「暑い」
畜生界は常闇の世界だ。
まず太陽というものが無い。だから直射日光の放射熱も存在しない。常に一定の気温が保たれていて、一部の知性ある畜生(またの名を藍と言った)によれば、これは真下の地獄に存在する灼熱地獄からの熱伝導によるものだという。
一方で風というものもほぼ無かったので、いつもこもったような湿気と獣臭さに満ちた生温かな世界である。無論快適では無かったが、それが当たり前だったので誰も何も文句をつけなかった。そのはずだった。
「暑いぃ……」
なのに何故こんなことになっているのか。吉弔八千慧は朦朧とする頭をしぼり思い出そうとする。そうでもしないと気を失いそうだったからだ。自慢の長い尻尾はだらりと力なく地面に横たわり、ぐっしょりと湿気た前髪を不快な汗がしたたっていく。
「んなこたわかってる……」
すぐ横で、同じく生気を欠いた声が響く。驪駒早鬼。爆発的エネルギーに満ちた彼女が今、炎天下に放置されたヤモリのようにしなびている。
二匹は鬼傑組のオフィスビル屋上で闇の空を眺めていた。なんだか高いところの方が涼しい気がしたからだが、やはり風がないので変わらなかった。それでも屋内よりはマシで……かれこれ数時間はこの状態でいる。
否、彼女たち以外の(一部赤道直下産まれの連中を除いた)あらゆる動物霊がこうだった。屋上の手すりから地上を見下ろせば、凄まじい数の動物霊が死にかけのナメクジに置き換わったかの如き壮絶な光景を望むことができるだろう。
「なんでこんなことになってんだ……」
「わかってるでしょ……」
「ああ……」
「『クーラー』のせいだよ……」
「ああ……」
クーラー。例の造形神が「これからはビジネスパートナーとして付き合いましょう」とかなんとか言って畜生界中で売り出し始めた魔法の箱。初めは八千慧も早鬼も懐疑百%だったが、すぐに手のひらを返すことになった。
なんとこの箱――涼しいのである。
その箱を室内に配置し、電気(八千慧はあまり理解してないが、とにかく機械とかを動かせる何か)を流すと、数分としないうちに部屋が快適な温度に変わる。そして畜生達は初めて知った。畜生界の気候は……まあ、控えめに言っても不愉快な気候だったのだ、と。
「どうです? 便利でしょう?」
結果、クーラーは飛ぶように普及した。八千慧達には拭いされぬ一抹の不信感が残っていたものの、当の本獣がオフィスでガンガンにクーラーを効かせているのだから、結局はどうにもできなかった。
どうにかするべきだったのだ。しかしどうにもならなかった。
彼女らの不安が現実になったのは、ついにクーラーの普及率が九割をマークした頃。
暑いのである。
クーラーの恩寵から逃れた瞬間、堪え難い熱気が畜生達を苛んだ。初めはクーラーの快適さに「慣れた」せいだと思われたが、事態はより深刻だった。外部より招致された専門家(またの名を八雲藍と言う)による定量的な計測の結果、畜生界の気温は明らかに上昇していると結論付けられた。
「ヒートアイランド現象ね」
自慢の九尾の先まですっかり汗だくになった彼女は、いそいそと帰り支度をしながら八千慧達にそう告げたものだ。
「今の畜生界はコンクリートとアスファルトのジャングルよ。昔は緑豊かだったのにねえ」
「でも都市化は今に始まったことじゃない」
「わかってる。最大の原因はあれよ」
そう言って藍が示したものこそ、埴安神の売り出した魔法の箱――クーラーである。
「あのね八千慧、クーラーは冷気を吐き出す魔法の箱じゃないの。簡単に言えば室内と室外で温度のやり取りをしてるだけ」
「どこが簡単なの?」
「だからつまり……部屋を冷ました分だけ外は暑くなってんの!」
「どうしたらいい!」
「地上なら冬になりゃ冷えるんだけど、ここじゃあねえ。まあ一番手っ取り早いのは……クーラーを使わないことだね」
直ちに鬼傑組と勁牙組はクーラー禁止の大号令を発布した。が、無駄だった。
