どんなに切り刻まれてもロックンロールさえあれば踊れるんだ、とその放送は煽っていたが、玉兎たちはそう歌われている言語を知らず、そのため歌詞の細かな文脈までは届いていなかった。ただ、かわり映えのしない雑談ばかりの玉兎通信の中で、調子の良いロックンロールが流れてくるこのチャンネルに波長を合わせる者が、ぽつぽつと増えているらしい。
「東……南……西……北……」
量子テープに量子録音された量子ループは永遠の念仏のように続いているが、しかし本当のところは永遠ではなかった。この外地向け暗号放送の間延びした発音は、六秒で方位を一巡しながら、それが一万五千回ほどループされるとぷっつり途切れるのだ。
「東……南……西……北……」
もっとも、放送は既定の時間に既定の人員によって延長されるから、平時にこの放送が途切れることは決してない。有事であってもできる限りその継続が努力されてきた。仮に放送が途切れた時は、突絶そのものが、変事が起きて月の都が失陥したという外地派遣軍向けの暗号になる。そういうデッドマン装置だ。
「東……南……西……北……」
放送局自体は、あまり長居をしたい雰囲気ではない。レゴリスコンクリート製の壁にか細いアンテナ線が張られて、簡単な放送機材とテープループ、同期装置、ヘッドホンだけが置かれた、この異様に天井が低い地下物置は、部内でも不気味な場所として認識されていた。また、眠たくなるぼそぼそ声については不明な点が多く、職員間でも様々な憶測が飛び交っている。
稀神サグメは、この放送局の管理権限を持つ官僚の一人であり、またアナウンスを行っている素性不明の声の持ち主の本命予想がつけられている女性でもあった。彼女は今回もつつがなく放送のつなぎ作業を終えたが、同期確認用のヘッドホンを外す事はなく、コンクリートで完全に遮蔽された壕の中で、じっと人を待ち続けた。
(それにしても、本当に眠たくなる声)
と大きなあくびをしてしまうと、いつの間にか、かたわらに女が立っていた。
「サボりはよくありませんよ」
暗号放送の声の主と同じ声音で囁きながら、ドレミー・スイートはサグメの頭からヘッドホンを外してやって、軽いまどろみ気分から覚ませてやる。
「まあ、お忙しいのもわかっています。なんせ――」
サグメはドレミーの言葉を遮るように、ちゃらちゃら腕を振った。(おべんちゃらはいいから、さっさと調査結果を話せ)の身振り。
「どうやら今日はいつものようにはおやさしくないみたい」
ドレミーは苦笑いした。
膨大で煩雑な玉兎通信のチャンネルの中に、違法な放送局が開設されているらしい。それは音楽ラジオで、一日中延々と地上のご機嫌なロックンロールを垂れ流していて、その影響が玉兎たちに及ぶ事も懸念される。発信源には見当がついているから、事実関係を確認して欲しい。
ドレミー・スイートが稀神サグメから押しつけられていた調査は、要約すればこれだけ。
「子飼いの諜報部にやらせればいいじゃないですか」
とも言えない。月人軍部の外事機関などは、入手した公文書中の“submission”を“submarine mission”の略号と誤解し、静かの海に潜航させた防衛システムによる反撃行動の一歩手前までやりかけたような、笑うに笑えない英語オンチ揃いなのだ……もっとも、騒動自体は馬鹿馬鹿しさの極みだったが、ひとつだけ擁護をしておけば、当時はそうした危機感が確かに張りつめている時代でもあった。鷹揚な首脳たちは常に事実から目を背けて楽観視していたが、地上の弾道兵器は確実に月を射程圏内に入れていた。
最終的に、組織的な軽率のすべての責任はサグメに帰せられたのだが、さてあれは彼女個人のうっかりだったと言えるのかどうか。
