※暗い話です。苦手な方は戻ることをお勧めします。
私は父が嫌いだった。
自分で見初めた女に私を生ませたくせに、より身分の高い娘との縁談が決まった途端、私たちをこの屋敷に押し込めたと聞かされていたからだ。
当時物心がついたばかりだった私は、何も言わずに去っていく父の背中をただ見つめていた。きっと父は帰ってきてくれると信じて。
しかし、待てど暮らせど父が帰ってくることはなかった。
「私たちは捨てられた」という皆の言葉は真実なのだと、そう思うようになった。
◇
数年経って。不意に、父がこの屋敷に顔を出した。
あの日以来初めて私の前に現れた父は少しやつれたように見えた。
――いまさら何をしに来たのですか?
もし父が笑顔でいたなら、私はきっとそう言っていただろう。それからどんな手を使ってでも父を追い返したに違いない。
でも父は一言、「すまなかった」と頭を下げた。
そのとき私は初めて知った。父が望んで私たちの元から去ったのではなかったこと、私たちが今まで何不自由なく暮らすことが出来たのは、父がいたからだということを。
私は父に縋りつくようにして泣いていた。父も私を抱きしめて泣いていた。
この数年間、ずっと私の中に居た“父が嫌いな私”は消えてなくなっていた。
それから父は時折この屋敷を訪れるようになった。
月に一、二度、それも政務の合間を縫ってのわずかな時間だったけど、それでも私は嬉しかった。母はそうではなかったようだけど。
父は政の話をしてくれることがあった。
煌びやかな宮廷での生活は私にとっても興味のある話だったので、いつの頃からか私がせがむようになっていた。
ただ、母はその話を快く思っていなかったので、父は母がいない時を見計らって話をしてくれた。……といっても、一度話が始まると母は決して姿を見せなかったので、二人で示し合わせていたのかもしれない。
家にあるのは簡素な着物ばかり。父の話に出てくるような綺麗な着物を着ることができたらと、頭の中でそんな自分を想像することもあった。
そんな生活が続いてさらに何年か経った。
父は相変わらず政務の合間に顔を出してくれたし、私は学問と……武芸の真似事などをやっていた。
周りからは女だてらにおかしなことをすると笑われることもあったけど、父はそんな私を褒めてくれた。だから周りの声など気にもならなかった。
――幸せ。
今の生活をどう思うかと聞かれたら、私はそう答えるだろう。
母がいて、父もいて。学問は楽しいし、武芸も殊のほか私に合っているらしく、近頃は様になってきたと言われるようにもなった。
ただ、年の近い男と一緒にいると言葉遣いが移ってしまうもので、「これでは嫁の貰い手がなくなるな」と父にからかわれたりもした。
こんな時間がいつまでも続けばいい。
私は心からそう思っていた。
◇
ある日のこと。
久しぶりに顔を見せた父は心ここにあらず、といった様子だった。
それとなく話を聞いてみると、父は少年のように目を輝かせてこう言った。
「美しい女性に会った。是非とも妻に迎えたい」
その女性の名は輝夜。最近よく噂に聞く名で、絶世の美女だという話だ。
何でも求婚する者に難題を与え、それを解いた者と結婚すると言っているらしい。すでに名乗りを上げている貴族もいるという。
嫌な予感がした。父の目に、どこか正気ではない光を見たような気がしたからだ。
私は父に考え直すよう言った。
しかし父は「お前も一度会えば彼女の美しさがわかるはずだ」と繰り返すばかりで、私はおろか母の言葉さえ聞こうとはしなかった。
一月余り経って。
父が輝夜に求婚し、断られたという話を聞いた。
さらに一月。
父は屋敷に顔を見せることはなかった。
◇
しばらくして、輝夜が月の姫で、月の住人が彼女を迎えに来るという噂が都中に広まり、時を同じくして父がこの屋敷に転がり込んできた。
聞けば役職を辞して家とも縁を切ったらしい。ここにしか帰る場所がないのだという。
優しかった面影はなく、顔に刻まれた皺が今の父の様子を如実に物語っていた。
「確かに容姿は美しい。一時は心奪われ、政務も疎かになりかけたことも事実。しかし、たかが小娘一人に虚仮にされおめおめ引き下がるしかなかった自分があまりに情けなく、皆に合わせる顔がない」
父は力なく言い、浴びるように酒を飲んで泣きながら眠ってしまった。
それから先は酷いものだった。
貴族の娘である母にとって金などあって当たり前。倹約などできるはずもない。
あれ以来、父は己に自信を失い、現実から逃避するようにひたすら酒に溺れる毎日を過ごしている。