なにせ、暑いのである。クソ暑いのである。クーラーを消した瞬間に灼熱地獄が飛び込んでくる。泣きわめくカワウソ霊達からリモコンを無理やり取り上げた八千慧さえ、ひゅっと喉を鳴らして再起動ボタンを押さざるを得なかった。
全ては遅きに失した……がまだ希望は残されていた。
つまり、クーラーである。どんなに外が暑かろうが、少なくともクーラーの効いた室内にいる限りは逃れられた。
しかし――破滅は一夜にして訪れた。
クーラーが、畜生界に存在する全てのクーラーが、突如停止したのである。
「暑い……」
「言うな……余計暑くなる……」
それがこのザマである。動作不良時の緊急埴輪メンテナンスダイヤルは混雑中で今朝から通じていない。というか――電子機器に疎い八千慧は気がつくのが遅れたが――そもそも電気自体が止まっていた。が、この灼熱の前では同じことだった。
「電気はいつ復旧するんだ……」
「人力発電所はあんたんとこの管轄でしょ……」
「私が仔細把握してると思うか……!?」
「自慢げに言うんじゃないっ……!」
八千慧が掴みかかるも、その指先に覇気は無い。濁った早鬼の瞳が細まる。二匹とも限界だ。百戦錬磨の八千慧も、一騎当千の早鬼でさえも、うだるメトロポリスの熱帯夜には音を上げる他に無かった。そこへ――
「おーいたいた……って、ひでえ面だな? てめえらこの場でぶっ殺して剛欲同盟天下統一か?」
饕餮尤魔。畜生界を三分する大畜生の最期の一匹が、鬼傑組屋上にふらりと着地する。その額には汗粒一つ浮かんでいない。
「あぁ、尤魔……」
「あぁじゃねえよ。まさかこの程度の暑さで音を上げてんのか? 情けねえ」
「爬虫類は温度変化に弱いのよ……」
「お馬さんは暑さに弱いんだよ……」
「ったくてめえらは昔から世話の焼ける……とにかく行くぞ」
「行くって……どこへ?」
心底信じられなさげに尤魔は瞳を丸くした後、吐き捨てるように告げた。
「全ての元凶のトコだよ」
○
霊長園――。
いつもなら嫌味の一つも口にするはずの八千慧と早鬼だが、彼女たちが第一声放ったのは
「「涼しいーっ!」」
馬鹿を見る目でそれを眺める尤魔に、抑揚の無い声がかかる。
「お待ちしておりました。こちらへ」
そのまま三匹は声の主、磨弓に率いられるまま、巨大なガレージの中へ踏み入れた。
そこへ尊大でゆったりとした声が投げかけられる。
「お久しぶりですね、皆さん。またお会いできて光栄です」
欠片程も光栄そうではない口ぶりで姿を顕す、彼女は埴安神袿姫。八千慧がまた勇み足で前に出るが、合わせて磨弓が主人を守るよう身を挟む。袿姫がそれをやんわりと諌めた。
「最初にはっきり伝えておきますが、停電は私の責任ではありませんよ」
「何を言うの? さっさとクーラーを戻しなさいよ!」
「あら、それ? 私はてっきり……私の製品をご愛顧いただいてるようで何より」
「発電所に何か細工したんじゃないのか?」
「私が? 何故? そんなことしても何の利益も無い」
「それは――私たちを弱体化させて奇襲する作戦とか!」
「してないじゃないですか、奇襲」
「……あれ?」
袿姫の言葉に反論の余地は無かった。首をひねる早鬼を脇に置いて、尤魔が言葉を継ぐ。
「畜生界の電力網は元々チープだからな。激増した電力需要に耐えきれなかっただけだろ」
「さすが九尾の狐の元相棒さん。その通りです」
「尤魔、あんた知ってたの?」
「目的がわからなかった」
「まあ……ちょっとしたショック療法ですよ。畜生に電力産業を売り込むのは骨が折れそうでしたから、身を以て体感して貰おうと」
「電力だぁ?」
「産業の発展はインフラの増強と同時並行で行わなくてはねぇ。饕餮、あなたは石油王なんでしょ?」
「あぁ……ちくしょう、そういうことか」
「どういうことよ!」
「火力発電だな? 私の石油を寄越せってことか」
「タダとは言いませんよ。そんな畜生じゃあるまいし……幸い、資本金には余裕があります」
