Coolier - 新生・東方創想話

幽き涯に源を追いて

2025/07/20 00:43:17
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 ざああぁーー……、と木枯らしが吹きつけて、周囲の雑木林が騒めいて幾枚もの葉が散らいでいく。
 微かに取り戻した意識の中、濁った眼で薄らとぼんやり映った景色は、沈みゆく夕陽の中で紅く照らされながら、冬に向けて木の葉を散らす一樹の紅葉であった。
 紅葉の周囲には手入れはされているが、人気のない墓地があり、その侘しい様子と物悲しい情景に思わず寂寥感が込み上げてくる。
 なんと風雅で、なんと幽幻な姿であろうか。
 そうして、心を撫でる侘び寂びの光景の感動を詩にしようと口を開くが……。
「う……ら……、た、ぁ…………」
 強張った口腔、硬直した関節。何もかもが満足に動かない肉体では詩ではなく呻き声が溢れるばかりである。
 詩に出来ないことに内心で落胆するが、この気持ちだけは胸に刻もうと、未だぼやける視界に抗おうと目を見開く。
 明らかに異常な状態の肉体でありながら呑気にそうやって立ち竦む。そんな有様の中、真っ赤に色付いた紅葉が一枚眼前を過る。その瞬間、突如として脳裏にとある姿が浮かび上がった。
 こちらを見つめるそれは薄ら笑いを浮かべ、覗く瞳には深淵よりも昏く、心根では一切笑っていない不気味な貌であった。
 身体を抱いて顔を撫でる手は、愛玩動物でも愛でるかのようで気持ちの悪さだけを覚えている。
 邪悪の権化とも言える女の記憶が蘇り、今、自身が何をすべきかを思い出した。
 逃げなければならない。
 景色に見惚れている場合ではなかった。足早にこの場から立ち去ろうと慌てて脚を踏み出すも、棒のように固まった脚で歩くことは叶わず、地面を空振り、もんどり打って頭から倒れ込んだ。
「ぁぎゃ……! がが…………!」
 顔面を強かに打ちつけたが、不思議と痛みはない。それよりも早く逃げろと本能が警鐘を鳴らす。
「あぁあぅ……が……ぐぁああ……!」
 動かぬ身体のせいで起き上がることは叶わない。兎にも角にも直ちにこの場から逃亡しなければならない。
 ほとんど機能していない四肢を必死に動かし、這いずってその場から退こうとする。
 もがく最中、一際強い木枯らしが吹きつけた。不様に地を這う身体を覆い隠すように、零れ落ちた枯れ葉の山が宙を舞っていくのであった。



「本当だもん! あれは絶対おばけだったって!」
「えー? どうせまた妖精が悪戯してたんじゃないの」
「いーーや、間違いないわ。妖精にあんな怖い演技出来ないもん。出来るなら私、弟子入りしたっていいわ」
「どうだか……」
 命蓮寺の裏手にある墓地。通りを区切る砂利道を、ナズーリンと多々良小傘が並んで歩いている。
 舌が飛び出した意匠の大きな紫色の唐傘を片手にくるくると回しながら、小傘はもう片方の手でナズーリンに己の主張を信じてもらおうと袖を引っ張っている。
 いつもは悪戯好きで陽気な彼女だが、"おばけ"とやらに遭遇したせいか、いつにも増して興奮気味だ。
 そんな小傘に絡まれながらも、ナズーリンはやや呆れ顔で相手をいなしつつ、大きな耳をそばだてて辺りの音を拾っていた。
 長く伸びた尻尾の先をゆらりと揺らしながら、彼女は手にしたダウジング用のペンデュラムをゆっくりと振る。
「どう? 居そう?」
「いやぁ……多分居ない、かな」
「えーっ!?」
 けれど、小傘から得られる情報は曖昧すぎた。
 更に言えば、ここは墓地である。鋭い嗅覚が捉える屍臭も、この場所柄ではあまりに混濁していてあてにならない。
 得意とする聴覚も、もうおばけが姿を消してしまった後では、ただ空を切るばかりだった。
 そうなると、もう脚で稼いで証拠を探すしかないとなってしまい、小傘と共に墓地中を練り歩くのが現状である。
 そんな中、並び建つ墓石のうちの一つが台石から外れて倒れていることに気がついた。同時に気付いた小傘が嬉々として駆け出した。
「あっ! 見てナズーリン! 墓石が倒れてる! こーれは確たる証拠じゃない?」
「竿石ね。それは君が今朝遊んで倒したやつだろ、ちゃんと戻しときなよ」
「あっはは……。そ、そだっけ……? じゃあ……ふんっ! ん、んぐぐぐ……!!」
 小傘が協力的でやる気であるのは良いのだが、人間驚かしスポットとして墓地に入り浸るにしては飽き性な性分に加えて注意も散漫であるため、こうした軽率な行動を無意識にとってしまうことがあるのだった。
 それだけ入り浸っているがゆえに、未だ懐疑的なおばけとやらの存在の話を信じて捜査に乗り出した訳ではあるが。
 少しばつが悪そうにして笑って誤魔化した後、顔を真っ赤にして自らが倒した竿石を戻そうと格闘する小傘を尻目に、ナズーリンは墓地の広場へと歩み出る。
 墓地の中央部に位置する広場には一樹の紅葉が植えられている。
 冬が近付いてきていることもあって、ほとんど散ってしまっていて、葉は枝に僅かに残すのみだ。数日内に全て散らすことだろう。
 ナズーリンが足許に目を落とせば、赤に黄色、錦に色付いた葉は絨毯のように地面を鮮やかに彩っていた。
 さっきのようなこともあって、小傘には墓地の清掃が命じられているはずなのだが……。
「はぁ……。小傘め、またサボって……。……ん?」
 仕事の放棄に胸中で呆れてつい、悪態とため息が溢れる。小傘の片付けを待っていて手持ち無沙汰となったナズーリンは、なんの気なしに積もった葉を蹴り払う。
 そうして地面が露わになったことで、ナズーリンはとある事に気が付いた。
 精妙に隠されていたが、地面には何かが引き摺ったような跡がある。
 跡を見る限り、かなり大きな物だ。
「まさか、これがおばけの──」
「あーーーー!!!!」
 静まり返っていた墓地の広場に、突如として甲高い叫び声が響いた。まさに捜査の糸口を見つけて着手しようとしていたナズーリンは、思わず目を見開き、声の方を振り向いた。
 現れたのは、伽羅色に髪を染め、縦ロールという派手な髪型の少女だった。その豪華な見た目とは裏腹に、その身には浅黄色の法衣と袈裟をまとった尼僧の装いだ。
 その姿を確認した途端、ナズーリンは思わず顔をしかめた。
「うげ」
 叫び声の主は依神女苑。財産を奪って破滅に導く疫病神で、ナズーリンが関わりたくない相手の筆頭だ。出家したようだが、だからといってその性分が改まるとは思えない。
 にこやかに駆け寄ってくる女苑がナズーリンに彼女が近づいてくる理由は、どうせ決まっている。金儲けの道具として自分を使う気なのだ。
「やーっと見つけた! もー、探したんだからねアンタのこと。どこにも見当たらないし!」
「まあ、方々を探索してたから……はは……」
 ナズーリンは曖昧な笑みで返しつつ、自分の油断を悔いていた。本来なら能力でこの疫病神を避けていたはずだったのに、女苑が出家したという情報とおばけ捜しに気を取られ、警戒を解いてしまっていたのだ。
 そんな事情など露知らず、女苑は当然のようにナズーリンの手を取って満面の笑みを浮かべる。
「まあいいわ。それよりもようやっと会えたんだから聞いて。すっごくいい話があるの!」
「その前にやるべきことがあるんじゃないか」
 ナズーリンはその手を振り払うように、冷ややかな声で言った。女苑の背後には、こちらを遠巻きに見つめる数人の人影があった。
 女苑は檀家の法要に来ており、本来は経をあげるべき立場だ。その務めを放り出して鼠の妖怪である自分のもとへ来たのは、不適切極まりない。ましてや、妖怪と親しげに話すその姿が檀家の目には奇異に映るだろう。
「あ……!」
 指摘されて、来客の存在に気づいた女苑が一瞬戸惑いの表情を見せた。恐らく、ようやく捕まえたナズーリンを手放すべきか、それとも職務を優先すべきか迷っているのだ。
 かつては儲け話のためなら他人の迷惑を顧みなかった女苑が、こうして迷っている。成長した証といえる。
 そんな彼女に、ナズーリンは淡々と言い放った。
「今すぐ戻らないなら、どんなに良い話でも引き受けないし、白蓮にも報告するよ。……後で聞いてあげるから、仕事しなよ」
「~~っ! 言質は取ったからね!」
 白蓮という名と約束の言葉を受け取った女苑はそう言い放ち、檀家の方へ駆け戻っていった。
 人を丸め込むのは得意な疫病神だ。愛想よく立ち回れば、これ以上怪しまれることもないだろう。
「さて……」
 女苑との遭遇で本来の目的からは外れていたが、調査対象はおばけである。
 ナズーリンは尻尾に下げていた籠を手元に引き寄せ、その中にいた鼠へと話しかけた。
「地面に引き摺った跡があるだろう? その先を追って、何か見つけたら知らせて。いいね?」
 鼠はナズーリンの忠実な配下だ。任務を託されると嬉しそうに鼻を鳴らし、籠から飛び出していった。葉に覆われた痕跡も、鼠の小ささなら潜り込んで調査できるはずだ。
 ナズーリンもまた、鼠とは反対方向にある痕跡の発生源と思しき場所へ向かう。
 意外にもそれはすぐ近くであった。ナズーリンが最初に発見した場所の、紅葉の木を挟んだ向こう側にある。
 土が掘り返された跡があり、よく見ると小さな靴の足跡らしきものも見える。
 この紅葉の広場に墓は無い。墓荒らしの線は考えにくい。となれば、答えは一つ──ナズーリンもよく知る存在だ。
「またあのキョンシーが蘇ったのか……でも、何かがおかしい……」
 ナズーリンの脳裏に浮かんだのは、キョンシーの宮古芳香だ。かつてこの墓地を徘徊し、無差別に人を襲った死体である。しかし騒動の原因が解消された後は、芳香は土に還されたと聞いていた。
 だが、土から出てきたのが芳香の場合、今回の痕跡には不審な点がある。
 芳香は小傘も知る存在だ。今朝倒した竿石のことも忘れるような奴ではあるが、おばけとまで言い張るとは思えない。
さらに、芳香ならば何にでも喰らいつく性質上、何処かしらに噛みついた痕跡が残るはずだが、周囲には歯形も血の跡も見られない。
 復活したのは、本当に芳香なのだろうか。
 疑念を抱いたまま考えを巡らせていると、ナズーリンの視界の端にふらふらと歩いてくる影が映り込んだ。
 汗みずくで息も絶え絶えな小傘である。唐傘も仲良く一緒にぐったりと項垂れていた。
「あ、あの、なずぅりぃんさん……。で、出来ればちょっとは手伝って欲しかったなあ……なんて」
「倒した君が悪い」
「あぅ……」
 倒れていた竿石を元に戻してきたが、相当な重労働だったらしく、珠の汗を額に浮かべている。
 些か同情の余地もあるように思えたが、ナズーリンは迷いなくぴしゃりと切り捨てた。
「それはそれとして、少し話したいことがある。休憩にしようか」

