速いほどいいから」
 ごろごろとぶつ切りにした牛かなにかの肉と、腎臓のような豆、それに唐辛子を煮ただけの料理ばかりで、勁牙組は辺境の日を過ごした。オオカミ霊たちは肉を好んで食い、早鬼だけが大量の煮豆をひたすらに咀嚼した。慧ノ子はやはり話の筋道がわからないまま、肉汁とあくがたっぷり染み出した汁を、ひかえめにすすっている。
 食った後は、寝た。皆よく寝たが、慧ノ子だけがどうも寝つけない。
 山賊稼業とはいっても、勁牙組は森林に潜伏しているわけではない。ただ、畜生界と地獄の境の礫岩しかないような風土に、身じろぎひとつするだけでざらざら削れていきそうな胸壁と壕を掘って、お互い身を寄せあっている。先に説明した飯の調理に関しても、煮炊きするというよりは、そばにある火山の火口から熱々の焼け石を運んで、具材を放り込んだダッチオーブンの蓋や側面に載せかけて、その熱で蒸しているといった感じだ。
 慧ノ子は起き上がって、そういう岩と石しかないような場所を、不思議と身軽に歩いた。寝つけなくて、気晴らしに散歩する事としたのだ――というのは、誰かに見咎められた時の、ただの方便だが。
 実は、目的がある。進んだ先の稜線には、ちょうどよく屹立している一枚岩の壁が、目印にできるような場所があった。かねてから連絡場所と決めていた場所だ。組の屯所からはかなり離れる必要があった。というのも、オオカミ霊はきっと鼻がきくだろうから。
「……どうやら私は目的を達成したみたいだし、帰るわ」
 と聞こえてきた孫美天の声は、背中を預けている岩壁越しに聞こえてきて、その感情の振幅は伺い知れない。
「彼女たちは、まだなかなか畜生の野に執着しているわ。本気で意地を張る準備もありそう。全然意味わかんないんだけど、意味はわからなくても、とにかくそういう事なの」
「でも、実際問題として、ここの連中が地上進出を画策しているのも事実なんでしょ」
 そういう魂胆があり、また、今のところはそのつもりがなくとも、埴安神袿姫が有する覆しきれない武力によって畜生界から叩き出されたあぶれ者どもが、大量に武装難民と化して地獄や地上に溢れ出す可能性は、間違いなくある。予断を許さない状況であった。それを阻止するために、自分たちはあの方に派遣されたのではなかったか。
「……あんた、これからどうする?」
「いずれにせよ、これ以上は私にはどうにもできないかな。郷に戻るわ」
 美天の気配が消えた。慧ノ子はふんと鼻を鳴らして、もう少しこの情勢を見極めなきゃいけなさそうね、と思った。

 数日のうちに、埴輪兵団の運動は麻痺し始めている。
 すべては吉弔八千慧の立ち回りのせいだった。まるで袿姫と対立するかのような素振りを見せて下野した彼女たちは、その後の態度はむしろ彼女に協力して、偽饕餮を討伐する姿勢を内外に表明しはじめていたのだ。
 しかし、その行動は言行不一致と言えるくらいあやしく、手勢を出しては兵団の末端を刺激し(公式には、妖精たちの弾幕遊びを攻撃だと誤認してしまったと、早々に謝罪した)、自分たちの主力を、なぜか反抗勢力が潜んでいる向きでなく袿姫がおわしになるメトロポリスを突こうとする向きに配置し(あくまで予備兵力を配しているだけである、と言い訳していた)、鬼傑組のフロント企業と考えられる法人が偽饕餮の反乱を秘密裏に支援していた事さえも、どこからか報道機関にリークされた(しかし、これは決定的な証拠が不思議にも都合よく処理された上での報道だったので、無視を決め込めばいい)。こんな胡乱な勢力が協力を持ちかけても、埴輪兵団側がそれを信用できるわけがない。
 だが、兵団は鬼傑組を攻める事はできない。なぜなら彼女たちは先の異変を経て同様の秩序を受け容れた者たちであって、彼女たちを攻撃する事由を袿姫は有していない。
 無尽蔵の運動力を有する兵団の動きが、初めて鈍り始めた。

