Coolier - 新生・東方創想話

2025/08/10 20:27:47
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 目を開けると、そこは濁った暗闇の中で、深海の底に空いた黒々とした洞穴を思わせた。
 視界の一切を闇に奪われているので周囲の状況は定かではないが、大気の動きが停止したような、森閑とした空気からして、時刻は恐らく深夜なのだろう。
 私の身は何処までも深い闇の中にあった。靴下を履いた足の裏から感じる湿気た畳の感触、古い木造家具の匂い、そして実家や自分の家ではない鼻につく生活臭が不明慮な闇の中から気配だけを漂わせている。
それにしても、此処は何処なのか。
 廃屋にしては、人の気配が余りに濃すぎる。しかし、人の気配は微塵も無い。
現在家主は不在なのだろうか。もしくは、一寸先も見えない闇の向こう側で、静かに私の動向を備に観察しているのだろうか。
 私は不意に、濁った暗闇の向こう側に、爛々と目を開けた「家主」がこちらをジッと眺めている姿を想像して、思わず肌が泡立った。
 行動を起こそうにも、まず状況が分からない。周囲は見渡す限りの闇の中で微かな光すらなく、静謐な翳ばかりが永遠に広がっている。まるでぴったりと、正確に隙間なく閉じられた箱のようだ。
そうして、自分の息遣いと鼓動だけがやけに響く部屋に立ち尽くしてから、いったいどれほど時間が経過しただろうか。
 暗闇に目が慣れてきたのか、部屋の内部が仄かに見えてきた。
 この部屋には、どうやら私しか居ないらしい。
 窓や扉はどこにも無く、光源の頼りになりそうな物は一切ない。前方に見える壁には小さな箪笥のような輪郭が見えた、右側の壁には何もなく、左側の壁際には三つ折りの敷布団、掛け布団、枕が畳まれて置いてある。ぐるりと後ろを見てみると小さなテレビがテレビ台の上に置かれていて、部屋の中央には丸い卓袱台が置かれていた。そこは宛ら、科学世紀以前の時代を舞台にした作品に登場する部屋の一室のようだ。
 部屋を見渡すと、私は何処からか視線を感じた。
 誰かが居る。
 慌てて身を翻し、視線を感じた方を見やる。胸は痛いほど強く打ち、顔の横に垂れた髪が揺れて冷や汗が頬を伝う。
 視線を感じた先にあったのは、部屋の真ん中辺りにある卓袱台で、その上には何かが置かれていた。どうやら私の感じている視線は、その辺りから注がれて来るらしかった。
 机に置かれていたそれは、上手く闇と同化して全貌が捉え切れないが、左程大きな物ではなさそうに見える。
 気が付くと、私の足はそれに向かっていた。
 卓袱台の上にあるそれとの距離が詰まるに連れて、胸から嫌悪感が込み上げ、脳がひきつるような頭痛が起こり、思わず顔を顰めた。
 呼吸をしようにも部屋の空気がやけに重く、口を開くも空気がなかなか肺に廻って来ない。濁った暗闇が水のように肺に詰まり、酸素を阻害しているようだ。痛みは一向に引く気配はなく、足は沼地を歩いているかのように重たい。数歩しか歩いていないが、堪え切れずに座り込んでしまった。
 胃が痙攣して嘔吐物がこみ上げる。視界は徐々に砂嵐で埋め尽くされ、脂汗が頬を這って畳に滑り落ちていく。
 気が付けば、私は卓袱台の前にいた。
 その上に置かれていたのは、白い布で包まれた一斗缶ほどの四角い箱であった。
 私は何故か、その箱に嫌悪感を覚えていた。しかし、自分の中で渦巻く感情とは裏腹に、それから目を離すことは出来ない。
 いや、視線を逸らしたくなかったのだ。
 箱と対峙してから少しすると、布の一部が解れていた。
 解れた布の間から、ぬらぬらと艶やかなものが蠢いているのが見えた。
 それが人の眼孔であることに気付くまで、大して時間は掛からなかった。

     〇

 私は顔を顰めながら眼を開けた。
 胸の奥に暗雲が垂れ込めているかのように気分が悪く、それ程までに嫌悪感を抱えて目覚めるのは生まれて初めてのことであった。
 カーテンの向こう側では日が昇っており、部屋の中に薄っすらと陽光が漏れ出している。部屋は浅い水底のように仄暗く、朝なのか夕暮れなのか曖昧な様相をしている。四月と雖も春はまだ浅く、部屋は氷室のように冷え冷えとしており、それもまた水底を彷彿とさせた。
 目が覚めても、あの部屋に居なくて良かった。と私は安堵した。
 そんな時、不意に携帯端末から目覚ましのアラーム音が鳴った。丁度起床する時間だったようだ。
ベッドから降りてカーテンと窓を開けると、新緑の甘い香りが鼻先を掠める。遠くには瑞々しい木々に囲まれた大文字山の「大」の字が見えていて、眼下では高野川がゆるゆると南に下っていく。そうしていると、風と共に町の喧騒が部屋の中に舞い込んできた。
 私の住んでいる下宿先は、賀茂川と合流する高野川の近くにある、昔ながらの街並みが残る閑静な住宅街だ。マンションの裏手には有名な下鴨神社があり、近くには鴨川デルタや出町商店街、鞍馬山まで入り込んでいく出町柳駅がある。個人的に立地は申し分ないのだが「神社の近くで再開発が難しい」という理由で、下鴨云々町界隈は他の区と比べて古い建物が多く、比較的家賃は安い。古いと言っても日常生活を送る上では特筆すべき問題はないので、あまり気にしたことはない。
 目覚めが悪い頭の中に、新緑を含んだ風を吹かす。まだ町に注がれたばかりの清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んで吐き出すと、それと一緒に胸に溜まっていた暗雲も流れて行き、朝日を浴びて輝いている街に霧散していった。
 寝起きに感じていた酷い嫌悪感が綺麗に無くなった所で、大学に行く準備を始める。
 昨日買っておいた紅茶風味のパンを食べ終えると、本日受けるべき講義の確認を行い、大学に持参する物を鞄に詰めた。念の為に旧式の音声認識型端末に天気を訊ねてみると、どうやら今日は晴天らしい。
 そんなことをしていると、あっという間に家を出る時間となった。
 部屋から出て、殆ど使われない炊事場の横を通り玄関に向かう。茶色ローファーを履いて、下駄箱の上に置いてあった赤いセルフレーム眼鏡をかけて外に出る。部屋の前からよく見える糺の森は、青々とした木立が新緑で盛り上がり、春の風に煽られて波打つように揺れていた。
 マンションの駐輪スペースへ軽快な足取りで向かい、止めてあった自転車にまたがって下鴨東通りを南に下る。暖かな陽射しを浴びながら河合橋を渡っている頃には、厭な夢を見たことなど殆ど忘れていた。

     〇
 
 午前中の講義を終えた私は、大学正門付近にあるカフェ「タリ・フォーラ」で時間を潰していた。
 青葉が眩しい、桜の余波が残る四月の中旬。私の座る窓際の独立席は、春季の生温い陽射しが陽だまりを作っていた。目の前には大学を象徴する時計台と、大きな幹を傘のように広げる楠木がよく見える。時刻はまだ十三時を少し回ったところで、次の講義まで随分と時間が余っていた。
 せっかくなので何か飲みながら読書でもしようと思っていたが、店内は想像していたよりも騒がしく、本を開いてからものの五分で閉じることになった。これならば多少時間は掛かるが、今出川通の喫茶店を選んだ方が良かっただろう。
 煩い店内に居ても落ち着かないので、早々に本を鞄の中に仕舞うと、まだロンググラスに入っている氷の角が鋭利なままのアイスティーを飲み干して外に出た。
 カフェから出ると先程までの喧騒の潮が引き、肌寒い風が私の前を通り過ぎた。それに合わせて眼前にある、春の陽気を受けてむくむくと盛り上がる吉田山の木々がざぁざあと揺れている。
そういえば、私は吉田神社に訪れたことがない。
 吉田神社とは、吉田山の中にある神社である。この大学に通っている者の大半がそうであるように、どんな神様を祀っているのか、どんな御利益があるのか私は知らない。私が吉田神社について知っていることと言えば、二月の節分祭が多いに盛り上がるということだけだ。あと、これは吉田神社とは関係ないだろうが、吉田山を暫く登ったところにある「茂庵」というカフェからは、京都の街を一望できるそうだ。
 有り余る時間の停滞の狭間にいた私は折角なので、初めて吉田神社を参拝することにした。
 正門前に立っている暇そうな警備員の脇を抜けて、左に見える吉田神社の大きな赤い鳥居に向かう。鳥居を潜ると、そこからは吉田神社に続く緩やかな坂になっていて、少し坂を上がると、あっという間に木立に囲まれた。
 瑞々しい、少し甘いような豊潤な香りが私を包む。それは紛れもなく春の匂いで、どこを見ても眩しい深緑が見えて、鳥の囀りがよく聞こえる。どうせ時間を潰すなら、断然こちらの方が良い。
 舗装されていた境内の道は、徐々に砂利や砂地が目立つようになってきた。平坦な道であれば多少のことでも疲れないのだが、吉田神社の山道は舗装されているとは言え勾配が激しく、運動不足気味の私には少々堪えた。
 それを神社側が見越しているかのように、等間隔でベンチや休憩所があったので、休憩をこまめに取りながら吉田神社境内の探索を続けた。
 吉田山にある三つほどの社を周った所で、気が付けば三十分ほど経過していた。汗ばむ額をハンカチで押さえながら、そろそろ大学に戻ろうかと思い振り返ると、坂の下から見覚えのある先輩の顔がゆっくりと上がってくるのが見えた。
 どのように声を掛けたものかと齷齪しているうちに、私に気付いた先輩が「やあ、こんにちは」と手を挙げて、柔和な笑みを浮かべる。
「珍しいね。こんな所でどうしたの?」
「時間潰しです。次の講義まで時間がありまして」
 先輩は「それは良いね」と言い、右側に顔を向けた。私も釣られて同じ方向を見ると、鬱蒼と生い茂る木々が緩やかな曲線を描き乍ら頂上へと連なっていて、その曲線に沿って野鳥たちは心地よさそうに飛び交っていた。
「今日は一人?」
「はい、まあ大体一人ですけどね」そう言って私が笑うと、先輩も「ふふ、そういえばそうだったわね。私もだけれど」と愉快そうに笑みを浮かべる。
「先輩は、どうして此処に?」
「野暮用ってところ」すると右手を翻し、先輩は時計を見た「あ、集合時間に遅れそうだから行くね。講義に遅れないように気を付けて。それとたまにはゼミにも顔を出しなさい」
 最後の言葉だけ語気を強めて言うと、先輩は小振りに手を振って旧制第三高寮歌の碑の方へと歩いて行く。私はその背中が消えるまで見送った。

