Coolier - 新生・東方創想話

なんだかとってもトゲトゲしくて

2025/07/16 12:01:27
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「帰れば?」
 開口一番、吉弔八千慧の言葉は刺々しかった。鬼傑組・組長室はいかにも中華の赤く沸る血を感じさせる趣で、踏み入る者みな尽く威圧するそれはまるで部屋主の姿を写したようにギラギラした輝きを放っている。可憐で冷酷、威圧的でしなやかな。もちろん来訪者はそれに慣れている。慣れているはずだ。つまり勁牙組組長たる驪駒早鬼はしかし、今日の八千慧の木で鼻を括る態度……そうまではっきり拒絶の意思を示されたのも久方ぶりで、流石に自慢の毛並みがよろず逆立つ気分に駆られる。
「報告を出せと言ったのはそっちだ」
「わかってるよ……はぁ。こないだのクーラー異変の後始末でしょう」
 クーラー異変。埴安神の「売り出した」クーラーなる魔法の箱のせいで畜生界は灼熱の牢獄となった。その話は今ここで語るにはあまりに長すぎるが、今はもう大人しい。ただの泥の塊と土くれの寄せ集めに戻ってしまった。溜まった熱量は地獄の新灼熱地獄が燃料として引き取ることを申し出た。それによって日白残無に作った貸しは……ともかく早鬼はなるべく弱気を見せまいと頷き、退くより一歩踏み込むことに決める。翡翠の龍が身の半ばから槍に刺殺される姿を描いた装飾のおどろおどろしい執務机にドンと手を突き、身を乗り出した。その様を、壁に飾られた額縁で輝く真紅の警句が見下ろしていた。

 飛龍乗雲、騰蛇游霧。
 雲罷霧霽、而龍蛇与螾螘同矣。

 龍と騰蛇(大蛇の妖怪)をくさした言葉だ。八千慧は吉弔であり、半分は龍と呼べるが、もう半分は龍ではない。「出来損ないだ」とずっと昔に八千慧は早鬼に告げたことがある。早鬼もそれを覚えていた。この部屋に来るたびに思い出させられた。
 コンプレックス? いつだって八千慧の身に纏うヒリヒリするような苛立ちの根源はきっとそこにあるのだろう。
 それにしたって今日はまるで昔に戻っちまったみたいだ。
 そう思い早鬼は言葉を飲み込むより吐き出した。それが彼女のやり方だった。蛮勇は賢退に勝るのだと信じていたから。
「埴安神製商品の流通に関与した連中は概ね掃除した。で、お前んとこは」
 けれど、
「とっくに!」
 ヒュパッ。
 早鬼が目を剥く。音速で振り抜かれた八千慧の長い尾先が空を打ち、鋭い音を切る。直後、棚に飾られていた瑠璃の盃が真っ二つに割れて転がった。それ一つで畜生界の路地裏に犇めく貧しい動物霊がどれだけ救われるかわからないが、八千慧はもはや残骸になった宝物を一顧だにもしない。
「縊り殺したわ」
「あ、ああ……」
 殺られる――。
 早鬼の背筋につたう冷たい汗の感触。
 いったい……なんだって八千慧はこんなに苛ついてるんだ? 自分が何かしたか? いや何もしてない! 少なくとも最近は……。
 それとも気が付かぬうちに龍の尾を踏んでしまったのだろうか? 実際、この畜生界で八千慧ほど多数の顔を使い分ける畜生も珍しい。時には皇帝がする如く傲慢と華美に走り、時には名将がするように策を練って敵軍を絡め取る冷酷さを纏い、しかし時には童のようにあどけなく純朴な顔をする。
 だが今の八千慧は真紅の蛇眼でギョロリと早鬼を睨め付けるだけで、黙したまま語らない。そこに満ちているのは――強いて早鬼が思いついた言葉は「憤怒」だった。この畜生界で初めて八千慧が持っていた顔だ。まるで今の八千慧は一千年前の若い頃に戻ってしまったかのようだった。
 ごくりと生唾を飲み下す音。
 それでも……早鬼は視線を外さなかった。外せば鬼傑組と勁牙組の間に存在する危ういパワーバランスが一瞬で崩れてしまう。絶対にそれだけはするまいと固く拳を握りしめる程、食い込んだ爪の先から血が流れる。一方で早鬼はまた巡る闘争心が心の底で雷雲のように沸き立つのを感じていた。が、抜身の龍の威圧感である。逆鱗の厄災だ。今はまだ動物的生存本能のがなり立てる警報の方が大きく強く鳴り響いている。
「ねえ、まだ帰らないの?」
 ぼそりと発された言葉が早鬼から抵抗する気力をいよいよ奪おうとする。故に、彼女は黙って踵を返した。
 逃げるわけじゃない……準備が必要だ! 何故かはわからないが今、吉弔八千慧はこの一千年で最も鋭く磨がれた殺気を纏っている。この八千慧と殺し合うのは私だ!
 早鬼は震えながらも舌舐めずりをしたい気分を確かに実感を伴って自覚する。この八千慧と全力で戦いたい! 殺し合いたい! だがそのためには自分も万全の装備を整える必要がある。だから――
「なにしてるの?」
 だから……はたと、早鬼の足取りが止まった。
「さっさと消えて。とにかく今は」
 もちろん早鬼もそのつもりだ。そのつもりだった。が、扉の脇に立つ緑がひょいと目を奪う。植物のようだが幹や葉は無く、ひょろりと細い奇妙な輪郭……その表面にびっしり生えた、針山地獄めいた棘。その物体が早鬼の気を引いた。単に八千慧の遠慮呵責を欠いた威圧感に押し出された意識が逃げ場を求めただけかもしれなかった。しかし純粋な驚きが無かったわけではない。特に鉢植えのすぐ隣に用意された白磁の水差し。明らかに部屋主がいつでも世話をできるよう配されたものだ。つまり、吉弔八千慧が。
「おまえ……まさか育ててるのか? その、これ」
「サボテンのこと? 馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど。本当に物を知らない奴ね」
「そンくらいわかってんだよ! 私が言いたいのはだな、何だってまたサボテンなんぞ……」
 語気は強まったが、早鬼は少しだけいつもの八千慧が戻った気がした。
「悪い?」
 それも雲の中へすぐに引き戻っていく。
 もちろん良い悪いは問題ではない。ただ……権威と豪奢に象られた八千慧の執務室には、そのサボテンの鉢植えはあまりに不釣り合いな気がした。逆に、サボテンに相応しいような果てない荒野にこの執務室の絢爛さがあっても不自然なことだろう。
 どうにも釣り合いの取れない配置。
 早鬼はそうとは言わなかったけど、それでも気になった。この孤独な鉢植えの孤独なサボテンはまるで孤独な誰かがそっと自らを慈しむように置いたみたいだ。早鬼はそういう動物的嗅覚が自分に鋭く備わっている自覚があった。きっとかつての主君のためだろう。けして自分の強い感情を表に出さない人だった。あの飛鳥の都の伏魔殿でそんな不用意をすれば、たとえ高貴なる血筋と比類なき手腕があったところで、たちまち刈り取られてしまっただろうから。
「悪くないよ、別に」
 これが年季の入った唐松の盆栽だとかなら理解できる。この部屋の押し付けがましい優雅さにはぴったりだし、権威と長寿を誇示するのにもうってつけだ。
 だが……現実はサボテンである。なぜ? 
