Coolier - 新生・東方創想話

眠龍

2025/10/04 18:42:36
最終更新
サイズ
86.51KB
ページ数
1
閲覧数
681
評価数
14/19
POINT
1580
Rate
16.05

分類タグ

 美鈴が中国のもっと内陸から上海という臨海都市に居を移したのは1830年代の末のことだった。
 なぜ引っ越したのかということには明確な理由があり、糊口をしのぐためであった。「未開の蛮地」と「文明国」から蔑まれるこの国においてすら、極めて緩慢にではあるが科学への信仰や合理主義が浸透し始めていて妖怪の肩身は狭くなりつつあった。少なくとも「饅頭」と称した人間の頭を半年に一度喰らってみせると何かが満たされるという時代ではなくなっていたから小麦粉と挽肉でできた饅頭やそれに類するものを毎日食べなければいけなくなり、そしてそれらを手に入れるには金が必要だった。美鈴はこの国に資本主義という概念が生まれる前にその論理に組み込まれ、この国が近代化する前に近代化を経験した(史実がネタバレすることとして、この国は近代化により「この国」ではなくなるが)。
 ただ、上海を選んだというのにはそんなに深い理由はなかった。単に元々住んでいた場所から一番近い(近い、といっても百里ではとうていきかぬほどの距離はあるが)港町で、山の未開ぶりを考えれば海なら逆に便利に賑わってるだろうという内陸出身特有の海洋信仰に基づくものだった。現実には、この時代の上海は便利に賑わっている港町ではなく、清国内の大抵の場所と同じように寂れた小都市というだけだった。違いといえば上海はたまたま海沿いに位置していた、ただそれだけである。逆にもっと昔の時代なら国際港として栄えていたのだが、前世紀の半ば、つまり丁度百年前に清国が限定的な鎖国政策をとり上海も封鎖してしまったのだった。
 今では在りし日の面影すらほとんどない。美鈴は人よりもよほどやかましいウミネコの鳴き声に鼓膜を震わせながら、初日にしてここに来たことを少し後悔した。
 ただ確かに、貨幣経済が成り立たないほどの田舎というわけでもない。国内港としては機能していたから昼間は沖仲仕(港湾労働者のこと)の仕事があったし、夜は娼館での人手を必要としていた。昼に木箱や麻袋を右に左に動かし、夜は猿か豚か魚人かという性欲を持て余した西遊記みたいな見た目の連中の相手をしなければならないというのは肉体的にはともかく(普通の人が紙片を持ち上げるのと羽を持ち上げるのとを区別なく苦労しないように、美鈴にとって物が詰まった箱も紙切れと同じだった)、精神的には決して愉快ではなかった。愉快ではなかったからそうして働くのは週の半分で残りは三日くらいで建てたような木造の小屋の中で寝るか拳法をするかして過ごした。魚の釣り方を覚えたからという注釈は要るにしても、それで意外となんとかなっていた。
 暮らしの目処がたつと、理想郷とまではいかずとも住めば都くらいの愛着は湧くものだ。名前もつかぬような内陸の田舎から上海に出てしばらく、このあたり、というよりこの国の、情報をまともに得ることができるようになったことでこの国には他に広州という港町があり、そこは国際港として発展していることを知った。その瞬間には「そっちに行っておけばよかったなあ」と後悔の念も湧いた。が、その話(事情通の船員による噂話だった)が、そこでお偉いさんが阿片を大量に押収して燃やしたと続いたのを聞くや否や、「きな臭い話だ、この街でそんな面倒なことが起きなくてよかった」と手首を百八十度ひっくり返した感想に変わった。
 上海にも阿片はある。娼館には常に褐色の煙が充満していた。自分で吸うならともかく他人が吸った煙などただ臭いだけだ。煙草と同じく、これもまた美鈴の精神的健康を大いに削いだが、仕事をしている夜の間だけ耐えれば済むことでもあった。昼間外にいる分には阿片とは無縁でいられる。昼間の間阿片がこの世から消滅してるというわけではないが、阿片を吸ってる奴らは阿片窟から出てこれないから容易に無視できたのである。褐色の雲はなく、ただ空に白色の雲だけがあった。この時代の上海の空気は澄んでいた。翻って、広州とやらでは外で阿片が燃えているらしい。あの墓所に生えた(シキミ)
のような臭いが昼夜問わず港を汚染しているに違いない。可哀想だとも思ったが安堵の感情、それが上海の出来事でなくてよかったという思いは同情の三倍は強く抱いた。
 この国の民衆の阿片への執着を思うとそれを燃やすに至ったのにはよほどの事情があったに違いない。美鈴は国の大多数と違って阿片を好んでいなかったからこの何者かも知れぬ役人の英断が功を奏してそのまま阿片という悪臭をもたらす悪習が衰退してくれれば、と思っていた。





 美鈴、ひいては清国そのものにとって不幸だったことに、情勢は役人が阿片を燃やしたところでは終わらなかった。
 清国による阿片厳禁策には外国商人に対して「清国に阿片を持ち込まない」という旨の誓約書の提出を義務化するというものも含まれていたが、英国の貿易監督官チャールズ・エリオットはこの決定に反発し英国商人全員を広州からマカオに退去させていた。官僚の林則徐らが阿片を没収し処分したのが1839年6月のこと(美鈴が耳にしたのはこの出来事だった)。この時点では英国側に軍事力がなく(急変する情勢に即座に対応できるほどこの時代の艦船と情報伝達速度、国家の意思決定システムは高速ではなかった)、また英国商人側も一枚岩ではなかった(つまり、法外な手数料を払って米国商人を仲介人として取引するくらいならば誓約書を提出して清国と直接交易できる状態に戻してしまえと考える商人だって一定数いた)から、英国に対して阿片禁止で圧力を強める清国とそれを拒否するエリオットら英国商人強硬派との間で水面下の駆け引きがなされる状態がしばらく続いた。
 英国本国では1839年10月に当時の内閣が清国での軍事行動を決定、翌年3月には遠征のための予算案が議会を通過した。そこから主力艦隊が清国沿岸に到着するまでは更に同年夏まで待たなければならず、その間エリオットは先に東インド会社から到着していたフリゲート艦二隻のみを軍事力としなければならなかったが特に問題にはならなかった。清国の海軍力はこの二隻すらも全く止められないほどに脆弱だったためである。
 この時代の軍艦は基本的に木造の帆船だった。これは英国とて例外ではなく、戦闘に参加した四十隻以上の艦艇のうち鉄製の汽船は四隻のみだった。だからといって清国が英国の技術力に少しでも対抗できるということはなかった。木造帆船であっても技術や設計により戦闘力は大きく代わる。英国の艦船は小さいものでも清国が保有していた一番マシな軍艦の倍の排水量があり、その分重武装だった。武装、つまり大砲は英国のそれが数種類の大きさに分類され規格化されていたのに対して清国のそれは製造国も大きさもまちまち、手元にあった二世紀前の大砲をとりあえず船に載せたというような代物だった。いずれも仮に命中したとしても英国軍艦を構成する厚い木材をへし折れるだけの威力を有してはいない。ただし、豆鉄砲でも撃てるだけマシという評価もできた。船の大きさが大砲に対して不釣り合いに小さく仮に射撃したら反動で横転するだろうという船、大砲ではなく槍や火縄銃だけで武装した船も当時の清国には珍しくなかったのである。
 その他組織の効率性や戦力配置など、両国の差を挙げようと思えばいくらでも挙げることはできるがもういいだろう。結局、清国はエドワード・ダンカンが描いたあの絵のように鉄製汽船の前に敗れたのではなく、勝てる要素がまるでなかったために敗れたのだった。
 1842年6月に英国は上海の呉淞(ごしょう)
砲台を攻略した。美鈴が初めて英国軍とその軍艦を見たのはこのときのことだった。





 美鈴とて船を知らなかったわけでは決してない。そもそも上海に来て以来、昼間の仕事といえば沖仲仕だったから当然に見ていた。
 清国の船はジャンク船と呼ばれる帆船だったが、美鈴はそれを小さいと思ったことはない。家みたいな大きさのものを造って水の上を走らせるのだから人間もよくやるよなあと思った(家だって人間が建てているのだからこのことを驚くのはおかしいのだが、どういうわけか美鈴は人間が船を作ったことの方にだけ驚いていた)。
 上海に来てから半年くらい経ったある日、美鈴は海岸にサメが打ち上げられているのを見つけた。海には川のものよりも大きい怪魚が住んでいるのだと鼻をつまみながら(流石に死体から発せられるアンモニア臭は耐え難かった)感動した。それ以来美鈴が船を比喩するときに用いるイメージは家からサメになった。
 だが、異国の船は今まで見てきたジャンク船より三回りくらい大きかった。上海には家だけでなく城のような建造物があったが、異国の船を例えるならば家よりも城に近いと美鈴は思った。サメに比喩するのは適切ではない。海にあるべき万物に対して、異国の船は異様だった。
 それが海の上で佇んでいたときも美鈴は相当に度肝を抜かれたが、一番驚愕したのはそれが黄浦江を遡上し長江へと侵入していったことである。
 海にいる帆船が川に入ることは決して珍しくない。が、それは清国の船の話であり、こうしたジャンク船ですら川では窮屈そうにしているのだから、海で敵の船を沈めることしか考えてなさそうな異国の巨船では到底川には入れまいというのが美鈴の中での常識になっていた。
 しかし異国の船は上海の川に土足で踏み入った。
 巨船はもう少し小さな別の船二隻に引っ張られていた。この曳航というのは風に逆らって船を動かすために洋の東西を問わず見られる手法である。だから「こんなに大きい船がそれよりずっと小さな船に引っ張られるなんて」という驚き方ではなかった。それ自体は双方の大きさを縮小した構図で見たことがある。
 問題は曳航している方の船が帆でも手漕ぎでも動力を得ている様子がないことと、それが煙突から黒い煙を大量に吐き出していたことである。
 煙の色で一番普通なのは白だ。褐色の煙も上海に来て以来日常的に見ている。だが、黒い煙、というのはほとんど見ない。強いて言えば火事か。だから美鈴は異国船が燃えるのかと思い、「これは大変だ」と「ざまあみろ」という相反する感情を最初抱いたが、そういう気配はなく煙は秩序を保ったまま煙突だけから出続けていた。
 美鈴は記憶を辿り黒煙の正体を掴もうとしたが、船が自らが吐いた煙の中に消えていく頃になっても火事だとしか思えなかった。だから仮に、あれは火を喰らう化け物なのだろうと思うことにした。妖怪が他を化け物と呼称するのもおかしなことかもしれないが、正体が分からなければそれは化け物なのであり、見ている側が人間か妖怪かはさして重要でもない。
 なるほど、その定義に基づくならば金の髪色で鉤鼻の、街を制圧した勢いのまま美鈴を凌辱しようとして返り討ちにあった連中は得体の知れた人間ではあったかもしれない。むしろ娼館に通う連中と同じくらい分かりやすい行動原理で動く畜生に近い存在だったすら言える。
 しかし、彼らが使役するものは、比較するものがないという意味で化け物だった。彼らは比類なき巨船を使役する。比類なき化け物のような音を立てる大砲という武器が化け物の武装だ(言葉だけなら、呉淞で台座の上に置かれていたものも「大砲」のはずだが、侵略者が持ち込んだものの壮大さの前にはただの玩具だった)。百鬼夜行はそれまでする側であってもされる側ではなかったが、される側に立って初めて美鈴は世界が壊れていく感覚とはこういうものなのかと知った。
 美鈴が浜に打ち上げられている鯨を発見し、異国の船に対して城や化け物以外の表現をする手段を見つけるまでにはそれから更に十年の時を要した。





