・この作品に出て来るスペルカードには、少しだけ作者独自の解釈が入っております。そういうのが苦手な方は、ご覧にならない方が良いと思います。もしそれでも大丈夫という方は、良かったら見てやって下さいませ。
その日、十六夜咲夜は猛スピードで紅魔館の廊下を走り抜けていた。
緊張に強張った顔から、一筋の汗が滴り落ち、瞬く間に速度にのれずに置き去りにされるが、今の彼女にそれを目で追う余裕など、まったく無い。
やがて目的の扉が見えると、走りこむ勢いもそのままに、部屋へと飛び込んだ。普段の【完全で瀟洒な従者】と呼ばれるメイド長からはとても想像できない、狼狽した表情で。
「……遅かったわね、咲夜」
ノックもせずにドアを開けた従者の非礼を見ても、館の主である【永遠に紅い幼き月】レミリア・スカーレットは眉一つ動かさなかった。何故なら今の彼女にとって、そんな些細な事はどうでもいいのだから。
彼女の隣では、普段は図書館から滅多に姿を現さない、【知識と日陰の少女】パチュリー・ノーレッジが手に持った本に物凄く顔を近づけながら、何やらブツブツ呟いている。咲夜が部屋に入ってきたことにも、まったく気付いていない様子だ。
尤も、咲夜は目の前の魔女が、今はとある事情によって魔法に全神経を集中させている事を知っているので、別に気にもとめない。
特に緊急事態である、今の様な状況では。
「――妹様は?」
「さあ……? まったく、あの子にも困ったものね。何の前触れもなく、突然壁を壊して飛んで行っちゃうんだもの」
肩をすくめながら、レミリアはため息を吐いてみせた。苦笑する顔には、我が子の世話に手を焼く母親――それに似た感情が、浮かび上がっている
そんな主の顔を見て、咲夜は胸の奥に茨が刺さるような痛みを感じるが、それを顔には出さずにそっと耐える。
無駄に弱みを見せていては、主に余計な心労を負わす事になる。それだけは、どうしても避けなければならない――今の様な切迫した状況なら、尚更だ。
すでに【完全で瀟洒な従者】へと戻った彼女の耳朶を、パチュリーの静かな呟きが打ったのはその時だった。
「……ふう、座標特定完了。妹様はここよ」
持っていた本を二人に見せるパチュリー。そこには上空から見た紅魔館付近の地図が載ってあり、ひとつの赤い点がかなりの速度で紅魔館から離れていくのが確認できる。
恐らく、これが妹様――フランドール・スカーレットの位置を示す記号なのだろう。
場所さえ分かれば、後は追いついて説得をするだけである。無論、言葉による説得など最初から期待していないが……
何時の間にか手のひらに現れた銀の大振りなナイフを握り締めると、咲夜はこれから為すべき事を頭に刻み込みながら、部屋を後にしようとする。
「私はこれから、美鈴と共に妹様を説得しに行きます。お嬢様とパチュリー様は――」
「待って、咲夜」
静かで力強く、しかも予想だにしない言葉に咲夜は、その場に足が縫い付けられたかのように、ピタリと歩みを止めた。
振り返れば、相変わらず苦笑した表情の主の姿。
「今回だけは……今回だけは、貴方達が出なくても大丈夫そうよ」
目を瞑り、胸の前で何かを抱えるかのように手のひらを広げるレミリア。その仕草に咲夜は、主の能力を思い出す。
彼女は運命を【視て】いる。【運命を操る程度の能力】を持つ彼女にとって、【視る】事など造作もないのだ。
「……だからね、咲夜」
尚も目を瞑りながら、静かに続けるレミリア・スカーレット。その口調は、命令というよりは懇願――いや、お互いをよく知る親友に【お願い】をする時のものだった。
「今回だけは、あの子の好きにさせてあげましょう?」
その笑顔の、何と優しいことだろう。姉としてとか、母としてとか、あるいは同じ悠久に近い時を過ごした仲だとか――そういった物が世俗的に感じられるような、すべてを包み込む微笑だった。
