私、宇佐見蓮子にとって、相方ともいえるマエリベリー・ハーンという人間は不可思議なものだった。
出会った時や、秘封倶楽部結成に至る時。そして日々の生活の中でも奇妙な言葉を度々口にしては、私を困惑させた。
感覚的な事ばかり言うのは、文系脳ってやつが原因なのだと聞いたことがある。
確かに彼女は理系という感じではない。高校の時はきっと数学や物理の試験に、うんうんと唸りつつ頭を悩ませていたことだろう。
そんなメリーがたった今、私を混乱の坩堝に陥れるようなことを言った。
「ねえ蓮子、チョコレートちょうだい。義理以外のね」
あまりにも唐突なその要求に、私の脳はフリーズした。正直何を言っているのかが分からない。
分かっているのは今日が二月十四日という事と、繁華街のカフェでお茶をしているという事。そして周囲のテーブルには、チョコレートよりも甘い空気を振りまく男女が沢山いるという事だけ。
「あら? どうしたの蓮子。私そんなに変な事言った?」
メリーは自分の目の前にある林檎のミルフィーユをフォークで切り分けると、口に運んだ。切り分けるのが下手なのか、皿だけでなくテーブルにもぽろぽろとパイ生地を撒き散らしている。あぁ、ミルフィーユは横に倒してから切り分けなきゃいけないのに。そのままだとクリームははみ出すし、パイがうまく切れずにぐにょりと形を変えるだけだ。でも横にしてしまうと、皿にクリームがくっついてしまうからちょっと勿体無い気もする。
「そうね…… こういう場合は予め一口サイズに切っておいてから、お客に出すというのはどうかしら? それならストレスが無いわ」
混乱のあまり思考が少し飛んでいた事と、頓珍漢な返答をしたのに気づいたのは、きょとんとしたメリーの顔を見た後だった。
「違う。ミルフィーユのことはどうでもいいわ。いや、どうでもよくは無いけれど」
ようやく再起動を終えた脳を稼動させて、メリーの言葉を考えてみる。そして問うた。
「ねえメリー。あなた私からチョコレートが欲しいって言ったの?」
それに間髪いれず答える、頼もしい相方。
「うん」
即答だった。
いつもふわふわしていて、どこぞの箱入り娘のお嬢様な感じなのに、変なところで機敏だなぁ。そんな事を思った。
いけない、また思考がずれている。今は余計な事を考えないようにして、この事象を進めよう。
「あのね。外国ならいざ知らず、ここ日本では同性にチョコレートを贈る習慣はあまり無いの」
「えー。でも私、蓮子からチョコが欲しいなー。もう一度言うけど、義理は嫌よ」
私の説明を無かったかのように、メリーは子供のように強請る。その声は結構大きくて、公の場所における私の居心地を随分と悪くさせた。
一番の友達だと思っていたのは、無邪気に迫り来る魔女だったのです。
お母さん、このまま流されてしまって変な道に走ったらごめんなさい。お父さん、子供の顔を見せられなくてごめんなさい。
そうすると将来には、私の名字が変わるのだろうか。それともメリー?
