Coolier - 新生・東方創想話

空繰り人形(上)

2006/02/20 07:55:37
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このSSは18集「Ignition」の流れをくんでいます。

 *

 自然の灯りを取り入れず、人工の灯りさえ少なく薄暗い広間を無数の閃光が駆け抜ける。空間に引かれた線の群れは、ぶつかり合い激しい音を散らす。
 紅く染め上げられた格式高い広間を、更に闘争で染め上げるのは二人。銀の髪に紅を纏い翼を生やした幼い悪魔と、背の高い銀髪の女。共に銀の髪ではあるが、少女は蒼銀で女は白銀。
 傷を負うは少女。いや、傷自体は残っていない。その身に纏う服は幾つかの部位で破れ、それに沿って鮮血が朱に染めている。傷が残っていないことに、何ら不思議はない。彼女は見た目こそ幼い少女であるが、数百年生きている歴とした悪魔なのだから。
 しかし、焦りは無傷の女にあった。
 少女は女の術中にあり、その時点で勝敗は決したに近い。しかし、幼い悪魔はその支配の元から生き延び、反撃さえ行っている。こんな事は、本来有り得ないのだ。
「お前の次の言葉は『狂った感覚の下で何故まともに動ける』よ」
「貴様! 狂った感覚の下で何故まともに動ける! っは!?」
 一瞬の動揺。宙に浮いた女の間近に、両腕を振り上げた少女が居る。
 凄まじい衝撃が正面と背後から、殆ど同時に襲いかかった。床を覆う毛足の長い絨毯さえも緩衝にならず、女の全身から力が失われた。
「お前の能力はそこそこやっかいだったよ。それに、その使いこなしも悪くない」
 言いながら、少女はゆっくりと歩み寄る。
「けれど運命さえ見通す私の前では、無駄よ無駄。その程度でレミリア・スカーレットは揺るがない」
 魔城の主、レミリア・スカーレットが酷薄に笑う。
 代替わりして以来四百年近く、たった一人でありながら無敵を誇り続ける幼き魔王は既に生きた伝説、悪夢とさえなっている。
 恐るべきはその魔力、身体能力といった、戦闘能力だけではない。予言と称して戯れに誰かに告げる言の葉は違うことなく、その知慧さえ運命を操ると恐れられる程だった。
 ただし、誰もそれが完全な真実を突いているとは考えもしなかったが。
「穢き地上の民が何時の間にこれほどの力を……」
 なんとか立ち上がろうと足掻きながら女が呟く。
「地上の民?」
 レミリアは怪訝そうに眉を動かす。やがて何かに気付いたように頷くと、
「ああ、そうか。そういうことか。野兎にしては毛色が違うかと思えば、お前は月の兎か。そういえば、どこかの国にそんな伝承があったかな」
 レミリアが見下ろす女の頭には、奇妙に萎れた長い耳が、兎の耳があった。服装を見てみれば、魔物であることを差し引いても違和感を感じる。
「見え透いたことを……! 我が主の品を掠め取ったのは貴様だろう!」
 怒りもあらわに月兎が叫ぶ。しかし、身体はそれに応えず、空しく絨毯を掻くばかり。
「フン。奪われたお前がマヌケなんだよ。と言いたいところだけど」