ともかく、今回の依頼は、さほどの難題ではない。いつぞやのような月都の危機にもなりえない。玉兎たちが音曲に耽り、いっそうその統制が困難になるくらいはあるかもしれないが、今だって褒められた風紀ではない。月社会は伝統的に極端な文官優越の政軍関係があって、たとえ制度上同格であっても武官はどこか脇に追いやられがちで、兵士も同様に社会的地位が低い。それはこの世界が長らく平和である事の証拠でもあるのだが、はたからその有り様を眺めているドレミーとしては「なにごとも極端によらず、中庸である事が大事というのも、聖人の教えでありましょうに」とか「眠れる獅子がいつの間にか永眠なさっていたという事になりませんように」というような皮肉を、そのへんの月人どもに何種類か無造作にひとつかみぶつけてやりたいものだった(ただし、サグメにだけは絶対にやろうと思わない。彼女は現状を理解していた)。
実際、そういう懸念が表出したのが、いつぞやのような月都の危機だったわけだ――あの危機から月世界を救ったひとりに、一羽の月からの逃亡者がいた。今回、玉兎通信に違法チャンネルを開設してロックンロールを流し込んでいる疑惑がある、そのお方だ。
ドレミーにとって、幻想郷の人々のもとに降り立つのは、あらかじめある程度ディグしていた井戸を、さらに奥深く下っていく行為に近い。井戸の底は滲み出すくらいの水が常にあって、水脈がすぐそばにある事が察せられる。だから基本的にアクセスは容易なのだが、それでも普段使われていない左側の周波数帯に合わせていくような感覚が必要だ。
ようするに、多少のコツさえあればすぐに行き着く事ができるが、それがわからなければ永遠に辿り着く事などできない、それくらいの世界だった。
もとよりドレミーは夢の支配者で、現と幻の仲介人だ。幻想郷に周波数を合わせるのはたやすかった。ダイヤルを左へ――左へ。その遷移の間に、古びた鉱石ラジオをチューニングする時のように、様々なチャンネルが聞こえる。夢見る人の意識、覚醒下でも無意識を開いてしまっている人々のぼやき、石そのものの夢さえも、ジャリジャリとノイズ混じりに聞こえた。
眼球に鋭く迫りくる針の夢から目盛りを一ミリほど動かした横に、捜し人の意識が聞こえた――しかも鮮明に。たしかにがちゃがちゃしたギターの音がひたすらうるさい。これだけでも、(少なくとも)当人自身はなんの謀略も抱いていない事がわかる。鈴仙・優曇華院・イナバの海賊ラジオ局は、なにひとつプロテクトされていない、垂れ流しのプレイリストのようだ。
ともあれ本人に事情を訊こうと幻想郷に生身を顕そうとするも、急に周波数帯に乱れが生じた。鈴仙自身の乱れというよりは、その周辺の大気の乱れという感じだ。
そのとき、鈴仙・優曇華院・イナバは他者の婚礼の世話をしていて、ちょっと座ったりもできないくらいの忙しさにかまけていた。その忙しさも、座敷で立ち回るものでなく、奥の台所でちまちま采配したり、誰も言うことを聞かないので結局自分でやったり、といった忙しさだ。
座敷の方で立ち回っているのは因幡てゐだ。このずる賢い老女が本卦還りしたような、年齢不詳の稚気を有している妖怪兎は、このあたりの兎たちの顔役でもあった。地上の兎など、どうせよるとさわるとでくっついてなるようになる感じのつがいばかりのくせに、近頃はてゐが婚礼の世話をしてやる事も少なくなかった。
「あまり野放しにしておくのもよくないしね」
と理屈らしき事も言っていたが、単に世話好きのおばちゃん気質が出ているだけの気がしなくもない。とにかくこのあたりの群れでは、てゐが(というより永遠亭が)婚礼の世話をしてくれて、そうなると皆々、宴会のご相伴にもあずかる事ができて……という認識が、一般的になりつつあった。
台所で忙しくしているのは鈴仙なのだが。
だいたい最近、新婚兎どもの要求がひどくなってきている。式はますます豪華になり、料理はいっそう凝ったものになって、てゐはそれをやらせてやりなよと言う。
と、そんな彼女の声が座敷から台所に声をかける。
「……おーい料理人、そろそろ」
もちろんのこと、鈴仙・優曇華院・イナバの本業は、料理人では、ない。
今回要求された婚礼料理の目玉は、パイ。姻戚友人すべてに切り分けて振る舞えるようというオーダーに応えようとしたら、あまりに大きすぎて外に専用の焼き窯を新造しなければならず、しかも飽きがこないようにフィリングの内容やフェーヴといったお楽しみ要素にも様々な工夫を強いられた、鈴仙にとってここ最近一番の苦労の種。
(お前ら夫婦仲良くパイに詰めてやろうか? ああ?)
