Coolier - 新生・東方創想話

暗闇

2025/07/07 01:00:15
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 男は全盲であった。生まれつきではない。一年前、事故によって視覚を後天的に失っている。
 彼の周りは闇だった。物の実在は、白い杖──といっても彼にとってはそれが本当に白いかどうかは一切わからないのだが、とにかく白く長く、先端部分が赤くなっている杖によってのみ伝達される。正常に目が見える人のことを晴眼と呼んだりするが、それに倣って言うならば、彼の世界は暗雲立ち込めていた。それは、彼の性格、人生にも言えることである。視覚を失った絶望。かつて見えていたものが一切見えなくなる悲哀。五感の中で最も使用頻度の高いであろうものを失うことに対する恐怖。いつからか彼は部屋に閉じこもり、親の扶養のみによって生きるようになっていた。

 彼はすっかり塞ぎ込んでいた。同時に一体いつまでこんな生活を続けるのだろうと悩んでいた。食事も風呂も睡眠も、親の介護がなければ成り立たない程度にまで自分で行動することを捨ててしまっていた。本来であれば自分でそれを行えるよう努力すべきなのだろうが、彼はもう疲れてしまっていた。点字はかろうじて読めるが、本をすらすら読めるほど精通してはいない。
 彼にとって一番辛いのは娯楽がないことだろう。彼の趣味は写真を撮ることであった。世界の一部を切り取って飾ることに美しさを感じていた。だが、その世界とは五感によって得られる世界全てではない。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚──、そのうち写真は視覚によって得られる世界しか写し出すことはできない。つまるところ、目が見えない彼にとって、写真はもう一切の興味を持てない趣味になってしまっていた。カメラは無用の長物となり、部屋の隅、もはや棚にも置かれず床の隅で埃を被ってしまっている。本来であれば棚に丁寧に置かれているであろうそれが表すのは、彼は目が見えなくなった後、試しにシャッターを切った経験だけはあるということ。そして、それが彼にとって何の意味も持たないことを自覚したということ。同じく棚の上の写真立てには、最後に現像したフィルム写真が飾られてある。薔薇で埋め尽くされた花畑が写されており、右下の隅にオレンジ色の日付が年・月・日の順で記録されているのだが、彼はその数字がいくつだったかすら、もう考えないようにしていたのだった。

 いつしか、彼は考えることを止めていた。意識を捨て、一日中布団にこもるようになっていた。食事を摂ることすら億劫とし、最低限の食事を家族が持ってきてくれる果物や生野菜によってのみ摂取するようになっていた。彼の親すら、彼のことを半分不要な存在と考えていた。働きもせず、ただ生活に負担をかけるのみ。しかし家から追い出すことで得られるのは、周りの「障害者の息子を捨てた最低な親」という称号のみ。結果的に、家族は世間体のためにも養わざるを得なくなっていた。


 それが、ある日突然転機が訪れた。男の真っ暗な世界に一人の少女が現れたのだ。世界といっても、それは彼の周り、空間というわけではなく、文字通り彼の視界にその人が写った、というのが正しかった。最初はただの光であった。ただの光とは言うが、全盲の人間にとって瞼の裏側に光が宿ることのどれだけ驚嘆すべきことか。その光は次第に影すら持ち始め、一つの輪郭を描き出していた。柔らかく揺れる緑の髪。その頭には大きな黄色いリボンを宿した丸い帽子が乗っている。黄と黄緑を基調とした可愛らしい服。そのスカートにも花の模様が描き出されているようだ。そして、一際目を引くのは、まるで静脈のような管が身体から複数伸びていて、その線が終着する先、彼自身と同じように目を閉じている青い球体──。物を見るのは随分久々だったが、彼はそれを良く脳裏に刻み込むことができるのだった。

