どうして、とてゐは思う。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
必死で前へ、牽制の弾幕を張る余裕すら無く、てゐはひたすら前へ前へと進む。直線上にある竹の幹を最小限の動きで回避して、持てる力の全てを速度へと転化して逃げ進む。しかしどれだけ先に進んでも、どれほど速度を上げても、背中に鈴仙の気配をひしひしと感じざるを得なかった。
すぐそこに、振り返ればきっと目の前にその顔が見えるだろう。本人は凛と気取っているのかも知れないが実際はどこか間が抜けていて、いつも永琳の無理難題に涙目になっている、面倒見のいいお姉さん。鈴仙・優曇華院・イナバ。口では馬鹿にすることも多いし、いや、実際内心でもそうたいした奴とは思っていないけれど、それでもあの広い屋敷の中で、一番自分に構ってくれる大事な家族。
その鈴仙が、見たことも無い無表情で、不釣合いも甚だしい大きな剣を手に背後に迫っている。
勿論――この身の、因幡てゐの首を刈ろうとするために。
どこで何を間違えたんだろう、とてゐは思う。勝手に永遠亭を抜け出したからか、それともこんなに花が咲き誇っているからか。いいや、そうに決まっている。でなければ、そうでないのだとしたら、どうして鈴仙があんなわけの分からない剣を持って、あれほど手馴れた風に妖精たちの首を切り落としたりするのだろうか。
妖精たちの返り血で全身を真っ赤に染め上げた鈴仙。綺麗な銀髪も、真新しかった白の服も、綺麗だった肌も、全身余す所無く赤に塗れた月の兎。いつもの少し頼りないお姉さんといった雰囲気はそこには無く、侍らせていたのは、ただただ単調に首を刈るだけの絡組人形じみた気配だけ。
ただ、その瞳だけがいつにも増して赤かった。
ざ、ざざ、ざざざ、と耳に幾つもの音が届く。それは竹が切り倒される音。切り倒され、幾百幾千と茂らせた葉を震わせながらに叫ぶ断末魔。その声が一つ、また一つと響くたび、背中に感じる鈴仙の気配が強くなる。動物的な勘をがんがんと打ち鳴らす警鐘が強くなる。逃げろ、逃げろ、逃げろ逃げろ逃げ延びろ。速度を落とすな、意識を緩めるな、気を抜けばあの気配はすぐにでも忍び寄り、いとも簡単に、まるで畑の人参を抜いて収穫するかのごとく、
因幡てゐを、殺すだろう。
「――ッ!」
嫌だ、とてゐは思う。嫌だ。そんなのは嫌だ! 自分が死ぬことが、ではない。自分の首が切り跳ばされ、あたりに血を撒き散らしながら胴体を別々にされることが、ではない。そんなこと、鈴仙が――他でもない彼女が、鈴仙・優曇華院・イナバが私を殺すという事実に比べれば、そんな結末は瑣末事に過ぎる。
じわり、と世界が僅か滲んだ。しかしてゐは速度を緩めない。留まり溢れ、やがて流れた涙を流れるままに任せ、一心不乱に先へと進む。停滞は許されない。追いつかれてはいけない。鈴仙に、その凶器を振るわせてはいけない。
鈴仙に、私なんかを殺したという罪を背負わせてはいけない。
だから、てゐは必死に逃げる。弾幕を張ることすら忘れ、ただただ前へ、前へと進む。
その意識を占めるのは、たった三つの小さな言葉。
――どうして。
――嫌だ。
そして、
……ごめんなさい。
そう、本当はとっくに分かっている。鈴仙があんな風になってしまった原因。それはこの異変のせいでもなく、自分が勝手に永遠亭を抜け出したことでもなく、ただ一言。
私の不用意な一言が、鈴仙を決定的に壊してしまった。
鈴仙が遠い仲間を裏切った。実はと言えば、てゐはその話の真偽を知らない。てゐがそれを知っているのは、永遠亭に数多く住み着く野生の半妖怪の兎たちの一羽が偶然小耳というそれを、別の一羽から又聞きしたからだ。元の話を立ち聞きしてしまった一羽に問いただせば、それはいつかの晩、輝夜と永琳が話していた昔語りのその一幕だったらしい。何十年も昔の話。まだてゐが永遠亭に訪れるより前の事実。
だから、聞いた話を信じるのなら。
彼女、鈴仙・優曇華院・イナバは遠い昔、同胞を裏切って幻想郷へとやって来たらしい。
それはそう、丁度この日のように、翠の竹林にぽつりぽつりと白い花が咲いた日の――
「さようなら」
短い、別れの言葉が耳に届いた。
くん、と首に上向きの力を感じ、ああ、切られたな、と他人事のように思考した。
思わず、反射的に目をつぶる。不思議と痛みはない。それが幸いなのか、それともそもそもの段階で不幸なのか、てゐにはよく分からなかった。ただ、もう逃げる必要がないと悟り身体の力を抜いてしまう。その滑稽さに、てゐは小さく笑った。最早首と胴体は繋がっていないのに、身体の力を抜くとはどういう意味だろう。ああ、はて、切り飛ばされたこの首が、最後に見遣る光景はなんなのか。
安らかな気持ちでそう思い、てゐはゆっくりと瞳を開いた。ぼやけた世界。涙で溢れた視界。首を切られても目は見えるのか。そんな発見を心地よく思いながら、てゐは小さく息を吸い、
――息を、吸い?
