「紅葉は良いわね〜」
「……帰りたいです」
幽々子はここは嫌だと睨みつけるさとりをあらあらと子供を見るような目で見てくる。
「やはり、立っているのは辛いかしら」
「何故、人混みの中を連れ回すのか、と言いたいのです」
周りには様々な人間や妖怪が往来していて、嫌でも心の声が聞こえてくる。
さとりはそれが嫌で、気分が滅入ると抗議の目を向けるが、幽々子に届くことなどない。
晩秋の紅葉を見ようと約束した夏。
それを現実にするために互いに頑張って仕事を終わらせて今日という日を迎えた。
暦の上では十月下旬、ちょうど紅葉が見頃となる時である。
高揚する気持ちを押さえながら幽々子と待ち合わせをして、向かった先が妖怪の山。
それまでは良かった。彼女の目的地が守矢神社で行われていた美しい紅葉に乗じた祭りへと足が向かうまでは。
いつもの通り、露店に足が向いてしまった幽々子はあれやこれやと食べ物を注文した。
彼女の後ろに並んでいた客は本当に不運だと哀れむしかない。
当然、さとりは共に行動するため、それらを食すまで待たなければならない。
繁盛している祭りには多くの人間や紛れている妖怪が往来しており、さとりにとって苦痛でしかない。
しかも、座る場所は占領されているため、奥にあった比較的空いている立食スペースでの待機である。体力のない彼女にとって無為に立ち続ける時間は足裏の痛みが続く、正に苦行が苦行を呼んでいるに相応しい。
もっとも、弁当を用意すると言いながら、仕事のせいでそのような余裕がなく、手ぶらで来たのはさとりなので、強く言えない事情もあるのだが。
「まぁ、これらを食べてゆっくりとすれば、気分も変わるでしょう」
「貴方と違って、そんなに食べません」
器用に所狭し並べられ、積まれた料理。これをしっかり味わいつつ平らげるのだから、彼女の胃袋は恐ろしい。
「えー、でも少しはつまんでおかないとお腹空くわよ〜」
「お気遣いはありがたいですが、その量を見ると見ているだけでいっぱいになります」
頭を抱えたくなるが、心を読むと本心で心配してくれているので、強く言えない。
正直、まだ食べたいと思っている心まで読み取り、満腹感がさらに増してしまったのは辛い。
本当にお腹については、天真爛漫そのものだが、それに巻き込まれる身にもなってほしい。
さらに周囲の物珍しさから集まってくる視線が痛々しい。気にするなと言われるだろうが、性分が拒否反応を起こし、腕に鳥肌が立つ。
「あの……周りに人が来ているので……」
「ん? 気にしない、気にしない。もう少しだからね」
そうだろうと思っていたが、背後から浴びる好奇的な目は苛立ちを起こすには十分だった。
(見かけない顔だな)
(妖怪?)
(珍しい)
(何故)
(何を企んでいる?)
せっかく人通りの少ない所を選んだはずなのに、憂鬱な気分になる。
助けるような視線を幽々子へ向けるが、食事に夢中で届くことはない。諦めてサードアイが野次馬に向かないようにして、時が過ぎるのを待つ。
いつの間にか残りの量も僅かになっている。これなら少し耐えて、移動すれば良いだろう。
「うーん、おかわりがほしいわねえ」
絶望が反射的に幽々子の方へ視線を移す。
気付いていないようで、口元を丁寧に拭き、屋台へと向かっていってしまった。
流れる動作に呼び止めるタイミングも失う。
集まっていた野次馬も当たり前に掻き分けていこうとする彼女に流されるがままに道を作る。
そして何事もなく、道は元の通り塞がれ、幽々子の背中は消えてしまった。
思わず伸びていた腕を押さえ、仕方なく先程まで幽々子が使っていた机に寄りかかる。幽々子を追う者がいたのか、先程よりも人の数は減っているように見えるが、久々に多くの心を一気に読んだせいか、少し気分が悪くなってきた。
(早く帰ってきてくれないかしら……)
勝手に移動したいが、幽々子に迷惑をかけるわけにはいかない。
このままこちらに向けられる畏怖と嫌悪の感情を受け続けながら待たなければならないのか。徐々に苛立ちが生まれ、幽々子への不満へと変わる。
何故、人混みが嫌いということを理解しておきながら、放置するような真似をしてくれたのか。
お互いに地上では忌み嫌われる者同士であることは知っておきながら離れ離れになるような真似をしてくれたのだろうか。
正直、幽々子にいてくれないとここは辛い。
(早く……だけど……だけど?)
