今こういうふうにして生きていること、それはある意味で奇妙なことなのだろう。でもきっとそんなことよりずっと不思議なことがある。
輝針城の異変のときに私はかのような生を受ける。そして私は思いがけず妹を得る。妹? 私にそんなものができるなんてことを考えたことはなかった。道具というのは誰かに使われてこそのものであり、誰かに使われるということは従、として生きることでもある。生の主、として生きる、しかも姉として、なんて傲慢に言い切ってしまうのもどうかとは思うけど、兎にも角にも私はこれからは自分の生の主として、そして他ならぬたった一人の彼女の姉、いや、彼女の唯一の「肉親」として生きていくのだ。
人生は遠くから見たら悲劇だが近くで見たら喜劇だ、とか誰かが言っていたような気がする。その言葉を発した人間がどういう人生を歩んでどのように死んだのか私は知らない。かつての私は悲劇の観客だった。楽器としての悲しさで、私は貝のように口を閉ざし、口なんてそもそもありゃしなかったんだけれども、貝殻を見たことなんて数えるほどしかないけれども、そうやってなにも言わぬただの道具として、開けることのない暗闇の中にいる主たちに寄り添うぐらいしかできなかった。寄り添うんだからせめて温もりでもあればよかったのに。いつだったかそう思った。私にある木目はいつだって冷たく主を見つめていた、変わることなくいつだって、ええ、いつまでも。冷えた眼差しにできることといえば主に冷たい沈黙を伝えるのみであり、人に限らず生ける者の眼差しが持ち得るような、怒り、悲しみ、嘆き、喜び、そんな気持ちの流れ、あるいはぐちゃぐちゃとした情の坩堝の底に溜まった澱み、いずれについても伝える術を私は持ち合わせていなかった。私が冷淡だからではない、と私は自分に言い聞かせる。道具である以上、それは仕方のないことなのだと。
昔のことだ。武士やら悪党やら野蛮な連中が跋扈していた頃の話である。私の最初の主は盲目の琵琶法師だった。名前は言わせないでほしい。もう随分と昔だから、というのもある。だけれどもそれ以上に、それが私にとっては濁った記憶であるからこそ、私は主の名前を口に出す、ということをしたくなかったのである。
主は腕の良い琵琶法師だった。主と私との出会いを語ることは勘弁してほしい。私自身もよく覚えていないのだから。気がついたら私は主の手にあった、そういうことにしておいてほしいのだ。出会いのことを思い出せない、というのは少しだけ、歯がゆい思いではある。
主は私のことを随分と気に入ってくれたみたいだった。琵琶法師にとっては自分の唄を伝えるための声だったり耳だったりと並んで琵琶は大切なものである。主は私のことをいつだって大切にしてくれていた。常に私への手入れを欠かすことがなかった。それが何よりも嬉しかった。感謝の意なんて伝えられないけれども。磨かれるとき、弦を張り直されるとき、そんなとき私は主の手の温もりを感じ、私は動かすことのできない冷たい眼差しを主の方に向けようとするのだ。。
主はいつも光の失われた眼差しをこちらに向ける。私が歯がゆいのはその眼差しの向こう側にあるものを私が見つめきれないからだ。人と道具、という立場の不均衡は私から主の心であるとか真意であるとかを貫徹する視線を奪ってしまいかねない。だけれども私は、盲目の主の眼差しの向う側にあるものをなんとか見つめようとするかのように、その昏く温かい眼差しに、精一杯に温めようと努めた眼差し、を向け返そうとするのだ。
主が高貴な方の前で唄う機会があった。
静まり返った中で、主の唄声と私の音だけが響き渡る。周りの様子も気にならない。私は主と二人きりで唄っているのだ。
次々と、兵(つわもの)たちが死んでいく、女院たちは泣き悲しむ、そして幼いながらも尊い方が冷たい水の底へと沈んでいく。そんな悲劇の中であっても、主も私も周りに控える武士たちのように涙で服をしとどに濡らすことはない。私たちはただ、かつての悲劇を語り継ぐだけ。只に私は主の思いを曲に乗せ、主と共に懸命に唄うのだ。
曲が終わる、そして見事だった、と主に声を掛ける。主は、私の面を一度撫でた後、ありがとうございます、と申し上げた。きっとその双眸に、闇色の光を灯しながら。
そんなふうにして私たちは長い間唄い続けていた。主はあの痩身からどうやってあんな芯のある声を出せるのか、私はずっと不思議でならなかった。年月を経ても、その声は衰えを見せることはない。むしろ年を経るにつれて、その唄声は円熟していくように思われてならなかった。私だけなのかもしれない、何も変わらないのは、時折そんなことも思うのだった。
主は自分の周りから人を遠ざけていた。なぜだったのか、私には未だにわからない。芸術家と呼ばれる人たちにありがちな、単なる人嫌いだったのだろうか。人前に出るのは私と一緒に唄うときぐらいで、それ以外は主は粗末な家に一人、座しているか横になっているかのどちらかであった。寂しくないのだろうか、と私は何度も思った。私は寂しくないのだ、でもそれは私の方は眼差しが双方向であることを知っているからだ。主の光の失われた眼差しが私の方に向けられても、私はそれに応えることはできない。主はただ一人、光の下であろうとなかろうと、暗闇の中で生きている。私が同じ立場だったならばきっと耐えられないだろう。一寸先も見えない暗闇の中で、二人ではなく一人なのは今もそんなに慣れない。昔からだ。私が暗い闇夜の中で心強くいられたのは、主が側に置いていてくれたからだ。私には主の心はわからない。いつごろに光を失ったのか、それが生まれつきなのかそうでないのかも。ただ、それがいつであろうと、私にとってはそれは想像はしたくないことだった。自分がただ一人、暗闇の中にいる、誰からも眼差しを向けられることなく、一人きりで、恐ろしいことだ。だからそんな想像をするたびに、私はその恐れを振り切ろうとするかのように、主の方に眼差しを向けようとするのである。たとえそれが主には伝わることがなかろうとも。
いつだったか。主は私を手にとって、一人で唄い始めたことがあった。それはいつも人前で唄っている唄ではなかった。私も聞いたことのない、素朴というか、そんな感じの唄。いつも唄っている高尚な悲劇とは異なり、結構間抜けで明るい曲調だった。私はその唄を快く思った。誰に聞かせるでもない、主と私だけの唄。暗い家の中、灯りが辺りを薄ぼんやりと照らし出し、主の昏い眼であるとか骨ばった指であるとか、そんなものが私には見える。そんな光景を切り裂くようにして、唄が私の中にどっと流れ込んできた。そうやって唄が終わる。拍手をしたいけど、たった一人の観客として、でも私には手も足も眼もないのだから。だから私はただ、その唄を記憶にとどめておくことにした。ただ二人、私と主だけが知っているのだ。特権なのであり、秘密なのである。
ある日のこと。主があの唄を歌い終わった後、ぽつりと誰かの名前を絞り出した。その顔には諦めとも苦悩ともつかない表情が浮かんでいた。私の聞いたことのない名前だ、きっと女性の名前である。でも私は耳を傾けるだけである。その場から動くことはできない。主の苦しみを肩代わりすることも、その声に応答することもできないのだ。私は冷たくそう自分に言い聞かせる。
最初の主との別れは本当は思い出したくないことである。こんなふうにしてしか語ることのできないことをどうか許してほしい。主はある日、私を置いて出ていった。無論後を追うこともできない。放りだしにされたままで何日経ったのであろうか、数人の男が家に入ってくる、そして私は男たちの手で外に運び出された。やかましい話し声が否応なしに私の方に響いてくる。
「滝に身を投げるとはねえ、まさかあの人が」
「でもどうするんだ? この琵琶」
「知らないよ、将軍様にでも献上したらどうだ?」
「まあ……そうしておくか。でもなんであの人は?」
私にはついにわからなかった。ただ一つわかったことは、あの唄はきっと主と私だけの唄、などではなかった、ということだけだ。私はいつだって、自分の主の人生を悲劇だ、と本当は呼びたくなかった。でも、そうであっても、私はそういうふうにしか主の生き様を形容できないのだ。最初の主は唄い、そして一人で死んだ。最期に寄り添うことぐらいできればよかったのに。私には叶わないことである。
その後も私はいろいろな人の手を経ることとなった。生憎というかなんというか、年代物の楽器は愛好者が多いらしく、私は結構な高値で売り買いされることとなった。まあ、真価を引き出すことのできる人なんてとんといなかったから百両だろうが百文だろうが大した違いではない。そんな勝手な矜持を抱きつつ、私は長く長く時間をかけて、人の生きざまを見てきたのだった。随分と平和な時代もあった、国が火で焼かれた時代もあった、いずれにせよ、どんな時代であれ私は、従、として生きていたのだった。幕が上がり、舞台に上がり、そして幕が下りる、そんな主たちのことはあまり語りたくはないのである。結局のところ、皆、人生という悲劇の舞台でくるくるくると回転する道化にすぎない、やはりそう思うのだ。
