いつから其処に居たのだろう。
四季映姫。そう名乗った彼女は鈴仙の頭上遠くに姿を置き、その顔に笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。慈愛も、抱擁も、許諾も何も無い、形だけの笑み。もし笑みという顔の形の要素だけを抽出して纏ったならば、きっとこんな表情になるのだろう。
両の腕を腰の後ろに廻した格好のまま、彼女は静かに問うて来た。
「鈴仙・優曇華院・イナバ。あなたは、自分がどれほどの罪を犯しているか、ちゃんと把握できていますか?」
淡々とした物言いに、しかし鈴仙は答えない。地面に伏せ、身体を赤く汚し、感情すら喪ってしまったかのような顔で映姫を見上げるだけだ。
そんな鈴仙に、しかし映姫は満足したのか、小さく頷いて言葉を続ける。
「仲間を裏切った罪。仲間を見捨てた罪。勿論その前提として、たとえ敵とは言えども数多くの命を狩り落とした罪――」
歌うように、或いは確かめるように映姫は罪を並べる。一つ一つ、罪の名とその内容を挙げていく。終わらない。止まらない。論えられたそれらは、いつまでも続く意固地な連歌のように延々と織られ、定義されていく。その様子はまるで何処かにそれらを、過去にしでかして来た罪全てが収められた棚があるかのようで、酷くあっけないのもだった。
だが、罪が終わらない、という事態は、それこそがありえない。なぜなら罪を孕むのは過去で、過去はその前提として有限で、現在という名の終着点が必ず存在していなければならないからだ。故に、どれほど途方も無い数の罪が犯されていたのだとしても、それらの告発は必ず終わる。終わらなければならない。
なぜなら、告発が終わったその時こそが。
「――以上、概算で三千二百跳んで三の大罪。そして、数えることすら馬鹿々々しい諸々の小罪。よろしい?」
罪が、裁かれる時なのだから。
鈴仙は映姫の姿を仰いだまま、は、と小さく苦笑した。三千以上に及ぶ罪。それを自覚しているかだって? 冗談じゃない。覚えていた、否、忘れることが出来ていなかった罪は、精々三つ。逃げたこと。見捨てたこと。それらを忘れようとしたこと。それらが罪だと言うのなら、喜んで頷こう。私を罰し、私を償わせ、それによって罪が許されるというのなら、望んで生き皮さえも剥がれよう。
だが、三千。どうすればそれほどの罪を贖える? いや、それ以前に、どうしてそんなにも罪が膨れ上がらなければならない? 黙って聞いていれば、映姫の挙げる罪はほとんど言いがかりにすら近いものばかりだった気がする。勿論、見逃すことの出来ない、見逃してはならないそれらが含まれていたことは事実だけれど、だからと言って罪と呼ぶに値しないはずのものが多く罪と成されていたのも事実。ひょっとしたら、それは彼女の基準にしてみれば十分すぎる罪なのかもしれないけれど――まあ、いいだろう。
なんにせよ。これで、と鈴仙は思うのだ。
やっと報われるのだ、と。
報いを受けることが出来るのだ、と。
ようやく――罪から解放されるのだ、と。
思えば、いつからそれを願い続けていたのだろう。戦場を逃げ出したあの日からなのか。永遠亭に辿り着いた時からなのか。てゐと出会い、永遠亭の兎たちを任されるようになった後なのか。それとも、今日。てゐの一言で、忘れていた、忘れられると勘違いしていたそれらを、思い出した瞬間からなのか。
罪は、償われなければならない。鈴仙は、真実、そう思う。そこに理由が欲しいとは思わない。思えない。なぜなら罪は罪であり、罪なのだから。償われない罪に救いは無く、贖われない罪はいつか膨れ上がりこの身を潰すだろう。
例えばそれは、我を失った今日のように。