さとりの胸が痛みを覚えるような違和感を持つ。
自分は誇り高い覚妖怪だったはず。確かに、目の前にいる亡霊に心を奪われている。だが、彼女に頼りきりになるほど、自分は弱い存在か。否、心を読むことができるという崇高な能力を持つ自分は誰にも劣らない。
背後にいる人間や低級の妖怪など、大したことなどない。
彼らに振り返り、サードアイを向ける。負の感情が一挙に押し寄せるが、構わずに睨む。
ああ、彼ら彼女らはあのようなことをトラウマにしているのか。ならば、見せしめに一番敵意を向けてくる種族も分からない低級妖怪へ想起の念を送る。
遠くからでも分かる青ざめていく顔が実に面白い。
その表情をもっと見せてほしい。そして、忘れられていた覚妖怪の恐ろしさを改めて実感しろ。
自分を怒らせたらどうなるか、取り巻きにでも言い伝えれば良い。けして敵わない相手のことを陰で叩き、死ぬまで心の奥では恐れるのだ。
心臓を押さえて、可哀想に。徐々に術が解けて、人間の姿から元の良く分からない容姿へと戻っているのにも気付かないのか。
周りの人間達がそれを見て、距離を取っているのも分からないのか。
人間達をかき分けて逃げ惑う様は実に滑稽である。人間にすら紛れることができず、妖怪としての矜持も保てない愚か者など、いつまでも恐怖に怯えて生きているのがお似合いだ。
周囲の人間をかき分け、逃げていった背中に蔑視を送り、机に寄りかかる。
残った者達からは、再び恐怖の心情が聞こえてくる。少しやり過ぎただろうか、と思ったが、やり過ぎぐらいがちょうど良い。
何故なら、あれは見せしめだから。
これで当分は一人で待つことができる。そう安堵した途端、頬に落ちる雫、一滴。
「雨……?」
少しずつ強くなり、すぐに本降りになり始めた。周りの人間や妖怪達もどこかへ雨宿りの場所を求めてどこかへ散っていく。
このタイミングでのこの自然現象はありがたい。
濡れるのは嫌だと足を踏み出すが、幽々子の存在がそれを止めた。彼女とはぐれて行動するのは彼女に迷惑をかけることになるのではないか。
どうすれば良い。
妹やペットと外出することがあっても、対等な立場の者と私的に外出ことがあっただろうか。
自分の不甲斐なさが苛立ちとなって、拳を作る。
こういう時にどのような決断を下すのが最適解か。
分からない。考えれば考えるほどに脳が混迷を極め、さらに混迷へと進んでいく。
それを嘲笑うかのように雨脚が強くなっていく。
「こちらへ」
いつの間にか背後に立っていた幽々子に促されるがままに手を引かれ、境内の奥ヘ進む。
触れた手は冷たいはずなのに、暖かく感じる。
見るといつの間にか彼女の片手には傘が握られており、さとりが雨に濡れることはなかった。だが、幽々子の肩にかかる雨水はいたたまれない。
傘に当たる面積を少しでも広くしてあげなければと彼女に体を寄せる。これで少しは濡れずにいるだろう。
心で少し嬉しさと驚きを隠せていないところも、待たされた意趣返しを少しでもできた気がする。
それから一分も経たない内に誰もいない神社の奥の社の屋根の下に立っていた。
スカートと上着にたまった雨水を絞り落とす。風邪を引いて明日以降の仕事に差し支えがないことを祈るばかりだ。
「今日は、ごめんなさいね」
「え?」
思わず声を上げてしまう。
表情を伺うと儚げな横顔が美しく、目の下にくまがあるように見える。
「久々に会えたと思って、浮かれちゃって」
幽々子は胸に手を当て、目を細める。
自ずと覗き見たくなる心を読む。
(本当にごめんなさい、ごめんなさい……)
心の声は今にも泣きそうで、さとりの心さえも締め付けてくる。
心の底からの謝罪をどうやって受け入れよう。
考えてみれば、そのような謝罪を受ける機会があったのはいつが最後だっただろうか。
