ベッドから抜け出し、眠気を振り払うように伸びをする。
寝返りが打てずにいたから、体のあちこちが少し痛かった。
その張本人はというと、目覚めた時には既にベッドの上から消えていた。
彼女の性格なら、私に黙って出て行くということはないだろう。
いろいろと可笑しなところはある娘だけど、お礼も言わずにどこかに行くような娘でもない。
では、カナエは今何をやっているのだろうか?
私はクローゼットの中からいつもの服を取り出し、パジャマからそれに着替える。
手櫛で簡単に髪を整えて―――部屋を出る前にちらりと窓の外に視線を向けた。
灰色の雲が世界を覆い、静かに、雪は降り続いている。
あの娘はどうするのかしらね?
そんな事を考えながら、私は部屋を後にした。
食堂からキッチンを覗くと、カナエが立っていた。
朝食の用意でもしてくれているのだろうか。
「おはよう、カナエ。早いわね」
取り敢えず挨拶をして、声をかける。
「――――」
あれ、聞こえていないのかしら?
何の反応もない。
私は少しムッとして、口調を強めてもう一度声をかけた。
「ちょっと、カナエ」
「えっ! あ、おはようございます」
慌てて振り返り挨拶をするカナエ。
昨日まではこんなに間の抜けている印象はなかったんだけど。
しかも今朝の彼女はやけに物騒だ。
何というか、良い度胸してるわね。
「朝からケンカを売られるとは、思ってなかったわ」
私は口の端を軽く吊り上げ、意識して皮肉めいた笑みを作った。
何故そんなことを言われたのか、彼女はまだ理解できていない。
「え、そんなことはないです」
「――――それ」
さっきからずっと私の方へ向けられていた凶器を指差す。
日頃の手入れの賜物か、カナエの手に握られている包丁は鋭い輝きを放っていた。
我ながら良い仕事をしていると思う。
「あっ! ごめんなさい」
「貴女の事だから朝食でも作っていたんでしょうけど。
お願いだから包丁は置いてから振り向いてね、怖いから」
「――ごめんなさい」
包丁を戻してから、もう一度謝った。
私も本気で怒っていたわけではない。
注意だけのつもりだったし、朝食を用意してくれるのも素直に嬉しかった。
だけど、もう一点見逃せない点がある。
「それで、その指の怪我は?」
「えと、これは」
動揺しながら急いで手を後ろに隠す。
そんな事をしても、もう見てしまったのだから既に遅い。
ついでにその怪我が切り傷だったので、原因も予想はついていた。
傷自体は浅いので、日常生活に支障はないだろう。
食べ物を赤く染めること以外は。
「包丁で切ったんでしょ?
食堂に包帯があるから手当てしてきなさい。後は私がやっておくから」
「あ、違うんです!」
声を大きくして、私の言葉を否定した。
それは咄嗟に出てしまったのだろう。
言った本人が吃驚している。
私は大して驚きもしなかったが。
どちらかと言えば、その後にどんな言い訳が続くのか楽しみだ。
「へぇ、じゃあさっきの指の切り傷はどうしたの?」
切り傷、という言葉を強調しながら質問した。
「えっと……寝惚けてて、階段から落ちちゃったんです」
「それで切り傷ねぇ――――随分と奇跡的な落ち方したわね」
「あ、はい。私も吃驚しました」
「普通は打ち身とかだと思うんだけど、そういうのはないのね?」
カナエは自分の体を見下ろして確認している。
私はそれを半ば呆れながら見守ることにした。
そして、パジャマの上からの診断が終わると顔を上げて、
「ないみたいです」
「いきなりそんな爽やかな笑顔向けられても困るんだけど」
などと笑いかけられた。
階段から落ちてそれだけってのはどう考えても変でしょ。
むしろそれだけの方がおかしい事に気付いてない。
「えっ、無事を喜ぶところじゃないんですか?」