 広場の隅には、墓参者のために設けられた東屋がひっそりと建っている。
 小傘はそこへよろよろと腰を下ろし、水筒を手にしてようやく呼吸を整えた。
 頃合いを見計らって、ナズーリンが口を開く。
「情報を整理したい。もう一度、おばけの話を聞かせてもらえるかな」
「うん。たしか昨日、日が沈むちょっと前だったと思う。さっきナズーリンがいたあの場所に誰かが立ってたの。逆光でよく見えなかったけど……」
「ふんふん」
「最初は、昔ここにいたあの死体かなって思ったの。でも不気味なくらい静かで、まったく動かなくてさ。オブジェかなーって思って近づいたら……いきなり叫んで斃れてきたのよ!」
 思い出すのも嫌だと言わんばかりに、小傘は顔をしかめた。
「それで逃げたんだ」
「そりゃあ逃げるに決まってるでしょ! あんなの誰だって腰抜かすわよ……って、これ、新しいビックリネタに使えるかも」
「バーカ」
 一晩経った今となっては、恐怖も薄れてきたようで、その体験すら持ちネタにしようとするほどの余裕が生まれている。
 今朝、半泣きでナズーリンにすがりついていた姿とは雲泥の差だ。
 とはいえ、小傘の証言を踏まえる限り、おばけの正体が宮古芳香という線はやはりどうにも薄い。
 芳香は、死体とは思えないほど活発で、しかも騒がしい奴だったはずだ。“らしい”点があるとすれば、死後硬直で固まった関節の動きくらいかもしれない。
 今回のそれは、不気味なほどに無言で、ぎこちない動きばかりが目立つ。
 その時、遠方へ追跡に向かっていた鼠が戻ってきた。
 その様子からして、成果は芳しくないとすぐに察せられたが、ナズーリンは努めて優しく迎える。
「おかえり。どうだった?」
 鼠は小さく首を振って項垂れてしまった。
 墓地の入り口付近にまで痕跡は続いていたものの、敷かれた石畳を通ったあたりで痕跡が完全に途切れてしまい、見失ってしまったようだ。
 得意の嗅覚も、死臭の染みついた墓地では手掛かりの匂いがかき消され、追跡は不可能だったという。
 落ち込む鼠を慰めるようにその頭を撫で摩ってやっていると、法要を終えた女苑が此方へとやって来た。
「女苑じゃん。おはー」
「おはー。アンタまーた性懲りも無くやってんだ」
「ふふーん。でもそのおかげでおばけを見つけたんだから!」
「へーぇ?」
 えっへん、と薄い胸を自慢げに逸らす小傘に女苑は頬杖をついてすっかり話を聞く体勢である。
 簡単な雑談かと思って待ってみれば、小傘が話を切り上げそうになるたび、女苑は巧みに相槌を挟み、更にはどうでもいい世間話にすり替えている。
 その態度から雑談に付き合っているようには見えなかった。話を逸らしているのは明らかで、引き延ばしているのも見え透いている。
 ちら、と視線だけナズーリンの方へ流してみせるその仕草には、仄かに悪意が滲んでいる。
 言いたいことがあるならさっさと言えばいい、とナズーリンがそう口を挟むのを、女苑は待っているかのようだ。
「ウオッホン! ……いい話とやらがあるんじゃないの」
 このままでは駄弁りに浪費してしまうと思い、焦れたナズーリンは大きく咳払いをして話を遮った。
 それを聞いて女苑は目を丸くしたが、ゆっくりと細めていき、にんまりとした笑みを浮かべるとナズーリンの方へと向き直った。
 やられた、とその瞬間ナズーリンは後悔した。女苑の目論見はあやふやに話題を流させない為に意図的に小傘と雑談を仕掛けていたのだ。
 そして、女苑がこの顔をする時は絶対に碌でもない話である。
「ああ、ごめんごめん。ちょっと話し難い内容だったからさぁ」
 わざとらしく申し訳なさそうに頭を掻く女苑だが、本心はほくそ笑んでいるに違いない。
 そのまま女苑は話を続ける。
「いつぞやに黒い水が湧いた異変あったでしょ?」
「あー、あったねぇ。確か血の池地獄の血だったっけ?」
 かつて幻想郷全土に黒い水が漏出したという異変があった。
 規模からして当然、全員が知っている出来事であるし、水に関することは見逃せないと小傘も独自に調査していたくらいだ。
 小傘の言う通り、正体は放棄された血の池地獄の血である。
 異変は既に解決し、現在ではその場所は管理されている状態の筈である。
「そう。外の世界だとあの黒い水──石油は加工されて利用されているのよね。で、当時一部は回収出来たから私も加工してみたのよ」
 そう言って女苑が懐から取り出したのは、カンテラの様な形をした瓶であった。
 瓶に入った液体は美しいエメラルドグリーン色に輝き、透き通っている。とても以前のドブのように濁った液体と同一とは思えない。
「えー! すごーい! これがあの黒い水なの!?」
「もう少し見てみても?」
「どーぞ」
 予想外の神秘的な色の液体に小傘は目を輝かせて興味津々である。
 ナズーリンも同様に興味が唆られていて、瓶を手に取って光に透かして観察する。黒い水の名残は微塵もない。まるで最初から清浄な液体だったかのように、透き通っていた。
 この石油の元は血の池地獄の血である。地獄に突き落とされた数多の罪人たちの罪禍に塗れた液体の筈だ。それが放棄された、即ち閻魔や鬼からもどうしようもないと判断された罪人の魂の集合体であるのだ。
 しかしどういう訳か、加工し精製されたそれは綺麗さっぱり罪禍だけが抜け落ちていたのだ。
 小傘と共にしげしげと眺めていると、女苑が口を開く。
「それでナズーリン、ここからがアンタに依頼したいこと。今ある石油の権利は賢者だかヤクザだかが占有してる。でも地底は広大。もしかしたら新たな油田が残っているかもしれない」
「それを私に見つけろと?」
「そーよ。これでもアンタのダウジング能力を買ってるんだから。元地底の住人で優秀なダウザーのナズーリンさん。……そうねぇ、成功報酬は見つけた油田の半分の権利をあげるわ。私はね、利権を得て豪遊したいのよ!」
 呆れるほどに見事な生臭坊主っぷりの発言であるが、出家しようとも疫病神がもつ生来の本質は変わらないのであろう。
 それでもナズーリンを探していたのは、あくまで利己的な打算によるものだ。
 油田という不確かな存在を追うにあたり、物を探し当てる能力──とりわけ精度の高いダウジングは大きな武器になる。
 さらに、かつて地底に住んでいたナズーリンなら、通り道や危険区域の勘所も把握しているはずで、案内役としても役立つと踏んでいるのだ。
 女苑が精製した石油の罪禍が抜け落ちたことも知っていると思われるが、それよりも利権を得たいと宣う強欲ぶりである。
 権利の半分はやると言うが、どうせ反故にするのは目に見えているので、そこを期待するつもりは毛頭なかった。
 精製された石油はナズーリンの興味を十分に唆らせる内容であったが、それ以前におばけの問題が残っている。
 これまでの情報を考えれば害はなさそうだが、調査の約束している以上無碍にする訳にはいかないだろう。
「……調査だけど──」
「この私相手に儲け話の盗み聞きが許されると思うなよ。今すぐ出てこないならぶん殴るわよ」
 悩んだ末に、石油調査は引き受けるが、開始日は後日にしてもらう。そう切り出そうとしたナズーリンの言葉を遮って、女苑が不意に鋭い目つきで言い放った。
 悪辣とした笑みは消え、険しい表情を浮かべる女苑が見据える方向へ慌てて振り向く。
 少し離れた位置に墓石が並ぶ一角が見えるくらいだが──その地面に音もなく円形の穴が開いた。
 その穴からすうっと一人の女が浮かび上り、姿を現した。
 絹のような羽衣がふわりと舞い、墓場に似つかわしくない鮮やかな朧花の被服が、どこか毒々しく映える。
 足音も立てず、空中から滑るように地面に降り立った。
 殺気立った女苑を前にしても平然として、彼女は小首を傾げて微笑んだ。それは不自然なほどに整った顔立ちで、どこか人形のようでもあり、けれども目だけは底知れぬ悪意と好奇に満ちていた。
「あらあら、どうして気付けたのでしょう。そこの鼠にも感づかれないようにしていましたのに」
「舐めんなよ。儲け話に近付く奴は、盗人の手口だって決まってんのよ」
 天女の如く降り立った彼女の名は霍青娥。道教の教えを説く自称仙人である。
 剣呑とした態度の女苑とは対照的に、青娥は笑みを崩さない。するりとした足取りで東屋へ入ると、さも当然といったように女苑の横へと座った。
 あまりに自然な行動に、女苑ですら身構える間もなく懐に入り込むことを許してしまっていた。
「話は先ほどから聞いていました。新たな油田が欲しいと。私にも一枚噛ませてくれませんか?」
「ハァ!? 何でアンタなんか!」
 予想だにしない青娥の発言に、さしもの女苑も素っ頓狂な声を上げた。
「どうしても純度の高い石油が欲しいのです。勿論、ただとは言いませんわ。我が仙術を以て協力すると誓いましょう」
 そう言って青娥は髪に挿していた鑿を抜き取ると、そっと机に触れた。
 すると、触れた場所を中心に机の一部に穴が音もなく開いた。
 削り取ったという訳ではない。穴が出来る前の部分は縁へ押し除けられるようにして広がっている。
「おぉ~すごぉい。見て見て、ホントに穴開いてる」
 穴開けの能力は周知であったが、間近で体験するのは初めてだ。
 まるで曲芸でも見たかのように、小傘は面白そうに腕を穴に出し入れしている。
「ちょっ……!」
「もう一度使えば、閉じる事も出来ます」
 ナズーリンが制止する間も無く、青娥が再度鑿で触れると瞬時に穴が閉じた。小傘が腕を差し入れていた瞬間であった。
「おい!」
 女苑は青娥の胸ぐらを掴みかかった。それでも殴りかからなかったのは、意外にも小傘が痛む素振りを見せなかったからだ。
「待って待って女苑。あの、これ……痛くないわ。動きもしないけど」
 閉じた穴に巻き込まれた腕だが、よく見ると切断も圧迫による鬱血もしていない。丁度小傘の腕が抜けないように穴を調節したとも考え難いので、そういった特性を持っているのだろう。
 とはいえ、小傘の腕が動かせもしない程度に締められているのも事実であり、女苑が掴む手にはますます力が籠る。
「戻せるんだろうな……!」
「勿論ですわ。良い実演をありがとうございます。多々良さん」
「えっへへぇ~」
 鬼気迫り胸ぐらを掴まれようと、青娥は微笑み、飄々とした素振りで鑿を使って穴を広げる。
 腕を抜いた小傘は額面通りに言葉を受け取って、呑気に笑っていた。
 あまりの呑気っぷりに女苑は馬鹿らしくなったようで、椅子にふんぞり返って座り直すのであった。
「……阿呆らし。それで何? 直通トンネルでも広げてくれるって訳?」
「まさしくその通り、流石の慧眼ですわ。発見した油田を汲み上げるには掘削が必要不可欠でしょう? そこで今披露した術です。開けた穴に──」
「確かに必要だわ! アン──ゲフン、青娥さん。誤解してた私が悪かったわ。是非とも協力してちょうだい。ね?」
「青娥で結構ですわ。もう少し術の仔細をお教えしましょうね、ウフフ……」
 自身の術の発表をする青娥の重要性に女苑は気付いたようで、居住まいを正して青娥に向き合い、その手を取った。
 先程の不躾な態度は何処へやら、口調も猫撫で声で下手に出る始末だ。恐るべき切り替えの速さである。
 事実、青娥の穴開け術の重要度が高いのは明白で、掘削の手間が無くなるというのは魅力的だ。小傘の腕で実演した通り、穴に汲み上げ用のパイプを損耗させずに通すことも可能であるだろう。
 気色悪い演技だが、女苑が掌を返すのも無理はない。
「女苑のこういうとこ、面白いよね……」
「私は寒気がするよ……」
 小傘が二人に聞こえないようにナズーリンに耳打ちする。
 小傘は面白がっているが、ナズーリンから見ればあまりにも明け透けで頬が引き攣ってしまう。
 その間にも、青娥と女苑は楽しげに談笑を続けていた。いつまでも眺めているとはいかないので、二人のやりとりがひと段落したのを見計らい、ナズーリンは机に手をかけ、静かに言葉を挟んだ。
「二人とも、話に割り込んでごめん。青娥に確認したいことがあるんだ」
「はい。何でしょうか?」
 都合良く芳香の主人である青娥が現れたのだ。おばけの正体が芳香であることを問い質す絶好の機会だ。
「昨晩、この墓地におばけが出たらしい。私が調べた限りだと、誰かが土から出てきている。これは貴女の部下の特徴に似ているが……」
「ええ。ご明察の通り、芳香ですわね」
 青娥はこともなげにキッパリとそう言い切った。
「うーん……でも昔見た時と全然違ってたけど……? んんん?」
「……虫干し、ですわ。芳香には防腐の術を掛けているとはいえ、たまには表に出して管理してやることで、清潔さを保たせることが大事ですのよ。その間は命令術を切っているので、様子も違って見えたのでしょう」
 おばけの正体が芳香だと言われるも、目撃者の小傘は納得がいかず、疑問符を浮かべて首を傾げている。
 青娥の説明も死体である芳香の管理保全の為と、筋は通っている。そもそも死体を操って清潔さどうこうは、なんとも可笑しな話ではあるが。
「でも倒れて這いずっていたよ?」
 説明を聞いても尚、小傘は納得がいかないようで、青娥に尋ねる。
 疑問をぶつけられた青娥は微笑みを崩さない。それどころか、一層顔を綻ばせて手を合わせている。
「良く見ていますね、多々良さん。それこそが女苑さんに協力する理由です。最近の芳香は関節の固まりが酷く、昨日はそれで倒れてしまったのです。ですので、問題解決の為に潤滑油として石油が欲しいのですよ」
「ふーん……」
「じゃあ、小傘。おばけの正体探しは終了でいいかな?」
「うん。もし違ってまたおばけが出たら考えればいいしね」
 身体の硬直のせいだと聞いて、小傘は一応の納得をしたようである。ナズーリンも所感としては同様で、芳香に表れた異変は小傘伝いの情報なので納得せざるを得ないのが実情だ。
 青娥がそう言った以上、最早調査は意味のないものになるだろう。
 ナズーリンが打ち切りを申し出ると、小傘も同意した。というよりも、興味がおばけよりも石油探しに移ったのだろう。チラチラと瓶の中で輝く水に目をやっている。
「さてさて、返事を聞いてなかったわね。ナズーリン、当然アンタも協力してくれるわよね? 先客の依頼は終わったみたいだし?」
 依頼の終了を聞いて、待ってましたと言わんばかりに女苑が口を開く。
 その言葉には有無を言わせない圧力があった。しかし、そんなものは必要ない。ナズーリンの答えはもう決まっていたのだから。
「勿論。ただし報酬は決めさせてもらうよ。さっき話していた権利はいらない。欲しいのはこれだ」
 机に置かれた瓶の蓋を指で撫でる。
 中の液体は石油を精製したことでエネルギー価値が跳ね上がっており、それだけではなく、罪禍を削ぎ落とした無垢の魂は霊的価値も高い一品だ。
 燃料か霊魂の活用か。どちらに利用するかは決めかねているが、調査で見えてくるものもあるだろう。
「決まりね。ならそれは成功報酬ということで……さぁ! そうと決まれば地底へ行くわよ!」
「いや、駄目でしょ」
「ダメかも~」
「なら私も駄目ということで」
 話はまとまったからと、待ってましたとばかりに女苑が意気揚々と立ち上がるが、満場一致で否定されて、盛大に机にずっこけていた。
「なんでよ!」
「地底に行くなら準備したいし。あと君、寺の仕事がまだあるでしょ」
「ごめーん! この後寺子屋の子の学童保育があってー……」
「うぐっ……!」
 ならば、とすかさず女苑は青娥に目を向けるが、変わらずにこやかに笑みを浮かべたままだ。
「私は特に用事はありませんが、お二人が駄目なら……ねぇ?」
 青娥ににべもなく断られて、女苑はようやく根負けしたようだ。半ばヤケクソ気味に声高に宣言する。
「分かった、もういい! 明日七時……じゃねえ、明けの午の刻に此処で集合! いいわね!」
「では、私はこれで」
 話は決まったと判断して、青娥は足元に穴を開けてさっさと消え去ってしまった。
「じゃあねー。また明日ー!」
「クッソ、明日ぜってぇコキ使ってやる……」
 元気よくブンブンと手を振る小傘と、爪を噛んでぶつくさと呟きながら女苑は帰っていく。
「…………」
 小傘に笑顔で手を振り返し、見えなくなると残ったナズーリンは真剣な面持ちとなった。女苑の青娥への警戒心は雲散霧消してしまっているが、ナズーリンは未だ彼女を信用していなかった。
 現れた時の地面に開けられた穴が歓談中に自然と閉じられていた。鑿を使っていた様子はない筈だ。
 芳香のこともそうだ。小傘に無邪気に追及されて、ある種の鉄面皮のような笑顔がほんの僅かに崩れるのを見逃さなかった。
 しかし、それを追及したとしても容易く受け流してしまうというのは想像に難くない。
 確実なことは、青娥は嘘を吐いている。
 これ以上は考えても堂々巡りだろう。警戒するに越したことはないと戒めて、ナズーリンはその場を後にするのであった。