あぁ役所の手続きとか、絶対にややこしいに違いない。そして窓口の役員に出歯亀じみた好奇心から、根掘り葉掘りと聞かれるに決まっている。
いや待て。
また思考を遥かに飛ばしていたことに気づいた。それを振り払うかのように、ざっと見回してみる。このカフェで男女のカップルではないのは、ここにいる二人だけ。それも居心地の悪さに拍車をかけた。今の状況を鑑みるに、まるっきりアレな二人ではないか。突き刺さるような懐疑的な視線が、気のせいだとは思えない。
それも当然だろう。今日、この日に女が二人で過ごしている。しかも片方はチョコレートが欲しいだの、義理は嫌だのおかしな事をのたまっているのだから。
メリーはそれも気にならないのか、それとも気づいてなどいないのか。ミルフィーユの最後の一切れを口にすると、幸せそうな顔をする。
私は帽子を深めにかぶりなおして、世界を狭めることにした。そして伝票を持って席を立つ。私の目の前にある紅茶のシフォンケーキはまだ少し残っていたが、強引にメリーの手をとって足早に逃げるようにしてその店を去った。
次からこの店には来にくくなるだろうな、と思いながら。
「ちょっと、蓮子。いきなりどうしたの」
店を出てしばらくしたところでメリーが言う。
「周りの目もあるっていうのに、変なこと言わないでよ。ああもう、絶対誤解されてるぅ」
呪う様な声を出しながら、私はがっくりと項垂れた。冷たい風が頬を刺し、心にまで届かんとするような気持ちだった。
「誤解って、何で?」
小首を傾げながら聞いてくる。その仕草を可愛いと思ってしまったのは、この際どうでもいい。
「あのねえ普段ならともかく、今日この日に同性からチョコレートが欲しいなんていったら…… その、あの……」
こういう事を自分の口からいうのは少々憚られる。なんだかとても気恥ずかしいのだ。だからメリーが気づいてくれるように、それとなく伝えたつもりだった。しかし、
「何? はっきり言ってくれなくちゃ分からないわよ、蓮子」
私の希望していたものとは真逆の答え。
あぁ、もう。まだ分かってないのかこの天然お嬢様は。いい加減腹が立ってきた。だからだろうか。私はここがメインストリートの真っ只中ということも忘れて、叫んでしまっていた。
「だから! バレンタインデーに義理以外のチョコレートが欲しいなんていったら、メリーと私が恋人同士みたいじゃない! 女同士なのにっ!」
ザ・ワールド。
時は止まる。
言った。
言ってやった。
言ってしまった。
はぁはぁと肩で息をする。
顔が火照っている気がするのは、大声を出したからではないだろう。きっと今の私の顔は真っ赤なはずだ。それは寒さでもなく、恥ずかしさから。
これだけストレートに言えば、このにぶちんも分かるだろう。自分が公衆の面前で、どれだけ変な事を言っていたのかが。
ついさっき、私が公衆の面前でどんな事を叫んだかは、気にしない事にするとしよう。行き交う人々が見て見ぬ振りをしているのも気にしない事にした。我ながら本末転倒な事をしてしまったのにも。
メリーの顔を見る。
すると彼女は、何かを堪える様な顔で私の左手をとった。
そして何を言わずに、つかつかとその場を移動し始める。私を引き摺りながらだ。
「ねえ、ちょ、ちょっとメリー。痛いってば。それにどこ行くのよ」
しかし答えはない。彼女は肩をひくつかせながら歩き続けた。その背中に何度問いかけても、メリーは無言のままずんずんと進む。街中に漂う浮かれ気分を追い抜くように。
私はあきらめて、手を引かれるままに着いていく事にした。
時間にして十分弱。辿り着いたのは、とある有名百貨店の地下。つまり食品売り場だった。ここには、色々な総菜や菓子の店舗が所狭しと並んでいる。
そこでようやくメリーは足を止めた。そして言う。
「蓮子、勘違いしているあなたのために私がいい事を教えてあげる」
振り返ったその顔は、にやりと悪戯っ子の様な笑みを浮かべていた。
「ここが何屋さんかわかる?」
そう言って指差した先には、一つのショーウィンドウ。そこには黒と茶を混ぜたような色のお菓子が飾られていた。
