ある晩秋の日の早朝。
往来を歩く人はまばらで、立ち並ぶ商店もその全てが閉まっている。
使い古した鞄片手に寺子屋を目指して歩を進めていく。
何百、何千回と繰り返された、当たり前の日常。
「おはようございます、先生!」
後ろから声がしたので振り返り、挨拶を返す。
「おはよう」
声の主はかつての教え子だった。
今日も藍色の前掛を身に着け、髪を後ろでひっつめにしている。
そう言えば、そろそろ教室の花を替えたいと思っていた。
「また、買いにいかせてもらうよ」
私がそう言うと、彼女は嬉しそうに頬を緩めた。
「ありがとうございます、たくさん用意して待ってますね!」
昔、彼女が生徒だった頃のことが追想される。
綺麗な黒髪が印象的な、少しのんびりした子。
当時は今と違い髪はポニーテールにしていた。
特別目立つ生徒ではなかったが、友達想いの優しい子だった。
休んでいる子がいたら代わりにノートをとったり、進んで家まで届け物をしたり。
花が好きで、花壇の世話もよくしてくれていた。
そんな彼女は卒業してからも、二人きりで会う時は自分のことを「先生」と呼んでくる。
「二人とも、病気はしていないか」
「大丈夫です、私も百合も元気にやっています」
彼女、茜は一人娘と二人で暮らしている。
百合も昨年までは母親と同様に寺子屋に通っていた。
どうしても店が忙しい日は欠席することもあったが、成績は常に中の上ほどを維持していた。
母に似て、黒髪がよく似合う子だ。
夫は百合が生まれてすぐ、物心つく前に鬼籍に入った。
詳しいことは聞いていないが、急性の脳出血であっという間だったらしい。
それから彼女は一人で店を切り盛りしながら娘を育てている。
百合はそんな母の姿を見て「私もお母さんと働く」と言い出したそうだが、
彼女は「まずは読み書きと計算ぐらいちゃんと出来ないと駄目」と言って突っぱねたらしい。
だが、私は知っている。
彼女が娘を寺子屋に通わせたのは勉強のためだけではない。
むしろどちらかと言うと、人並みに同世代の友達と交流を持って欲しかったのだと思う。
実際、彼女は娘の成績を褒められた時よりも仲のいい友達の名前を挙げた時の方が明らかに嬉しそうにしていた。
百合が欠席した日にその友達が店までプリントを届けに行くのも、決して私が言いつけたからではない。
「季節の変わり目は体調を崩しやすい、くれぐれも無理をしないようにな」
「はい!」
お互いに軽く手を振って別れた。
自分の教え子が里で元気に暮らしている。
疲れることも多い仕事だが、こういうちょっとしたことがあるだけで不思議と活力が湧いてくる。
さて、今日もしっかりやらなければ。
「さよーならー!」
「はい、さようなら。寄り道をしないようにな」
夕方、今日の分の授業を終え生徒が全員帰ったことを確認する。
明日は休みだから授業の用意をしておく必要もない。
あとは買い物だけして帰ろう。
夕餉に何を作るかを考えながら、朝来た道を引き返す。
大通りに出ると、往来には多くの人間がいた。
商店の前で首を捻っている買い物客がちらほら見える。
そのまましばらく歩を進めると、いつもお世話になっている八百屋が見えてきた。
横幅五間ほどのスペースには一部空白が出来ている。
さて、まだ残っている品物は何があるだろうか。
そんなことを考えていると、軒先の端に黒髪の少女が立っているのに気づく。
母親にそっくりな黒髪。
片手には多くの花を詰めた袋、足元には野菜を入れた籠がある。
私は近づき、声をかけた。
「お疲れ様」
すると思考に集中していたのか、彼女はびっくりして軽く体を震わせた。
「あ、せ、先生!」
「仕入れの帰りか?」
「はい、ついでに買い物もしてしまおうと思って……」
彼女の手を見ると、途中何度も持ち替えたのか腕に所々袋の紐が食い込んだ跡があった。
徒歩でこの量の花を抱えて帰ってくるだけでも相当苦労したであろうことが窺えた。
私は自分の分の買い物を済ませ、彼女の籠を片手で拾い上げた。
「さ、帰ろう」
「そんな、悪いです」
「丁度近くを通るんだ、気にすることはない。それより、百合はそのお花を大事に持ってあげなさい。
頑張って集めてきたんだろう?」
「……すみません、ありがとうございます」
「子どもが遠慮なんてしなくていい」
百合と二人並んで、彼女の花屋に向かって歩を進めた。
申し訳なさからだろうか、最初こそ口数が少なかったが一度会話が乗ると近況についてよく話してくれた。
「先生に教えてもらったおかげで帳簿もつけられるようになりました」
寺子屋では主に読み書きと簡単な計算、歴史を教える。
だが、生徒とその親の希望によっては一部別のカリキュラムも取り入れる。
例えば百合のように将来お金を取り扱う仕事をする子には帳簿の付け方、
その他顧客との売買で注意しなければならないことについても授業を行う。
「そうか、よかった。お金を取り扱う以上記録を残すのは大切なことだからな」
百合がこくりと頷いた。
「……花壇のお花、今も元気ですか?」
「勿論だ、よく面倒を見てくれてありがとう。
百合は以前からよくお母さんを手伝っているし、きっといいお嫁さんになれるよ」
「……料理がまだ苦手なんです」
「私も最初はよく失敗したよ、少しずつ覚えていけば大丈夫だ。
ところで、花はどのあたりまで採りに行っているんだ」
「人里の南口を出てしばらく歩いた先です」
百合が説明した場所は比較的人里に近く、日中であれば妖怪もほぼ姿を現さない。
しかし、それでも時に悲劇は起こる。
私は念のため釘を刺した。
「忙しいとは思うが、里の外には出来るだけお母さんと一緒に行くんだ」
「……はい」
そこまで話したところで、丁度彼女の家が見えてきた。
「先生、今日はありがとうございました」
お辞儀までする彼女に私は苦笑した。
「そんなに畏まらなくていい」
店先のスペースに花は出ておらず、既に今日の営業は終了したようだ。
二人に気を遣わせたくはない。
籠を勝手口の前に置き、言った。
「お母さんと仲良くな、おやすみ」
「……はい!」
私は軽く手を振ってから踵を返し、二人の家を後にした。
それから一週間が経過した日の夕方。
授業を終えて帰宅した私は、次の満月に向けて資料の仕分けをしていた。
これをやっておかないと後々編纂する時が大変なことになる。
「先生、いますか!」
突如、玄関の戸を叩く音がした。
書物を床に置き、戸口に向かう。
声は知人のもので、明らかに焦っている。
嫌な予感とともに三和土で靴を履き、錠を外した。
そこにいたのは額を汗で濡らした花屋の主人、茜。
「急にごめんなさい、娘が帰ってこないんです。
いつも早朝に出発したら必ず正午過ぎには帰ってくるのに」
「今日もいつもと同じ場所に仕入れに行ったんだな?」
「そうです」
「分かった、行こう」
私は茜を連れて自警団の詰め所に駆け込んだ。
そこには丁度十人の団員が待機していた。
状況を整理して説明すると、最も年配の男が大声で他の団員に号令をかけた。
そして、顔立ちに幼さが残る若い団員を指して言った。
「お前はここで茜さんに付いていてやれ、いいな」
指名された若い団員がよく通る声で応える。
「はい!」
茜は一瞬躊躇いを見せたが、反論はしなかった。
ここで自分も探しに行くと言って余計な時間を取らせることの方がよくないと考えたのかは、分からない。
私と自警団の面々に向かって頭を下げる。
「すみません……よろしくお願いします」
こういう時、経験というのは本当に嫌な物だ。
正確には記憶と言った方が正しいのかもしれない。
どんなに考えないようにしようと思っても、希望を持とうとしても。
脳に蓄積された「過去」は今目の前に開示された「情報」を元に、最も起こりうる「未来」を導き出してしまう。
行方不明になってから経過したと思われる時間。