彼女と出会うこととなったのは本当にたまたまだった。古道具屋で私たちは偶然隣同士になった。どちらも晴れた日は外に出され、雨の日は店の中に置かれる。一応の目玉商品ではあるらしく、結構な値段がついているらしかった。
琴、について私は何も知らない。それどころか、琵琶以外の楽器全般についても、それどころか、この世界を構築する種々のことについて、私は棒のように無知である。付喪神の悲しさで、読み聞かせでもされない限りは私が何かを知るということは難しい。なにせ私には手も足もないのだから。知っているのは唄ぐらいだ。生憎というべきか、私たちを手に取る人は全然いなかった。左隣の豆太鼓は早々と売れていったのだが、私であるとか右隣の琴、に手を触れたりする人はいないのだ。私もその琴に大した興味を示すことはなかった。興味があるのは私が誰の手に委ねられるか、というだけである。もっとも誰の手に渡ろうとも、仮初の主が誰になろうとも、私をきちんと扱える者ではないであろう以上、そこに大した違いなどないのである。それこそ楽器屋に扱われようが、文化にかぶれた成金に扱われようが。悲劇の役者なのだ、誰も彼も。私はそれを客席から眺めるただの観客なのであり、入り賃代わりに彼らの顛末を見届けるのが私の役割だった。
そんな観劇者気取り風情が長き時を経るにつれて、主として生きることへのささやかな憧憬が段々に芽生えつつあった。長く誰の手にもかからないから、演奏をされていないからこそ。自分に手と口と耳があれば、唄うことぐらいはできる。唄うことはすなわち生きることだった。鳴くことのできない鶏が肉屋に持ち込まれるように、唄うことを忘れた楽器はただの骨董品として道具屋に並べられるのである。右隣の琴ももしかしたらそんなことを考えているのだろうか? ふとそんなことを考えた。
そして異変が起こる、そうやって私は生を受ける、私は欲しかった手と耳と口とその他諸々を得て、ふわりふわりと道具屋から逃げ出した。後ろを振り返ることはない、脈動は速くなる、自由を手に入れた、自分の名前も考えた、私はこれから自分の人生の主となるのだ、私はそう自分に強く命じて闇夜に飛び立つ。だけれども夜目の効かない悲しさで、どちらへと向かえばいいのか私にはとんと見当もつかなくて、私は昂った感情の赴くままの方向へと向かっていった。
そんな折。
「そういうふうに滅茶苦茶に飛ぶなんて、らしくないんじゃない?」
そうやって私に声をかけてきた奴がいた。
」
「一人でいかないでよ、せっかく長い間一緒にいたんだから」
「一緒にいたって……って、あんたはもしかしてあの道具屋の?」
「あ、覚えててくれた。嬉しい」
どこか間の抜けた感じでそんな風に語る彼女の姿は、大して気にも留めていなかった、私と同じ、道具屋の目玉商品を思い出させる。年月を経た、そんな楽器。
「あんたも飛べるようになったの?」
「ずっと見てたんだ。だって一人になると寂しいんだもの。私だけが売れるのか、私だけが売れ残るのか、どちらにしたって離れ離れになって寂しいことにしかならないじゃない」
そうして彼女は私の肩に手を置いて告げる。
「一人でいるのって寂しくない?」
「でも誰かと一緒にいても結局は傷つくだけよ……」
思い出していた。種々様々な人間の手を経たことを。種々様々の人間の滑稽な悲劇のことを。そして最後にたどり着くのは、あの骨ばった指と昏い眼。
「私は誰かと一緒にいたかったから……」
そう告げる彼女の語りはどこか暗い。
「名前は?」
私はそう彼女に尋ねた。きょとん、とした顔を私の方に向ける。
「名前?」
「うん、名前。私は九十九弁々」
さっき考えたばかりの名前を彼女に告げる。
「私、名前がない……」
「じゃあ、私が考えようか?……八橋、とかどう?」
「じゃあ九十九八橋で」
「ちょっと、勝手に人の名字をとらないでよ」
「えー、いい名前なのになー」
「まったく……でも家族ができたみたいね、名字をそんなふうに取られると」
「じゃあせっかくだから家族にならない?」
「家族に?」
「ええ、先に生まれたからそっちが姉さん」
「まあ、別にいいけど……」
やれやれ、随分と面倒なことになったものだ。その感覚はどこか新鮮な気分がするものではあったけれども。
そうやって色々と昂った私たちは結局、したたかに退治される。反省するまもなく、そうこうしているうちに付喪神の先輩格から呪法を教えてもらい、元の道具に戻ることはなくなった。こうして私たちの関係はがちんと固定されることとなった。
「本当にいいの?」
「いいの。姉さんってちゃんと呼べるしね」
最初は一時的な関係のつもりだったのだが、こういう感じでいきなりに永続的なつながりとなったことに最初は少しだけ戸惑いを覚えた。でも妹と共に過ごしていて、彼女がことあるごとに屈託のない微笑みをこちらに向けるたび、少しずつ、その戸惑いは氷解、していくのだった。
その日私たちは公演を終え、家路についていた。もう日は暮れかけている。暦の上では初夏ではある。もっともかつての時分、武士やら悪党やらが跋扈していた時分、あるいは国が燃えていた時よりは随分と暑くなった。水分を多分に含んだ快い不快感が私に覆いかぶさり、湿気混じりの熱せられた大気が私の額にじんわりと汗をかかせる。その滴りを私は楽器を持っていない方の手でそっと拭う。こういうふうに汗を拭うことができる、日差しを遮れる、そんな些細なことも喜ぶべき変化なのかもしれない。
後ろの方に顔を向ける、一番の大きな変化を嫌でも痛感させられる、私は心を踊らせる。私と大きく似ることのないその顔は、くりくりとした眼といっしょになって、絶えずこちらに向けられては歩みの遅い私に歩みを与えてくれる。なぜだろう、別に「肉親」がほしい、という望みを抱いていたわけではなかったのに。
顔を上げると夕日が随分と綺麗だった。光輝くお日様は遠くの山の稜線を四つの眼に投げかけてくる。下に目を向けると2つの影が長く道を追いかけていた。雲が茜色に染まる、染まらないのはきっと私たちの影だけだ。そんなふうにして黒の純度を保ちつつ道を征く2つの影は、私たちの間に築かれた、目に見えることのない、それでいて幾重にも重ねた薄衣を思わせる、そんな何かを投影しているようだった。
単なる家路、単なる日常、かつての日常とは異なる、二人で歩き続ける日常。些細なことに心を動かされ、些細なことに感謝を示す、そんなふうに二人で歩みを進める。私にささやかな喜びを与えるものである。そんなちょっとした喜びの数々を共有できると勝手に感じることはその喜びを更に焚き付けてくれるものである。実際のところ、私には妹の本当の気持ちはわからない。他人の気持ちなどわからないものである、他人の気持ちを推し量っても自分の心は無闇矢鱈に痛くなる、そんなふうにかつての私は思っていた節はあったのだが。そんな思いをきちんと裏切ってくれる毎日は新鮮であり、ささやかなものであり、そして喜ばしいものであった。
八橋が夜、うなされていることを知ったのは最近のことだ。うなされているとき、私は暗闇の中で彼女の側にいる。起こすようなことはしたくない。妹が悪い夢の中から突如現の中へとずぶりと入り込んだとき、きっとその悪い夢の痕はその思考に深く刻み込まれてしまうのだろうから。妹がうなされている、気づいて強いて目を覚まし、その声にそっと耳を傾ける。本当はこういうことはするべきではないのだろうか。彼女の秘密、例えば毎日の日記帳のようなものを密かに読んでいるような、そんなどこかしらの後ろめたさが私にはあった。
朝起きる。妹は自分がうなされていたこと自体をわかっていないようだった。私は何かを悟られないように、彼女のおはようの明るい声に微笑みを向け返す、そんな日がぽつりぽつりと、影のように点在していた。
実際のところ、私は妹のことについて何も知らない。彼女がどういう人達の手を経てこの地に来たのか、彼女がどういう経緯で私の隣に並べられることになったのか。尋ねてみよう、という気にはなかなかならない。本当は不躾に尋ねてみたいところではある。でもそれは本当に、時に、相手の中にずかずかと入っていくことであって、私はそんな選択を安易にとるほどには軽率ではなかったというだけである。
「姉さんさ」
ある日のこと。八橋が私に尋ねてきた。私の方をじっと見つめている。私の方からそんな風に視線を投げかけたことは一度もないように思われた。
「どうしたの?」
「別に嫌だったらいいんだけどさ、姉さんはどうしてここに来たのか気になってさ」
思わず口をつぐんだ。妹の口からそんな言葉が出てくるとは思っていなかった。
「どうしてって……別に気がついたらここにいた、それだけ」
「そうなんだ……」
妹に嘘を付くのは気まずかった。本当ならば洗いざらい、自分の中の澱を吐き出すのが本当の姉妹同士、というものなのかもしれないというのに。
「姉さんってさ」
「?」
