「あぶなっかしいと思われるかもしれないけど、夢遊病みたいなの」
雛の話の切り出し方はいつもこんな調子で、脈絡がない。(急にそんな事を言い始めるあんたが夢みたいだわ)とパルスィは思ったが、
「へえ、なんかあったの?」
と話を促しながら、出してもらった水出しの紅茶に口をつける。この家の水は、どれだけ紅茶やコーヒーでごまかそうとしても金属臭さがにおってくるが、この方法が一番ひどい事をパルスィは発見した。赤さび色のうつった水を飲んでいる気分だった。
「なにがあったのかわかんないからこわいのよ」
雛は口先をとんがらせて、手元の紅茶グラスをじっと見つめながら言った。
「別に、意識や記憶がないのはしょうがないと思うわ。お酒を飲んでいても、たまにそういう事はあるし……あ、今あぶなっかしいと思ったでしょ」
「気をつけなさいよねそういうの」
たしかに夢遊病じゃなくてもあぶなっかしい。
「外で飲む時は気をつけてる」
そこでいったん、話が終わってしまったように雛は沈黙した。話の続きはあるのか、ないのか。パルスィは待つしかない。その間も雛は夢の中のようにぼんやりしている。たしかにこれは危なっかしいとパルスィは思った。
待とうと思って席を立ち、そのあたりから雑誌をひとつ取ってきて、席に戻る。本のたぐいは乱雑に、床や棚、電気蓄音機の横などに平積みされていて、廊下の足元にはさびれた古書市のように段ボール箱が並んでいる。室内に本棚がないわけではないが、そこはろくにつかわれておらず、抜けが目立ち、周囲の床には埃が積もっている――お世辞にも掃除が行き届いている家ではなかった。ただ雛の行動範囲だけ、応接に使っている部屋のテーブル周りやキッチン、寝室などを繋いだルートの埃だけがのけられていて、それが通り道のようになっている。
パルスィが手に取った雑誌は、もう十何年も前のものだ。雛は多読家ではない。むずかしい本もあまり読まない。雑誌のジャンルは、ファッション、音楽、少女漫画、時々は文芸。どれも中古品。単行本は小説、漫画、詩集がもっぱら。他に古い源氏の青本、黄表紙や読本といったたぐいも、外に十把一絡げにして括られて置かれ、朽ち果てかけているのを見かけた事がある。そんな数少ない蔵書を、幾度も繰り返し読むのを癖としているようで、手にした雑誌もすり切れるくらいに読まれていた。
「まったくなにもわかっていないわけじゃないわ」
唐突に雛が話の続きを持ってきた。
「起きた後で、なにか取り返しのつかない事をやってしまった、という気持ちは残っているのよね……なんというか、翌朝に慌てて起き上がって、下の方が穢されていないのを確認するまでの焦りというか、その――」
パルスィは眉をひそめつつ、しどろもどろなその様子をあやしんだ。
「言いたい事はわかるけど、なにがあったのよ……」
「なにかはあったのよ、なにかは」
ぶつぶつ言いながら、雛は立ち上がる。その立ち上がり方こそ夢遊病のようで、パルスィはぎくりとした。
「それがあった時って、必ず夢を見ていたし……外に出て、どこかものすごく暗いトンネルを歩いている夢……はっきり覚えてる。まるで夢遊病のほんとうを見ているような夢。でもたぶん、現実に見たのとは違うのよ。でも違わないかもしれないし……わからない」
「要領を得ないわ」
と鼻を鳴らしながら、パルスィは雛のふらふらとした歩みが、電気蓄音機の棚に向かうのを見た。そばに小物入れの函が置かれている。
雛は無言でその小函を持ちだし、テーブルの上に置いた。パルスィに開けるのをうながす。
おそるおそる、というほどでもないが、無造作に開けるのははばかられた。開ける前からあきらかに不吉のにおいがしていた。
それでも結局は開け放ってしまわなければならないもので、パルスィは函の中のものを見た。脱脂綿が敷かれていて、その上に干からびてねじくれたような、錆びた針金細工が置かれていた。線を一度二度と折りたたんで芯にして、その周りにまたぐるぐると巻きつけている。造形があまりに劣化しているのでよくわからないのだが、人形と見えないこともない。
「その人形。私が夢遊病の時に持ち帰ったものよ」
雛が言った。
「現実に持ち帰ったのか、夢から持ち帰ってきたのかもわかんないけどね」
雛の夢遊病を見届けるために、パルスィはそのまま長逗留している。寝ずの番をして雛の寝姿を眺めて病態を待ち続けているので、パルスィは――地底に暮らしているおかげで、もともと曖昧なバイオリズムだったものの――日中に眠るしかない。生活リズムはみるまに逆転した。
夜中は雛の寝室の化粧台に本を積み、その横に置いた椅子の上で夜を越した。初夜に手にした短編集には、皮肉にも不眠症の話が収録されていた……あまりにひどい不眠症に発作的に頭を撃ち抜いてしまったが、死んでもなお、いまいましい不眠症は続いている、といった内容。
ベッドの上の雛は人形のように寝相が良かったが、二日目の丑三つあたりに突然、すさまじく体をくねらせて自身の天地をひっくり返した。パルスィは(お出ましになったのかしら)と本を脇に置いて身構えたが、ただの寝返りだったらしい。寝間着にしているベビードールの裾がふんわりとまくれ、だらしなく白いふとももがベッドからこぼれていた。
「普段は寝相が良い方だと思うんだけど、たまにとんでもない事になるのよね」
朝、化粧台の前で長い髪を梳かしながら、雛がそう言った。
「そうらしいわね……」
パルスィはあくびまじりにベッドにもぐりこんで、寝る者と起きる者が逆転する。心配していたような不眠症にはならなかった。窓の外の樹海が昼間でも薄暗く、静かだったのもあるだろう。
パルスィが目覚めるのは昼過ぎごろだ。眠りが浅かったわけではなく、悪い寝心地でもなかったのだが、湿気のせいかなんなのか、寝汗だけはすごい。
「汗流してきなさいよ」
雛にそう言われて、ありがたく風呂を使わせてもらう。風呂場は西洋風――というより西洋の娼館風。エキゾチックな、アンダルスのイスラム朝風タイルが張られた浴室の中には、シャワーと銅のバスタブがあって、これは水垢汚れのくすみがひどいものだった。三日目の昼下がり、気まぐれに発奮したパルスィが磨き粉とボロ雑巾で徹底的に磨きを入れて、ぴかぴかに輝かんばかりにしてしまった。
パルスィにしてみれば突発的な寝泊まりの始まりだったので、下着などは雛に借りた。しかし雛の持っている下着ときたら、ことごとくが、薄い皮膚のような透ける布地だったり、鉄ペンの細い線の濃淡のみで描画されたようなレースだったり、誰かに見られる事を期待しているようなきわどいフレンチショーツばかりだった。