 そんな早鬼の疑念を理解しているのかいないのか、むしろ八千慧は、どこか独言をするように。
 ぽつり。
「……似てる気がするんだ。私に」
 涙の一筋みたいな声が溢れた。早鬼はもう何も聞き返せない。今度こそ逃げるように部屋から退出すると、音もなく扉を閉ざした。

 ◯

 饕餮尤魔は無限に喰らう。勁牙組傘下の料亭スタッフが血反吐を吐き散らす勢いで後から後から料理を運んでくるが、彼らが戸を閉め出ていく頃にはもう空になって「おい! 料理がねえぞ!」と叫ぶのだから手に負えない。
 もちろん畜生界を三分する組織たる勁牙組にとってこの程度の出費、どうということも無い。が、こんな調子ではいつまでたっても話を切り出せない。仕方なく早鬼は、尤魔がまた巨大な地底魚の姿煮を丸ごと喰らい尽くした丁度いい頃合いに口を挟んだ。
「そろそろ仕事の話しないか」
「ん。遅かったな。お前がいつまでも切り出さないからこっちは腹も一杯なのに食って暇を潰さにゃならんかったのに」
「あのな」
「冗談だよ。でも飯は八千慧んとこのが美味いな」
 尤魔は性格が悪い。それは八千慧の普段のくどくどした面倒臭さとはまた別種の疲れを誘発させるが、早鬼は堪えた。実際尤魔と落ち着いて話をしたければ飯を食わせるのが一番良い。もし徒手空拳で相手にすればきっとこの一千倍はゲンナリさせられるのだから。
「事前に伝えただろ。八千慧の様子がおかしい」
「うんうん」
「そしてあれは私の獲物だ。剛欲同盟は事が済むまで手を出すな」
「うーん……お、これ美味そうだな」
 毒蛇の漬けられた八十度近い酒瓶をひっくり返して鯨飲してから尤魔は、少しも顔を赤らめることなく微笑み答えた。
「お前、私らと何年の付き合いだ?」
「え? さぁ……一千年と少しじゃなかったか」
「思ったより私に興味もないみたいで悲しいよ」
 そうニヤつく顔はちっとも悲しくなさそうな調子だ。むしろ早鬼の方が苛立ちながら答える。
「なんなんだ」
「鹬蚌相争、渔人得利。お前らが勝手に潰し合うなら結構。私が手を出すと本気で心配なのか?」
 確かに「漁夫の利」は剛欲同盟の掲げるドグマの一つだ。そんなものを言いふらす理由は早鬼にはさっぱりわからなかったが……きっとそれくらい大々的に言っておかねば部下の押さえが効かないのだろう。どうせ畜生とは皆自分勝手で、誰も他人の感情を本当の意味で汲み取ったりしない。たとえそれが同盟の盟主であっても。
「念の為さ。最高のタイミングで横合いから殴りつけるのだって漁夫の利じゃないか?」
「そういうしっちゃかめっちゃかはやらない。そもそもおまえ、八千慧は自分の獲物と言うが……」
「文句でもあるのか?」
「逆だよ。そんなに殺気が閉じてるくせにおまえ、本気で殺し合う気なんてあるのか?」
 もし殺気というものに色がついて見ることができたなら、早鬼は慌てて全身に視線を走らせたことだろう。否、彼女程の畜生であれば自他の殺気を見通すなど造作もないことだった。本来であれば。
「……今は交渉の席だ。殺気をギラギラさせてても仕方ないだろ」
「どうかな。その程度の懸念で私を飯に呼ぶほどおまえは親切でも気の回る女でもないよ。まあ……短い付き合いじゃないさ。本心は他所にあるんじゃないのかね」
 見通されてる。
 早鬼はこんな腹芸が自分には出来ると思っても無かったが、それにしたって見え見えなんだなと悲しくなった。が、黙っているといよいよ無限の尤魔の胃袋が勁牙組の財政を消化し始める。
 結局自分には馬鹿正直が一番合っているんだな。
 そう再確認した早鬼はとっとと諦めて口を開いた。
「サボテンだよ」
 予想外の言葉。流石の尤魔も驚きに面食らったらしい。「サボテン?」と、鸚鵡返しに聞き返す。それが少し早鬼には気分良かった。
「あの緑の、棘のあるやつか?」
「そうだ」
「サボテンと八千慧、関係があるのか?」
「ある」
「ふうーむ……」
 油圧式重機めいて飯をかき込み続けていた先割れスプーンの動きが初めて止まる。その好機に早鬼は顛末を聞かせた。と言っても八千慧が執務室でサボテンを世話している事、それと「自分に似てる」という本人の言葉くらいだったが……尤魔は確かに興味を持ったらしい。
「散る華の我が心に似たり、とかならまだわかるがね」
「八千慧がそんなこと言い出したらいよいよ気持ち悪いよ」
「だからってサボテンってのは意味不明じゃないか?」
「私に言われても!」
「じゃあつまり本当のところは、八千慧がらしくもなくサボテンを育ててるのを見て、ばつが悪くなって私に相談してきたと」
「別にばつが悪いとは思わん。それに八千慧が異常に苛ついてるのも本当」
「そうか」
 尤魔は面白くも無さそうに先割れスプーンの先でぶよぶよした半透明の料理を突っついていたが、ややあってまた顔を上げた。
「それで私にどうして欲しいんだ?」
「え? いや……だから……八千慧との殺し合いの邪魔を……」
「それは建前だろ? お前は八千慧の様子がおかしいのが気にかかる。そっちが本音」
「ま、まあ」
 三日月のように釣り上がる尤魔の口元。跳ね飛んだ紅いソースが返り血のようにぬらぬらと輝いていた。
「それで、どうして欲しいんだね? そもそも何が気になるんだ? 違うな。何で気になるんだ?」
「言ってる意味がよくわからない」
 クックックッと漏れでる銅板を引き裂くような不愉快な笑い。露骨に顔をしかめる早鬼に、尤魔は告げる。
「八千慧がそんなに心配なのか?」
「なに……」
「少なくともお前と八千慧はずっと相棒同士だったからな。畜生界に広く唄われたものだろ! 鬼傑組に天馬駆る吉弔あり、とね」
「駆られたつもりは無い! 私たちは……対等だった! 単に作戦を立てる担当が八千慧だっただけだ!」
 「じゃあやっぱり駆られてたんじゃないか」という言葉をあからさまに飲み込んだ饕餮は、代わりに口元をまた三日月程に歪め皮肉を一つ吐き出した。
