命蓮寺の座敷で串団子を食べている秦こころに、虎の影がにじり寄る。
「こころさん……それ、美味しそうですね、ひと口分けてくれませんか」
命蓮寺のご本尊寅丸星が、四つ這いのまま、ぐっと顔を寄せた。見開いた目は串団子一点に集中していた。まるで獲物を狙う獣そのものの眼光だ。
「……」ちょうど頬張ったところで言葉が出なかったこころは、おもむろに串団子を差し出した。団子は串に四玉残っている。
「ありがとうございますっ……」星は目を光らせて口を開けた。ぱきっという音と共に、星は串ごと全部団子を頬張った。こころの手には、タレのついた串の持ち手だけが残った。
☆
命蓮寺の縁側で茹でとうもろこしをかじっていた古明地こいしに、同じく虎の影がにじり寄る。
「こいしさん……それ、美味しそうですね……ひと口かじらせてくれませんか……?」
「いいよー」こいしが言い終わるうちに、がりっと大きな音がする。こいしの手には、コルク栓のようになった、とうもろこしの軸のほんの一部分だけが残っていた。
――その後、同じく命蓮寺の座敷にて、こころとこいしは星との出来事についてを話し合っていた。
「せっかくもらったお団子だったのになー」
「なんていやしんぼなのかしら、うちのペットでももっと行儀がいいってもんよ、しつけなきゃ」
こいしはぷんすか怒るような調子で、戸棚からどら焼きが詰められた箱を取り出すと、ひとつひとつ分解して皿のように机上へ並べていく。
「おやつにわさびを仕込んでやるわ」
そしてシャリシャリシャリシャリ、おろし金でわさびをすり下ろしてあんこの上にたっぷりと盛っていく。その姿は妙に手際が良く、職人のように淀みない。こころはただ、その異様な光景をぼんやり眺めることしかできなかった。
しばらくして、仕込み終えたどら焼きを戸棚に戻した後、こいしはふんと鼻を鳴らして満足げに座布団に座り直した。
「これであの食いしんぼもちょっとは懲りるはずよ」
「でも、あの人なんか変だよ。前はもっとしっかりした感じだったのに。こんなこと初めて」
「そうなの? 全然意識したことなかったわー。とにかく、ああも狙われるんじゃたまったもんじゃないね」
「なんとかしなきゃ。お付きの大将に訊いてみたら何か分かるかも」
こころはすっくと立ち上がり、障子戸を開けるとすぐさま飛び立つ。 こいしは「どこいくのー?」と言いながら、特に何も考えず、ふらふらと後を追った。
☆
無縁塚。その隅に立つ小屋に二人は降り立った。こころは軽いノックの後、遠慮なく扉を開ける。
「大将」
「誰が大将だ。賢将だよ」
こころの訪問を、小屋の主ナズーリンの鋭いツッコミが出迎える。こころは訂正するでもなく、さも当然のようにそばの椅子に座り込む。それに続いてこいしも隣へ。 ナズーリンは、珍しい客人の組み合わせに訝しげに眉をひそめながらも、座っている椅子をずらして向き直った。
「あのねー、今日お寺でお団子もらったの」
「それがね、聞いたらこの子だけこっそりもらってるのよ? ずるいと思わない? あの住職さんえこひいきしてるわ!」
☆
何があったのか、何の用なのか? こころとこいしは好き勝手思い思いに話すため、てんでまとまらない。賢将ナズーリンは口に手を当てながら黙って耳を傾け、混沌とした情報の中からキーワードを拾い出し、頭の中で辛抱強く内容を整理していった。
初めは仕方なく子供の戯言に付き合っているかのような呆れた様子だった賢将の顔が、話が進むにつれて次第に曇ってゆく。
二人の脈絡のないおしゃべりがようやく途切れたところで、ナズーリンはゆっくり項垂れ、疲れたように顔をぬぐった。
「そうか…………またか……」
「「また?」」
二人の声と、傾げる首が綺麗に揃った。 その声でナズーリンは顔を上げ、どこか懐かしむような遠い目をしながら語り出す。
「ああ……。元々、虎の妖怪であるご主人は、その妖怪然とした性質が時折顔を出すことがある。それで今のような状態になってしまっているんだ。数百年に一度、あるかないかのことだが……」