皆、上辺だけの謝罪をしてきて、必ず何かの言い訳と悪態があった。ペットであっても思うところが多く、それも仕方ないだろうと諦めていた。
気付けば、頭に手を当て、どうすれば良いかというポーズを取っていた。
だが、どうすれば良いか考えても分からない。
悩んだ末、行動で移すしかないと結論づけた。
「え……」
幽々子が素っ頓狂な声を上げる。横から抱き着いた自分の顔がどうなっているか、想像したくない。それでも離れたくないという思いだけが腕の力をさらに強める。
「ねえ……」
「このままでいさせてください」
抵抗していた幽々子の腰の動きが止まる。周りは見えないが、指摘されないのであれば、大丈夫なのだろう。
何故一言、大丈夫と言えないのだろうか。素直に何でも言えるはずの自分はどこに行ったのか。
自分は幽々子に素直になれなくなってしまったというのは、彼女に心を閉ざそうとしてしまっているということか。
否、違う、嫌。拒絶の感情が心を飲み込み、息苦しさを覚える。
腕の力を込める。矛盾するように。
何も出来ないことへの恨みを彼女へぶつけるのは、酷い八つ当たりだと分かっている。
それでも、こうするしか今は出来ない。
「しょうがないわね……」
幽々子の手がさとりの頭に置かれる。
「何だか、妖夢を甘やかしているみたいだわ〜」
落ち着く口調に、くすぐったくも気持ち良さを感じる撫で方。
「それと……」
「えい」と幽々子もさとりの背中に撫でていない方の手を添えてくる。
何も付けていないはずなのに、落ち着く香りが体中に広がり、心にゆとりが生まれる。
この亡霊は本当に危険だ。これだけのことで、乱れきっていた心を落ち着かせてしまう。幻想郷縁起に危険度が自分と同じく極高とされるのも当然だ。
自分一人で突っ走り、こうなってしまっているにもかかわらず、こうして共にいてくれるありがたさをぶつけるのは今しかないだろう。
力任せに抱きつくのはやめて、愛を伝えるよう、程良く幽々子の腰回りを押さえる。
「落ち着いたのね」
察しよく幽々子も頭に置いていた手を背中に移動させる。
秋雨で濡れた寒さを忘れさせてくれる、亡霊故に体温が低いはずなのに感じさせる暖かい抱擁。
これはまさに麻薬に等しい。
分かっていても、誰かが来るかもしれないという思いがあっても止められない。このままずっと居続けたいという欲望が理性を壊し、ただひたすらにこの心地よさだけを求めている。
どれだけの時間が経ったかも分からない。しかし、今は幽々子に全てを任せてしまいたい。
「私ね。貴方がもっとこういう場所でも普通でいれたらと思って、ここに立ち寄ったの」
「え?」
唐突な告白に顔を上げると困った表情を浮かべる幽々子が目に入る。
心を読むと幽々子がここに立ち寄ろうと言った時の光景が見えてくる。
自分で彼女のために作りたかった弁当を忘れたことを詫びながら移動する様は見ていて、恥ずかしい。
最初は心底残念がっていたようだ。あの時に能力を使っていれば、もう少し対処のしようがあったかもしれない。
本当に申し訳ないと思いつつ、続きを眺める。
穏やかな笑みで謝るさとりをなだめつつ、天啓を得たように閃いたらしい。後先考えていない行動ではなく、もう少し自分がしっかりしていれば、彼女の意のままに事が進んでいた。
「でも、失敗だったわね。おかげで、物珍しいものを見る人で溢れ返って、挙句の果てに、貴方を追い込んでしまって」
さとりは無言で首を横に振る。
「気にしなくても気にしてしまうわ。だって、そのせいで貴方は能力を使うまでに追い込まれたのだから」
困った表情が悲しみへと変わる。垂れてくる長いまつ毛と細める目を下から見上げるのは、あまりにも扇情的で場が違えば、勢いのままに押し倒したかもしれない。