「嘘つくときっていつも耳の方に手をやるんだよね」
「え、うそ」
「ほら、そんな風に……というのは嘘」
そう言って八橋は私に一番最初に見せたような笑みをこちらに返した。そしてすぐに少しだけ、強張らせる。
「嘘、ついてもいいけどさ、本当に大事なことは話してほしいんだよね」
私には返す言葉がなかった。
悪い夢を見るとき、それはきまって昔のことだった。私の主だった人間たちの顛末を私はすぐ近くで見ている。手を伸ばそうとしても私は昔のままであり、手を伸ばすことは叶わない。そして最期にたどり着くのは最初の主だった。最初の主も向こう側を向いている。私の方に目を向けることはない。そして私は目を覚ます。
妹が台所で料理をしている。こちらに目を向けて、おはよう、と告げる。
きっと私はひどい顔をしているのだろう、鏡はないけどそう思う。自分の中にある、水面下にある部分を見透かされでもしたら私はきっと後ろを振り向いてしまう。最近見る夢の中で次々と登場しては消えていく、かつての主たちのように。
朝ご飯を準備する妹はいつもどおりだ。おはよう、と返すと、今日は寝坊だね、と言われてしまった。
「先、朝ご飯準備しておいたよ」
「ありがと」
手を洗い、彼女の隣に立つ。髪も顔も元通りにしておいた。彼女に何かを気取られないように。いつもどおりの朝食の準備、いつもどおり、そんないつもどおりがいつもどおりにいつまでも続いてくれればいいのに、そんなことを思っていた。
席につく、いただきます、と言ってお味噌汁に手を付ける。
「美味しいね」
「姉さんもいつも手伝ってくれてありがとう」
「今日の公演、どこでやるんだっけ?」
「確か白玉楼。ホリズムリバーと一緒にやるみたいでね」
「白玉楼ねえ……」
「死んだ人もいるのかな」
それを妹が呟いたとき、私は自分で目が一瞬暗くなったのに気づいた。妹に気取られないように横を向き、再び前を向いたら元通り。一瞬だけ自分の中に見た表情は、私と初めて出会ったときに妹が私に僅かな間見せた暗い表情によく似ていた。
公演を終える。ホリズムリバーの明るい音色とはまた違った音色は聴衆にも満足感を与えてくれたみたい。ホリズムリバーの面々とも話ができた。総じて満足のいく公演だったと思う。
帰り道。白雲が空を少しずつ侵していく。そうしてお日様が隠れ、二人の影は消え失せる。もしかしたら小雨でも降るかもしれない、そんなことを思っていた。
「姉さん」
「どうしたの?」
「最近大丈夫?」
「私は別に元気だけど……何か気になることでもあるの?」
「いや、なんでもない」
そう告げる妹の目は空を見つめていた。私もつられて同じ方向を見る。雲に覆われた空ぐらいしか見えないけど。
「何かあったらいつでも言ってね」
「それはこっちの台詞」
私は八橋にそう返した。しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。何か言い足りないというか、言い淀んでいる、二人して、そんな奇妙な空気だった。先に沈黙を破ったのは八橋の方だった。
「姉さん、あんまり言いたくないんだけど……」
「なに?」
「最近たまにうなされてるの、気づいてないの?」
「うなされてるって……それはあんたのほうじゃない?」
「私も?」
「うん」
妹は押し黙る。言わなければよかったかな、という後悔が胸中で逡巡する。
「あんまり言いたくないんだよね……」
「いいよ、言わなくて」
私はそれだけを八橋に告げた。二人で空を見ながら帰ろうか。空は少しずつ雲も千切れて切れ間が見えるようになっていた。明日も明後日も、明々後日も何事もなく帰れたらいいのに、そう思わずにはいられなかった。
私は眠れないのではない、眠りたくないのだ。私の方も八橋に同じ目を遭わせているのかもしれないが。お互い様、と言いたいのではない。私は心配なのだ。なにかできることがあればいいのに。いつだってそう思う。私にできることと言えば暗闇の中で寄り添うことぐらいであり、それきっと八橋に気づかれることはない。もしかしたら八橋も同じことをしているのかもしれない、そんなことを思う。そうやって私は自分を無力なままに置いておくことに慣れっこになっている。本当は良くないことなのだ。誰かを助ける力があればそれはきっといいことだというのに。私に誰かを助ける力が備わっていればいいのに。
ある日のこと。私は妹が寝付くと一人でこっそりと彼女の元へと出向いていった。こんなふうに一人で行動する、というのは随分と久しぶりのように思われた。そしてそれは、もしかしたら、私が辿るかもしれなかった結末のようにも感じられた。
「それで教えてほしいことって何?」
「私たちの呪法の解き方。かけ方があるのなら解き方もあるんでしょう?」
「まあ、そりゃそうだけど……でもそんなことをしてなんの得が? せっかく二人一緒だというのに。言っとくけどさ、本人がそれを本当に強く願わないと絶対無理だよ。たとえばあんたが妹の呪法を解こうとしても本人が望まないと無理ってわけ。もっともそんなことをするあんたじゃないとは思うけどさ……」
困ったような顔をする彼女に無理やり頼み込み、結局私は呪法の解き方を伝授してもらうことができた。そうして去ろうとする私を呼び止める。
「悪用したりするあんたじゃないとは思うよ。でもね……付喪神の先輩格として心配なんだ。あんたたち、付喪神としてこの世界に顕現して、こうやって生き始めてどのくらい? 全然じゃない。だからさ、そういう生き方に慣れてないんじゃないかってね……」
私は彼女に一応のお礼を述べて、家に戻ることにした。
家では相変わらず八橋がうなされている。今は何かをすることはできない。八橋の、心の奥にある何かを見つめることすら。それを肩代わりすることは無論のこと。私は深くため息をつく。彼女の隣で座することしかやはりできないのだ。結局私はかつての私と同じではないだろうか? ふとそんな思いが胸中によぎった。最初の主、その次の主、その次の主、その次の……そしてたどり着く、妹。いずれにしても私は側にいることしかできないのだろうか。妹の苦しみを肩代わりするどころか、理解しようとすることすらできない自分の不甲斐なさ。そんな不甲斐なさはある意味では私に心配をかけようとしまいとする八橋が私に向ける情愛の裏返しなのかもしれない。そして私はその反転を受け止められるほどにきっと強くはない。
かつての八橋を知りたくはなかった。それは今が幸せだから。八橋の底にもしかしたらあるのかもしれないその何かに触れることが、私にとって何を意味するのか、私は想像すらしたくない。それが杞憂であろうとも、私にとっては触れる、いや、触れようと試みる、ううん、気配を感じてみる、あるいはそっと目配せをしてみる、そんなこと自体がきっと鈍い痛みを伴うものなのだ。
だから、というわけではない。そういうわけではないのだけど、私は時たま誰の眼にもとまらずに一人でいることを次第に好むようになっていった。妹といる時間を減らす、というわけではない。ただ、妹が出かけているときとか、そういうときに私は家に一人でいる。手持ち無沙汰なときは稽古だとかそういうことをしているし、もともと私はそういうことが嫌いではない質であった。
ある日のことだ。妹が居ないときを見計らい、私は唄う。曲目はいつも唄っているものではない。それは随分と長い間記憶の奥底に仕舞い込まれていたものだった。耳で聞いただけなのに、随分とよく覚えているものだと我ながら感心してしまう。唄うのは初めてである。ただ、最初の主の唄っていたその唄、あの高尚な悲劇とはまた異なるその素朴な唄を、私はようやく唄うことが許され始めているような気がしてならなかった。それは誰かに向けた唄であり、その誰かを私はようやく有することが出来たのだから。
だけれども、同時に私には後ろめたさもあった。主の心のなかに土足で踏み入るようなそんな罪悪感である。私は物陰で主の唄を聞いていたに過ぎない。そしてこの唄は私ではない誰かに向けられたものである。そんな私が主にとっての秘曲、誰にも聞かせることのない、誰にも披露することのない、もはや失われてしまうはずだったそんな曲を唄うことが本当に正しいことなのだろうか。そう誰かに問いかけたかった。
そんなある日のことである。
八橋が出かけているとき、私はいつものようにあの唄を唄い始めた。もう何度目になるのかはわからない。ただ、この唄を唄うときにはいつもぴしゃりと身が引き締まるような、そんな思いがしてならなかった。技術的には実に簡単な唄である。それでも私はこの唄が自分の中に湧き出ている湧水の脈の一つであるように思われてならなかった。
そんな折。
「姉さん、上手じゃない」
私は思わず声のした方を振り向く。
おそらくは妹はずっとそこにいて、私の独奏を聴いていたのだろう。
私は言葉を失った。
「なんて曲?」
妹はほんわかとした顔で私にそう尋ねる。
なぜだかわからない。自分でもわからないのだ。ただ、私は彼女の顔を一瞥だにすることなく、すっと立ち上がり、家の外に出ていった。