と発注元のわがままに対して口には出さず思った事も一、二度あったものの、しかしこの手の作業自体は嫌いではなかった。
そうしたながながした作業中、鈴仙は頭の中で音楽のプレイリストを流している。
脳の一部をプレイリスト化するといっても、別にサイバネティクスな処理をほどこしたわけではない(そういう事も可能だろうが)。ただ、脳をいくつもの部屋がある物置だと仮定した。その各部屋には、思考のごちゃごちゃした部分、生活に不可欠な道具、やりかけた仕事のメモ、人には見せられないようないかがわしいものなどが詰まっているが、そのうち一部屋だけは綺麗に整頓して、余計なものを取り除けて戸口に“音楽”とラベルを張り、他のものを入れないようにした。それだけだ。これだけで少なくとも五百曲くらい覚えられる――少なくともというのは、今のところがそれくらいだからだ。上限はどこまであるのかわからない。
ともあれ、鈴仙もおかげさまで、近頃はどんなちまちまとした作業に縛られていようが、多少はご機嫌でいられるわけだった。
「おい」
ついにてゐが表から完全に退がって、台所にやってきた。
「パイまだできないの?」
「まだよ」
「鈴仙が操る波長を絞ったらさ、なんかこういい感じに、目からビームとか発射する形になって、パイくらい瞬時にこんがり焼けたりしないの?」
「目からビームはいやだわ。……いずれにせよじっくりと焼くのが肝心でしょ、こういうの」
「遠赤外効果ってやつだねえ」
のんきに得心がいっているところを見るに、別に鈴仙を責めるようにせきたてるつもりもないようだった。
「……とりあえずあんたが仲介して成立させた結婚なんだから、あんたが場を取り持たせなさいよ。パイはもうすぐ焼けるわ」
「はいはーい」
「……いや、もう焼けている……?」
「なんじゃそりゃ」
てゐが唇を尖らせても、鈴仙は目を向けた石窯の方を見つめたまま、立ちつくしていた。どういうことなのかわけがわからないという表情だが、なんの説明もないてゐはそれに輪をかけてわけがわからない。
一拍の間が空いた後で、鈴仙は石窯を飛びつくように開けて、窯の中からこんがり焼けた、巨大なパイを引きずり出す。大きさにして、人ひとりぶんくらいはゆうにあるほどのパイだった。その表面を、鈴仙が一切の躊躇なく殴り割ると、中からはおぼえのないピンク色のスフレ状の物体――これを断熱材にしていたらしい――が出てきて、それを割るようにドレミー・スイートが出現した。
「東……南……西……北……」
「あとは笑い話です。兎の結婚式のお邪魔をしてしまったお詫びに、私はずっと道化でした」
「東……南……西……北……」
「だめにしてしまったパイの埋め合わせもしなければなりませんでしたね。宴会の席に引きずり出されて、色々おもしろい夢を見せてやらなきゃいけなかった」
「東……南……西……北……」
「でも、なんとかリカバリーできたと思いますよ」
サグメは、そんな失敗談など知ったこっちゃないと、身振りだけで示す。
相手の反応を微笑みながら受け入れたドレミーは、あとは手短に説明した。鈴仙は違法チャンネルの存在を認めた。脳の中に記憶の宮殿を作り、音楽を記憶していた。その記憶領域が、玉兎通信にも使われている辺縁系に干渉していたらしい。壁の薄い部屋で大音量の音楽を流していたら、その音が隣室で配信されていたという状況に等しい。
「防音材を張って音漏れを防ぐ処置も考えましたが」
と、いつも手慰みにしているピンク色の物質――想像力次第でパテにもスポンジにもなる。ほんのり甘く可食――を示しながら、言葉を続ける。
「とりあえずなにもしていません。指示待ち状態です」
どうせ、サグメは、なにか対応しろとも言いやしない。ドレミーはそう思っていた。
ロックンロールに聞き惚れた玉兎たちは堕落する……そういう者たちも出るだろう……なら、そうさせておけばいい……そうして地上の音楽に染まるくらい、月世界は危機を忘れすぎている……ちょっとはいい薬だと……
その程度の見通しは、ドレミーにもついていた――それだけに、次の瞬間のサグメが、壕の中の信号設備を素手でぶん殴って破壊し始めたのには肝を潰した――割れた樹脂が彼女の拳を傷つけたが、構わず殴りつけ、蹴りつけ、ケーブルを引きちぎって機器をかたい床に叩きつけた。
