Coolier - 新生・東方創想話

トシ

2025/07/13 15:12:43
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 初夏、稲は青緑色に伸びて、それと対比するかのように麦が黄金色の収穫を控えている麦秋の頃。命蓮寺の大阿闍梨、聖白蓮は仙界を訪れた。
 訪問の目的は最近の情勢について情報と意見を交換し互いの縄張りを確認し合う定期会合であり、それ以上でもそれ以下でもない。入口の門で道士見習いを二人殴り倒したことについては、彼女に言わせると「道場破りと勘違いして暴力でもって私が門を潜るのを妨害したのが悪いんです。私にはそんなつもりは微塵もなかったのに」だった。事実悪いのは見習い道士側である。
「それにしても、どうして来るたびに戦いを挑まれるんでしょう?」
 聖は手のひらの埃を払った。その音に気がついた烏帽子の道士が建物から出てきた。
「おー、白蓮殿ではないか」
「布都さんですら普段は平和に応対してくれるというのに」
「むむ、何か馬鹿にされてる気がするぞ」
「褒めているのです。和とは大事なことです。仏教においても道教においても」
「その様子だとまた戦いを挑まれたか。最近の若者は血の気だけ多くていかんのう」
「貴方のところの人じゃないですか、もう」
 実のところ、神霊廟の道士達はあえて門周りに新入りを配置してるのである。ここの道士見習いは大半が人間を辞めることに憧れを抱いた里の人だ。大体は順当に仙人になるなんてことしないほうがいい人達、どうせ仙人にはなれない人達なので、全力で振り落としにかかる。幻想郷において宗教はそれぞれ人間に対して何らかの機能を有しているが、道教の役割は「人間に人間を辞めることを諦めさせること」である。それと門番をさせることに何の関係があるのかというと、生半可な気持ちで人間を辞めようとしている人に人間離れの現実を見せるための門番であり、聖は新入りの心を折るゴリラポジション。……ということは当然聖本人には秘匿され続けている。
「まあ我もお主も『血の気の多い若者』に苦労させられた身ではないか。霊夢殿に魔理沙殿に早苗殿。それより太子様は中でお待ちじゃ」
 布都に先導されて聖は丹塗りの柱で支えられた道観の縁側を歩く。庭や廊下の対面などから時折若い仙人見習いに声をかけられるが、普通に平和そのものである。神霊廟側に何か問題がある――例えばここでは「ブッダ死ぬべし慈悲はない」と仏教徒スレイヤー育成教育がなされている――から聖は来るたびに挑まれる、というわけではないのかもしれない。教育してもどうにもならない人妖というのは残念ながらいる。それは聖も胸が痛い程よく分かっていることだった。
「おう、トシ。聖殿にお茶の準備をしてくれ。茶葉は棚の上から二段目の……どれがいいかな。まあ屠自古に聞けば分かるじゃろ。それとどら焼きはまだ残っていたかの……。そうか、じゃあ栗まんじゅうにするしかないかな。それで。分かったか?」
 トシと呼ばれたのも、そういう平和な方の仙人見習いの一人のようだった――里の人間の名前はミルフィーユのようにいくつかの時代の地層が一つにまとまっている構造になっていて、最近になって外来人や妖怪経由で流行った名前から「昔ながら」の名前もあり、彼女は後者の名前だった。布都は彼女にお茶の準備をさせていた。布都の対応だけ見ていると極々普通なのだが、聖は一点明確に違和感を覚えていた。
 トシの方が一言も言葉を発さないのだ。





(おし)
の方を見習いに取ったの?」
 応接間は赤地の布に金色で幻獣の刺繍が施された幕で装飾されていて、紫檀の机の上にはペルシアかぶれな水鳥型の水差しが置かれていた。聖はここに来るたびに異国に来たのかと錯覚する。応接間には、お茶と菓子の盆を持ってきたトシが――やはり終始無言のまま――退出してからは神子と聖の二人しかいない。会合は常に二人だけでなされる。その方が互いに遠慮なく話せる。特に今回は重要だ。聖が話題にしようとしたのは直前まで部屋に入ってきていた小間使いの話なのだから。
「そうだとして何も問題はあるまい。全ての人に道は開かれているべきだ。君のところは障害の有無で浄土に行けるかどうか決めるのか?」
「貴方のところ、採った人の九割九分九厘は篩にかけて落とすじゃないの。じゃなくて、そういう方と一緒に暮らすときの心構えとかやり方とかが純粋に気になったのよ。私のところももしかしたらそういうことがあるかもしれないし」
「どうもこうもないよ。あれも修行のうちだ」
「自らの障害も試練として受け入れろと。道教らしいといえばらしいわね」
「君はちょっと勘違いしてるな? だから修行なんだよ」
 聖は神子の言わんとすることが理解できず少し首を傾けたが、その視界から見る神子の頭がもっと傾いていたので、互いにすれ違いを起こしていることに気がついた。
「ああつまり、あの人は喋れないのではなく、まあある意味喋れなくはあるんでしょうけれど」
「そういうことだ。つまり、彼女は『喋るな』という修行を課されているから声を発さない。障害ではないよ。まあ少し身体の弱い人ではあるから、門番をさせる代わりの自己を律する修行だ」
 門番をすることと自己を律することに何の関係がと聖の脳天に疑問符が浮かんだ。命蓮寺の門は開かれていて、門番っぽい場所には山彦がいることが多いが、響子はあの場所が好きだから(往来で寺の敷地内では一番賑やかだからだろう)いるだけで、響子が門前にいて何か精神的に成長を果たしているようには思えない……。
 ここの門であるならば物凄い心当たりがあるわねと、聖は突然気がついた。ただただ苦笑するしかない。
「しかし、彼女、喋らないことに慣れてるし、修行始めてから長いんじゃないの?」