父からの援助を失ったこの家が、日々を食いつなぐのもやっとの、いわゆる貧乏貴族というやつに落ちぶれるまでそう時間はかからなかった。
金の切れ目が縁の切れ目とは誰の言葉だったか。
今まで父に媚びを売っていた貴族たちは手の平を返したように去っていき、屋敷に仕えていた使用人たちも次々と姿を消していく。
母はそんな彼らを恩知らず、恥知らずと罵り、また、こんなことになった原因は輝夜にあると、顔も知らぬ女をも口汚く罵っていた。
だが、母にできることはそれだけ。自分で何か行動を起こすわけではない。
所詮は貴族の箱入り娘の悲しさか。誰かがいないと自分では何一つできないのだ。
かくいう私も似たようなもので、多少の学と武芸の心得はあるが、それを何かに生かす術を知っているわけではない。
容姿の美しさに心奪われた男に求婚されることもなければ、月という天上に輝く星の姫でもない。氏を名乗ることさえ許されていない女。
それが、私……?
そこまで思い至った時、胸の内に芽生えた黒く粘り付くような感情を私は生涯忘れないだろう。
――憎い。輝夜が憎い。
誰かを殺したいと思うほど強い憎しみ。黒く粘り付くそれは、呪いとよんでも差し支えないものだった。
「ふふ……あはははは」
笑ってしまう。
そうか。そうだったのか。
初めは母も私も輝夜のことなど憎んでいなかった。ただ“嫌い”だったのだ。
顔も知らぬ、どこかの貧しい家の娘が私の父を誑かした。そして求婚した父に無理難題を押しつけて追い返した。
不愉快だ。藤原の名に泥を塗ったお前はいったい何様だ。
私たちの気持ちはその程度。
依然として父は藤原であり、財力も権力も十分に持ち合わせていた。
だから私たちが困ることなんてない。
“私”が困ることなんてない。
しかし父はそのことを気に病み、職を辞し、家とも縁を切って無一文となってこの屋敷に転がり込んできた。
思えばそれからだ。母が輝夜を口汚なく罵るようになったのは。
私は母の突然の変わりように驚いたが、気付いてしまえばなんてことはない。
母は私よりも大人だった。だから私よりほんの少しだけ先が見えて、解ってしまったのだ。父という存在がなければ自分には何もないことに。そして輝夜という小娘は自分にないものを持っているということに。
貴族の娘として育てられてきた母にはそれが耐えられなかった。
だから憎んだ。こんなことでもなければ、一生気づかなかったであろうそれを気づかせてしまった輝夜を。
もしも、父が藤原でなかったら?
もしも、父が失脚してしまったら?
私たちを取り巻く人々はいったい何をしてくれるのだろうか? ……何もしてはくれないだろう。
そうとは知らず、私たちは、一歩踏み外してしまえばどこまでも落ちていく奈落の上で暮らしていたのだ。
他人を憎むなんて、心の貧しい、卑しい人間のすること。そう思っていた私は、父という柱を失って、このどろどろとした感情を味わって、憎しみがどんなものかを知ったのだ。
◇
私は母より少しだけ若かった。いや、若かったというより無謀だった。
――今宵、輝夜を迎えに月から使者がやって来る。
そんな話を聞いた私は、夜になるのを待って父の部屋に忍び込んだ。
父は相変わらず酒臭い息を吐きながら死んだように眠っていた。この頃は自分の部屋から一歩も外に出ようとせず、屋敷の退廃的な空気を嫌って外を出歩いていた私には、生きているのか死んでいるのかさえわからなかった。
戸棚を漁り、蔵の鍵を見つけて懐にしまう。生まれて初めて働いた盗み。疚しさも興奮も喜びもない。仲間から聞いたような感情は起こらなかった。
蔵から父が昔に使っていた刀を持ち出して家を出る。
最後に一度だけ振り返って見たそこは、生き物の気配のしない、廃墟のようなところだった。
走った。刀を持って、月明りを頼りに輝夜の屋敷目指して走った。
待っていろ。父や私たちがお前に受けた屈辱、今日、私が、この手で返してやる。
胸の内で燃え上がる憎しみの炎。感情に任せて走り続けた私の足は、しかし、その場所を前にして一歩たりとも動かなくなった。
屋敷を取り巻く武士の一団。
あの狭い屋敷を、刀や弓で武装した百近い数の武士が警備していたのだ。
これ以上先に進めば彼らに見つかってしまう。この屋敷で彼らが守るもの……それは輝夜に他ならない。そんなところに刀を持って現れれば、良くて捕らえられて裁きを受け、悪ければその場で斬られる。どちらにしろ私の人生に先はない。
どうして? 私はただ、あの輝夜という小娘に受けた屈辱を返したいだけなのに。この刀で、怯えて許しを乞う輝夜に天誅を下すだけなのに。こんなもの私たちが味合わった屈辱に比べればささやかなものじゃないか。それなのにどうして――?