「ま、それも勁牙組が独立するにはいい足掛かりだったわけだ」
 早鬼には尤魔の目論見がわからない。どうして急に過去のことを言い始めたのかがわからない。しかし会話は流れで、言葉は吹き付ける風のように早鬼をたちまち惑わせる。
 これだから嫌いだった。会話とか対話とかいうものは。それでも今は暴力によって解決できないという理解が先にある。もしくは単なる暴力で解決したくないという気持ちの問題か。
 確かにその渦の中央にいるのは八千慧だ。異様に苛立った八千慧だ。
 それと、サボテンの鉢植えが。八千慧自身が八千慧に似ているという……サボテン。
「……私は別に、権力なんてどうでも良かった」
 隠そうと思えば隠すこともできる話だが、早鬼は正直に突き進むことに決める。多少の恥じらいはあったかもしれない。しかしどんな時であれ彼女のモットーは「真っすぐいってぶっ飛ばす」。会話を闘争とすれば、驪駒早鬼の戦術はシンプルな正直さと誠実さに帰結していくのかもしれない。
「ただ恩義があった。私が畜生界に流れ着いた時、最初に助けてくれたのが狼霊たちだったから」
「初耳だが、味のしない情報だ」
「狼たちは私よりも馬鹿だ。馬鹿で、獰猛で、他のどんな畜生より仲間思いだ。だけど権謀術数の渦巻く鬼傑組に鎖で繋がれてる限り、あいつらに未来はない」
「へえ。それはちっとは旨味のある話だな? お前さんがそんな慈愛から鬼傑組を裏切ったとは」
「慈愛じゃ無い。仁義だ」
「飯の種にすらならんつまらない価値観だ」
「じゃあおまえはどうなんだ? 剛欲同盟は仁義で結ばれていないのか!」
 尤魔の表情に「そんなこと正直に言う必要があるか?」という反駁と、「別にそれくらいどうでもいいことだ」という無関心の影が同時に宿った。
「しかしいずれにしても、一度ぶくぶく膨れ上がった組織が何のために作られたかなんて、後から掘り返す意味もねえよ」
「本気で言ってるのか?」
「なあ、問題はおまえだろう」
「違う。問題は八千慧だ」
 尤魔の溜息に疲れが滲む。その意味で早鬼の戦略は悪いわけではなかった。これが尤魔と八千慧の舌戦であればさぞ壮絶になったことだろうが、こと早鬼に対しては尤魔の嫌味も皮肉も駆け引きも、全て猪突猛進する猪の前で策を弄するようなものだったから。もっとも、早鬼にその自覚はなかったけれど。
「八千慧が気になるんだろう」
「気になるというか……」
「違和感があれば口にしてみるのも悪かない。聞いてやるよ少なくとも飯代くらいはな」
 なぜ聞いてもらうことが飯代になるのか早鬼にはわからなかった。それこそ飯のためにすらならないつまらない仕事じゃないか?
 とはいえ、早鬼の心は意外なほどすんなり尤魔の提案を受け止めた。まるでずっとその言葉を待っていたかのように。
「さっきの八千慧は……うん、昔に戻ったみたいで」
「昔に? あいつがまだ鬼傑組組長の座を奪い取る前ってことか?」
「そうだ」
「おまえが組んでた頃でもあるな」
「……そうだ」
「確かにあの頃のあいつはギラついてたな。鬼傑組を支配する大幹部、十二使獣の一角にまんまと潜り込んでから……その他十一匹を皆殺しにしていった、あいつは」
「実際に動いたのはほとんど私だぞ」
「ここ最近は違っていたのかね」
「腑抜けていった。安定した権力は八千慧を弱くしてるみたいだった」
「それを言うなら――」
 お前もだろ? そんな言葉をおそらく噛み潰した尤魔はもうこの対談がいい加減面倒になってきたようで、一足とびに結論を導こうと口火を切った。あるいは単に尤魔にとって先の食い分くらいじゃ、ほんの数分の話に満たない飯の量なのかもしれない。
「霊長園に行ってみろよ」
 思っても見なかった言葉に早鬼が面食らう。本当に、会話というのはこれだから嫌だと思った。殺し合いならギリギリの殺気の濃淡で相手の次の出方も伺えるものだが、会話に強い連中はそんな仕草さえ見せず話題を飛ばし、早鬼を翻弄しようとする。言葉による暴力は、むしろ罵倒や罵声よりよっぽど丁寧さの中に潜むものだ。
「しかしなんで急に霊長園なんだ」
「やっぱりサボテンだよ」
「八千慧のことか? 八千慧が急に昔みたいになった理由が……サボテンなのか?」
「知らねえよ。知らねえし、お前が面倒な気持ちの源流を探し当てられるような手伝いをする程私もお人好しじゃねえし、だったらサボテンだろうが」
「おまえわざとわからないように言ってるだろ」
「私はサボテンのことなんぞ知らん。八千慧の気持ちも知らん」
「私も知らないよ」
「だがその二つに関係を見出したおまえの嗅覚は頼りになる。そして霊長園はこの畜生界じゃ珍しく、植物が残ってる」
「そういえば八千慧はあのサボテンを何処から手に入れたんだろう……」
「霊長園に行ってみろ」
 尤魔は念を押した。もうそれ以上説明させてくれるなと言うように。
 それから、
「何かわかったらちゃんと教えろよ」
 とだけ、最後に付け足した。

 ◯

「サボテン? うちでは取り扱ってないよ」
 埴安神袿姫は白い歯を見せて笑った。だがその目元は早鬼をちらりとも伺おうとせず、例によって忙しない手元に集中しているらしかった。
「そうか」
 霊長園の最奥に位置する彼女の作業場は嵐の吹き荒れた後のような有様で、本人も作業着に土と泥と絵の具のあとをべったりと塗れさせていながら頓着しない。しかしそれは仮にも客である早鬼への無礼というよりは、単なる関心の無さの発露。八千慧ならまた嫌味の一つも言ったことだろう。早鬼にはどうでもよかった。そもそも仇敵であるはずの早鬼をここまであっさり通したことが驚きだ。
「なぜサボテンなの?」
 袿姫は手元の土塊から手と目と意識を離さず、言葉だけ持ち上げる。
「サボテンから向精神薬でも作る気かしら? 薬物によるシノギは畜生界の禁忌だと認識してたのに」
「なに?」
「ああ……もしかして知らない? ペヨーテ、メスカリン」
