またしても強い突風が屋外ステージに吹き込んできて、はためく幕のような雨が、床を掃くように洗った。同様の勢いの風雨は先頃からちょくちょくと吹き込んでいたので、この構造物は雨宿りの軒下としてはまったく用をなしていない。
「……ずぶ濡れになっちゃいましたね」
そう言う少女は顔をびっしょり濡らしていて、声を出して喉が震えるたび、笑みを浮かべる顎先から水滴がぼたぼた滴り落ちた。
「うん。とんだ雨宿りになっちゃった」
もう一人も、困ったように笑う。
濡れるのを厭う事はとうに諦めて、二人はステージの最前面に腰かけながら言葉を交わしている。
濡れそぼってブラウスが貼りついた肢体を、ふわふわ取り巻いて浮かんでいる羽衣。それだけは水をはじいてさらさらの表面を指でなぞりながら、もう一方の少女は言った。
「こいつは濡れないのね」
「飛ぶために与えられたものですから」
「でもあんたはずぶ濡れ」
そう言いながら、濡れ濡れて普段より更に濃い赤になった自分の髪の毛を後ろに撫でつけた。雨は止みかけているが、雷が遠くなっていく黒い雲の中でのたうち回っているのがまだ聞こえる。
「……シャワーくらいは浴びたいだろ?」
今しがたの通り雨にやられたからシャワーを貸して欲しいと、堀川雷鼓が自分たちの館に女連れで上がり込んで、小一時間ほどが経つ。
「雷鼓さんが連れ込んできた人、れこかもね」
とルナサが小指を立てて、古風な言い回しを使う。彼女は、服が濡れてしまった来客たちのために衣装棚をひっくり返して、適当な替え着を見繕ってやっていた。
それを手伝わされているリリカは、「かもねえ」と生返事しながらそっぽを向き、床に置いてある琺瑯鍋の底面を雨漏りが叩く音に耳を傾けている。さっきの雨は確かにすごかった。あの鍋だって、なみなみいっぱいになったのを、二度三度は捨てているはずだ。崩壊しかけている廃洋館にはこういう雨漏り対策の容器がそこここに設置してあるので、雨の後になるとあっちの部屋でぱちん、こっちの廊下でぽちゃん、階段脇の手すりの上ではぱたぱたぱた、つき当たりの暗がりでもぽーんという変に音楽的な謎の金属音が響いていて、自分たち抜きでも騒がしい。
「ま、あの人がどんなに男や女とぐちゃぐちゃ遊んでいようが、こっちの活動のお邪魔にならない限りは知らないけど」
と言いながら、ルナサはリリカの腕に、取り出した衣服の一式を押しつけた。
「……うん、そうだね……って、なにこれ?」
「あんた、こっちの仕事をなにひとつ手伝わなかったでしょ。脱衣所に持っていって、置いてくるくらいの事はしてよ」
「はいー」
リリカも、姉の態度のわずかなとげとげしさには敏感だったので、特に口ごたえはせず雑用に従う。ルナサは、己の不機嫌さを己の有利なように使うところもある姉であった。
脱衣所に向かうと、もう一人の姉が外の廊下で奇行に勤しんでいた。メルランはコップ――すんなりとした形で、薄手のガラスでできている――を壁につけて耳を寄せ、壁一枚向こうのシャワー室の音を拾おうとしているが、当人のしゃっくりのようなクスクス笑いの方が目立つ。
(なにしてんの)と声に出して問い詰めるのもばからしくて、無視して脱衣所に入ろうとした。
「なにしてんの」
こちらがあえて言うまいとしていた問いかけを相手にそっくりそのままされると、なんだか腹が立つ。なおも無視して脱衣所に入ろうとすると、リリカが手にしている着替えの意味に、即座に気がついた(そういうところを察せない姉ではないのだ)。
「なるほど、それにかこつけて忍び込むの。考えたわね」
世の中姉さんみたいなスケベばかりじゃないし……と呆れつつもやっぱり次姉を無視して脱衣所の扉を開けると、シャワーの順番待ちなのか、生まれたままの姿で(ところで、この言い回しは付喪神にも適用され得るのだろうか?)部屋の隅にある籐の椅子にくつろいでいる雷鼓と鉢合わせてしまう。