消息を絶ったと推定される場所から人里までの距離。
その日の気温、天候。
……そして、似たケースでの行方不明者の安否の割合。
あらゆる要素が無意識に絡み合い、演算をしてしまう。
自警団の彼らとともに二人一組で捜索を始めてから約一時間が経過し、陽が完全に沈み切る寸前。
私の悪い予感は当たっていた。
「……慧音さん、近所への連絡は済ませました」
「ありがとう、君も帰って休むといい」
「え、でも」
「心配ない、後は私がやっておく」
私の意思が変わらないことに気付いたのか、人のよさそうな青年は遠慮がちに会釈をしてから自宅へと戻って行った。
彼は自警団の一人で捜索隊の中では最も若く、家が茜のすぐ近くだった。
そのため近所への連絡は自分がすると、自ら買って出てくれた。
後姿が見えなくなったことを見届け、葬儀場に足を運ぶ。
葬儀に出席すること、それ自体には慣れている。
年若い自分の教え子を見送らなければならなかったことも、初めてではない。
人里の外に出た人間が妖怪や獣に襲われ命を落とす。
悲しいことだが、それ自体は今後もなくなることはない。
彼女のように仕事柄里の外に足を運ばざるを得ない者は大勢いる。
農家で畑の面倒を見るのに長時間人里を離れる者。
遠方の集落への郵便、運送に携わる者。
寺子屋は勿論のこと、各家庭でも妖怪や猛獣の脅威については口を酸っぱくして教え込まれる。
危険を少しでも減らすため、動きが活発になる夜間は外に出ないこと。
可能な限り複数人で行動すること。
外出する際はどこに行きいつ帰るのかを必ず周囲に伝えること。
だが、現実にこれらを人里の住人全員が常に順守することは出来ない。
もっと言えば、仮に守ったとしても今後永遠に犠牲者がゼロになる保証もない。
それが分かっているからこそ、私は意識して身体を動かす。
人はやることがないと、自然と考え事をする。
ではもし、その考えるという行為が自分自身を苦しめ苛むものにしからならないとしたら。
先刻の自警団の詰め所での出来事が脳裏を過る。
娘の無残な姿に、茜は卒倒し意識を失ってしまった。
今は夜警で詰め所に残っている団員が傍で様子を見ている。
どちらにせよ、今は私が動くしかない。
明日の通夜と明後日の葬儀。
段取りが済んだら急いで戻らないと。
葬儀場の職員に挨拶と事のいきさつを説明した。
訃報がどこかから既に伝わっていたのか、職員達の動きは早かった。
準備を終え、式の流れをお互いに確認したところで、職員の中で最も年若い男が声をかけてきた。
年は三十になるかどうか、というところだったと思う。
以前他の故人の葬儀で会った時と同じく、やや短めに刈り揃えた黒髪をオールバックにしている。
「慧音さん、お母さんの方は……」
私は首を横に振った。
「この後もう一度様子を見に行くが、式の挨拶も出来なさそうならそれも私がやることになるかもしれない」
男は短く息を吐き、呟いた。
「……あそこの花屋、人気なんですよ。店主のお母さんが明るい人だって、うちの家内も言ってて」
「……私も先日、会ったばかりだったよ」
「なんで、こんなことになっちまうんですかね。これからだって子が……」
この男もかつての教え子の一人だった。
当時はかなりのやんちゃ坊主で、よく手を焼いたのも今となっては懐かしい。
しかし、友達思いで涙脆い性格をしているのは今も変わっていない。
「俺、やっぱり駄目です。いつになってもこういうのは」
「……私だってそうさ」
「……すみません、俺らの仕事は悲しむことじゃないのに」
「仕事なら明日からだろう、今は別だ。人の死を悲しんじゃいけないなんて決まりはない。
明日以降、色々と起こるかもしれないがよろしく頼む」
「……はい!」
翌朝、茜は辛うじて心神喪失した状態から自我を取り戻した。
昨夜は私が連れ添う形で自宅まで送ったのだが、彼女はそれも覚えていなかった。
休ませてあげたいのが本音だが、時間は待ってくれない。
通夜と葬儀の段取りをしなければならない。
葬儀を取り仕切る責任者の男が家を訪れ、打合せが進んでいく。
白髪が見える初老の男の説明は茜を気遣ってか、大分ゆっくりな口調だった。
茜の応答が覚束ない場面は、私が代わって説明をした。
半刻が過ぎたところで、通夜と葬儀の予定がまとまった。
彼女は無言で娘の棺の傍に寄り添っている。
朝、初めて彼女が呟いた言葉が追想される。
娘の成長だけが生きがいだった、私にはもうなにも残っていない、と。
その時私は咄嗟に意味のある言葉をかけてあげることが出来ず、ただ黙って彼女の背を撫でた。
打合せの最後、茜は今日初めて自分から口を開いた。
「娘を綺麗な姿で送ることは、出来ませんか……?」
数秒、居間を無言の時間が流れる。
やがて男が苦虫を噛み潰したような顔で、頭を下げながら言った。
「傷が激し過ぎて私共の技量では……申し訳ございません」
「そう、ですか……」
茜の声は今にも消え入りそうだった。
おそらく、人外の何者かに襲われたであろう百合の身体は激しく傷ついていた。
残酷だが、男の回答は予想通りだった。
どうすることもできないだろう。
……いや、本当は一人、知っている。
死化粧にかけては間違いなく幻想郷一と言っていいであろう女性を。
だが、彼女はとんでもない気分屋だ。
普段は葬儀関係者の前にすら姿を現さない。
本人曰く、あまり有名になると色々と面倒なのでとのことだった。
それにもし依頼できたとしても、その報酬は高い。
彼女曰く高い薬や資材を使うのだから当然です、とのことだったが。
目の前の男が提示した見積は多くの葬儀を経験した私から見て、至って常識的な金額だ。
しかし、これに加えてさらにお金がかかるとなればこの家がまともに払えるとは思えない。
無意味に希望を与えぬか喜びをさせるぐらいなら、余計なことをしない方がいいのではないか。
白い棺に寄り添う茜が縋るような視線を送ってくる。
今はまだ、半強制的な物に近いとはいえ葬儀という名のやるべきことがある。
もしもそれが全て終了し、家に一人になれば。
気持ちが完全に切れるようなことがあれば。
私は無意識のうちに立ち上がっていた。
茜にしばらく待っていて欲しいと告げ、彼女の家を後にした。
責任者の男も同時に家を辞し、敷地を出て少ししたところで声をかけてきた。
「あの、もしや」
男が気になっていることは分かっている。
だが、今はそれどころではない。
「申し訳ない、後で必ず連絡する」
私はそれだけ言って、大通りを小走りで駆け抜けた。
迷わず寺子屋向かいの茶屋に向かう。
相手は神出鬼没で有名だ。
そう頻繁に人里を訪れている印象もない。
それなのに、私が探している時は何故か決まって同じ茶屋で寛いでいる。
まるで自分の出番が来ることを見越しているかのように。
実際、今日もそうだった。
青を基調にした半袖のワンピースに、頭頂部で八の字を横に描くように結われた特徴的な髪型。
邪仙、霍青娥が長椅子に腰かけてお団子片手にお茶を飲んでいた。
私に気が付くと切れ長の青い眼を細め微笑んだ。
「こんにちは、上白沢先生。よかったら貴女もいかがかしら?」
青娥と顔を合わせてから五分後、私は彼女を連れて来た道を引き返していた。
「構いませんけど、まずは見せてもらってから。御見積はそれからですわ」
「……分かっている、よろしく頼む」
団子を口に運んでいた先刻と全く同じ、ゆったりとした口調。
一応、目的の人物がすぐに見つかったのは幸いだった。
依頼をするのも今回が初めてではない。
だが、私は青娥に対してある種の苦手意識を持っていた。
初めて会ったのは、神霊が異様に活性化する異変が終結した直後。
神霊廟に眠る仙人が復活を遂げてすぐのことだった。
青娥はわざわざ寺子屋の近くまで足を運び、仕事を終えた私を待っていた。
本人曰く「ただの挨拶回り」らしかったが、それが本当だったのかは今でも分からない。