これにはパルスィも閉口させられた。
「あのさ、あんたこういうのがシュミなわけ?」
「そうだけど?」
つんと澄ましたわけでも照れくさそうな様子でもなく、雛はあっさり言い返す。
「……妬ましいわ」
なんらかの決め台詞のようにパルスィはぼやいた。
そうした事が過ぎた、幾度目かの夜だ。
雛はもう寝てしまっている。寝息は細く長く、ちょっとやそっとで起きる気遣いはない。
「それにしても、いっこうに夢遊病が再発する気配がないわ」
と雛が言ったのは、数時間ほど前。夕食を終えた後で、寝る前のたわむれに、雛の足指にペディキュアを塗りぬりしながらだった。
「迷惑かけてごめんなさいね」
「まあ、それなりに楽しませてもらっているから」
なんだか皮肉めいてしまったが、パルスィは家主に「迷惑かけてごめんなさいね」と言われて「いいってことよぉ」とさわやかに答えられるような気質でもない。せいぜいぶつくさぼやきながら、勝手に使わせてもらっていた。
しかし、夢遊病が再現できないのはなぜか、という疑問は今からでも検討してよかった。
「一番の原因は、きっと私がいるという事だと思うわ」と、相手の五本の指の四つの股に挟まれていたセパレーターを外しながら、パルスィは言った。
「睡眠の質が変わった」
雛はあっけらかんとパルスィの説を受け入れる。
「それはあるかもね。というか最有力だわ、その説」
「だとすると、私がここにいる限り、いつまで経っても何も起こらない可能性がある」
パルスィはくりくりした緑目をいっそう大きく見開いて、おどけたようにぱちくりさせながら肩をすくめた。
「意味が無いわ」
それから、エメラルドグリーンに塗り固めた、足先の五つの連なった珠を細かく磨き始めた。雛の足は、あんなブーツを履いている割には土踏まずの縦横のアーチ構造もしっかりとしていて、爪の形も綺麗だ。偏平足で血色も悪い自分の足指を見ていると、妬ましいくらいに。
「いえ、意味はあるのよ」雛がおしとやかに言った。「あなたがいてくれる限り、私がそういうこわい目に遭わないですむ」
「ずっとここにいろって事?」
さすがにそれは冗談だったろうけれど、とパルスィはほろ酔いの頭で考える――風呂上がりの頭に巻いたターバンが重いのもあった。体には白いバスローブを羽織っている。
そんな処刑前のベアトリーチェ・チェンチよろしくの格好をして、夜長のお供に飲んでいるものは、蒸留酒の炭酸水割り。このカクテルは、ツーフィンガーばかりの酒にひと匙ほど水飴を溶いて甘みを加え、それを粗く揉み潰したミント(家の周囲に自生している)で風味付けして完成。蒸留酒は近所で河童がカフェ式蒸留器を使って作っているもの、炭酸水は近場の炭酸泉から採取したものだという。
思えば、水橋パルスィと鍵山雛との出会いもそういう炭酸泉的なもので、そのかたちが逆だったにすぎない。地下から地上に噴出するものがあるのなら、関係をさかしまにして、地上から地下へと噴き出すものがあっていいというだけの話だ。
(なんだったっけ、あのときは「そういえば私が取りこぼした厄って、このままどこに流れていくのかしら」と川に飛び込んで、そのまま地底に吸い込まれて流れてきたんだっけ?)
自分たちの出会いを思い出すにつれて、あいつ、そもそもが夢みたいな行動をやらかす女だったわね、とパルスィは鍵山雛を再定義する。
(ウサギ穴に飛び込むアリスだって、もうちょっとは気をつけていたわ)
そうしたなれそめを思い出しながら、次にふと連想したのは、ハムレットのオフィーリアや源氏物語の浮舟といった、物語で入水する女たちだった。鍵山雛には、これら悲劇的女性たちの深刻さはかけらもないが、それでも物事の究極に立ち会って入水しかねない女たちに連なる一面が、どことなく感じられた。にもかかわらず、雛自身に対しては、悲劇の深刻さはつるつるとその体表を上滑りしてしまっている。そうした悲劇を受け継ぎつつ、よくないものを濾しとっているらしかった。厄神とはそういうものなのかもしれない。
なにかを受け継ぎつつよくないものを濾過するという性質が、厄神様としての鍵山雛の性ならば、今回の夢遊病の件だって、案外その可能性はある。誰かの夢遊病や悪夢、不眠症へのおそれをも、彼女は知らず知らず受け止めてしまった……しかし、それで彼女の身に悲劇が見舞うのかというと、それは起こらないのだろう。
酔っぱらいの観念連想はなんの根拠も持たないものだったが、なんだか問題の核心に迫っている気がした。
「なんなのかしらねこの人形」
食事を終えて、雛が寝る前に、酒を入れながら少しだけそうした議論をした。二人で向かい合った間のテーブルに乗っているのは、先日雛が夢遊病の果てに手に入れたと思しき、ねじれくた金属だ。
「そもそも人形ではないのかも」
「点が三つあれば顔と認識するように、細ひょろくて手足がついているようだと人形に見えるのかもね」
「頭・手・足・足・手」
錆びた針金のそれぞれの端を示しながら、パルスィは言った。
「点三つだけの顔よりかは、少なくとも人形らしい」
「それもそうだし、人をかたどるつもりがなくても、私たちが人形と認知した時点でそれはもう人形なのかも」
「とすると咒物だわ」
「お、さすが咒いの専門家ね」
「専門家じゃなかろうが思い及ぶわこんなの」
パルスィはじっと考える。
「……なにかこう、人形というモノやコトにかんして、思い当たるところは?」
「たーくさん」
雛はお手上げというふうに言った。
「私だってそういう咒物の専門家ではあるわ。人が人形にかこつけてきた念とか咒いといったものを、譲り受けたり、拾ったり……この家にだって、そういう雛人形をいくつか安置している、開かずの間ができちゃったくらい」
「……そんなものあったの?」
今までも何度か遊び泊った事がある雛の棲み処だったが、パルスィは知らなかった。なにせこの家、最低限の生活圏以外の部屋は無いもののようにして扱っていても、まるで困らないような家だったからだ。
「ま、あまり見ていて楽しいものでもないから。本当に用事がある時にしか私も開かないのよね」
だが、酔うた二人は(多少畑違いの分野ではあるにせよ)人形という咒物の専門家だったので、そのまま人形を安置している部屋を見学に行った。
「後学のためよ」