え、とてゐは疑問に思う。息を吸った。息を吸えた。その行為には無論息をするための胴体が必要不可欠で、それならば。
思考が理解に追いつくより早く、ふわ、と柔らかい何かの感触が伝わった。含み笑うかのような表情でこちらの顔を覗き込んでくる誰か。その誰かに、身体を抱かれている。全ての苦悩を、全ての悪行を、全ての後悔を、全ての罪を一束に纏め上げ、それでいてそれを優しく抱きしめてくれるような誰かに。
その正体を誰何するより先に――てゐはようやく、自分が生きていることに気がついた。息は荒い。呼吸も雑だ。無理をして飛び続けたせいだろう、意識は何処かぼやけているし喉の奥が焼けるように痛い。でも、それだけ。首は繋がっているし、怪我らしい怪我の一つもない。
無傷、だった。
どうして、と思うのとほぼ同時。
身体を抱きとめた誰かが、ふふ、と笑う。
「小さな可愛い詐欺師さん。どうやらあなたの力は本物のようね。これは偶然ですけれど、私たちが間に合ったのは事実なのですから」
「いきなり私を誘拐しておきながら、よくそんな口が利けたわね」
聞こえたのは別の者の声。呆れたような、疲れたような、それでいて世間話をするかのような愚痴似の声音。
てゐは誰かに抱きかかえられたまま顔をそちらに向ける。目の前。輪郭がぼやけた世界の中に、こちらに背を向けて立つもう一人の誰かの背中があった。
くすくす、と頭の上で誰かが笑う。
「いえいえ、それが幸いなのよ霊夢。この子兎はその能力で持って遠く離れたあなたを幸いにした。だから私はあなたを此処に連れて来たの」
「誰が、いつ、どうやって幸せになったのよ」
「ほら、妖怪助けしてるじゃない。幸せでしょ?」
「言ってなさい、勝手に。でも、いきなりその隙間に人を連れ込むのは止めて欲しいわね。いくらなんでも心臓に悪いわ」
「うふふ。さすがは博麗の巫女。私の隙間に入っておきながら、平然としている時点で凡そ普通からかけ離れていることを知りなさい?」
「はいはい。……それで、てゐ」
肩越しにこちらに顔を向け、彼女、博麗霊夢は面倒くさそうに問うて来た。
「事の次第を説明してくれると嬉しいんだけど?」
幻想郷の外れに位置する博麗神社。そこの巫女である博麗霊夢。強大な力を持つ妖怪が数多く息衝くこの土地で、そんな大妖怪相手に平然と空を飛ぶ紅白の人間。
その霊夢が、いまこちらに背を向けて立っていた。右手に見えるのは簡素な玉串。反対の手には数枚の御札が握られており、彼女の向こう側には大きさの違う正方形を二枚重ね合わせたかのような膜が見える。各々の頂点には霊夢が手に持つ札と同じものが貼り付けられて、否、空間に固定されており、その結界の基点となっていた。結界。二重結界。博麗を名を冠するが故か、それとも霊夢であるが故かは知れぬが、彼女が扱うことを許された断絶の技。
そして――おそらくは何者もの通過を許さぬ断絶のその向こう側で、結界に向け淀みなく剣を振るい続ける鈴仙の姿があった。返り血に塗れた装いのまま、一心不乱に、他の存在など目に映らぬといった風にただひたすらにその剣を振るわしている。一太刀、また一太刀。衰えぬ剣閃。決して軽くはないだろうその刃が矢の如く振るわれるたび、霊夢の張った結界が僅かに震え、光を放つ。二重に張られた結界は破られない。しかし、だからと言って鈴仙の太刀は緩まない。一心、ただ一心に全てを断たんと刃を振るう。
「なるほど、ね」
そんな鈴仙の行いを、もはや凶行と呼んでも差支えがないようなそれを、てゐから事情の説明を受けた霊夢は結界を挟んで醒めた目で見つめていた。結界が太刀を弾くたび、鈍器と鈍器をぶつけ合わせたような不快な音が低く響くが、窺える彼女の横顔は顔色一つ変わらず、表情一つ崩れない。
ただ、彼女は呆れたようにその目を細め肩を竦める。
「つまり、壊れたんだ」