「ちょっと尤魔! 説明してよ!」
「だから……はぁ。メトロポリス開発は一大事業だったが、お前んとこは人材屋で、早鬼は土木業だったもんなぁ。技術面は全部こっちに押し付けやがって……」
「金は出したじゃない」
「基礎研究ってのは金喰うんだよそれ以上に! とにかく造形神のやろうとしてることはだなぁ」
「文明開化ですよ」
にこり、埴安神が慈愛の笑みを浮かべる。だがその瞳の奥に覗くは底なしの闇だ。八千慧と早鬼が僅かに後ずさる。それは純粋な畜生には無い欲望。無限の繁栄の欲望。無限の、無限に続く、発展への欲望。
「クーラーはいかがでしたか? とても快適でしょう? 例え世界がちょっぴり暑くなったとしてもね……けどあんなのは序の口。さらなる未来の話をしませんか?」
パチン、指が鳴らされるに合わせガレージに満ちる闇が斬り裂かれる。等間隔の照明に照らし出されるは、梱包された魔法の箱の山――
「カラーテレビと言います。座ったままあらゆる娯楽を享受できる魔法の箱です」
「ちょっと! また妙なもん売りつけようっての!? 畜生にそんなもの不要だわ!」
「でもクーラーは喜んでくれたじゃないですか」
「うぐ、それは……」
「きっと気に入りますよ、テレビも」
一歩前に踏み出す袿姫。そこへ尤魔が立ちはだかった。明らかな敵意を瞳に光らせて。
「袿姫、悪いがそいつは無しだ。カラーテレビとやらの流通を剛欲同盟は認めない。鬼傑組も、勁牙組もそうさ。なぁ?」
有無を言わす雰囲気ではない。早鬼が首肯き、八千慧も渋々それに従う。
「饕餮、我々の間には誤解があるようですね」
「無い。埴安神よ、誤解してるのはお前の方だぜ。クーラーだのテレビだの、人間霊はそれで支配できたのかもしれないが……畜生はそんな従順じゃない」
「また暴力ですか? 地上の人間はもう手を貸してくれないと思いますよ。これは明らかに畜生界の進歩と発展に関する問題なのだから」
「わかってねえな。本当にわかってねえ」
やれやれと首を振る尤魔が、かと思うとクツクツと獰猛な笑い声を上げ始める。ぴくり、袿姫の余裕に満ちた表情が僅かにこわばった。
「実は地底で得たのは石油だけじゃなくてね。ちょっとしたコネもできたんだ」
「コネ……?」
「八咫烏入りのお嬢ちゃんさ」
今度こそ明確に袿姫の眉根が歪む。理解できずにいる八千慧達を他所に、袿姫が声を荒らげた。
「あれは誰にも扱えませんよ」
「そんな気はねえ。ただ……あの嬢ちゃんをここまでふんじばってくる。嫌味たっぷりにな。そしたらどうなるか?」
「馬鹿げてる。全て滅茶苦茶になります」
「ここはもともとクソみたいな荒野だった」
「本気ですか? 本気のようですね。饕餮尤魔……あなたは本物の暴力の使い方を心得ている。恐ろしい」
「もうちょっと怖がりながら言えよ」
「……しかたがない。しかたがないねぇ。どうやら畜生界の文明開化は当分先のことらしいな」
「そんなの畜生界じゃねえよ」
「磨弓、お客様がお帰りだわ! 丁重にお見送りしなさい」
それで……終わりだった。
袿姫が「カラーテレビ」とやらを売り出すことはついぞ無かったし、どころか畜生界中のクーラーがまた一夜にして使い物にならなくなった。今度は徹底的だった。全てが泥の塊に戻っていた。ただの土くれに。
そして。
「結局……」
鬼傑組オフィスビル、屋上。手すりにもたれかかる八千慧の額を汗がつたい、遥かなアスファルトの路面に落ちていく。
「私らは尤魔のダシにされたってこと?」
「ダシというか実験動物だな。袿姫の目的を計るための」
「袿姫は本気で私らを豊かにするつもりだったのかな?」
「さあね……でも一つだけ確かなことがある」
「なに?」
汗びっしょりの黒髪をかき上げて、早鬼がにやりと白い歯を覗かせた。本当に、辟易した様子で。
「暑い」
畜生界は常闇の世界だ。