 聖の人物観察眼をもってしても、トシはあえて喋っていないのではなく喋れない唖であるかのようにしか見えなかった。無言を芸として極めている。極めすぎているので、自己を律する精神を高めるという本来の目的からは外れているんじゃないかしらと他所のことながら心配になる。
「そろそろ半年だな。年始めに来たから」
「半年も。いつまで修行させるつもりなの」
「『丹を錬成してるからそれができるまでだ』と彼女には伝えている」
「分からない例えね……。時間かかるのかしら」
「ああ、それは……」
 神子は居心地が悪そうに湯呑を口につけて、中身を口に入れず置く動作を数度繰り返した。
「まあ君に隠し事はできまい。実のところ、丹を作るの自体はそんな時間はかからないんだ。素人でも季節が巡るまでには完成させられる。昔、魔理沙殿が作ったことがあるという話を本人から聞いたよ。もっとも大きくなりすぎて飲めなかったらしいがね。つまりは難易度もそんなに高くないし馬鹿みたいに手間がかかるものでもないから、我々なら一週間もあれば」
「じゃあトシさんはもう喋れてないとおかしいじゃないの」
「君にしては察しが悪いな。期限は『丹ができるまで』だ。『丹ができるのに相当する期間』じゃない。作り始めなければ完成しない」
 神子が歪んだ笑みを浮かべるのを見て、聖は眉をしかめた。
「修行を完遂させてあげるつもりはないの?」
 道理としてはこれは一種の内政干渉である。道士が里の人間を一人仙人にするしないは命蓮寺の管轄外だ。勢力争いという意味ならば仙人にならない方が望ましくすらある。が、道義として口を挟まずにはいられなかった。完遂しえない修行を課すのは拷問だ。
「正直に答えるならば、完遂する可能性はかなり低いと思っている。君の哲学では理解しえないだろうな。君達仏教徒は全てを救おうとするが、我々道士は全ての人を超人にしようとは毛頭思っていない。猫も杓子も超人になってしまったらそれは悪夢だ。純粋に確率として……」
「貴方なら確率じゃなくてそれぞれの素質を見て仙人になれるならないが判断できるでしょうに。仙人になれる人だけ採用すればいいじゃない」
「最初から『お前は仙人にはなれない』と言って納得するような奴はそもそもこの門を潜らないよ。夢を見果てさせることもうちの大事な役割だ。それに言ったろ? 全ての人に道は開かれているべきなんだ。我々は結果の平等を保証できないから機会の平等を与えている」
 神子は自分とは哲学が全く違うが、違うなりに筋は通っていると聖は思った。ただそれ以上に神子の感情に何か憂いというか迷いというか、そういうのがあるような気がしてならず、筋が通っているという論理の話よりも感情の方を原因として、聖は神子を怒る気にはならなかった。
 二人は沈黙した。時計の針が刻む音のみがこの場所の時間を進めている。
「……トシさんは、普通の里の人ではないように思えます」
「……まあ、特別扱いしてるのに他と変わらないとは言えないな。ただ、プライバシーの問題でもあるからね。私から教えられることは何もない」
 二人はどうにかして口を開いたが、結局すぐに時計以外の時間が止まる状態に戻ってしまった。時間と質量には関係があり、時間の流れが遅くなれば遅くなるほど質量は増加していくらしい。止まった時間の中で二人の空間は無限に重くなり、ついに時計が何時かの鐘を鳴らしたときには到底居続けることのできる環境ではなくなっていた。





 聖は里で用事を済ますついでにトシが仙人を志す前にどういう暮らしをしていたのか追うようになった。聖自身そういうことを自分がするということに驚いていた。そういう他人の素行を裏で調べる探偵紛いのことは好みではない。好みでもないからノウハウも分かっていなく調査はかなり難航した。そもそもこれをするまで里の人間は皆互いに知り合いで任意の人に聞けば分かるものだと思い込んでいたというくらいの無知だった。里は少女が上空を駆け回るには狭いが、全人口と交友関係を結ぶには広過ぎる場所だったらしい。
 逆に言うと、自分の主義に反することでもやらずにはいられないほど、聖自身の考えとしては使命感に、辛辣かつ客観的な見方では出歯亀根性に駆られていた。何かと理由をつけてはトシのことについて聞くことに時間を費やし、本末転倒なことだがそれで寺にいる時間が多少短くなってしまうということには全く頓着しなかった。
 そうした聖の努力は少し意外なところで成果を結んだ。
「頼まれたってあんたのところに戻るつもりはないよ」
 茶屋でその女はそう吐き捨てた。聖からわざと目線も体の向きも逸らしていてよっぽど会いたくないという風を漂わせている。
「今回は説得でも勧誘でもないですよ」
「説得とか勧誘のときがあるってことじゃんそれ」
「そんなに邪険にしなくてもいいじゃないですか。私は貴方の仏性に期待しているのです。現に嫌そうにしながらもこうして来てくれている」
「それはお前が団子奢るって言ったから」
 彼女――疫病神ながら一時期は命蓮寺の一員、依神女苑――はブレスレットや指輪で体のあちこちを派手に光らせていたから、ごま団子の地味な黒色がそれと対比になっていた。
「あーあ。どうせなら鯨呑亭でご馳走になりたかったね」
「ふふふ。その心遣いがとてもありがたいのです、女苑さん」
 女苑が茶屋を交渉材料にしたのは、最初居酒屋を条件に提示したときの聖の顔がまるで捨てられた子犬かのようにあまりに物悲しく、さしものの疫病神も気が咎めたという事情があり、本当に心遣いといえば心遣いなのである。が、わざわざそれをはっきりと、気を遣わせた原因に言われるのは気恥ずかしいというか嫌悪というか、そういう気持ちになる。
「……ふんっ。とっとと本題に入りなさいよ」
 女苑は団子の串を煙草のように咥えて口をへの字に曲げた。
「では。トシさんという里の人間なんですが、お知り合いだったとのことで」
「私のせいじゃない」
「はい?」
