雨の日は客が来ないから好きだ。昨日の昼過ぎから降り続いていた雨は、今朝も止む気配がない。本日の予定が読書に確定した。お気に入りの湯飲みにお茶を入れて、いつもの椅子に腰かけて、借りていた本を読み進める。静かで、孤独で、有意義なひととき。ゆったりとした時間が流れていく中で、そろそろ腹の虫が鳴り出してきた頃、こちらの集中力を削いでいた雨音が徐々に弱まり、やがて聞こえなくなった。雨が降ったのだから読書をすると決めた手前、その雨が止んでしまったのなら別のことをすべきだ。仕方なく本日の予定を立て直すために本を閉じる。どうしたものかと、懐から取り出した手巻き煙草を咥えながら思案する。香霖堂は未だに開店中、雨が止んだのだから客が来るかもしれない。そんなことを考えながら、マッチを擦ると火がついてしまった。ならば仕方ない。諦めとともにゆっくりと煙を吐き出す。まるで人払いのように。これにて今日は店仕舞い。このひと時を邪魔する巫女や魔法使いがこの店を訪れる機会が減って、もう10年くらいになるだろうか。いや、逆かもしれない。彼女らと顔を合わせる機会が減ってから、こいつの楽しみ方を覚えたのだから。換気もせずに、登っていく煙をぼんやりと眺めて懐かしさに浸っていると、ふと暦が目に入る。
「……」
吸い始めたばかりの煙草を消して、机の引き出しを開ける。先ほどまで読んでいた本に栞を挟むのを忘れてしまったことに気付くが、大して面白くなかったのでもういいか。
「確かどこかに」
僕の店では物が溢れかえっている。これは道具屋という観点で見れば、価値あるものが多いという点でむしろ美徳であり、その大半を占める有用な物の位置については把握している。その上、清掃を怠っているわけではないので、汚部屋といった不名誉な括りに加えられることはない。たとえ探し物が見つからないとしても、それは僕の中で有用ではない、把握する必要がないと思っているからで何も問題がない。
「……あったあった」
何が使えるかわからないから、客のことはもちろん様々なことを記憶しておくに越したことがない。これは親父さんの教えであり、今でも僕は実践している。こうしてちゃんと思い出せるのだから、また1つ僕の正しさが証明されてしまったというわけだ。店内で1人、不敵に笑ったところで誰からも反応はない。それを寂しいとも思わない。僕は孤独を楽しめるから。さて、探し物は見つかってしまった。つまりは僕の思いつきを引き留める要因が、今のところは存在しない。それなら最後に、雨が降りそうなら諦めようと窓を開ける。空には虹が輝いている。久方ぶりにこんなに綺麗なものを見たかもしれない。誰かと語らうでもなく、写真や絵に残すでもなく、今この瞬間を切り取って記憶に刻みつけるように。ひとしきり眺めた後、諦めて出かける準備をすることにした。
♢
日が暮れ始めた頃に店を出て、目指すのは妖怪の山。基本的に通るのは舗装された、しかも何度か通ったことのある道なので特に問題はない。出発時間を遅らせたのは、口煩い鴉や煩わしい狼に見つかって、無駄な時間の浪費を避けるため。もちろん絡まれたところで、その対策は用意している。しかしこれも日ごろの行いのおかげだろう、目的地までは誰にも会うことなく到着できた。いや、少し語弊がある。目的地である山の麓にいた先客に絡まれた。
「おや?こんなところで会うとは奇遇だね」
暗くてよく見えないが、黒っぽい長髪に暗めのワンピース、その上に黒のマントを羽織った女性がいた。夜での闇でも目立つ深紅の瞳と、こちらに近づく度に聞こえるカランカランとなる靴音。天狗だ。いかにも『仕事できます』なんて雰囲気の利発そうな声が鼻につく。
「その口ぶりからして僕のことは知っているみたいだね。しかし申し訳ないことに、僕は君のことは知らない。自己紹介を願えるかな」
「たしかに会ったことはないな。しかしかれこれ10年以上前だとしても、巫女と魔女に深く関わりのあった人物を知らないほど、こちらは無知ではない。ふむ……だが名乗る必要もないだろう?」
こちらが敵意も悪意もないことを証明しようとするのを聞く気がないらしい。縄張り意識が高い天狗といえど、随分と好戦的に見える。
「待ってくれ。僕を知っているのなら、怪しいものじゃないこともわかるだろう?」
「知らなかったな。魔法の森で道具屋を営む半妖は怪しくないらしい」
自分の方が絶対に優位だとわかった上で、揶揄うような口調。安全圏から石を投げる楽しさを天狗という種族は知っている。堪忍袋を撫でられるような不快感。
「ならこれでどうだろうか」
「それは?」
懐から取り出したのは、昼間に探し出した書状。これはかつて、文からツケとしてもらった『妖怪の山への通行手形』。曰く、これがあれば、妖怪の山への侵入を咎められることはないらしい。受け取った彼女は書を検めた後、ガスライターで火をつけた。
「……」
「驚いてはいないんだな」
「文とは何度か接しているから、どういう人物なのかはわかっているつもりだ。これも役立つかもしれないとは思っていたけど、ただの落書きである可能性も考慮していたよ」