 英国が清国にもたらしたのはアヘンや銃砲弾ばかりではなかった。キリスト教もまた、実質的には英国によりこの国にもたらされたものだった。
 確かに厳密に「中華大陸におけるキリスト教史」を記述するならば、その始点は大英帝国の成立どころか七王国統一よりも前まで遡る唐代の出来事である。ただ、清国以前の時代における布教は欧州から遠すぎるという地理的問題や禁教令が出された政治的事情により断絶を繰り返していた。
 だからこの地に本格的にキリスト教が侵入するには欧米植民地のアジア圏までの拡大と中華大陸を支配する政府の弱体化を待たなければならなかった。それがなされた時代が十九世紀であり、そのとき清国にもっとも進出していた欧米諸国は英国だった。建前として禁教令は続いているものの、実態としては非合法な漢文の聖書が条約港の周りを中心に出回っている。
「反乱はどうなるかねえ」
 1851年、港では最近勃発した反乱の話題が交わされていた。この国における反乱とは多くの場合特定地方の出来事でしかない。例えば華南の反乱の噂が華北に届くまでの間に反乱は鎮圧され、華北では二日くらいしか話の種にはならない、というのが大半だった。が、今回ばかりは上海の街も他人事ではない。上海と陸路で接してる街が全部反乱側の手に落ちた上に、上海の街自身も「小刀会」という秘密結社により制圧された。
「よくなることに期待するしかねえなあ。その『教え』ってのがよく分からんが」
「賊に期待するのか」
「噂聞く限り、満州人の奴らの方がよっぽど賊じゃねえか。今朝国産の米が届かなかったのはあいつらが全部奪ったかららしいぞ」
 満州人とは清国の国軍のことだ。ただ実態としてこの時代になると当たり前に他民族も徴兵していたし(かつそれでもどうにもなっていない)、最末期の軍の常として全土の防衛なんて無理だから一部の都市にしか軍は駐留していない。上海は清国軍がいない街で戦闘の起こりようがなかったから、その悪評も噂話でしか聞かない。
「小刀会ってのもよく分からないのよ」
 所変わって夜の娼館。上海における今回の大反乱は今のところ「現地秘密結社の『小刀会』が街を制圧した」という推移のようだったが、この小刀会が街を制圧したことについて街の住民の実感は大してなかった。
 確かに上海の県城にはそれらしい旗が掲げられ、その周りには肩に銃を担いで変なことを呟きながら巡回する赤巾が散見されたが、人々の暮らしは一点を除いて変わらなかった。その一点とは、官吏が徴税に来ることがなくなった、ということである。小刀会はお上が徴税と称して米を奪っていると非難していた。だから小刀会は人々から税を取れなかった。税を取り立ててしまったら自分達が非難している役人共と同じ立場に堕ちてしまう。
 それ以外は、警察も司法も、行政も、元々そんなの機能してなかったし今も麻痺しているという点において変わらない。統治能力がないのだろう。互いに。徴税だって、仮に小刀会が蜂起しなかったとして、周辺都市を反乱軍に取られるような今の政府に実行できたどうか怪しいものだ。統治能力のない組織が統治能力のない組織の役所を乗っ取っただけ。確かに昼間小刀会に対して批判的な意見を述べることは憚れたが、夜なら自由に言える。そういう空気だった。
「その反乱軍、なんでしたっけ」
「太平天国」
 よく分からないし世界を何ら変えてないのなら取るに足らないのではないか、というのが美鈴にとっては率直な感想だったが、この反乱、「現在進行系で続いている反乱である」というただ一点において話の種にはなった。こういう政治の話を分かった顔をして頼まれてもいないのに女性に披露するのが性癖の男性というのが世の中には一定割合以上いるらしい。
「それ、今の進捗はどうなの?」
「快進撃さね。南京が落ちたってよ。あいつらなら紅毛人にも勝てるんじゃないか?」
「へー」
 同じ話を一週間で三回聞いたから、それが今の世論なんだろうなというところまで美鈴は知りつつある。大体、「読み書きができる」という時点で美鈴は同国の大半の男より頭がいい。ただ、この国この時代において、女は男より無知であることが求められているから、そう演じることで金が得られるのだった。
「ま、戦わないんだろうがね。太平天国も紅毛人もキリスト教信仰なんだ。同教どうしべったり。今紅毛人の奴らは日和って様子見してるが、じきに北京に艦隊をよこすさ」
「あらあら。私もそのキリスト教とやらに鞍替えした方がいいのかしら」
 本心ではそんなこと微塵も思っていない。妖怪に宗教は不要だ。しかし、無知を装い言われた情報の範囲内でだけ相槌を打つという縛りにおいて、一番ウケがいい受け答えはこういうのなのだった。
「勝ち馬には乗るべきだからな。俺も今は信者だ。信者になるのは簡単らしいぜ? 『キリスト万歳、洪秀全(こうしゅうぜん)
万歳』って念仏みたいに唱えてればいいんだと」
「ふーん。その洪秀全ってのは」
「キリスト教の偉い人にして太平天国のリーダーだとよ」
「西洋の宗教ってわりにずいぶん中国系の名前なのね」
 美鈴は内心馬鹿じゃねえのと思っていたので皮肉を吐いたが、酒と「賢い」自分にベロベロに酔っていたこの男には皮肉だということは伝わらなかった。





 租界の外国人が自治政府を組織したらしい。外国人による外国人のための政府だから、現地清国人にとって直接影響したのはただ一点。自治政府には自警団があったということだった。
「そりゃ駆逐されるだろうな」
 港では分かりきっていたという顔をした人々が分かりきっていた情報を交換していた。小刀会は自治政府とそれの協力を受けた清国軍に攻撃され全滅した。実は小刀会にとっては不憫な話だった。小刀会は西洋人商人から武器の援助を受けていたから巷で噂されるほどには装備の優劣はなかったし、そうして援助をしていた商人達が突然方針を真逆にして梯子を外された立場になったせいで壊滅したのだった。
「不義理だよ、あいつら」
 そういう事情をちょっと知った、インテリ崩れみたいな男が西洋人への不平を口にする。
「つってもな、賊がのさばるよりは幾分マシだろうさ」
 今、賊の方は反乱側ということになっている。反乱当初は家屋への無断侵入すら軍規で罰するくらいの高い規律だったのが、最近は補給が上手くいってないのか、食べ物と金のために進軍して蝗のように全部奪う勢力に落ちぶれた。別に政府軍が略奪をしないわけではないのだが、こちらは外国商人から物資を融通してもらえるようになったらしく、足りない分として半分だけ持っていくという塩梅のようだった。
 そう、結局ここでも外国人なのだ。外国人を味方につけた方が勝つ。敵に回したら勝てないという理由でどちらも外国人居住地を決して攻撃しようとはしないから、外国人居住地のある上海は概ね戦火を免れている(つまり、数少ない例外を引き起こした小刀会は結果的には時勢を読めない馬鹿だったということだ)。
「オマエラ、ダマル、ハタラク!!」
 水兵服を着た金髪がタラップの上から怒鳴った。文法なんてものはなく単に単語を羅列しているだけだが、それでもこの金髪はまだ中国語が話せる方だった。大抵の外国人は中国に来て働いているのに、中国語を学ぼうという素振りすら見せない。そういう向学心のない西の夷人一人もどうしようもできず、上海人達は彼らのため肉体労働に従事せねばならない。
 引き換えに、上海の人々は「外国の影響力がないことによる不利益」から逃れ続けている。半植民地化による平和は、現地人にぬるま湯のような閉塞感を与えていた。
 反乱は十年以上の時間をかけて鎮圧されたが、反乱をきっかけに顕在化した上海の社会構造はそれ以降も残り続けた。





 内憂外患の特に外患という意味においては、あの英国とのアヘンをめぐる戦争は紛れもなくこの国における一つの転換点だったし、先の太平天国の乱はそれを決定づけた。上海でも外国人の顔を見ない日は、一日中家に籠もっている日を除いてはない。そして外に出ている限り否応なしに見るその高い鼻の人々はどいつもこいつも威張り散らかしていた。一方で道で彼らとすれ違う清国人は三種類に大別される。へこへこしてるか、阿片漬けになって脳がとろけたようになっているか、衰退していくこの時代遅れの国の中で日常を送ることに追われ仏頂面になっているかだ。
 美鈴は三番目に近い。ただ、元々が内陸の田舎出身だったからか国が衰退していく、ということへの感覚は希薄で(これまでの半生で王朝が転覆したことなど何度もあったはずだが、それら全て大晦日と正月が自然の中では区別らしい区別もない二日間に過ぎないように、美鈴にとっては永劫に繰り返される日常の中の前の方と後の方というだけだった)、悲壮感から仏頂面になるということにはならずに済んだ。
 ただ日常には追われる。結局、阿片がどうこうとか夷国がどうこうとかなんてことより、そうしていく間にも月日は過ぎていくというのが美鈴にとっては重大な問題だった。歳を重ねれば人は老いていく。美鈴は老いない。十年二十年なら化粧がいいとかそういう体質だとかで誤魔化せるが、それ以上になると昔から住んでいた人達からは奇異の目で見られるようになる。美鈴はまた引っ越しの必要性に迫られた。太平天国の乱の終焉は引っ越しを決断する丁度いい区切りとなり、この点においてのみ、かの混乱は有意義だった。
 1871年、美鈴は上海を立ち天津に向かった。天津は上海よりも北、首都北京に隣接する港として重要な役割を果たしている。この首都に近いという立地が懸念されたのか鎖国時代においては上海と同様、外国に対して閉ざされた港の一つだったが上海等よりも少し遅れて開港した。
 そう、港町なのだ。出身を考えれば想定外なことだが、美鈴は海の近くに住むことを気に入っていた。特別何か理由やきっかけがあったわけではない。酒や煙草への嗜好と同じで、生まれながらにして好きだったというわけでは絶対ないが最初に触れた時点で既に好きだった、そういうのを美鈴は海に感じていた。
 あと、港で働いて荷物を取りに一瞬船の中に入るというのはたまにあれど、乗ってどこかに行くという船本来の役割の恩恵を受けたことがなかったので、一度くらいは船旅をしたかったというのもある。
 英国との戦争ではまるで話にならなかったジャンク船も、平時の商船としては十分に良いものだった。将来的には石炭を燃料としより高速で大出力な汽船に駆逐されるのかもしれないが、まだそのときではない。今の清国の各港にある石炭の量は外国の船を不自由なく動かせる量というだけだ。
 それに、石炭より風の方が健康的である。汽船から降りる異国の者達の中には煤で顔を黒くする者や粉塵を吸ってひっきりなしに咳き込む者もいた。石炭でなければ起こらなかったことだ。この船ならば当たるのは透明な風で肺に入るのは潮の匂い。
 汽船よりも帆船の方がずっといい。時間を考えなければ。海の上は速さの規準になるものがないので分かりにくいが、船員曰く「風向きにより前後するが、平均して走るくらいの速さ」らしい。今回は国内移動なのでまだマシだがそれでも一週間くらいは見ないといけないらしい。
 港の市場で、英国植民地から来たという変な発音の中国語を使う商人が「ライム」という柑橘系の果物を売っていたことを思い出した。曰く、長い船旅でこれを食べないと死ぬらしい。妖怪だからどうせ大丈夫だし、そうでなくても彼があまりにも胡散臭かったという理由で買わなかったが、買っておいた方がよかったのだろうかと少し後悔した。
 これを後悔したもう一つの理由はライムと同額で売られていた小説本を選んだことにあった。「ハンモックに揺られながら本を読むたあ文明人ですぜ」という口車に乗せられてついつい買ってしまったのだが、その通りにして冒頭数ページを読んだところで気が付いた。自分の頭は小説を楽しむようにはできていない。紙に墨で塗られた文字列を見て想像力か何かをかき立てられて気分がよくなるなんてのは特殊な人種だ。そんなのは学者か官吏か仙人かくらいだろう。美鈴はそのどれでもなかった。
 ただ本に一つだけいいことがあるとするならば、枕元に置いて気が向いたときに開くと実によく眠れるということだ。かくして美鈴はあるときはハンモックに揺られながら、あるときは甲板に椅子を持ち出して座り自らも船を漕ぎながら、この船が自分のものであるかのような傍若無人さを睡眠欲を満たすのに使って船旅を過ごした。





 天津に来てからおよそ四、五日が経った頃、美鈴は街を歩いていた。何はなくとも金を得る手段と住む場所が都会で生きるのには必要になる。そこは上海と変わらない。港湾と娼館での働き口があるというのも。
 肩透かしだったのは出自について誰も彼も無頓着で、職を得るのにも飯場の契約をするのにもそれを問われなかったことである。確かに上海でも生まれや家系の捏造に苦労することはなかったが、それは当時の上海が未開の田舎町だったからだろうと思っていた。明らかに都会でいくらかは近代化していた今の天津であれば、少しは行政機構も厳格になっているのだと考え、美鈴は質問されても困らないように、適当な脳内設定を自分に与えていたのだが。
 実際には天津社会の上層は全員そうしたものに対して適当だった。仕組みが非効率的だとか腐敗していたとかの理由もあるのだろうが、それ以上に「何者でもない」人々が天津の街に溢れ、飽和していたというのが大きい。
 当時の清国は飢饉が起きては、最下層の農民が餓死するか反乱に加わって処刑されるか逃散するかし、農作物が国内で得られなくなってまた飢饉が起きるという悪循環に陥っていた。このうち逃散した農民の殆どは働き口を求めて都市部に移っていった。一方都市は都市で、例えば反乱や現地権力の横暴で親が殺された孤児だとか、効率的な機械を持ち込んだ欧米人に職を奪われた家族だとかそういうのがゴロゴロいて、そういう層も都市から都市を転々としていた。天津も、確かに一族代々天津生まれ天津育ちな人々が街中の表通りに商店や居宅を構えてはいるものの、どこから来たのかも分からない、身寄りも家も、着る服の替えもないようなのがその数倍はいて、裏路地を中心に広がる社会の最下層を形成していた。
 そういう人達を尻目に、天津の地面を踏んでから数日にしてボロの飯場とはいえ住居の確保に成功したことについて、美鈴は多少後ろめたさを覚えなくもなかったが、同時に仕方のないこととも思っていた。道徳や法が秩序を形成できない状態で秩序の基準になるものの一つが金だ。美鈴は上海に出てからの数十年でそのことに気がついていたから、用意してからここに来ている。
 一方、天津という街は出自に頓着しないくせに、身分にはいやにこだわる人が散見された。ここで言う身分とは、出自以外の社会的属性を定義するあらゆるものである。
 通りを歩いていたときにいかにも役人然とした太った男にわざと肩をぶつけられたことがあった。天津の道は裏通りや建物の間の路地でもなければ馬車と馬車ですら容易にすれ違えるくらいに広い。彼は直後に「ふん、女か」と鼻を鳴らし、少し距離をとって美鈴の足元を見て「そのくせに纏足もしとらんとはよほど文化に疎い未開と見える」と更に軽蔑した。美鈴が彼を殴らなかった理由は一つだけだった。事件に発展したときに片方が女だった場合に判決がいかに不当なものになるかということを噂話で聞いていたからだ。
 教会の前で炊き出しをしていた。何かの戦争で清国が敗北した結果(何の戦争だったかなんて覚えてない。数え切れないくらいこの国は外国との戦争に負け続けている)宣教師は大手を振って布教活動ができるようになった。宣教師合法化は上海に住んでいた時代の最後の方の出来事だったから上海を出るときにも建てられたばかりの真新しい教会、屋根に十字の装飾がついた建物を見ていた。天津は上海以上にキリスト教が浸透していて、救貧という役割も担っているのだろう、一度目に見かけてなんとなく近づくまではそう思っていた。
 宣教師は鍋の中身を渡す前に来た人に何かを確認し、その後に椀を渡していた。椀を貰った人は教会の建物の中に消えていく。時々なにか悪態をついてるらしき口と体の動かし方をして、食べ物を貰わずに立ち去る人もいた。
 食べ物と引き換えに入信を求めているのだろうと美鈴は予想し、その予想で正しそうだった。何日かすると、建物の外での炊き出しはやめて、教会内で食事を提供するようになった(これ見よがしに食べ物の匂いがする煙を出していたし、煙が出たのを見て吸い込まれるように建物内に入る清国人も多かったから、炊き出しをしているのだということは分かった)。
 宣教師とて完全な善意のみで飯が食えるわけではなかろうから、活動に損得勘定が入るのは理解不能というわけではない。ただそれでも、信教で人々を分類し特定の信者のみを救うという態度に、美鈴はいささか軽蔑の感情を覚えざるを得なかった。
 後に、外国人宣教師がこういう食べ物が必要だったという理由でキリスト教信仰を選んだ清国人のことを「ライス・クリスチャン」と呼んでいるということを知った。美鈴にはその外国語の詳しい意味は分からなかったが、その語を言う宣教師達はあからさまに差別意識をむき出しにしていた。美鈴は嫌な気持ちになった。