 確かに疫病神と人間が知り合いならその関係性は十中八九「疫病神が人間に災厄を振りまいた」というのが道理ではある。が、あの仙人見習いに疫病神の気配は微塵も感じなかったので、女苑が容疑の否定というか罪を取り繕うかのような台詞を開口一番吐いたのは聖には素直に意外だった。
「だからあいつがあんな目に遭った直接の原因は私じゃないんだって。確かに間接的には遠因なのかもしれないけれど、それは桶屋が儲かったのは風が吹いたからって言うようなもので」
「あんな目ってどんな目なんです?」
「……えっ、知らないの?」
「知らないですね。そもそも神霊廟の人達以外でトシさんを知ってる人に会ったのが今回が初めてです」
「あんたってさ、意外と世間知らずだよね」
 女苑はため息をついて、体の向きを少し聖側に回した。
「あいつ、元々はいいところの娘だったのよ。ただ父親が相当なボンクラでねえ。憑かれるべくして疫病神に憑かれたって感じ。たちまち家は零落して」
「……その後に『あんな目』が起きたんですよね? やっぱり貴方が原因じゃないです?」
「そそっかしいなあ。だから私は桶屋が儲かる話の風の部分なんだって。鼠じゃない。人の話は最後まで聞きなさいよ、って説教を私があんたにすることになるとはね」
「すみません」
 聖が本当に申し訳なさそうに頭を下げるのを見て女苑は少し上機嫌になった。
「どこまで話したっけな……。ああ、家が零落したところね。ただあいつの母親の方が賢明で、本当の本当に無一文になる前にクズの夫に見切りをつけて娘を連れて家を出てったのさ。あっちの二人は疫病神の器じゃなかったからね、世間一般の考え方では褒め言葉だよ、これは。ということで、私はこの後のことには関与してない」
「知ってはいる、という口ぶりですね」
「まあね。二人は里の中では中の下か下の上って感じの暮らしを送った。贅沢はできないけれど普通に生きていくには問題なくできるって水準。娘、つまりトシの方は寺子屋を卒業すると同時にどっかの店に丁稚奉公に出た。ここじゃあそんなに珍しいことじゃない、でしょ?」
「そうですね」
「このままの日常に満足してりゃよかっただろうに。ある日、トシが宝石店で指輪だったかネックレスだったか、まあとにかくそういうのを盗んだんだ。ということを私が知ってる時点でお察しってもんだがすぐにバレたよね。たちまち袋叩きさ。あんた意外と世間知らずだからこの機会に教えてやるけど、この里、国家権力だとかギチギチな刑法だとかみたいなのが存在しない代わりに私刑が結構えげつないんだ。さらに悪いことには事件を知った母親が『そんなのうちの子じゃありません!!』ってヒステリー起こしちゃってね。……あー、『気持ち関係なく母親は母親であるべきじゃないですか』みたいな顔あんたはしてるがね、親が絶縁を宣言した時点で通っちゃうんだよ、ここの慣習では。それに丁稚に出てるわけだから独り立ちして生活能力や判断能力があるともみなされる。その後の行方は誰も知らなかったんだけれど、仙人見習いねえ。よほど世を儚んだのかしら」
 女苑は頬杖をついていた。
「なるほど。しかしそれほどの事件があったのに誰も彼女のことを知らなかったというのはどういうことでしょう?」
「人の噂も七十五日ってやつさね。あたしら人外には分かんない時間感覚だけどさ、人は死なないそこそこ程度の事件が起きたとして、数カ月もすれば犯人の名前なんて誰も覚えちゃいないのよ。『トシさんについて何かご存知ですか』って聞いても空振り三振さ。逆に『前に起きた宝石泥棒事件の話なんですが』って聞けたらもうちょっと覚えてる人もいただろうけれども」
「名前だけ知ってて人となりを全く知らない状態だったのでそれは無理でしたね」
 聖はため息をついた。
「まあおかげさまでだいぶ分かってきました。あとはご両親さんからも話を聞いてみたいのですが……」
「部外者が首突っ込んだって碌なことにならないよ。私は碌なことにさせない側だから自信をもって忠告できる」
「だとしても誰かはこれをやらなければならないのです。冷たい言い方ですが、トシさんが仙人になれるとは私にはとても思えません。仙人になれず里に戻ってくるとして、里に居場所が絶対に必要です」
 聖が鼻息荒く熱弁するのを聞いて、女苑は目を閉じて首を横に振った。
「はぁーーー。あんたはそういうやつだったわねえ……。死ぬほどお節介。ただどっちにしろ、少なくとも父親の方はやめときな。もう息をするだけの抜け殻だよあいつは。北の地区で乞食をしてるんだがね、ただ筵の上に座ってるだけでなーにも反応しちゃくれない。私のことを覚えてるかどうかすらもう分かんないね。時折割れた椀の中に入れられたものを口に入れるんだ。それで今まで生きているのが里の人の優しささね。それなりに長く生きてきたつもりだけれど、姉さんより哀れな人を見たのは流石に初めて」
「それは流石に貴方のせいでは……。まあいいでしょう」
 仏教的には何一つよくないのだが、疫病神とはそういうものというのが自然の摂理ではあるし、今は情報を聞く場だからその目的のためには説教の機会を一度逃すべきだという打算めいた分別もあった。魔界から出てだいぶ経ち、聖も世間知らずとはいえども結構俗世には染まっていた。
「お母さんの方は今どこに?」
 女苑が請求書の裏面に地図を書こうとしたのを聖は制止した。
「こちらに」
 聖は手持ちの紙を渡した。女苑が寺にいた頃似たことをされて身に覚えのない請求が生えたことがあった。そのときはお金の代わりに拳骨と説教を返したが、今は部外者になってしまったのでそういうのは世間体としてやり辛くなり、トラブルを未然に防ぐという方で対応するしかない。
「……ほいよ」
 女苑も女苑で、そう簡単にこの尼僧から金を巻き上げることができるとは思っていない。紙を渡されたときに、その堅物さに内心少し安堵したところすらある。彼女は聖に手書き地図を渡すと自分のすべきことは終わったと言わんばかりに、地図への聖の反応を目視することもなく席を立った。店で食べた分に加えて、持ち帰りの団子二本の代金も聖に押しつけて。