「聡明なことだ」
「火を借りても?」
懐から手巻煙草と取り出すと、燃える落書きで火をつけて、ゆっくりと味わう。とりあえず慌ててもどうにもならない。ましてや戦うなんて以ての外。落ち着いて生き残る術を考えるために、助からないときに最後の味を噛みしめるために。まずは一服。
「ここは妖怪の山、治外法権だということを説明しないといけない相手ではないだろう?そして何より個人的な事情だが、私は今日という日をとても楽しみにしていてね。だからたとえ名前しか知らなかった他人でも、排除するようなことで気分を害したくない。しかしそれ以上に、貴方が私の気分を害するのであれば、今すぐにでも排除したい。その上で聞きたい。ここに何をしに来た?」
どう返答するか迷ったが、ビリビリと感じる威圧感から迷ってる間に三途の川を渡っている可能性すら出てきた。そもそも自身の行動にやましいことはないんだ。取り繕った答えでも命を散らす可能性があるのなら、せめて正直な答えで死のう。半分は納得を優先し、残り半分は自棄になって。
「……星を見に」
「友よ」
正解を引いたらしい。嬉しそうな笑顔と共に友人認定されて、握手まで。商人としては信頼を勝ち取るスキルは非常に有用だが、今日は商人として来ているわけではない。
「私の周りには星の良さのわからないものばかりでね。貴方のような人、妖怪?……人でいいな。貴方のような人は珍しい」
「天狗なのだから同僚、いや部下だろうか。どちらにしても君には仲間がいるだろう。一緒に見る相手が欲しいなら、その子たちを誘えばいいんじゃないかな」
「私に合わせて思ってもいない世辞を言う部下や、星空より私に魅入られてる友人と見る星はつまらない。私は今日の流星群を楽しみにしてきた」
彼女は私と同じように煙管を取り出すと、落書きの燃えカスで火をつける。今まで喫煙する鴉天狗は何人か見たことがある。煙管は風の影響があるから、普通は外で吸うものじゃない。しかし風を操る彼女らは、むしろ自身の能力の誇示するためにそれを吸っている。結果として、天狗の煙管はその自己顕示欲の表れのような下品なものであることが多い。しかし彼女のそれは、黒塗りで質素な見た目の銀煙管、しかもペンを持つようにして吸う天狗は初めて見た。純粋に煙を味わい、自分の世界に浸るようなその吸い様には、花魁持ちする他の天狗達には決してない色気があった。僕は知っている。幻想郷で煙を好むやつに碌なのはいない。もちろん僕を除いての話だが。彼女は身なりと振舞いからもそれなりの身分を持っており、しかしながら碌でもない変わり者であることがこれまでの観察から分かった。それと同時に納得もいった。ここまで来るのに山の妖怪と顔を合わせなかったこと。僕自身の日頃の行いからくる幸運を加味しても、さすがに何かしらの作為を感じずにはいられなかった。おそらく今夜の流星群見物を邪魔されたくない彼女が、妖怪払いの命令を出したのだろう。
「おっと、邪魔をしてすまなかったな。星を見るのに灯りが厳禁なのは理解している。だから今だけだ。こうして夜空の下で吸うのが一番好きでね」
わかるだろう?と言いたげな視線を無視する。わからないから。僕は自分以外の世界を排除するために煙を味わう。そこに時間も場所も関係ない。孤独だけが煙を美味くする。
「わざわざこんなところまで星を見に来たということは、裸眼で見るわけではないんだろう?いや、何も通さずに見る星もまた美しいから、否定はしない。しかし、貴方は道具屋なのだから」
「……まあそうだね」
彼女の視線が僕の背負っている鞄に向く。逆にこちらは彼女の後ろに、既に設置してある天体望遠鏡をみる。先ほどのシンプルで、しかしながら煙を味わうために洗練された銀煙管と違って、こちらはごちゃごちゃといろんな機械や計器がついている。明らかにオーダーメイドで作らせた代物だ。大きくなりすぎているせいで、人類の持ち運べる代物ではなくなっている。河童あたりに欲しい機能を全部載せして作らせたのだろう。別ベクトルで彼女の星への面倒くさいまでの拘りを感じ取れる。正直言って関わりたくない。
♢
「星の楽しみ方は数多あるが、その中でも流星群の観測に限るのであれば、やはり三大流星群、『化猫座流星群』『雷座流星群』『天狐座流星群』だろう」
「そうだね」
「人間のいう三大流星群とは当然のことながら呼称も違うが、微妙に時期も違う。『化猫座流星群』は人間でいうところの『四分儀座流星群』だな。といっても四分儀座は全天88星座からは外されているから、あまりメジャーな星座ではないらしい。後付けかもしれないが猫というのは干支でもそうだが、選ばれない運命のあるのだろうか」
「偶然じゃないかな」
「『天狐座流星群』は『しし座流星群』のこと。これは紛れもなく天上にいる狐、『天つ狐』のことだろう。四つ足に見える星座が流星群の名を冠するならこれ以上ない選択のはずだが、いいところに名前を貰うのが猫と狐なあたり、星座の名付け親の贔屓が透けて見えるのは気のせいだろうか」
