「パチェ! パチェ!」
紅魔館が日本に引っ越してきてから数週間。ここしばらくの引っ越しのごたごたやご近所への挨拶(この幻想郷という土地は決闘が挨拶という随分血の気の多い、レミィ好みの文化がある)などの対応も落ち着いてきて、そろそろレミィが暇してくる頃合いだった。
「やっぱり日本に来たからにはさ、あれが食べたいよね!」
そら来た。
レミィは旅先で現地の食べ物を味わう事を非常に好む。それも珍味であればあるほど嬉しいらしい。なんでも「やっぱり珍しいものは体験してなんぼ、それもその土地でしか味わえないとなればその価値は測り知れないわ!」だそうで。うん。私もその意見には大変同意できるし、レミィと一緒にいると貴重な体験には事欠かない。しかしこと食べ物の話となると地域特産品にありがちな癖の強さが問題になってくる。具体的に言うと慣れないと飲み込めない。レミィはここを飽くなき好奇心で突破するのだけど、私にそこまでのガッツは無い。あまりの臭気に口に入れる事さえ出来ずにギブアップした食べ物も一つや二つではない。今回はそんなに臭くない食べ物だと良いのだけど……
「――納豆!」
ほぅら臭い奴じゃん……
パチェ! 納豆を作って食べるわよ!
*
「まったく、レミィは発酵食品に目が無いわね。この間高麗 でホンオフェにどんな目に遭わされたか、もう忘れたの?」
「あっはっは! あれは凄かったわねぇ。ちょっと鼻を近づけるだけで涙が止まらなくなって……。でも、あれはあれで慣れると癖になるのよ?」
「はいはい、私は臭い物はもうこりごりよ。発酵食品にはしばらく関わりたくないわ」
「でも、高麗 といえばパチェだってキムチを気に入って熱心にレシピを研究してたじゃない。あれも発酵食品でしょ?」
「……むぅ」
それは事実だ。私は臭いのは嫌だけど辛味にはそれなりの耐性がある。印度 出身だからね。レミィは私のキムチを味見して火を噴いていたけれど、私にはあの程度の唐辛子 など物の数ではない。そんな痛い所を突いてきたレミィが更に追撃する。
「それにパチェはいつも言ってるでしょう? 『知識と経験は智慧の両輪。片方だけではその価値は半分未満』って。納豆は臭い食べ物だっていう知識だけを持ってこの国を発つなんて、パチェの魔法使いとしての誇りが許せるかしら?」
これを言われてしまえばもう私に言える事は一つだ。ホンオフェの時も、その前も、私はこれで説得されてきた。
「判った判った、私の負けよ。それで? 当然買ってきて食べてお終いなんて……」
「有り得ない。そうでしょう?」
レミィが満面の笑みを浮かべる。
「それじゃ私はこれから納豆の作り方を調べるから、数日ほど待って頂戴」
「よろしくね、頼れるパチェ」
かくして、紅魔館の納豆作りが始まった。
*
「えー、それでは中間報告。納豆の材料と製法は大体判ったわ」
紅魔館の図書館。ここは私の研究室のような物だ。今この場にいるのは四名。私とレミィ、小悪魔の××(人間には聞き取れない名前だ)に、レミィが最近拾ってきた人間のメイドの咲夜だ。咲夜は時空を操る奇妙な術を扱い、とても人間とは思えない独特の波長を放つ、レミィのお気に入りである。
私は黒板に「大豆」「稲藁」と書いて皆に向かった。
「納豆を作るのに必要なのは大豆と稲藁。作り方は茹でた大豆を稲藁で包 み、一定の温度を保ちながら数日待つ。これで完成」
「随分簡単ね」
レミィが言う。
「簡単なものほど奥が深いのよ。これから蔵をいくつか使って少しずつ条件を変えて納豆を作って行こうと思うけど、何か意見はあるかしら?」
「それでは」
咲夜が手を挙げた。
「蔵なんて使わなくても私の力を使えば一瞬で完成させる事ができますわ。色々試すおつもりならその方が便利ではなくて?」
私とレミィは顔を見合わせた。レミィが肩をすくめる。
「咲夜。確かにその方が速くてお手軽だけど、私達は結果だけを求めているのでは無いの。試行錯誤や、それにかかる時間といった経過もモノ作りの楽しみなんだから。人間はのんびりしてるとすぐに死んでしまうから急ぐ気持ちは判るけど、ここは妖怪の館だから私達の流儀に合わせて貰うよ」
「経過、ですか」
