Coolier - 新生・東方創想話

西行幽々夢 中の巻

2006/01/30 12:51:01
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 相変わらず、我の下に訪れる我以外は、眠るように動かなくなる。
 だが、我はそれ以外の方法を知らない。
 どれだけが過ぎたか。
 日が昇り、月が昇り、今日もまた、我以外が我の下を訪れた。
 変わらず、我は声をかける。我のことを教えてくれ。我を導いてくれ。
 半ば、訪れる結果を予想して、声をかけた。
 驚いた。我はそれが驚きであると、初めて知った。
 初めて、声をかけた我以外が、眠ることなく我と相対したのだ。






四.夜毎の手習いごと -西行寺幽々子-



 かこーん
 ししおどしの音というものが、聴く雰囲気によっては酷く間の抜けたものになると、私は今日、初めて知った。
 襖と土壁で仕切られた自室。間取りは四畳半。茶室にも近い造りで、欄間すら刻まれていない質素な部屋だ。余り物が置けないという難点はあるが、逆に物さえ置かなければこの部屋で十分という言い方も出来る。むしろ他の兄弟のように広大な自室、八畳間を割り当てられると、その空間の冗長性に困ってしまうので、成人の儀の際、少し我が儘を言ってこれからも変わらずこの部屋にいられるよう手配してもらったのだ。
 お父上などは相変わらず子供の気質が抜けないと嘆いたが、私としてはこの部屋を手放す気はさらさらなかった。
春は小窓を隔てて覗く内庭の椿が綺麗だし、夏は楓の新緑、秋になるとそれが鬼灯みたいに真っ赤に染まる。庭木がふわりと帽子を被る冬の新雪は、侘びの様そのものだ。この季節毎に讃える豊かな情景、年毎に堆積する仄かな機微を無くしてしまうだなんて、今では到底考えられない。
 そんなわけで、私の世界はこの四畳半に集約されている訳である。
 その毎日が刻まれた我が城で、今日の私はひたすらに頭を抱える。
 困った。非常に困った。遂に違和感を感じ始めた胃を押さえながら、私は本当に困っていた。
 それはもう床につく前から、朝起きて膳が運ばれてくる間も、先日のお祓いの報告書を書く間も、昼餉の玄米を口に運ぶ間も、今こうして宵闇が降り始めてからも、それはもう全身全霊をもって私は困っていた。
 余りの困りように、口から妖忌の形をした霊魂が洩れてしまいそうだった。
 あ、憂鬱になる名前を思い出してしまった。気をそらそう。
 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。

 そう、村落から帰って一眠りした私は、お父上に提出する先日のお祓いの報告書を書いた。
 妖怪とおぼしき人外の襲撃は結局、私が退治した三匹でお終いだった。勿論、私たちが人外を倒したことで全てが解決するかどうかは、きちんと時間も人手もかけた綿密な調査が必要なのだけれど、日が明けてお家からお使い人が来て、ひとまず私たちの調伏はそこで終了となった。
 一番の懸案材料は、退治した人外の遺骸が全て、消えてしまったということ。
 蛍火の胡蝶をまき、一片の肉はおろか、その血さえも残すことなく消えてしまった人外。
 人外の個体自体はこれまでの記録で確認できるくらいには著名で、固有名詞すら持つ妖怪だったのだが、果たしてこれを妖怪と称して良いかについては疑問が残る。あのような消え方をする妖怪は、少なくとも私の記憶では皆無だったからだ。
 かといってそのような現象に至る原因が断定できない。さて、お父上達には一体どうやって報告したものかと思案していたのだけれど、どうもここ最近、まったく同じように妖怪の遺骸が消えてしまう事件が頻発しているそうだ。すんなり話が通って、それでお終い。
 お父上は西行寺に対する怨恨の線で現在、捜査を進めているらしい。
 詰まる所、西行寺はここ最近になって俄に急増した人外災害を、誰かしらの作為が込められたものとして考えているということだ。人が人を疑うのは好きになれないのだけれど、人を疑うのもまた人たる証ともいえるだろうか。
 しかし、こうなってくると、妖怪専門の私たちに出番はない。以降の捜査をお家より派遣された専属の方々にお任せして、いささか後ろ髪を引かれながらも、私と妖忌は村を後にした。
 でも確かに、麗美な蝶をまき散らすあれは、何かの術のような気がする。
 臆病な私は自分の考えを元とする断定を極力、避けるのだけれど、不思議とこれには自信があった。
 本当に不思議で、何故か懐古の念すら抱くのである。本当、不思議。
 妖忌が斬った人外も、やっぱり跡形もなく消えていたそうで、飛沫を上げた血痕までもが綺麗さっぱりに無くなっていたのだと……か……。
 ……ああ、また思い出してしまった。途端に、胃がきゅうっと縮むのが判る。
 南無八幡大菩薩、南無八幡大菩薩……。
 気をそらさなきゃ、いくら何でも胃がもたない。何か他事、他事……。

「お嬢、日も暮れ始めましたが、まだ宜しいのですかな?」

 はうっ。
 きりきりきりきり……。
 嫌な汗が額にじわりと浮かぶ。奥歯を噛み締め、私は畳の上で猫のように丸まる。もう、ししおどしの音すら聴く余裕がない。
 ああ、どうしてこんな事になってしまったのだろう。私は心底、自分の不明を恨んだ。
 襖を隔てて中庭へと接する廊下に、妖忌が控えている。
 それはもう、獄囚を見張る番人のように、朝から張り付いて離れないのである。
 どうしてそうしているかというと、平たくいってしまえば私を見張るためだ。うん、獄囚とは我ながらうまく言ったものだと思う。いつの間にか、この麗しき四畳半が軟禁室だ。
 どうしてこんな事になっているかというと、事は昨日の早朝まで遡る。
 結果的に人外の襲撃は妖忌が斬った二体と私が屠った三体で終了したのだけれど、結果というものは終了に至るまで確定しないものだ。いつ追撃が来るともしれない為、臨戦態勢の緊張は朝に西行寺のお使い人が来るまで続いた。
 正直に言うと、一瞬の交錯とはいえ、私はあそこまでの接近戦を演じたのは初めてだった。
 身を裂かんと翻される爪。肉を喰らわんとむき出される牙。猛烈な速度で迫り来る人外。
 獣のような荒い息。聞くものを震わす甲高い奇声。その小柄な体に詰まった、張り裂けんばかりの恐怖。

 あそこで結界を発動できたのは、まさに奇跡だった。

 紙一重。辛うじて一線に止まった、私の命。
 瞬き一つの遅れで、きっとその灯火はたやすく絶たれていたことだろう。
 それからは傍に妖忌が控えていてくれたものの、一度植え付けられた恐怖心は完全に拭えなかった。
 いや、確実に私は恐怖していた。息がかかるほど肉薄した敵の恐怖に、未だ見えざる敵の恐怖に、私の心は脆く折れた。
 私を辛うじて支えたのは、村落の領民に対する義務感と、西行寺としての矜持だけだった。
 それだけに、西行寺から使いが来て、お祓いが終了となることを知った時には、心の底から安堵した。余りの安心感から、腰が抜けてしまったほどだ。
 大きく息を吐き、薄く煙る山村の中央でへたりと腰をつく私。既に人員は配置し終えたのか、お使いの人はもうどこかに消えていて、傍らに妖忌だけがいた。