 レミリアは言葉を止めて指を鳴らす。同時に床が盛り上がり、即席の台座と化した。その上には鈍く銀色に輝く、時計とおぼしき物が置かれている。月兎はそれに目を見開いた。
「これだろう」
 いつのまにか現れた玉座に着きながら、レミリアはそれを掴み無造作に月兎へ向かって放ってやる。月兎は動かぬ体を無理矢理に動かして、銀時計を抱えた。そして、レミリアへ呆然とした視線を向ける。
「これは私が犯人だとお前に言った奴が、友好の証とかほざいて寄越したのよ。私に言われて奪った、とでも言ったんでしょう? そいつ」
 混乱する月兎の耳に、少しずつレミリアの言葉が浸透する。後半はその通りだ。しかし、前半に含まれる、知るはずのない情報。これは一体何なのだろうかと月兎は考えずには居られなかった。腕の良い間諜を雇っているとでも云うのなら、この城のがら空き具合が説明できない。
「……何故これを私に?」
 月兎は想像のつかない事項を横に置き、判りやすく理解できない事項を尋ねる。如何なる理由でこれを手にしたにせよ、これを彼女に返す道理はないはずだ。どうあれ敗れたのは彼女なのだから。
「お前はこれまでで、三番目に手応えのある相手だった。私の暇を有意義に潰してくれた報酬よ」
 それで十分だろうとでも言いたげな表情だった。
 月兎は震えて揺らぐ身体を押して起きあがると、片膝を着いて頭を下げた。
「感謝します。それと、貴方には申し訳ないことをしたと詫びさせて欲しい」
「感謝する前に名くらい名乗ったら? そのくらい予め知っているけど、名乗るのが礼儀でしょう」
 そんな事も判らないのかと言いたげだ。
「失礼。私は十六夜。地上に放逐された主を追って、ここまで来ました」
「月からこんな所までご苦労なことね。ここの配下もそれくらいの忠誠心を持ってたら良かったんだけど」
 やれやれ、ため息を吐くレミリア。
「主の危機に立ち上がる者も無し。それをする実力も無し。無い無い尽くしで使えないから全員叩き出してやったよ」
 反乱を起こす忠誠心も無かったから後が楽だったけど、と付け加える。殆ど乗っ取ったと明言しているに近かった。
「それで私のモノになる気はない? 忠誠心は申し分ないし、実力も悪くない」
 突然の申し出に、月兎は虚を突かれた表情を浮かべた。しかし、すぐに気を取り直すと、
「それはできません。私は既に仕える主を持っていますから」
 そう、間髪入れず返した。
「その主人ごと雇ってやるよ。追放者じゃ、どうせ行き場もないんだろう」
「手がかりもなければ、主の安否さえ不明です。何時になるか判りませんよ?」
「待つのは慣れているよ。気が変わらない保証はしないけど」
 レミリアはさっさと行けとばかりに、犬でも追うように手を振る。一礼して下がろうとする月兎に、
「一応の忠告よ。あのヒス女に仕返ししたいんだろうけど、ろくな結末にならない。おとなしくお前の目的に進む方が賢いわ」
 断罪する司法の如く、迷い無くレミリアが告げた。
 その言葉を吟味するように、月兎が立ち止まる。再び深く頭を下げた月兎は、痛んだ身体を押して部屋を去った。大扉が閉じる音で、王の間と外が断絶する。

