白蓮さんの読経が葬式会場に響いていた。
隣に座っているお母さんは嗚咽を漏らしながら泣き、私は遺影に映るいつものお父さん、今泉二胡の顔をずっと見ていた。
昨日の夜、お父さんが亡くなった。末期の癌だった。姫、赤ちゃんと別れ家に帰った時には既に危篤で静かに亡くなった。
私にとってお父さんはどこか不思議な存在だった。昔のことを話してと頼んでも頑なに話してくれなかった。それどころか顔を真っ赤にして怒られてしまったこともあった。お母さんに同じことを聞いても笑うだけで……。
葬式が終わり精進落としをしていると車椅子に乗ったわかさぎ姫が私のところにやって来た。
「影狼お疲れ様〜。大変だったでしょう?」
「あっ、姫…来てくれたんだ」
「そりゃそうだよ、お友達の親御さんの葬式だよ?それに私もたまにお世話になってたし」
初耳だ。わかさぎ姫とお父さんの間に関わりがあったなんて。
「たまに湖にゴミを捨てる不届き者がいるんだけど二胡さんが来て一緒に片付けるのを手伝ってくれたのよ」
お父さんがそんなことをしていたなんて…知らなかった私が少し恥ずかしくなった。
「あ、そうだ。二胡さんってどんな人だったの?私いろいろ聞こうとしたんだけど全然答えてくれなくて」
姫もずっと気になっていたんだろう。当然のように聞かれてしまった。しかし本当に何も分からないのでどう答えればいいのか分からない。
「それがねぇ〜よくわかんないのよ。お父さん」
「えぇ、なによそれ~」
「いや本当なんだって、お母さん、お父さんの話全然してくれないからさぁ。それに私ともあまり会話してくれなかったのよ」
葬式も無事に終わり家路につく。そんな中でふと思うことがあった。
「私ってお父さんのこと全然知らなかったなぁ……」
あんなに長く一緒に居た父のことを私は娘として何も分かっていなかった。
「お父さん、どんな人だったんだろう」
思いが湧き上がる。お父さんについて知るということは自分のルーツについて知ることでもあった。
「お母さん、お父さんについて教えて」
母は喪服を脱ぎながらこちらを見つめる。またかと、そう言いたげな表情だ。お父さんについて聞くといつもこれだ。
「影狼、何も話すことは…」
「私、自分のルーツについて知りたいの」
ルーツ。そのような言葉を初めて母に言った気がする。しかし母の反応は変わらなかった。
「貴女にはまだ早い」
それを繰り返すばかりだった。しかしお母さんの目の奥には何か押し殺しているかのような影があった。
生前の父はいつもこう話していた。自室に決して入るな、と。でも今なら入ることができる。私はそうっと襖を開け父の部屋に入る。
「お、お邪魔します…」
一見綺麗に整頓された部屋だが、もしかしたらこの部屋に父の過去が分かる物があるかもしれない。
まずは机の引き出し。開けてみるが私には読めない言語で書かれた紙が大量にあるだけで何も分からなかった。
次はクローゼット。だが、父の遺品は全て処分されてしまったのかすっからかんになっていた。
期待した私が馬鹿だったのだろうか…そう思って部屋から出ようとすると何もないところで躓いてしまった。
「いてて…何よ…」
畳が一箇所だけ不自然に浮いていた。恐らくこれに躓いたのだろう。私はそっとその畳を持ち上げようとするとそこにはそこそこ大きなの箱があった。
その箱には絶対厳守と記されている。私は箱を開けてみたい衝動に駆られ、気付いたときには開けていた。
カポッと音がすると埃が舞った。咳払いした後、中に何があるのかじっと見つめた。
そこには日本語で書かれた紙の束があった。つい最近書かれたであろうその筆跡からはどこか苦しみが伝わってきた。
1944年、冬。
ハァハァと息を切らしながら雪原をひたすらに走っていた。