「もしもーし」
 声が聞こえた。透き通るような幼い少女の声だった。男は「ああ、とうとう私は狂ったのか」と思った。幻覚、幻聴。視覚を失って随分経つ彼にとって、いきなり視界に誰かが写ったという現実はそうたやすく受け入れられるものではなかった。彼は言葉を返そうとしなかった。
「私はお兄さんと話がしたいんだけどな」
 少女は言った。その声があまりに残念そうなものだから、彼はこの機会を逃してはならないと思った。もしここで機会を失ったら、次に何かを見られる日がいつになるかはわからない。彼は決心して、すがりつくような心地で幻覚のような少女に声を返した。
「何者だい、君は」
 少女は楽しそうに答える。
「私はこいし。古明地こいしよ」
「そうか、こいしか。俺の名前は──」
 と言いかけて、制された。
「ん、別にお兄さんはお兄さんのままで良いよね? お兄さん」
 と言うもので、どうやら名を名乗ることが罪深い行為のように思えてしまうものだから、男は自分の名を一時的に「お兄さん」にするものだった。彼は、当然の質問を彼女にぶつける。
「俺は、目が見えるようになったのか? 君は一体……」
 少女は手を後ろで組んでちょっとはにかんだ後、言った。
「私は無意識に潜む妖怪。私はあなたの無意識の世界に入り込んだの。別に目が見えるようになったわけではないと思うよ」
 男は「そうか」と一言返した。しかし、信じられなかった。暗闇の世界にこれほどまでに鮮明な幻覚が見えるものだろうか? 脳ははっきりと目の前の少女を認識しているように見える。と考えているのを見透かすように、
「ほら、別に目が見えなくったって、脳がそういう信号を受け取れば『視える』ものでしょ? 視神経のあたりをぐりぐりーっとやったり、脳みそを信号を受け取るところに直接電気を流したら、その通りに視えると思わない?」
 と彼女は言う。それを聞いて、男は自分の体が自分のものでないかのような感覚に陥った。まるで、自分の体に命がなくとも、電気信号さえあれば人は生きていると言えるかのような……、そんな得体の知れない妄想に取りつかれてしまう。彼女の言葉には魔力があった。