 この街において身分が重視されるのは、当時の人々の価値観がそうだったからという理由の他に、天津という街が政治的に大きな役割を担っているという理由もある。
 立地が首都北京の隣にある港町で要衝だ。あまりに政治的に急所だったから、国が鎖国政策を敷いていた時代には世界に対して閉鎖されていた。一連の戦争の結果として開港してからは、上海と同様商業港として栄えるようになった(無論、この繁栄の下には多くの犠牲が伴い続けているということは容易に察せられるだろう)し、加えて外交官が頻繁に出入りするようになった。多くの、大抵の場合清国にとって屈辱的な条約が、ここ天津で締結されていた。
 美鈴が天津に来たときも条約の締結のために外交官やら役人やらが街中を駆けずり回っていた。通りでぶつかってきた太った男もその関係なのかもしれない。この国の行く末を一々案じるほどの政治的関心はなくとも、あんな無礼な人間を外交の場に出して大丈夫かとは不安になる。そして、元々あってないようなこの国の品位についてまだ不安に思えるということに自分で驚くのだった。
 今回の条約の締結相手は珍しいことに欧米列強ではなく日本で、満州人でも漢民族でもない顔の東洋人が洋服を来て街を走り回っていた。締結される条約の大体が不名誉なことになる清国だが、今回はどちらかにとって不利なことはない対等条約になる見込みらしく、町中の、識字能力があってそういう事情を理解できる上流階級は、歓迎ムードだった。日本にとっても初の対等条約になるらしく、日本人達も上機嫌に見えた。
 清国の政治家達は欧米から不当な扱いを受けてきた東亜の二大国が手を取り合って抵抗するという未来を信じて疑っていないようだった。
 確かに、この街を歩く、特に何らかの権力を持ってる側の人間としては珍しく、日本人達は相手の身分にあまり頓着せず、常に礼儀正しくしている。長い歴史の中で、日本は中国の弟分だった時代が長くその影響があるのかもしれない(この関連でいうと、そういう歴史がありながら清国に対して朝貢国ではなく普通の独立国として接しようとする日本の態度に不満を表明する保守的政治家も清国にはいないでもなかった)。あるいは、急速な近代化の中で自分の身分が何なのか、当の日本人自身にすら分からないのか。
 しかし、日本人外交官達の体から流れ出る気は、清国外交官が持つ気(こちらは死んだ気だった)とは別物で、欧米人商人が持つ気と極めて近いということを美鈴は感じ取っていた。それが意味するところが何かはまだ断定できなかったが、同様の気を持つ集団が清国に今もたらしているものを思えば、懸念も覚えるのだった。





 この街にいるといくらか政治的になる。ただ、憂国というのとも違う。否応なしに考えざるを得ないが、国をどうこうしてやろうという気はなく結局一番大事なのは自分の生活の方だ。政治は、例えば日常で外を歩いているとゴミがポイ捨てされているのを見かけるように、頼んでもないのに視界に飛び込んできてちょっと嫌な気持ちにさせるやつ。
 大体自分は悠久の時を生きてきた妖怪なのだ。人間の国の趨勢なんて知らないね。この心構えをすることでだいぶ気楽さを取り戻せた。意識しなければゴミは道に落ちてないことになる。ポイ捨てを意識外に追い出すことより政治から離れる方がずっと簡単だからなんてことはない。
 この哲学で天津の街に溶け込むようになって、時間も加速した。あっという間に十数年が過ぎた。
 その間、数多ある社会問題は全然解決されなかったので状況は何一つ変わらない。流石に飢饉の連鎖には一区切りついたが、既に都市に出た元農民らが故郷に戻ることはなかった。いいじゃないか、彼らも立派な天津市民だ。キリスト教は布教され続けていて、宣教師は自分が主張する教義に反して差別的なままだった。最近は改宗しなかった清国人がクリスチャンになった清国人のことを「二毛人」と読んで敵視するようになった。そういう争いは他の街でやってくれないかな。
 1880年代も間もなく終わろうという頃、娼館に女性客が来た。
「おや……?」
「別に女人禁制の施設じゃねえだろ? 『番は男と女の組み合わせであるべき』だなんてのは実にキリスト教的な、植え付けられた考え方と思わないか?」
「まあ男性客限定とはどこにも書いてないのはそうですが、それで来た女性客は私が知る限り貴方が初めてですので。あと、私に同性愛趣味はないですよ?」
「大丈夫だ。つまり、『女性がこういう店に来ることをみだりに不審がるのはいかがなものか』ではあるが、私が性欲のはけ口を求めてるってわけではない。この手の店の本質は、『金さえ払えば美人相手に会話ができる』って方だと思うんだよ」
 その女性――見た目だけは性別を抜きにしてこういう店に来るのがおかしい、あまりにも若い、少女というべき年齢だ――は美鈴と同じソファに、美鈴の左腕と自分の右腕を密着させるようにして座った。
「最近、景気はどうかい?」
 そして、宣言通り、色気を見せることも酒や煙草、阿片といったものを消費することもなく(ただ、本来酒のつまみとして置いてあるナッツ類だけはやたらと食べた)、世間話に終始した。
 会話を通して分かったこと。この少女の名前は林黒児(りんこくじ)
。船員の娘として生まれ大道芸人として生計を立ててていた。典型的な天津っ子で、夷人に蝕まれていく故郷を苦々しく思っている。
 というのが表向きの話で、美鈴は気質を読み取ってもう一つ情報を得ていた。彼女は人間ではない。妖怪だとしても大体の話は本当なようだが、生まれと年齢(具体的年齢の「設定」は明かしていないが、見た目年齢と同一であるかのように振る舞っていた)は嘘らしい。この街に住んで二十年ではなく、おそらくは二百、ないしそれ以上。
「あー同類か。道理で『慣れてる』わけだ」
 美鈴は「貴方は人間ではないですよね」ということをそれとなく少女に問うた。少女は言葉ほどには驚くこともなく、美鈴の胸にわざとらしく触った。美鈴は軽蔑の目を少女に向けている。
「いやいや、『初心じゃない』ってことの確認だけだ。誓ってそういう趣味はないんだって」
「本当ですか……?」
「ほんとほんと。にしてもあんたも妖怪ならここでの暮らしも長いのか?」
「いえ、私は十四、五年ってとこですかね。天津に来て」
「まあ人間だったらそこそこだが妖怪としては全然だね」
「前は上海にいたんですよ。四十年くらい。でもそのくらいいると人間の基準だと不老のようなものというのを誤魔化すことが難しくなってくる。むしろ林さんはどうやってずっと同じ街で過ごしてるんですか?」
「どうやってもない。まあ確かにちったあ幻術が使えるもんだから見た目やら記憶やらを誤魔化すことはある。いかんせん纏足してない足を見つけると怒るアホな野郎共が多すぎるんでね。が、それ以前にこの街は人が何年前からどういう経緯で住んでるのかなんて碌に気にしない。あんたも察してるだろ? ちょっと職と住処を変えれば幻術関係なしにバレないだろうさ」
「そんなものなんですかねえ」
 美鈴は根本的に自分と彼女では性格が違うのだなと思った。確かに社会関係を清算するために遠く離れた場所に旅立ち続けるというのは面倒だが、その手間と得られる安寧を図り天秤にかけたときに、安寧を壊しかねない選択肢は採れない。あるいは人間をそこまで愚鈍とは思っていない。
「というか私が妖怪かどうかなんてのは問題じゃないんだよ。仮にこの時代の人間として生まれてたとして同じことをしただろうという意味で。それが本題で、つまり最近景気はどうだってことだ」
「つまりのところに脈絡がない気がしますがぼちぼちです。繰り返しになりますけれどね」
「だがそんないいというほどではない」
「基準をどこに置くかなんですよ。欲なんてのは限りないからそれを基準にしたらきりがない。私は毎日不自由なく饅頭か何かを食える生活を求めて、それは果たされてるからぼちぼち」
「無欲なんだな。立派なことだ。が、貶してるみたいな言い方になるが、奴隷根性でもあるぞそれは」
「のし上がりたい人から見れば私はどうしようもない愚鈍なんでしょうね。貴方にもその気があるように思えます。ですがね、これも結局は気の持ちようなんですよ。権力が家の屋根のようなものとして、その下で満足してたら屋根より上の大空は見えない。これはまあ人によっては苛立たしいでしょうが、屋根より下の屋内部分を広々と使って余裕のある暮らしを送る、そういう贅沢とか楽しみ方とかもあるんです」
「清貧なのだな。が、世の中の大半は残念ながらそうじゃない。『貧すれば鈍する』んだよ。大抵は貧乏であることで心の余裕を失う。この街、ぶっちゃけ治安終わってるだろ? 天津だけじゃない。国全体がこうだ。それに、お前はまだ饅頭でもなんでも食えるかもしれんが、毎日の飯すらねえ人も珍しくないんだ」
「それは知ってますよ。教会が炊き出ししてますし」
 「教会」という単語を美鈴が言った瞬間、林の眉が動いた。
「教会なあ。それが一番害悪なんだよ。あれは飯をただ与えてるんじゃない。飯と価値観を交換してるんだ。お前は権力を屋根に例えて屋根の元での幸福について語ったが、それで例えるならあいつらがやってるのは犬小屋を与えて『お前らは犬だから犬小屋でおまんま食ってればそれでいいんだよ』ってことなんだよな。むしろそれより悪い。飼い主は犬を搾取しないが、あいつらは平気で我々を搾取する」
「教会もとい外国人が傲慢というのには同意しますが、傲慢でも食わせてくれるだけまともな政治ができない政府よりはマシとも言えますよ。というより、我々妖怪にとって人の政治や社会のあり方どうこうなんてのはどうでもいいことでしょう? 与えられずとも生きれるのですから」
「どうでもよくなくなった。あいつらは科学と文明を持ち込んだ。それに対抗するための国策も科学と文明だ。科学だ文明だのは『ありえないこと』を否定するのだ。妖怪ってのはありえないもの筆頭なんでな。実は我々、このままだと消滅しかねない。今のお前はどれだけ人間と違う?」
「人間よりもっと長く生きて……」
 そうか? と美鈴は自分で思った。本当に数百年生きる人はいないのか? 素手で石壁を割れる人はいないのか? 科学や文明はそういうのを「ありえないこと」として否定するのだろうか。もしそうなったら、私はどうなるのだろうか。林の主張するように消滅してしまうのか、あるいはこれまでの過去とこれから続くはずだった未来がなかったことになり、普通の人間として生まれた歴史を押し付けられた上で、更に五十年か六十年くらい生きて死ぬのだろうか?
「何となく察しただろ? 我々妖怪はどうにかして『自分が何者か』を主張して『ありえないこと』が実在することを示さないといけない。だから私は軍勢を組織してるんだよ。清国の人間が経済的に生き延びるために、清国の妖怪が精神的に生き延びるために」
 彼女には間違いなく才がある。人を教導し扇動する才だ。惜しむらくは彼女が活動を始めた時代がおそらくは遅すぎたということだが……。美鈴にはこの才能を前にしてなお、この国が列強の支配に抗えず滅ぶという気脈の流れに変化はないように感じられた。
 ただ、国という巨大な組織の命運が変わらずとも、その中で生きる部分としての個人の未来は、林黒児という才覚の側につくかつかないかでだいぶ変わるように思えた。言い方を変えれば、政治的問題という天津の街に捨て続けられるゴミは、無視してなんとかなるというものではもはやなく、美鈴の生活圏をも脅かしつつあるらしい。
 この日から、美鈴は林の片腕という立場を新たに得た。