「えー、なんでそんなことになるの?」
こいしが尋ねる。
「抑圧されたモノが積もり積もって……ということだろうな。立場もあって、常に気を張っているだろうから……」
「どうしたらいいの?」
こころが『困惑』の面を浮かべて首を捻る。ナズーリンは腕を組んでうなった。
「あー……つまり、思いっきり羽目を外させてやればいいわけだ」 「そういうことか」
こころが同じ調子で捻った首を元に戻すと、今度はこいしが唇を尖らせる。
「羽目ぐらい好きに外したらいいのに。我慢して結局周りに迷惑かけてるんじゃ世話ないわー」
ナズーリンはそれを聞いて、ふっと力なく微笑した。
「まあ、あれで毘沙門天様の代理で、うちのご本尊様だからな。おおっぴらに妖怪らしい真似はできないだろう?」
こころは、以前の威厳があった時の星を思い浮かべ、その苦労も少しはわかった気がした。その難儀さに、どうしたものかと息を吐いた。
ナズーリンは続ける。
「まあ……好きなだけ暴れさせて、好きなだけ食べさせてやりたいとは思うが、聖に感づかれたら面倒極まりないし、本人も理性で拒むだろうよ」
ナズーリンは下を向きつつ目を閉じて、深いため息を吐く。それに合わせてこころに『憐れみ』の面が浮かぶ。
「かわいそう」
「ご本尊になんかならなければ、好きに生きれたのにねー」
重心を後ろにやって、座る椅子をギシギシと傾けながら、こいしがつまらなそうに呟いた。 こころはうんうんと頷く。
「せめてニホンゾンくらいにしとけば良かったのに」
「何言ってるの?」
二人が喋くっている間、賢将ナズーリンは腕を組んだまま考える。
やがて、ちらり、ちらりとこいしに視線を送り始める。その意図を読み取れる者は、ここにはいない。
「……あー、そうだ」
ナズーリンはわざとらしく呟いた。
「どこか人目につかないだだっ広い土地で、誰にも気兼ねなく好きに過ごさせてやれれば、きっと落ち着くと思うんだがな。だが、この狭い地上じゃ大抵誰かの目に付いてしまうなぁ…」
ナズーリンは腕を組んだままさらに頭を捻る。
「例えば誰かがこっそり人目につかない地底へでも連れて行って、本能を解放させてやってくれたら、どんなに良いことか。誰か、そんな奇特な人はいないものか……」
☆
その日の夜。命蓮寺は静寂に包まれていた。
闇の中を二筋の細い緑光が軌跡を残しつつ飛ぶ。それは蛍などではなく、こいしの瞳の光だった。
こいしは音もなく星の寝室に忍び込む。
「ぐるる……うぅん……」
星は布団も引かず丸まって寝ていた。寝苦しいのか、星は時折唸り声を上げている。服も普段のままだった。
こいしは星のそばに膝をつくと、そっとその額に指を触れた。
「大丈夫、楽しいとこに行きましょ」
無意識に語りかけると、星は虚ろな目でふらりと起き上がり、夢遊病者のようにおぼつかない足取りで歩き出す。こいしはその手を優しく引いて外へ誘導する。
寺の裏手では、こころが待っていた。そばには、支木(人力車の持ち手)と車輪付きの大きな檻が、扉を開けて佇んでいる。
こいしの誘導で星が中に入っていく。こころは無言で閂をかけ、こいしに頷いてみせる。こいしは支木をがっしり掴んで、旧地獄への道へと向かった。檻の中で、星は不安そうに外を眺めながら、小さな獣のような鳴き声を上げていた。
☆
地霊殿のこいしの部屋。檻から出された星は、まだぼんやりとした様子でキョロキョロと周りを見回している。
「こんなものがあるからいけないんだわ」
こいしは言い終わるうちに、星の頭に乗った飾りをひょいと鷲掴みにして取っ払う。
「このヨロイも、腰巻きも、羽衣も、みんなよ」
こいしはぶつぶつ呟きながら、星の服を剥ぎ取り終えた。そして自分の部屋の箪笥から、動きやすそうなシンプルなワンピースを取り出して着せようとするが、サイズが合わない。
「だと思ったわー。ちょっと待ってて」
こいしは部屋を出ていく。いつもの服がなくなった星は、心細いのか、弱々しく身を縮めた。
しばらくしてこいしが戻ってきた。腕にはたくさんの服を抱えている。
