昨日はルーマニア人が2人死んだ。その前の日は日本人1名が死んだ。
俺はそうやって大地に埋められていく人間たちの、誰の名前も知らない。
俺はそれでも復讐の炎を燃やし続けなければならないのだ。
この大地の上で、俺はそうやって燃料をくべながら生き続けるのだ。
あいつらに再び会うために。
1942年9月10日 南満洲鉄道「あじあ」号車内にて
大連駅から特急「あじあ」号に乗り込んでから、はや5時間が経つ。日本が恋しくないといえば嘘になる。しかし俺はこの与えられた旅路を最大限に楽しむことに決めていた。もっとも楽しむことができれば、の話ではあるが。支那の広大な大地は日本のそれとは全く趣を異とする。無論そこに住む人間も、あるいはそこから湧き出る水なども、きっとすべてが違うのだ。それは大陸の方に何度も訪れる特派員たちが口を揃えて証言することだ。車窓の外に広がる広漠とした、乾いた大地。高粱畑が一面に広がる。はるか遠方には日本では決してお目にかかれない雄大な地平線が、こちらに微笑みを返すかのように鎮座している。何度支那を訪れても、そしてこれから長らく滞在することになっても、根っからの日本人である俺はこの風景に慣れることはないのだろう、そう痛感する。
思えば支那の軍隊による線路の爆破という幾分些細な出来事から始まった、大陸への大日本帝国の進出はようやくここまで来たのかとどこか感慨深くもある。東北の田舎で生まれ育った俺でも、日本がついに欧米列強と肩を並べ、ついには追い越す勢いにまでに至ったことに様々な感情が湧き出てくるのを押し留めることはできない。東京毎朝新聞の特派員としてイギリスへ取材に行ったときのあの屈辱などを思い起こせば、なおのことである。いずれこの大地、日本の幾倍もある広大な大地も、そこに眠る資源も我が国のものとなるのだろうか。それは俺にとっても俺以外の日本国民にとっても、もはや見果てぬ夢ではないように思われてならなかった。いずれ日本は朝鮮を足がかりとしてこの大陸を飲み込み、今や不倶戴天の敵となった大英帝国やアメリカ合衆国、そして同胞たるドイツ第三帝国と並ぶ真の大国として後世まで名を轟かせるのだろう。
五族協和を謳った満洲国はまさに夢の楽土であり、その栄えある建国の十周年を祝う式典を取材できることは大変名誉なことであった。この栄誉ある式典を報じることを日本にいる重役たち、そして本土の国民は心待ちにしているのだ。俺はその期待に応えなければならない。
1等車に乗っているのは俺のような日本人であるとか、あるいは支那人でも日本相手に商売をしているとかでそれなりに裕福な層であるようで、2等車以下のような雑駁さであったり熱気であったりはここにはなく、小綺麗に整えられた車内とそこから臨む車窓の外の景色との差は否が応でもここが日本の延長下でもあることを意識させられる。横から聞こえてくるのは主に日本語で、そこにたまに大陸の言葉が挟まれる、といった具合である。駆け出しの記者の頃に乗った、大陸の言葉が飛び交う、喧しい3等車も今では懐かしい。だが今の俺にふさわしいのはこの1等車なのだと自分に言い聞かせる。そうやって既に外の変わらぬ風景にうんざりしてきた俺は、手持ち無沙汰な心持ちをなんとか落ち着かせようと貧乏ゆすりを始めた。早く新京につかないだろうかと思うが、懐中時計の針はずいぶんとのんびりとしたものである。誰か話し相手でもいればいいのに、と思っていたところで、突然俺は後ろから声をかけられる。
「ここ、空いていらして?」
俺の向かいの席を指差しながらそう俺に尋ねてきたのは青い洋服を身にまとった、若い女だった。年齢は幾ばくだろうか。見た感じでは二十歳ほどにも見えるが、見方を変えれば十代にも三十代にも見える。どことなく不思議な雰囲気を醸し出している女だった。支那人や朝鮮出身者の日本語にありがちな訛りもない。おそらくは日本人なのだろうと俺は推測した。その上かつての俺のような方言の訛りもなくきれいな標準語を喋る。東京生まれ東京育ちといったところか。1等車に乗り、上等な洋服を身に纏えるぐらいなのだから、父親か旦那は軍や政府の上級職か会社の上役かなにかといったところだろう。
俺は女に、どうぞ、と言って席に座るように促す。
「随分と上等な身なりのことで」
腰掛けた女はやや慇懃な調子を含みつつ俺にそう告げた。
「新聞記者、ですからね。みすぼらしい身なりでは取材もうまくはいきませんから」
「新聞記者?」
「ええ、東京毎朝新聞の政治部です」
「へえ、それでわざわざ満洲の方に取材に来られたと」
「満州国も建てられて十年ですから」
「ということは記念式典の取材?」
「ええ、可能であればそれこそ溥儀皇帝にインタビューでもできればいいんですけどねえ」
「ふうん。私、康徳帝のことはよく知らないけど、煬帝辺りのことはよく知ってますわ。中国土産にお聞きにならない?」
俺をどこかからかうような口調で眼の前の女はそう述べる。
煬帝? 隋の皇帝のことか?
「いやあ、大丈夫です。支那の歴史なら東洋史の授業で散々聞きましたから」
「あら、せっかく生き証人が直々に話そうというのに、勿体のないことを」
ころころと笑いながら女はそう俺に告げる。
冗談の好きな女だ。
だが俺は別に苛立つこともなく話を続ける。
「そこまで言うからには面白いお話を聞かせていただけるんでしょうかね?」
「まあ、面白い、というほどでもないにせよ、日本の色も味気もない歴史の教科書よりは興味深い話かとは思いますわ。煬帝って暗君とか暴君とか散々に言われてるけど、意外と良いところもあって、私に色々と施してくれたりもしたの。あるときなんて大運河の建設のついでに採れた、七色の鱗のある魚を私に譲ってくれたりもしたんですもの。なんでもそれを食べれば寿命が百年延びるとかいう話があってね。しっかしあれ、本当にまずかったなあ。それはそれとして男性には女心がわからない、というのは今も昔も変わらないようで。でもまあ、最期はあんなことになっちゃったのは少しかわいそうといえばかわいそう」
俺は適当に相槌を打ちながら、眼の前の女を観察していた。
口調は若い女のそれに違いないのだが、どこかそれだけでは測りかねる、奇妙な雰囲気がある。だがそれをうまく言語化することが俺にはできない。どこかむず痒さというか、そんなものを感じる。
「おっと失礼しましたわ、名乗らないのに喋りすぎてしまいました。私、こういう者です」
女は財布から何かを取り出し、両手で俺に渡してきた。なにかと思えば名刺だ。しかし女が名刺とは。
真っ白な紙片に「霍青娥」の三文字が書かれていた。支那人ということか?
