むかしむかしあるところに、パチュリー・ノーレッジという魔法使いがいた。彼女は魔法使いの常として真理を求め足掻いていた。今より一億年と少し前のことである。
「お待ちしておりました、霧雨魔理沙様」
出迎えを適当にあしらいつつ、訪問者は相変わらずの威容にため息をつく。天まで届く程の書棚の壁。生半可な比喩でもなく、本当に彼方を貫く高さなのだ。Y軸座標上ほぼ無限に拡張された書棚に収められたほぼ無限冊の本。この世にありうる全ての本という本がそこに収まっているかのよう。
しかし訪問者は知っている。それが張りぼてなのだと。きっとこの膨大な本の殆どは一度とて読まれたことなどないだろう。それは本にとっては悲劇かもしれない。いや、彼らはただの分子の連なりに過ぎない。余計な感情をパッケージして隅に追いやる。そんなことも、この一億年……目の前で母星を失う者の悲哀、事象の地平線に落ち込んだ難民たち、何百万年と帰らぬ主を待つ自動人形、悲劇は地にも天にもありふれている。全ての感情と向き合ってはやっていけない。だがそれは彼女が冷徹である証左にはならない。むしろ逆。捨てようと思えば捨てられる感情というモジュールを一億年も後生大事に抱き抱えていることが彼女の、霧雨魔理沙の甘さであり、強さでもあった。
「案内はいいよ。あいつは?」
「船長室に」
船長室、という名称には疑問符がつくが、それでも魔理沙は一人で書棚の隙間をズカズカ進んでいく。船長室があるなら船室もあるのか? 答えはノーだ。あるのは船長室と無限の本棚だけ。「流転する大図書館」と名を与えられたこの場所、この図書館は……その名の通り、広大な宇宙空間上を流転し続ける船に似ている。もしも船窓からちらりと外を覗いたなら、目も眩む星の海が見えただろう。魔理沙も初訪問時は社交辞令並に感動して見せたが、今はもう脇道に目もくれない。五千万年も前の話だ。今回の長大なクエストを受ける前は、数十から数百万年に一度くらいは足を運んでいたから。ただ当時はまだ若かった。少なくとも今よりは、ずっと。
「遅かったね」
ふと顔を上げると、もう書棚の無限の壁は見えなかった。まだ主観時間で五分も歩いていない。位相転移。船長室というより、巨大な太陽系儀のミニチュアの上といった方が近い空間だ。魔理沙にさえ用途のわからない数百か数千の星々の模型が極めて神経質なる均一のペースで複雑な運行を続けている。中には永遠の三体運動を演じ続ける続ける三連星もある。相変わらず見える範囲に天井はなく、光源は星の放つ光。しかし宇宙そのものを演算しているにしてはあまりに貧相な数だ。ちょっとしたインテリアなのかもしれない。五千万年も経つと人の趣味も変わるものだ。
「案内はいらんと言ったろ」
「昔の癖は抜けないな。あんたを彷徨かせてると気分がそよぐ」
へらへらと笑い返す魔理沙に、部屋の中央、安楽椅子の平べったくなったようなものに寝そべる女が顔を上げて微笑む。そんな風に身を起こすのも久々という緩慢な動きだ。事実、そうなのだろう。見てくれは人の形をしているが、それが本当の彼女……パチュリー・ノーレッジなのかさえ怪しいものだ。
「クエストをこなしてきたぜ、大魔導師殿。銀河を股にかけてな」
「ああ……悪いね。よくたった五千万年で戻ってこれたな」
「仕事の速さには自信がある。まあ楽な旅じゃなかったさ。予期しないクェーサーにうっかり近づきすぎた時にゃ、閉じた重力場に呑まれて危うく脱出し損ねる所だった」
「そしたらここに来るのはあと十億年も遅かったろうね。だから報酬を吊り上げろって? 危険手当として……」
「そんなケチじゃない。どうせ元々の目的のついでだから。旅人ってのは冒険譚を口にしたがるんだよ」
「宇宙の果てには辿り着けたのかい」
「だったらここには戻って来ないな」
それもそうだ、とパチュリーは鷹揚に頷いてから、魔理沙の差し出した紙切れを受け取る。そこに記されているのは座標だ。「完全に生命の存在しない星系」の座標。一瞥された紙切れが幻と消える。もちろんあの紙切れは本物の紙片じゃない。魔理沙の知識の投影。パチュリーはそれを記憶し、破棄した。それをメモのやり取りのようにしたのは魔理沙の遊び心でしかない。
「助かるよ。資源はいくらあっても足らないくらいだ」
「相変わらず魔女様はお優しいな」
「……別に慈悲の心から生命体を避けてるんじゃない。繊細な作業なんだよ。不確定要素は最小限にしたい」
「それに星系を丸ごとバラしちまうんだ。抵抗されたら面倒くさいもんな」
およそ五千万前、パチュリーが魔理沙に頼んだ「おつかい」は生命の存在する星系の座標調査……ではなく、完全に生命の存在しない星系の調査だった。理由は明らかで、星々を分解して資源に使うのだろう。恒星は水素を初めとする膨大な元素の貯蔵庫だし、その周囲を回転する惑星群も種々の希少な資源を抱えている。べつにパチュリーは銀河帝国を滅ぼせるような死の惑星兵器を建造しているわけではない。彼女はただの魔法使いだ。同時に錬金術師でもある。あらゆる実験には資源がいる。だから本当に、魔理沙にとって「ちょっとしたおつかい」程度のものだった。
「わかってるなら聞くな……もう次の冒険に行くのかい」
「うん、宇宙ってのは膨張してるだろ。刻一刻と果ては遠ざかる。やるなら早いに越したことはない。今、ラストダイブの準備をしてるよ。といってもこれまでのどんな旅より長くかかるだろうが。数十億年か、数百億年か、数千億年か」
「……じゃ、ここに来るのも最後だ。好きな『知識』を持っていきなよ。宇宙の果ては私も興味がある」
「悪いが辿り着けたと教えてやることはできないぜ」
「いいんだ。誰かがそこに辿り着いたことが重要だ。あるいは辿り着けなかったことが」
「お前も丸くなったよ」
「変わらないものはない。最もよく知られた真理の一つだな」
「よく言う! 魔法使いってのは変わらないものを追い求める種族だろ」
「そう、変わらないものはないからこそ、変わらないものは偉大だ。それこそが真理と呼ばれるものだ」
「じゃあな」
魔理沙は踵を返した。けれどもふと足を止め、また振り帰る。
「どうした?」
「いや、幾星霜の旅路なんだ。ほんの数分を惜しむのも馬鹿らしい」
「その数分でどれだけ宇宙は広がるのやら」
「親交を温める方が大切さ。少なくとも友との思い出は幾千億年の孤独な旅路にも耐える」
「おまえを友と思ったことはないがね」
「寂しい事言うなよ。そっちだってずっと一人なんだろ……いやあの悪魔の司書がいるのか。あいつも我慢強いな」
「あいつは縛られているからね。私なんぞと契ったのが運の尽き。他の皆は久遠の昔に生きる事へ飽いてしまった。確かに他の顔見知りといえばお前くらいだ」
「回りくどさは一億年経っても変わらないな」
「それもまた真理」
薄笑いを浮かべたパチュリーが指先を振るうと、魔理沙の後ろに簡素な椅子一つが生じた。ずっと昔、それこそ気の遠くなるほどの昔、まだ二人の魔女が地上に縛られていた頃に紅い館で使われていた来客用の椅子だった。来客用と言っても「気を使う価値の無い」客だが。
「今更肉体の疲れを気にするような身じゃ無いが、こんな心配りは嬉しいね」
苦笑しながら腰掛けると、魔理沙は軽い調子で問うた。
「それで? 今はどんな真理を求めてるんだ? まだ五次元空間の形成とやらをやってんのか?」
「その知識は調査報酬にしては大きすぎるな」
「でもね、おまえ最初っから話したくて仕方ないって顔してるぜ」
「してない」
「安心しろ。どうせ聞いたって真似できない」
それもそうだと思ったのか、或いは本当に話したかっただけなのか、パチュリーはこほんと咳払いをして続けた。
「今は……最後の本を作っている」
「魔導書ってことか? つまり、おまえのこれまでの探究をまとめた――」
「ぜんぜん違う。より正確に言えば、この宇宙で最後に作られる筈の本を演算している。宇宙最後の本だ」
ほらね、聞いたってわからないだろ? と言いたげに魔理沙は楽しげに問い返す。
「つまり未来予知か?」
「未来予知は不可能だ。知っての通り、ラプラスの悪魔は遠い昔に滅んだ遺物さ。まあ未来のパターンは有限だからほぼ無限に等しい計算リソースがあればほぼ無限に等しい解の全パターンを取得することはできるだろう。未来予測ではなく未来羅列だがね……もっとも残念ながら私の持ちうるリソースは有限で、それも限りなく少ない」
もし本当に無限の計算資源があれば直ぐにでもそれをやってのけるという口振りで彼女はため息をつく。
「それでも、ある特定条件下における様相は現実的に予測可能だ。おまえにもわかるだろ」
「無垢な生徒の役の方が楽なんだが……はぁ。あれだろ、始まりと終わり」
「そうだ。この宇宙のことをまだ微塵も知らなかったかつての人類でさえ、その始まりと終わりについては極めて少ないパターンまで絞り込めたんだ。可能性はその分岐のたびにカオスを増していくが、始まりと終わりは必ず一つだからね。羅列された可能性の箱のどれを開いたとしても、すべての中身が同じならそれは予測可能な事柄となる。その人がどんな一生を送るかはわからなくとも、きっと最後に死ぬことだけは自明であるように」
「死を拒絶した連中が言うには説得力のないセリフだ」
「もちろん外れ値はある。それを予め除けておく精度が結局は予知の精度なんだな」
「最低なモンティ・ホール問題だね。それで……なぜ本なんだ?」
「私は本を愛している」
「知ってるよ」
「だから私は、本というものの死に様が見たいんだ」
「ああ、だから最後の本を……この世界に存在するはずの、本という現象の終わりを……それが今おまえの求める真理なんだな?」
「だからそう言ってるだろう」