(でもね、能力を活かすと依存するのは違うわよ)
さとりの心に見えない鋭い刃が突き刺さった。さとりのためを思って行動したのが事実であれば、苦しむ結果がもたらされてしまうかもしれないと予想していた。
全て計算した上で行動していたのだ。
確かに、幽々子に身を任せることに悪い気は起きない。だが、自我を無くしてまで彼女に身を委ねるのは正にアイデンティティを失っていると言っても過言ではない。
「屋台の料理も美味しかったけど、心は満たせなかったわね」
作り忘れた弁当のことではなく、さとりが自分らしくいてくれないのが嫌だと言っている。
間近にいるから心の声がよく聞こえてくる。
この真心は彼女と自分の間の秘密の約束。
そうでなければ、自分は彼女にとって特別な存在ではなくなってしまう。
「申し訳ございません」
「ん、罰としてしばらくこうさせてね」
幽々子が強く抱き締めてくる。
痛くなく、愛が強く伝わる。
雨だけは止まない。
「……帰りたいです」
幽々子はここは嫌だと睨みつけるさとりをあらあらと子供を見るような目で見てくる。
「やはり、立っているのは辛いかしら」
「何故、人混みの中を連れ回すのか、と言いたいのです」
周りには様々な人間や妖怪が往来していて、嫌でも心の声が聞こえてくる。
さとりはそれが嫌で、気分が滅入ると抗議の目を向けるが、幽々子に届くことなどない。
晩秋の紅葉を見ようと約束した夏。
それを現実にするために互いに頑張って仕事を終わらせて今日という日を迎えた。
暦の上では十月下旬、ちょうど紅葉が見頃となる時である。
高揚する気持ちを押さえながら幽々子と待ち合わせをして、向かった先が妖怪の山。
それまでは良かった。彼女の目的地が守矢神社で行われていた美しい紅葉に乗じた祭りへと足が向かうまでは。
いつもの通り、露店に足が向いてしまった幽々子はあれやこれやと食べ物を注文した。
彼女の後ろに並んでいた客は本当に不運だと哀れむしかない。
当然、さとりは共に行動するため、それらを食すまで待たなければならない。
繁盛している祭りには多くの人間や紛れている妖怪が往来しており、さとりにとって苦痛でしかない。
しかも、座る場所は占領されているため、奥にあった比較的空いている立食スペースでの待機である。体力のない彼女にとって無為に立ち続ける時間は足裏の痛みが続く、正に苦行が苦行を呼んでいるに相応しい。
もっとも、弁当を用意すると言いながら、仕事のせいでそのような余裕がなく、手ぶらで来たのはさとりなので、強く言えない事情もあるのだが。
「まぁ、これらを食べてゆっくりとすれば、気分も変わるでしょう」
「貴方と違って、そんなに食べません」
器用に所狭し並べられ、積まれた料理。これをしっかり味わいつつ平らげるのだから、彼女の胃袋は恐ろしい。
「えー、でも少しはつまんでおかないとお腹空くわよ〜」
「お気遣いはありがたいですが、その量を見ると見ているだけでいっぱいになります」
頭を抱えたくなるが、心を読むと本心で心配してくれているので、強く言えない。
正直、まだ食べたいと思っている心まで読み取り、満腹感がさらに増してしまったのは辛い。
本当にお腹については、天真爛漫そのものだが、それに巻き込まれる身にもなってほしい。
さらに周囲の物珍しさから集まってくる視線が痛々しい。気にするなと言われるだろうが、性分が拒否反応を起こし、腕に鳥肌が立つ。
「あの……周りに人が来ているので……」
「ん? 気にしない、気にしない。もう少しだからね」
そうだろうと思っていたが、背後から浴びる好奇的な目は苛立ちを起こすには十分だった。
(見かけない顔だな)
(妖怪?)