(……ええ、そりゃあ、普通に考えればシャワーを使うのも一人ずつでしょうね。メルラン姉さんみたいなスケベ心を持っていなければ)
「あ、着替え用意してくれたの? ありがとー、そこ置いといて」
恥じらいひとつなく言い渡した雷鼓だが、その彼女が手にしている、ふわふわとした一反の布がリリカの目を引く。羽衣だった。
「彼女の持ち物よ」
「あの人、天女様なんだぁ」
これはメルランが言った。リリカが脱衣所に入るついでに押しかけてきていたのだった。
「本人によれば正確には竜宮の使いらしいけど……まあ分類なんてなんでもいいか。じゃあ天女って事で」
なにもかもがいい加減な決めつけをしながら、雷鼓は女の持ち物を手慰みにしている。
「この羽衣、大事な官給品らしいんだけど、不用心な事よね。盗んで、どこかに隠してやろうかしら。天女って、それだけで天界に戻れなくなるんでしょ」
「ものにしたいんだ」メルランがうきうきと言った。「どこで引っかけてきたのよ」
「さっき、雨宿りした時に出会ったばっかりよ」
雷鼓は即座に答えてから、少し記憶を探るように言った。
「……いや、以前から顔は知っていたか。ちょっと前に、この館のホールでクラブイベントやった時があったじゃん」
「最終的にビール瓶投げ大会になった、あれ」
リリカにもおぼえはあったが、あまり記憶が確かではない。とにかくめちゃくちゃなイベントで、片付けは翌日、重い体を引きずりながらだったという記憶だけがある。
「そうそう。あれにも来てくれていて……あの子はフロアで結構目立ってたんだよ。踊りが上手くて、ハットをちょい崩した被り方してた。そこで声をかけた事があって……でもそれくらいか」
「……ものにしたいというより、こっちがやられてるねありゃ」
リリカが用事を済ませて、それと共に脱衣所から退散したメルランは、今は妙に落ち着いたトーンになって呟いた。
そんな天女様の――永江衣玖の羽衣が消えたのを三姉妹が知ったのは、それから数時間ほど後の事、食堂で晩餐している時だった。
(雷鼓でしょ)
(雷鼓だろうね)
(絶対雷鼓だ……)
「いや……本当に無いのよ」
雷鼓の表情は伏し目がちで、三姉妹の感情も察しているようだった。
「あの子――今は部屋に引き籠ってるけど――私が盗ったと思ってる」
(そりゃあ思うでしょうよ)
リリカはワインに口をつける。ワインは先日の月例会でファンから差し入れされたものだが、後味は渋みが溶けた蝋のようで、舌に固まってまとわりつく感じだった。
「バチギレよ」
「……まあ、見つけて彼女さんに返して差し上げるしか、機嫌を直す方法はなさそうね」
「しかしどこにいったのかしら」
常識的な方針を提示するルナサと、常識的な疑問を口にするメルラン。
「雷鼓さんを信じるなら、勝手にどっか行ったんじゃない?」
突拍子もない事を言って、その他から完全に無視されるリリカ。
まあとにかく……と雷鼓は三人に頭を下げた。「無くしたのは間違いなくこの家だから、あなたたちも、ちょっとは気にしといて。そのへんからひょっこり出てくる可能性も、ないことはないわけだしね」
それくらいの事を言って「とにかく機嫌を直してもらわなきゃ」と雷鼓は食堂を後にする。三姉妹は顔を見合わせてから、またその去り行く背中を眺めた。
堀川雷鼓は、プリズムリバー邸の階段を軋ませながら階上に向かっている。段は五歩目のあたりが特に軋みがひどくって、妙に心地良いアクセントになっている。この邸宅はそこいらじゅうがたぴしして、頼りないくらいだが、それが不思議と騒霊の棲み処として相性が良いらしく、音楽的でもあった。