しかし支那人にしてはやけに日本語が流暢だ。外国人の日本語の調子や語彙に必ず交じる、あの違和感を全く抱かせない、自然な日本語である。
「日本語での読み方は「かくせいが」です。以後お見知りおきを」
一応受け取るばかりでは悪いので、俺の方も名刺を取り出すことにした。
名刺を受け取った青娥と名乗る女は俺の名刺を珍しそうにまじまじと眺める。
「へえ、山田浩三さん、っておっしゃるのね」
「ええ、兄が二人いるんで、私は浩三です。東北の出でしてね」
黙っているのも癪なので、俺は自分の身の上話でもしてやることにした。
身振り手振りを大げさに交えながら色々と話してやったところ、女は興味深そうに相槌を打つ。
「そういえば」
女は指を口元にあて、俺にわざとらしく問いかける。
「私、女ですから国際政治情勢とやらに疎くて。政治部の記者さんだったら、今のきな臭い情勢もわかりやすく私に説明してくださるものと期待していいのかしら?」
女は俺を試すような、それでいて穏やかな口調でそう告げた。
俺は、いいですよ、と返してやる。
「最近ですと我が日本軍も主に英米と一戦を交えています。それもこれも、東條首相の述べられたように、アジアの平和のために大東亜共栄圏構築を目指してのことですね」
「日本軍は各地で快進撃を続けているとは聞くけれども」
「そうですね、ミッドウェー海域でも、敵空母を二、三隻撃沈したとか。我が軍はこんな風に勝利を続けております」
「ソ連とも3年ほど前にノモンハンの方で一悶着あったらしいけど、日本はソ連ともやり合う気?」
「あの戦いもなかなかに良い勝負だとは聞いておりますが。しかしソ連ももはや風前の灯でしょう。なにせドイツは破竹の勢いでソ連を蹂躙していると聞いておりますからね。我が国がなにかしなくとも勝手に瓦解すると見込んでおります」
女は、ふうん、とつぶやいた。
相変わらず、こちらをからかっているような、あるいは訝しんでいるような、そんな眼差しに思えたが、俺は気にすることなく他にも色々と話してやった。女が一定調子で相槌を打ってくれるので俺はまんざらでもなかった。
「どうです、満州国も良い国でしょう」
「まあ、虫籠にしては居心地は悪くはないですわね。でも虫籠は必ずどこかに綻びが生まれ、蝶は逃げ出すものですわ」
よくわからないことを言う女だ。
そうこうしているうちに、新京への到着を告げるベルが車内に響いた。
緩慢な調子でようやく列車は駅に停まる。
「ありがとうございます、いい暇つぶしになりました」
俺は女にそう告げる。
「あら、私なんかでよろしければいつでもお話相手になりますわよ」
女は微笑を浮かべながらそう零した。
俺は再度礼を言って、女と別れることにした。
俺は下車したあと、駅のプラットホームで、女にもらった名刺をまじまじと眺めていた。霍青娥。まあ、もう会うこともないだろうが。
俺はそう思いつつも、女の名刺を財布の奥の方にしまうことにした。
1943年10月11日 満洲国 新京にて
開け放たれた窓から外を見る。ひゅうと外から入り込んできた空気はからりと乾いている。大陸の空気だ。日本のあのじめりとした空気もどこか懐かしい。だが、この空気にもだいぶ慣れてきた。毎日飲んでいる水にはやはり未だ慣れることはないのだが。道端では支那人の靴磨きが、日本人将校の靴をせっせと磨いているのが窓から見える。この国が建国される前ではそんな光景は決してお目にかかれなかっただろう。そして俺自身、この国に来なければそんな光景を目にすることもなかっただろう。
満州国の首都、新京の支社に異動して早半年だ。
前年に満州国建国十周年式典を取材し、その成果を社に持ち帰ったところ、上役が俺の仕事が気に入ったのか、その後に新京支社への出向を命じられることとなった。
正直なところ、このまま内地にいた方が気持ち的には良かったのだが、満州国や台湾、朝鮮といった外地派遣ルートは出世への第一歩でもあるから、俺に断るという選択肢はなかった。
我が大日本帝国の連戦連勝を聞くたびに俺は誇らしい気持ちになる。いずれ米国をも打ち倒した我が国が、ソ連を打破したドイツとともに世界を二分する、俺はそんな空想にふけってしまう。そしてそれはもはや見果てぬ夢などではなく、十二分に実現の足音を立ててやってくるものなのだろう。
その日、昭和製鋼所への取材を終え、俺は料亭で一息ついていた。料亭の中を見回してもあいも変わらず客は日本人ばかりである。たまには日本人以外の人間とも喋りたいものだ。せっかく五族協和を謳う国へと来たのだから。日本人とばかり喋っているのならばそれは内地で活動しているのとなにも変わらないではないか。もっとも俺の満州語はそれほどでもない。だけれども、外国にいる以上、カタコトでも話すという経験が大事なのだ。こういうときに外国人であっても喋る相手がいないというのはつまらないものだ。人によっては相棒を見つけたりだとか、あるいは妻子を連れてきたりだとかするものだが、残念なことに、俺は一匹狼的でもあり、その上独身であった。こういう独り身は正直楽といえば楽ではあるが、喋りたいときに喋る相手がいないというのも寂しいものではある。
そんなとき。
「あら、
お久しぶり、覚えておられますか?」
女の声だ。聞き覚えがあるようなないような。
俺は慌てて声のした方に振り向く。
洋服を身にまとった女は、俺に向けてニッコリと笑みを向けた。
「覚えていらっしゃいます? 霍青娥ですわ」
「えっと、どなたでしょうか?」
「残念、覚えておられないのですね。ほら、あじあ号の車内でお話した」
俺は記憶の底から当時のことを引きずり出す。
そういえばあのとき、名刺をくれた女がいたはずだ。
女が名刺をくれるなんて初めてだったから、そのときのことはなんとか思い出すことができた。
「ああ、思い出しました。奇遇ですね、青娥さん、こんなところで再びお会いするなんて」
「山田さんの方こそ、また新京に戻ってこられたの?」
「ええ、社命でこちらへと栄転という形ですがね。どうですか? 再会を祝ってなにか奢らせてもらえませんか?」
「いいんでしょうか?」
俺は支那人の給仕にソーセージだとか餃子だとかを持ってくるように頼んだ。
給仕は恭しく礼をして奥の厨房の方へと戻っていく。
「それで青娥さん、ここにおられるということは、満州国の国民であられる、ということですかね?」
「当たらずとも遠からず、というところでしょうか……まあ、私の生まれた国ですから」
それが満州地方のことを言っているのかそれとも中華民国のことを言っているのか俺にはわからないが、ともかくこの女は今はこの国で暮らしている、ということだろう。まあ、それはそうだ。なにせ満鉄で新京までやってきた女だ。軍関係あたりの職にでもついている旦那でもいるのだろう。
「しかし日本語が随分とお上手だ。生まれは支那だというのに」
「まあ、以前日本に渡航したことがあるので。なにせ多くの有識者に揉まれることになる以上、日本の言葉も磨かれていくものですわ」
「有識者?」
「ええ、例えば十人の言葉を同時に聞くことができる人だとか……」
「まるで聖徳太子みたいですね」
「ええ、聖徳太子ですから」
この女は俺をまたからかっているのだろうか、と思いつつも、気を取り直して俺の方からも話題を振ることにした。
「満州での生活はいかがですか?」
「まあ、この国になって色々と持ち込まれたから、便利にはなりましたわね。電気も水道も通るようになったし……
まあ、そんなものだろう。この国に文明が持ち込まれる以前のことはよく知らないものの、文明化以前はそれこそ我が国よりも遥かに劣った生活をしていたことは想像に固くはない。なにせ皇帝がいた頃などは英国や仏国、そして我が国に散々な目にあわされたわけであり、かつては眠れる獅子と恐れられた頃もあったとは聞くが、もはやその面影などどこにもないわけである。
俺は眼の前の女に色々と語ってやった。最近の国際情勢だとか、日本の内部情勢だとか。そんなことである。女は相変わらず、ふうん、とか、へえ、とか相槌を打ってくれる。
随分と話の分かる女だと感じた。
「おや、こんなとこで」
声をかけてきたのは顔見知りだった。
「ああ、角田じゃないか」
「お知り合い?」
「ええ、同郷の人間なんです。今、関東軍の少佐をやっていて」
「山田、どうしたんだ、こんなすごい美人をつれて食事とは」
「あら、お褒め頂いて光栄ですわね」
「こちらは霍青娥さん」
「角田です。よろしくお願いします」
その日は角田も交えて楽しい飲みになった。
驚いたのは、女がとてつもないウワバミだったということだ。
俺はもとより下戸ではあるが、角田は酒が強い。飲み比べでも負け知らずだという。
そんな角田が潰れても女は平然としている。それどころか、顔色一つ変えることがなかった。そして潰れた角田を見ながら、女は楽しそうな笑みを見せるのだった。その笑みはどこか、人を食ったような、そんなとらえどころのないものだった。
帰り道。あれだけ酒を浴びるように飲んだ女は少しもふらつくことなく歩いていく。
そしてふらふらとしている俺の方に振り向いた。
「ねえ」
「どうしました?」
「あなたのかつての将来の夢はなんだったの?」
「夢ですか? 他愛もない夢ですよ」
「もしよろしければ聞かせてくださらない?」
ちょっと悪酔いしすぎたみたいだ。酔いを覚ますためにも話に付き合ってやるか。
「昔は政治家や官僚、それか軍人になりたかったんです。いつか国を動かすような、そんな人間になりたかった。でも帝大にも陸大にも入れなかった」
「随分と長い間、難しい試験に立ち向かう人間のことを山というほど見てきましたわ。四書五経をひたすら丸暗記したりとかね。そもそも試験というものには必ず敗者がいるものですから」
「それでせめてもの抵抗としてこういうふうにして新聞社に入ったんです。親父もお袋も喜んではくれましたよ。でも、一新聞記者のできることなんてたかがしれていますから」
「ジャーナリズムの力を信じていないのかしら? あなた達の国の民主政はその力によって発達したのでは? 少し前だと憲政の常道とか言って、政党政治なんかもやってたじゃない」
「いやあ、そんな大したものじゃありませんからねえ。ところで青娥さんの夢はなんだったんですか? せっかくだから聞かせてくださいよ……」
「もうとっくの昔に叶いましたわ」
女はそれ以上何も言わなかった。
顔を上げると女はどこかに消えていた。そして俺は道端で一人でゲーゲーとする羽目になるのだった。
角田に料亭へと呼び出されたのはその3日後だった。
角田の他に軍服姿の初老の男がいる。
見たところ、関東軍の高級将校というところだろうか。しかしそんな男が俺になんのようなのだろうか。
俺は促されるまま、角田とその男の前に座った。
「よく来てくれた、山田。こちらは関東軍の宮本大佐だ」
初老の男は口ひげを弄りながら、こちらにじろりと目線を移した。俺は慌てて軽く頭を下げる。
「それで話って何だ、角田」
「まあ、そう焦るな。ところで今の欧州戦線の状況を知っているか?」
「いや、俺は今アジア情勢にかかりっきりでな」