「一応そうだけど。私は貴女の異常な頑丈さに驚くわ」
「私、体は弱い方です」
残念そうな顔をしているけど、それは全く意味が違う。
……と、そこまで話して、カナエをここでからかうのも飽きてきた。
何より、このままでは何時までたっても朝食の支度ができない。
そろそろ退場してもらおう。
「まぁ、貴女がそう言うのならそれでもいいけどね。
何にしろ、怪我をしてるんだから手当てしてくるように」
言いながら食堂の方を指す。
「――でも」
「だって怪我の方は否定しなかったでしょ。諦めて治療してきなさい」
カナエは小さく返事をしてキッチンを出て行く。
その替わりに入った私は、朝食の支度を始めた。
「さっきも聞いたけど、貴女って朝早いのね?」
「そう、ですか?」
こんがりキツネ色のトーストを食べながら、何となく話しかけた。
テーブルには簡単な朝食が並べられている。
カナエはサラダを口に運ぶ手を一旦止めてから、それに答えた。
「私も朝は早いほうだと思ってたけど、貴女はそれ以上でしょ」
「―――きっと、いつもあのぐらいの時間に起きてたから、癖になってるんだと思います」
「そんな朝から、することも無いんじゃないの?」
「でも、早く起きないと、朝食の支度が間に合わなかったから」
「はっ?」
私は気の抜けた声を出して、スクランブルエッグに伸ばした手を止めた。
「あの、どうしたんですか?」
私のそんな様子を不思議に思ったカナエが訊いてくる。
不自然にスクランブルエッグを掬った状態で固まっているのは確かに変だろう。
しかしそれを言うのなら、当然のようにさっきのような言葉が出てくるカナエも十分変だった。
「ちょっと確認するけど、貴女は家にいる時は自分で朝食を作っていたのね」
「はい、そうですよ」
平然と言ってのけた。
まだ、彼女は自分の異常さに気付いていない。
それどころか、何故そんな事を訊かれているのかすら分かっていない。
「……普通はね、そういうのは親に作ってもらうものよ」
何故か諭すような口調になっていた。
それを訊いてもなお、カナエはキョトンとしている。
なんだろう。
私がこんな事言える立場じゃないけど、常識がかなりずれている。
「でも、アリスさんだって、自分で作ってるんじゃないですか?」
「それはそうなんだけど――――はぁ、この話はもういいわ」
十三~四の子供に朝食を作らせるなんて、人間の世界では余り訊かないんだけど。
このまま私の事にまで話が流れると面倒だった。
つまりお互いに身の上の話は、しにくいということらしい。
私は止まっていた手の動きを再開させ、スクランブルエッグを口に運んだ。
そのまま、暫く互いに無言の時間が続く。
どうやら、カナエは積極的に自分から話すタイプではない。
愛想がなかったり、無口という訳でもない。
私から話しかければしっかり答えてくれるし、楽しそうにもしている。
ただ、何を話せば良いのか―――きっかけが自分から見つけられないみたいだった。
「そうそう、朝キッチンでボーっとしてたようだけど、何かあったの?」
「あ、あれは、その」
何か躊躇っている。
「――自分の血を見たら、野生の滾りを思い出して覚醒しそうになった、とか?」
「ち、違います。アリスさんは私を何だと思ってるんですか?」
適当に推測してみたら、怒られてしまった。
そろそろカナエも、からかわれている事に気付き始めたみたいだ。
「貴女は迷える子羊でしょ。
それじゃあ、いつの日か吸った血の味を思い出して、自分の中から聞こえる『目醒めよ』という声に抗ってた?」
「何で私の中に秘めたる力があることを前提に話してるんですか?」
「そういうのもありかなぁ、と思って」
「そんなものありません」
「なんだ、つまらないのね」
「始めから面白くなんて無いです」