 女苑の手描き地図でも強調されていた特徴だったが、トシの母親の今の家は、家と家の間にむりやりねじ込んだような、はっきり言ってしまえば長屋を除けばもっとも下層の階級が住むような狭い家だった。
 聖は「ごめんください」と入り口から声をかけた。
「はーい」
 女性が扉を開けた。土間を上がったところには、直前まで竹ひごのようなものを編んでいたらしき跡が見える。夫と別れた後はそうやって生計を立てていたのだろう。完成したものが壁際に積まれているが、少なくともぱっと見では素人作りのものではない普通に店に陳列されているくらいの品質で、ある程度長くこの内職をし続けていたというのがうかがえる。
「あら、命蓮寺の。娘と縁日に行ったときに一度お見かけしました。寺の住職さんですよね? 」
「そうです」
「お越しいただいたところ悪いのですが、もし宗教の勧誘であればちょっと……」
「ああいえそういうのではありません。その、娘さんについてなのですが……」
 聖が話題を切り出したので母親は流石に警戒を強め、じっと目を見つめた。一分ほどそうしてトシの母親は納得したのか重い口を開いた。
「どうぞこちらに」
 聖は促されて家に入り、土間と座敷の間の(へり)
に用意してくれた座布団に腰掛けた。
 失礼な表現かもしれないが、思ったよりも若いな、と聖は思った。近づいて顔を眺めたときに小皺一つないとは言わないが、もっと老けた顔だとか、髪に白髪が交じっているとか、そういうのを想像していた。ただ確かに、トシの年齢が十代後半くらいとして、その親ならこのくらいかと常識を今の人間に合わせれば納得はする。
「行方知れずになっていましたが、もしかしてそちらで保護を?」
「ではありません。詳しく話そうとすると少々込み入った話になってしまうのですが、その前にいくらかはっきりとさせておきたいことがあるのです。単刀直入に、もしトシさんが戻ってきたとして同居を望みますか?」
「そうした方がいいんでしょうね……」
「いえ、必ずしも同居すべきとは私は思っていません。目的は貴方とトシさんの双方が幸せに生きる最善の道を探ることであり、別居を続けるのをお互い望むのであればそれもまた正しい選択でしょう。我々の寺でも、一時は寝食を共にしながらも結局寺を出ていくことになった者がいます。それがお釈迦様のお導きなのであれば仕方のないこと……。確かに、私はこのことについて正しい判断だったのか今なお悩んでいます。貴方もトシさんについて同じことを思っておられるかもしれません。そうであるならば、同じ悩みを持つ者として寄り添うことはできます。ですので、今の時点での率直な考えをお聞きしたい」
「なるほど……」
 母親は俯いて考え込み、苦悶の表情を浮かべた。
「夢を、見たのです」
「夢を?」
「真っ黒な空間でトシと対面していて、トシの背後には赤い巨大な椅子があり赤ら顔の閻魔大王が座っていました。私は獄卒に体中を鞭で打たれていました。率直にいって、嫌な夢でした。夢なのに痛みがあって、痛みに何度も叫んだのに痛みですら自分の声ですら目が覚めてくれないんです。肌が裂けて、肌の下の肉が裂けて、肉の下の骨がところどころ見えるくらいにまで打たれてようやく鞭打ちが終わりました。それで、閻魔大王がこう言ったんです。『この者はまだ口を開かぬのか』と。私は何が何だか分からないままトシの方を見ました。何か声をかけようとしたのですが、痛みと叫んで喉が涸れたのとで意味のある言葉を言うことはできませんでした。そしてあの子は私の方を見つめたまま黙り続け、それで夢は終わりました」
 母親は嗚咽した。
「私はあのとき、あの子が盗みを働いてしまったときです、あのときになんて酷いことを言ってしまったのだろうととても後悔しました。もしあのときもっと優しく接してあげたら結果は変わっていた、いや、そもそもあんな夢を見ることもなかったのでしょう。でも、してしまったことはもう取り返しがつかないんです。あの夢は私への罰なんだと思います」
 聖は彼女にかける言葉を考えたが、一旦は何も言わずただ肩をさすることのみを選んだ。
「『込み入った話』、というのは、トシは戻ってこない可能性が高いということなのでしょう? 夢であの子の目を見たとき、私は彼女に軽蔑されてしかるべきだと思っていました。しかし、あのときの目は、恐怖や悲しみが一割ありつつも、九割は何かを覚悟していた目でした。私には分からないのですが、何かを課せられていて、それ故に喋ることを許されない、声を発しないことを決断したのではないでしょうか。住職さんがおっしゃるように未来を二人の決断が決めるのだとして、トシがそれを選んだのであれば私には止める権利はありません」
「……仰るとおり、今の時点でトシさんがこちらに戻ることはないでしょう。実のところ、私の見立てではトシさんは近いうちに今の暮らしを諦めて里に戻ってくると思っていたのですが、私なんかよりよほどトシさんのことをご存知である貴方がそう考えているのならば、そちらが正しいのだと思います」
 聖とトシの母は互いに見つめ合う。母はもう泣いてはいなく、その目には覚悟があった。彼女が夢で見たトシの目もこういうものだったのかもしれない。
「しかし、彼女が家の敷居を再び跨ぐかどうかというのは、一とゼロの問題でもないのです。きっかけこそ決して良いものとは言えなかったかもしれませんが、これは娘さんの門出だったと捉えることもできます。であるならば、このまま別居をするにせよ、年末年始、盆、どちらかの誕生日、そういう特別の日に帰省するというのだってあり得るのです。貴方が望めばですが」
「当たり前ですが、望みます」
 母親は強く頷いた。
「分かりました。一つお教えすると、トシさんは五体満足で生きていて、なのであとは純粋にトシさんがどういう生き方を選ぶかです。結果どうなるかは私にも分かりませんが、もしここに戻る未来をトシさんが選んだならば私の方からも」
