幾つもの光景が走馬灯のように視界に映し出され、流れて行った。次々に浮かぶそれらはみないつか見た光景で、忘れたと、最早思い出すことも許されないだろうと思っていた記憶。荒野。戦場。咆哮。士官学校。駐屯地。友軍。同胞。死体。首狩り舞踏。脅えて背を見せる敵兵。背後から強襲を喰らい瓦解する部隊。取り残された自分たち。全滅する友軍。戦い続ける同僚。背を預けあった友軍。最後まで立っていた私。死んでいた戦友。全滅した敵兵。首を狩られ、ころりと転がった頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。
――その中に転がる、
頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。頭。
――戦友の、首。
「――――ッ!」
どれだけ飛んでいたのだろう。不意に身体から力が抜け、鈴仙は肩口から無様に地面へと墜落する。ごろごろと地面を転がり、太い竹にぶつかって止まった。肩に鈍い痛みが走り、小さな音が聞こえた。その衝撃に、あ、と鈴仙は肺腑から息を洩らそうとして、それすら出来ずに涙を流した。どうやら呼吸すら忘れて飛行していたらしい。肺の中に空気は残っておらず、吐き出す空気なんて一欠けらも存在しなかったのだ。
だから、鈴仙は息を吸う。反射的に、生理的に。彼女が、それを無意識のうちの拒んでいたのだと彼女自身が気付くよりも早く。
その結果として空気と一緒に吸い込んだのは、身体にこびりついた血のにおい。濃い、最早それ自身が粘性を帯びているかのように濃密なそれ。まるで蛇のように容赦なく鼻腔を蹂躙し、喉の奥に、肺腑の先端にまでべったりと血液を塗りたくっているかのようだ。
あ、と鈴仙は息を吐いた。目の奥が痛む。眼球を裏側から千の針で突き刺されているかのような痛み。浮かんだ涙はすぐに溢れ、頬を伝って地面に落ちる。それを拭おうと目を擦れば、じわり、と目の周りの血が視界に滲んだ。
赤い世界。自分にとっては慣れ親しんだ世界。戦場。敵。味方。転がった敵の首。転がった戦友の首。どうして、と私を見上げるうつろな瞳。
「ぁ――ぁぁ――」
喉から洩れる音は言葉にすらならない。鈴仙は地面に倒れたまま、自分でも何を求めているのかも分からずに手を伸ばすが、右の手に力を入れた瞬間ずきりと鈍い痛みが脳髄を貫いた。知っている痛み。味わったことのある痛み。
骨折。
鈴仙は思う。判然としない意識のままに。何処が折れた。鎖骨? 先ほどの衝突が原因か。動かない。変わりに左の手を伸ばす。掴んだのは地面に生える名も知らぬ草。これは違う。こんなものは探していない。手を離して周囲を探る。何処だ。見つけ出せ。早く見つけ出せ。敵に見つかる前に。殺される前に、
こつん、と手に何かが当たった。
あ、と息を飲み、鈴仙はそれを掴む。馴染んだ感触。忘れかけていた感触。驚くほど手に馴染む。手元に引き寄せ、それを支えに身体を起こす。足がふらつく。身体が満足に動かない。だがそれでも倒れるわけにはいかない。剣を取れ、足を止めるな、敵を探せ、戦え、戦って戦って敵の首を刈れ、その為に生き続けろ、そうでなければみんなに向ける顔が、
「――違う!」
喉の奥から嗚咽と共に声を絞り出し、鈴仙は左手に掴んだそれを、僅かに反りを持つ厚身の剣、首狩り舞踏を投げ捨てた。
見た目以上の重さを持つそれが地面に突き刺さるのを視界の端に捕らえながら、鈴仙はその場に膝を着く。喉の奥から嗚咽がこみ上げる。
「違う、違う、違う違う違う――!」
まるで壊れた玩具みたい。意識の片隅で何処か冷静に自らをそう分析しながら、鈴仙はただただ違うと叫ぶ。その紅い瞳からぼろぼろと涙を流し、全てを拒絶するかのように頭を振りながら、洩れる嗚咽を防ぐことさえ忘れて、ただただ否定の言葉を口にする。
「私は――私はレイセンなんかじゃない、鈴仙だ。鈴仙・優曇華院・イナバなんだ! 師匠の弟子で、姫の従者で、永遠亭の住人で、だから、」
あの光景が、嘘であって欲しいのに。
どうして覚えているのだろう。何故忘れることが出来なかったのだろう。振り払っても振り払っても脳裏に浮かぶその光景。目蓋に映し出されるその記憶。嫌だ。見たくない。思い出したくない! どうしてそんな目で私を見るの。どうして忘れさせてくれないの!!