 動かぬ身体に鞭を打ち、どれほどの時が経ったであろうか。
 墓地を抜け、しばし這い、見えた洞穴へと潜り込んだ。
 ひとまずは安泰かと心中で安堵する。
 不思議と薄ぼんやりと明るいその場所は、ようやく得た僅かな安心感もあって好奇心が掻き立てられた。目に映る光の静けさに、自ずと奥へと導かれていく。
 闇の底に咲いた、やわらかな光のつらら。不釣り合いなまでに清らかなその光が、内にある不安の残滓に触れて、詩を詠もうと、口が開く。
「くらき……は、ずの…………よ、にこそ……あ……」
 懸命にぎこちない口を動かす。意識が戻った頃に較べれば、慣れてきたのか、幾分か滑らかになりつつあるが、未だ一首を通して詠むことは叶わない。
「うぐ……ぁ」
 時間をかければ詠むことは出来るだろうが、詠み進める度に、脳裏に焼き付いたあの女の薄ら笑いが思い浮かぶ。
 胸の奥で警鐘を鳴らし、それどころではないと焦燥感を掻き立てる。
 今もなお後を追って来ているのかもしれないと想像すると、どうしようもない不安に駆られて、自然と前へと身体を這わす。
 そうして光る鍾乳洞を進んだ奥で、眼前に飛び込んだのは眩い光の数々であった。
 見たこともない大きさの箱を飾り立てるように光が付き、瞬いている。しかも、それは無数に存在している。
 地下奥深くには星の海が存在しているのだと、雅に煌めくその光の数々に目を奪われていた。
「…………」
 ふと視線を落とすと、そこにはどうしようもない、無惨な己の姿があった。
 洞窟の岩肌に預ける自らの肢体は、傷こそないものの、青白く痩せさらばえて、全身砂と泥に塗れている。
 惨めとしか言いようのない薄汚れた有様と、言うことの利かない身体。それに比べて星の海はなんと壮麗で美しいことか。
「ほし、の……、うみ…………かがよふ……よる、に……よごれを──」
 何度も詠むことを試みたおかげか、幾分か口元は動くようになってきている。
 行く当てのない逃亡。ならば、せめてあの星の海の下でやり過ごそう。
「うぁ……」
 呻きながら、未だどうにもならない身体をずるり、と引きずっていき、輝く光の海へと向かって己を滲ませていった。



 翌朝。
 天気にも恵まれて、朝霧が晴れた頃合の墓地の東屋にナズーリンと青娥は集まっていた。
「……遅い!」
「まぁまぁ。まだ時間はありますわ」
 もうすぐ集合時間だというのに、女苑と小傘がまだ来ていない。特に女苑は金の絡む要件で遅刻などしなさそうだが、自己中心の権化のような女でもあるので、性格的にどちらなのか不明瞭なのが歯痒い。
 苛立ちを隠せずに足を踏み鳴らすナズーリンに、それを宥める青娥という珍しい構図だ。
 そうして集合時間間際に、女苑が猛烈な速度で広場へと走り込んで現れた。
「ごっめーん! ギリギリになっちゃったー!」
「何やってたんだ!」
 走り込んできたのに息一つ乱れていないのは、さすが武闘派の命蓮寺で鍛え込まれているだけのことはある。
 手を合わせて女苑は謝るも、遅刻寸前の理由は大方分かっている。
 女苑は昨日着ていた尼僧の格好ではない。縦に巻いたツインテールの髪型なのは変わらないが、服装は打って変わって、首元や指にゴテゴテとした大粒の宝石を身につけ、上質な絹の頭巾を被り、同じく上等な絹のローブに朱染めの腰布を巻いて派手な装いだ。
 他にも煌びやかでけばけばしい、寺の住人として相応しくない服を多数所持しているのは知っている。
 どうせ衣装選びで時間を食ったのだろう。諦めて小さくため息をついた。
「まぁいいか、時間に間に合ったし。後は小傘……どこで油売ってるんだか……」
「ああ、それなんだけど。小傘って昨日また墓石倒してたじゃない? あれね、聖にバレてもう大目玉よ。今頃石切からやらされてるんじゃないかしらね」
「あいつめ……!」
 女苑曰く、昨日戻したあの墓石はどうやら亀裂が入ってたらしく、それがよりにもよって見回りに来た聖の目の前で割れたという。
 破損理由が小傘の遊びが原因と判明すると、普段温厚な聖でも怒髪天と呼ぶに相応しい激怒っぷりを発揮することになり、なまじ技術のある小傘は墓石の作り直しを強いられているらしい。
「あのバカ!」
 説明を聞いて、顔に手を当てて思わず天を仰いだ。最早これしか言えないほどに自業自得という言葉が相応しい。
 いくら小傘の器用さが幻想郷有数とはいえ、石材の切り出しからとなると、どれだけ早くとも今日一日はかかりきりになるだろう。
 つまり今回の調査は小傘抜きでやるしかないのである。
 それはそれとして、女苑が大きな荷物を背負っているのが気になり、ナズーリンは尋ねることにした。
「この際あのバカはもういいとして……。君は一体何を持って来たんだ?」
 準備期間として日を改めたが、ナズーリンは探知用に身の丈ほどあるダウジングロッドを装備してきたくらいで、青娥に至っては何ら変わりないように見える。
 女苑はよくぞ聞いてくれたとばかりの自信ありげの表情で荷物を取り出した。
 それは青緑色のウインドブレーカーであり、フード付きで手首辺りには反射材が付けられている。
 暖かそうなのは良いのだが、サイズが明らかに女苑では着れなさそうな小ささだ。ナズーリンは嫌な予感がした。
「ジャーン! アンタ用の防寒着! 差し詰め作業員ってところね」
「いや、私は別に……」
「あ? なによ、私の厚意無駄にするっての? 石油探しなんだから着てよ」
 形から入る主義らしい女苑はずい、とナズーリンに服を突きつける。ご丁寧に手袋まで用意されている。
 言葉こそ対等ではあるが、女苑はバリバリの武闘派の疫病神だ。ナズーリンは鼠の妖怪で力こそ人間よりもあるが、妖怪としてはひ弱な部類にある。力では比べるべくもない。
 そういった差と女苑の勝気な性格で苦手意識が強く、なるべく関わりを持たないようにしていた。なので、今のように強気に来られると断るに断れなかった。
 結局、ナズーリンが折れて、着替えることになった。といってもケープを脱いだくらいではあるが。
「ちっさいわねー! これでも一番小さいの用意したのに!」
「うるさいな! 用意したんならサイズくらい合わせといてよ!」
 用意されたウインドブレーカーは女苑が持つとかなり小さく感じたが、いざナズーリンが袖を通すと実際は一回り大きいものであった。
 ぶかぶかで、服に着られているサイズ差があるとはいえ、デザインと防寒性に関しては気に入ったので、有り難く頂戴することにした。
 ダウジング情報用に精製された石油の瓶を受け取ると、腰に装着してやればナズーリンの準備は完了だ。
「で、後ろの子にはこれ」
 しっかりと配下の鼠向けにも装備を用意していたようで、尻尾で掴んだ籠に入る鼠に指先ほどの大きさのヘルメットを被してやっていた。
 河童の技術なのか、その小ささでヘルメットに付いたライトが点けられるようで、鼠は灯りを振り回して籠の中で大はしゃぎだ。
「さ、次はアンタよ青娥。ちゃんと似合うの──」
「結構です」
 きっぱり。まるで一刀両断だ。女苑が服を取り出すより早く、青娥が完璧な笑顔で拒否した。
「な、なんでよ。ナズが小さすぎただけで、今度は大丈夫だから」
「必要ありません」
 崩れない笑顔。だが言葉には取り付く島もない。
「え、ちょっと、せめて試着だけでも──」
「着ませんわ」
「あ……そう……」
 こうも清々しいくらいにまでに断ぜられると、流石の女苑も言うに言えなくなり、服を取り出すのを止めた。
 拒絶の一点張りに、ついに女苑の声がしぼむ。あまりのにべもなさに、ナズーリンはむしろ感心してしまった。
 微妙な空気が場に流れる。
「……ま、まぁ行きましょうか。ガイドよろしく……ねっ」
「ぁ、いっ……!! ……ったぁ」
 女苑が無理に明るく声を張って、ナズーリンの背を思い切り叩いた。
 あからさまな八つ当たりは分厚いウインドブレーカー越しでもかなりの衝撃だった。
 ナズーリンが背中をさすりながら、女苑を睨みつけるも、当の本人は全く悪びれる様子もなく、芝居がかった仕草で明後日の方向へ指を指した。
「さぁ行くわよ! こんなしみったれた寺とはもうおさらば!」
「それ、もう何回目……?」
「あー、今年四回目? だったかしら」
 わざわざ着替えて集合した時点で察していたが、女苑は尼を辞めて還俗する気満々らしい。
 しかし、これが初めてではない。儲け話を聞くたびに大言壮語と共に息巻いて還俗し、失敗してはしれっと出家するを繰り返しだった。
 もう何回目かも分からない出入りに、ナズーリンは呆れて聞けば、女苑すらも把握できていない始末であった。
 ナズーリンが眉をひそめると、女苑は少しだけ目を逸らして口を濁した。
 一方で、青娥は袖口で口元を隠しながら、肩を揺らして笑いを堪えているのであった。……少しだけ吹き出す音が聞こえる。

 地底というと、実は地上と同じように妖怪が棲み、生活を営んでいる。冬になれば雪が降り、今のような秋の暮れには彼岸花が随所に咲き乱れている。違いといえば人間の存在の有無くらいだろう。
 元は地獄であったその場所を閻魔たちが手放して以降、旧都と呼ばれるようになった。河童の技術の導入もされた今日では温泉街として大きく発展を遂げている。
 煌々と光る一大都市となった旧都の灯りの影響を受けて、光を吸い、反射する鍾乳洞は洞窟全体が仄かに明るい。
 そんな不思議と明るい洞窟をナズーリン、女苑、青娥の三人はゆるやかに歩いていた。
 命蓮寺や墓地のある人里からほど近いこの鍾乳洞は開発も進んでいて、他の地底へのルートよりは比較的安全な道となっている。のんびりと垂れ下がり光るつららを眺めながら女苑は口を開いた。
「……思うんだけど、ナズがダウジングして場所を特定して、青娥が開ければ直通なんじゃないの?」
「ダウジングって一口に言っても、このロッドで探知すれば"はい終わり"とはいかないよ。そもそも情報が足りてないし。まず新しい油田があるとは限らないんだから、下手するとヤクザの縄張りに無断侵入も有り得るよ」
「私の穴開けも直線にしか開きませんし、距離の制限もあります。万が一、開けた途中に水脈やガス溜まりでも鉢合わせれば飲まれて死にかねません」
「ほえー、存外不便なものねぇ。もっとこう、発動したら勝手に見つかるとか、何でもすり抜けられるとか思ってた」
「それだったら誰も苦労しないよ……っと、二人ともストップだ」
 女苑のあまりにもざっくりとした能力解釈に、苦笑まじりに返しつつもナズーリンは足を止め、二人を制止した。
「あん? なによ、なんかあったの?」
 怪訝な顔をする女苑に答えずにナズーリンがじっと耳を澄ませば、鍾乳洞の奥から話し声が聴こえてくる。反響して内容までは判らないが、声質から誰かは特定出来る。
「奥に"橋姫"が居るね。なんでこんな所に……」
「それは……少し面倒ですわね」
 青娥が困ったように眉を顰めると、ナズーリンは頷いて同意した。
 "橋姫"水橋パルスィ。嫉妬を操り、地上と地底間の番人を担う妖怪だ。その猜疑心は根深く、こちらにやましい気配が少しでもあれば、確実に詮索してくる。青娥の言う通り、接触は極力避けたい相手だ。
 ただ、パルスィの本来の持ち場は別の場所あり、この鍾乳洞に現れることはまず無い。パルスィがこの場所に居る理由が分かっている。芳香だ。
 墓地から途切れていた引き摺った跡が、この場所で再び現れたのだ。
 やはり青娥は嘘を吐いていた。理由は不明だが、芳香を制御出来ていない。ナズーリンは努めて芳香の痕跡に気付いていないふりをしつつ、配下の鼠に指示を飛ばした。
「奥にいる妖怪の位置を知りたい。何処にいるか見てきてくれるかい? ……灯りは消してね」
 指示を聞いて鼠は胸を張り、籠から飛び出そうとした。ヘルメットの灯りは点いたままだったので、ナズーリンはやれやれと苦笑いをして灯りを消してやるのだった。
 少し待つと鼠が戻ってきた。小さく鳴き、報告した位置によると、ちょうど旧都への行く手を阻むようにして彷徨いているようだ。
 面倒な状況に出くわしたがいい機会だ。青娥の能力を身を以て体験するにはうってつけの状況だろう。それ次第では先に女苑が言っていた直通も出来るかもしれない。
「"橋姫"の位置が厄介だ……。だから青娥、旧都まで穴を開けてくれないか? 最短距離と壁中の障害は私が調べるから」
 ナズーリンの提案に青娥は少し考え込む素振りを見せると、ゆっくりと鑿を取り出した。
 鑿を取り出すその指先は、どこか楽しんでいるようにも見えた。
 ナズーリンは黙って見ていた。
「……お望みとあらば。この旅において私たちは一蓮托生、ですものね」
 妖艶に微笑み、そう告げる彼女の真意は読み取れない。ただ、この協力関係が無ければ石油が手に入る可能性は絶無だということは理解していることは確かなようだ。
 ナズーリンはダウジングロッドを取り出し構えると、旧都の方向にある壁へ向いた。然程の距離がないとはいえ、闇雲に開いて対応出来ないと言っていた水脈やガス溜まりにぶつかっては意味がない。
 一通りロッドを動かすと、構えを解いて二人の方へ向き直った。
「ここだ。この位置から旧都に向かって障害になる物は何も無い」
「大きさは?」
「貴方一人が歩く程度なら」
 ナズーリンが指し示した壁に、青娥は無言で鑿を当てる。空間が音もなく、まるで波紋のように揺らぎ、綻びた。
 生温い風と、硫黄の懐かしい匂い。聴き飽きるほどに聴き慣れた喧騒が、奥から届く。
 トンネルの先に見えたのは、煌々と光る旧都の街並みだった。
「ふふ……お見事。これなら、探知のすべてをお任せしても安心ですわね」
 青娥が軽く目を見開き、口元に笑みを浮かべる。
「やるじゃないナズ。口だけかと思ってたわ。その調子で石油もよろしくねー」
 女苑が感心したように笑い、気楽な調子で手をひらひらと振った。
 青娥は一足先にトンネルをくぐっていき、女苑もその後に続くが、その背に少しの躊躇もない。
 狭い穴の中で閉じ込められたら死ぬ、という恐怖心が、わずかにナズーリンの足を止める。
 だが、すぐに小さく息を吐いて被りを振ると、穴の中へと身を投じていくのであった。