 聖は正座をして深々と頭を下げた。
「いえいえ、むしろ私の方こそ」
「……それで、話は少し変わるのですが、若干引っかかるところがあるので一つお聞きしたいのです。貴方が夢で見た閻魔大王なのですが、どういう格好でした?」
「いかにも閻魔大王って感じの閻魔大王です。赤ら顔で髭が生えた大男で、橙色の和服に『王』と前に書かれた帽子」
「……ほう?」





 幻想郷の閻魔大王は二人いて、里によく現れる方の閻魔は細身の女性で一目見たときの色合いは青か緑だ(服が青っぽく髪が緑髪である)。トシの母親が夢に見た閻魔大王とは全く特徴が異なる。ではもう一人の方なのかというと、映姫の服の青とは制服の青なのだから、本物の閻魔を夢に見たのならば、どちらにせよ「青だった」という証言になるべきなのだ。
 だから本当に地獄で責め苦を受けたというのではなく(幻想郷の閻魔の司法に鞭打ちはない、というのもこの事実を裏付けている)、幻術か夢への干渉かいずれかと予想された。そしておそらくトシも視点以外全く同じ夢を母親と同日に見ていたはずで、二人ないし片方にそれを見せる能力と動機がある者が犯人ということになる。
 正直なところ、聖は神子を若干軽蔑せざるを得なかった。子に親が責め苦に苛まれる姿を幻術とはいえ見せつけて、それを見ても声を発するなと強要するという外道の極みをしでかしたのだから当然だ。むしろ軽蔑の度合いが「若干」で留まったのが、それが聖の信念と真っ向から対立することを考えればあまりに甘いのだが、それは一つには神子に対してまだ何か信頼するところが聖にあったからであり(ただ、この「何か」が何だというのは聖自身にも分からなかった)、一つにはトシの側が、この真っ当な倫理から完全に外れた修行を受け入れていた節が、母親の証言を信ずるならば、あったからである。
 トシは本気で俗世の論理を捨てて仙人の道に進むことを決心したのかもしれない。修行を続けている以上聖は仙界を訪れるたびにトシと遭遇はするのだが、修行を続けていて喋らないのでどうにも真意は測りかねた。
 神子は。
「確かに、それをしたのは私だよ」
 トシの母親に会ってから最初の会合で聖が半ば詰(なじ)るように聞くとあっさりと認めた。
「仏教に仏教の道理があるように道教には道教の道理があるのだ」
「親子の愛というのは宗教や人妖を超えた普遍的な真理だと思うのだけれど?」
「絶対ではない。むしろ『親子は愛し合うべきものである』というのが枷になって破滅する場合だってある。お前だってそういう家も見てきただろ?」
「トシさんのところはそういう家庭ではありません!!」
「苦行と同じだ。そもそも何も心が動かされない、簡単に抗えるものだったらする意味がない。親子の愛は決して普遍的ではないという意味でお前の考えは間違っているが、少なくとも彼女らのところにはあるという意味では確かにお前は正しい。私だって、そんなことは分かっていた」
 聖は神子の顔を見た。よく見る表情だった。神子の、ではなく悩みを聖に話す弟子や檀家の表情として、だが。
「分かっていたはずなんだ……」
 本気で悩みを抱えている者の常として、神子は悩みなどないかのように自分に言い聞かせている。その様子があまりに痛々しく聖は怒りが失せた。
「神子……」
「私は人の欲望など手に取るように分かる。だから私は、トシはあの時声を出して修行は失敗するだろうと予想していた。また残酷な言い方を繰り返すが、ふるいにかけて落とすのが我々の本質なのだ。だが、そうはならなかった。あいつは親への愛故に親に迷惑をかけまいと無言で親を見捨てることを選んだ」
「神子のしたことは是か非かで言えばやはり非だと私は思うけれど、それはそれとして決断をしたのはトシさんよ。神子が変に責任を感じる必要はない」
「いや、責任はある。今までここの道士はなるべくして道士になった。私にしろ布都にしろ。屠自古は厳密には道士ではないがそれが布都の介入があったからということが、逆説的に自然には道士になるべき存在だったというのを証明している。だがトシは、本来そうなることはなかった道士になりつつある。丸い鍵を成形して四角い鍵穴に嵌るようにしてしまった。私が修行の仕方を他の見習いにするのと同じものにしていたら起こらなかったことだ」
「変な言い方になるけれど、トシさんを門番にして仏教への敵意を焚きつけたとして、私に殴りかかってくることはなかったと思う」
「本当に変な言い方だな」
 ただ、聖のいささか冗談めかした言い回しで神子の肩の荷が少し下りたのも事実のようだった。
「トシさんには道士になる素質があったのではなくて?」
「私もそう思い始めていたところだ。そう思うしかないというところに至ってしまったというべきか。もうしばらく様子を見て口を開く様子がなければ丹を作ろうと考えている」
 神子はため息をついた。
「敵対勢力の長がこんなことを言うのはおかしいんだけれどさ、折角仲間が増えるんだからもうちょっとめでたそうにしないと」
「部外者には分からないだろうが厄介なんだよこれは。ほとんど事故というのもあるしそれに」
「それに?」
「あの日以来、トシから一切の欲が聞こえてこないのだ。どちらかというと君のところの方が向いてるんじゃないかとすら思いたくなる。仏教なら一種の悟りだろうが、道教だと進歩の意志すら見せない抜け殻だ。かといってその状態で俗世に返すわけにもいかないしなあ」





 神子の苦悩もどこ吹く風とばかりにトシは口を閉じ続けたらしく、特に何かが変わることもなかった。おそらく神子は丹を作っただろう。仙人になればトシも口を開くだろうから、そうなったら親子のよりを戻さないかと働きかけるか。いや、仙人になってしまったのならトシの側には里に戻る義理はいよいよないのだから、親子再開しろというのは過度な介入になるのではないか?