開かずの間とは言ったが、建物の奥まったところにあり、廊下にまで埃が積もっているだけで、別に鍵もつけていない、普通の部屋だった。
(建材がかわいそうね)
というのが、戸を開けて、かびくさい室内を見たパルスィの、偽らざる感想だった。もちろん人形そのものだってそうだろうが、この部屋の建材だって、咒わしい人形屋敷の一角のいち構成要素になどなりたくなかっただろうし、そうではない無垢の木材の時だってあったにちがいない。
雛の業態に沿ったかたちで、人形のバリエーションはさほど多くなかった。だいたいが雛人形をはじめとした節句人形で、他にあるものも、日本人形のバリエーションから外れていない。
「……少なくともあんな針金人形は置いてなさそうね」
と言いながら、上方風の段々を一段一段、目で点検するように見ていく。
「あまり面白いものじゃないかも」
「……いえ、興味深いわ。また酔っぱらっていない時に、ちゃんと見せてちょうだい」
そう、今夜のパルスィは、ちょっと酔っぱらいすぎていた。自覚もあった。なにかぼんやりした熱を帯びた夜だった。小説を読んでも身に入らない。強い蒸留酒を炭酸水で割りながらちびちび飲んで、それを切らしたらデカンタに手を伸ばして、そういう行動をひたすら繰り返すようになった。
気がつけば、炭酸水や水飴やミントなんかでアルコールの強さを誤魔化そうともせず、生のまま飲んでいる。
パルスィがちらとベッドの上の雛を見やったのは、いつの間にか頭の上のターバンが崩れて、ローブの胸元がはだけてしまっていたからだった。はしたない格好が知り合いに見られやしないかと、さすがに恥ずかしかったのだ。
しかし雛は相変わらず人形のように姿勢よく、小さい寝息を立てている。今夜はものすごい寝返りすら起こしそうな気配がない。
部屋の隅に姿見があった。普段は、雛が髪結んだ後の立ち姿を――特に、胸元から肩にかけての、髪の房、レースのリボン、大振りなフリルカラー、ブラウス、乳房といった多層的なバランスなどを――チェックするためにもっぱら使われている。
パルスィは、わずかに酒が残る杯片手に、気まぐれに立ち上がった。ゆるくなったバスローブが肩からするすると崩れていって、指先を抜けていく。杯の底の酒を一口に呷った時も、頭がぐらぐら揺れて、巻いていた風呂上がりのターバンも完全に解けて落ちた。
この日の雛が貸してくれた下着は、黒レースのボディスーツだった。「レーストリムの主張強めのかわいい系だから、意外とエロくないのよ」と言いながら、そのシルク地の肌着を渡してくれたので、パルスィは(一応エロ下着を貸しているという自覚はあったのね)と内心でツっこみながら、ありがたく貸してもらった。下着はチェストからボトムまでぴっちりとボディラインをおさえているのだが、レース飾りの隙間が多いため、表面積は大きいのに黒の重さを感じさせず、軽やかだ。
自分自身にうっとりするという事がめったにないパルスィだったが、鏡に映る自分の下着姿を見て、
(あんたさァ、なに気取ってんのよ)
と鏡の中のパルスィ自身をからかった。動作が誇張されて、化粧台に酒杯を置く仕草さえ、なんだかあざとくなってしまった。でもそれは、鏡の中のパルスィがあざといだけだ。
(だって私はこんなにみだらではないからね)
とパルスィは思いながら、腰をひねり、所在ない四肢を悩ましげにくねらせながらポーズを作った。
「……うっふん」
セクシーなポーズにつきものであるがゆえに、かえってセクシーとかけはなれてしまっているたぐいの言葉を発してしまいながら、パルスィはそれを鏡の中にいるパルスィの責任にした。行き過ぎなくらい酔っぱらっているのは鏡の中の私、はめを外しているのも鏡の中の私、こんなに綺麗でセクシーなのも鏡の中の私、といったふうに。
自分と鏡の中の自分だけならそういう欺瞞も成立していただろうが、パルスィが見つめる鏡の中には、それとは違う白い人影が立ちつくしていた。
「ぁ……」
照れと羞恥に動かされて、パルスィの転回は早かった。
「あぁ、起きたの? ごめんなさい。そこまでうるさくした気はないのだけれど……」
と弁解しかける言葉も即座に失われるほど、思考の展開も早い。
寝間着の白いベビードール姿の雛は、明らかに正気で目覚めてはいなかった。すっくと立ってはいるがその立ち姿は人形のようで、瞳の様子はどこを見ているとも知れず、半開きの唇はパルスィの痴態を咎めてはいなかった。
雛の髪は妬ましいほどにまっすぐな長髪だったが、先端の方だけは普段リボンでくくられているので、多少クセがついている。その髪の毛先は、雛の体がすべるように寝室から出ていくのに、わずかに遅れながらついていった。
パルスィはふらふら追いかけた。酔いが醒めるどころか、より深みに落ちていくようだった。
不思議なことに、雛は普段使いしている表の部屋の方には足を向けなかった。むしろ屋内の奥の方、あの雛人形などを安置している開かずの間の方へと、廊下を歩んでいく。
(やはりあのへやになにかあるのかしら)と酔いの回った頭でパルスィは考えたが、どうやらそうではないらしい。この家にはさらに奥があった。長い廊下を行きすぎると、雛の影が暗闇の中で一段下がった。パルスィもふらつきながら気をつけてついていくと、はだしの足の裏が土間のようなひんやりした感触をおぼえた。どうやら勝手口のような場所のガラス戸をカタカタいわせながら、雛の手がそれを開けた。パルスィにしてみればぎくりとするほどの音。
勝手口のようなところを出た、とパルスィは感じているが、家の内外など区別がつかないほどの真っ暗闇だった。地底の洞窟生活が長く、夜目はかなり効くほうだとそこだけは自負を持っていたパルスィだが、ここには夜光虫や燐光石の明るさすらない。歩くうちに脛のあたりを下草がくすぐってきたので、たぶん屋外だろうというのが察せられただけで、すぐにそれが否定されて顔中血だらけになっても、そういうものだろうと思ってしまった。
きっかけは蝙蝠だった――というより、パルスィは最初、蝙蝠だろう、と思った。歩き進むうちに額のあたりをちらりちらりとかすってきたからだ。
(鬱陶しいわね、この――)と思ううちに、目から火が出た。蝙蝠だと思ったのは朽ちかけて潰れかけの建物の梁で、パルスィはこの、頭上すれすれの横木の下を、知らずのうちにくぐって歩いていたのだ。
どれだけ気を失っていたかはわからない。「ぃたぁい……」と寝言のように言葉を漏らしたが、体を起こそうという気力を取り戻す事もできず、野垂れ死にを受け入れるように、下着一枚でごろごろと腐った畳の上を転がっていた。