 温泉街として名を馳せる旧都は、かつては長屋が軒を連ねる、どこか懐かしい古き良き温泉街であった。
 しかし、とある異変の後に地底の封印が解かれてからは状況が一変する。河童の技術介入と霊烏路空が生み出す無限の核融合エネルギーが化学反応を起こし、未曾有の産業革命を地底にもたらしたのだ。
 結果、長屋は郊外に幾つか残すのみで、温泉街は高層ビル群へと変貌を遂げ、ナズーリンが棲んでいた頃とはまるで違う旧都へとなっていた。常に囃子の音楽が流され、初めてやって来た者は何かしらの祭りが催されているのかと見紛うほどだ。
 人里や中有の道とは比べ物にならない賑やかさの中、三人は手近にあった居酒屋へと入った。
 ナズーリンが相談事をしたいのと、単純に腹が減ったからだ。
「これから……もぐ、しばらく旧都に滞在することになると思ふ」
 提供された焼きおにぎりと焼き鳥を口いっぱいに頬張りながら、ナズーリンはそう切り出した。和尚である聖も居ぬ間なので仕方がないと言い訳をして、戒律を破ってこれでもかと肉食尽くしだ。
 勝手に還俗した女苑も同様に、ビールを煽っている。
「なんで? ってか食ってから言ってよ」
 女苑が疑問とツッコミを言う間にも、ナズーリンは手を止めずに次の皿に手を伸ばす。日々の粗食のせいで忘れられがちだが、ナズーリンは命蓮寺では一二を争う大食いである。
「んぐ……単純に調査に時間がかかるからだよ。誰も手を付けてない油田なんて地道にダウジングするしかないし……。すみませーん、焼き鳥盛り合わせ十人前ー!」
 この場の誰よりも小柄なナズーリンがとんでもない大食らいで皿を積み上げているからか、居酒屋の客も一部の店員もチラチラとこちらを見ている。
 それを気にも留めず、ナズーリンは行儀悪く指についたタレを舐め取っていく。
「あとはあれだ。二人とも、この地底で一番会いたくない相手って誰?」
 ナズーリンの質問に、ビールを煽る女苑も、ちびちびと地酒を舐める青娥も手を止めた。
「さとりね」
「古明地さとり、ですわ」
 同時に答えた人物の名は共に同じだ。
 古明地さとり。覚り妖怪であり、数多くの妖怪が跋扈するこの地底を一手で管理している妖怪だ。
 その能力は強力で、本人すら覚えていない心の奥底まで覗き込まれ、再現されてしまう。
 欲に塗れた女苑も、巧妙に心を隠す青娥も魑魅魍魎蔓延る地底の中でも相対したくない相手なのだ。
 ナズーリンも長生きしている分、掘り起こされたくない過去も当然存在する。同意するように頷くと鶏白湯を一気に飲み干した。
「私もそう思う。ゲフッ。……失礼。そのさとりだけど、どうもたまに出掛けているみたいだから、居なくなったタイミングで仕掛けたいんだ」
「アンタは油田探しをするとして……私らはその間どうするよ?」
 追加の焼き鳥を待つ間、鼠にも炒った豆を与えてやる。懸命に齧るその姿には愛おしさすら感じられ、頭を撫でる手が止まらない。
 女苑の案も悪くはないが、それよりもさとりに近付いてしまうと目論見は全て露見し、今回の計画は水泡に帰すだろう。それだけは避けたかった。
「それもいいけど、さとりの情報を探ってほしいかな。あと酔い潰れないようにしてよ」
「特定に時間がかかるのであれば、此処での私用もありますので、お先に失礼致します。覚り妖怪の情報も探っておきますのでご安心を」
 現行のすべきことを確認した青娥は、とっくに空けた徳利を店員に返してさっさと出ていってしまうのだった。
 どことなく焦っているように感じたが、これ以上は深入りのしようがない。さとりの情報集めは協力的だという情報を信じるしかないだろう。
 ナズーリンもうかうかしていられない。会計の額よりも多くの金を大雑把に取り出して、机に置いた。
「私もいつまでも管を巻いてる訳にはいかないからね。そろそろお暇させてもらうよ」
「は? いや、ちょっ──」
「呑まれちゃ駄目だよ」
「そうじゃなくて焼き鳥──」
 女苑が指摘して言い終わる前に出立の準備をして、そそくさとナズーリンは出て行くのであった。
 十人前の焼き鳥の盛り合わせの注文を残して。
「……は? なにこれ、私は邪魔だから爪弾きにしておく、ってか?」
「あいお待ち! 焼き鳥盛り合わせ十人前ですねー!」
 疫病神の性質上、女苑は金品を巻き上げてしまう。ナズーリンも青娥も無意識のうちに避けていっているのだろう。
 ポツンと一人残された女苑は、気風のいい店員が置いた山盛りの焼き鳥串に手を付け始めるのであった。
 どれくらいの時間が経っただろうか。追加で注文した数々の酒も無くなりかけた頃、すっかり女苑は出来上がっていた。
「あーー……ん」
 豪快に焼き鳥に齧りつけば、アルコール浸しの脳に脂がよく効くのである。
 へべれけになって空転する脳でこれからのことを考える。
 それなりの期間をこの旧都で過ごすのであれば、路銀を稼いでおくのも悪くないだろう。いつかみたく石油をダシに金を巻き上げれば、豪華な温泉旅になるだろう。
 そこまで考えて、女苑は何か重大なことを忘れているような気がしたのだった。
 と、そう考えているとガララと扉を開ける音が聞こえた。
「いらっしゃ──……!」
 どんちゃん騒ぎで賑やかだった店内が、波を引くようにして静まり返った。
 ジャラジャラとなる耳障りな鎖の音、ゴツゴツと、下駄の打ち付ける足音が静寂が張り詰める店内に響き渡る。
 気にせず赤ら顔で徳利から垂れる水滴を眺める女苑の真正面に、彼女はどかりと座り込んだ。
 残った焼き鳥数本をまとめて掴むと、豪快に串ごと噛み砕いていく。
 そこまでやって、女苑はまるで今初めて気付いたかのような反応を見せた。
「あーら、誰かと思えば元締めの勇儀さんじゃあないの。こんな所で油売ってて大丈夫?」
「お前さんが来たと聞きゃあ、出向かん訳にはいかんだろう? ……ぶはぁっ。なんせ、地底中で借金まみれのVIPだからな」
 女苑の明確な挑発には乗らず、勇儀と呼ばれた女性は、手近にあった一升瓶を開け、一息で飲み干した。
 女苑より二回りは大きい体格に、袖の隙間から覗く引き締まった筋肉。後ろで束ねられた金の髪、そして額には一本、鬼の角があった。
 彼女こそ、旧地獄に残る最後の鬼──旧都を仕切る星熊勇儀であった。
 勇儀の言う通り、女苑には借金があった。それも超多額の、だ。石油こと黒い水が地上に漏出した異変に乗じた女苑は、石油王と自称し、地底の住人から金を巻き上げていたのだ。異変が解消され、石油が湧かなくなると女苑は金を返すこともなく、命蓮寺へ出家することで行方を眩ませていた。
「VIPだなんて、嬉しいわね。でも、お金を借りたなんて覚えはないわー」
 出来上がった蕩けた表情で、徳利を揺らして中身を確かめる。口角を上げながらも、女苑は内心で舌打ちしていた。
 マズいな。
 鬼の勇儀は強すぎるあまり、戦いの最中でも掲げる盃から酒を溢さずに手加減して闘うと有名だ。その女がこの状況下で盃を持たずに此方に相対している。
 女苑も喧嘩慣れしているからこそ分かる。万が一、本気で動かれたなら、姉の紫苑との最凶最悪コンビで挑むならいざ知らず、自分一人で敵う相手じゃない。
 だからこそ女苑は酔ったふりをして笑った。鬼の威信を弄んでやれば、怒りを買い、突破口を開く可能性が生まれるやもしれない。
「なぁに? そんなに顔をしかめて……まぁいいじゃない? みぃんな、疫病神に使ってもらえて嬉しいと思うわよ?」
「……」
 借金があるなどまるで知らなかったと言わんばかりに、飄々とした素振りを見せ、舐め腐った挑発的な姿勢を崩さない女苑に、勇儀の表情は変わらなかった。心胆を見透かされているかのようだった。
 まるで酔っ払いの戯言のように見せかけた女苑の笑顔の奥で、掌だけがじっとりと汗ばんでいた。
「まぁまぁ、そんなシケた連中のことなんて忘れて、パーっと呑みましょうよ! 今呑んだ分も奢ったげるからさ!」
「そんなに私が恐ろしいのかい? これっぽっちも酔ってもいないのに妙に饒舌じゃないか」
 貼り付けた笑みの裏で、女苑は心臓を掴まれたような気分であった。こちらの目論見があっさりと見抜かれている。
「や、やだなぁ、勇儀さん──」
「どうせやる事は変わらんよ」
 未だに、まるで動揺している演技を続ける女苑を無視し、勇儀は女苑の胸ぐらを掴んで豪快に投げ飛ばした。
 机を挟んで座ったまま、それも片手でありながら軽々と店の木扉をぶち破って女苑を放り出したのであった。
 ド派手な破壊音と衝撃は店外の喧騒よりも殊更に大きく、何事かと野次馬たちが続々と集まって来る。
 のんびりとした足取りで勇儀が店を出る。女苑が立ち上がるまで待ってやるかと言わんばかりであった。
「そんなチャチな戦法では意味がないことくらい、お前さんなら分かるだろうに」
「チッ。身勝手にキレてくれりゃ楽だったのに」
 店内の勇儀が悠然と現れる間に、地面に倒れ伏す此方の様子を見に来た野次馬から金を幾らか奪っておいた。富も小銭も弾として使える。持っておくに越したことはない。
 本気の鬼と対峙した時点で、逃げという選択肢はもう無い。
 何より、ここでイモを引いていては石油の再入手など夢のまた夢、金儲けの可能性を一つ完全に潰すことになる。それが女苑にとっては何よりも許せないことであった。
「手当たり次第巻き上げて……手前から借金増やしていること分かっているのか?」
「あーら、コイツらは返済のお手伝いをしてくれているの……よっ!」
 そういうや否や、女苑は握り締めた小銭を勇儀の顔面へと投げつける。
 豪速球で投げられた銭の礫はある程度の威力を誇るはずだか、勇儀は微動だにしなかった。ぶち撒けられた小銭が打ち付けられるが、傷一つ付いていない。
 そこは女苑も織り込み済で、目眩し程度の期待しかしていない。本命は間合いを詰めること。軽快なステップワークで一瞬にして勇儀の懐へと飛び込んだ。
「オラァッ!!」
 咆哮と共に鳩尾へ向かって強烈なアッパーを突き上げる。宝石の指輪の数々がメリケンサックとなり威力を高め、並の相手なら一撃で再起不能になる威力だ。
 さしもの鬼も、渾身の一撃が急所に突き刺されば有効打にはなるはず。
 そんな女苑の淡い希望は打ち砕かれた。
「今更そんなしけた攻撃が効くとは思っとらんよな」
 痩せ我慢している訳じゃない。寸分違わず正確に打ち込まれて尚、女苑の拳は勇儀に効いていなかった。
「……当然。本命はこっちよ」
 そう言って、手品のようにいつの間にか取り出したものは小ぶりのガラス瓶だ。
 中には今ナズーリンが持っている物と同じ、エメラルドグリーン色の液体が詰められている。
「勿論、勇儀さんは受けてくださるわよね? だって──」
 女苑の貼り付けた笑みと状況にそぐわない言葉遣いが、周囲に不気味さを感じさせた。
 同時に、ガラス瓶が宙に浮くと、女苑の表情は獰猛に豹変する。
「鬼が日和る筈ねェもんなァッッ!!」
 勇儀に飛ばすようにガラス瓶に宝石の拳が殴りつけられると、瞬く間に幾本もの炎が迸るのであった。