「――あの?」
と客室のドアをノックした時も、その響きの良さにいちいち考えさせられる。そうしてよくよく気にしてみると、一枚板ではなく、端材を何ピースか貼り合わせて成形したようなドアなのだが、元々の材質の良さが多少の不格好さを覆い隠していた。
「入って、いい?」
ノックした音に、いつまでもうっとりしているわけにはいかない。
「開いてますよ」
内から言われた通り、鍵は空いていた。衣玖はプリズムリバー三姉妹に貸してもらった世紀末ウィーン調のモーダルなワンピースに身を包み、ベッドの上に三角座りをしている。
「……姉妹ちゃんたちも、羽衣がどこにあるのかわからないって。ごめん」
「そうですか」
衣玖の怒りが多少沈静しているのは明らかだった。
「……まあ、でも、いずれどっかから出てくるんじゃないですかね」
雷鼓は、衣玖のそういう執行猶予的な赦しを待つしかなく、その間は客室の中をぼんやり眺めるしかない。室内は家主らのいいかげんさがそこここに見て取れて、客人用の部屋だというのに三姉妹の私物が取り残されていたりした。机の上のポケット文庫、キャビネットの上のソーイングセット、ベッドのサイドテーブルに置かれたキャンディーの空き缶(たぶんヘアピン入れかなにか)、など。
「なくなったものはしょうがないですもんね」
「――あの、その間は、天界に戻れないわけ?」
「そりゃ戻ろうと思えば戻れない事もないわけですが、羽衣を持っていなければ、どうせまともな扱いは受けませんよ」衣玖は口元を尖らせながら言う。「あれはただ飛ぶために与えられただけのものではないので」
「身分証みたいな――」
「ろくでもない身分ですが、無くって天人どものおもちゃにされるよりはね」
雷鼓は頭を掻いた。
「……この家の姉妹は、ちょっとおかしいところもあるけれど、気のいい子たちよ。しばらくは泊めてくれると思うわ」
「あなたが養ってくれはしないんですか?」
「とりあえずこの家の中を探すのがいいと思うし……」
「甲斐性なし」
と吐き捨てられたが、言葉ほどの当たりの強さを相手に感じさせないよう、衣玖が気をつかってくれているのは、雷鼓にもわかる。
「私をものにしたかったんじゃないんですか?」
それぞれ手にしたガラスコップを廊下の壁に当て、一枚向こうのやりとりを盗み聞きしようとする、プリズムリバー三姉妹。
翌朝、衣玖の羽衣の捜索は、プリズムリバー邸をひっくり返すような調子で始まった。脱衣所は物をすべて動かして、浴室も排水溝をほじくり返し、その他――廊下、客室、トイレ、大広間、食堂などを総ざらえして、ルナサは客室の戸棚の後ろからヤモリの死骸がひっくり返っているのを得た。メルランは食堂の陰でネズミが少なくとも数年くらい干からびたままなのを見つけたし、リリカはというと脱衣所の隅で大きなクモが足を奇妙に綺麗に並べて己の寿命を受け入れて全休止している事に気がついた。これらの生き物はそれぞれ庭の外れにそれなりの葬り方をしたからいいとして、当初の目的にかなう成果はなかった。
「本当にどこにいったのよ!」
もちろん雷鼓も捜索を手伝っているが、午後にはあいにくと予定が入っていた。
「まあまあ、見つからないものに八つ当たりしてもしょうがありませんよ。……ところで、午後はなにがあるんです?」
と衣玖が雷鼓に尋ねたのは、パンとスープの軽い昼食を摂りながらだった。本日の給食当番はリリカ。香草や川魚の切り身を、鍋の底で炒めた後、砕いたトマト、昨晩のワインの残りを加えて煮込み、その酒っぽさがあらかた飛んできたところで溶いた卵白を投入。それが固まったところに汚れやアクがついていくので、取り除いて清澄。どうせかっちりした料理ではないので適当でいい。あとはもう、いい感じに味を調えて完成。ここで胡椒を大量に入れすぎたらしい。