こんな笑顔を見せられては、殺伐としたナイフを握る気力など瞬く間に失せてしまう。現に咲夜のその手は、もうナイフを握っていなかった。
「……仰せのままに」
咲夜は従者で、レミリアはその主。それなのに【お願い】という、およそ主従の関係に似つかわしくない事を言われたのだ。これで従わずして、何の為の従者か。
だから【完全で瀟洒な従者】は、素直に主の【お願い】に従った。
一方、このやり取りを何も言わずに傍観していたパチュリーはというと……
「本当に、大丈夫なのかしらね」
誰にも聞こえないようなため息と共に、内心の不安を吐露していた。
◆◆◆
その日、【四季のフラワーマスター】風見幽香はいつものように向日葵達と一緒に居た。
別に何をやっている訳でもない。ただここで、いつものように日傘をさして、いつもようにチェック柄の服を着て、いつものように向日葵畑を散歩をするだけである。
時たま迷い込んでくる人やら妖怪やらを驚かして、その恐怖に慄いた顔を見るのが唯一の楽しみなのだが、最近はその機会もめっきり減ってしまい、こうして暇を持て余している日々ばかり続いていた。
「はぁ……暇ね」
向日葵畑のど真ん中にポツンとある、それなりに大きな岩。そこに腰掛けながら、幽香は誰に言うでもなくため息と一緒に吐き出す。こうやって愚痴を言うのも何度目だろうか。
なら、何処かへ遊びに行けば良いのでは、と誰もが思うだろう。しかし幽香は、そこまで乗り気ではなかった。なにせ遊びに行く場所と言っても、貧乏神社ぐらいしか当てがないのである。いい加減、紅白巫女をからかうのも面白味が失せてきたし、巫女自体があんまり相手にしてくれなくなったのだから困りものだ。
「何か面白い物でも、空から降ってこないかしら」
期待も何にも込めてない口調でそれだけ口にすると、幽香はばふっと仰向けに倒れこむ。
視線の先には、薄暗い曇天。今日は本当に、良い天気とは真逆の曇り天気である。尤も、だからといって気分が変わるものでもないのだが。
「……ん?」
不意に、素っ頓狂な声をあげる幽香。その視線の先には、先程と変わらない雲一面の空――否、何かがあった。極々小さな何かが、点のように見えていた。
「あれは……」
その何かの正体を知る為に、幽香は目をすっと細める。もちろん、それで分かるはずもないのだが。
やがてその点はずんずん大きくなり、最早無視できないほどに大きくなってそして――
そこまで大きくなってやっと、幽香にもソレが何か分かった。
一人の少女が、空から降ってきていたのだ。
ずん、と地響きを立てて、向日葵畑に少女が落ちる。
余程高いところから落ちてきたのであろう。落下の衝撃によって巻き込まれた向日葵の花びらが舞い散り、辺りが一瞬で土煙に呑み込まれる。
これではとてもじゃないが、少女は無事ではないはずだ。口元を手で覆いながら、幽香は冷静に考え答えを導き出す。
やがて土煙が晴れたそこには、円状に抉れた地面と。
無傷で、そして二本足で立っている少女が居た。
その背には、宝石と枯木を組み合わせたかのような、一対の歪な翼。
多少、驚きに目を見開く幽香。いくらその名を幻想郷に轟かせる大妖怪でも、自分がついさっき言った言葉がいきなり現実の物になるとは、夢にも思わなかったのだろう。まさに【事実は小説より奇なり】である。
そして同時に、自分の口元が喜色で綻ぶのを感じ取った。目の前で起こった出来事から察するに、これで今までの退屈とはサヨナラできそうなのだから。そう考えるだけで、心が躍る思いだった。
仮に目の前の少女が、禁忌だろうと災厄だろうと混沌であろうとも、今の幽香にはまったく関係ない。
楽しめるのなら、何でも良いのだから。