「ねえお兄さん、今何時だと思う?」
 彼女は唐突に時間を尋ねる。視覚障害者にとって、時間の把握は一つの課題だ。空の明るさで時刻を推定できないものだから、時計に頼って生活することになる。時計といっても、壁に掛けられてある文字盤を"見て"使うものではない。触読時計といって、普通の腕時計の針を指で"触る"ことによって使うものだ。彼は時計を触り、時刻を確かめようとする。が、できない。指先には、一切の感覚が伝わってこなかった。
「時間、わからなくなっちゃったのかな」
 時間感覚の消失。それは視覚を失うことと同じように恐ろしかった。何もない部屋に閉じ込められて、「百時間後にこの部屋を出てください」と言われても、それを達成できる人間はなかなかいないだろう。何より、一度失った時間感覚を取り戻すのは困難だ。時間という世界で方向を示す羅針盤は失われ、男はこの世界で迷子になってしまっていた。彼は理解を拒んで何度も時計に触れる。しかし何度触ろうとも指先には何も伝わってこない。いずれ諦めたかのように指を離し、少女に尋ねた。
「ああ、わからない。今何時なんだ」
 自力で解決できないなら、人に頼れば良い。彼はすっかり甘ったれた思考に取りつかれていた。だが、
「何時でも良いじゃない」
 とはぐらかされて、彼はすっかり困ってしまう。
「それよりも」
 と言って、彼女は続きを話し出す。
「耳、澄ませてみて。何か聴こえるかな?」
 彼は言われた通りに耳を澄ませ、ぞっとする。音がしない。静かな部屋に入ればキーンとした耳鳴りが鳴るものだが、今の彼にはそれすら聞こえない。聞こえるのは、ただ少女の声だけ。そこまでして、彼はようやく異変に気付く。
「なあ、ここはなんなんだ」
「まあまあ。次は匂いを嗅いでみよっか」
 彼は慄いた。もう言われる前からわかっていた。「どうせこれもできない」と。そして、その通りだった。芳香剤の聞いた優しい部屋の匂いはどこへやら、世界はすっかり無臭だった。涼しさも、暑さもそこになかった。体の震えが一段強くなる。
「視覚、触覚、聴覚、嗅覚──。次に消えるのは何だと思う?」
 ああ、味覚だ、と男は思った。もう自分は何を食べても喜びを感じられないのか、と希望を失っていた。しかし、それだけではない。五感の消失が指すのは──。少女はふと彼に近付いていき、お互いを触れ合えるような距離になる。彼は唐突に気まずい空気を感じ取る。こんな幼い少女が自分の足元にまで来ている。そして、二人きりの世界で会話をしている。胸が早鐘を打っているのに、そこに熱はない。代わりにあるのは、得体の知れない恐怖だった。男には目の前の少女が人の形をした化け物に思えていた。
「お兄さん、ちょっと目瞑っててね」
 目を瞑るも何も、俺は元々目が、と思ったのも束の間、男の視界は急激に暗くなり、何も映さない世界に元通りになる。一度救われたと思ったものの、それをまた再び奪われてしまう感覚。「もうあんな思いはしたくない」と思っていた世界から、黒い手が伸びてきて引きずり込んでくる。ふと、自分の唇が開くような気がした。数十秒の沈黙。それは、彼を完全に狂わせる秒数の一歩手前だった。その秒数の後、真っ黒の視界は開かれ、少女のみが存在する真っ暗の視界へと戻っていった。
「ああ、あああ……?」
 男は困惑する。まるで自分をもてあそばれるような、もはや自分の身体どころか感情すらこの少女に掌握されてしまっているような、そんな感じがした。
「あのねお兄さん、今私ね、あなたにキスしたんだ」
 少女は照れ恥ずかしそうに俯いてそう言う。
「舌も絡めたんだよ? 触覚ないからわからないと思うけど」
 男は揶揄われているのかと思った。しかし、彼女の唇は唾で濡れたかのようにほのかに艶めいている。「私はこのいたいけな少女に何をしているのか」と一瞬頭を抱え込むような気持ちになるが、それ以上に、大きな事実が彼の前に突き付けられることの方に頭を抱え込むことになる。
「五感、全部失っちゃったね」
 もはや、男には何も残されていなかった。一切の感覚は失われ、正真正銘、世界は暗黒になってしまっていた。彼は逃げ出そうとして、足を動かそうとした。白杖無しで走るのは無謀だと思ったが、問題はそれ以前にあった。
「お兄さん、動けないの?」
 嘲笑われていると思った。男はもはや一切自身の肉体を動かせなくなっていた。筋肉も神経も全てが活動を止めていた。言い返すことすらもうできなかった。
「お兄さんはね、もう考えることが出来るだけのただの肉の塊なんだよ」
 背筋が凍るような感覚がした。いや、もはやそれすら幻覚なのかもしれない。しかし、それでも彼は恐れていた。このまま放置されてしまったら──。もし助けが来なかったら──と。
「お兄さんは、もう意識がないんだよ」
「だから、無意識の世界にすっと潜り込めたの」
 そう言って、少女は泳ぐようにこの世界のある一点へ向かっていく。もう男には興味がなくなったかのように、するすると去って行ってしまう。男の思考は凝り固まっていた。助けてくれ、助けてくれ。俺を一人にしないでくれ、と。
「意識もない、感覚もない。それって生きてるって言えるのかな?」
 彼女は懐かしむかのように上を、もはや上がどこかすらわからない暗闇だが、彼女は上を見上げる。男からは少しばかり距離があるが、男は両耳から囁かれるような少女の声を聴いていた。
「人の最後に残るのは無意識。私はそれを操るのが好きなの」
 そう言って、少女は男に向かって笑った。
「それじゃあ、寂しいけどおやすみなさい。さようなら」
 ぷつん、と何かがちぎれた。思考だけが体から剥がれ落ちて急速に落下していく。どこまでも、どこまでも落ちて──、虚無の床に叩きつけられ、ぐちゃぐちゃになった。



 古びたアパートの一室で、男の亡骸は冷たくなっていた。
 男の傍らの床には、埃を被ったカメラと、蓋の開いた写真立てだけが残されている。その写真立ての中には、薔薇畑の中に笑う、誰にも見覚えのない緑の少女が写されていた。
ホラー風を書いてみたくて、いろいろ試してみました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。感想等頂ければとても励みになります。
桜おはぎ
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コメント



0.20簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.90福哭傀のクロ削除
……あの、注文した全盲の男と無意識少女の心温まる交流がどこかでホラーと入れ替わったんですが何事……?
冗談はおいておいて期待外れとかそういうことでは一切なく、こういう書き方するのですねなるほど……と。普通に怖かったです
3.90ローファル削除
ゾクッとしました。
仮に五感を失った上で生きていても⋯⋯と思えてしまう男の救いのなさが切なかったです。
4.100名前が無い程度の能力削除
悲劇ではありますが、絶望の最後に幻想に出会うのはちょっと美しいですよね
5.100南条削除
面白かったです
絶望の中で出会うこいしちゃんの恐ろしいことよ