「おまたせー。うちのペットの服を持ってきたわ。私のよりは合うはずよ」
また試着が始まる。星は、まるで着せ替え人形のようにされるがまま。
「これでいいわ。さっきのより楽でしょ?」
リボンやフリルはあれど、かなりシンプルで動きやすい前開きのワンピース姿となった星を見て、こいしは満足げに頷いた。
「ね、もしもお寺から追い出されたりした時には、うちに来るといいわ、面倒見てあげる」
その言葉が聞こえているのかいないのか、星はただ、こいしの顔をじっと見つめているだけだった。
☆
こいしは星の手を引いて、地底へと連れ出した。
中でも、特に荒涼としていて、その分だだっ広い土地に案内する。
星は上体を傾け、首を伸ばすようにして空気の匂いを嗅いでいる。
「心配しなくていいわ、ここは地底のドッグラン。誰も来ないし、好きなだけ遊んでいいのよ」
こいしが手を離すと、星はおずおずと周囲を見回したり地面の踏み心地を確認していたが、やがて顔を上げ、風を切って駆け出した。
今まで抑えつけられていた本能が、一気に解放されたかのように。その圧倒的な速さに、こいしは目を丸くする。
「待ってえ!速ーい!」
こいしも後に続き、追いかけっこが始まった。やがて追う側追われる側が入れ替わる。
こいしはハートの弾幕をばらまきながら笑い声を上げる。星もまた、力強い弾幕で応酬する。ただ純粋なエネルギーのぶつけ合い。二人の妖怪は、夜が深くなるのも忘れて弾幕ごっこに興じた。
☆
地霊殿に戻った後、こいしは食堂で星に食事をとらせていた。
「ジャンジャン持ってきて! この際生でもいいから!」
こいしが号令をかけると、お燐たちが次から次へと料理を運んでくる。山盛りの肉、魚、妖怪の好む珍味。星は作法も何もかも忘れ、夢中でそれらを平らげていく。その食べっぷりは、昼間の比ではなかった。
ーー満腹になった星は、用意されたふかふかのベッドで、穏やかな寝息を立てていた。
その顔に、もう苦悶の色はなかった。
☆
翌日の命蓮寺。本堂の掃除をしている星は、昨日までとは打って変わって、背筋がすっと伸び、いつもの凜とした顔つきと威厳が戻っていた。
「ん、良い顔になったじゃないかご主人」
どこからともなく現れたナズーリンが、満足げに言う。星は両眉を上げた後、微笑む。
「そうですか? 私はいつもと変わりませんよ」
そこへ、聖白蓮がやってきた。
「星、今朝は姿が見えなかったけれど、どこへ行っていたの?」
心配そうな白蓮に、星はきょとんと首を傾げる。
「え……? 申し訳ありません、よく覚えていないのです。ただ、とても楽しい夢を見ていたような……」
記憶が曖昧なようだ。星が困っていると、こいしがひょっこり顔を出した。
「ごめんなさーい、何も言わずに。私が朝の散歩に誘ったの」
こいしがぺろりと舌を出すと、白蓮は「まあ」と優しく微笑んだ。
「そうだったの。いい気分転換になったみたいね。さあ、向こうでおやつにしましょう。みんなも待っていますよ」
白蓮に促され、一同は座敷へ向かう。
その背中を見送りながら、こころがこいしの肩をぽんと叩いた。
「やったね、こいしちゃん。これで万事解決だ」
「ええ、なにもかも全てうまくいったわー」
こいしは得意げに胸を張る。二人は顔を見合わせて、ぱちんとハイタッチを交わし、自分たちも褒美のおやつにあずかろうと座敷へ向かった。
「ヒーーーッ」
「なによこれ!?」
「ゲホッゲホッ!!」
障子戸に手をかける寸前、その向こうから、か細く高い隙間風のような悲鳴と、激しい咳が連続して聞こえてきた。さらに続けて、普段は穏やかな白蓮の、驚きに満ちた声が響き渡る。
「おやつにわさびを入れたのは誰ですかっ!?」
こころがはっとして横を向くと、さっきまで隣にいたはずのこいしの姿は、もうどこにもなかった。
《完》
「こころさん……それ、美味しそうですね、ひと口分けてくれませんか」
命蓮寺のご本尊寅丸星が、四つ這いのまま、ぐっと顔を寄せた。見開いた目は串団子一点に集中していた。まるで獲物を狙う獣そのものの眼光だ。