「……ちょっと胡椒っ気が強すぎるかな」
とルナサが会食の一同を代表して指摘してくれたが、この家の料理は万事がいいかげんだ。ルナサにしたところで――別に料理下手ではないのだが――全てのレシピが酒肴の延長線上でしかないし、メルランなどはもっとひどくて、先日の残り物のポークパイといったものをシチューに投入して、とろけるまで煮込むのをとろみ付けのテクニックと言い張るような調子だ。
「ドラムのレッスンの約束があるの」
そもかく、雷鼓が衣玖にひそひそ声で説明した。ちょうど隣り合った席だったので、会話はやりやすかったのだ。
「ドラムのレッスン」
衣玖はおうむ返しに呟く。雷鼓は声を更に潜めて、プリズムリバー三姉妹も知っている事なのに、まるで自分たち二人だけの秘密のように言った。
「こないだから湖のほとりのお屋敷に雇われてるからね。いい教授料になんのよ」
「面白そうですね」
と言いながら、衣玖は家主の三人姉妹にちょっと遠慮がちに視線を向けた。姉妹らは口々に、まあいい気分転換になるんじゃない、こっちも大掃除のついでのつもりだしね、正直家の中ひっかき回して出てくる気がしないもの……と、それぞれ好き勝手な事を言って、相手の勝手を許した。
「……ついてくるなら、お昼はあまり食べない方がいいよ。あそこティータイムあるから」
雷鼓がぼそりと言った。
紅魔館の大宴会場は、フロアの真ん中にぽつんと置かれているテーブル一つを除いて、すべてのものがはけられていた。このテーブルの上には三段のケーキスタンドと紅茶が用意されていて、雷鼓と衣玖はそれに手をつけながら、ステージ上で淡々と叩かれる八分の六拍子に耳を傾けている。
「正直、特に教えるような事もないのよね」
雷鼓はサンドイッチを口に運びながら言った。
「もともと器用なんでしょうね。ドラムの正しいメンテナンス方法、悪いクセの指摘とそのちょっとした直し方、音の粒立ちの揃え方……なんてものくらいはアドバイスしてあげたけど」
「門番さん、門の前にいなかったので、ついに解雇されたのかと思っていましたが……」
そんなふうに衣玖が言葉をかけた相手は、雷鼓ではない。いつの間にか傍にきていて給仕をやってくれている、館のメイドに対してだった。
「どうしてあの方がドラムを叩くように?」
「ちょっと前、理由があって、この館の住人が所有している楽器類の目録を作成する必要に迫られましたの。私物と備品とを問わずね」メイドはそう言うと、宴会場の端から端を掃くように指し示して、「そうしたら、出てくるわ出てくるわで、この空間いっぱいになるくらい、楽器や機材が集まったのよ。エレキギターに、ベースに、キーボードに、アンプ。それにもちろん……(ステージ上への身振り)ドラムセット。そこからはお嬢様の、いつもの思いつき」
「あんたらロックバンドにでもなるつもりかい……」
雷鼓は少し笑ってから、それでも金持ちの道楽としては悪い選択ではないなとも思う。
「知ろうとも思わなかったあんたらの事情だけれども、ちょっと愉快ね」
「知らなかったんです?」
「全然。ここの主人に、ちょっとドラム教えてあげてって頼まれて、そのまま」
雷鼓と衣玖のやりとりを聞きながら、メイドはクスクスと笑った。
「――ところでお二人は、どうして一緒に?」
それは――と雷鼓が言いかけたところで、衣玖が後の先を取った。
「この人に羽衣を奪われたんですよ」
穏やかに、微笑みながら言った。
「……と、少なくとも私は思っていて」
「悪い女ね、あなた」
メイドは軽やかにからかって、雷鼓の弁明も聞かずに消えてしまっている。
「……私の悪評を振りまいていくつもりかい?」
「既成事実というやつかもしれません」