言うまでもない、洋菓子屋だ。それも高級なチョコレートを専門に扱っている。
十人が十人、私と同じ事を考えるだろう。なぜこんな分かりきった事を、と私はメリーを訝しむ気持ちで見た。
すると彼女はもう一言付け足した。
「それじゃあ、その横にあるワゴンをよーく御覧なさい」
言われるままに視線を動かす。ワゴンセールの中身は、業務用のチョコレートや、綺麗に加工される前の四角い無骨な物が犇めき合っていた。
それだけではない。そこには一つのプラカードが立っていた。更に、白いプラスチックにはこんな文字が躍っている。
『恋人がいなくても、大切な友達に友チョコを贈ろう! 恋人よりも友情が大切!!』
ザ・ワールド。
今度は時を止め返された。
私の脳は再びフリーズ。再起動の後にデフラグ推奨。
「大切な友達に友チョコを贈ろう。大切な友達に友チョコを贈ろう。大切な友達にt」
「何度も言うのはやめて」
からかっているのか、その文字を声に出して繰り返すメリー。それを機械の様な声で遮った。
人間の恥ずかしさやら何やらが臨界を突破すると、感情が無くなってしまうという事を私はこの時初めて知った。
快刀乱麻を断つ、とはまさにこの事。全ての事象は一瞬にして氷解し、思考を回す度に分かってくるのは勘違いをしていた自分の事ばかり。
そりゃあ一番の友達、無二の相方からもらうチョコレートを『義理』だなんて、水臭い事は言いたくはない。カフェのお客さんから感じた痛い視線は、ただ単に独り身の娘が二人でいることに対する哀れみからくるものであったのだろう。ちくしょう、恋人がいるからって勝ったと思うなよ。
「……穴があったら入りたい」
搾り出すように、かろうじて口にする。あぁ、このまま死んでしまいたい。
「じゃあその穴には私も入りたい。だって大通りであんな事絶叫されちゃったから、私達はどんな誤解されてるか分からないもの」
死に体の私に、メリーは鞭を撃った。
「それにしても蓮子と私が恋人同士ねえ。それも顔を真っ赤にして言うものだから、修羅場かと思われたかもしれないわね」
塩も塗りこまれた。
メリーの要求しているものを所謂『本命』だと勘違いした上に、大通りでのあの絶叫だ。何て事はない、あの時彼女が堪えていたものは、笑いの他にならなかったのだ。
「遺書って、チョコレートに書いてもいいのかしら?」
「遺書はともかく、遺言状は読む事ができて、簡単に形が変わらない物に書かなきゃいけないわよ」
もう全てがどうでもよくなってしまった私は、のろのろと歩き出す。
今まで生きてきて、最悪のバレンタインデーだ。告白してフラれてしまった、何年か前のよりも、ずっと。
そんな私の背中にメリーが何か言ったような気がしたが、よく聞こえないままに家路に着いた。
あぁ、鬱。
次の日。前日の一件のせいで、マンションに引きこもって沈んでいた私の元を訪ねる人間がいた。
「やっほー。愛しの蓮子、元気にしてる? 」
まぁ私の家に来るのなんて、一人しかいないのだけど。それにしたって、その挨拶はやめて欲しい。タバスコまで塗りこむつもりか、お前は。
「残念ながら元気じゃないわ…… マイハニー」
非難と反抗の意味合いを込めた答え。しかし、それをものともせずに彼女は続ける。
「昨日言ったとおりに、持ってきてあげたよ。まぁ、これでも食べて元気出して」
そう言って右手を軽く上げる。そこには小さめの紙袋。
はて、昨日何か言っただろうか。私は記憶を辿るが、どうしても思い出せない。それどころか思い出すたびに、鬱になるという始末だ。
「結構高かったのよ。でも一年に一度のことだし、贅沢したほうが気分がいいじゃない」
クエスチョンマークで満たされている私を余所に、メリーは紙袋から箱を取り出して、その蓋を開けた。
そこにはチョコレート。
「大切な友達に、ってね」
彼女はにこりと微笑むと、一粒摘む。
その手はこちら伸び、私は迷うことなくそのままそれを口にした。
「ありがとう。メリー」
口の中で生チョコレートがゆるゆると溶けていき、豊かな味が広がっていく。
今度は私がそれを摘んで、ついと差し出す。
「どういたしまして」
口を開いてそれを受け取るメリー。その際、指先に唇と舌が軽く触れる。