雛はいなくなっている。夢遊病に導かれて、先に進んでしまったのだろうか、戻ってくるのだろうか、そもそも夢遊病の経路が同じ道を往復するものだとも限らない、むしろ雛は環のようにこの辺り一帯を巡って寝床に戻り、ここでくたばっているパルスィにつまずく事すらないのではないか。
この廃屋はなんなのだろうか。呪われた場所なのだろうか。気にはなるが、なんだっていい。どこにでもありうるし特別なものでもない。
暗がりなりにものが見えてきたような気がしているが、出血で目がかすんでいるはずなので、きっと気のせいだろう。あおむけに寝転がっていると、白い布きれが頭上の梁にいくつもぶら下がっていて、ひらひらはためいているのが見えるのだが、これもたぶん幻視らしく、布きれはこみ上げてくる吐き気次第で、白蛇の死骸にも女の皮膚にもなる。
(夜明けまで待とう)と、パルスィは少し冷静になってみて考えた。(たぶん死ぬような怪我ではないし、酔いも醒めればもう少しましになるだろうから)
ただ、妙な事に、目を閉じるのができない。閉じてしまうと見てはいけないものを見てしまいそうで。
白い布きれの幻視すらも血にかすんできて、いよいよ視力があやしくなってきた頃、夜が白んで、それによって廃屋の屋根がぶち抜かれているのがわかった。建物が潰れかけで、木の梁が額にぶつかるほどに落ちてきているのを認めて、パルスィ自身が事故の原因を知ったのも、この時だ。しかし前々からわかっていたような気がする。怪我をする前から怪我の原因を了解していたような気さえする。こんな危険な暗闇を、雛はどうして無事に通り抜けたのだろう……ひょっとすると、この場所の事じたいは以前から知っていて、その時の微妙な記憶によって危ない場所を避ける事ができたのかもしれない。
音が騒がしくなってきた。最初はまわりにもある腐った畳を踏みしめるような、ずくずくした足音が聞こえるくらいだったのが、いつの間にか雑踏かというほどの人数になり、気味の悪い祭囃子までごうごうと聞こえるようになってしまった。そうして足音の塊に踏みにじられ、蹴とばされ、体の上で飛び跳ねる音に潰されんばかりになって、さすがに我慢がきかなくなって、パルスィの体は発作のようにびくんと跳ねた。はたとすべての音がやんで、暗闇が戻った。
夜が白み始めた事自体が、なにかの幻視か悪夢だったらしい。まだ夜は明けていない。
身を跳ねさせたはずみで、うつぶせ寝になっている。腐った畳はもうほとんど土に還りかけていて、すがるものとしては頼りない。しかしやみくもにあがく気力も失せていた。
ただ自分の青白い手だけがぼんやり見えて、その指が指し示す数センチ先に足があった。まるで観音立像のようで、口づけしたくなるくらい美しい足には、緑の珠のようなペディキュアが塗られている。
雛はいつからそこに立ちつくしていたのだろう。事によると、パルスィが事故に遭ってから、ずっとそこにいたのかもしれない。そもそも頭を打ってから、どうやら時間の感覚すらめちゃくちゃなのだ。数秒間の出来事だって百年の出来事になりえる。
そのとき、身を横たえているパルスィの横を、雛の足が通過していった。夢遊病は継続していて、家の方に戻るつもりらしい。それを阻止するつもりもないが、置いてけぼりにされるのは寂しい。パルスィは身をよじって寝返りを打ち、ふらふら歩いていく雛にほんのわずかな進路の変更を強いた。
なにか重い音がして、気がつけば雛も梁に額を打ちつけてしまい、パルスィに折り重なるようにぶっ倒れていた。
「あえ ぬひあう こあ」
雛が廃屋の中で正気に戻った時、パルスィは顔を血まみれにして、意味不明な、言葉というよりは発声としか言いようのないことを語りかけてきた。
(なに言ってるかわかんないわ)
と雛は額のこぶをさする――パルスィよりは出血もひどくなく、まだしもましな衝撃だったようだが、それでも頭がずっと揺れている。「だいじょうぶ?」といった事を尋ねようとした時に、ろれつが回らなくて「あえ いう」と発音しかできない自分を自覚して、具合の悪さは大差ないのかもしれないと思わされた。
そんな状態なので(帰りましょう)と考えるだけにとどめようとしたのに、口は勝手に「あえ おうたぃ」と音を吐いている。もはや考えを出力しているかもあやしい。
パルスィの体(どうしてこの子は下着一枚なのだろう、とベビードール姿で大差ない格好を泥だらけにしている雛は思った)を揺すると、意識が現在のみにあるのかどうかは疑問だが、わかっているというような反応はしてくれる。手足も動くようだった。
お互いに支え合って上体を起こした時、頭を動かした影響からか、視界がぐらぐらとゆらめく。するとパルスィが雛の指先を探り、なにか存在を確かめるかのように手を握ってきた。
雛は(なにが見えているのだろう)と自然に思った。今はなにが見えていてもおかしくないのだ。雛だって、廃屋の奥から視線を感じている。頭だけで小屋一軒くらいの大きさがある人形の視線だろうと、わかってもいないのに確信している。
一方で、パルスィは頭の中でがんがんと響く足音が、廃屋を取り囲むように歩き回っている気がして、建物の奥に逃げ込もうとした。しかし雛がそれを引き留める。意見と感覚の相違から一瞬もみ合いになりかけたが、絡ませあった指がそれを不可能にさせていた。
諦めたように二人で廃屋から這い出すと、雛の棲み処は案外近かった。廃屋は、その裏手にある離れ程度の距離感だった。それにしても異様だったのは、雛の棲み処の裏手、その屋根の軒下には、雨ざらしになって古ぼけた雛人形が、無数に並べられていた事だ。
捨てられた雛人形の壁をくぐるように、雛とパルスィは勝手口のガラス戸をくぐる。どちらが閉めたわけでもないのに、戸はものすごい勢いで閉まった。しかし二人はそんなことには気にも留めず、ほこりっぽい廊下を這いながら浴室にたどり着いた。
エキゾチックなタイルや、ぴかぴかに磨き上げられた銅のバスタブに、不随意的な吐き気を催させられたが、不思議と幻覚のきっかけにはならなかった。すがりつくようにバスタブに湯を張り始めると、雛とパルスィはタイル張りの床の上に寝転がり、涙を流しながらなにかが満たされるのを待ち続けて、そのまま気を失った。
やがて水がバスタブからあふれて、タイル張りの床や少女たちを濡らし、血や穢れをともなって排水口に流れ込んでいく。