衣玖は大きく息を吸いながら、スタンドに置かれた小さな一口大のケーキに手を伸ばす。
「私をものにしたいんでしょ?」
「今となっては、君が私をものにしたいんじゃない?」
「もはやその二つに大差なんて無いんじゃないでしょうか……それよりレッスン中です」衣玖は紅茶に口をつけた後で、雷鼓に言った。「延々叩かせておくのもかわいそうですよ。なにか、生徒に気のきいたアドバイスとか言ってやれないんですか?」
雷鼓もステージの上に視線を向ける。時機を窺っていたのか、視線の先の門番もドラムを叩くのを止めた。
「……うっかりドラムスティックをすっとばしちゃってスペアを取り出す時、音数を減らさせないように演奏に復帰する方法でも伝授してやろうかしら」
そう言って、雷鼓が席を立ちあがってステージに歩み寄っていくのに、衣玖もついていく。
「ひっじょーに実用的なテクニックですね」
「お嬢さんには地味に聞こえるかもしれないけれどね。これがけっこう応用も効くんだよ。熟練すれば、二本以上のドラムスティックでジャグリングしつつ、リズムキープしたまま演奏する事も可能」
「雑技団でもやらせるんです?」
門番さんには、ライブ向きのテクニックと同時に、実用的だったり総論的だったりするアドバイスも、いくつか教えてやった。共演者とのアイコンタクトも大事だが、演奏中にもっとも注目しておくべきは、自然とリズムを取っているであろうフロントマンたちの腰つきや足元だという事。演奏の安定感は音楽家としてもちろん求めた方がよいものだが、同時にどこか、壊れやすさと破綻しかねないスリルも匂わせておく事。悪いクセは修正しなければならないが、良いクセはどんどん誇張していくべきだという事。……などなど。
どれも金を取って教えるにふさわしいアドバイスだった、と思う。
「やっと授業料分働いた気がするわ」
雷鼓はアンプの上に置いてあるティーカップに手を伸ばす。門番はもういない。レッスンが終わって、使用後の楽器のメンテナンスを一通り終えたら、講師をほったらかしにして、さっさと帰っていく図太さがあの女にはあった。
かわりにドラムスローンに腰かけ、ドラムセットに向かっているのは、衣玖だ。ただし座っているだけ。ドラムスティックを手でもてあそぶまではするが、正しいやり方を知らない事への気おくれがある。叩いてみる素振りにまでは至らない。
「叩き方、教えてあげるよ」
ティーカップを置いて、座っている衣玖の背後に身を屈めた。そんな雷鼓に対して、衣玖はちょっと体をすくめる。
「私、授業料払いませんよ」
「個人的にちょっと教えるだけよ」
雷鼓はそのまま、後ろから相手に抱きつくような格好のまま、手に手を這わせて体を押しつける。相手の耳元に言葉を流し込むように囁いた。
「ダンスがうまい子は体の使い方がうまいからね……こういう楽器も身につくのが早いんだよ……」
「うまかありませんよ。嫌いではないですけどね」
衣玖はするりと、流れるような動きで――こういう人あしらいに慣れているのかもしれない――雷鼓の腕の中から脱出して、ドラムセットの席を立った。
「……ちょっと、冗談にしてもやりすぎでしたよ。ほれ」
残念そうにしている雷鼓の背後に回り込み、後押ししてスローンに座らせた。それから、まだ自分が手にしていたドラムスティックを、押しつけるように渡す。
「帰ります」
「……ごめんよ、私も一緒に」
「あの姉妹の方々には、あなたからお礼を言っておいてあげてください。私は天界に帰ります」
一瞬、雷鼓はその意味が呑みこめず、あっけにとられた。
「大丈夫なの? 羽衣がなくて、その……」
「大丈夫じゃないかもしれませんが、どのみち一緒じゃないでしょうか。天界で天人様のおもちゃにされるのも、地上であなたのおもちゃにされるのも」