以降彼女は私が納棺の依頼をする時、決まって人里の見つけやすい場所に姿を現した。
普段は人里に住んでいないし、わざわざ彼女に訃報を流している者が人里にいるとも思えない。
だがこの邪仙は常に、私の前に姿を現した。
それが単なる偶然とは思えない。
まるで、死の気配を察しているかのように。
私をどこかから、見ていたように。
そんなことを考えていると、茜の自宅に到着した。
連れて来た青娥のことを説明し、棺を開ける許可を得る。
彼女は百合の無残な姿に一瞬だけ眉を動かしたが、その後すぐに鞄から藁半紙と万年筆を出した。
二分ほど、テーブルの上でペン先が走る音だけがした。
最後に豪奢な装飾が施された木製の印鑑で捺印をし、その紙を茜に手渡しながら言った。
「可能です、ですがそれなりに高くつきます」
見積書を見た茜の表情もそれを物語っていた。
了承を得て見せてもらうと、その言葉通り青娥の提示した金額は私が想定したそれの倍近かった。
これでは仮に私や自警団の知り合い、彼女の近所の友人などから少額カンパしてもらったとしても到底足りない。
やはり、やめておくべきだった。
傷心している母親に無用な絶望を与えてしまった。
だが、次に聞こえた言葉は私の呼吸を大きく乱した。
「お願いします、納棺師様。お金以外で、私に出来ることならなんでもいたします」
茜が畳に額が当たるまで頭を下げた。
私は思わず口を挟む。
「待て、それは」
「あら、それは本当ですか」
青娥の言葉に一瞬、全身が泡立つような感覚に襲われる。
彼女の纏う空気が明らかに変わった。
声色も低く据わっている。
何より、眼の色が違った。
いつもの、人間を観察対象として見るそれではない。
「これは私と茜さんのお話ですわ、上白沢先生」
茜もそれに同意するように口元を引き結び、テーブルに置かれた見積書をじっと見つめている。
やがて彼女は私に断りを入れ、青娥に頭を下げた。
「納棺師様にお礼をするのは当然です。青娥さん、よろしくお願いいたします」
「いえいえ、お仕事ですから。
では、これから具体的な条件について相談しましょう」
そこまで言い終えたところで青娥が立ち尽くす私に視線を送ってきた。
あとは自分と依頼人で話す、という意味だろう。
茜も異論はないようだ。
目の色に力が戻ってきていることだけは私を安堵させてくれた。
私はしゃがんで彼女に視線を合わせてから言った。
「……本当に納得して決めたことなら、私が口出しすることは出来ない。
だが頼む。百合ちゃんを想うあまり君が無理をして壊れてしまったらなんにもならない。
君は一人じゃない、それを忘れないでくれ」
「……はい」
しっかりした返事だった。
私は二人に軽く一礼してから家を辞し、敷地を出た。
そこから一分ほど歩いた先にある小さな材木置き場に入り、丁度座れる高さに積まれたそれに腰を下ろす。
青娥が提示する条件が気になる。
無論、人里でなにかの罪を犯したという話は聞かない。
そもそも納棺、死化粧の仕事に関わる時ぐらいしか、私は彼女と長く言葉を交わしたこともない。
どこまで本気だったのか定かではないが、仙人にならないかと勧誘を受けたこともある。
それ以外の私が知る彼女は、全てが伝聞で構成されている。
神霊異変が終結してしばらく経った後、当事者の人間の少女達と話す機会があった。
確か博麗の巫女は「つかみどころのない奴」、白黒の魔法使いは「趣味は悪いが面白い奴」と評していた。
だが、前者。
博麗霊夢は最後に一言付け加えていた。
「あんたなら大丈夫だと思うけど、あいつが近付いてきたら一応注意しなさい」と。
理由を聞くといつものように「勘」だとそっけなく言われた。
だが、現実に不穏な噂もちらほらと耳に入っている。
それは人体実験をしている、怪しい薬を作っている、等様々だった。
一方で私以外で彼女を人里で見たという連絡も何度かあるが、それらはいずれも平々凡々としたものだった。
茶屋で寛いでいただとか、商店で楽しそうに買い物をしていただとか、そんな話ばかり。
彼女がお金以外の対価で仕事をするところは見たことがない。
それだけに今回の条件提示にはいささかの不安があった。
まだ完全に精神が安定しているとは言い難い茜が無茶な条件を飲まされないか。
なにかあれば、絶対に止めなければならない。
茜の家を出てから四半刻ほど経っただろうか。
吹き込んでくる風が肌寒く感じ始めたところで足元に黒い影が射した。
はっとして見上げると、青娥がにこやかな笑顔を浮かべて立っていた。
「わざわざ待っていてくださるなんて、そんなに私のことが好きなんです?」
「……話はどうなったんだ?」
「ええ、足りない分のお金については代わりに別の物をもらうことにしました。
……あの、何をそんなに怖い顔を?そんなでは貴女の大事な子ども達も泣いてしまいますわよ」
どうやら私は自分で思っている以上に顔を引き攣らせているようだ。
「……いや、済まない。茜は本当に納得したんだな?」
「勿論ですわ」
「……別の物、というのは何をもらうんだ」
「契約内容は明かせません、プライバシーの問題ですからね。
さ、すぐに取りかかりますわ」
青娥は手を振りながら私の前を立ち去った。
施術に必要な道具や薬を取って来るのだろう。
今の時間で茜に話を聞くことも出来る。
だが、そうする気にはなれなかった。
今、彼女はこれから行われる施術を唯一の心の支えに辛うじて気力を保っている。
それに、紹介したのは私なのだ。
ここまで来て水を差し邪魔をすることは出来ない。
あの気まぐれな邪仙が私の介入を嫌って施術を取り止める可能性もゼロではない。
今はただ、待つしかない。
私は一度自宅に引き上げ、散らかしたままになっていた書斎や居間を片付けることにした。
黙々と作業を進めていると、いつの間にか陽が傾き始めている。
やがて、玄関に人の気配がした。
誰だろうか、と戸口に近づく。
するとどこか間延びした口調ながら、よく通る高音が響いた。
「こんばんはー」
黙って戸を開くと、青娥が頬を緩めてそこに立っていた。
「無事終わりました、いいお顔になりましたわ」
「わざわざ伝えに来てくれたのか」
「依頼人様に報告をするのは当たり前のことです」
「茜は落ち着いていたか」
「ええ、帰り際には少しお話もしました。
それと伝言です、明日の通夜までは二人きりにさせてあげてください」
私は黙って頷いた。
それを見た青娥が続ける。
「では、私の仕事は終わりましたのでこれで失礼しますわ」
「青娥」
立ち去ろうとしていた彼女を呼び止め、声をかけた。
「……ありがとう」
「ふふ、先生もやっとちょっぴり笑ってくれましたわね」
青娥が口に手を添えてくすくす笑いを浮かべている。
別に自分が悪いことをしたわけではないのに、なんとなく恥ずかしい気持ちになる。
私は咳払いをして誤魔化した。
翌日の夕方、葬儀場で通夜が行われた。
茜は途中言葉を詰まらせる場面こそあったが、凛とした表情で喪主として最後まで式をやり遂げた。
途中葬儀の関係者、そして納棺師へのお礼が述べられた。
いつも通り本人の希望で名前は伏せられていたが。
最後に弔問客が順番に焼香をし、棺に花を手向けていく。
自分の番が近付いて来たので席を立ち、壇上に近づいた。
白い棺の中で花に囲まれて横たわる百合の姿を見た途端、思わず息を呑んだ。
本当はただ眠っているだけではないかと錯覚しそうになるほどに、穏やかな顔。
黒髪も綺麗に整えられ、はっきりと艶がある。
そしてなにより。
白装束の隙間から覗く手も、傷一つなく綺麗な状態だった。
先日自警団とともに物言わぬ彼女を発見した時のことが思い出される。
それは目を背けたくなるほどの光景だった。
彼女の左腕は、肘から先が完全に欠損していた。
私は職員の女性から花を数本受け取り、胸元に抱かせるように手向けて席に戻った。