「言っても無駄よね……。変えられないことは、どうにもならない」
 老人のように疲れを帯びた声が、孤独な王の部屋に空しく響いた。

 *

 穢れた地にどうして長居できようか。そう言った月の民が居たと云う。十六夜という月兎も野蛮な土地であるとは感じていたが、そこまで穢いところだろうかと思っていた。
 しかし、今彼女がその路地裏に横たわる街は、なるほど、到底居られない穢い土地であると感じられる。霧の多い土地として知られるその街は、花開いた文明の毒に侵されその霧を穢れた瘴気と化していた。
「それは私とて同じか……」
 壁にもたれるようにして上半身を起こしながら、自嘲するように月兎が漏らす。血と泥で汚れたその姿は、魔窟の様なこの街にあまりにも相応しい。穢い穢いと喚いたところで、誰が見ても同穴の隣人だ。
 レミリア・スカーレットの指摘は正しかった。
 仇は存外に手強く、その陣容も生半ではなかった。苦心の末討ち取りはしたものの、忠誠か後の権力争いかはともかく、追っ手が掛かりこの様である。なんとか一時は撒いたものの、地上人の街での立ち回りは向こうの方が上手だろう。遠からず追い付かれる。
 馬鹿なことをしたのだろうとは思う。ただ、賢く立ち回れたのならばそもそもここには居ない。罪を負って追放された主など放って、静かな月の下で過ごせばよいのだ。そもそもこれほどの年月を挟んでは、探し当てる保証も生存の保証もない。
 その愚かさの結末がこれだ。穢き地上を這いずり回り、ようやく見つけた物は失われる。命さえ失い、主を捜すことも、居たとしてその係累を探し当てることも出来ない。
 ふと誰かの気配を感じ、野良犬か何かと思い目を遣る。
「え?」
 その裂きに居たのはまだ幼い少女。幼き魔王より更に幼い。しかし、月兎の視線はみすぼらしい服に身を包んだ少女に釘付けになった。その少女は服と街の穢れを覆すどこか気品を感じさせる風貌をしていたが、月兎の目を奪ったのはそれではなかった。誰かの面影を間違いなく見たのだ。
「これを」
 言いながら、銀色の懐中時計を震える手に乗せて差し出す。少女は恐れる風もなく近付き、それを受け取った。時計を注視する少女を、月兎は感慨深げに見やる。
 その時、月兎は別の気配の接近を感じ取った。空を飛んで近付く何者か、相手が何かは考えるまでもない。
「どうか、強く」
 言うと同時になけなしの力を振り絞って、月兎は空へと駆け上がる。彼女を巻き込むわけには行かなかった。汚れた霧が包む空で静止した彼女を数人の魔物が取り囲む。
「すみません、レミリア・スカーレット。忠告を破った上に、約束も守れそうにない」

 少女は淀んだ空をずっと眺め続けた。

 *

 ガス灯が照らす下、メアリ・ケリーはふらふらと覚束無い足取りで家路についていた。顔が紅潮し視線が定まらず、痛飲していることが見て取れる。まだ若い女性がぶつぶつと何事か呟きながらふらつく様は、あまり褒められたものではないだろう。
「また呑んでるのか、メアリ?」
 声変わり前の子供の声に彼女は立ち止まった。いかにも労働者階級といった服装の少年が彼女の方を見ている。まだ宵の口ではあるが、子供が出歩けるほど倫敦の治安は良くないのだが。
「あんらこそガキが彷徨いてうんじゃないよ。帰ってとっとと寝ら」
 深酒が過ぎたのか呂律も回っていない。
「俺はこれから仕事だよ」
 少年はそう言ったが、幼年の労働者が少なくないとは言え子供が夜からする仕事というのもあまりない。とは言え彼女も、仕事に行くと言ってこの少年が夜出歩くのを見かけたことは一再ではなかった。そうなると何にしろ、あまり真っ当な仕事では無さそうだとは感じていた。
 素面であれば何某か事付ける台詞もあったのだろうが、酔った頭ではあまり気の効いた言葉も思い当たらなかった。それどころか足下への注意が疎かになり、ふらりとよろめいてしまう。
「やっぱ呑みすぎじゃないのか」
 倒れそうになった彼女を、いつのまにか少年が支えている。酔っていたとはいえ近付く過程が全く捉えられなかったことに、彼女は思わずギョッとしてしまった。
 少年はそれを見て、しまった、というような顔になる。思い出したかのように懐に手をやると、見合わない時計を取り出した。精緻な銀細工と見える懐中時計である。
「そろそろ時間だな。じゃあな、メアリ。転けずに帰れよ」
 言うが早いか、時計を懐に戻して少年は去って行った。ガス灯があるとはいえ、薄ぼんやりとした倫敦の路地では少年の姿が見えるまでほんの僅か。彼女が何かを言う間もなかった。