むきになって言い返してくるカナエが面白かった。
このぐらいの事をサラリと流せないところも初々しい。
この先幻想郷で暮らすことになったなら、カナエはさぞ苦労することになるだろう。
「はいはい。残念だけどそういう事にしておきましょ」
「あの、残念ってどういうことですか?」
私はその言葉に、意味ありげな視線だけで答えた。
カナエが動揺するのを見たいだけで、視線には何の意味も無い。
「それで、まだボーっとしてた理由は訊いてないけど、何があったの?」
「あれは……いつもしていた事なのに指なんて切っちゃったから、どうしようと思って」
慣れた事なのにミスをしてしまって、信じられなかったと。
どうも怪しいが、この件はそのぐらいにしておこう。
だって、私はカナエから恐ろしいことを訊いてしまった。
その真偽を確かめる方が先だと思う。
「貴女って、実は結構うっかりさん?」
「えっ、何でですか?」
「毎朝階段から落ちてるんでしょ?」
「ふぇ?」
いきなりな私の発言に、目を白黒させるカナエ。
「ほら、その指の傷は階段から落ちてできたって言ってたじゃない。
それにさっきは、いつもしていた事なのに、とも言ってたから、それを繋ぎ合わせたら」
「あ、アリスさん、その話まだ続いてたんですか!?」
「違ってたの?」
「…………もしかして、私って遊ばれてませんか?」
私はトーストの最後の一口を飲み込んでから、当然でしょ、と笑顔で答えてあげた。
朝食を食べ終わると、特にこれと言ってやるべきことが無かった。
洗濯をしようにも外は雪が降っているので却下。
カナエの着ていた服だけは、先に洗って魔法で乾かし渡してやった。
自分の服を見て不思議がっていたけど、そこは企業秘密にしておいた。
そんな彼女には、家の掃除をやってもらっている。
いつも自分でしていたことだけど、強硬に言い張るのでやらせない訳にはいかなかった。
昨日、手伝いをさせる替わりに泊めると言ってしまったからだ。
そんな訳で、今はやることも無く、椅子にぼんやりと腰掛けていた。
「暇ね~」
何となくポツリと呟く。
それで別段状況が変わるわけでもない。
家にある魔道書も一通り読んでしまったし。
雪の降る外に出て、魔道書を探しに行く気にもならない。
それでも、実際はやるべき事があるにはある。
ただ、急ぎでもないし、気分も乗らないのでやる気がしない
兎に角、本当に暇だった。
「アリスさん、お掃除終わりましたよ」
――と、いつの間にかカナエが近くにいた。
ぼんやりしていたから、声を掛けられるまで気付かなかった。
「私に気配を悟らせないでここまで接近するなんて、貴女、只者じゃないわね」
「へっ?」
などとカナエを困らせてみる。
突然何を言われたのか理解できなかったカナエは、固まってしまった。
「冗談よ、今のは忘れて」
「はぁ――」
どう反応して良いのか解っていない、曖昧な返事だった。
「取り敢えず、お掃除お疲れ様」
「あ、はい。他に何かやることはありますか?」
「ん~……昼寝?」
「すみません、それはお手伝いできません」
まぁ、昼寝なんか手伝われても困るわね。
する気もないし。
「ちょっと座って休んでて。紅茶でも淹れてくるから」
「あ、それなら私がやりますよ」
そう言ってキッチンに行こうとするカナエ。
うーん、やる気は十分のようだけど。
「ちょっと待って、一つ訊いておかなければならない事があるわ」
「はい、何ですか?」
立ち止まるカナエに、私は不安に思っていたことをそのままぶつけた。
「貴女―――紅茶の淹れ方は知ってるのよね?」
「えっ!」
多分その瞬間、カナエの時間は停まったのだと思う。
少なくとも私にそう思わせる程に、彼女は微動だにしなかった。
私が話しかけなければ、ずっとこのままなのかしら?