階級章を無理矢理剥ぎ取り、もはやそれに権威は存在しない。赤軍の制服は所々乾いた血に染まっている。
私は帝政ロシアの置き土産であるヴォルガドイツ人の人狼の父と日系ロシア人の人狼の母の間に生まれた。若き頃から祖国にこの身を捧げることを当然と思ってきた。自ら志願して赤軍に入隊したのはその為だ。
…しかし、その思いは呆気なく崩れ去った。
父が国家反逆罪で処刑されたという知らせが入った。私の父は愛国者でありそのような悪事に手を染めることは考えられなかった。当時はスターリンが何も罪のない人々を粛清しているとの噂が広まっており、私の父もあの男によって選ばれてしまったのだろうと思った。
…母が納屋で首を吊ったという知らせが届いたのはそのすぐ後のことだった。
信じていた祖国は私から家族も誇りも……全てを奪い去った。
ある夜、私は静かに自らの情報が記された書類をポケットの中に無造作に詰め込み、暗闇の中へ姿を消した。
もし見つかれば懲罰部隊に送られ前線に送り込まれてしまうだろう。もしくは処刑……。
……どこまで走っただろうか。ここがソ連国内であることは分かるのだがどこの地方のどこの地域なのかさっぱり検討もつかない。
コートと制服を脱ぐわけにはいかない。人狼だとしてもこの極寒の寒さに耐えきれるわけがない。
誰もいない森を警戒しながら進み続けた。とっくに限界を迎えていた。
水も食料も何日間も取っていなかった。いくら人狼といえどもここまで取っていないと死の危険すらあった。
雪を食べてみたがどこかしょっぱい。すぐにそれが動物の尿が染み込んだ雪だったと気付くのにはそう時間はいらなかった。急いで吐き出し、口に手を突っ込んでさらに汚物を吐き出そうとする。
余計なことをしてしまった。更に疲労感が募った。
森の中を走る中、ぼんやりとした視界の中に何か異質なものが見えた気がした。
開けたところにソ連という国家にはあまりにも似合わない鳥居があった。
「鳥居…?」
かつて母が日本には神社という建物があると教えてくれたことを思い出した。
その時だけ疲労感が体からすっと抜け、足取りが軽くなった。自然と鳥居に近寄り様子を見る。
「鳥居…結界…」
そう呟いていたが何故だか私には何のことか良く分からなかった。気付けば口から出ていたのだ。
目を凝らすと遠くには神社のようなものが建っている。私は魅了されてしまったのか前へ前へと歩みを進める。
結界を越えて境界を越えてもうひとつの世界に向かう、そんな荒唐無稽な話がもしかしたら本当かもしれない。
ぐにゃりと地面が歪み視界が揺れる。神聖なる場所には神聖なる物が眠っている。私はそれを起こしてしまったのかもしれない。
意識が混濁していく。
目を覚ますと月が真上にあった。鳥居をくぐった時には真昼だった気がするのでかなりの時間気を失っていたのだろう。
体を起こし周りを見る。…がそこには神社など無く竹林があった。一体何が起こってしまったというのか。
「大丈夫…?」
女の声が聞こえる。私は振り返った。
そこには赤ん坊を背負う女がいた。…がその姿は異質そのものだった。
獣のような耳に長く鋭い赤い爪。そう、私と同じだった。
「倒れていたから心配していたの」
日本語。日系である私にとっては懐かしい響きだ。
「血出てるよ…大丈夫…?」
そう言いながら彼女は近づいてくる。
「来るな…!」
「…えっ?」
「この制服の意味が分からないのか!赤軍だぞ…ソヴィエトの…!」
彼女に服を引っ張ってアピールする。これなら分かってくれるだろう。
「せき、ぐん…?ソヴィエトって何…?」
帰ってきたのは予想もしない答えだった。
…なるほど。どうやらこの女は赤軍やソ連を知らないらしい。だとするとここはドイツでもソ連でもない、か?