「サボテンの一つも無いのか?」
「あるよ。無いわけがないだろう。ただ畜生にくれてやる分は無いってだけ」
 言葉は挑発的だが敵意は感じられ無かった。おそらく心底そう考えているが故に、また、心底それを悪いと思ってないが故に口にしただけだろう。根っからの侮蔑は悪意や敵意よりも時としてたちが悪い。
「ヘンテコな機械は売り付けてもサボテンは売らないってのか。あんなものよりそっちの方がよほど需要がある気がするけど」
 袿姫の視線が持ち上がる。手元のノミが今日で初めて静止した。
「植物は私の作品じゃない」
「なに? それだって霊長園で育ってるんだろ? おまえの財産じゃないか」
「それは私が価値を決めつけたり切り売りして晒しものにしたりしてはいけないものじゃないかしら」
「まったく何の話をしてるかわからん」
「ハニヤスコーポレーションが取り扱うのは埴安神袿姫による造形術の産物だけよ。それ以外は取り扱ってはいないし、そうすべきでないし、そうするつもりも最初から無い」
「なんだそのしちめんどくさいルール? 売れるものは売ったらいいだろ」
「神とはそういうものなんだよ。自分の領域から越権して他者の徳を神徳とするべきじゃない。そういう輩もいるにはいるが、そんなことを繰り返していると自分が何なのかきっとわからなくなってしまうよ」
「何でもいいけど、じゃあ、サボテンは霊長園でも育ててるけど、それを売る気は無いってことだな。吉弔八千慧に売ったりもしてないんだな」
「なぜ吉弔八千慧に?」
「どうなんだ」
「してないよ。でも」
 少しだけ早鬼の注意と期待を引っ張ってから、袿姫は悪戯っぽく微笑んだ。
「見ていくだけならいいよ」

「こちらです」
 相変わらず淡白で淡々とした淡い声音の連なりは杖刀偶磨弓によるものだ。袿姫は当然ながら早鬼を案内したりはせず、代わりにこの忌々しい埴輪兵団長を呼びつけて水先案内人とした。「本当は観光ガイド料を取るのだけど、サービスにしとくよ」と、袿姫の言葉は冗談とも本気ともわからない。
「霊長園も変わったな」
 のっぺりしたセラミックスと金属の混製による廊下を、カツカツと二人分の足音が響く。壁面に刻まれた幾何学模様にはどんな効果があるのだろう? あるいは何の意味もないのかもしれない。装飾に意味など求める者の気持ちがわからない。しかし八千慧はサボテンを配置した。ひょっとすると八千慧のその行為にも意味なんてないのかもしれない。いや、少なくとも彼女は「自分に似てるから」それを置いたらしい。それは意味がある行為のはずだ。早鬼には理解できない意味だ。
 それを私は理解しようとしているのか。
 奇妙な感覚。なんだってそんなことをしてるのだろう。そんなことをして何の意味があるのだろう。なんだって自分は意味を求めているのだろう。
 私も腑抜けたよ、八千慧。
 自嘲する早鬼を振り返りもせず、磨弓の声がなお淡々と続く。
「現在、旧霊長園で生育されていた植物の99%はこのエデン区画に存在します。本来ならあなたのような第一種敵対勢力が足を踏み入れて良い場所ではないのですが」
「こっちには埴安神のお墨付きがあるんだぜ」
「もちろん承知しています。袿姫様のお考えは私のような一介の埴輪兵には推し量る事さえはなはだしいことです」
 埴輪兵の堅苦しい言い回しは肩が凝る。ただ「うん」といえば済むところをゴテゴテと無駄な修辞をつけて意味を撹乱させているようだ。だから早鬼はそのつまらない話題をさっさと切り上げようと決めた。
「エデン区画ってのは何なんだ?」
「旧霊長園に管理されていた動植物資源をより集中的・効率的に維持するための――」
 話しながら二人は狭い部屋に入り込んだ。畜生界でも最近は珍しくない「エレベーター」だろうが、勁牙組のビルにあるような債務動物霊に昇降装置を動かさせるタイプのものとは違い、音も振動もほとんどしない。それでも僅かながら下降していく感覚だけはあった。
「区画は気候帯ごとに分割され、熱帯、乾燥帯、温帯、冷帯、寒帯の五つの中区画が存在し、更にその中でも実際の様々な自然環境を模倣した小区画が――」
 磨弓の言葉も早鬼にはほとんど入って来ない。下降の感覚。なぜ自分はこんなことをしてるんだろうという疑念が再び湧いてくる。今更ながら尤魔の言っていたことを思い出した。
「八千慧が気になるんだろう」
 確かにそうのかもしれない。昔のギラギラした感じを取り戻した八千慧。それは喜ばしいことだ。腑抜けた八千慧から昔の八千慧に戻ってくれたら、今ならば、思う存分に高め合える。きっと、互いに。
 けれど……そうならば、どうしてこんなにも八千慧の最後の一言が拭いされないのだろう? 早鬼の頭の中で鉢植えに据えられた物言わぬサボテンの棘の一つ一つがゆっくり目に浮かんでいって、一斉に悲鳴をあげた。
 ちん。鈴の音が扉を開き、眩い白の光量が早鬼の目を灼く。
 また長い廊下があった。想定していた緑の草原、茫漠たる荒野、しんしんと凍りつくタイガ、そのどれでもない。だがサボテンはそこにあった。透明なカプセルに収まった無数のサボテンの鉢が広々とした廊下の壁面彼方まで整列している。その周囲を人間霊がせかせかと動き回って、土の調子を計測したり、水をやったり、何やらよくわからない装置で何やらよくわからないことをしていた。彼らはエレベーターから突如と現れた磨弓にびくりと震え、次いでその後ろに驪駒早鬼が居ることに気が付き更に凍りついた。
「皆、大丈夫だよ。この畜生は見学に来ただけ。あなた達は袿姫様と私達に守られてるからね」
 早鬼がちょっと驚くくらい優しい声音に告げられて、人間霊たちは安心してまた作業に戻っていく。サボテンを世話する作業に。
「サボテンだけ特別扱いなのか?」
「ここは多肉植物の生育チャンバーです。他にも色々とありますよ。エデン区画の本懐は自然の造形美を保全することですが、自然のあるがままという性質が故にかえって人工的な保護も必要となってくる。弱肉強食にまかせて絶滅しましたでは何のためのエデン区画かわからない」
