大いなる力には大いなる責任が伴う――って、偉い人が言っていた。
でも、幻想郷の人たちはみぃーんな大いなる力を持ってるくせに、責任なんてちっとも果たしてるように見えない。
「そう思いません? 信州の神様」
まだ青い空の下、お酒の匂いがする。煙管の臭いがする。宴の音がする。もういい加減、こんな賑やかなのにも慣れてきた。
「うん、そんな呼ばれ方も久しぶりだね」
そして、私の目の前で静かに盃を傾けている"お方"も、大いなる力を持った神様の一柱。
瞳の色は夕暮れで、私のこと見てるようでもあり、博麗神社から見える初夏の空を見てるようでもある。
名前は確か、八坂神奈子。宴会には時々顔を出すけど、特に誰か仲が良い相手がいるって感じでもない。中心メンバから少し離れたところで"おつき"の早苗ちゃんとマイペースに飲んでる。まあ、そんな感じ。
「ここに来て、神様って名乗る方々も色々会ったけど、揃いも揃って自分勝手で」
神様は頷く。ゆっくりと、自信たっぷりに。
私は手元の葡萄ジュースをちびちびやる。味なんてよくわからなかった。
「当然、神が卑屈では仕方がない」
「そうですか? でも……さっき早苗ちゃんと話してたんです」
「あら」
「早苗ちゃんが好きだった漫画、まだ休載してるよって教えたら笑ってました」
「それで? ええと……」
「菫子です。宇佐見菫子……ねえ、あなたは、早苗ちゃんのこと無理やり連れてきたんでしょ?」
べつに正義漢ぶりたいんじゃなかった。早苗ちゃんとも特別に仲良いわけじゃなかった。
ただ、もやもやしたのかもしれない……幻想郷の人たちは力を持ってる。世界を変えられるような力! なのにこの郷に閉じこもって、好きなように生きてる。
八坂神奈子が薄く笑った。
「そんなこと問い詰められるのも、やっぱり久しぶりだねえ」
「私もう向こう行きます。すみませんいきなり」
「座りなよ。貴女もこんな話が聞きたくて宴に足を運ぶのでしょう? なに、そんなに長い話でもない……」
私はそれに従った。他人のプライバシーを又聞きするなんてお行儀の良い行為じゃない。それでも――好奇心が勝る。
「少し昔の話をしよう」
宴の音が遠くなっていく。腹の底に響くような神様の声が私の心を掴み、握り込む。とろりと瞼が重くなっていく。
ああ、これはアレだ。夢を見る時のアレだ。神様の……これは……私は……。
○
私は夏に立っていた。蝉の声と波の音。
そこは海だった。よくある黒砂のビーチ。水着姿の人々は家族連れが目立つ。どこかの行楽地なのか。
なんでもいいけど、暑いな……そう思った頃合い、誰かが麦わら帽を被せてくれた。
「あ、どうも」
顔を上げると八坂神奈子が居た。押し寄せる白波の方を指差す彼女に従うと、小学生くらいの少女の一団に混じってどこか見覚えのある顔が居た。
「早苗だよ。たしか小学校を卒業する最後の年だ」
「ここは?」
「長々口で話すより手っ取り早いだろう?」
ようするに神様の力で作った仮想世界、といったものか。何でもありだなと思ったけど、今更だし黙っておく。
「早苗ちゃん、黒髪だったんですね」
「染めさせてた。当たり前だろ」
「まあ、そうですよね」
「神通力や妖力は肉体を変容させる。貴女も気をつけたほうがいい。人間は異質な他者に敏感だからね」
「知ってますよ。嫌ってほど」
そう言う割に、小学生時代の早苗ちゃんは地味な方に見えた。
奇声に近い笑い声を上げながら砂浜を駆け回るキャピキャピした女子グループ集団、その最後尾辺りをてこてこ着いていく、おっとり笑顔を浮かべた少女。
クラスの主流派ではないが、不思議とどの集団からも可愛がられるタイプ。悪意を知らない、ちょっと抜けた子。早苗ちゃんらしいというか、少なくとも私とは真逆。