「貴方、変な匂いがする」
ここで変に誤魔化しても更に警戒されてしまうだけだろう。正直に告白することにした。
「…人狼だよ」
「君は…狼女なんだ…ろう」
そう言うとついに限界が来たのか倒れてしまった。
意識がまた混濁する。
見知らぬ天井。どうやら私はあの女に助けられてしまったらしい。横を見ると赤ん坊をあやす女と囲炉裏があった。
「何故助けた」
「苦しんでいる人を見逃せと?貴方、怖いことを言うのね」
「……」
私はホルスターに入った拳銃を取り出そうとした。
…が力が入らない。
「今の貴方にそんなことが出来るとは思えないわ。あと念の為に弾も抜いておいた」
ガクッと力が抜けてしまう。死ぬことすら許されないとは…。
「お父さんは外の世界からやってきた…?」
「じゃあ私は一体…幻想郷で産まれたはず…ならお父さんは…」
「…影狼」
振り返るとそこにはお母さんがいた。その手は震えている。
「ごめんなさい、でも知りたかったの」
「こちらこそ謝らなければならないわ。影狼の知りたい思いを無下にしてしまっていた、ごめんね」
そう話すお母さんの目元には涙が滲んでいた。
「…話す時が来たようね」
「二胡さんはロシア産まれの狼男だったの。大祖国戦争って戦争があってお父さんはソ連軍の一員として戦った」
「でもお父さんの家族は…」
「そうね…。二胡さんのお父さんは当時の政府によって粛清されてお母さんは彼を追うように自ら死んでしまった」
お母さんは胸元のポケットから古びた写真を取り出した。
「これがロシアにいた頃の二胡さん。ほらこの背の高い人が…」
その写真には軍服を着た兵士が写っていた。皆笑っていたが…お父さんだけ笑っていなかった。
「二胡さんは笑うことが少なかったのよ。それはこの頃からってことね」
「彼の本当の名前はニコライだった。でも当時は外国人は少なくて…幻想郷に来てから二胡と呼ばれるようになったの」
そして私はずっと気になっていたことを聞くことにした。しかしそれはとてつもなく重い話だった。
「お母さん。お父さんは本当のお父さんじゃないんでしょ?」
自分でも信じたくなかった。が、あの文章を見る限り私は…。
「...お母さんね。お父さんからずっと話すなと言われていたんだけど、お父さんは二番目のお父さんなの」
「やっぱり、そう…なんだ」
心の奥がズキリと傷ついた。
「お父さんと影狼、似てないでしょう」
私とお父さんは全然似ていなかった。似てないと聞いても、「影狼は母親似だからなぁ」とはぐらかされるばかりだった。
「じゃあ、最初のお父さんは…」
「狼男だった。影狼が産まれてすぐに猟師に撃たれて死んでしまった」
お母さんは視線を落とした。
「妹紅さん、若かった頃の私のお父さんと会ったことがあるんでしょう」
私と同じように竹林で過ごす藤原妹紅の元を私は訪ねていた。彼女は不死身の存在で昔から幻想郷に住み着いている。そんな彼女ならお父さんのことを…。
妹紅さんはお茶を飲みながら静かに口を開いた。
「覚えてるよ。確かニコライって名前だった」
「ニコライは傷ついていた。私には戦争というのが分からないけど…それはそれは辛い辛い経験なのは何となく分かった」
「貴女に話したがらなかった理由も分かるよ。彼はいつも過去をここに持ち込みたくないと繰り返していた」
私はあの手紙をもう一度読んだ。あの時には気づかなかったがまだ続きがあった。
「私は影狼の父ではない。本当の父は影狼が産まれた直後に亡くなった」
「お前の本当の母親、影泉はこんな私を優しく受け入れてくれた。祖国から逃げ出したどうしようもない私を」
「戦争も憎しみもなかったこの世界で生きることができたのは幸いだった。私は救われたんだ」
「これを読んでいる頃には私はもうこの世界にはいないだろう。生きている間に真実を話せなかったのは私の重く苦しい過去を影狼に見せたくなかったからだ」
「さようなら」
私は震える手で字をなぞった。
私は部屋の中で父の名前を何度も何度も何度も叫んだ。手紙を胸に抱きしめ涙が止まらなくなっていた。
本当のお父さんでなくても、私にとって今泉二胡はお父さんだった。
そういえばこんな話があった。
小さかった時、私はよく竹林で遊んでいた。いつも母に遠くへ行っちゃだめよと怒られたものだ。
ある日、私は母が昼寝をしているの良いことに結構遠くまで来てしまった。
「迷っちゃった…」
その時だった。私の前に大きな影が現れたのは。それは異型の姿をしていて舌なめずりをしながら私をじっとり見ていた。
本能的な恐怖に襲われ足が一歩も動かなくなってしまった。このままでは食べられる…!