 *

 ジョージ・グリーンウェルは苛立ちながら書類を片付けていた。本来彼は暴力を振るうことで身を立てている人間で、デスクワークなどをしている自身を想像もしていなかったからだ。それも仕方のないことではあったが。
 血の匂いで満たされた人生を過ごすうち、いつのまにか同類が集まるようになり、頭も悪くなかった彼がそれを仕切るようになった。娼婦の上前を刎ねることから麻薬の密売まで手広くこなし、いつのまにか大きな組織から目を付けられるほどになっている。ただ、その事については歓迎していた。
 彼はまだ若く、体制派だとかを嫌っている。機会が有れば叩き潰してやりたいと常々思っていたし、最近ご無沙汰の血なまぐさい事態にも遭遇できると期待もしていた。残念なことは彼が頭であるため矢面に立つわけにも行かないことと、それを理解して後方にいる程度に彼の頭が回ることだった。
 黙々と書類を片付ける中、遮るようにノックが響く。
「入れ」
 言いながら利き手を伸ばし、机の引き出しにある拳銃を掴む。部下が詰めている中突然暗殺者が来るはずはないが、その部下に紛れている可能性もある。用心に越したことはない。
 がちゃり、と。ドアが開く。同時に鉄錆のような匂いを嗅いだ気がした。
 入ってきたのは少年だった。短く揃えた銀髪と端整な顔立ちが特徴と言えば特徴になるが、労働者風の子供など珍しくもない。ただし、このようなところにいるのに相応しくもなかった。
「ジョージ・グリーンウェル?」
 確認するように声変わり前の子供らしい高い声が響き、同時に少年の手にはいつのまにか大振りのナイフが握られていた。
 治安の低下した倫敦では子供が犯罪の犠牲になることも、その逆も珍しいわけではない。既に怪しんでいたジョージ・グリーンウェルは、躊躇無く少年へ向けて発砲した。
 筈だった。
 握りしめていたはずの拳銃の感触がない。同時にゴトリと拳銃が落ちる音を聞いた。
 鈍い痛みを感じて目を遣ったその手には、親指がない。拳銃を保持しておける筈もなかった。
 ほんの一瞬逸らした視線を、驚愕を押さえて少年へと向け直す。
 視界を埋める、拡大されたナイフの刃。直後に全てが朱く染まった。朱の他には何も見えない。
 肺腑に溜まった苦痛の叫びは、喉に埋め込まれたナイフが遮った。勢いよく引き抜かれたナイフと共に、重要な何かが抜けて行く。
 ジョージ・グリーンウェルの意識が途絶える寸前、扉の先から届いた匂いと今の自身の匂いが同様のものとなったことを理解した。

 その晩、グリーンウェルの屋敷に出入りする者は誰も居なかった。

 *

 ガス灯もろくにない路地を銀髪の少年が歩く。十一月の夜中ともなればそろそろ冷え込みも酷く、吐く息も白くなる。それでも少年には背中を丸める様子もなかった。
 少年の歩く先にある街灯に一人の男が寄りかかり、人待ち顔で紫煙を吐きながら立っていた。街灯を頼りに暗い中で新聞を読んでいる。少年に気付くと、煙草を咥えたまま顔を向けた。
「首尾は?」
 話すべきことは決まっているのか、簡潔に男が尋ねる。
「いつも通り一人も逃していないし、誰にも見られていないよ。そっちのリストが間違ってたら知らないけどな」
 少年も簡潔にそれだけ返す。親子ほども離れているであろう年齢差も、頭一つ以上有る身長差も気にかける様子はない。男にもその反応をいぶかるような様子はなく、それをごく当然としているようだった。
「報酬だ。確認したら追加を渡す」
 男は懐から分厚い紙束を取り出して少年に渡す。受け取った少年は軽く紙幣を確認すると、手品のようにどこかへとそれを仕舞った。男はそれを見て嘆息すると、
「何度見てもタネが判らん」
 言いながら首を振る。報酬をどこへともなく仕舞う瞬間も、どこからとも無く折りたたまれていた物を広げるようにナイフを取り出す様も、何度見たところで正体が掴めない。
「俺のジャックナイフにはタネも仕掛けもないよ。そんなに器用だったら手品師でもやってる」
 少年はあげくそのまま、折りたたみナイフ、ジャックナイフとも呼ばれる。そもそも少年自身が自分の名前を持っていなかったので、あだ名をそのまま使ってもいた。
「じゃあ、明日よろしく」
 言いながら少年がきびすを返し、瞬く間に夜の闇に消えた。