 林は既に結構な人数の少女を組織化していた。紅灯照(こうとうしょう)
という名前をつけて、顔を赤く染めて赤い提灯を持ち街を練り歩くことで宣伝活動をしていた。美鈴も見たことはあったが、当時はそういう政治活動になんの興味もなかったから、この仮装行列が何をしていたのかを知ったのは自身が紅灯照の一員になった後のことだった。
 こういうことをしているのは林だけではなく、同時多発的によく言えば愛国、悪く言えば排外主義とかそういう動機で類似組織が国内に乱立していて、それらはまとめて「義和団」と呼ばれていた。多くは拳法道場を母体としていたので道場の建物を拠点にしているらしい。もっとも女性が拳法を習うということが一般的な時代ではなかったから、紅灯照の拠点は林の「父親」の家と団員の一人が持っていた中華料理屋だったが。
 そう、当時は武術を身に着けた女性というのが貴重だったのだ。だから美鈴は数少ない逸材として他の団員に護身術程度にでも術を教える。それが林から下された最初の指令だった。
 が、美鈴は初日にして匙を投げた。
「何もお前と互角に育てろとは言わないさ。そんなん無理ってこと分かってるからな。その辺の下っ端のチンピラにタイマンなら勝てるとかその程度でいい」
「そういう問題ですらないです。なんですか纏足って」
 林の父親の家にて、美鈴は愚痴をこぼした。
「それは私だって常々思ってる。無理か」
「戦うどころかまともに歩くことすらできないじゃないですか」
 改めて説明すると、纏足とは中華大陸において古くから続いていた風習であり、「足の小さい女性が美しい」という価値観に基づいて、幼い頃から布で足をきつく縛って変形させるというものである。単純に足の成長を抑えるだけでなく骨格も変形させるから走ることは無論、歩行や立つことすら困難になるほどだった。それすらも欠点とはみなされず貞節の維持や座り仕事をさせる分業にいいと見なされこの期に及んで続いていたのだが……。
 結局、纏足をしてなくてかつ運動神経のいい上澄みを直接の戦闘部隊として拳法を教え、他は「走ること」まで目標を落とすことになった。
「林さんの指導こそどうするんです? 普通の人間に妖術なんて使えませんよ。少なくとも一朝一夕には」
「んなこと分かっとるわ。肝要なのはな、『妖術や神秘はある』って信じ込ませることだ。で、『敵を欺くにはまず味方から』だ」
 林は美鈴に手招きをして、家の倉庫へと移動した。曲芸で使う道具が仕舞われているようで、竹製の巨大な輪とかリボンのついた棒とかそういうものが置かれている。
 林は床に置かれた樽に手をかけた。少しだけ持ち上げていたが、その様子からも中身が詰まっているのか相当重いということがうかがえる。
「最近欧米の商人がこういうのを売りに出すようになった。向こうだと石炭に代わる燃料として使われつつあるらしいが、こっちじゃ全然だな。ま、おかげで種がバレずに済む」
「なんですか、それ」
「燃える水だ。石油と言うらしい。妖術っつったらまずは火よ」
 美鈴は冷めた目になった。
「なんだ。罪悪感は覚えるんじゃねえぞ。いや、覚えてもいいが隠せ。あいつらにもな、信ずるものってのが必要なんだよ」
「いや、それではなくて、欧米列強の商人から物を買うんですねって」
「そりゃ悪魔を討ち倒すためならなんだって利用するさ。悪魔自身ですら」
 林はニタリと笑った。美鈴は思う、この人、善人ではないよなと。善人でなければならないということは決してなく、むしろこの地においてしばしば変革をもたらしたのは盗賊だったりそういう人だったらしいのだが。
「まあいいです。しかし、火を起こすだけなら今日び誰でもできるじゃないですか。マッチって知ってます?」
「そこは演出ってものよ。曲芸師で食ってきた私の手腕を信じな。ま、そのためにはあいつらにこのクソ重い樽を転がしてでも運べるようになってもらわなきゃ困るんだが」





 「まともに歩けない人を歩けるようにする」と表現すると病人のリハビリのようだが、事実病人のようなものなので仕方ない。纏足という後天的障害を負った個々人だけではなく、国全体がそうだ。義和団は「扶清滅洋」をスローガンとして掲げていたが、美鈴は内心、清というこの国も助けられるのではなくいずれ滅せられるのが時代の趨勢であろうと感じており、同じことを思っている人は多いんじゃないかと思っている。
 が、まずは洋を追い出すというのが優先順位というのが組織の掟であり、美鈴は林と、とりあえず樽を転がして動かすくらいはできるようになった紅灯照の団員数十名らと夕刻の街に繰り出した。1800年代終了も間もなく秒読みという、ある晩秋の日のことである。
 天津の教会を襲撃するという作戦で、戦いになるので主力は男の義和団。紅灯照は正直プロパガンダ用の賑やかしくらいにしかならないと指導部は思っているらしかった。林以外は。彼女は戦うまでもなく教会と回りの西洋人邸宅を焼失させてやろうという気概である。
「冗談抜きで、初動が大事なんだ。正直な話、まともな戦いになると若干分が悪い」
「軍じゃなくて教会相手にですか」
「教会はもう軍だよ。あれを見ろ」
 林が指さした方向は教会の庭だったが、生垣と壁の間に土嚢が積まれていて、土嚢の隙間から銃身が一本飛び出ていた。
「自警と称して過剰に武装している。近ごろは機関銃まで配備し始めた」
「機関銃ってなんですか?」
「……凄い銃だよ」
 林はぶっきらぼうにそう吐いた。彼女も詳しくは知らないらしい。
 美鈴や林だけでなく、この場の誰も知らない。義和団は軍人ではなく、ちょっと拳法をかじって憂国に燃えた民間人でしかないのだ。そして知らなくても問題にはならない。義和団には一つ組織全体に通底する思想がある。「神の加護を受けることで銃弾は当たらなくなる」だ。凄い銃だろうが凄くない銃だろうが、銃であるならば義和団には何の問題にもならない。皆それを無邪気に信じている。
「妖術が使えるからこそ分かってしまう残酷な真実ってのはあるよな」
 林は美鈴にだけ聞こえるように小声でそう呟いた。
「まあ仮に銃弾を躱せるとしてもだ、銃を扱うような半軍人と一般人では蹂躙というわけにはいかんのよな」
「義和団って武術集団じゃないんですか」
「最近組織が急拡大してな、それ自体は喜ばしいことなんだが武術以前に日頃全然運動してない中年みたいなのも入るようになったらしく、だいぶ水増し状態になったらしいな。だからぶっちゃけ紅灯照(うち)とあんま実態は変わらん」
 言われてみると、義和団の団員の中には、猫背だったり足への重心のかけ方がおかしかったりと、明らかにそういう心得がなさそうな者も目立つ。そういう人は規律にも乏しいのか、隊列を組むということすらしない。人だかりを作るのと同じようにして教会から十字路二つ挟んだくらいのところに集合している。
「大変そうな気がしてましたが、そういうことですか」
 大変どころか、美鈴はこの反乱は最終的には失敗に終わるのではないかと既に薄々予感している。時代の変革期における何か大きなうねり、彼女はそれを感じたことはないが仮に対峙したらすぐそれと分かるであろうそれ、を義和団の活動には正直感じない。確かに大きな気脈ではあるが、例えるならば山火事のような、暴れるだけ暴れてそのまま消える、そういう性質に見えていた。
「だからあらかじめ少しでも有利な状況を作らねえとな……。そろそろ時間だ」
 予感をしていても、美鈴は林についていく。彼女は何かをしでかしてくれそうな気配があり、国がどうこうではなく、その気配こそが美鈴が紅灯照に所属し活動する原動力になっていた。
 林は紅灯照と他の義和団の何人かに樽を教会前まで運ばせた。無論石油入りの樽だ。土塁や教会窓の銃身は樽を転がす義和団を探るように動いているが火は噴かない。狼藉は排除するが、予防的に撃って国が動くような大事にはしたくない、そういう基準なのだろう。それは無防備というものだが。
「さあ、火を放て!!」
 樽に向かって火矢が撃ち込まれ、松明が投げ込まれた。たちまち樽に引火する。火は周囲の生垣にも回るが、おおむね真上に昇っていて、火の向こうから放火魔を仕留めるための銃弾が飛び出し始めた。
「扇を振れ!! 風神と火の神を憑依させろ!!」
「火事にはなりそうですね。制御できるかどうかはともかく」
「ここからが『妖術』だ」
 林は手招きして美鈴を近づけた。大抵の場合、紅灯照ら他の人に聞かれたくないことを美鈴にのみ話すときに林はこういうことをする。
「お前は上海含めて港町暮らしがそれなりに長いから知ってるかもしれないが、海沿いってのは特定の天気と時間帯、海側から陸に向かって風が吹くんだ。天津の場合、まさにこの時間帯にな。トリックとしては単純なんだが、意外とそういうの意識して過ごしてる人はここにもいないから上手い具合に神の仕業ということにできる」
 林の言う通りに風は内陸側に吹き、その方向に火を運んだ。教会の建物がある方角でもある。教会から金髪の人が飛び出てきて、バケツで水をかける。
石油の火(かみのひ)
は水では消えねえんだよ!!」
 林の叫び通り、火が教会を飲み込みつつあることは消火活動前後で変わらず、ついに外国人(立地からすると恐らく英国人だ)は教会を放棄してその奥の租界の邸宅を防衛線とせざるを得なくなった。ただ、撤退しながらも振り向きざまに銃は撃っているし、邸宅も武装しているのか援護射撃が飛んでくる。銃弾と火の壁の中を義和団員達が次々と吶喊していた。命知らずかあるいは自分は助かるものと信じて疑わないのか。
「私らも行くぞ」
 林に促されて美鈴も火の方向へと走った。
 義和団員の何人かが銃弾を受けて倒れていた。倒れた身体に石油の火が引火して肉が焼ける臭いを発している。が、それらが見えていないかのように鬨の声を上げる団員が先へ先へと突撃していく。時折外国人が小銃か拳銃かを撃つ音が聞こえる。銃撃音の切れ目にまた鬨の声と、刀で何か、肉か何かを切る音が聞こえる。しばらくそれらは交互に繰り返されていたが、時間の経過とともに銃の音は少なくなり、義和団の音が支配的になっていった。
 美鈴はあえて全力疾走ではなく少し遅れて、義和団の津波の後ろから教会に突入した。林も軍勢の後方で状況を見ながら小走りくらいの速さで進んでいる。
「本丸も陥落だな」
「ですが、おそらくは中にまだ」
「ああ、敵の総大将が城を枕に討死にしようとしとるところかもしれんなあ」
「そうではなく」
「……そうか。なるほど、いずれにせよ、誰かがやらねばならん」
 林と美鈴はそれぞれ為すべきことを為しに教会に入った。
 教会の中は死体の山だった。焼死体もあれば窒息死したのであろう人もいる。死んだ人はもう生き返らないが、だからといって今生きている人をただ死ぬに任せる理由にはならない。
 風下の部屋に、火災から逃れようとして袋小路に入った人達がいた。ほぼ全員、顔のつくりがアジア系だ。西洋人ではなく「二毛人」なのだろう。人種によってどうこうというので差別するつもりは美鈴には毛頭ないが、それでも正直少し安堵した。清国人なら言葉が通じる。
「逃げなさい!!」
「やめろ!! 殺すな!! 我々は戦闘員じゃない!!」
「分かってる!! 戦うつもりのない人は殺さない!!」
「嘘つけ!! その格好、義和団だろ!! ○○はお前の仲間に虐殺された!!」
「……!! 確かに、そういう輩もいるのかもしれない。けれど、私はそうじゃない。義和団を信じなくても私を信じて!!」
 後髪の先端に火の粉が当たったのを感じた。猶予はない。
「ああ、信じないと死ぬならそうしてやる。が、信じても死ぬだろ。お前、いい奴なんだろうけれどな。無謀なことを」
「横に離れてて!!」
 美鈴は真正面の壁から部屋の人たちを退けさせ、気合を入れてそれを殴りつけた。漆喰の塗られた壁は、まるでビスケット系のお菓子かのように容易に崩れ落ちた。
 化け物を見るかのような視線が美鈴に注がれたが、彼女は意にも介さなかった。もっと重大な問題がある。既に火は建物全体を取り囲みつつあり、外でできた熱風が今できた壁の穴から入り込まんとしているのを感じていた。
「破!!」
 美鈴は気を放った。聖人が海を割るように、気の流れが美鈴の正面で道となり、火も風も入り込まない大通りとなった。
「さあ、逃げて!!」
 美鈴の言いつけに従い、部屋に逃げ込んでいた人達は腰を抜かしながらもどうにか逃げ去った。その意志の発生理由は、あくまで火事から命拾いした自分の人生をむざむざ終わらせないためなのか、あるいは従わなければ目の前にいる建物くらいなら豆腐のように壊せる怪物に殺されると思ったからなのか。どちらかは分からない。美鈴にとっては知らなくてもいいことだった。
 遠くから声が聞こえる。義和団の歓声だ。戦いの音ではない。今から先に進んでも、もう何かをする余地は残されていなさそうだった。