「気のせいだと思うよ」
「人間の三大流星群には『しし座流星群』の代わりに『ふたご座流星群』が入っているが、私達はそれを『管狐座流星群』と呼ぶ。狐が2匹は不格好ということでこちらが選ばれなかったのだろう。そして今夜私達が見るのは一年で最大の『雷座流星群』、所謂『ペルセウス座流星群』のこと。頭髪は無数のヘビ、イノシシの歯と青銅の手を持ち、黄金の翼を携えた化け物を倒したとされる英雄の名前と、猿の顔、狸の胴体、前後の肢は虎、尾は蛇の身体を持つ化物を倒した弓の名前から取っているという点では、なにかしらの共通しているという見方もある。しかし私は、空から落ちる無数の流れ星を雷に例えたという、意外とシンプルな理由ではないかと考えていてな」
「そうかもしれないね」
少し早く来過ぎたこともあって、流星群が降り始めるのを待つ間、彼女は延々と星に関する蘊蓄を語っている。迷惑なことこの上ない。相手の都合を考えずに一方的に話すことを会話とは言わない。これじゃあいくら有用な話であっても、聞いてもらうことはできないだろうと呆れるばかりだ。会話とは言葉のキャッチボールであり、相手を思いやるところから始まるといのに。とはいえ機嫌よく話しているところに水を差すならともかく、もうすぐ見ることのできる流星群を前に、興奮している彼女に油を注いて発火させることだけは避けたい。適当な相槌を打ちながら、水筒に入れてきた緑茶を味わう。
「気が合うな」
彼女も僕に倣って、鞄から魔法瓶を取り出す。そこから注がれる珈琲の香りはこちらに届くほどに濃厚で。
「珍しいね。天狗は酒を好むものと」
「花見で酒を飲むのとは違うんだ。私は星を酒の肴にしたいわけじゃない。主役はあくまで星だ。とはいえ星を見終えたら一杯だけ飲むつもりだけど」
取り出した酒瓶にはラベルもついていない。しかし、これだけ用意してきた彼女が、締めの一杯に適当なものを持ってくるはずもないだろうから、お気に入りなのだろう。どうでもいい。僕はお酒があまり好きではないから。
「杯は1つしか持ってきていないが、許してくれるな」
「いや、僕は」
「な?」
生殺与奪は握られているのだ。拒否権なんてなかった。とはいえ天狗の嗜む酒など飲めば、本当に死んでしまう恐れすらある。だからこれはわずかな抵抗。
「……少しだけなら」
「それでこそ」
僕はため息をつきながら立ち上がる。そろそろ流星群が始まる頃合いだ。目の前の本格的(というには度を超えて非常識)な天体望遠鏡を前に、非常に気が進まないが、仕方なく用意していたものを取り出す。随分と小さく見えるそれは相対的な話ではなく、実際に小型、子供用といっても差し支えないサイズ。しかも数十年前の旧型のもの。
「失礼ながらあまり設備は整っていないのだな。金回りが悪いのなら……」
「別にお金に困ってはいないよ」
「いや、悪い癖だな。忘れてくれ。それよりどうだ、せっかくならこちらのものを使ってみたくはないか?」
親切心で言っているのだろうと薄々は理解しているが、少し芽生えた嫉妬心がそれを拒む。
「そうすれば君が見れなくなるだろう?そこまでしてもらう義理はないよ」
「生憎とその心配はない。この天体望遠鏡はのぞき穴が複数用意されている。だから、他者と共有して同時に楽しむこともできる」
「なんだってそんな無駄な機能を」
「星の素晴らしさを布教するために。まあ結果はこの通りだ。もちろん、せっかく時間と金をかけて作らせた代物を、その価値の理解できる人物に自慢したいという気持ちもある」
「……そこまで言うのなら、お言葉に甘えるよ」
そこまで明け透けに言われてしまえば、逆に断るのは意地を張っているみたいで情けなくなる。それに、おそらく人生でこれほど馬鹿げた天体望遠鏡を使って星を見る機会はもうないだろう。道具屋としては興味がそそられるのも事実だ。僕は意地やプライドよりも利の取れる賢い人間だから。
「そろそろだな。一度覗いてみるがいい」
彼女に合わせて、反対側から僕も覗き込む。星空は今まで見てきたものとは比べ物にならないほど、鮮明で輝いて見える。星に特別興味がない僕が、思わず感嘆の声をあげてしまうほど。夜空に輝く星というのはこんなにも身近にあるのに、こんなにも美しいのかと思うほど。
「くるぞ」
彼女の声に合わせて流星群が流れ始める。夜空に線を引くように。そのほとんどをこの天体望遠鏡は捉えている。原理まではわからないが、確かに大したものだ。
「……」
あれだけ喧しく蘊蓄を垂れていた彼女は、いつの間にか静かになっていた。彼女は本当に星が好きで、星だけを見に来たのだ。本当にただそれだけのために。だからそのことだけに注力していた。僕もこの天体望遠鏡を通してみる流星群の美しさには、感動すら覚える。今なら少しだけ気持ちもわかる。だからこそ、邪魔にならないようにゆっくりと覗き穴から離れて、自分の用意した天体望遠鏡の元へ。そこから覗き込む流星群は、先ほどのものと比べるとぼやけてすら見えるような、しかし僕が見に来たものだった。