魔理沙は少しだけ長い沈黙を要した。星の糸で編み上げたモノクロームの鍔広帽を押し下げ、パチュリーの言葉を咀嚼する。聞いても真似できないと言っておきながら……しかしそれも魔法使いの習性。面白そうなアイデアがあれば、それが誰のものであろうと考えずにはいられない。パチュリーとてそれはわかっている。それに少し考えた程度で筋道が立つような真理なら、彼女はそもそも見向きもしないだろう。
そしてようやく顔を上げ魔理沙は芝居がかった調子でかぶりを振った。
「おまえの理屈は一見筋が通ってなくもないが、やはり無理があるよ。本ってのはあくまで抽象的な概念でしかない。何か情報の連なったものを観測者が勝手にそう認定してるに過ぎない。ロゼッタストーンは文書かも知れないが、本ではないかもしれない。誰かが砂地に引っ掻いて作った水場のありかを示すメッセージは本なのか? 可視光線に頼らない生命体の文化はどうする?」
「ある生命体が、きっと反復的に参照されることを前提として己の思考や知識を外部化する時に……それを本と呼ぶんだよ。少なくともロゼッタストーンは本棚にあって然るべきだ。でなければ、博物館に」
「それだって情報遺伝を反復的に行える生物の問題はあるが」
「差別的だな。彼らだって己の生得的な能力を用いてさえ外部から参照不可能となりうる情報を何らかの形で残したいと思うかも知れないだろう。情報遺伝器官はその種が滅びれば使えなくなるんだからな……その浪漫こそが本を記すモチベーションだ」
「まあ仮にそうした定義の問題をクリアしたところで……どうあれそれらは、特定の個体の表現型でしかない。宇宙や生命みたいな連続した事象じゃなく、断絶した個別の問題だ。宇宙の終わりを求めるようにはいかないんじゃないか?」
「もちろんその指摘は正しい。けれどやはり、おまえは本には素人だね」
「おまえと比べちゃみんなそうさ」
「ようは同じなのさ。仮に本というものが個別の生命体の表現型に過ぎないとしても、連綿連なるその最果てに記される一冊は、どうあれ執筆者が背負う大きな流れの終着点にならざるを得ない。宇宙が野放図に広がったところで、最後には極限のゼロに収束するように……」
「待て、おまえビッグクランチなんぞ本気で信じてるのか?」
「おまえこそ昔はスペルカードの名前にもしてたじゃないか」
「いつの話だよ! この宇宙がどうなるかはまだ確定してない未来だ! ビッグクランチも仮説に過ぎない。いや、この宇宙が閉じて終わりだなんて私には――」
「しかしどんなものにも始まりと終わりがある。それが最初の真理だ」
「それは……」
「まあ、この話は今は止そう。おまえが宇宙の果てに辿り着いたならわかることだし。ええと、ああ! 話がこんがらがったじゃないか」
「……本を書く奴のことがわかればそいつが何書くかもわかる、ってんだろ」
魔理沙は少し不貞腐れていたが、パチュリーの口調にはむしろ徐々に熱がこもり始めていた。淡々とした早口。燃えるように穏やかな瞳。
「そうだ! 膨大な時空間上に瞬きする点の一つを特定することは困難でも、長い永い流れの始まりと終わりであれば予測しうる。どんな種、どんな生命体であれ、己の形質を次世代に引き継ぐ術を持っているからな。そこでは必ず流れが生起される。点ではなく、線としての」
「というかそういう方法で消滅を回避し続ける事象を生命と呼ぶんだろうな」
「窓の外を見てみなよ、魔理沙」
そう言うがこの部屋に窓なんてあったろうか? 魔理沙が口を開くより前に、二人は暗黒の掌の中に居た。つるりと透明なガラス球の中に二人、夜空の全てを眺めている。これが窓か? 魔理沙は苦笑する。むしろ宇宙の全てが二人を眺めるための窓のようでさえある。だが苦笑は徐々に鳴りを潜め、気味悪気な声が問いかけた。
「おい、ここどこだ?」
そう叫ぶ魔理沙は、この「窓」と呼ばれる空間に窓も扉も設けられておらず、船との接続部が何処にもないことに文句をつけてるのではなかった。
例えば、美しいが価値のない綺麗な石の詰まった宝石箱があったとして、乱雑なその石の並びを誰が見分けられるだろう? 確かにそんなことは誰にもできないのかもしれない。宝石箱の持ち主の少女でさえ、一度ばらばらに取り出した石ころの山を再び同じ見た目に詰め込み直すことなどできやしない。しかし、同じ宝石箱によく似た別の石ころを詰め込んだとしたら? きっとその少女は違和感を覚えずにはいられないだろう。これは私の宝石箱じゃない!
今、霧雨魔理沙の感じたのもそんな類のものだ。けして言葉にはできない違和感。なにせ宇宙のすべての場所から見える全ての景色を知っているわけじゃない。それでも――魔理沙はこの場所を知らなかった。この宇宙を。感心したパチュリーのため息。
「あぁ、気がつくものなのか。流石だな。少なくともおまえの宇宙じゃないよ」
「仮想空間か?」
パチュリーは大げさにそれを否定し、ちょっとした宝物を示す少女のような顔色を束の間取り戻して答えた。
「私の宇宙さ」
「……なに?」
「この船、この星々、この宇宙の全ては私が産み出したのさ。おまえ、自分がまっすぐこの大図書館に歩いてきたとでも思ってるのかい?」
「いや、待て……確かにあの悪魔の提示した座標に入った時、妙な感じはした。いつもとは違う……しかし異相転移の兆候なんて無かった。そういう罠は飽き飽きしてるんだ。空間と空間の狭間で主観時間数億年もかけながら全身を虚無に溶かされていく末路なんてごめんだからな」
「物騒だな。もっと古典的な手法だよ。今、向こうのおまえは旧・流転する大図書館で眠っている。前におまえに依頼を渡した時のやつだ」
「ここがあのバカでかい船じゃないのか?」
「いや、これも私の大切な愛機だよ……少なくとも物理的な実体としてこの船はスカーレット座星団上空七千光年辺りを巡航速度で航行している」
「……とにかく、一億年の時は誰かのネーミングセンスを壊滅的にすることもあるみたいだな」
「私の永い半生であの子が占めた時間はほんの僅かに過ぎないけれど……それでも特別なものなんだよ。懐郷は捨てえぬ魂の姓なのかもしれない。私は……」
「わかったわかった。それより説明したいんだろ。おまえの宇宙だって? 聞いてやるから話してみろよ」
「ふん……おまえこそ負けず嫌いが一億年も治ってない」
「じゃなきゃとっくに死んでるよ」
「それは同意できる。どうあれ我々は人外と呼ばれた存在の中でも群を抜いて馬鹿な種族だったな……前におまえが来た時、私が五次元空間展開術式の研究をしてたのを覚えてるか」
「ひも理論の魔術への応用だったか……結局、人類は五次元を解き明かせないまま滅んじまったよな。良いところまで迫ってた奴らは居たみたいだが」
「マエリベリー超ひも理論基礎研究財団の書籍からは多くのインスピレーションを受けたが、とにかく彼らには時間が足りなかった」
魔理沙は答えるかわりに肩をすくめてみせる。足りないとは言うが、それが普通なのだ。自分たちがズルをしてるだけだ。
「五次元ってのはそんなに手強いのか?」
「おまえ、勉強不足だね」
「私は探検家だからな。どうしてもサバイバビリティに影響しない知識は疎かになるんだよ」
「……存在の証明だけなら人類も辿り着いていたさ。それも一部の白眉な天才による貢献が多かったようだが」
「じゃあおまえはそっから五千万年も人類の宿題に手こずってたのかよ」
「まさか! 私の目標は高次元の証明なんてものじゃない、その掌握だ! そして私は成功したんだ!」
「じゃあ……私の時間もおまえのものってこと?」
「いや、まあ、完全な高次元空間の掌握には障壁が多すぎる。考えてもみろ、三次元空間ですら未だ征服されざる領域だらけだ」
「もちろん、だからこそ私のような人間がいる」
「私は馬鹿げた縄張り争いに加わるつもりはない。どうしてあらゆる生命種は闘争を好むんだろうね?」
「それはむしろ、どうして一部の連中は争わずにいられるのかって問いが正しいだろ。テクノロジーの発展は指数関数的増大を見せる。それに恐怖するなと言うほうが無理だ。特に、複雑な共有知を蓄えられるような、生存への執着がことさら強い連中にとっては……おまえもたった五千万年で高次元掌握術式を理論化したんだろ? よかったな、私が口の固い人間で」
「適当なことを抜かすな。第一に私は個体であって群体ではない。だからその発展も厳格な一次関数だ。人類の共有知ならあと一万年もあれば高次元への操作を体系化できたはずだし、むしろ私一人でかつては百億を数えた人類の知能の五千分の一馬力も出力できることに感服すべきだと思うね……まあ仮に暗黒森林中の関心を集めたところで返り討ちにしてやるだけだが」
「そりゃすごい」
「虚勢だと思うか? 私が既に七次元空間の展開と操作まで修得したと言っても」
「あまりぽんぽん数を増やすな。有り難みがない」
「この宇宙は七次元空間内に構成されている」
魔理沙の顔からへらへらした態度が後退する。パチュリーは満足げにそれを一瞥してから、この広い宇宙空間内にぽつんと置かれたガラス球の壁面に内側からそっと触れた。自分の創造物を愛おしげに撫でるように。
「より正確に言えば、ある特定条件下のみで成立する四次元空間上に特定条件下のみで成立する五次元空間上に特定条件下のみで成立する六次元空間上に特定条件下のみで成立する七次元空間の内側に構成された六、五、四次元空間の内部に構成した三次元空間なんだが」
「それはわかりやすい説明ってやつだな」
基本的に、高次元から低次元への操作はより容易となる。二次元空間である絵の中の住人が巨大な谷に面しているとして、彼にとって谷は超えられざる障害物となる。が、三次元空間上の人間がそこに橋を一本描き出してやれば、絵の中の彼は無事に谷を渡ることができる。
「だが……五次元空間は私らの宇宙を含めるほどにはデカくないと聞いてるぜ」