◆◆◆
「こんばんは、良い天気ねぇ」
ニコリと快活な、しかし何処か歪な笑みを浮かべながら、空から落ちてきた少女は挨拶をした。昼間に似つかわしくない、夜の挨拶で。
「こんにちは、お世辞にも良い天気とは言えない天気ねぇ」
対する幽香は、比較的普通の挨拶で返す。尤も彼女の微笑みも、何処か人外特有の胡散臭さを漂わせていたが。
「えぇ? これだけ良い天気なのに、何が不満なのよぉ?」
いきなり不満顔になりながら、少女は悪態をついた。
初対面だというのに突然の無礼な態度と、この憂鬱な曇天が素晴らしい天気だと言う奇妙な言動。
随分と捻くれた性格だなと幽香は思ったが、そんな事は決して口に出さないつもりだった。
「あら、昼のこの時間に夜の挨拶をして、おまけにこの天気が良い天気だなんて……貴方って、かなり捻くれているのね」
言わないつもりだったのだが、気が付いたときには言ってしまっていたのだから仕方が無い。もしここに仮に、例の紅白巫女が居れば「自分の事を棚に上げるんじゃない」とでも突っ込んでいただろう。
案の定、目の前の少女はますます不機嫌な顔になってしまう。まあ無理もない、目の前の相手にいきなり「捻くれている」などと言われては、むしろ怒らない方が可笑しい。
「ふん、だいたい何よ、この馬鹿みたいにでかい花は。太陽みたいに見えて気味が悪いわ」
今度は周りに咲き誇る、大輪の向日葵に向かって悪態をつき、物言わない彼らを忌々しげに見つめている。
何だか、かなり我侭で理不尽だなぁとも幽香は思ったが、今回こそ口に出さなかった。
「向日葵は嫌い?」
「始めて見たけど……どうやら、好きになれそうにはないわねぇ。この花も、そして貴方も」
「そう。じゃあ貴方は、どんな花がお好みなのかしら?」
「決まっているじゃない」
ニタリと、少女は笑った。無邪気でいて、それでいて何処か底冷えのする笑みで、ニタリと笑った。何時の間にかその手には、一枚の符が握られている。
幽香はそれが何かを瞬時に悟った。これでも一応、それなりの年月を妖怪として過ごしてきたのだから。
「血の様に真っ赤な、クランベリーよ」
瞬時に悟り、それがスペルカードだと分かるや否や、即座に飛び退いて距離をとった。
常人には考えられないほどの跳躍力で、数メートル後ろへと着地。それでも視線は絶対に、少女から離さない。
これによって少女が何かを発動しても対応は出来るはずだ。幽香は、そう考えていた。
しかし。
【禁忌「クランベリートラップ」】
しかし幽香が飛び退いた事は結局、徒労へと終わってしまった。
何故なら少女がスペルカードを宣言すると同時に、広大な向日葵畑が一瞬で炎に包まれたからだ。
炎。
右を向けば紅い炎。
左を向けば蒼い炎。
正面を向けば、蒼と紅が混じり合った紫紺の炎。
数えるのも馬鹿らしくなるくらい、膨大な色とりどりの炎の玉。
その数に、一方的に蹂躙されていく向日葵畑。
勿論、幽香とて例外ではない。一瞬で炎に呑み込まれ、何か行動を起こす間もないままに消えてしまっていた。
鮮血の様な紅。
大海の様な蒼。
そして、宵闇の様な紫紺。
無数の三色の炎の玉は、向日葵畑を蹂躙し尽くしても、まだ物足りないかの様に瞬く。
どこか非現実的な光景は――活気に満ち溢れ、そしてどこか甘いモノも含んでいるそれは――収穫時期のクランベリー畑を思わせる。
たった今、向日葵畑からクランベリー畑へと成り変わった場所の中心で、少女はとても、とても嬉しそうな笑顔に歪みながら、空に向かって笑い出す。
「――あは! あはは! あははははははははははははははははははははははははは!」
何がそんなに嬉しいのか聞きたくなるくらい嬉しそうに、空に向かって笑っている。