「終わりましたな」

 見ると、平気そうにしている妖忌の目にも少しクマができていた。この苦労性の侍に、私は今回も心配をかけてしまったのだろうか。
 新しい術も覚えたし、今回ならばと思って勇んだ結果がこの体たらくだ。やはり、心配をかけてしまったのだろう。今回は私自身、いつもにまして疲労感が強い。
 妖忌に聞こえぬよう、こっそりと溜息をつく。背伸びをした所で、お守りをしてもらってすら一人前になれない末席。悲しい現実が私を打ち付ける。
 少しばかり私をこの世に使わした神様仏様を恨めしく思う。言っても栓のないことだけれど……。

「しかし、素晴らしい結界術でしたな。どなたの術です?」

「ええ、あれはゆかりの……」

 そう、ちょっとばかり不公平に思う位は許されるであろう、才色兼備の筆頭、ゆかりの術……。
 ゆかりの……。
 そこで私は慌てて口を押さえた。
 見ると、そこには爽やかな笑顔。能面のような、爽やかすぎて不気味すぎる笑顔。

「ほぅ、ゆかり殿に教わったのですか。それは後日、折り入って御礼申し上げねばなりませんな」

 しまった。もう絵に描いたようなお間抜けっぷり。口が滑ったでは到底済まされない大失態。
 わたわたと意味もなく両手を振り、あわあわと言葉にならない言葉を放つ。
 ああ、どうしよう。ああ、どうしよう。
 しかし、古人曰く、これはもう後の祭り。
 それにしても、気が抜けて安心しきっている所にこの不意打ち。なんて意地の悪い侍だろう。武士道の風上にも置けない。
 狼狽しながら私は、傷が一番少ない逃げ道を探す。
 が、妖忌は追及の手を弛めない。

「しかし、知りませんでしたぞ、お嬢。何の下準備も無しに、あれだけの威力を誇る結界を、それも瞬時に作り出せる術があろうとは。ゆかり殿とはさぞかし、ご高名な祓い師の方なのでしょうな」

 私は不意打ちを受けた動揺から立ち直るための余力を、答弁に裂かなければならない。
 から回る思考に頭が混乱し、湯気を立てる。
 取り敢えず何か答えないと……。混迷しきった私の頭脳には、黙秘という便利な手段の行使が欠片もよぎらない。これはひとまず、育ちの良さだと弁明しておこう。
 それはともかくとして、そんな状態の頭がはじき出す返答なんて、ろくなものであるはずが無く、

「えっと、本人はしがない、一介の結界術師だって」

 私自らの口でゆかりの存在を肯定してしまった。勿論、これは妖忌に対する返答なのだけれど、それにしてもどうしてこういう時は数多ある道で、最悪のものを選んでしまうのだろうか。
 既にこの時点で、自らが犯した失態に気づくだけの判断能力を私は失っていた。
 満足げに、妖忌は深く頷く。
 そして木漏れ日のような朝日を通す空を見上げながら、爽やかな顔でこう言った。

「さてお嬢。話は変わりますが、近頃、夜な夜なお屋敷より仔猫が一匹、こっそりといなくなるのですが、一体どうしたものでしょうな」

 今度こそ、本当に私は凍り付いた。まさか、

「未だ事は露見しておらぬようですが、余り夜遊びが過ぎるようですと、散歩はおろか、爪研ぎすら禁じられるやもしれませんな」

 まさか、気づかれていただなんて。
 詰み、である。喉を詰まらせたままぴくりとも動けない私に、妖忌はもう隠しもしない、勝ち誇った笑顔を向ける。

「ゆかり殿に拝謁願えますな?」

 というわけで、私は困っているのである。ああ、今思い出しても悔やまれて仕方がない。畳の上でばたばたと地団駄を踏む。
 これは私にとって非常に由々しき問題だ。何としても、妖忌とゆかりを会わせてはならない。
 何故かというと、妖忌とゆかりを会わせられない理由は、大きく言って三点ある。
 一つ、特訓自体が秘匿な事だ。
 先程、妖忌が言ったように、少なくとも西行寺に、私が披露したような結界術、気弾術は存在しない。そも、その莫大な破壊力と絶大な精度は十分に秘伝技といって差し支えない程のものだ。本来なら、私が教えを受けているというだけで十分に特例といえるものを、更なる余人に公開できるかと問われれば、否と答えざるを得ない。先方にもそのように釘を刺されている。
 そしてこの、西行寺が教えを受けている、という事実がまた規律に抵触する。それも、事が露見すれば姓名を剥奪されても仕方がないほどのものだ。
 西行寺が血縁や地位から外れるものに手解きを受けようと思うのなら、その人間を家に招く以外に方法は無い。闇に隠れて教授を願うなど、もってのほかだ。
 出来ることならば、私も彼女を家に招き、正式に教えを請いたかった。が、それが出来ない訳がある。
 そして、これが一番の致命的な理由だ。
 一言でいってしまえば、人間性ということになるだろうか。
 誤解なきよう弁明しておけば、彼女は決して人非人とか性根卑しいとか、根底から人格が破綻しているというわけでは決してない。
 ただ、ただである。
 根からの根無し草なのである。
 どこか飄々としていて、相手を煙に巻くのが得意で、さらに本人もそれを意識して楽しんでいる節があるのだから困りものだ。何処を庇としているのかも、ようとして知れず。聴いてもやっぱり、のらりくらりとはぐらかされる。こんな具合である。
 勿論、術者の全てが全て人格者たり得ないことは、承知の上である。
 が、さりとてお父上が首を縦に振る人物ではない。残念ながら、きっとゆかりは、お父上の前でも態度を変えないだろうから。
 それに、浮き世じみている外見も相まって、彼女はまるで真夏の陽炎のような存在だ。そんなゆかりを西行寺の人間が疑ってかかるのは、想像に難くない。誰に師事したのか、何をして生計を立てているのか、生家はどこか。
 そして、体得している秘術の数々。それだけの術者が、西行寺の耳に入らぬはずないのである。
 総論。彼女は得体が知れない。
 だからこそ、妖忌は彼女との会見を求め、一方で私の顔を立て、事をお家に内緒のままでいてくれている。
 ああ、でもだからこそ、妖忌には会わせられないのである。ゆかりが妖忌のお眼鏡に叶うような文武の人間でないことは、悲しいくらいに明白だ。
 それでも、術に限らず彼女から教わることは全て値千金。そうそう、諦めきれるものではない。
 このがんじがらめの葛藤が、私を苦しめているのである。
 こっそりと彼女に会って、今後について助案を求めようかと思ったが、残念ながら妖忌はそれすらもさせてくれず、昨日からずっと私に張り付いている。
 現在に至るまで、ずっとである。何とか彼をまこうと屋敷を巡っても、数巡もするといつの間にか隣にいる。ご不浄だと偽ってすらそんな有様であるから、この男もなかなかどうして鼻つまみ者である。厠に入ってからの動向まで察知している辺り、変態さん一歩手前だ。
 とまれ、何をどうした所で、どだい私のようなカタツムリが、屈強で知られる当代一の荒武者を出し抜けるはずないのである。
 術を使おうにも、魂魄家の人間は身体能力のみならず術に対する耐性も高い。妖忌を出し抜けるほどの幻術を私は扱えないし、かといって通用しそうなものといえば軒並み、物騒な結果となるものばかりだ。
 嗚呼と私は苦悶の声を上げて、だらしなく畳の上を転がる。
 勿論、迂闊な私の口が原因なんだけれど、昨日の今日で窮地に次ぐ窮地。これは余りにもあんまりではありませんか、神様仏様?
 悶々と、畳の上を転がる。帯が崩れるが、気にしている余裕もない。
 ……誰か助けてくれないかな?
 窮余に喘いだ私の思考がいよいよそんな都合の良いことを巡らせ始めたその時、襖越しに鋭い声が上がった。