「ああ、そうだね。何故かはわからないが、高次元空間は極めてミクロな世界でしか存在できないらしい。しかしそれは我々のスケールからすればの話だ。ようは基準をどこに置くかなのさ」
「待て、わかってきた。ここは七次元空間の内側だって言ったな? 七次元の中に六次元を置いて……」
「置く、という表現はかなり的を外してるんだがね」
再び二次元世界の住人を例にとれば、無事崖を超えた彼を次は万の軍勢が追いかけてくる。実際にその軍勢全てを目にしたならさぞ圧巻だったことだろうが、生憎と彼からもまた平面世界の一部に過ぎない。三次元空間上の小さな漫画のコマ一つにその全てが収まってしまう。
つまり高次元はより巨大な(文字通り次元が異なるため単純な大小の比較はそもそもできないのだが、便宜上)低次元空間を内包できる。
つまり魔理沙たちはあくまで三次元空間上に立っているのだが、それは元々点のように小さな三次元座標に設けられた四次元空間に設けられた五次元空間に設けられた六次元空間に設けられた七次元空間の中に設けられた六、五、四次元空間の中に入子式に設けられた三次元空間上に浮かぶガラス球の中なのである。
「こんな場所に私をどうやって連れてきたんだ? 物理肉体が滅茶苦茶になるだろ」
「言ったろ。本体は眠っているって。主観意識だけをここに転写してる。簡単に言うが大変なんだ、これも」
「じゃあ結局は仮想空間とそう変わりないじゃないか? 七次元の中にいる、と言うとすごい感じだが、実際は詐欺みたいなもんだな」
「まあ否定はしない……ようするに効率の問題だよ。真に七次元空間を自在に行き来できる七次元空間人……そんなものがいるとすればだが……彼らから見れば私の空域なんて児戯に等しい所業に過ぎないだろう。それでも高次元からの操作を容易に……といっても多次元を跨ぐ空間の固着は馬鹿馬鹿しいほど繊細な奥義なんだが、まあ相対的な問題であって……とにかくこの宇宙への操作を思うまま行えるのは無視できないメリットだろう? どんなに完璧な演算に見えても仮想空間は所詮は仮想だ。計算リソースの消費が演算対象の増加に従って指数関数的に増大すると言う問題もある。しかしここは不完全ながらも本物の……つまりだね、ここは私のサンドボックス・スペースなんだよ」
開ければ開けるほどに大きくなっていくマトリョーシカ。魔理沙は今更ながら眼前の魔法使いの狂気に感服した。狂気的な几帳面さと回りくどさに。
例えるならパチュリーは醒めない夢の中に住んでいるようなものだ。その夢の中で仮想の現実を作り出している。夢の中なので仮想現実への細かな操作も思うがままだ。そんな夢のような空間で、この魔女は五千万年も孤独なる真理の探究を続けているらしい。
「……それで? おまえのその素晴らしいびっくり箱宇宙と、最後の本……何の関係が?」
「やっと本題に戻ってきたね」
にやりとパチュリーが微笑む。まるで待ちくたびれたと言いたげな口ぶりだが、最初に話を脱線させたのはパチュリーの方だと魔理沙は覚えていた。ようは、この箱庭を自慢したかっただけだ。少しだけムッとして、また昔みたいに星の一つも盗んでやろうかと思ったが、いよいよ懸命な彼女はただ口をつぐんだ。なにより星は手土産には少々嵩張りすぎる。
「この宇宙は本で満ちている」
「うん?」
「この宇宙のありとあらゆるところでランダムな文字列が生起と消滅を繰り返している」
パチンと指が鳴らされると、一つの巨大な惑星が二人の前に現れた。或いは二人が惑星の上に現れたのかもしれない。ともかく……魔理沙は言葉を失った。一つの思念、確信と共に。
ああ、こいつは馬鹿だ。
そんなことは今更だった。パチュリーたちを乗せたガラス球はみるみる惑星表面へと近づいていく。そんな事をしなくとも魔理沙にはもう見えていたが、いよいよ見間違えようのない近距離で漣立つその地表が目に映る。
漣……確かに地表は薄藍色に揺らめいている。だがそれを構成するのは水分子ではない。大量のメタンガス層でもなければ、酸化銅の津波でもない。
文字だ。アルファベットや漢字のような昔懐かしい連中から、ルルイエ魔術文字、アンドロメダ第二十七標準語、オーバーロード音階記号群、ホーアルシンゲンモスケン諸語文字、その他魔理沙さえ名も知らぬ……そもそも名前すらないのかもしれない膨大な量の文字がぞわぞわと地表面を蠢いている。否、地表だと思われるそれもまた文字なのだろうと魔理沙は直感していた。この惑星そのものが膨大な文字の塊。それが地平線、もとい字平線の彼方まで続いている。魔理沙は笑った。笑う他になかった。パチュリーはすっかり満足したようにうなずいて告げる。
「ここは比較的小さい星だがね」
「あっははは……生物はいないのか? 文字でできた馬や鳥が飛んでる星とか」
「生物は……いずれにせよそんな効率の悪いやり方はしない」
果たして眼前の「これ」が効率的なのか魔理沙には断じ難かった。しかしパチュリーがそう言うならそうなのだろう。そういうことにしておこうと思った。そのまましばし引き付けを起こしたように腹を抱えていたけれど、また徐々に魔法使いの性が取り戻されていく。つまり、好奇心が。
「で、これでどうやって最後の本を作るんだ?」
確かにすごい光景ではある。しかしこんな風にひたすら文字をごった煮していても、できるのは読むに耐えない星の数ほどの落書きだけだろう。ガラス球の表面を風が撫で付けていく。よく目を凝らすとその風のそよぎさえも文字列の連なりだった。しかし全く意味はとれない群像だ。
魔理沙はインフィニットなモンキーのテオリーを思い出した。有限個の文字の組み合わせは必然的に有限個であるから(ただし、最大文字数を無限としない場合だが)、無限の時間を投入してその組み合わせを精査していけば可能であるあらゆるパターンの文字列を発見できるという自明の理。例えシェイクスピアの傑作であっても、アガサクリスQ名作集セットの全巻分だろうと、無限の時間に渡りキーボードを叩き続けた猿によって偶然に産み出されうるという定理。
だがそれは机上の空論だ。哀れな猿の寿命はもちろん、宇宙の寿命から見てもその「偶然」を引き当てる確率はあまりに低すぎた。もちろんパチュリーがそんな初歩的な理屈を知らないはずがない。魔理沙の考えを見透かすように、遠く字平線の向こうを眼差しながらパチュリーが答える。
「流れを掴むんだよ」
魔理沙が同じ方向を見つめても、あるのはただ無限に無意味な文字の流れだけだった。
「言っただろう。点ではなく線ならば捉えられると」
「あの字平線か?」
「ちがう。うん、いや……偉そうに言うがね、私も最初から筋道が見えていたわけじゃない」
「なんだってそうさ」
「そうだな。初めは星一つぶんだった。ちょうどこの星くらいのサイズで、とりあえず大量の文字をごった煮してどうなるかやってみた」
それをとりあえずでやる辺りが可笑しかったが、魔理沙はとりあえず口を噤んで傾聴を続ける。
「だが無限の猿定理は強固な現実でね。意味のある情報なんぞちっとも産み出されやしない。私はとにかく文字を増やすことでそれに対抗してみた。確かに数匹の猿にちまちまタイプライターを叩かせるよりは、数兆、数京という数を引っ張ってきたほうがいいだろう? そしたらどうなったと思う?」
「さあ?」
「自重で潰れてしまったんだ」
懐かしそうにパチュリーが瞳を細める。あまりに大量の情報で内側へ崩壊する文字の星。さぞ圧巻な光景だったろうが、パチュリーはそんなものとっくに見飽きたという雰囲気だ。
「それで……?」
「核を失った文字列はただの文字になってしまったから、実験はそこで中断せざるをえなかった」
「勿体つけるなよ」
「うん、いや、本当にそれは偶然だったんだ。だから少し小恥ずかしくてね」
「偶然によって成されたブレイクスルーを片っ端から引用でもして欲しいのか?」
「……文字惑星が潰れる瞬間、ほんの一瞬だけ文字たちの挙動に違和感があった。その時点ではまだ言葉にもできないような感覚だが、どうせ行き詰まっていた私はその感覚に頼ってみたんだ」
「どうしたんだ?」
「文字で恒星を作ってみた」
「……」
「詳しい手法は割愛するが、ようするにだね、文字の超新星爆発を起こしてみたんだ」
「……段階をすっ飛ばしすぎだろ」
「ちまちまやるよりずっといいだろ? それに結果的にも良かったんだ。文字の太陽が完全に崩壊して超新星爆発を起こす須臾の時、彼を織り上げていた文字達が不思議な挙動を見せた。極めて高い確率で特定の文字が生起されたんだ」
「そりゃ例えば……えーと、全部の文字が一斉に『BANG』! って叫んだってことかい」
「そういうわかりやすい単語じゃなかった。そもそも見たこともないような文字であることがほとんどだったね。しかしともかくも、その現象が私の仮説の基礎になったんだ」
流石にこれだけ丁寧に説明されてわからない魔理沙でもなかった。が、パチュリーの語りたいようにさせておこうと決めた。不用意に誤った推論を口にして恥をかいても嫌だし、なによりパチュリーの瞳の輝き方と言ったら! こういう奴には横槍を刺すべきじゃないと、彼女はよく知っていたから。
「いいか魔理沙、流れを掴むんだよ。滅びの流れだ。文字たちは滅びの瞬間を感知できるのかもしれない。なぜだろうな。とどのつまり文字とは生命の産み出したものだからかもしれん。滅びへの感応力だ。もちろんそれは殆どの場合において無意味な結果に終わるんだろう。ついに避けられぬ破局を前にした虚しい防衛本能なのか、それとも……いや、ともかくだ。宇宙最後の本。きっとそれは、壮大な宇宙の滅びの流れの末端に連なるものだと思うんだ。やっぱりそれも文字の振る舞いの一つなんだからね。あぁ、言ってくれるなよ。もちろん私だってわかってるさ。仮に私の仮説が正しかったとして、宇宙最後の本を書くのは宇宙最後の有文字生命体なのだろう。彼は文字とは違う。きっと一つの意思ある生命体なんだ、それでもだ。私はドンピシャの予想なんてできると思ってない。私はだね、いいか、宇宙最後の本が分布しうる範囲を確定させたいんだ」