予想外の光景に頭の中が真っ白になった。
大勢の屈強な武士たちが私目掛けて襲いかかって来る。殴られて、蹴られて、取り押さえられて……刀を持っているから斬られるかもしれない。血がたくさん出て、もしかしたら死ぬかもしれない。
膝ががくがくと震えだして、それがだんだん腰に、肩に上ってくる。
手にした刀がカチャカチャ音を立ててうるさい。どこかに投げ捨ててしまいたかったけれど、震えはますます酷くなるばかりで少しでも腕を動かしたら刀が落ちてしまいそう。私は地面に膝をつき、震えが治まるまでただじっと、自分を抱き締めるしかなかった。
どれくらい時間が経ったか。
不意に頭上が明るくなった。そして、「あれは何だ!」武士たちの騒ぐ声が聞こえる。
――見つかった!?
反射的に私は人のいない方へと走っていった。
どこをどう走ったのか覚えていない。気付けば私は廃屋の一室で膝を抱えてうずくまっていた。
刀は……あった。手で痛いくらいに強く握り締めていた。
手を開くと、カランと音を立てて刀が床に転がった。
それを見て思った。
終わった。そう、私の復讐は終わったのだと。何もしないまま、武士たちの影に怯えて逃げ出して。
……家に帰ろう。そして、何事もなかったかのように元の暮らしに戻ろう。
転がった刀を拾い上げて、私は廃屋を後にした。
◇
あれから何日か経って。
私はいつものように仲間たちとつるんで町中を歩いていた。
商人や武士の息子、流者に果ては私のように貴族の娘までいるおかしな一団だったけど、年が近いせいもあって、皆、不思議と気が合った。家を離れてここにいる時間が私は好きだった。
もちろん私たちは真っ当な集団ではない。慈善事業なんてしたこともない。喧嘩はするし、時には盗みもやった。一つ断っておくけど、私は喧嘩はしても盗みはやってない。止めることもなかったけど。
とにかく、私はそんな彼らと一緒にいることで、少しでも早く日常に帰ろうとしていた。
「妹紅」
耳元で囁かれてびくっとする。
「……何?」
不機嫌そうに睨んでやると、そいつは白い歯を見せてにやっと笑った。
「面白い話があるんだ。一口乗らないか?」
彼は右近という。武士の家系に生まれ、彼自身、近いうちに仕える主の元へ出向くことになっていた。
そんなわけで私たちとつるんでいられるのもあとわずか。話くらい聞いてやらなければ彼に悪いと思う。
「どんな話?」
「……実はな」
右近は馴々しく私の肩に手を回して、周りには聞こえないほどの小さな声で言った。
――例の、月に帰ったお姫様がな、「世話になった礼だ」って夫婦に何かを渡したらしいんだ。
輝夜だ。その名前を思い出しただけで、小さく一度、心臓が跳ねた。
鬱陶しいと払い除けようとした手が止まる。
「……それで?」
知らず、私は右近に話の続きを促していた。
「へへ……そうこなくちゃな」
私の反応に満足した様子の右近は、しかしなぜか路地裏を見やる。人には聞かれたくない話らしい。
仕方なく仲間たちと別れて右近の後に続いた。
◆
俺の叔父はそのお姫様の警護に参加していたんだ。
でも、知っての通り、お姫様は月の使者たちに連れていかれちまった。
おかげで叔父たちは大目玉さ。処罰は免れたがしばらく謹慎していろと命じられたそうだ。
「……あれは一体なんだったのか」
昨晩の話だ。酒に酔った叔父はぽつりとそう漏らしたんだ。“あれ”っていうのが気になったから、俺は尋ねてみた。
すると、叔父は聞かれちゃまずいことを聞かれてしまった、というような顔をした。
けど、聞かれてしまった以上は仕方がない。こそこそと嗅ぎ回られるよりはましだと思ったらしい。
「いいか、右近。これから儂が言うことは決して口外してはならんぞ」
それから叔父は俺にとんでもないことを教えてくれた。