「そう。経過と結果の両方が揃ってこそ経験になるのよ。……って、そうだわ。経験だけでもまだ駄目なんだったわね」
レミィが私に目配せした。
「『知識と経験は智慧の両輪。片方だけではその価値は半分未満』……。つまりレミィは咲夜に経験に先立って知識から付けて貰おうというわけね」
「そういう事。今から講義を頼めるかしら?」
「良いでしょう」
私は黒板を裏返した。
*
「それじゃあ今日は発酵食品についての話だけど、まず咲夜は発酵と腐敗の違いは判るかしら?」
「美味しいのが発酵で、臭いのが腐敗でしょうか」
一瞬たりとも考えている様子を見せず、即答する。
「うん。百点満点ではないけれど、なかなかセンスがあるわね。一般に発酵とは腐敗の中の一部で、人間……ここで言う人間とは私達のような妖怪も含むんだけど、その人間にとって有益なのが発酵と言われているわ。でもこれは本質的な話ではない。まずは腐敗という物がどういう物かを説明するために、死体に登場して貰うわ。××(小悪魔の名前)!」
「は、はい!」
「ヒキガエル」
「はい! ――!」
××が呪文を唱えると、机の上に書かれた魔法陣からヒキガエルが召喚された。
「これは魔法によく使うヒキガエル。魔法生物でもなんでもない普通の生き物。こういった生きとし生けるものは生命という物を持っているんだけど……、××」
「はい」
××が手でヒキガエルの首を折り、絶命させた。
「これでこのヒキガエルの体は生命を失った。このまま放っておくと急速に腐っていく事でしょう。腐るのを防ぎたいならどうすれば良い?」
「火葬するか、ミイラにでもするかですね」
またしても即答する。
「すごいわレミィ、この子相当な逸材よ」
「ふふん。そうでしょう?」
レミィは鼻高々だ。
「こほん。話を戻すわね。生きとし生けるものは生命を持っていると言ったけれども、この〝生命〟に近い物は万物に宿っている。生き物は勿論の事、無生物である物体や、空間そのものにも宿っているわ。この国ではそれらの事を〝神霊〟と呼ぶそうだけど、ここでは私の故郷に近い地域の概念である〝精 〟という言葉を使うわね。さて、今殺したこのヒキガエルの体は元のヒキガエルの生命の精 を失って空っぽの状態になったんだけど、そうするとすぐさま周囲から卑小な精 が集まってきてこのヒキガエルの死体に宿っていくわ。生命の精 は強力だから、生きてそれが宿っている間は卑小な精 は近づけないのね。で、この精 なんだけど、基本的な性質としてそれぞれの精 が好む環境になるように宿った物を作り変えようとする性質があるの。死んで卑小な精 が群がったヒキガエルの死体はそれぞれの精 が好きなように作り変えようとして滅茶苦茶になってしまう。これを腐敗と言うわ」
咲夜は理解しているようなしていないような、何とも言えない表情で話を聞いている。とりあえず聞いているふりをしている訳ではなさそうなので話を続ける。
「咲夜はこいつが腐らないようにするためには火葬かミイラ化かと言ったわね。これらにも精 が関係している。……××、炭化」
「はい! ――!」
ヒキガエルを持った××の手から炎が迸り、あっという間にヒキガエルを黒焦げの炭化状態にした。
「Dの薬品棚に入れておきなさい。……今やったのはヒキガエルの死体を燃やして炭にした事だけど、もう少し込み入った言い方をすると、火の精 によってヒキガエルの死体を作り変えた、という事になる。火の精 というやつは精 の中でも特別に強力な奴でね、生命の精 を含む他の精 を追い出し、ほんの限られた種類の精 しか宿れない状態に物を作り変えてしまう。これを燃焼と言うわ。火葬とは、死体が卑小な精 たちによって滅茶苦茶に作り変えられてしまう前に火の精 を使って安定した状態にする事よ」
レミィは頷きながら聞いている。ちなみにレミィがこの話を聞くのは三回目だ。一回目はレミィのために説明した時、二回目は美鈴に説明した時である。
「××、Fの薬品棚からミイラを」
「はーい」
××が棚から干からびた蜥蜴を取り出した。
