ぎろんがろん。遠くでチャイムの音が鳴る。
遠くといっても、スピーカーの奥からだからそれは遠いに決まってる。無限遠だ。タマの声と一緒。
袖の地平線から細目で傾斜を見下ろせば、誰が言うでもなく三々五々に散っていく色とりどりの背中。開き直って誰かと惨状を比べ合ったり、一人でしょげてうな垂れていたり、見ていて飽きないのはあと数秒のうちだけだろう。
頬に当たる合板は、既に人肌まで温まっている。それ以前に、ここは暖房の効きすぎじゃないのか。
そして数秒が過ぎる。
「――さて、」
かり。
最後の締めだ。腕を組んだまま、欄にペンを走らせる。かりかり、かり。と、耳元で擦れる音は涼やかで、寒空の下の学び舎ながら、それが本日最後のものだったからに違いない。
「……よっし」
っかん。
ペン先を叩いて芯を引っ込め、金床筆箱にもろもろを放り込み蓋を落とす。見目見苦しいショッパーに消し滓以外の全てを突っ込み、少ししてから「げっ」と慌ててプリントを取り出した。
「しまったしまった」
頭を掻きつつ立ち上がると、跳ね上がった椅子がスカートを道連れにして「うひゃっ」となった。
なんなんだ、くそう。
階段を駆け下り、私はスクリーンの側で振り返る。その隣で、講堂を降りようとした講師が「なんだ」という顔をしている。
「いけない、帽子」
どうりで頭も涼やかだ、と情けない顔でVターン。歯を食いしばって段差を登る。視界の隅で、まだ粘り続ける半分以上が「なんだ」という顔をした。
*
キャンパスから躍り出ると、スロープを降りた並木道、七番目のギンナンの根元に人影発見。駆け寄った。
「ごめんメリー。2分ピッタリ、遅れたわね」
まだ朝も早い。金髪の人影は此方に気づくと、腕に目をやり、こなれた様子で息をついた。
「何よ?」
「電子時計が信用ならない世の中なんて、世も末ね。って」
「もう末の世よ。行こう。ここって年中ギンナン臭いもの」
「蓮子は鼻がいいのね。銀杏をイチョウといつになったら呼べるのかしら」
メリーはそうつぶやいて腰を上げ、よいしょ、とがっちりしたカバンを背負いなおす。肩口のしわを気にしつつ、
「蓮子は大丈夫だったの? 試験、あったんでしょう」
というか、まだ終わってない時間じゃない。と彼女は続けた。そして自身ありげに、私は肩をすくめるのだ。
「ま、主客概論だったしね。余裕よ。何より学期の最後のだったし」
「此処通っていく帰り際、みんなヒーヒー言ってた様だけど……蓮子は屁のつく理屈が得意だものね」
屁。と聴いて、私の鼻はまたもや異臭を嗅ぎ取った。柳眉が跳ねる。在りもしない味覚まで湧き上がる。これはまさしく、
「ギンナン臭い」
「え?」
「うー」
やだなぁ。もう。生理的にアウトだ。好きな輩の気が知れない。この辺り、人の争う性分なのかも。
「ねえメリー、さっきの質問よ。いつになったらか答えましょうか」
私はメリーの手首をとって、「わ、わ」と慌てる声を無視して言い放つ。
「科学がギンナンの臭いを駆逐したらね」
並木道をずんずん進む。引かれるメリーは靴をこつこつ鳴らし後にすがって、
「それはなんだか早計ね。あの臭いが、何か素晴らしい発明の役に立つかもしれないわよ?」
「んー?」
そんなものかしら。と思う。
今まで人類が己が充足のため、悪く言うまでもなく私利私欲で紙面の上だけの存在に変えてしまった存在は、千手観音の指でもまだ足りない。自分が嫌いで消してしまった存在が、実はとても便利な何かに変じたかもしれないのか。
ええー?