「……好みに合わなかったのだろうか」
少し流星群が落ち着いたころに、彼女が声をかけてきた。
「いいや、君の天体望遠鏡は素晴らしいものだと思うよ。星空を見てこんなに感動するとは思わなかった」
「だったら、そいつを通して見ている理由は聞いてもいいのか」
脅し、というわけではない。あれだけのもの、彼女の星への想いをつぎ込んで作られた天体望遠鏡よりも、この古びた子供用の望遠鏡を使う理由。それが純粋に知りたいといった様子で。
「……君は怒るかもしれないが、そもそもの話、僕も星が特別好きなわけじゃない」
「しかし、星を見に来たという言葉に嘘はなかった」
「僕はこの望遠鏡を通して星を見たかった。いや、星を通して、違うものが見たかったのかもしれない」
彼女らが大人になって、いつの間にか行われなくなった流星祈願会。無邪気に空を駆けることも減った彼女たちは、今もこの同じ空の下で、星を見ているのだろうか。あの頃と同じように。
「……なるほどな」
彼女は怒るでもなく、静かに僕の言葉を飲み込んで、そのままゆっくりと近づいてくる。
「私も、それで見せてもらっても構わないかだろうか」
「君のものと比べたら、玩具というのもおこがましい代物だよ」
「でも貴方はこちらの方がいいのだろう?」
「それは思い出ありきだ」
「いいから」
天狗という生き物は結局の所、どいつもこいつも強引だ。力で勝てるはずもないのだから、こちらは大人しく従うしかない。
「同好の士だと騙すつもりはなかった。しかし、誤解を生む言い方はしてしまったと思っている。そのことについては謝罪するよ」
「……光年という単位を知っているか」
玩具を通して星を眺めながら、彼女がゆっくりと告げる。
「とても大きな距離の単位。定義は一年で光の進む距離。約9.5兆kmだったかな」
「おおよそ天体でしか用いる機会のない程大きな単位だが、星とはそれ程までに規模の大きいものだ」
「宇宙の神秘の話をしているのかい?」
「もっと感傷的な話さ。ここから見える星っていうのは、おおよそ数百から数千光年ほど離れている。この星々の光景は、中には私が生まれてくるより前の景色もあるかもしれない」
今見ている星が、自分たちの生まれてくる前の姿だということは知識として当然知っていた。だからこそ彼女の年齢の規模も、僕達とは桁が違うと思ってしまった。もちろん、これは口には出さない。自殺志願者ではないからね。
「星の姿は数百年も前のもの。ならば星を通して十数年昔に思いを馳せたところで、そんなものは誤差の範囲だ。大した違いはあるまい」
「……そういうものか」
その後、彼女は星を僕は星を通して思い出をみて、久しぶりの流星祈願会が幕を閉じた。彼女はその余韻に浸るように、杯を煽り始めたので、そっと帰ろうとする。
「店主殿」
帰れなかった。
「山には特別な通行手形なんてものはない。そんなものがあれば、金持ちと権力者はいくらでも山に入ってくることが可能になってしまう。たとえそれが仮初であっても、妖怪の縄張りは不可侵であるべきだと私は思っている。しかし、もしまたここで星を眺めたくなった時には、この書状を他の天狗に見せるといい」
彼女はその場で文を書き留めると、それをこちらに寄こす。ちらりと見れば、随分と大層な文字が使われた名前が目を惹く。
「運が良ければ私まで話が伝わるかもしれない。そうすれば多少は便宜を図ることも吝かではない。また星を見に来たくなったらの話だが」
「……これがただの落書きではないという証拠はあるのかな」
「必要ないだろう?貴方は落書きかもしれないと思って、それでも山に登る酔狂な人物なのだから」
「僕は平穏で穏やかな人生を送りたいんだけどね」
「それなら願ってみるといい」
こちらを見ていた彼女が、ふと振り返るように夜空を見つめる。その行動の理由なんて1つしかない。そういえば今日は多くの流れ星を見たが、願い事なんてものを忘れていた。もちろん、そんな非論理的なことを信じているわけではない。しかし、どうせ願うだけなら無料。僕も商人、ノーリスクで叶うかもしれないくじを引けるのなら。彼女から酒の注がれた杯を受け取ると、ゆっくりと飲み干す。そして酔った勢いのままに。
「……叶うといいな」
強すぎるお酒に視界がぐらりと歪む。そのまま満天の星空の下、ゆっくりと意識を手放して。
◇
たとえ晴れた昼間であっても魔法の森は薄暗く、じめっとした気候は読書に適している。薦められた星の本は、しかしどうにも退屈で、時間を潰すために読書を利用している。たった1杯だったというのに、すっかり2日酔になった頭の中を歪んだ文字が通り過ぎていく。机の上に本をおいて、懐から取り出した手巻煙草を咥える。
「……」
湿気ているのか、うまくマッチの火が点かない。新しいのを出せば済む話だが、なんとなくそれも億劫で。代わりとして、台所に緑茶を取りに行く。別に何かを期待しているわけではない。あまりにも論理的でないから。だからこれはきっと、偶然の一致。懐かしい足音を2つ、僕の耳が捉えた。