「ここ、海ですよね? 長野に海、無いですよね」
「臨海学校だよ」
「ああ……」
「軽く言うが大変だった。早苗は巫女で、神通力を持つ生娘だ。神域から出ればたちまち力を求めるロクデナシ共を集めちまう。あそこ、見えるかい」
促された方をバカ正直に見やると、ボロっちいパラソルの下に寝そべる八坂神奈子の姿があった。隣りにいる方の神奈子がやれやれと息を吐く。
「幸い私は肉体を棄ててなかったからね。保護者ってことで同伴した」
「なぜ」
「思い出は大切だ」
「私は臨海学校なんて行きたくもなかった」
「同質である必要はない。といっても相応の責任は伴うが。例えばほら、あいつさ」
波打ち際ではしゃぎまわる少女たち。さっきまでは年相応の無邪気さを纏っていたが、今や急速にその雰囲気を険悪な物にしていた。女子小学生の集団の中、一際に目立つ女の子がいる。早苗ちゃんじゃない。早苗ちゃんは相変わらず少し後ろの方でぽけっと成り行きを見守っている。
「私から離れたって死にゃしないよ」
促されるまま近寄って、状況がわかった。一人の女の子がクラスメイトの注目を独占している。彼女の纏った女児向け水着、それと手にした浮き輪……思い出した。この時代に流行ってたキャラものだ。あらゆる関連グッズが品薄で、ネットオークションでは十倍以上の値段で取引されてるってクラスの子が話してたっけ……。
「これね、パパが買ってくれたのよ! 私のパパなんでも買ってくれるの!」
おそらくはグループのリーダー的存在。さっきまではしゃぎま回ってた子達のうち、半分は黄色い声を上げて彼女の衣装を褒めちぎっていたが、もう半分は白けた顔だ。何故このタイミングで――ああ、きっとあの子はクラスの注目が海という強大なライバルに独占されている状況が許せなかったんだ。
「パパ、皆の分も買ってくれたから! 一緒に遊ぶ子は使っていいよ!」
それから波打ち際の集団は、きっと教室の手狭な空間と同じ秩序に満たされた。
リーダーに従順な子らは「流行」という強大な価値を存分に享受し、そうでもない子らはさりとて別の集団を形成するでもなく、名残惜しげに海の青さを眺めていた。
「私は何を見せられてるんです?」
「早苗ったら動じていないでしょ」
「そうですね。だから? 貴方達も同じだってことですか? あのタカビーな子と同じ、大いなる力を振りかざす存在で……早苗ちゃんは動じていないって言いたいんですか? 無理やり連れてこられても気にしてないって」
「個人的なトラウマを刺激したなら悪いけど、もう少し落ち着いたら? 少し時間を飛ばそうか」
そう告げられた瞬間、空が暮れた。薄紫と橙の空が水平線上で混じり合う壮大な奇跡の上に、一番星がほの明るく輝き始めていた。
小学生女児共はまだ遊び続けている。妖怪じみた体力――え? 違和感が首をもたげる。遊んでるんじゃない。何か……揉めている?
「だからぁっ! なんで私の、私の浮き輪っ! 誰がやったのおっ!」
怒声。涙声の訴え。女生徒たちの気まずい沈黙。理由はすぐわかった。例のタカビーガールが指差す方、既に人もまばらになった海に浮かぶ浮き輪が一つ、遊泳禁止ブイの向こうを漂っていた。
「誰がやったのよお! 私のなのに! パパが買ってくれたのにぃ!」
つまり彼女は誰かが自分の浮き輪を沖に流したと主張しているらしい。当然、名乗り出てくる者などいない。いやそもそも、うっかり波にさらわれて、運悪く潮に流されたってだけの気もする。
だが彼女はあくまで顔を真赤にして「犯人」を糾弾する。終いには涙と鼻水になってぐちゃぐちゃになってまで。
