鰻が食べたいわ、とパチュリーは言った。
それは独り言のようであったけれども、その場にあったら誰でも聞こえるような声量をしていたので、やはりそれはその場にいる誰かへとかけられたものに違いなかった。この場合、それを受け取るのは小悪魔ひとりだけであった。彼女は優しい性根をしていたので、書架の本に薄く被っていた埃をいったん払い終えてから、パチュリーの応対へと移った。
「それは、どうしてそのように思ったのですか」
「この小説に鰻が出てきたから」
パチュリーは自身の読んでいた極東の小説を小悪魔に見せたが、小悪魔は小説、とりわけ極東のそれにはとんと疎かったから、あまりぴんとはこなかった。
「すごく美味しそうに食べるのよ。私も鰻食べたい」
小悪魔は魔界の小さな村の出身であったし、ある館に召喚されてからはそこから出たことさえなかったけれども、幸いにも鰻は不浄の魚であったから、悪魔である彼女がそれを知らないということはなかった。
「貴女様なら鰻を取ることくらい出来るのではないですか」
小悪魔の指摘はおおむね正しいものであった。
パチュリーは、鰻が釣れるかどうかは別にしても魚釣りくらいは出来たし、釣り上げた魚を調理することだって出来た。もちろんそこに間違った知識などはない。ちょうど前時代によく空想されたロボットがやるみたいに。
「そういうこっちゃないのよ」
しかし、パチュリーはなんでもかでも自分でやることを良しとするような者ではなかった。それは、なんでも出来る者がなんでもやってしまうと、なんでもは出来ない者を端へと追いやることになってしまうからであった。パチュリーが普段は図書館で本を読んでばかりいるのは、もちろん彼女の欲求がそれに向いているからだけれども、そのような考えに由来している節だって多分にあった。
「鰻は鰻屋が出すものが一番おいしいに決まってるでしょ」
「その通りです」
短い会話を済ませたあと、パチュリーは小説を机に置いて、腰を上げた。
パチュリーは人里に赴いていた。
時刻は昼下がりをいくらか越していた。彼女は出不精と言われることもあるけれども、自身の欲求のためなら外出することだって厭わないのであった。
住人たちはパチュリーのそばを通り過ぎるたびに、ちらと彼女のことを見たけれども、それは単に彼女の恰好が彼らには物珍しく映っているからに他ならなかった。縁起を読むような勤勉な者は少ない、というのは人里の中ではよく伝わっている文句であった。
季節は鰻が出回るのに不自由しない頃であった。パチュリーは人里の地理に疎かったが、鰻屋というものは屋号を示すのれんを掲げているものであるから、見つからないということはなかった。
少しばかりの捜索ののちに、パチュリーは鰻屋を見つけた。鰻屋はある程度の大きさと、ある程度の客をたたえていた。それでも飲食店の盛りの時間は過ぎていたので、やはり鰻屋は暇であるかのように彼女の目には映った。パチュリーは軒先に立っている従業員へと話しかけた。
「いらっしゃいませ」
「ちょっといい鰻が欲しいの。出来れば重箱に入ったものを二つ」
「では、上のものにしましょうか。ここで食べていかれますか?」
「持って帰りたいわ」
注文を受けた従業員は、厨房にいた男に声をかけてそれらのことを伝えた。それから、鰻を捌いているあいだ、日が照っている外ではなく店内で待ってはどうかと提案をした。パチュリーはその提案を受け入れることにした。
店の中で、パチュリーは長椅子に座って様々なことを思考していた。彼女は図書館の蔵書を持ち出す行為をあまり好んでいなかったので、読書をして時間を潰すということをあまりしないのであった。
今の彼女の思考の大半は鰻であった。鰻に関することがらばかりが彼女の脳回と脳溝の海を泳ぎ回っていた。
中でも彼女の興味を惹いたことがらは、鰻が降河回遊をするということであった。そのことはすなわち、幻想郷で獲られた鰻であっても──まさかそれが養殖であるということはあるまいし──それらは例外なく海を見た者たちであるということであった。
パチュリーは思考を止めないながらも、店内にいる客たちを見回してみた。その誰にしたって、鰻の故郷であるところの海を見たことがないのだ、と思った。