記憶の中で、こちらを見上げる胡乱な瞳が次々に問う。
何故逃げた。
何故見捨てた。
何故戦わなかった。
何故救わなかった。
鈴仙は自分の身体を抱きしめる。力強く、全てを束縛するように。そうしなければ、きっと無様に震えだす自分が居ると分かっていたが為に。
ああそうだ、と鈴仙は思う。私は逃げた。味方を見捨てた。決定的な負け戦だったんだ。敵の数は多くて、補給はとっくに途絶えていた。部隊は孤立していて、守るべき友軍はとっくの昔に全滅していた。残っていたのは五名足らずの戦友。同じ首狩り兎の部隊の戦士たち。押し寄せる敵。奮戦した私たち。どれだけ敵の首を刈ったかなんて覚えていない。ただ結果として自分は最後までその場に立っており、足元には沢山の死体と沢山の首が転がっていた。それだけの話。
ただ、付け加えることがあるというのなら。
幾百と転がる首の中に、見知った戦友のそれらが混ざっていたのだという事実。
故に、レイセンは戦場を逃げ出した。確信なんて無かった。それでも、その恐怖を拭い去ることなんて出来なかった。
戦っている間は、舞っている間は無意識に近いのだ。ただ敵を確認し、袖で撫でるかのようにその首を撥ねる。教えられたのはただそれだけ。ただそれだけの動作を、ひたすらに、そう、それこそ無意識のうちに継続できるほどまでに訓練されていた。
だから、本当にそれを自分がやったのか、と問われればそれは定かではないだろう。答えなんて、きっと誰も知らず何処にも無い。生き残ったのは自分だけで、誰もそれを見てなど居なかったのだから。
しかし、それ故に。
自分が戦友を殺したのではないか、という思いがいつまでも拭えなかった。
「だから――、もう、」
戦場を離れ、いまだ戦い続ける友軍を見捨て、自分だけ安寧を求めて、ひたすらに逃げて逃げて逃げ続けた。何処をどう逃げたのかなんて覚えていない。どれだけ逃げ続けたのかなんて興味も無い。ただ結末として自分は永遠亭に辿り着き、あの二人と出会った。
永遠と須臾の罪人、蓬莱山輝夜。
月の頭脳、八意永琳。
共に月に生まれ、穢れた地上で暮らすことを選んだ二人の月民。
弱り果て、説明らしい説明も出来ず、行き倒れと大差なった自分を笑顔で受け入れてくれた二人。その根本に据えられた動機が暇潰しだとか、単なる好奇心だったとしても特に何も思わない。それがどれほど不純な動機であったとしても、疲れ果て涙さえ枯れ果てた自分を受け入れ、家族として扱ってくれた二人には感謝以外の念を抱けない。
レイセン。それは昔の名前。月兎の戦士だった自分の記憶。自ら逃げたもの。投げ捨てたもの。
鈴仙・優曇華院・イナバ。それはいまの名前。響きは同じでも、否、同じだからこそ意義を違えた新たな名前。
――生きていくと、誓ったんだ。
この場所で。この穢れた地上で。遠い故郷を空に仰ぎ、最早届かないと諦めて。それでも笑って生きるため、その名前を受け入れた。
だから。
「もう、許してよぉ……!」
解放して欲しいと、心から願う。
何度苦しんだか。何度泣いたか。何度諦めたか。こんな生活は、こんな幸せは自分には相応しくないと、何度全てを投げ捨てかけたか。
ああ、覚えている。枕を涙で濡らしたあの夜。記憶の中の戦友に責められ詰られ罵倒され、許しの懇願と共に目を覚ましたあの晩。発作的に全てを償おうと、後を追おうと自分の首を落としかけけたあの日。刃を喉に当て、いま行く、と呟いた瞬間に姿を見せた姫と師匠。自ら命を絶たんとした私に、笑顔で、しかし突き放すように告げられたその言葉。
そうやって、罪から逃げるの?
分からない。のうのうと生きることは許されず、しかし責を負い自刃することが逃避なのだろうか。訊いても師匠は答えてくれない。涙ながら尋ねても姫はただ微笑むだけだ。何度問い、何度はぐらかされただろう。答える気が無いのは明白だった。
答えは何処に在る。答えは本当に在る?
どうすれば赦される。私は本当に赦される?
分からない。
答えは遠く、救いは果敢無く。手を伸ばして何が掴めるのだろう? 伸ばした手は、果たして何を掴むのだろう?
「いいえ。その手は何処にも届きません」
不意に、声が聞こえた。
「何故なら、それが罰だから」
鈴仙は弾かれたように顔を上げる。上。竹の葉に姿を隠すかのように、高みからこちらを見下ろす誰かの姿がある。
緑の髪を靡かせて、青の衣に身を包んだ一人の女性。澄んだ瞳は全ての隠し事を問答無用で見通すようで、全てを知っているかのようだった。
女性は口を開く。憐憫に満ち溢れたその瞳の色を隠さぬままに。
そして、何処までも、果てしなく酷薄な笑みをその口に湛えて。
「私の名前は四季映姫。罪人よ、自らのそれを直視なさい」