 と、聖が考え始めたところで事態は急転した。聖がトシを初めて見かけてから季節が三つ変わった頃である。里のあちこちで梅のつぼみが膨らんでいた。
「あっ、聖さん。太子様は奥の部屋でお待ちです」
 いつものように聖が会合に赴くと(そしていつものように門番に戦いを挑まれたが、今回はこれは重要なことではあるまい)、和服を着た少女に話しかけられた。ここの人達は皆基本道士服なので嫌でも目立つ。
「ありがとうございます」
 聖は軽く会釈して三歩進み、そこで長いものを投げつけられた猫のように肩を跳ね上げて後ろを振り返った。服に気を取られていたが、あの人はトシさんではなかったか!?

「びっくりしたわよ」
「お前はトシの声を聞くのは初めてだったろうな。それで服まで違うのでは最初気がつかないのも無理はない」
「彼女が声を出してるってことは一区切りついたのね。結果がどちらだったのかはともかくとして」
「ああ。修行は失敗だ。残念ながらね」
 と言う神子の表情はここ約一年の中で一番晴れ晴れとしていた。
「丹は作ったんだがね。丹を作ったことを伝える前に、道教の基礎を教えようと、天球図の星空を見せたんだ。こういうときに見せる天球図は特別仕様でね。中に人が入って内側から星空を見上げるんだが、それを見たあいつは息を呑んで一言『ああ』と。随分とまああっけない幕切れだったよ。もっとも一気に彼女の内面から欲望が噴出してきてそれはやかましいことこの上なかったのだがね」
「感動も欲のうちなのね」
「もっと味わいたいという執着でもあるし、あのときの場合は知識欲という欲でもあったな。高みを目指すのならあったほうがいい欲だ。皮肉にも、仙人になれなくなってからの方が仙人への適性が高くなってしまったな。ま、条件は条件だから諦めてもらうより他ないのだが」
「前々から気になってたんだけれど」
「何だ?」
「もうちょっと甘くてもいいというか、チャンスが何回かあってもよくない?」
「私がそうしたら、お前のところの信者は間違いなく減るがそれでもいいのか?」
 神子がきょとんとした顔をするのを見て聖は息を吐いた。
「それはよくない、というのと商売敵ながら気になるというのは両立するでしょ。欲が聞こえるんだからそのくらいの意図は読んでよ」
「読もうが読まないがそういうことを聞かれたときの答えは決まっててね、『皆が皆超人の社会は悪夢ではないか』だ。門は狭くあるべき。別の文脈でなら君にも何度も言ったことだが」
 神子はきっぱりとそう断言したが、聖は不満なときの方の無言で答えた。聖は神子が本心の一部を隠しているというのに気がついているし、神子は聖が気がついていることに気がついている。
「……と凡人には答えるんだがねえ、君には腹を割って話してもいいか」
 神子は部屋の中を見渡して二人だけであることをもう一度確認した。
「君は、ここの人達のことをどう思う?」
「どうって、仙人とその見習い達……?」
「仙人になってない奴らは除外しよう。今回の問いの範囲は私、布都、屠自古、あと青娥殿」
「だとしても仙人達、屠自古さんは仙人ではないってのがあるけれも」
「じゃあもっと単刀直入に、私達は善人だと思うか、それとも悪人だと思うか?」
「……貴方達には貴方達なりの正義があると思うわよ」
「気を遣わなくてもよろしい。布都や青娥はあからさまだが、屠自古だって根が善性ならばところ構わず雷を落とす怨霊に変じはしない。私の手も血に汚れているというのは史記にも書かれていることだから取り繕いはしない。人を殺したことがある奴なんてのはごまんといるが、一族を根絶やしにしたことがある人は稀だ」
「一人を殺せば犯罪者だが、百人を殺せば英雄になる」
「心がこもってない言い方で逆に安心したよ。仏教なら不殺生戒だからね。人数の問題じゃないしそもそも種族関係なく生き物を殺すな、が君等の正義。君はそれでいいんだ。社会はもうちょっと殺しに寛容で、害虫や食用の家畜なんかは殺してもいいことになってる。殺して駄目なのは人と、愛玩動物もかな。その基準ですら私はアウトなわけ。私が尸解に際して布都みたいに他人の依代をすり替えなかったのは、そうすべき人を尸解より前に全員排除してたからにすぎないのだよ」
「自虐しているようだけれど、神子達の場合、飛鳥という時代背景がそうさせたのではなくて?」
「自虐のつもりはないんだがね。そして『そうさせた』というのがあるならば、それは時代ではなくて社会的地位の方だ。あの時代に限らず政治権力の倫理は世間一般より血みどろだ。大抵の場合は政治が一般社会の中に住んでるから社会の物差しで政治が測られて色々おかしなことになるのだが、超人は俗世から隔絶されることでこの問題を解決している」
 神子の声はこの話題になってからずっと低い。しかもトシが修行に失敗したことに起因するらしき上機嫌はそのままなので、いよいよ魔王のように見える。
「ここは監獄だ」
「ああ、なんとなく言わんとすることは分かった。世間一般の道徳にそぐわない人達を俗世から隔離する場所という役割があるから、『無実の人』を置いとくわけにはいかないと」
「あと『刑期満了』もな。トシ殿は刑期を終えた。看守のお墨付きだ。もうここはあいつにとってはいるべき場所ではない」
「仙界は監獄じゃないと思うけれどね。だって更生を目的には全然してないじゃん。どっちかというと私のところの方が監獄。人妖が共存する幻想郷という場所に馴染めない妖怪を入門させて社会で生きるための教えを説いている」
「じゃあ無期刑の囚人を収監しておく場所。更生の余地がある者がいる場所とそうでない者がいる場所を指す語彙にそれぞれ区別がなくどっちも『監獄』で『刑務所』なのが悪い。私のせいじゃない。ただどっちにしろ」
 仙界の看守は命蓮寺の看守を見つめた。
「トシが行くべき場所は娑婆だ。私が手を引いたからって勧誘しようとはするなよ?」
「心配しなくてもうちに入門することはないだろうな、とは分かってるわ」
「分かってればいい。それはそれとして今日トシが里に戻るときにお前に同行してもらおうと思ってたところでな。一人というのも心細かろうが私達も忙しいもので。帰るときにあいつを連れてってもらえぬかな?」