「不勉強だな……まあいい。なんでもソ連軍の反転攻勢が強くなってきたらしい。ドイツも安心してはいられないだろう」
「まあ、確かに日本とは同盟を結んではいるが……でも俺にそんな国際情勢の講釈をしにここに呼んだのか?」
「最後まで話を聞け。お前も知ってのとおり、日本とソ連は中立条約を結んでいる。これがある以上、今はお互いににらみ合い、ということにはなる。しかしだ、念のため、今からでもソ連関係の情報を得ておきたいと大本営は考えている」
「つまりは、ソ連に対する攻撃、を考えていると?」
そこで宮本大佐が口を開いた。
「それは否定できん、しかし、万が一にでもドイツが敗れた場合、次の目標となるのは満州だろう。もしかしたら樺太や千島、ひょっとしたら北海道までスターリンは狙っているかもしれん。流石に北と南で挟撃をされたら苦しいことになる。今のうちにでも国境線沿いの防備を固めておく方が賢明だろう。しかしだ、今は大使館のみならず、嘆かわしいことだが軍内部にもソ連の息のかかった連中が潜んでいる。だから、信頼の置ける、君のような人間に情報を伝えてもらいたい」
「つまりは、私に間諜をやれ、ということですか?」
角田は懐の煙草をゆっくり取り出した。ライターを何度か失敗し、ようやく火をつける。そして煙を吐き出し、口を開く。
「そういう大層なもんじゃないさ、山田」
宮本大佐は口ひげをまたしても弄り始める。
「いってしまえば情報の運び屋だ。なに、大したことはしなくてもよい。君は我々から得た文言を本社に打電してくれるだけでいい。毎朝新聞社には話をつけてある。そしてこの戦争が終わり君が本社に戻った暁には、然るべき栄誉を与えてもらうようにも頼んである」
俺はごくり、と喉を鳴らしてしまった。
「どうだ、山田、引き受けてくれるか?」
角田の問いかけに、もちろん、と俺は即答する。
これは、チャンスなのだ。千載一遇の好機なのだ。他ならぬ俺が歴史を動かす人間の一人となる、その契機となるのだ。俺は胸の高鳴りを抑えることができなかった。
満州国、いや、大日本帝国の命運はまさに俺の双肩にかかっている、大げさかもしれない、しかしそう考えると俺の脈動はついに早くなっていった。
1944年7月25日
角田から提供される情報はおおよそ以下の通りだ。満鉄を発着するソ連の貨物列車の積載量や行先であるとか、逆に日本の貨物列車を監視したりしている不審な人物の名前であるとか、そんなもの。
仕事は正直大したことはない。ただ、報告されるものを本社に打電するだけ。時折こんなことで本当にいいのか、と思うことはある。だが、この小さな仕事が大きな仕事、それこそ東洋平和であるとかそんなことにつながると考えると、手を抜いてもいられない。
時折角田や宮本大佐に呼ばれたりする。こういう風な高級軍人とのコネクションも俺の出世に役立ってくれることだろう。
口笛を吹きながら歩いていると、声をかけられた。
「あら、また会いましたわね」
「お久しぶりですね、青娥さん」
「今は何をされているの? 取材?」
「いやあ、なかなか人には言いづらいことですよ。どうですか? またお食事でもどうです?」
「いえ、大丈夫ですわ。お腹いっぱいなので」
「そうですか。ねえ、青娥さん」
「どうなさったの?」
「僕は今、大きな仕事をしているんですよ。それこそ、ジャーナリズムなんてチンケなものとは違う、もっと大きな仕事を」
「ふうん」
「今はまだ、言うことはできません。でも、数年後にはきっと結果が出ます。大きな結果が」
「それは楽しみですわね。そう言えば、ヨーロッパの方ももうすぐ落ち着きを取り戻す気配をみせてきましたわね。なんでもソ連が大きな反転攻勢を仕掛けたとか」
「へえ、そうなんですか」
俺は上の空だった。こんな女の戯言などどうでもいい。大事なのは俺の密命のことだけなのだから。俺が歴史を動かす、国を動かす、その事実だけなのだから。
次の日、角田からまた一報が入り、俺はそれを本社へ打電した。
次の指示までは時間があるだろう。
そういえば角田との会話の中で、こんなことを聞いた。
明日、捕虜となった支那の兵隊数名の処刑が行われるという。新京郊外での銃殺刑だそうだ。
その晩、女と喫茶店で偶然出くわした。
俺が先に口を開く。
「処刑でも見に行きません? 明日、郊外で支那の捕虜の連中が数人、やられるそうですよ。自分は記者ですから、入れるんです」
青娥は手にしていたティーカップをそっと皿に戻した。
「それは……ご一緒するべき、お誘いなのかしら?」
「いや、変に聞こえたならすみませんね。ただ、こういうのも見ておいても興味深いかなあと思いまして。ほら、歴史の証人というか、そういうのになれるのだったら面白いじゃないですか」
「歴史の証人、ね……見届ける側におられるのかしら? それとも見届けられる側?」
女は小さく笑う。いつも変わらぬ、あの微笑みだ。俺も釣られて笑ってやる。
「もちろん、見届ける側、ですよ」
「では、せいぜい気をつけて」
誰かがくすりと笑った気がした。気がつくと俺一人が座っているのに気づいた。結局、女の分も払うことになったのが随分と忌々しかった。
1945年2月15日
こちらに来て随分と長い時間が経ったように思えるが、まだたったの1年ほどしか経っていないのだ。だが、その間に俺は随分と色々なものを得たように思う。もちろんまだ得ていないもの、帰国してから得るであるものはある。それでも俺は、今の地位に大分満足していた。
「おい、山田」
その日、料亭で角田からの指示を受け、帰ろうとしたところ、呼び止められた。
「どうしたんだ? 角田」
「ちょっと話がある。少し来てくれないか?」
「まあいいが……」
俺の向かい側に座る角田は随分と真剣な顔をしていた。
「お前と一緒にいたあの女だが……」
角田は口ごもりながら、懐から一枚の、ぼろぼろの紙切れを取り出した。どうやら写真らしい。それも相当に古い。半ば朽ちかけた写真。
裏には「中華民国開国紀念 於南京大総統府前」と書いてあった。
何人ものコート姿の男が写っている。そして俺はその中の一人に見覚えがあった。
「……なあ、角田、これはいつ撮影された写真なんだ?」
「1912年1月1日……いや、中華民国成立の日、といったほうが通りがいいか……骨董品屋でたまたま見つけたんだ……」
写真に写る、俺に向ける微笑みと全く変わらぬ微笑みを写真から向けてくる、あの女。
男の中にただ一人交じる、女。
服装はもちろん違う。髪型も違う。そしてもちろんモノクロームだ。しかし、どう見てもあの女だった。今と全く顔貌は変わらぬ、あの女。
「どういうことだ? あの女は30年以上全く歳をとっていない、ということか?」
「他人の空似、ということも考えられなくはないがな……」
「角田、その写真、俺に貸してくれないか?」
「まあ別に返してほしいわけでもないから、やるよ……気持ち悪いしな」
俺は受け取った写真を財布の中に入れる。あの女の名刺とは別々の場所に入れた。
そして角田は、料亭を出ようとする俺に口を開く。
「それと」
「なんだ」
「あまり言いたくはないが……最近、本土にも米軍の大型爆撃機が頻繁に飛来するようになったらしい。それにドイツも押され気味だとか。この戦争の趨勢もどうなることやら……」
「お前がそんな弱音を吐くなんてらしくないな。心配するな、連合艦隊はフィリピンや台湾でも大勝利を挙げているじゃないか」
角田は再び口ごもった。俺は口笛を吹きながら、料亭を後にした。
「こんにちは、山田さん」
あの女だ。いつも思うが、お前はなんのために俺につきまとうんだ?
「なんのためにつきまとうかって? それは夢の結末を見るためですわ」
女は俺に、にやり、と笑みを向けた。冷や汗が流れる。俺は一瞬言葉を失った。
「夢の結末、だと? 何を訳のわからないことを」
「形あるものは、国であれ人であれ夢であれ、潰えるのが世の常ですから。いや、この場合は夢というよりも集団幻覚と呼んだほうが的確かもしれない……」
なにか言い返そうとする。だが言葉がうまく出てこない。この女は、こんな喋り方をしただろうか? この女は、こんな雰囲気を出していただろうか? そうだ、あの写真、さっき角田にもらったあの写真だ。財布から写真を取り出し、女に突きつける。
「……この写真、お前か?」
「あら、随分と懐かしいものを見つけられたのね。嬉しいわ」
「……化け物め。二度と俺の眼の前に現れるな。俺は忙しいんだ」
「忙しい?」
「ああ。俺は今、大事な仕事をしている。この国を、いや、こんな国どころか、日本を、そして世界を動かす仕事をしているんだ。邪魔をするんじゃない、どうせお前は支那かソ連あたりのスパイなんだろう。色仕掛けをしようだなんて、俺をあまり甘く見るなよ?」
「まあ、あなたが日本や世界を動かす仕事をしているっていうのは間違いなく正しいわ。正しいんだけどねえ……」
「失せろ、俺の前から消え失せろ」
「わかりましたわ。……せっかくプレゼントでも差し上げようと思っていたのに」
プレゼント? この期に及んでまだ寝言を言うのか。
「あなたはまだ彼のことを信じているの?」
「彼、だと?」
女はため息を付き、くるりと俺に背を向けた。そしてその背中が見えなくなるまで俺はその女のことを見つめていた。もう二度と会うことはないだろう、そう思いながら。
1945年8月5日
角田はその日、随分と深刻そうな顔をしていた。そして重い口を開く。
「山田、おそらくだが、ソ連はきっと満州へ攻めてくる、残念なことではあるが。4月にソ連は中立条約の不延長を宣告しているが、スターリンのことだ。ヒトラーにやられたことをこちらにやり返してくるだろう」
「つまりは、中立の約束を反故にしてくる、ということか?」
角田は懐からライターを取り出し、タバコに火をつけ、ふう、と煙を吹き出した。
「そうだ。お前も早く本土に戻ったほうがいい……もっとも、本土はどこも焼け野原だから安全なところはないだろうがな……」
「お前はどうするんだ?」
「俺とて関東軍の端くれだ。この国を最後まで守り切るさ」
「お前がそう言うのなら、俺もギリギリまで残ることにするよ」
「ありがとうな、山田。恩に着るよ。ほんと、お前に任せて良かった」
「こちらこそ」
「それで山田、これがおそらく最後の頼みとなる。大使館の信頼できる筋からの情報だが、ソ連軍が攻撃を仕掛けてくるのはおそらくは9月上旬となるらしい。……この情報を打電してお前は早めに本土に戻ったほうがいいだろう。遅くとも8月の下旬にはな」
「そうすることにするよ。じゃあな、角田。生きていたら、また会おうな」
「お互いにな」
俺はその日、角田から得たその情報を無事本社へと打電した。
東京も大きな空襲で焼け野原と化したと聞く。本社は無事だろうか。親父やお袋のことも気になる。だが大事なのは、俺が仕事をやり遂げた、ということだ。俺はやったのだ。ついにやったのだ。たとえどんな結末になろうとも、俺のやったことにはきっと大きな意味がある。それこそがきっと俺の求めていたものなのだ。
俺は陸大出の角田にも、帝大出の課長にもできないことをやりとげたのだ!