「──助かったよ。久方ぶりの依頼だけど、情報を持っててくれてありがとう」
「金払いが良いからね。今みたく、いつか戻ってきた時に備えておいただけよ」
 時は少し遡り、居酒屋から出たナズーリンはビルの一角にある路地裏にて妖怪の情報屋へ接触していた。
 閉鎖された空間とはいえ、地底は広い。配下の鼠たちをフルに動員しなければ情報は得られないが、何かしらの騒動を引き起こす。そこで情報屋だ。
 さとりの行動を知れる情報があればと、駄目元で尋ねてみれば、これが大当たり。まさか油田よりも先に判明するとは思わなかった。
「しばらくの滞在になるかもしれないから、さとりが帰ってきたら、また情報を買うよ」
「はぁ……。よくもまぁ、難しいことをこうも簡単に言いなさるかねぇ」
 情報屋は思いっきり顔を顰めて溜め息を吐いた。こうして一度意識してしまった以上、今後はさとりの読心能力に引っ掛かる危険性がある。
 偶然だからこその情報を、次からは危険を冒して得ろとは酷な話だ、ともナズーリンも思うが、やむを得ないことだ。
「報酬なら弾むからさ。頼むよ」
「仕方のない鼠さんだ。あ、そうだ。暫く此処に居座る気ならいいネタあるよ。聞くかい」
 煙管の火を点け、紫煙をくゆらせながら情報屋が言う。
 ナズーリンは金払いのいい、所謂上客だ。無為な情報を与えるようなことはしないだろう。
 情報屋の煙管を持たない空いた手に銭を置くと、下卑た笑みを浮かべて銭を懐に仕舞い込み、ナズーリンへと向き直った。
「へへ、毎度……。実はね、今朝方に一風変わった死霊がこの旧都に出たんでさ」
 はっきり言ってガッカリする内容だ。出没時期も相違ないし、十中八九芳香だろう。
 落胆している内心はおくびにも出さず、興味ありげなように鼻を小さく鳴らした。
「ふぅん……続けて。容姿はいいや。目撃場所と向かった方角が知りたいな」
「場所は外れの裏長屋、向かった先は東さね。他に欲しい情報は? 本当に格好を知らなくていいのかい?」
「…………」
 情報屋を無視し、ナズーリンは考えに耽った。
 芳香の向かった方角、それは温泉街から外れるが、旧地獄である地底の中心部の方角へと向かっていた。
 即ち、さとりの棲まう地霊殿へ向かって行動している。これまで発覚している足跡が、まるでナズーリンらを先導しているかのようだ。
 芳香は死体だ。腐敗した脳でならさとりの読心を突破出来ると考えて地霊殿に向かわせているのかもしれない。
 青娥は芳香を制御出来ていないのではなく、斥候として操っている。と、ナズーリンは結論づけるのであった。
 まさにその時、表通りで騒ぎ立てる妖怪の声と黒煙の吐き戻しそうな不快な臭いが、ナズーリンを現実に引き戻した。
 振り返れば、黒煙は居酒屋の方から立ち昇っている。嫌な予感がナズーリンを貫いた。
「その死霊とさとりの情報は今後も買う! また来たら教えて! じゃ!」
「あっ! おい、待っ──」
 一方的に早口に情報屋へ伝えて強引に取引を切り上げると、呼び止める声が届くよりも速く、大急ぎで居酒屋の方へとナズーリンは戻って行った。
 店の前には人集りがこれでもかと集まっており、隙間を潜り抜けていけば、その中心には殴りあう女苑と勇儀の姿があった。
 女苑が拳に炎を纏ってなりふり構わず殴りかかるのに対し、勇儀は仁王立ちのまま攻撃を受け止め、時折殴り返していた。
「チッ! 視符『高感度ナズーリンペンデュラム』!」
 地底に来て早々に女苑が面倒事を起こして、つい舌打ちが出てしまう。とにかく喧嘩を収めなくてはならない。
 ナズーリンはスペルカードを発動すれば、身体を覆うほどの巨大なペンデュラム状の霊力の結晶が二人の前へ立ちはだかる。
「っ! 邪魔すんなナズ!」
「これに関しちゃ右に同じさね。水を差すってこたぁ、それなりの覚悟はしてるんだろうね」
 突然の妨害に、二人の視線が突き刺さる。殺気立った女苑に対し、勇儀は幾分か冷静だ。話し合う余地があるかもしれない。
「……女苑は、今回の依頼主なんだ。トラブルがあるなら解決したいから、何かやらかしているなら教えてほしい」
「ふん……なるほど、あい分かった。こいつにゃかなり借金がある。ナズーリン、お前さんが担保してくれるなら──」
「ソイツは関係ないでしょうが! そもそも──」
「五月蝿いよ」
 ナズーリンとの話を遮り、勇儀に殴りかかろうとした女苑の拳は空を切り、あっさりと空振った腕を掴まれて投げ飛ばされてしまった。
 人混みを越えてビルの壁に激突した音が聞こえる。
 相手は最強種族、鬼の星熊勇儀だ。倍近い背丈から見下ろされる目線の恐怖に耐えつつ、ナズーリンは口を開いた。
「い、いつまでだ。いつまでに女苑の借金を返せばいい?」
「ふむ……」
 思案し、顎を撫でる勇儀に、復帰した女苑が勇猛果敢に突っ込んでいくが、打ち込んだ打撃の雨の中でも何事も無いかのように、勇儀は女苑の沙汰を考えていた。
 闘志全開で銭を投げつけ、怒涛の連撃を行うも、鬼が相手では有効打にはなっていないようだ。
「よし決めた。これから依神女苑が斃れるまでとしよう」
 考えが纏まった、と手を打つように勇儀は拳を振り下ろすと、的確に女苑の脳天へと突き刺さる。
「いっ……! オルァ!」
 地面へと叩き落とされかける女苑だが、這いつくばり、返す刀で跳ね上がって勇儀の顎へと拳を突き上げる。が、これも変わらない結果であった。
 明らかに女苑は全力を奮っているのに対して、勇儀は余裕たっぷりだ。いつまで保つかは勇儀の胸先三寸で決まるといっても過言ではない。
 そしておそらく、勇儀がそう決めた以上、変更は許されない。
「間に合わなければ、依神女苑は色町に送りつけて返済するまで二度と会わせない。性格はともかく、見目は悪くないんでね……。それでいいね?」
「分かった、それでいい。……女苑! 何とかするから絶対に斃れないでよ!」
 そう言ってナズーリンは踵を返す。色町行き、即ち遊女にさせられるのは知ったことではないが、計画が頓挫してしまうのが困るのだ。
 このままでは、さとり不在という千載一遇の機会をふいになってしまう。
「待ちなよ。額を聞かなくていいのかい?」
「必要ないさ」
 勇儀は呼び止めるが、ナズーリンは足を止めなかった。
 鬼が関わった以上無いとは思うが、女苑の借金だ。借りた相手が碌でもない輩の可能性もある。返済したのは利子だけでした、とあくどい真似をされることもあり得るだろう。
 だから、敢えて聞かなかった。要は返済する当てを見せつければいいのだ。それも想定するよりも圧倒的な金額を。
 心当たりはあるが、その為の時間が無い。彼女の──霍青娥の仙術が必要だった。
 
 ダウジングで位置を特定した瞬間に全速で飛べば、青娥はすぐに見つかった。
 情報屋が「芳香を見た」と言っていた場所のほど近く、人気のない路地の真ん中に立ち、地面を見下ろしていた。
 振り返るよりも早く、ナズーリンが呼びかける。
「いた! 青娥! 貴方の力が必要だ!」
「おや……どうされました? そんなに慌てて」
 息を切らしながら駆け寄ると、ナズーリンは女苑が引き起こした騒ぎの一部始終をまくしたてた。勇儀との衝突、借金の話、返済期限の猶予が残されていないことを。
「……というわけだ。時間がない。今すぐ着いてきてほしい。金脈を当てる」
「お待ちになって」
 とにかく、時間が無い。着いてくるように促すも、青娥はナズーリンの腕を掴んで引き留めた。
 身体能力の高い仙人という種族なだけあって、力強く、びくともしない。
 せめてもの抵抗として、ナズーリンは不機嫌さを隠すことなく露わにした。
「……何。急いでるのは分かってるはずだろ?」
「ええ。ですが、その前に一つだけ」
 青娥は涼やかな微笑を浮かべたまま、静かに問いかける。
「彼女……依神女苑は、本当に必要なのですか?」
 ナズーリンは言葉に詰まった。
 油田探しはナズーリンの能力で、トンネルを開けるのは青娥の仙術だ。目的である精製済みの石油も、ナズーリン自身が調査の為に預かっている。……正直言って、女苑の役目は無いに等しい。
 青娥はナズーリンの手を軽く引き寄せ、まるで親密な友人に耳打ちするような距離で囁いた。
 柔らかく、強い月桂樹の香りがする。
「貴女が彼女を庇う理由……情ですか? それとも、畏れ?」
「…………」
 その声音は静かで、優しくて、どこまでも理性的だった。
「目的を果たすためなら、私と貴女の二人で十分です。違いますか?」
 ナズーリンの視線が泳いだのを見て、青娥は貼り付けた笑みのまま、さらに一歩踏み込み、囁きを続けた。
「彼女は今、失敗した。足を引っ張った。それだけのことです。なら、置いていくのは当然でしょう?」
 青娥の目は笑っていたが、そこには一切の感情がなかった。
 その優しさは、温もりではなく、冷たく底の見えない水面のようだった。
 ナズーリンは一歩引いてかがみ込む青娥を押しのけた。
「確かに合理的ではある。けど」
 青蛾の言い分も尤もだ。女苑がいなければ、トラブルも借金も無かった。計画ももっとスムーズに進んでいたはずだ。
「女苑は色町に飛ばされたって、絶対にすぐ帰ってくるよ。何ならその後がややこしいことになる」
 ナズーリンの胸中にあるのは、仲間への思いやりではなかった。
 ただ、女苑を外したときの面倒臭さと危険性が、青娥の正論以上に現実的だった。
「とにかく、今は付き合ってもらう。いいね?」
 裏切りの提案をにべもなく断られた青娥は、ふふ、と笑った。
 失望も、怒りも、何一つ浮かべず。ただ淡々と、楽しげに。
「ええ、よろしいのですよ。ナズーリンさんが選ぶなら、どちらでも」
 今度こそ青娥が手を離したことを確認すると、金脈のある場所へと飛んだ。
 温泉街から離れた、かつて地底に住んでいた頃に目をつけていた鉱脈。掘削に着手する前に地上へと脱出して叶わなかったが、それが巡り巡って今、役に立つとは。
「ここだ。だいたい十五間横に開ければ、触り程度は見えるはず」
「障害物と大きさは?」
「何も無いところを選んでる。私が入るからそれに合わせた大きさをお願い」
 青娥が鑿で岩壁に触れれば、指定した方向に穴が出来る。
「さぁ、どうぞ」
 青娥が恭しく差し出された手が穴を示すと、ナズーリンは一度ごくりと生唾飲み込んで、穴の中へと入っていった。
 今、穴を閉じられると壁に埋め込まれてナズーリンと鼠は圧死する。
 その恐怖心にじっとりと汗ばむが、無事に奥の金鉱石へと辿り着く。杞憂であった。
「捜符『ゴールドディテクター』」
 威力の弱めたレーザーのスペルカードを撃ち込み、赤子程度の大きさに削り取っていく。
「ん? どうしたの?」
 削岩する最中、鼠があることに気付き、ナズーリンへと知らせた。
 どうやら瓶の石油に異変があるらしい。
 視線を腰の瓶に落とせば、中の石油が暴れ回っていた。
「うわあっ!?」
 削岩を終え、目線に合わせて見れば、石油は不自然に跳ねていた。霊魂である以上、少なからず意思を持つのは知っていたが、ここまで顕著な動きは初めてだ。
 思い当たる節は同族、即ち油田を求めて動いているのだろう。
 意識を集中し、ダウジングロッドを構える。
 上ではない。下方向に向かってロッドを向けると、とある角度で勢いよく交差した。この反応は巨大なエネルギーがあることを示唆している。つまりその先に油田が存在している。思いがけない収穫であった。
「でも、この方向は……。いや、それよりも今は借金が先だな」
 急いでロッドと瓶を片付けて、金鉱石を持って脱出する。
「あら、それだけでよろしいのですか?」
「必要なのは量じゃない。返済する当ての証明なのさ。それに、借金分となると数百貫は掘る羽目になるよ」
 ナズーリンの見立てを聞いて、重労働を想像したのか、さしもの青娥も笑みが曇っていた。
 金鉱石を抱えて、二人は女苑と勇儀の元へ向かって飛び始める。
「借金は何とかなるとして……。青娥。さっき女苑を助ける必要があるのかと言っていたよね」
「え、ええ……」
「助ける必要性が出てきた。これの出処を問い詰めなくちゃならない」
 腰の瓶を指し示す。中の石油は先ほどと打って変わって、静かな状態だ。
「っと、着いた。行くよ」
 取り締まり、抑制する側の勇儀が暴れていることもあって、喧嘩を取り囲む騒ぎは未だ続いていた。
 ナズーリンの知っている地底の治安の悪さなら、乱闘騒ぎや喧嘩を賭博の対象にしているのだが、女苑が時折小規模な爆発を繰り出していることから、そこまでには至っていないようだ。
「勇儀! 持ってきたよ、喧嘩は止めてくれ!」
 すぐ側で降りれば、女苑は闘志こそ尽きていないが、服はボロボロになってかなり疲弊の色が見える。
 一方の勇儀は、先ほど仲裁に割って入った時と変わらない。多少衣服が破れている程度だ。
 彼我の差を考えれば、勇儀は待っていてくれたと考えていいだろう。胸中で感謝しつつ、金鉱石を渡す。
 莫大な借金を返済すると聞いていたのに、いざ渡されたのは一見するとただの石塊となると、懐深い勇儀でも唖然とした顔は隠せなかった。
「お前さん、幾ら何でもこれは……」
「よく見なさいよ、石層に金が入ってるわ。ナズ、アンタ金脈を見つけたわね」
 ナズーリンが弁明する前にすかさず女苑が口を挟む。常日頃から金儲けに走っているだけあって、金鉱石も見慣れているのだろう。
 金脈と聞いて勇儀の顔つきが変わった。もしそれが本当なのであれば、女苑の借金返済どころではない。莫大な利益を地底に齎すからだ。
「河童の技術が入ったのなら、金の需要はあると思ってね。それはほんの極々一部にすぎない。借金を帳消しにしてくれるなら、場所を教えるよ」
 温泉街の様子は様変わりしている。照明を始め、あらゆる物に電気を通しているのなら、導体として金の価値は跳ね上がっていると踏んでナズーリンは返済の当てに金脈を選んだのだ。
 結果は大正解。勇儀は顔を綻ばせて盃になみなみと酒を注いで呑み始めていた。本気の時間は終わりの合図であった。
「くー、四半刻ぶりの酒は沁みるねぇ。ナズーリン、お前さんが嘘を言っている様子も無いし、借金もだが、ここらの修繕費もこっち持ちにしてやろう」
 鬼は嘘を嫌う。ナズーリンを含む地底の住人は嘘を吐いて不興を買った者の末路を知っている。平然と図太く生き残っているのは女苑くらいなものだろう。
 それ故に、まだ見ぬ金脈の存在に嘘を言っていないと信じて、あっさりと借金を帳消しにした。修繕費のおまけ付きだ。
「さぁ、場所を教えとくれ。あと、それから女苑。先に言っとくが、お前さんにゃこの件は一枚も噛ませんからな」
「えーーっ!?」
 勇儀は先手打って女苑を制すると、女苑は素っ頓狂な声を上げた。
「当たり前だろう? ウチの連中がどんだけお前さんの詐欺に引っ掛かったと思っとるんだ」
「ぐぐぐぐぐ……!! もういい! どうせ本命はこっちじゃないし!」
 勇儀に名指しで釘を刺したのであれば、本当に手出しは出来ないだろう。おそらく地底中に手配書が出回れば、外野から金脈掘りに噛むことも許されないはずだ。
 さしもの女苑も無理だと悟ったのか、歯噛みをし、捨て台詞を吐いて何処かへ去って行った。
「自分を助けて貰った金脈で一儲け企もうとするとは、とんだ奴だな、アイツは……」
「まったくだ……」
 勇儀ですら、呆れ顔で呟くほど女苑の欲深さは凄まじく、ナズーリンも頷いて同意せざるを得ないのであった。