(珍しい)
(何故)
(何を企んでいる?)
せっかく人通りの少ない所を選んだはずなのに、憂鬱な気分になる。
助けるような視線を幽々子へ向けるが、食事に夢中で届くことはない。諦めてサードアイが野次馬に向かないようにして、時が過ぎるのを待つ。
いつの間にか残りの量も僅かになっている。これなら少し耐えて、移動すれば良いだろう。
「うーん、おかわりがほしいわねえ」
絶望が反射的に幽々子の方へ視線を移す。
気付いていないようで、口元を丁寧に拭き、屋台へと向かっていってしまった。
流れる動作に呼び止めるタイミングも失う。
集まっていた野次馬も当たり前に掻き分けていこうとする彼女に流されるがままに道を作る。
そして何事もなく、道は元の通り塞がれ、幽々子の背中は消えてしまった。
思わず伸びていた腕を押さえ、仕方なく先程まで幽々子が使っていた机に寄りかかる。幽々子を追う者がいたのか、先程よりも人の数は減っているように見えるが、久々に多くの心を一気に読んだせいか、少し気分が悪くなってきた。
(早く帰ってきてくれないかしら……)
勝手に移動したいが、幽々子に迷惑をかけるわけにはいかない。
このままこちらに向けられる畏怖と嫌悪の感情を受け続けながら待たなければならないのか。徐々に苛立ちが生まれ、幽々子への不満へと変わる。
何故、人混みが嫌いということを理解しておきながら、放置するような真似をしてくれたのか。
お互いに地上では忌み嫌われる者同士であることは知っておきながら離れ離れになるような真似をしてくれたのだろうか。
正直、幽々子にいてくれないとここは辛い。
(早く……だけど……だけど?)
さとりの胸が痛みを覚えるような違和感を持つ。
自分は誇り高い覚妖怪だったはず。確かに、目の前にいる亡霊に心を奪われている。だが、彼女に頼りきりになるほど、自分は弱い存在か。否、心を読むことができるという崇高な能力を持つ自分は誰にも劣らない。
背後にいる人間や低級の妖怪など、大したことなどない。
彼らに振り返り、サードアイを向ける。負の感情が一挙に押し寄せるが、構わずに睨む。
ああ、彼ら彼女らはあのようなことをトラウマにしているのか。ならば、見せしめに一番敵意を向けてくる種族も分からない低級妖怪へ想起の念を送る。
遠くからでも分かる青ざめていく顔が実に面白い。
その表情をもっと見せてほしい。そして、忘れられていた覚妖怪の恐ろしさを改めて実感しろ。
自分を怒らせたらどうなるか、取り巻きにでも言い伝えれば良い。けして敵わない相手のことを陰で叩き、死ぬまで心の奥では恐れるのだ。
心臓を押さえて、可哀想に。徐々に術が解けて、人間の姿から元の良く分からない容姿へと戻っているのにも気付かないのか。
周りの人間達がそれを見て、距離を取っているのも分からないのか。
人間達をかき分けて逃げ惑う様は実に滑稽である。人間にすら紛れることができず、妖怪としての矜持も保てない愚か者など、いつまでも恐怖に怯えて生きているのがお似合いだ。
周囲の人間をかき分け、逃げていった背中に蔑視を送り、机に寄りかかる。
残った者達からは、再び恐怖の心情が聞こえてくる。少しやり過ぎただろうか、と思ったが、やり過ぎぐらいがちょうど良い。
何故なら、あれは見せしめだから。
これで当分は一人で待つことができる。そう安堵した途端、頬に落ちる雫、一滴。
「雨……?」
少しずつ強くなり、すぐに本降りになり始めた。周りの人間や妖怪達もどこかへ雨宿りの場所を求めてどこかへ散っていく。