雛の話の切り出し方はいつもこんな調子で、脈絡がない。(急にそんな事を言い始めるあんたが夢みたいだわ)とパルスィは思ったが、
「へえ、なんかあったの?」
と話を促しながら、出してもらった水出しの紅茶に口をつける。この家の水は、どれだけ紅茶やコーヒーでごまかそうとしても金属臭さがにおってくるが、この方法が一番ひどい事をパルスィは発見した。赤さび色のうつった水を飲んでいる気分だった。
「なにがあったのかわかんないからこわいのよ」
雛は口先をとんがらせて、手元の紅茶グラスをじっと見つめながら言った。
「別に、意識や記憶がないのはしょうがないと思うわ。お酒を飲んでいても、たまにそういう事はあるし……あ、今あぶなっかしいと思ったでしょ」
「気をつけなさいよねそういうの」
たしかに夢遊病じゃなくてもあぶなっかしい。
「外で飲む時は気をつけてる」
そこでいったん、話が終わってしまったように雛は沈黙した。話の続きはあるのか、ないのか。パルスィは待つしかない。その間も雛は夢の中のようにぼんやりしている。たしかにこれは危なっかしいとパルスィは思った。
待とうと思って席を立ち、そのあたりから雑誌をひとつ取ってきて、席に戻る。本のたぐいは乱雑に、床や棚、電気蓄音機の横などに平積みされていて、廊下の足元にはさびれた古書市のように段ボール箱が並んでいる。室内に本棚がないわけではないが、そこはろくにつかわれておらず、抜けが目立ち、周囲の床には埃が積もっている――お世辞にも掃除が行き届いている家ではなかった。ただ雛の行動範囲だけ、応接に使っている部屋のテーブル周りやキッチン、寝室などを繋いだルートの埃だけがのけられていて、それが通り道のようになっている。
パルスィが手に取った雑誌は、もう十何年も前のものだ。雛は多読家ではない。むずかしい本もあまり読まない。雑誌のジャンルは、ファッション、音楽、少女漫画、時々は文芸。どれも中古品。単行本は小説、漫画、詩集がもっぱら。他に古い源氏の青本、黄表紙や読本といったたぐいも、外に十把一絡げにして括られて置かれ、朽ち果てかけているのを見かけた事がある。そんな数少ない蔵書を、幾度も繰り返し読むのを癖としているようで、手にした雑誌もすり切れるくらいに読まれていた。
「まったくなにもわかっていないわけじゃないわ」
唐突に雛が話の続きを持ってきた。
「起きた後で、なにか取り返しのつかない事をやってしまった、という気持ちは残っているのよね……なんというか、翌朝に慌てて起き上がって、下の方が穢されていないのを確認するまでの焦りというか、その――」
パルスィは眉をひそめつつ、しどろもどろなその様子をあやしんだ。
「言いたい事はわかるけど、なにがあったのよ……」
「なにかはあったのよ、なにかは」
ぶつぶつ言いながら、雛は立ち上がる。その立ち上がり方こそ夢遊病のようで、パルスィはぎくりとした。
「それがあった時って、必ず夢を見ていたし……外に出て、どこかものすごく暗いトンネルを歩いている夢……はっきり覚えてる。まるで夢遊病のほんとうを見ているような夢。でもたぶん、現実に見たのとは違うのよ。でも違わないかもしれないし……わからない」
「要領を得ないわ」
と鼻を鳴らしながら、パルスィは雛のふらふらとした歩みが、電気蓄音機の棚に向かうのを見た。そばに小物入れの函が置かれている。
雛は無言でその小函を持ちだし、テーブルの上に置いた。パルスィに開けるのをうながす。
おそるおそる、というほどでもないが、無造作に開けるのははばかられた。開ける前からあきらかに不吉のにおいがしていた。
それでも結局は開け放ってしまわなければならないもので、パルスィは函の中のものを見た。脱脂綿が敷かれていて、その上に干からびてねじくれたような、錆びた針金細工が置かれていた。線を一度二度と折りたたんで芯にして、その周りにまたぐるぐると巻きつけている。造形があまりに劣化しているのでよくわからないのだが、人形と見えないこともない。
「その人形。私が夢遊病の時に持ち帰ったものよ」
雛が言った。
「現実に持ち帰ったのか、夢から持ち帰ってきたのかもわかんないけどね」
雛の夢遊病を見届けるために、パルスィはそのまま長逗留している。寝ずの番をして雛の寝姿を眺めて病態を待ち続けているので、パルスィは――地底に暮らしているおかげで、もともと曖昧なバイオリズムだったものの――日中に眠るしかない。生活リズムはみるまに逆転した。
夜中は雛の寝室の化粧台に本を積み、その横に置いた椅子の上で夜を越した。初夜に手にした短編集には、皮肉にも不眠症の話が収録されていた……あまりにひどい不眠症に発作的に頭を撃ち抜いてしまったが、死んでもなお、いまいましい不眠症は続いている、といった内容。
ベッドの上の雛は人形のように寝相が良かったが、二日目の丑三つあたりに突然、すさまじく体をくねらせて自身の天地をひっくり返した。パルスィは(お出ましになったのかしら)と本を脇に置いて身構えたが、ただの寝返りだったらしい。寝間着にしているベビードールの裾がふんわりとまくれ、だらしなく白いふとももがベッドからこぼれていた。
「普段は寝相が良い方だと思うんだけど、たまにとんでもない事になるのよね」
朝、化粧台の前で長い髪を梳かしながら、雛がそう言った。
「そうらしいわね……」
パルスィはあくびまじりにベッドにもぐりこんで、寝る者と起きる者が逆転する。心配していたような不眠症にはならなかった。窓の外の樹海が昼間でも薄暗く、静かだったのもあるだろう。
パルスィが目覚めるのは昼過ぎごろだ。眠りが浅かったわけではなく、悪い寝心地でもなかったのだが、湿気のせいかなんなのか、寝汗だけはすごい。
「汗流してきなさいよ」
雛にそう言われて、ありがたく風呂を使わせてもらう。風呂場は西洋風――というより西洋の娼館風。エキゾチックな、アンダルスのイスラム朝風タイルが張られた浴室の中には、シャワーと銅のバスタブがあって、これは水垢汚れのくすみがひどいものだった。三日目の昼下がり、気まぐれに発奮したパルスィが磨き粉とボロ雑巾で徹底的に磨きを入れて、ぴかぴかに輝かんばかりにしてしまった。
パルスィにしてみれば突発的な寝泊まりの始まりだったので、下着などは雛に借りた。しかし雛の持っている下着ときたら、ことごとくが、薄い皮膚のような透ける布地だったり、鉄ペンの細い線の濃淡のみで描画されたようなレースだったり、誰かに見られる事を期待しているようなきわどいフレンチショーツばかりだった。