「久しぶりね霖之助さん。元気にしてた?」
「生きてるかー?こーりん。天狗の新聞で妖怪の山から運ばれた写真が載ってたけど」
かつてのように乱暴にドアを開けるではなく、いつのまにかちゃんと挨拶をするようになった彼女らを見て、咥えていた手巻煙草を捨てる。僕が店主で、彼女たちが客であれば、立ち上がって要件を聞くべきだろう。しかし、僕はそのままいつもの椅子に腰を下ろし、彼女たちの分のお茶をいれる。彼女たちは大切な友人なのだから。
「……」
吸い始めたばかりの煙草を消して、机の引き出しを開ける。先ほどまで読んでいた本に栞を挟むのを忘れてしまったことに気付くが、大して面白くなかったのでもういいか。
「確かどこかに」
僕の店では物が溢れかえっている。これは道具屋という観点で見れば、価値あるものが多いという点でむしろ美徳であり、その大半を占める有用な物の位置については把握している。その上、清掃を怠っているわけではないので、汚部屋といった不名誉な括りに加えられることはない。たとえ探し物が見つからないとしても、それは僕の中で有用ではない、把握する必要がないと思っているからで何も問題がない。
「……あったあった」
何が使えるかわからないから、客のことはもちろん様々なことを記憶しておくに越したことがない。これは親父さんの教えであり、今でも僕は実践している。こうしてちゃんと思い出せるのだから、また1つ僕の正しさが証明されてしまったというわけだ。店内で1人、不敵に笑ったところで誰からも反応はない。それを寂しいとも思わない。僕は孤独を楽しめるから。さて、探し物は見つかってしまった。つまりは僕の思いつきを引き留める要因が、今のところは存在しない。それなら最後に、雨が降りそうなら諦めようと窓を開ける。空には虹が輝いている。久方ぶりにこんなに綺麗なものを見たかもしれない。誰かと語らうでもなく、写真や絵に残すでもなく、今この瞬間を切り取って記憶に刻みつけるように。ひとしきり眺めた後、諦めて出かける準備をすることにした。
♢
日が暮れ始めた頃に店を出て、目指すのは妖怪の山。基本的に通るのは舗装された、しかも何度か通ったことのある道なので特に問題はない。出発時間を遅らせたのは、口煩い鴉や煩わしい狼に見つかって、無駄な時間の浪費を避けるため。もちろん絡まれたところで、その対策は用意している。しかしこれも日ごろの行いのおかげだろう、目的地までは誰にも会うことなく到着できた。いや、少し語弊がある。目的地である山の麓にいた先客に絡まれた。
「おや?こんなところで会うとは奇遇だね」
暗くてよく見えないが、黒っぽい長髪に暗めのワンピース、その上に黒のマントを羽織った女性がいた。夜での闇でも目立つ深紅の瞳と、こちらに近づく度に聞こえるカランカランとなる靴音。天狗だ。いかにも『仕事できます』なんて雰囲気の利発そうな声が鼻につく。
「その口ぶりからして僕のことは知っているみたいだね。しかし申し訳ないことに、僕は君のことは知らない。自己紹介を願えるかな」
「たしかに会ったことはないな。しかしかれこれ10年以上前だとしても、巫女と魔女に深く関わりのあった人物を知らないほど、こちらは無知ではない。ふむ……だが名乗る必要もないだろう?」
こちらが敵意も悪意もないことを証明しようとするのを聞く気がないらしい。縄張り意識が高い天狗といえど、随分と好戦的に見える。
「待ってくれ。僕を知っているのなら、怪しいものじゃないこともわかるだろう?」
「知らなかったな。魔法の森で道具屋を営む半妖は怪しくないらしい」
自分の方が絶対に優位だとわかった上で、揶揄うような口調。安全圏から石を投げる楽しさを天狗という種族は知っている。堪忍袋を撫でられるような不快感。
「ならこれでどうだろうか」
「それは?」
懐から取り出したのは、昼間に探し出した書状。これはかつて、文からツケとしてもらった『妖怪の山への通行手形』。曰く、これがあれば、妖怪の山への侵入を咎められることはないらしい。受け取った彼女は書を検めた後、ガスライターで火をつけた。
「……」
「驚いてはいないんだな」
「文とは何度か接しているから、どういう人物なのかはわかっているつもりだ。これも役立つかもしれないとは思っていたけど、ただの落書きである可能性も考慮していたよ」
「聡明なことだ」
「火を借りても?」
懐から手巻煙草と取り出すと、燃える落書きで火をつけて、ゆっくりと味わう。とりあえず慌ててもどうにもならない。ましてや戦うなんて以ての外。落ち着いて生き残る術を考えるために、助からないときに最後の味を噛みしめるために。まずは一服。
「ここは妖怪の山、治外法権だということを説明しないといけない相手ではないだろう?そして何より個人的な事情だが、私は今日という日をとても楽しみにしていてね。だからたとえ名前しか知らなかった他人でも、排除するようなことで気分を害したくない。しかしそれ以上に、貴方が私の気分を害するのであれば、今すぐにでも排除したい。その上で聞きたい。ここに何をしに来た?」