 *

 ドンドン。
 メアリは自宅である安アパートで目覚めた。安いとは言っても、彼女はずいぶんと家賃を滞納したままだったが。小金を稼いではアルコールを浴びるように呑んでいて、払う家賃などこれっぽっちもなかった。追い出されたら別へと移ればいい、その程度の心積もりである。
「うるさい……」
 若くして夫を失ってから、彼女の生活は荒む一方だった。悪循環にはまりこんで一筋の光明すら見えない。碌でもない生活をしているのは少年に言われるまでもなかったが、改善する気力もなかった。
 ドンドン。
 ドアを叩く音が聞こえる。起きあがるのも面倒なので放っておこうとしたが、計ったように定期的にノックの音が響く。二日酔いの頭に響いて仕方がなかった。彼女は仕方なく億劫そうに起きあがりドアへと向かった。
「今開けるよ」
 ドンドン。

 *

「昨日の確認が取れた」
 言いながら男は追加の報酬を渡す。男は天を仰いで口元から上る紫煙を眺めながら、
「こんな小娘の商売が殺しなんて、世も末だ」
 わざとらしく十字を切ってみせる。
 彼の言うとおり年齢の割には背が高いものの、少年の性別は女性だった。むしろ成長期の違いから、実際の年齢は更に若いだろう。
「良いじゃないか。どうせ俺がやらなくても誰かにやらせるんだろう? 誰がやっても同じだし、一人で殺れば貰いもでかい。あんたの払いも少なくて済む」
 良いこと尽くめだろう、と少女が曰う。なんでもない様子に、うっすらとした自嘲の色が混じるのは男の気のせいか。どちらにしろ、お互い様と言ったところではあるが。気分良く続けていられる仕事ではない。
「まぁ。お前さんの手際が良くて、こちらは大助かりだがね。あの手のをのさばらせておくと舐められてな」
 標的になったのは、新興で行動の派手なグループだった。良くも悪くも目立つため、見せしめとして都合が良かったのである。男の属する組織にとって、特別彼らが目障りだったわけでもない。
「まぁ理由は良いよ。あれくらい面構えが悪いと、こっちも気楽だけどさ」
 少女の感想も大体本音だった。人を殺して悦に浸る性癖でも持っていなければ、殺人に心地良さを感じるわけもない。ただ、どうせ殺すならいかにも性質の悪いやつの方がいい、その程度には思いもする。痛むほどの良心をわざわざ抱えていてはやっていられない。
「ろくでなし同士の喧嘩だからな。有り難くもないが、そういうのが多くてうちの商売も安泰だ」
 男の言うとおり、倫敦の治安は現在決して良くない。地方から労働者が流入しそのまま身を持ち崩すものが少なくないため、大から小まで犯罪には事欠かないのだ。
「なんでも、切り裂きジャックとか云う奇人まで居るらしい」
「なんだ、そのジャック仲間?」
 男の言葉を、少女が怪訝そうに聞き返す。
「あ? 知らないのか。どこの新聞も部数のばしに必死で、挙って騒ぎ立ててるぞ?」
 手にしていた今日の朝刊を挙げながら、むしろ男のほうがより怪訝そうな顔をした。彼の云う通り、どこの新聞も切り裂き某を争うように書き立てている。倫敦どころか、英国で知らない者は居ないであろう話だと思っていたのだ。
「新聞の字なんて読めないよ。って言うより、あんた意外と学があったんだな」
 少女の言葉に、男は虚を突かれたような気になった。貧民層にいくらでもいる若年労働者の多くと異なり彼女は知的な雰囲気を持ってはいたが、まともな教育を受ける環境にあったものがこんな稼業をしているはずもないというのに。
「まあ、物取りでもないのに殺しをやってる通り魔が居るんだとさ。何が楽しいのかは知らんがね」
 感じたことは口にせず、主題を続けた。
「わざわざ頼まれもせずにやるほど、面白いとは思えないな」
 殺しを仕事としている彼女としては、理解に苦しむ話だった。人を殺すこと自体が愉しいと感じる精神構造は彼女の想像の外であったし、過程を楽しむ余地があるほどに複雑な作業とも思えなかった。彼女の「特技」を活かせば尚更のことである。
「被害者は売春婦ばかりでな、天誅気取りかもしれんよ。そのつもりなら、真っ先に自分で首でも括るべきだろうがね」
 正義でも気取るつもりだったら、真っ先に鏡でも見ろと男は思う。それでもなお正義とやらを執行したがる者は居るだろう。そう云う輩の持ち出す鏡は往々にして曇りきっているのだろうが。
「せっかくだからもう少し聞かせてくれよ。飯奢るからさ」
 懐の時計を見ながら少女が言う。そろそろ食事を摂っても良いような時間である。
「ガキに奢られて堪るか」