そう思い目を瞑るともう一つの影がそいつに襲いかかった。グチョグチョと何かを噛みちぎるような音がしたのでゆっくりと目を開けるとそいつの首を大きな狼が噛みちぎっていた。血が噴き出し私の顔にかかってしまう。
そいつはドサッと倒れ狼はゆっくりとこちらを振り向いた。震える私を優しい手で抱きかかえると家の前まで運んできてくれた。その狼の眼がどこか温かいものだったことを記憶している。
その後母にこっぴどく怒られてしまったが怒られている最中もその狼のことで頭がいっぱいだった。
…暫くすると父が帰ってきた。私が出迎えた時右腕をさっと隠そうとしたので何故隠すのかというと「昔の傷が開いた」と返された。当時の私はそれを信じていた、が。今なら分かる。
あの時助けてくれた狼は紛れもなく父その人だったのだ。何故あの場所に現れたのかは分からないが今ならそう確信できるのだ。
隣に座っているお母さんは嗚咽を漏らしながら泣き、私は遺影に映るいつものお父さん、今泉二胡の顔をずっと見ていた。
昨日の夜、お父さんが亡くなった。末期の癌だった。姫、赤ちゃんと別れ家に帰った時には既に危篤で静かに亡くなった。
私にとってお父さんはどこか不思議な存在だった。昔のことを話してと頼んでも頑なに話してくれなかった。それどころか顔を真っ赤にして怒られてしまったこともあった。お母さんに同じことを聞いても笑うだけで……。
葬式が終わり精進落としをしていると車椅子に乗ったわかさぎ姫が私のところにやって来た。
「影狼お疲れ様〜。大変だったでしょう?」
「あっ、姫…来てくれたんだ」
「そりゃそうだよ、お友達の親御さんの葬式だよ?それに私もたまにお世話になってたし」
初耳だ。わかさぎ姫とお父さんの間に関わりがあったなんて。
「たまに湖にゴミを捨てる不届き者がいるんだけど二胡さんが来て一緒に片付けるのを手伝ってくれたのよ」
お父さんがそんなことをしていたなんて…知らなかった私が少し恥ずかしくなった。
「あ、そうだ。二胡さんってどんな人だったの?私いろいろ聞こうとしたんだけど全然答えてくれなくて」
姫もずっと気になっていたんだろう。当然のように聞かれてしまった。しかし本当に何も分からないのでどう答えればいいのか分からない。
「それがねぇ〜よくわかんないのよ。お父さん」
「えぇ、なによそれ~」
「いや本当なんだって、お母さん、お父さんの話全然してくれないからさぁ。それに私ともあまり会話してくれなかったのよ」
葬式も無事に終わり家路につく。そんな中でふと思うことがあった。
「私ってお父さんのこと全然知らなかったなぁ……」
あんなに長く一緒に居た父のことを私は娘として何も分かっていなかった。
「お父さん、どんな人だったんだろう」
思いが湧き上がる。お父さんについて知るということは自分のルーツについて知ることでもあった。
「お母さん、お父さんについて教えて」
母は喪服を脱ぎながらこちらを見つめる。またかと、そう言いたげな表情だ。お父さんについて聞くといつもこれだ。
「影狼、何も話すことは…」
「私、自分のルーツについて知りたいの」
ルーツ。そのような言葉を初めて母に言った気がする。しかし母の反応は変わらなかった。
「貴女にはまだ早い」
それを繰り返すばかりだった。しかしお母さんの目の奥には何か押し殺しているかのような影があった。
生前の父はいつもこう話していた。自室に決して入るな、と。でも今なら入ることができる。私はそうっと襖を開け父の部屋に入る。