その感触に少しぞくりとしたのは、秘密にしておこう――
「ホワイトデーはお返ししないとね」
「三倍返しで頼むわよ」
「随分高くつくわねぇ」
「でもちょっとは元気が出たんじゃない?」
「まあ、ね」
今まで生きてきた二月十五日の中で、一番いい日かもしれない。
私は目の前にいる親友に感謝しながら、今日という日を過ごした。
<終幕>
出会った時や、秘封倶楽部結成に至る時。そして日々の生活の中でも奇妙な言葉を度々口にしては、私を困惑させた。
感覚的な事ばかり言うのは、文系脳ってやつが原因なのだと聞いたことがある。
確かに彼女は理系という感じではない。高校の時はきっと数学や物理の試験に、うんうんと唸りつつ頭を悩ませていたことだろう。
そんなメリーがたった今、私を混乱の坩堝に陥れるようなことを言った。
「ねえ蓮子、チョコレートちょうだい。義理以外のね」
あまりにも唐突なその要求に、私の脳はフリーズした。正直何を言っているのかが分からない。
分かっているのは今日が二月十四日という事と、繁華街のカフェでお茶をしているという事。そして周囲のテーブルには、チョコレートよりも甘い空気を振りまく男女が沢山いるという事だけ。
「あら? どうしたの蓮子。私そんなに変な事言った?」
メリーは自分の目の前にある林檎のミルフィーユをフォークで切り分けると、口に運んだ。切り分けるのが下手なのか、皿だけでなくテーブルにもぽろぽろとパイ生地を撒き散らしている。あぁ、ミルフィーユは横に倒してから切り分けなきゃいけないのに。そのままだとクリームははみ出すし、パイがうまく切れずにぐにょりと形を変えるだけだ。でも横にしてしまうと、皿にクリームがくっついてしまうからちょっと勿体無い気もする。
「そうね…… こういう場合は予め一口サイズに切っておいてから、お客に出すというのはどうかしら? それならストレスが無いわ」
混乱のあまり思考が少し飛んでいた事と、頓珍漢な返答をしたのに気づいたのは、きょとんとしたメリーの顔を見た後だった。
「違う。ミルフィーユのことはどうでもいいわ。いや、どうでもよくは無いけれど」
ようやく再起動を終えた脳を稼動させて、メリーの言葉を考えてみる。そして問うた。
「ねえメリー。あなた私からチョコレートが欲しいって言ったの?」
それに間髪いれず答える、頼もしい相方。
「うん」
即答だった。
いつもふわふわしていて、どこぞの箱入り娘のお嬢様な感じなのに、変なところで機敏だなぁ。そんな事を思った。
いけない、また思考がずれている。今は余計な事を考えないようにして、この事象を進めよう。
「あのね。外国ならいざ知らず、ここ日本では同性にチョコレートを贈る習慣はあまり無いの」
「えー。でも私、蓮子からチョコが欲しいなー。もう一度言うけど、義理は嫌よ」
私の説明を無かったかのように、メリーは子供のように強請る。その声は結構大きくて、公の場所における私の居心地を随分と悪くさせた。
一番の友達だと思っていたのは、無邪気に迫り来る魔女だったのです。
お母さん、このまま流されてしまって変な道に走ったらごめんなさい。お父さん、子供の顔を見せられなくてごめんなさい。
そうすると将来には、私の名字が変わるのだろうか。それともメリー?
あぁ役所の手続きとか、絶対にややこしいに違いない。そして窓口の役員に出歯亀じみた好奇心から、根掘り葉掘りと聞かれるに決まっている。
いや待て。
また思考を遥かに飛ばしていたことに気づいた。それを振り払うかのように、ざっと見回してみる。このカフェで男女のカップルではないのは、ここにいる二人だけ。それも居心地の悪さに拍車をかけた。今の状況を鑑みるに、まるっきりアレな二人ではないか。突き刺さるような懐疑的な視線が、気のせいだとは思えない。
それも当然だろう。今日、この日に女が二人で過ごしている。しかも片方はチョコレートが欲しいだの、義理は嫌だのおかしな事をのたまっているのだから。
メリーはそれも気にならないのか、それとも気づいてなどいないのか。ミルフィーユの最後の一切れを口にすると、幸せそうな顔をする。