「滅びるべくして滅びる連中を救うなんて馬鹿馬鹿しいな」
「しかしそのおかげであなたはサボテンのことを調べに来れるのです。知は力なりです。袿姫様の受け売りです。そもそも弱肉強食などと言ってるけれど、生き残ったのは単なる運の良さじゃないですか?」
「なに?」
「閉じた環境にたまたま適応的だっただけでしょう。あるべき時、あるべき場所のため、あるべき姿と性能を与えられた我々埴輪兵からしてみれば、そんなもの強さとはとても呼べない気がします」
「ガイド料代わりに喧嘩を売ろうってのか?」
「思ったことを率直に申し上げたまでです。この頃、訓練しているのです。思ったことを口に出せるように」
「なんだってまた……」
「人間霊を見ていると、ちょっとした感覚を言葉に出さないことで大事に至る現象がしばしば観測されます。戸惑い、恐怖、遠慮、恥じらい、色々とあるようですが、少なくとも私は適応することができます。それに」
「……それに?」
「思ったことを口にするのは存外、気持ちの良いものです」
 早鬼が閉口していると、磨弓はサボテンカプセルの一つの前で足を止めた。よく見るとそれは単なるガラスケースではなくて、内側から時折に霧のようなものが噴き出たり、細かな光を放ったりしている。これそのものが高機能なサボテンの揺籃なのだ。もちろん埴安神袿姫が拵えたものだろう。
「吉弔八千慧がサボテンを愛でているのはそう突飛でもない気がします。サボテンはどうしてだか竜の名を冠していることが多いですから。例えばこれはエスポストア属の金装竜と呼ばれる種です」
 磨弓の示したサボテンは一際にヒョロ長いカプセルに収められていて、トゲだらけで緑の細長い種だが早鬼の見たものとは違っていた。
「吉弔八千慧の執務室にあったサボテンはどんなものでしたか?」
「もっと丸くて小さいやつだった」
「そんなものはたくさんあります。トゲの特徴は?」
「いちいち覚えてねえよ」
「そうですか。ポピュラー所ではこの辺りかな」
 考え込む磨弓が壁の箱型装置になにやら指示すると、しばらくして人間霊がいくつかサボテンの鉢を運んできた。候補になりそうなものをあらかた取り寄せたらしく、はたしてその内の一つに早鬼の見たものも混じっていた。
「フェロカクタス属の王冠竜という子です」
「弱そうな見た目だ」
「しかし百年以上生きるのですよ。乾燥にも強く、サボテン初心者にもおすすめです」
「ガーデニングをしに来たんじゃない。私は八千慧の――」
「こんなものもあります」
 そう言い磨弓の示した鉢植えに早鬼は息を呑んだ。まるで土の上にうずくまって亀の甲羅みたいな物体の中央から、ひょろながい緑の蔦が伸びてカプセルの隙間から溢れ出している。
「これはディオスコリア。亀甲竜と呼ばれている塊根植物の一種です。正確にはサボテンではありませんが、このチャンバー塊根植物も取り扱っているので」
「亀甲竜ね……」
「もともとサボテンは茎や葉が乾燥に適応し肥大化したもの達ですが、塊根植物は幹や根の部分が肥大化したそうです」
「乾燥すると肥大化するってのもよくわからん話だ」
「水分を蓄えているのです。乾燥地帯ではいつ水分の補給ができるかもわからない。だから自分の身にたっぷり溜め込んでおくのです。そして当然他の畜生も水分を欲していますから、サボテンはトゲを生やし身を守っているのでしょう。ご存知ですか? トゲの鋭いサボテンほど内側の身はみずみずしく潤っているのですよ」
 そんなことは知らなかったし、早鬼にはどうでもよかった。ただ八千慧が、八千慧は、そんなサボテンの生態まで知っていたのだろうか。知っていて、そこに自分と似たものを見出したのだろうか? 磨弓が薄く微笑んだ。セラミックスの自動人形とは思えないほどの柔らかで、自然な笑みだった。
「おまえ、随分と楽しそうだな」
「植物は素敵です。袿姫様が一目置く理由もわかります。とても仔細な造形美を備えているのに、誰もそれを飾らない。寡黙です。私たちに似てますね、少し」
「埴輪兵がそんなに感情豊かだと気持ち悪いよ」
「自分に理解できないことを気持ち悪いって言わない方が良いんです。それに他者の感情を推し量るのは危険だと人間霊達を見て学びました。それを割ってでもみない限り、外から中身を知る術はないのです。サボテンと同じくです。まあ私の中身は空っぽですけどね。えへ」
「説教くさくなったな、おまえ」
「自分の考えを口にするのは楽しいです。あなた達もしたらいいのに」
「そうかい。じゃあ次は聞く方の身にもなってみたらどうだ」
「私は畜生の身になった考え方なんてできません。さて、他に見てまわりたいものは?」
 早鬼はもう押し黙ったまま首を横に振った。
「そうですか。では私から一つ見てもらいたいものがあるのです。よろしいですか? 少しだけ」
「なんだ、まだとっておきのサボテンがあるのか」
「サボテンじゃないんです。まあまあ」
 そう言い先導する磨弓はステップを踏むようだった。まさかと思いつつも早鬼は「ごきげん」などというおよそ埴輪兵に不釣り合いな表現を思い浮かべる。
 エレベーターの扉が閉じ、鼻唄がそよぎ、また開いた。
「ここは……」
「音楽室です。普段は人間霊達の娯楽用スペースですが、今日は貸切です」
「誰のために?」
「もちろん、私のためです」
 むふーっと伽藍堂から何かしらの気体を排出すると、磨弓は並んだ楽器の一つの前に座った。
「ピアノです」
「それくらいは知ってるよ。おまえら、私を右も左も分からないガキだと思ってないか? いやちょっと待てよ。おまえ、それどうする気なんだ」
「かっちかっちかっちかっち」
「な、なんだよ」
「メトロノームです。自分でやる方が正確なんです。かっちかっちかっちかっちかっち……」