それから通夜が終わり、百合と仲がよかった教え子達が続々と私のもとに来た。
当然ながら、彼女達の表情は暗かった。
声を殺すようにすすり泣いている者、目元を腫らし俯いている者。
私は一人ずつ頭を撫でてやり、言った。
「百合もきっと、みんなが来てくれて喜んでいるよ。
泣くのを我慢しなくていい、自分の気持ちに正直になるのは悪いことじゃないんだ」
死別、それは皆がいずれは何らかの形で経験することだ。
おそらく、教え子達の齢ではこれが初めてだという者も多いだろう。
こればかりは受け止め方、心の整理の仕方に正解も不正解もない。
放っておくと式場にずっと残っていそうな彼女達を家に帰らせ、最後の弔問客の対応と受付の片付けまで付き合った。
職員と私だけが残り、式場が閑散としてきたところで茜が頭を下げてきた。
「先生にはお世話になりっぱなしで、本当にすみません」
「そんなことは気にしなくていい、私はただ茜が心配なだけだ」
「私はもう大丈夫です。親として、ちゃんと百合を見送ります」
毅然とした態度だった。
初め完全に心神喪失していたことを思えば、本当によく持ち直したと思う。
彼女は、強い女性だ。
その後も不穏な出来事は起こらず、翌日の葬儀も無事全ての行程が滞りなく進行した。
葬儀には通夜よりも多くの里人が出席した。
火葬場は人里から距離があるため、棺を運ぶ者のほかに護衛が必要になる。
列の先頭と最後尾に自警団の若い男が二名ずつ就いた。
私は茜の願いで位牌を抱く彼女の後ろに付き添う形で歩を進めた。
移動中、彼女の貌が何度か視界に入った。
やはり昨日と同じで、落ち着いている。
時折棺に手を触れ、愛でるようにそれを撫でている。
火葬場に着き、全ての弔問客が最後の焼香を終えた。
炉のレバーを動かす段になり、茜は今日初めて表情を変えた。
少し離れた場所で目を閉じ、数珠を握っていた私のもとに駆けて来る。
そして周囲のざわつきに飲まれそうなほどの、小さな声で何かを囁く。
「―」
「……分かった。今まで、本当にえらかったな」
私は震えながらレバーを握る彼女の手にそっと手を添えた。
一瞬嗚咽が聞こえたような気がしたが、それはすぐに炉の動作音によってかき消された。
それから一カ月半が経った。
すっかり気温も下がり、季節は完全に冬へと移り変わっている。
私は百合の四十九日法要に出席し、骨壺の納骨まで付き添った。
葬儀場の職員と僧侶も立ち去り、墓石の前には私と彼女だけが残った。
ここしばらくの間、仕事の隙間時間で遠目から茜の様子を見ていたが彼女は一見普通に生活していた。
尤も、こうして面と向かって話をするのは先日の葬儀以来であるため確かかどうかはまだ分からない。
大切な者を亡くした痛み、喪失感は大抵の場合葬儀を終え一段落してから襲ってくることが多い。
葬儀の前後はしなければならないことが多すぎて、ゆっくり考える時間がないのが実情だからだ。
そんなことを考えていると、茜が私の手を握りながら言った。
寒気のせいですっかり冷え込んでしまっている。
「先生、本当にありがとうございます。私一人では、百合を送ってあげられませんでした」
「いいんだ、気にしなくていい。それよりも、私は茜が心配でな……」
「……もしかして、青娥さんとの取り決めについてですか?」
私は黙って頷いた。
個人的な話だし、本人が本当に大丈夫だと言うのなら無理に聞くべきではない。
だが、茜は白い吐息とともに、少しずつ言葉を紡ぎ始めた。
「……実は、骨壺に入っているのは百合だけではないんです」
茜の言った意味が分からなかった。
まさかと思い彼女の両手足に視線をやるが、傷や欠損は見当たらない。
視線に気付いた彼女が首を振って続けた。
「最初に、私は見積金額の半分ほどしか支払えない旨をお伝えしました。
代わりに何をすれば施術して頂けるかをお尋ねしたら、言われたんです。
相応の対価を支払ってもらえるなら半額でお受けしましょう、と」
「一体、何を要求された?」
「……私の死後の躰を青娥さんが引き取るというものです」
私は思わず言葉を失った。
遺族以外の者がそんなことをして、どうするつもりなのか。
とても真っ当な理由があるとは思えない。
私が黙っていると、茜が一息置いてから説明を続けた。
「はじめは私も困惑して、正直怖かったです。
でも、理由を聞いたら納得出来ました。私が未来で百合のような子の役に立てるのなら、と」
茜の言葉で全ての合点がいった私は考えるより先に声を出していた。
「……そうか、百合の左手は」
茜が墓石を優しく撫で、頷きながら言った。
「百合の欠損した身体の一部は過去に青娥さんにその身を提供した方の御体から接合されたものなんです。
私の躰も、同じ用途で使いたいのだと言われました」
棺の中で花に囲まれながら眠っていた百合の姿が追想される。
彼女の左腕は縫合の跡一つなく完全に繋がっていた。
青娥の腕は信用していたが、そんな事情があったことは今日まで知らなかった。
「……茜がそれで納得したのなら、それでいい。今まで、本当によく頑張ったな。
もしなにかあれば、いつでも私を頼って来てくれ。力になる」
「ありがとうございます。あの、先生に一つ謝らせてください」
「……うん?」
「……ごめんなさい。私、一度は娘の後を追おうとしました。
葬儀の数日後から眠れない夜が何日も続いて、気が狂ってしまいそうだったんです。
先生にはあんなによくしてもらったのに、すみませんでした」
私は黙って、茜の背中を撫でた。
「……私こそ済まなかった、葬儀の後はろくにフォローもしてあげられなくて」
「とんでもないです。……それにもう、大丈夫です。
ある日急に、百合の声が聞こえた気がするんです。
『お母さん、今日もお店頑張って。私とお父さんが見守ってるよ』って。」
茜はそれだけ言うと墓石の前にしゃがみ込み、骨壺が納骨されている箇所を石の上から擦った。
「青娥さんが言っていました。
同じ齢ぐらいで亡くなった子が、百合に左腕をくれたんです。
その子の分まで、私は私に出来ることをして生きていきます」
「……今度は書斎に飾る花、買いにいくよ」
「いつでもお待ちしてます!」
私と彼女の白い吐息が重なった。
帰り道、小休止をしようと茶屋に寄った。
営業はしているようだが店内から客の声は聞こえてこない。
外の長椅子の席も全て空いており、閑散としている。
そう言えば、納棺の依頼で青娥と会うのは決まってここだった。
注文した饅頭と緑茶を縁に置き、一息つく。
何故、いつも決まって私が依頼をしたいタイミングでだけ彼女が現れるのか。
それは今後も分かりそうにない。
最後の一つを手に取ろうとしたところ、皿に黒い影が重なった。
顔を上げると、彼女がいた。
「隣、失礼しますね」
私が返事をするより先に、腰を下ろしている。
「……ああ」
わざわざ屋内の席から移ってきたのか、その手の盆にはあの時と同じ団子があった。
そのままいつも通りの、どこか愉快そうな微笑みを浮かべながらそれを口へと運ぶ。
「うん、おいしい。もう一皿食べちゃおうかしら。
よかったら上白沢先生も一緒にいかが?」
和菓子に舌鼓を打つ彼女のにこやかな笑顔。
あの日と、何も変わらない。
気付けば何を言っていいか分からないまま、私は応えていた。
「……ありがとう、頂くよ」
「やった、じゃあ早速……店員さーん!」
私の返事を聞いてすぐ、青娥の楽し気な呼びかけの声が往来に響き渡った。
往来を歩く人はまばらで、立ち並ぶ商店もその全てが閉まっている。
使い古した鞄片手に寺子屋を目指して歩を進めていく。
何百、何千回と繰り返された、当たり前の日常。
「おはようございます、先生!」
後ろから声がしたので振り返り、挨拶を返す。
「おはよう」
声の主はかつての教え子だった。