その彼女を慰む者は皆無。むしろ無様を眺める女児達の冷たい瞳。「ざまあみろ」という無言の嘲笑。それをタカビーちゃんも理解してるんだろう。彼女は大いなる力を振るってきた。でもそこに伴う大いなる責任は果たさなかった。だから自分は攻撃されたに違いないと躍起になって声を上げる。
私は目を背けた。子供は大人よりずっと残酷だ。大人と違い、子供には逃げ場がないから。だから――
「取ってあげよっか?」
柔らかな声が響いた。
私が振り返ると、他の子供達も同じく呆気にとられた顔で同じ方向を見つめていた。つまり、早苗ちゃんを。
「泣かないで。私、取ってくるから」
誰もがぽかんとして眺める中、早苗ちゃんは相変わらずおっとりした歩調で波打ち際まで歩いていく。
嫌な予感がした。少女の小さな手がすっと水平線に差し向けられる。とめどなく嫌な予感がした。その予感はたちまち現実のものとなった。
「私は油断していた」
ぽつりと、私の背後で神奈子が呟く。にわかに風が強くなる。鮮やかな夕日と凪いだ海が突如、猛烈に漣だった。
突然の天候急変にビーチの監視員たちが慌て始める。まだ残っていた家族連れ達が大慌てで撤収を始める中、女子生徒の一団は地味で目立たなかったはずのクラスメイトが突然に海へと呪文を唱え始めたのをぎょっとしたまま見守っていた。
「油断してたんだ。早苗が自分から奇跡を起こしたのは初めてだったから。あの子は……私はてっきり力に慣れていないんだと思っていた。でもそうじゃなかった。あの子はただ、自分のために力を使う気が無かっただけなんだ」
轟々と吹き荒ぶ風は束ね合わされ、今やビーチは暴風雨の最中にあった。流石にこれはやばいと気がついた女の子たちの何人かが陸へと逃げ帰り始める。今や残ったのはタカビーの子と、早苗ちゃんだけ。その少し離れたところでは、ビーチに這いつくばった記憶の中の神奈子が何事か叫んでいた。それも風の音にかき消されていった。不意打ちで力を引き出され、抵抗できないのか――。
うねり、高鳴る波濤の飛沫。それはけれど無秩序な大荒れではなくて、むしろ一定のペースを保って蠕動を繰り返すようでもあって。
早苗ちゃんが、幼き現人神が、吹き付ける雨風に長い髪をびっしゃり額に貼り付けたタカビーの子を振り返る。
「待っててね。もうすぐだから!」
その瞳は輝いていた。口元には、先程までと何ら変わりなく穏やかな笑みを浮かべていた。止められる者は誰も居なかった。
そして、海が割れた――。
「はいそこまで」
瞬間すべてが嘘のように鎮まる。
ぽかんとする早苗の頭を優しく撫でる、妙な帽子を被った女性。聞いたことがある。山の神社には神様が二柱いるって……かと思うとそれも消え、後には無人のビーチとびしょ濡れになった二人の少女だけが残された。
しかしその光景も薄れ、波の音、潮の香りも夢に溶け、気がつけば私は神社の宴会場に戻っている。
空はもう薄暗い。
盃を傾ける八坂神奈子の姿が宵闇に濃く影を落としていた。
「それからの話も聞くかい?」
「いえ……予想はつく」
「大いなる力には大いなる責任が伴う。けどさ、私はあの子に責任なんざ背負って欲しくなかった。だから決めた。つまり――」
「あれぇ? 神奈子様に宇佐見さん、珍しいですねぇ~? お二人が話してるなんてぇ……」
ぎくり。早苗ちゃんがそこに居た。顔が真っ赤で酒臭い……もうべろべろじゃない。
そのまま猫みたいに神奈子の膝上に倒れ込むと、たちまち寝息を立て始める。
「つまり、子育てにいい環境……?」
おっかなびっくり尋ねると、くすり、この大いなる神様は初めてその相好を崩す。
「けっこう責任は取る方だろ?」
結局私は神社の宣伝にまんまと引っかかったのだろうか。そもそも責任を取ったのはもう一柱の神様だったのでは?