「お、お邪魔します…」
一見綺麗に整頓された部屋だが、もしかしたらこの部屋に父の過去が分かる物があるかもしれない。
まずは机の引き出し。開けてみるが私には読めない言語で書かれた紙が大量にあるだけで何も分からなかった。
次はクローゼット。だが、父の遺品は全て処分されてしまったのかすっからかんになっていた。
期待した私が馬鹿だったのだろうか…そう思って部屋から出ようとすると何もないところで躓いてしまった。
「いてて…何よ…」
畳が一箇所だけ不自然に浮いていた。恐らくこれに躓いたのだろう。私はそっとその畳を持ち上げようとするとそこにはそこそこ大きなの箱があった。
その箱には絶対厳守と記されている。私は箱を開けてみたい衝動に駆られ、気付いたときには開けていた。
カポッと音がすると埃が舞った。咳払いした後、中に何があるのかじっと見つめた。
そこには日本語で書かれた紙の束があった。つい最近書かれたであろうその筆跡からはどこか苦しみが伝わってきた。
1944年、冬。
ハァハァと息を切らしながら雪原をひたすらに走っていた。
階級章を無理矢理剥ぎ取り、もはやそれに権威は存在しない。赤軍の制服は所々乾いた血に染まっている。
私は帝政ロシアの置き土産であるヴォルガドイツ人の人狼の父と日系ロシア人の人狼の母の間に生まれた。若き頃から祖国にこの身を捧げることを当然と思ってきた。自ら志願して赤軍に入隊したのはその為だ。
…しかし、その思いは呆気なく崩れ去った。
父が国家反逆罪で処刑されたという知らせが入った。私の父は愛国者でありそのような悪事に手を染めることは考えられなかった。当時はスターリンが何も罪のない人々を粛清しているとの噂が広まっており、私の父もあの男によって選ばれてしまったのだろうと思った。
…母が納屋で首を吊ったという知らせが届いたのはそのすぐ後のことだった。
信じていた祖国は私から家族も誇りも……全てを奪い去った。
ある夜、私は静かに自らの情報が記された書類をポケットの中に無造作に詰め込み、暗闇の中へ姿を消した。
もし見つかれば懲罰部隊に送られ前線に送り込まれてしまうだろう。もしくは処刑……。
……どこまで走っただろうか。ここがソ連国内であることは分かるのだがどこの地方のどこの地域なのかさっぱり検討もつかない。
コートと制服を脱ぐわけにはいかない。人狼だとしてもこの極寒の寒さに耐えきれるわけがない。
誰もいない森を警戒しながら進み続けた。とっくに限界を迎えていた。
水も食料も何日間も取っていなかった。いくら人狼といえどもここまで取っていないと死の危険すらあった。
雪を食べてみたがどこかしょっぱい。すぐにそれが動物の尿が染み込んだ雪だったと気付くのにはそう時間はいらなかった。急いで吐き出し、口に手を突っ込んでさらに汚物を吐き出そうとする。
余計なことをしてしまった。更に疲労感が募った。
森の中を走る中、ぼんやりとした視界の中に何か異質なものが見えた気がした。
開けたところにソ連という国家にはあまりにも似合わない鳥居があった。
「鳥居…?」
かつて母が日本には神社という建物があると教えてくれたことを思い出した。
その時だけ疲労感が体からすっと抜け、足取りが軽くなった。自然と鳥居に近寄り様子を見る。
「鳥居…結界…」
そう呟いていたが何故だか私には何のことか良く分からなかった。気付けば口から出ていたのだ。
目を凝らすと遠くには神社のようなものが建っている。私は魅了されてしまったのか前へ前へと歩みを進める。