「一方のミイラ化とは、死体保存 の一種。簡単な物は死体から水分を抜くだけだけど、高度になると香草や樹脂といった物を使って死体の保存性を高める。これの原理だけど、水の精 は排他的な火の精 と違って他の多くの精 に対して友好的で、周囲の精 を呼び集めようとする性質があるの。死体を乾燥させて水の精 を追い出すだけでもかなり卑小な精 は集まりにくくなる。そして香草や樹脂には物好きな特定の種類の精 しか宿らない。こうして宿る精 の種類を少なくする事で死体を安定させるのが死体保存 」
「じゃあ、発酵というのは……」
咲夜がドンピシャのタイミングでドンピシャの単語を出した。本当にこの子はとんでもない逸材だ。
「そう。精 は宿った物を自分の好きな環境になるように作り変えるのだけど、狙った種類の精 だけを物に宿して、人間に都合の良いように作り変えさせる事を発酵と言う。平たく言えば、無秩序なのが腐敗で、秩序だっているのが発酵ね」
「そういえば死体を腐らないようにする方法、もう一つあるぞ」
レミィが口を挟んだ。
「吸血鬼にしてしまえば腐らない」
「それは死体に吸血鬼の強力な精 を宿して安定させる手法ね」
「吸血鬼化って発酵なの?」
「知らないわよ。実の所発酵っていうのは元々人間の科学用語よ。人間の科学に吸血鬼化の概念は無い」
「なんだか話が逸れてますが、納豆の話でしたよね?」
咲夜が助け舟を出してくれた。
「そうそう、納豆ね。納豆を作るには茹でた大豆を使うんだけど、これは火の精 と水の精 の合わせ技で、まず火の精 によって腐敗を齎す卑小な精 を追い出すのだけど、そのままでは食べられない燃えカスになってしまうから、火の精 の力を弱める水の精 によって加熱具合を調節する。ここで出てくる稲藁だけど、恐らくこの稲藁に大豆を納豆に変える精 が宿っているのね。他の精 を呼び寄せる水の精 が宿った大豆でさえ稲藁で包むだけで納豆になるという事は、納豆の精 は余程他の精 を寄せ付けない、強力な精 と見えるわね」
「話は判りました。私の任務は良い精 の宿った稲藁を調達してくる事ですね」
咲夜は驚くほど理解が早い。
「そうね。まあ、いきなり精 なんて言っても私達以外には通じないだろうから、納豆作りに良い稲藁を探している、と言うべきね」
「それから大豆も忘れちゃいけない。これが無いとなんにも始まらないからね。それじゃあ頼んだよ、咲夜」
「仰せの通りに」
「××は一番、三番、六番、十四番の蔵の準備をしておきなさい。少しずつ環境を変えて納豆作りを試すわよ」
「はいはーい」
*
――数週間後。
「ようレミリア。納豆を作ったんだって? 外国妖怪なのに変わった趣味をしているなあ」
紅魔館の図書館に黒白の泥棒が招かれていた。今日は作った納豆の試食の日なのだが……
「ちょっと咲夜、どうして魔理沙をここに呼んだのよ。私の本を狙う敵よ、こいつは」
「お嬢様が『ちゃんと納豆として出来ているか判断するためには納豆の味を知っている現地の者が必要だ』と仰ったので、現地人の知り合いを連れて来ましたわ」
「そうだ。今日の私は審判だな。安心して良いぜ、今日は本にはちょっとしか興味は無い」
「ちょっとはある時点で困るわよ。私達はここに越して来て日が浅いから知り合いが少ないのは確かだけど、もうちょっと他にも誰かいたでしょ、例えばあの紅白の巫女とか」
「私もまずは霊夢に声を掛けたのですが、霊夢は納豆は絶対に食べないと言うので……」
「へえ、日本人でも納豆嫌いの奴はいるんだねえ、そりゃそうか」
レミィが呑気に言う。
「いえ、それが彼女曰く『うちにいるお酒造りの神様が大の納豆嫌いで、納豆を食べた口で酒蔵に入ろうものなら祟りを起こしてお酒を全部駄目にしてしまう』そうで」
「あいつ、酒なんて造ってたのか。ちょっと貰いに行こうかな」
「納豆を食べた口で近づいちゃ駄目なんでしょう? きっと納豆の精 はお酒の精 より強いのね」
「ジンって何だ?」
「あんた達の言葉で言うなら神霊よ」
「へぇ」
生返事。巫女の酒蔵を駄目にされたら私達まで累が及びかねない。しっかり止めないと……
「まあまあ、今日は納豆の試食の日なんでしょう? 納豆に合うという米飯も用意していますわ。まずは食べましょう」
「そうね。パチェ! 持ってきなさい」
「むぅ……」