「輝夜様は、お発ちになる前に夫婦を呼んで一つの小さな壺を手渡された。中身が何かは知らん。だが、月の姫君が世話になった礼として渡した物だ。中身か、壺そのものか……相当な値打ち物と見て間違いないだろう」
◆
「どうだ、 気にならないか?」
一通り話し終えて右近はもう一度私に聞いた。
つまり「やらないか?」と。
そんなこと考えるまでもない。一もなく二もなく私は頷いた。
「いいわ。付き合ってあげる」
「よし。それじゃあ……」
輝夜のことを忘れようと仲間と一緒にいたはずなのに、その仲間のせいで輝夜を思い出すとは皮肉なものだ。
しかし私は胸の奥で小さな火が燻るのを感じていた。
――その晩。
「よう。遅かったじゃないか」
集合場所で右近は帯刀して私を待っていた。日が落ちれば都といえど危険は多い。用心に越したことはないだろう。
かく言う私も例の父の刀を持って来ている。右近と違って私の場合は夫婦に抵抗された場合を想定してのことだが。
「屋敷を抜け出すのに手間取ってね」
「そうか。ま、貴族様は俺とは違うってことだな。……じゃあ行くか。ゆっくりしている暇はないぜ?」
右近はおどけるように言って、暗闇の中を急ぎ足で進んでいった。
私たちは一言も話さず、影のように静かに人気の絶えた道を行く。
その間中、私は輝夜が夫婦に渡した壺のことを考えていた。
値打ちなんてどうでもいい。世話になった礼だというなら、そんなもの目茶苦茶にしてやる。その夫婦の目の前で叩き割ってやる。
復讐の好機会だ。天はまだ私を見捨てていなかった。
暗い笑いを浮かべながら、私は足早に右近の後を追っていった。
数日前、多くの武士が派遣されていた屋敷は、すっかり元の静けさを取り戻していた。
護る宝のない屋敷などこんなものだろう。右近と一緒に玄関口を伺うが、やはり人の気配は無い。
「右近。悪いけど、ここから屋敷を見張っていてくれない?」
「……はぁ?」
突然、そう言った私に、右近は露骨に疑いの目を向けた。
まあ、念願の宝を目の前にして「外で待っていろ」と言われれば、誰だって同じことを考えるだろうけど。
「おい妹紅。まさか抜け駆けするつもりじゃないだろうな?」
予想通り、右近はそんなことを言ってきた。
「抜け駆け? 馬鹿言わないで。やるんだったらとっくにやってる。貴方と合流する必要だってないのよ?」
「……まぁ、確かに」
まだ何か言い足りない様子だったけど、右近は不承不承頷いた。
屋敷の中に足を踏み入れる。手は刀の柄にかけて、いつでも抜けるようにしておく。
音を立てないように細心の注意を払って私は進んだ。
が、どうにもおかしい。
この屋敷の中から、人の気配が全く感じられないのだ。
試しに襖を一枚蹴破ってみる。結構派手な音を立てたけど、誰も起き出す様子はない。
「――お、おい妹紅! 何やってるんだよ!」
代わりに外で見張りをしていた右近が飛び込んできた。
破れて倒れた襖を見て、私に非難の視線を向ける。
「別に。誰もいないようだったから、ちょっと確認してみただけ」
「だからって、お前なあ……」
「どいて」
こんなところで言い争いをしている場合じゃない。右近を押しのけて私は部屋の中を漁り始めた。
この屋敷に住んでいた夫婦がいない。でも強盗か何かに押し入られたわけでもなさそう。どこにも争った跡はないし、襖を蹴破ったときにも物音一つしなかった。となれば、夫婦は何かの用事でこの屋敷を空けていることになる。
間抜けな話だけど、私と右近では輝夜が渡したという壷がどれかはわからない。隠してあるのかもしれないし、夫婦が大事に持ち歩いているのかもしれない。
何より私はその夫婦の前で輝夜の贈り物とやらを滅茶苦茶にしてやりたいのだ。
だから彼らには、私の前に居てもらわないと困る。