どこをどう飛び回ったのか、それとも走り回ったのか、自分でもわからない。
気がつくと私はどこか知らない場所にいた。迷ってしまった、という思いよりも先に、これでは自分がどこにいるのか妹すらもわからないだろう、という安堵が到来する。
やっと分かった。私の心にずっとあったのは、きっと諦めだったのだ。最初の主をああいう風に失ったときから、私はずっと諦めを引きずっていたのだ。その次の主も、そのまた次の主も、誰に仕えようとも、私はいつだって、寄り添うということすらできていなかったのかもしれない。
だから私はきっと泣きたかったのだ。一人で泣きたかったのだ。でもそういうときに限って涙は出てこないものである。私は一人で、手持ち無沙汰に適当な曲を奏でていた。
妹のところに戻るのは気まずかった。そうやって戻った先に何があるというのだろうか? 私にはもう何もないように思われてならなかった。いっそのこと、道具に戻ってしまおうか。私が彼女に呪法の解き方を教授してもらいに行ったのは、きっとこのためだったのだ。いつかこんな日が来る、心の何処かでそう思っていたのだろう。
「やっと見つけた」
そんな風に声をかけてきたのは妹だった。
「突然家から出ていくからびっくりした」
「ごめん……」
「さ、家へ戻ろうか」
八橋はそうとだけ告げると、すくと私の手を引いてくれた。
「姉さんさ」
「…………」」
「晩ごはん、今日は私が作るから、ゆっくり休みなよ」
「……ありがと」
「それとさ」
「?」
「姉さんに何も言わず、帰ってきてごめん」
「いいよ、全然」
そう告げると、八橋の顔もどこかほころんだ感じになった。私の顔もきっとどことなく似たようなものなのだろう。無論それはおそらくはうわべだけなのだけど。
苦しみはいつだって目に見えないものだ。それは生きとし生けるものがもつ業のようなものであり、だからこそ私たちは痛みに鈍感であることができるのだ。そうであっても、私は妹の痛みにだけは敏感でありたかった。八橋がうなされているとき、私が何も出来ないこと、それは私の心に確かに鋭く痛みを与えるものであった。私は寄り添うことぐらいしかできない。寄り添っていることに気づかれないようにしながら。そんな一方通行の寄り添いにどれほど価値があるものなのだろうか、と誹りを受ければ私はきっと黙るしかないのだろう。それでも。私は彼女の中に踏み入ることをしたくはない。そんな微妙な均衡の中で、私と妹は穏やかで慎ましやかな、それでいてささやかな発見とちょっとした成長に満ち溢れた、そんな日常を過ごすのだ。
八橋が夜安らかに眠ることができているとき、私は安心して眠りに落ちることができる。それでも私は夢の中で安らぐことはない。主は私の方に眼を向けることはない。私はこういう姿を手に入れたはずだと言うのに、何も言うことすらできない。それは実に歯がゆく、実に虚しさを感じさせるものだった。
だから最近は眠るという行為が随分と窮屈なものになってきたように思われてならなかった。夢の世界は私を開放などしてくれない。夢の世界は私を、見たくもない、それでいて私が見なければならない光景に無理やり額を向けさせるのだ。
だから私はいつだって八橋の傍にいようと思う。八橋がうなされていようとも、そうでなかろうとも。
「姉さんって」
妹がそう切り出したのは、あの出来事からそれほどは経っていない頃だった。
「私と一緒にいてどう?」
「どうって、あんたと一緒にいるのは嬉しいよ」
「そう……」
「あんたの方はどうなの? そんなこと聞いてくるんだからさ」
「私は姉さんと一緒にいれて幸せ。私はずっと一人だったから」
「ならいいじゃない」
「姉さん」
「なに」
「高野清玄……姉さんがいつだったか、呟いた名前」
私はぴたりと、手を止めた。それは確かに、私の記憶の底に仕舞われていた名前だった
「あのとき、勝手に唄を聴いて悪かったよ。本当に悪かったと思ってる。だから、私は姉さんが心配。そして怖い。姉さんにとって、私が本当の意味で大切なのか、それは私じゃなければいけないのか、そんなことを考えてすごく怖くなってしまう」
「八橋さ」
「……」
「そんなことないよ。私は八橋のこと、すごく大切に思ってるから」
「……なら良かった」
八橋はそう言うと、また顔をああいう風にほころばせた。その顔を真正面から見る、心の何処かから、私はその言葉を発してしまったことでみしみしと軋みが生じ始めている、そんな音が聞こえてくる。だがもう遅いのだ。私は八橋のその屈託のない顔をもう決して正面から見ることができないように思われてならなかった。きっと私はどこまでも醜い顔をしているのだろう。八橋の眼からはおそらくはそう見えないにせよ。夜はもう既にすぐそばに来ているのだった。
その夜。私は八橋が寝静まったのを確認すると、そっと外へと出ていった。私の心中はどこか穏やかだった。それはいわば諦めに似ていた。きっと最初の主を失ったときも、同じ心持ちだったのだ。どこか倦んでいるような、どこか解れているような、そんな気持ち。
選んだ場所は古道具屋の近くだ。私が生を受けた場所。そこで私は、彼女に教えてもらった術を使うことにした。そうやって道具に戻ることができるのならば、私はもう醜悪な偽りを吐くこともなくなり、ただの悲劇の観劇者に戻ることができるだろうに。そして古道具屋に再び並べられ、誰かの従者となることができるだろうに。
涙がつうと、頬をつたった。私はそこでようやく初めて泣くことができるように思えた。私はきっと最初から泣きたかったのだ。私はずっと誰かのために泣くことすら出来ていなかったのだから。自分のために泣くことなんてなおさらである。
心中に去来したのは誰のことだったのだろうか。それはもう私にすらわからない。ただ言えることは、私が私自身のために生きているのではもうない、ということだけである。 いずれにせよ、私はぼそぼそと呪言を唱えはじめることにした。
あたりは静かだった。空は雲一つなく、夜の闇の中に随分と沢山の星が瞬いている。虫の声ももう私の耳に入らない。色々なことが思い出される。昏い眼差しであるとか、くりくりとした眼差しであるとか。だけれどもそんな思いを振り払おうと、私は呪言に集中しようと何度も努力した。
そして私は呪言を唱え終える。さあ、これで終いだ。そう思ってどれほど経ったのだろうか。私の身にはなんら変化は起こらなかった。
彼女の言葉を思い出していた。呪法の解き方を伝授してもらったときに言われた言葉。でも忘れようとしていた言葉。心のどこかで、私はやっぱり誰かのために自分を際で引き止めていたのかもしれない。自分で自分を嘲笑いたくなった。結局は、私は今生誰かにべったりで生きている、というわけなのだ。それは一番最初の主であり、その次の主であり、そのまた次の……そして、最後に出会ったのは他ならぬ妹であった。いつだって私に対して顔を向けるのだ。応じなければならない。姉として、だけではない。
そうやって、これからもずっと痛みに耐え続けなければいけないのだ。でも寄り添い寄り添われることはお互いの心を軋ませつつ、それでもどうしても生じる歪みを正していこうとすることなのだろうか。誰かの軋みに共鳴すること、その恐れを振り払うかのように、私は涙を拭った。空を見上げる。たくさんの星星の中に、私はひときわ光り輝く星をいくつか見つけていた。星星のきらめきは笛かなにかの音を鳴らすようにすら感じられていた。
戻ろう。
家に戻ると薄ぼんやりと明かりがついていた。
「おかえり」
そう私に告げる妹の顔。いつもと変わらず、私の方に向けてくれる、穏やかな顔。
勝手な行いへの後悔が心中を駆け巡る。
「ごめん、こんな時間に勝手に出てって」
「いいよ……それに、姉さんだってそういうとき、あるんでしょ? 一人になりたいときって」
「うん……」
「姉さんさ」
「どうしたの?」
「明日も一緒にいてくれる?」
「ええ……もちろん」
「だからさ、明日も練習、頑張ろうね」
「うん」
私のその返答はきっと以前よりも力強い。
私の肩と手にそっと八橋の手が重ねられる。私は手の方を握り返す。肩にかけられた八橋の手は震えているように思われた。温い雫を静かに指で拭うと、震えも徐々に弱まっていきはじめた。おそらくは、私も含めて。
明日、共に唄うことができる、その事実がどれだけ不確かなものであろうと、私にとってもただそれだけで十分だ。
私たちの行き先は不明瞭。だけど一つだけ言えることがきっとある。私ももう、闇色の中で誰の手を取ることなく惑い続けるだけの存在ではない、ただそれだけ、ただそれだけなのだ。
輝針城の異変のときに私はかのような生を受ける。そして私は思いがけず妹を得る。妹? 私にそんなものができるなんてことを考えたことはなかった。道具というのは誰かに使われてこそのものであり、誰かに使われるということは従、として生きることでもある。生の主、として生きる、しかも姉として、なんて傲慢に言い切ってしまうのもどうかとは思うけど、兎にも角にも私はこれからは自分の生の主として、そして他ならぬたった一人の彼女の姉、いや、彼女の唯一の「肉親」として生きていくのだ。