その原因を作ったてゐを、知らず知らずのうちに揺らいでいた自分を決定的に後押ししたあの可愛い家族を、鈴仙は恨まない。恨むような理由が無い。誰かはてゐが傷口を抉ったと言うだろう。またある者はてゐが面白半分に傷口に触れたと言うだろう。だが、鈴仙はてゐを恨まない。てゐに怒りを向ける論拠が無い。なぜなら彼女の台詞は全部事実で、間違っていたのは、それから目をそらしていた自分なのだから。
鈴仙は目を閉じる。両手を腕の前で組み合わせ、静かに、心からの安寧で、懺悔する。
「はい。それがきっと、私の罪です」
呟いた瞬間、ふと、胸が軽くなった。それは重りがとれたようで、同時に、何かがするりと抜け落ちてしまったかのようでもあった。
ああ、と鈴仙は虚ろになった胸の中で呟く。これが、救われる、ということなのか。
「――そうですか。認めるのですね。感心した心がけです」
答えるように降って来た言葉には、今度こそ慈愛に満ちていた。酷く、滑稽なほどに母性に満ちた言葉。しかしその内容は断罪に等しく、響きは弾劾にすら似ていた。罪の告発。認知。その確認。よって裁判はこれにて終了。残るは罰へと等価された罪の執行。鈴仙は僅かに頭を下げる。いつか見た敵前逃亡兵が、見せしめにその首を刈られたように。
……贖いは、ここに。犯してきた全ての罪が、この首を代価に贖われるというのなら、それは安いものだと思う。ああ、それは不謹慎だと鈴仙は自身を苦笑。自分の罪が、決して安いはずが無い。ならば、この首にはそれだけの価値があるという意味だろう。
思い残すことはと言えば、唯一つ。
てゐに、謝ることが出来なかったということ。
可愛い白兎。幸運をもたらす無邪気な詐欺師。大事な家族。それを、あんな怖い目に――真実の恐怖を与えておきながら、それを謝れなかったということが、唯一の心残りだ。
だがそれも、私が罰せられれば終わるだろう。
鈴仙はそう思い、ただただ静かにその時を待つ。冷たい刃がこの首を切り落としてくれる瞬間。断たれた首がぽとりと落ちて、生命活動を完全に停止するまでの僅かな時間を心から願う。渇望、という言葉すら生ぬるい。罪を償える瞬間。背負った全ての業を投げ捨てられる瞬間。ああ、そのなんと甘美なことか。叶うなら自らそれを実行していただろう。だがそれでは贖いにならない。だってそれは逃避だから。自ら命を断つことは、決して罰でも贖いでもなく、ただ罪を認めることが出来ない逃避だと、師匠にそう教えられていたからこそ――こうして。他者の手による罰を、自分は羨望していたのだろう。
まあ、なんにせよ。
これで終わりだ、と鈴仙は思う。ありがとうございました、と誰かに感謝して、ごめんなさい、と誰かに謝った。
そうして、それは振り下ろされる。
「――なにをしているのですか?」
きょとん、とした。
何をしているのか分からない、と言外に孕んだ。
そんなことはしませんよ、と嘲笑うかのような、問いかけが。
え、と鈴仙は声を上げていた。
顔を上げる。組んでいた手を解いて、上手く働かない頭を精一杯に使い尽くし、どうにか疑問の言葉を紡ぐ。
「罰して頂けるんじゃ――ないんですか?」
答えは、酷く簡素。
「罰しませんよ。私は告発者ですから。それに、彼岸に渡っていない者の罪を勝手に罰するというのは、たとえ私が適任者であったとしても少々業務超過というものでしょう」
そう言って、彼女、四季映姫はくすくすと笑う。
いいですか、と指を立てて呟かれた言葉は、まるで幼子を諭すかのような柔らかさに満ちていた。
「私が求めるのは、罪を認めること、そして悔い改めること、それだけです。貴方はいまそれを行いましたから、私からはもうこれ以上、とりわけ行うことはありません」
「う――嘘。だって、あなたは、」
「ええ、地獄の閻魔様です。死人の嘘を見抜き、罪を問い、それを認めさせることが私のお仕事です」
ですが、と映姫は微笑む。