もちろん、海を見た経験などは生涯において大した意味を持たない。パチュリーはそのように考えている。しかし彼女は、海をその目で見て知る機会を持たない彼らを──生まれつきものを知る機会をひとつ奪われている彼らを──どこか可哀そうであるとも感じた。
鰻の焼ける音がしていた。したたった脂が黒々とした炭に、ぽつぽつと垂れては熱を立ち昇らせた。焼きあがった鰻は俎上で四つとなり、それから重箱に敷かれた米の上へと寝かされた。
上であるところの二箱のうな重は、茶色をした紙袋に収められていた。パチュリーはそれを心もち静かに受け取った。
「そういえば、紅魔館に取りに来させるのは申し訳ないし、器ごと買い取ってもいい?言い値で」
「お気遣い感服いたします。しかし器のお代をいただこうなどとは思いません」
パチュリーは従業員にお礼を言ってから、紙袋を携えて館へと帰っていった。従業員は通りを少し眺めて客足を確かめたのちに、裏手へと回って休憩に入るのであった。
小悪魔は初めて口にした鰻に、いたく感動しているようであった。美味しい、と言ったのははじめの一度きりで、それからは黙々と鰻を食べていた。パチュリーはそれを見て、苦手でないのならよかった、とだけ思った。
「鰻って美味しいですね。親に持って帰りたいくらい」
彼女はそのようにこぼした。小悪魔の故郷に鰻などはなかったので、彼女がそれを食する機会など輪をかけて存在しないものであった。パチュリーは機会を与えられてよかった、というふうに考えた。
さて、パチュリーは愛用の机に紙袋をおいて、そこからうな重を取り出した。彼女は腰を下ろした。拵えられたばかりのそれは薫香をたたえていて、それから蓋が開けられると、よく照っている身があらわとなった。
パチュリーはおさげを何度もその小さい耳にかけようとしたけれども、一向にうまくいかないので、終いにはそのままのかたちで鰻に箸をつけたのであった。
それは独り言のようであったけれども、その場にあったら誰でも聞こえるような声量をしていたので、やはりそれはその場にいる誰かへとかけられたものに違いなかった。この場合、それを受け取るのは小悪魔ひとりだけであった。彼女は優しい性根をしていたので、書架の本に薄く被っていた埃をいったん払い終えてから、パチュリーの応対へと移った。
「それは、どうしてそのように思ったのですか」
「この小説に鰻が出てきたから」
パチュリーは自身の読んでいた極東の小説を小悪魔に見せたが、小悪魔は小説、とりわけ極東のそれにはとんと疎かったから、あまりぴんとはこなかった。
「すごく美味しそうに食べるのよ。私も鰻食べたい」
小悪魔は魔界の小さな村の出身であったし、ある館に召喚されてからはそこから出たことさえなかったけれども、幸いにも鰻は不浄の魚であったから、悪魔である彼女がそれを知らないということはなかった。
「貴女様なら鰻を取ることくらい出来るのではないですか」
小悪魔の指摘はおおむね正しいものであった。
パチュリーは、鰻が釣れるかどうかは別にしても魚釣りくらいは出来たし、釣り上げた魚を調理することだって出来た。もちろんそこに間違った知識などはない。ちょうど前時代によく空想されたロボットがやるみたいに。
「そういうこっちゃないのよ」
しかし、パチュリーはなんでもかでも自分でやることを良しとするような者ではなかった。それは、なんでも出来る者がなんでもやってしまうと、なんでもは出来ない者を端へと追いやることになってしまうからであった。パチュリーが普段は図書館で本を読んでばかりいるのは、もちろん彼女の欲求がそれに向いているからだけれども、そのような考えに由来している節だって多分にあった。
「鰻は鰻屋が出すものが一番おいしいに決まってるでしょ」
「その通りです」
短い会話を済ませたあと、パチュリーは小説を机に置いて、腰を上げた。
パチュリーは人里に赴いていた。
時刻は昼下がりをいくらか越していた。彼女は出不精と言われることもあるけれども、自身の欲求のためなら外出することだって厭わないのであった。