人生は遠くから見たら悲劇だが近くで見たら喜劇だ、とか誰かが言っていたような気がする。その言葉を発した人間がどういう人生を歩んでどのように死んだのか私は知らない。かつての私は悲劇の観客だった。楽器としての悲しさで、私は貝のように口を閉ざし、口なんてそもそもありゃしなかったんだけれども、貝殻を見たことなんて数えるほどしかないけれども、そうやってなにも言わぬただの道具として、開けることのない暗闇の中にいる主たちに寄り添うぐらいしかできなかった。寄り添うんだからせめて温もりでもあればよかったのに。いつだったかそう思った。私にある木目はいつだって冷たく主を見つめていた、変わることなくいつだって、ええ、いつまでも。冷えた眼差しにできることといえば主に冷たい沈黙を伝えるのみであり、人に限らず生ける者の眼差しが持ち得るような、怒り、悲しみ、嘆き、喜び、そんな気持ちの流れ、あるいはぐちゃぐちゃとした情の坩堝の底に溜まった澱み、いずれについても伝える術を私は持ち合わせていなかった。私が冷淡だからではない、と私は自分に言い聞かせる。道具である以上、それは仕方のないことなのだと。
昔のことだ。武士やら悪党やら野蛮な連中が跋扈していた頃の話である。私の最初の主は盲目の琵琶法師だった。名前は言わせないでほしい。もう随分と昔だから、というのもある。だけれどもそれ以上に、それが私にとっては濁った記憶であるからこそ、私は主の名前を口に出す、ということをしたくなかったのである。
主は腕の良い琵琶法師だった。主と私との出会いを語ることは勘弁してほしい。私自身もよく覚えていないのだから。気がついたら私は主の手にあった、そういうことにしておいてほしいのだ。出会いのことを思い出せない、というのは少しだけ、歯がゆい思いではある。
主は私のことを随分と気に入ってくれたみたいだった。琵琶法師にとっては自分の唄を伝えるための声だったり耳だったりと並んで琵琶は大切なものである。主は私のことをいつだって大切にしてくれていた。常に私への手入れを欠かすことがなかった。それが何よりも嬉しかった。感謝の意なんて伝えられないけれども。磨かれるとき、弦を張り直されるとき、そんなとき私は主の手の温もりを感じ、私は動かすことのできない冷たい眼差しを主の方に向けようとするのだ。。
主はいつも光の失われた眼差しをこちらに向ける。私が歯がゆいのはその眼差しの向こう側にあるものを私が見つめきれないからだ。人と道具、という立場の不均衡は私から主の心であるとか真意であるとかを貫徹する視線を奪ってしまいかねない。だけれども私は、盲目の主の眼差しの向う側にあるものをなんとか見つめようとするかのように、その昏く温かい眼差しに、精一杯に温めようと努めた眼差し、を向け返そうとするのだ。
主が高貴な方の前で唄う機会があった。
静まり返った中で、主の唄声と私の音だけが響き渡る。周りの様子も気にならない。私は主と二人きりで唄っているのだ。
次々と、兵(つわもの)たちが死んでいく、女院たちは泣き悲しむ、そして幼いながらも尊い方が冷たい水の底へと沈んでいく。そんな悲劇の中であっても、主も私も周りに控える武士たちのように涙で服をしとどに濡らすことはない。私たちはただ、かつての悲劇を語り継ぐだけ。只に私は主の思いを曲に乗せ、主と共に懸命に唄うのだ。
曲が終わる、そして見事だった、と主に声を掛ける。主は、私の面を一度撫でた後、ありがとうございます、と申し上げた。きっとその双眸に、闇色の光を灯しながら。
そんなふうにして私たちは長い間唄い続けていた。主はあの痩身からどうやってあんな芯のある声を出せるのか、私はずっと不思議でならなかった。年月を経ても、その声は衰えを見せることはない。むしろ年を経るにつれて、その唄声は円熟していくように思われてならなかった。私だけなのかもしれない、何も変わらないのは、時折そんなことも思うのだった。
主は自分の周りから人を遠ざけていた。なぜだったのか、私には未だにわからない。芸術家と呼ばれる人たちにありがちな、単なる人嫌いだったのだろうか。人前に出るのは私と一緒に唄うときぐらいで、それ以外は主は粗末な家に一人、座しているか横になっているかのどちらかであった。寂しくないのだろうか、と私は何度も思った。私は寂しくないのだ、でもそれは私の方は眼差しが双方向であることを知っているからだ。主の光の失われた眼差しが私の方に向けられても、私はそれに応えることはできない。主はただ一人、光の下であろうとなかろうと、暗闇の中で生きている。私が同じ立場だったならばきっと耐えられないだろう。一寸先も見えない暗闇の中で、二人ではなく一人なのは今もそんなに慣れない。昔からだ。私が暗い闇夜の中で心強くいられたのは、主が側に置いていてくれたからだ。私には主の心はわからない。いつごろに光を失ったのか、それが生まれつきなのかそうでないのかも。ただ、それがいつであろうと、私にとってはそれは想像はしたくないことだった。自分がただ一人、暗闇の中にいる、誰からも眼差しを向けられることなく、一人きりで、恐ろしいことだ。だからそんな想像をするたびに、私はその恐れを振り切ろうとするかのように、主の方に眼差しを向けようとするのである。たとえそれが主には伝わることがなかろうとも。
いつだったか。主は私を手にとって、一人で唄い始めたことがあった。それはいつも人前で唄っている唄ではなかった。私も聞いたことのない、素朴というか、そんな感じの唄。いつも唄っている高尚な悲劇とは異なり、結構間抜けで明るい曲調だった。私はその唄を快く思った。誰に聞かせるでもない、主と私だけの唄。暗い家の中、灯りが辺りを薄ぼんやりと照らし出し、主の昏い眼であるとか骨ばった指であるとか、そんなものが私には見える。そんな光景を切り裂くようにして、唄が私の中にどっと流れ込んできた。そうやって唄が終わる。拍手をしたいけど、たった一人の観客として、でも私には手も足も眼もないのだから。だから私はただ、その唄を記憶にとどめておくことにした。ただ二人、私と主だけが知っているのだ。特権なのであり、秘密なのである。
ある日のこと。主があの唄を歌い終わった後、ぽつりと誰かの名前を絞り出した。その顔には諦めとも苦悩ともつかない表情が浮かんでいた。私の聞いたことのない名前だ、きっと女性の名前である。でも私は耳を傾けるだけである。その場から動くことはできない。主の苦しみを肩代わりすることも、その声に応答することもできないのだ。私は冷たくそう自分に言い聞かせる。
最初の主との別れは本当は思い出したくないことである。こんなふうにしてしか語ることのできないことをどうか許してほしい。主はある日、私を置いて出ていった。無論後を追うこともできない。放りだしにされたままで何日経ったのであろうか、数人の男が家に入ってくる、そして私は男たちの手で外に運び出された。やかましい話し声が否応なしに私の方に響いてくる。
「滝に身を投げるとはねえ、まさかあの人が」
「でもどうするんだ? この琵琶」
「知らないよ、将軍様にでも献上したらどうだ?」
「まあ……そうしておくか。でもなんであの人は?」
私にはついにわからなかった。ただ一つわかったことは、あの唄はきっと主と私だけの唄、などではなかった、ということだけだ。私はいつだって、自分の主の人生を悲劇だ、と本当は呼びたくなかった。でも、そうであっても、私はそういうふうにしか主の生き様を形容できないのだ。最初の主は唄い、そして一人で死んだ。最期に寄り添うことぐらいできればよかったのに。私には叶わないことである。
その後も私はいろいろな人の手を経ることとなった。生憎というかなんというか、年代物の楽器は愛好者が多いらしく、私は結構な高値で売り買いされることとなった。まあ、真価を引き出すことのできる人なんてとんといなかったから百両だろうが百文だろうが大した違いではない。そんな勝手な矜持を抱きつつ、私は長く長く時間をかけて、人の生きざまを見てきたのだった。随分と平和な時代もあった、国が火で焼かれた時代もあった、いずれにせよ、どんな時代であれ私は、従、として生きていたのだった。幕が上がり、舞台に上がり、そして幕が下りる、そんな主たちのことはあまり語りたくはないのである。結局のところ、皆、人生という悲劇の舞台でくるくるくると回転する道化にすぎない、やはりそう思うのだ。
彼女と出会うこととなったのは本当にたまたまだった。古道具屋で私たちは偶然隣同士になった。どちらも晴れた日は外に出され、雨の日は店の中に置かれる。一応の目玉商品ではあるらしく、結構な値段がついているらしかった。