心のなかで俺は胸の高鳴りを抑えることができなかった。本土に戻るのはいつになるだろうか。ソ連が攻撃を仕掛けてくるのは9月上旬だと言っていた。おそらくは15日あたりに帰還船に乗れば大丈夫だろう。俺はそこでようやくほっと一息をついた。思えばこの密命を受けてから、そんな気持ちになることができていなかった気がする。本土に戻るその日まで、俺はきっとゆっくり眠ることができるだろう。
1945年8月9日
飛行機のような音、そして何かが炸裂する音で俺は目を覚ました。
爆音が響き渡る。慌てて窓の外を見る。悲鳴を上げながら、大勢の人たちが逃げていく。遠くで何かが爆発する。そして窓枠が震える。
おかしい、何が起きている? なぜ今日なんだ?
急いで角田のもとに電話をかける。出ない。何度かけても。俺は受話器を叩きつける。
ラジオはソ連軍と日本軍が戦闘状態にあることを告げている。
本社に連絡を試みるも、繋がらない。
とりあえずはここから逃げるため、列車に乗らなくてはならない。
突如複数人の男が、日本語でも満州語でもない言葉を喋りながら俺の部屋の中に入ってきた。俺はただ、両手を上に上げるしかなかった。支那人はにやりと笑い、俺の部屋の金目の物を奪い取っていく。俺はそれをただ見ていることしかできなかった。目ぼしいものをあらかた奪うと、支那人は俺の腕を掴んで外へと引っ張り出した。
そして俺は小さなバラック小屋に閉じ込められることとなった。周りには同じように捕らえられたであろう日本人が固まっている。何日経っただろか。窓の外を見る。
外では日本語や満州語のみならず、中国語やロシア語と思わしき言葉が飛び交っている。多くの建物がところどころ破壊されている。ヤポンスキー、ダヴァイ、ヤポンスキー、ダヴァイ、とソ連の兵士が叫んでいる。
ソ連軍の戦車や装甲車が我が物顔で道を走っている。もはや新京はソ連のものとなった、その現実が俺に突きつけられたのだった。
俺は未だ混乱している。なぜ今、ソ連が満州に攻めてくる?
その疑問に答えてくれるものは、誰もいない。
1949年12月11日 ソビエト社会主義共和国連邦ハバロフスク第4収容所にて
その日の労働を終え、俺は寝床についた。寝床と言っても与えられるものは所々破れ、擦り切れて南京虫の湧いた毛布一枚だ。この日は氷点下40度に近い極寒の日だった。
一日ごとに仲間が死んでいく。少しでも気を抜いたものは、この極寒に体温を奪われる。いや、体温を奪われる、などというヤワなものではない。千切れそうになるのだ。鼻や手足が凍傷になりかける、それを防ぐため、必死で擦る。
昨日はルーマニア人が2人死んだ。その前の日は日本人1名が死んだ。誰の名前も知らない。
ソ連軍に捕まった俺は、日本に帰国させるという名目のもとで列車に乗せられ、この地に送られた。その後スパイ容疑で軍事法廷にかけられ、20年の労働刑を課されることとなった。
おそらくは、俺は最初から最後まで角田に騙されていたのだ。
いや、間違いない、角田はソ連の二重スパイだったのだ。
あの日、宮本大佐、いや、宮本と名乗る男が本当に軍人なのかすらも怪しいが、ともかくあの男と会ったあの日から、俺は角田、そしてその元締めであるソ連の手のひらの上で踊らされていたのだ。
俺に与えられていた情報は、最後の一つを除いておそらくは正しかった。
全て撒き餌だったのだろう。もしかしたら、俺以外にも複数人に接触してたのかもしれない。そして本社にもソ連の息のかかった奴がいたはずだ。
全てはソ連の対日参戦の正確な日を、日本側に誤認させるためだった。
俺、そして日本はそれにまんまと騙された、というわけだ。
そして角田は俺をこのシベリアの地で口を封じるつもりだったのだろう。。
自分の愚かさを嘆く暇も、この収容所での生活には存在しない。
材木の伐採であるとか、線路の建設であるとか、そんな極寒の中での重労働の日々には過去を悔恨する暇など存在するはずもなかった。
ただ、あるのは復讐心だけだ。もちろん角田に対してだ。そして、もしかしたら――
1993年6月2日 宮城県仙台市青葉区川内 コーポ静内 112号室にて
荒れ果てた部屋、床には弁当の箱や空き缶が散乱している。古ぼけたブラウン管のテレビはつけっぱなしだ。テレビのニュースは北朝鮮がミサイルを発射したことについて知らせている。だが、俺にとってはもはやどうでもよいことだ。
1951年に日本に帰国した俺を待ち受けていたのは温かい祖国などではなかった。親父とお袋は空襲で死んでいた。そして兄貴たちも戦死していた。
シベリアから帰ってきた俺は、周りの日本人から共産党のアカ呼ばわりされ、親戚を始めとして誰からも冷遇されることとなった。無論、東京毎朝新聞社に俺の籍が残っているはずもない。
終戦、朝鮮戦争、高度経済成長、東京オリンピック、大阪万博、ベトナム戦争、バブル経済、バブル崩壊、そしてソ連の崩壊。
この50年ほどで色々なことが起こった。だが、俺にとってはもはや何も関係のないことだ。
俺はシベリアの極寒の中でも、日本での半ば抜け殻のような生活の中でも、角田への復讐の炎を燃やし続けていた。角田敬一という人間のことを方々探し回った。だが、角田の情報はどこにも見つからなかった。俺の復讐の炎は不完全燃焼を起こしながら、ただほそぼそとくすぶり続けるだけだった。
体も随分と衰えてきた。もうすぐ頭も衰えてくるだろう。そして俺は唯一人で死ぬのだろう。その前に、せめて角田になにかの言葉だけでも投げつけたい、俺はそう思っていた。
インターホンが鳴った。
どうせ宗教か新聞の勧誘だろう。そう思って無視していた。
「こんにちは、山田さん」
眼の前に現れたのは、あの女だった。
名前は、霍青娥。
初めて会ったあの日から何一つ変わらない、あの日の姿、あの日の髪型、あの日の顔、何一つ変わらないのだ。
「今更、何をしに来た?」
「怒らないでくださらない? もう一度、あなたにプレゼントを持ってきたというのに」
そう言って霍青娥は、俺に書類を手渡す。キリル文字で書かれたその文面。シベリアでロシア人から共産主義についての教育を受けた俺は、それをなんとか読むことができた。
「角田敬一……1945年9月20日……飛行機事故で死亡……?」
「そう。あなたがあれだけ追い求めた、あなたを騙した張本人はとっくの昔に亡くなっていたわけ。ゴルビーがグラースノスチを進めてくれたから、そのうち出てくるんじゃないかなーとは思ってたけど、結局ソ連が崩壊してからモスクワの公文書館まで複写をとりに行かなきゃいけなかったわ」
俺はその書類をグシャグシャにする。
「なぜ俺に何も教えなかった?」
「教えたじゃない。何度も何度も。あなたが気づかなかっただけ。第一、あなたの夢はちゃんと叶ったじゃない」
俺は言葉を返せなかった。
「じゃあ、なぜ今更俺にこんなものをもって来たんだ?」
「言ったでしょ? 夢の結末を見届けるためですって。」
霍青娥はコロコロと俺に笑いかける。
きっと俺は分かっていたのだ。この女がいつか必ず俺のもとにやって来る、ということを。
俺は自分のすぐ近くに金属バットを置いていたのに気がついた。いつからそれを置いていたのだろうか? 昨日から? 1年前から? それとも50年前から?