「あらあら、駄目よ霊夢。そんなにはっきりと口にしては。いくら理性が残っていないからと言っても、さすがに失礼よ?」
てゐの身体を抱きかかえたまま、中空に開いた隙間に腰掛ける紫は小さく笑った。
東雲に似た色合いの服に身を包んだ妖怪は、てゐの身体を胸の前で抱きかかえたまま、自らが開いた隙間に腰を下ろして事の成り行きを傍観して、否、楽しんでいる。
紫の、とてもそうとは思えぬ窘めに霊夢は、けれど、と言葉を返す。
「事実でしょう? そうでなければ説明がつかないわよ、これ」
「まあ、確かにそうねぇ。物事に打ち込むのは良いことだけど、方向性を誤るとただの愚行だといういい見本だわ。このまま標本にしておいた方が後世のためだと思うんだけど、どうかしら?」
「知らないわよ。勝手にしたら?」
興味が無い、といった風に霊夢は返す。
紫はふふふ、と小さな笑い声と共に表情を崩し、艶やかに己の頬に手を当てた。迷いの欠片すら見せず、口を開く。
「そうね。勝手にさせてもらいましょうか」
「だ――駄目! そんなこと、絶対に駄目!」
会話の運びに、てゐは思わず声を上げていた。紫の腕の中から跳び出でて、あらあら、と困った風に呟く紫に怒鳴り散らす。
「鈴仙に酷いことをしたら、絶対に駄目。そんなことをしたら、私、貴方たちを絶対に許さないから!」
「あら、私嫌われちゃいました? くすん」
何処からか取り出した扇を手にしながら、紫はわざとらしく目頭を拭う。
その動作に、徹頭徹尾演技が掛かった嘘だらけのその振る舞いに、てゐは知らず知らずのうちに奥歯を噛み締めていた。真剣さなど欠片も見せず、傍観の気配だけを纏わせた隙間妖怪。おそらくは――いや、てゐは理屈抜きにそれを確信している。幻想郷中を探し回っても、この妖怪を上回る力を持った存在など居ないだろう。それが故の怠惰。その事実に拠って立つがため、常に傍観者であり続けなければならない存在。
そんな存在にとって――私たちは、何だというのだ。
紫の、興味と享楽以外の何物も含まぬ視線を物怖じせずに迎え撃ち、てゐは今にも逃げ出しそうな、鈴仙ではなく、目の前のこの不可解な大妖怪から逃げ出してしまいそうな身体を必死に押さえつけ、あらん限りの勇気を搾り声を上げる。
「どうして、貴方たちがここに居るの?」
「棘々した言い方ねぇ。理由はどうであれ、助けられたんだからそれでいいじゃない」
欠伸を噛み殺すかのように告げる紫に、しかしてゐは頷かない。
ううん、と首を振って否定を返す。肩越しに背後を――こちらのやり取りに興味すら示さない博麗の巫女と、その向こう側の愚直なまでの鈴仙を見遣り、うん、と覚悟を決める。
「……よくなんて、ない。もし、もしも貴方が鈴仙を討伐するためにやってきた、って言うのなら、」
理由は知らない。原因なんて関係ない。鈴仙がこの首を刈ろうと望んでいることがどうしようもない、醒めてもいまだその中に居る悪い夢のようにかき消せない現実なのだとしても、自分が、私が因幡てゐであるのなら、
「鈴仙は、討たせない」
たとえその反逆が、検討の必要すら必要ない愚行なのだとしても。
「私が、鈴仙を守ってみせる」
家族を護るため、この命。
喜んで、捧げよう。
てゐの誓いを耳にして、紫は僅か一瞬表情を消した。目が細められ、鋭い――否、透明な、如何な障壁も意味を成さずに全てを見透かすような、色の無い、防ぎようもない視線をこちらに向けてくる。
その視線に、その瞳に。
ぞくり、と背筋が震えた。自分がどんな相手に喧嘩を売っているのか、意識ではなく身体が先に理解した。
喉が詰まる。呼吸が止まる。血管を流れる血流が、その全てを逆転させられてしまったかのような感覚。動けない。知っている、とてゐは思う。逃げろ、という命令を出すことすら出来ない意識のままで、しかし何処か冷静と自分を観察する別の自分を感じる。逃げろ、無理だ、逃げろ、無理だ、何故だ、だってどうせ、