     〇

 私と先輩が出会ったのは、ゼミであった。
 先輩は緩くウェーブした金色の髪、端正な顔立ちと少し青白い肌、黒曜石を思わせる瞳をしていて、その見た目通り出身は日本ではないらしい。何時から日本に暮らしているのかは不明だが、流暢な日本語を話すので、恐らく幼い頃から此方に住んでいるのだろう。
 元来他人と上手く接することが出来ない質であった私は、ゼミの空気には馴染めずにいた。それでも、先輩とは何かと馬があった。つまらないことで教授との関係が拗れたことが決定打となり、ゼミと疎遠になったが、現在でも先輩との交流は続いている。先輩と顔を合わせると、事あるごとに「ゼミに来なさい」と催促されるが、口煩くは言っては来ない。
 先輩の見た目はお淑やかで、リネンのワンピースを好み、白い海月に似た帽子を被っていた。一見どこか抜けているように見えるが、専攻は相対性精神学で、少なくとも文系を専攻している私には到底理解することは出来ない学部に所属している。いつも謎めいた空気を纏っていて、口にする言葉一つ一つに深い意味があるのではないかと空想した。その一方で無邪気な部分もあり、特にオカルトイムズな話題には目がなかった。
 それはゼミで出会って三ヶ月過ぎた頃。大学内で偶然先輩に出くわした際に「深泥池の霊障を調査するけど、出来れば来てほしい」と頼まれ、暢気に引き受けた結果、真冬の深夜に私と先輩の二人で深泥池の畔で張り込んだこともあった。その後、二人とも風邪で数日苦しんだことは今でも忘れられそうにない。
「噂では出るはずだったんだけどね……また付き合って貰っても良い?」
「冬の深泥池以外なら良いですよ」
「なら今度は鞍馬山だな」そう言って病み上がりの先輩は、マスクの奥で笑顔をほころばせた。
 時間が合うときには、先輩の家に行くこともあった。
 先輩の家は白川疎水通りの近くにあって、出入口の近くに植えられた枝垂れ桜が綺麗なアパートに住んでいる。見た目は古いおんぼろアパートだが、骨組みや内装は近代化されているそうで、住み心地は存外悪くないそうだ。家賃が安い代わりに、大学までは歩いて数十分も掛かるので、雨の日はうんざりして休むこともあるらしい。
 先輩の住む部屋は何時訪れても整然と片付けられていて、五畳ほどの居間には一人掛けのソファー、真四角の炬燵机、来客用の座布団があり、私が訪れると大抵先輩はソファーに深く腰を掛けて本を読んでいた。家具や食器などは最低限な物しか揃っておらず、普段の生活を想像することが出来なかった。それでも本だけは別で、居間の隣にある四畳半ほどの小さな部屋には出入口以外の全ての壁に書架が置かれ、そこには小説、専門書、雑誌、図鑑、和綴じの本など、多種多様な本が詰め込まれていた。この部屋の天井には電灯は設置されておらず、その代わりに小さな台座に嵌め込まれた裸電球が置かれていた。
 私はこの部屋を「書斎」と呼び、ここで本を読むことや、本を借りる為に先輩の家を訪れることもあった。
 本を返しに行くと先輩は必ず本の感想を求めてきたので、私はその都度しどろもどろになりながら感想を伝えると、先輩は満足気な表情を見せた。一度だけ何故感想を聞くのか尋ねてみると「私以外の視点で、本を知りたいから」と答えた。それ以降、書斎を訪れる度に先輩の言葉が脳内で響くことになる。
 何度か通い詰めると「面倒だから」と言い、下宿の鍵の解除方法を教えてもらい、それ以降は勝手にアパートに出入りすることを許された。一応、鍵の開け閉めが起こると同時に先輩の携帯端末に連絡が来るらしい。
 それでも勝手に入るのは気が引けたので、部屋に入る折にはインターフォンを鳴らし、声を掛けてから家に入った。その様子を見て先輩は「君は律儀よね」と言い、ソファーの上で猫のようにくつろぎながらニッと笑うのが印象的だった。
 私が来ると先輩は珈琲か紅茶を淹れてくれることもあり、どちらが出てくるかは先輩の気分次第であったが、どちらも非常に美味であった。そのことを伝えると「友人に口煩いがいてね、彼女の為に淹れていたら勝手に上手くなったの」と不満そうに言いながらも、笑みをこぼしていた。

     〇

 鼻につく匂いを感じて眼を開ける。そこは見覚えがある暗闇に沈む部屋であった。
 私は少し戸惑いながらも「何時か見た夢の場所だ」と、思い出し冷静になるように努め、一先ず前回と同じように暗闇に目が馴れるまでは、その場に留まることにした。雰囲気が似ていても、前回と同じ場所だという確証は何処にも無いからだ。
 それにしても、何故このような陰鬱な夢を短期間で二度も見るのだろうか。
 急激なストレスや環境の変化、酷い悩みや心身の疲れは夢に反映されると聞いたことはあるが、自身の近状を振り返ってみても、私の日常に特段変化はみられない。
 一先ずその場に腰を下ろすと、黴臭い匂いが鼻についた。
 膝を抱えながら私は暗闇を見つめる。目の前には、どろどろとした濁った水底のような暗闇が果てしなく続いていて、その奥からゆっくりと厭な臭いが這い寄って来る。あのとき見た気味が悪い箱は、まだあるのだろうか。
 確か何処かの国で「真っ暗な洞窟の中で数ヶ月過ごす」という実験があった筈だ。
 暗闇が人間の精神にどのような作用を及ぼすのか調べる為の人体実験で、一日の時間の流れが分からなくなるとか、幻聴や幻覚など精神に支障があるとか、そんなある程度想像出来る実験結果だったように思う。他にも、男性と女性で研究結果が異なっていたはずだが、そこまではどうも思い出せない。
 この夢が等間隔ながらも続いた場合、私の精神に支障が出てくるのだろうか。
 瞬きをしても視界は途切れることなく、並行して暗闇を映し出している。
 室内の状況は一向に分からない。ただ、それでも不思議と落ち着いていられるのは、これが夢だからだろう。
 もしも、これが夢でなければ、私はどうしただろう。
 私は膝を抱えながら闇の底に沈んでいる。そして、砂地に根を張っている海草のように、ただただ暗闇を眺めながら呼吸と共に揺らいでいた。

     〇

 私が吉田キャンパスの統合研究所と呼ばれる北棟を歩いていると、偶然廊下を歩いている先輩を見つけた。大学構内で先輩を見かけたのは随分と久しぶりだったので、思わず声を掛けた。
「こんにちは。今から講義?」
「はい、先輩もですか?」
「ううん。私は東棟に向かう途中なの」
「東棟に?」
 東棟とは別名「魔窟」と呼ばれている、サークル棟の一つだ。魔窟と言う呼び名は伊達ではなく、非常にマニアックな少人数サークルから、サークル未満の同好会、大学の非公認サークルが居場所を求めて何故か東棟に集まり、独自の生態系を築いているらしい。
 そんな普通の学生であれば滅多に近づかない東棟に、どのような用事があるのか。私は少しだけ気になった。
「東棟に、何かあるんですか?」
「うん、まあね」
「……良かったら、私もついて行って良いですか?」
 先輩が少しだけ驚いた顔を見せると「来ても良いよ」と声を弾ませて、東棟に繋がる渡り廊下に向かって歩き始めた。私は講義に出席するのを止めて、ふわふわと揺れる先輩の金色の髪を追った。
 北棟は人通りの多い今出川通に面しているので、外から喧騒が染み込んできた。また北棟の構内は研究室が大多数を占めており、怪しげな薬品を抱えた学生や教授、嗅ぎなれない消毒液の匂い、散り一つない清楚な廊下、用途不明な巨大な機械など、普段見慣れない風景を幾つも見送った。あちらこちらに目移りしていると、「此処がそんなに珍しい?」と先輩は首を傾げた。
「北棟に来ることがあまりないので」
「確か文系だったよね? じゃあ西棟二号とか三号の方になるのかな?」
「そうですね、その辺です」
「逆に私あっちのことあんまり知らないんだよね。そっちに行くと、逆に私が貴方みたいになるかもね」
 先輩と話している間に、私達は東棟に入っていた。
清廉な北棟とは違い、東棟は何処か薄暗く陰鬱な影が蔓延っている。ごみ箱からはごみが溢れ返っており、廊下の端にはビニール紐で括られた雑誌が幾つも積み上げられ、階段の影にある自動販売機は売り切れの表示が目立ち、暗澹な廊下に光を投げかけていた。
 はたして先輩はこんな場所に、一体どんな用事があるのだろうか。
 私達の足音は思いの外、大きく廊下に響いた。右側に連なるサークル部屋からは、どれも看板は掛かっていないが、微かに人の声が聞こえるので、恐らく誰かは居るのだろう。しかし、東棟の雰囲気からして、その声の主は幽鬼の類と言われても疑う余地はない。
 東棟の空気は気味が悪く、廊下の北側にある窓から射しこむ光が唯一の癒しであった。
「もしかして、これもオカルト関係の用事ですか?」
「今回はそうじゃないよ」
 怖気づいている私とは裏腹に、先輩は普段と変わらない口調で答えた。何故先輩は、この空気に馴れているのだろう。もしかすると、オカルト系統が好みの先輩は東棟によく出入りをしているのかもしれない。
 東棟の三階まで階段で上り、右に折れる。そして三階の一番奥地にある、水のように翳が溜まる場所に向かう。そこには室内灯もなければ窓も無く、避難口案内標識の緑色の光が低い唸り声のような機械音を上げながら、廊下に光を投げかけていた。
 先輩は誘導灯の前で立ち止まり、右手にあるサークル部屋の扉に手に掛けると「ちょっと待っててね」と言い残し、彼女は怪しげなサークル部屋に躊躇なく入っていった。
 東棟の瘴気に当てられた私は、気分転換に窓の外に眼を向ける。そこには古ぼけた街並みと、近代的な街並みが複雑に入り組んだ、歪な風景が広がっていた。今出川通を歩く人々はどこか陽気で足取りが軽く、またお昼が近いこともあったので、大学の北部校門前では弁当を売る移動販売の従業員が商売の準備を始めていた。
 何度も見た、見慣れたありふれた光景だ。しかし、東棟の中にいる私には、何故かそれがやけに遠くの光景に思えた。まるで隔離された部屋から、それを眺めている錯覚を覚えた。
 その時、上がってきた階段の方で物音が聞こえた。
 反射的にそちらに眼を向けるも、そこには射しこむ光と陰鬱な翳がやけに対照的な光景が広がっているだけで人の気配はない。鼓動が徐々に耳元に近づき、血液が足早に体内を駆け巡る。私は何故か階段の方から、眼を離すことが出来なかった。
「……ねえ、どうしたの?」
 私はハッとして、いつの間に部屋から出ていた先輩の方に振り返った。
「いや、別に。何もありません」
「そう?汗もいっぱいかいてるけど、本当に大丈夫?」
 先輩に指摘された私は、初めて玉のような汗をかいていることに気付いた。また、無意識に右手を強く握り込んでいたようで、手の腹に爪が食い込みじんじんと痛みを持っている。
 先輩に心配されながら東棟から出ると、暮春のぬるい風が私の汗を冷やした。とりあえず北棟と東棟三号の間にあるベンチに座って一息つくと、「何か買ってくるわ」と先輩は席を離れて、直ぐにスポーツ飲料を買って戻ってきた。
「もしかしたら脱水症かもしれないから、飲んで飲んで」
「すみません、なんだか心配をかけてしまって」
 東棟での出来事を誤魔化すように彼女から貰ったスポーツ飲料を飲み、眼鏡のレンズについた汗を拭う。
「何かあったの?」先輩は俯く私の顔を心配そうに覗き込んだ。
「いえ、別に。ただの立ち眩みだと思います」
「そう? なら良いんだけど」
 階段の方から聞こえた物音について、私は何故か言えず「そういえば、先輩はサークル部屋で何してたんですか?」と強引に話題を逸らした。
「本を取りに来たの」
「本?」
「うん」
 先輩は肩から下げていていた鞄から、一冊の本を取り出す。それはノートよりも一回り小さい、表紙カバーもなければイラストも載っていない、白い無地の表紙に題名だけが書かれている。
「つばめいし……?これ、なんて読むんですか?」
「燕石博物誌よ」
 本のタイトルだけ言うと、彼女はそれを直ぐに鞄の中に戻した。
「じゃあ、私は用事があるから。体調に気をつけてね」
 そう言って先輩は立ち上がると、時計台の方に足早に去って行った。その背中を見送っていると、彼女が帽子を被った人に話しかけられるのが見えて、二人はそのまま並行して何処かに去って行った。
 もう少しだけ休もうと思い、スポーツ飲料に口をつけて東棟を見上げる。ほぼ四角の形をしている棟は、少し黄ばんだ白い外壁に黒い汚れがよく目立ち、等間隔に並んでいる窓はどれも開けられておらず、サークル部屋の中の様子は分からない。外壁には鮮やかな緑の葉の蔓が絡みつき、屋上に向かって手を伸ばしていた。
 汗も引き、気持ちが落ち着いてきた頃。私は先輩がサークルに所属していたことを思い出した。
それは深泥池に行った時のことだ。
 枯れた草木が茂り、川辺には翳しか見えない背丈のある木や野草が卒塔婆のように並んでいる。夜ということもあり、深泥池は地底奥深くに繋がる、黒々とした巨大な穴を思わせた。時折通り過ぎる乗り物の灯りに照らされて、深泥池はぬたぬたと粘り気がありそうな水面が顔を覗かせた。
「先輩はどうしてこんなことを?」
ストールに包まりながらアウトドアチェアに腰を掛けていた先輩は、少女のように笑いながら私を見上げた。
「これがサークル活動の一環だから」
「はぁ」
「あ、信じてないわね?」
「いやそうじゃないんです。ただ、先輩がサークルに所属しているのが意外でして」
「そうかしら?」すると先輩は、自分の所属しているサークルについて語り始めた。
 先輩が所属している「秘封俱楽部」というサークルは、大学側から許可を取らずに立ち上げた、謂わば「非公認サークル」らしく、活動内容は主に京都から関西圏にかけて不思議なものを調査及び検証だと、先輩は語った。
 今回の深泥池の霊障調査は、本来であれば秘封俱楽部に所属するもう一人の部員と来る予定だったそうだが、用事で来られなくなったらしい。その結果、今回不在の部員代理として白羽の矢が立ったのが私であった。
「こうみえて意外と実績もあるのよ?二条にある骨董屋のポルターガイスト現象の解決、下鴨納涼古本でうっかり妖怪が書いたと言う別名『妖魔本』を売ってしまった店主の本を取り戻す手助け、狸不動の近くにある傘専門店に持ち込まれた謎の万華鏡傘の謎解き、江戸時代から年に一度発行される辞典を取り扱う寺町通の古本屋の真相解明、事故物件で何日か暮らすとか。こう見えても実はやり手なの。もし身の回りで不思議なことがあれば、なんでも相談してね」
「まあ、何かあれば。たぶんないですけど」
「是非是非。あ、ほら深泥池から眼を離しちゃ駄目よ。霊障っていうのは生ものだからね」
「霊障ってそういうものなんですか?」
「そういうものなの。ほら、もう少ししたら休憩だから頑張って」
 その夜。結局霊障は起こらず、先輩は不作で落ち込んでいたが、時間の経過と共に変化する星座の動きや、日の出と夜の合間に訪れる藤色の空はとても美しく、私は大いに満足した。
 深泥池の調査から随分と経っていたので直ぐに記憶が結び付かなかったが、もしかすると先輩が入った部屋は秘封俱楽部のサークル部屋だったかもしれない。
 そう考えると、あの部屋には一体何があるのか非常に興味が沸いた。しかし、一人であそこまで行く勇気は無く、少しひんやりとした風がすり抜ける校舎の間で私は昼下がりを過ごした。