今日も藍色の前掛を身に着け、髪を後ろでひっつめにしている。
そう言えば、そろそろ教室の花を替えたいと思っていた。
「また、買いにいかせてもらうよ」
私がそう言うと、彼女は嬉しそうに頬を緩めた。
「ありがとうございます、たくさん用意して待ってますね!」
昔、彼女が生徒だった頃のことが追想される。
綺麗な黒髪が印象的な、少しのんびりした子。
当時は今と違い髪はポニーテールにしていた。
特別目立つ生徒ではなかったが、友達想いの優しい子だった。
休んでいる子がいたら代わりにノートをとったり、進んで家まで届け物をしたり。
花が好きで、花壇の世話もよくしてくれていた。
そんな彼女は卒業してからも、二人きりで会う時は自分のことを「先生」と呼んでくる。
「二人とも、病気はしていないか」
「大丈夫です、私も百合も元気にやっています」
彼女、茜は一人娘と二人で暮らしている。
百合も昨年までは母親と同様に寺子屋に通っていた。
どうしても店が忙しい日は欠席することもあったが、成績は常に中の上ほどを維持していた。
母に似て、黒髪がよく似合う子だ。
夫は百合が生まれてすぐ、物心つく前に鬼籍に入った。
詳しいことは聞いていないが、急性の脳出血であっという間だったらしい。
それから彼女は一人で店を切り盛りしながら娘を育てている。
百合はそんな母の姿を見て「私もお母さんと働く」と言い出したそうだが、
彼女は「まずは読み書きと計算ぐらいちゃんと出来ないと駄目」と言って突っぱねたらしい。
だが、私は知っている。
彼女が娘を寺子屋に通わせたのは勉強のためだけではない。
むしろどちらかと言うと、人並みに同世代の友達と交流を持って欲しかったのだと思う。
実際、彼女は娘の成績を褒められた時よりも仲のいい友達の名前を挙げた時の方が明らかに嬉しそうにしていた。
百合が欠席した日にその友達が店までプリントを届けに行くのも、決して私が言いつけたからではない。
「季節の変わり目は体調を崩しやすい、くれぐれも無理をしないようにな」
「はい!」
お互いに軽く手を振って別れた。
自分の教え子が里で元気に暮らしている。
疲れることも多い仕事だが、こういうちょっとしたことがあるだけで不思議と活力が湧いてくる。
さて、今日もしっかりやらなければ。
「さよーならー!」
「はい、さようなら。寄り道をしないようにな」
夕方、今日の分の授業を終え生徒が全員帰ったことを確認する。
明日は休みだから授業の用意をしておく必要もない。
あとは買い物だけして帰ろう。
夕餉に何を作るかを考えながら、朝来た道を引き返す。
大通りに出ると、往来には多くの人間がいた。
商店の前で首を捻っている買い物客がちらほら見える。
そのまましばらく歩を進めると、いつもお世話になっている八百屋が見えてきた。
横幅五間ほどのスペースには一部空白が出来ている。
さて、まだ残っている品物は何があるだろうか。
そんなことを考えていると、軒先の端に黒髪の少女が立っているのに気づく。
母親にそっくりな黒髪。
片手には多くの花を詰めた袋、足元には野菜を入れた籠がある。
私は近づき、声をかけた。
「お疲れ様」
すると思考に集中していたのか、彼女はびっくりして軽く体を震わせた。
「あ、せ、先生!」
「仕入れの帰りか?」
「はい、ついでに買い物もしてしまおうと思って……」
彼女の手を見ると、途中何度も持ち替えたのか腕に所々袋の紐が食い込んだ跡があった。
徒歩でこの量の花を抱えて帰ってくるだけでも相当苦労したであろうことが窺えた。
私は自分の分の買い物を済ませ、彼女の籠を片手で拾い上げた。
「さ、帰ろう」
「そんな、悪いです」
「丁度近くを通るんだ、気にすることはない。それより、百合はそのお花を大事に持ってあげなさい。
頑張って集めてきたんだろう?」
「……すみません、ありがとうございます」
「子どもが遠慮なんてしなくていい」
百合と二人並んで、彼女の花屋に向かって歩を進めた。
申し訳なさからだろうか、最初こそ口数が少なかったが一度会話が乗ると近況についてよく話してくれた。
「先生に教えてもらったおかげで帳簿もつけられるようになりました」
寺子屋では主に読み書きと簡単な計算、歴史を教える。
だが、生徒とその親の希望によっては一部別のカリキュラムも取り入れる。
例えば百合のように将来お金を取り扱う仕事をする子には帳簿の付け方、
その他顧客との売買で注意しなければならないことについても授業を行う。
「そうか、よかった。お金を取り扱う以上記録を残すのは大切なことだからな」
百合がこくりと頷いた。
「……花壇のお花、今も元気ですか?」
「勿論だ、よく面倒を見てくれてありがとう。
百合は以前からよくお母さんを手伝っているし、きっといいお嫁さんになれるよ」
「……料理がまだ苦手なんです」
「私も最初はよく失敗したよ、少しずつ覚えていけば大丈夫だ。
ところで、花はどのあたりまで採りに行っているんだ」
「人里の南口を出てしばらく歩いた先です」
百合が説明した場所は比較的人里に近く、日中であれば妖怪もほぼ姿を現さない。
しかし、それでも時に悲劇は起こる。
私は念のため釘を刺した。
「忙しいとは思うが、里の外には出来るだけお母さんと一緒に行くんだ」
「……はい」
そこまで話したところで、丁度彼女の家が見えてきた。
「先生、今日はありがとうございました」
お辞儀までする彼女に私は苦笑した。
「そんなに畏まらなくていい」
店先のスペースに花は出ておらず、既に今日の営業は終了したようだ。
二人に気を遣わせたくはない。
籠を勝手口の前に置き、言った。
「お母さんと仲良くな、おやすみ」
「……はい!」
私は軽く手を振ってから踵を返し、二人の家を後にした。
それから一週間が経過した日の夕方。
授業を終えて帰宅した私は、次の満月に向けて資料の仕分けをしていた。
これをやっておかないと後々編纂する時が大変なことになる。
「先生、いますか!」
突如、玄関の戸を叩く音がした。
書物を床に置き、戸口に向かう。
声は知人のもので、明らかに焦っている。
嫌な予感とともに三和土で靴を履き、錠を外した。
そこにいたのは額を汗で濡らした花屋の主人、茜。
「急にごめんなさい、娘が帰ってこないんです。
いつも早朝に出発したら必ず正午過ぎには帰ってくるのに」
「今日もいつもと同じ場所に仕入れに行ったんだな?」
「そうです」
「分かった、行こう」
私は茜を連れて自警団の詰め所に駆け込んだ。
そこには丁度十人の団員が待機していた。
状況を整理して説明すると、最も年配の男が大声で他の団員に号令をかけた。
そして、顔立ちに幼さが残る若い団員を指して言った。
「お前はここで茜さんに付いていてやれ、いいな」
指名された若い団員がよく通る声で応える。
「はい!」
茜は一瞬躊躇いを見せたが、反論はしなかった。
ここで自分も探しに行くと言って余計な時間を取らせることの方がよくないと考えたのかは、分からない。
私と自警団の面々に向かって頭を下げる。
「すみません……よろしくお願いします」
こういう時、経験というのは本当に嫌な物だ。
正確には記憶と言った方が正しいのかもしれない。
どんなに考えないようにしようと思っても、希望を持とうとしても。
脳に蓄積された「過去」は今目の前に開示された「情報」を元に、最も起こりうる「未来」を導き出してしまう。
行方不明になってから経過したと思われる時間。
消息を絶ったと推定される場所から人里までの距離。
その日の気温、天候。
……そして、似たケースでの行方不明者の安否の割合。
あらゆる要素が無意識に絡み合い、演算をしてしまう。
自警団の彼らとともに二人一組で捜索を始めてから約一時間が経過し、陽が完全に沈み切る寸前。
私の悪い予感は当たっていた。
「……慧音さん、近所への連絡は済ませました」