 慧ノ子は、そういう情勢を聞いてあきれかえっている。
「せ、せこい……」
「なに言ってんの、私たちのもとよりのやりかたよ」早鬼はこんな時も女伊達を気にしているようで、ハットのつばの形や、首元に巻いたスカーフのボリューム感などを、慎重に調整しながら言った。「敵は囲んで叩く、味方の足は引っ張る、これが畜生界の常識」
「クソみたいな常識だわ……」
「しかしどこの世界だって、ご大層な建前の薄皮を一枚剥いでしまえば、そんなもんじゃないかしら……。で、そうした欲望を隠しおおせる方々と比べて、私たちはちょっとばかり正直すぎるだけよ――それはともかく」
 早鬼は、畜生界の中原ではなく、地獄との境界の方を、くるりと振り向いた。地獄方面に放っておいたオオカミ霊が報せを携えて戻ってくるだろう。
「腹空かせときな、今からは腹空かせておきなさい」
 と早鬼は配下に言っている。そう言うまでもなく、食糧のたぐいはすでに完全に尽きていた。
(その報せとやらが来なかったら、ここでいつまでも腹空かせたままなんでしょ、バカみたい)
 慧ノ子は内心詰りながらも、現状のままでは、こうして食い詰めた者たちは他にもたくさん現れて、きっと地獄へ――そして地上へと溢れ出すのだろう、と実感を新たにした。
(それはたぶんまずい事だ)
 と彼女は思っている。
 そこに、早鬼の予想通りの報せを一匹のオオカミ霊が携えて、地獄との境界を越えて戻ってきた。
 報せの差出主は饕餮尤魔。その内容は「自分たちは何日の何時何分をもって畜生界入りし、あらかじめ境界(早鬼たちが駐屯している場所とは真反対の方角)に集結させてあった剛欲同盟の残党を率いて、偽饕餮の討伐を号令しつつも、なぜかメトロポリスに向かって進軍を開始する」というものだった。
 もちろん、これはあくまで軍事行動ではなく、饕餮尤魔の健在をアピールして、有象無象の偽饕餮どもの影響力を削ぐための政治宣伝である、といった建前は駆使するつもりらしいが、どのみち埴輪兵団はそちらにも注意を向けなければいけない。
「別に敵対している勢力でもないのに右往左往させられて、かわいそうよね」
 と早鬼が言った時は、もう既に、勁牙組も行動を起こす準備はできている。慧ノ子は言った。
「そうした隙を突いて、私たちはトライを仕掛ける、ってわけ?」
「正解」
 早鬼はニンマリ笑って言った。

 一連の情勢に呼応するように、新展開が発生した。
 驪駒早鬼および勁牙組は一時期姿をくらませていたが、突如として畜生界の辺境に出現すると、そこから中原へと駆け下り、一直線に逆落としするようにメトロポリスへと進撃し始めた。

「あたしゃこういうの向いてないのよ!」
 自然と、慧ノ子は集団の最後尾を行きながら、ぶつくさぼやく形になっている――その後ろに、引率のように早鬼組長が直々について、しんがりをしてくれているのが、なんとも締まらない感じの集団でもあった。
「おばあちゃん、罠タイプっぽい見た目だものねえ」
「罠タイプってなによ、あとおばあちゃんじゃないもん!」
「おばあちゃんの方がまだリキ入ってるって意味よお嬢さん」
「ひーん!」
「言われたくないなら、もうちぃっと速く行きな」
 早鬼は冗談めかしたが、ここまで急ぐのには理由があった。あれだけ振り回してやったところで、おそらく、間違いなく、埴輪兵団は自分たちを捕捉し、執念深く追いつくのだという、おそれにも似た確信があった。