「……」ちょうど頬張ったところで言葉が出なかったこころは、おもむろに串団子を差し出した。団子は串に四玉残っている。
「ありがとうございますっ……」星は目を光らせて口を開けた。ぱきっという音と共に、星は串ごと全部団子を頬張った。こころの手には、タレのついた串の持ち手だけが残った。
☆
命蓮寺の縁側で茹でとうもろこしをかじっていた古明地こいしに、同じく虎の影がにじり寄る。
「こいしさん……それ、美味しそうですね……ひと口かじらせてくれませんか……?」
「いいよー」こいしが言い終わるうちに、がりっと大きな音がする。こいしの手には、コルク栓のようになった、とうもろこしの軸のほんの一部分だけが残っていた。
――その後、同じく命蓮寺の座敷にて、こころとこいしは星との出来事についてを話し合っていた。
「せっかくもらったお団子だったのになー」
「なんていやしんぼなのかしら、うちのペットでももっと行儀がいいってもんよ、しつけなきゃ」
こいしはぷんすか怒るような調子で、戸棚からどら焼きが詰められた箱を取り出すと、ひとつひとつ分解して皿のように机上へ並べていく。
「おやつにわさびを仕込んでやるわ」
そしてシャリシャリシャリシャリ、おろし金でわさびをすり下ろしてあんこの上にたっぷりと盛っていく。その姿は妙に手際が良く、職人のように淀みない。こころはただ、その異様な光景をぼんやり眺めることしかできなかった。
しばらくして、仕込み終えたどら焼きを戸棚に戻した後、こいしはふんと鼻を鳴らして満足げに座布団に座り直した。
「これであの食いしんぼもちょっとは懲りるはずよ」
「でも、あの人なんか変だよ。前はもっとしっかりした感じだったのに。こんなこと初めて」
「そうなの? 全然意識したことなかったわー。とにかく、ああも狙われるんじゃたまったもんじゃないね」
「なんとかしなきゃ。お付きの大将に訊いてみたら何か分かるかも」
こころはすっくと立ち上がり、障子戸を開けるとすぐさま飛び立つ。 こいしは「どこいくのー?」と言いながら、特に何も考えず、ふらふらと後を追った。
☆
無縁塚。その隅に立つ小屋に二人は降り立った。こころは軽いノックの後、遠慮なく扉を開ける。
「大将」
「誰が大将だ。賢将だよ」
こころの訪問を、小屋の主ナズーリンの鋭いツッコミが出迎える。こころは訂正するでもなく、さも当然のようにそばの椅子に座り込む。それに続いてこいしも隣へ。 ナズーリンは、珍しい客人の組み合わせに訝しげに眉をひそめながらも、座っている椅子をずらして向き直った。
「あのねー、今日お寺でお団子もらったの」
「それがね、聞いたらこの子だけこっそりもらってるのよ? ずるいと思わない? あの住職さんえこひいきしてるわ!」
☆
何があったのか、何の用なのか? こころとこいしは好き勝手思い思いに話すため、てんでまとまらない。賢将ナズーリンは口に手を当てながら黙って耳を傾け、混沌とした情報の中からキーワードを拾い出し、頭の中で辛抱強く内容を整理していった。
初めは仕方なく子供の戯言に付き合っているかのような呆れた様子だった賢将の顔が、話が進むにつれて次第に曇ってゆく。
二人の脈絡のないおしゃべりがようやく途切れたところで、ナズーリンはゆっくり項垂れ、疲れたように顔をぬぐった。
「そうか…………またか……」
「「また?」」
二人の声と、傾げる首が綺麗に揃った。 その声でナズーリンは顔を上げ、どこか懐かしむような遠い目をしながら語り出す。
「ああ……。元々、虎の妖怪であるご主人は、その妖怪然とした性質が時折顔を出すことがある。それで今のような状態になってしまっているんだ。数百年に一度、あるかないかのことだが……」
「えー、なんでそんなことになるの?」
こいしが尋ねる。
「抑圧されたモノが積もり積もって……ということだろうな。立場もあって、常に気を張っているだろうから……」
「どうしたらいいの?」
こころが『困惑』の面を浮かべて首を捻る。ナズーリンは腕を組んでうなった。