私はギンナンが臭いって言ってるだけじゃない。
ロック鳥が実はとても優秀なタンパク源でしたといわれても、私は困る。役立つっていう定義からして、私利の取得の役に立つっていう辺り、人間の傲慢さはデフォルトであり、生物の存在は其れそのものが其れ以外にとっては悪であり、
違う違う。今それ関係ない。私が言いたいのは、
「メリー、納豆好きだっけ」
「それも早計、というか、穿ちすぎよー」
後で聞いたが、彼女は絶賛、風邪ッぴきだったのだという。
**
がり。
「……くぅー、ちべたい」
信号前で、放流された魚のように流れていくクルマを横目に。ついでにガラス越しに、私はレモンティーの残った氷をかじっている。メリーは「そういう菓子が昔あったらしいわよ」とつぶやいていた。手元のさくらんぼパフェに少女趣味を感じずにはいられない。
がりっ、と最後の一かじり。
とりあえず、キンキンに冷えた口を暖めようとテーブル向かいのホットココアに手を伸ばす。
「知っている? 蓮子。今日がバレンタインデーだっていうこと」
無言で手刀。と、有言で問いかけが返された。私はわざとらしく手を振り振り、もう片方の手でショッパーを漁る。
「ああ。そりゃあね。ほら」
安い紙袋特有のやかましい音を立てて、腕が抜き出される。メリーは目を丸くした。
「嘘ぉ?」
「何、また夢見てるの? だったら早く起きなさい」
手の平サイズの小箱。ラッピングは不恰好だが、これは手製だ。仕方ない。メリーは再び語尾を上げた。
「なんで?」
「備えあれば憂い無し、と言うしね」
緊急の一目ぼれ対策。とも言った。誰に? と続けたかったのだろうメリーは当然舌を急停止させる。
「疲れたわー。試験前日なのにね。こういうのって手順は簡単なのに、何故か失敗が続くんだわ」
近所の工事現場が活発に動き始める頃だった。トレーラー、トラック、タンクローリーに、それとは関係のない単にうるさい高そうなスポーツカー。大きな影がテーブルに影を幾度も落とし、並ぶ震動でグラスは幾度もくるくる踊る。
「……呆れていいかしら」
メリーが言った。
「どうぞ」
私は認めた。
「……呆れるわ」
メリーは呆れた。
「どうも」
私は認め、すいっとココアを手に取った。
「あ」
「怒らない、怒らない」
私にすれば単位も速度も当てにならない時計が短い針を一回転させるまで、私たちは休みの始まりを菓子と戯言でみみっちくもせっせと飾っていた。これはいわゆる前哨戦。私達のサークル活動の、これがいわゆる控え室でのダベリングなのだから、これくらいの怠惰っぷりは笑って過ごして欲しいかも。
「行こうか」
「そうね」
午後十一時十六分。頃合だった。
***
「あ、ここを右」
「ん」
夜の本番。聞こえの良さは天下一。
いざサークル活動に臨むとなれば、場所の特定にメリーの力は必須。よって、今の私はいわゆるヒモだった。
「で。あれ、潜っていきましょう」
「ここ工事現場じゃない。入るの?」
「んー。最初は空き地だったんだけれどね。試験期間と被ってたから保留しているうちに」
「この有様、かー。未だに街は密度増加中なのね」
メリーが場を、私が時を、現し、揃え、二人で飛ぶ。
我らが弱小サークル秘封倶楽部は、一人では成り立たないからたまらない。
「まだ人がいるかも」
「いないいない。いたら正直に言い訳しましょう」
「境界があったので、って?」
「サークル活動なので、って」
ここしばらくはご無沙汰だった境界探し。メリーは登校がてら色々視ていてくれた様で、探すネタには事欠かない。
後は、私が其処に時間を合わせる。どう合わせるかはフィーリングだから、其処はソレ、空振りも無論あるけれど。
「活動内容を訊かれたら?」
「この世を現とし、あの世を夢とするために、って」
「……期待してるわ」
「あの世を、からのパートはメリーよ?」
「二人で言うの?」
「アドリブで名乗りを上げてもいいけど、『我ら、秘封倶楽部!』も言う?」
「はいはい。了解」
其処はソレ、
「で、見なさいなメリー」
空振りも無論あるけれど。
「……良かったわね。蓮子」
ケージを抜けて幕を潜って、広がる吹き抜けの、今は骨だけの塔の下。踊り場みたいな広場に見えた。
「そうね。ひとまずは」
誰もいない。風は降りてこない。月明かりだけが降り注ぐ。
サークル活動の始まりだ。
「メリー。目の調子はどう? 今日に限ってもらいものしてない?」