「ありがとう、君も帰って休むといい」
「え、でも」
「心配ない、後は私がやっておく」
私の意思が変わらないことに気付いたのか、人のよさそうな青年は遠慮がちに会釈をしてから自宅へと戻って行った。
彼は自警団の一人で捜索隊の中では最も若く、家が茜のすぐ近くだった。
そのため近所への連絡は自分がすると、自ら買って出てくれた。
後姿が見えなくなったことを見届け、葬儀場に足を運ぶ。
葬儀に出席すること、それ自体には慣れている。
年若い自分の教え子を見送らなければならなかったことも、初めてではない。
人里の外に出た人間が妖怪や獣に襲われ命を落とす。
悲しいことだが、それ自体は今後もなくなることはない。
彼女のように仕事柄里の外に足を運ばざるを得ない者は大勢いる。
農家で畑の面倒を見るのに長時間人里を離れる者。
遠方の集落への郵便、運送に携わる者。
寺子屋は勿論のこと、各家庭でも妖怪や猛獣の脅威については口を酸っぱくして教え込まれる。
危険を少しでも減らすため、動きが活発になる夜間は外に出ないこと。
可能な限り複数人で行動すること。
外出する際はどこに行きいつ帰るのかを必ず周囲に伝えること。
だが、現実にこれらを人里の住人全員が常に順守することは出来ない。
もっと言えば、仮に守ったとしても今後永遠に犠牲者がゼロになる保証もない。
それが分かっているからこそ、私は意識して身体を動かす。
人はやることがないと、自然と考え事をする。
ではもし、その考えるという行為が自分自身を苦しめ苛むものにしからならないとしたら。
先刻の自警団の詰め所での出来事が脳裏を過る。
娘の無残な姿に、茜は卒倒し意識を失ってしまった。
今は夜警で詰め所に残っている団員が傍で様子を見ている。
どちらにせよ、今は私が動くしかない。
明日の通夜と明後日の葬儀。
段取りが済んだら急いで戻らないと。
葬儀場の職員に挨拶と事のいきさつを説明した。
訃報がどこかから既に伝わっていたのか、職員達の動きは早かった。
準備を終え、式の流れをお互いに確認したところで、職員の中で最も年若い男が声をかけてきた。
年は三十になるかどうか、というところだったと思う。
以前他の故人の葬儀で会った時と同じく、やや短めに刈り揃えた黒髪をオールバックにしている。
「慧音さん、お母さんの方は……」
私は首を横に振った。
「この後もう一度様子を見に行くが、式の挨拶も出来なさそうならそれも私がやることになるかもしれない」
男は短く息を吐き、呟いた。
「……あそこの花屋、人気なんですよ。店主のお母さんが明るい人だって、うちの家内も言ってて」
「……私も先日、会ったばかりだったよ」
「なんで、こんなことになっちまうんですかね。これからだって子が……」
この男もかつての教え子の一人だった。
当時はかなりのやんちゃ坊主で、よく手を焼いたのも今となっては懐かしい。
しかし、友達思いで涙脆い性格をしているのは今も変わっていない。
「俺、やっぱり駄目です。いつになってもこういうのは」
「……私だってそうさ」
「……すみません、俺らの仕事は悲しむことじゃないのに」
「仕事なら明日からだろう、今は別だ。人の死を悲しんじゃいけないなんて決まりはない。
明日以降、色々と起こるかもしれないがよろしく頼む」
「……はい!」
翌朝、茜は辛うじて心神喪失した状態から自我を取り戻した。
昨夜は私が連れ添う形で自宅まで送ったのだが、彼女はそれも覚えていなかった。
休ませてあげたいのが本音だが、時間は待ってくれない。
通夜と葬儀の段取りをしなければならない。
葬儀を取り仕切る責任者の男が家を訪れ、打合せが進んでいく。
白髪が見える初老の男の説明は茜を気遣ってか、大分ゆっくりな口調だった。
茜の応答が覚束ない場面は、私が代わって説明をした。
半刻が過ぎたところで、通夜と葬儀の予定がまとまった。
彼女は無言で娘の棺の傍に寄り添っている。
朝、初めて彼女が呟いた言葉が追想される。
娘の成長だけが生きがいだった、私にはもうなにも残っていない、と。
その時私は咄嗟に意味のある言葉をかけてあげることが出来ず、ただ黙って彼女の背を撫でた。
打合せの最後、茜は今日初めて自分から口を開いた。
「娘を綺麗な姿で送ることは、出来ませんか……?」
数秒、居間を無言の時間が流れる。
やがて男が苦虫を噛み潰したような顔で、頭を下げながら言った。
「傷が激し過ぎて私共の技量では……申し訳ございません」
「そう、ですか……」
茜の声は今にも消え入りそうだった。
おそらく、人外の何者かに襲われたであろう百合の身体は激しく傷ついていた。
残酷だが、男の回答は予想通りだった。
どうすることもできないだろう。
……いや、本当は一人、知っている。
死化粧にかけては間違いなく幻想郷一と言っていいであろう女性を。
だが、彼女はとんでもない気分屋だ。
普段は葬儀関係者の前にすら姿を現さない。
本人曰く、あまり有名になると色々と面倒なのでとのことだった。
それにもし依頼できたとしても、その報酬は高い。
彼女曰く高い薬や資材を使うのだから当然です、とのことだったが。
目の前の男が提示した見積は多くの葬儀を経験した私から見て、至って常識的な金額だ。
しかし、これに加えてさらにお金がかかるとなればこの家がまともに払えるとは思えない。
無意味に希望を与えぬか喜びをさせるぐらいなら、余計なことをしない方がいいのではないか。
白い棺に寄り添う茜が縋るような視線を送ってくる。
今はまだ、半強制的な物に近いとはいえ葬儀という名のやるべきことがある。
もしもそれが全て終了し、家に一人になれば。
気持ちが完全に切れるようなことがあれば。
私は無意識のうちに立ち上がっていた。
茜にしばらく待っていて欲しいと告げ、彼女の家を後にした。
責任者の男も同時に家を辞し、敷地を出て少ししたところで声をかけてきた。
「あの、もしや」
男が気になっていることは分かっている。
だが、今はそれどころではない。
「申し訳ない、後で必ず連絡する」
私はそれだけ言って、大通りを小走りで駆け抜けた。
迷わず寺子屋向かいの茶屋に向かう。
相手は神出鬼没で有名だ。
そう頻繁に人里を訪れている印象もない。
それなのに、私が探している時は何故か決まって同じ茶屋で寛いでいる。
まるで自分の出番が来ることを見越しているかのように。
実際、今日もそうだった。
青を基調にした半袖のワンピースに、頭頂部で八の字を横に描くように結われた特徴的な髪型。
邪仙、霍青娥が長椅子に腰かけてお団子片手にお茶を飲んでいた。
私に気が付くと切れ長の青い眼を細め微笑んだ。
「こんにちは、上白沢先生。よかったら貴女もいかがかしら?」
青娥と顔を合わせてから五分後、私は彼女を連れて来た道を引き返していた。
「構いませんけど、まずは見せてもらってから。御見積はそれからですわ」
「……分かっている、よろしく頼む」
団子を口に運んでいた先刻と全く同じ、ゆったりとした口調。
一応、目的の人物がすぐに見つかったのは幸いだった。
依頼をするのも今回が初めてではない。
だが、私は青娥に対してある種の苦手意識を持っていた。
初めて会ったのは、神霊が異様に活性化する異変が終結した直後。
神霊廟に眠る仙人が復活を遂げてすぐのことだった。
青娥はわざわざ寺子屋の近くまで足を運び、仕事を終えた私を待っていた。
本人曰く「ただの挨拶回り」らしかったが、それが本当だったのかは今でも分からない。
以降彼女は私が納棺の依頼をする時、決まって人里の見つけやすい場所に姿を現した。
普段は人里に住んでいないし、わざわざ彼女に訃報を流している者が人里にいるとも思えない。
だがこの邪仙は常に、私の前に姿を現した。
それが単なる偶然とは思えない。
まるで、死の気配を察しているかのように。