「何奴!」

 私は跳ね起き、着崩した着物もそのままに素早く襖を開ける。
 袖に手を入れ鉄扇を掴みながら敷居を跨ぐと、見慣れた廊下があるはずの一歩先が、突如として草原に変わった。
 呆然と、襖を開けた体勢のまま、その場で立ちつくす。そういえば、開けたはずの襖もない。そして、出てきたばかりの四畳半もなくなっている。
 妖忌が控えているはずの廊下も。妖忌自身も。
 でも、私は恐慌に陥らない。そのままゆっくりと、こうべを巡らす。
 やや遠くに、たなびく金糸。その手には、どこから手に入れたのか、私の雪駄が提げられている。
 ああ、そうだ。妖忌を出し抜けるであろう一番肝心な人を忘れていた。
 この人が自ら行動を起こしてくれるのなら、何ら問題はないではないか。
 でもちょっと意地悪く、私は揶揄するように笑う。

「あなたらしくもありませんね。家人に見つかるだなんて」

 すると、ゆっくりと近寄ってきた仙人のような彼女は、私の足下に雪駄を置きながら苦笑した。

「朴訥そうで意外と鋭いのね、あのお侍様」

 そう、朴訥そうに見えて意外と鋭いのだ、あの朴念仁は。全くもって油断ならない。
 私は礼を言うとその雪駄に足を通し、着物の崩れを直して踵を合わせると、改めて一礼した。

「ありがとう。助かりました、ゆかり」

 ゆかり。女性でありながら名乗った姓は八雲、名を紫。八雲紫、それが彼女の名だった。
 今の私の師であり、そして唯一の友人である。八ツの雲という、見事に体を表す姓をもつ、陽の赤と空の碧の境。
 つき合えばつき合うほどその力は計り知れず、今では向かう所には人であろうが妖怪であろうが、敵はないのではないかとさえ思える。
 先程はああいってみた私だが、彼女のことだ。きっと妖忌に姿を見せたのも、何か考えがあってのことなのだろう。悪戯好きの計略好きという余りいただけない彼女の性質から考えると、その意図が何を孕んでいるのか、少々不安になるが。

「いい加減、その敬語を改めるつもりはないのかしら?」

 困ったように眉根を寄せる紫。だが、それについて融通するつもりはない。
 私が師である彼女を紫と呼ぶのは、友人であるという親しみから。私が友人である彼女に敬語を使うのは、師に対する敬意から。
 にっこりと、その笑顔をもって返事として、私は紫の顔を見た。
 染まる茜に輝く髪が、ちりばめられた金細工のようにきらきらと瞬く。たおやかな曲線を描く豊かな肢体。女性にしては随分と背が高いが、まったくその事を感じさせないほっそりとした肩と四肢。弥勒象のような、神秘的な笑顔。
 私はその美しさに嘆息した。やっぱり色々と、不公平だと思う。
 そんな矛盾と騒動の張本人を熱のこもった視線で見つめていると、それに気づいた紫は視線を遮るように扇子を眼前に広げた。片手でぱっと、実に鮮やか。
 そして目だけを地紙の上から覗かせる。

「不公平だわ」

 いよいよもって、不満が口をついて出た。

「何がかしら」

 涼しげな目線を扇子の上から送る紫に、私は取り敢えず、今感じた不満をぶつけることにした。

「その扇子は、一週間前に私が差し上げたもの」
「ええ、そうね」

 私はぷうっと頬を膨らませる。

「使い方も教えていないのに、どうしてたった一週で、そこまで様になるのでしょうか?」

 彼女に言った所で当然、栓のないことだ。だからこれは私の独白。
 紫は三度、苦笑を滲ませて、ぱたんと扇子を閉じる。顔を彩る陰影が露わになった。
 日を浴びる象牙のような肌は何処までも白く、蜂蜜色の瞳は悪戯っぽく妖しく揺らめく。

「そういえば、昨日、屋敷にいなかったようだけれど、何処へ行っていたの?」

 はっと、私は我に返る。気づけば再び、彼女に魅入られていた。
 私はその事を悟られないよう、気まずさを押し殺して、努めて平静に答える。

「ええ、山一つ越えた村まで、調伏に行っていました」

 その言葉にふっと、紫の顔から微笑が消える。
 陶器のような抜ける白い顔から表情が消えると、紫はまるでお人形のようになる。
 私はその絵画のような顔に、今度は少し体を引く。先程までの柔らかな美貌は欠片も見あたらない。

「調伏?」

 打ち合わせた鋼のような澄んだ声からも、感情が一切、消え去っていた。私は何かまずいことでも言っただろうか。

「え、ええ、他に人手がないということで急遽、私たちが派遣されることになりまして」

 もしかしたら、お勉強会を無断で欠席したことに対して怒っているのだろうか。もし彼女が待ち惚けを喰っていたのなら、それは謝らなければならない。
 だが、

「そう、何か変わったことはあったかしら?」

 瞬き一つの間に、紫の顔は再びもとの相好を取り戻した。余りの変わりように、先程の表情がまるで嘘だったかのようだ。
 何だったのだろう。何か、意味があったのだろうか。

「あ、それは……」

 しかし、その質問は渡りに船だった。もしかすると紫なら、あの現象を説明できるかもしれない。
 でも……。
 私はその事を告げて良いのか。喉元まで上がった声を、今一度呑み込む。
 それは、紫を西行寺に巻き込むことにならないか。この雲の名を持つ姓の如く、奔放な彼女を。
 一方で、それを望む私もいる。共に過ごした時間はごくわずかで、そもそも出会ってまだ数日しか経っていない。
 だが、それでも私は紫を友だと思っている。彼女も、溢れる戯謔心故に本心までは判らないが、少なくとも体面の上では私を友として扱ってくれている。
 そんな友人を、私の都合に巻き込んでしまって良いのだろうか。
 私がそんな想いにまごついていると、先に紫が口を開いた。