「私のお仕事はそれだけなのですよ。嘘を見抜き、罪に罰を宛がい、両者を等号で結びつける、ただそれだけです。下された罰を執行するのは、私の役目ではありません」
「――」
そんな、と呟きかけた言葉は結局音にならず、口の中で解け消えた。
その代わり、なのだろうか。
……あはは、と。
自分の耳にすら他人のそれであるかのように、乾いた笑いが小さく届いた。
なんて、酷い話。ぼろぼろと溢れる涙を拭うことすら思いつかず、鈴仙は胸の内で自嘲した。こんなにも。こんなにも淡々と、簡単に、呆気なく、当たり前であるかのように罪を並べ立て晒し示してくれたくせに――そこで終わりだと、映姫は言う。並べた罪を認めるのなら、それ以上問うことは無いと自らの職務の終わりを告げる。罪を突きつけること。己の闇を見せ付けることが、どれほど心の安寧をかき乱すのか、判っていない筈が無いのに――ただ罪を認めさせることだけを責務とし、そのあとに関与しないと言う。
それは、弄ばれているのとどう違うのか。戯れに視姦するのと、どう違うと言い繕うのか。
「……それに。どうやら、なにか勘違いしているようですけれど」
不意に、声。こちらを見下ろす映姫の姿。先ほどからなんら変わらぬ光景。立場。見下ろす者。見下ろされる自分。
ただ、その声に。その表情に。
僅か、憐れみが混じっているようだった。
「貴方は、罰を受けることで罪が償われると思っているのですか?」
「……え?」
今度こそ。
鈴仙は、心の底から、理解できない、と声を上げていた。
「それは、どういう――どういうこと、ですか」
凍結しかかる思考を必死で廻し、辛うじて、短い問いを発する。
そんな鈴仙に、映姫はにこりと微笑んだ。
「簡単なことですよ、よく考えても御覧なさい――罪とは、過去そのものなのですよ? それを償う、つまり埋め合わせをして無かったことにするということは、自らの過去を否定するのと同じではないですか。いいですか? どうにも、酷く分不相応な望みを抱いているようですからはっきりと言いますが、罪は決して無くならないのですよ? たとえ罰を受けたとしても、罪を犯されたものが貴方を許したとしても、罪を犯したという事実、その過去は決して消え去りはしないのです。罪に対する救済には、なりえないのです。生きている間に背負い続けた罪はその魂が輪廻するとき、初めて分解されるのですよ。尤も、分解されたからと言って消える訳ではありませんが。貴方達は、いいえ、生きるもの、存在するもの全ては、いつか来る終わりまで延々と罪を背負い続けるのです。それが業。六つの世界をどれほど廻ろうと、決して消えぬ存在の記憶。勿論、この身とて例外ではありませんけれど」
淡々と、しかし緩やかな抑揚を着け、まるで幼子に訓告をする母親であるかのように映姫は語る。その瞳には真実慈しみの光が灯り、その声には惜しみない抱擁の響きが孕まれている。
その事実に、鈴仙は混乱を覚えずには居られない。嘘だ、と否定しようとする意思が、映姫の瞳の輝きを察して鳴りを潜める。捌け口を失った意思は内部へと返り吹き、感情のこと如くを揺り動かす。それは怒り。不条理な物言いに対する怒り。それは悲しみ。消えぬ罪を知ったが故の悲しみ。それは楽観。罪が消えぬと悟ったが故の己に対する楽観。泥に塗れた終わりの許諾。
それは渇望。あらゆる感情全てに無視をされ、しかし孤独のままにすすり泣く偽りの無い己の本心。
映姫は瞳を細める。立ち尽くし、表情を喪い、それでも救いへの羨望を消しきれぬ鈴仙の瞳を見下ろし、そんなにも、と苦々そうに呟く。
「貴方は、救いを求めるのですか」
「――」
鈴仙は答えず、否、答えることすら出来ず。
ただ、こくり、と頷いた。
……救われたい、と鈴仙は思う。願う。罰が必要だと言うのなら、それでいい。償うためにその首を落とせと言われたら、喜んでこの首切り落とそう。死が恐ろしいとは思わない。彼女はずっとそれを纏い踊ってきたのだから、今更それを恐怖しろと言うのが無理な話だ。