私をどこかから、見ていたように。
そんなことを考えていると、茜の自宅に到着した。
連れて来た青娥のことを説明し、棺を開ける許可を得る。
彼女は百合の無残な姿に一瞬だけ眉を動かしたが、その後すぐに鞄から藁半紙と万年筆を出した。
二分ほど、テーブルの上でペン先が走る音だけがした。
最後に豪奢な装飾が施された木製の印鑑で捺印をし、その紙を茜に手渡しながら言った。
「可能です、ですがそれなりに高くつきます」
見積書を見た茜の表情もそれを物語っていた。
了承を得て見せてもらうと、その言葉通り青娥の提示した金額は私が想定したそれの倍近かった。
これでは仮に私や自警団の知り合い、彼女の近所の友人などから少額カンパしてもらったとしても到底足りない。
やはり、やめておくべきだった。
傷心している母親に無用な絶望を与えてしまった。
だが、次に聞こえた言葉は私の呼吸を大きく乱した。
「お願いします、納棺師様。お金以外で、私に出来ることならなんでもいたします」
茜が畳に額が当たるまで頭を下げた。
私は思わず口を挟む。
「待て、それは」
「あら、それは本当ですか」
青娥の言葉に一瞬、全身が泡立つような感覚に襲われる。
彼女の纏う空気が明らかに変わった。
声色も低く据わっている。
何より、眼の色が違った。
いつもの、人間を観察対象として見るそれではない。
「これは私と茜さんのお話ですわ、上白沢先生」
茜もそれに同意するように口元を引き結び、テーブルに置かれた見積書をじっと見つめている。
やがて彼女は私に断りを入れ、青娥に頭を下げた。
「納棺師様にお礼をするのは当然です。青娥さん、よろしくお願いいたします」
「いえいえ、お仕事ですから。
では、これから具体的な条件について相談しましょう」
そこまで言い終えたところで青娥が立ち尽くす私に視線を送ってきた。
あとは自分と依頼人で話す、という意味だろう。
茜も異論はないようだ。
目の色に力が戻ってきていることだけは私を安堵させてくれた。
私はしゃがんで彼女に視線を合わせてから言った。
「……本当に納得して決めたことなら、私が口出しすることは出来ない。
だが頼む。百合ちゃんを想うあまり君が無理をして壊れてしまったらなんにもならない。
君は一人じゃない、それを忘れないでくれ」
「……はい」
しっかりした返事だった。
私は二人に軽く一礼してから家を辞し、敷地を出た。
そこから一分ほど歩いた先にある小さな材木置き場に入り、丁度座れる高さに積まれたそれに腰を下ろす。
青娥が提示する条件が気になる。
無論、人里でなにかの罪を犯したという話は聞かない。
そもそも納棺、死化粧の仕事に関わる時ぐらいしか、私は彼女と長く言葉を交わしたこともない。
どこまで本気だったのか定かではないが、仙人にならないかと勧誘を受けたこともある。
それ以外の私が知る彼女は、全てが伝聞で構成されている。
神霊異変が終結してしばらく経った後、当事者の人間の少女達と話す機会があった。
確か博麗の巫女は「つかみどころのない奴」、白黒の魔法使いは「趣味は悪いが面白い奴」と評していた。
だが、前者。
博麗霊夢は最後に一言付け加えていた。
「あんたなら大丈夫だと思うけど、あいつが近付いてきたら一応注意しなさい」と。
理由を聞くといつものように「勘」だとそっけなく言われた。
だが、現実に不穏な噂もちらほらと耳に入っている。
それは人体実験をしている、怪しい薬を作っている、等様々だった。
一方で私以外で彼女を人里で見たという連絡も何度かあるが、それらはいずれも平々凡々としたものだった。
茶屋で寛いでいただとか、商店で楽しそうに買い物をしていただとか、そんな話ばかり。
彼女がお金以外の対価で仕事をするところは見たことがない。
それだけに今回の条件提示にはいささかの不安があった。
まだ完全に精神が安定しているとは言い難い茜が無茶な条件を飲まされないか。
なにかあれば、絶対に止めなければならない。
茜の家を出てから四半刻ほど経っただろうか。
吹き込んでくる風が肌寒く感じ始めたところで足元に黒い影が射した。
はっとして見上げると、青娥がにこやかな笑顔を浮かべて立っていた。
「わざわざ待っていてくださるなんて、そんなに私のことが好きなんです?」
「……話はどうなったんだ?」
「ええ、足りない分のお金については代わりに別の物をもらうことにしました。
……あの、何をそんなに怖い顔を?そんなでは貴女の大事な子ども達も泣いてしまいますわよ」
どうやら私は自分で思っている以上に顔を引き攣らせているようだ。
「……いや、済まない。茜は本当に納得したんだな?」
「勿論ですわ」
「……別の物、というのは何をもらうんだ」
「契約内容は明かせません、プライバシーの問題ですからね。
さ、すぐに取りかかりますわ」
青娥は手を振りながら私の前を立ち去った。
施術に必要な道具や薬を取って来るのだろう。
今の時間で茜に話を聞くことも出来る。
だが、そうする気にはなれなかった。
今、彼女はこれから行われる施術を唯一の心の支えに辛うじて気力を保っている。
それに、紹介したのは私なのだ。
ここまで来て水を差し邪魔をすることは出来ない。
あの気まぐれな邪仙が私の介入を嫌って施術を取り止める可能性もゼロではない。
今はただ、待つしかない。
私は一度自宅に引き上げ、散らかしたままになっていた書斎や居間を片付けることにした。
黙々と作業を進めていると、いつの間にか陽が傾き始めている。
やがて、玄関に人の気配がした。
誰だろうか、と戸口に近づく。
するとどこか間延びした口調ながら、よく通る高音が響いた。
「こんばんはー」
黙って戸を開くと、青娥が頬を緩めてそこに立っていた。
「無事終わりました、いいお顔になりましたわ」
「わざわざ伝えに来てくれたのか」
「依頼人様に報告をするのは当たり前のことです」
「茜は落ち着いていたか」
「ええ、帰り際には少しお話もしました。
それと伝言です、明日の通夜までは二人きりにさせてあげてください」
私は黙って頷いた。
それを見た青娥が続ける。
「では、私の仕事は終わりましたのでこれで失礼しますわ」
「青娥」
立ち去ろうとしていた彼女を呼び止め、声をかけた。
「……ありがとう」
「ふふ、先生もやっとちょっぴり笑ってくれましたわね」
青娥が口に手を添えてくすくす笑いを浮かべている。
別に自分が悪いことをしたわけではないのに、なんとなく恥ずかしい気持ちになる。
私は咳払いをして誤魔化した。
翌日の夕方、葬儀場で通夜が行われた。
茜は途中言葉を詰まらせる場面こそあったが、凛とした表情で喪主として最後まで式をやり遂げた。
途中葬儀の関係者、そして納棺師へのお礼が述べられた。
いつも通り本人の希望で名前は伏せられていたが。
最後に弔問客が順番に焼香をし、棺に花を手向けていく。
自分の番が近付いて来たので席を立ち、壇上に近づいた。
白い棺の中で花に囲まれて横たわる百合の姿を見た途端、思わず息を呑んだ。
本当はただ眠っているだけではないかと錯覚しそうになるほどに、穏やかな顔。
黒髪も綺麗に整えられ、はっきりと艶がある。
そしてなにより。
白装束の隙間から覗く手も、傷一つなく綺麗な状態だった。
先日自警団とともに物言わぬ彼女を発見した時のことが思い出される。
それは目を背けたくなるほどの光景だった。
彼女の左腕は、肘から先が完全に欠損していた。
私は職員の女性から花を数本受け取り、胸元に抱かせるように手向けて席に戻った。
それから通夜が終わり、百合と仲がよかった教え子達が続々と私のもとに来た。
当然ながら、彼女達の表情は暗かった。
声を殺すようにすすり泣いている者、目元を腫らし俯いている者。
私は一人ずつ頭を撫でてやり、言った。
「百合もきっと、みんなが来てくれて喜んでいるよ。