「倒した妖怪が、蝶となって散る……とか?」

 がばっと、伏せた顔を跳ね上げる。
 どうしてそれをと言う前に、紫の困ったような微笑。

「私の職業を言ってご覧なさいな」

 職業……、自称、しがない結界師……。結界師。あっ。

「私も退魔師の端くれなのよ?」

 ああ、そうか。そこまで言われてようやく気づいた私は、自分の不明を恥じた。
 ここ最近、人外による被害がこの領内で急増している。西行寺の人間は勿論、総出で出払っているのだが、お父上の口調ではそれでも対応し切れていないようだった。となると、集落が独自に紫のような流れの退魔師を雇うことも、十分にあり得るだろう。
 ということは、紫も人並みにきちんとお仕事をしているということか。失礼な話だが、何となくほっとした。

「でも、残念ながら、あれは私にも見当がつかないわね」

 肩をすくめながら紫。私は少し顔を曇らせ、下を向く。彼女でも判らないとなれば、いよいよ真相は闇だ。

「逆に訊くけれど、西行寺はああいった類の術を修めていないの?」

 と、逆に紫に質問を返され、私は慌てて顔を上げる。

「え? あ、はい。私にもああいう術は覚えがありません」
「そう」

 何か、普段よりも若干、速く会話が流れている気がする。気のせいだろうか。
 その疑問を口に出せず、会話はまたもや流れる。

「それじゃあ、今日のお題目に入りましょうか」

 自然の中に流れる、一筋の不自然。でもそれは違和感にすら感じられないほど微かなもので、程なくすると会話と同じ様に流れていった。








 驚愕と同時に、我は喜悦を学んだ。
 我は孤独だったのだ。生まれてこの方、我を認識する我以外など皆無であったが故に、それも致し方ないことだった。
 だが、もう我は我だけではない。この我以外がいる。
 我は嬉しくて嬉しくて、多くのことを問いかけた。
 我とは一体何なのか。我が声をかける我以外は何故、皆一様に眠ってしまうのか。我の声が聞ける我以外は、我なのか。
 多くの問いに対して明確な答えはなかった。だが、我はそれでも嬉しかった。






伍.月下の邂逅 -八雲紫-



 豪奢な刺繍の施された絹の着物を着た彼女は、息を荒げて闇夜の草原に身を投げ出していた。
 眼下の街からはすっかり灯も落ちて、辺りを照らすのは月と星だけ。陽の暖かな雄々しい光とは異なり、陰の光は涼やかで神々しく、どこか物寂しい。
 うなじをしたたり落ちる汗。肌に張り付く髪。上下する胸。まごうことなき、生命の証。
 そういえば彼女と出会った晩も、こんな静謐に溢れる月夜だったか。迫るような、それでいて引き込まれそうな魔性と空寂の月。
 寂を語りかけるこの月は、一体、私をどうしたいのだろう。私たちにどうして欲しいのだろう。
 漠たる想いを喰らい、陰惨たる嘆きを受けて尚、変わらず月は私たちを惑わす。
 嗚呼、何処までも白く、何処までも狂おしい有明の月よ。

「華胥の国……という所を御存知でしょうか?」

 何をするでもなくただ、白光の月を見上げていると不意に、か細い声が夜のしじまに流れて溶けた。
 私はゆっくりと顎を下げる。

「……所在までは知らないけれど、そういう話があるというくらいは知っているわ」

 そっと、満ちる静寂を崩してしまわないよう答える私に、月夜の下で生に満ちた彼女はぴくりとも動かず、青と白の絨毯に身を投げ出したまま、口だけを動かす。

「国の荒廃を止めることが出来ずに悩む黄皇が、夢で見た理想郷」
「貧富の差、身分の差、寿命の差もなく、誰もが笑顔だけで暮らしている国ね」

 これが果たして私の返答を必要としているのか、私は判断しかねた。この声が果たして、私に向けられているのかどうかも。
 まるで独白のように、言葉は流れて続く。

「でも、貧富も身分も後天的なもの。人自身が作り出した二次的産物に過ぎません」

 逸る息。うつろな瞳。朧気な表情。

「生死だけが、違うんです」

 そしてきっぱりと、まるで断罪するかのような強い口調。

「生死に煩わされないということは、華胥の国ではそもそもが生物に寿命というものが存在しないのでしょうか? それとも、何かしらの手段で死の事象、死の恐怖を克服してしまったのでしょうか?」

 俄に熱を帯びた声は、強く強く闇夜を渡る。吸い込まれそうな、瞬く星々を見つめる瞳は、一体何を写しているのか。

「人が死の誘惑に惑わされない……。その根幹とは、一体なんでしょう?」

 そこでこもった力を抜き、肺腑にこもった息を奥から全て吐き出すと、焦点を取り戻した瞳で再び月を見上げる。

「叶うのであれば、私はそれを知りたい」

 今度は鳴く虫の声に紛れてしまいそうな、小さな声。しかしそれはまるで呼び水に導かれる畝の流れのように、はっきりと私の耳に響いた。
 そんな彼女が見ていた月を、私は変わらず見上げている。
 幻想の真実を求める彼女の想いはとても純粋で、幻想に真実を求める彼女の願いは酷く切ないものだった。
 そんな混じりけのない月の光のような想いを胸に抱きながら、私は振り返らずに背後の森を呼ぶ。

「お嬢様はご帰宅なさいましてよ?」

 その声に反応してかどうかは分からないが、がさりと、茂みが動く気配。光の入らぬ深い闇が蠢く。
 振り返らずに私は空を見上げる。茂みを揺らす音が大地を踏みならす音に変わった頃、ぼんやりと背後を想像してみる。
 地を踏みしめる音が、音から推測するにおおよそ三件ほどの間合いを残して止まった。
 さぁっと流れるのは、少し肌寒い月夜の微風。
 言葉はない。あるのはそれだけで城一つでも圧倒できそうな殺気だけ。
 ざぁっと、今度は少し強い風が当たった。
 途端、背後で鞘走りの音が鳴る。
 素早く腰を落とすと、頸のあった位置を白刃が薙いでいった。
 私は倒れ込むように腰を落とした勢いを利用して、体をねじり込むように背後へ肘を打つ。
 相手の腹部に打ち込んだ確かな感触。だが、肘を入れた腹筋は恐ろしく固く、打撃に込めた霊力も練られた気で相殺される。
 地をはうように身を低くかがめたまま、開いた体を回転させつつ側面に回り込む。一瞬後に、今度は肩口のあった位置を大刀が一直線に薙ぐ。巻き起こった風だけで肌が裂けそうな、必殺の一撃。
 私は回転する体の慣性に逆らわず、そのまま背後、腎の臓の位置に掌底を打つ。だが、これも先程の肘と同様、威力を殺されてしまう。
 下に抜けた刀が、袈裟に斬り返してくる。これを後ろに飛び、間合いを広げることでかわす。
 そして、お互い草原の上で対峙する。間合いは再び三間。
 一瞬の交錯、そして初の邂逅。
 私はその段になってようやく、偉丈夫の代名詞といっても差し支えなさそうな巨躯を持った相手の姿を確認した。髷を結わず少し長い銀髪を全て後ろに流した上等な身なりのお侍は、大刀を両手で正眼に構えてこちらに向けている。射るような視線に刺すような殺気。まるで牙をむく狼だ。