琴、について私は何も知らない。それどころか、琵琶以外の楽器全般についても、それどころか、この世界を構築する種々のことについて、私は棒のように無知である。付喪神の悲しさで、読み聞かせでもされない限りは私が何かを知るということは難しい。なにせ私には手も足もないのだから。知っているのは唄ぐらいだ。生憎というべきか、私たちを手に取る人は全然いなかった。左隣の豆太鼓は早々と売れていったのだが、私であるとか右隣の琴、に手を触れたりする人はいないのだ。私もその琴に大した興味を示すことはなかった。興味があるのは私が誰の手に委ねられるか、というだけである。もっとも誰の手に渡ろうとも、仮初の主が誰になろうとも、私をきちんと扱える者ではないであろう以上、そこに大した違いなどないのである。それこそ楽器屋に扱われようが、文化にかぶれた成金に扱われようが。悲劇の役者なのだ、誰も彼も。私はそれを客席から眺めるただの観客なのであり、入り賃代わりに彼らの顛末を見届けるのが私の役割だった。
そんな観劇者気取り風情が長き時を経るにつれて、主として生きることへのささやかな憧憬が段々に芽生えつつあった。長く誰の手にもかからないから、演奏をされていないからこそ。自分に手と口と耳があれば、唄うことぐらいはできる。唄うことはすなわち生きることだった。鳴くことのできない鶏が肉屋に持ち込まれるように、唄うことを忘れた楽器はただの骨董品として道具屋に並べられるのである。右隣の琴ももしかしたらそんなことを考えているのだろうか? ふとそんなことを考えた。
そして異変が起こる、そうやって私は生を受ける、私は欲しかった手と耳と口とその他諸々を得て、ふわりふわりと道具屋から逃げ出した。後ろを振り返ることはない、脈動は速くなる、自由を手に入れた、自分の名前も考えた、私はこれから自分の人生の主となるのだ、私はそう自分に強く命じて闇夜に飛び立つ。だけれども夜目の効かない悲しさで、どちらへと向かえばいいのか私にはとんと見当もつかなくて、私は昂った感情の赴くままの方向へと向かっていった。
そんな折。
「そういうふうに滅茶苦茶に飛ぶなんて、らしくないんじゃない?」
そうやって私に声をかけてきた奴がいた。
」
「一人でいかないでよ、せっかく長い間一緒にいたんだから」
「一緒にいたって……って、あんたはもしかしてあの道具屋の?」
「あ、覚えててくれた。嬉しい」
どこか間の抜けた感じでそんな風に語る彼女の姿は、大して気にも留めていなかった、私と同じ、道具屋の目玉商品を思い出させる。年月を経た、そんな楽器。
「あんたも飛べるようになったの?」
「ずっと見てたんだ。だって一人になると寂しいんだもの。私だけが売れるのか、私だけが売れ残るのか、どちらにしたって離れ離れになって寂しいことにしかならないじゃない」
そうして彼女は私の肩に手を置いて告げる。
「一人でいるのって寂しくない?」
「でも誰かと一緒にいても結局は傷つくだけよ……」
思い出していた。種々様々な人間の手を経たことを。種々様々の人間の滑稽な悲劇のことを。そして最後にたどり着くのは、あの骨ばった指と昏い眼。
「私は誰かと一緒にいたかったから……」
そう告げる彼女の語りはどこか暗い。
「名前は?」
私はそう彼女に尋ねた。きょとん、とした顔を私の方に向ける。
「名前?」
「うん、名前。私は九十九弁々」
さっき考えたばかりの名前を彼女に告げる。
「私、名前がない……」
「じゃあ、私が考えようか?……八橋、とかどう?」
「じゃあ九十九八橋で」
「ちょっと、勝手に人の名字をとらないでよ」
「えー、いい名前なのになー」
「まったく……でも家族ができたみたいね、名字をそんなふうに取られると」
「じゃあせっかくだから家族にならない?」
「家族に?」
「ええ、先に生まれたからそっちが姉さん」
「まあ、別にいいけど……」
やれやれ、随分と面倒なことになったものだ。その感覚はどこか新鮮な気分がするものではあったけれども。
そうやって色々と昂った私たちは結局、したたかに退治される。反省するまもなく、そうこうしているうちに付喪神の先輩格から呪法を教えてもらい、元の道具に戻ることはなくなった。こうして私たちの関係はがちんと固定されることとなった。
「本当にいいの?」
「いいの。姉さんってちゃんと呼べるしね」
最初は一時的な関係のつもりだったのだが、こういう感じでいきなりに永続的なつながりとなったことに最初は少しだけ戸惑いを覚えた。でも妹と共に過ごしていて、彼女がことあるごとに屈託のない微笑みをこちらに向けるたび、少しずつ、その戸惑いは氷解、していくのだった。
その日私たちは公演を終え、家路についていた。もう日は暮れかけている。暦の上では初夏ではある。もっともかつての時分、武士やら悪党やらが跋扈していた時分、あるいは国が燃えていた時よりは随分と暑くなった。水分を多分に含んだ快い不快感が私に覆いかぶさり、湿気混じりの熱せられた大気が私の額にじんわりと汗をかかせる。その滴りを私は楽器を持っていない方の手でそっと拭う。こういうふうに汗を拭うことができる、日差しを遮れる、そんな些細なことも喜ぶべき変化なのかもしれない。
後ろの方に顔を向ける、一番の大きな変化を嫌でも痛感させられる、私は心を踊らせる。私と大きく似ることのないその顔は、くりくりとした眼といっしょになって、絶えずこちらに向けられては歩みの遅い私に歩みを与えてくれる。なぜだろう、別に「肉親」がほしい、という望みを抱いていたわけではなかったのに。
顔を上げると夕日が随分と綺麗だった。光輝くお日様は遠くの山の稜線を四つの眼に投げかけてくる。下に目を向けると2つの影が長く道を追いかけていた。雲が茜色に染まる、染まらないのはきっと私たちの影だけだ。そんなふうにして黒の純度を保ちつつ道を征く2つの影は、私たちの間に築かれた、目に見えることのない、それでいて幾重にも重ねた薄衣を思わせる、そんな何かを投影しているようだった。
単なる家路、単なる日常、かつての日常とは異なる、二人で歩き続ける日常。些細なことに心を動かされ、些細なことに感謝を示す、そんなふうに二人で歩みを進める。私にささやかな喜びを与えるものである。そんなちょっとした喜びの数々を共有できると勝手に感じることはその喜びを更に焚き付けてくれるものである。実際のところ、私には妹の本当の気持ちはわからない。他人の気持ちなどわからないものである、他人の気持ちを推し量っても自分の心は無闇矢鱈に痛くなる、そんなふうにかつての私は思っていた節はあったのだが。そんな思いをきちんと裏切ってくれる毎日は新鮮であり、ささやかなものであり、そして喜ばしいものであった。
八橋が夜、うなされていることを知ったのは最近のことだ。うなされているとき、私は暗闇の中で彼女の側にいる。起こすようなことはしたくない。妹が悪い夢の中から突如現の中へとずぶりと入り込んだとき、きっとその悪い夢の痕はその思考に深く刻み込まれてしまうのだろうから。妹がうなされている、気づいて強いて目を覚まし、その声にそっと耳を傾ける。本当はこういうことはするべきではないのだろうか。彼女の秘密、例えば毎日の日記帳のようなものを密かに読んでいるような、そんなどこかしらの後ろめたさが私にはあった。
朝起きる。妹は自分がうなされていたこと自体をわかっていないようだった。私は何かを悟られないように、彼女のおはようの明るい声に微笑みを向け返す、そんな日がぽつりぽつりと、影のように点在していた。
実際のところ、私は妹のことについて何も知らない。彼女がどういう人達の手を経てこの地に来たのか、彼女がどういう経緯で私の隣に並べられることになったのか。尋ねてみよう、という気にはなかなかならない。本当は不躾に尋ねてみたいところではある。でもそれは本当に、時に、相手の中にずかずかと入っていくことであって、私はそんな選択を安易にとるほどには軽率ではなかったというだけである。
「姉さんさ」
ある日のこと。八橋が私に尋ねてきた。私の方をじっと見つめている。私の方からそんな風に視線を投げかけたことは一度もないように思われた。
「どうしたの?」
「別に嫌だったらいいんだけどさ、姉さんはどうしてここに来たのか気になってさ」
思わず口をつぐんだ。妹の口からそんな言葉が出てくるとは思っていなかった。
「どうしてって……別に気がついたらここにいた、それだけ」
「そうなんだ……」
妹に嘘を付くのは気まずかった。本当ならば洗いざらい、自分の中の澱を吐き出すのが本当の姉妹同士、というものなのかもしれないというのに。
「姉さんってさ」
「?」
「嘘つくときっていつも耳の方に手をやるんだよね」
「え、うそ」
「ほら、そんな風に……というのは嘘」
そう言って八橋は私に一番最初に見せたような笑みをこちらに返した。そしてすぐに少しだけ、強張らせる。
「嘘、ついてもいいけどさ、本当に大事なことは話してほしいんだよね」
私には返す言葉がなかった。
悪い夢を見るとき、それはきまって昔のことだった。私の主だった人間たちの顛末を私はすぐ近くで見ている。手を伸ばそうとしても私は昔のままであり、手を伸ばすことは叶わない。そして最期にたどり着くのは最初の主だった。最初の主も向こう側を向いている。私の方に目を向けることはない。そして私は目を覚ます。