私は××に命じて四つの蔵から納豆の包みを持って来させた。稲藁を開けるとすぐに独特の臭気が辺りに漂った。
「こ……これは……」
××が呻いた。
「なかなか食欲をそそらない臭いですね」
咲夜も涼しい顔はしていない。
「おお~、ちゃんと納豆の臭いがしているぜ。初めてだとまあキツいよな。判るよ」
魔理沙だけは平気な顔をしている。
「それじゃあ誰から食べる?」
「そりゃあ、発起人のレミィでしょう」
「毒見とかは……」
「レミィに少々の毒は効かないでしょ」
「むぅん……」
レミィもさすがに尻込みしている。何だかんだ言って必ず食べはするが、最初の一口目を口に入れるまでは結構時間がかかるのもいつもの事だ。
「ええい、ままよ! いただきます!」
レミィがまだ慣れない箸で数粒の納豆と米飯を摘み、口に運んだ。
「いかがですか?」
「……むー……うーん……いや……うん、なかなかいける……かも……?」
「微妙な反応だなぁ! どれどれ……おお、中々美味いな!」
納豆を食べ慣れているらしい魔理沙がひょいと一口食べ、顔をほころばせた。
××も咲夜も一口食べてみたが、反応はレミィと大差が無い。とりあえず、口に入れる事は出来るし飲み込む事も出来る程度の臭気ではあるようだ。私も意を決して三番蔵の納豆を口にする。
なんか思ったよりも軟らかい。歯で噛まなくても口蓋で潰れる。にちゃっとしてて気持ち悪い。味は……臭気でそれどころじゃない。と……とにかくいつまでも咀嚼してても仕方がない。飲み下す。まあ……以前食べたアレやアレよりはだいぶマシか……?
かくして紅魔館産納豆第一号は「食べられなくはないけど美味しいとは言い難い」というなんとも微妙な結論で一致し、食事会は幕を下ろした。レミィは「劇的なだけが人生じゃない。これも、これこそが経験だよ」と笑っていた。ちなみに魔理沙曰く六番蔵の奴が一番美味しかったらしい。私には違いが判らなかったけれど、食べ慣れた人間が言うのなら間違いないのだろう。これからレミィに納豆をリクエストされたら六番蔵のレシピをベースに作っていく事にしよう。
*
紅魔館で初めて納豆を作ってから随分長い事経った。
あれからレミィは何度も納豆に挑戦し、何度目かでその美味しさを掴んだようで、すっかり日本での好物の一つとなっている。紅魔館で最終的に納豆を好きになったのはレミィの他には美鈴と一部のホフゴブリンだけで、私や咲夜はまあ最初ほどは抵抗なく食べられるけど好き好んで食べる物ではないという塩梅に収まった。一方研究対象としては納豆は興味深く、あの六番蔵のレシピから改良を重ね、レミィからも魔理沙からも随分美味しくなったと太鼓判を押されている。えっへん。
そんな具合で納豆が日常の食べ物になると、非日常を求めるレミィは新たな味を求める訳で……
「パチェ! パチェ! そういえば日本にはアレがあったわね!」
今度はそんなに臭くない食べ物だと良いのだけど……
「――鮒寿司!」
ほぅら臭い奴じゃん……
おわり
紅魔館が日本に引っ越してきてから数週間。ここしばらくの引っ越しのごたごたやご近所への挨拶(この幻想郷という土地は決闘が挨拶という随分血の気の多い、レミィ好みの文化がある)などの対応も落ち着いてきて、そろそろレミィが暇してくる頃合いだった。
「やっぱり日本に来たからにはさ、あれが食べたいよね!」
そら来た。
レミィは旅先で現地の食べ物を味わう事を非常に好む。それも珍味であればあるほど嬉しいらしい。なんでも「やっぱり珍しいものは体験してなんぼ、それもその土地でしか味わえないとなればその価値は測り知れないわ!」だそうで。うん。私もその意見には大変同意できるし、レミィと一緒にいると貴重な体験には事欠かない。しかしこと食べ物の話となると地域特産品にありがちな癖の強さが問題になってくる。具体的に言うと慣れないと飲み込めない。レミィはここを飽くなき好奇心で突破するのだけど、私にそこまでのガッツは無い。あまりの臭気に口に入れる事さえ出来ずにギブアップした食べ物も一つや二つではない。今回はそんなに臭くない食べ物だと良いのだけど……
「――納豆!」
ほぅら臭い奴じゃん……
パチェ! 納豆を作って食べるわよ!