困ったことに、反論しようのないロジックだった――少なくとも雷鼓には反論のしようがない。
「私があなたのものにならなくて悔しいでしょう?」
相手の表情が眉を寄せて唇を噛んだのを見て、衣玖はねっちりと言った。
「悔しいなら、その悔しさをそこにあるドラムにぶつけてみるのもいいかもしれないですね――それを昇華と言います。私にぶつけたかったものを、ドラムに叩きつけてみてくださいよ」
「……そりゃワタクシの世界では八つ当たりって言うんだよ」
「ふうん、私もそう思いますね……でも上手く叩いて、それが私の心に響くものなら、私からも面白い反応が返ってくるかもしれない」
こうした誘いのみならず、衣玖はそのまま踵を返して、さっさと帰ろうとする素振りさえみせた。だが、直後にやってきた痺れるような衝撃は、彼女が履いているブーツの裏から体の芯までを震わせた。本当に感電してしまったように、お尻の肉付きが反射的に収縮して、ぴょんと跳び上がってしまったくらい、雷鼓が衝動的に――当人の言葉通り、八つ当たりに踏み込んだバスドラムの音は、まさに雷鳴さながらで、大宴会場のみならず、紅魔館そのものを痺れさせるに足るものだった。
が、その一発だけでは、ただの衝動の暴発だったはずなのだ。しかし跳び上がった衣玖のブーツが右、一瞬あとで左と着地する時、靴底の音が二拍目とゴーストノートとして、妙に響き良く鳴ってしまっている。雷鼓がそれを聞き逃さず、その拍子を真似て反復させていけば、跳ねたディスコテークなリズムパターンはあっという間に洗練されて、金物の刻みが装飾を添えた。
この演奏がどうやら悲しい一人遊びに終わらなかったようだと雷鼓が知ったのは、自分の頭に他人の帽子――衣玖の長ったらしい装飾付きのハットが、乱暴にかぶされた時だった。その後も、ずっと座っている肩に手を置かれて、体を揺さぶられている。彼女は――衣玖はばね足になったようにリズムに魅せられて、ぴょんぴょんと垂直跳びしているらしい。
「楽しい?」と言葉で尋ねるのは野暮だと思ったので、相手に背を預けるような格好で身を反らした。相手の乳房に頭が埋まったが、相手も覆いかぶさるようにして押しつけてくる。そのまま反る上体も押し返されて、逆に潰されるようにのしかかられるじゃれ合いもやがては終わり(そうしたちょっかいの間も、ドラムは叩き続けられている)、帽子も取り上げられた。明快になった雷鼓の視界の端では袖がはためいていて、強いビートに合わせた舞いを軽々踊っている衣玖が見える。あれでダンスが上手くないだなんて、天界にいる踊り子はよほど層が厚いのでしょうね。
衣玖のなまめかしい腰つきを眺めながら、雷鼓は次の展開を考える。ここまで、いかにもものすごいドラムを叩いているようだが、実態は恐ろしく少ない音数の、ゆえに特徴ばかりが誇張されているシンプルなビートしか雷鼓は叩いていない。そこを、ただ強弱と音の粒立ちだけでニュアンスを変えているにすぎない。なにか音を足そうか、派手な変化をつけようか、そうした事で相手を戸惑わせやしないか……。
なにかを変える機会を上目遣いで窺っていると、その雷鼓の視線は、さらに見上げるようなものになった。衣玖が、バスドラムの上に足をかけて登ってきたからだ。
あんたこれ人様んちのドラムだよ……と雷鼓が思う間もなく、衣玖はドラムセット前面のごちゃごちゃした構造物から、とんでもない平衡感覚でもって身を乗り出してきて、雷鼓の胸元に手を伸ばした。
彼女が指を絡めたのは雷鼓のネクタイ。それをぐいと引っ張るので、本人の首もついていくしかない。そのようにして顔をたぐり寄せられて、雷鼓は衣玖の唇を目の前にしていた。