妹が台所で料理をしている。こちらに目を向けて、おはよう、と告げる。
きっと私はひどい顔をしているのだろう、鏡はないけどそう思う。自分の中にある、水面下にある部分を見透かされでもしたら私はきっと後ろを振り向いてしまう。最近見る夢の中で次々と登場しては消えていく、かつての主たちのように。
朝ご飯を準備する妹はいつもどおりだ。おはよう、と返すと、今日は寝坊だね、と言われてしまった。
「先、朝ご飯準備しておいたよ」
「ありがと」
手を洗い、彼女の隣に立つ。髪も顔も元通りにしておいた。彼女に何かを気取られないように。いつもどおりの朝食の準備、いつもどおり、そんないつもどおりがいつもどおりにいつまでも続いてくれればいいのに、そんなことを思っていた。
席につく、いただきます、と言ってお味噌汁に手を付ける。
「美味しいね」
「姉さんもいつも手伝ってくれてありがとう」
「今日の公演、どこでやるんだっけ?」
「確か白玉楼。ホリズムリバーと一緒にやるみたいでね」
「白玉楼ねえ……」
「死んだ人もいるのかな」
それを妹が呟いたとき、私は自分で目が一瞬暗くなったのに気づいた。妹に気取られないように横を向き、再び前を向いたら元通り。一瞬だけ自分の中に見た表情は、私と初めて出会ったときに妹が私に僅かな間見せた暗い表情によく似ていた。
公演を終える。ホリズムリバーの明るい音色とはまた違った音色は聴衆にも満足感を与えてくれたみたい。ホリズムリバーの面々とも話ができた。総じて満足のいく公演だったと思う。
帰り道。白雲が空を少しずつ侵していく。そうしてお日様が隠れ、二人の影は消え失せる。もしかしたら小雨でも降るかもしれない、そんなことを思っていた。
「姉さん」
「どうしたの?」
「最近大丈夫?」
「私は別に元気だけど……何か気になることでもあるの?」
「いや、なんでもない」
そう告げる妹の目は空を見つめていた。私もつられて同じ方向を見る。雲に覆われた空ぐらいしか見えないけど。
「何かあったらいつでも言ってね」
「それはこっちの台詞」
私は八橋にそう返した。しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。何か言い足りないというか、言い淀んでいる、二人して、そんな奇妙な空気だった。先に沈黙を破ったのは八橋の方だった。
「姉さん、あんまり言いたくないんだけど……」
「なに?」
「最近たまにうなされてるの、気づいてないの?」
「うなされてるって……それはあんたのほうじゃない?」
「私も?」
「うん」
妹は押し黙る。言わなければよかったかな、という後悔が胸中で逡巡する。
「あんまり言いたくないんだよね……」
「いいよ、言わなくて」
私はそれだけを八橋に告げた。二人で空を見ながら帰ろうか。空は少しずつ雲も千切れて切れ間が見えるようになっていた。明日も明後日も、明々後日も何事もなく帰れたらいいのに、そう思わずにはいられなかった。
私は眠れないのではない、眠りたくないのだ。私の方も八橋に同じ目を遭わせているのかもしれないが。お互い様、と言いたいのではない。私は心配なのだ。なにかできることがあればいいのに。いつだってそう思う。私にできることと言えば暗闇の中で寄り添うことぐらいであり、それきっと八橋に気づかれることはない。もしかしたら八橋も同じことをしているのかもしれない、そんなことを思う。そうやって私は自分を無力なままに置いておくことに慣れっこになっている。本当は良くないことなのだ。誰かを助ける力があればそれはきっといいことだというのに。私に誰かを助ける力が備わっていればいいのに。
ある日のこと。私は妹が寝付くと一人でこっそりと彼女の元へと出向いていった。こんなふうに一人で行動する、というのは随分と久しぶりのように思われた。そしてそれは、もしかしたら、私が辿るかもしれなかった結末のようにも感じられた。
「それで教えてほしいことって何?」
「私たちの呪法の解き方。かけ方があるのなら解き方もあるんでしょう?」
「まあ、そりゃそうだけど……でもそんなことをしてなんの得が? せっかく二人一緒だというのに。言っとくけどさ、本人がそれを本当に強く願わないと絶対無理だよ。たとえばあんたが妹の呪法を解こうとしても本人が望まないと無理ってわけ。もっともそんなことをするあんたじゃないとは思うけどさ……」
困ったような顔をする彼女に無理やり頼み込み、結局私は呪法の解き方を伝授してもらうことができた。そうして去ろうとする私を呼び止める。
「悪用したりするあんたじゃないとは思うよ。でもね……付喪神の先輩格として心配なんだ。あんたたち、付喪神としてこの世界に顕現して、こうやって生き始めてどのくらい? 全然じゃない。だからさ、そういう生き方に慣れてないんじゃないかってね……」
私は彼女に一応のお礼を述べて、家に戻ることにした。
家では相変わらず八橋がうなされている。今は何かをすることはできない。八橋の、心の奥にある何かを見つめることすら。それを肩代わりすることは無論のこと。私は深くため息をつく。彼女の隣で座することしかやはりできないのだ。結局私はかつての私と同じではないだろうか? ふとそんな思いが胸中によぎった。最初の主、その次の主、その次の主、その次の……そしてたどり着く、妹。いずれにしても私は側にいることしかできないのだろうか。妹の苦しみを肩代わりするどころか、理解しようとすることすらできない自分の不甲斐なさ。そんな不甲斐なさはある意味では私に心配をかけようとしまいとする八橋が私に向ける情愛の裏返しなのかもしれない。そして私はその反転を受け止められるほどにきっと強くはない。
かつての八橋を知りたくはなかった。それは今が幸せだから。八橋の底にもしかしたらあるのかもしれないその何かに触れることが、私にとって何を意味するのか、私は想像すらしたくない。それが杞憂であろうとも、私にとっては触れる、いや、触れようと試みる、ううん、気配を感じてみる、あるいはそっと目配せをしてみる、そんなこと自体がきっと鈍い痛みを伴うものなのだ。
だから、というわけではない。そういうわけではないのだけど、私は時たま誰の眼にもとまらずに一人でいることを次第に好むようになっていった。妹といる時間を減らす、というわけではない。ただ、妹が出かけているときとか、そういうときに私は家に一人でいる。手持ち無沙汰なときは稽古だとかそういうことをしているし、もともと私はそういうことが嫌いではない質であった。
ある日のことだ。妹が居ないときを見計らい、私は唄う。曲目はいつも唄っているものではない。それは随分と長い間記憶の奥底に仕舞い込まれていたものだった。耳で聞いただけなのに、随分とよく覚えているものだと我ながら感心してしまう。唄うのは初めてである。ただ、最初の主の唄っていたその唄、あの高尚な悲劇とはまた異なるその素朴な唄を、私はようやく唄うことが許され始めているような気がしてならなかった。それは誰かに向けた唄であり、その誰かを私はようやく有することが出来たのだから。
だけれども、同時に私には後ろめたさもあった。主の心のなかに土足で踏み入るようなそんな罪悪感である。私は物陰で主の唄を聞いていたに過ぎない。そしてこの唄は私ではない誰かに向けられたものである。そんな私が主にとっての秘曲、誰にも聞かせることのない、誰にも披露することのない、もはや失われてしまうはずだったそんな曲を唄うことが本当に正しいことなのだろうか。そう誰かに問いかけたかった。
そんなある日のことである。
八橋が出かけているとき、私はいつものようにあの唄を唄い始めた。もう何度目になるのかはわからない。ただ、この唄を唄うときにはいつもぴしゃりと身が引き締まるような、そんな思いがしてならなかった。技術的には実に簡単な唄である。それでも私はこの唄が自分の中に湧き出ている湧水の脈の一つであるように思われてならなかった。
そんな折。
「姉さん、上手じゃない」
私は思わず声のした方を振り向く。
おそらくは妹はずっとそこにいて、私の独奏を聴いていたのだろう。
私は言葉を失った。
「なんて曲?」
妹はほんわかとした顔で私にそう尋ねる。
なぜだかわからない。自分でもわからないのだ。ただ、私は彼女の顔を一瞥だにすることなく、すっと立ち上がり、家の外に出ていった。
どこをどう飛び回ったのか、それとも走り回ったのか、自分でもわからない。
気がつくと私はどこか知らない場所にいた。迷ってしまった、という思いよりも先に、これでは自分がどこにいるのか妹すらもわからないだろう、という安堵が到来する。
やっと分かった。私の心にずっとあったのは、きっと諦めだったのだ。最初の主をああいう風に失ったときから、私はずっと諦めを引きずっていたのだ。その次の主も、そのまた次の主も、誰に仕えようとも、私はいつだって、寄り添うということすらできていなかったのかもしれない。