「当然」
 聖も散々首を突っ込んだのだからそのくらいはする責務があると思っていたところだった。
「あともう一つ頼みがあってね。ちょっと待っててもらえるか?」
 そう言って神子は部屋を出た。待つのは得意なので待てはするが、頼みとは何かが分からない。物を取りにいった風だったので里の人に渡したいものでもあるのだろうか? ただ、だとしたら部外者どころか競合他社の自分に頼む意味が分からない。
 聖が頭に疑問符を浮かべていると、神子が白い箱を持って戻ってきた。箱の隙間から白い煙が漏れ出ていて、紙製の玉手箱のようにも見える。
「折角作ったのに使われなかったのでね。このまま捨てるのも勿体ないから代わりに食べてくれないか?」
「……。一応聞くのだけれど、箱の中身は何?」
「丹っていうものだが」
「だ・め・で・す!!」





「何事かと思いましたよ。廊下を歩いてたら怒鳴り声が聞こえて鐘をつくような音が聞こえたんですから。あれ何ついてたんです? 鐘? それとも頭?」
「えー!? 防音じゃなかったんですかあの部屋」
「防音なはずなんですがねえ……」
 神子が聖に丹を勧めたときトシはたまたま近くを通りがかっていたらしく、トシと合流して帰路についた聖はまずそのことを弁明せねばならなかった。
「でもあれは神子が悪いんです。異教の指導者に丹を食わせようとするのがまず悪いのに、『自分達は終身刑の罪人なのだ』って前振りをしてから私をそっち側に引き込もうとしたんですよ。私が罪人だって言ってるようなものじゃないですか。そりゃまあ外道に手を染めはしましたけれども」
 聖は口を尖らせた。
「根はいい人なんですよ」
「知ってます。知ってますが、冗談といえども時と場合はわきまえてもらわないと。てーぴーおーってやつです」
「TPOです? それより太子様は大丈夫なんですか? 察してないふりしてましたけれど、脳天に一撃入れましたよね?」
「不殺生戒は守ってますよ。あれは峰打ちです」
 殴りの峰打ちというのがトシには分からない。一生分からない方が幸せだろうというのは分かった。
「本当、お手柔らかに頼みますよ。私、あの人のおかげで変われたのですから」
「仙界にはそれなりに長くいたそうですからねえ。結局、一年と少しいたということでいいのかしら」
「そうですね。大半が喋らない修行だったので一年くらい黙ってたことになりますが、意外と話し方って覚えているものですね」
「意地悪に聞こえるかもしれないけれど、一年社会にいなかったことに後悔はなかったのですか? 人生の一年、それも十代の多感な時期に声を発しないことを修行で強いられた」
「そうですね……」
 トシは立ち止まって少し考え込んだ。
「逆だと思います」
「逆?」
「聖さんは多感な時期に勿体ないって思ってるのかもしれませんが、それが逆なのです。少し前の私には感受性が欠けていた。だからなんでしょうね、あの修行、多分かなり惜しいところまでいってたんじゃないかと思います。さっき太子様ともその話も?」
 聖は改めて説明した。丹は実は完成していて、それを知らせる直前の神子の行動がきっかけになってついに貴方は喋ってしまったのだと。奇跡的にと言うべきか、食わされかけたのはその丹なのですよという結びつきはトシは気がつかなかったようなので、それは教えずに済んだが。
「ですよね」
「終わった後なので言えることですけれど、忍耐力あるなあとは見ていて思いました。耐えるってのが辛いことなので辛そうだなとも思ってましたけれども」
「確かに使命感もありました。絶対にこのクソみたいな俗世なんて捨ててやるんだって。ただ感情に何か欠けてるところも元々あったのです。地獄で母が責め苦に遭っているのを見たときにそれに気がつきました。母親が酷い仕打ちを受けていることへの悲しみが、沈黙を続けることの使命感と釣り合うくらいに薄い。使命感が悲しみと同じくらい強かったのではなく、その逆だったのです。想像されてるよりも苦痛ではなかったんです」
「それは……可哀想に」
「そういう感情もなかったんですよ。元々あるものを失ったという記憶の一つでも持ってたら違うのかもしれませんが、最初からなかったらないのが普通になる。自分が不憫だとは全く思わずにただ淡々と日々を重ねていました」
 トシは空を見上げた。雲一つない快晴である。
「太子様に天について教えてもらったとき、そういう日々は終わりました。多分、道教の理念か何かの話だったと思います。失礼な話ですが、内容自体はほとんど覚えていないのですが」
「あの人の話はそんなに分かりづらいものだった?」
「いえ。多分いつもと同じように、かみ砕いた簡単な説明だったはずです。ただそのときの私は、『世界にはこんなに美しいものがあるんだ』『美しいものを素直に美しいと思っていいんだ』という気持ちで一杯になってしまって。感情は溢れて、ついに声になりました。修行はそれでおしまい」
「なるほど……」
 聖は唸った。仏教の修行は感情や欲というものを自制していく殺していくという方向でなされることが多い。道教の修行もある分野では同じ方向のものがあるようで、だから「声を出さない」が修行として成立していた。が、場合によっては感情をむき出しにしていくことが救いになることもあるようだ。
「しかし、貴方は宝石店で物を盗んだという話も聞きました。それを擁護するというわけではありませんが、美しいものを美しいと思う気持ちは元々あったのでは?」
「あれこそが私の感情が欠けていたことの証左だと思います。みんな宝石とかガラス玉とかを身に着けたがるけれど、私には何がいいのかが分からなかった」
「あ、その気持ちはよく分かります」
「いや、聖さんが思ってるのとは違うかな。そういうのを否定するというのではなく、なんだろう、何かよく分からないけれど、もしかしたら心の穴がそれで埋まるのかもしれないと試したくなった。試すにもお金はないから盗んで試すしかなくて、でも試しても心の穴はさっぱり埋まらなかったしむしろ広くなった」
 トシはもう一度空を見上げた。