 どれほど逃げてきたであろう。辿り着いた星の海は、魑魅魍魎蠢く異形の者の巣であった。
 人間では無い妖の数々に思わず逃げ出してしまったが、接触し、救護を求めても良かったかもしれないと未だ呆ける頭に過った。
 しかし、過ぎたことは仕方がないと、手近な洞窟を這い進む。
「おお……」
 洞窟を抜けた先で、幻想的な光景が目に飛び込んできた。
 色とりどりの花が咲いて、此方を出迎える。不思議な色の数々を纏った大きな窓が特徴的な館にただただ圧倒されていた。
 暖かく、芳しい香りが身を包む。此処が桃源郷かと思える場所であった。
 心から、無意識のうちにこの感動的な情景の詩を口にしていた。
「くがの戸、を……いでてま……ろむ、ゆめの、うち…………。花の香、まじ、る……光の……館……」
 長く動き続けてきた成果だろう。ようやく詩を詠みきることが出来た。
「ふぅ……」
「良い和歌ねー。感動しちゃったー」
「だ……れ、だ」
 自身の進歩に感動して一息吐くと、すぐ側に誰かがしゃがみ込んで此方を見ていることに気が付いた。
 しかし、誰かは分からない。見つめる先の空気の歪みが輪郭を作り、存在を知覚するのがやっとだ。
 口ぶりと声から察するに、"あの女"とは違う少女だ。
「私が褒めたのを気付いているの? もしかして……あなた、私が見えているの?」
「すこ、し……だけ……」
「すごーい! あなた無意識が見えているのね!」
 見えない"誰か"は見られたことに喜んでいた。それは此方の手を強引に取り、傷み、腐る身体を躊躇いなく抱きしめた。
「どうしてこっちが意識していないのに見えるの? 中途半端に死んでいるから? 脳が腐りかけだから私を認識出来るの?」
「あ、あ、あっあぅ……ぐえ……」
 怒涛の質問責めに対処する知識も、対応も出来るはずもなく、ただただ見えない"誰か"に振り回されてしまうのであった。



 ナズーリンと青娥は勇儀の金脈採掘が開始されるまでを立ち会った後、飛び去った女苑を見つけ、地底の中央へと続く洞窟を進んでいた。
 再会した女苑は、勇儀との喧嘩でボロボロになった服が新調されていた。派手な服飾なのは変わらない。
「まさかまた借金して、着替えたんじゃないだろうな」
「心優しい足長おじさんが見かねて用意してくれたのよ」
 と、悪びれなく宣う女苑に、ナズーリンは頭を抱えそうになった。
 それでも、助けたのには理由がある。精製された石油、その正体を問いただす必要があったのだ。
 だが、先に青娥が口を開いた。
「そうそう、女苑さん。貴女が着替えている間に勇儀さんがなんと素手で岩盤を砕いて、金の鉱脈を掘り出していたのですよ。見事なものでした。ねぇ? ナズーリンさんもそう思いませんでした?」
「あ、あぁ……。あれは確かに凄まじかったね……」
 勇儀の奥義『三歩必殺』。三歩歩けば相手を必殺すると豪語するとんでもない技だが、分厚い岩盤すらもぶち割っていた。
 怪力乱神の伝説の数々は聞いていたが、初めて間近で見たナズーリンはつい先ほどまで度肝を抜かされていた。
 青娥はにこにこしながら、どこか含みのある口調で言う。
 その目は、話す相手――女苑の反応をじっと見ていた。
「金に、石油。欲が二つも重なれば、お望みの億万長者も夢じゃないですわねぇ?」
「へー」
 欲に溺れる女苑が見られるかと思ったが、その反応は意外なものであった。
「でも、その金脈には私、噛ませてもらえないんでしょ? だったらどうでもいいわ」
 想定外の冷めた反応に青娥の笑みが固くなる。
 あからさまに場の空気が悪くなったことを察したナズーリンは、話を逸らすために話題を変えた。
「ま、まぁそれはいいとして……。女苑、今更だけどこれは一体どこで見つけたんだ? こいつ自身が油田の位置を知らせてくれたんだけど」
 腰に提げていた瓶を突きつける。淡く緑に輝く液体は今は沈黙を守っている。
「それってつまり……」
「示した先は誰の所有地でもない、貴方が望む新しい油田だった。だから教えてほしいんだ」
 かつての異変で漏出した石油はいつの間にか全て回収されていた。
 それなのにこの液体だけは残っている理由をもっと早くに聞くべきであった。
「市場の神から"買った"のよ。見つけた場所は知らないわ。アレの売り物って所有権の無い物じゃない?」
「あー……」
 市場の神、天弓千亦は所有権が見えるという。その神が所有し、売り物として出品していた石油だから女苑は新たに油田があると確信し、ナズーリンを探し回っていたのだろう。
 しかし、疫病神が"買った"となると相当安く買い叩かれたこと容易に想像出来る。ナズーリンは胸中で今頃泣き目を見ているであろう千亦に同情するのであった。
 ともあれ、この液体が未踏の油田からの漏出物だと判明したのはナズーリンのダウジングが間違いではなかったと確定させるに十分な情報だ。
「と、そろそろお喋りは仕舞いにしよう。地霊殿に着くよ」
 ナズーリンの知るルートでは地霊殿から続く道しか存在しなかった。
「さとりは間違いなく不在だけど、館にペットは残ってる。見つかったら面倒だから静かにね」
 さとりの読心は動物には好評なようで、様々なペットが暮らしている。
 その中でも、地獄鴉の霊烏路空と火車の火焔猫燐は指折りの実力を持つ。万が一、ペットがそれらを呼び出すだけでもかなり面倒なことになる。この先は気取られないよう慎重に動く必要があるのであった。
 ただし、その目論見は直後に崩れることになる。
「芳香!」
「ちょっと……!」
 洞窟を抜けた直後、これまで怪しげに笑みを浮かべていた青娥が、呼び止める間もなく我を忘れて駆け出した。
 その先に横たわっていたのは、青娥の操るキョンシーであり、昨日ナズーリンと小傘が探していたおばけの正体でもある少女、宮古芳香だ。
 赤い中華服と淡藤色の髪は土で煤け、帽子と顔に付いた札が外れている。
 虚ろな目で青娥の存在に気付いた芳香の表情は恐怖で慄いているように見えた。
「ひっ……! ひ、ひいぃあっ、どっ……どうし、て……」
 キョンシーらしく手足は固まったままで、バタバタと踠いて退いている芳香を青娥は優しく抱き留めていた。
「そう、貴女今、良香なのね。道理で──」
 その際に気になる言葉がナズーリンの耳に届いたが、それどころではない。
 このままではペットに勘付かれてしまう。
「いいわねー。主従感動の再会って」
「だ、誰だ!? 女苑、気をつけて。誰か近くにいる」
 そんな焦るナズーリンの近くで声がするような気がした。嫌な予感がしたナズーリンは女苑にも警戒を促した。
「あ、そっか。あなたたち見えてないのね。はい、これでいい?」
 突如として眼に飛び込んできたのは黄色いリボンの巻かれた帽子だ。
 ふわりと揺れる黒い髪、帽子の下から覗く無邪気な笑顔。どこか眠たげな瞳は、見つめているようでいて何も見ていないような、不思議な感覚をナズーリンに与えた。
 スカートの裾は薄桃色に染まり、胸元には心臓のような球体が揺れている。そこから伸びたコードが、まるで生きているかのように空中を漂っていた。
 どこから現れたのかも、いつからそこにいたのかも分からない。だが確かに、彼女は微笑んで、そこに立っていた。
「こいしか!」
 古明地こいし。地霊殿の主さとりの妹であり、命蓮寺に在宅出家している既知の間柄だ。
 無意識を操る能力を持ち、使用されると殆ど誰にも認識出来なくなる。
「あったりー。ねぇ、どうしてウチまで来たの? あっちの子を追いかけて来たの?」
「う……」
 無邪気に問うこいしに、ナズーリンと女苑は返答に詰まった。
 まさか、地霊殿の地下に油田があるから無断で貰いに行きますなんて、幾ら知り合いの関係だろうと口が裂けても言えるはずがない。
 本人が自由奔放とはいえ、こいしは地底の管理者の立場にあるのだ。
「……いいもん。あっちの子にも話があるし、あの人に聞いてくるわ」
 二人して言い淀んでいると、こいしは消え、青娥の方へと歩いていった。
「どうする?」
「どうするったって……」
 女苑が尋ねてくるが、ナズーリンもどう返答したものか困った。こいしは知り合いだが、その評価は二人共"よく分からない奴"で合致している。
 こいしの掴みどころの無い性格と地底管理者の血縁という要素が、躊躇わせていた。
 こうなると、青娥が上手く言い包めてくれるのを祈った方が得策だ。なにかと頭の切れる仙人だ。状況を読んで上手く立ち回ってくれる筈。
 芳香を赤子のように抱き抱える青娥に、こいしは側に立ち話しかけている。
 どう切り抜けるのか知りたくて、ナズーリンは耳をそば立てた。
「つま……そ……良香って…………を……すの…………なのね」
「ええ。…………念を……良香の…………」
 こいしが無意識に能力を使用しているからか、自慢の耳でも上手く聞き取ることができない。
 より深く耳を澄ませれば聞き取ることが出来ると思い、ナズーリンは耳に意識を集中させた。
 その時、こいしがくるりと振り返った。
「だめよ。人の話を盗み聞きするなんてしちゃ」
 ──青娥はこいしと『何かしら』話している。今は様子を見守るしかないだろう。
 二言三言会話を続けた後、こいしはこちらの方へと駆け足で戻って来た。
「にゃんにゃんからお話は聞いたわ! 石油探しをしているのね!」
「にゃんにゃんって……」
 聞き慣れない愛称に一瞬面食らったが、青娥のことを指しているのに気が付いた。
 青娥は道教を教える仙人だ。その道教の女性に対する尊称が娘々であるから、こいしは娘々と呼んでいるのだ。
 大方、呼ぶ理由は可愛らしいからというだけだろうが。
「石油の場所はナズーリン、あなたが見つけてくれるのよね?」
「そ、そうだよ。石油はこの地霊殿から少し深い場所にあるんだ」
 ともあれ、青娥は上手く交渉に成功したようだ。この様子なら大手を振って油田を求めて地下に行く許可も貰えそうだ。
 丸く収まるならそれに越したことはないのだ。
「なら私も行く! 見てみたいもの、ふるーい血の池地獄ってどんなのか気になるの!」
「えっ」
 予想だにしない返答に面食らってしまう。とはいえ、計画の主は女苑だ。
 女苑を見やれば「まぁいいんじゃない?」と気楽な返事が返ってくる。
 こいしが乗り気であり、女苑が断らないのなら、ナズーリンがどうこう言う理由はない。
「さぁ、いきましょ! 石油が私たちを待っているわ!」
「なんでアンタが仕切ってんのよ!」
 女苑のツッコミも無視し、テンション高めにどこか怯えた様子の芳香の手を取って、地底の更に奥底へと続く階段を先に降りていった。青娥も後を着いていく。
 先に降りて行かれてはペットに気付かれても誤魔化しが効かなくなってしまう。
 そそくさと、ナズーリンと女苑も続いて階段へと向かうのであった。