違うな、と魔理沙は理解する。パチュリーがそれで満足しているはずがない。だが魔法使いとは極めて夢想家である一方、極めてドライな存在であることも強いられる。それほどまでに真理とは手強いのだ。どこまでもどこまでもと藻掻き続ける泥臭い執念が不可欠な一方で、「これで手打ち」という己の限界点をいつも冷静に見つめていなければならない。
けれどそれは、賢く引き際を見極めろなんて陳腐な戯言とは違う。
真理に近づきすぎて地に墜ちたイカロスは、もし生き残っていたのなら、きっとさらなる手法でもって真理に再戦を挑めたことだろう。蝋よりも耐熱性の高い、それでいて加工の容易な素材を追い求めたはずだ。
魔理沙が僅かに顎を引くと、もうそこは「流転する大図書館」船長の船室に戻っていた。一見して壮大で荘厳な内装も、ついさっき見せられた文字の星に比べれば随分と常識的に思えた。
「よくわかったよ。この宇宙は、文字の恒星を作っては潰してを繰り返すためなんだな。その崩壊の瞬間の文字から何かを見出そうと――」
「そんなんじゃない」
「あん? だが今の話を総合すると――」
言いかけてからふと、魔理沙は一つの馬鹿馬鹿しい考えに行き着いた。口にするのも憚られるような発想。けれどもここまでパチュリーの狂気を浴びせられた彼女には、その思いつきが答えなのだと直感でわかった。
「宇宙か」
「さすがにおまえも魔法使いの端くれだね」
「この宇宙が崩壊する瞬間の……その須臾にどんな文字が生起されるのか。それを確かめたいんだな?」
「正確にはもう何度も試してるんだが」
「は?」
「この宇宙は何度目の試行だったかな……覚えてないんじゃなくて、数に起こすのがちょっとめんどくさいんだ。しかしおまえの気がついた通り、一つの文字宇宙が崩壊する瞬間にはより高純度の滅びの文字が生起される。滅びの文字列が。色々と試行錯誤を重ねてね、おまえのいる基底宇宙で百年も経たないうちに崩壊するような宇宙を構築できるようになった。それでもこっちの時間経過で五百億年程はかかるんだが……おかげでかなり絞り込めてきた」
そう言うパチュリーの口調は実にあっけらかんとしたもので、スープを煮込むのに半日もかかって大変だって調子だった。もちろんパチュリーとてその五百億年の全てに付き合っているわけではないだろう。魔理沙には知る由もないが、七次元空間の配下にはこうした文字宇宙が並行して複数存在しているのかもしれないし、パチュリーだってその全てを観測しているわけじゃないはずだ。魂を休眠させ、不測の事態が起きた場合のみ目覚めるような術式を己に施しているに違いない。
そうやってずっと、ずっと、宇宙最後の本という一つの可能性に至れる道を探している。否、もう既に歩き出している。それだけやって道を外していたらどうするのか、等とは考えない。考えたところでけして正しい道など見えてこないから。
「たくさんの滅びを見たよ。たくさんの滅びの文字たちを……それは全てが可能性なんだ。宇宙最後の本の……というか……本という、文字という現象がついに完全に滅びる時の流れの形だ。私は膨大な宇宙の生成と消滅によって、未だ誰も目にせざる可能性を磨いて、磨いて、磨いている。きっとそれは完全な宇宙の理全てを記した一冊の本である可能性もあるのだろうし、たった一文字を記して絶命した哀れなる生命の唄でもあるのだろう。あぁ、こんなことをしていてなんだけどね、私は残念で仕方がない。本当にその可能性の結実した宇宙最後の本をこの図書館の蔵書に加えられないことが!」
それがパチュリーなりの真理への道。真理への思い。真理への狂気。この文字宇宙実験が実際に完全に狂気の産物で、やはり完全に道を外している可能性もあるのだろう。魔理沙にはどうでもよかった。それよりふと、爽やかな味わいの口内に蘇る感覚がした。それが何であるかを思い出すにはあまりに遠い記憶だったけれど、忘れることもできない味だ。間違いなく魔理沙の美しい記憶の連なりでもっとも輝いた刹那の頃の記憶だったから。ミルキーウェイの奔流を遡った時より儚げに力強い光を放つ記憶の小石。
ああそうだ、パチュリーのやってることはまるで――。
可能性を磨く作業。宇宙が一つ滅びる際に僅かながら収穫できる原石を研磨し、純化された可能性を手に入れようとする営み。まるで酒を作る工程じゃないか? 魔理沙はほくそ笑む。人類文明の滅亡と共に喪われて久しい文化だが、その透き通る香りはまだ味覚に確かに記憶されていた。玄米を磨き精白する過程と、滅びの言葉を磨くのと、どちらも共に好ましき真髄を得ようとする営みには違いない。得られるのが一本の大吟醸酒か、一冊の宇宙最後の本かの違いがあるだけだ。
宴の熱気が魔理沙の身を包む。懐郷病は幾千万年前に克服したと思ったけれど、始まりと終わりが一つの連続した流れの中にあるのなら、どうあれそこから抜け出すことはできないのかもしれない。
「……なあ、この宇宙に生命はいないのか?」
「いない」
間髪入れず断言が返った。先程まで熱にうなされるようだったパチュリーの表情に複雑な曇の色合いが混ざっていた。
「というより、作れなかった。魂が入らない、とでも言うのかな。膨大な宇宙の再生成の中でただの一度も生命は観測できていない」
「星が文字で出来てるからだろう」
「いや、そうでない試行もたくさんあったさ。本当は文字の星ではなく、実際に知的生命体文明の勃興と滅亡を繰り返して可能性を磨こうと思っていたんだ」
それは冗談で言ってるのかと問い返そうとして、魔理沙はけれど開いた口を閉じる。もしそれが真理への確かな道だというのなら、彼女はそうするのだろう。いいや、同じ状況なら魔理沙もそうするかもしれない。魔理沙だって宇宙の果てを目指す過程でたくさんのものを巻き添えにしてきた。それは確かに善意や正義感の名のもとに行ってきたはずだが、所詮は意や感の物であって、巻き込まれる側は知ったことじゃなかったはずだ。だから、本質を同じくする魔法使いとして魔理沙はパチュリーを糾弾できなかった。それに実際のところ、パチュリーはそれをしなかったのだから。
「まあ仮に生命を作れていたとしても、私がいなきゃ存在すらできなかった可能性たちなんだ。感謝されても恨まれる筋合いはないね」
「ひどい奴だな」
「そうかな? 第一、おまえの宇宙だって似たようなものさ。なぜ宇宙が存在するのかという真理を得たものは未だかつて誰もいないんだ」
「待てよ、私たちの宇宙も同じだって言いたいのか? おまえのような偏屈魔法使いが真理を導き出すために創り出した、膨大な試行錯誤の一過程だって」
「そうじゃないことは誰にも否定できない。現に、私がこれまで見てきた宇宙のほぼ全てがそうだったのだから。自分だけが特別だと根拠もなく信じるのはぞっとしないナルシズムだ」
「でもおまえの宇宙は生命を作れなかったじゃないか!」
「それは注目に値する差異だ。けれどやっぱり、我々の存在理由を担保してくれるものではない」
「私は……」
「なんだ、意外にナイーブなんだね? 宇宙が高次の存在による恣意的産物だという着想は今に始まったことじゃないさ」
もちろん魔理沙にだってそんなことはわかっている。ただ間が悪かった。魔理沙の思考は、魂は、ほんの束の間ながら穏やかな過去の時間に飛んでいた。あの、少しだけぶっきらぼうな幼馴染や、叩けども叩けども舞もどってくる悪友たちと酒を飲み交わす少女の頃に。
もちろん今この時が不服なわけじゃない。大宇宙を文字通り駆け巡る彼女はきっと、人類文明の最後に遺したロマンチシズムの申し子で、ついには宇宙の果てを目にしようと目論んでいる。そんな夢が刺激的でないはずがない。ただ、記憶もまた時の流れの中で磨かれ、純化されるものだ。それは思い出という真理だった。流れの終端に近づけば近づくほどに、純化された思い出はより一層その輝きを増すらしかった。
「さてと。いい加減に話しすぎたな。どうせ二度と会うこともないと思うと、門外不出の真理の鍵もうかうかと晒してしまうものだ」
「いや……楽しかったぜ」
「私も久しぶりに自分がどんなものだったか思い出した気がする」
「なあ、長話ついでにもう一つだけ聞いてもいいか?」
パチュリーが肩を竦めて「どうぞ」と促す。魔理沙は努めて平易な声で尋ねてみた。
「その宇宙最後の本、解読できた部分はないのか?」
「……解読、という表現は正しくないが、その最初の一行目は極めて高い蓋然性である特定の意味の連なりに集約可能だった。もちろん実際に記される時は我々の知るどんな言語、どんな文字とも違う形式となるはずだが、それをあえて翻訳するのなら、ちょうどこんな感じになるだろう」
隠そうと思っても自分の息を呑む音が大きく響くのを魔理沙は感じる。
たっぷり数秒間勿体つけてから、パチュリーはまた口を開いた。
「むかしむかしあるところに」
「お待ちしておりました、霧雨魔理沙様」
出迎えを適当にあしらいつつ、訪問者は相変わらずの威容にため息をつく。天まで届く程の書棚の壁。生半可な比喩でもなく、本当に彼方を貫く高さなのだ。Y軸座標上ほぼ無限に拡張された書棚に収められたほぼ無限冊の本。この世にありうる全ての本という本がそこに収まっているかのよう。