 朝食を取るために歩く道すがら、男は件の話を続けていた。傍目には親子にも見えるだろうが、その実彼らの交わす会話の内容は朝の空気に不似合いな血なまぐささだ。それを見抜く輩は余程聡いか、気が狂っているかのいずれかだろう。
 その血なまぐささも、あるいは薄汚れたこの路地には相応しいのかも知れないが。
 確実に件の殺人鬼による被害と言えそうなのは四人ほどである、と云うのが男の意見だった。何十人も手にかけたと騒ぐ新聞も多いが、特徴的に一致するのはこの四件だけだという。
「それで奴さん、どこで暴れてるんだ?」
「ホワイトチャペルロード辺りだとよ」
 男は肩をすくめながら言うのを聞いて、少女は軽く顔を顰めた。
 彼が口にしたのは目出度そうな名前の通りだったが、実際の所はあまり治安の良い場所ではない。というより、
「……俺の住んでる辺りじゃんか」
 まさに少女が部屋を借りている辺り、すなわち今通っている場所だった。貧困層が多く、いわゆるスラムを形成していて、そのような事件が起こるのに相応しいと言えば相応しい。
 事件に怯えるようなしおらしさを少女は持ち合わせていなかったが、それでも近所にそんな輩が彷徨いているのはあまり気分の良いものではなかった。殺し屋とはいえ。
「お前さんに言うのも何だが、まあ一応気をつけて……。なんだ?」
 男が訝しげに立ち止まる。どこか、何かおかしいような気がした。具体的に何だというわけではないが、どうにも違和感がぬぐえない。
「人がやけにいないんじゃないか?」
 少女も同じような気配を感じ取ったのか、奥歯に物が挟まったような微妙な表情である。そう言っては見たものの、違和感の元は人が居ないことではなく、人気を無くしている何かではないかというような気がしていた。
 この通りがまるで別種の生き物が棲む縄張りとでも化したような、自分が居ることが場違いであるような空気とでも呼ぶべきか。これだけでも騒ぎが起きそうなものだが、それすらないのがまた奇怪である。
 ガタン。
 早朝とはいえ人通りのない街路に、漸く音が割り込んだ。戸の開く音と共に嫌な、しかし少女がよく嗅ぎ慣れ、男もまた嗅ぎ慣れた臭いが広がる。
 ギシリギシリ、と。軋む音を立てて、誰かが階段を下りる。通りに面した出入り口へと現れたのは、
「……なんだ?」
 血に塗れた誰かだった。全身どこも朱に染まらぬ所はなく、真っ赤な服でも着ているかのような。
 しかし、男の反応はどこか悠長だった。何か腑に落ちないような、何かがずれているような表情である。少女の方も似たようなもので、どこかで会った気がして、果たして誰であったか頭を悩ませている。
 一帯に漂う違和感を煮詰めたかのような、意識の齟齬。知っている相手だとしたら、そもそもこの反応はおかしい。何かもやもやとして判然としない。
「いや。こいつは、本当に何なんだ?」
 少女はその違和感の本質に漸く気付いた。あまりに奇怪すぎてこんな事はあり得るはずがなかったのだが、それでも目の前の誰かはそう云うことだとしか考えられない。
「ああ。こいつは本当におかしいぞ。誰だか判らん」
 男も納得が行ったか、漸く本来取るべき態度である警戒をし始めた。懐に手をやり銃把の手触りを確認する。
 何が一体異常なのかと言えば。目の前にいる誰かを見ても、「誰か」にしか見えない。知っている誰かという曖昧な印象だけで、その特徴さえ掴めないのだ。人型をした影法師のようなものだが、血塗れであるという「正常な異常」がなければ気にも留めなかったかも知れない。
 棒立ちのままの奇妙な人型を油断無く見据えながら、少女は懐の時計に手をやった。瞬間、
「----!」
 人型が奇怪な叫び声を上げる。貌も判らないのにおかしな話だが、目を見開いて歓喜に打ち震えているかのようだった。それは喜びに押されるように、少女へと向けて一直線に飛びかかる。
 異様なことにそれの指は刃物のように鋭く尖り、全身を塗らすのはそれでもって受けた返り血と考えて不思議がない程だ。殺到するその様も獣のように素早い。
 が。
 それが襲いかかった先、少女が居た筈の場で待っていたのは無数の銀光。ナイフの群れは唐突に現れたことを気にかける様子など無く、一切の容赦無しに奇妙な人型へと突き刺さる。次の瞬間、急所という急所に突き刺さった凶器の雨は、倫敦の霧にでもなったかのように消え失せた。
 正体の掴めない人影はしかし、ごく当たり前の鮮血を撒き散らしながら倒れ伏した。
「何だったんだ、こいつ?」
 血に沈んだ人型を挟んだ反対側に、いつのまにか出現した少女が呟く。そのまま安アパートの方から続く血の跡に目を移すと、少女はそれをたどり始めた。
 その出現の唐突さに、男は僅かに息を飲んでいた。数度見たことはあったが、何度見ても異様な「特技」である。果たしてこの誰かと比べてどちらが異様なのか、そんな考えが男の脳裏を過ぎった。