「……刺さっていますよ」
とドレミーが指摘したのは、機器の破片が、小さいながらも綺麗な二等辺三角形となって、サグメの拳に深々と突き刺さっていたからだ。血も流れ出ている。
「……どうせこの放送が途切れたところで、誰も気にしないわ。今までなんとなく続けていただけの制度よ」
ドレミーの肉体的な指摘を無視しながら、サグメは政治的に発声した。
「外地派遣軍なんて、もはや存在していないでしょ」
「東……南……西……北……」
量子テープに量子録音された量子ループは永遠の念仏のように続いているが、しかし本当のところは永遠ではなかった。この外地向け暗号放送の間延びした発音は、六秒で方位を一巡しながら、それが一万五千回ほどループされるとぷっつり途切れるのだ。
「東……南……西……北……」
もっとも、放送は既定の時間に既定の人員によって延長されるから、平時にこの放送が途切れることは決してない。有事であってもできる限りその継続が努力されてきた。仮に放送が途切れた時は、突絶そのものが、変事が起きて月の都が失陥したという外地派遣軍向けの暗号になる。そういうデッドマン装置だ。
「東……南……西……北……」
放送局自体は、あまり長居をしたい雰囲気ではない。レゴリスコンクリート製の壁にか細いアンテナ線が張られて、簡単な放送機材とテープループ、同期装置、ヘッドホンだけが置かれた、この異様に天井が低い地下物置は、部内でも不気味な場所として認識されていた。また、眠たくなるぼそぼそ声については不明な点が多く、職員間でも様々な憶測が飛び交っている。
稀神サグメは、この放送局の管理権限を持つ官僚の一人であり、またアナウンスを行っている素性不明の声の持ち主の本命予想がつけられている女性でもあった。彼女は今回もつつがなく放送のつなぎ作業を終えたが、同期確認用のヘッドホンを外す事はなく、コンクリートで完全に遮蔽された壕の中で、じっと人を待ち続けた。
(それにしても、本当に眠たくなる声)
と大きなあくびをしてしまうと、いつの間にか、かたわらに女が立っていた。
「サボりはよくありませんよ」
暗号放送の声の主と同じ声音で囁きながら、ドレミー・スイートはサグメの頭からヘッドホンを外してやって、軽いまどろみ気分から覚ませてやる。
「まあ、お忙しいのもわかっています。なんせ――」
サグメはドレミーの言葉を遮るように、ちゃらちゃら腕を振った。(おべんちゃらはいいから、さっさと調査結果を話せ)の身振り。
「どうやら今日はいつものようにはおやさしくないみたい」
ドレミーは苦笑いした。
膨大で煩雑な玉兎通信のチャンネルの中に、違法な放送局が開設されているらしい。それは音楽ラジオで、一日中延々と地上のご機嫌なロックンロールを垂れ流していて、その影響が玉兎たちに及ぶ事も懸念される。発信源には見当がついているから、事実関係を確認して欲しい。
ドレミー・スイートが稀神サグメから押しつけられていた調査は、要約すればこれだけ。
「子飼いの諜報部にやらせればいいじゃないですか」
とも言えない。月人軍部の外事機関などは、入手した公文書中の“submission”を“submarine mission”の略号と誤解し、静かの海に潜航させた防衛システムによる反撃行動の一歩手前までやりかけたような、笑うに笑えない英語オンチ揃いなのだ……もっとも、騒動自体は馬鹿馬鹿しさの極みだったが、ひとつだけ擁護をしておけば、当時はそうした危機感が確かに張りつめている時代でもあった。鷹揚な首脳たちは常に事実から目を背けて楽観視していたが、地上の弾道兵器は確実に月を射程圏内に入れていた。
最終的に、組織的な軽率のすべての責任はサグメに帰せられたのだが、さてあれは彼女個人のうっかりだったと言えるのかどうか。