どう返答するか迷ったが、ビリビリと感じる威圧感から迷ってる間に三途の川を渡っている可能性すら出てきた。そもそも自身の行動にやましいことはないんだ。取り繕った答えでも命を散らす可能性があるのなら、せめて正直な答えで死のう。半分は納得を優先し、残り半分は自棄になって。
「……星を見に」
「友よ」
正解を引いたらしい。嬉しそうな笑顔と共に友人認定されて、握手まで。商人としては信頼を勝ち取るスキルは非常に有用だが、今日は商人として来ているわけではない。
「私の周りには星の良さのわからないものばかりでね。貴方のような人、妖怪?……人でいいな。貴方のような人は珍しい」
「天狗なのだから同僚、いや部下だろうか。どちらにしても君には仲間がいるだろう。一緒に見る相手が欲しいなら、その子たちを誘えばいいんじゃないかな」
「私に合わせて思ってもいない世辞を言う部下や、星空より私に魅入られてる友人と見る星はつまらない。私は今日の流星群を楽しみにしてきた」
彼女は私と同じように煙管を取り出すと、落書きの燃えカスで火をつける。今まで喫煙する鴉天狗は何人か見たことがある。煙管は風の影響があるから、普通は外で吸うものじゃない。しかし風を操る彼女らは、むしろ自身の能力の誇示するためにそれを吸っている。結果として、天狗の煙管はその自己顕示欲の表れのような下品なものであることが多い。しかし彼女のそれは、黒塗りで質素な見た目の銀煙管、しかもペンを持つようにして吸う天狗は初めて見た。純粋に煙を味わい、自分の世界に浸るようなその吸い様には、花魁持ちする他の天狗達には決してない色気があった。僕は知っている。幻想郷で煙を好むやつに碌なのはいない。もちろん僕を除いての話だが。彼女は身なりと振舞いからもそれなりの身分を持っており、しかしながら碌でもない変わり者であることがこれまでの観察から分かった。それと同時に納得もいった。ここまで来るのに山の妖怪と顔を合わせなかったこと。僕自身の日頃の行いからくる幸運を加味しても、さすがに何かしらの作為を感じずにはいられなかった。おそらく今夜の流星群見物を邪魔されたくない彼女が、妖怪払いの命令を出したのだろう。
「おっと、邪魔をしてすまなかったな。星を見るのに灯りが厳禁なのは理解している。だから今だけだ。こうして夜空の下で吸うのが一番好きでね」
わかるだろう?と言いたげな視線を無視する。わからないから。僕は自分以外の世界を排除するために煙を味わう。そこに時間も場所も関係ない。孤独だけが煙を美味くする。
「わざわざこんなところまで星を見に来たということは、裸眼で見るわけではないんだろう?いや、何も通さずに見る星もまた美しいから、否定はしない。しかし、貴方は道具屋なのだから」
「……まあそうだね」
彼女の視線が僕の背負っている鞄に向く。逆にこちらは彼女の後ろに、既に設置してある天体望遠鏡をみる。先ほどのシンプルで、しかしながら煙を味わうために洗練された銀煙管と違って、こちらはごちゃごちゃといろんな機械や計器がついている。明らかにオーダーメイドで作らせた代物だ。大きくなりすぎているせいで、人類の持ち運べる代物ではなくなっている。河童あたりに欲しい機能を全部載せして作らせたのだろう。別ベクトルで彼女の星への面倒くさいまでの拘りを感じ取れる。正直言って関わりたくない。
♢
「星の楽しみ方は数多あるが、その中でも流星群の観測に限るのであれば、やはり三大流星群、『化猫座流星群』『雷座流星群』『天狐座流星群』だろう」
「そうだね」
「人間のいう三大流星群とは当然のことながら呼称も違うが、微妙に時期も違う。『化猫座流星群』は人間でいうところの『四分儀座流星群』だな。といっても四分儀座は全天88星座からは外されているから、あまりメジャーな星座ではないらしい。後付けかもしれないが猫というのは干支でもそうだが、選ばれない運命のあるのだろうか」
「偶然じゃないかな」
「『天狐座流星群』は『しし座流星群』のこと。これは紛れもなく天上にいる狐、『天つ狐』のことだろう。四つ足に見える星座が流星群の名を冠するならこれ以上ない選択のはずだが、いいところに名前を貰うのが猫と狐なあたり、星座の名付け親の贔屓が透けて見えるのは気のせいだろうか」
「気のせいだと思うよ」
「人間の三大流星群には『しし座流星群』の代わりに『ふたご座流星群』が入っているが、私達はそれを『管狐座流星群』と呼ぶ。狐が2匹は不格好ということでこちらが選ばれなかったのだろう。そして今夜私達が見るのは一年で最大の『雷座流星群』、所謂『ペルセウス座流星群』のこと。頭髪は無数のヘビ、イノシシの歯と青銅の手を持ち、黄金の翼を携えた化け物を倒したとされる英雄の名前と、猿の顔、狸の胴体、前後の肢は虎、尾は蛇の身体を持つ化物を倒した弓の名前から取っているという点では、なにかしらの共通しているという見方もある。しかし私は、空から落ちる無数の流れ星を雷に例えたという、意外とシンプルな理由ではないかと考えていてな」