「それじゃあ、山田浩三さん、お元気で」
後ろを向いたその瞬間。俺はバットを大きく振りかぶり、霍青娥の後頭部めがけて振り下ろした。
バットの先端は空を切り、がつん、という音がして床にあたった。
手から離れたバットは大きな音を立てて床を転がった。
俺はへなへなとへたれこんで、虚空を見つめるしかなかった。
霍青娥が消えた後には擦り切れた財布が置いてあった。
財布の中を見る。
もう擦り切れ、ぼろぼろになった財布。中にはお袋の写真であるとか満州国の小銭やタバコなどが入っていた。そして、その奥に。あの女の名刺が入っていた。
そこにただ、霍青娥、の三文字が、1942年9月10日と何も変わることなく書かれていた。
俺はそうやって大地に埋められていく人間たちの、誰の名前も知らない。
俺はそれでも復讐の炎を燃やし続けなければならないのだ。
この大地の上で、俺はそうやって燃料をくべながら生き続けるのだ。
あいつらに再び会うために。
1942年9月10日 南満洲鉄道「あじあ」号車内にて
大連駅から特急「あじあ」号に乗り込んでから、はや5時間が経つ。日本が恋しくないといえば嘘になる。しかし俺はこの与えられた旅路を最大限に楽しむことに決めていた。もっとも楽しむことができれば、の話ではあるが。支那の広大な大地は日本のそれとは全く趣を異とする。無論そこに住む人間も、あるいはそこから湧き出る水なども、きっとすべてが違うのだ。それは大陸の方に何度も訪れる特派員たちが口を揃えて証言することだ。車窓の外に広がる広漠とした、乾いた大地。高粱畑が一面に広がる。はるか遠方には日本では決してお目にかかれない雄大な地平線が、こちらに微笑みを返すかのように鎮座している。何度支那を訪れても、そしてこれから長らく滞在することになっても、根っからの日本人である俺はこの風景に慣れることはないのだろう、そう痛感する。
思えば支那の軍隊による線路の爆破という幾分些細な出来事から始まった、大陸への大日本帝国の進出はようやくここまで来たのかとどこか感慨深くもある。東北の田舎で生まれ育った俺でも、日本がついに欧米列強と肩を並べ、ついには追い越す勢いにまでに至ったことに様々な感情が湧き出てくるのを押し留めることはできない。東京毎朝新聞の特派員としてイギリスへ取材に行ったときのあの屈辱などを思い起こせば、なおのことである。いずれこの大地、日本の幾倍もある広大な大地も、そこに眠る資源も我が国のものとなるのだろうか。それは俺にとっても俺以外の日本国民にとっても、もはや見果てぬ夢ではないように思われてならなかった。いずれ日本は朝鮮を足がかりとしてこの大陸を飲み込み、今や不倶戴天の敵となった大英帝国やアメリカ合衆国、そして同胞たるドイツ第三帝国と並ぶ真の大国として後世まで名を轟かせるのだろう。
五族協和を謳った満洲国はまさに夢の楽土であり、その栄えある建国の十周年を祝う式典を取材できることは大変名誉なことであった。この栄誉ある式典を報じることを日本にいる重役たち、そして本土の国民は心待ちにしているのだ。俺はその期待に応えなければならない。
1等車に乗っているのは俺のような日本人であるとか、あるいは支那人でも日本相手に商売をしているとかでそれなりに裕福な層であるようで、2等車以下のような雑駁さであったり熱気であったりはここにはなく、小綺麗に整えられた車内とそこから臨む車窓の外の景色との差は否が応でもここが日本の延長下でもあることを意識させられる。横から聞こえてくるのは主に日本語で、そこにたまに大陸の言葉が挟まれる、といった具合である。駆け出しの記者の頃に乗った、大陸の言葉が飛び交う、喧しい3等車も今では懐かしい。だが今の俺にふさわしいのはこの1等車なのだと自分に言い聞かせる。そうやって既に外の変わらぬ風景にうんざりしてきた俺は、手持ち無沙汰な心持ちをなんとか落ち着かせようと貧乏ゆすりを始めた。早く新京につかないだろうかと思うが、懐中時計の針はずいぶんとのんびりとしたものである。誰か話し相手でもいればいいのに、と思っていたところで、突然俺は後ろから声をかけられる。
「ここ、空いていらして?」
俺の向かいの席を指差しながらそう俺に尋ねてきたのは青い洋服を身にまとった、若い女だった。年齢は幾ばくだろうか。見た感じでは二十歳ほどにも見えるが、見方を変えれば十代にも三十代にも見える。どことなく不思議な雰囲気を醸し出している女だった。支那人や朝鮮出身者の日本語にありがちな訛りもない。おそらくは日本人なのだろうと俺は推測した。その上かつての俺のような方言の訛りもなくきれいな標準語を喋る。東京生まれ東京育ちといったところか。1等車に乗り、上等な洋服を身に纏えるぐらいなのだから、父親か旦那は軍や政府の上級職か会社の上役かなにかといったところだろう。
俺は女に、どうぞ、と言って席に座るように促す。
「随分と上等な身なりのことで」
腰掛けた女はやや慇懃な調子を含みつつ俺にそう告げた。
「新聞記者、ですからね。みすぼらしい身なりでは取材もうまくはいきませんから」
「新聞記者?」
「ええ、東京毎朝新聞の政治部です」
「へえ、それでわざわざ満洲の方に取材に来られたと」
「満州国も建てられて十年ですから」
「ということは記念式典の取材?」
「ええ、可能であればそれこそ溥儀皇帝にインタビューでもできればいいんですけどねえ」
「ふうん。私、康徳帝のことはよく知らないけど、煬帝辺りのことはよく知ってますわ。中国土産にお聞きにならない?」
俺をどこかからかうような口調で眼の前の女はそう述べる。
煬帝? 隋の皇帝のことか?
「いやあ、大丈夫です。支那の歴史なら東洋史の授業で散々聞きましたから」
「あら、せっかく生き証人が直々に話そうというのに、勿体のないことを」
ころころと笑いながら女はそう俺に告げる。
冗談の好きな女だ。
だが俺は別に苛立つこともなく話を続ける。
「そこまで言うからには面白いお話を聞かせていただけるんでしょうかね?」
「まあ、面白い、というほどでもないにせよ、日本の色も味気もない歴史の教科書よりは興味深い話かとは思いますわ。煬帝って暗君とか暴君とか散々に言われてるけど、意外と良いところもあって、私に色々と施してくれたりもしたの。あるときなんて大運河の建設のついでに採れた、七色の鱗のある魚を私に譲ってくれたりもしたんですもの。なんでもそれを食べれば寿命が百年延びるとかいう話があってね。しっかしあれ、本当にまずかったなあ。それはそれとして男性には女心がわからない、というのは今も昔も変わらないようで。でもまあ、最期はあんなことになっちゃったのは少しかわいそうといえばかわいそう」
俺は適当に相槌を打ちながら、眼の前の女を観察していた。
口調は若い女のそれに違いないのだが、どこかそれだけでは測りかねる、奇妙な雰囲気がある。だがそれをうまく言語化することが俺にはできない。どこかむず痒さというか、そんなものを感じる。
「おっと失礼しましたわ、名乗らないのに喋りすぎてしまいました。私、こういう者です」
女は財布から何かを取り出し、両手で俺に渡してきた。なにかと思えば名刺だ。しかし女が名刺とは。
真っ白な紙片に「霍青娥」の三文字が書かれていた。支那人ということか?
しかし支那人にしてはやけに日本語が流暢だ。外国人の日本語の調子や語彙に必ず交じる、あの違和感を全く抱かせない、自然な日本語である。
「日本語での読み方は「かくせいが」です。以後お見知りおきを」
一応受け取るばかりでは悪いので、俺の方も名刺を取り出すことにした。
名刺を受け取った青娥と名乗る女は俺の名刺を珍しそうにまじまじと眺める。
「へえ、山田浩三さん、っておっしゃるのね」
「ええ、兄が二人いるんで、私は浩三です。東北の出でしてね」
黙っているのも癪なので、俺は自分の身の上話でもしてやることにした。
身振り手振りを大げさに交えながら色々と話してやったところ、女は興味深そうに相槌を打つ。
「そういえば」
女は指を口元にあて、俺にわざとらしく問いかける。
「私、女ですから国際政治情勢とやらに疎くて。政治部の記者さんだったら、今のきな臭い情勢もわかりやすく私に説明してくださるものと期待していいのかしら?」
女は俺を試すような、それでいて穏やかな口調でそう告げた。
俺は、いいですよ、と返してやる。
「最近ですと我が日本軍も主に英米と一戦を交えています。それもこれも、東條首相の述べられたように、アジアの平和のために大東亜共栄圏構築を目指してのことですね」
「日本軍は各地で快進撃を続けているとは聞くけれども」
「そうですね、ミッドウェー海域でも、敵空母を二、三隻撃沈したとか。我が軍はこんな風に勝利を続けております」
「ソ連とも3年ほど前にノモンハンの方で一悶着あったらしいけど、日本はソ連ともやり合う気?」
「あの戦いもなかなかに良い勝負だとは聞いておりますが。しかしソ連ももはや風前の灯でしょう。なにせドイツは破竹の勢いでソ連を蹂躙していると聞いておりますからね。我が国がなにかしなくとも勝手に瓦解すると見込んでおります」
女は、ふうん、とつぶやいた。
相変わらず、こちらをからかっているような、あるいは訝しんでいるような、そんな眼差しに思えたが、俺は気にすることなく他にも色々と話してやった。女が一定調子で相槌を打ってくれるので俺はまんざらでもなかった。
「どうです、満州国も良い国でしょう」
「まあ、虫籠にしては居心地は悪くはないですわね。でも虫籠は必ずどこかに綻びが生まれ、蝶は逃げ出すものですわ」
よくわからないことを言う女だ。
そうこうしているうちに、新京への到着を告げるベルが車内に響いた。
緩慢な調子でようやく列車は駅に停まる。
「ありがとうございます、いい暇つぶしになりました」
俺は女にそう告げる。