 以前の戦役から、埴輪兵団の兵団長である杖刀偶磨弓は、麾下にある中核集団の騎兵を独自の世界観をもって運用してきた。
 たとえば、相手陣地を占領したのち、退却しつつある敵対勢力の追撃を行わなければならない場合、彼女はもっぱら騎馬にのみ追撃を任せた。騎兵という荷を降ろした騎馬は、普段より身軽な状態で敗走する相手を踏み潰しながら蹂躙できるし、降ろされた兵士の方も占領地の維持には必要だった。
 このように、杖刀偶磨弓が運用している騎兵戦術は、あまりに独特すぎあまりに前代未聞すぎたが、その根底はあくまで素朴で土くささのある合理主義によって成り立っている。もちろん、こんな運用はまともではない。普通にできるものでもない。埴安神袿姫の権能による埴輪兵団固有の特性と、彼女が構築した戦術データリンクあってこそのものだが、そのような極めて洗練された戦術システムを、杖刀偶磨弓は極めて素朴な感覚で活用していた。
 驪駒早鬼および勁牙組は、幾度も埴輪兵団の蹂躙を受けている。情けなく言えば、負け慣れているほどだった。ゆえにその脅威を把握している。
(吉弔や饕餮に釘を刺すには、徒歩の兵だけで事足りるでしょう。だから、私たちに立ちはだかるのは――)
 果たして、数千騎の騎馬――騎兵を降ろして身を軽くし、そのうえ全速力で畜生界の野を突っ切ってきた埴輪の馬たちは、驪駒早鬼および勁牙組の道半ばで追いつこうとしていた。それは畜生界の荒野の丘をまったく方陣を崩さずに越えてやってきたので、まるで一枚の壮大でなめらかな絨毯が、野をすべるようにやってくる、そういう奇妙な錯覚を勁牙組の組員たちはおぼえた。

 馬だけではなく、杖刀偶磨弓自身もやってきている。彼女は、等間隔の陣形を完璧に維持しながら進撃する無数の馬の背を器用に跳びうつり、蹴るように駆けながら、ついに数千の馬群の先頭まで突出してきている。彼女にとっては、馬たちの背は確かな足元が高速で地面を移動しているだけのようだった。
 磨弓は矢に手を伸ばした――兵は馬から降ろさせたが、その際、鞍に各々の替えの弓や矢筒を一腰ぶんだけくくりつけて残させておいた。なので、どの騎馬も、一騎につき一張の予備の弓と、十六本から二十四本の矢を有していて、それが数千騎。彼女は概算にして約十万本の矢を、馬の背を跳び移りながら随意に使う事ができた。
 だが、磨弓は弓を取って矢をつがえるまではしたものの、それを一矢も射る事はできない。驪駒早鬼および勁牙組の移動の目的が不明だったし、なにより連中はあくまで同じ秩序を支持する側だ。射撃の可否を問うまでもなかった。
 できることといえば、このまま先行しメトロポリスとの間に一線を引いて停止させることくらい。
 そうした事を考えながら、磨弓は集団の馬力を上げさせようとした――と、なぜか勁牙組の動きが、騎馬集団に気圧されたようにも見える形で、ほんのわずかによれた。もちろん、わずかな進路のぶれすらも遅れにつながる。
(いっそ、このまま幅寄せをするような形で、相手の機動を削いでいってしまっても、よいのではないか)
 磨弓は騎馬集団をじりじりと相手側をすり潰すように寄せていって、そして罠にかかった――妖精が多くたむろしている地域に突っ込んでしまったのだ。
 途端に、光弾や弾幕が飛び交い始めた。

「――即興の罠にしては上手くいったわ!」
「こういうのがあるから畜生界はこわいのよね」
 慧ノ子がはしゃいで、はしゃぎすぎて、少し集団から遅れかけたので、早鬼はその尻をちょっとどやしつけなくてはならなかった。
「でもいい発想だったわ。しっかし、こっちだって向こうさんみたいな事にならないとは、限らないわけよ」
 と言って、オオカミ霊たちの中から特に素早いもの数匹を、三つほど臨時の小単位に編成して先行させ、哨戒員のような形で先へと進ませた。集団としての歩みはやや鈍ってしまう事になる。
 ついでに、足止めをくらった磨弓たちの騎馬集団に対しても観測員を送った。数千騎の埴輪の馬と杖刀偶磨弓は、傷だらけになったものの、ほとんどその勢力を減じてはいないという。
(これはだめかもな)
 と早鬼は直感した。相手の馬群は傷つきながらも柔軟に陣形を変えて、ちょうど自転車レースの大集団がそれぞれのチームのトップエースをアシストするように、論理的に空気抵抗を減じさせつつ先頭集団を加速させて、闇雲に駆けている勁牙組の鼻先を越そうとしていた。