     〇

 私は出町商店街にある、一階は書店とカフェ、二階は映画館になっている「柳座」という場所で、週に四回ほどアルバイトをしている。一見すると仕事内容は複雑そうだが、書店、カフェ、映画館で担当する店員が決っているので、書店担当の私が他の業務を行うことは滅多にない。
 柳座の年季の入った硝子戸を開けると、直ぐ左手には二階の映画館に上がる階段があり、右手には私が働く書店とカフェのスペースがある。一階の店内は楕円形になっており、円の縁に沿って書架がぐるりと置かれ、その真ん中には十人ほどが座れるカフェのカウンター席が並んでいる。
 二階の映画館ではタイトルを聞いても分からないマニアックな作品が上映されていることが多く、映画に関心がない私は一度も上がったことがない。二階にも本を保管している所があるようだが「二階から荷物を下ろすのは、男の仕事だから」と、柳座の店長である加子さんは私を二階の書庫に行かせることはなかった。
 休日は昼夜問わず賑やかだが、平日は昼過ぎから夕方までが忙しく、それを過ぎると映画終わりのお客さん、珈琲と本を楽しむスーツ姿の男性、勉強をしている学生が数人と客層は決っているので、落ち着いていることが多い。そもそも、来店する客層の大半は映画やカフェが目的なので、書店担当の私がすることは、もっぱら倉庫の整理や本の品だし、月替わりで変わるおすすめの本を考えることぐらいだ。
 その日の夜。私はいつも通り空いているカフェのカウンター席を借りて五月に勧める本の種類を考えると、加子さんが顔を顰めながら二階の映画館から降りきた。挨拶をすると「おう、お疲れさん」と屈託のない笑顔を浮かべて、私の隣に腰掛けた。
「だいぶ早いんだけど、もう今日は上がっちゃって良いよ」
「え、もう良いんですか?まだ三時間ぐらいしか働いてませんよ?」
「良いの良いの。あ、給料はお願いした時間の分だけ出すから安心してね」
「でも。まだ本の整理が……」
 私が渋っていると、彼女は声を潜めながら「実は今日、出町商店街組合員のお偉いさんが来ることになったの」と心底視嫌そうな声で言った。
「その人、嫌味なおじさんでねぇ。貴方みたいな線が細い文学少女が、あんなおじさんと一緒に居たら、年より嫌味の毒気でやられちゃうかもしんないからさ」
「そんなにですか?」
「そんなに、だから素直に帰んなさい」
 加子さんに急かされるがまま、私は退勤して柳座を出た。
 時間を確認すると、時刻は二十時を少し過ぎていた。昼間は賑やか商店街も、この時間になると大半の商店は既にシャッターを降ろしている。アーケード街を歩いていると、普段は雑踏で見えない商店街の通りに敷き詰められた鮮やかなタイルが、照明でツヤツヤと光っているのがよく見えた。
 出町商店街と大きく書かれたアーチを抜けると、加茂川が穏やかな様子で南に下っていく。出町橋を渡り河合橋の前を左手に曲がり、小さな骨董品屋の前を通り抜け、ぽつんぽつんと等間隔に並ぶ外灯の明かりをくぐりながら足を進めていると、直ぐに自宅のマンションにたどり着いた。
 自宅に戻った私は晩御飯を食べて、お風呂に入り、適当に講義の復習をした。疲れの溜まった両腕を天上に向かって伸ばす頃には、既に二十三時を回っており、倦怠感が胸の奥から押し寄せて大きな欠伸が出た。
寝る前に日課である日記を書いて机の引き出し入れると、大雑把に寝支度を整えてベッドに潜り込んだ。眼を瞑ると、昼間先輩と過ごした記憶が脳裏で再生された。
 陰鬱な構内、怪しげなサークル部屋、先輩と私だけで歩く暗い廊下、今出川通の風景、先輩が取りに来たという燕石博物誌という本。
 その風景が、何処か酷く懐かしいような気がした。
 階段の方から聞こえた物音はなんだったのか。
 それに対して、私は何故過剰に反応してしまったのだろう。

     〇

 私は周囲を警戒しつつ、ランタンを模った懐中電灯で闇を払いながら、床板が軋む廊下を真っ直ぐ進んでいく。私の隣には見覚えのない黒髪の中折れ帽子を被った女性がいて、後方には私達が上ってきた階段がある。
 私に寄り添う帽子を被った彼女は、布で包まれた四角い物を抱えている。私はそれを遠慮がちに眺めていて、辺りの気配を探っていた。
 奥の部屋に辿りつくと、女性は嬉々とした表情で持っていた物を机の上に置いた。そして、何か言いながら布を解く。
 その中身は木作られた、一斗缶程度の大きさの木箱であった。
 木箱の上の部分には蝶番が打ち付けてあり、どうやら観音開きになるように作られているらしい。
 私は不意に、先日見た夢の内容を思い出した。そして目の前にある箱は、あの時、夢に出て来た箱だと直感的に確信した。
 厭だ。開けるのは止した方が良い。それは、隙間から此方を窺っている。
 そう私が何度問いかけても、声も出なければ体も言うことを聞かず、淡々と場面は進んでいく。
 帽子の女性は私に話しかけた。すると私は溜息をつきながら彼女の指示に従い、木箱を見詰めた。暫くすると箱の輪郭が朧げになり、不思議な物が見えた。
 それは鏡で作られた箱、と言えば良いだろうか。長方形の箱の内側全てが鏡で作られていて、汚れや罅などは見受けられず、今し方磨かれたように艶やかな光を孕んでいる。
 眼を瞑ろうとするも、私は箱の形をした鏡を見ていた。鏡は何かを映し出しているようだが、曖昧で全容は分からない。映っている物の輪郭は西瓜のように丸くて、何か細い木の蔓のようなひょろひょろとした細長いものが纏わりついている。表面に凹凸がいくつもあり、触り心地は悪そうだ。初めは墨汁に塗りつぶされたように真っ黒だったそれは、繁々と眺めていると徐々に鮮明になっていった。
 箱の中に入っていたのは、先輩の頭部であった。
 理解が追い付かず、ただただ茫然自失と立ち尽くしていると、後方から物音が聞こえた。
 私と帽子の女性は慌てて振り返る。
 物音は階段の方から一定の間隔を保ちながら徐々に近付いてくる。数秒程で軋む木材の音が私達の居る部屋の前で止まり、音の主がゆっくりと部屋を覗き込んだ。
 その顔には見覚えがあった。
 何故ならそれは、私の顔をしていたからだ。

     〇

 自分の叫び声で目が覚めた。
 カーテンの向こう側はまだ暗く、仄かに朝日が昇ろうとしている頃間で、薄暗い部屋の中は夢の中の景色を彷彿とさせた。
 心臓がやけに騒がしく波打ち、やけに喉が乾いていた。汗で頬にへばりついた髪をかき上げて洗面台に向かい顔を洗う。洗面台の鏡には血の気が引いた、青白い私の顔がぽっかりと浮かんでいた。
 コップに入れた水を何度か飲み干してベッドに腰を掛けた。まだ朝日が昇る気配は毛頭なく、部屋は仄暗い濁った水で満たされている。
 手で顔を覆いながら、夢の中の出来事を反服させた。しかしあれは、夢と言うよりも、回想に近い。だが、これは当然のことだが、私は私と会ったことなど一度もない。それに、あのような暗い廃屋には行ったこともないはずだ。
 しかしそれは、現実での話だ。
 私は鮮明に思い返す、あの暗い部屋に閉じ込められている夢を。確かに、あの場所と今日見た夢の場所は雰囲気が酷似している。
 そして何より、あの箱があった。
 思考が古い蜘蛛の巣のように酷く絡まり、考えが上手く纏めることが出来ない。水をもう一杯飲んだが、喉を通る水の感覚すらも違和感を覚えた。それほどまでに、私の精神は摩耗していた。
 顔を覆う指の間から部屋を見渡す。格子状に映る見慣れた自分の部屋、机の上の赤いフレームの眼鏡、パンダの小物、紅茶を零した敷物のシミ、斜め掛けの鞄。
 今はそのどれもが、何処か空虚な物に思えた。