「物騒なことですわね」

 対する私は半身の構え。足幅は肩幅。軽く膝を落とし、体の重心を素早く動かせる体勢に。両手はゆったりと下にさげる。
 お侍からの返事はないが、口を開いた所で出る答えは決まっている。分かり切った会話なら、それは必要のないものだ。
 今一度、お侍が地鳴りを立てて弾けるように地を蹴る。同時に、刀が正眼から中段にゆらりと位置を変えた。
 来るのは突きだ。剣の間合いを最大に活かすことが出来る上に、あらゆる剣技の中で最速を誇る技。
 私は腕を上げ、迎撃の体勢をとる。さて、どうなる事やら。この間、紗の単位。
 ゆらりと、剣先が牽制の動きを見せる。だが、来る先は……。
 やはり、胴。
 後ろ足を素早くずらし半身となると、その直後に閃光が脇をかすめる。
 同時に、私は体重の乗った軸足で地を蹴り、間合いを詰める。
 だが、相手も甘くない。剣は刹那の間に引かれ、二段目の突きが来る。今度は頸。
 重心の移動に行動を移した私は、上体を反らすことで辛うじてこれをかわす。だが、意図していた行動を封じられたことで、上体が泳いだ。
 これを見逃すような手合いではない。紫電のように引かれる剣。そして三段目の突きだ。
 勝負所と判断したのだろう。剣を引くと同時に己の身も剣に寄せて、一段目と比べ威力も速度も劣るはずの突きを最速のものへと変貌させる。
 でも残念ながら、これは誘い。丁度、肋骨の下から心の臓をめがけて突き出される刀に対し、残った軸足で大地を蹴り私は開くに任せた身体をそのまま地面へと沈み込ませる。

 引く動作がない必殺の一段突きならば、結果も違ったであろうか。刀は寸の差で、眼前を通り頭上へと抜けていく。
 そして三段目の突きは、体を刀に寄せることで実現されている。それはつまり、間合いが詰まったということだ。
 下方に沈み込んだ身体の遠心力を利用して、逆立ちのような体勢になりながら私は足をバネのように跳ね上げ、お侍の側頭部に会心の蹴りを見舞う。
 今度こそ、確実に打撃が浸透する感触。耳の後ろに入った蹴りは、骨を通して直接、脳を揺らす。たたらを踏んだお侍の膝が折れた。
 だが、心までは折れない。崩れる膝を堪え、お侍は四段目の突き。
 立場が逆転。先程の一瞬を転機と見た私は、渾身の蹴りを放ったままの不自然な体勢だ。
 背筋に浮かぶ嫌な汗を感じながら、私は地面ついた手で体を押し上げ、同時に蹴り足をお侍の首に絡ませ、全力で引き上げる。
 間一髪。刀は浅く私の頬を裂いて通過した。引く距離の長い大刀だった点が幸いし、刀が私を突く前に私はお侍の上に全身を持ち上げることに成功した。
 眼下への突きの体勢、すなわち前傾姿勢となったお侍。その上に体を移した私は、首にかけた足でお侍を締め上げつつ、そのまま体重に任せて地面に倒し、当てた右膝でお侍の後頭部を潰そうと試みる。
 しかし、お侍は震える膝で堪えて潰れない。どうやら私の体重では軽すぎるようだ。残念。
 それが判ると、私は一拍もおかずにお侍から体を離し、頭に手をかけるとそこを支点に体を宙で回転させる。
 遠心力をつけて後頭部に打ち付けられるのは、確実な質量と霊力を持たせた右膝。外殻を持った果物でも潰すような感触が、末端を通して身体に伝えられる。
 私の手から離れた頭部が吹き飛び、どうっと重い音をたてて、お侍は体ごとそのまま草原の上に横たわって動かなくなった。
 地に降り立った私はほぅっと、胸にため込んでいた息を吐き出す。幾度か交錯した紙一重の攻防は、私の心胆を確実に寒からしめた。何とも寿命の縮むことである。
 だが、一方で疑問も感じていた。確かに先程の打撃は完璧だったが、このお侍、果たしてこんな容易い相手だったのだろうか。
 そっと、頬の血を拭う。火照った体に丁度良い夜風が、体を撫でる。
 梢のざわめく音。比例して、心は冷えていく。
 どれだけそうしていただろうか。

「いつまでそうして寝てらっしゃるおつもり?」

 疑問をそのまま口に出してみると、意外にもお侍はあっさりと体を起こした。
 やはり、そこまでの痛手ではなかったようだ。いや、それとも驚異的な回復力でも持っているのか。はたまたその両方か。
 二の足で完全に立ち上がったお侍は、体についた草を払いながら、鷹のように細く鋭い目を少し丸めて、こちらに向き直る。

「いやはや、お嬢の術の先生と聞き及んでおりました故、当て身技でねじ伏せられるとは正直、思ってもみませんでしたぞ?」

 だからこそ、組み討ちでおもてなししたのであるが、それにしてもと私は苦笑する。

「随分と頑強に出来てらっしゃいますのね。あれほど手応えを感じてここまで平気でいられますと少々、傷つきますわ」

 勿論、あれで勝負が決まるとは思っていなかったのだが、さりとてこれほど平然とされるほど弱い打ちをしたつもりはない。

「いや、かなり堪えましたぞ」

 それならば、もう少し痛そうな顔をして欲しいものだ。果たして信じて良いのか悪いのか。幽々子の愚痴から聴いた通り、このお侍もなかなかどうして人が悪い。
 ついつい、呆れ顔になる。だがそれすらも相手の調子にはまっている気がして、私は口元を、取り出し広げた扇子で隠した。

「さて、そこまで知ってらっしゃって、敢えて辻斬りなさる人の悪いお侍様は、これからどうなさるおつもり?」

 すると、やはりというか、お侍は好戦的な表情で手にしていた大刀を右手に構え、一方の手で脇差しを抜き放つ。

「貴女がお嬢に近づく理由をお教え頂ければ、そこで手打ちとなりますが、さて」

 私は喉の奥でくつくつと笑う。

「ただ、お友達になりに来ただけですわ」

 この答えで相手が納得しないであろう事は、百も承知だ。自分で言っておいて、随分人を喰った返答だと理解している。
 嘘を言ったつもりはないが、得てしてこういう場合の正解とは、相手が待ち望んでいる解答のことを指すのである。
 とどのつまり、このお侍には戦いをやめる理由がないということだ。
 だが、この戦いの目的が見えたことで、お互いにわだかまりが消えたようにも思える。