 ひゅんひゅんと光弾が飛んでいる。
 馬の腹を抱き込むようにして、その下にくるりと身を隠し、無類の膂力でまた鞍上に復帰するという曲芸――ただし精強な遊牧の民なら子供の頃からやれる曲芸――をやりながら、杖刀偶磨弓はこみあげる悔しさに涙さえ流れそうだった。
 自分たちが完全にこの世界になぶられている事は、素直な彼女にも既にわかりきっている。どうにか相手の動きを止めたとして、虚実織り交ぜた態度で、またしてもいいように言いくるめられてしまう予感も、ほとんど確信に近いくらいだった。
――磨弓。
 と、耳にかけているセラミック伝導式のヘッドセットから、主の声が聞こえた。
――無事でよかったわ、そのまま奴らの動きを阻んでくれればいい。
 集団の陣形は既に方形から一本の縦隊に変換されていて、紐で囲うように勁牙組を絡めとろうとしていた。磨弓は、最も運動量を必要とする縦隊の先端が、ついに勁牙組の進路を妨害する位置に到達したのを見た。
――阻んでくれれば、あとは私が出ます。あなたはそれだけを告げてくれればいい。それなら、連中だって行動を停止するほかないでしょう。
 耳を疑った。霊長園から埴安神袿姫が出馬する?

 足止めは成った。
「……トライは失敗かぁ」
「まあ、そういう事もあるわ」
 埴安神袿姫がわざわざ出向いてくると聞いて、早鬼はこれ以上の口八丁は効かないだろうな、と割にあっさりと動きを止めて、そのままの場所に野営した。なんにせよ、あの霊長園の主を引きずり出した事にはなる。
「……あいつの心にはトライが決まったのかもしれないわね」
「え、なに。そういうちょっといい感じの話なの?」
「いい感じになりようがないわよ、私たちなんざ」
 早鬼は苦笑いをして、自分たちを阻んでいる埴輪の騎馬軍団と、傷ついたそれらを一頭一頭やさしくいたわっている杖刀偶磨弓をちらと見た。向こうも時折こちらに睨むような視線を向けてくるのだが、偶然目が合ってしまう。
「おおこわ」
 そうしているうちに、神様が畜生界の野にやってきた。単身で。
「人間霊の百官をぞろぞろ引き連れてくる必要もないでしょう」
 おどろいた顔をする一同――面白いことに、磨弓が一番呆然としている――を順繰りに見ながら、袿姫は言った。どうやら自分が型破りな行動をしている事は、理解しているようだった。
「……とにかく、会見の席に」
 それにしても、文書官僚すら引き連れていないというのは、袿姫はこれを、公式の会見にするつもりがないのだろうか。
「記録はとっております」
 席に座ろうとする、中途半端な姿勢になりながら、神様は急に言った。その唐突さに、早鬼はぎょっとした。
 更に異様な事に、袿姫はまだ、誰かに問いかけられたかのように、すらすらと言葉を放っている。
「私の体はいまだ霊長園の中にもあり、それでいてあなたがた三人の会見の席に、三体の私をそれぞれ送り込みました。ですが、どこに派遣された私が本当の私であるのかといった誤解や、無用の詮索はなさらぬよう。私はすべてがひとしく私であります」
 神は遍在している。

「どう見る? この会見」
 と、早鬼は慧ノ子にちょっとだけ尋ねた。
「……こっちは他ふたりの発言が聞こえないのに、神様だけは好き勝手喋くれるんでしょ」
 慧ノ子は少し考えた末に言った。
「それによって主導権を握るつもりかもね――こっちの言い分を無視して勝手に言い散らしているだけでも、やりようによってはイニシアチブを取れてしまうわけじゃん、こんなの」
「そういう小細工が無い奴ではないと思うのよ」
 早鬼は小馬鹿にしたように吐き捨てながら、別の感慨もあった。
(神様とて、世界にあろうとするにはなんでもやるんだろうね)