これにはパルスィも閉口させられた。
「あのさ、あんたこういうのがシュミなわけ?」
「そうだけど?」
つんと澄ましたわけでも照れくさそうな様子でもなく、雛はあっさり言い返す。
「……妬ましいわ」
なんらかの決め台詞のようにパルスィはぼやいた。
そうした事が過ぎた、幾度目かの夜だ。
雛はもう寝てしまっている。寝息は細く長く、ちょっとやそっとで起きる気遣いはない。
「それにしても、いっこうに夢遊病が再発する気配がないわ」
と雛が言ったのは、数時間ほど前。夕食を終えた後で、寝る前のたわむれに、雛の足指にペディキュアを塗りぬりしながらだった。
「迷惑かけてごめんなさいね」
「まあ、それなりに楽しませてもらっているから」
なんだか皮肉めいてしまったが、パルスィは家主に「迷惑かけてごめんなさいね」と言われて「いいってことよぉ」とさわやかに答えられるような気質でもない。せいぜいぶつくさぼやきながら、勝手に使わせてもらっていた。
しかし、夢遊病が再現できないのはなぜか、という疑問は今からでも検討してよかった。
「一番の原因は、きっと私がいるという事だと思うわ」と、相手の五本の指の四つの股に挟まれていたセパレーターを外しながら、パルスィは言った。
「睡眠の質が変わった」
雛はあっけらかんとパルスィの説を受け入れる。
「それはあるかもね。というか最有力だわ、その説」
「だとすると、私がここにいる限り、いつまで経っても何も起こらない可能性がある」
パルスィはくりくりした緑目をいっそう大きく見開いて、おどけたようにぱちくりさせながら肩をすくめた。
「意味が無いわ」
それから、エメラルドグリーンに塗り固めた、足先の五つの連なった珠を細かく磨き始めた。雛の足は、あんなブーツを履いている割には土踏まずの縦横のアーチ構造もしっかりとしていて、爪の形も綺麗だ。偏平足で血色も悪い自分の足指を見ていると、妬ましいくらいに。
「いえ、意味はあるのよ」雛がおしとやかに言った。「あなたがいてくれる限り、私がそういうこわい目に遭わないですむ」
「ずっとここにいろって事?」
さすがにそれは冗談だったろうけれど、とパルスィはほろ酔いの頭で考える――風呂上がりの頭に巻いたターバンが重いのもあった。体には白いバスローブを羽織っている。
そんな処刑前のベアトリーチェ・チェンチよろしくの格好をして、夜長のお供に飲んでいるものは、蒸留酒の炭酸水割り。このカクテルは、ツーフィンガーばかりの酒にひと匙ほど水飴を溶いて甘みを加え、それを粗く揉み潰したミント(家の周囲に自生している)で風味付けして完成。蒸留酒は近所で河童がカフェ式蒸留器を使って作っているもの、炭酸水は近場の炭酸泉から採取したものだという。
思えば、水橋パルスィと鍵山雛との出会いもそういう炭酸泉的なもので、そのかたちが逆だったにすぎない。地下から地上に噴出するものがあるのなら、関係をさかしまにして、地上から地下へと噴き出すものがあっていいというだけの話だ。
(なんだったっけ、あのときは「そういえば私が取りこぼした厄って、このままどこに流れていくのかしら」と川に飛び込んで、そのまま地底に吸い込まれて流れてきたんだっけ?)
自分たちの出会いを思い出すにつれて、あいつ、そもそもが夢みたいな行動をやらかす女だったわね、とパルスィは鍵山雛を再定義する。
(ウサギ穴に飛び込むアリスだって、もうちょっとは気をつけていたわ)
そうしたなれそめを思い出しながら、次にふと連想したのは、ハムレットのオフィーリアや源氏物語の浮舟といった、物語で入水する女たちだった。鍵山雛には、これら悲劇的女性たちの深刻さはかけらもないが、それでも物事の究極に立ち会って入水しかねない女たちに連なる一面が、どことなく感じられた。にもかかわらず、雛自身に対しては、悲劇の深刻さはつるつるとその体表を上滑りしてしまっている。そうした悲劇を受け継ぎつつ、よくないものを濾しとっているらしかった。厄神とはそういうものなのかもしれない。
なにかを受け継ぎつつよくないものを濾過するという性質が、厄神様としての鍵山雛の性ならば、今回の夢遊病の件だって、案外その可能性はある。誰かの夢遊病や悪夢、不眠症へのおそれをも、彼女は知らず知らず受け止めてしまった……しかし、それで彼女の身に悲劇が見舞うのかというと、それは起こらないのだろう。
酔っぱらいの観念連想はなんの根拠も持たないものだったが、なんだか問題の核心に迫っている気がした。
「なんなのかしらねこの人形」
食事を終えて、雛が寝る前に、酒を入れながら少しだけそうした議論をした。二人で向かい合った間のテーブルに乗っているのは、先日雛が夢遊病の果てに手に入れたと思しき、ねじれくた金属だ。
「そもそも人形ではないのかも」
「点が三つあれば顔と認識するように、細ひょろくて手足がついているようだと人形に見えるのかもね」
「頭・手・足・足・手」
錆びた針金のそれぞれの端を示しながら、パルスィは言った。
「点三つだけの顔よりかは、少なくとも人形らしい」
「それもそうだし、人をかたどるつもりがなくても、私たちが人形と認知した時点でそれはもう人形なのかも」
「とすると咒物だわ」
「お、さすが咒いの専門家ね」
「専門家じゃなかろうが思い及ぶわこんなの」
パルスィはじっと考える。
「……なにかこう、人形というモノやコトにかんして、思い当たるところは?」
「たーくさん」
雛はお手上げというふうに言った。
「私だってそういう咒物の専門家ではあるわ。人が人形にかこつけてきた念とか咒いといったものを、譲り受けたり、拾ったり……この家にだって、そういう雛人形をいくつか安置している、開かずの間ができちゃったくらい」
「……そんなものあったの?」
今までも何度か遊び泊った事がある雛の棲み処だったが、パルスィは知らなかった。なにせこの家、最低限の生活圏以外の部屋は無いもののようにして扱っていても、まるで困らないような家だったからだ。
「ま、あまり見ていて楽しいものでもないから。本当に用事がある時にしか私も開かないのよね」
だが、酔うた二人は(多少畑違いの分野ではあるにせよ)人形という咒物の専門家だったので、そのまま人形を安置している部屋を見学に行った。
「後学のためよ」
開かずの間とは言ったが、建物の奥まったところにあり、廊下にまで埃が積もっているだけで、別に鍵もつけていない、普通の部屋だった。
(建材がかわいそうね)