*
「まったく、レミィは発酵食品に目が無いわね。この間
「あっはっは! あれは凄かったわねぇ。ちょっと鼻を近づけるだけで涙が止まらなくなって……。でも、あれはあれで慣れると癖になるのよ?」
「はいはい、私は臭い物はもうこりごりよ。発酵食品にはしばらく関わりたくないわ」
「でも、
「……むぅ」
それは事実だ。私は臭いのは嫌だけど辛味にはそれなりの耐性がある。
「それにパチェはいつも言ってるでしょう? 『知識と経験は智慧の両輪。片方だけではその価値は半分未満』って。納豆は臭い食べ物だっていう知識だけを持ってこの国を発つなんて、パチェの魔法使いとしての誇りが許せるかしら?」
これを言われてしまえばもう私に言える事は一つだ。ホンオフェの時も、その前も、私はこれで説得されてきた。
「判った判った、私の負けよ。それで? 当然買ってきて食べてお終いなんて……」
「有り得ない。そうでしょう?」
レミィが満面の笑みを浮かべる。
「それじゃ私はこれから納豆の作り方を調べるから、数日ほど待って頂戴」
「よろしくね、頼れるパチェ」
かくして、紅魔館の納豆作りが始まった。
*
「えー、それでは中間報告。納豆の材料と製法は大体判ったわ」
紅魔館の図書館。ここは私の研究室のような物だ。今この場にいるのは四名。私とレミィ、小悪魔の××(人間には聞き取れない名前だ)に、レミィが最近拾ってきた人間のメイドの咲夜だ。咲夜は時空を操る奇妙な術を扱い、とても人間とは思えない独特の波長を放つ、レミィのお気に入りである。
私は黒板に「大豆」「稲藁」と書いて皆に向かった。
「納豆を作るのに必要なのは大豆と稲藁。作り方は茹でた大豆を稲藁で
「随分簡単ね」
レミィが言う。
「簡単なものほど奥が深いのよ。これから蔵をいくつか使って少しずつ条件を変えて納豆を作って行こうと思うけど、何か意見はあるかしら?」
「それでは」
咲夜が手を挙げた。
「蔵なんて使わなくても私の力を使えば一瞬で完成させる事ができますわ。色々試すおつもりならその方が便利ではなくて?」
私とレミィは顔を見合わせた。レミィが肩をすくめる。
「咲夜。確かにその方が速くてお手軽だけど、私達は結果だけを求めているのでは無いの。試行錯誤や、それにかかる時間といった経過もモノ作りの楽しみなんだから。人間はのんびりしてるとすぐに死んでしまうから急ぐ気持ちは判るけど、ここは妖怪の館だから私達の流儀に合わせて貰うよ」
「経過、ですか」
「そう。経過と結果の両方が揃ってこそ経験になるのよ。……って、そうだわ。経験だけでもまだ駄目なんだったわね」
レミィが私に目配せした。
「『知識と経験は智慧の両輪。片方だけではその価値は半分未満』……。つまりレミィは咲夜に経験に先立って知識から付けて貰おうというわけね」
「そういう事。今から講義を頼めるかしら?」
「良いでしょう」
私は黒板を裏返した。
*
「それじゃあ今日は発酵食品についての話だけど、まず咲夜は発酵と腐敗の違いは判るかしら?」
「美味しいのが発酵で、臭いのが腐敗でしょうか」
一瞬たりとも考えている様子を見せず、即答する。
「うん。百点満点ではないけれど、なかなかセンスがあるわね。一般に発酵とは腐敗の中の一部で、人間……ここで言う人間とは私達のような妖怪も含むんだけど、その人間にとって有益なのが発酵と言われているわ。でもこれは本質的な話ではない。まずは腐敗という物がどういう物かを説明するために、死体に登場して貰うわ。××(小悪魔の名前)!」
「は、はい!」
「ヒキガエル」
「はい! ――!」
××が呪文を唱えると、机の上に書かれた魔法陣からヒキガエルが召喚された。
「これは魔法によく使うヒキガエル。魔法生物でもなんでもない普通の生き物。こういった生きとし生けるものは生命という物を持っているんだけど……、××」
「はい」