 ほとほと埴輪兵というのは奇妙な連中だと早鬼は後ずさった。セラミックスの指先が伸びて、白と黒の鍵盤にそっと触れる。
 そして――早鬼は水の味を感じた。だばだばと音の連なりが部屋に満ちた。もっときっとずっこけるような出来栄えを予感していたのに、磨弓の指捌きはなかなか洗練されたものだった。
 かっちかっちかっちと口で刻みながら彼女は小犬のワルツを淀みなく奏でていく。
 自由だな。とはいえ聞き惚れる程の出来栄えではない。上手……というより精密さが先にくる。単に早鬼の好みに合わなかっただけなのかもしれない。彼女とて音楽に精通したわけでもなかった。それでも確かに――磨弓がふっと息らしきものを吐き出す。すっと鍵盤から白い指先が離れていった。
「どうですか?」
「なぜ私に聞かせてくれたんだ?」
「あなたが一番畜生的な本能に優れていると思ってたので。えーとつまり、音楽は感性だと教わったのです。どうでした? 私の音楽は」
「悪くはないと思う。それでも埴輪に音楽がわかるのか?」
「わかろうとしている過程ですね。少なくとも私の演奏で人間霊の皆が楽しんでくれます。それは嬉しいです。我々は誰かのために造られたのです。埴輪兵団は真社会性生物ですから」
「真……なんだって」
「社会性生物のうち不妊の階級を持つものをそう呼ぶのです。ハダカデバネズミ霊のファミリーをご存じないですか? そうですね。あなたはどうしていつも孤高に戦うのを好むんですか?」
「他の誰も着いてこれないからだよ」
 ただし、吉弔八千慧を別にして。
 それにしても早鬼は磨弓のことが心底に末恐ろしかった。こいつらは変わり続けている。ただでさえ動物霊は埴輪兵団に手も足も出ないのに、さらなる何かを身に着けようとしてるらしい。
 かたや……磨弓の言葉は早鬼の内側の柔らかな所にそっと突き刺されたナイフのようだった。
 サボテンが頭に浮かんだ。在りし日の獰猛さを取り戻したような八千慧の姿が。その気迫に押し負け、退いた自分の姿が。
「良ければまた聞きに来てください」
 杖刀偶磨弓はまたあの土くれとは思えぬ柔らかな微笑みを浮かべ、小首をかしげた。
「お待ちしてますね」

 ◯

 結局、私は何をしてるんだろう?
 巡り巡って早鬼はいよいよ自分の考えがわからなくなっていた。頭の中にあるのはただサボテンの事だけだ。おまけに当初は八千慧の執務室で目にした王冠竜だけだったそれも、今や色とりどり姿とりどりのサボテンが軍靴を鳴らして攻め込んでくる有様だった。八千慧はそのどこが自分に似てるというのだろうか。
「吉弔様なら留守ですよ」
 気がつくと鬼傑組の本部ビルに戻っていた。ちょうど正面からカチコミに来た泡沫勢力を正面から粉砕し終えたところだった猿の妖獣が顔を上げて答えた。
「どこ居んだ? あいつ」
「あのですね、貴方様にそれを教えるわけないですよね。敵対勢力の親玉ですよ、自覚あるんですか?」
「そうだな……どうもそこんところがよくわからないんだよ。考えてみりゃずっとわかんなかったのかもしれん」
 そうは言っても早鬼は畜生界の大量破壊兵器と呼ぶに遜色ない危険極まる存在であり、妖獣はあくまでたじろぎながら答えた。そうした力の差を押し付けないことは早鬼の美徳であり、力の差を自覚しない無思慮さでもあった。
「吉弔様はおりません」
「わかったわかった。何もしないったら」
「……何もしないんですか? 吉弔様にご用件なんでしょう。叩きのめして聞き出したりしないんですか?」
「え? いや、まあ……」
 確かに言われてみればそんな選択肢もあったのだろう。昔の早鬼なら何の躊躇いもなくそうしていたのかもしれない。否、確実にそうしていた。そうしない理由がどこにある?
 ならやはり、今もそうして然るべきか?
 いや……滾らないな。
 そう思いながら早鬼は空っぽの拳を握りしめた。同時に今の八千慧なら……昔のキレを取り戻したようなキレた八千慧ならきっとそうしたのだろうとも。
「腑抜けているのは私か」
「な、なんでしょう?」
「八千慧の居場所なら知ってるよ。昔、鬼傑組の幹部の一匹から奪った別荘をあいつ、えらく気に入ってたからな。何かあるとそこに篭る……昔から」
「し、知りませんっ!」
「サボテンのせいで全部の調子が狂ってやがる」
「サボテン……?」
「苛々する! ああくそッ!」
 盛大な黒い翼がぬらりと常闇の畜生界に広がって空を叩いた。たちまち空が彼女を掴んだ。ギラつく不夜城の夜景が星空をさかしまに写したみたいに早鬼の足元に広がる。かと思えば彼女は頭を下に急降下して、今度はビルの窓の社畜達の放つ光の網が恢々に広がって燃え盛った。
 そんな速度と高度では言葉を発する者も消える。黒い流星が墜つ。濁った掘に囲まれた大陸風の宮殿が沈黙の中に佇んでいる。壁面に塗布された真紅の色合いは一千年の経年に耐えかねてもろく剥がれ落ちている。
 塗り直せばいいのに、と早鬼は思うが、これは八千慧の所有物なのだし、本人がこれで良いと思うならそれで良いのだろう。
 確かに古いものも悪くはない。
 らしくないことを感じ入りながら早鬼は宮殿の中に踏み入れる。こつ、かつ、こつ、かつ、こつ、かつ。誰もいないから早鬼の足音だけが響いていた。無人、無音……否だ。ここにはきっと八千慧がいる。早鬼は気配でそれを悟っていた。それに完全な無音でもなかった。広すぎる宮殿のずっと奥から微かに漏れ聞こえてくるものがある。それは息遣い。なにか強大な妖怪の、苦しげな息遣いである。
 エントランスを抜け、早鬼は広すぎる大ホールに出る。頭上天蓋に刻まれた龍の意匠。瞳にはめ込まれた巨大な紅玉石は本物なのだろうか? 早鬼はずっと昔から何度もこの別荘を訪れてはいたが、そんな疑問を抱くのも初めてだった。
 いいや、そんな余裕もなかった。ただ前に進むだけで精一杯だった。八千慧もそうだったはずだ。二匹、畜生、ただ前に進むだけで――本当にそうなのか?