 以下、すべて袿姫の発言(抜粋)であり、早鬼の視点からすれば、尤魔と八千慧の弁論に対して行われた返答だ(むろん慧ノ子の予想通り、ただ一人で会話風の事をして、会見もおぼつかない三者をいっぺんに煙に巻こうとした可能性もある)。
「……ええ。あなたがたの方法論は、埴輪兵団だけが軍事的な勝手をする事を、おそらく今後も阻み続けるでしょう」
「もちろん、だからといってスペルカードルールの秩序の輪から離脱するつもりはありません。ああした秩序を有さない事は、この世界にとってもよくないでしょうし」
「この世界にとってよくないというのは、もちろん私が好き勝手に埴輪兵団を運動させていた事も含まれます。この発言は、自己批判と受け取ってもらって公式見解にしてもらってかまわない」
「率直に言って、私はあなたがたの軍事能力を侮ってもいた。軍事的には、ぐだぐだとした小競り合いと乱世をながなが続けて、そのためにこの荒野を荒らし回っていた方々というふうにしか、見ておりませんでした。なので、多少身勝手ではあっても、私だけがこの世界に秩序を敷く事のできる存在だと思い詰めていたかもしれません」
「……それは、この世界にある創造物とは、常になんらかのパロディなのであろう、といった話ですか?」
「了解しました」
「ええ、独善でしょう。独善的な面がない神様、それによって足元をすくわれる事のない神様なんて存在しませんから」
「今回の軍事行動が、最初からデモンストレーションのつもりであった事、承知しております。今回は結果的に上手くいきませんでしたが、今後も起こり得る先例にはなった。同時に、これまで新秩序に従ってこなかった勢力も、表面上は従っておいて足を引っ張り合う方が、リスクは少なくリターンはそこそこあるであろうことに気がついたでしょう」
「彼らはあなたたち以上に愚かなので、あなたたち以上に上手くやれると確信するでしょうね。だから新秩序の傘下にこぞって入る」
「ええ、ただのおべっかです」
「……しかしながら、言い添えておきましょう。あなた方の成功は、外の世界からの意向も多分に含まれている」
「――そう、それはわかっていますよね。私にも察せられる事ですもの。あなたがたを援けた諸々の力は、おそらくあなた方をこの世界に押しこめてやろうとする、そういう力でもある」
「それだけは忘れてならぬ、という事です。別に今回だけの事実関係をどうこう言って、その是非をあげつらうべきとは思っていません。この世界で圧倒的に強大であったはずの私は孤立し、あなたがたはこの世界の外と縁を結ぶことで、それを覆した。その意味を再認識して欲しい。わかっていることでしょうけれど」
「……あなたたちは、今後なにか外の世界に変容させられていくとしても、それを我々の意思で行った――決して、なし崩しの変化では無かったと。そういう納得が欲しかったのですね。いずれにせよ、この畜生界と呼ばれる世界のありようが、周辺の諸世界になにをもたらすのか。その意味は大きく変わりました」
「獣が野に放たれるのは時間の問題となったわけです」
「そう」
「それはきっと、カオスの縁で遷移していくのでしょう」