ともかく、今回の依頼は、さほどの難題ではない。いつぞやのような月都の危機にもなりえない。玉兎たちが音曲に耽り、いっそうその統制が困難になるくらいはあるかもしれないが、今だって褒められた風紀ではない。月社会は伝統的に極端な文官優越の政軍関係があって、たとえ制度上同格であっても武官はどこか脇に追いやられがちで、兵士も同様に社会的地位が低い。それはこの世界が長らく平和である事の証拠でもあるのだが、はたからその有り様を眺めているドレミーとしては「なにごとも極端によらず、中庸である事が大事というのも、聖人の教えでありましょうに」とか「眠れる獅子がいつの間にか永眠なさっていたという事になりませんように」というような皮肉を、そのへんの月人どもに何種類か無造作にひとつかみぶつけてやりたいものだった(ただし、サグメにだけは絶対にやろうと思わない。彼女は現状を理解していた)。
実際、そういう懸念が表出したのが、いつぞやのような月都の危機だったわけだ――あの危機から月世界を救ったひとりに、一羽の月からの逃亡者がいた。今回、玉兎通信に違法チャンネルを開設してロックンロールを流し込んでいる疑惑がある、そのお方だ。
ドレミーにとって、幻想郷の人々のもとに降り立つのは、あらかじめある程度ディグしていた井戸を、さらに奥深く下っていく行為に近い。井戸の底は滲み出すくらいの水が常にあって、水脈がすぐそばにある事が察せられる。だから基本的にアクセスは容易なのだが、それでも普段使われていない左側の周波数帯に合わせていくような感覚が必要だ。
ようするに、多少のコツさえあればすぐに行き着く事ができるが、それがわからなければ永遠に辿り着く事などできない、それくらいの世界だった。
もとよりドレミーは夢の支配者で、現と幻の仲介人だ。幻想郷に周波数を合わせるのはたやすかった。ダイヤルを左へ――左へ。その遷移の間に、古びた鉱石ラジオをチューニングする時のように、様々なチャンネルが聞こえる。夢見る人の意識、覚醒下でも無意識を開いてしまっている人々のぼやき、石そのものの夢さえも、ジャリジャリとノイズ混じりに聞こえた。
眼球に鋭く迫りくる針の夢から目盛りを一ミリほど動かした横に、捜し人の意識が聞こえた――しかも鮮明に。たしかにがちゃがちゃしたギターの音がひたすらうるさい。これだけでも、(少なくとも)当人自身はなんの謀略も抱いていない事がわかる。鈴仙・優曇華院・イナバの海賊ラジオ局は、なにひとつプロテクトされていない、垂れ流しのプレイリストのようだ。
ともあれ本人に事情を訊こうと幻想郷に生身を顕そうとするも、急に周波数帯に乱れが生じた。鈴仙自身の乱れというよりは、その周辺の大気の乱れという感じだ。
そのとき、鈴仙・優曇華院・イナバは他者の婚礼の世話をしていて、ちょっと座ったりもできないくらいの忙しさにかまけていた。その忙しさも、座敷で立ち回るものでなく、奥の台所でちまちま采配したり、誰も言うことを聞かないので結局自分でやったり、といった忙しさだ。
座敷の方で立ち回っているのは因幡てゐだ。このずる賢い老女が本卦還りしたような、年齢不詳の稚気を有している妖怪兎は、このあたりの兎たちの顔役でもあった。地上の兎など、どうせよるとさわるとでくっついてなるようになる感じのつがいばかりのくせに、近頃はてゐが婚礼の世話をしてやる事も少なくなかった。
「あまり野放しにしておくのもよくないしね」
と理屈らしき事も言っていたが、単に世話好きのおばちゃん気質が出ているだけの気がしなくもない。とにかくこのあたりの群れでは、てゐが(というより永遠亭が)婚礼の世話をしてくれて、そうなると皆々、宴会のご相伴にもあずかる事ができて……という認識が、一般的になりつつあった。
台所で忙しくしているのは鈴仙なのだが。
だいたい最近、新婚兎どもの要求がひどくなってきている。式はますます豪華になり、料理はいっそう凝ったものになって、てゐはそれをやらせてやりなよと言う。
と、そんな彼女の声が座敷から台所に声をかける。
「……おーい料理人、そろそろ」
もちろんのこと、鈴仙・優曇華院・イナバの本業は、料理人では、ない。
今回要求された婚礼料理の目玉は、パイ。姻戚友人すべてに切り分けて振る舞えるようというオーダーに応えようとしたら、あまりに大きすぎて外に専用の焼き窯を新造しなければならず、しかも飽きがこないようにフィリングの内容やフェーヴといったお楽しみ要素にも様々な工夫を強いられた、鈴仙にとってここ最近一番の苦労の種。
(お前ら夫婦仲良くパイに詰めてやろうか? ああ?)