――逃げられない。
それは、遠い昔の記憶。まだ野に住み、毎日きままに地上を駆け跳んでいた頃の記憶。茂みから姿を見せる狐に、青空に陰を落とす鷹に、疎密無く命の終わりを見たあの日々。刈られる側だった日々。意識ではなく、本能で危険を避けねば生きていることすら出来なかった過去のお話。
それを、思い出す。意識の底に封じていた記憶。化生と成ったとき、最早二度と思い出すことは無いとたかを括ったそれら。
どうして、忘れていたのだろう。
「……ふふふ。兎の癖に、大きく出たわね」
かつて、自分が――ただただ、狩られることに脅える存在であったのだと。
「でも、まあ」
細めた瞳をそのままに、紫は淡々と呟いた。
その手が、ゆっくりと伸ばされる。
てゐは動こうとして、動けないままの自分を思い出した。否、動けないどころの話ではない。目を逸らすことさえ許されず、視界を覆おうとするその手を振り払うことだって出来ない。
そうして、紫の差し出した手の平が視界一杯に広がり、
「よくできました、と言っておきましょうか」
苦笑するような声音が聞こえ。
くしゃり、と頭を撫でられた。
「……え?」
「お聞きなさいな、可愛い可愛い子兎さん。私は別に、あの子をどうしようと言う気はないわ」
降ってくる言葉は、事実として慈しみに満ちている。
呆然と顔を上げれば、そこに紫の微笑みがあった。幼子を落ち着かせるような、それでいて何処か苦笑を孕む、幻想郷の全てを受け止め愛するような、そんな抱擁の念に満ちた微笑み。
「ただ私は、違えたものを正すだけ。解れた理を繕うだけですわ。貴方の大事な家族には瑕一つつけませんから、ご安心なさいな」
「ほ、本当……?」
「ええ、本当よ。例えば、」
言って、紫が僅か目を細めた瞬間、それまで絶え間無く、愚直という言葉でさえも適切であるかのように延々と鳴り響いていた音が不意に途絶えた。
え、とてゐは声を洩らす。途絶えた音。鳴り続けていた音。それは例えば金属製の鎚同士をぶつけ合うような、そんな鈍い重低音。
「紫!」
霊夢の厳しい声が響く。が、紫は浮かべた微笑みを崩さない。
てゐは肩越しに背後を振り返った。見えたのは紅白が印象的な霊夢の巫女服。一撃を繰り出し、次の一撃の予備動作に移っている鈴仙。霊夢の張った、鈴仙の接近を決定的に疎外していた二重の結界。
先ほどまで飽くなく繰り返されていた光景。終わりの無かった筈の情勢。
ただ一つの例外を上げるとするのなら、それは。
鈴仙が、結界のこちら側に踏み込んでいるという事実だろう。
鈴仙は小さな、しかし確かな重みを孕んだ踏み込みを響かせながら更に一歩を踏み込み、躊躇わずにその手の剣を水平に振るう。ひょ、と空気が妙な音で鳴き、刃が目標の、当面の障害と判断したか、それとも刃の届く圏内に居たからかは知れぬが、霊夢の首へと滑る。もはや何度その重たそうな得物を振るったのか知れぬというのに、鈴仙のその動作には疲労の欠片も窺えはしなかった。
触れれば確実に首を切り落とす一撃が巫女の首を捕らえたかと思えた瞬間、霊夢は上体を反らすかのようにしてその一閃を回避した。無念そうに過ぎ去る刃。しかし霊夢は刃の行く末に興味を見せず、回避動作の勢いをそのまま利用して背中から地面へと倒れこむ。
接地の瞬間、紅白の巫女は両の腕で身体を支え、落下の衝撃を腕を折り曲げることで吸収した。逆に、そのばねを解き放ち下から上へと、矢の様な勢いで蹴りを放つ。直線の軌道を描くそれの先に居たのは、剣を振るったばかりの鈴仙。霊夢の蹴りは、真っ直ぐにその腹部へと吸い込まれ、その寸前、鈴仙の手にした剣の柄に阻まれる。
あら凄い、と何処か場違いな紫の感嘆が耳に届いた。