     〇

 後日。夢の内容を先輩に相談すると、先輩は快く承諾した。そして二日後の夕方に、家に来るように言われた。
その間も私は連日暗い部屋に閉じ込められている夢を見たが、幸いなことに、あの夢の中で見た奇妙な箱は出てこなかった。
 講義が終わった私は東大路通を北に上がり、叡山電鉄の元田中駅を少し超えたところで右手に折れて住宅街を進んで行くと、やがて白川疎水と先輩のアパートが見えてきた。
 先輩の住むアパートは、庭に植えられた木々に囲まれて青々としている。木々の一部には、可愛らしい白い花が咲いているものもあった。アパートのエントランスを抜けて、先輩の部屋の呼び鈴を鳴らすと「どうぞー」と、間延びした声が聞こえたので、控えめに挨拶しながら玄関を開ける。
 上り框には珍しく見覚えのない靴が一組、先輩の靴の横に並んでいた。少し疑問に思いながら、細い廊下を進んで居間に繋がるドアを開けると、そこには見慣れない黒髪の女性が四角い机の横にある座布団の上に佇んでいた。先輩はいつものように、西側の小さな窓の下にある一人掛けのソファーに腰を掛けている。
「この子が、例の子?」黒髪の女性は立ち上がり、先輩に視線を送る。彼女は利発そうだが、少し幼い印象を覚えた。
「そう、例の後輩」
 その女性の顔をまじまじと眺めたとき、私は思わず息を呑んだ。なぜならその人の顔は、夢で見た帽子の女性と瓜二つだったからだ。
 どうして彼女がここに。
 無意識的に私の体は後方に下がり、背中に不快な汗が伝う。目の前の景色が淀み、夢と現が混じり合う感覚と共に、視界はねじれる。鼓動の音だけが頭に響き、喉の奥から言葉にならない感情が溢れる。
 私は、どこにいる?
 いつから、いつから私は夢の中に。
 ここには箱があるかもしれない。
 あぁ。箱が、箱が。
 箱が開く。
 悲鳴を上げそうになったとき、不意に目の前に現れた先輩がゆっくりと私を抱擁した。
 目尻が熱くなるのを感じる、悲鳴は嗚咽に代わり、足の先から力が抜けていくのを感じた。
「大丈夫?」先輩は私の体を支えながら、その場に座らせた「蓮子、とりあえずお水とってきてくれる?」
 暫くして、ようやく気分が落ち着いてきたところで、改めて挨拶を交わした。
その女性は宇佐見蓮子さんと言い。彼女こそ先輩が言っていた、秘封俱楽部に所属するもう一人の部員らしい。
 彼女たちと幾つか話しているうちに混乱は解れていき、丁度それぐらいの時分に先輩は人数分の珈琲を淹れ終わると、丁寧な手つきで私たちの前に置いた。
「もう、大丈夫?」
「大丈夫です。心配をかけてすみません」私は未だに震える手を掴む「実は、夢の中に宇佐見さんに似ている人が出て来たことを思い出して、少し動揺してしまい」
「私に?」
「はい、実はそのことで、今日先輩に相談しにきたんです」
 私は連日見る暗い部屋に閉じ込められる夢と、廃屋を誰かと一緒に歩き回り箱を探す夢の内容を出来るだけ鮮明に話した。特に、先輩の頭部が箱に入っていたこと、宇佐見さんに似た人が居たこと、私と瓜二つの人が現れたことは、より緻密に伝えた。
 先輩と宇佐見さんは手元に広げたいノートに細かいメモを取りながら、二人は終始神妙な面持ちをしていた。
 全てを語り終えると部屋はしんと静まり返り、珈琲の香りと書斎から漂う古い本の乾いた匂いを強く感じた。先輩は長い眉を潜めながら、ノートを見返している。宇佐見さんは一息ついて、ノートに色々と書き加えていた。
 暫くの沈黙の後「まず、夢に出てくる『箱』に見覚えはないのよね?」と先輩が口を開いた。
「はい、全く」
「例えば幼少期にそんな箱があったとか、箱にまつわる話とか聞いた覚えは?」
「無いですね」
「そりゃそうよね。あれば自然と思い出すし」宇佐見さんは右手で人差し指で、鼻先を少し擦った「その君が居た、暗い部屋についてはどう? 暗所恐怖症だったり、暗い場所に閉じ込められたり、夜に怖い思いをした経験は?」
「ないです。まあ、暗い所は人並みには怖いですけど」
「なるほどね」
 宇佐見さんの質問が終わると、何かをノートに書き終えた先輩が口を開く。
「ちなみに、箱と部屋。どっちが怖い?」
「箱です。部屋は別に。まぁ暗い部屋は人並みには怖いですけど、」
先輩に言われて気が付いたが、暗い部屋に対する恐怖と言うのは、初めの頃に比べると薄れてきている。完全に怖くない訳ではないが、私はその部屋で落ち着いて過ごしていることが多い。
「……いや、部屋に関しては、あまり怖くないかもしれません」
「じゃあ例えばだけど、箱を開けるのと、部屋から出るのはどっちが嫌?」
「それは箱を開けるほうです」
 私は即答した。
「悪夢の原因は、やっぱりその箱にありそうね」先輩が普段はあまり見せない、硬い表情をした。すると、宇佐見さんも賛同するように大きく頷いた。
「何で鏡合わせの箱の中にメリーの頭部が入っていたのかは分からないけど、彼女の見た夢の中で一番怪しいのがその箱だしね」
 そう言いながら宇佐見さんは先輩と顔を見合わせた。メリーというのは、恐らく先輩のことを指しているようだ。
「箱も怪しいけど、もう一つ不可解な点があるわ」先輩が呆れたように溜息を吐く「どうしてこの子と会ったことも無いのに、蓮子が夢に出て来るの? しかも廃墟探索なんて、羨ましい」
 先輩の言う通り「先輩の頭部が入った箱」が登場するのも、私が私と出くわすのも衝撃的ではあるが、理由をこじつけようと思えば出来る。しかし、一番不可解な点は、面識がない宇佐見さんに酷似している人物が、どうして私の夢に登場するのか。そこだけは、どう考えても腑に落ちない。
「一応確認するけど、私と会ったことないのよね?」
「お見掛けしたことはあるかもしれませんが、容姿に関しては今日会うまで思い出せなかったです」
「その時の記憶が夢に反映された、とは考えにくいわね」
「そうね。この手の現象は初めてだから、何とも言えないけれど……」先輩が一寸ほど黙考して「もしかすると、私の見た可能性のある夢が彼女に影響したとか?」と重い口調で呟いた。
私はその言葉に理解出来ず、思わず「夢?」と聞き返した。
「あ、もしかして君は知らないんだね」
 宇佐見さんは、許可を得るように先輩の方を振り返る。すると彼女は黙ったまま首を縦に降った。
「彼女には、不思議な力があるんだ」
 先輩の力とは、端的に言うと夢の中を自分の意志で自由に歩けるし、剰え夢の中で貰った物を持ち帰ることが出来るそうだ。そして、それには決まって「結界」が関わっているらしい。
 結界とは、現在全世界で研究されている難題の一つである。空間、時空の綻びとも言われるそれは、目視できることは滅多になく。結界の大きさ、天文学的な確率、もしくは「特異な感性」を持っている者は見えることがあるそうで、その特異な人物と言うのが先輩らしい。実を言うと、秘封俱楽部の本来の活動は、その「結界」の調査だと言う。
「結界にも色々あるんだけど、概ね蓮子が説明した感じ。もしかすると、私と深く関わったことで、貴方にも影響が出ているのかもしれない」
 頭を下げようとした先輩を私はあわてて制した。宇佐見さんも先輩の謝罪したことに驚いたようで、暫くの間呆然と眺めていたが、直ぐに「いや、君は悪くないよ」と先輩の傍に行き、彼女の肩に手を添えた。
 場は先輩の謝罪により混乱してしまったが。一先ず「箱の夢を見た時や、夢によって生活に支障をきたした場合は、直ぐに報告すること」になった。
 先輩にまつわる「夢」の話は、本当なのだろうか。
 一人で考えてみたものの答えは出ず。私に対して真摯な姿勢で話しを聞いてくれたこと、先輩や宇佐見さんの言動に強い信憑性を感じたので、考えるのは一旦保留にした。
 話し合いが終わる頃には、窓の外は夕焼けが夜空に滲みだして、尾根に沈みかけていた。そして宇佐見さんの提案で、先輩の家の近くにある小さな定食屋で晩御飯を食べることにした。

     〇
 
 相談したことをきっかけに、私は宇佐見さんと話すようになった。彼女は大学で「ひも」理論を専攻しているらしい。
 宇佐見さんと先輩が出会ったのは、一回生の五月頃らしい。黒髪で中折れ帽子を常に被っている彼女は淑やかな先輩と比べて、どこか溌剌としていた。先輩の家で三人一緒になったときには、先斗町にお酒を飲みに行ったり、散歩や遊びに出かけたりした。また、宇佐見さんがいる時は、先輩は少し子供っぽい一面を見せることもあった。
 二人の会話の大半は秘封俱楽部の活動方針と、専攻している学問についてで、前者はともかく後者の話題になると、私は話の内容を理解出来ず、書斎にある本を読んで過ごした。
 時折構内で見かける宇佐見さんは、必ずと言って良いほど人気のない場所に居た。それは歩いているときも、ベンチに座っているときも同様で、私が声を掛けると眉を潜めながらこちらを一瞥して「なんだ、君か」と言い、直ぐに笑顔になった。
「ごめんね。知らない人に話しかけられるのが苦手なの。それに、この大学に通う人達って、自分の才能をひけらかすみたいに話す人が多くて嫌なの。話しててイライラしちゃう」
「それは何となく分かります」
 私はゼミに所属していた時のことを思い出した。ゼミの中でやけに先輩風を吹かす人や、同回生同士で格差をつけようとする人がやけに多かったからだ。
 宇佐見さんとは、どことなく価値観が似通った所があり、直ぐに打ち解けることが出来た。
 先輩と宇佐見さん、この二人と良くなった日から私は厭な夢を見なくなっていた。やはり自分が無意識にストレスを溜め込んでいて、精神的な部分に負荷がかかっていたのかも知れない。そう私は、都合良く解釈した。

     ○

 五月の初旬。先輩の提案により、三人で葵祭の行列を見ることになった。
 朝から糺の森にある馬場に出向き、眺めが良さそうな場所に宇佐見さんが持って来た、三人でも並んで座れるアウトドア用の折りたたみ椅子を設置した。彼女曰く、椅子は秘封俱楽部で使用する備品の一つらしい。
「そういえばさ、去年の冬に深泥池の調査をしたって言ったでしょ? その時、蓮子が来れなかったからこの子を呼んだのよ」
「ちょっとまって、それ初耳なんだけど」
「そうよ、だって蓮子には言ってなかったから」
「もう……ごめんね、なんだか迷惑かけちゃって」
「良いんですよ、楽しかったので」
 そんな他愛のない話しを交わしながら、葵祭の行列が来るまで時間を潰した。
 時間が経つにつれて周囲は結構な人だかりとなっていた。人混みの窮屈感に堪らず空を見上げると、糺の森に生えた大きな木の幹が空を覆い隠し、新緑のアーチが陽射しを遮っているのが見えた。その切れ間から見える青空が、やけに美しく感じた。視線を下すと、先輩と宇佐見さんも私と同様に空を眺めていた。
 先輩は空と周囲を交互に見ると「まさにハレの日ね」と期待に満ちた声で言う、宇佐見さんも「そうね。こういう日は何かありそうよね」と言い、笑みを浮かべた。
「何か起こるんですか?」
「えぇ。天のハレと、地のケが近づく今日は、不思議なことが起こったり、見えたりするものなの」
 好奇心が沸き立ったような表情を浮かべる二人は、随分と幼くみえた。その様子は祭りが楽しみで仕方がない少女のようだ。そうして先輩たちと話し込んでいると、遠くの方から微かな雅楽の音色が聞こえ、平安装束を着込んだ葵祭の行列の先頭が顔を覗かせた。
 周囲からは歓声に似た声が上がり騒がしくなる、私達も立ち上がって葵祭の神輿をまじまじと眺めた。
 葵祭の行列が通り過ぎると、周囲の人々は動き始めた。私達は混乱を避ける為に、人が疎らになるまでは、その場に留まることにした。
「この後、どうする?」宇佐見さんは中折れ帽子を整えながら、気の抜けた声で言う。
「何処でも良ければ、私は茂庵に行きたいです」
「茂庵って、あの吉田山の上にある?」
「そうです」
「私は良いけど、蓮子はどう?」
「良いよ。天気も良いしね」
「なら決定ね」
 そうして私達は吉田山へと向かうことになった。宇佐見さんが「鴨川沿いを歩きたい」と提案したので、私達は吉田山に向かう東一条通に着くまで鴨川沿いを歩くことにした。
 鴨川は五月晴れの空の下を緩やかに流れていく。川辺には眩しいほどの青草が生い茂っていて、河原に吹く薫風は少し早い初夏を思わせた。
「本当に気持ちがいい日」そう言って宇佐見さんは気持ち良さそうに背伸びをする。先輩も彼女に釣られて両手を空に向かって伸ばした。
「そう言えば先輩、四月の中頃に吉田神社で私と会いましたよね。あのときも秘封俱楽部の活動ですか?」
「うん、まあそんな感じ。探し物があってね」先輩は宇佐見さんに目配せをした。彼女も「あぁ、あれね」と得心した表情を浮かべる。
 二人は曖昧な返事をすると、話題はすぐさま別の物に変わった。やや不自然に思いながらも、私達は五月の晴天。草花の豊潤な匂いに誘われながら茂庵に足を運んだ。