しかし訪問者は知っている。それが張りぼてなのだと。きっとこの膨大な本の殆どは一度とて読まれたことなどないだろう。それは本にとっては悲劇かもしれない。いや、彼らはただの分子の連なりに過ぎない。余計な感情をパッケージして隅に追いやる。そんなことも、この一億年……目の前で母星を失う者の悲哀、事象の地平線に落ち込んだ難民たち、何百万年と帰らぬ主を待つ自動人形、悲劇は地にも天にもありふれている。全ての感情と向き合ってはやっていけない。だがそれは彼女が冷徹である証左にはならない。むしろ逆。捨てようと思えば捨てられる感情というモジュールを一億年も後生大事に抱き抱えていることが彼女の、霧雨魔理沙の甘さであり、強さでもあった。
「案内はいいよ。あいつは?」
「船長室に」
船長室、という名称には疑問符がつくが、それでも魔理沙は一人で書棚の隙間をズカズカ進んでいく。船長室があるなら船室もあるのか? 答えはノーだ。あるのは船長室と無限の本棚だけ。「流転する大図書館」と名を与えられたこの場所、この図書館は……その名の通り、広大な宇宙空間上を流転し続ける船に似ている。もしも船窓からちらりと外を覗いたなら、目も眩む星の海が見えただろう。魔理沙も初訪問時は社交辞令並に感動して見せたが、今はもう脇道に目もくれない。五千万年も前の話だ。今回の長大なクエストを受ける前は、数十から数百万年に一度くらいは足を運んでいたから。ただ当時はまだ若かった。少なくとも今よりは、ずっと。
「遅かったね」
ふと顔を上げると、もう書棚の無限の壁は見えなかった。まだ主観時間で五分も歩いていない。位相転移。船長室というより、巨大な太陽系儀のミニチュアの上といった方が近い空間だ。魔理沙にさえ用途のわからない数百か数千の星々の模型が極めて神経質なる均一のペースで複雑な運行を続けている。中には永遠の三体運動を演じ続ける続ける三連星もある。相変わらず見える範囲に天井はなく、光源は星の放つ光。しかし宇宙そのものを演算しているにしてはあまりに貧相な数だ。ちょっとしたインテリアなのかもしれない。五千万年も経つと人の趣味も変わるものだ。
「案内はいらんと言ったろ」
「昔の癖は抜けないな。あんたを彷徨かせてると気分がそよぐ」
へらへらと笑い返す魔理沙に、部屋の中央、安楽椅子の平べったくなったようなものに寝そべる女が顔を上げて微笑む。そんな風に身を起こすのも久々という緩慢な動きだ。事実、そうなのだろう。見てくれは人の形をしているが、それが本当の彼女……パチュリー・ノーレッジなのかさえ怪しいものだ。
「クエストをこなしてきたぜ、大魔導師殿。銀河を股にかけてな」
「ああ……悪いね。よくたった五千万年で戻ってこれたな」
「仕事の速さには自信がある。まあ楽な旅じゃなかったさ。予期しないクェーサーにうっかり近づきすぎた時にゃ、閉じた重力場に呑まれて危うく脱出し損ねる所だった」
「そしたらここに来るのはあと十億年も遅かったろうね。だから報酬を吊り上げろって? 危険手当として……」
「そんなケチじゃない。どうせ元々の目的のついでだから。旅人ってのは冒険譚を口にしたがるんだよ」
「宇宙の果てには辿り着けたのかい」
「だったらここには戻って来ないな」
それもそうだ、とパチュリーは鷹揚に頷いてから、魔理沙の差し出した紙切れを受け取る。そこに記されているのは座標だ。「完全に生命の存在しない星系」の座標。一瞥された紙切れが幻と消える。もちろんあの紙切れは本物の紙片じゃない。魔理沙の知識の投影。パチュリーはそれを記憶し、破棄した。それをメモのやり取りのようにしたのは魔理沙の遊び心でしかない。
「助かるよ。資源はいくらあっても足らないくらいだ」
「相変わらず魔女様はお優しいな」
「……別に慈悲の心から生命体を避けてるんじゃない。繊細な作業なんだよ。不確定要素は最小限にしたい」
「それに星系を丸ごとバラしちまうんだ。抵抗されたら面倒くさいもんな」
およそ五千万前、パチュリーが魔理沙に頼んだ「おつかい」は生命の存在する星系の座標調査……ではなく、完全に生命の存在しない星系の調査だった。理由は明らかで、星々を分解して資源に使うのだろう。恒星は水素を初めとする膨大な元素の貯蔵庫だし、その周囲を回転する惑星群も種々の希少な資源を抱えている。べつにパチュリーは銀河帝国を滅ぼせるような死の惑星兵器を建造しているわけではない。彼女はただの魔法使いだ。同時に錬金術師でもある。あらゆる実験には資源がいる。だから本当に、魔理沙にとって「ちょっとしたおつかい」程度のものだった。
「わかってるなら聞くな……もう次の冒険に行くのかい」
「うん、宇宙ってのは膨張してるだろ。刻一刻と果ては遠ざかる。やるなら早いに越したことはない。今、ラストダイブの準備をしてるよ。といってもこれまでのどんな旅より長くかかるだろうが。数十億年か、数百億年か、数千億年か」
「……じゃ、ここに来るのも最後だ。好きな『知識』を持っていきなよ。宇宙の果ては私も興味がある」
「悪いが辿り着けたと教えてやることはできないぜ」
「いいんだ。誰かがそこに辿り着いたことが重要だ。あるいは辿り着けなかったことが」
「お前も丸くなったよ」
「変わらないものはない。最もよく知られた真理の一つだな」
「よく言う! 魔法使いってのは変わらないものを追い求める種族だろ」
「そう、変わらないものはないからこそ、変わらないものは偉大だ。それこそが真理と呼ばれるものだ」
「じゃあな」
魔理沙は踵を返した。けれどもふと足を止め、また振り帰る。
「どうした?」
「いや、幾星霜の旅路なんだ。ほんの数分を惜しむのも馬鹿らしい」
「その数分でどれだけ宇宙は広がるのやら」
「親交を温める方が大切さ。少なくとも友との思い出は幾千億年の孤独な旅路にも耐える」
「おまえを友と思ったことはないがね」
「寂しい事言うなよ。そっちだってずっと一人なんだろ……いやあの悪魔の司書がいるのか。あいつも我慢強いな」
「あいつは縛られているからね。私なんぞと契ったのが運の尽き。他の皆は久遠の昔に生きる事へ飽いてしまった。確かに他の顔見知りといえばお前くらいだ」
「回りくどさは一億年経っても変わらないな」
「それもまた真理」
薄笑いを浮かべたパチュリーが指先を振るうと、魔理沙の後ろに簡素な椅子一つが生じた。ずっと昔、それこそ気の遠くなるほどの昔、まだ二人の魔女が地上に縛られていた頃に紅い館で使われていた来客用の椅子だった。来客用と言っても「気を使う価値の無い」客だが。
「今更肉体の疲れを気にするような身じゃ無いが、こんな心配りは嬉しいね」
苦笑しながら腰掛けると、魔理沙は軽い調子で問うた。
「それで? 今はどんな真理を求めてるんだ? まだ五次元空間の形成とやらをやってんのか?」
「その知識は調査報酬にしては大きすぎるな」
「でもね、おまえ最初っから話したくて仕方ないって顔してるぜ」
「してない」
「安心しろ。どうせ聞いたって真似できない」
それもそうだと思ったのか、或いは本当に話したかっただけなのか、パチュリーはこほんと咳払いをして続けた。
「今は……最後の本を作っている」
「魔導書ってことか? つまり、おまえのこれまでの探究をまとめた――」
「ぜんぜん違う。より正確に言えば、この宇宙で最後に作られる筈の本を演算している。宇宙最後の本だ」
ほらね、聞いたってわからないだろ? と言いたげに魔理沙は楽しげに問い返す。
「つまり未来予知か?」
「未来予知は不可能だ。知っての通り、ラプラスの悪魔は遠い昔に滅んだ遺物さ。まあ未来のパターンは有限だからほぼ無限に等しい計算リソースがあればほぼ無限に等しい解の全パターンを取得することはできるだろう。未来予測ではなく未来羅列だがね……もっとも残念ながら私の持ちうるリソースは有限で、それも限りなく少ない」
もし本当に無限の計算資源があれば直ぐにでもそれをやってのけるという口振りで彼女はため息をつく。
「それでも、ある特定条件下における様相は現実的に予測可能だ。おまえにもわかるだろ」
「無垢な生徒の役の方が楽なんだが……はぁ。あれだろ、始まりと終わり」
「そうだ。この宇宙のことをまだ微塵も知らなかったかつての人類でさえ、その始まりと終わりについては極めて少ないパターンまで絞り込めたんだ。可能性はその分岐のたびにカオスを増していくが、始まりと終わりは必ず一つだからね。羅列された可能性の箱のどれを開いたとしても、すべての中身が同じならそれは予測可能な事柄となる。その人がどんな一生を送るかはわからなくとも、きっと最後に死ぬことだけは自明であるように」
「死を拒絶した連中が言うには説得力のないセリフだ」
「もちろん外れ値はある。それを予め除けておく精度が結局は予知の精度なんだな」
「最低なモンティ・ホール問題だね。それで……なぜ本なんだ?」
「私は本を愛している」
「知ってるよ」
「だから私は、本というものの死に様が見たいんだ」
「ああ、だから最後の本を……この世界に存在するはずの、本という現象の終わりを……それが今おまえの求める真理なんだな?」
「だからそう言ってるだろう」
魔理沙は少しだけ長い沈黙を要した。星の糸で編み上げたモノクロームの鍔広帽を押し下げ、パチュリーの言葉を咀嚼する。聞いても真似できないと言っておきながら……しかしそれも魔法使いの習性。面白そうなアイデアがあれば、それが誰のものであろうと考えずにはいられない。パチュリーとてそれはわかっている。それに少し考えた程度で筋道が立つような真理なら、彼女はそもそも見向きもしないだろう。
そしてようやく顔を上げ魔理沙は芝居がかった調子でかぶりを振った。
「おまえの理屈は一見筋が通ってなくもないが、やはり無理があるよ。本ってのはあくまで抽象的な概念でしかない。何か情報の連なったものを観測者が勝手にそう認定してるに過ぎない。ロゼッタストーンは文書かも知れないが、本ではないかもしれない。誰かが砂地に引っ掻いて作った水場のありかを示すメッセージは本なのか? 可視光線に頼らない生命体の文化はどうする?」