「あー……つまり、思いっきり羽目を外させてやればいいわけだ」 「そういうことか」
こころが同じ調子で捻った首を元に戻すと、今度はこいしが唇を尖らせる。
「羽目ぐらい好きに外したらいいのに。我慢して結局周りに迷惑かけてるんじゃ世話ないわー」
ナズーリンはそれを聞いて、ふっと力なく微笑した。
「まあ、あれで毘沙門天様の代理で、うちのご本尊様だからな。おおっぴらに妖怪らしい真似はできないだろう?」
こころは、以前の威厳があった時の星を思い浮かべ、その苦労も少しはわかった気がした。その難儀さに、どうしたものかと息を吐いた。
ナズーリンは続ける。
「まあ……好きなだけ暴れさせて、好きなだけ食べさせてやりたいとは思うが、聖に感づかれたら面倒極まりないし、本人も理性で拒むだろうよ」
ナズーリンは下を向きつつ目を閉じて、深いため息を吐く。それに合わせてこころに『憐れみ』の面が浮かぶ。
「かわいそう」
「ご本尊になんかならなければ、好きに生きれたのにねー」
重心を後ろにやって、座る椅子をギシギシと傾けながら、こいしがつまらなそうに呟いた。 こころはうんうんと頷く。
「せめてニホンゾンくらいにしとけば良かったのに」
「何言ってるの?」
二人が喋くっている間、賢将ナズーリンは腕を組んだまま考える。
やがて、ちらり、ちらりとこいしに視線を送り始める。その意図を読み取れる者は、ここにはいない。
「……あー、そうだ」
ナズーリンはわざとらしく呟いた。
「どこか人目につかないだだっ広い土地で、誰にも気兼ねなく好きに過ごさせてやれれば、きっと落ち着くと思うんだがな。だが、この狭い地上じゃ大抵誰かの目に付いてしまうなぁ…」
ナズーリンは腕を組んだままさらに頭を捻る。
「例えば誰かがこっそり人目につかない地底へでも連れて行って、本能を解放させてやってくれたら、どんなに良いことか。誰か、そんな奇特な人はいないものか……」
☆
その日の夜。命蓮寺は静寂に包まれていた。
闇の中を二筋の細い緑光が軌跡を残しつつ飛ぶ。それは蛍などではなく、こいしの瞳の光だった。
こいしは音もなく星の寝室に忍び込む。
「ぐるる……うぅん……」
星は布団も引かず丸まって寝ていた。寝苦しいのか、星は時折唸り声を上げている。服も普段のままだった。
こいしは星のそばに膝をつくと、そっとその額に指を触れた。
「大丈夫、楽しいとこに行きましょ」
無意識に語りかけると、星は虚ろな目でふらりと起き上がり、夢遊病者のようにおぼつかない足取りで歩き出す。こいしはその手を優しく引いて外へ誘導する。
寺の裏手では、こころが待っていた。そばには、支木(人力車の持ち手)と車輪付きの大きな檻が、扉を開けて佇んでいる。
こいしの誘導で星が中に入っていく。こころは無言で閂をかけ、こいしに頷いてみせる。こいしは支木をがっしり掴んで、旧地獄への道へと向かった。檻の中で、星は不安そうに外を眺めながら、小さな獣のような鳴き声を上げていた。
☆
地霊殿のこいしの部屋。檻から出された星は、まだぼんやりとした様子でキョロキョロと周りを見回している。
「こんなものがあるからいけないんだわ」
こいしは言い終わるうちに、星の頭に乗った飾りをひょいと鷲掴みにして取っ払う。
「このヨロイも、腰巻きも、羽衣も、みんなよ」
こいしはぶつぶつ呟きながら、星の服を剥ぎ取り終えた。そして自分の部屋の箪笥から、動きやすそうなシンプルなワンピースを取り出して着せようとするが、サイズが合わない。
「だと思ったわー。ちょっと待ってて」
こいしは部屋を出ていく。いつもの服がなくなった星は、心細いのか、弱々しく身を縮めた。
しばらくしてこいしが戻ってきた。腕にはたくさんの服を抱えている。
「おまたせー。うちのペットの服を持ってきたわ。私のよりは合うはずよ」
また試着が始まる。星は、まるで着せ替え人形のようにされるがまま。
「これでいいわ。さっきのより楽でしょ?」