見事なぐらいやる気が空回りしてるわねぇ。
「本当に、貴女はどこに何をしに行こうとしていたのかしらね」
「―――えっと、キッチンを淹れに、紅茶に行こうとしてました」
それは誤魔化しているのか天然なのか、問い正してみたくなる返答だった。
だから私は、カナエの意図をできるだけ汲み取ろうと無駄な努力をしてみる。
「おそらくどこの紅茶世界に行っても、キッチンの淹れ方は習得できないと思うわよ」
「?」
あぁ何だ、やっぱり天然だったのね。
それを確認できただけでも、無駄だと思っていた努力が少しは報われた気がするわ。
「それじゃあ淹れてくるから、ちょっと待ってて」
「あ、そんな。教えて頂ければ憶えます。だからやらせて下さい」
「ん―――まぁそれならいいか」
「ありがとうございます」
私も退屈凌ぎと時間潰しのつもりだった。
どうしても紅茶が飲みたかったわけじゃないし。
それなら、教えながらゆっくりやるのも良いだろう。
「それじゃ、キッチンに行きましょう」
「――――――こんな感じよ。憶えた?」
始めに一人分だけ淹れて見せて上げた。
紅茶の淹れ方など、一度憶えてしまえば難しい所などない。
私は余り堅苦しい作法を気にする方でもない。
気をつける事といったら、葉を選ぶ時と、適した水を見つけることぐらい。
今は両方とも揃っているので、手順に従って淹れるだけ。
「はい、多分大丈夫です」
「じゃあ、今度はカナエが淹れてみて」
「―――がんばります」
何かやたらと緊張してるわね。
見てる私の方が不安になってくるんだけど。
……などという私の心配を他所に、カナエは紅茶を淹れていく。
その手際は、意外と手馴れていて私を安心させてくれた。
考えてみれば、カナエはいつも朝食を作っていたと言っていた。
それに比べれば、紅茶を淹れる事など苦になるはずもない。
「―――できました」
カナエから紅茶をカップに注いでもらい、一口飲んでみる。
……。
「―――ん~」
「あの、どうでしょう?」
「うん、上出来ね」
「良かった、ありがとうございます」
緊張を解いて、顔を綻ばせて喜んでいる。
そこまで喜んでくれるのなら、教えた甲斐があったというものだ。
「さて、のんびりティータイムにしようかと思ったけど、そろそろお昼にしなくちゃね」
「今度は私に作らせてください」
ずずい、と身を乗り出すようにアピールしてくる。
その勢いには多少驚いた。
それと同時に、昨日今日と感じ続けていた疑問を思い出す。
「それは別に構わないんだけど。
なんでそんなにいろいろやりたがるの、貴女は?」
「え、だってお手伝いするっていう約束でしたから」
「……」
それはそう何だけど、カナエの場合はそれだけじゃなくて、他にも違うものがあるような。
義務感からしてるというか……。
約束があるから義務感を持つのは当たり前なんだけど。
どうもしっくりくる言葉が見つからないわね。
私が適当な言葉を探して悩んでいると、カナエが不安そうに見つめてきていた。
「あの、駄目でしょうか?」
「――うん、やっぱり駄目」
反応が見たかったので、試しに断ってみた。
するとカナエも今度ばかりは引く気がないのか、食い下がろうとする。
「そんな、迷惑ばかりかける訳にはいきません」
「一人分も二人分も、大して変わらないわよ。
自分のを作るついでにあなたのも作るから、迷惑なんてかからないわ」
「でも、昨日は人手が足……」
「ん? なに?」
悔しいのか、哀しいのか。
唇を噛み締めるんじゃないかと思わせる切ない顔で、突然言葉を切った。
「……なんでも、ないです」
――人手が足りないから手伝って欲しいって……
きっとこんな感じの言葉を後に続けようとしたんだろう。
昨日私が彼女に人手不足と言ったのは、一応自分を納得させる為の方言だった。
カナエもそのぐらいは解っていると思う。
しかしそれは、私だけじゃなく彼女にとってもここに泊まる理由になっていたらしい。
つまり、カナエはこの言葉を否定されるのが嫌なのだ。
何でそんな事に拘(こだわ)るのか、よく分からないけど。
「はぁ、そんなにやりたいの?」
何か言い返そうと必死になっているカナエ。
見ていたらだんだん可哀想になってきて、救いの手を伸ばしてしまった。
もう少し突っ込んで訊けば、詳しい事がわかりそうなんだけど。
どうしても非情になり切れなかった。
ちょっと甘いかなぁ、私……。
「アリスさんが、よろしければ」
すっかり元気を失くしていた。
私の所為かもしれないけど、キッチンの空気まで重くなってるし。
だから少しだけ責任を感じて、この場はカナエに任せる事にした。
「よく考えたら、他人(ひと)の作った料理なんて最近食べてないしね。
楽しみにしてるから、美味しいのをお願いね」
「あ、はい。楽しみにしててください。私、がんばります」
「ええ。わからない事があったら声をかけてね。