「アハハ! アハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
「うふふ、随分と楽しそうね?」
「――!?」
【花符「幻想郷の開花」】
突如聞こえた静かな笑い声とスペルカードの宣言。それに対して少女が何かしらの行動を起こす前に、三色の炎は一瞬で掻き消されてしまう。
否、呑み込まれてしまったのだ。今やこの場所に隙間無く咲き乱れる、向日葵達によって。
風見幽香の能力は【花を操る程度の能力】。スペルカードによって命を与えられた花の種を操り、それによって炎を呑み込む事など、彼女にとっては造作もない。
数分前の状態に戻った向日葵畑の中心で、何事も無かったかの様に幽香は立っていた。あまりの光景に呆けている歪な翼の少女に向かって、そっと微笑みながら。
「血の様に紅いのが好きなら、もっと他に良い花があるわ。薔薇とかチューリップとか……後は、曼珠沙華なんかも素敵よ?」
相変わらず舐め回すような微笑みを浮かべる幽香だったが、実際にはその余裕綽々な態度とは裏腹に、少女の動きをひとつも見逃さないよう、冷静にそして用心深く観察している。
先程のスペルカードの威力、展開の速度、そしてそれを行使する少女自身の魔力。
どれをとっても危険で、退屈とは無縁の要素なのだから。
とてもじゃないが、今ここで目の前の【楽しみ】から注意を逸らせる程、風見幽香という大妖怪は我慢強い性格ではない。
「……」
「あら? 自慢のクランベリーが無くなっちゃって声も出ないのかしら?」
わざとらしい挑発にも、少女は反応を見せない。相変わらず、何処か呆けた様な表情でボーっと突っ立っているだけだ。いい加減待ち遠しくなった幽香が、本気で相手をしようかと思い始めた時。
少女は小さく口を開いた。
「――まえ」
「え?」
ボソボソと何か言ったので、よく聞き取れなかった。思わず素っ頓狂な声をあげてしまい、心の中で自分を叱咤する幽香。
大妖怪である自分は、常に余裕と毅然と優雅に溢れてなければならないのだ。風見幽香という、幻想郷でも屈指の力を誇る大妖怪は、特に。
それが、幽香が唯一自分自身に課した矜持なのだから。
「貴方の名前よ、何ていうの?」
一方の少女は、幽香の内心には気付いた様子もなく、ただ名前を聞いてきただけだった。
その顔には、相手の名前が気になる以外には何も浮かんでいない。まさに、幼い子供の好奇心でしか形作れない表情。【無垢】という言葉以外に、当てはまる物が無い表情だった。
もっと単純に言えば、純粋過ぎて眩しいくらいの表情だった。
だから。
「人に名前を尋ねる時は、まず自分から名乗ることよ。分かったかしら?」
だからこそ、ついつい苛めたくなってしまい、こんな台詞を口にしてしまう。捻くれているとか何とか言われようが、やっぱり止められないものは止められないのだ。
苛めてみたいモノを苛める。これの何処がいけないというのか? これが幽香の持論である。
尤も、目の前の少女には、それがちょっとした苛めであるという風には、捉えられなかった様だが。
「ふーん、分かった。じゃあ私から名乗るわねぇ。私の名前はフラン、フランドール・スカーレットよ」
腰に手を当てて、お世辞にも膨らんでいるとは言えないその胸をぐっと張り上げながら、少女――フランドール・スカーレットはフンッという鼻息と共に、何処か偉そうに自己紹介をした。
「さ、言われた通りに名乗ったわよぉ。貴方の名前、教えてくれない?」
尚も興味津々な様子で尋ねるフランに対して、幽香は一言だけ言った。
「嫌よ」
簡単な、しかしはっきりとした拒絶の言葉を吐き捨てると同時に、幽香は動く。
一瞬その姿がブレたかと思うと、いきなり二つの姿に分離した。左と右にそれぞれ一人ずつに分身した二人の幽香は同時に、持っている日傘の先端を前方の少女に向ける。