まず太陽というものが無い。だから直射日光の放射熱も存在しない。常に一定の気温が保たれていて、一部の知性ある畜生(またの名を藍と言った)によれば、これは真下の地獄に存在する灼熱地獄からの熱伝導によるものだという。
一方で風というものもほぼ無かったので、いつもこもったような湿気と獣臭さに満ちた生温かな世界である。無論快適では無かったが、それが当たり前だったので誰も何も文句をつけなかった。そのはずだった。
「暑いぃ……」
なのに何故こんなことになっているのか。吉弔八千慧は朦朧とする頭をしぼり思い出そうとする。そうでもしないと気を失いそうだったからだ。自慢の長い尻尾はだらりと力なく地面に横たわり、ぐっしょりと湿気た前髪を不快な汗がしたたっていく。
「んなこたわかってる……」
すぐ横で、同じく生気を欠いた声が響く。驪駒早鬼。爆発的エネルギーに満ちた彼女が今、炎天下に放置されたヤモリのようにしなびている。
二匹は鬼傑組のオフィスビル屋上で闇の空を眺めていた。なんだか高いところの方が涼しい気がしたからだが、やはり風がないので変わらなかった。それでも屋内よりはマシで……かれこれ数時間はこの状態でいる。
否、彼女たち以外の(一部赤道直下産まれの連中を除いた)あらゆる動物霊がこうだった。屋上の手すりから地上を見下ろせば、凄まじい数の動物霊が死にかけのナメクジに置き換わったかの如き壮絶な光景を望むことができるだろう。
「なんでこんなことになってんだ……」
「わかってるでしょ……」
「ああ……」
「『クーラー』のせいだよ……」
「ああ……」
クーラー。例の造形神が「これからはビジネスパートナーとして付き合いましょう」とかなんとか言って畜生界中で売り出し始めた魔法の箱。初めは八千慧も早鬼も懐疑百%だったが、すぐに手のひらを返すことになった。
なんとこの箱――涼しいのである。
その箱を室内に配置し、電気(八千慧はあまり理解してないが、とにかく機械とかを動かせる何か)を流すと、数分としないうちに部屋が快適な温度に変わる。そして畜生達は初めて知った。畜生界の気候は……まあ、控えめに言っても不愉快な気候だったのだ、と。
「どうです? 便利でしょう?」
結果、クーラーは飛ぶように普及した。八千慧達には拭いされぬ一抹の不信感が残っていたものの、当の本獣がオフィスでガンガンにクーラーを効かせているのだから、結局はどうにもできなかった。
どうにかするべきだったのだ。しかしどうにもならなかった。
彼女らの不安が現実になったのは、ついにクーラーの普及率が九割をマークした頃。
暑いのである。
クーラーの恩寵から逃れた瞬間、堪え難い熱気が畜生達を苛んだ。初めはクーラーの快適さに「慣れた」せいだと思われたが、事態はより深刻だった。外部より招致された専門家(またの名を八雲藍と言う)による定量的な計測の結果、畜生界の気温は明らかに上昇していると結論付けられた。
「ヒートアイランド現象ね」
自慢の九尾の先まですっかり汗だくになった彼女は、いそいそと帰り支度をしながら八千慧達にそう告げたものだ。
「今の畜生界はコンクリートとアスファルトのジャングルよ。昔は緑豊かだったのにねえ」
「でも都市化は今に始まったことじゃない」
「わかってる。最大の原因はあれよ」
そう言って藍が示したものこそ、埴安神の売り出した魔法の箱――クーラーである。
「あのね八千慧、クーラーは冷気を吐き出す魔法の箱じゃないの。簡単に言えば室内と室外で温度のやり取りをしてるだけ」
「どこが簡単なの?」
「だからつまり……部屋を冷ました分だけ外は暑くなってんの!」
「どうしたらいい!」
「地上なら冬になりゃ冷えるんだけど、ここじゃあねえ。まあ一番手っ取り早いのは……クーラーを使わないことだね」
直ちに鬼傑組と勁牙組はクーラー禁止の大号令を発布した。が、無駄だった。