「姓名お聞かせ願えるかしら、お侍様?」

 要は、相手を殺さずに屈服させてしまえばいいのだ。
 利き手に大刀、一方に小刀。これがこの男の本来なのだろう。渦巻く殺気が消えた代わりに、絶対的な存在感が満ちる。一回りも二回りも、体が大きくなったかのような錯覚を受けて、こっそりと嘆息をした。

「姓を魂魄、名を妖忌。西行寺の矛であり盾である」

 構えは自然体。正面を向いた体で半歩、左足を前に出し、刀を持つ手も力を抜いてだらりと下にさげている。

「お手前は?」

 ああ、実に面白い。ここ数日、随分と楽しいことばかりが起きている。

「姓を八雲、名を紫。たゆたう絹雲、逢魔の境界」

 特に構えるでもなく、奥義で口元を隠したまま私は名乗る。久しぶりの名乗りだ。少しくらいは体裁を付けても良いだろう。
 にやりと、意を示し合わせたわけでもなくお互い同時に口の端を釣り上げる。

「では、推して参る!」

 圧倒的な質量をもって、地響きを伴って妖忌が地を駆ける。
 今度は一足で間合いを詰めない。体をぶらさず一直線にこちらに走り来る妖忌。私が剣の間合いにはいると、右手の大刀を担ぎ、逆袈裟に降ろした。
 確かに速いが、駆け引き無しに振られた刀の錆になるほど、私も安くない。扇子は広げたまま上体を反らし、刀の軌道上から体をずらす。
 かわした所に、左手の小刀が斬り上げてくる。今度は体ごと後ろに運び、これをやり過ごす。
 間髪置かず、右手の大刀から突き。体を半身にずらしかわすが、間合いは詰められない。即座に左の小刀が牙をむく。
 実に絶妙な間で繰り出される両の剣は、私に全くつけいる隙を与えない。仕方なく、私はじわりじわりと後ろに下がりながら反撃の余地を伺う。
 左、右、右、左。
 幾たびか剣戟をかいくぐり、そこで違和感を覚えた。
 徐々に、剣の速度が上がっている。
 突き、袈裟斬り、逆袈裟、縦横一文字。剣の速度が上がるにつれ、まるで別々の生き物のように、刀の動きもより多彩に、技巧的な軌道を描くようになっていく。
 ただ速くなるだけなら、問題ではない。一番重要なのは、唯でさえ手一杯の私が捌ききれる速度の上限に、攻撃がじわりじわりと近づいていることだ。
 気づいた時には既に遅く、私は完全に、防戦一方に追い込まれていた。
 身を振り、かがめ、回り込もうにも妖忌の間合いは絶対で、入り込む前に牽制される。離脱する前に詰められる。
 じりじりと、追いつめられていく。まるで詰め将棋のような戦い。扇子を閉じる暇すらない。白刃鼻先をかすめるたびに、喉を大きく動かす。
 後退に次ぐ後退の果て、遂に、背を木に阻まれた。
 顔色を変えた私に向けて、言葉なく、全力をもって妖忌の大刀が振りかぶられる。
 容赦のない袈裟斬り。私は空いた左手で身体を庇う。
 妖忌は想像しただろう、肉を裂く音を。妖忌は確信しただろう、骨を立つ感触を。
 場を支配したのは、甲高い金属音。
 途端に、今度は妖忌の表情が変わる。動揺を堪えて左手の小刀を振りかぶる。
 だが、私はこの機を逃さない。左手に立てられた刀を伝うように、懐に入る。ついでに、扇子もしまう。
 到達は妖忌の小刀が先だ。私は左手の袖に手を入れ、そこに向かって一気に引き抜く。
 再度、金属音。火花が闇夜を照らす。
 弾かれ軌道が逸れる、妖忌の小刀。そのまま私は妖忌の足首めがけて蹴りを放つ。
 鋭い打撃音。妖忌の体が少しだけぐらつく。
 そして、右手を鋭く、死角となる顎下から鞭のようにしならせる。
 風を薙ぐ音。宙を舞う数本の銀髪と、少量の血飛沫。
 たまらず間合いを広げようとする妖忌。させじと張り付く私。
 大刀を振るえる間合いではない。蹴り、打ち、薙ぎ、その度に妖忌は下がる。
 左手で腰を入れず、打ち抜くように鋭く腕を振る。妖忌が反応し顔面を庇うべく片腕を上げるが、腕は寸止め。眼前で視界を妨げるように、軽く握った手を広げる。
 戸惑って動きが止まった所を、側面からの回し蹴り。今度も正確に耳の後ろを打ち据える。
 だが、妖忌とて黙ってはいない。私の打撃に身を晒しながらも、肘や肩を使って果敢に反撃に出るその頑丈さには、正直、舌を巻いた。
 結局、機先を制したものの、間の取り合いは引き分け。妖忌が放った柄頭の打撃をかわすと、それを合図にお互い間合いを広げる。
 しかし。

「化かし合いは私の勝ちかしら?」

 その私の右手に握られているのは、一本の鞘巻。無銘だが、なかなかに曰く付きの一刀だ。

「組み打ちの次は、小太刀ですか」

 憮然とした表情で、私に散々叩かれて少しよれた妖忌は頬の血を手の甲で拭う。
 化かし、騙し、身体と意識のありとあらゆる死角をつく。一度つけ込めば、蛭のように手の届かぬ位置から執拗に、確実に相手を弱体化させる。妖忌とはまるで正反対の戦い方が、私の本領だ。
 実際に闘うとなれば、そこにあらゆる戦術戦略が加わる。背後からの不意打ち。姿すら見せぬだまし討ち。死すらも悟らせぬ安らかな告知。それが、私の戦い方。

「女とは引き出しの多い生き物なのですよ」

 私の左手には、指の間に挟んだ三本の針。残念ながら黒塗り。遠近感を騙す為のものであり、闇夜に紛れる為のものでもある。
 恐らく、妖忌はこの手に握られている針に気づいていることだろう。魂魄の家の者は、闇夜すら見通す眼をもつ。
 それでも、私は構わずに針を構える。気づかれているのなら、大仰に構えた所で問題はない。
 放つ。音すらもなく、妖忌に殺到する針。即座に迎撃の体勢をとる妖忌。
 手技とは種が明かされないからこその手技なのであり、一旦知られてしまえばそれは児戯にも劣る炉端の見せ物に過ぎない。だが、明かされているからこそ、人はその答えを信じて疑わない。
 私は飛ぶ針を一瞥する。途端に、針が世界からかき消えた。
 構えた妖忌は目を見開く。
 迎撃するとは、つまりはそういうことだ。その選択を選び取った時点で、既に妖忌は私の手中にある。
 そんな妖忌を尻目に私は指を鳴らす。ぱちん。時が凍る闇夜に、馬鹿馬鹿しいほどに乾いた軽い音。
 途端、彼を取り囲むように出現する針。その数、計八本。漆黒の八葉が花となり、軸たる妖忌に殺到する。
 さて、どうなさいます、お侍様?
 完全に棒立ち。出店小屋の観客と成り下がった妖忌は刀を持ち上げることすら出来ない。そして私の期待通り、咄嗟に前方へと身を投げる。
 受け身をとり、即座に起きあがろうとした妖忌の喉元に、お代を請求。愛想の良い興行師のような、気前の良い白刃の切っ先。