突然の辛辣な一言を受け止めきれずに、ただ呆けている事しか出来ないフランに向かって、優しくも残酷に笑いかけながら。
やがて日傘の先端に収束し出した強大な魔力に気付き、慌ててフランが何かを仕掛けようと動くも、時既に遅し。
「いきなり人(?)を燃やしといて、それで後から名前を教えてだなんて……非常識にも程があるわよ、悪魔の妹さん?」
言葉と同時に放たれた二つの魔力の塊は、圧倒的な破壊の光となって全てを吹き飛ばした。
フランドール・スカーレットと、その周辺に存在したほとんどの物を。それも瞬きする間も与えずに。
轟音と共に突き進んだ二本の光は、悪魔の妹と恐れられる少女に臆する事も無く、ある意味では全てに平等に破壊を与えた。
見える物を片っ端から薙ぎ倒していく光。
激しく明滅しながら、己の威力を誇示するかの様に暴虐に荒れ狂う二筋の光。
しかしその光を使役している張本人は、その力に似合わない物憂げな表情で静かに見つめているだけだった。
「曇りとは言え、真っ昼間から活動できる吸血鬼だから、もう少し楽しめると思ったんだけど……はぁ、呆気ないわね」
憂鬱そうな言葉と共にみるみる光は収まっていき、幽香も二人から一人へと戻る。
その前方には、圧倒的な力で抉り取られた無残な大地。
悪魔の妹の姿など、何処にも見当たらない。勿論、その残骸すらも。
「貴方は所詮クランベリー。見掛けだけでしか血を装えない、本当は甘酸っぱいだけの平凡な果実……その程度なのよ、貴方は」
嘲る様な言葉自体とは裏腹に、口調には感情が全く込められていなかった。何故なら、最初から返答を期待していないからだ。そして案の定、その呟きに答えは無い。あるはずなど無いのだ。
だって、それに答えてくれる相手は今さっき幽香が――
「……ふーん、じゃあこれはどう?」
なのに、だ。既にこの場には居ないはずの少女の声が、何処からか幽香の耳朶を打った。
そして同時に、抉り取られた大地から何かがボコリと生える。
多少汚れてはいるものの、まず見間違えることは無い物。
それは腕だ。
少女特有の細くて白くて儚さを漂わせる、一本の腕だ。そしてその手には、何かが握られている。
握られているのは、一枚の符。それを符だと幽香が確認する暇を、今度は腕の主は与えてくれなかった。
【禁弾「スターボウブレイク」】
宣言と同時に幾つかの【何か】が大地を突き破り、辛うじて視認出来る程の速度で上空へと浮上する。その数、実に七つ。
そして、一旦速度を緩める。かと思えば、またもや速度を加速させながら今度は、幽香目掛けて上空から一気に突っ込んできた。
飛来するソレは、物質に例えて表現するのが難しい。あえて言うなら光の矢――七色の光の矢だ。丁度、悪魔の妹の背に生える、あの歪な翼を思い起こさせる七色の矢だった。
「……それだけ?」
対する幽香は、向かってくる七色の矢を見てもまったく臆さない。むしろ、ニタリとその顔を気色に歪めながら、自分を狙う凶弾を睨みつける。そして、すっと左手を掲げると、パチンと指をはじいた。
光の矢の前に突如として、宙を舞う大輪の向日葵達が現れたのはその時だ。
根も茎も葉も無いのに、空中に花だけが咲き乱れ踊り狂うその光景は、あまりに現実離れし過ぎている。
始めこそ行く手を阻む向日葵達を難なく貫いていた光の矢だったが、見る見る内にその速度を落とされていき、ついに威力を失ったところを呑み込まれ、呆気なく消えてしまった。
「そのまま貴方も、向日葵にしてあげるわ」
高々と声をあげる幽香。それが合図であるかの様に、向日葵達は一斉に少女の腕が生えた場所へと群がりだす。その様子はさながら、生まれたてのシマウマに襲い掛かるハイエナを想像させるだろう。