このタイミングでのこの自然現象はありがたい。
濡れるのは嫌だと足を踏み出すが、幽々子の存在がそれを止めた。彼女とはぐれて行動するのは彼女に迷惑をかけることになるのではないか。
どうすれば良い。
妹やペットと外出することがあっても、対等な立場の者と私的に外出ことがあっただろうか。
自分の不甲斐なさが苛立ちとなって、拳を作る。
こういう時にどのような決断を下すのが最適解か。
分からない。考えれば考えるほどに脳が混迷を極め、さらに混迷へと進んでいく。
それを嘲笑うかのように雨脚が強くなっていく。
「こちらへ」
いつの間にか背後に立っていた幽々子に促されるがままに手を引かれ、境内の奥ヘ進む。
触れた手は冷たいはずなのに、暖かく感じる。
見るといつの間にか彼女の片手には傘が握られており、さとりが雨に濡れることはなかった。だが、幽々子の肩にかかる雨水はいたたまれない。
傘に当たる面積を少しでも広くしてあげなければと彼女に体を寄せる。これで少しは濡れずにいるだろう。
心で少し嬉しさと驚きを隠せていないところも、待たされた意趣返しを少しでもできた気がする。
それから一分も経たない内に誰もいない神社の奥の社の屋根の下に立っていた。
スカートと上着にたまった雨水を絞り落とす。風邪を引いて明日以降の仕事に差し支えがないことを祈るばかりだ。
「今日は、ごめんなさいね」
「え?」
思わず声を上げてしまう。
表情を伺うと儚げな横顔が美しく、目の下にくまがあるように見える。
「久々に会えたと思って、浮かれちゃって」
幽々子は胸に手を当て、目を細める。
自ずと覗き見たくなる心を読む。
(本当にごめんなさい、ごめんなさい……)
心の声は今にも泣きそうで、さとりの心さえも締め付けてくる。
心の底からの謝罪をどうやって受け入れよう。
考えてみれば、そのような謝罪を受ける機会があったのはいつが最後だっただろうか。
皆、上辺だけの謝罪をしてきて、必ず何かの言い訳と悪態があった。ペットであっても思うところが多く、それも仕方ないだろうと諦めていた。
気付けば、頭に手を当て、どうすれば良いかというポーズを取っていた。
だが、どうすれば良いか考えても分からない。
悩んだ末、行動で移すしかないと結論づけた。
「え……」
幽々子が素っ頓狂な声を上げる。横から抱き着いた自分の顔がどうなっているか、想像したくない。それでも離れたくないという思いだけが腕の力をさらに強める。
「ねえ……」
「このままでいさせてください」
抵抗していた幽々子の腰の動きが止まる。周りは見えないが、指摘されないのであれば、大丈夫なのだろう。
何故一言、大丈夫と言えないのだろうか。素直に何でも言えるはずの自分はどこに行ったのか。
自分は幽々子に素直になれなくなってしまったというのは、彼女に心を閉ざそうとしてしまっているということか。
否、違う、嫌。拒絶の感情が心を飲み込み、息苦しさを覚える。
腕の力を込める。矛盾するように。
何も出来ないことへの恨みを彼女へぶつけるのは、酷い八つ当たりだと分かっている。
それでも、こうするしか今は出来ない。
「しょうがないわね……」
幽々子の手がさとりの頭に置かれる。
「何だか、妖夢を甘やかしているみたいだわ〜」
落ち着く口調に、くすぐったくも気持ち良さを感じる撫で方。
「それと……」
「えい」と幽々子もさとりの背中に撫でていない方の手を添えてくる。