「ある生命体が、きっと反復的に参照されることを前提として己の思考や知識を外部化する時に……それを本と呼ぶんだよ。少なくともロゼッタストーンは本棚にあって然るべきだ。でなければ、博物館に」
「それだって情報遺伝を反復的に行える生物の問題はあるが」
「差別的だな。彼らだって己の生得的な能力を用いてさえ外部から参照不可能となりうる情報を何らかの形で残したいと思うかも知れないだろう。情報遺伝器官はその種が滅びれば使えなくなるんだからな……その浪漫こそが本を記すモチベーションだ」
「まあ仮にそうした定義の問題をクリアしたところで……どうあれそれらは、特定の個体の表現型でしかない。宇宙や生命みたいな連続した事象じゃなく、断絶した個別の問題だ。宇宙の終わりを求めるようにはいかないんじゃないか?」
「もちろんその指摘は正しい。けれどやはり、おまえは本には素人だね」
「おまえと比べちゃみんなそうさ」
「ようは同じなのさ。仮に本というものが個別の生命体の表現型に過ぎないとしても、連綿連なるその最果てに記される一冊は、どうあれ執筆者が背負う大きな流れの終着点にならざるを得ない。宇宙が野放図に広がったところで、最後には極限のゼロに収束するように……」
「待て、おまえビッグクランチなんぞ本気で信じてるのか?」
「おまえこそ昔はスペルカードの名前にもしてたじゃないか」
「いつの話だよ! この宇宙がどうなるかはまだ確定してない未来だ! ビッグクランチも仮説に過ぎない。いや、この宇宙が閉じて終わりだなんて私には――」
「しかしどんなものにも始まりと終わりがある。それが最初の真理だ」
「それは……」
「まあ、この話は今は止そう。おまえが宇宙の果てに辿り着いたならわかることだし。ええと、ああ! 話がこんがらがったじゃないか」
「……本を書く奴のことがわかればそいつが何書くかもわかる、ってんだろ」
魔理沙は少し不貞腐れていたが、パチュリーの口調にはむしろ徐々に熱がこもり始めていた。淡々とした早口。燃えるように穏やかな瞳。
「そうだ! 膨大な時空間上に瞬きする点の一つを特定することは困難でも、長い永い流れの始まりと終わりであれば予測しうる。どんな種、どんな生命体であれ、己の形質を次世代に引き継ぐ術を持っているからな。そこでは必ず流れが生起される。点ではなく、線としての」
「というかそういう方法で消滅を回避し続ける事象を生命と呼ぶんだろうな」
「窓の外を見てみなよ、魔理沙」
そう言うがこの部屋に窓なんてあったろうか? 魔理沙が口を開くより前に、二人は暗黒の掌の中に居た。つるりと透明なガラス球の中に二人、夜空の全てを眺めている。これが窓か? 魔理沙は苦笑する。むしろ宇宙の全てが二人を眺めるための窓のようでさえある。だが苦笑は徐々に鳴りを潜め、気味悪気な声が問いかけた。
「おい、ここどこだ?」
そう叫ぶ魔理沙は、この「窓」と呼ばれる空間に窓も扉も設けられておらず、船との接続部が何処にもないことに文句をつけてるのではなかった。
例えば、美しいが価値のない綺麗な石の詰まった宝石箱があったとして、乱雑なその石の並びを誰が見分けられるだろう? 確かにそんなことは誰にもできないのかもしれない。宝石箱の持ち主の少女でさえ、一度ばらばらに取り出した石ころの山を再び同じ見た目に詰め込み直すことなどできやしない。しかし、同じ宝石箱によく似た別の石ころを詰め込んだとしたら? きっとその少女は違和感を覚えずにはいられないだろう。これは私の宝石箱じゃない!
今、霧雨魔理沙の感じたのもそんな類のものだ。けして言葉にはできない違和感。なにせ宇宙のすべての場所から見える全ての景色を知っているわけじゃない。それでも――魔理沙はこの場所を知らなかった。この宇宙を。感心したパチュリーのため息。
「あぁ、気がつくものなのか。流石だな。少なくともおまえの宇宙じゃないよ」
「仮想空間か?」
パチュリーは大げさにそれを否定し、ちょっとした宝物を示す少女のような顔色を束の間取り戻して答えた。
「私の宇宙さ」
「……なに?」
「この船、この星々、この宇宙の全ては私が産み出したのさ。おまえ、自分がまっすぐこの大図書館に歩いてきたとでも思ってるのかい?」
「いや、待て……確かにあの悪魔の提示した座標に入った時、妙な感じはした。いつもとは違う……しかし異相転移の兆候なんて無かった。そういう罠は飽き飽きしてるんだ。空間と空間の狭間で主観時間数億年もかけながら全身を虚無に溶かされていく末路なんてごめんだからな」
「物騒だな。もっと古典的な手法だよ。今、向こうのおまえは旧・流転する大図書館で眠っている。前におまえに依頼を渡した時のやつだ」
「ここがあのバカでかい船じゃないのか?」
「いや、これも私の大切な愛機だよ……少なくとも物理的な実体としてこの船はスカーレット座星団上空七千光年辺りを巡航速度で航行している」
「……とにかく、一億年の時は誰かのネーミングセンスを壊滅的にすることもあるみたいだな」
「私の永い半生であの子が占めた時間はほんの僅かに過ぎないけれど……それでも特別なものなんだよ。懐郷は捨てえぬ魂の姓なのかもしれない。私は……」
「わかったわかった。それより説明したいんだろ。おまえの宇宙だって? 聞いてやるから話してみろよ」
「ふん……おまえこそ負けず嫌いが一億年も治ってない」
「じゃなきゃとっくに死んでるよ」
「それは同意できる。どうあれ我々は人外と呼ばれた存在の中でも群を抜いて馬鹿な種族だったな……前におまえが来た時、私が五次元空間展開術式の研究をしてたのを覚えてるか」
「ひも理論の魔術への応用だったか……結局、人類は五次元を解き明かせないまま滅んじまったよな。良いところまで迫ってた奴らは居たみたいだが」
「マエリベリー超ひも理論基礎研究財団の書籍からは多くのインスピレーションを受けたが、とにかく彼らには時間が足りなかった」
魔理沙は答えるかわりに肩をすくめてみせる。足りないとは言うが、それが普通なのだ。自分たちがズルをしてるだけだ。
「五次元ってのはそんなに手強いのか?」
「おまえ、勉強不足だね」
「私は探検家だからな。どうしてもサバイバビリティに影響しない知識は疎かになるんだよ」
「……存在の証明だけなら人類も辿り着いていたさ。それも一部の白眉な天才による貢献が多かったようだが」
「じゃあおまえはそっから五千万年も人類の宿題に手こずってたのかよ」
「まさか! 私の目標は高次元の証明なんてものじゃない、その掌握だ! そして私は成功したんだ!」
「じゃあ……私の時間もおまえのものってこと?」
「いや、まあ、完全な高次元空間の掌握には障壁が多すぎる。考えてもみろ、三次元空間ですら未だ征服されざる領域だらけだ」
「もちろん、だからこそ私のような人間がいる」
「私は馬鹿げた縄張り争いに加わるつもりはない。どうしてあらゆる生命種は闘争を好むんだろうね?」
「それはむしろ、どうして一部の連中は争わずにいられるのかって問いが正しいだろ。テクノロジーの発展は指数関数的増大を見せる。それに恐怖するなと言うほうが無理だ。特に、複雑な共有知を蓄えられるような、生存への執着がことさら強い連中にとっては……おまえもたった五千万年で高次元掌握術式を理論化したんだろ? よかったな、私が口の固い人間で」
「適当なことを抜かすな。第一に私は個体であって群体ではない。だからその発展も厳格な一次関数だ。人類の共有知ならあと一万年もあれば高次元への操作を体系化できたはずだし、むしろ私一人でかつては百億を数えた人類の知能の五千分の一馬力も出力できることに感服すべきだと思うね……まあ仮に暗黒森林中の関心を集めたところで返り討ちにしてやるだけだが」
「そりゃすごい」
「虚勢だと思うか? 私が既に七次元空間の展開と操作まで修得したと言っても」
「あまりぽんぽん数を増やすな。有り難みがない」
「この宇宙は七次元空間内に構成されている」
魔理沙の顔からへらへらした態度が後退する。パチュリーは満足げにそれを一瞥してから、この広い宇宙空間内にぽつんと置かれたガラス球の壁面に内側からそっと触れた。自分の創造物を愛おしげに撫でるように。
「より正確に言えば、ある特定条件下のみで成立する四次元空間上に特定条件下のみで成立する五次元空間上に特定条件下のみで成立する六次元空間上に特定条件下のみで成立する七次元空間の内側に構成された六、五、四次元空間の内部に構成した三次元空間なんだが」
「それはわかりやすい説明ってやつだな」
基本的に、高次元から低次元への操作はより容易となる。二次元空間である絵の中の住人が巨大な谷に面しているとして、彼にとって谷は超えられざる障害物となる。が、三次元空間上の人間がそこに橋を一本描き出してやれば、絵の中の彼は無事に谷を渡ることができる。
「だが……五次元空間は私らの宇宙を含めるほどにはデカくないと聞いてるぜ」
「ああ、そうだね。何故かはわからないが、高次元空間は極めてミクロな世界でしか存在できないらしい。しかしそれは我々のスケールからすればの話だ。ようは基準をどこに置くかなのさ」
「待て、わかってきた。ここは七次元空間の内側だって言ったな? 七次元の中に六次元を置いて……」
「置く、という表現はかなり的を外してるんだがね」
再び二次元世界の住人を例にとれば、無事崖を超えた彼を次は万の軍勢が追いかけてくる。実際にその軍勢全てを目にしたならさぞ圧巻だったことだろうが、生憎と彼からもまた平面世界の一部に過ぎない。三次元空間上の小さな漫画のコマ一つにその全てが収まってしまう。
つまり高次元はより巨大な(文字通り次元が異なるため単純な大小の比較はそもそもできないのだが、便宜上)低次元空間を内包できる。