泣くのを我慢しなくていい、自分の気持ちに正直になるのは悪いことじゃないんだ」
死別、それは皆がいずれは何らかの形で経験することだ。
おそらく、教え子達の齢ではこれが初めてだという者も多いだろう。
こればかりは受け止め方、心の整理の仕方に正解も不正解もない。
放っておくと式場にずっと残っていそうな彼女達を家に帰らせ、最後の弔問客の対応と受付の片付けまで付き合った。
職員と私だけが残り、式場が閑散としてきたところで茜が頭を下げてきた。
「先生にはお世話になりっぱなしで、本当にすみません」
「そんなことは気にしなくていい、私はただ茜が心配なだけだ」
「私はもう大丈夫です。親として、ちゃんと百合を見送ります」
毅然とした態度だった。
初め完全に心神喪失していたことを思えば、本当によく持ち直したと思う。
彼女は、強い女性だ。
その後も不穏な出来事は起こらず、翌日の葬儀も無事全ての行程が滞りなく進行した。
葬儀には通夜よりも多くの里人が出席した。
火葬場は人里から距離があるため、棺を運ぶ者のほかに護衛が必要になる。
列の先頭と最後尾に自警団の若い男が二名ずつ就いた。
私は茜の願いで位牌を抱く彼女の後ろに付き添う形で歩を進めた。
移動中、彼女の貌が何度か視界に入った。
やはり昨日と同じで、落ち着いている。
時折棺に手を触れ、愛でるようにそれを撫でている。
火葬場に着き、全ての弔問客が最後の焼香を終えた。
炉のレバーを動かす段になり、茜は今日初めて表情を変えた。
少し離れた場所で目を閉じ、数珠を握っていた私のもとに駆けて来る。
そして周囲のざわつきに飲まれそうなほどの、小さな声で何かを囁く。
「―」
「……分かった。今まで、本当にえらかったな」
私は震えながらレバーを握る彼女の手にそっと手を添えた。
一瞬嗚咽が聞こえたような気がしたが、それはすぐに炉の動作音によってかき消された。
それから一カ月半が経った。
すっかり気温も下がり、季節は完全に冬へと移り変わっている。
私は百合の四十九日法要に出席し、骨壺の納骨まで付き添った。
葬儀場の職員と僧侶も立ち去り、墓石の前には私と彼女だけが残った。
ここしばらくの間、仕事の隙間時間で遠目から茜の様子を見ていたが彼女は一見普通に生活していた。
尤も、こうして面と向かって話をするのは先日の葬儀以来であるため確かかどうかはまだ分からない。
大切な者を亡くした痛み、喪失感は大抵の場合葬儀を終え一段落してから襲ってくることが多い。
葬儀の前後はしなければならないことが多すぎて、ゆっくり考える時間がないのが実情だからだ。
そんなことを考えていると、茜が私の手を握りながら言った。
寒気のせいですっかり冷え込んでしまっている。
「先生、本当にありがとうございます。私一人では、百合を送ってあげられませんでした」
「いいんだ、気にしなくていい。それよりも、私は茜が心配でな……」
「……もしかして、青娥さんとの取り決めについてですか?」
私は黙って頷いた。
個人的な話だし、本人が本当に大丈夫だと言うのなら無理に聞くべきではない。
だが、茜は白い吐息とともに、少しずつ言葉を紡ぎ始めた。
「……実は、骨壺に入っているのは百合だけではないんです」
茜の言った意味が分からなかった。
まさかと思い彼女の両手足に視線をやるが、傷や欠損は見当たらない。
視線に気付いた彼女が首を振って続けた。
「最初に、私は見積金額の半分ほどしか支払えない旨をお伝えしました。
代わりに何をすれば施術して頂けるかをお尋ねしたら、言われたんです。
相応の対価を支払ってもらえるなら半額でお受けしましょう、と」
「一体、何を要求された?」
「……私の死後の躰を青娥さんが引き取るというものです」
私は思わず言葉を失った。
遺族以外の者がそんなことをして、どうするつもりなのか。
とても真っ当な理由があるとは思えない。
私が黙っていると、茜が一息置いてから説明を続けた。
「はじめは私も困惑して、正直怖かったです。
でも、理由を聞いたら納得出来ました。私が未来で百合のような子の役に立てるのなら、と」
茜の言葉で全ての合点がいった私は考えるより先に声を出していた。
「……そうか、百合の左手は」
茜が墓石を優しく撫で、頷きながら言った。
「百合の欠損した身体の一部は過去に青娥さんにその身を提供した方の御体から接合されたものなんです。
私の躰も、同じ用途で使いたいのだと言われました」
棺の中で花に囲まれながら眠っていた百合の姿が追想される。
彼女の左腕は縫合の跡一つなく完全に繋がっていた。
青娥の腕は信用していたが、そんな事情があったことは今日まで知らなかった。
「……茜がそれで納得したのなら、それでいい。今まで、本当によく頑張ったな。
もしなにかあれば、いつでも私を頼って来てくれ。力になる」
「ありがとうございます。あの、先生に一つ謝らせてください」
「……うん?」
「……ごめんなさい。私、一度は娘の後を追おうとしました。
葬儀の数日後から眠れない夜が何日も続いて、気が狂ってしまいそうだったんです。
先生にはあんなによくしてもらったのに、すみませんでした」
私は黙って、茜の背中を撫でた。
「……私こそ済まなかった、葬儀の後はろくにフォローもしてあげられなくて」
「とんでもないです。……それにもう、大丈夫です。
ある日急に、百合の声が聞こえた気がするんです。
『お母さん、今日もお店頑張って。私とお父さんが見守ってるよ』って。」
茜はそれだけ言うと墓石の前にしゃがみ込み、骨壺が納骨されている箇所を石の上から擦った。
「青娥さんが言っていました。
同じ齢ぐらいで亡くなった子が、百合に左腕をくれたんです。
その子の分まで、私は私に出来ることをして生きていきます」
「……今度は書斎に飾る花、買いにいくよ」
「いつでもお待ちしてます!」
私と彼女の白い吐息が重なった。
帰り道、小休止をしようと茶屋に寄った。
営業はしているようだが店内から客の声は聞こえてこない。
外の長椅子の席も全て空いており、閑散としている。
そう言えば、納棺の依頼で青娥と会うのは決まってここだった。
注文した饅頭と緑茶を縁に置き、一息つく。
何故、いつも決まって私が依頼をしたいタイミングでだけ彼女が現れるのか。
それは今後も分かりそうにない。
最後の一つを手に取ろうとしたところ、皿に黒い影が重なった。
顔を上げると、彼女がいた。
「隣、失礼しますね」
私が返事をするより先に、腰を下ろしている。
「……ああ」
わざわざ屋内の席から移ってきたのか、その手の盆にはあの時と同じ団子があった。
そのままいつも通りの、どこか愉快そうな微笑みを浮かべながらそれを口へと運ぶ。
「うん、おいしい。もう一皿食べちゃおうかしら。
よかったら上白沢先生も一緒にいかが?」
和菓子に舌鼓を打つ彼女のにこやかな笑顔。
あの日と、何も変わらない。
気付けば何を言っていいか分からないまま、私は応えていた。
「……ありがとう、頂くよ」
「やった、じゃあ早速……店員さーん!」
私の返事を聞いてすぐ、青娥の楽し気な呼びかけの声が往来に響き渡った。
悲劇に襲われた少女も、悲しみに暮れる母親も、何かできないかと奔走した慧音も、抜群の腕前を披露した青娥もみんな輝いていました
青娥といえばエンバーミングですね
葬儀に慣れてる慧音もよかったです
作者の方の信頼でこの青娥は露悪すぎない青娥なんだろうな……と予想していたのがそのとおりでよかったです。
興味のあるものに熱心でルールを気にしない……だけで、こういうところでは秩序側の青娥、な書き方が大変好きな描かれ方でした。
気持のよい青娥でした。有難う御座いました。
最初、タグが良い意味で恐ろしすぎてワクワクしました。
そのワクワクを超える作品、ありがとうございます。
そうですよね、よく考えると彼女に本当にお似合いな職業…