私は帽子をくっと持ち上げる。四角い空は雲の流れが偉く速い。メリーの返事はよく響く。
「貴方がさっきから私の顔の何を見てたか知らないけれど、」
「ど?」
「バッチリ」
メリーは肩のカバンを地面に下ろし、腰で手を組み、首を傾げて空を見上げる。正確には、空と瞳の半ばにはる、何かしらを見ているのだろう。
「枯れ木みたいな罅割れ。向こう側は人が沢山。おぼろげにだけど、黄緑色に光ってる」
「へえ」
「綺麗なんだから。貴方に見せられないのが残念なくらいよ」
「いいよ。まあ、残念だけど」
私には、これがある。
雲がまた一個、空の端に消える。そしてまた、次の雲。見上げる先の月は大き目の雲に半分沈んでいるけれど、私の眼は平等。月とその他の星を隔てたりはしない。ちかりと瞬く埃のような光を映す私の瞳には、きっと時計が浮かんでいる。
「今は午後十二時五分二十三秒、二秒前」
ずばり、だ。星辰の時の流れる様を、私は決して外さない。
「ねえ」
カバンから菓子袋を取り出しつつ、メリーが訊いた。
「何?」
「前から思ってたけど、何で十二時なの?」
「何でかしらね。こういうのフィーリングだし。あ、十二時の報せ自体は確信あるわよ。今が四分五十三秒前」
「そこらへんは信じるほかないけど、大禍時って言うじゃない。あれは明け方近くのことなのよ?」
「そうねー。あ、ポテチ頂戴」
放られたカーキ色の袋を懐でキャッチ。私は小出しにするほうなので、袋は端っこを小さく破る。「そうねー」と再び考える。
「いやさ、私たち妖怪に逢いたいわけじゃないでしょ」
「まあねえ」
メリーは曖昧に頷きつつも折り畳み椅子を一脚徹立てる。「それで?」
「私たちが探すのは境界で、十二時ってのは今日と明日の境界で、それは同時にやってきた今日と過ぎ去った過去との境界でもあるわけなのよ。解る?」
「まあねえ」
メリーは曖昧に頷きつつも魔法瓶から紙コップへとちびちび湯立った紅茶を注ぐ。注ぎながら、
「でもね、」
「んー?」
ケチなメリーは自分ひとりで椅子に腰掛けている。私は埃を払うと、手近な材木に乗っかった。
「私たち、境界探してサークル活動してるわけじゃないでしょ」
「そうだっけ」
「そうよ」
ケチなメリーは自分の分だけ紅茶を手に取り、口から湯気を吐いている。私は手にしたポテチを頬張って、空を見ながら続きを促す。「それで?」と。傍らのショッパーが、塔内にそよぐ緩やかな対流に、かさ、と揺れた。
「……まあ、今やってることを否定するつもりなんか毛頭無いし、貴方に今回改めるべき点があるわけでもなくて、これは単なる時間つぶしなんだけど」
「それはねえ。まあ、いいじゃない。ただひとつ、解ってることが私にはあるし」
「それはあるわね。私にも」
かち。と、
私の眼が告げる。今は午後。十二時一分、二秒前。
「こんな世の中だし」
「くだらないとは言わないけれどね」
「こんな街の中だし」
「つまらないとは言わないけれどね」
かちり。と再び。今は、十二時五十一秒前。
「でもメリー、私は貴方と友達になれたし」
「でも蓮子、私は貴方に振り回されっぱなし」
「だったら」
ショッパーががさりと音を立てる。片手で放ったそれは凪の吹き抜けた空をゆっくりと飛び、メリーのスカートの上に軟着陸した。メリーが結界破りの目を見張る。
「これ、」
手の平サイズの小箱。ラッピングは不恰好だが、これは手製で。仕方ない。
「プレゼント」
膝に手を当て、前かがみで私は笑った。
「結局、余っちゃったしね」と付け加えた、そこに再び眼が告げる。私は声音を切り替えた。
「メリー」
「何よ」
「何怒ってんの」
「何でもないわ。何?」
「何だらけね。じゃあ言うけど、」
時間が来るよ。
言うなりメリーは跳ね上がるように立ち上がり、椅子もろもろを空間の脇に寄せた後手にした小箱を所在なさ気に手で転がしつつ言い張った。「どうすればいいのよこれ?」
「食べれば?」
私はまた笑った。軽いショッパー、空のポテチを脇に置き、材木から飛び降り広場の中心へ。遅れて駆け寄るメリーは、意を決してラッピングを引き解いた。
「放っとけばいいのに」
「貴方が言ったんでしょ?」
「其処で真に受ける? ――あ、後五秒」
「ああもう……じゃあ食べるから。感想、聴きなさいよ?」
「勿論そうね。まあそれは、」
向こう側で。
****
「―――――」
黄と緑の光が、横殴りに降っている。薄めのネットが、活き活きとした風に揺れている。