つまり魔理沙たちはあくまで三次元空間上に立っているのだが、それは元々点のように小さな三次元座標に設けられた四次元空間に設けられた五次元空間に設けられた六次元空間に設けられた七次元空間の中に設けられた六、五、四次元空間の中に入子式に設けられた三次元空間上に浮かぶガラス球の中なのである。
「こんな場所に私をどうやって連れてきたんだ? 物理肉体が滅茶苦茶になるだろ」
「言ったろ。本体は眠っているって。主観意識だけをここに転写してる。簡単に言うが大変なんだ、これも」
「じゃあ結局は仮想空間とそう変わりないじゃないか? 七次元の中にいる、と言うとすごい感じだが、実際は詐欺みたいなもんだな」
「まあ否定はしない……ようするに効率の問題だよ。真に七次元空間を自在に行き来できる七次元空間人……そんなものがいるとすればだが……彼らから見れば私の空域なんて児戯に等しい所業に過ぎないだろう。それでも高次元からの操作を容易に……といっても多次元を跨ぐ空間の固着は馬鹿馬鹿しいほど繊細な奥義なんだが、まあ相対的な問題であって……とにかくこの宇宙への操作を思うまま行えるのは無視できないメリットだろう? どんなに完璧な演算に見えても仮想空間は所詮は仮想だ。計算リソースの消費が演算対象の増加に従って指数関数的に増大すると言う問題もある。しかしここは不完全ながらも本物の……つまりだね、ここは私のサンドボックス・スペースなんだよ」
開ければ開けるほどに大きくなっていくマトリョーシカ。魔理沙は今更ながら眼前の魔法使いの狂気に感服した。狂気的な几帳面さと回りくどさに。
例えるならパチュリーは醒めない夢の中に住んでいるようなものだ。その夢の中で仮想の現実を作り出している。夢の中なので仮想現実への細かな操作も思うがままだ。そんな夢のような空間で、この魔女は五千万年も孤独なる真理の探究を続けているらしい。
「……それで? おまえのその素晴らしいびっくり箱宇宙と、最後の本……何の関係が?」
「やっと本題に戻ってきたね」
にやりとパチュリーが微笑む。まるで待ちくたびれたと言いたげな口ぶりだが、最初に話を脱線させたのはパチュリーの方だと魔理沙は覚えていた。ようは、この箱庭を自慢したかっただけだ。少しだけムッとして、また昔みたいに星の一つも盗んでやろうかと思ったが、いよいよ懸命な彼女はただ口をつぐんだ。なにより星は手土産には少々嵩張りすぎる。
「この宇宙は本で満ちている」
「うん?」
「この宇宙のありとあらゆるところでランダムな文字列が生起と消滅を繰り返している」
パチンと指が鳴らされると、一つの巨大な惑星が二人の前に現れた。或いは二人が惑星の上に現れたのかもしれない。ともかく……魔理沙は言葉を失った。一つの思念、確信と共に。
ああ、こいつは馬鹿だ。
そんなことは今更だった。パチュリーたちを乗せたガラス球はみるみる惑星表面へと近づいていく。そんな事をしなくとも魔理沙にはもう見えていたが、いよいよ見間違えようのない近距離で漣立つその地表が目に映る。
漣……確かに地表は薄藍色に揺らめいている。だがそれを構成するのは水分子ではない。大量のメタンガス層でもなければ、酸化銅の津波でもない。
文字だ。アルファベットや漢字のような昔懐かしい連中から、ルルイエ魔術文字、アンドロメダ第二十七標準語、オーバーロード音階記号群、ホーアルシンゲンモスケン諸語文字、その他魔理沙さえ名も知らぬ……そもそも名前すらないのかもしれない膨大な量の文字がぞわぞわと地表面を蠢いている。否、地表だと思われるそれもまた文字なのだろうと魔理沙は直感していた。この惑星そのものが膨大な文字の塊。それが地平線、もとい字平線の彼方まで続いている。魔理沙は笑った。笑う他になかった。パチュリーはすっかり満足したようにうなずいて告げる。
「ここは比較的小さい星だがね」
「あっははは……生物はいないのか? 文字でできた馬や鳥が飛んでる星とか」
「生物は……いずれにせよそんな効率の悪いやり方はしない」
果たして眼前の「これ」が効率的なのか魔理沙には断じ難かった。しかしパチュリーがそう言うならそうなのだろう。そういうことにしておこうと思った。そのまましばし引き付けを起こしたように腹を抱えていたけれど、また徐々に魔法使いの性が取り戻されていく。つまり、好奇心が。
「で、これでどうやって最後の本を作るんだ?」
確かにすごい光景ではある。しかしこんな風にひたすら文字をごった煮していても、できるのは読むに耐えない星の数ほどの落書きだけだろう。ガラス球の表面を風が撫で付けていく。よく目を凝らすとその風のそよぎさえも文字列の連なりだった。しかし全く意味はとれない群像だ。
魔理沙はインフィニットなモンキーのテオリーを思い出した。有限個の文字の組み合わせは必然的に有限個であるから(ただし、最大文字数を無限としない場合だが)、無限の時間を投入してその組み合わせを精査していけば可能であるあらゆるパターンの文字列を発見できるという自明の理。例えシェイクスピアの傑作であっても、アガサクリスQ名作集セットの全巻分だろうと、無限の時間に渡りキーボードを叩き続けた猿によって偶然に産み出されうるという定理。
だがそれは机上の空論だ。哀れな猿の寿命はもちろん、宇宙の寿命から見てもその「偶然」を引き当てる確率はあまりに低すぎた。もちろんパチュリーがそんな初歩的な理屈を知らないはずがない。魔理沙の考えを見透かすように、遠く字平線の向こうを眼差しながらパチュリーが答える。
「流れを掴むんだよ」
魔理沙が同じ方向を見つめても、あるのはただ無限に無意味な文字の流れだけだった。
「言っただろう。点ではなく線ならば捉えられると」
「あの字平線か?」
「ちがう。うん、いや……偉そうに言うがね、私も最初から筋道が見えていたわけじゃない」
「なんだってそうさ」
「そうだな。初めは星一つぶんだった。ちょうどこの星くらいのサイズで、とりあえず大量の文字をごった煮してどうなるかやってみた」
それをとりあえずでやる辺りが可笑しかったが、魔理沙はとりあえず口を噤んで傾聴を続ける。
「だが無限の猿定理は強固な現実でね。意味のある情報なんぞちっとも産み出されやしない。私はとにかく文字を増やすことでそれに対抗してみた。確かに数匹の猿にちまちまタイプライターを叩かせるよりは、数兆、数京という数を引っ張ってきたほうがいいだろう? そしたらどうなったと思う?」
「さあ?」
「自重で潰れてしまったんだ」
懐かしそうにパチュリーが瞳を細める。あまりに大量の情報で内側へ崩壊する文字の星。さぞ圧巻な光景だったろうが、パチュリーはそんなものとっくに見飽きたという雰囲気だ。
「それで……?」
「核を失った文字列はただの文字になってしまったから、実験はそこで中断せざるをえなかった」
「勿体つけるなよ」
「うん、いや、本当にそれは偶然だったんだ。だから少し小恥ずかしくてね」
「偶然によって成されたブレイクスルーを片っ端から引用でもして欲しいのか?」
「……文字惑星が潰れる瞬間、ほんの一瞬だけ文字たちの挙動に違和感があった。その時点ではまだ言葉にもできないような感覚だが、どうせ行き詰まっていた私はその感覚に頼ってみたんだ」
「どうしたんだ?」
「文字で恒星を作ってみた」
「……」
「詳しい手法は割愛するが、ようするにだね、文字の超新星爆発を起こしてみたんだ」
「……段階をすっ飛ばしすぎだろ」
「ちまちまやるよりずっといいだろ? それに結果的にも良かったんだ。文字の太陽が完全に崩壊して超新星爆発を起こす須臾の時、彼を織り上げていた文字達が不思議な挙動を見せた。極めて高い確率で特定の文字が生起されたんだ」
「そりゃ例えば……えーと、全部の文字が一斉に『BANG』! って叫んだってことかい」
「そういうわかりやすい単語じゃなかった。そもそも見たこともないような文字であることがほとんどだったね。しかしともかくも、その現象が私の仮説の基礎になったんだ」
流石にこれだけ丁寧に説明されてわからない魔理沙でもなかった。が、パチュリーの語りたいようにさせておこうと決めた。不用意に誤った推論を口にして恥をかいても嫌だし、なによりパチュリーの瞳の輝き方と言ったら! こういう奴には横槍を刺すべきじゃないと、彼女はよく知っていたから。
「いいか魔理沙、流れを掴むんだよ。滅びの流れだ。文字たちは滅びの瞬間を感知できるのかもしれない。なぜだろうな。とどのつまり文字とは生命の産み出したものだからかもしれん。滅びへの感応力だ。もちろんそれは殆どの場合において無意味な結果に終わるんだろう。ついに避けられぬ破局を前にした虚しい防衛本能なのか、それとも……いや、ともかくだ。宇宙最後の本。きっとそれは、壮大な宇宙の滅びの流れの末端に連なるものだと思うんだ。やっぱりそれも文字の振る舞いの一つなんだからね。あぁ、言ってくれるなよ。もちろん私だってわかってるさ。仮に私の仮説が正しかったとして、宇宙最後の本を書くのは宇宙最後の有文字生命体なのだろう。彼は文字とは違う。きっと一つの意思ある生命体なんだ、それでもだ。私はドンピシャの予想なんてできると思ってない。私はだね、いいか、宇宙最後の本が分布しうる範囲を確定させたいんだ」
違うな、と魔理沙は理解する。パチュリーがそれで満足しているはずがない。だが魔法使いとは極めて夢想家である一方、極めてドライな存在であることも強いられる。それほどまでに真理とは手強いのだ。どこまでもどこまでもと藻掻き続ける泥臭い執念が不可欠な一方で、「これで手打ち」という己の限界点をいつも冷静に見つめていなければならない。
けれどそれは、賢く引き際を見極めろなんて陳腐な戯言とは違う。