霊夢は蹴りの反動で身を起こす。一方、蹴りを防いだ鈴仙は、その勢いだけは消しきれなかったのか、大きく後ろに下がっていた。無表情のまま剣を握り直し構えを取るその姿には、瑕は無論のこと、疲労という不可避のものさえ遠くに置き忘れた、ある種の潔癖ささえ読み取ることが出来た。
しかし、鈴仙の紅い視線を迎える霊夢の表情は曇っている。原因は問うまでもなく明白。霊夢の右の首筋が浅く切れ、そこから沸き水のように血が流れているのだ。首を反らすのが刹那遅かったのだろう。幸いにも致命的な一撃は避けられたようだが――その瑕は、それに近いものであるだろう。
止血は急務だと思われる。だが、勿論、鈴仙はそんな時間を与えてはくれる筈が無い。
事実、鈴仙は霊夢の出血を認めたか、再び彼我の距離を詰めようとして――動かなかった。
「……まったく」
呆れたように、霊夢が呟く。視線を緩め、包帯代わりだろう、手早く巫女服の袖を破り首に巻きつけた。溢れた血が白の布を赤く染めるが、どうにか過分の出血は抑えられたらしい。霊夢はこちらへ、否、てゐの背後の紫へと顔を向ける。
「紫。変なことしないで頂戴」
「あら、私何かしたかしら?」
「よく言うわね。私の張った結界、切られたんじゃなくて勝手に隙間が開いてしまったんだけど?」
「あらあら、それはご愁傷様。けれど、事態を掴めていない子兎さんには簡単な解説が必要でしょう? ――ほら、御覧なさいな、子兎さん」
申し訳なさの欠片も見当たらぬ声で紫は語る。背後からてゐの頬に手を添わせ、てゐの顔を逃げることを許さずに二人へと向けさせた。
「これが、幻想郷の正しい形。お分かりかしら? 妖怪は人間を狩り、人間は妖怪を討つものよ。絶対的な勝者が存在しない循環の理。それが幻想郷を幻想郷足らしめている根本的な決まりごとの一つ」
完全に身体から緊張を抜いた霊夢の向こう側で、鈴仙は剣を構えたまま、しかし動かない。
そのことにてゐは疑問を抱き、すぐに解答へと辿り着いた。鈴仙の足元に、何本かの光の線が走っている。先ほど霊夢が張っていた二重結界と酷似していながら、明らかにより高度な多重の結界が、鈴仙の足を捕らえ動きを停止させていたらしい。
小さな声で笑いながら、耳元で紫が言葉を紡ぐ。
「いいかしら、子兎さん? 私は別に、あの子が壊れたままどれだけ人間の首を撥ねようと、また、それを恐れた人間に極度の消耗戦を仕掛けられた末に追い詰められ討伐されたとしても、特に興味がございませんの。勝手になさればよろしいわ。けれど、けれどね子兎さん、妖怪と妖怪が本気で戦ってはいけないの。お互いが楽しむための弾幕ごっこや、その類なら構わないけれど、本気での潰しあいは決して許されない。それは幻想郷の理に反することだから。だから私は、それを止めるためにわざわざ顔を見せたのよ」
「本当に口が達者ね、紫。もういいから、さっさと片付けちゃいなさいよ。これ以上茶番に付き合せないで」
「もう、せっかちねぇ。珍しく真面目なこと言ってるんだから、大人しく聞くのが筋でしょうに。けれど――ええ、そうね。どうせ言う必要も無く誰もが知っている事柄ですもの。意識化に置いているのは、それこそごく一部でしょうけれど」
くすくすくす、と喉を震わせて紫は笑う。
す、とてゐの頬に添えられていた手が鈴仙へと伸ばされ、
「お目覚めなさい、罪から目を逸らしたお兎さん。貴方がどのように壊れようと興味はありませんけれど、壊れるのなら幻想郷の中で見つけた縁で壊れなさい。外から持ち込んだ理由で壊れられては、迷惑ですわ」
あくまで笑みは崩さずに。柔らかく、全てを受け入れるかのように。
純然たる事実として慈愛に満ち溢れる声音で紫はそう言い、ぱちん、と小さく指を鳴らした。
音も無く、鈴仙の足元に展開されていた四重の結界が砕け散った。鈴仙はそれを受け、いま一度踏み込むためだろう、僅かに身体を沈め、その直後。
「――ぇ?」