 翌日、林は美鈴に煤であちこちが黒ずんだ大型の銃器を見せた。三脚に乗っているが、三脚含めた高さは自分の座高よりも若干高いくらいあるんじゃないかと美鈴は思った。
「それは……?」
「機関銃だ」
「鹵獲できたんですね」
「火事で部品がところどころ溶けて撃てない、無理に撃とうとすると最悪爆発するらしいけれどな。捕まえた神父がそう言ってた」
「彼は……」
「立場上あれは死なねばならなかった。誰かが処刑しなければならない。汚れ仕事をするのは上の務めだ」
「私にその責任を被せてもいいんですよ」
「気にするな。そもそも妖怪は人を殺すものだ。むしろ久しぶりに合法的に人を殺れてせいせいしたよ。あれか、お前もやりたかったやつか」
「いえ全く」
「そうか」
「ただ、気にしていない割には気を悪くしているように見えたので」
「それなあ……。お前、銃の、火縄銃じゃなくていわゆる新しい銃の、弾ってどう込めるか知ってるか?」
 美鈴は少し考え込んだ。
「拳銃でいいなら見たことはあります。港のごろつきが持ってることがあるんですよ。世知辛い世の中になりました」
「ああまあ拳銃でいいや。拳銃って、ものにもよるが、あらかじめ何発か弾を入れといてある程度連続で撃つことができるだろ? 拳銃じゃない兵隊とか外国人が持ってるような銃にも、最近のだと撃つごとに弾を入れるんじゃなくて先に六発とか七発とか銃に入れとく機能があるんだ。弾倉って言う」
「はあ。その弾倉と気を悪くするのとが何か関係あるので?」
「使えないにしても使い方くらいは知っときたいからこいつの弾の込め方から教えろと神父を問い詰めたんだ。そしたら『これが弾倉だ』と」
 林はやはり焦げたベルトのようなものを美鈴に見せた。林の手の中にそれがあったときは美鈴からは真ん中が革製で上下の端の方が金属製という少し妙な(巻いたら金属部分が圧迫しそうだなという感想を抱くだろう)本当のベルトに見えていた。が、机の上に置かれたときそうでないことに気がついた。端に見えている金属部分のうち、片方は平らでもう片方はところどころが尖っていて/\/\/\という形を形成している。そもそも革の両側に金属の線のようなものが接着されてるとか、一枚の金属板の上から革を貼っているとかそういう構造ではない。革のベルトに対して垂直な方向に椎の実型の金属製の円錐、つまり銃弾が概ね等間隔に刺されているというものなのだ。刺されている数は見えてるだけで三十は下らない。燃えて焼け落ちて落ちてるのだろう分も含めれば六十発以上の銃弾をこのベルトは束ねていたのだろう。
「大きい、というより長い弾倉ですね。いくら銃が大きいとはいえ入りそうにないですが」
「入れるのではなく噛ませるようにして使うらしい。私はこの機構は革命と思ったね。弾倉をいくらでも長くできるから一度噛ませてしまえばずっと撃ち続けられる。だが、それを聞いた神父は鼻で笑ったんだ」
 林の気が黒くなるのを美鈴は感じた。
「『こんな弾倉三十秒もしないうちに撃ち尽くす。だからこれを使うには撃つ人と、弾倉を渡す人と、冷却の水やら替えの銃身やらを補充する人とで最低三人必要だ』と。こんなだと? 普通の銃ならこの量の弾丸を全部使うのに下手すりゃ十数分かかる。この銃の連射速度は化け物だ」
「凄い銃と噂されてただけのことはありますね」
「最悪の方向にな」
「……? 確かに彼我の技術力の差を象徴するものではありますが、そもそもがそういう技術でない尺度で戦おうというのが我々でしょう」
「三百年前だか四百年前だかの日本で『長篠の戦い』ってのがあったんだ。騎馬隊が三千丁の鉄砲の前に全滅した。当時の日本だから銃は火縄銃だが、それでこれだ。この銃があったら数丁で騎兵が百体いても止まるだろうな。で、ここからが本当の本当に最悪なことなんだが、戦場でこの機関銃を撃って騎兵を止めた射手の名前なんて決して歴史に遺りはしないんだ。長篠の戦いに鉄砲担いで行ったやつらの名前を誰も知らないように」
 林は椅子の背中にもたれかかった。
「こいつの凄さが威力であって連射速度でなかったならば、銃弾を避けて射手を殺ることもできただろう。そういう化け物をこの銃でなお射抜く英雄が現れたかもしれない。だが、この銃は英雄を戦場から消滅させる。名も知らない有象無象が名も知らない有象無象を機関銃で制圧していく、それがこれからの戦争だ。英雄(わたしたち)
の時代は終わる」
「まだそのときではない。でしょう?」
「かもな」
 正直なところ美鈴も自分達の――この自分というのには人外英雄という意味と清国という国両方を含む――時代は終わったと思ってる。だが、時代の終わりに何か大きな花火を上げてくれそうなものを林には感じていたから、林にだけはこの時代を諦めてほしくはなかった。
「機関銃とて無敵ではありません。それは今回示されました。それに、銃弾を躱す本物の妖術ならば、機関銃の数丁程度大したことはないはずです」
 だから無責任な煽動者となろうとも林を焚き付けた。





 天津の街の各地で火の手が上がった。内陸、北京の方角に線のように火の紅や煙の灰色が続いていた。義和団は扶清滅洋を訴え、「洋」であるもの、教会や外国人居留地は当然として舶来品を扱う商店、幌馬車、果ては電線や鉄道線路までも襲撃の対象に加えた。北京と天津の間は交通も情報網も寸断された。
 流石にやりすぎではないかという声もないではなかったが、文字通りに「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」になっていた人は多く、そういう人が義和団に合流したので運動は加速度的に先鋭化していった。彼らは失業者だったり、天災か人災か分からないような災害で国内難民と化した人だったりした。
 つまり、義和団の怒りの原動力とは自分達の生活がどうにもならないことへの怒りであり、向けられるべきは政府に対してだし、事実そうしていた(から、要求を飲まねば都市機能を麻痺させるぞというテロルの形式をこの運動はとった)が、政府の側は鎮圧するでも権力を反乱に明け渡すでもない、第三の道をとった。
「中国の積弱はすでに極まり。(たの)
むところはただ人心のみ」
 当時、清国の事実上の最高権力者だった西太后はそう発言した。無理に反乱を弾圧し人心までも失うわけにはいかない。だからといって禅譲などもってのほかだ。
 清国末期の歴史とは、この一人の皇后が権力にしがみつき続けた歴史だった。当然、他の見方もできる。列強各国により半植民地へと落ちぶれていく歴史でもあり、宮廷貴族の権力闘争と外国の商業主義の狭間にこぼれ落ちた数億の民衆が絶望と怨嗟に喘ぐ歴史でもあった。ただ、この時代をどうとらえようとも、義和団反乱という大事件の運命は明確に一つの方向を向いていた。怒りを背景にした、明らかに無謀な国家の自殺。
 1900年6月21日、清国、義和団反乱の鎮圧を要求し続けていた列強連合国に対して宣戦布告。





 天津の市街地は天津城を中心核として広がっている。このうち城から見て南東の方角に広がる領域が天津租界であり、清国人と列強諸国との軋轢の火種となっていた。
 天津城は城と名がつくが、日本にある天守閣を中心とした城とは似ても似つかない見た目である。万里の長城がそうであるように中国において城とは城壁のことだ。天津城も城壁で囲まれた長方形の領域を指す用語であり、内側には住宅、店、行政施設、そしてランドマークとしての楼閣と、城壁内側だけで一つの社会としてある程度完結するほどの建物が詰め込まれていた。
 天津城の楼閣は天津鼓楼(ころう)
という、いかにも中国の伝統建築といった風貌の三階建ての塔だった。一階の内装は道教の様式を採用していて、梁は青と緑の二色を基本とした吉祥文様で塗装されていた。
 林はその梁に足をつけた逆さ吊りの姿勢で美鈴を見下ろしていた。
「北京行きの線路に西洋人共が張り付いた。租界の様子もきな臭い。いよいよだな」
 林は意気揚々とそう美鈴に語り掛けたが、反応が芳しくないのを見て声を落とした。
「ああ、正確には西洋人共と倭人共だ。東洋の誇りを忘れて西洋の走狗に堕ちやがって」
「五年以上前には分かってたことですよ。そして、そいつらにこの国は負けた」
「敗北主義者みたいなこと言うじゃないか。率直に聞くが、今回も負けると思うか?」
「気脈の流れがよくない。我々は士気こそ旺盛ですが、乱雑な方向に適当に打った杭の群れのようなものです。対して敵は統制の取れた大河のよう。普通に行けば、押し流されるでしょうね。あるいは、術により銃弾は確かに躱せるかもしれないが、果たしてその銃弾が一分に十発、一分に百発と弾幕を増していったときにどうか」
「率直に聞かれたときは率直に答えるべきだし、こういう質問には耳触りのいい意見を述べるべきだ。私ら紅灯照は宣伝の任務も与えられていたんだがね、お前にその仕事をさせなくて正解だったよ」
 林は髪が重力に従って垂れ下がった、逆さまの顔を美鈴に向けた。
「逆に聞きますが、林さんは勝てるとお思いで?」
「なんとかなると思ってるよ。お前よりはいくらか楽観的なものでね。それに、死んだとしてもそのときはそのときだ。どうせ座して待っていても妖怪は生き延びることができないんだ」
 美鈴は、やはり林とは考え方を共有できないなと思いつつ、一方で個人としてそういう価値観であるということを否定することはできなかった。問題は彼女は一部隊の指揮官で、率いているのは座していたら死ぬことは避けられるかもしれない人間ということだが……。結局、そういう方向においても、美鈴は林を糾弾する言葉を持たなかった。林の方が正しいのだろう。座して待っていたとして、待たなかったときより状況がよくなる保障はない。特に来る者がこちらの全てを否定するような存在の場合。
「お前はなんだかんだで生き延びるだろうとは思ってるがね。そこも楽観的でいられる理由の一つだ。正直お前とは考え方がまるで噛み合わないがね、だからこそどちらかは正解なんじゃないかと」
「それ、暗に自分は死ぬだろうなということを認めてません?」
「伝説を作るのにはクソみたいな状況ってのがどこかに必要で、そのクソみたいな状況が今だ。もうちょっと正確な言い方が欲しいんだったら、九割死ぬ選択をしてるのが私で、九割生きる選択肢を選んでるのがお前」
 林はコウモリのように天井から逆さ吊りになってる姿勢から普通の直立にひっくり返った。
「なのでね、楽観的になれとは言わないが、呑気に生き残りそうな奴ではあり続けて欲しいんだ、お前には。もしここが夷人共に制圧されたとして、城を枕に討死してやろうなんていう気は起こすなよ? それは私の役割だ」
 奇妙なことに美鈴はそれまで自分個人の生死についてはあまり確信を持てていなく、「全体の流れからして負けて死ぬ公算が高いし、林に死ねと命じられて死ぬことになるのだろうな」と思っていた。が、予想に反して林からは「死ぬな」と命じられた。ここまで考えが合わぬものなのか。平時なら笑い事なのだろうが、自分の生死すらも流れと林の指示に委ねていたところの梯子を全部外され、どうしたものかというのが分からず美鈴は固まった。
「ほら、お前の持ち場は門だろうが」
 林は曲芸用のロープや金属の輪などを両手に持ち、肩で美鈴を小突いて颯爽と出て行った。





 紅灯照に割り当てられた仕事には医療もあった。天津の人々は、紅灯照の女達が見せる神秘的な力の効力の一つに怪我や病気の治癒があると信じて疑わなかった。天津は都会なので医院もあったが、この非常時に対して病床の数が不十分だったから、「入院」の必要ありと診察された患者が毎日のように担架で城内の一角へと運び込まれた。美鈴は門の前でその動きを見送り続けている。
 義和団と清国正規軍が天津租界の攻略を始めてから三日目になる。銃創を負った怪我人の率と量が顕著に増えた。今や、紅灯照の仕事の第一は治療でも看護でもない。明らかに助からない重症者を受け入れ拒否し、受け入れたものの助からなかった死体を庭に作った墓地に埋めるというもの。端的に言うならば、人や人だったものを箱に入った物のように扱い病床に空きを作り続ける物流管理だった。
 それだけで清国側が敗北しつつある、というのも早計ではある。結局、戦には犠牲がつきものだ。敵を一人殺る前に味方が二人死んだとしても、味方が三倍多ければ勝つ。戦争とはより多くの敵を殺す競争ではなく、一万人死んだときに一万人と一人目を送り込める側が勝つという仕組み。
 ただ、相変わらず統率に欠けた清国側に対して整然とした列強連合の気という構図なのは変わらない。変わったことがあるとすれば、今の列強諸国の気は大河よりも城壁に近い。大方、こちらをすり潰して万全の状態に持ち込んでから飲み込むつもりなのだろう。この万全の状態というのには、言うことを聞かない奴らを排除できるときに排除することで戦後の支配が楽になる、というのも含まれると思われる。そういう視点の広さにも差があると言わざるを得ない。美鈴らにとっては忌々しいことに。
 もう一つ、ネガティブな判断材料として、後方に送られてくる怪我人を見て、団員や支持者の中で特に勘のいい一部の層が浮足立ってしまっているというのがある。
 美鈴が南門を警護していると、城に面した大通りの先から土煙を上げて誰かが向かってきた。いや、誰かというのはこの距離からでも分かる。大陸広しといえども、蝗のように跳び跳ねて走る人妖に二人目はいなかろう。
 約束された誰か、林は美鈴の前に到着するなりまくしたてた。
「戦線が破られやがった!! うちの政府軍、何枚重ねようと障子紙は障子紙って代物だったからそりゃ破られるってな!! なんにせよ、前の部隊が時間稼ぎしてる間に怪我人やら戦う気がない奴らは避難させないとな」
「そうですね」
 美鈴が伝令と避難の手のため城内に入ろうとしたところ、林がその腕をぐいと掴んだ。
「待て、お前は外だ。義和団(うちら)
がなっさけねえ正規軍のケツを拭くっつっても、前線にい続けて消耗してては限度ってものがあるからな。避難を間に合わせるのにももうちょっと駒がいる」
「はー、つまり死んで足止めして来いと。生きろと言ったり死ねと命じたり気分屋ですね、貴方も」
「誰が死ねと言った。生きるんだよ。生き続けないと足止めし続けられねえだろうが」