だが、許されない、という状況はとても耐えられない。どれほどの罰を受け、どれほどの贖いを行い、どれほどの業火に焼かれたとしても、その罪が決して消えないということは受け入れられない。
信じられない。
信じたくない。
信じられる、筈が無い。
何故ですか、と映姫は問う。瞳を細め、隠し事の全てを、嘘の全てを見抜く視線をこちらに向けながら、地獄の閻魔はそう問うた。
「何故そんなにも、罪を恐れるのですか。確かに、貴方はあまりに罪深い。ですが、罪深いことそれ自体は罪ではないのですよ? 貴方がどれほど罪を犯そうと、いいえ、だからこそ地獄の裁きは平等です。罪の多さは裁きとは無関係です。何を、何を貴方はそんなにも恐れ脅えているのですか?」
鈴仙は弱々しく首を振る。
ただ、と紡いだ言葉は、自分のものとは思えないほどに脆弱で、滑稽。
「許せないだけだと、思います」
それは、嘘偽りの無い本心。
「私を、私自身が許せない。ただ、それだけです」
「……なるほど。自分で自分を裁けない、自分は自分ですら裁くことに値しないという強迫観念が、その恐怖の根幹ですか。」
納得したかのように呟く映姫。
ですが、と彼女は続ける。
「腑に落ちませんね。確かに貴方は罪深いですが――それほど思いつめるような罪は、見当たりませんよ?」
「そうですか?」
自嘲の口の端に被せ、鈴仙は虚ろな声で問い返した。
「裏切りは、厳罰すら生ぬるい大罪ではありませんか?」
映姫はきょとんとした顔を見せる。
「裏切り? 貴方が犯し続けている一番の大罪は、背任ですよ?」
「……え?」
鈴仙は、思わず疑問の声を上げていた。
一番の罪が、背任? 裏切りならば分かる。見捨てたことだと言われても納得しよう。だがそれは、背任という罪は、まったくの予想外だった。
困惑する鈴仙に、映姫は変わらぬ調子で続けた。
「そう、背任です。尤も、裏切り、と言うのなら、それは確かに裏切りかもしれませんけれど」
映姫は目を細める。既に見慣れてしまったその眼差し。
それは、罪を告げる彼女の責任の表れなのだろうか。
「鈴仙・優曇華院・イナバ。貴方はずっと、そう、貴方が彼女たちの事を欺いている。彼女たちに比べれば、自分はまだ救われるとそう思っている」
「――」
最早、呼吸すら出来ず。
鈴仙は、ただただ、その言葉を耳にした。
映姫は、告げる。
「それが、貴方の犯している救い難い大罪です」
不意に、思い出す。それは地上に逃げ延びて来た頃の記憶。行く当ても無く、そもそも居場所なんて無かった自分が、満足な睡眠も取らずに七日七晩ほど竹林を彷徨った頃のお話。身体の限界はとっくに超過していて、意識は張り詰めた緊張と追っ手への恐怖がかろうじて保たせていた、そんな果ての小話。
何処までも続く何故か終わらぬ竹林を、月を背後にただひたすら逃げ続けていた。出来るだけ遠くへ行こうと思って月を離れたが、いまにして思えばそれは失敗だっただろう。月を離れ、穢れた未開の地上に降りて、確かに此処は追っ手の手も届きそうに無い辺境だけど――けれど忘れるな、月は常に其処にある。どれだけ逃げても、どれほど離れても、確かに近づいて来たりはしないけれど、けれど決して遠ざかることは無く何時までも何時までも、そう、夜が来る度に全てを見下ろす高みへとその姿を見せるのだ。
ならば、何時か自分は捕まるだろう。このまま終わりの無い逃避を続け、その先に何があるとも分からない。どうせこの身に心休まる場所など既に無いのだ。共に死線を潜り抜け、敵に囲まれながらもなお安堵を覚えた微笑を交わす仲間はもう居ない。
私は、一人だ。レイセンはそう思う。