リボンやフリルはあれど、かなりシンプルで動きやすい前開きのワンピース姿となった星を見て、こいしは満足げに頷いた。
「ね、もしもお寺から追い出されたりした時には、うちに来るといいわ、面倒見てあげる」
その言葉が聞こえているのかいないのか、星はただ、こいしの顔をじっと見つめているだけだった。
☆
こいしは星の手を引いて、地底へと連れ出した。
中でも、特に荒涼としていて、その分だだっ広い土地に案内する。
星は上体を傾け、首を伸ばすようにして空気の匂いを嗅いでいる。
「心配しなくていいわ、ここは地底のドッグラン。誰も来ないし、好きなだけ遊んでいいのよ」
こいしが手を離すと、星はおずおずと周囲を見回したり地面の踏み心地を確認していたが、やがて顔を上げ、風を切って駆け出した。
今まで抑えつけられていた本能が、一気に解放されたかのように。その圧倒的な速さに、こいしは目を丸くする。
「待ってえ!速ーい!」
こいしも後に続き、追いかけっこが始まった。やがて追う側追われる側が入れ替わる。
こいしはハートの弾幕をばらまきながら笑い声を上げる。星もまた、力強い弾幕で応酬する。ただ純粋なエネルギーのぶつけ合い。二人の妖怪は、夜が深くなるのも忘れて弾幕ごっこに興じた。
☆
地霊殿に戻った後、こいしは食堂で星に食事をとらせていた。
「ジャンジャン持ってきて! この際生でもいいから!」
こいしが号令をかけると、お燐たちが次から次へと料理を運んでくる。山盛りの肉、魚、妖怪の好む珍味。星は作法も何もかも忘れ、夢中でそれらを平らげていく。その食べっぷりは、昼間の比ではなかった。
ーー満腹になった星は、用意されたふかふかのベッドで、穏やかな寝息を立てていた。
その顔に、もう苦悶の色はなかった。
☆
翌日の命蓮寺。本堂の掃除をしている星は、昨日までとは打って変わって、背筋がすっと伸び、いつもの凜とした顔つきと威厳が戻っていた。
「ん、良い顔になったじゃないかご主人」
どこからともなく現れたナズーリンが、満足げに言う。星は両眉を上げた後、微笑む。
「そうですか? 私はいつもと変わりませんよ」
そこへ、聖白蓮がやってきた。
「星、今朝は姿が見えなかったけれど、どこへ行っていたの?」
心配そうな白蓮に、星はきょとんと首を傾げる。
「え……? 申し訳ありません、よく覚えていないのです。ただ、とても楽しい夢を見ていたような……」
記憶が曖昧なようだ。星が困っていると、こいしがひょっこり顔を出した。
「ごめんなさーい、何も言わずに。私が朝の散歩に誘ったの」
こいしがぺろりと舌を出すと、白蓮は「まあ」と優しく微笑んだ。
「そうだったの。いい気分転換になったみたいね。さあ、向こうでおやつにしましょう。みんなも待っていますよ」
白蓮に促され、一同は座敷へ向かう。
その背中を見送りながら、こころがこいしの肩をぽんと叩いた。
「やったね、こいしちゃん。これで万事解決だ」
「ええ、なにもかも全てうまくいったわー」
こいしは得意げに胸を張る。二人は顔を見合わせて、ぱちんとハイタッチを交わし、自分たちも褒美のおやつにあずかろうと座敷へ向かった。
「ヒーーーッ」
「なによこれ!?」
「ゲホッゲホッ!!」
障子戸に手をかける寸前、その向こうから、か細く高い隙間風のような悲鳴と、激しい咳が連続して聞こえてきた。さらに続けて、普段は穏やかな白蓮の、驚きに満ちた声が響き渡る。
「おやつにわさびを入れたのは誰ですかっ!?」
こころがはっとして横を向くと、さっきまで隣にいたはずのこいしの姿は、もうどこにもなかった。
《完》
四足歩行でにじり寄ってくる寅丸とか怖すぎてかわいいですね
数百年に一度のレアなシーンを見せていただきました
オチもよかったです
導入からの繋ぎのテンポがよく上手いなあと思いました
オチの仕込みが露骨で明らかにオチで使ってくれるんだろうなあと思わせてくれたところからのオチで、気持ち良かったです
こいしちゃんをこいしちゃんを呼ぶタイプのこころちゃん好き
有難う御座いました
そうだよね星ちゃんたまには息抜きしたいよね…