 元々天津の街はこの数日、ずっと戦の喧騒の中だったが、敵が視認できそうところまで来るといっそうやかましい。ラッパがパーパー言う音がひっきりなしに聞こえてくる(大方「前進せよ」だろう。軍隊という巨大な鈍物はラッパで騒々しくしないと秩序だった前進すらできないらしい)。演奏の間を埋める休符は手榴弾の炸裂音だ。銃と手榴弾の硝煙で視界が恐ろしく悪いが、今の時点でもたまに手榴弾の破片にでも当たったのか倒れる緑服が見える。緑は清国軍の軍服である。
 美鈴と林、そして彼女らに率いられた紅灯照の戦闘部隊が手榴弾の硝煙の前に出た。銃の出す硝煙の向こうに敵の軍服が見える。全体は白で肩から掛けられた黒色の鞄紐が目立つ。この服の軍隊がどこから来たのかは顔で分かる。日本軍だ。
 林が横で悪態をついているのが見えた。当然故郷あるいは祖国を滅茶苦茶にされたことの恨みもあるのだろう。が、それだけではない。彼女にとっては、彼女が信奉する中華思想においては、日本は清国と同じ東亜の同胞であるべきで、それなのにその日本は欧米の走狗のようになっている。隣国の選択への失望でもあるのだろう。
 一方美鈴には、林や他の義和団、あるいは政治家が語る崇高な思想とやらがこの期に及んでもどうにも理解できなかった。もっと純朴に、二十年以上住んでいてそれなりに愛着が出てきた街が燃やされるのは割と頭にくるし、そもそも戦わなければこちらが殺されるし、という感情で戦っていた。それもまたナショナリズムなのかもしれない。
 林は日本軍、あるいは義和団に仇なす外国(八カ国あるらしい)全部に殺意があったから火の玉を出して燃やしていた。一方、美鈴はこちらに銃口を向けている人間達に殺意があるというのでもない。自分が天津か自身への愛でここにいるのと向かいの日本人が祖国愛か我が身かわいさかでここにいるのとはある意味等価だ。
「そんな危ないものを人に向けない!! ほら皆さん、同士討ちになりますよ!!」
 美鈴は敵歩兵の一人の銃を飛び膝蹴りで叩き落とし、すぐさま彼を羽交い締めして彼にとっての友軍側に向けた。彼は何かを叫んでいた。「俺に構わず撃て!!」かもしれないし「撃つな!!」かもしれない。日本語は分からない。あと、自分の顔の前で叫んでいる彼の叫び声が聞こえはする、というくらいの通り具合だから自分の説得も敵さんには届いてないんだろうなと想像せざるを得ない。
「二十……。二十一……」
 美鈴がこういう手段を使ったのは殺意の有無だけが理由ではない。自分の使命は足止めであり、任務を一番効率的に達成できる手段の一つが人質作戦だ。一人を擬似的に倒すだけで二十秒以上時間を稼げている。
 敵は美鈴に対してはまだ逡巡しているようだが、人質に当てず美鈴だけを撃てる位置を探しているかのような銃口の動きも見せている。
 ラッパが鳴った。鈍物の一部から銃弾が飛び出す。
 美鈴は人質にとっていた兵士を下に叩きつけて(乱暴だが、単に解放するよりこの方が誤射される危険性は下がる)、自分に向けて銃撃した兵士を鉄拳で吹っ飛ばした。美鈴に殴られた兵士は隊列の遥か後方で道路に叩きつけられて動かなくなった。重症か、あるいは息絶えたかもしれない。自分と敵を等価と考えているから、受けた殺意もそのまま等価で返す、それが美鈴の信条だった。
 自分は善戦していると美鈴は感じた。日本軍は、目の前の銃も持たぬ一人の少女が拳のみで自軍兵士を吹き飛ばしたことについて信じられないという目を向けている。信じられぬことを信じさせる。その目標は紛れもなく今成功していて、同じことを目指す意志とその能力を持つ林もまた善戦しているに違いなかった。
 しかし清国軍対日本軍という大局においては刻一刻と敗戦に近づいている。相変わらず障子紙の如き正規軍もだが、義和団、紅灯照も敵前逃亡を始めていた。敵が妖術を信じるのと同時に味方は妖術を信じなくなっていた。銃弾を防ぐことのできる術など存在しないのだ。どれほど愚直で、銃創を負った義和団員が後方に運ばれてくるのを見てもなお加護を信じていたものでも、目の前で仲間が火薬の破裂音と硝煙の匂いの前に倒れるのを見たら考えを改める。
 非道な言い方だが、残酷な事実として、この戦場において銃を持たない人間の役目は弾除けだった。その弾除けがなくなるにつれて、まだ前線で戦っている者へと飛んでいく弾が増え、加速度的に状況が悪化していく。美鈴も戦線を維持できなくなったから門の境界のあたりまで撤退せざるを得なくなった。酷い怪我にまではなっていないとはいえ、頬や肩に何発か銃弾が擦っている。
 押し込まれたのは不本意だった――あと数歩押し込まれたら守るべき市街が完全に敵の手に落ちる背水の陣だ――が、門という地形は美鈴に実によく馴染んだ。
 武術というのは本来戦いの手段ではない。あくまで本義は護身であり、そして一番効果的な護身とは戦いの場に身を投じないことである。戦いを避けれるだけ避けて、それでもなお戦わなければならなくなったときに一対一や一対二という比率で状況を打開するための技術が武術だ。戦場という、百の単位で兵士、それも遠距離武器を持ったそれらが殺到する場面は本来武術の対象範囲外だ。
 それが、門があることによって敵の侵入方向と人数が著しく制限されるから、局地的には武術の理念を敵に強要することができる。美鈴は自分は門を守るために生まれてきたのではないかとすら思った。ほぼ前方からしか飛んでこない銃弾を躱しつつ突進し、銃剣やら銃身やら銃を持つ腕やらを五本十本へし折っては下がる。
 日本軍が城壁に梯子をかけ始めた。美鈴が陣取る門を突破するよりも城壁を迂回して侵入したほうが早いと判断したらしい。気を放ち見える範囲の梯子は壊していっているが、限界もある。より広い戦局の視点においては美鈴が守れる門は一つだけで、他に林が守っている方角が突破されないと楽観的に仮定しても二つまでしか防衛できないから、四方向にある門のうち後方二箇所は突破されてしまうということになる。敵軍が迂回することを実行した時点で勝負はついていた。城内の人達はどれだけ避難できただろうか?
 一瞬振り返ると街のあちこちで火の手が上がっているのが見えた。
「早すぎる……」
 自分が見たのは迂回のし始めだと美鈴は思っていた。美鈴も林もいない、城の北や西の門に到達するにはもっと時間がかかるはずなのに……。
 その瞬間、美鈴の後ろ投擲された手榴弾が美鈴を飛び越えて前、つまり背中側で破裂した。
 現状を説明する答えの一つがこれだ。結局、曲射で飛ぶ武器は線で防衛していても線の向こうまで飛んでいって損害を与えてしまえるのである。日本軍の装備は自分達よりずっとずっと良いのだから、手榴弾どころか後方に小型の大砲くらい置いていてもおかしくはない。
 ただ、それにしても、という疑念は、それを説明できる一つの可能性についての不安とともに、どうしても消えなかった。
 美鈴は戦う。破局に向かいつつある戦局の中で城壁たる気を保つのはいかに美鈴といえども難しく、徐々に押し込まれて今や門の内側から少し下がったところで、殺到する日本軍の一部を倒し止めるに留まっていたが、それでもなお戦い続けた。
黄蓮聖母(こうれんせいぼ)
戦死!! 黄蓮聖母戦死!!」
 美鈴の時が一瞬止まった。黄蓮聖母とは、林が紅灯照の活動に際して使っていた名前だった。
 美鈴は持ち場を放棄した。明らかに命令違反だがそれを気にしている場合では最早ない。東門へ。戦いへと赴いたのは昼過ぎだったが、今の時刻は既に夕方である。左斜め後ろから傾いた日の光を浴びながら美鈴は走った。
 疾走する美鈴の向かい側を日本軍の歩兵分隊が歩いていた。この速さで走る義和団、それも女性がいるとは夢にも思っていなかったか銃を向ける動きが間に合っていない。美鈴は彼らを完全に無視して更に駆けた。
 やはり、東門は破られている。林が最後にいたであろう場所に向かうのを優先してすれ違う敵軍は無視していたが、進むにつれて敵の密度が上がっていることに美鈴は気がついていた。情報が確かならば林ですら生き延びることができない、少なくとも生存を確定できないほどの死地に自分は向かっている。
「もしここが夷人共に制圧されたとして、城を枕に討死してやろうなんていう気は起こすなよ?」
 林の言葉が脳裏によぎった。この意味においても、自分は命令を破ろうとしている。
「ああ、生き延びてやりますよ、あと十分探して貴方が見つからなかったらね!!」
 東門の周りには死体が転がっていた。たまに日本軍の軍服もあるが、ほぼ全て清国人のものだ。顔や体の一部に踏まれた跡があるものすらあった。
 あと、この死体の絨毯のところどころからうめき声が聞こえる。重傷者も死体も、それらを後方に運ぶ余裕は敵味方共にないようだった。
 自分はもう死んでいてここは地獄なのではないかと美鈴は錯覚した。気がつかぬ間に急所を銃弾で貫かれて、というのも普通に起こり得る戦場だった。胸に手を当てて、自分の心臓がまだ動いていることを確認する。
 片手を胸に当てたまま美鈴は林の捜索を行ったが、時間経過とともに心拍数が上がるのを感じた。林は見つからなかった。確かに顔の判別ができないような死体もあったが、それらは服装や性別で林でないと分かる。
 林は特別な存在だ。自分にとってだけではなく紅灯照、ひいてはこの国そのものにとっても。だとすると、普通の人間を死ぬがままに放置する今の天津においても林だけは後方に搬送された可能性も。
 美鈴は医院の方角を向いた。そこからも煙が上がっていた。
 美鈴は慟哭した。林は死んだものとは覚悟していて、その上で実際に死した彼女と対面したら咽び泣くことになるのだろうと思っていたのに、現実はもっと悪かった。
 天津は完全に陥落した。日没と街中から上がる黒煙のせいで、街を掌握した敵も、紅美鈴という戦意さえ残っていたら強敵だった紅灯照が未だ生きて街を歩いているということに気が付いていないようだ。美鈴の目の側にのみ、涙で滲んだ日本兵の影がそこら中を歩いているのが見えている。
 元々勝ち目などない戦だった。大義も、義和団の側に言わせればあったのだろうが、今となっては砂上の楼閣。否、楼閣なら見た目だけは素晴らしいものだろうが、義和団の掲げたそれは排外主義や懐古主義にヒステリックに歪んだ幼稚なものじゃなかっただろうか? 少なくとも天津を、そしてそう長くない未来に北京を、灰燼に化す価値があったものではなかっただろう。林黒児という人外の英雄を失う価値があるものではなかっただろう。思想こそ逆だが、西洋が持ち込んだものもこの点においては同じだ。街と人を壊すことを天秤の片側において釣り合うものじゃ決してない。
 美鈴は時代と、無責任にこの国を壊した何かと、その流れに無知にも乗っかった自分を恨み泣いた。泣きながら街を出た。
 そして、泣く気力も失って抜け殻のようになった美鈴は、深夜の天津港に辿り着いた。





 美鈴は上海行きの船に乗った。
 今回の乱で清国と列強は戦争状態になったが、全ての船が問答無用で沈められたというわけではないらしい。船の持ち主が列強各国に媚びたのか、はたまた彼らは清国の商船なんぞもはや歯牙にもかけないということなのかは不明だが、いつも通りに動いている船は割とあり、深夜発だがそういう一隻に美鈴も入り込むことができた。
 美鈴は血と土で汚れていた。混乱に混乱を重ねた天津の街では、家に戻って着替えをしたり体を洗ったりするのも難しい。銭湯の類も、下手をすれば「義和団が来た」と通報されかねなかった。紅灯照だとは見た目でバレてしまう。無論通報されたとして逃げおおせる自信はあるが、それが可能というのと厭わないというのはまた別の話だ。
 船長の清国人はそんな姿の美鈴が船に駆け込んで乗り込んでくるのを見て鼻を鳴らしはしたが、手の中に札を数枚ねじ込まれた彼は、無言で船底近くの空き部屋を指差した。船は英国かどこかから払い下げられた古い外輪船である。元々かなり汚れた船だったから汚れた小娘一人入ったところで変わらないと思ったのかもしれないし、船のために中立か親列強を装いつつも同胞に多少の同情心があったのかもしれない。いずれにせよそのぶっきらぼうな優しさのようなものが今の美鈴にはありがたかった。
 美鈴は泥のように眠ったが、目が覚めてもまだ船は上海への航路の途中だった。汽船は帆船よりは速いらしいが、半日のうちにというわけにはいかないらしい。船員に確認したら今晩には着くとのことだった。今は昼過ぎだった。
 美鈴は帆船の方が好きだった。汽船は煙い。甲板に出たら風向きのせいでもろに黒いものを被った。が、このときの美鈴は煤がついても変わらないような身なりだったから何とも思わなかった。汚れは人を鈍感にする。ここの船長のように。





 上海は、夜の岸辺から辛うじて見えるだけでも明らかに洋館が増えていた。三十年ほど離れていた間にも結構変わっている。変わっていなければ困る。時代が過ぎ去りかつての自分を覚えている者など最早いないという前提のもとにこの街に戻ったのだから。
 美鈴はまず銭湯を探して体を洗った。この国において、夜間営業している銭湯の多くは娼館としての役割も兼ねている。美鈴はふと林と最初に会ったときに彼女が言っていたことを思い出した。「女性がこういう店に来ることをみだりに不審がるのはいかがなものか」。女湯がある以上そもそもこの店が美鈴の来客を不審がることはないのだろうが、少し懐かしい気持ちになった。
 しかし、体を洗っても服が汚れているのでそちらも解決しないと意味はない。いささか不本意だったが、美鈴は路地に無防備に洗濯物を出したままにしている家がないかを探し、一時間程の捜索で探し当てるやいなやサッと盗んだ。翌朝になると窃盗が発覚し、この街に当面いられなくなるだろう。が、このときの美鈴は罪悪感は覚えてもその具体的問題については頓着しなかった。消え去るときくらい綺麗な身なりでいたい。そういう心理だったのだ。
 この世界に妖怪の居場所はない。義和団の乱の顛末はこの国と社会に多くのことを突きつけたが、突きつけたものの一つがこれだ。より広く言えば前近代的な価値観や信仰が生き残れる時代ではもうなく、神話の英雄が活躍できる時代でもなくなった。だから攘夷思想と近代化への敵視をよりどころにしていた義和団は近代思想で構築された軍隊の前にあっけなく崩壊し、林黒児という英雄は誰にも名前が知られていないような兵士が放った銃弾か手榴弾か砲弾(そのどれかすらも分からない)の前に倒れた(というのが正しいのかどうかすらも分からない)。
 身なりを整えた美鈴はあとは死に場所ないし消え場所を探した。
 候補地の三つのうち天津はもう駄目だ。あそこで死んでいればそれまでだったのだが、林の言いつけ通りに生き延びてしまった。第二候補として上海の中で良さげな場所を探し、もし見つからなかったら故郷に戻り俗世を捨てて仙人のように過ごすつもりだった。そもそもは新しい暮らしのために上海に戻ってきたのだから矛盾した願望だったが、今の美鈴はそれを矛盾とは思わなかった。
 美鈴は英国租界(正確にはフランス以外の列強によって管理されていた共同租界なのだが、美鈴はこう認識していた)を歩いた。巡邏か何かに見つかるのも覚悟していたが、意外と誰にも会わない。義和団の騒ぎがあって警備を強化しないのだろうか? あるいはここは清国であって清国でないから、国の混迷の全てから隔離されてるのか? 太平天国のときのように。
 それにしても、英国の建物は特徴的で、嫌に合理的だと今の美鈴には感じられた。大半がレンガ組みなのだが、工業的に切られたと思われるレンガはどれも同じ形で一定の規則によって積まれている。冷静な精神状態で見ていればそれとこの大陸の歴史的城址でよく見る石積みとで何が違うのかというだけのことだったとだろうが、今の、義和団の余韻未だ冷めやらぬ美鈴には租界の建築様式が、憎々しい近代的合理主義とやらの象徴に思えてならなかった。
 元より期待してるわけではなかったが、ここは自分の死に場所ではないらしい。頼めば殺してくれそうな軍事力はありそうだがそれだけだ。
 美鈴は興味を八割方失ってフランス租界の方へと進んだが、その途中で足を止めた。
 規則正しいレンガ積みはいけ好かない西洋合理主義そのものだが、他の建物が全て白レンガか白レンガを基調に赤を混ぜているという配分なのに対して、この建物だけは全て赤で統一している。割と広い庭園の中に館があるというのも変わっている。租界の他の場所は窮屈そうに道と道の間に建物が詰め込まれているという情景が普通だ。
 が、何よりも奇妙でそして美鈴が心惹かれたのは、ここが明らかに古いということだ。築百年は経っている。建物そのものもそうだが、建物の表面を這う蔦、お世辞にもあまり手入れされているとは言い難い庭、錆びて蝶番が外れかけた鉄格子の門扉。全てが年季を物語っている。
 無論ありえないことだとは知識として分かっている。上海開港から今までで六十年程しか経っていないのだから、本来ここにあるべき建物は築六十年以内であるべきだ(事実租界の他は古くはない、あるいは新しいと形容されるような街並みである)。だが、その不条理さ、時代に一人だけ取り残された感は今の美鈴が正しく欲していたものだった。
 美鈴は門に手をかけた。古さがいいといっても、だらしなく傾いているのは気になる。見た目だけでも真っすぐに直す。それで気がついたが、門は施錠も閂もされていなく侵入可能だった。
 気がついた直後には、美鈴は敷地の内側に入ってから門を整えていた。無論無断侵入である。が、美鈴はここを最期の場所と決めたから入らねばならなかったし、呼び鈴の類もなければ門番もいないから無許可で入るしかない。と、美鈴側の事情だけは完全に正当化された。家主の都合を一切抜きにすればだが。