結界を越えて境界を越えてもうひとつの世界に向かう、そんな荒唐無稽な話がもしかしたら本当かもしれない。
ぐにゃりと地面が歪み視界が揺れる。神聖なる場所には神聖なる物が眠っている。私はそれを起こしてしまったのかもしれない。
意識が混濁していく。
目を覚ますと月が真上にあった。鳥居をくぐった時には真昼だった気がするのでかなりの時間気を失っていたのだろう。
体を起こし周りを見る。…がそこには神社など無く竹林があった。一体何が起こってしまったというのか。
「大丈夫…?」
女の声が聞こえる。私は振り返った。
そこには赤ん坊を背負う女がいた。…がその姿は異質そのものだった。
獣のような耳に長く鋭い赤い爪。そう、私と同じだった。
「倒れていたから心配していたの」
日本語。日系である私にとっては懐かしい響きだ。
「血出てるよ…大丈夫…?」
そう言いながら彼女は近づいてくる。
「来るな…!」
「…えっ?」
「この制服の意味が分からないのか!赤軍だぞ…ソヴィエトの…!」
彼女に服を引っ張ってアピールする。これなら分かってくれるだろう。
「せき、ぐん…?ソヴィエトって何…?」
帰ってきたのは予想もしない答えだった。
…なるほど。どうやらこの女は赤軍やソ連を知らないらしい。だとするとここはドイツでもソ連でもない、か?
「貴方、変な匂いがする」
ここで変に誤魔化しても更に警戒されてしまうだけだろう。正直に告白することにした。
「…人狼だよ」
「君は…狼女なんだ…ろう」
そう言うとついに限界が来たのか倒れてしまった。
意識がまた混濁する。
見知らぬ天井。どうやら私はあの女に助けられてしまったらしい。横を見ると赤ん坊をあやす女と囲炉裏があった。
「何故助けた」
「苦しんでいる人を見逃せと?貴方、怖いことを言うのね」
「……」
私はホルスターに入った拳銃を取り出そうとした。
…が力が入らない。
「今の貴方にそんなことが出来るとは思えないわ。あと念の為に弾も抜いておいた」
ガクッと力が抜けてしまう。死ぬことすら許されないとは…。
「お父さんは外の世界からやってきた…?」
「じゃあ私は一体…幻想郷で産まれたはず…ならお父さんは…」
「…影狼」
振り返るとそこにはお母さんがいた。その手は震えている。
「ごめんなさい、でも知りたかったの」
「こちらこそ謝らなければならないわ。影狼の知りたい思いを無下にしてしまっていた、ごめんね」
そう話すお母さんの目元には涙が滲んでいた。
「…話す時が来たようね」
「二胡さんはロシア産まれの狼男だったの。大祖国戦争って戦争があってお父さんはソ連軍の一員として戦った」
「でもお父さんの家族は…」
「そうね…。二胡さんのお父さんは当時の政府によって粛清されてお母さんは彼を追うように自ら死んでしまった」
お母さんは胸元のポケットから古びた写真を取り出した。
「これがロシアにいた頃の二胡さん。ほらこの背の高い人が…」
その写真には軍服を着た兵士が写っていた。皆笑っていたが…お父さんだけ笑っていなかった。
「二胡さんは笑うことが少なかったのよ。それはこの頃からってことね」
「彼の本当の名前はニコライだった。でも当時は外国人は少なくて…幻想郷に来てから二胡と呼ばれるようになったの」
そして私はずっと気になっていたことを聞くことにした。しかしそれはとてつもなく重い話だった。
「お母さん。お父さんは本当のお父さんじゃないんでしょ?」