もし、この一連の遣り取りを見ていた者が居たとすれば、きっとこう思っただろう。
『嗚呼、勝負はついたな』と。
だが忘れてはいけない。埋まっている少女はシマウマでも、ましてやハイエナなどという生易しい獣でも無い。
【ありとあらゆるものを破壊する程度の能力】を造作も無く行使できる、悪魔の妹なのだ。
「きゅきゅきゅっとね」
意味不明な言葉が静かに響いた次の瞬間、少女に群がっていた向日葵達に変化が起こる。
一斉に握りつぶされたかの様に縮こまり膨張し、そしてバラバラに引き裂かれた。
呆気ないほどひとつの例外も無く、馬鹿馬鹿しいくらいに別け隔てなく、ぞっとするくらい全てに平等に。
「な――!?」
目の前で起こった光景に、さしもの幽香も我を忘れて絶句した。
無理も無いだろう、【ありとあらゆるものを破壊する程度の能力】を実際に目の前で見たのは、彼女とて初めてなのだから。
そして破壊された向日葵達の向こうから、少女の腕が消えている事に気付かなかった。
「あらぁ~? そんな風にボーっとしてていいのぉ?」
声は、上空からだ。
幽香が声のした方向に顔を上げると、そこには椅子に座るかのように足を組みながら宙に浮いている、悪魔の妹の姿。
そして彼女の周りには、幾百――否、千を下らないであろう七色の光の矢。
その切っ先は微動だにせずに、眼下の太陽の畑に狙いを定めている。
主の命令でいつでも目標を貫く状態だと、容易に想像できた。
「そうねぇ、クランベリーは好きで向日葵は嫌いだけど、別にどっちも怖くないし。あーまんじゅう怖くない」
ケタケタと笑いながら、意味不明の言葉を口ずさむフラン。
ひとしきり笑い終わった後、今度はニタリとした笑みを浮かべて幽香を舐める様に睨みつけた。
「そして貴方は、怖くないけど面白ーい名無しの権兵衛さん。だから――」
本当に楽しそうに、本当に嬉しそうに、言った。
「――だからぁ、もっと遊びましょう?」
悪魔の妹が、大妖怪の真似をするかの様に、パチンと指をはじく。
次の瞬間、ガラスが一斉に割れた様な澄んだ音が、辺り一帯に響いた。曇天に静止する悪魔の妹の矢が、一斉に目標に牙をむいたのだ。
一瞬。
たったそれだけの間に、太陽の畑は七色の矢の軍勢によって、大地ごと貫かれ呑み込まれていく。
向日葵達も、腰掛けていたあの岩も、そして幽香も。為す術も無いまま、あっという間に七色の軍勢に呑み込まれてしまった。
轟音の轟く中、土煙をあげながら灰燼へと帰す太陽の畑。
曇天の中で見下ろす一人の少女は、とてもとても満足したように微笑んだ。
無邪気で、そして残酷に微笑んだ。
◆◆◆
ふわりと降り立ったのは、大地が抉られ貫かれ破壊された跡だ。ここが少し前は、大輪の向日葵が咲き乱れる太陽の畑だと言って、誰が信じるだろうか。
今やこの場所は、それ程までに何も無かった。
まだあちこちから、名残惜しそうに土煙があがっている。それを何気なしに見ているフランだったが、不意に不貞腐れた様な声をあげた。
「久々に外へ出掛けれて、おまけに面白そうなのと会えたのに……もう終わりー? つまんなーい」
ぶーぶーと悪態をつく様子は、何処からどう見ても子供のソレだ。
誰も居ない、何も無い大地の上で、一人の少女が言いたい放題に愚痴をこぼす光景は、妙に荒涼としながらも何処か滑稽な感じがしてしまう。
フランの誰に言ってる訳でもない愚痴はしばらく続いていたが、いつまで経っても誰も返事してくれないのに飽きたのか、とうとう何も言わなくなる。
「……帰ろう、かなぁ」
突然、妙に沈んだ口調で呟く。今やその表情は、先ほどまでの楽しそうな笑顔でも、不貞腐れたむくれ顔でもない。
夕暮れ時によって遊びが終わり、友との一時の別れを名残惜しむ悲しそうな子供の顔。