鈴仙の口から、小さな疑問の声が洩れた。
てゐは鈴仙の変化に気付く。妖精たちの返り血で染まりきった衣類、髪、顔。緩い反りを持つ重たそうな剣。紅い、沈み行くように何処までも赤く紅い狂気の瞳。それらはなんら変わりない。外見的に窺える多くの特徴は、なんら変化を受けていない。
だから、変わったのは本当に小さな幾つかの事柄。
例えばそれは、その顔に浮かんだその表情。強張ったような、涙を堪えているような、夢を見ているような、呆けているような、そんな、様々な種類の感情が織り交ぜられたかのような表情。
そして、その赤い瞳の中に確かに輝く見慣れた光。理性という名の、弱々しい、しかし確かに灯った小さな光。
「ほら、これで元通り。小兎さん、あなたの大事な家族は正気に戻りましたわ」
ふわり、と背中に寄りかかっていた紫の感触が離れる。
小さな笑いを絶やさぬ紫は、ですけれど、と小さく前打った。
「残念ですわ。私、あの兎さんの理性と狂気の境界を弄ってしまいましたから――もう、先ほどみたいに狂うことで壊れることを免れよう、だなんて甘い精神防衛は出来ませんの」
その言葉の意味を、てゐが理解するのとほぼ同時。
「――てゐ?」
呆然とこちらを見ていた鈴仙が小さな声で名を呼んで、直後、
「う――あ――――ッ!?」
喉から搾り出したかのような、苦しげな声を残し。
鈴仙・優曇華院・イナバはあっという間に身を翻し、竹林の向こうへと姿を消した。
「あ、鈴仙!」
てゐは鈴仙の名を呼んで後を追いかけようとし、その瞬間、くい、と首根っこを後ろから掴み上げられる。
「お待ちなさいな、小兎さん」
「な――何するのよ!」
「いえいえ、特に何をするというでもありませんわ。ですが、心苦しいながらも忠告しておきますのが義務かと思いますの」
そんなものを聞いている場合ではない。そう思いてゐは紫の手を逃れようと暴れるが、存外紫の手は容赦なく、決してこちらを逃がしてはくれなかった。
否、そもそもの話として。
続いて耳に届いた紫の言葉が、この身から、逃れようという意思を根こそぎ奪い取ってしまった。
「よくお聞きなさいな、小兎さん。あの兎さんがこの場から逃げたのは、小兎さん、貴方が此処に居たからですわよ?」
「……え?」
力無い声で、てゐは聞き返した。
紫の言葉の全てを理解できない、否、理解したいと思えないが故に。
「私が、居たから?」
「ええ、そうですわ小兎さん。うふふ、思い出しても御覧なさいな。小兎さん、貴方の言った一言で、あの兎さんはああなってしまいましたのよ? そのままでは迷惑ですからそれは私がなんとかしましたけれど、私は別に、あの兎さんを癒したわけでも、その心に防護用の結界を張ったわけでもございませんわ。そして現実は、あの兎さんが壊れた時となんら変わっておりませんもの。もう一度壊れてしまえば楽なんでしょうけれど、私、面倒は嫌いですからそんなことは許して差し上げませんわ。そんなことを許せば、またこんなことをしなければなりませんもの。ですからそうならないように境界をちょっぴり弄ったのですけれど、だからこそ、あの兎さんは壊れることが出来なくなりました。だから逃げ出したのですね。現実から、いいえ、現実を突きつけた小兎さん、貴方から逃げ出すために。ですから、貴方がどれだけ兎さんを追いかけたところで、兎さんは逃げ出すだけですわ。小兎さん、貴方に兎さんを踏みとどまらせる何かが無い限り、ですけれど」
流れるようにそう言って、紫はてゐを掴んでいた手を離した。短い距離を身体が落下する。しかしてゐは受身の一つ、着地の一つも出来ずに地面に落ちて座り込んだ。
呆然と――紫の言葉を、理解することも出来ないままに背後を見遣り、仰ぐ。
紫は、笑みを浮かべている。
うふふ、という笑いが耳に届いた。
「可愛い可愛い小兎さん。貴方にそれがありますかしら?」