「あら、私なんかでよろしければいつでもお話相手になりますわよ」
女は微笑を浮かべながらそう零した。
俺は再度礼を言って、女と別れることにした。
俺は下車したあと、駅のプラットホームで、女にもらった名刺をまじまじと眺めていた。霍青娥。まあ、もう会うこともないだろうが。
俺はそう思いつつも、女の名刺を財布の奥の方にしまうことにした。
1943年10月11日 満洲国 新京にて
開け放たれた窓から外を見る。ひゅうと外から入り込んできた空気はからりと乾いている。大陸の空気だ。日本のあのじめりとした空気もどこか懐かしい。だが、この空気にもだいぶ慣れてきた。毎日飲んでいる水にはやはり未だ慣れることはないのだが。道端では支那人の靴磨きが、日本人将校の靴をせっせと磨いているのが窓から見える。この国が建国される前ではそんな光景は決してお目にかかれなかっただろう。そして俺自身、この国に来なければそんな光景を目にすることもなかっただろう。
満州国の首都、新京の支社に異動して早半年だ。
前年に満州国建国十周年式典を取材し、その成果を社に持ち帰ったところ、上役が俺の仕事が気に入ったのか、その後に新京支社への出向を命じられることとなった。
正直なところ、このまま内地にいた方が気持ち的には良かったのだが、満州国や台湾、朝鮮といった外地派遣ルートは出世への第一歩でもあるから、俺に断るという選択肢はなかった。
我が大日本帝国の連戦連勝を聞くたびに俺は誇らしい気持ちになる。いずれ米国をも打ち倒した我が国が、ソ連を打破したドイツとともに世界を二分する、俺はそんな空想にふけってしまう。そしてそれはもはや見果てぬ夢などではなく、十二分に実現の足音を立ててやってくるものなのだろう。
その日、昭和製鋼所への取材を終え、俺は料亭で一息ついていた。料亭の中を見回してもあいも変わらず客は日本人ばかりである。たまには日本人以外の人間とも喋りたいものだ。せっかく五族協和を謳う国へと来たのだから。日本人とばかり喋っているのならばそれは内地で活動しているのとなにも変わらないではないか。もっとも俺の満州語はそれほどでもない。だけれども、外国にいる以上、カタコトでも話すという経験が大事なのだ。こういうときに外国人であっても喋る相手がいないというのはつまらないものだ。人によっては相棒を見つけたりだとか、あるいは妻子を連れてきたりだとかするものだが、残念なことに、俺は一匹狼的でもあり、その上独身であった。こういう独り身は正直楽といえば楽ではあるが、喋りたいときに喋る相手がいないというのも寂しいものではある。
そんなとき。
「あら、
お久しぶり、覚えておられますか?」
女の声だ。聞き覚えがあるようなないような。
俺は慌てて声のした方に振り向く。
洋服を身にまとった女は、俺に向けてニッコリと笑みを向けた。
「覚えていらっしゃいます? 霍青娥ですわ」
「えっと、どなたでしょうか?」
「残念、覚えておられないのですね。ほら、あじあ号の車内でお話した」
俺は記憶の底から当時のことを引きずり出す。
そういえばあのとき、名刺をくれた女がいたはずだ。
女が名刺をくれるなんて初めてだったから、そのときのことはなんとか思い出すことができた。
「ああ、思い出しました。奇遇ですね、青娥さん、こんなところで再びお会いするなんて」
「山田さんの方こそ、また新京に戻ってこられたの?」
「ええ、社命でこちらへと栄転という形ですがね。どうですか? 再会を祝ってなにか奢らせてもらえませんか?」
「いいんでしょうか?」
俺は支那人の給仕にソーセージだとか餃子だとかを持ってくるように頼んだ。
給仕は恭しく礼をして奥の厨房の方へと戻っていく。
「それで青娥さん、ここにおられるということは、満州国の国民であられる、ということですかね?」
「当たらずとも遠からず、というところでしょうか……まあ、私の生まれた国ですから」
それが満州地方のことを言っているのかそれとも中華民国のことを言っているのか俺にはわからないが、ともかくこの女は今はこの国で暮らしている、ということだろう。まあ、それはそうだ。なにせ満鉄で新京までやってきた女だ。軍関係あたりの職にでもついている旦那でもいるのだろう。
「しかし日本語が随分とお上手だ。生まれは支那だというのに」
「まあ、以前日本に渡航したことがあるので。なにせ多くの有識者に揉まれることになる以上、日本の言葉も磨かれていくものですわ」
「有識者?」
「ええ、例えば十人の言葉を同時に聞くことができる人だとか……」
「まるで聖徳太子みたいですね」
「ええ、聖徳太子ですから」
この女は俺をまたからかっているのだろうか、と思いつつも、気を取り直して俺の方からも話題を振ることにした。
「満州での生活はいかがですか?」
「まあ、この国になって色々と持ち込まれたから、便利にはなりましたわね。電気も水道も通るようになったし……
まあ、そんなものだろう。この国に文明が持ち込まれる以前のことはよく知らないものの、文明化以前はそれこそ我が国よりも遥かに劣った生活をしていたことは想像に固くはない。なにせ皇帝がいた頃などは英国や仏国、そして我が国に散々な目にあわされたわけであり、かつては眠れる獅子と恐れられた頃もあったとは聞くが、もはやその面影などどこにもないわけである。
俺は眼の前の女に色々と語ってやった。最近の国際情勢だとか、日本の内部情勢だとか。そんなことである。女は相変わらず、ふうん、とか、へえ、とか相槌を打ってくれる。
随分と話の分かる女だと感じた。
「おや、こんなとこで」
声をかけてきたのは顔見知りだった。
「ああ、角田じゃないか」
「お知り合い?」
「ええ、同郷の人間なんです。今、関東軍の少佐をやっていて」
「山田、どうしたんだ、こんなすごい美人をつれて食事とは」
「あら、お褒め頂いて光栄ですわね」
「こちらは霍青娥さん」
「角田です。よろしくお願いします」
その日は角田も交えて楽しい飲みになった。
驚いたのは、女がとてつもないウワバミだったということだ。
俺はもとより下戸ではあるが、角田は酒が強い。飲み比べでも負け知らずだという。
そんな角田が潰れても女は平然としている。それどころか、顔色一つ変えることがなかった。そして潰れた角田を見ながら、女は楽しそうな笑みを見せるのだった。その笑みはどこか、人を食ったような、そんなとらえどころのないものだった。
帰り道。あれだけ酒を浴びるように飲んだ女は少しもふらつくことなく歩いていく。
そしてふらふらとしている俺の方に振り向いた。
「ねえ」
「どうしました?」
「あなたのかつての将来の夢はなんだったの?」
「夢ですか? 他愛もない夢ですよ」
「もしよろしければ聞かせてくださらない?」
ちょっと悪酔いしすぎたみたいだ。酔いを覚ますためにも話に付き合ってやるか。
「昔は政治家や官僚、それか軍人になりたかったんです。いつか国を動かすような、そんな人間になりたかった。でも帝大にも陸大にも入れなかった」
「随分と長い間、難しい試験に立ち向かう人間のことを山というほど見てきましたわ。四書五経をひたすら丸暗記したりとかね。そもそも試験というものには必ず敗者がいるものですから」
「それでせめてもの抵抗としてこういうふうにして新聞社に入ったんです。親父もお袋も喜んではくれましたよ。でも、一新聞記者のできることなんてたかがしれていますから」
「ジャーナリズムの力を信じていないのかしら? あなた達の国の民主政はその力によって発達したのでは? 少し前だと憲政の常道とか言って、政党政治なんかもやってたじゃない」
「いやあ、そんな大したものじゃありませんからねえ。ところで青娥さんの夢はなんだったんですか? せっかくだから聞かせてくださいよ……」
「もうとっくの昔に叶いましたわ」
女はそれ以上何も言わなかった。
顔を上げると女はどこかに消えていた。そして俺は道端で一人でゲーゲーとする羽目になるのだった。
角田に料亭へと呼び出されたのはその3日後だった。
角田の他に軍服姿の初老の男がいる。
見たところ、関東軍の高級将校というところだろうか。しかしそんな男が俺になんのようなのだろうか。
俺は促されるまま、角田とその男の前に座った。
「よく来てくれた、山田。こちらは関東軍の宮本大佐だ」
初老の男は口ひげを弄りながら、こちらにじろりと目線を移した。俺は慌てて軽く頭を下げる。
「それで話って何だ、角田」
「まあ、そう焦るな。ところで今の欧州戦線の状況を知っているか?」
「いや、俺は今アジア情勢にかかりっきりでな」
「不勉強だな……まあいい。なんでもソ連軍の反転攻勢が強くなってきたらしい。ドイツも安心してはいられないだろう」
「まあ、確かに日本とは同盟を結んではいるが……でも俺にそんな国際情勢の講釈をしにここに呼んだのか?」
「最後まで話を聞け。お前も知ってのとおり、日本とソ連は中立条約を結んでいる。これがある以上、今はお互いににらみ合い、ということにはなる。しかしだ、念のため、今からでもソ連関係の情報を得ておきたいと大本営は考えている」
「つまりは、ソ連に対する攻撃、を考えていると?」
そこで宮本大佐が口を開いた。
「それは否定できん、しかし、万が一にでもドイツが敗れた場合、次の目標となるのは満州だろう。もしかしたら樺太や千島、ひょっとしたら北海道までスターリンは狙っているかもしれん。流石に北と南で挟撃をされたら苦しいことになる。今のうちにでも国境線沿いの防備を固めておく方が賢明だろう。しかしだ、今は大使館のみならず、嘆かわしいことだが軍内部にもソ連の息のかかった連中が潜んでいる。だから、信頼の置ける、君のような人間に情報を伝えてもらいたい」
「つまりは、私に間諜をやれ、ということですか?」
角田は懐の煙草をゆっくり取り出した。ライターを何度か失敗し、ようやく火をつける。そして煙を吐き出し、口を開く。