それでも……少しだけ、早苗ちゃんが羨ましい。持って産まれた自分の力を、責任を、考えてくれる誰かがいるなんて。
私には――
「それと、宇佐見殿」
「あ、はい……え、宇佐見殿?」
「今後ともうちの早苗と仲良くしてやってくださいね」
神様が、盃を差し出した。
ともすると脅迫してるみたいな物言いだけど、彼女の声音は柔らかで優しい。
不思議と……悪い気分はしない。そうだわ。幻想郷の宴はまだまだ終わらない。早苗ちゃんの寝息が静かに響く中、私は飲みかけのジュースグラスを差し出した。
こつん、と軽い音が響いた。
でも、幻想郷の人たちはみぃーんな大いなる力を持ってるくせに、責任なんてちっとも果たしてるように見えない。
「そう思いません? 信州の神様」
まだ青い空の下、お酒の匂いがする。煙管の臭いがする。宴の音がする。もういい加減、こんな賑やかなのにも慣れてきた。
「うん、そんな呼ばれ方も久しぶりだね」
そして、私の目の前で静かに盃を傾けている"お方"も、大いなる力を持った神様の一柱。
瞳の色は夕暮れで、私のこと見てるようでもあり、博麗神社から見える初夏の空を見てるようでもある。
名前は確か、八坂神奈子。宴会には時々顔を出すけど、特に誰か仲が良い相手がいるって感じでもない。中心メンバから少し離れたところで"おつき"の早苗ちゃんとマイペースに飲んでる。まあ、そんな感じ。
「ここに来て、神様って名乗る方々も色々会ったけど、揃いも揃って自分勝手で」
神様は頷く。ゆっくりと、自信たっぷりに。
私は手元の葡萄ジュースをちびちびやる。味なんてよくわからなかった。
「当然、神が卑屈では仕方がない」
「そうですか? でも……さっき早苗ちゃんと話してたんです」
「あら」
「早苗ちゃんが好きだった漫画、まだ休載してるよって教えたら笑ってました」
「それで? ええと……」
「菫子です。宇佐見菫子……ねえ、あなたは、早苗ちゃんのこと無理やり連れてきたんでしょ?」
べつに正義漢ぶりたいんじゃなかった。早苗ちゃんとも特別に仲良いわけじゃなかった。
ただ、もやもやしたのかもしれない……幻想郷の人たちは力を持ってる。世界を変えられるような力! なのにこの郷に閉じこもって、好きなように生きてる。
八坂神奈子が薄く笑った。
「そんなこと問い詰められるのも、やっぱり久しぶりだねえ」
「私もう向こう行きます。すみませんいきなり」
「座りなよ。貴女もこんな話が聞きたくて宴に足を運ぶのでしょう? なに、そんなに長い話でもない……」
私はそれに従った。他人のプライバシーを又聞きするなんてお行儀の良い行為じゃない。それでも――好奇心が勝る。
「少し昔の話をしよう」
宴の音が遠くなっていく。腹の底に響くような神様の声が私の心を掴み、握り込む。とろりと瞼が重くなっていく。
ああ、これはアレだ。夢を見る時のアレだ。神様の……これは……私は……。
○
私は夏に立っていた。蝉の声と波の音。
そこは海だった。よくある黒砂のビーチ。水着姿の人々は家族連れが目立つ。どこかの行楽地なのか。
なんでもいいけど、暑いな……そう思った頃合い、誰かが麦わら帽を被せてくれた。
「あ、どうも」
顔を上げると八坂神奈子が居た。押し寄せる白波の方を指差す彼女に従うと、小学生くらいの少女の一団に混じってどこか見覚えのある顔が居た。
「早苗だよ。たしか小学校を卒業する最後の年だ」
「ここは?」
「長々口で話すより手っ取り早いだろう?」
ようするに神様の力で作った仮想世界、といったものか。何でもありだなと思ったけど、今更だし黙っておく。
「早苗ちゃん、黒髪だったんですね」
「染めさせてた。当たり前だろ」
「まあ、そうですよね」
「神通力や妖力は肉体を変容させる。貴女も気をつけたほうがいい。人間は異質な他者に敏感だからね」
「知ってますよ。嫌ってほど」
そう言う割に、小学生時代の早苗ちゃんは地味な方に見えた。
奇声に近い笑い声を上げながら砂浜を駆け回るキャピキャピした女子グループ集団、その最後尾辺りをてこてこ着いていく、おっとり笑顔を浮かべた少女。
クラスの主流派ではないが、不思議とどの集団からも可愛がられるタイプ。悪意を知らない、ちょっと抜けた子。早苗ちゃんらしいというか、少なくとも私とは真逆。