「もうそろそろの筈……」
 階段を降り始めて数分が経った。先を降りるこいしたちにも合流し、都度ダウジングで位置を確かめながら降り進んでいく。
 瓶の石油もより激しく跳ね、近くへ行き着いていることを表していた。
 更に数十段降りれば、ロッドが壁に向かって交差を結んだ。油田の真横に来た証であった。
「此処だ……」
「では、こちらで穴を開ければ良いのですね」
「あーいや、もう少し上かな。開けた瞬間に溢れ出ちゃうよ」
 数段上がり、石油の上の空間へ穴を開ける。
 穴の先は見えない暗闇が続くが、永い永い年月をかけて液状化し堆積した強烈な腐臭が正解であると伝えてくる。
「一番乗りは貰うわ! お先ぃ!」
 待ちに待った油田の到達に我慢できなくなった女苑は躊躇いなく穴の中へと飛び込んでいった。
「じゃあ次私ー。芳香も行こ!」
 こいしが後に続いて入っていく。芳香が気に入ったのか、ずっと手を繋いだままだ。
 嫌々引っ張られていく芳香の後を追うように、ナズーリンも穴へと入った。
 青娥が殿を務めるが、先に芳香が入っているので、勝手に穴を閉めるような真似はしないだろう。
 とはいえ、油断ならない相手だ。石油を入手した瞬間から何かしでかさないようにナズーリンは警戒を怠らないよう気を引き締めた。
 中に入り、ようやく辿り着いたこの油田はかなり小さいものであった。管理されている油田は水平線が見えるらしいことに比べれば、水たまり、もとい少し大きな貯水池程度に過ぎない。
 それでも個人が運用するには十分すぎるくらいだ。エネルギーとして活用するなら、河童にでも売り込めば人間の一生分は遊べる金は出来るだろう。
 大半がどす黒い石油のなかで、僅かに出来た岩の足場に着陸する。
「うわっ……とと」
 着地した瞬間、滑る感覚に足を取られてナズーリンは体勢を崩しかけた。油で泥濘む足場に慌てつつも、バランスを取り直してこれからのことを考える。
 腐臭が鼻を突き、揮発した油の熱気が肌にまとわりつく。
 この後もダウジングは必要になるだろう。中と地上を一直線に結ぶ位置を見つけなければならない。
 その後に青娥の穴開け能力の出番だ。念の為、青娥の方を見やると、こいしと芳香と共に壁に開けた穴へと向かっていた。
 逃げる気だ。止めなくて
「今気取られるのは良くないわ。もう少しだけ他所を見ていてね」
 ──止めないといけないとなると、やはり女苑だろうか。欲深い彼女なら何をしでかすか分からない。
 女苑に目を向ければ、石油を掬い取り、品質を確かめていた。
 ならもう一人の不審な相手、青娥はというと穴の中からこちらを見ていた。出会った時から変わらない、貼り付けた笑みで。
 全身に怖気が走り、肌が粟立つ。
「ごきげんよう。そのまま穴蔵で過ごしてくださいな。永遠に」
「女苑! 穴塞がれる!」
 振り返る青娥の背に向かって全速力で飛ぶ。察した女苑もナズーリンの後に続く。
 しかし、すんでの所で穴は閉じ切り、岩盤の壁が目の前に立ちはだかった。
「クソッ!」
「どけ!!」
 壁を叩くナズーリンを女苑は無理矢理引き剥がし、全力で壁を殴りつけた。
 本気で打ち込んでも拳は砕けなかったようだが、岩盤の前には意味をなさなかった。勇儀並の力は持ち合わせておらず、少しばかり表面をヒビ割らせた程度だ。
「……こいしだ。やられた……」
 最大限警戒していたつもりだった。そこにこいしの無意識を操る能力によって警戒を外されていたのだ。
 思い返せば、地霊殿で話し込んでいた時から意識を逸らされていたように思う。何らかの利害が一致し、その頃から裏切る算段を企てていたのだろう。
 おそらくは、女苑もこいしの能力の影響を受けていたのだろう。ナズーリンよりも早くに穴に潜む青娥を察知した奴が見逃す筈がないからだ。
 未だ壁を殴り続ける女苑だが、あれから僅かにヒビを広げて欠片を散らす程度しか成果はなかった。その成果の無さに、やがて殴り続ける手も止まった。
「……石油の中に繋がってところは無いの」
「……無い」
「なら岩盤の薄い場所は。腰のやつが此処産ならどっか繋がってるだろ」
「天井から浸み出した跡はある。でも見てるけど、地上まで何処にも…………」
 ナズーリンも認めたくなかったが、現実を知らせる返答をせざるを得ず、言葉が喉に引っかかった。
 遺棄されてから誰からも見つからなかった血の池地獄だ。瓶の液体が漏出しただけでも奇跡といってもいい。
「…………」
 あまりにも絶望的な状況に、流石の女苑も口を噤んでしまう。
 そんな時、尻尾の籠の鼠が身を乗り出して鳴いた。ヘルメットの灯りが今は眩く見える。
 自分を使え、と。
 それを見た女苑は岩盤へと向き直った。
「ナズも手伝え。何とかしてこの子分の道だけは開けるわよ」
「駄目だ」
 どうにか自身を奮い立たせ、脱出へと向き合う女苑に対し、ナズーリンはきっぱりと否定した。
「鼠という生き物はね、一日食べないだけで瀕死になるんだよ。今は手持ちがあるけど、多めに見積もって二日が限界だ」
 温泉街で食べさせてから何も食べていない。ナズーリンが遠征用に少しの非常食を持ち込んでいたが、それも長くは保たない。
「仮にすぐ脱出出来たとして、地上まで……いや、温泉街まででも無事に走らせられる保証はどこにも無い」
 加えて、仮に出られたとしても、地霊殿にはペットに天敵の猫がいる。それを掻い潜って、自身の食糧も確保しつつ地霊殿を抜けて往復して助けを呼ぶとなると至難の業、死ねと言っているも同然である。
「みすみす自分の部下に死にに行けと──」
「ぐちぐちうっせぇ! いいからやんだよ! 開通させてから考えろやそんなもん!」
 いつまでも御託を並べるナズーリンに、痺れを切らした女苑が吠える。
「どのみち開かなきゃ私らは此処で野垂れ死ぬんだぞ!? ……能書き垂れてる暇あったら動け!」
 説教する女苑に微かな含みを感じたが、必死に生還への策を練っているのだろう。ナズーリンは閉じ込められて気弱になって言い訳を繰り返していた自分を恥じるのだった。
「ごめん。私が間違ってた。やろう」
「短期決戦でいくわよ。一点集中で全力ね」
「うん」
 二人揃ってスペルカードを取り出し、構える。
「油井『疫病神的な天空掘削機』!」
「棒符『ビジーロッド』!」
 宣言と同時に女苑が壁に向かって超高速で突撃し、拳が激しく岩盤に食い込んだが、拳一つ分に収まってしまった。
 岩盤の硬さのあまり、弾き返されて仰け反る女苑の隙間を抜けるようにしてナズーリンのロッドが光り、レーザーを撃ち込んだ。
 調子良く削れたのはほんの数センチだけ。黒曜石や鉱物混じりの岩盤の硬さは尋常ではなく、削れた大きさはせいぜいナズーリンの肘までが入る程度だ。
 青娥が開けたトンネルを数十秒は歩いた記憶がある。つまり、全力で掘削に取り組んでもこのペースだと数日では開通しないことを意味していた。
「……無理だ。わ、私たちだけじゃ抜けられない……」
 言葉に出してどうにか冷静であろうと試みるが、口に出した瞬間、心の奥底にしまっていた恐怖が、堰を切ったように溢れ出す。
 明確に八方塞がりで、死を待つだけという現実を突きつけられて膝から下の感覚が無くなっていく。
「…………」
 女苑は、これまでに見たことのない渋い顔をして、削れた岩盤を見つめていた。
 配下の鼠が項垂れるナズーリンを心配そうに見やり、そして、縋るように女苑の方を見やった。
「……ふ、ふふ。もういい……」
 鼠と目が合った女苑は苦虫を噛み潰したかのような顔をし、やがて自嘲気味に笑い始め、ボソリと呟いた。
「もういいわ、石油の権利は放棄する! どうせ見てるんでしょ! 出てきなさいよ!」
 暗渠の虚空に向かって叫ぶ女苑に、ナズーリンは遂に気が触れたかと思った。
 直後、それは間違いであったと知ることになる。
 女苑の背中から唐突に扉が出現し、開く。
 中から現れた人物は紫と朱の絹を幾重にも重ねた装束を身に纏い、神事の巫女のようでいて、どこか舞台役者のような華美さを帯びている。王のように尊大な態度で頬杖をついて椅子に腰掛けている。
「権利も何も、この地はお前の物では無いのだがな」
 宙に浮かぶその女は呆れたように言いつつ、見上げるナズーリンの存在に気が付いたようで、朗々とした声で語り出す。
「お前と会うのは初めてだな。私の名は摩多羅隠岐奈。後戸の神であり、障碍の神であり、能楽の神であり、宿神であり、星神であり、この幻想郷を創った賢者の一人でもある」
「はじめまして、摩多羅神よ。私はナズーリン。毘沙門天様の部下を務めています」
 現れた時の能力と一目見た時の圧倒的な神格から只者では無いと察していたが、賢者の一人とは思わなかった。この場所に現れたということは、かつての石油異変に関わった賢者とやらも隠岐奈のことなのだろう。さしものナズーリンも遜らざるを得なかった。
 そこに聞き飽きていたらしい女苑が、鬱陶しそうに手を叩いて割って入っていく。
「ハイハイ、聞き飽きた自己紹介はその辺で。で、この際何でもいいわ。この場所のことは見なかったことにしてやるから、後戸で地上にでも送ってよ」
 面識があるからだろうが、遠慮もなく賢者相手に横柄に振る舞うのは流石と言えるだろう。
 しかし、ここから脱出する唯一の頼みの綱だ。不興を買わないかハラハラしながらナズーリンは不安になりつつも様子を見守った。
「送ってやる義理は無い。ただ、この場所を見つけた功績は認めねばならないな」
 にべもなく断られるが、二人の前に姿を現した以上は無下に扱うつもりもないらしい。
 やはり、秘匿されたこの場所を発見したことに意味があるようで、隠岐奈からの沙汰を待つしか出来ないのであった。
 隠岐奈はほんの少しだけ思案した後、口を開いた。
「そこでだ。現状を打破できる存在を送ってやろう!」
 再び女苑の背中から扉が開き、新たに一人飛び出してきたのであった。
「──説呪日、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦……。ハッ、此処は……!?」
 聞き慣れた読経が耳に入る。一節を読み切るまで後戸で送られたことにも気付かないほどの集中力、ウェーブがかった金と紫の長髪となると間違いない。命蓮寺和尚、聖白蓮だ。
「白蓮!」
「その声は……ナズーリン。どうして……コラ女苑! 貴方の仕業ですね! また勝手に出奔して──」
「聖白蓮よ」
 突然の状況変化に困惑していた白蓮だったが、女苑の姿を見て全て理解したようで、いつも通り説教をしようとする。
 隠岐奈の一声でそれは止まったが、肝心の女苑はうざったそうに目を逸らしていた。
「お前の弟子がこの油田を探し当てた。しかし、権利は主張しないという。そこで、お前にこれの管理を任せたいのだ」
 隠岐奈のかいつまんだ説明と周囲の状況から白蓮はある程度察したようで、頷いた。
「貴方様がそう仰られるなら……分かりました、後戸の神よ。不肖、聖白蓮。管理を約束致します」
「では頼んだぞ」
 そう言って隠岐奈は再び後戸を開いて消えていってしまった。
「じょ〜お〜ん〜! ……の前にナズーリン、状況を説明していただけますか」
「うん」
 ナズーリンはここに至るまでのことを話すのであった。
 青娥が一枚噛んでこいしと手を組み、その上で裏切って閉じ込めたことを知った時には流石の白蓮も天を仰いでいた。
「あの輩どもは本当に……! だから道教の連中など信用してはならないと……!」
「もう聞き飽きたし、石油の臭い移りそうだからとっとと出ない?」
 青娥の道教は宗教敵で、白蓮が敵視していることもあってくどくどとした説教が続くかと思われたが、女苑がそれを遮った。
 まだ説教したげな白蓮であったが、密室の油田という状況に折れるのだった。
「ま、まぁこの件は後でということで……。こちらから出れば良いのですね?」
 白蓮は先程まで攻撃を仕掛けて削れた岩盤を指差した。
 ナズーリンが頷き、白蓮が構えた所で何か閃いたらしい女苑が異論の声を上げた。
「待った! あの派手神はアンタに管理しろって言ったわよね。横から開けたら地底の管理下にならない?」
 女苑も大概派手好きの神だというのはさておき、発言には一理ある。そもそも壁を開けようとしたのは救援要請の為であるからだ。
「では、何処を開けろというのです?」
「そりゃあ勿論」
 訝しみ、問う白蓮に対し、女苑はにやりと笑い、まっすぐ天井を指差した。
「上でしょ。それにもう私の物にならないならやりたいことあるのよね」
「……というと?」
「聖が上の岩盤ブチ割ってー、同時に私が石油を着火して大爆発! 前の異変の時に思いっきりやったのを、またやりたいのよね」
 自分の所有物にならないからといって、女苑のあまりにも乱暴な提案にナズーリンは開いた口が閉まらない。
 それは白蓮も同じようで憤然としていた。
「何を言っているんですか! そんな破壊的な方法、許される筈ないでしょう!」
 白蓮は憤慨し、叱責する。ナズーリンも白蓮と同意見であったが、女苑の気にも留めない様子が気になった。
 女苑は説明を続ける。
「まぁ聞きなって。岩盤をブチ割るのは余裕だとしても、地上まで一発でいけると思う? そうねぇ、私の見立てだと多分最低でも五発は叩かないといけない」
「…………」
 女苑の言葉を聞いて、ナズーリンは慌てて地上に向かってダウジングを始める。
 岩盤の先には、さらに硬い岩石層が続き、その先には石灰層や泥板層のような脆い層が広がっている。さしもの白蓮でもどの層も手間取ることだろう。
 女苑の説得は続く。
「爆発もただノリで言ってるんじゃないのよ。アンタが一発ドデカいのかまして、その推力に爆発エネルギーを上乗せする。どう? アリだと思わない?」
「……ナズーリンはどう思われますか」
「……無しではないかなと思う。地上到達に時間がかかるなら、酸素の問題もあるし、爆発に賭けるのはあり得ない選択肢ではない、かも」
 今現在ナズーリンたちが生存出来ているのは、青娥が開けた穴から流入した空気のおかげである。
 もし地上までを白蓮の腕力だけで上がるのであれば、下手すると酸欠となって嬲り殺しもあり得るだろう。
 爆発の手段を取るのも、酸素がある今しかない。
「アンタが一発か二発で地上までいけるなら、これ以上何も言わないわ。そっちのやり方に合わせる」
 一通り女苑の説得を聞いた上で、白蓮はナズーリンを見た。
 ナズーリンは小さく首を横に振った。本気を出した白蓮の身体能力は鬼である勇儀並だが、地上まで切り拓く力は無いと思われる。だが、女苑の案であればきっかけとなる一撃を十分引き出すことも可能だ。
 白蓮は小さくため息を吐き、女苑へと向き直った。
「言いたいことは分かりました。逼迫した状況であることも踏まえ、苦渋の選択ですが貴方の案に乗りましょう」
「マジ!? 言ってみるもんねー」
 そうと決まれば、と女苑と白蓮の二人はナズーリンがダウジングで見つけた最も地上に近い地点の、天井と石油の水面にそれぞれ就いた。
 配置に就いたか確認する為に見上げていた女苑が、余裕が出てきたのか、軽口を叩く。
「しっかし、色気ないわねー。今度いいとこ教えたげよっか? 今時ふんど──」
 次の瞬間、白蓮の姿が消え、ばかっと鈍い嫌な音が反響した。
「おっ、おうっ! おごご、ごご……!」
「莫迦なこと言ってないで、準備しなさい! あと修業中に後戸で呼び出されたのを忘れてませんか」
 音の正体は女苑が拳骨を食らった音であった。痛みで悶絶する女苑を見て、白蓮をからかうのだけは絶対に止めようとナズーリンは心に誓うのであった。
「それはそうと、始める前に……ナズーリン。貴方と鼠さんはどうされるのですか?」
 頭を抑える女苑を尻目に、白蓮が問う。爆発体験済らしい女苑と幻想郷最強クラスの強さを誇る白蓮に比べて、ナズーリンはあまりにも弱い。鼠に至っては衝撃波でも死にかねないだろう。
 だが、その心配は無用であった。
「心配ないさ。防御には自信があってね。守符『ペンデュラムガード』」
 ナズーリンがスペルカードを発動させると、ペンデュラム型の結晶が空中に浮かび、彼女の周囲を多面体の結界として包み込んだ。
「複数個呼び出せるから、君たちも入れよう。中から攻撃は出来るから安心したまえ」
 ふふんと自慢の結晶を呼び出すと、白蓮は手でそれを遮って、眺め込んで考えていた。
 何か思いついたようで、確認するようにナズーリンに問い掛ける。
「防御に自信があるということは、壊れないということですね?」
「ん? うん、まぁ、ほとんど壊れないね」
 なんだか嫌な予感がする。防御力の高さなら試し割りをしたことがある白蓮もよく知っているはずだ。白蓮の全力でも数発までは耐えられる耐久力を誇る。
「これ、楔代わりに出来ませんか?」
「ハァッ!?」
 予想外の運用案に、ナズーリンは素っ頓狂な声を上げた。
 想像だにしなかった方法だ。ペンデュラムの鋭利な先端を見て楔に使えると閃いてしまったのであろう。硬さの確認はつまり、結晶を殴るつもりなのだ。
「出来ませんか?」
「で、出来なくは……」
「そ、それ私も欲しい……石油に沈めて台座にしたい」
「修行が足りませんね。水面割りは基本ですよ」
「アンタと一緒にすんなっ!」
 ようやく拳骨から復帰した女苑も、予想外の案を提案してくる。ナズーリンは困惑する一方だが、二人の案には問題があった。
「二人の案は出来なくはないけど、召喚できる数があるんだ。この子の為にも私の守りは二重にはしたいし、どっちかの案は諦めて……」
 『ペンデュラムガード』で呼び出せる結晶は五つまでだ。鼠を守る為に二重に置きたいので、二人の奇策を採用すると結晶は残り一つ。どちらかは守れないことになってしまう。
 それを聞いた女苑と白蓮は顔を見合わせて笑った。
「要らなくない?」
「ええ」
 躊躇いのない即答に、ナズーリンは慌てて引き止めた。
「ちょ、ちょっと冷静に考えてくれ。岩盤の崩落もだし、爆風もモロに受けるんだよ?」
 それを聞いても尚、二人の返答は変わらなかった。
「前の異変で体験済だし、こっちとの組手のがキッツイっての」
「この程度なら問題無いでしょう。効率的に脱出出来るかの方が大事ですし」
「の、脳筋すぎる……!」
 ナズーリンは強大すぎる力を持つ二人にただただ圧倒され、呆然とするしかないのであった。
 改めて、各々が配置に就き、準備を始める。
 ナズーリンは再度スペルカードを発動する。
「守符『ペンデュラムガード』」
 天井に楔として一つ、衝撃を効率良く加える為の土台に一つ、ナズーリンと鼠を守る為に残りを使い、豪勢に三重張りだ。発動中は爆風も衝撃波も酸欠も影響を受けないだろう。
 続いて、白蓮が魔人経巻という特殊な巻物を広げ、スペルカードを発動する。
「超人『聖白蓮』」
 スペルカード未発動でも梵鐘を鳴らす怪力自慢だが、スペルカード発動と同時に膂力も魔力も膨れ上がっていく。
 女苑は遊ばれていたが、白蓮なら勇儀と本気の殴り合いすら出来るのではないかとナズーリンは思ってしまう、それほどの溢れる闘気であった。
「いくわよ!」
 女苑が掛け声を出して、拳の宝石へ口付けをする。
 幾多の人妖を誑かしただけあり、美しい見目と合わさって口付けは本性を知って尚、思わず見惚れるほど見栄えが良かった。
 だが、次の瞬間には目を見開いて獰猛に口角を歪ませていた。
「ブッ……飛べオラァッッ!!! 『80'sのエクストーショナー』!」
 全身全霊の一撃を打ち込む、女苑の持つ最後の技だ。
 それを足元の石油に浸されたペンデュラムの結晶へと振り下ろした。
 吠え、猛る女苑の拳が結晶に届くまでに、ナズーリンは見た。石油溜まりと天井の結晶までを超高速で往復して加速し続ける白蓮の残像を。
 そして、女苑の拳が結晶へと届き、拳の宝石と結晶が衝突して衝撃と火花を散らす。
 刹那、視界を白い閃光が覆い尽くした。目を閉じたナズーリンが体感したのは上下から同時に襲いくる衝撃であった。
 結晶が守らなければ、全身が粉砕されていたかもしれない。それほどまでに石油の爆発と白蓮の一撃は凄まじかった。
「大丈夫、私がいるから安心して……」
 衝撃に驚き、暴れる鼠を抱き抱えて宥めてやり、首から提げたペンデュラムを取り出した。
 閃光は止んだが、黒煙が結晶に纏わりつき何も見えない。
 ダウジングで空気の流れを読み、それに合わせてゆっくりと進んでいく。
 衝撃の相乗効果は凄まじく、空気の流れを読むと、目論見通り地上にまで亀裂は届いている。
 無事か不安であったが、ナズーリンの心配を他所に、女苑と白蓮は先に脱出したようだ。
黒煙の向こうに、わずかに光が差しているのが見えた。
「さぁ、旅は終わりだ。帰ろう……地上へ」