後、無理に豪勢にしなくていいわよ。食べ物も無限にある訳じゃないから」
「気をつけます。と言っても、私はそんなに贅沢な料理は知らないんです」
「ふふ、それなら安心ね。私は食堂にいるから、後はよろしく」
カナエに笑顔が戻る。
こんな事でも喜べるのだから可愛いと思った。
せっかくなので軽く頭を撫でてやると、私の方を見つめて驚いている。
私も笑顔でそれに答えてあげた。
するとカナエは頬を赤らめて、照れ始める。
嫌じゃなさそうだけど、それでも抗議されてしまった。
「アリスさん、子供扱いしてませんか?」
「十分に子供だと思うわよ。いろいろと未発達だし」
「そんなことは……ありますけど」
カナエは胸を隠すように押さえて、私を上目遣いで睨む。
そんな様子に苦笑しながら、私はキッチンをカナエに譲った。
「割と薄味だったわね」
「あ、お口に合いませんでしたか?」
「いいえ、どれも美味しかったわよ」
昼食を食べ終わり、料理の感想がそれだった。
カナエが作ったのは和食だったが、洋食派の私でも美味しく頂けた。
全体的に味付けは薄いものの、口の中にいつまでも残らずさっぱりしていて悪くない。
カナエの腕が良いのもあるだろう。
今度私も和食を覚えてみようかしら。
「あんまり濃くしない方が、健康にも良いんですよ」
「ふーん、私は洋食の方が好きだったけど、和食も悪くないわね」
「私はどちらも好きなんですけど。すいません、洋食は上手に作れないんです」
「謝る必要はないわよ。私だって和食は苦手だわ」
それにしても、料理までできるなんて感心する。
「ねぇ、貴女ってもしかして、家事全般一通りこなせるんじゃないの?」
「多分何とかなると思います。上手にできるかは別になっちゃいますけど」
少し困ったように笑うカナエ。
しかし、それは謙遜だろう。
少なくとも、こと料理の腕に限っていえば、私にひけを取っていない。
嫌な顔一つせずに自分からやりたがるし、本当に便利な娘だ。
っと、良い案を思いついた。
「カナエ、家にお嫁に来ない?」
「え!? えっと? あれ?…………!!!!」
私の突然の求婚にうろたえるカナエ。
最後は真っ赤になって、何も言わずに顔を伏せてしまった。
私はカナエの様子お構い無しに後を続ける。
「ほら、雇うとお金が掛かるでしょ。
その点、家に来てくれればただで済むじゃない」
「……あ! そういうことですか。ちょっと吃驚しました。…………あれ?」
「どうしたの?」
カナエは首を捻って何事か考え込んでしまった。
うーんうーん、と唸りながら難しい顔をしている。
私はどこ吹く風で、カナエの次の言葉を待つ。
暫くして、あっ、と呟いた後に、カナエは私に不満を漏らした。
「アリスさん、さっき凄く酷いこと言いませんでしたか?」
「あら、カナエは家にお嫁に来るのは嫌なの?」
「え? いえ、そういう意味じゃなくって……」
ごにょごにょと口篭ってしまう。
顔もまた赤くして、見ていて大変面白かった。
まぁ、実際お嫁云々の話はどうでもいい。
そんなことより、日が暮れる前にカナエの予定を訊いておかなければならない。
「冗談はともかく、カナエはこの後どうするの?」
この話は、早ければ早い程いい。
後回しにして、暗くなってしまっては昨日と何も変わらない。
一度助けてしまったのだから、安全な所まで面倒を見てやる必要があった。
中途半端に放り出しても、カナエでは生きていくこと事態難しいのだから。
「…………」
カナエは何も喋らず、窓へと視線を移した。
もっと正確に言えば、見ているのは降り止まない雪。
私もつられるようにして、外へと視線を投げた。
常ならそんなことはないが、こういう時の雪は気分を憂鬱にさせる。
「雪、降ってるわね」
「はい」
私はすぐにカナエへと視線を戻した。
問いかけの返事は、迷いのない無機質なもの。
表情もそれと同じで、何を考えているか読み取れない。
少し不安だった。
彼女の方から、私の助けを拒むような気がしたから。
家に入れる前までだったら、それでも別に構わない。
「貴女はどこに行こうとしていたの? 教えてくれれば、私でも近くまで案内できると思うわ」
興味本位でだが、私は彼女に関わってしまっている。
それなら、途中で投げ出したくはなかった。
そうなったら、自分の行為が無意味になってしまう。
「私の、目的地?」
「ええ。まさか当ても無いのに、あんな夜遅くに出歩いていたわけじゃないんでしょ?」
「あ……はい。ちゃんとありますよ」
「…………っ」
窓に向けていた視線を、私のそれと合わせてカナエは薄く笑う。
……けれど、私にそんな笑顔を向けられても、笑い返してやれそうになかった。
それどころか、苛立ちが顔に出ないようにするのに必死だった。
カナエは気付いていない。
そんな寂しそうな笑顔では、何も隠せないということに。
「じゃあ、森の外まで案内してもらえますか?