仲間を捨てた。故郷を捨てた。捨て子であった自分を拾い、育ててくれた両親ですら捨て置いた。私が舞台を逃げたと知ったとき、厳格だが心優しかった父は怒るだろうか。私が首狩り兎に配属された時に涙した母は、また泣いているのだろうか。ああ、でも、それで済むならそれでいい。いまでは最早祈ることしか出来ないけれど、私の裏切りは私だけを罰することで終わらせて欲しい。ああ、どうかお願いです。あの二人を責めないであげてください。お前の子が、という言葉であの二人の優しさを傷つけないであげて下さい。裏切ったのは私です。罪を問うなら私に問うて下さい。どうか。どうか。
――罰ならば。私がいくらでも受けますから。
そう思った瞬間、不意に身体の力が抜けた。追いつかれること、追いつかれ罪を裁かれることを、それもまた良しと心の何処かで受け入れたからだろうか。重力の鎖が身体を捉える。もとよりそれほどの高度をもって飛んでいた訳ではない。あっという間に地面が近づいて、受身さえ取れず地面に転がった。
ごろごろと転がり、仰向けに止まる。は、と口から吐息が漏れた。身体の節々が痛く、指先には感覚が無い。口の中はからからで、視界は夜だということを差し引いても暗く、霞んでいた。
終わりが近いな、ということは理由無く察することが出来た。
ああ、と彼女は胡乱な意識で思考する。それもいいじゃないか。月から遠く離れた辺境の土地で、貴き月を見上げながら命を閉ざす。それは酷く甘美な、惨めったらしい終わりに見えた。それは、そう、まるで誂えたかのように自分にお似合いだ。
「――ですが、貴方は出会った」
映姫の声を、鈴仙は遠く聞く。
既に伽藍。意識も感情も理性も停止した心に、しかし閻魔の言葉はしっかりと響く。
「あの二人に。自分より遥かに罪に塗れていながら、自分より遥かに幸せそうなその二人に」
それは、白い花が散る満月の夜。
惨めで穏やかな終わりを迎えようとしていた自分の前に姿を見せた、二人の女性。
……白状するのなら。自分は、その二人を知っていた。
なぜなら、二人の名は月世界でとても有名だったからだ。尤も、それらは決して良い意味ではない。寧ろ軽々しく口に出してはならぬ忌み名。禁忌を犯し、迎えに遣した同胞すら殺害したという重罪人とその介添人。
そんな、教本と、他者の噂話の中でしか聞かぬ名を持つ二人がすぐ傍に居て、静かに微笑んでいたのだ。その笑みは酷く柔からで、穏やかで、悲壮も自責も罪科も何も感じさせぬ微笑で、
だから。
「だから、思ったのですね」
他者を裁く少女の言葉に容赦は無い。
それは理性という防壁を通り抜け、しかし真実の誠実さで記憶の井戸の奥底の罪を引き上げる。
「自分は救われる、と。自分より遥かに重い罪を背負った二人が笑っていられるのなら、この程度の罪しか犯していない自分が救われない道理は無いと、そう思ったのですね」
「――」
やめて、という言葉は形を作らない。それは否定で、拒絶で、だからこそ成立しない。
だって、それは真実だから。あの二人に出会い、驚いたのは事実。そして同時に安堵を覚えたのも真実。そう、知らないはずは無い、思わないはずは無い、求めないはずは無い。あの二人は笑っていた。微笑んでいた。何も知らぬ童女の様に幸せそうに寄り添い立っていた。最近屋敷の周りを飛び回っているのは貴方、と問いかけられたその言葉に含まれていたのは本物の安らぎ。いまでも耳に響いて止まぬこちらの緊張と警戒を解すようなあの声音。ああ、その場所に立つことをどれほど望んだだろう。その笑顔を浮かべられる境遇にどれほど憧れただろう。惨めに生き延び罪を知りながら逃げ延びて、罰を願いされどもなお生き行き続けようと願う心の浅ましさよ此処に極まれ、生き曝せ。罪を知り、罰に怯え、唯々逃避を企てながらも平穏を望み、決して、そう、最早決して手に入らぬと知りえたからこそその望み渇望と等しく心を掻き毟った。