だから私はきっと泣きたかったのだ。一人で泣きたかったのだ。でもそういうときに限って涙は出てこないものである。私は一人で、手持ち無沙汰に適当な曲を奏でていた。
妹のところに戻るのは気まずかった。そうやって戻った先に何があるというのだろうか? 私にはもう何もないように思われてならなかった。いっそのこと、道具に戻ってしまおうか。私が彼女に呪法の解き方を教授してもらいに行ったのは、きっとこのためだったのだ。いつかこんな日が来る、心の何処かでそう思っていたのだろう。
「やっと見つけた」
そんな風に声をかけてきたのは妹だった。
「突然家から出ていくからびっくりした」
「ごめん……」
「さ、家へ戻ろうか」
八橋はそうとだけ告げると、すくと私の手を引いてくれた。
「姉さんさ」
「…………」」
「晩ごはん、今日は私が作るから、ゆっくり休みなよ」
「……ありがと」
「それとさ」
「?」
「姉さんに何も言わず、帰ってきてごめん」
「いいよ、全然」
そう告げると、八橋の顔もどこかほころんだ感じになった。私の顔もきっとどことなく似たようなものなのだろう。無論それはおそらくはうわべだけなのだけど。
苦しみはいつだって目に見えないものだ。それは生きとし生けるものがもつ業のようなものであり、だからこそ私たちは痛みに鈍感であることができるのだ。そうであっても、私は妹の痛みにだけは敏感でありたかった。八橋がうなされているとき、私が何も出来ないこと、それは私の心に確かに鋭く痛みを与えるものであった。私は寄り添うことぐらいしかできない。寄り添っていることに気づかれないようにしながら。そんな一方通行の寄り添いにどれほど価値があるものなのだろうか、と誹りを受ければ私はきっと黙るしかないのだろう。それでも。私は彼女の中に踏み入ることをしたくはない。そんな微妙な均衡の中で、私と妹は穏やかで慎ましやかな、それでいてささやかな発見とちょっとした成長に満ち溢れた、そんな日常を過ごすのだ。
八橋が夜安らかに眠ることができているとき、私は安心して眠りに落ちることができる。それでも私は夢の中で安らぐことはない。主は私の方に眼を向けることはない。私はこういう姿を手に入れたはずだと言うのに、何も言うことすらできない。それは実に歯がゆく、実に虚しさを感じさせるものだった。
だから最近は眠るという行為が随分と窮屈なものになってきたように思われてならなかった。夢の世界は私を開放などしてくれない。夢の世界は私を、見たくもない、それでいて私が見なければならない光景に無理やり額を向けさせるのだ。
だから私はいつだって八橋の傍にいようと思う。八橋がうなされていようとも、そうでなかろうとも。
「姉さんって」
妹がそう切り出したのは、あの出来事からそれほどは経っていない頃だった。
「私と一緒にいてどう?」
「どうって、あんたと一緒にいるのは嬉しいよ」
「そう……」
「あんたの方はどうなの? そんなこと聞いてくるんだからさ」
「私は姉さんと一緒にいれて幸せ。私はずっと一人だったから」
「ならいいじゃない」
「姉さん」
「なに」
「高野清玄……姉さんがいつだったか、呟いた名前」
私はぴたりと、手を止めた。それは確かに、私の記憶の底に仕舞われていた名前だった
「あのとき、勝手に唄を聴いて悪かったよ。本当に悪かったと思ってる。だから、私は姉さんが心配。そして怖い。姉さんにとって、私が本当の意味で大切なのか、それは私じゃなければいけないのか、そんなことを考えてすごく怖くなってしまう」
「八橋さ」
「……」
「そんなことないよ。私は八橋のこと、すごく大切に思ってるから」
「……なら良かった」
八橋はそう言うと、また顔をああいう風にほころばせた。その顔を真正面から見る、心の何処かから、私はその言葉を発してしまったことでみしみしと軋みが生じ始めている、そんな音が聞こえてくる。だがもう遅いのだ。私は八橋のその屈託のない顔をもう決して正面から見ることができないように思われてならなかった。きっと私はどこまでも醜い顔をしているのだろう。八橋の眼からはおそらくはそう見えないにせよ。夜はもう既にすぐそばに来ているのだった。
その夜。私は八橋が寝静まったのを確認すると、そっと外へと出ていった。私の心中はどこか穏やかだった。それはいわば諦めに似ていた。きっと最初の主を失ったときも、同じ心持ちだったのだ。どこか倦んでいるような、どこか解れているような、そんな気持ち。
選んだ場所は古道具屋の近くだ。私が生を受けた場所。そこで私は、彼女に教えてもらった術を使うことにした。そうやって道具に戻ることができるのならば、私はもう醜悪な偽りを吐くこともなくなり、ただの悲劇の観劇者に戻ることができるだろうに。そして古道具屋に再び並べられ、誰かの従者となることができるだろうに。
涙がつうと、頬をつたった。私はそこでようやく初めて泣くことができるように思えた。私はきっと最初から泣きたかったのだ。私はずっと誰かのために泣くことすら出来ていなかったのだから。自分のために泣くことなんてなおさらである。
心中に去来したのは誰のことだったのだろうか。それはもう私にすらわからない。ただ言えることは、私が私自身のために生きているのではもうない、ということだけである。 いずれにせよ、私はぼそぼそと呪言を唱えはじめることにした。
あたりは静かだった。空は雲一つなく、夜の闇の中に随分と沢山の星が瞬いている。虫の声ももう私の耳に入らない。色々なことが思い出される。昏い眼差しであるとか、くりくりとした眼差しであるとか。だけれどもそんな思いを振り払おうと、私は呪言に集中しようと何度も努力した。
そして私は呪言を唱え終える。さあ、これで終いだ。そう思ってどれほど経ったのだろうか。私の身にはなんら変化は起こらなかった。
彼女の言葉を思い出していた。呪法の解き方を伝授してもらったときに言われた言葉。でも忘れようとしていた言葉。心のどこかで、私はやっぱり誰かのために自分を際で引き止めていたのかもしれない。自分で自分を嘲笑いたくなった。結局は、私は今生誰かにべったりで生きている、というわけなのだ。それは一番最初の主であり、その次の主であり、そのまた次の……そして、最後に出会ったのは他ならぬ妹であった。いつだって私に対して顔を向けるのだ。応じなければならない。姉として、だけではない。
そうやって、これからもずっと痛みに耐え続けなければいけないのだ。でも寄り添い寄り添われることはお互いの心を軋ませつつ、それでもどうしても生じる歪みを正していこうとすることなのだろうか。誰かの軋みに共鳴すること、その恐れを振り払うかのように、私は涙を拭った。空を見上げる。たくさんの星星の中に、私はひときわ光り輝く星をいくつか見つけていた。星星のきらめきは笛かなにかの音を鳴らすようにすら感じられていた。
戻ろう。
家に戻ると薄ぼんやりと明かりがついていた。
「おかえり」
そう私に告げる妹の顔。いつもと変わらず、私の方に向けてくれる、穏やかな顔。
勝手な行いへの後悔が心中を駆け巡る。
「ごめん、こんな時間に勝手に出てって」
「いいよ……それに、姉さんだってそういうとき、あるんでしょ? 一人になりたいときって」
「うん……」
「姉さんさ」
「どうしたの?」
「明日も一緒にいてくれる?」
「ええ……もちろん」
「だからさ、明日も練習、頑張ろうね」
「うん」
私のその返答はきっと以前よりも力強い。
私の肩と手にそっと八橋の手が重ねられる。私は手の方を握り返す。肩にかけられた八橋の手は震えているように思われた。温い雫を静かに指で拭うと、震えも徐々に弱まっていきはじめた。おそらくは、私も含めて。
明日、共に唄うことができる、その事実がどれだけ不確かなものであろうと、私にとってもただそれだけで十分だ。
私たちの行き先は不明瞭。だけど一つだけ言えることがきっとある。私ももう、闇色の中で誰の手を取ることなく惑い続けるだけの存在ではない、ただそれだけ、ただそれだけなのだ。
見て、聞いて、唄うことしか出来ない楽器の身で途方もない数の主、弾き手との出会いと別れを繰り返した結果誰かと一緒に居続けること自体に恐怖と苦痛を感じるようになってしまった弁々のお話に思えました。
そのせいで八橋のことは好きなのに踏み込んだことが言えず一人で痛みを抱え込んで最後の選択をするに至ってしまったのかなと思うとそれもとても切なく感じました。
それでも呪法が解けなかった(=自分の本心はまだここに居続けたい、と思っている?)ことで自分の本当の気持ちを知れたのは救いがあって素敵な〆方で好きです。
面白かったです。
人間よりも人間らしい心の葛藤を繰り返す弁々が愛おしかったです。
この一件を経て、きっと二人は強固な関係となれることでしょうね。
八橋の側がどういう歴史をたどりこの性格に至ったのかも読んでみたくありますね
このセリフで感嘆の溜息が出ました