××が手でヒキガエルの首を折り、絶命させた。
「これでこのヒキガエルの体は生命を失った。このまま放っておくと急速に腐っていく事でしょう。腐るのを防ぎたいならどうすれば良い?」
「火葬するか、ミイラにでもするかですね」
またしても即答する。
「すごいわレミィ、この子相当な逸材よ」
「ふふん。そうでしょう?」
レミィは鼻高々だ。
「こほん。話を戻すわね。生きとし生けるものは生命を持っていると言ったけれども、この〝生命〟に近い物は万物に宿っている。生き物は勿論の事、無生物である物体や、空間そのものにも宿っているわ。この国ではそれらの事を〝神霊〟と呼ぶそうだけど、ここでは私の故郷に近い地域の概念である〝
咲夜は理解しているようなしていないような、何とも言えない表情で話を聞いている。とりあえず聞いているふりをしている訳ではなさそうなので話を続ける。
「咲夜はこいつが腐らないようにするためには火葬かミイラ化かと言ったわね。これらにも
「はい! ――!」
ヒキガエルを持った××の手から炎が迸り、あっという間にヒキガエルを黒焦げの炭化状態にした。
「Dの薬品棚に入れておきなさい。……今やったのはヒキガエルの死体を燃やして炭にした事だけど、もう少し込み入った言い方をすると、火の
レミィは頷きながら聞いている。ちなみにレミィがこの話を聞くのは三回目だ。一回目はレミィのために説明した時、二回目は美鈴に説明した時である。
「××、Fの薬品棚からミイラを」
「はーい」
××が棚から干からびた蜥蜴を取り出した。
「一方のミイラ化とは、
「じゃあ、発酵というのは……」
咲夜がドンピシャのタイミングでドンピシャの単語を出した。本当にこの子はとんでもない逸材だ。
「そう。
「そういえば死体を腐らないようにする方法、もう一つあるぞ」
レミィが口を挟んだ。
「吸血鬼にしてしまえば腐らない」
「それは死体に吸血鬼の強力な
「吸血鬼化って発酵なの?」
「知らないわよ。実の所発酵っていうのは元々人間の科学用語よ。人間の科学に吸血鬼化の概念は無い」
「なんだか話が逸れてますが、納豆の話でしたよね?」
咲夜が助け舟を出してくれた。
「そうそう、納豆ね。納豆を作るには茹でた大豆を使うんだけど、これは火の
「話は判りました。私の任務は良い
咲夜は驚くほど理解が早い。
「そうね。まあ、いきなり
「それから大豆も忘れちゃいけない。これが無いとなんにも始まらないからね。それじゃあ頼んだよ、咲夜」
「仰せの通りに」
「××は一番、三番、六番、十四番の蔵の準備をしておきなさい。少しずつ環境を変えて納豆作りを試すわよ」
「はいはーい」
*
――数週間後。
「ようレミリア。納豆を作ったんだって? 外国妖怪なのに変わった趣味をしているなあ」
紅魔館の図書館に黒白の泥棒が招かれていた。今日は作った納豆の試食の日なのだが……
「ちょっと咲夜、どうして魔理沙をここに呼んだのよ。私の本を狙う敵よ、こいつは」
「お嬢様が『ちゃんと納豆として出来ているか判断するためには納豆の味を知っている現地の者が必要だ』と仰ったので、現地人の知り合いを連れて来ましたわ」
「そうだ。今日の私は審判だな。安心して良いぜ、今日は本にはちょっとしか興味は無い」
「ちょっとはある時点で困るわよ。私達はここに越して来て日が浅いから知り合いが少ないのは確かだけど、もうちょっと他にも誰かいたでしょ、例えばあの紅白の巫女とか」
「私もまずは霊夢に声を掛けたのですが、霊夢は納豆は絶対に食べないと言うので……」
「へえ、日本人でも納豆嫌いの奴はいるんだねえ、そりゃそうか」
レミィが呑気に言う。
「いえ、それが彼女曰く『うちにいるお酒造りの神様が大の納豆嫌いで、納豆を食べた口で酒蔵に入ろうものなら祟りを起こしてお酒を全部駄目にしてしまう』そうで」
「あいつ、酒なんて造ってたのか。ちょっと貰いに行こうかな」