「ここ、海ですよね? 長野に海、無いですよね」
「臨海学校だよ」
「ああ……」
「軽く言うが大変だった。早苗は巫女で、神通力を持つ生娘だ。神域から出ればたちまち力を求めるロクデナシ共を集めちまう。あそこ、見えるかい」
促された方をバカ正直に見やると、ボロっちいパラソルの下に寝そべる八坂神奈子の姿があった。隣りにいる方の神奈子がやれやれと息を吐く。
「幸い私は肉体を棄ててなかったからね。保護者ってことで同伴した」
「なぜ」
「思い出は大切だ」
「私は臨海学校なんて行きたくもなかった」
「同質である必要はない。といっても相応の責任は伴うが。例えばほら、あいつさ」
波打ち際ではしゃぎまわる少女たち。さっきまでは年相応の無邪気さを纏っていたが、今や急速にその雰囲気を険悪な物にしていた。女子小学生の集団の中、一際に目立つ女の子がいる。早苗ちゃんじゃない。早苗ちゃんは相変わらず少し後ろの方でぽけっと成り行きを見守っている。
「私から離れたって死にゃしないよ」
促されるまま近寄って、状況がわかった。一人の女の子がクラスメイトの注目を独占している。彼女の纏った女児向け水着、それと手にした浮き輪……思い出した。この時代に流行ってたキャラものだ。あらゆる関連グッズが品薄で、ネットオークションでは十倍以上の値段で取引されてるってクラスの子が話してたっけ……。
「これね、パパが買ってくれたのよ! 私のパパなんでも買ってくれるの!」
おそらくはグループのリーダー的存在。さっきまではしゃぎま回ってた子達のうち、半分は黄色い声を上げて彼女の衣装を褒めちぎっていたが、もう半分は白けた顔だ。何故このタイミングで――ああ、きっとあの子はクラスの注目が海という強大なライバルに独占されている状況が許せなかったんだ。
「パパ、皆の分も買ってくれたから! 一緒に遊ぶ子は使っていいよ!」
それから波打ち際の集団は、きっと教室の手狭な空間と同じ秩序に満たされた。
リーダーに従順な子らは「流行」という強大な価値を存分に享受し、そうでもない子らはさりとて別の集団を形成するでもなく、名残惜しげに海の青さを眺めていた。
「私は何を見せられてるんです?」
「早苗ったら動じていないでしょ」
「そうですね。だから? 貴方達も同じだってことですか? あのタカビーな子と同じ、大いなる力を振りかざす存在で……早苗ちゃんは動じていないって言いたいんですか? 無理やり連れてこられても気にしてないって」
「個人的なトラウマを刺激したなら悪いけど、もう少し落ち着いたら? 少し時間を飛ばそうか」
そう告げられた瞬間、空が暮れた。薄紫と橙の空が水平線上で混じり合う壮大な奇跡の上に、一番星がほの明るく輝き始めていた。
小学生女児共はまだ遊び続けている。妖怪じみた体力――え? 違和感が首をもたげる。遊んでるんじゃない。何か……揉めている?
「だからぁっ! なんで私の、私の浮き輪っ! 誰がやったのおっ!」
怒声。涙声の訴え。女生徒たちの気まずい沈黙。理由はすぐわかった。例のタカビーガールが指差す方、既に人もまばらになった海に浮かぶ浮き輪が一つ、遊泳禁止ブイの向こうを漂っていた。
「誰がやったのよお! 私のなのに! パパが買ってくれたのにぃ!」
つまり彼女は誰かが自分の浮き輪を沖に流したと主張しているらしい。当然、名乗り出てくる者などいない。いやそもそも、うっかり波にさらわれて、運悪く潮に流されたってだけの気もする。
だが彼女はあくまで顔を真赤にして「犯人」を糾弾する。終いには涙と鼻水になってぐちゃぐちゃになってまで。
その彼女を慰む者は皆無。むしろ無様を眺める女児達の冷たい瞳。「ざまあみろ」という無言の嘲笑。それをタカビーちゃんも理解してるんだろう。彼女は大いなる力を振るってきた。でもそこに伴う大いなる責任は果たさなかった。だから自分は攻撃されたに違いないと躍起になって声を上げる。
私は目を背けた。子供は大人よりずっと残酷だ。大人と違い、子供には逃げ場がないから。だから――
「取ってあげよっか?」
柔らかな声が響いた。
私が振り返ると、他の子供達も同じく呆気にとられた顔で同じ方向を見つめていた。つまり、早苗ちゃんを。