そんな私の一念が通じたのか、ほどなく一冊の本を見つけることができた。
開くと中には日付と短い文が綴られていた。はっきりと見えないが、日記のようなものだろう。
「右近、灯りを持ってきて」
「何か見つけたのか?」
「――早く!」
「わ、わかったよ」
少しして、右近が戻ってきた。
「……ほらよ」
差し出された灯りに本を近づける。
日付を見ると、どうやらここ数ヶ月のうちに付け始めたものだということがわかった。
○月×日
この頃の輝夜は月ばかり眺めている。
しかし、懐かしむような目ではなく、仇を見るような目をしていることが気に掛かる。
訳を訊いても寂しそうに笑うだけで何も答えてはくれない。
……
これは輝夜が月の姫だという噂が流れた頃の話か。
でも私が見たいのはこんなのじゃない。
次々に頁を捲っていく。
そして最後の頁に、今日の日付と私の探していたものがあった。
×月△日
私はなんということをしてしまったのだろう。
帝に献上する蓬莱の薬を偽物と取り替えてしまうとは。
到底許されることではない。
だが、これで良かったのだ。
あの娘は、輝夜は言っていた。
「もしこの薬を貴方たちが飲まないのなら、人の手に渡ることのないよう燃やして処分して欲しい」と。
幸い警護にあたっていた武士たちは、蓬莱の薬を帝へ無事届けるためにこの屋敷を離れた。
やるならば今日しかない。日が落ちてから裏手にある、輝夜を見つけた山に……
蓬莱の薬。それが輝夜が夫婦に渡した物の名前らしい。
どんな薬かは知らないが帝に献上されるほどの物だ。右近の叔父が言った通り相当な値打ちがあるのか、それとも特別な効果があるのか……でも、これに書かれていることが本当なら、夫婦は帝に偽の薬を送り、本物は燃やして処分してしまうつもりだ。
「右近、この屋敷の裏手にある山へ行くわよ。二人はそこにいる。例の壷も一緒よ」
「――わかった」
私の様子からただならぬ事態を察してくれたらしい。右近は一つ頷いて屋敷の外へ駆け出した。
急いでその後を追ったが、動きやすい格好をしてきたとはいえ、基本となる体力は日頃から鍛錬を積んでいる右近と比べるべくもない。おまけに暗い山道を走っているのだ。消耗の仕方も半端ではなかった。
あっという間に私の体力は底を尽き、前を行く右近の背中がどんどん遠ざかっていく。
と、右近が振り返った。
「おい妹紅、遅れてるぞ……って無理もないか。ほら、つかまれ」
「……ありがと」
「急にしおらしくなるなよ。気味が悪い」
「ちょっと、何でそうなるのよ?」
悪態をつく元気はあるけどこれ以上は走れそうにない。戻ってきた右近に手を引かれながら、私は棒のようになった足で必死に山道を登っていった。
◇
「……蓬莱の薬ねえ」
道すがら本に書いてあったことを教えると、珍しく右近は考え込む素振りを見せた。
「どうしたの?」
「“蓬莱”ってあれだろ? 不老不死の仙人が住むっていう」
「そうね。名前の通りだとすれば、蓬莱の薬は……」
「――しっ!」
腕を掴まれ、茂みの中に押し込まれる。
「ちょ……右近!」
「静かにしろ。向こうに誰かいる」
緊張した右近の声。茂みの間から向こう側を覗くと、小さな灯りと人影らしきものが見える。
「あれって……」
「多分な。俺たちの方が進むのは速かったんだろう」
人影は二つあった。片方は胸のあたりに何かを抱えていた。
壷、だろう。あの二つの人影が夫婦だとするなら、それ以外考えられない。
「――おい、妹紅!」
後ろで右近の焦った声が聞こえる。
気付けば私は刀を抜き、人影に向かって駆け出していた。
「……誰だね?」
相手が刀を持っていて、自分は丸腰であるにもかかわらず男は落ち着いた声で言った。
灯りに照らされた男は老人と言っても差し支えないほど。