というのが、戸を開けて、かびくさい室内を見たパルスィの、偽らざる感想だった。もちろん人形そのものだってそうだろうが、この部屋の建材だって、咒わしい人形屋敷の一角のいち構成要素になどなりたくなかっただろうし、そうではない無垢の木材の時だってあったにちがいない。
雛の業態に沿ったかたちで、人形のバリエーションはさほど多くなかった。だいたいが雛人形をはじめとした節句人形で、他にあるものも、日本人形のバリエーションから外れていない。
「……少なくともあんな針金人形は置いてなさそうね」
と言いながら、上方風の段々を一段一段、目で点検するように見ていく。
「あまり面白いものじゃないかも」
「……いえ、興味深いわ。また酔っぱらっていない時に、ちゃんと見せてちょうだい」
そう、今夜のパルスィは、ちょっと酔っぱらいすぎていた。自覚もあった。なにかぼんやりした熱を帯びた夜だった。小説を読んでも身に入らない。強い蒸留酒を炭酸水で割りながらちびちび飲んで、それを切らしたらデカンタに手を伸ばして、そういう行動をひたすら繰り返すようになった。
気がつけば、炭酸水や水飴やミントなんかでアルコールの強さを誤魔化そうともせず、生のまま飲んでいる。
パルスィがちらとベッドの上の雛を見やったのは、いつの間にか頭の上のターバンが崩れて、ローブの胸元がはだけてしまっていたからだった。はしたない格好が知り合いに見られやしないかと、さすがに恥ずかしかったのだ。
しかし雛は相変わらず人形のように姿勢よく、小さい寝息を立てている。今夜はものすごい寝返りすら起こしそうな気配がない。
部屋の隅に姿見があった。普段は、雛が髪結んだ後の立ち姿を――特に、胸元から肩にかけての、髪の房、レースのリボン、大振りなフリルカラー、ブラウス、乳房といった多層的なバランスなどを――チェックするためにもっぱら使われている。
パルスィは、わずかに酒が残る杯片手に、気まぐれに立ち上がった。ゆるくなったバスローブが肩からするすると崩れていって、指先を抜けていく。杯の底の酒を一口に呷った時も、頭がぐらぐら揺れて、巻いていた風呂上がりのターバンも完全に解けて落ちた。
この日の雛が貸してくれた下着は、黒レースのボディスーツだった。「レーストリムの主張強めのかわいい系だから、意外とエロくないのよ」と言いながら、そのシルク地の肌着を渡してくれたので、パルスィは(一応エロ下着を貸しているという自覚はあったのね)と内心でツっこみながら、ありがたく貸してもらった。下着はチェストからボトムまでぴっちりとボディラインをおさえているのだが、レース飾りの隙間が多いため、表面積は大きいのに黒の重さを感じさせず、軽やかだ。
自分自身にうっとりするという事がめったにないパルスィだったが、鏡に映る自分の下着姿を見て、
(あんたさァ、なに気取ってんのよ)
と鏡の中のパルスィ自身をからかった。動作が誇張されて、化粧台に酒杯を置く仕草さえ、なんだかあざとくなってしまった。でもそれは、鏡の中のパルスィがあざといだけだ。
(だって私はこんなにみだらではないからね)
とパルスィは思いながら、腰をひねり、所在ない四肢を悩ましげにくねらせながらポーズを作った。
「……うっふん」
セクシーなポーズにつきものであるがゆえに、かえってセクシーとかけはなれてしまっているたぐいの言葉を発してしまいながら、パルスィはそれを鏡の中にいるパルスィの責任にした。行き過ぎなくらい酔っぱらっているのは鏡の中の私、はめを外しているのも鏡の中の私、こんなに綺麗でセクシーなのも鏡の中の私、といったふうに。
自分と鏡の中の自分だけならそういう欺瞞も成立していただろうが、パルスィが見つめる鏡の中には、それとは違う白い人影が立ちつくしていた。
「ぁ……」
照れと羞恥に動かされて、パルスィの転回は早かった。
「あぁ、起きたの? ごめんなさい。そこまでうるさくした気はないのだけれど……」
と弁解しかける言葉も即座に失われるほど、思考の展開も早い。
寝間着の白いベビードール姿の雛は、明らかに正気で目覚めてはいなかった。すっくと立ってはいるがその立ち姿は人形のようで、瞳の様子はどこを見ているとも知れず、半開きの唇はパルスィの痴態を咎めてはいなかった。
雛の髪は妬ましいほどにまっすぐな長髪だったが、先端の方だけは普段リボンでくくられているので、多少クセがついている。その髪の毛先は、雛の体がすべるように寝室から出ていくのに、わずかに遅れながらついていった。
パルスィはふらふら追いかけた。酔いが醒めるどころか、より深みに落ちていくようだった。
不思議なことに、雛は普段使いしている表の部屋の方には足を向けなかった。むしろ屋内の奥の方、あの雛人形などを安置している開かずの間の方へと、廊下を歩んでいく。
(やはりあのへやになにかあるのかしら)と酔いの回った頭でパルスィは考えたが、どうやらそうではないらしい。この家にはさらに奥があった。長い廊下を行きすぎると、雛の影が暗闇の中で一段下がった。パルスィもふらつきながら気をつけてついていくと、はだしの足の裏が土間のようなひんやりした感触をおぼえた。どうやら勝手口のような場所のガラス戸をカタカタいわせながら、雛の手がそれを開けた。パルスィにしてみればぎくりとするほどの音。
勝手口のようなところを出た、とパルスィは感じているが、家の内外など区別がつかないほどの真っ暗闇だった。地底の洞窟生活が長く、夜目はかなり効くほうだとそこだけは自負を持っていたパルスィだが、ここには夜光虫や燐光石の明るさすらない。歩くうちに脛のあたりを下草がくすぐってきたので、たぶん屋外だろうというのが察せられただけで、すぐにそれが否定されて顔中血だらけになっても、そういうものだろうと思ってしまった。
きっかけは蝙蝠だった――というより、パルスィは最初、蝙蝠だろう、と思った。歩き進むうちに額のあたりをちらりちらりとかすってきたからだ。
(鬱陶しいわね、この――)と思ううちに、目から火が出た。蝙蝠だと思ったのは朽ちかけて潰れかけの建物の梁で、パルスィはこの、頭上すれすれの横木の下を、知らずのうちにくぐって歩いていたのだ。
どれだけ気を失っていたかはわからない。「ぃたぁい……」と寝言のように言葉を漏らしたが、体を起こそうという気力を取り戻す事もできず、野垂れ死にを受け入れるように、下着一枚でごろごろと腐った畳の上を転がっていた。