「泣かないで。私、取ってくるから」
誰もがぽかんとして眺める中、早苗ちゃんは相変わらずおっとりした歩調で波打ち際まで歩いていく。
嫌な予感がした。少女の小さな手がすっと水平線に差し向けられる。とめどなく嫌な予感がした。その予感はたちまち現実のものとなった。
「私は油断していた」
ぽつりと、私の背後で神奈子が呟く。にわかに風が強くなる。鮮やかな夕日と凪いだ海が突如、猛烈に漣だった。
突然の天候急変にビーチの監視員たちが慌て始める。まだ残っていた家族連れ達が大慌てで撤収を始める中、女子生徒の一団は地味で目立たなかったはずのクラスメイトが突然に海へと呪文を唱え始めたのをぎょっとしたまま見守っていた。
「油断してたんだ。早苗が自分から奇跡を起こしたのは初めてだったから。あの子は……私はてっきり力に慣れていないんだと思っていた。でもそうじゃなかった。あの子はただ、自分のために力を使う気が無かっただけなんだ」
轟々と吹き荒ぶ風は束ね合わされ、今やビーチは暴風雨の最中にあった。流石にこれはやばいと気がついた女の子たちの何人かが陸へと逃げ帰り始める。今や残ったのはタカビーの子と、早苗ちゃんだけ。その少し離れたところでは、ビーチに這いつくばった記憶の中の神奈子が何事か叫んでいた。それも風の音にかき消されていった。不意打ちで力を引き出され、抵抗できないのか――。
うねり、高鳴る波濤の飛沫。それはけれど無秩序な大荒れではなくて、むしろ一定のペースを保って蠕動を繰り返すようでもあって。
早苗ちゃんが、幼き現人神が、吹き付ける雨風に長い髪をびっしゃり額に貼り付けたタカビーの子を振り返る。
「待っててね。もうすぐだから!」
その瞳は輝いていた。口元には、先程までと何ら変わりなく穏やかな笑みを浮かべていた。止められる者は誰も居なかった。
そして、海が割れた――。
「はいそこまで」
瞬間すべてが嘘のように鎮まる。
ぽかんとする早苗の頭を優しく撫でる、妙な帽子を被った女性。聞いたことがある。山の神社には神様が二柱いるって……かと思うとそれも消え、後には無人のビーチとびしょ濡れになった二人の少女だけが残された。
しかしその光景も薄れ、波の音、潮の香りも夢に溶け、気がつけば私は神社の宴会場に戻っている。
空はもう薄暗い。
盃を傾ける八坂神奈子の姿が宵闇に濃く影を落としていた。
「それからの話も聞くかい?」
「いえ……予想はつく」
「大いなる力には大いなる責任が伴う。けどさ、私はあの子に責任なんざ背負って欲しくなかった。だから決めた。つまり――」
「あれぇ? 神奈子様に宇佐見さん、珍しいですねぇ~? お二人が話してるなんてぇ……」
ぎくり。早苗ちゃんがそこに居た。顔が真っ赤で酒臭い……もうべろべろじゃない。
そのまま猫みたいに神奈子の膝上に倒れ込むと、たちまち寝息を立て始める。
「つまり、子育てにいい環境……?」
おっかなびっくり尋ねると、くすり、この大いなる神様は初めてその相好を崩す。
「けっこう責任は取る方だろ?」
結局私は神社の宣伝にまんまと引っかかったのだろうか。そもそも責任を取ったのはもう一柱の神様だったのでは?
それでも……少しだけ、早苗ちゃんが羨ましい。持って産まれた自分の力を、責任を、考えてくれる誰かがいるなんて。
私には――
「それと、宇佐見殿」
「あ、はい……え、宇佐見殿?」
「今後ともうちの早苗と仲良くしてやってくださいね」
神様が、盃を差し出した。
ともすると脅迫してるみたいな物言いだけど、彼女の声音は柔らかで優しい。
不思議と……悪い気分はしない。そうだわ。幻想郷の宴はまだまだ終わらない。早苗ちゃんの寝息が静かに響く中、私は飲みかけのジュースグラスを差し出した。
こつん、と軽い音が響いた。
あらゆる面で解釈不一致を起こして、それを覆す文量はなかったという完全に個人的な感想はさておき、でも物語の中のキャラはこういう考え方するんだろうなというのはすごく納得がいったし纏まっていたように思います
どこまでも純粋だったころの早苗さんがとにかくいい子でした
それを聞いた宇佐見殿も話を受け止めていて世界の優しさを感じました
面白かったです。
ただこの後の早苗さんがどうなったかを考えると…