私もこの辺は結構詳しいんですよ。だからそこまでで大丈夫です」
人間が幻想郷に来る一般的な方法は、妖怪に攫われる事だ。
しかし、それとは別のケースも存在する。
全ての人間が、一人の人間を忘れてしまう……または、その存在を誰も知らなくなってしまえばいい。
存在を誰かに認めてもらえなければ、その人間は世界にいないことと同じ。
「森を出た後、貴女はどこに行こうというの?」
「親戚の家に遊びに行くところだったんです」
カナエは恐らく、そうやって幻想になったのだろう。
一体どんな事をすれば、そんな風になれるのか。
世界で誰も知らない存在になるなんて、できるとも思ってなかった。
それでも何となくだが、彼女の笑顔を見たら分かってしまった。
簡素で取り繕った、どこか困ったような作り笑い。
それは―――何も無いのに何かあると、相手に、そして自分にも思わせたいだけ。
人付き合いの少ない私でも解ってしまう、表面上だけの不快なものだった。
そんな空虚な笑顔では、行く当てなどないと言っているのと変わらない。
「貴女は、この辺りに詳しいといったわね」
「はい、そうですよ」
真剣に訊いているというのに、カナエは相変わらずだった。
私は確かに彼女に興味もあるし、気に入ってもいる。
だからこそ気に入らない。
私に頼ってきて、一方的に諦めようとしている自分勝手が。
何故そこまで他人に迷惑をかけるのを嫌うのか。
そんな事をしているから、自分の居場所さえ失くしてしまったんじゃないのか。
「それなら、この森が何と呼ばれているか知ってるわよね。とても有名な名前よ」
「え?」
まだ優しく問いかける。
感情を押し殺した、穏やかな声で。
怒鳴らなくても、気付くと思った。
気付かない振りをしている、自分の状況に。
「―――この世界を何と呼ぶのかぐらい、答えられると思うのだけど」
「……」
「はぁ、質問を変えるわ。貴女はどうしてここを訊ねてきたの?」
「それは、道に迷ってしまって……」
カナエはもう、私の目を見て話すこともできないでいた。
ただ俯いて、小さく口を開くだけ。
なのにそこから出た言葉は、まだ強がりで。
私も次第に感情の制御を失っていく。
「嘘ね。貴女は道に迷ったんじゃないわ。
どこにも行く当てがなくて、無目的に彷徨っていただけ。間違ってる?」
「…………あってます」
「もう一度訊くわ。貴女は何の為にここを訊ねたの?」
「それは……えっと……」
本当はもう解っているのだと思う。
今ここを出て行っても、先がないということぐらい。
それでも言えないというのなら、私から言ってやるしかなかった。
それが彼女の為だと思ったし、助けてしまった義務だとも思った。
「カナエ―――貴女はここに助けを求めに来たのよ」
「……」
叩きつけるように断言した。
ずっと俯いていたカナエは私と一度目を合わせると、僅かに頷く。
怯えているのか、体は緊張で強張っている。
それが、私に対するものだとしても、途中で止めるつもりはなかった。
でも、もっと違う何かに対してのような気がする。
私の希望的観測かもしれないが。
「それなら強がるのはやめなさい。貴女一人では、もうどうにもならないの。
もう、誰にも迷惑をかけずには生きていけないのよ……いい加減、認めなさい」
私はもしかしたら、カナエの生き方を否定しているのかもしれない。
誰にも迷惑を掛けずいるのは立派なことだろう。
しかし、それにも限度がある。
もし、本当にそうしたいのならば、私の所になど来なければ良かったのだ。
幻想郷に来た彼女なら、悲しませる相手もいなかったはず。
でも、私に助けてもらっているカナエに、そんな身勝手を許すつもりはなかった。
「……はい……ごめん、なさい」
その言葉には、嗚咽が混じっていた。
自分の中でどんな答えを出したのかまではわからなかったけど。
今すぐに命を放棄するようなこともしないだろう
それにしても、昨日といいよく泣くわね。
まぁ、私も疲れたし、このぐらいにしておきましょう。
カナエの事も多少は解ってきた。
生きたまま、幻想となってしまった稀な少女。
この世界の事を多少なりとも教えた方が良いのかもしれない。
……カナエが落ち着くまでの間、私は考えを巡らしていた。
「―――あの、アリスさん」
落ち着きを取り戻したカナエが声をかけてきた。
まだ少し涙の跡が見えるのは、愛嬌だろう。
「あ、ちょっと待ってね…………ねぇ、私今どんな表情してる?」
笑いかけながらカナエに訊ねる。
「え、えっと。少し怖いです」
「あら? おかしいわね。笑顔のつもり何だけど」
「その~、笑顔がちょっと引き攣ってて」
久しぶりに真剣に怒ったりしたから、顔が元に戻らなくなっていた。
「うーんと……これでどう?」
「あ、さっきより可愛いです」
―――可愛い?