「勝負あり、かしら」

 にこりと微笑むと、しばし呆然としていた妖忌は降参とばかりに、両手の刀を地面に降ろした。
 それを満足げに見届けると、私も鞘巻を左の袖に戻そうとして、そこで少しばかり凍り付いた。
 見ると、鞘の拵えが無惨に破損していた。刀身と同様に特殊な金属で出来た鞘自体は無事だが、実の所、この拵えも防護の呪を込めた呪物の類だ。
 その千の矢を弾き、鉞の一撃すら砕くはずの拵えが、完膚無きまでに破壊されていた。
 私は妖忌に気づかれないように、息を吐く。先の一刀が殺す気で振られていたのなら、結果はどうなっていたか定かではない。今更ながら、自分が歩いていた道の細さに肝を冷やす。
 化かし合いから拾った勝負だが、正面からの正味の武の勝負となれば私は彼にあえなく両断されていたことだろう。逆に、彼は愚直なまでの剣を少々、改める必要がある。この侍に科せられた使命は、私と相対するなどという軽いものではないのだから。
 私は唇を噛み締め悔しそうに座り込む妖忌に手を差し伸べようとして、そこで、駆け上がる怖じ気に凍り付いた。
 地に着いた足を通じて湧き上がる悪寒。体の奥から感じる、息苦しいまでの圧迫感。
 虚空から一枚の、幽々子に渡した物と同じ、金属製の符を取り出し、呪を編み妖力を纏める。
 間に合うか。
 ひときわ強い風が吹き付けると、そこで不意に周囲が明るくなった。
 月でも星でもない、まったく別の光源。
 突如として出現した、夜光の蝶。赤、青、紫の燈籠のように薄ぼんやりと発光する、幻の如き胡蝶。
 無数のそれらが、私たちの周囲を埋め尽くしていた。
 ただ見とれるだけであれば、それは例えようもなく素晴らしい光景であろう。
 状況を飲み込めない妖忌が、とろんとまるで何かに魅入られたような表情となり、手近な蝶に手を伸ばす。
 彼の手が蝶に触れるか触れないかの所で、辛くも私の呪が完成した。符に込めた妖力を展開し、呪術の構成を緻密に顕現させる。
 私を中心に、闇夜を強く引き裂く青光の壁が四方を取り囲んだ。耳障りな音を立てて、青光内の蝶が弾けるように消えていく。
 広がった結界の壁に蝶が当たっては弾け、その度に安定に至らぬ結界が揺らぐ。いけるか、いけないか。
 永遠のような一瞬を伴って、結界壁が揺らぎを抑え、安定して直立するに至る。ひとまずこの場の安全は確保されたが、息をつく間も惜しんで私はある方角を睨んだ。
 そこには、この小高い丘よりも更に高所に位置する豪邸があった。この一帯を治める長が住まう場所。
 まるで月でも抱え込んだかのような強い蛍光に晒されている、西行寺の屋敷。これだけ離れていても、上空を目指して散る数多の蝶が視認できる。
 何ということだろう。
 その音が耳にまで届くほど強く、私は奥歯を噛み締める。湧き起こる戦慄に、肩を振るわせる。
 険しい表情で鞘巻を振るい空間を裂くと、私はそこに身を躍らせた。








 我と我以外の会話は、長く続いた。
 我以外は日が三度巡るうちに一度は顔を見せる。
 決まって、我以外が顔を見せた日には夜通しで語る。
 我は我以外から知識を受け取り、我は笑うことを覚えた。
 素直に、このやりとりを楽しいと思う。
 同時にこのまま、これが続けばいいと思った。
 気ままに我以外の来訪をまち、気ままに我以外と語る。
 これ以上の生はあるまい。






陸.夢現 -西行寺幽々子-



 西行寺のお屋敷は、齢を数えて百は下らないくらいにお年寄りだ。にも関わらず、梁はただ荘厳な年期を刻むのみで、疲労の一つすら見受けられない。基礎に虫が湧いたこともない総檜造りは、有り体に言って豪壮そのものだった。
 軋み一つ立てることのない飴色の廊下を歩く私の手には、朧気な光を立てる金属製の薄い符が握られている。紫からもらった、もとい借り受けた結界の符だ。
 なんでもこの符は、注いだ霊気を薄い霧のように散らして、自分の存在を周囲に溶かしてしまうのだとか。差詰め、霊気を用いた擬態といった所だろうか。
 効果の程は抜群で、おかげでこんな夜もふけたころに屋敷を徘徊していても、見回りに控えている人にすら見つからない。闇夜に光があってすら、人目にすらつかないというのだから、この符の効果には舌を巻く。改めて、教えを説くその人の偉大さを確認した。
 妖忌はお部屋にいるだろうか? もしいるのであれば、きちんと謝って今日の事を説明しなければならない。屋敷が騒ぎになっていないところを見ると、屋敷にいるか、一人で私を捜しに出ているかの、どちらかなのだろうと推測するが、どちらにしろ、あの広い額に青筋は絶えないことだろう。自業自得といいつつも、後に待ち受けている雷様のようなお小言を想像して、私は少し肩を落とした。
 幸い、紫には妖忌との面会を承諾してもらえた。後は日時を妖忌と相談し、二人を会わせるだけ。
 紫が尻尾を出さないかどうかはこの際、考えないことにした。きっと、紫のことだから大丈夫。根拠のない自信だけれど。
 中庭に接する私の部屋から、妖忌達のような務めの人間が控える部屋まで、結構な距離がある。お屋敷は万が一の襲撃に備えて、迷路のように入り組んだ構造を持っており、中庭から玄関に至るまでは、一度、最奥の執務室まで回っていく必要があった。これは要するに、私がいる部屋を含めた中庭一帯が、篭城のための備えであることを意味する。
 だから、特に執務室の前を通るに当たって、特にお父上たちに見つからないよう、この符が必要となるのだ。私程度の人間が西行寺の家長を正面から出し抜こうというのも無謀な話なので、無理を言って紫から借りてきた貴重品。またお家に言えない内緒が一つ増えた。
 闇夜に月の白光がさす廊下をきしませないように、抜き足差し足で私は歩く。丸い丸い有明の月が照らしてくれるおかげで、視界に不自由はない。
 月夜の御庭を楽しみつつも慎重に足を進めると、月明かりとは違った暖色の明かりが漏れる豪奢な襖に差し掛かった。お父上はまだ就寝なさってはいないようだ。
 ここで事が露見しては元も子もない。またあの傾き者がとか、その程度のお小言ですめばいいのだが、流石にこの符を行使している所で見つかっては、言い訳などできない。
 ゆっくりゆっくりと足音を忍ばせて、ちょうど襖から漏れる隙間明かりに差し掛かったところで不意に耳朶を打った声に、私はその場ですくみあがった。