「今なら分かるかもしれません。自然の美しさに比べたらあんなものなんて気取ったことを言うつもりはないですよ。星が美しいように、青空が美しいように、今日は見えませんが雲が多分美しいように、宝石やガラスもきっと美しい。まあ相変わらず試すにはお金がないんですけれど。今度は真面目に働いて買うことを目標にしようと思ってます」
「それはいいことですね」
「もっと早く自分の感情に素直になれればよかったんですけれどね。元の質問の話に戻るんですけれど、一年くらい俗世から離れていたことへの後悔はないんですけれど、地獄で母親に声をかけられなかったことは後悔してます。本来ならそこで修行を失敗させるべきだったのでしょうから」
「そう、なのかもしれません。でも悩みながら過ちながらも自分の判断で今答えに至ってここにいるということは素晴らしいことだと思いますよ。それに、あれは悪い幻覚です。現実にはお母様は生きてるのですから十分取り返しはつく」
 気がつけば二人は里のある通り、トシの母の家が建っている近くにまで来ていた。
「お母さんのところに挨拶しましょうか」
「お気持ちはありがたいです。が、まだそのときではありません」
「えっ?」
 聖は困惑の色を浮かべた。明らかに親子が和解して丸く収まる流れではなかったか。
「その前にやることがあります。あの宝石店の店長さんにお詫びに行かないと」
 そう言って、トシは聖を置き去りにして颯爽とかけていった。納得をした聖は彼女の背中を見て微笑する。
 突風が通りを走るように吹いた。その風はほのかに梅の花の香りがした。
芥川龍之介『杜子春』には中国の伝奇小説『杜子春傳』という原作がありますが、この二つは結末もとい杜子春が修行失敗した際の老人の対応が異なっているという違いがあります。この差の意図は諸説ありますが、一説には『杜子春傳』の方が道教の価値観に基づいているのに対して『杜子春』の方は大乗仏教の考えに依拠しているからとも言われています。ひじみこですね
東ノ目
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コメント



0.150簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.90福哭傀のクロ削除
滅茶苦茶迷った結果どう考えても私が悪いという結論。話自体は仏教と道教の考え方の違い、トシを巡って聖が入れ込む理由とその行動へのスムーズさと説得力、そこから結論への持っていきかた、全部すごくきれいに纏まっている文章で凄くおもしろかった。
でもどうしてもトシの盗みの部分が自分の中で最後まで引っかかる。
物語上必要なことで、作者様が滅茶苦茶ヘイトコントロールに気を使ってそれを尽くしてるのもいろんなところから見て取れる。そもそもこの作品自体が更生の面が強い話だから、これ自体が必要な要素なのも滅茶苦茶わかる。だから読者として最後に私の中の潔癖症な部分が出て、ちょっと、うーんでもなぁ……っていうのが抜けなかった。私が悪い。でもすごく面白かったです。
3.100ローファル削除
(うろ覚えですが)求聞口授?で仙人は基本的に弟子を取っても小間使いのようにしか扱わないし仙術も積極的に教えることはない、旨の説明があったことを思い出しながら読んでいたのですがこの話の神子が語るように「平等に機会を与え夢を見果てさせることがひとつの目的」というのはすごく納得が出来ました。
面白かったです。
4.90名前が無い程度の能力削除
シニカルな三人称の語りの中、道教に生きる神子と仏教に生きる聖の違いを浮き彫りにしつつ、相容れない宗教観でありながら商売敵だと突き放しきらずにお互いどこか甘えにも似た信頼を寄せている様が見え隠れしているのが二人らしい関係でした。作中では欲望制御派の聖の方が感情を昂らせるように見え、欲望容認派の神子の方が冷静に見えるのは意図的なものでしょうか?心憎い。
オリキャラのトシはどこか感情や倫理の欠落した『常人らしからぬ』特質の持ち主ですが、冷酷非情な人間とまでは思えず『こういう人は確かにいるよな』と思わせるのがいい塩梅でした。地獄で責苦を受ける母の救済といえば盂蘭盆会の目連を思い出しますが、あれも仏教の恩愛の話ですから、今回トシが『釈放』された理由は確かに仏教的とは言い難く、ある種の道教的なものなのでしょう。仙人の素質を認められつつも道教には受け入れられず、かといって聖を頼って仏教徒になる道も選ばないのがトシの宗教観だなと思いました。芥川の杜子春の結末は日本人の好みに合いそうなアレンジだったのですね(ひょっとして『トシ』の名前は『杜子春』から来ているんでしょうか?)
どちらかといえば登場人物達の解釈はそこまで合いませんでしたが、杜子春と元ネタに触れるきっかけとなりましたし、興味深い話でした。ありがとうございます。
6.90名前が無い程度の能力削除
すごく道徳的で深い話だと思いました。杜子春は知ってましたが、作者さんのあとがきのことは初めて知りました!ためになりました!
色んな人物が登場してるのに、そのどの人物についても容姿や仕草だけでなく心理的にも細かく描写されていて読者を納得させる文章ってこういうものなんだって思いました!
話も面白く、特にトシはお話の中ですごく苦労したので、今後が幸多くあってほしいと思いました!
7.100のくた削除
いきなり聖の暴(正当防衛)で始まって笑いましたが、なるほどあの物語をこういう視点でと感心しました。面白かったです
8.100名前が無い程度の能力削除
よかったです。トシがある意味空虚さに適性があったからこそ導かれた物語なのだと思うと、俗っぽい価値観を持つ杜子春のアンチテーゼのようになっているとも感じました。その辺も含めて東方的だと感じます。
10.100南条削除
面白かったです
トシが結構しゃべると明るい感じで驚きました
娑婆に戻って最初にやることが謝りに行くというところに強さを感じました
握っている価値観が違うひじみこもお互いを認めているようで認めておらずそれでいて領分を弁えているようでとてもよかったです
なんだかんだ力があるからこそできることなのかもしれません