生涯の何割かを共にした、伴侶、友、仲間、ペット……それに先立たれ、哀しそうに見送る老人の顔。
まったく正反対の、しかし何処か似通った二つの感情が混ざり合った想いが、今のフランの顔に浮かんでいた。
「……」
最後に一度だけ、寂しそうに瓦礫の山を見つめる。しかし、そこに彼女の求めるモノは、無い。
歪な翼を羽ばたかせ、フランは太陽の名残り場から立ち去さって――
「あら、もうお遊びは終わりなの?」
背後からの聞き覚えのある声に、慌てて振り返る。
果たしてそこには、悪魔の妹が求めたモノが立っていた。
威風堂々と、しかし余裕綽々に、立っていた。
「折角、これから面白くなりそうだったのに……まあ、帰りたいのなら帰ろうとしてもいいわ。尤も……」
そこで言葉を止めてから、ニヤリと笑う。
獲物を狙う狩人の様に。玩具を弄ぶ子供の様に。大軍を引き連れる女王の様に。
大妖怪と謳われる程に優雅に、そして妖艶に、風見幽香は笑う。
「私が逃がしてあげないけどね。血の様に赤いだけの、甘酸っぱい悪魔の妹さん?」
皮肉混じりのその言葉の端々から、これでもかという自信が溢れ出ている。
多少服が薄汚れていたが、それ以外には目立った外傷などは無く、まさに五体満足の状態である。
溢れる自信の後押しもあり、圧倒的な存在感を放ちながら仁王立ちするその様は、まさに大妖怪の名に恥じない。
「――」
そんな大妖怪を目の前にした悪魔の妹は、かなり驚いたらしく目を真ん丸く見開いているだけだった。その表情は幼いフランの外見と見事に合わさり、中々に可愛らしいものがあった。
「……あんまり可愛いらしい顔をしちゃ駄目よ。だって、また苛めたくなるじゃない?」
対する幽香は、あくまで強気と自信に満ち溢れながら、さらに皮肉混じりの言葉を投げかける。傍から見ても、心底楽しそうなのがよく分かる様子だ。
口元に手を当てながら笑みをこぼす彼女は、優雅で妖艶……しかし尚且つ、可愛らしく幼いという、まったく正反対の言葉も想像させる。
そういった意味では――
「――アハハ、誰が誰を苛めるのかしらぁ?」
そういった意味では、相対する悪魔の妹が浮かべた笑みと、よく似ていた。
優雅で妖艶、可愛らしくあどけない。
無邪気で残酷、慈悲無く毅然。
威風堂々にして、余裕綽々。
そして心底、楽しそう。
今の二人の笑みは、よく似ていた。本当に、よく似ていた。
「あら、言わなきゃ分からない?」
尚も可笑しそうに笑う幽香。今の状況が面白くて仕方が無い、という雰囲気がこれでもかと醸し出ている。
そして、そんな皮肉混じりの言葉を投げかけられたフランは。
「……」
言葉を返すことなく黙したまま、パンッと両の手をあわせ、絡めるように組みなおす。そして組みなおした手の平をさらに、こね回す様に互いに撫で出した。
肉の裂けるような音が聞こえたのは、その時だ。
メキメキとした耳障りな音の出所は、フランが組み合わせた両の手の平。よく見ると、そこから何かが見え隠れしている。黒い、何かが。
少し興味を惹かれた幽香が覗き見ようとするが、よく見えない。
やがてフランが勢い良く両の手の平を離すと、その黒い何かの全容が姿を現した。
黒い何か。
それは今、奇妙に曲がった一本の杖らしき物体となって、フランの右手に握られていた。
「苛められたくないから、私も少し本気出すわ」
悪びれもせず、無邪気に笑いかけながら皮肉を言い放つフラン。
尚も興味深げに見つめる幽香に向かって、何も握られていない左手を見せ付ける。
――否、そこにはいつの間にか、何かが握られていた。薄っぺらい、一枚の紙状の物。幻想郷に住む少女なら、まず見間違えるはずが無い物。
それは一枚のスペルカードだった。
「……お願いだから、壊れないでね」