「殺られてたのはメアリだったよ。メアリ・ケリー」
 階段を鳴らしながら少女が降りてくる。その表情には紛れもない怒りがあった。
 その様子を見て、男は先ほど浮かんだ考えを取り下げることにした。ここに寝っ転がっている正体不明の死体と年端もいかない娘を比べて、どちらがおかしいかなど考えるまでもなかったと思い直したのだ。
「確かメアリも売りをやってたな。とするとこいつが切り裂きとやらか?」
 男はメアリという名前を思い出しながら言った。件の殺人鬼の狙いは娼婦ばかりだったというし、そう的外れでもないだろう。
「部屋は血の海で、死体も酷い有様だったよ。こいつがそうじゃなくても、頭がおかしいのは間違いないぜ」
 少女が見てきたメアリの遺体は、既に殺されたと言うよりは解体されたと言うべき状態だった。どういう思考をすれば、こんな行動が出来るというのだろうか。
「俺等みたいなのは、あまり警察に関わりたいもんじゃないしな。その辺のヤツにでも通報させるか」
 少女の憤懣やるかたない様子から目を移し、男は辺りを軽く見回した。未だに、通りかかる人一人見当たらない。その視界の隅に正体不明の死体が映り、
「!」
 激しい音が二度空気を叩くと同時に、硝煙の臭いが広がった。男が発砲したのである。
「おい! いきなり何やって、……冗談だろ?」
 少女の抗議が途中で止まる。元々異常事態ではあったが、ここまでとは思っていなかった。自分の「特技」を考えれば、余程おかしな事態も許容できると少女は思っていたが。
 死体が起き上がってくることまで考えてはいなかった。
 再び銃声が轟き、起きあがった死体の筈の物体が僅かに震える。しかし、それだけであった。再び動かぬ死体に戻る様子はない。そもそも、明らかに即死するような傷を初めにナイフでもって受けているのだ。今更銃創が増えたところで、ということなのだろう。納得しがたいことではあるが。
 無駄である可能性はあったが、男は空になった弾倉に弾丸を込め直す。
 瞬間、男の視界を血みどろの人影が埋め尽くす。その僅かな隙に、人型が異常なまでの速度で男に迫ったのである。明らかに傷は増えているというのに、少女に飛びかかったそれよりなお速かった。
 冗談のように軽々と跳ね飛ばされ、反対側の建物に男が叩き付けられる。
 少女に向き直った人型は一点を注視していた。彼女が持つ銀時計を、貌さえ見えないというのに、妄執をも感じさせる視線で見ている。
「レ……ア……」
 何事か呟くそれに、少女が無数のナイフを投げつける。刺さったかも碌に見ず、男に駆け寄ろうとして、悪寒が走った。
「-----!」
 聞き取ることも出来ない叫びと共に、致命的な気配が辺りを満たす。それは少女が使う「特技」のものと近い種類の、超常の気配。それがこれから生み出す破壊力を、彼女は直感的に把握していた。それはまるで満杯の火薬庫のようで、辺り一帯を吹き飛ばしさえすると彼女は確信する。
「逃……げろ」
 男は口元に血を滲ませて言う。
 少女は思う。彼は悪党で、死んだら地獄に堕ちるであろう事疑いない人間で、しかし、それでも訳の解らない化け物に殺される謂われがあるのか、と。メアリ・ケリーは酷いアルコール中毒で、身売りをするような女だったが、殺されて死体を辱められるほどの罪があるのか、と。この辺りは掃きだめで、住んでいるのはろくでなしばかりだったが、突然災厄に見舞われるほどの何をしたのか、と。
「この、ふざけるな!」
 怒りを滲ませて時計を握りしめる力に応えるように、少女が見る全てが静止する。動く者は彼女しか居ない、彼女の世界。それが彼女の「特技」だった。
 空間をずらして忍ばせているナイフを片っ端から引き出して投げつけ、その速度を維持したまま再び時が動き出すのを待たせる。四方から取り囲むように配置したそれは、時間が正常化した瞬間に人型を針鼠のようにするだろう。
 しかし。
 再び時が刻まれ始め、確かに人型は一瞬の間に串刺しになった。だが止まらない。一体どうすれば、この化け物が止まるというのか。
 少女の足掻きを嘲笑うように、人型を中心に紅い光が広がる。