     〇

 ある日。先輩に呼ばれて家に行くと、何故か彼女は不在で、その代わりに宇佐見さんが居間で本を読みながら気怠い表情をしていた。開けられた窓からは薄っすらと茜色に染まった空がよく見えて、入り込む風でカーテンが靡いている。何処かに吊るされているのか、遠方の方から風鈴の音が微かに聞こえた。
「あの子なら用事が長引いてるとかで、まだ帰ってないよ。もう少ししたら戻ってくるかも」と言い、彼女は大きな欠伸をした。
 先輩が帰宅するまでの間、宇佐見さんとは講義の話や進級の話、大学院に進むのか就職するべきかと言う話をした。彼女は一度もアルバイトをしたことがないらしく、私が柳座の話をすると非常に興味深そうな素振りを見せて「君はしっかりしているね」と、大袈裟に褒めてくれた。
 互いに話題が尽きかけて来た頃、玄関の方から音がして「お、来てる来てる」と言いながら先輩が帰ってきた。その日は珍しく、先輩の手には重そうに撓んだ買い物袋が下げられていて、仰々しくそれを床に下すと、足早にソファーに座り込んだ。
「あー重かった。これなら君たちにも付き合ってもらえば良かった」
「どうしたんですか、これ?」
「大学院に入った先輩が、突然舞鶴辺りの研究所に異動することになってね。引っ越しの時に邪魔だから持って行ってくれって言われたから、食料やらお酒やらを沢山貰ってきたの」
 袋の中を覗くと、そこにはワインやウイスキー、缶ビール、それとお菓子が詰められていた。
「今日は宴会にしましょ」先輩は汗を拭いながら、リネンワンピースの首元をぱたぱたとさせる「蓮子、準備してくれる?」
「はーい。あ、君も手伝って」と宇佐見さんは私に目配せをした。
 私は酔った勢いで強いお酒を飲んだ翌朝、酷い二日酔いに悩まされたことがあったので、比較的度数が低そうな果実系の缶酎ハイを選び、先輩と宇佐見さんは互いにワインを飲んだ。二人は外にもお酒に強く、適当な話をしながら早々にワインを一本開けてしまうと、袋の中を探ってもう一本ワインを取り出して気の抜けた音と共にコルクが抜かれた。
 缶酎ハイが空になった私は、次に何を飲もうか悩んでいると、先輩が「あれなら飲みやすいかも」と言い、台所の棚から赤玉ポートワインを取り出して私の前に置いた。ワインと聞いて遠慮しようかと思ったが、先輩が勧めるのを断り切れず、試しに一口飲んでみると、口の中に強い甘みと少しの苦みが広がり、非常に飲み易かった。
「これは私の祖母と母が好きなお酒で、私は甘すぎてあまり飲まないけど、赤玉の匂いやラベルを見ていると、実家でこれを飲んでいた祖母を思い出すから置いてるの」そう言うと先輩は自分のグラスに入っていたワインを飲み干して、赤玉ポートワインを自分のグラスに注いで一口含み「やっぱり甘い」とふくふくと笑う。
 五畳程しかない居間は窓を開けているとは言え、あっという間に酒気に包まれた。
 宇佐見さんはいつの間にかワインからウイスキーに変わり、ちびちびと舐めている。私と先輩は赤玉ポートワインを飲んだ。そうして早めに始まった宴会は気づけば二十二時と少しを回った。
「お手洗いを借ります」と私は立ち上がり、ふらふらとしながら居間を出た。少し酒気が回っていることもあり。私はトイレと間違えて、その隣のドアに開けてしまった。その部屋は一度も開いているところを見たことがなく、また先輩が使用しているところも見たことがなかった。
 部屋には窓がないのか、薄暗くて中の状況は分からない。空気が濁っていて、埃っぽい匂いがしたので、恐らく物置だろうと思った。
「しまった」と思い、急いでドアを閉めてトイレに入り、居間に戻ると先輩は赤い顔をしながら私を見つめた。
「大丈夫?気分でも悪くなった?」
「いえ、大丈夫です」
「そう?なら良いけど……私たちに合わせて、無理して飲むことは無いからね」
 夜が更け始めた頃。宇佐見さんと先輩は秘封俱楽部の活動について話し始めた。
 蓮台野で真夜中に墓を回して見えた桜、夢の中で貰ったお土産、新幹線に乗って京都と東京間を移動した時に感じたこと、水面に映る月の話、宇宙に漂流する宇宙船の中で起こった騒動、入院後に起こった先輩の変化。詳しい内容は分からないが、その話はどれも魅力的で、今まで聞いたことのない話ばかりだった。
 お酒が回った先輩は平常時と比べると饒舌で、秘封俱楽部の活動を滔々と語った。時折宇佐見さんが「飲みすぎ」と諫めると、先輩は甘えた声で「良いじゃない蓮子。今日ぐらいは」と彼女に撓垂れ掛る。宇佐見さんは迷惑そうな顔をしながらも、酔った先輩を上手くいなした。
 宇佐見さんは秘封俱楽部の話しになると、決まって黒いノート取り出して眺めていた。それは「秘封俱楽部の活動日誌をまとめたもの」らしく、以前試しに読ませて貰ったが、どのページも附箋やメモ書き、起こった現象の推測などが事細かく書かれていた。
 飲み慣れないお酒を飲んだ影響で些かぼんやりしていると、先輩が傍らにあった鞄から一冊の本を取り出した。それはいつの日か、東棟の三階にあるサークル部屋から先輩が取ってきた燕石博物誌であった。
「これを作る時も大変だったよね。印刷所の締め切りが思った以上に早くてさ、大学の試験や課題も被って四苦八苦しながら、徹夜で内容をまとめ上げて、あの時が秘封俱楽部の活動である意味一番忙しかったかも」
「その本って、二人で書いた物だったんですか」
「実はね」先輩は少し照れくさそうな顔をした「あの時は言えなかったけど、実はあそこが一応秘封俱楽部のサークル部屋ってことにしてるの。あ、無断で借りてるから秘密ね」
 先輩は悪戯っぽい笑みを浮かべる。なんと気なしに宇佐見さんの顔を見ると、彼女は一瞬だけ硬い表情を浮かべたかと思うと、すぐに笑みを浮かべた。
「ねえ、蓮子。もう一回、燕石博物誌だしたくない?」
「勿論。また活動がまとまればね」
 彼女は何処か、奥歯に物が挟まったような言い方をした。そんな返答をする宇佐見さんを、私は初めて見た。
 暫くすると「それじゃあ、明日早いから」「あんまり飲み過ぎては駄目よ」と言い残し、宇佐見さんは帰って行った。彼女が帰ると、部屋の中で膨らんでいた宴会の空気が萎んでいくのが分かり、私も宴会の後片付けをして帰ることにした。
 時刻は二時を過ぎていた。玄関を出ると外は思いのほか寒く、お酒で火照った体には丁度いい気温だった。
「それじゃあ、気を付けて」そういって先輩は、眠たげな欠伸した。「なんだか変な動物が此処らに住み着いているらしいから、真っ直ぐ帰るのよ」
「変な動物ですか?」
 先輩曰く、それは宇佐見さんが言っていたらしい。細長い鼬のような体に、顔は狐ぐらいの大きさで、目と口がやけに大きく、一度眼をつけられたら厄介なことに付いて来るそうだ。
 その動物の姿を、私はありありと想像することが出来た。
 閑散とした人気のない夜道を歩いていると、入り組んだ住宅街の翳から不意に現れて、此方を大きな眼でジッと睨みつける動物の姿を。その眼は、夢の中で布の間から見えた、黒々とした眼孔を彷彿とさせた。
「怖いこと言わないでくださいよ」
「ごめんね、でも女の子なんだから本当に気をつけないとだめ」
 アパートの敷地内に止めておいた自転車にまたがり、黒々とした梢の下をくぐって道路に出る。周囲は明かりが消えた住宅ばかりで、世界が停止してしまったかのように物音一つ聞こえず、微かに聞き取れたのは白川疎水の水が流れる音だけであった。
 先輩の話を思い返し、私は足早に自転車のペダルをこいだ。

      〇

 柳座のカフェスペースで紹介する本のポップを作っていると、加子さんが「お使いに行ってくるから」と言い残し、表に出ていった。店長がそう言って出て行く時は、大抵煙草を吸いに鴨川沿いをぷらぷらと散歩するか、コンビニでお菓子を買うか、もしくは本当に本の買い付けに古本屋に出向いているかのどれかだ。しかし、古本屋が閉まっている今の時間帯に外に出るということは、恐らく喫煙目的だろう。
 幸い平日の夜ということもあり店内は随分と落ち着ていて、二階から漏れ出す映画の音声だけが薄く店内に響いていた。
 勘定場で切り取った吹き出し風のポップをマーカーペンで色を塗り、オススメの本のタイトルと説明を書いていると、柳座のドアが開く音がした。恐らくカフェが目的のお客さんだろうと思いこみ作業に没頭していると、不意に私の手元に翳が落ちた。慌てて顔を上げると、そこには先輩と宇佐見さんが立っていた。
「あ、こんばんは」
「こんばんは、ちゃんと働いているのね」先輩は感心したように、腕を組んでうんうんと頷いている。
「偶然こっちまで来る用事があったから、居るかなーと思って来てみたの。ごめんね、仕事中に」
「いえ、暇なので大丈夫です」
 二人は挨拶を終えると、カフェスペースの席に腰を下ろして、紅茶と珈琲を頼んだ。注文したものが届くまでの間、二人はノートを取り出して色々と議論を交わしているのが見えた。こうして後ろから眺めていると、仲睦まじい男女に見えないこともない。
 少しすると、加子さんが柳座に戻ってきた。私の隣にやって来た彼女の周りには、やはり煙の残り香が渦巻いている。
「ありがとね。何もなかった?」
「大丈夫でしたけど、煙草を吸いに行くならそう言ってくれても良いんですよ?」
「そこはまあ、良いじゃない。堂々と行くのは申し訳なくてね」
 少し恥ずかしそうにしながら、店長は話題を逸らすようにポップを手に取ると「流石、文学少女だね。緻密緻密」とよく分からない褒め方をした。
 加子さんと次月に向けてのオススメコーナーに配置する本の準備をしていると、先輩と宇佐見さんが「じゃあね」と手を振りながら帰って行った。何故か店長は、二人を不思議そうに眺めて、店を出るまで眼で追っていた。
「お友達?」
「友達というか、先輩というか」
「へえ、そうなんだ」加子さんは歯切れの悪い返事をする。
「……二人がどうかしました?」
「いや別に、見たことがあるような気がしてね」
 加子さんは少し顔を顰めると「まあ、いいや」と言い、再び次月に向けてオススメコーナーに並べる本の吟味を始めた。私は不思議に思いながらも、再びポップの製作作業に再び取り掛かった。

     〇

 単位取得の為に課題や小テストを要領良くこなし、出町商店街全体で行うイベントの準備をする為に柳座であくせく働いていると、先輩や宇佐見さんと会うこともなく梅雨を迎えた。
 梅雨に入った京都は非常に蒸し暑く、外に出るだけうんざりした。窓の外から見える、普段なら透き通った高野川も、この時期になると濁った泥水に変わってしまう。雨だと自転車が使えず、徒歩で大学に行かなければならないのが、尚の事私を鬱々とさせた。
 長雨はしとしと陰鬱な雨を降らせ、窓を伝って落ちていく。そんな様子を見ながら学食の窓際でお昼ご飯を食べていると、ガラス越しに先輩の姿が見えた。先輩は菫色の洋傘を差して、どこか強張った表情をしている。恐らく私と同様に、雨のせいで鬱々としているのだろう。私が先輩の姿を眼で追っていると、先輩も私のことに気付いたようで、少し時間を置いて食堂に先輩が入ってきた。
「久しぶり、元気?」先輩は私の隣に座った。
「はい。先輩も元気そうで」
 先輩は一度席を離れると、缶コーヒーを持って再び戻ってきた。それは東棟で起こった出来事を思い出させた。今思えば、あれからもう数ヶ月経過していることに少し驚いた。
「あの夢はもう見てない?」
「夢……はい。そう言えばあまり見てないですね」
「それは良かった」
 そういえば暗い部屋に閉じ込められる夢がきっかけで、このように気軽な関係になれたことを私はすっかり忘れていた。先輩が言わなければ、恐らくあの夢のことも思い出さなかっただろう。
「宇佐見さんは元気ですか?」
「元気みたいだけど、蓮子とは最近会ってはいないのよ。向こうも三回生になると色々忙しいみたいで」
 次の講義まで随分と時間が余ったので、久しぶりに先輩と他愛のない話をした。
 先輩は世界的に解明されていない「結界」についての研究に興味があるようで、大学院の博士課程に進む為に色々勉強しているそうだ。現在秘封俱楽部の活動は一時休止中で、夏休み前後に再開させる予定らしい。
 こうして先輩と話していると、久しぶりに書斎の空気に触れたくなった。そのことを彼女に伝えると「じゃあ待ってるから」と緩やかに笑みを浮かべた。

      〇

 書斎は相変わらず少し湿気た古本の匂いに包まれていた。先輩は私が来ると、いつものように一人掛けのソファーに深く腰を掛けて「君をこうして見上げるのも、なんだか久しぶりな気がする」と言った。
 先輩の淹れる珈琲はやはり美味かった。
「もしかして先輩が珈琲を上手く淹れられるようになったのは、宇佐見さんに関係が?」
「そうよ。蓮子は自分では上手く淹れられない癖に、珈琲や紅茶の味にはとてもうるさいの。本当にめんどうな人。まあ、それも蓮子らしい所なんだけどね」
 いつもは落ち着いて丁寧に話をする先輩だが、宇佐見さんのことになると水を得た魚のように口を動かす。彼女の文句を言う先輩は一見すると怒っているようにも見えるが、実際には怒っていないのが透けて見えていて、殆ど惚気話のような具合であった。
 私が適当に本を読んでいると、先輩もソファーに深く腰を掛けて、黙々と本を読んでいた。照明や窓から射しこむ光の加減で、先輩の緩やかな金色の髪に翳が落ちて黒に染まる。そんな様子を眺めていると、私の視線に気付いた先輩は不思議そうな顔をした。
「どうかしたの?」
「いや、先輩って金色の髪も似合いますけど、黒髪も似合いそうだなぁって」
「そうかな、黒は似合わないと思うけど」先輩は大切そうに自分の髪の毛を撫でると、すると少しだけ眉を潜めた。
「似合いますよ、先輩の瞳の色も相まって凄く」
 ソファーに座っていた先輩が姿勢を直すように体を起こしたかと思うと、読んでいた本を乱暴な素振りで机に置いた。
「だから、似合わないって言ってるよね」
 先輩は怒気が籠った声を私に向ける。すると部屋を取り巻いていた空気が一変して、泥で濁ったかのように重苦しいものに変わった。ソファーの上から私を見下ろす先輩の眼は震えていて、その顔は怒りを燻ぶらせるケモノを思わせた。
 私がすぐ謝ると、先輩はこちらを睨みながら無言で立ち上がり足早に居間から出て行く。先輩が後ろ手に閉めた扉越しに、勢いよく扉が閉まる鈍い音が聞こえた。
 部屋に取り残された私は帰る訳にもいかないので、座布団の上で所在なく先輩の帰りを待つことにした。
息苦しい部屋の空気が時間の流れすらも鈍らせているのか、一分一秒がやけに長い。どれほどの時間が経過したのかは分からないが、再び廊下の方からドアの開閉する音がして、先輩が部屋に戻ってきた。その顔は先程とは打って変わり、線が細い顔の輪郭が更に窶れ、顔色も青白く芳しくない。白い磁器の仮面が、先輩の顔を覆ってしまったかのようだ。
「先輩、本当にすみませんでした」
 深々と首を垂れて顔を上げると、先輩は笑っているのか、泣いているのか、曖昧な表情を浮かべていた。
「いや、こちらこそごめんなさい。なんだか急にムキになっちゃって……申し訳ないけど、体調が優れないから、今日はもう帰って貰っていいかな?」先輩は声を震わせながら、生気のない眼をこちらに向ける「本当に、ごめんね」
 部屋から出る時、私は流し目で先輩を見た。先輩の顔に覇気は無く、無気力にソファーに凭れ掛かり、無機質な西洋人形のように虚空を見上げていた。
 部屋を出て玄関に向かう途中、廊下に少し黴臭い匂いが漂っていることに気付いた。それはトイレの隣にある部屋の前になると一段と濃く、先輩の家でこのような不快な匂いを嗅ぐのは初めてのことであった。
 先輩は先程まで、この部屋に居たのだろうか。
振り返って居間に繋がる扉に眼を向ける。すると、扉のガラス越しに一瞬細長い翳が飛ぶように横切った。
 何故か私は先輩に見られているような気がして、直ぐに玄関から外に出た。