カナエに言われると妙な気分ね。
ちょっと釈然としないけど、取り敢えずはこれでいいか。
「それでどうしたの、カナエ?」
「アリスさん――私、行く当ても道も分からなくて、正直何もないんですけど。
どうして良いかもよくわからないんです。助けてもらえませんか?」
今度はちゃんと自分から口にした。
その姿に安堵すると共に、笑みがこぼれる。
多分、変に引き攣ったりはしてない、と思いたい。
「ふーん、どうしましょうか?」
「えっ!?」
あ、また固まった。
何を期待していたのか知らないけど、私もこんな事態は始めてだから仕方ない。
恐らく、カナエは幻想郷で暮らしていくことになるのだと思う。
外の世界にカナエが戻る事はもう出来ないだろうし。
それが出来るのなら、そもそもこっち側には来ていない。
神社に連れて行くことも考えたけど、巫女が困るだけだろう。
「ここは当事者の意見を参考にしようかしら?」
「じゃ、じゃあ、お嫁に貰ってください!」
「年下には興味ないの」
「あんなに誘ってくれてたのに……」
「ふふ。貴女は所詮遊びだったから」
「やっぱりアリスさんて、私をからかって遊んでる」
そんなのは言わずもがな。
だいたい、このぐらいでからかわれるカナエも悪い。
っと、幻想郷でなら間違いなく言われる。
私は思うだけで言わないけど。
「カナエ、一応雪が止むまでここに居て良いわよ。
天気が悪いときに森の中入ると遭難しやすいから」
「はい、ありがとうございます」
私は飛べるけど、カナエにそれを要求するのは酷だろう。
まぁ、今森に入ったとしても、私に限って遭難する事はまずないと言い切れる。
しかしそれより、カナエの体力の方が心配だし。
それ以上に私が面倒臭かった。
「雪が止んだら、私がよく行く里に案内してあげるわ。その後の事はカナエ次第ね」
「はい……大丈夫でしょうか?」
「基本的に皆良い人たちだから、そんなに心配しなくても平気よ。
でもそれから先の事は流石に責任持てないから、頑張りなさい」
「……分かりました」
多分これが、私に出来る最善だと思う。
ここに住まわせる事も一度は考えたけど、力のない人間が暮らしていくには少し厳しい。
妖怪のうろつく森の中にいては、カナエが一人で出歩く事もできない。
「その間は今まで通りいろいろ手伝ってもらうけど、良いでしょ?」
「がんばります!」
大きく頷いて気を引き締めるカナエ。
あんまり頑張られても私が暇になるのよねぇ……
だからって何もさせないのは勿体無いし、仕様がないか。
「ふぅ、いろいろ喋ったから喉が渇いちゃったわね。カナエは平気?」
この世界の事は、後で少しずつ話してあげよう。
それでも、全部を教えては上げられないと思うから。
その辺の事は、里の人達に頼めばいい。
なんか本当に疲れてきた。
だから今は、少し休憩でも挟みましょ―――
「あ、じゃあ、私が用意します。紅茶で良いですか?」
「ええ、お願いね」