「納豆を食べた口で近づいちゃ駄目なんでしょう? きっと納豆の
「ジンって何だ?」
「あんた達の言葉で言うなら神霊よ」
「へぇ」
生返事。巫女の酒蔵を駄目にされたら私達まで累が及びかねない。しっかり止めないと……
「まあまあ、今日は納豆の試食の日なんでしょう? 納豆に合うという米飯も用意していますわ。まずは食べましょう」
「そうね。パチェ! 持ってきなさい」
「むぅ……」
私は××に命じて四つの蔵から納豆の包みを持って来させた。稲藁を開けるとすぐに独特の臭気が辺りに漂った。
「こ……これは……」
××が呻いた。
「なかなか食欲をそそらない臭いですね」
咲夜も涼しい顔はしていない。
「おお~、ちゃんと納豆の臭いがしているぜ。初めてだとまあキツいよな。判るよ」
魔理沙だけは平気な顔をしている。
「それじゃあ誰から食べる?」
「そりゃあ、発起人のレミィでしょう」
「毒見とかは……」
「レミィに少々の毒は効かないでしょ」
「むぅん……」
レミィもさすがに尻込みしている。何だかんだ言って必ず食べはするが、最初の一口目を口に入れるまでは結構時間がかかるのもいつもの事だ。
「ええい、ままよ! いただきます!」
レミィがまだ慣れない箸で数粒の納豆と米飯を摘み、口に運んだ。
「いかがですか?」
「……むー……うーん……いや……うん、なかなかいける……かも……?」
「微妙な反応だなぁ! どれどれ……おお、中々美味いな!」
納豆を食べ慣れているらしい魔理沙がひょいと一口食べ、顔をほころばせた。
××も咲夜も一口食べてみたが、反応はレミィと大差が無い。とりあえず、口に入れる事は出来るし飲み込む事も出来る程度の臭気ではあるようだ。私も意を決して三番蔵の納豆を口にする。
なんか思ったよりも軟らかい。歯で噛まなくても口蓋で潰れる。にちゃっとしてて気持ち悪い。味は……臭気でそれどころじゃない。と……とにかくいつまでも咀嚼してても仕方がない。飲み下す。まあ……以前食べたアレやアレよりはだいぶマシか……?
かくして紅魔館産納豆第一号は「食べられなくはないけど美味しいとは言い難い」というなんとも微妙な結論で一致し、食事会は幕を下ろした。レミィは「劇的なだけが人生じゃない。これも、これこそが経験だよ」と笑っていた。ちなみに魔理沙曰く六番蔵の奴が一番美味しかったらしい。私には違いが判らなかったけれど、食べ慣れた人間が言うのなら間違いないのだろう。これからレミィに納豆をリクエストされたら六番蔵のレシピをベースに作っていく事にしよう。
*
紅魔館で初めて納豆を作ってから随分長い事経った。
あれからレミィは何度も納豆に挑戦し、何度目かでその美味しさを掴んだようで、すっかり日本での好物の一つとなっている。紅魔館で最終的に納豆を好きになったのはレミィの他には美鈴と一部のホフゴブリンだけで、私や咲夜はまあ最初ほどは抵抗なく食べられるけど好き好んで食べる物ではないという塩梅に収まった。一方研究対象としては納豆は興味深く、あの六番蔵のレシピから改良を重ね、レミィからも魔理沙からも随分美味しくなったと太鼓判を押されている。えっへん。
そんな具合で納豆が日常の食べ物になると、非日常を求めるレミィは新たな味を求める訳で……
「パチェ! パチェ! そういえば日本にはアレがあったわね!」
今度はそんなに臭くない食べ物だと良いのだけど……
「――鮒寿司!」
ほぅら臭い奴じゃん……
おわり
一瞬たりとも考えている様子を見せず、即答する。
ここの咲夜がとても原作っぽくて好きです。
ジン云々もレミリアが語るハッタリとして、利いていて、
その辺りが漫画版の原作っぽくて、
ところどころに差し込まれる小ネタがとても良かった。
絶妙に的を射ているような微妙に違うようなパチュリーの説明が胡乱でよかったです
納豆は13回目の糸だす