なにせ、暑いのである。クソ暑いのである。クーラーを消した瞬間に灼熱地獄が飛び込んでくる。泣きわめくカワウソ霊達からリモコンを無理やり取り上げた八千慧さえ、ひゅっと喉を鳴らして再起動ボタンを押さざるを得なかった。
全ては遅きに失した……がまだ希望は残されていた。
つまり、クーラーである。どんなに外が暑かろうが、少なくともクーラーの効いた室内にいる限りは逃れられた。
しかし――破滅は一夜にして訪れた。
クーラーが、畜生界に存在する全てのクーラーが、突如停止したのである。
「暑い……」
「言うな……余計暑くなる……」
それがこのザマである。動作不良時の緊急埴輪メンテナンスダイヤルは混雑中で今朝から通じていない。というか――電子機器に疎い八千慧は気がつくのが遅れたが――そもそも電気自体が止まっていた。が、この灼熱の前では同じことだった。
「電気はいつ復旧するんだ……」
「人力発電所はあんたんとこの管轄でしょ……」
「私が仔細把握してると思うか……!?」
「自慢げに言うんじゃないっ……!」
八千慧が掴みかかるも、その指先に覇気は無い。濁った早鬼の瞳が細まる。二匹とも限界だ。百戦錬磨の八千慧も、一騎当千の早鬼でさえも、うだるメトロポリスの熱帯夜には音を上げる他に無かった。そこへ――
「おーいたいた……って、ひでえ面だな? てめえらこの場でぶっ殺して剛欲同盟天下統一か?」
饕餮尤魔。畜生界を三分する大畜生の最期の一匹が、鬼傑組屋上にふらりと着地する。その額には汗粒一つ浮かんでいない。
「あぁ、尤魔……」
「あぁじゃねえよ。まさかこの程度の暑さで音を上げてんのか? 情けねえ」
「爬虫類は温度変化に弱いのよ……」
「お馬さんは暑さに弱いんだよ……」
「ったくてめえらは昔から世話の焼ける……とにかく行くぞ」
「行くって……どこへ?」
心底信じられなさげに尤魔は瞳を丸くした後、吐き捨てるように告げた。
「全ての元凶のトコだよ」
○
霊長園――。
いつもなら嫌味の一つも口にするはずの八千慧と早鬼だが、彼女たちが第一声放ったのは
「「涼しいーっ!」」
馬鹿を見る目でそれを眺める尤魔に、抑揚の無い声がかかる。
「お待ちしておりました。こちらへ」
そのまま三匹は声の主、磨弓に率いられるまま、巨大なガレージの中へ踏み入れた。
そこへ尊大でゆったりとした声が投げかけられる。
「お久しぶりですね、皆さん。またお会いできて光栄です」
欠片程も光栄そうではない口ぶりで姿を顕す、彼女は埴安神袿姫。八千慧がまた勇み足で前に出るが、合わせて磨弓が主人を守るよう身を挟む。袿姫がそれをやんわりと諌めた。
「最初にはっきり伝えておきますが、停電は私の責任ではありませんよ」
「何を言うの? さっさとクーラーを戻しなさいよ!」
「あら、それ? 私はてっきり……私の製品をご愛顧いただいてるようで何より」
「発電所に何か細工したんじゃないのか?」
「私が? 何故? そんなことしても何の利益も無い」
「それは――私たちを弱体化させて奇襲する作戦とか!」
「してないじゃないですか、奇襲」
「……あれ?」
袿姫の言葉に反論の余地は無かった。首をひねる早鬼を脇に置いて、尤魔が言葉を継ぐ。
「畜生界の電力網は元々チープだからな。激増した電力需要に耐えきれなかっただけだろ」
「さすが九尾の狐の元相棒さん。その通りです」
「尤魔、あんた知ってたの?」
「目的がわからなかった」
「まあ……ちょっとしたショック療法ですよ。畜生に電力産業を売り込むのは骨が折れそうでしたから、身を以て体感して貰おうと」
「電力だぁ?」
「産業の発展はインフラの増強と同時並行で行わなくてはねぇ。饕餮、あなたは石油王なんでしょ?」
「あぁ……ちくしょう、そういうことか」
「どういうことよ!」
「火力発電だな? 私の石油を寄越せってことか」
「タダとは言いませんよ。そんな畜生じゃあるまいし……幸い、資本金には余裕があります」
「ちょっと尤魔! 説明してよ!」