 *

 紅一色の視界が正常化し男が辺りを見回す。体中が痛んではいたが、生きてはいる。
「何だったんだ一体?」
 人型から広がった紅い光を見て男は爆弾でも持っていたのかと思ったのだが、何もなかったかのように爆風を受けるでもなかった。彼自身の軋む身体が先ほどの騒ぎが残した唯一の証拠であるかのように、見事に何もなかった。人型が自ら作り出した血溜まりさえない。そればかりか、
「おい、ジャック。どこに行った?」
 男が見回すも、先ほどまで居た少女の姿もない。更に探そうとするが、全くもって今更に人の気配がし始めた。
 あまりここに残ることは好ましくないだろう。人一人死んでいるのは間違いないというのに、起こった出来事を話しても正気を疑われる内容ばかりだ。そもそも彼自身、あまり警察に関わりたい人種ではない。
 まさか本当に消えてしまったと云うことでもないだろうし、後から探せば見つかるはずだ。そう思いながら身を起こし、男は人が集まる前にこの場から去ることにした。
 東方? 幻想郷ドコー?

 自分でそう突っ込みたくなるような感じです。
 追々幻想郷っぽくなる筈です、筈。多分。

 中、下と続く予定です。宜しければお付き合いを。

 なるべく早く、続き書き上げたいなぁ。

追記:誤字修正。
人妖の類
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コメント



0.1860簡易評価
14.無評価名前が無い程度の能力削除
このシリーズを待っていました! 続き楽しみです。得点は完結後に
(破れたのは彼女なのだから~ は敗れた、の誤字でしょうか?)