 早鬼が前に進むのに全力だったことは事実だ。しかし思い返せば八千慧はまた少し違っていた気もする。
「そういえばあいつは前より上を見ていたな」
 頭上に彫り込まれた龍。龍を……吉弔八千慧は見上げていたのだろうか。見上げていたからこその覇気。見上げていたからこその殺気。過去の吉弔八千慧に満ちていた気迫。失われていたはずの狂気。しかしそれが戻ってきている。
 早鬼は自分がだだっぴろい荒野に取り残されているような気がした。サボテンだけがその荒野のそこここに点々と生えていた。まさか突然にこんな僻地に取り残されるだなんて。昨日まで全てが何事もなく進んできたことが嘘のような気がしてきた。
 いや、けれど、八千慧は頭が良い。尤魔も頭が良い。毎日が当たり前の毎日でないことを当たり前に理解し、何かを準備してきたのだろうか? その結実が八千慧のあの態度なのか? サボテンを愛でるように ……磨弓は馬鹿の部類だろうが、まだ若く、青々としている。早鬼はぎょっとして自分の両手を見た。
 まだほんの一千年ぽっちしか経っていない……そうだよな?
 早鬼は立ち尽くしてぼうっと輝きを放つ闇色の廊下の向こうを見据えた。それからふと、紅く磨かれたタイルの上で鈍い色を発する妙なものを見つけた。
 手に取ると、緑色の破片。一瞬サボテンの切れ端なのかと思った。だが違う。六角形の平面な、それは甲羅だった。亀の甲羅の一片だった。
 誰の――と。当然の疑問が早鬼の頭をよぎる。無論ただの通りすがりの亀が甲羅を一枚落としていったわけではあるまい。しかも顔を上げてよく見れば、甲羅の破片はまだ点々と先へ続いていた。早鬼は歩み寄って一枚を取り上げる。また一枚、もう一枚。
 八千慧の甲羅だ。
 言うまでもなく早鬼にはそうとわかっている。だが、なぜ? 取り上げた甲羅の枚数が増える度、宮殿の奥に息づく吐息はなお大きく、大きくなっていく。
 苦しげで、熱にあえぐような。
 また一枚、甲羅が足元に落ちている。薄ら寒い暗い長い廊下だ。驪駒早鬼からすれば一息に駆け抜けてしまえる距離だ。ただ両脚は縛られている。というより、粘つく触手に絡め取られているような感じだった。
 それとも怯えているのか? 私は。
 疑念に答える者は皆無で、やがて甲羅の葬列は途絶えた。が、代わってより小さく刺々しい鱗がまた散らばるようになった。もはや疑う余地もなくそれは吉弔八千慧の尻尾の鱗だった。
 甲羅。そして尻尾の鱗。早鬼は拾い集めたそれらのうち持てるだけを抱えたまま、捨てるわけにもいかず、途方に暮れていた。同時に、両腕にずっしりと重いそれを八千慧は日々抱えているのだと思うと、なんとも言えない気分になった。比して馬とは身軽な生物だ。驪駒早鬼には自分が最速である自負がある。
「そもそも弱肉強食などと言ってるけれど、生き残ったのは単なる運の良さじゃないですか?」
 磨弓の言葉は間違っている。早鬼はそう言い切れる自信があることを自分の心に確かめた。単なる運の良さだけではなかった。運の良さの上に、血を吐くような努力の道があった。その努力の総量が畜生ごとにバラついていることも知っている。だが……吉弔八千慧はどうだったのだろう。
「私たちは……対等だった!」
 そう尤魔に切ってみせた啖呵は本心だった。けれど、八千慧はどう思っていたのだろう?
 このじゃらじゃらと重い甲羅と尻尾の鱗を抱えて。だがもうこうして甲羅も鱗も捨て去ってしまった彼女は、今、何になっているのだろう?
「ご存知ですか? トゲの鋭いサボテンほど内側の身はみずみずしく潤っているのですよ」
 記憶の中で杖刀偶磨弓が微笑む。何もかもが目まぐるしく移ろっていく落下感。まるでこの一千年、がむしゃらに闘争に明け暮れる側で気が付かず流れてきた時がいっぺんに動き出して早鬼を連れ去ろうとしているかのようだった。
「八千慧……」
 声が漏れた。早鬼はただ吉弔八千慧がもう自分には届きようもない存在になってしまう予感に急速に駆られて、ヘンゼルとグレーテルよろしく鱗の痕跡を辿ってついに駆け出した。
 八千慧は何になろうとしているのだろう。それはきっと恐ろしい存在に違いない。であれば戦い、殺しあうにはうってつけの相手だ。いや、もう闘争などどうでもよかった。今までそれこそ自分の生き抜く価値だと思っていたものがどういうわけか瑣末なことのような感じがする。
 あるいは今、この場で殺すか。
「八千慧っ!」
 それもまたいい気がした。早鬼の中のあくまで畜生的本能はそれを推奨している。では、相反するこの感情は何なのか。そういうものにも目を背けていたのだろうか。きっかけは些細でも、溜め込んできたものが実に多すぎたから……その膨れ上がったものを突いたのがサボテンの棘の一刺しであっただけで。
「うるさいな」
 赤い壁みたいな扉に取り付いた早鬼へ投げかけられる、苛立った言葉。吉弔八千慧の言葉がゆっくりと、一言ずつ噛み締めるように告げられる。
「静かにしてよ」
「八千慧」
 扉を蹴破ろうかという逡巡。だが早鬼はそうしなかった。代わりに声を投げた。少なくとも今、一番確実に届くものだった。
「おまえ……おまえは……大丈夫なのか」
「ドタバタ上がり込んできて、なに。お見舞いのつもり……」
 見舞いという言葉は驚くほどしっくりくる感じがした。八千慧はいつもこうだった。いつも、早鬼の考えを先回りして適切な言葉を見つけてくれるから。
「あ、ああ。そうだ。おまえが……」
 苛ついていたから。しかしそれも妙な感じだ。今度こそ早鬼は自分で言葉を探す。けれどついにできることといえば、結局は、思っていたことを素直に告げるくらいのことで。
「おまえが、怒ってるみたいだから」
「はあ……」
「だから、その」
 沈黙。痩せた息遣い。苦しげな。
「おまえが、心配で」
 またもう少し長い沈黙があって、扉の向こうでため息が一つした。実際それは八千慧が「新しく恐ろしい何か」になったことよりも、彼女がずっとひどく弱っているらしい事を示していた。