何も付けていないはずなのに、落ち着く香りが体中に広がり、心にゆとりが生まれる。
この亡霊は本当に危険だ。これだけのことで、乱れきっていた心を落ち着かせてしまう。幻想郷縁起に危険度が自分と同じく極高とされるのも当然だ。
自分一人で突っ走り、こうなってしまっているにもかかわらず、こうして共にいてくれるありがたさをぶつけるのは今しかないだろう。
力任せに抱きつくのはやめて、愛を伝えるよう、程良く幽々子の腰回りを押さえる。
「落ち着いたのね」
察しよく幽々子も頭に置いていた手を背中に移動させる。
秋雨で濡れた寒さを忘れさせてくれる、亡霊故に体温が低いはずなのに感じさせる暖かい抱擁。
これはまさに麻薬に等しい。
分かっていても、誰かが来るかもしれないという思いがあっても止められない。このままずっと居続けたいという欲望が理性を壊し、ただひたすらにこの心地よさだけを求めている。
どれだけの時間が経ったかも分からない。しかし、今は幽々子に全てを任せてしまいたい。
「私ね。貴方がもっとこういう場所でも普通でいれたらと思って、ここに立ち寄ったの」
「え?」
唐突な告白に顔を上げると困った表情を浮かべる幽々子が目に入る。
心を読むと幽々子がここに立ち寄ろうと言った時の光景が見えてくる。
自分で彼女のために作りたかった弁当を忘れたことを詫びながら移動する様は見ていて、恥ずかしい。
最初は心底残念がっていたようだ。あの時に能力を使っていれば、もう少し対処のしようがあったかもしれない。
本当に申し訳ないと思いつつ、続きを眺める。
穏やかな笑みで謝るさとりをなだめつつ、天啓を得たように閃いたらしい。後先考えていない行動ではなく、もう少し自分がしっかりしていれば、彼女の意のままに事が進んでいた。
「でも、失敗だったわね。おかげで、物珍しいものを見る人で溢れ返って、挙句の果てに、貴方を追い込んでしまって」
さとりは無言で首を横に振る。
「気にしなくても気にしてしまうわ。だって、そのせいで貴方は能力を使うまでに追い込まれたのだから」
困った表情が悲しみへと変わる。垂れてくる長いまつ毛と細める目を下から見上げるのは、あまりにも扇情的で場が違えば、勢いのままに押し倒したかもしれない。
(でもね、能力を活かすと依存するのは違うわよ)
さとりの心に見えない鋭い刃が突き刺さった。さとりのためを思って行動したのが事実であれば、苦しむ結果がもたらされてしまうかもしれないと予想していた。
全て計算した上で行動していたのだ。
確かに、幽々子に身を任せることに悪い気は起きない。だが、自我を無くしてまで彼女に身を委ねるのは正にアイデンティティを失っていると言っても過言ではない。
「屋台の料理も美味しかったけど、心は満たせなかったわね」
作り忘れた弁当のことではなく、さとりが自分らしくいてくれないのが嫌だと言っている。
間近にいるから心の声がよく聞こえてくる。
この真心は彼女と自分の間の秘密の約束。
そうでなければ、自分は彼女にとって特別な存在ではなくなってしまう。
「申し訳ございません」
「ん、罰としてしばらくこうさせてね」
幽々子が強く抱き締めてくる。
痛くなく、愛が強く伝わる。
雨だけは止まない。
このお話のさとりは常に読心をし続けることで(ある意味で)打算的に常時最適解を取りに行くことはしようとしないのがとても印象よかったです。
完全に彼女の買い物が終わるのを待っている彼氏みたいな心境のさとりがよかったです
ずっと仲良しでいてほしいです