 翌日、命蓮寺にて坐禅の修行が行われた。
 命蓮寺の名所ともなっている千人地蔵を眺望し、心を清める為に数人の弟子が禅を組んでいた。
 精神統一に励み、静かに瞑想する一団の中で、そこにそぐわぬ存在がいた。
「……っそー。……ジで許せねぇ……の奴。思い出したら腹立ってきた」
 依神女苑である。何やら小声で呟いている。
 家出感覚で勝手に還俗した女苑だが、白蓮に捕まり、再び強制的に出家させられていた。
 座禅の瞑想も、先日の脳内反省会となり一切集中していなかった。
「かぁーーつ!」
「次会ったら──あいたぁーーっ!!?」
 そんな有様なので当然警策で叩かれるのである。通常は音だけだが、相手が女苑だからと強烈な喝を入れられていた。
「全然精神が落ち着けられていませんよ! というかまた何か企んでいるでしょう!」
 毘沙門天代理、本尊でもある寅丸星が女苑に説教する。
「聖から仰せつかっていますからね、遠慮なくやらせてもらいますよ」
「昨日の今日で切り替えられるか! そもそもアイツ何処行ってんのよ!」
「本日は別件で外出しておりますので、代理で私が修行をします。再開しますよ。直りなさい」
「ぜってぇ此処を出て金儲けしてやる……!」
「かあーーっっっ!!」
「いっっったぁーー!!!」
 相も変わらず反省しないでぶつくさと悪態を吐く女苑に、喝と警策が飛び、命蓮寺に絶叫が響き渡るのであった。



 幾重にも折り重なる山影が、霞の中でぼやけていた。すべての音は吸い込まれ、時すら沈黙しているかのようだった。
 墨の一滴を水に垂らしたように、輪郭は次第に淡く、空と地の区別すら曖昧になっている。
 谷を渡る風が竹林を撫で、ざわりと音もなく葉が揺れた。
 水面には霧がたちこめ、岸辺の岩も、傍らの朽ちた橋も、まるで紙に描かれた幻のように薄い。
「い、いやだ。し、し、死にたくない」
 捻くれて、渇き老いた松の下で屍体は喚いていた。
 暴れようとする身体を、青娥はまるで抱擁するように抑え込み、こいしはその様子を和かに眺めていた。
 此処は青娥が作り出した仙界である。三人以外は誰も存在しない。
「煩いですわよ、良香。貴方の意思は必要ないのよ」
「ねー、この良香って子の自我を殺すのはいいけど、大丈夫なの?」
「ええ。良香の魂はとうに上天しています。これは脳髄に残った意識がそれらしく見せかけている、いわばバグですので」
 芳香は生前、都良香という歌人であり、死後その肉体を青娥が回収したことでキョンシー宮古芳香が誕生した。今回の死体騒動は何らかの不具合で良香の人格が蘇生し、逃亡を図ったことが原因であった。
「ひっ、ひぃ……! た、助けて……!」
 殺すという物騒な単語を聞き、良香は逃げ出そうとより強く踠き、こいしに助けを求めて曖昧に手を伸ばした。
「私の姿が見える? ちゃんと見えてないでしょ。だからだぁめ」
 良香の目には、こいしの姿は常に半透明で朧げだ。その状態はこいしが求めるものではない。
 だからこいしは笑顔で無慈悲に断罪した。青娥に協力したのはその先にあるからだ。
 青娥は懐から一本の試験管を取り出した。ドス黒い液体には無数の怨嗟が渦巻いている。
「疫病神と鼠には感謝しませんとね。もう手に入らないと思っていたのですもの」
 これまでの石油は隠岐奈によって管理され、今回のように必要になる頃には手が出せないでいた。都合良く新たな油田を探していた女苑とナズーリンに、青娥は上辺だけの感謝を述べる。
 良香は青娥にくたりと身を預けていた。押し寄せる絶望感に打ちひしがれて、視界が滲む。
 もはやどうにもならないと悟ったからである。せめて──せめて辞世の詩だけでもと、口を開き、震える唇をゆっくりと動かした。
「……たれまねく、ひとしれぬ谷、たまゆらに、青き妖仙の……よ、よどみを呑むべ、し……」
「酷いですわ、妖仙だなんて。さて、辞世の詩も詠んだことですし、もう良いでしょう。さようなら、良香。二度と顕れないことを祈っているわ」
 慈母を気取ったような貼り付けた微笑みは消え、冷徹なまでに昏い瞳のまま、躊躇なく石油を口へ流し込んだ。
「あ、あああぅっ、うあああーーっ!」
 腐らず残っていた僅かな脳髄に、地獄の怨嗟の波が押し寄せる。そんなものを到底受け止め切れるはずも無く、ひとしきり叫び、暴れた後に屍体は動きを止めた。
「……おはよう、芳香。調子はどう?」
 芳香と呼ばれた屍体はギョロリと目を動かし、口を開いた。
「うおーっ、なんだかすこぶる良いぞぉーっ」
 手足をバタバタと動かしながら、稚児のような返答には良香の時の思慮はもう無い。
 邪仙、霍青娥に従順に従うキョンシー、宮古芳香へと成り果ててしまったのであった。
「ねぇねぇ芳香。私のこと見える?」
「だれだぁーっ、おまえはー! そんなきれーな緑の目をした奴は私は知らんぞ!」
 そこへこいしが胸を弾ませながら、芳香へと尋ねる。
 良香の頃の記憶は喪っていたが、こいしのことは見えていた。緑の目をした、と。
 それを聞いて、こいしは目を爛々と輝かせる。無意識の徒となったこいしは誰からも完全に認識されていない。
 それでも不完全ながらも良香は気付いた。ならば、無意識の塊である生きる屍は完全に能力の影響を受けないのではないか。
 結果は大成功。こいしは笑いを堪えきれずに青娥を見た。
「えへ、えへへへ。……ねえ、見えてる。私、ここにいるんだよ、えっへへへへ……」
「それは良かったですわ。うふふふふ……」
「よく分からんが、せーがが笑ってくれてうれしいぞー!」
 笑い合う二人を見て、芳香は訳も分からないまま、ぎこちなく口角を上げ、つられて笑みを浮かべるのであった。



 誰も手入れのしない、無縁塚の枯れ草の波が微かに揺れ、名を失った墓標の列に、影が薄く差し込んでいた。
 誰にも手向けられぬ供物は土に還り、既に風に溶けている。
 冬に向け、枯れてゆく桜の樹の下で、経を唱える声が響いていた。
「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空──」
 読経するナズーリンと白蓮の前、桜の根本には油田探しの旅を共にした、薄緑色の石油が入った瓶が置かれている。
 経を一節唱える毎に、じわりと冬枯れし始めているはずの桜に薄らと蕾が付き、杜若色の花を咲かせていく。
 同時に、石油の色味も薄くなっていく。
 経を読むうちに、やがて花は散り、石油は無色透明へとなる。
 無縁塚の桜は花を散らすことで霊魂の成仏を促す特性を持つ。唱えられる経に導かれ、石油に沈んでいた魂は桜へと移り、やがて散る花びらと共に、輪廻転生の流れへと還っていく。
 経を唱え終えると、白蓮は顔を上げた。
「……これで供養は終わりました」
「残った液体はつまり、純粋な血の池地獄の水か」
 油田からの脱出後、精製された石油の処遇を白蓮との相談の末、供養に決めた。
 好奇心もあるが、隠岐奈やヤクザに確保されている石油は未だ地獄の中だ。ならばせめて見つけたこの油田だけでも、と結論付けたからだ。
 透明の液体になった瓶をナズーリンは拾った。
「後でこれを持って山童の所へ行ってくるよ」
「お願いします」
 女苑に聞けば、精製された石油は山童の技術の産物らしい。
 供養後の液体のエネルギー価値は精製後よりも遥かに高い。それを売り込めば、良い関係を結べるだろう。
 とはいえ、課題も多くある。白蓮が困ったように声を上げた。
「しかし、まもなく冬ですし、花を咲かすのは負担が大きいのではないでしょうか」
 冬枯れした樹が花を咲かすというのは、常識的に考えてあり得ないことだ。今回は試金石として少量を試し、無事であったが、今後は環境にどんな悪影響を及ぼすか分からない。
「こればっかりは様子を見て少しずつやっていくしかないね。こまめに供養するのと、大量に処分するのだけは絶対に避けよう」
「はい」
「話は変わるけど、青娥は道教の連中の所には居なかったんだって?」
 裏切られた後から青娥の行方が掴めていない。ダウジングをしても空振りだった。
 そこで、情報集めと苦情も兼ねて、白蓮が単身で道教の連中が集う道場へと突撃したという。
 白蓮はそこの長をボコボコにしたというが、犬猿の仲であり、これが初めての喧嘩でもないので、自慢話は聞き流すのであった。
「それであの邪仙の居場所ですが、仙界に居るのではないかと言っていました。ただ、誰も見たことがないので、方角すら分からない状態です」
「仙界か……」
 仙界とは仙人のみが作り出せる空間だ。白蓮が向かった道場も、一応仙界らしいとはナズーリンも聞いたことがある。
 とにかく問題は青娥の仙界は誰も見たことがない点だ。独自空間で誰も知らないとなると情報は無いに等しい。
 やはりダウジングによる居場所探知を仕掛けても、何処にも反応は無かった。
 こいしの能力の影響か、記憶の映像は朧げだが、あの時の芳香は絶望に打ちひしがれていた、ような気がして心に残っている。
 とはいえ、情報も無く、ダウジングにも反応しない現状では手立てがない。
「引き続き、此方も邪仙の捜索は続けます。手掛かりを見つけ次第、連絡します」
「よろしく。こっちも桜に影響が出たら知らせるよ。……じゃあ、山童の所に行ってくるね」
「お気をつけて」
 何よりもまずは石油の管理の方が先だと言い聞かせて、ナズーリンは瓶を携えて山童の里へと向かう。
 背後では周囲が冬へ向けて準備をする中、季節外れの桜の花だけが静かに散いでいた。
 薄墨色の空の下で、その花弁だけが春の幻のように舞っていく。
 かつては怨嗟を宿し、その罪禍を削ぎ落とした石油は、いまや無色となって掌の中で静かに、冷たく揺れていた。
本日7月20日に開催されますナズーリンオンリー『とれじゃーばんけっと!!〜小ねずみたちの宴〜2』にて頒布する新刊を先行公開します。
紙書籍、並びに美麗なイラスト付きで欲しい方は会場の方までどうぞ。
やまじゅん
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.100南条削除
おもしろかったです
長さを感じさせないくらいテンポよく進んでいく話に圧倒されました
次々と現れるタスクを機転で解決していくナズーリンたちが素晴らしかったです
3.100名前が無い程度の能力削除
強欲者たちの珍道中といった感じで面白かったです。仲間が増えて壁を乗り越えて、そして裏切り、青娥ならそうなるよなぁとか、女苑だししょうがないかとか、そんな納得感のあるドタバタ展開がありつつも、それで最後には収まるべきところに収まっていて、なんとも楽しい冒険譚のようでした。
4.100東ノ目削除
全体的にメンツの倫理観に難がありつつ、カスな方向性が上手い具合に嚙み合ったのかいい感じの冒険譚になっているのが奇跡のバランスだなあと思いました。この話の女苑は嫌いになれない