「――ん、」
私はまず真っ先に我が身の安全を確認した上で傍らに立つメリーのとぼけた姿を見止め、
次いで何が起こったか解っていないその顔にめいいっぱい頬張った星型チョコの角を見止め、
そして周りで直前まで活動していたであろう屈強な土建屋さんたちのきょとんとした顔を見止め、
「あれ」
と声を上げる。同時に、周囲の空気がにわかにどよめく。
――うっ。
一様に「何だ?」という顔の土建屋さんに、女子大生は一瞬怯む、
「あー……えっと、」
怖い。
状況がまるで解らない。
「ううむ」
私が何とか返答を絞り出そうとするところに、「……え? 何?」とメリーも遅れて続く。「もう朝?」もごもごさせる口元に、僅かに残る茶色がこの上なく駄目だった。しかし、その言葉に私は天啓を得る。
――そうか、
今更ながらに、あの境界の意味を知る。私たちはあの夜のあそこで境界を潜った、そして、今。
朝焼けに滲む四角い空の片隅に、光る名もなき白い星。
ぴきーん、と。
私の眼が私に告げる。
「……『明日の朝』。で、『此処』なんだ。いや、もう今日か」
そうだ。と確信を得る。
境界の種類には代表として二つある。何かを隠した結界と、何かが壊れた決壊。で、今回は後者。それも、時間の境界の割れ目。本来時間と空間は切り離せないけど、ここでは時間しか壊れていないから、空間はそのまま。そんな感じ? 異変にはもうそれなりに耐性がある。自身を納得させる要素には足りないが、混乱を沈めるにはもう十分だった。
「……最悪」
「ぽいね」
メリーが私と同じ過程を経て、同じ理解に辿り着くまではそう長くなかった。
「ちょっといいかい」
待っていてくれたのか、今まで手を出しかねたのか、それにしばらく間を置いて、「あんたら、どっから来た?」と土建屋さんの一人が訊いてくる。
「あー……えっと、」
と私は同じように頭を下げ、
『来た』
と下げた頭の中で喝采を上げた。
隣に続く下げたメリーの顔色が、私の意図に追いつき、気がつき、さっと変わる。私は顔を上げる。極めて冷静な表情で。
「ああ、すいません。失礼しました。私たちは大学生で、『これ』、サークル活動の一端で」
本当、すいませんでした。そう言って、頭の上下をもう一度。正直、『これ』を問い詰められたら全てが終わる。しかして、
「サークル?」
幸い、土建屋さんたちは純真だった。
「はい。サークル活動」
「サークルって?」
「大学のだろう」
「ああ」
「なんだ、ルパン?」
私は流れを掴んだことを確信する。手を上げ、指を立て、チッチと振り、
「ルパン? どこにトンネルがありましたか? 私たちは、」
やめて。
とメリーが視線で訴える。
蓮子、ごめん。勘弁して。
大丈夫。口元のチョコを舐める余裕があるのなら。
くぅ――。
よし、やるわよ。
今日から、いや、今日はもう長い休みの一日目。今日くらい、思い切りやってもいいじゃない?
私は、特に意味も無く諸手を勢いよく振り上げた。周囲が再びどよめく。高揚に高鳴る胸はドキドキ。
宇佐美蓮子は言い揚がる。
「この世を現とし!」
ばつん。
傍らで、メリーが切れる音がした。そして発動する謎のポーズ。一人でフュージョンするつもりかと周囲が三度どよめく。
マエリベリー・ハーンは言い放つ。
「あの世を夢とするためにっ!」
――よくやった。
メリー、本当によくやった。私は色々と感極まって泣きそうな彼女の口元にそっと指を遣り、指先の其れをぺろり。数秒、「ん、よく出来てる」と太鼓判。「じゃあメリー、腹括ってね」と最後の鬨の声を出す。
「好きにしなさいよ……」
汚された少女のような声に、私は強く頷いた。
「いいわよ」
観衆の顔は見ないように、自分の存在意義には疑問を持たないように、
私たちは叫ぶ。
「「我らっ!!」」
その後、当然怒られた。
おわり
いいなー学生って。
何で? なんて理由もなく
何のために? なんて必然もなく
やりたいから。それだけで自分の全てを掛けられる。
秘封倶楽部のそんなところが大好きです。
私の秘封倶楽部に対する認識も改められました。
こんな活動がしたいよ。
あと蓮子からチョコ貰いたいよ。
というか、秘封倶楽部ってこんな活動してたのかw
のか・・・?
想像し創造してくれるssを読むのは好きです
どんなにふざけているように見えても二人にとっては大真面目、だからこちらも真面目に読ませて頂くのだ!