「そうかもしれないね」
少し早く来過ぎたこともあって、流星群が降り始めるのを待つ間、彼女は延々と星に関する蘊蓄を語っている。迷惑なことこの上ない。相手の都合を考えずに一方的に話すことを会話とは言わない。これじゃあいくら有用な話であっても、聞いてもらうことはできないだろうと呆れるばかりだ。会話とは言葉のキャッチボールであり、相手を思いやるところから始まるといのに。とはいえ機嫌よく話しているところに水を差すならともかく、もうすぐ見ることのできる流星群を前に、興奮している彼女に油を注いて発火させることだけは避けたい。適当な相槌を打ちながら、水筒に入れてきた緑茶を味わう。
「気が合うな」
彼女も僕に倣って、鞄から魔法瓶を取り出す。そこから注がれる珈琲の香りはこちらに届くほどに濃厚で。
「珍しいね。天狗は酒を好むものと」
「花見で酒を飲むのとは違うんだ。私は星を酒の肴にしたいわけじゃない。主役はあくまで星だ。とはいえ星を見終えたら一杯だけ飲むつもりだけど」
取り出した酒瓶にはラベルもついていない。しかし、これだけ用意してきた彼女が、締めの一杯に適当なものを持ってくるはずもないだろうから、お気に入りなのだろう。どうでもいい。僕はお酒があまり好きではないから。
「杯は1つしか持ってきていないが、許してくれるな」
「いや、僕は」
「な?」
生殺与奪は握られているのだ。拒否権なんてなかった。とはいえ天狗の嗜む酒など飲めば、本当に死んでしまう恐れすらある。だからこれはわずかな抵抗。
「……少しだけなら」
「それでこそ」
僕はため息をつきながら立ち上がる。そろそろ流星群が始まる頃合いだ。目の前の本格的(というには度を超えて非常識)な天体望遠鏡を前に、非常に気が進まないが、仕方なく用意していたものを取り出す。随分と小さく見えるそれは相対的な話ではなく、実際に小型、子供用といっても差し支えないサイズ。しかも数十年前の旧型のもの。
「失礼ながらあまり設備は整っていないのだな。金回りが悪いのなら……」
「別にお金に困ってはいないよ」
「いや、悪い癖だな。忘れてくれ。それよりどうだ、せっかくならこちらのものを使ってみたくはないか?」
親切心で言っているのだろうと薄々は理解しているが、少し芽生えた嫉妬心がそれを拒む。
「そうすれば君が見れなくなるだろう?そこまでしてもらう義理はないよ」
「生憎とその心配はない。この天体望遠鏡はのぞき穴が複数用意されている。だから、他者と共有して同時に楽しむこともできる」
「なんだってそんな無駄な機能を」
「星の素晴らしさを布教するために。まあ結果はこの通りだ。もちろん、せっかく時間と金をかけて作らせた代物を、その価値の理解できる人物に自慢したいという気持ちもある」
「……そこまで言うのなら、お言葉に甘えるよ」
そこまで明け透けに言われてしまえば、逆に断るのは意地を張っているみたいで情けなくなる。それに、おそらく人生でこれほど馬鹿げた天体望遠鏡を使って星を見る機会はもうないだろう。道具屋としては興味がそそられるのも事実だ。僕は意地やプライドよりも利の取れる賢い人間だから。
「そろそろだな。一度覗いてみるがいい」
彼女に合わせて、反対側から僕も覗き込む。星空は今まで見てきたものとは比べ物にならないほど、鮮明で輝いて見える。星に特別興味がない僕が、思わず感嘆の声をあげてしまうほど。夜空に輝く星というのはこんなにも身近にあるのに、こんなにも美しいのかと思うほど。
「くるぞ」
彼女の声に合わせて流星群が流れ始める。夜空に線を引くように。そのほとんどをこの天体望遠鏡は捉えている。原理まではわからないが、確かに大したものだ。
「……」
あれだけ喧しく蘊蓄を垂れていた彼女は、いつの間にか静かになっていた。彼女は本当に星が好きで、星だけを見に来たのだ。本当にただそれだけのために。だからそのことだけに注力していた。僕もこの天体望遠鏡を通してみる流星群の美しさには、感動すら覚える。今なら少しだけ気持ちもわかる。だからこそ、邪魔にならないようにゆっくりと覗き穴から離れて、自分の用意した天体望遠鏡の元へ。そこから覗き込む流星群は、先ほどのものと比べるとぼやけてすら見えるような、しかし僕が見に来たものだった。
「……好みに合わなかったのだろうか」
少し流星群が落ち着いたころに、彼女が声をかけてきた。
「いいや、君の天体望遠鏡は素晴らしいものだと思うよ。星空を見てこんなに感動するとは思わなかった」
「だったら、そいつを通して見ている理由は聞いてもいいのか」
脅し、というわけではない。あれだけのもの、彼女の星への想いをつぎ込んで作られた天体望遠鏡よりも、この古びた子供用の望遠鏡を使う理由。それが純粋に知りたいといった様子で。
「……君は怒るかもしれないが、そもそもの話、僕も星が特別好きなわけじゃない」
「しかし、星を見に来たという言葉に嘘はなかった」
「僕はこの望遠鏡を通して星を見たかった。いや、星を通して、違うものが見たかったのかもしれない」