私は帽子を深めにかぶりなおして、世界を狭めることにした。そして伝票を持って席を立つ。私の目の前にある紅茶のシフォンケーキはまだ少し残っていたが、強引にメリーの手をとって足早に逃げるようにしてその店を去った。
次からこの店には来にくくなるだろうな、と思いながら。
「ちょっと、蓮子。いきなりどうしたの」
店を出てしばらくしたところでメリーが言う。
「周りの目もあるっていうのに、変なこと言わないでよ。ああもう、絶対誤解されてるぅ」
呪う様な声を出しながら、私はがっくりと項垂れた。冷たい風が頬を刺し、心にまで届かんとするような気持ちだった。
「誤解って、何で?」
小首を傾げながら聞いてくる。その仕草を可愛いと思ってしまったのは、この際どうでもいい。
「あのねえ普段ならともかく、今日この日に同性からチョコレートが欲しいなんていったら…… その、あの……」
こういう事を自分の口からいうのは少々憚られる。なんだかとても気恥ずかしいのだ。だからメリーが気づいてくれるように、それとなく伝えたつもりだった。しかし、
「何? はっきり言ってくれなくちゃ分からないわよ、蓮子」
私の希望していたものとは真逆の答え。
あぁ、もう。まだ分かってないのかこの天然お嬢様は。いい加減腹が立ってきた。だからだろうか。私はここがメインストリートの真っ只中ということも忘れて、叫んでしまっていた。
「だから! バレンタインデーに義理以外のチョコレートが欲しいなんていったら、メリーと私が恋人同士みたいじゃない! 女同士なのにっ!」
ザ・ワールド。
時は止まる。
言った。
言ってやった。
言ってしまった。
はぁはぁと肩で息をする。
顔が火照っている気がするのは、大声を出したからではないだろう。きっと今の私の顔は真っ赤なはずだ。それは寒さでもなく、恥ずかしさから。
これだけストレートに言えば、このにぶちんも分かるだろう。自分が公衆の面前で、どれだけ変な事を言っていたのかが。
ついさっき、私が公衆の面前でどんな事を叫んだかは、気にしない事にするとしよう。行き交う人々が見て見ぬ振りをしているのも気にしない事にした。我ながら本末転倒な事をしてしまったのにも。
メリーの顔を見る。
すると彼女は、何かを堪える様な顔で私の左手をとった。
そして何を言わずに、つかつかとその場を移動し始める。私を引き摺りながらだ。
「ねえ、ちょ、ちょっとメリー。痛いってば。それにどこ行くのよ」
しかし答えはない。彼女は肩をひくつかせながら歩き続けた。その背中に何度問いかけても、メリーは無言のままずんずんと進む。街中に漂う浮かれ気分を追い抜くように。
私はあきらめて、手を引かれるままに着いていく事にした。
時間にして十分弱。辿り着いたのは、とある有名百貨店の地下。つまり食品売り場だった。ここには、色々な総菜や菓子の店舗が所狭しと並んでいる。
そこでようやくメリーは足を止めた。そして言う。
「蓮子、勘違いしているあなたのために私がいい事を教えてあげる」
振り返ったその顔は、にやりと悪戯っ子の様な笑みを浮かべていた。
「ここが何屋さんかわかる?」
そう言って指差した先には、一つのショーウィンドウ。そこには黒と茶を混ぜたような色のお菓子が飾られていた。
言うまでもない、洋菓子屋だ。それも高級なチョコレートを専門に扱っている。
十人が十人、私と同じ事を考えるだろう。なぜこんな分かりきった事を、と私はメリーを訝しむ気持ちで見た。
すると彼女はもう一言付け足した。
「それじゃあ、その横にあるワゴンをよーく御覧なさい」
言われるままに視線を動かす。ワゴンセールの中身は、業務用のチョコレートや、綺麗に加工される前の四角い無骨な物が犇めき合っていた。
それだけではない。そこには一つのプラカードが立っていた。更に、白いプラスチックにはこんな文字が躍っている。
『恋人がいなくても、大切な友達に友チョコを贈ろう! 恋人よりも友情が大切!!』
ザ・ワールド。
今度は時を止め返された。
私の脳は再びフリーズ。再起動の後にデフラグ推奨。
「大切な友達に友チョコを贈ろう。大切な友達に友チョコを贈ろう。大切な友達にt」