雛はいなくなっている。夢遊病に導かれて、先に進んでしまったのだろうか、戻ってくるのだろうか、そもそも夢遊病の経路が同じ道を往復するものだとも限らない、むしろ雛は環のようにこの辺り一帯を巡って寝床に戻り、ここでくたばっているパルスィにつまずく事すらないのではないか。
この廃屋はなんなのだろうか。呪われた場所なのだろうか。気にはなるが、なんだっていい。どこにでもありうるし特別なものでもない。
暗がりなりにものが見えてきたような気がしているが、出血で目がかすんでいるはずなので、きっと気のせいだろう。あおむけに寝転がっていると、白い布きれが頭上の梁にいくつもぶら下がっていて、ひらひらはためいているのが見えるのだが、これもたぶん幻視らしく、布きれはこみ上げてくる吐き気次第で、白蛇の死骸にも女の皮膚にもなる。
(夜明けまで待とう)と、パルスィは少し冷静になってみて考えた。(たぶん死ぬような怪我ではないし、酔いも醒めればもう少しましになるだろうから)
ただ、妙な事に、目を閉じるのができない。閉じてしまうと見てはいけないものを見てしまいそうで。
白い布きれの幻視すらも血にかすんできて、いよいよ視力があやしくなってきた頃、夜が白んで、それによって廃屋の屋根がぶち抜かれているのがわかった。建物が潰れかけで、木の梁が額にぶつかるほどに落ちてきているのを認めて、パルスィ自身が事故の原因を知ったのも、この時だ。しかし前々からわかっていたような気がする。怪我をする前から怪我の原因を了解していたような気さえする。こんな危険な暗闇を、雛はどうして無事に通り抜けたのだろう……ひょっとすると、この場所の事じたいは以前から知っていて、その時の微妙な記憶によって危ない場所を避ける事ができたのかもしれない。
音が騒がしくなってきた。最初はまわりにもある腐った畳を踏みしめるような、ずくずくした足音が聞こえるくらいだったのが、いつの間にか雑踏かというほどの人数になり、気味の悪い祭囃子までごうごうと聞こえるようになってしまった。そうして足音の塊に踏みにじられ、蹴とばされ、体の上で飛び跳ねる音に潰されんばかりになって、さすがに我慢がきかなくなって、パルスィの体は発作のようにびくんと跳ねた。はたとすべての音がやんで、暗闇が戻った。
夜が白み始めた事自体が、なにかの幻視か悪夢だったらしい。まだ夜は明けていない。
身を跳ねさせたはずみで、うつぶせ寝になっている。腐った畳はもうほとんど土に還りかけていて、すがるものとしては頼りない。しかしやみくもにあがく気力も失せていた。
ただ自分の青白い手だけがぼんやり見えて、その指が指し示す数センチ先に足があった。まるで観音立像のようで、口づけしたくなるくらい美しい足には、緑の珠のようなペディキュアが塗られている。
雛はいつからそこに立ちつくしていたのだろう。事によると、パルスィが事故に遭ってから、ずっとそこにいたのかもしれない。そもそも頭を打ってから、どうやら時間の感覚すらめちゃくちゃなのだ。数秒間の出来事だって百年の出来事になりえる。
そのとき、身を横たえているパルスィの横を、雛の足が通過していった。夢遊病は継続していて、家の方に戻るつもりらしい。それを阻止するつもりもないが、置いてけぼりにされるのは寂しい。パルスィは身をよじって寝返りを打ち、ふらふら歩いていく雛にほんのわずかな進路の変更を強いた。
なにか重い音がして、気がつけば雛も梁に額を打ちつけてしまい、パルスィに折り重なるようにぶっ倒れていた。
「あえ ぬひあう こあ」
雛が廃屋の中で正気に戻った時、パルスィは顔を血まみれにして、意味不明な、言葉というよりは発声としか言いようのないことを語りかけてきた。
(なに言ってるかわかんないわ)
と雛は額のこぶをさする――パルスィよりは出血もひどくなく、まだしもましな衝撃だったようだが、それでも頭がずっと揺れている。「だいじょうぶ?」といった事を尋ねようとした時に、ろれつが回らなくて「あえ いう」と発音しかできない自分を自覚して、具合の悪さは大差ないのかもしれないと思わされた。
そんな状態なので(帰りましょう)と考えるだけにとどめようとしたのに、口は勝手に「あえ おうたぃ」と音を吐いている。もはや考えを出力しているかもあやしい。
パルスィの体(どうしてこの子は下着一枚なのだろう、とベビードール姿で大差ない格好を泥だらけにしている雛は思った)を揺すると、意識が現在のみにあるのかどうかは疑問だが、わかっているというような反応はしてくれる。手足も動くようだった。
お互いに支え合って上体を起こした時、頭を動かした影響からか、視界がぐらぐらとゆらめく。するとパルスィが雛の指先を探り、なにか存在を確かめるかのように手を握ってきた。
雛は(なにが見えているのだろう)と自然に思った。今はなにが見えていてもおかしくないのだ。雛だって、廃屋の奥から視線を感じている。頭だけで小屋一軒くらいの大きさがある人形の視線だろうと、わかってもいないのに確信している。
一方で、パルスィは頭の中でがんがんと響く足音が、廃屋を取り囲むように歩き回っている気がして、建物の奥に逃げ込もうとした。しかし雛がそれを引き留める。意見と感覚の相違から一瞬もみ合いになりかけたが、絡ませあった指がそれを不可能にさせていた。
諦めたように二人で廃屋から這い出すと、雛の棲み処は案外近かった。廃屋は、その裏手にある離れ程度の距離感だった。それにしても異様だったのは、雛の棲み処の裏手、その屋根の軒下には、雨ざらしになって古ぼけた雛人形が、無数に並べられていた事だ。
捨てられた雛人形の壁をくぐるように、雛とパルスィは勝手口のガラス戸をくぐる。どちらが閉めたわけでもないのに、戸はものすごい勢いで閉まった。しかし二人はそんなことには気にも留めず、ほこりっぽい廊下を這いながら浴室にたどり着いた。
エキゾチックなタイルや、ぴかぴかに磨き上げられた銅のバスタブに、不随意的な吐き気を催させられたが、不思議と幻覚のきっかけにはならなかった。すがりつくようにバスタブに湯を張り始めると、雛とパルスィはタイル張りの床の上に寝転がり、涙を流しながらなにかが満たされるのを待ち続けて、そのまま気を失った。
やがて水がバスタブからあふれて、タイル張りの床や少女たちを濡らし、血や穢れをともなって排水口に流れ込んでいく。
ふわふわと捉えどころのないまま歩いていく二人にホラーを感じました
服装への描写がやたら詳細なところもさすがだと思いました