彼女らが大人になって、いつの間にか行われなくなった流星祈願会。無邪気に空を駆けることも減った彼女たちは、今もこの同じ空の下で、星を見ているのだろうか。あの頃と同じように。
「……なるほどな」
彼女は怒るでもなく、静かに僕の言葉を飲み込んで、そのままゆっくりと近づいてくる。
「私も、それで見せてもらっても構わないかだろうか」
「君のものと比べたら、玩具というのもおこがましい代物だよ」
「でも貴方はこちらの方がいいのだろう?」
「それは思い出ありきだ」
「いいから」
天狗という生き物は結局の所、どいつもこいつも強引だ。力で勝てるはずもないのだから、こちらは大人しく従うしかない。
「同好の士だと騙すつもりはなかった。しかし、誤解を生む言い方はしてしまったと思っている。そのことについては謝罪するよ」
「……光年という単位を知っているか」
玩具を通して星を眺めながら、彼女がゆっくりと告げる。
「とても大きな距離の単位。定義は一年で光の進む距離。約9.5兆kmだったかな」
「おおよそ天体でしか用いる機会のない程大きな単位だが、星とはそれ程までに規模の大きいものだ」
「宇宙の神秘の話をしているのかい?」
「もっと感傷的な話さ。ここから見える星っていうのは、おおよそ数百から数千光年ほど離れている。この星々の光景は、中には私が生まれてくるより前の景色もあるかもしれない」
今見ている星が、自分たちの生まれてくる前の姿だということは知識として当然知っていた。だからこそ彼女の年齢の規模も、僕達とは桁が違うと思ってしまった。もちろん、これは口には出さない。自殺志願者ではないからね。
「星の姿は数百年も前のもの。ならば星を通して十数年昔に思いを馳せたところで、そんなものは誤差の範囲だ。大した違いはあるまい」
「……そういうものか」
その後、彼女は星を僕は星を通して思い出をみて、久しぶりの流星祈願会が幕を閉じた。彼女はその余韻に浸るように、杯を煽り始めたので、そっと帰ろうとする。
「店主殿」
帰れなかった。
「山には特別な通行手形なんてものはない。そんなものがあれば、金持ちと権力者はいくらでも山に入ってくることが可能になってしまう。たとえそれが仮初であっても、妖怪の縄張りは不可侵であるべきだと私は思っている。しかし、もしまたここで星を眺めたくなった時には、この書状を他の天狗に見せるといい」
彼女はその場で文を書き留めると、それをこちらに寄こす。ちらりと見れば、随分と大層な文字が使われた名前が目を惹く。
「運が良ければ私まで話が伝わるかもしれない。そうすれば多少は便宜を図ることも吝かではない。また星を見に来たくなったらの話だが」
「……これがただの落書きではないという証拠はあるのかな」
「必要ないだろう?貴方は落書きかもしれないと思って、それでも山に登る酔狂な人物なのだから」
「僕は平穏で穏やかな人生を送りたいんだけどね」
「それなら願ってみるといい」
こちらを見ていた彼女が、ふと振り返るように夜空を見つめる。その行動の理由なんて1つしかない。そういえば今日は多くの流れ星を見たが、願い事なんてものを忘れていた。もちろん、そんな非論理的なことを信じているわけではない。しかし、どうせ願うだけなら無料。僕も商人、ノーリスクで叶うかもしれないくじを引けるのなら。彼女から酒の注がれた杯を受け取ると、ゆっくりと飲み干す。そして酔った勢いのままに。
「……叶うといいな」
強すぎるお酒に視界がぐらりと歪む。そのまま満天の星空の下、ゆっくりと意識を手放して。
◇
たとえ晴れた昼間であっても魔法の森は薄暗く、じめっとした気候は読書に適している。薦められた星の本は、しかしどうにも退屈で、時間を潰すために読書を利用している。たった1杯だったというのに、すっかり2日酔になった頭の中を歪んだ文字が通り過ぎていく。机の上に本をおいて、懐から取り出した手巻煙草を咥える。
「……」
湿気ているのか、うまくマッチの火が点かない。新しいのを出せば済む話だが、なんとなくそれも億劫で。代わりとして、台所に緑茶を取りに行く。別に何かを期待しているわけではない。あまりにも論理的でないから。だからこれはきっと、偶然の一致。懐かしい足音を2つ、僕の耳が捉えた。
「久しぶりね霖之助さん。元気にしてた?」
「生きてるかー?こーりん。天狗の新聞で妖怪の山から運ばれた写真が載ってたけど」
かつてのように乱暴にドアを開けるではなく、いつのまにかちゃんと挨拶をするようになった彼女らを見て、咥えていた手巻煙草を捨てる。僕が店主で、彼女たちが客であれば、立ち上がって要件を聞くべきだろう。しかし、僕はそのままいつもの椅子に腰を下ろし、彼女たちの分のお茶をいれる。彼女たちは大切な友人なのだから。
てんぐさんも不躾一辺倒ではないし二日酔いエンドでも清涼感があります
「友よ」
ここすごく好き!
流星群を見に行くなんてあまりにもお洒落な趣味でさすがは霖之助さんだと思いました
また一つ彼の正しさが証明されましたね