しかし、怯んだ様子など微塵もなく、真っ直ぐにこちらを見返してくる。むしろ刀を持っているはずの私のほうが気圧されたくらいだ。
「わ、私は……」
腹に力を込めて男と真っ向から睨みあう。
「私は藤原妹紅。お前の娘、輝夜によって、私は全てを失った。その恨みを晴らすためにここまで来た」
「……貴方の望みは“蓬莱の薬”かな?」
「そうだ。それさえ渡せば、危害は加えない」
刀を構えたまま、男に近づく。
だが、もう一歩近づけば間合いに入るというところまで来ても、男はおろかその妻でさえ微動だにしない。
そして男は静かに首を横に振った。
「残念ですが、それはできません」
「……どうして?」
「輝夜との約束だからです。そのために、私たちは帝を欺いてまでこの薬を護り通しました。恨みを晴らすために私たちを斬るならそれもいいでしょう。ですが、この薬だけは渡すわけにはいきません」
断固とした、拒絶の意思。
「……残念ね。人死には出したくなかったけど」
胸の内で燻っていた小さな火が燃え上がる。
感情に任せて刀を大きく振りかぶり、
――馬鹿だな、お前。
直後、何か冷たいものが体の中に入るのを感じた。
カシャンと音を立てて刀が地面に落ちる。音はずいぶんと遠くで聞こえた気がした。
目の前では、さっきまであれほど気丈にしていた夫婦が顔を青くしていた。
二人は私のちょうど胸の辺りを見ている。彼らに習って下を見ると、赤い液体に濡れた刀の切っ先が私の胸から生えていた。
――お二人とも、ご無事ですか?
どこかで聞いたような声がする。
刀が引き抜かれて、私の体は前に泳ぐ。
青い顔をした男の肩に手を掛けようとしたが届かず、代わりに手にしていた壷を奪い取る形になって、私は地面に倒れこんだ。
――間に合ってよかった。賊がお二人の命を狙っているという話を聞き……
遠く聞こえてくる“誰か”の声。
……嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ……! そんな、どうして!? だってこの声は……。
「ごほっ……ごほっ……!」
喋ろうとしたけど喉の奥から溢れ出てくる血に邪魔されて言葉にならない。
痛い。苦しい。二つの感情の前にあらゆる思考が掻き消える。視界が血の色に染まっていく中で、私は死にたくないと思った。
そんな時、手に持っているものに気付く。
“蓬莱の薬”。
不老不死の仙人が住むという蓬莱の名を持った薬。
もしその名の通りの効果を持っていたなら、これを飲んだものは不老不死になるはず。
死は目前に迫っていて、それを防ぐ術は一つしかない。考えている暇も、迷っている暇もなかった。
幸いなことに落とした衝撃で蓋は外れていた。横になった壷の中からは透明な液体が流れ出している。
――死にたくない。
その一心で私は自分の血ごと液体を啜った。
「……美味しい」
血の味はしなかった。神仙の食す極上の甘露。そう呼ぶに相応しい味だった。
なんて的外れなと思いながらも、薄れていく意識のなかで一口、もう一口と、私はそれを啜り続けた。
◇
目を閉じれば闇。
目を開けても闇。
真っ暗な世界を私は一人漂う。
手はなく、足もなく、体もない。形のない意識だけが今の私。
――ああ、永久に赦されることのない罪人が、また一人……。
声が聞こえる。
少女の声だ。私よりも幼いくらいの。
聞いているこっちが辛くなるような、悲しみに満ちた声。
その声から遠ざかるために私は必死に逃げた。
足はないけど、走って、走って、ひたすらに走って……。
◇
初めに戻った感覚は、痛み。
胸から全身に走る、貫くような痛み。地面に爪を立て、身を丸めるようにして痛みに耐える。息を吐き出すと喉の奥に溜まった血がどろりと零れ落ちた。
むせ返るような血の臭い。視界は黒ずんだ血溜り。
……生き、てる?