 早鬼自身は、まだ一言も発していない。
(なにと言ってやればいいのよ、こんなぶつ切りの返答に)
 と憤ってもいた。結局、慧ノ子が予想した通り、袿姫に会見の主導権を握られてしまっているのではないか。
 早鬼は黙ったまま、会合の席を蹴るように立つと、袿姫のそばに従うように立っている磨弓――だが、どこか拍子抜けしたような気の抜け方をしている――の方に話しかけた。
「なあ、おい。あ?」
 と磨弓に詰め寄った後で、内容ゼロの語りかけだった事に気がついて、ちゃんと言葉を選んで発する。
「……お前はどう思う?」
「え?」
 磨弓は、完全に虚を突かれたような声を出した。
「あんたの女神様が、こうなってしまっている事について、どう思う?……わかんないの? もうこの女神は、もはやなにも超越していない。世界に敷かれたルールにがんじがらめになって、私たちのような畜生どもと、泥にまみれて抗争するほかないところまで墜ちてしまったのよ。それだけのこと。あんたらも今では私たちと同類。――それ以上話すべき事なんて、ありゃしないのよ」
 磨弓も袿姫も、土くれに戻ってしまったように身じろぎひとつせず、黙り込んだままだ。
 驪駒早鬼は、更にもう一言を残すと、そのまま勁牙組をまとめて野に戻ってしまった。

 もちろん袿姫は土に戻ったわけではなかったが、それでも奇妙な暗号に戸惑っていた。彼女が、同時に別々の場所で会合していた三者――饕餮尤魔、吉弔八千慧、驪駒早鬼は、それぞれ同じようなタイミングで席を蹴って立ち、異口同音に先のようなセリフを袿姫たちに浴びせて、そして自分たちの兵を引いたのだ。その別れ際に投げかけた言葉まで、ほとんど変わりない。
「それじゃあ、またね。女神様。同じ畜生同士仲良くしましょう」
(……実際そういうものだとわかっていたつもりだけど、当人らに言われると腹立つわね)
 埴安神袿姫は、こみあげてくる怒りがどうしようもないものである事を理解した上で、一言だけ吐き捨てた。
「……きもちわるいひとたち」
これ以上畜生界の“戦争”を書いてもしょうがない気がするので、もうこの土地を舞台にしたそういう話は書かない気がします。
かはつるみ
https://twitter.com/kahatsurumi
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1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.90福哭傀のクロ削除
なんていうか、読み方あってるのかな……意地で繋がった三人が打ち合わせなしのオンサイドキックに合わせて突っ込んでった話っていう印象を、あってるのかこれ?違うかもしれない。なぜそうしたいのかはなんとなく読み取れたと思うのですが、結局どうなったのかがちょっとふわっとしか読み取れてないかもなのでいったんまた整理します。この話を残無がどう見ていたのかはちょっと気になる
4.無評価そるそる削除
正直何一つ面白味のないつまらない終わり方だなぁ…
5.100東ノ目削除
非常に困ったことに製品版頒布から二年経ってなお、獣王園キャラが活躍する作品は東方創想話というサイトにおいては希少栄養素でして、その成分を久しぶりに摂取できたことがまず嬉しかったです。
あと、個人的に埴輪兵団がハードの面では古臭く見えるがソフトの先進性により畜生共を蹂躙しうるというところが解釈一致でしたね。じゃあその軍事力の優位で畜生界を掌握できるのかというと、袿姫がなんか埴輪兵団を文民統制できてるように見える、というところに異様な気持ち悪さのようなものを感じるところですが
6.90のくた削除
わかり合えない連中がわかり合えない(きもちわるい)ままにそれぞれ動いていたら妙に平仄が合ってしまったんだけどやっぱり根本はわからない(きもちわるい)ままだった。それでもそれはそれで構わないままこれからもやっていく。という話かなと思った。あと、食事シーンで妙にお腹が減った、映姫様と同じメニュー食べたい
7.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。新しい体制や秩序を受け入れる過程として、古強者たちのあがきのような回帰があると解釈しました。今がよりよくなっていることはわかっているけど、昔はよかったしそれを全部否定されるのは嫌だみたいな、なんというかもの悲しさみたいなものの集合を感じます。闘争の本質は好きとか嫌いとか生死とかシンプルなものだと思います。最後はその形容しがたい感情の部分まで新しい秩序側のトップを引きずりおろせたということでしょうかね。
8.100南条削除
とても面白かったです
あいまいな態度と伝えてもいない作戦に乗って3組長が揃って行動する姿にお互いへの理解を感じました
やっぱり友達じゃん
晴れて獣の一員となった神様ですが、神様でさえも世に顕現してしまえば望む望まざるにかかわらず周りに影響を受けるのだと思いました