自分でも信じたくなかった。が、あの文章を見る限り私は…。
「...お母さんね。お父さんからずっと話すなと言われていたんだけど、お父さんは二番目のお父さんなの」
「やっぱり、そう…なんだ」
心の奥がズキリと傷ついた。
「お父さんと影狼、似てないでしょう」
私とお父さんは全然似ていなかった。似てないと聞いても、「影狼は母親似だからなぁ」とはぐらかされるばかりだった。
「じゃあ、最初のお父さんは…」
「狼男だった。影狼が産まれてすぐに猟師に撃たれて死んでしまった」
お母さんは視線を落とした。
「妹紅さん、若かった頃の私のお父さんと会ったことがあるんでしょう」
私と同じように竹林で過ごす藤原妹紅の元を私は訪ねていた。彼女は不死身の存在で昔から幻想郷に住み着いている。そんな彼女ならお父さんのことを…。
妹紅さんはお茶を飲みながら静かに口を開いた。
「覚えてるよ。確かニコライって名前だった」
「ニコライは傷ついていた。私には戦争というのが分からないけど…それはそれは辛い辛い経験なのは何となく分かった」
「貴女に話したがらなかった理由も分かるよ。彼はいつも過去をここに持ち込みたくないと繰り返していた」
私はあの手紙をもう一度読んだ。あの時には気づかなかったがまだ続きがあった。
「私は影狼の父ではない。本当の父は影狼が産まれた直後に亡くなった」
「お前の本当の母親、影泉はこんな私を優しく受け入れてくれた。祖国から逃げ出したどうしようもない私を」
「戦争も憎しみもなかったこの世界で生きることができたのは幸いだった。私は救われたんだ」
「これを読んでいる頃には私はもうこの世界にはいないだろう。生きている間に真実を話せなかったのは私の重く苦しい過去を影狼に見せたくなかったからだ」
「さようなら」
私は震える手で字をなぞった。
私は部屋の中で父の名前を何度も何度も何度も叫んだ。手紙を胸に抱きしめ涙が止まらなくなっていた。
本当のお父さんでなくても、私にとって今泉二胡はお父さんだった。
そういえばこんな話があった。
小さかった時、私はよく竹林で遊んでいた。いつも母に遠くへ行っちゃだめよと怒られたものだ。
ある日、私は母が昼寝をしているの良いことに結構遠くまで来てしまった。
「迷っちゃった…」
その時だった。私の前に大きな影が現れたのは。それは異型の姿をしていて舌なめずりをしながら私をじっとり見ていた。
本能的な恐怖に襲われ足が一歩も動かなくなってしまった。このままでは食べられる…!
そう思い目を瞑るともう一つの影がそいつに襲いかかった。グチョグチョと何かを噛みちぎるような音がしたのでゆっくりと目を開けるとそいつの首を大きな狼が噛みちぎっていた。血が噴き出し私の顔にかかってしまう。
そいつはドサッと倒れ狼はゆっくりとこちらを振り向いた。震える私を優しい手で抱きかかえると家の前まで運んできてくれた。その狼の眼がどこか温かいものだったことを記憶している。
その後母にこっぴどく怒られてしまったが怒られている最中もその狼のことで頭がいっぱいだった。
…暫くすると父が帰ってきた。私が出迎えた時右腕をさっと隠そうとしたので何故隠すのかというと「昔の傷が開いた」と返された。当時の私はそれを信じていた、が。今なら分かる。
あの時助けてくれた狼は紛れもなく父その人だったのだ。何故あの場所に現れたのかは分からないが今ならそう確信できるのだ。
娘が立派に育って影狼パパも安心したのだろうと思いました