楽しそうな声の中に、少しだけ哀しそうな、懇願する様な響きが交じったのは、幻だったのだろうか。
それを確かめる術は無い。
何故なら今のフランの顔には、嬉しそうな感情以外に何も浮かび上がっていないのだから。
【禁忌「レーヴァティン」】
宣言、そして光。
あまりの眩しさに一瞬、世界が発光したかの様に光に包まれる。
咄嗟に傘で目を保護する幽香。そのおかげもあり、何とか視界の確保は出来る。
とりあえず光が収まるまでは、大人しくこの場で待機をするべき……彼女はそう考えかけていた。
だが次の瞬間、訳の分からない何かを感じ取り、全身が泡立つ様な感覚で鳥肌が立つ。
圧倒的で巨大。無慈悲にして平等。残酷な破壊。
そんな単語が脳裏をよぎるが、今はどうでもいい。己の直感を信じて、後ろへ飛べるだけの距離を飛ぶ。今この場からなるべく離れる事。自分の本能とでも言うべき部分が、そう告げていたのだから。
多少、屈み込みながら着地する幽香。少し無理な動きをした為、幾分か体勢が崩れてしまった。余裕綽々で相手を苛めるのを信条とする幽香は、少しだけその失態を恥じた。
だが刹那の差を置いて、そんな事はどうでも良かったと考えを改める。
唸り声を上げて、目の前を【何か】が通過すると同時に、先程まで幽香の存在した【空間】が破壊されたのを、肌で感じ取ったのだから。
「……ったく、洒落にならないわね」
少しだけ、ほんの少しだけ、目の前の事態に慄く幽香。
しかしそれも束の間。すぐにその顔は、楽しそうな笑みに成り代わっている。
圧倒的な破壊を目にしても、まったく臆していない。むしろ、戦闘意欲を燻られたかの様に、さらに生き生きとした表情へと変化している。
そんな幽香の周りから、光が退いていく。少しずつ少しずつ光は収束していき、やがてフランの右腕に握られたモノへと集まった。
巨大で圧倒的なソレを、何と表現してよいのだろう。
――否、表現するなら簡単である。しかし、あまりに非常識で出鱈目なソレに、何かを当てはめるという行為そのものが、馬鹿馬鹿しい事だと感じられずにはいられない。
非常識で出鱈目なソレ。まずは、その大きさに目を奪われる。
重さを感じさせずに握っているフランの数倍――否、十数倍の巨大さを持つソレは、何メートルあるのかと測るのが馬鹿らしく思えるくらいに巨大だ。
形状は、まさに剣という表現が相応しいだろう。尤も、炎の様に奇妙に波打ち、あちらこちらで光の様に瞬くソレを、剣という金属類の物体に例えるのはどうかとも思うが……
この世の物とは思えない、未知の存在。そう呼ぶのが、最も適しているのかもしれない。
しかしそんな非常識で出鱈目なソレからも、一つだけはっきりと認識できるモノが滲み出ていた。
すなわち、破壊。
触れるモノ、薙ぎ払われるモノ、貫かれるモノ、受け止めるモノ、ソレを使役する主の障害となるモノ……
モノと言われるものなら全て破壊出来るというメッセージが、物言わぬソレの全身から滲み出ていた。
ありとあらゆるモノを破壊するソレはまさに、【ありとあらゆるものを破壊する程度の能力】を持つ、フランドール・スカーレットが使役するのに相応しい。
世界を丸ごと焼き尽くす炎の剣【レーヴァティン】――その名に恥じない、代物だ。
「じゃあ、行くわよぉー!」
言葉と同時に、巨大な炎の剣を握り締めたフランが宙を舞い、その歪な翼を羽ばたかせながら、幽香へと一心不乱に突っ込む。
「……上等!」
対する幽香も、己を奮い立たせるかのような裂帛の気合と共に身構える。
向かってくるフランに対して、一片の畏れも見せずに笑いかけながら。
彼女達の遊びはまだ始まったばかり。まだまだ宵の口の二人は、心底楽しそうに嬉しそうに、遊びの渦中へと身を投じた。
『もう終わりなのツマンナイ』の類いは各1回以下にしとくべき。