「おどろきだわ」
「な、なにが」
「一千年も腐れ縁で、ようやく気がついたなんて」
 訳がわからないでいる早鬼の向こう、ごとりと一匹分の質量が扉の向こうにもたれかかった音がする。
「私を心配してくれたわけ。どういう風の吹き回しか知らないけど」
「あ、ああ」
「じゃあ一つ頼みを聞いてよ」
「出来ることなら」
「そこでそうして、門番やってなさい」
「え?」
「やんの? やらないの?」
「それくらいならお安い御用だけど」
 訳がわからなかった。わからなかったが、早鬼はとりあえず同じように扉へと背を預けた。こんな恐ろしい別荘に誰か来るとも思えなかったが、考えようによっては畜生界の三大勢力の一角が弱っている好機。とは言え、もっともそれを狙うべきは他ならぬ驪駒早鬼のはずなのだけど。
「……風邪でもひいたのか。その、弱ってるみたいだけど」
「なに、結局気がついてないんじゃない」
「言ってることがわからん」
「……信じられない馬鹿だな」
「な、なんだよ! こっちも色々と苦労したんだぞ!?」
「何に?」
「え!? い、いやまあ、その……おまえの体調は畜生界のパワーバランスに関わるからな! 当然、様子がおかしければ調査するだろう」
「ああそう」
「だから……」
「だから?」
「お前に先を越されたんじゃないかと思って」
「先?」
「甲羅と鱗を……お前が何か、吉弔を超えたヤバいものになろうとしてるんじゃないかと……!」
「ぷっ」
 噴き出した吐息はたちまちに笑い声となり、扉一枚を挟んで唖然とする早鬼を包み込んだ。そこの抜けたような八千慧の高笑い。けれど今度はぷつりと途切れて
「脱皮だよ」
 端的な言葉が故にむしろ、早鬼は咀嚼に時間がかかる。脱皮。それが八千慧の不審の原因だと、彼女はそう告げたらしかった。
「百年に一度、私の甲羅と鱗は新しくなるの。新陳代謝というやつよ」
「……知らなかった」
「もちろんこんなことあえて見せたりはしない。体力は落ちるし、イライラするし、最低なことばっかりだから」
「それは……」
「完全な龍であればきっとこんな苦労もなかったのでしょう。でも仕方がない。好きでこんな形に産まれてきたわけじゃ無いけれど、だからこそ、この痛みが身に満ちる度、私は思い出すの。私は出来損ないの吉弔で、だからこそ、だからこそ……私はもっともっと這い上ってやるって」
 早鬼は返す言葉を見つけられないでいた。ただ黙って背中越しの怒りと苛立ちを感じ取っていた。八千慧が昔のように見えたはずだった。八千慧はまさに昔の野心と辛酸の只中に戻っていたのだから。
「おまえ、この頃腑抜けてるよ」
「私が?」
「野望を持ちなよ、驪駒早鬼」
「……持ってるつもりだけどな」
「おまえは権力を乗りこなすのに慣れていない。いいえ、慣れきってしまったのかな。あなたが落ちぶれれば私、容赦なく借りを返してもらうつもりだから」
「……わかってるよ」
「ここは畜生界なんだから」
「わかってる」
「立ち止まってる暇なんてないんだよ」
 それでも八千慧は脱皮のたびこうして力を削がれ、身を隠し、立ち止まらなければならない。それはどんな苦しみだろうと早鬼はようやく少し、理解できた気がした。
 背後で八千慧の気配が萎んでいく感覚。きっと疲れて眠りに落ちかけているのだろう。立ち止まる暇などないとは言うが、今くらいは休めばいいと早鬼は思った。が、ずっと頭の中に占めていたことが不意に蘇り、早鬼は慌てて問いかけた。
「なあ、ひとつだけ聞いていいか」
「ん……」
「どうしてサボテンなんだ?」
 無言。眠りに落ちたと言うより、早鬼の言葉の意味を捉えかねていたのだろう。しかしようやく自分が前に言った事を思い出したらしく、笑み含みの声が言う。
「私の尻尾に似てるでしょ?」
 思ったよりつまらない答えだなと、早鬼はぼんやりと思った。
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.90福哭傀のクロ削除
全体的に面白かったしなによりメメントとはまた違う?変わった?磨弓ちゃんが結構好きでした。話の軸にあるのが八千慧とサボテンの話とギラついてた頃に戻ったような八千慧を見た早鬼の話だと読み取ったのですが、なんとなくその二つがうまく自分のなかで繋がらないというか、そもそも別に八千慧の部屋にサボテンおいてるのってだ、だめなの……?ってなっちゃう私のセンスの問題。まあそういう物なんだろうなーと思いながら読みつつ、二人の煮え切らない距離感楽しめました。
よびーあうーよーおにーでああったーのに~♪
5.90名前が無い程度の能力削除
とても面白かったです!家でざりがにを飼っていてよく脱皮するのですが、ざりがにも脱皮する時ってつらいんでしょうか?ちょっと気になりました!
早鬼の葛藤する姿が丁寧に描かれていて、とても良かったです!
読んでいてサボテン育てたくなりました。丸っこくてかわいいですよね!

※ざりがにをカタカナで書くと禁止ワードが含まれてまいすって表示されて投稿できなかったので、わざとひらがなにしてます。読みにくくてごめんなさい。
6.100のくた削除
二人の関係がとても良いです。そして磨弓ちゃんの可愛さと袿姫様の神ムーヴ。とても良かったです。
7.100南条削除
面白かったです
空回りしている早鬼がいじらしくてよかったです
そうか脱皮すると弱まるのか八千慧は
良いことを聞きました
8.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。畜生界内部や自分自身の変化に対して困惑しながらも歩み寄れる早鬼が良かったです。あと饒舌な真弓がすごくいいキャラしてました。
9.100ローファル削除
面白かったです。
磨弓が全力で今を楽しんで生きているように見えたのがとても微笑ましかったです。