二階のテラスで喫茶をしながら、紅魔館の主人はさっきうるさいほどに鳴り響いていたドラムに対して感想を漏らした。
「あいつ、急にすっごくドラム上手くなったわね……と思ったらそこにいるのかよ」
「叩いてるの、私じゃないですよ」
いつの間にか同じテーブルの席について、図々しく茶を飲んでいる門番。
「ドラムの先生が遊びで叩いてたんでしょう」
と、中国風の、包子風に仕立てられたペイストリーをひと齧りしながら、彼女は推測した。次の瞬間、包子は口の中で八倍くらいに増えていて、門番は窒息している。
「お客様がお帰りになられていますわ」
神出鬼没のメイド長は門番にちょっかいをかけてから、館の庭園をテラスから見下ろして言った。
「……走っています」
「走っています?」
主人は従者の言い様に、十五度ほど首を傾げた。
「互いの手を取り合って」
「互いの手を取り合って?」
吸血鬼の首の角度が、もう三〇度ほど傾ぐ。
二人が駆け出して紅魔館を飛び出したのは、ほとんど衝動のようなものだった。別に、アクロバティックな遊びの末にこの家のドラムセットをぶっ壊してしまって、逃走しているわけではない。ただ、気分としてはそういう感じだった。なにか二人で悪い事をやらかして、罪を共有して、逃げ出すふりをしてみた。してみたかった。
メイド妖精たちさえ怪訝な顔で見送った、そんな視線も感じつつ、雷鼓と衣玖は霧の湖の、腰を下ろすとお尻のあたりがみるみる湿り気と泥で汚れていきそう(そして事実そうだった)な湖畔にへたり込んだ。
「……もう羽衣なんてどうでもいいです」
衣玖が言った。
「だからあの三姉妹ちゃんのお屋敷に戻らなくてもいいです」
「怖い事を言うね」
雷鼓は耳元の毛をかき上げながら言った。そこに、湖の方から波のように軽い雨が舞い降りてきた。その雨はやがて水の粒を大きくして、みるみるその服を濡らしていく。昨日ぶり二日連続のずぶ濡れ。
「見つかって悪い事はないだろ?」
「飛ぶために与えられただけですよ、あんなもの」
衣玖はニヤリと笑って、雷鼓の顔を見つめた。
「それにね、一つの物を捨てれば、一人の人を得る事ができる事も、あるんですよ」
大掃除をしようとして余計に家を散らかしてしまうという性質の人がたまにいるが、プリズムリバー三姉妹は間違いなくそうした性格に位置づけられる人々だった。そもそもが無計画に手をつけ始めるメルラン、引っ張り出した本や画集などにすぐ夢中になってしまうリリカは論外としても、神経質な傾向のあるルナサですらそうで、彼女は一応の計画性を持って掃除に臨むものの、ちょっとした見通し違いや自分の見積もりの甘さに気がつくと、あっという間に気分が萎えてしまうのだった。
動かしかけた巨大な洋服箪笥が壁に対して中途半端な角度のまま、その中から引きずり出した衣装に埋もれて、彼女たちは完全にやる気を失っていた。
「……そういえばあの人たち帰って来ないわ」
「よろしくやってんじゃないの」
「かもねー」
からっぽの箪笥にもたれかかって、三人は前に投げ出した六本の足と、そこにからみつくとりどりの衣装を見つめている。そこで、メルランがぽつりと口を開く。
「言っちゃえばさ、雷鼓さんがあの人をものにしちまえば、見つからなくたって特に問題ないでしょ……」
「そりゃそうなんだけど、だからって私たちの家で失せ物されたままなのは居心地悪いわ」
「その事だけどさ、もしかしてうちの中に無いんじゃないの?」
ルナサの弁に対して、リリカは昨日から、ずっと考え続けていた事を言った。姉二人はようやくその意見に耳を傾ける。
「……なんてよ?」
「きっと、羽衣が勝手に動き出して、逃げ出したのよ」