痛みが引き、徐々に頭が冴えてくる。
無意識に押さえていた胸の傷は――疼くような痛みは残っているものの――きれいに塞がっていた。血ももう出ていない。
両手をついて体を起こす。血が出過ぎたのかくらくらと目眩がした。
「確か、私は……」
まずは状況の整理を。
私は右近と一緒に輝夜が夫婦に渡した物、“蓬莱の薬”を奪おうとした。
私たちは夫婦の屋敷に忍び込み、手がかりを見つけてこの山に。そして私は夫婦から蓬莱の薬を奪おうとして……。
「……ああ、そうか」
後ろから右近に刺されて。私は死んだんだ。
でも、私は今、こうして生きている。“蓬莱の薬”のおかげか。
壷はすぐ近くに転がっていた。中身は空になっていた。私が全部飲んでしまったんだろうか。
そんなことを考えていると、近くで二つ、重いものが地面に落ちる音がした。
「妹紅?――ち、急所を外れたのか」
「……右近」
振り返ると顔から胸元を返り血に濡らした右近がいた。
手には刀、足元には夫婦だったものが転がっている。
右近の様子から察するに、私が一度死んでからそれほど時間は経っていないらしい。
「どうして……二人を?」
「あ?」
右近は何を今更、といった顔をする。
「お前と同じさ。輝夜だよ。あの姫さんのせいで、全部狂っちまった」
「……どういうこと?」
「俺の叔父が警護に参加してたって話したよな。ところが姫さんは月の使者に連れて行かれちまった。で、帝はお怒りになったわけだ。その結果どうなったと思う? 親族ってだけで、俺の仕官の話も無くなっちまったのさ。冗談じゃねえ!」
苛立たしげに木の幹を蹴りつける。お気に入りの玩具を取り上げられた子供のように見えて滑稽だった。
「……じゃあ、私は?」
「お前が藤原の娘だからだ。本当はお前が親の復讐だかでこいつらを襲い、そこを俺が助けるって筋書きだったんだ。顔を見たら腸が煮えくり返ってつい殺しちまったが……まあいい。こいつらは帝を騙した大罪人だ。さっきの日記と併せてつき出せば、俺にもまだ望みはあるさ」
そうか。右近が私に話を持ちかけたのは、全て……私を利用するためだったのか。
自分のために、仲間を手に掛けたのか。
「さて、妹紅。お前にも死んでもらう。死人に口なしってな」
右近が手にした刀を高々と上げる。
「正直な話。お前のことは嫌いじゃなかったよ」
月の光を受けて煌く刃が落ちてくる。
それは狙い違わず私の肩口に吸い込まれ、
「……そうね。私も貴方のことは嫌いじゃなかったわ」
炎に焼かれて蒸発した。
――暗闇が紅蓮に染まる。
「……な、何だよ、こりゃあ!?」
右近が悲鳴じみた叫び声を上げる。
刀を蒸発させるほどの熱量だ。柄を握っていた手もただでは済まない。
肘まで真っ赤に焼け爛れた手を押さえながら右近が膝をつく。対して私は悠々と立ち上がった。
「妹紅……何を、した?」
「さあ? あの世でゆっくりと考えるといいわ」
「お、おい……ちょっと、待てよ。俺を、殺すのか!?」
「ずいぶんと身勝手なのね。貴方は一度、私を殺しているのよ?」
右近の頭を両手で優しく挟み込む。
「さよなら。貴方の境遇に同情はするわ」
「待っ――」
言葉を遮るように炎が右近の顔を、全身を舐め尽くす。
衣服は瞬時に灰になり、皮膚は炭になって剥がれ落ち、内臓は沸騰して蒸発した。骨もひび割れ、粉になって散っていく。
まるで右近という人間は初めから存在しなかったように跡形もなく消えてしまった。
ここに在るのは私だけ。
死してなお蘇り、鋼を蒸発させるほどの炎を操る、人から外れた存在。
化物。
人々にそう呼ばれる存在。
「そうか……私は」
しばらく月を見上げて。
私はもう、ここには居られないことを悟った。
妹紅には、こういう酷く人間臭い一面が似合いますね。感服しました。
個人的な見方ですが。
きっと少し何かが違っていれば、あんな事にはならなかったのでしょうね。