 門どころか玄関の扉も未施錠だった。このご時世に不用心極まりない。強いて言えば窓は全部閉まっているが、扉の鍵が空いているのでは意味がない。見た目と状況だけなら空き家を確信する頃合いだが、美鈴は建物内を流れる気から誰かがいるというのを感じ取っていた。付け加えるなら、特に強い気が二つあり、それらは人間のものではない。
 美鈴は一階の気の方へ向かった。一階と地下に強い反応があり、どちらかが館の主と仮定するならば、それは一階の側ではないかと予想した。租界の中に洋館を構える程度に社会性があるならば。
 目標まで扉一つまで近づいたところで美鈴は一度深呼吸した。思えば、ここを最期にするとして自分はどうしたいのだろうか? 不法侵入なのだから、扉の向こうにいる人外に戦いを挑まれて負けて果てる。そうしようか。でももし勝っちゃったらどうしようかな。こう広い館となると中々管理は大変そうだ。
 美鈴は扉を開ける前にそれを観察した。建物の外観と同じく古めかしいが、不釣り合いに真新しい中国語が書かれた木札が打ち付けられていた。部屋の機能について、現地民とトラブルになったことがあったのだろうか? 「応接間」と書かれている。
 この時間帯に応接間に? 美鈴はもう一度深呼吸した。
「ようこそ我が館に」
 当主は幼女と少女の間といった風貌だった。もっとも妖怪において見た目の年齢と実年齢とには何も相関はないのだが。それよりも、明らかにこちらを歓待しているというのが予想外だった。戦闘になるものと殺気を張り詰めて勢いよく扉を開けたのに、この主は微笑を湛えたまま(明らかに高さの合っていない)椅子に座り続けていた。
「客人としてもてなしているのだから座りなさい」
 少女にそう命じられたので美鈴は素直に従った。どうにも高圧的なのは本人の性格によるものと仮定してそこは割り引いて考えると、歓待されているということなのだろうか? そう考えればここまでがあまりにも不用心だったことには一応説明がつく。出迎えがなかったのはなぜだという疑問は残るが。
 あともう一つ疑問はある。どうしてこの少女は自分の訪問を知っていた?
 席について改めて確認しても、やはり家具の寸法と家主の背丈は合っていないように思える。辛うじて肩の上端までは机の天板より上に見えている。
 少女は屋内だが帽子を被っていた。白く扁平で、赤いリボンが縫い付けられている。美鈴には「ナイトキャップ」という語彙がなく肉饅の皮のような帽子だと思っている。
「こっちの酒は置いてないから何か飲むとしたら赤ワインになるけれどいいかしら? ボルドーワイン、1840年。英国はワインとなると全然ね。産地の大陸領も、作る理由の宗教も歴史の中で失った」
「英国……。紅茶はありますかね」
「置いてるわ。茶葉もここのではなくてセイロン産だけれど」
「構いません」
「そう。血だけはここのものがあるのだけれどね。今は切らしてる」
「血……?」
 美鈴の質問は無視して、少女は一度席を外して部屋を出た。全身が見えたので美鈴はここで始めて気がついたが、少女の背中にはコウモリのような羽が生えている。人間ではないとは分かっていたので驚くほどのものではないが。
 むしろ少女が行った先と思われる、おそらくは隣の部屋で爆発音のようなものが聞こえたことに驚いた。
 事故か? と椅子から半分立って警戒態勢をとっていると、家主は何事もなかったかのように紅茶のセットとワイングラスの乗った盆を持って戻ってきた。主は自分の身長とほぼ同じ高さのテーブルの上に腕を上げて盆を乗せようとしていたが、これにはかなりのリスクが伴う未来が見えたので、美鈴は半ば強引に盆を受け取った。
「火の回りは妹に改造させてるんだけれど必ず一秒で沸騰する設定で固定だから若干不便なのよね。あの子曰く、『どうせ水をコンロにかけるのはお湯を作るためなんだからそこに時間かけても無駄でしょ』だって。料理しないから火加減というものを知らないのよ。結局今のメイドは別に薪のかまどをこしらえる始末。誰か腕のいい魔女とか知らない?」
「知りません。……料理にはあまり使えなさそうな妖術を使う知り合いなら。今は行方知れずですが」
「そう」
「……メイド、つまり召使いがいるのですか」
「この大きさの館ならいない方が不自然でしょ?」
「の割に貴方しか見かけないのですが」
「今は休ませてるの。困ったことに夜型の人間を雇えなくてね。もっとも人間は昼型なのが普通で、貴族社会の付き合いという意味でもその方がいいのよね。逆にあんたが非常識。今何時だと思ってるのよ」
「それは私も偶然、正直不法侵入だなと思いながら来たもので」
 美鈴はこの主が流石に怒るものと覚悟したが、顔を観察しても敵意も警戒もない好奇の目を向けてくるだけだったし、周りを流れる気も穏やかなままだった。
「……よく分かりませんが、歓迎されているということでいいのですか?」
「ええ。紅魔館当主、英国吸血鬼のレミリア・スカーレットとして貴方を歓迎するわ」
「そりゃどうも。私は紅美鈴といいます。大陸に長らく住んでいた妖怪です。しかし、不勉強でよく知らないのですが吸血鬼というのは……?」
「人の血を吸い生き、恐怖を与える妖怪よ。日光で灰になり、流水を渡れず、炒った豆で水ぶくれを起こす。そういう数多の欠点の枷がありながらも普通の妖怪をも凌駕する身体能力と悪魔を十把一絡げに使役するカリスマで妖怪の王に君臨している」
 レミリアは自分の種族に相当の自信と誇りを持っているのだろうと美鈴は思った。自らの欠点すらも美徳にしている。日光に弱い。夜だから窓を閉めていたのではなく、一日中窓は閉まっているのだろうか。流水に弱い……。
「英国の吸血鬼なんですよね?」
「望むなら英語で話してもいいけれど?」
「そういうことではなく、出身が英国で、流水に弱くて、ここに?」
「ええ」
 美鈴の知識が正しければ、英国は島国である。
「妖怪には不思議の一つや二つくらいあるものなのよ」
「そうですね」
 不思議、で片付けていいとは思わなかったが、追及してもどうせまともな答えは得られまいと諦めた。
「ですが、不思議に思ってることはもう一つあって、私が来るのを予期してましたよね? どうやって?」
「それが不思議の二つめ。原理も何もないのよ。運命が読めるしその気になれば操作もできる。そういう能力としか言いようがない」
「門や玄関に鍵もかけなければ、この時間に応接間で待ち構えているというので、正直罠と思いました」
「罠だと知ってよく来る気になったわね」
「罠だとしたらそれはそれで構わないので」
「ふむ? いや失礼。自分の運命を読むことで今日この時間に来客があるということは知っていたけれど、客、つまり貴方が何者なのかは知らないのよ。どういう経緯でここに来ることになったか教えてくれないかしら」
 美鈴は話した。天津で義和団の反乱に参加し、敗れたこと。生存のために何かをする、という気力を失ったので死に場所を探した結果ここに辿り着いたということ。
「ここは死ぬにふさわしい場所と思った?」
「いけ好かない合理主義者共の建物と違ってここには風情があります。それでいて英国の側ということはちゃんと私を殺せる力もあるのでしょう」
 美鈴は話しながら内装を改めて観察し、少し眉をひそめた。いかにも異国風な物品の中に、十字架が見えたのだ。
「でも、結局クリスチャンなんですね」
 美鈴の声色が思わず刺が生えたようになる。
「違う。この館は元々落ちぶれた人間の貴族から買ったものだから、前の持ち主が信者だったんだろうさ。私はキリスト教も十字架もどうも思ってないよ。それどころか、むしろこっちの世間ではキリスト教は妖怪の敵ということになっていてね。ワラキア公は神の御名の元に戦っていたはずなのにどうしてこうなったのか」
 レミリアも十字架を見てお茶をすすった。
「そういやちょっと前に『キリスト教狩りから追われて困っているから匿ってくれ』って頼まれたことがあったわね。正直迷惑だったけれど不憫だったし匿ってはあげたわ。血と引き換えにだけれど……。安心しなさい。少食なのよ。殺すほどには吸えないわ」
「駆け込み寺に逃げたら逃げた先が怪物だった、は敵ながら同情しますね」
「逆に私から聞きたいんだけれど、貴方達にとって、この国の人という意味でもいいしこの国に生きる妖怪という意味でもいいのだけれど、ともかく貴方達にとってキリスト教って何なの?」
「西洋の象徴です。祖国を食い物にして社会も人間関係もぐちゃぐちゃにして文明というつまらない価値観を押し付けて来た憎き奴らの」
「キリスト教自体は二千年近く前からあるから近代たの文明だのとは無縁なはずなのだけれどね。『犯罪者は皆朝食にパンを食べている』と同レベルの話よ、それ」
「じゃあ我々の多くは無罪ですね。確かに揚げパンを最近見るようになりましたが、朝食だと米や饅頭の方が人気ですから」
 レミリアは苦笑いして「そういうことじゃない」と否定した。
「まあ、貴方達の考え方は興味深くはあるわね。我々にとってはどうしても空気みたいに常にある前提でしかないから。にしても、貴方達のキリスト教嫌いぶりは悪魔をも超えるんじゃないかしら」
「私に限っていうと、キリスト教も、義和団(反キリスト教)
もどっちも嫌いですけれどね。その軸で戦ったところで、国も妖怪の命運もどうにもならなかった」
 美鈴が毒を吐いている対面で、レミリアは鷹揚に構えている。
「この国なんて憂いても無駄だよ。ここに住むと決めるときに事前調査として国の運命を占ったのだけれど、早晩滅亡するという結果だった」
「それでよく住む気になれましたね」
「国が滅んでも歴史は続く。それは貴方達(チャイニーズ)
の方がよく分かってるのではなくて?」
 美鈴は昔なら分かったんでしょうがねと思った。かつては中央で何が起ころうとも自分が住んでる地が何か変わるということはなく、むしろ国とは全く無関係な、台風が来たとかその年が冷夏だったとか、そういうことで歴史は綴られていった。都会に出てしまった今は国の趨勢に自分のありようが否応なしに左右される。例えるならば演劇の観覧中に席を後ろから前に移動したら突然舞台に引きずり上げられたような。舞台に引きずり上げた手の持ち主は演劇の最中倒れ、彼女の後をついて踊っていただけの美鈴は彼女が倒れた後の役を知らない。それが義和団の前と後の彼女にとっての歴史だった。
「分からなくなりましたよ。それもまた、貴方がたが持ち込んだ近代というものの弊害なのではないですか?」
「私は違うと確信するね。その設が正しかったら今ごろ欧州は滅んでるよ」
「妖怪は滅んだ。あるいは滅ぶ」
「かもね。だとして、貴方はどうする?」
「潔く散ろうと思ってここに来ました。それを止める人ももうこの世にはいないようですし。でもどうも貴方は殺してくれなさそうなので、故郷に帰って隠居しようと思ってます」
「潔いのか諦めが早いのか。まるで日本のサムライね。日本特有じゃなくて東洋共通の精神なのそれ?」
 レミリアは鷹揚とした態度を止め、真剣な目で美鈴を見つめた。こう表現すると変な例えだが、かつて娼館に来た林と同じ目だと美鈴は思った。
「私達英国人はそうは考えないの。自分の力が通用する地を新しく探し出しそこを支配する。そうやって発展してきた。そうやってここに来た。私はもっと先の世界に行く必要がある。ただ人手が足りなくてね。ここに入るとき見たでしょ? 現状門の整備もおぼつかない。だから雇われなさい。貴方は私の部下として私の旅路に付き合う義務がある。そういう運命の元にあるの」