      〇

 数日後。久しぶりに宇佐見さんから連絡が入った。それは「少し相談したいことがある」と言う内容で、彼女が指定した日が丁度昼頃にアルバイトが終わるということもあり、柳座で待ち合わることになった。
 仕事着のエプロンを脱いでロッカーのある部屋から出ると、白黒の動物達がプリントされたトートバッグを肩から下げた宇佐見さんが、平積みされた本を眺めているのが見えた。私が声をかけると「お、久しぶり」と快活な笑顔を浮かべた。
 京都の空を暗雲がすっぽりと覆い、連日長雨が降り続いている。一階のカフェと書店のスペースの東側にある、大きな窓硝子を雨が這い落ちて、ぬるぬると蛇行しながら地面に這い寄って行く。
雨天と言うこともあり、改めてお店を選ぶのも面倒だったので、柳座のカフェで話すことになった。私と宇佐見さんはカウンター席に横並びに座ると、私はアイスティーを、彼女はアイスコーヒーを注文した。
「やっぱり三回生は忙しいですか?」
「うーん、思っていたよりもやることが多いから時々うんざりする。君みたいに、大学とアルバイトを両立するなんて、私には無理」
「そんな、大げさですよ。ここは割と自由にさせてくれるので、他と比べて少し楽な部類だと思います」
 私たちが注文したものが届き一旦話が途切れると、宇佐見さんは珍しく眉を顰めて話を切り出した。
「相談というのは、実は彼女についてなんだ。君は『燕石博物誌』って本、覚えてる?」
「えぇ。確か燕石博物誌って、確か宇佐見さんと先輩が出した本でしたよね」
私がそう言うと、宇佐見さんは厭な物を見たように顔をして重い息を吐いた。
「その本なんだけど、私は制作に関わっていないんだ」
「え?」
 一瞬、周囲の騒めきが遠のいて、曖昧なものになる。柳座の窓に打ち付ける雨の音だけが、何故かよく聞こえた。こちら見据える宇佐見さんの瞳は、やけに冷ややかな印象を覚えた。
「でも、先輩は秘封俱楽部の活動で作ったって」
「私も彼女に同じことを言われたよ。けれど、私には何のことだかさっぱり分からなくてね」
 宇佐見さんはトートバッグから一冊の本を取り出した。それは先輩が持っていた燕石博物誌と同じもので相違ない。すると彼女は、おもむろに燕石博物誌の一番後ろのページを開いた。そこには本の発行日、著作権の有無、印刷所などが書かれていて、肝心な著者の部分には「Dr.レイテンシー」と書かれていた。
「Dr.レイテンシー?」
「うん。彼女曰く、これは自分のペンネームで私と一緒に考えたと言っていた。無論、私にそんな記憶はない」
 私は舌がひりつくのを感じて、アイスティーを飲んだ。宇佐見さんはその間も、燕石博物誌のページを捲る。
「燕石博物誌の内容は、秘封俱楽部の活動で体験したことが綴られていて、私もよく覚えている。でも、後半に進むに連れて私が知らないことが書かれているんだ」
 宇佐見さんは暮れときの、薄暗い空を思わせる眼を細めて本を見つめている。その姿を見て、私の鼓動は不規則に波打ち、やり場のない焦燥感を覚えた。
 柳座の空気は、雨水が染み込んだかのように重たくなっていく。
 本を見つめたまま沈黙していた彼女が、言葉を机に落として行くかのように淡々と話を続ける。
「前にも言った通り、彼女には不思議な力がある。しかし、場合によっては、その夢に現実が侵されることがあるんだ。君が暗い部屋を連日見たようにね。だからこの『燕石博物誌』も、その一つだと思っている。つまり、この本は彼女一人で書いたけど、秘封俱楽部として書いた本だと、彼女は誤認していると私は考えているの……これは例えばなんだけど、彼女からおかしな話を聞いたり、不思議な行動を見たりとかしてない?」
 その話を聞いて、先日先輩が酷く取り乱した様子を思い出した。
 私は秘匿すべきか悩んだが、心配が勝ったので、先日先輩の家で起こったことを話すと、彼女は細かく咀嚼するような素振りで言葉を飲み込んだ。
 話を終えると彼女は、苦々しい顔をして無言のまま俯いている。商店街の屋根を跳ねる、低い音が互いの鼓動のように響く。カフェの店員が、ざりざりと珈琲豆を擂り潰す音が、やけに騒がしく感じた。
「私も、その様子には覚えがある」
 宇佐見さんは、その日のことを語った。
 それは今年の節分祭の日だったという。

     ○

 吉田山にはまだ残雪が残り、空気は冷え冷えとしていた。
 連なった提灯の灯りが参道を濡らしていて、それがより一層のこと吉田山に溜まる翳を濃くしている。一度参道の灯りから足を踏み外せば沈み混んでしまうような不安を覚えたが、それを覆い隠すように吉田山は節分祭を楽しむ参拝客の熱気で賑わっていた。
 私と彼女は本殿にお参りをすませると、適当に屋台をまわって軽食を買い込んで、紅白柄のテントが張られている休憩スペースに潜りこんだ。
「なんだかお祭りって感じね」そう彼女は楽しそうに言うと、コンビニで買ったお酒を小さな机の上に置いてベンチに腰を掛けた。
 屋台で買った焼きそば、たこ焼き、しなびたフライドポテトをつまみに私達はお酒を飲んだ。足りないお酒やつまみは屋台で買い足しながら、節分祭の成り立ちや他愛のない話をした。
 お参りに来たのが少し遅かったのもあり、気が付くとテントに居た参拝客はまばらになっていた。人が居なくなり、風も随分と冷たくなって来たので、彼女の家で飲み直そうということになった。
紅白のテントから出て吉田神社の参道を下る。道に沿って軒を連ねていた屋台は片付けの準備に入っていて、祭りの後の寂しさが漂い始めていた。
「お祭りの日って不思議よね」彼女は愉快気に白い息をふわっと吐く「お祭りの日って、いつも避けている暗がりがそこら中にあるはずなのに、お祭りの空気に酔って、誰もが夜だってことを忘れているように思うの」
「何となく分かるかも。私はお祭りって日常に空いた穴のように感じる」
「穴?」
「うん。お祭りって日常に空いた大きな穴で、その中を歩いて行くと、この街の裏側に行ける気がするんだ」
「その発想、何だか蓮子らしいね」
 そう言うと、彼女は赤ら顔を綻ばせる。私も彼女に釣られて笑みがこぼれた。
 気が付けば吉田山の西側にある大きな鳥居が見えていた。鳥居をくぐる寸前の所で、突き刺さるような強い木枯らしが吹いて、私達の周囲にある木々をごわごわと揺らす。枯葉が舞い、提灯たちが擦り合い軽い音を上げて、他の参拝客は軽い悲鳴を上げて風に不満を漏らしているのが聞こえた。
 私は帽子を抑えながら、彼女の方を見た。
 彼女の顔は先程まで見えていた柔和な表情とは打って変わり、困惑したように大きく眼を見開いていた。私は何か声を掛けようとして、彼女に一歩近づくと、彼女は怒気の籠った声で「止めて」と叫んで後退りをした。
 状況が飲み込めずに困惑していると、彼女の顔から徐々に感情が消えていき、無表情で私を見つめる。しかし、彼女の眼をよく見てみると、その視線は私の後ろに向かって注がれていた。
私が振り返ろうとすると、彼女は私の腕を強く掴んで「駄目、蓮子」と言い、東大路通に向かって駆けだした。腕を掴む彼女の手はやけに汗ばんでいた。
 彼女に手を引かれるがまま東一条通駆け抜けると、鴨川が見えるか否かという所で失速していき、最後には川端通の手前で弱弱しく地面に座り込んだ。
 私は羽織っていた上着を脱いで、衣服に籠っていた熱を外に逃がした。汗で濡れた肌着が、外気に触れた途端に冷えていき、容赦なく私の体温を奪った。
「大丈夫?」アスファルトに座り込み肩で息をする彼女の顔を覗き込む。
「分からない」
 そう言うと彼女は首に巻いてあったストールを解いて私に手渡す。羽織っていたベージュのトレンチコートの前を開けて緩慢に立ち上がると、もう一度私の手を握った。彼女の手は微かに震えていて、視線も定まっておらず、動揺しているのは明らかであった。
 理由を聞こうとすると、彼女が先に口を開いた。
「貴方の後ろにケモノが居た」
「ケモノ?」
「えぇ、この街に潜んでる生き物よ。貴方、教えてくれたじゃない」
彼女は息を切らしながらも説明を始めた。ケモノとは、鼬のような細長い胴体を持ち、顔は狐のようで目と口が異様に大きいという。
「蓮子、覚えてないの?」
「覚えてないと言うか、初耳だけど」
「どうして? 貴方が言ったのよ」
 彼女は俄かに声を荒げたかと思うと、顔が強張り定まらない視線を地面に落とす。私は取り敢えず、彼女を自宅まで送る届けることにした。彼女は歩いて帰ることを頻りに嫌がり、川端通を北に上がって出町柳駅近辺まで行くと自動運転の小型タクシーが停車していたので、それに乗り込んで彼女の家に向かった。
「今夜は帰らないで欲しい」彼女は憔悴しきった声で言った。
タクシーの扉に身を預けて彼女は窓の外を眺めている。その瞳には何も映っては居らず、車外にある暗闇と同じく黒々としている。
 腕時計を見ると、時刻は二十三時を少し過ぎていた。
「蓮子が時計を見てる」
 彼女は無気力な眼だけをこちらに動かし、嘲笑した口ぶりで呟いた。
「……可笑しい?」
「別に、でも今は夜じゃない」口元だけの笑みを浮かべて、彼女はもう一度外を眺めた。
 家に着くと、彼女は真っ先に布団を敷いて直ぐに休んだ。私は夜に起こった一連の流れが気にかかり、彼女の寝息に耳を済ませながら夜を明かした。