「私はあの子を、西行寺の外に出そうと思う」

 お父上の声だった。息を詰まらせ、背筋を伸ばし、妙に自己主張の激しい汗を背筋に感じながら私は、そのまま廊下に固まる。
 目線だけを声がした方にずらし、私は永遠とも思える一瞬の中で事の推移を待った。

「今まで危険はあった。だが、それも月日が拭い去ってくれやしまいかと淡い期待を抱いておった」

 会話は続いている。よかった、こちらに感づかれた様子はない。ほっと一息ついて、ようやく私はその余りに健康的で癪でも起こしそうな硬直を解く。何とも心の臓に悪いことだ。
 それにしても一体、何の話だろう? 知らず知らずのうちに、お行儀悪く耳をそばだてる。どこかのお払いの話だろうか?

「だが、もう駄目だ。あの子は西行妖の声を聴けるまでに、力を成長させてしまっている」

 どくんと、一拍、胸が高鳴った。襖越しのお父上の言葉が、私の頭の中を幾重にも反響する。
 西行妖の声を、聴く……?
 いつかの春の日に聴いたあの名状しがたい声が、鮮明に蘇る。

「今思えば、もっと早くにあの子を出しておくべきだった」

 違う、これが私の話だとは限らない。いつぞやに聞いたあの声が、西行妖の声だなんて私には判らないし、その事自体、私は誰にも告げていない。そもそも、私の名前はお父上の口から出ていない。
 それでも、先の見えぬ闇に取り囲まれたかのような不可視の恐怖に歯の根が鳴る。震える手で辛うじて符を握りしめ、私はその場にうずくまる。
 聴いてはいけない。早く立ち去るべきだ。汗が、思考が、全身が警鐘をがなり立てるが、小刻みに振るえる私の体は小指の一本すら動いてくれない。

「そう、幽々子が自身の乳母、妖忌の母を死に誘ったあのときから」

 襖一枚隔てて、大した声量でないにもかかわらず、それはまるで厳かな刑の言い渡しのように、確かな重みを持って私に宣言された。
 何かが壊れるような音がして、閃光が瞬くように、私の脳裏にめくるめく様々な光景がよぎっては消えていく。
 嬉しかったこと、悲しかったこと、痛かったこと、大泣きしたこと。その一枚一枚の光景にいる私の姿が見る見るうちにしぼんでいき、ついには真ん丸でつぶらな瞳、癖のある髪はこざっぱりとおかっぱ、童衣装に身を包むまでに至った。その小さな私が、悲しそうに唇を噛み締めてうつむいている。
 あれは十の頃だったか。
 西行寺として出来が良くなかった私は、こっそりとよく庭の隅で泣いていた。
 払いの手習いを初めて二年。未だに符の一つすら満足に打てぬ私には、生まれついて特異な才があった。
 世をたゆたう不浄な霊を、その支配下におけるという、ある意味、西行寺としての致命的な才。
 それが退魔の一端を担えばそれで良かったが、私は、齢十にして唯、霊を支配することだけに長けていた。
 資質は十分。膨大な霊力を担う私は、生まれた時から将来を嘱望されていたらしい。だがそれだけに、その才を除霊ではなく、忌むべき死者の傀儡に余す所なく発揮させたと判った時、両親の落胆は相当のものだった。面と向かって何かを言われるということはなかったが、それでも私は、時折、背中に向けられる冷えた視線を感じては怯え、その度に独りで庭に出て、独りで泣いていた。
 そんな時、いつも頭を撫でてくれたのが、妖忌の母であり私の乳母たる妖禅だった。
 いつも独りだった私に、妖禅はいつも優しく接してくれた。勿論、厳しい時もあったけれど、それすらも私は嬉しかった。
 妖禅だけは、いつもまっすぐに私という私そのものを見てくれたからだ。
 だから、私は誰よりも彼女を喜ばせたかった。覚えの悪い私でも、西行寺として立派にやっていけるということを証明して、それを彼女に見せたかった。
 だから、今日覚えたばかりの術を見せて、それで喜んで欲しかったんだ。
 その夜に私は喜び勇んで、妖禅を庭に呼び出した。人の目があるうちは照れくさかったし、何より、私は妖禅と二人きりで笑いあいたかった。真っ先に彼女に笑って欲しかった。
 子供が遅くに寝ないで何をしているんですかというお叱りを受けたけれど、手を引かれる妖禅は二つ返事で私の術を見てくれると言った。
 嬉しくて嬉しくて、私は張り切って呪を編んで、慎重に形にした術を、彼女に向けて放った。
 赤、青、紫の、ホタルのように舞い、陽炎のように消える綺麗な光の蝶。それらが私の手を離れて、ゆっくりと妖禅に向かっていく。
 呆然としていた妖禅だったが、やがてその蝶が私の術だと理解したのか、そっと手を伸ばし。

 そして。

 そのまま、妖禅は頭から地面に落ちた。どうしたんだろうと慌てて駆け寄る私に、妖禅は何も語らなかった。
 何も、語らなかった。そのまま何も、語らなかったのだ。
 つうっと、弛緩して廊下にへたり込んでいた私の片目から、一筋の雫が顎を伝って流れ落ちる。
 どうして忘れていたんだろう……? どうして……? どうして……?
 私の両手に握られた符は相変わらず、愚直にその効果を発揮し続けている。そのおかげで、私は誰とも会うことがない。
 まるで、昔のあのときに戻ったかのように。
 夢遊病にでもかかったかのような足取りで、私はふらふらと、あのときの場所に向かう。
 目的は……、何だろう? 何も判らない。何も考えられない。考えるという行為自体がどういうものだったかすら、今の私には判らない。

 ふらふらと、足袋のままで月夜の庭を歩く。
 ふらふらと、約束の場所がある白光の庭を歩く。

 そう、ここで、私は妖禅と約束をした。妖禅は私と約束してくれた。
 そしてまるで何かに魅入られるように、妖禅は蝶に手を伸ばした。
 私にとって、それはただ綺麗というだけの術で、でも、体得できた初めての術で、だから妖禅もただ、綺麗だねと笑って、それで終わりのはずだった。
 それで、終わりのはずだった。
 それで、終わりだった。
 それで、終わってしまったのだ。
 声が、聞こえた。
 この術を教えてくれた、あの声が、聞こえた。
 いつかに私を呼んだ、あの声が、聞こえた。
 物語は佳境へと舞台を移します。もし、貴重なお時間をいただけるのでしたら、後の巻をお読み頂けるとこれ以上の幸せはありません。
Mya
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コメント



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特に構えるでもなく、奥義で口元を
奥義→×   扇→○