「そういう大層なもんじゃないさ、山田」
宮本大佐は口ひげをまたしても弄り始める。
「いってしまえば情報の運び屋だ。なに、大したことはしなくてもよい。君は我々から得た文言を本社に打電してくれるだけでいい。毎朝新聞社には話をつけてある。そしてこの戦争が終わり君が本社に戻った暁には、然るべき栄誉を与えてもらうようにも頼んである」
俺はごくり、と喉を鳴らしてしまった。
「どうだ、山田、引き受けてくれるか?」
角田の問いかけに、もちろん、と俺は即答する。
これは、チャンスなのだ。千載一遇の好機なのだ。他ならぬ俺が歴史を動かす人間の一人となる、その契機となるのだ。俺は胸の高鳴りを抑えることができなかった。
満州国、いや、大日本帝国の命運はまさに俺の双肩にかかっている、大げさかもしれない、しかしそう考えると俺の脈動はついに早くなっていった。
1944年7月25日
角田から提供される情報はおおよそ以下の通りだ。満鉄を発着するソ連の貨物列車の積載量や行先であるとか、逆に日本の貨物列車を監視したりしている不審な人物の名前であるとか、そんなもの。
仕事は正直大したことはない。ただ、報告されるものを本社に打電するだけ。時折こんなことで本当にいいのか、と思うことはある。だが、この小さな仕事が大きな仕事、それこそ東洋平和であるとかそんなことにつながると考えると、手を抜いてもいられない。
時折角田や宮本大佐に呼ばれたりする。こういう風な高級軍人とのコネクションも俺の出世に役立ってくれることだろう。
口笛を吹きながら歩いていると、声をかけられた。
「あら、また会いましたわね」
「お久しぶりですね、青娥さん」
「今は何をされているの? 取材?」
「いやあ、なかなか人には言いづらいことですよ。どうですか? またお食事でもどうです?」
「いえ、大丈夫ですわ。お腹いっぱいなので」
「そうですか。ねえ、青娥さん」
「どうなさったの?」
「僕は今、大きな仕事をしているんですよ。それこそ、ジャーナリズムなんてチンケなものとは違う、もっと大きな仕事を」
「ふうん」
「今はまだ、言うことはできません。でも、数年後にはきっと結果が出ます。大きな結果が」
「それは楽しみですわね。そう言えば、ヨーロッパの方ももうすぐ落ち着きを取り戻す気配をみせてきましたわね。なんでもソ連が大きな反転攻勢を仕掛けたとか」
「へえ、そうなんですか」
俺は上の空だった。こんな女の戯言などどうでもいい。大事なのは俺の密命のことだけなのだから。俺が歴史を動かす、国を動かす、その事実だけなのだから。
次の日、角田からまた一報が入り、俺はそれを本社へ打電した。
次の指示までは時間があるだろう。
そういえば角田との会話の中で、こんなことを聞いた。
明日、捕虜となった支那の兵隊数名の処刑が行われるという。新京郊外での銃殺刑だそうだ。
その晩、女と喫茶店で偶然出くわした。
俺が先に口を開く。
「処刑でも見に行きません? 明日、郊外で支那の捕虜の連中が数人、やられるそうですよ。自分は記者ですから、入れるんです」
青娥は手にしていたティーカップをそっと皿に戻した。
「それは……ご一緒するべき、お誘いなのかしら?」
「いや、変に聞こえたならすみませんね。ただ、こういうのも見ておいても興味深いかなあと思いまして。ほら、歴史の証人というか、そういうのになれるのだったら面白いじゃないですか」
「歴史の証人、ね……見届ける側におられるのかしら? それとも見届けられる側?」
女は小さく笑う。いつも変わらぬ、あの微笑みだ。俺も釣られて笑ってやる。
「もちろん、見届ける側、ですよ」
「では、せいぜい気をつけて」
誰かがくすりと笑った気がした。気がつくと俺一人が座っているのに気づいた。結局、女の分も払うことになったのが随分と忌々しかった。
1945年2月15日
こちらに来て随分と長い時間が経ったように思えるが、まだたったの1年ほどしか経っていないのだ。だが、その間に俺は随分と色々なものを得たように思う。もちろんまだ得ていないもの、帰国してから得るであるものはある。それでも俺は、今の地位に大分満足していた。
「おい、山田」
その日、料亭で角田からの指示を受け、帰ろうとしたところ、呼び止められた。
「どうしたんだ? 角田」
「ちょっと話がある。少し来てくれないか?」
「まあいいが……」
俺の向かい側に座る角田は随分と真剣な顔をしていた。
「お前と一緒にいたあの女だが……」
角田は口ごもりながら、懐から一枚の、ぼろぼろの紙切れを取り出した。どうやら写真らしい。それも相当に古い。半ば朽ちかけた写真。
裏には「中華民国開国紀念 於南京大総統府前」と書いてあった。
何人ものコート姿の男が写っている。そして俺はその中の一人に見覚えがあった。
「……なあ、角田、これはいつ撮影された写真なんだ?」
「1912年1月1日……いや、中華民国成立の日、といったほうが通りがいいか……骨董品屋でたまたま見つけたんだ……」
写真に写る、俺に向ける微笑みと全く変わらぬ微笑みを写真から向けてくる、あの女。
男の中にただ一人交じる、女。
服装はもちろん違う。髪型も違う。そしてもちろんモノクロームだ。しかし、どう見てもあの女だった。今と全く顔貌は変わらぬ、あの女。
「どういうことだ? あの女は30年以上全く歳をとっていない、ということか?」
「他人の空似、ということも考えられなくはないがな……」
「角田、その写真、俺に貸してくれないか?」
「まあ別に返してほしいわけでもないから、やるよ……気持ち悪いしな」
俺は受け取った写真を財布の中に入れる。あの女の名刺とは別々の場所に入れた。
そして角田は、料亭を出ようとする俺に口を開く。
「それと」
「なんだ」
「あまり言いたくはないが……最近、本土にも米軍の大型爆撃機が頻繁に飛来するようになったらしい。それにドイツも押され気味だとか。この戦争の趨勢もどうなることやら……」
「お前がそんな弱音を吐くなんてらしくないな。心配するな、連合艦隊はフィリピンや台湾でも大勝利を挙げているじゃないか」
角田は再び口ごもった。俺は口笛を吹きながら、料亭を後にした。
「こんにちは、山田さん」
あの女だ。いつも思うが、お前はなんのために俺につきまとうんだ?
「なんのためにつきまとうかって? それは夢の結末を見るためですわ」
女は俺に、にやり、と笑みを向けた。冷や汗が流れる。俺は一瞬言葉を失った。
「夢の結末、だと? 何を訳のわからないことを」
「形あるものは、国であれ人であれ夢であれ、潰えるのが世の常ですから。いや、この場合は夢というよりも集団幻覚と呼んだほうが的確かもしれない……」
なにか言い返そうとする。だが言葉がうまく出てこない。この女は、こんな喋り方をしただろうか? この女は、こんな雰囲気を出していただろうか? そうだ、あの写真、さっき角田にもらったあの写真だ。財布から写真を取り出し、女に突きつける。
「……この写真、お前か?」
「あら、随分と懐かしいものを見つけられたのね。嬉しいわ」
「……化け物め。二度と俺の眼の前に現れるな。俺は忙しいんだ」
「忙しい?」
「ああ。俺は今、大事な仕事をしている。この国を、いや、こんな国どころか、日本を、そして世界を動かす仕事をしているんだ。邪魔をするんじゃない、どうせお前は支那かソ連あたりのスパイなんだろう。色仕掛けをしようだなんて、俺をあまり甘く見るなよ?」
「まあ、あなたが日本や世界を動かす仕事をしているっていうのは間違いなく正しいわ。正しいんだけどねえ……」
「失せろ、俺の前から消え失せろ」
「わかりましたわ。……せっかくプレゼントでも差し上げようと思っていたのに」
プレゼント? この期に及んでまだ寝言を言うのか。
「あなたはまだ彼のことを信じているの?」
「彼、だと?」
女はため息を付き、くるりと俺に背を向けた。そしてその背中が見えなくなるまで俺はその女のことを見つめていた。もう二度と会うことはないだろう、そう思いながら。
1945年8月5日
角田はその日、随分と深刻そうな顔をしていた。そして重い口を開く。
「山田、おそらくだが、ソ連はきっと満州へ攻めてくる、残念なことではあるが。4月にソ連は中立条約の不延長を宣告しているが、スターリンのことだ。ヒトラーにやられたことをこちらにやり返してくるだろう」
「つまりは、中立の約束を反故にしてくる、ということか?」
角田は懐からライターを取り出し、タバコに火をつけ、ふう、と煙を吹き出した。
「そうだ。お前も早く本土に戻ったほうがいい……もっとも、本土はどこも焼け野原だから安全なところはないだろうがな……」
「お前はどうするんだ?」
「俺とて関東軍の端くれだ。この国を最後まで守り切るさ」
「お前がそう言うのなら、俺もギリギリまで残ることにするよ」
「ありがとうな、山田。恩に着るよ。ほんと、お前に任せて良かった」
「こちらこそ」
「それで山田、これがおそらく最後の頼みとなる。大使館の信頼できる筋からの情報だが、ソ連軍が攻撃を仕掛けてくるのはおそらくは9月上旬となるらしい。……この情報を打電してお前は早めに本土に戻ったほうがいいだろう。遅くとも8月の下旬にはな」
「そうすることにするよ。じゃあな、角田。生きていたら、また会おうな」
「お互いにな」
俺はその日、角田から得たその情報を無事本社へと打電した。
東京も大きな空襲で焼け野原と化したと聞く。本社は無事だろうか。親父やお袋のことも気になる。だが大事なのは、俺が仕事をやり遂げた、ということだ。俺はやったのだ。ついにやったのだ。たとえどんな結末になろうとも、俺のやったことにはきっと大きな意味がある。それこそがきっと俺の求めていたものなのだ。
俺は陸大出の角田にも、帝大出の課長にもできないことをやりとげたのだ!