「だから……はぁ。メトロポリス開発は一大事業だったが、お前んとこは人材屋で、早鬼は土木業だったもんなぁ。技術面は全部こっちに押し付けやがって……」
「金は出したじゃない」
「基礎研究ってのは金喰うんだよそれ以上に! とにかく造形神のやろうとしてることはだなぁ」
「文明開化ですよ」
にこり、埴安神が慈愛の笑みを浮かべる。だがその瞳の奥に覗くは底なしの闇だ。八千慧と早鬼が僅かに後ずさる。それは純粋な畜生には無い欲望。無限の繁栄の欲望。無限の、無限に続く、発展への欲望。
「クーラーはいかがでしたか? とても快適でしょう? 例え世界がちょっぴり暑くなったとしてもね……けどあんなのは序の口。さらなる未来の話をしませんか?」
パチン、指が鳴らされるに合わせガレージに満ちる闇が斬り裂かれる。等間隔の照明に照らし出されるは、梱包された魔法の箱の山――
「カラーテレビと言います。座ったままあらゆる娯楽を享受できる魔法の箱です」
「ちょっと! また妙なもん売りつけようっての!? 畜生にそんなもの不要だわ!」
「でもクーラーは喜んでくれたじゃないですか」
「うぐ、それは……」
「きっと気に入りますよ、テレビも」
一歩前に踏み出す袿姫。そこへ尤魔が立ちはだかった。明らかな敵意を瞳に光らせて。
「袿姫、悪いがそいつは無しだ。カラーテレビとやらの流通を剛欲同盟は認めない。鬼傑組も、勁牙組もそうさ。なぁ?」
有無を言わす雰囲気ではない。早鬼が首肯き、八千慧も渋々それに従う。
「饕餮、我々の間には誤解があるようですね」
「無い。埴安神よ、誤解してるのはお前の方だぜ。クーラーだのテレビだの、人間霊はそれで支配できたのかもしれないが……畜生はそんな従順じゃない」
「また暴力ですか? 地上の人間はもう手を貸してくれないと思いますよ。これは明らかに畜生界の進歩と発展に関する問題なのだから」
「わかってねえな。本当にわかってねえ」
やれやれと首を振る尤魔が、かと思うとクツクツと獰猛な笑い声を上げ始める。ぴくり、袿姫の余裕に満ちた表情が僅かにこわばった。
「実は地底で得たのは石油だけじゃなくてね。ちょっとしたコネもできたんだ」
「コネ……?」
「八咫烏入りのお嬢ちゃんさ」
今度こそ明確に袿姫の眉根が歪む。理解できずにいる八千慧達を他所に、袿姫が声を荒らげた。
「あれは誰にも扱えませんよ」
「そんな気はねえ。ただ……あの嬢ちゃんをここまでふんじばってくる。嫌味たっぷりにな。そしたらどうなるか?」
「馬鹿げてる。全て滅茶苦茶になります」
「ここはもともとクソみたいな荒野だった」
「本気ですか? 本気のようですね。饕餮尤魔……あなたは本物の暴力の使い方を心得ている。恐ろしい」
「もうちょっと怖がりながら言えよ」
「……しかたがない。しかたがないねぇ。どうやら畜生界の文明開化は当分先のことらしいな」
「そんなの畜生界じゃねえよ」
「磨弓、お客様がお帰りだわ! 丁重にお見送りしなさい」
それで……終わりだった。
袿姫が「カラーテレビ」とやらを売り出すことはついぞ無かったし、どころか畜生界中のクーラーがまた一夜にして使い物にならなくなった。今度は徹底的だった。全てが泥の塊に戻っていた。ただの土くれに。
そして。
「結局……」
鬼傑組オフィスビル、屋上。手すりにもたれかかる八千慧の額を汗がつたい、遥かなアスファルトの路面に落ちていく。
「私らは尤魔のダシにされたってこと?」
「ダシというか実験動物だな。袿姫の目的を計るための」
「袿姫は本気で私らを豊かにするつもりだったのかな?」
「さあね……でも一つだけ確かなことがある」
「なに?」
汗びっしょりの黒髪をかき上げて、早鬼がにやりと白い歯を覗かせた。本当に、辟易した様子で。
「暑い」
文明が発展して一番強いのは人間ですからねー
テクノロジーに溺れかける畜生界でしたがすんでのところでとどまれて何よりでした