住人たちはパチュリーのそばを通り過ぎるたびに、ちらと彼女のことを見たけれども、それは単に彼女の恰好が彼らには物珍しく映っているからに他ならなかった。縁起を読むような勤勉な者は少ない、というのは人里の中ではよく伝わっている文句であった。
季節は鰻が出回るのに不自由しない頃であった。パチュリーは人里の地理に疎かったが、鰻屋というものは屋号を示すのれんを掲げているものであるから、見つからないということはなかった。
少しばかりの捜索ののちに、パチュリーは鰻屋を見つけた。鰻屋はある程度の大きさと、ある程度の客をたたえていた。それでも飲食店の盛りの時間は過ぎていたので、やはり鰻屋は暇であるかのように彼女の目には映った。パチュリーは軒先に立っている従業員へと話しかけた。
「いらっしゃいませ」
「ちょっといい鰻が欲しいの。出来れば重箱に入ったものを二つ」
「では、上のものにしましょうか。ここで食べていかれますか?」
「持って帰りたいわ」
注文を受けた従業員は、厨房にいた男に声をかけてそれらのことを伝えた。それから、鰻を捌いているあいだ、日が照っている外ではなく店内で待ってはどうかと提案をした。パチュリーはその提案を受け入れることにした。
店の中で、パチュリーは長椅子に座って様々なことを思考していた。彼女は図書館の蔵書を持ち出す行為をあまり好んでいなかったので、読書をして時間を潰すということをあまりしないのであった。
今の彼女の思考の大半は鰻であった。鰻に関することがらばかりが彼女の脳回と脳溝の海を泳ぎ回っていた。
中でも彼女の興味を惹いたことがらは、鰻が降河回遊をするということであった。そのことはすなわち、幻想郷で獲られた鰻であっても──まさかそれが養殖であるということはあるまいし──それらは例外なく海を見た者たちであるということであった。
パチュリーは思考を止めないながらも、店内にいる客たちを見回してみた。その誰にしたって、鰻の故郷であるところの海を見たことがないのだ、と思った。
もちろん、海を見た経験などは生涯において大した意味を持たない。パチュリーはそのように考えている。しかし彼女は、海をその目で見て知る機会を持たない彼らを──生まれつきものを知る機会をひとつ奪われている彼らを──どこか可哀そうであるとも感じた。
鰻の焼ける音がしていた。したたった脂が黒々とした炭に、ぽつぽつと垂れては熱を立ち昇らせた。焼きあがった鰻は俎上で四つとなり、それから重箱に敷かれた米の上へと寝かされた。
上であるところの二箱のうな重は、茶色をした紙袋に収められていた。パチュリーはそれを心もち静かに受け取った。
「そういえば、紅魔館に取りに来させるのは申し訳ないし、器ごと買い取ってもいい?言い値で」
「お気遣い感服いたします。しかし器のお代をいただこうなどとは思いません」
パチュリーは従業員にお礼を言ってから、紙袋を携えて館へと帰っていった。従業員は通りを少し眺めて客足を確かめたのちに、裏手へと回って休憩に入るのであった。
小悪魔は初めて口にした鰻に、いたく感動しているようであった。美味しい、と言ったのははじめの一度きりで、それからは黙々と鰻を食べていた。パチュリーはそれを見て、苦手でないのならよかった、とだけ思った。
「鰻って美味しいですね。親に持って帰りたいくらい」
彼女はそのようにこぼした。小悪魔の故郷に鰻などはなかったので、彼女がそれを食する機会など輪をかけて存在しないものであった。パチュリーは機会を与えられてよかった、というふうに考えた。
さて、パチュリーは愛用の机に紙袋をおいて、そこからうな重を取り出した。彼女は腰を下ろした。拵えられたばかりのそれは薫香をたたえていて、それから蓋が開けられると、よく照っている身があらわとなった。
パチュリーはおさげを何度もその小さい耳にかけようとしたけれども、一向にうまくいかないので、終いにはそのままのかたちで鰻に箸をつけたのであった。
海から来たんですよね、うなぎ
鰻重をテイクアウトするだけでなんでこんなに厳かな雰囲気になるのか
静かに食に臨むパチュリーがよかったです
従者の分の鰻を買って帰るパチュリーも、それを食べて親に持って帰りたいと言う小悪魔も、良い性格しててよきでした。