     ○

 節分祭での出来事を聞いた私は、何故か妙に「ケモノの話」が耳に残って居た。
「私も先輩から、『宇佐見さんからケモノの話を聞いた』って聞きました」
「そうだね、彼女もそう言っていた。けれど、私はケモノなんて知らない」
 宇佐見さんの話が本当であれば、先輩は私にも同様の嘘をついたことになる。
 私は何故か、それを強く否定したかった。
 時間が経つに連れて、徐々に宇佐見さんの言葉が何処か疑わしく思えた。
 本当に嘘ついているのは、この人ではないかと、心の奥からふつりふつりと疑念が沸き立つ。それこそ先程言った、「先輩は見た夢に現実が侵されることがある」「燕石博物誌は秘封俱楽部で書いたと誤認している」と言ったが、本当におかしくなっているのは、この人ではないか?
「ところで宇佐見さんは、どうして秘封俱楽部に入ったんですか?」
「……どうしたの、急に」
「いえ、気になっただけです」
 質問に答える前に、宇佐見さんは鞄の中から何時ものノートを取り出して、机の上に置いた。彼女がそのノートから手を離した隙に、私は素早くノートを攫い胸に抱え込んだ。
 私は以前から疑問だった。それは、宇佐見さんが秘封俱楽部の話をする際には、必ずと言って良いほど黒いノートを開いていたことだ。逆に言えばノートが手元にないと、彼女は秘封俱楽部の話を殆どしなかった。
「おい、なにをするんだ」彼女は眼を見開き、私をキッと睨みつけた。
「このノートを見ずに、私の質問に答えて下さい」
「まずはそれを返して」
「質問に答えるのが先です。もしかして、これがないと分からないんですか?」
「そんなことない」彼女は言い淀みながら答える。表情から徐々に余裕がなくなり、視線は光に群がる羽虫のように乱れていく。
「では答えてください」
「……ふざけないで」
 そう言うと宇佐見さんは立ち上がる。彼女の顔は、先日先輩が見せた怒りを燻ぶらせるケモノの顔を彷彿とさせた。
 私は初めて、宇佐見さんに対しての恐怖心を覚えた。そして先程芽生えた猜疑心が確信に変わる。
 彼女は、宇佐見さんじゃない。
 すると宇佐見さんは私を睨み付けながら、右手を大きく振りかぶった。
 椅子から立ち上がることすら出来ず、ただ頭を伏せてノートを抱え込むようにして体を縮み込ませた。反射的に眼が閉じて、視界が一瞬閉ざされる。
 顔を伏せたとき、何かが大きな音がした。それから一寸、静寂が流れた。
 どれほどの間、私は痛みに怯えていたのだろうか。少しして、自分がノートを抱えたまま、まだ椅子に座っていることに気付いた。
 恐る恐る顔を上げると、宇佐見さんの腕を捉えて床に押さえ込んでいる加子さんの姿が目に入った。彼女は加子さんの下で、捕縛された動物のようにか細い声で喚いている。
「大丈夫?」加子さんの問いに、私は首を縦に振る「そりゃ良かった」加子さんは私に笑顔を見せると、視線を落として宇佐見さんを睨みつけた。
「止めて! 離せ、離して」
「離さない! こんなか細い子を殴ろうとして!」
「それは、その子が私のノートを取ったから」
「アンタねぇ……途中から見てたけど、あんな質問ぐらい答えてあげなさいよ」
「……」
「答えられないんですよね、宇佐見さん」私はノートを机の上に置き、倒れている彼女の前に立つ「あのノートがないと、分からないんですよね?」
 私を見上げる宇佐見さんの瞳孔が大きく揺らぎ、火を吹き消したように一瞬で眼から怒りが抜けると、彼女の眼が俄かに濁った。
「そんなわけ、ないでしょ」
 彼女は唇だけを動かして呟いた。それはまるで、自分に言い聞かしているように見えた。
「ねえ」宇佐見さんの虚ろな眼が私を見詰める。「私は、宇佐見蓮子なのよね?」
 抵抗する意思がないことを感じた加子さんは、捉えていた彼女の右手を離す。その手は糸が切れたように力なく床に落ちた。
「どうする? 取り敢えず警察でも呼ぶ?」
「いや大丈夫です。一先ずは落ち着いたようなので」
「分かった……アンタ、この子に感謝しなよ」
 加子さんは宇佐見さんの背中から降りて、服についた砂埃を払いながら立ち上がる。宇佐見さんは少し何かを呟いてから、脱力した様子でぬらりと立ち上がると、乱れたシャツも、床に落ちた中折れ帽子も意に介さず、緩慢な動きで柳座から出て行き。雨の中に溶けるように消えて行った。
 この日から、私は宇佐見さんの姿を見ていない。

 ○

 宇佐見さんが残して行った荷物一式は忘れ物と処理された。しかし、忘れ物の預かり期間を過ぎても彼女が現れなかったので、一旦私が預かることになった。
 本来であれば警察に届ける手筈なのだが、事情が事情だったこともあり、加子さんは直ぐに承諾してくれた。
 私は持ち帰った宇佐見さんのノートを開いた。最初の頁には二年前の日付が書かれていて、そこには先輩と宇佐見さんの名前が書かれていた。頁を捲り、日付が二ヶ月程過ぎた辺りで「秘封俱楽部」と言う単語が登場したが『何故秘封俱楽部と名付けたのか』という詳細は一切記されてはいなかった。
 つまり、あの場で宇佐見さんにノートを返していたとしても、彼女は正確に答えることが出来なかったのだ。
 私は、宇佐見蓮子なのよね?
 彼女の言葉が脳に響く。
 もし私が知っている宇佐見さんが「宇佐見蓮子」でなければ一体誰だったのだろうか。誰が宇佐見さんになっていたのか、もしくは誰が彼女を宇佐見さんにしたのか。
 ノートを読み進めて行くと「信州にあるサナトリウムに先輩を迎えに行った」という記述を過ぎた辺りから、筆跡に変化が訪れた。日付は今から半年程前、節分祭の前後ということになる。
これは推測だが。恐らく節分祭よりも前に本物の宇佐見さんに何か起こり、あの宇佐見さんにすり替わったのだろう。しかし、そんなことが起これば、当然先輩は気付く筈だ。例え、宇佐見さんと瓜二つだとしても、同じサークルの仲間であり友人が偽者にすり替わっていたら、こんな長期間気付かない筈がない。
 それを承知で、先輩があの宇佐見さんと秘封俱楽部を続けていたとしたら。
 若しくは、先輩も本当の「先輩」ではなかったとしたら。
 そう考えると、私は腹の底から胸にかけて、何か冷たいものが込み上げて息が詰まりそうになった。
 私が先輩と会ったのは、確か昨年の十月頃だ。万が一、私の仮説が正しければ私が出会った先輩と、今の先輩は同一人物ではないことになる。何故私は、そのことに気付かなかったのだろう。
 私は、宇佐見蓮子なのよね?
 宇佐見さんの言葉が、頭から払拭することが出来ない。私の顔に幾つも汗が伝い、髪の毛がぴったりと頬に厭らしく張り付く。宇佐見さんに向けた疑念が、私を見つめた。
 私は。
 私は本当に、「私」なのか。
 体は無意識の内に、机の引き出しを開けて日記を取り出していた。そこに記されているのは、私の日常の積み重ねであり、私という存在を証明するものばかりの筈だ。
 しかし、そんな積み重ねが一体何になると言うのだろう。それは、宇佐見蓮子のノートに縋って自分を保っていた、あの宇佐見さんと同じではないか。
 気分が悪い。そう思い、私は寝支度を始めた。
 洗面台の前に立ち、私は自分の姿を見る。そこに映る自分が疲れ果てたように窶れており、生気が感じられない。
 鏡に映る亜麻色の瞳が、こちらをジッと眺めている。
 その瞳は、白い布の間から此方を覗く眼孔と似ている気がした。

     ○
 
 宇佐見さんを見かけなくなってから、二週間が過ぎた頃。珍しく先輩から電話が入った。電話の内容は「数日間蓮子と音信不通になっている。彼女のことについて何か知らないか?」と言うものだった。
彼女が行方不明になったきっかけは、恐らく柳座での一件が原因だろう。だが、その日の出来事を先輩に話すことはなかった。
 前回のこともあり、二人だけで会うのを避けたかった私は、今出川通にある「コレクション」というカフェに先輩を呼んだ。会うのは私のバイトが終わってからで、十六時頃と決まった。
 昼過ぎの忙しい時間帯が過ぎた柳座は閑散としている。私が勘定場の前で暇そうにしていると、外部喫煙から戻ってきた加子さんが、私の隣に座り「そういえば」と何処かわざとらしく口を開いた。
「この前の君を殴ろうとした、宇佐見さんだっけ? その子と一緒に居た金髪の女の子、何処かで見覚えがあるなーって思ってたんだけど、思い出したよ」
 加子さん曰く。それは今年の節分祭の日だったらしい。
 節分祭は例年通り賑わいを見せていて、参道は人で溢れていたと言う。加子さんは二歳年上の彼氏と一緒に祭りに来ていて、真っ赤なりんご飴やら、ほくほくと湯気を上げるベビーカステラを奢ってもらいつつ、ビールを飲んで大いに楽しんだらしい。
「お祭りって、沢山人が来てるけどさ、その中で何故か目で追ってしまう人とか、何だかよく会うなーって人いるじゃない? あの二人がまさにそうだったの」
 彼氏と二人で節分祭を楽しんでいた彼女は、自分の視線に同じ姿の人がよく映ることに気付いた。それはリネンワンピースにストールを肩から下げた金髪の女性と、白いリボンが着いた中折れ帽子にダスターコートを羽織った女性の二人組だったと言う。
 加子さんは「あ、来ているな」と思ったそうだ。
 彼女の祖母は随分と信心深かったそうで、何かにつけて幼い加子さんに色々と教訓めいたことを教えていたらしい。その教えの中で「お祭りの中で、似ている人を何人か見つけても気付いた素振りをみせてはいけない」というものがあった。
 お祭りとは彼岸と此岸の境界が曖昧になり、人間もそれ以外も集まって来るらしい。人間ではないものがお祭りに参加する際には「参拝客の背格好を真似る」ので、必然的に同じような姿や服装の者が多くなってしまうそうだ。もし、そのことに気付いてしまったら、素知らぬふりをしてやり過ごすしかないという。
 宇佐見さんと先輩らしき二人は、混雑する人だかりの中でもよく視界に入った。彼女達を見かけた場所は、どれも提灯の光が灯る場所ではなく。雪が多く残る外灯の隅や、人気が無い草木の前、屋台の隅が多く、その姿は何かを探しているような素振りに見えたらしい。
 一度意識してしまうと、自分達を取り巻くお祭りの空気が何処か薄ら寒いような、自分の知らない京都に迷い込んでしまったように感じてしまい、加子さんは耐え切れず彼氏に我儘を言って、吉田神社を大学の正門が見える西側から抜け出したそうだ。
 一の鳥居を抜けると、冷たい風が吹き荒んだ。その時、後ろ髪を引かれるような思いがして振り向くと、加子さんたちが下りてきた参道を駆け上がる、一匹の白くてひょろ長い動物か何かが、節分祭の賑わいの中に消えて行くのが見えた。そして、それと入れ替わるようにして、宇佐見さんと先輩が雑踏の中から現れたという。
「あれが何かは分からないけど。あの動物がおばあちゃんの言ってた『人以外』だと私は思うの」
 加子さんが話を終えると、丁度仕事が終わる時間になっていた。私は先輩に会いに行くことを、加子さんに見透かされているような気がした。
 出町商店街の軒の下を抜けて傘を差すと、生地の上を跳ねる雨水の音が高く響いた。加茂大橋に差し掛かると、連日続く雨で水嵩が増えていて、鴨川はごうごうと唸りながら橋を揺らしている。欄干からは芥を含んだ泡沫が浮かんでは消えて行き、当てもなく流れて行くのがよく見えた。
 コレクションに着いたのは、丁度十六時頃であった。暗雲が垂れ込めているからか、六月にしては周囲がやけに暗く感じた。
 店内に入ると、左側の調理場の前にある幾つかのボックス席の一番奥を選んだ。席に座ると、見計らったように携帯端末の着信音が鳴った。着信は先輩からだった。
 電話に出てみるも先輩の声は聞こえず、代わりに電話の向こう側からは葉が擦り合わさるような音が小さく聞こえた。私がおずおずと「もしもし」と言うと、向こうから「あぁ、もしもし。繋がってたのね」と、何処か空虚な先輩の声が聞こえた。
「どうしたんですか?」
「いや、遅れそうだから電話したの。ごめんね、待たせてしまって」
「それは良いんですけど、今どこですか?」
「大学だけど、どうしたの?」
 私は電話越しに、先輩と宇佐見さんが一緒に並んでいる光景が浮かんだ。
「先輩、もしかして宇佐見さんと一緒にいるんじゃないですか?」
そう言うと先輩は一寸程間をおいて「何を言ってるの? そんな訳ないじゃない」とおどけた様子で返事をした。
「まあとにかく、待っていて」
そう言い残し、先輩は乱暴に電話を切った。
 先輩を待つ間。紅茶を頼み、鞄の中に入れてあった本を読んだ。来店当初は人通りがあった今出川通も、時間が経つに連れて寂しくなって行き、気が付けば硝子越しに見えるのはしとしとと降る雨だけであった。店内の空気は私以外の客が居ないのか、しんと静まり返っている。
 私が異変に気付いたのは、丁度紅茶を飲み終わった頃だった。
 本から視線を外して、何の気なしに周囲を見渡すと、店内はあまりにも静か過ぎた。
「すみません」と大きな声で店員に呼びかけるも、店員の気配は微塵もない。カウンターの奥にある厨房を覗いてみたが誰も居らず、店の二階に上がる階段に向かって声を掛けてみるも、階段の奥に溜まる暗闇に声が吸い込まれて行くばかりであった。
 私はもう一度先輩に電話をした。
 五回ほどコールが続くと、先輩は電話を取った。しかし、先程と同じように電話の向こう側から声はしない。その代わりにぽつぽつと雨が窓を小突く音と、小さく何かが唸っているような音が聞こえた。
 電話越しに幾ら先輩を呼びかけるも返事はなく、私はカフェの硝子越しに見える大学の統合研究所と、その隣にある東棟を見上げた。統合研究所と東棟はどの階も黒々とした闇が注ぎ込まれている。
 その二つを見上げていると、私は東棟の三階の一番奥の非常灯の存在を思い出した。
もしかして電話越しに聞こえる何かが唸っている音は、非常灯が発していた低い機械音ではないか?
「先輩、サークル部屋にいるんですか?」
 そう投げかけるも電話は既に切れていた。携帯端末のディスプレイには十九時と時間だけが表示されている
 私は財布から千円札を取り出してテーブルに置くと、傘も差さずに今出川通に飛び出した。