真理に近づきすぎて地に墜ちたイカロスは、もし生き残っていたのなら、きっとさらなる手法でもって真理に再戦を挑めたことだろう。蝋よりも耐熱性の高い、それでいて加工の容易な素材を追い求めたはずだ。
魔理沙が僅かに顎を引くと、もうそこは「流転する大図書館」船長の船室に戻っていた。一見して壮大で荘厳な内装も、ついさっき見せられた文字の星に比べれば随分と常識的に思えた。
「よくわかったよ。この宇宙は、文字の恒星を作っては潰してを繰り返すためなんだな。その崩壊の瞬間の文字から何かを見出そうと――」
「そんなんじゃない」
「あん? だが今の話を総合すると――」
言いかけてからふと、魔理沙は一つの馬鹿馬鹿しい考えに行き着いた。口にするのも憚られるような発想。けれどもここまでパチュリーの狂気を浴びせられた彼女には、その思いつきが答えなのだと直感でわかった。
「宇宙か」
「さすがにおまえも魔法使いの端くれだね」
「この宇宙が崩壊する瞬間の……その須臾にどんな文字が生起されるのか。それを確かめたいんだな?」
「正確にはもう何度も試してるんだが」
「は?」
「この宇宙は何度目の試行だったかな……覚えてないんじゃなくて、数に起こすのがちょっとめんどくさいんだ。しかしおまえの気がついた通り、一つの文字宇宙が崩壊する瞬間にはより高純度の滅びの文字が生起される。滅びの文字列が。色々と試行錯誤を重ねてね、おまえのいる基底宇宙で百年も経たないうちに崩壊するような宇宙を構築できるようになった。それでもこっちの時間経過で五百億年程はかかるんだが……おかげでかなり絞り込めてきた」
そう言うパチュリーの口調は実にあっけらかんとしたもので、スープを煮込むのに半日もかかって大変だって調子だった。もちろんパチュリーとてその五百億年の全てに付き合っているわけではないだろう。魔理沙には知る由もないが、七次元空間の配下にはこうした文字宇宙が並行して複数存在しているのかもしれないし、パチュリーだってその全てを観測しているわけじゃないはずだ。魂を休眠させ、不測の事態が起きた場合のみ目覚めるような術式を己に施しているに違いない。
そうやってずっと、ずっと、宇宙最後の本という一つの可能性に至れる道を探している。否、もう既に歩き出している。それだけやって道を外していたらどうするのか、等とは考えない。考えたところでけして正しい道など見えてこないから。
「たくさんの滅びを見たよ。たくさんの滅びの文字たちを……それは全てが可能性なんだ。宇宙最後の本の……というか……本という、文字という現象がついに完全に滅びる時の流れの形だ。私は膨大な宇宙の生成と消滅によって、未だ誰も目にせざる可能性を磨いて、磨いて、磨いている。きっとそれは完全な宇宙の理全てを記した一冊の本である可能性もあるのだろうし、たった一文字を記して絶命した哀れなる生命の唄でもあるのだろう。あぁ、こんなことをしていてなんだけどね、私は残念で仕方がない。本当にその可能性の結実した宇宙最後の本をこの図書館の蔵書に加えられないことが!」
それがパチュリーなりの真理への道。真理への思い。真理への狂気。この文字宇宙実験が実際に完全に狂気の産物で、やはり完全に道を外している可能性もあるのだろう。魔理沙にはどうでもよかった。それよりふと、爽やかな味わいの口内に蘇る感覚がした。それが何であるかを思い出すにはあまりに遠い記憶だったけれど、忘れることもできない味だ。間違いなく魔理沙の美しい記憶の連なりでもっとも輝いた刹那の頃の記憶だったから。ミルキーウェイの奔流を遡った時より儚げに力強い光を放つ記憶の小石。
ああそうだ、パチュリーのやってることはまるで――。
可能性を磨く作業。宇宙が一つ滅びる際に僅かながら収穫できる原石を研磨し、純化された可能性を手に入れようとする営み。まるで酒を作る工程じゃないか? 魔理沙はほくそ笑む。人類文明の滅亡と共に喪われて久しい文化だが、その透き通る香りはまだ味覚に確かに記憶されていた。玄米を磨き精白する過程と、滅びの言葉を磨くのと、どちらも共に好ましき真髄を得ようとする営みには違いない。得られるのが一本の大吟醸酒か、一冊の宇宙最後の本かの違いがあるだけだ。
宴の熱気が魔理沙の身を包む。懐郷病は幾千万年前に克服したと思ったけれど、始まりと終わりが一つの連続した流れの中にあるのなら、どうあれそこから抜け出すことはできないのかもしれない。
「……なあ、この宇宙に生命はいないのか?」
「いない」
間髪入れず断言が返った。先程まで熱にうなされるようだったパチュリーの表情に複雑な曇の色合いが混ざっていた。
「というより、作れなかった。魂が入らない、とでも言うのかな。膨大な宇宙の再生成の中でただの一度も生命は観測できていない」
「星が文字で出来てるからだろう」
「いや、そうでない試行もたくさんあったさ。本当は文字の星ではなく、実際に知的生命体文明の勃興と滅亡を繰り返して可能性を磨こうと思っていたんだ」
それは冗談で言ってるのかと問い返そうとして、魔理沙はけれど開いた口を閉じる。もしそれが真理への確かな道だというのなら、彼女はそうするのだろう。いいや、同じ状況なら魔理沙もそうするかもしれない。魔理沙だって宇宙の果てを目指す過程でたくさんのものを巻き添えにしてきた。それは確かに善意や正義感の名のもとに行ってきたはずだが、所詮は意や感の物であって、巻き込まれる側は知ったことじゃなかったはずだ。だから、本質を同じくする魔法使いとして魔理沙はパチュリーを糾弾できなかった。それに実際のところ、パチュリーはそれをしなかったのだから。
「まあ仮に生命を作れていたとしても、私がいなきゃ存在すらできなかった可能性たちなんだ。感謝されても恨まれる筋合いはないね」
「ひどい奴だな」
「そうかな? 第一、おまえの宇宙だって似たようなものさ。なぜ宇宙が存在するのかという真理を得たものは未だかつて誰もいないんだ」
「待てよ、私たちの宇宙も同じだって言いたいのか? おまえのような偏屈魔法使いが真理を導き出すために創り出した、膨大な試行錯誤の一過程だって」
「そうじゃないことは誰にも否定できない。現に、私がこれまで見てきた宇宙のほぼ全てがそうだったのだから。自分だけが特別だと根拠もなく信じるのはぞっとしないナルシズムだ」
「でもおまえの宇宙は生命を作れなかったじゃないか!」
「それは注目に値する差異だ。けれどやっぱり、我々の存在理由を担保してくれるものではない」
「私は……」
「なんだ、意外にナイーブなんだね? 宇宙が高次の存在による恣意的産物だという着想は今に始まったことじゃないさ」
もちろん魔理沙にだってそんなことはわかっている。ただ間が悪かった。魔理沙の思考は、魂は、ほんの束の間ながら穏やかな過去の時間に飛んでいた。あの、少しだけぶっきらぼうな幼馴染や、叩けども叩けども舞もどってくる悪友たちと酒を飲み交わす少女の頃に。
もちろん今この時が不服なわけじゃない。大宇宙を文字通り駆け巡る彼女はきっと、人類文明の最後に遺したロマンチシズムの申し子で、ついには宇宙の果てを目にしようと目論んでいる。そんな夢が刺激的でないはずがない。ただ、記憶もまた時の流れの中で磨かれ、純化されるものだ。それは思い出という真理だった。流れの終端に近づけば近づくほどに、純化された思い出はより一層その輝きを増すらしかった。
「さてと。いい加減に話しすぎたな。どうせ二度と会うこともないと思うと、門外不出の真理の鍵もうかうかと晒してしまうものだ」
「いや……楽しかったぜ」
「私も久しぶりに自分がどんなものだったか思い出した気がする」
「なあ、長話ついでにもう一つだけ聞いてもいいか?」
パチュリーが肩を竦めて「どうぞ」と促す。魔理沙は努めて平易な声で尋ねてみた。
「その宇宙最後の本、解読できた部分はないのか?」
「……解読、という表現は正しくないが、その最初の一行目は極めて高い蓋然性である特定の意味の連なりに集約可能だった。もちろん実際に記される時は我々の知るどんな言語、どんな文字とも違う形式となるはずだが、それをあえて翻訳するのなら、ちょうどこんな感じになるだろう」
隠そうと思っても自分の息を呑む音が大きく響くのを魔理沙は感じる。
たっぷり数秒間勿体つけてから、パチュリーはまた口を開いた。
「むかしむかしあるところに」
オチを「光あれ」か「はじまりはじまり」のどちらかで予想してたんですが部分点は貰えますか?
アリスも途中までは作中の二人と同じように魔法使いとして永い間自動(自律)人形の研究に打ち込み続け、先に目的を果たして力尽きたのか、それとも今も魔理沙と同じように長い旅に出ているのか。気になりました。
作中では、「本」の定義も「宇宙」の定義もかなり拡張されているように思います。拡張できるということは矮小化もできるということで、「宇宙を作成して文字の遺言を確かめる」という行為は、「有限個の文字を並べて結末を作り出す」という人間一人一人の行為と重なるものだな、と思いました。
膨大な己の過去が膨大な己の未来を滅しきるまで続くであろう実験過程にパチュリーのアイデンテティのようなものを感じました
一応専門家のはずの魔理沙が半分くらいしか理解してないのにしゃべり続けるのもそれっぽくてよかったです
一つ気になった点を述べるとすれば、終盤、パチュリーには生命の観測が出来ず、我々が良く知る宇宙のみに生命が誕生したという点がそのままになっているのが気になりました。これは高次の存在の仄めかしなのでしょうか。少し野暮ですが、メタ的に考えるなら、結局この話自体も「生命がいない」側の話なので、我々という生命体がこの「はるかはるかなみらいのはてで」という本を読んでいるところまで含めて一つの作品なのかな、と感じました。