「何度も言うのはやめて」
からかっているのか、その文字を声に出して繰り返すメリー。それを機械の様な声で遮った。
人間の恥ずかしさやら何やらが臨界を突破すると、感情が無くなってしまうという事を私はこの時初めて知った。
快刀乱麻を断つ、とはまさにこの事。全ての事象は一瞬にして氷解し、思考を回す度に分かってくるのは勘違いをしていた自分の事ばかり。
そりゃあ一番の友達、無二の相方からもらうチョコレートを『義理』だなんて、水臭い事は言いたくはない。カフェのお客さんから感じた痛い視線は、ただ単に独り身の娘が二人でいることに対する哀れみからくるものであったのだろう。ちくしょう、恋人がいるからって勝ったと思うなよ。
「……穴があったら入りたい」
搾り出すように、かろうじて口にする。あぁ、このまま死んでしまいたい。
「じゃあその穴には私も入りたい。だって大通りであんな事絶叫されちゃったから、私達はどんな誤解されてるか分からないもの」
死に体の私に、メリーは鞭を撃った。
「それにしても蓮子と私が恋人同士ねえ。それも顔を真っ赤にして言うものだから、修羅場かと思われたかもしれないわね」
塩も塗りこまれた。
メリーの要求しているものを所謂『本命』だと勘違いした上に、大通りでのあの絶叫だ。何て事はない、あの時彼女が堪えていたものは、笑いの他にならなかったのだ。
「遺書って、チョコレートに書いてもいいのかしら?」
「遺書はともかく、遺言状は読む事ができて、簡単に形が変わらない物に書かなきゃいけないわよ」
もう全てがどうでもよくなってしまった私は、のろのろと歩き出す。
今まで生きてきて、最悪のバレンタインデーだ。告白してフラれてしまった、何年か前のよりも、ずっと。
そんな私の背中にメリーが何か言ったような気がしたが、よく聞こえないままに家路に着いた。
あぁ、鬱。
次の日。前日の一件のせいで、マンションに引きこもって沈んでいた私の元を訪ねる人間がいた。
「やっほー。愛しの蓮子、元気にしてる? 」
まぁ私の家に来るのなんて、一人しかいないのだけど。それにしたって、その挨拶はやめて欲しい。タバスコまで塗りこむつもりか、お前は。
「残念ながら元気じゃないわ…… マイハニー」
非難と反抗の意味合いを込めた答え。しかし、それをものともせずに彼女は続ける。
「昨日言ったとおりに、持ってきてあげたよ。まぁ、これでも食べて元気出して」
そう言って右手を軽く上げる。そこには小さめの紙袋。
はて、昨日何か言っただろうか。私は記憶を辿るが、どうしても思い出せない。それどころか思い出すたびに、鬱になるという始末だ。
「結構高かったのよ。でも一年に一度のことだし、贅沢したほうが気分がいいじゃない」
クエスチョンマークで満たされている私を余所に、メリーは紙袋から箱を取り出して、その蓋を開けた。
そこにはチョコレート。
「大切な友達に、ってね」
彼女はにこりと微笑むと、一粒摘む。
その手はこちら伸び、私は迷うことなくそのままそれを口にした。
「ありがとう。メリー」
口の中で生チョコレートがゆるゆると溶けていき、豊かな味が広がっていく。
今度は私がそれを摘んで、ついと差し出す。
「どういたしまして」
口を開いてそれを受け取るメリー。その際、指先に唇と舌が軽く触れる。
その感触に少しぞくりとしたのは、秘密にしておこう――
「ホワイトデーはお返ししないとね」
「三倍返しで頼むわよ」
「随分高くつくわねぇ」
「でもちょっとは元気が出たんじゃない?」
「まあ、ね」
今まで生きてきた二月十五日の中で、一番いい日かもしれない。
私は目の前にいる親友に感謝しながら、今日という日を過ごした。
<終幕>
秘封登場なら4本目?
来てるよ! 秘封の時代がそこまで来てるよ!
回る回るよ時代は回るで秘封の時代が回ってきたのさ!
いいっすね、やっぱ秘封はこんなほのぼのが。
おいしゅうございました。
メリーもさることながら飛躍しすぎだよ蓮子さん。というか新婚生活まで見えちゃったんですか!?
秘封倶楽部は二つで一つ! もちろん性的な意味で。
彼女達の日常はとても楽しそうで羨ましい限りですね。