心のなかで俺は胸の高鳴りを抑えることができなかった。本土に戻るのはいつになるだろうか。ソ連が攻撃を仕掛けてくるのは9月上旬だと言っていた。おそらくは15日あたりに帰還船に乗れば大丈夫だろう。俺はそこでようやくほっと一息をついた。思えばこの密命を受けてから、そんな気持ちになることができていなかった気がする。本土に戻るその日まで、俺はきっとゆっくり眠ることができるだろう。
1945年8月9日
飛行機のような音、そして何かが炸裂する音で俺は目を覚ました。
爆音が響き渡る。慌てて窓の外を見る。悲鳴を上げながら、大勢の人たちが逃げていく。遠くで何かが爆発する。そして窓枠が震える。
おかしい、何が起きている? なぜ今日なんだ?
急いで角田のもとに電話をかける。出ない。何度かけても。俺は受話器を叩きつける。
ラジオはソ連軍と日本軍が戦闘状態にあることを告げている。
本社に連絡を試みるも、繋がらない。
とりあえずはここから逃げるため、列車に乗らなくてはならない。
突如複数人の男が、日本語でも満州語でもない言葉を喋りながら俺の部屋の中に入ってきた。俺はただ、両手を上に上げるしかなかった。支那人はにやりと笑い、俺の部屋の金目の物を奪い取っていく。俺はそれをただ見ていることしかできなかった。目ぼしいものをあらかた奪うと、支那人は俺の腕を掴んで外へと引っ張り出した。
そして俺は小さなバラック小屋に閉じ込められることとなった。周りには同じように捕らえられたであろう日本人が固まっている。何日経っただろか。窓の外を見る。
外では日本語や満州語のみならず、中国語やロシア語と思わしき言葉が飛び交っている。多くの建物がところどころ破壊されている。ヤポンスキー、ダヴァイ、ヤポンスキー、ダヴァイ、とソ連の兵士が叫んでいる。
ソ連軍の戦車や装甲車が我が物顔で道を走っている。もはや新京はソ連のものとなった、その現実が俺に突きつけられたのだった。
俺は未だ混乱している。なぜ今、ソ連が満州に攻めてくる?
その疑問に答えてくれるものは、誰もいない。
1949年12月11日 ソビエト社会主義共和国連邦ハバロフスク第4収容所にて
その日の労働を終え、俺は寝床についた。寝床と言っても与えられるものは所々破れ、擦り切れて南京虫の湧いた毛布一枚だ。この日は氷点下40度に近い極寒の日だった。
一日ごとに仲間が死んでいく。少しでも気を抜いたものは、この極寒に体温を奪われる。いや、体温を奪われる、などというヤワなものではない。千切れそうになるのだ。鼻や手足が凍傷になりかける、それを防ぐため、必死で擦る。
昨日はルーマニア人が2人死んだ。その前の日は日本人1名が死んだ。誰の名前も知らない。
ソ連軍に捕まった俺は、日本に帰国させるという名目のもとで列車に乗せられ、この地に送られた。その後スパイ容疑で軍事法廷にかけられ、20年の労働刑を課されることとなった。
おそらくは、俺は最初から最後まで角田に騙されていたのだ。
いや、間違いない、角田はソ連の二重スパイだったのだ。
あの日、宮本大佐、いや、宮本と名乗る男が本当に軍人なのかすらも怪しいが、ともかくあの男と会ったあの日から、俺は角田、そしてその元締めであるソ連の手のひらの上で踊らされていたのだ。
俺に与えられていた情報は、最後の一つを除いておそらくは正しかった。
全て撒き餌だったのだろう。もしかしたら、俺以外にも複数人に接触してたのかもしれない。そして本社にもソ連の息のかかった奴がいたはずだ。
全てはソ連の対日参戦の正確な日を、日本側に誤認させるためだった。
俺、そして日本はそれにまんまと騙された、というわけだ。
そして角田は俺をこのシベリアの地で口を封じるつもりだったのだろう。。
自分の愚かさを嘆く暇も、この収容所での生活には存在しない。
材木の伐採であるとか、線路の建設であるとか、そんな極寒の中での重労働の日々には過去を悔恨する暇など存在するはずもなかった。
ただ、あるのは復讐心だけだ。もちろん角田に対してだ。そして、もしかしたら――
1993年6月2日 宮城県仙台市青葉区川内 コーポ静内 112号室にて
荒れ果てた部屋、床には弁当の箱や空き缶が散乱している。古ぼけたブラウン管のテレビはつけっぱなしだ。テレビのニュースは北朝鮮がミサイルを発射したことについて知らせている。だが、俺にとってはもはやどうでもよいことだ。
1951年に日本に帰国した俺を待ち受けていたのは温かい祖国などではなかった。親父とお袋は空襲で死んでいた。そして兄貴たちも戦死していた。
シベリアから帰ってきた俺は、周りの日本人から共産党のアカ呼ばわりされ、親戚を始めとして誰からも冷遇されることとなった。無論、東京毎朝新聞社に俺の籍が残っているはずもない。
終戦、朝鮮戦争、高度経済成長、東京オリンピック、大阪万博、ベトナム戦争、バブル経済、バブル崩壊、そしてソ連の崩壊。
この50年ほどで色々なことが起こった。だが、俺にとってはもはや何も関係のないことだ。
俺はシベリアの極寒の中でも、日本での半ば抜け殻のような生活の中でも、角田への復讐の炎を燃やし続けていた。角田敬一という人間のことを方々探し回った。だが、角田の情報はどこにも見つからなかった。俺の復讐の炎は不完全燃焼を起こしながら、ただほそぼそとくすぶり続けるだけだった。
体も随分と衰えてきた。もうすぐ頭も衰えてくるだろう。そして俺は唯一人で死ぬのだろう。その前に、せめて角田になにかの言葉だけでも投げつけたい、俺はそう思っていた。
インターホンが鳴った。
どうせ宗教か新聞の勧誘だろう。そう思って無視していた。
「こんにちは、山田さん」
眼の前に現れたのは、あの女だった。
名前は、霍青娥。
初めて会ったあの日から何一つ変わらない、あの日の姿、あの日の髪型、あの日の顔、何一つ変わらないのだ。
「今更、何をしに来た?」
「怒らないでくださらない? もう一度、あなたにプレゼントを持ってきたというのに」
そう言って霍青娥は、俺に書類を手渡す。キリル文字で書かれたその文面。シベリアでロシア人から共産主義についての教育を受けた俺は、それをなんとか読むことができた。
「角田敬一……1945年9月20日……飛行機事故で死亡……?」
「そう。あなたがあれだけ追い求めた、あなたを騙した張本人はとっくの昔に亡くなっていたわけ。ゴルビーがグラースノスチを進めてくれたから、そのうち出てくるんじゃないかなーとは思ってたけど、結局ソ連が崩壊してからモスクワの公文書館まで複写をとりに行かなきゃいけなかったわ」
俺はその書類をグシャグシャにする。
「なぜ俺に何も教えなかった?」
「教えたじゃない。何度も何度も。あなたが気づかなかっただけ。第一、あなたの夢はちゃんと叶ったじゃない」
俺は言葉を返せなかった。
「じゃあ、なぜ今更俺にこんなものをもって来たんだ?」
「言ったでしょ? 夢の結末を見届けるためですって。」
霍青娥はコロコロと俺に笑いかける。
きっと俺は分かっていたのだ。この女がいつか必ず俺のもとにやって来る、ということを。
俺は自分のすぐ近くに金属バットを置いていたのに気がついた。いつからそれを置いていたのだろうか? 昨日から? 1年前から? それとも50年前から?
「それじゃあ、山田浩三さん、お元気で」
後ろを向いたその瞬間。俺はバットを大きく振りかぶり、霍青娥の後頭部めがけて振り下ろした。
バットの先端は空を切り、がつん、という音がして床にあたった。
手から離れたバットは大きな音を立てて床を転がった。
俺はへなへなとへたれこんで、虚空を見つめるしかなかった。
霍青娥が消えた後には擦り切れた財布が置いてあった。
財布の中を見る。
もう擦り切れ、ぼろぼろになった財布。中にはお袋の写真であるとか満州国の小銭やタバコなどが入っていた。そして、その奥に。あの女の名刺が入っていた。
そこにただ、霍青娥、の三文字が、1942年9月10日と何も変わることなく書かれていた。
こういう遊びというか暇つぶしというか?結構青娥はやってそう
戦時を駆け抜けたかったジャーナリストとニヤニヤしながらそれを眺めてる青娥のやり取りが素晴らしかったです
シベリア送りにされても生き残れたのも復讐心が糧になっていたのかと思いました
多分本人にとってはこれも暇つぶしの一つでしかないのだろうけど
わざわざ大移動をして数十年単位で1人の人間に接触するあたり
どこか狂気じみたように強い好奇心を持っている青娥の人間性がよく描かれていたように思います。