それは、いま思えば狂気だったのだろう。罪悪感と自悪感に裏打ちされた狂気。狂ってしまった方がきっと幸せだったから、全てを諦めてしまった方がきっと楽だったから。だからその狂気に身を落とし、生暖かい泥の中で安寧の終わりを迎えようとした我が身に差し出されたのは暖かな白い腕。
愚かな、と映姫は吐き捨てる。そこに辛辣な響きは在れど侮蔑の響きは無い。少女は、あくまでその存在に忠実で在り続ける。
「罪は他者との間に垣根を作りません。他者と比べ自らの罪がどれほど軽くとも、その罪自体の重さは決して変動をしたりはしないのです」
そんなことは、分かっている。
けれど、それでもなお、憧れたのだ。
罪に塗れ、罰に怯え、狂気にすら落ちながら全てを諦めて。
仰いだ月は全てを見透かすように何処までも綺麗で、そこには決して戻れないと知れたから。
だから、白い花が舞う夜に、笑みと共に差し出された手は信じられないほどに優しく、柔らかく、暖かで。
映姫は小さく息を吐いた。その瞳が閉ざされ、開かれる。其処に見えたのは冷徹な光。全てを審判を下さねばならない者が、必ず持たなければならない絶対正義と言う名の必要悪の形。
少女は告げる。
これぞ絶対の真実と、その現実を言葉の響きに孕ませながら。
「鈴仙・優曇華院・イナバ。貴方が背負う最大の大罪は、自らの主に対する欺き、即ち、」
その、白く綺麗な腕を取ったとき。
顔を上げれば、其処に。
「背任、そして裏切り。貴方はこの罪を何時まで侵し続けると言うのですか」
「――いいえ、それは根本的に間違いです」
不意に、声が聞こえた。何時かの様に穏やかで、何時ものように淀みの無い柔らかな声。
映姫が顔を顰める。その表情に混じったのは真実の嫌悪。絶対中立、否、絶対傍観で在るが故に他者を裁く立場にあり、だからこそ他者に対し特別な何かを抱くと言うことが無い審判官たる彼女は、その声の主に明らかな嫌悪の色を向けていた。
しかし、鈴仙はその事実に気付くことは無く、ただ反射的に。或いは昔日の何かを思い出す様にそちらに顔を向け、昔日のあの日の様に息を呑んだ。
「解せませんね。何が間違いだと言うのですか?」
「そうですね、ここは私共が譲歩させて頂いて、全て間違っている、と言うことでいかがかしら?」
穏やかな声音でそう言って、彼女はくすくすと笑う。
長い黒髪が風に流れ、僅かに膨らんだ。
だって、と彼女は言う。肩を竦める様に傍らを見やり、其処に経つ銀髪の従者を一瞥する。
彼女は気負いも何も無い、まるで今日の天気を告げるかのような自然さで。
「だって私たち――貴方の告げたイナバの本音など、当の昔に見抜いておりましたから」
そんな言葉を、口にした。
……最初に覚えたのは、疑問。そして不信。嘘だ、という思い、願い。崩れて居た理性はその言葉を鎹に脆弱ながらも元の在り方を思い出す。月を仰いだ晩に始まる今の私の存在規定。ああ、まるであの晩の焼き増しであるみたい。だってほら、こんなにも白い花が待っていて、その花の中であの二人はあんなにも優雅に微笑んでいるのだから。
鈴仙は口を動かす。何故だろう。言葉が上手く紡げない。何度も、何度もその言葉を口にしようとして出来なくて、何度と無く何を口にしようとしているのかすら忘れ掛け、その都度朽ちた縄橋を渡るようにその言葉を思い出し、まるで稚気の遊びのように何度無く崩れる積み木に手を伸ばし、そうして。
そうして、彼女はその言葉を口にした。
「――姫、様」
「ええ。頑張っているようね、イナバ」
にこり、と。
穢れ知らぬ乙女の様に、彼女たちは微笑んだ。
鈴仙は呆然と彼女らを見る。
白い花が散る竹林。
其処に並んで立つ二人の姿。
まるで雪の様に果敢無く、音も無く白が散る世界の中。
永遠と須臾の罪人、蓬莱山輝夜が。
月の頭脳、八意永琳を携えて。
何時かの様に、其処に居る。