と発注元のわがままに対して口には出さず思った事も一、二度あったものの、しかしこの手の作業自体は嫌いではなかった。
そうしたながながした作業中、鈴仙は頭の中で音楽のプレイリストを流している。
脳の一部をプレイリスト化するといっても、別にサイバネティクスな処理をほどこしたわけではない(そういう事も可能だろうが)。ただ、脳をいくつもの部屋がある物置だと仮定した。その各部屋には、思考のごちゃごちゃした部分、生活に不可欠な道具、やりかけた仕事のメモ、人には見せられないようないかがわしいものなどが詰まっているが、そのうち一部屋だけは綺麗に整頓して、余計なものを取り除けて戸口に“音楽”とラベルを張り、他のものを入れないようにした。それだけだ。これだけで少なくとも五百曲くらい覚えられる――少なくともというのは、今のところがそれくらいだからだ。上限はどこまであるのかわからない。
ともあれ、鈴仙もおかげさまで、近頃はどんなちまちまとした作業に縛られていようが、多少はご機嫌でいられるわけだった。
「おい」
ついにてゐが表から完全に退がって、台所にやってきた。
「パイまだできないの?」
「まだよ」
「鈴仙が操る波長を絞ったらさ、なんかこういい感じに、目からビームとか発射する形になって、パイくらい瞬時にこんがり焼けたりしないの?」
「目からビームはいやだわ。……いずれにせよじっくりと焼くのが肝心でしょ、こういうの」
「遠赤外効果ってやつだねえ」
のんきに得心がいっているところを見るに、別に鈴仙を責めるようにせきたてるつもりもないようだった。
「……とりあえずあんたが仲介して成立させた結婚なんだから、あんたが場を取り持たせなさいよ。パイはもうすぐ焼けるわ」
「はいはーい」
「……いや、もう焼けている……?」
「なんじゃそりゃ」
てゐが唇を尖らせても、鈴仙は目を向けた石窯の方を見つめたまま、立ちつくしていた。どういうことなのかわけがわからないという表情だが、なんの説明もないてゐはそれに輪をかけてわけがわからない。
一拍の間が空いた後で、鈴仙は石窯を飛びつくように開けて、窯の中からこんがり焼けた、巨大なパイを引きずり出す。大きさにして、人ひとりぶんくらいはゆうにあるほどのパイだった。その表面を、鈴仙が一切の躊躇なく殴り割ると、中からはおぼえのないピンク色のスフレ状の物体――これを断熱材にしていたらしい――が出てきて、それを割るようにドレミー・スイートが出現した。
「東……南……西……北……」
「あとは笑い話です。兎の結婚式のお邪魔をしてしまったお詫びに、私はずっと道化でした」
「東……南……西……北……」
「だめにしてしまったパイの埋め合わせもしなければなりませんでしたね。宴会の席に引きずり出されて、色々おもしろい夢を見せてやらなきゃいけなかった」
「東……南……西……北……」
「でも、なんとかリカバリーできたと思いますよ」
サグメは、そんな失敗談など知ったこっちゃないと、身振りだけで示す。
相手の反応を微笑みながら受け入れたドレミーは、あとは手短に説明した。鈴仙は違法チャンネルの存在を認めた。脳の中に記憶の宮殿を作り、音楽を記憶していた。その記憶領域が、玉兎通信にも使われている辺縁系に干渉していたらしい。壁の薄い部屋で大音量の音楽を流していたら、その音が隣室で配信されていたという状況に等しい。
「防音材を張って音漏れを防ぐ処置も考えましたが」
と、いつも手慰みにしているピンク色の物質――想像力次第でパテにもスポンジにもなる。ほんのり甘く可食――を示しながら、言葉を続ける。
「とりあえずなにもしていません。指示待ち状態です」
どうせ、サグメは、なにか対応しろとも言いやしない。ドレミーはそう思っていた。
ロックンロールに聞き惚れた玉兎たちは堕落する……そういう者たちも出るだろう……なら、そうさせておけばいい……そうして地上の音楽に染まるくらい、月世界は危機を忘れすぎている……ちょっとはいい薬だと……
その程度の見通しは、ドレミーにもついていた――それだけに、次の瞬間のサグメが、壕の中の信号設備を素手でぶん殴って破壊し始めたのには肝を潰した――割れた樹脂が彼女の拳を傷つけたが、構わず殴りつけ、蹴りつけ、ケーブルを引きちぎって機器をかたい床に叩きつけた。
「……刺さっていますよ」
とドレミーが指摘したのは、機器の破片が、小さいながらも綺麗な二等辺三角形となって、サグメの拳に深々と突き刺さっていたからだ。血も流れ出ている。
「……どうせこの放送が途切れたところで、誰も気にしないわ。今までなんとなく続けていただけの制度よ」
ドレミーの肉体的な指摘を無視しながら、サグメは政治的に発声した。
「外地派遣軍なんて、もはや存在していないでしょ」
ここまで方向性の違うお題からよくぞここまでまとまった話が出来上がるものだと感動しました
なんかもう全部嫌になったのか放送措置をぶっ壊すサグメがやけっぱちでよかったです