 林は監獄の中で目を覚ました。
 砂埃でざらつく石の地面と鉄格子。生気を失った目をしている紅灯照の同志が他に何人も収容されていて、人で混み合った牢屋の隅に陶製の壺がいくつか置かれているのが見えた。排泄はそれでしろということなのだろう。
 呆れるくらい近代的な監獄だ。扉が木製でなく鉄格子ならそれだけで近代的になる。近代化は罪人に特に何か権利を保障してくれるというものではないらしい。
 死に損ねたなと思った。九割死ぬだろうという行動をして死んでやろうと思っていたのに一割を引いた。ただ体が痛む。銃弾が刺さったままらしい。服を脱いで見えている弾を抜いた。どうせ女しかいない(男女で収容場所を変えるというところにとってつけたような倫理観が見えた)から恥もない。林には抜き取った銃弾が小さい刺のように見えた。
「こんなんで死ぬわけねえだろうが」
 確かに銃弾の大きさは例えば火縄銃のそれより小さいが、実際には小さくともそれが秒速数百メートルという速さで体に刺さり主要な血管やら臓器やらを破るので人間なら死ぬのである。が、林には標的を死に至らしめることなく静止した銃弾しか見えてないからそういう感想になる。
「どうしようかね」
 獄死しようにも人間の「殺してくれる能力」に疑問を持ち始めていた。それに、獄死なり刑死なりはつまらないように思えた。
 林が思案していると鉄格子が軋む音を立てて開き、そこから何かが投げ込まれた。人間だ。紅灯照の同志と思われる人が一人、体中を殴られて人相の判別もすぐにはつかないくらい腫れ上がった状態で牢に加わった。恐慌状態に陥る部屋の中から、別の同志が一人、猫か何かのように首根っこを掴まれて牢から連れ出された。
 林は確信した。牢の人達は順番に拷問を受けていくことになる。組織の全容をつかむためなのか裁判の判断材料にするのか。
 意味の分からぬことだと思った。今回の事件に関わったのは蜂起に加わって死ぬか捕まるかした人で全部だから、そこから情報を引き出そうにも新しく何かが得られるわけではない(確かに蜂起に賛同しなかった者もいるが、彼女らは無垢な一天津市民と何が違うというのだ。この件には無関係だ)。そして自白しようがしまいが彼らの差別的な司法判断に何か変わるところがあるとは思えずこの点も意味が分からない。
 ただ一方で明確に理解でき、かつさしものの林もぞっとさせたことが一点ある。拷問で死ぬことはできない。体力の乏しい人間の少女にすぎない同志ですら生きて帰って「しまっている」。
 林は自分の願望が死に場所を求めているというのではなく、正しくは後世に名を遺したいとう一種の英雄願望であることに気がついた。
「くそったれがよ」
 こんな正義の欠片もないような鬼人連中の言いなりになって死ぬなんてそんな最期があってたまるか。私はやりたいようにやってやる。
 林は妖術で銀貨を作り、牢獄の中の同志に配った。さっき部屋に加わった拷問された同志には五枚渡した。このとき一人一人の顔を改めて確認したが、美鈴はいなかった。彼女の方は順当に生き延びたらしい。他の部屋にいるというのも理論上はあり得るが、林はそれは相当低い可能性と感じていた。
「今更銀貨なんてあって何になるっていうのよ!! どうせ拷問されて処刑されるだけじゃないの!!」
 当然こう反発する者もいた。敗戦により、林の権威もだいぶ失われていた。
「だから銀貨を持ってる意味のある娑婆に戻るんだろうが。これ以上拷問される前にとっととずらかるぞ」
 牢獄はざわめきに包まれたが、全体としては「もう少し考えさせて欲しい」という意見が多数を占めたので林は仮眠をとって待つことにした。
 その日の夜(常に光源は蝋燭かガス灯かだけで昼も夜もあったものではないが林が夜だと思ったので夜ということになった)に脱出は決行された。存外脱出を選んだ者は少なく、林の他には四人のみだった。他は「あんたはもう信用できない」「脱出が成功するとは思えない」「結局今拷問に連れて行かれている一人が助からない(林もこの件を質問されたときに、彼女の救助は断念せざるを得ないとは明言していた)のだから私も残る」といった理由で残ることを選んだ。
「そうか。それじゃここでお別れだな。お別れついでに最期に明かすんだが、実は私は人間じゃないんだ。人間の君たちのこれからの人生に幸あらんことを、一人の妖怪として願っているよ」
 林は肩で息をしながらそう言った。彼女の足元には自分の血で描いた陣がある。
 唖然とする聴衆の前で林は術を披露して脱出を選び陣の中に入っていた四人と共に、姿を消した。
 彼女のその後については様々に噂されている。復興した後の天津の雑踏に何事もなかったかのように紛れ込んでいたと述べる者もいたし、十数年後になって、雲南の山の上を飛ぶ仙女のような姿を見たと証言した者もいた。牢を抜けたのは幻影であり本物は獄死したとする者、そもそも牢獄に入れられたのが彼女から術を伝授された影武者で本物は戦死していたという説を述べる者もいた。
 彼女の行方は誰も知らない。その人生の結末は各々の物語においてのみ語られ、その点において彼女は紛れもなく「英雄」となることに成功した。





 美鈴は赤い門の前に立っていた。やはり自分は門を守るために生まれてきたのではないかと思えてくるくらいこの場所は馴染んだ。
 門壁より前には異常はない。変わらず租界の街が広がっている。
 この変わらずというのは不変ということではなく、街並みはむしろ開発により変わり続けている。最近も南京路に新しく銀楼(貴金属商)が建ち、店の前には真新しい旗幟がはためいている。銀製のものはここの主が嫌うが、それ以外の種類で調度品に使えそうなものを探しに行ってもいいかもしれない。
 ただ、街並みは変われども空気は、景気の上下や流行の変遷といった商業街繁華街特有の要素により多少変化はするが、紳士的な熱狂という大元の部分が固定されていて、変わらずというのはその点にある。およそ半世紀前の太平天国の乱のときにそうだったように、上海租界はこの国の騒乱の外側に確固たる秩序を形成していた。
 かつて自分は騒乱の側にあって、新たな秩序を生み出そうと藻掻く動きに加わっていた。それが今は騒乱から逃げて租界の秩序のゆりかごに守られている。租界の秩序は、間違いなくこの国から安定を搾取することによって得られている。美鈴は自らの立ち位置においていくらか後ろめたさを覚えずにはいられなかったが、同時にそれは止むを得ないことと納得もしていた。自分達が国の趨勢をどうこうできる時代では最早ないのだ。
 今も国の騒乱は続いている。1911年、辛亥の年に革命軍が各地で蜂起し、清朝の崩壊は避けられぬものと思われる。革命軍は紅、黄、藍、白、黒からなる五色旗を掲げているらしかった。清国を象徴する黄色地に龍の旗は間もなくその役割を終えるのだろう。
 結局、妖怪や龍の時代では最早ないということだ。これからは人間の時代だ。義和団反乱が失敗した理由の一つは中核が妖怪と、妖怪のような時代に合っていない価値観だったことで、今革命が成功しつつあるのはそれが人間の手によるものだから。正直少し不本意なことではあるが、美鈴はこの事実を認めざるを得なかった。
 この国に龍はいない。気脈で分かる。妖怪の方は、確かにここに一人いて、おそらく全土を俯瞰すればそれなりにはいるのだろうが、誰一人として世界を動かす力はもう残してはいないだろう。言い方をより明るくすれば、この国の人間は、ついに妖怪の助けなしに歴史を歩み始めることができるようになったように見える。
 鐘塔が鳴った。この館の主も、ティータイムの時間に入る頃合いだ。残念ながら今日は美鈴は呼ばれてないのでこの後も門番仕事の続きだが。
 彼女は、美鈴とは意見を異にしているような口ぶりで、自分が支配者となれる世界の探求と侵略について熱意を表明し続けている。が、主張に反してそれを実行に移そうというそぶりは一向に見せない。なんだかんだ安定したここでの生活を良しとしているのか、あるいはやはり、吸血鬼にとって海を越える、というのは容易なことではないのか。
 なんにせよ凪のままであるなら美鈴としては結構なことだ。もし主が本気で「植民地進出」に乗り出したとしたら……。
 そのときはそのときで、内心どう思っているかは別にして付き従うことになるだろう。自分の適性は流れに身を任せることであり、流れに反発して自分の流れを押し通すことではない。それが、この国の都市部で六十年程動乱に巻き込まれ続けて学んだことだった。
 美鈴は支給された饅頭を頬張り、そのときがおそらくしばらくは来ないだろうということを再確認した。そして饅頭を平らげると門の柱にもたれかかり、腕を組んで目を閉じた。
「歴史ネタを幻想郷風に置き換えて使った作品(『Turtles all the way down』等)」や「歴史のちょっとした小ネタを題材にした作品(『文明の肉』等)」は書いたことがあるんですが、「歴史上の大きい事件の中で当時その場にいただろう東方キャラは何を成し何を思ったか」という方向のゴリゴリの過去捏造物は実は書いたことがなく、しかし最近見かけるし自分でも書いてみたいなということでアイデアの中からそれに適したものを選び膨らませました。

「眠れる龍(眠れる獅子、という表現の方が一般的なようですが)」が欧米から見た清国のことを指すというのと、紅美鈴がまさに眠れる龍だ、というダブルミーニングです。が、この時代の清国の歴史、内憂外患が酷すぎてとてもじゃないが美鈴を眠らせてる余裕がない。もうちょっと途中で眠らせてあげたかったという気持ちもあります。

作中後半部分で事実上の主人公ポジションな林黒児さん、設定を雑に盛ったオリキャラみたいな描写でしたが実はれっきとした史実人物だったりします
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%BB%92%E5%85%90#
東ノ目
https://x.com/Shino_eyes
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.240簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.90福哭傀のクロ削除
とにかく前提として難しかった。話自体が難しいというより、世界史的な分野に私が弱すぎたゆえに。個人的には前半は世界観説明で必要とわかりつつもちょっと情報を読まされてる感覚が強くかったけど、林黒児が出てきた当たりから話が動いて読みやすくなってきた感覚。読んでいるうちは美鈴の事なかれ主義というか、自分に関わるギリギリまで動きたくないという性質の割に、林黒児の自ら動いて変えていこうという気質に惹かれる様子、そしてその気質はおそらくレミリアも持ってるからそのへんは一貫してるようにも。そんなことを思っていると、外に動いていくのが英国人のやり方という話が出てきて、多分作者の意図したところと違うところで引っかかってこんがらがってきたなーなんて。
なんだかんだでも、人間から見たら未知とか不思議に分類される妖怪の立場である美鈴が近代欧米についてなんじゃこれわからん……ってなってるのは、そりゃそうなるかっていう納得とともに新鮮さを感じて面白かったです
3.100かはつるみ削除
いいですよね清末民初(いいですよね清末民初の意)。
美鈴に関しては流され系の生き様の中でもちょっとずつ(きっと当初の彼女ともどこか違うんだろうけど、たびたび非漢系民族に政権を明け渡しても総論的には中華的だったあの土地らしい気もします)自分のアイデンティティを獲得したり保持したりしたたかに生きていているのがよかったです。
あとあれですね、やっぱりこういう時代立てだと『蓬莱人形(C63版)』の「明治十七年の上海アリス」のテキストの、どこかどんよりした雰囲気が色濃いと嬉しい気がします。
7.100竹内凛削除
初手はうわぁ、、、難しそうだし長いなぁ、、と思っていましたが、読み進めていくうちに楽しさが勝って楽しく読めました!
8.90ローファル削除
面白かったです。
10.100のくた削除
面白かったです。門が馴染むと美鈴か感じるところでテンションが上がりました。
11.100ヘンプ削除
面白かったです。美鈴が感じたことなど、とても良かったです。
12.90名前が無い程度の能力削除
えっちだなと思いました
13.90夏後冬前削除
骨太な中国近代戦記を読んだような気持ちになれました。ちゃんと戦記を読んだ気分になれたので、そこの構造がしっかりしているのは確かなのだと感じます。ただ日清戦争がラストにくるんで仕方ないんですがどうにも無常感が悲しみでした。最終的なラストからちょっとウェイトが抜けてしまった感もやるせなさに拍車をかけたような。面白かったのですが、そこらへんがちょっと残念な気持ちにもなりました。
14.100南条削除
面白かったです
歴史の大いなる流れに巻き込まれながらも死に損なった美鈴ですが、最後は収まるところに収まったようでよかったです
15.100竹者削除
よかったです
16.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
着地するところが判っているので(異聞物にはならないのだろうな、という予想も含み)美鈴も、林黒児のような何かを成しそうな凄そうなやつでも無に消えるのだな、という無情さ虚しさを味わうことができました。
題材にもかかわらずすらすらと読めるのも良かったです。
有難う御座いました。
17.100くろあり削除
面白かったです。
清朝末期の上海、天津の様相を細かく描かれたため新しい知識を多く得ることができました。
天津城陥落からレミリアに会うまでの展開は凄く綺麗にまとまっていると感じ脱帽しました。
この後レミリアとは会うだろうなとは思いましたがまさか紅魔館ごとイギリスから上海にワープさせて持ってくるとは思いつきませんでいた。
18.100名前が無い程度の能力削除
無常ともいえるほどの歴史の奔流の中で描写される美鈴の暮らしがとてもよく、この国に根を張っている感じがしました。あくまでその土地の文化やそこで生じるいさかいにはドライな感覚で見つめていて、では大きな戦争とも呼べるほどの非日常的なことが起きて銃をはじめとした科学が台頭してきたら、それもまた時代の流れととらえて時代遅れの妖怪は消えるという考えに至る心情がなんとも繊細というか、美鈴は作中の出来事を俯瞰的にとらえているけど、歴史や文化そのものに迎合するし愛着もあるというのが魅力的に映りました。それらが最終的に運命という言葉に収束してしまうというのも一抹の寂しさを感じて、大変良かったです。