    ○

 闇は何処までも深く、廊下は長く続く暗渠を思わせた。
 私は階段を上り、一番上の階に辿り着く。左手に連なる窓からは、寝静まった京都の町並みと、黒々とした輪郭を浮かび上がらせる大学の北校舎が見えた。
 歩く廊下の最奥には、頼りない緑のランプが低い唸り声のような機械音を出して、闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。かつんかつんと足音を響かせながら、その光に向かって進み、一番奥にあるサークル部屋の扉の前に立った。
 扉を開けると、古い木材の香りと何処か黴臭い匂いが私の傍らをすり抜ける。そこには長机が部屋の真ん中に二つと、東側にある壁には大きな棚が備え付けてある。南側にある窓からは、翳ばかりとなった木々の梢が外灯の光を遮っており、一層のことサークル部屋を陰鬱とさせていた。
 部屋の真ん中に置かれている長机に、それはあった。
 それは白い布で包まれた四角い一斗缶程度の大きさで、薄暗い部屋の中でもそれだけはありありと細部に至るまで目視出来た。私はそれに近付いて布の結び目を解くと、その中からは夢と同じように木箱が現れた。木箱の上面の端には蝶番が打ち付けてあり、観音開きの構造になっているのも同じであった。
一度だけ深呼吸をして、私は箱を開けた。
 その中は全て鏡となっていて、箱を覗き込む私の翳が箱の底にある鏡に映り、黒く蠢いている。鏡の角度が微妙に調節されているからか、残りの四つ面にある鏡も、同じような翳を映し出していた。暫く箱を覗き込んでいると、鏡の底に沈んでいた翳が、水面から浮かび上がるように、近づいて来るのが分かった。
 私は夢の中で見た光景を思い出した。
 箱の中から浮かび上がる翳は時間が経つにつれて、より鮮明に成形されていく。
金色のウェーブ掛った髪の毛、磁器のような肌、整った目鼻、そして最後には亜麻色の瞳が私を見据えていた。
「先輩、ここに居たんですね」
 箱の中から浮かび上がる先輩の頭を両手で掬い、胸に抱く。
それが酷く懐かしい感じがして、私の頬に一筋の涙が伝った。
 気付けば外に降る雨は雪に変わり、息は白くなって部屋を漂い消えていく。窓を遮る木々の葉は枯れて消え、構内の様子が一望出来るようなった。
 しんしんと雪が積もる吉田山の方から、ぼんやりと夜に浮かぶ光と、夜を遮る賑やかな声が微かに聞こえた。
 机の上にあった箱は、音もなく忽然と姿を消していた。
 早く戻らないと。
 そう思い、私は吉田山の節分祭に向かった。

     ○

 吉田山は節分祭で随分と賑わっていた。
 色鮮やかなテントが軒を連ね、道順に沿って吊るされた提灯は参道を温かな光で濡らしている。整備された道の脇には除けられた雪が積み上げられていて、それを子供達が手に取って遊ぶ姿がよく目に付いた。
甘い匂いを漂わせる真っ赤なりんご飴、香ばしい飴色のタコ焼き、鉄板の上で踊る焼きそば、愉快気に水に浮かぶ水風船、香ばしい匂いのからあげ、怪しげなクジ引き。様々な屋台の中から、適当に良さそうな物を買い込んだ私は、設営されているテントの一つに潜り込んだ。
 テントの下は参拝客の椅子とテーブルが置いてあり、どこもかしこも赤ら顔の老若男女で埋め尽くされている。彼らが座る席を縫うように歩きながら周囲を見渡していると、私に気付いた彼女が笑顔を浮かべて手招きをしていた。
 足早にそちらに駆け寄って彼女の向かい側に座り、手に持っていたものを猫の額ほどの卓袱台に置く。
「メリー、こんなに食べるの?」と蓮子は驚いた顔をした。
 宇佐見蓮子は、私ことマエリベリー・ハーンを、メリーという愛情と略称を込めた愛称で呼んでくる。初めは変な気分だったが、二年以上経過すると気にならなくなっていた。
「二人だから、これぐらい食べれるでしょ?」
「どうかなぁ。まあなんとかなるか」
 私が屋台で貰ったビニール袋から、たこ焼きやからあげを取り出していると、彼女は鞄の中からレモン缶酎ハイを取り出して、トンっと机の上に置いた。
 二人で缶酎ハイのプルタブを開けて「乾杯」と言い、缶を軽く重ね合わせた。

     ○

 気付けば時刻は二十一時を過ぎて、周囲は来た時と比べると随分と寂しくなっていた。
 お祭りの終わりも近くなり、店仕舞いをする屋台も増えて来たので、吉田山を下りて白川疎水近くにある蓮子の家で飲み直そうかということになり、いそいそと片づけをはじめた。
「お祭りの日って不思議よね。いつも避けている暗がりがそこら中にあるはずなのに、お祭りの空気に酔って、誰もが夜だってことを忘れているように思うの」
 そう言うと、蓮子は赤ら顔をしっとり綻ばせた。
「何となく分かるかも。私はお祭りって世界の表と裏を繋ぐ入り口のように感じる」
「入り口?」
「うん。お祭りの会場には、世界の表と裏を繋ぐ入口が何処かに隠されていて、その入り口を潜って奥に進めば進むほど、京都の裏側に大きな秘密に近づける気がするんだ」
「その発想、蓮子らしくて私は好き」すると私達は互いに顔を見合わして、鏡合わせのように笑った。
参道を下りて行くと辺りは俄かに混み始めた。私は何処か酷く恐ろしくなり、蓮子にお願いして手を繋いでもらった。
「なんだろう、少し照れるな」蓮子は困っているような、喜んでいるような曖昧な表情を浮かべた。
「なんだか怖いの。またはぐれたら、蓮子と会えない気がして」
「そんなことあったっけ」
「うーんよく覚えてないのよね。何となく思い出したの」
 参道を下りながら、私達は今日のこと、昨日のこと、何時かあった日のことを話した。そんな他愛のないことが、酷く懐かしく思えた。
「メリー大丈夫? なんだか複雑な顔をしているけど」
 蓮子は私の顔を横目で覗き込む。
「大丈夫、ただこうしていることが嬉しくて」
「なにそれ?告白?」
「かもしれない」
 吉田神社の北参道を通って今出川通に出た私達は、白川疎水通まで行き、川に沿うように歩いて蓮子の自宅に向かう。
 しんしんと冷え込んだ古い町並み、穏やかな白川疎水、ぽつぽつと等間隔に並ぶ街灯。見慣れたはずの風景に、私は何故か泣き出してしまいそうな寂寥感を覚えた。
 その間も蓮子は私がはぐれないようにと、しっかりと手を握ってくれていた。

     ○

 私が眼を覚ますと、雪原みたいな物が滲んでみえた。
 眼鏡が無いのか、視界はやけにぼやけている。辺りを見渡していると、右隣にある大きな人影が動いた。
「お、すみちゃんやっと起きたか」
「ええっと、はすおさん? よね」
「そうだよ、忘れたか?」そう言うと、蓮生兄さんは可可と笑った。
 蓮生兄さんは私の親戚筋にあたる人で、私と年齢が近いことや、家も近所ということもあって仲が良く、時折私が入院している深見南市民病院までお見舞いに来てくれることがあった。正直なところ母や父よりも、蓮生兄さんが来てくれる方が気安く接することが出来るので嬉しかった。
 手探りで眼鏡を探していると、蓮生兄さんは私の手に赤いセルフレームの眼鏡の置いてくれた。
「もう少しで退院だっけ?すみちゃんも大変だね、高校の入学早々に」
 私が入院したきっかけ。それは、私が両親と共に西深見市の自然公園付近にある宇佐見家の生家に行く道中で「事故」にあったからだという。何故曖昧なのかと言うと、私がその事故に遭う寸前の記憶が一切なく、気が付くと病院の布団で寝ていたからだ。
 事故の種類は「交通事故」だと、家族やお見舞いにきた親族は口を揃えて言った。けれども私の体に外傷は一切なく、また加害者の人とやり取りをしたような話も耳には入って来ない。不思議に思いながらも、何故か両親に自分が入院するきっかけを追及出来ずにいた。
 蓮生兄さんが差し出した眼鏡を掛けると、サイドテーブルにある鏡に自分の姿が映った。その姿を見て、私は妙な違和感を覚えた。
「ねえ、私ってこんなんだけ?」
「……何が?」
「私の顔立ちとかって、こんな感じ、よね?」
 彼は怪訝そうな顔をして、私の顔をジッと見据えると、少し笑いながら「まあこんな感じだろ」と言った。
「どうかしたか?」
「そうよね……いや、なんだか自分の顔を一瞬忘れちゃってたみたい」
「おいおい大丈夫か?」
「うん。たぶん見た夢のせいだと思う」
 そうして私は、見た夢の内容を蓮生兄さんに語った。京都の町で大学生として暮らし、金髪がよく似合う同回生と不思議なサークルを立ち上げ、可愛い後輩と過ごした夢を。小説が好きな彼は私の話を食い入るように聞いてくれ、興味深そうに相槌を打ち、愉快そうに笑顔を浮かべた。
 夢の話で一頻り盛り上がると、私は夢に出て来た箱の存在を思い出した。
「夢の中で不思議な箱の話が出て来たの。それだけは、何だか分からなかったなぁ」
「箱ねえ……」蓮生兄さんが、腕を組んで少し考え込むような素振りを見せた。
「蓮生兄さん、何か心当たりがあるの?」
「うん、確かおじいちゃんが誰かに『箱の中に細長い変な生き物の剥製が入ってて驚いた』って話を聞いたことがある」
「剥製?」
「うん」
 彼の話を聞いて、私は何故か夢の中で見た白いケモノを思い出した。
「おじいちゃんってことは、実家よね?」
「たぶんなぁ」彼はサイドテーブルに置かれていたチョコ菓子を手に取ると、封を開けて口の中に放り込む「その話を聞いたの、たぶん俺が小学校の頃だから、もう十年ぐらい前だけど」
「それ、本当にあると思う?」私がそう言うと、蓮生兄さんは厭な顔をした。
「……まさかと思うが、探しに行くのか?」
「内緒でね」
「一応言っとくけど、止めとけ。まあ聞きやしないんだろうけど」
「その時は蓮生兄さんも手伝ってくれる?」
「俺は大学が忙しいんだ。彼女に学業、麻雀にサークル活動もしなきゃならん」
「ふふん。じゃあ実行する時には、早めに声をかけるわ」
 そうこうしていると、看護婦が「宇佐見菫子さん」と呼ぶ声が聞こえた。話し込んでいる内に、夕食の時間になったようだ。
 蓮生兄さんは「もうそんな時間か」と立ち上がり、私の暇つぶしの為にと、古い小説を一冊残して帰っていった。
 私は不味い病院食を無理に食べながら窓の外を眺める。
 南市民病院は小高い丘の上にあるので、深見市を一望出来るのが良い点だ。街並みの果てに沈み行く夕日が、強い残光を残しながら街並みを茜色に染める。深見市郊外に繋がる幹線道路、ごつごつと不格好な外見の深見市立図書館、街をゆるゆると流れる境川、ミニチュアのような瀬谷本郷公園が迫る夕闇に沈んでいく。
 そんな見慣れた風景が何故酷く懐かしいものに感じて、私の頬に一筋の涙が伝った。
鳥天ざるうどんが食べたいです(最近値上がりしました。悲しいね)
鉄骨屋
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
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面白かったです!
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面白かったです。文中の自我の不確かさや秘封そのものへの違和感の描き方がとてもきれいでした。