数日来続いている雨の中を歩いて、プリズムリバー邸への来客がやってきた。しかしその客が扉を開けると、屋内でもまだ雨が降っていて、うるさいほどの雨漏り。そんなありさまに客が心底呆れていると、家主の姉妹たちが出てくる。
「――ああ、いらっしゃい。って、どうして天人様もついてきてるの」
「このお二人が私の知り合いに相談していて、それがうちの知り合いに関係のある事だとも小耳に挟んだからね」
天子が、背後の二人――弁々と八橋の存在を示しながら、すぐさま自分の事を話し始める。
「それとも有識者の方だけ欲しかった? 有識者は――ねえ、ちょっと出てきなさいよ」
「もう出てきてるよ」
そう言った小人が天人の帽子にぶら下がっている。
「なりは小さいのに存在感が大きすぎると損だね。こんなに視界の端でぷらぷらしているのに、出てきているのか隠れているのかも、わかんなくなっちゃうんだ」
「……以前、衣玖となんらかの音楽イベントで遊びに来た事があるけど、こんなぼろっちい屋敷だとは思わなかった」
天子はエントランスホールの天井を見上げながら呟く。
「いつか崩壊するんじゃないの?」
「崩壊しそうな建物って崩壊するまでは崩壊していないんですよ」
「むちゃくちゃ言うとる」
ともかく立ち話もなんなのでと一行は食堂に向かい、そこで茶を出しながら――針妙丸専用の、ドールハウスのカップやひときわちいさく作った菓子なども出して――、さっさと本題に入った。
「羽衣は付喪神になるか?」
針妙丸は質問を聞いて、ちょっと首を傾げてから、答えた。
「……まあ、なるんじゃない? 知らんけど」
「とんだ有識者だったわ」
「……おおかたあなたたち、昔の異変で私が色々やったから、なにかしらの知識があると思ってるんだろうけど」
と、針妙丸は同席している弁々と八橋の顔をちらと見ながら言った。
「たしかにあの時、私は打ち出の小槌を使った。その小槌の魔力の影響でなんやかんやあって、そのへんの方々のような、強力な付喪神も生まれた。でもそれ以上の事は、なんにも知らないも同然なのよ」
「雷鼓さんは騒動の後、その魔力が元通りに回収されて失われるのを防いで、そのコントロールも自分の物にしていた」
と弁々。八橋も頷く。
「でもって、三姉妹の話を聞くに、羽衣を紛失する前、雷鼓さんはそれにちょっかいをかけていたらしい。なにかが起こったとすれば、おそらくそれがきっかけだったんじゃないか、と」
「……うん、まあ、筋は通ってるよね。じゃあそれでいいんじゃないの?」
「なんつうテキトーな……」
「こっちだって急に呼び出されたんだしぃ。……ただ、ひとつの可能性があって、それが起きたんじゃないかという状況があって、みんなその説明で納得しかけているのなら、それはもう実際起きたも同然なんじゃない?」
針妙丸の言葉の後の数秒間ほど、食堂は雨音が騒がしい以外、なんの音もなかった。ところで……と天子はきょろきょろした。
「その、問題の渦中の、衣玖と、衣玖のこれ(情人を意味する身振り)は?」
「消息不明」
「ほぇ?」
「もうかれこれ数日。少なくともプリズムリバー邸には帰ってきていない」
元来、堀川雷鼓には住所がない。知人宅や友人の棲み処を転々として、それで拠点としているような調子だ。
「……だからって、私たちだってあの人の交友関係を全部知っているわけじゃないのよ?」
と八橋は愚痴をこぼしながら、人里の長屋町のぐちゃぐちゃした足元の泥土――数日来の雨に流されてどろどろになっていて、彼女たちの足指の股を侵している――を、気持ち悪いもののように思っている。
「それでもいないものは探さなきゃいけないでしょ」
弁々が傘を畳みながら言った。遮りを失った肩に、長屋の軒から垂れてくる雨水が当たってきて、みるみる濡らしていく。
結論から言うと、この長屋にも雷鼓はいなかった。ただ部屋を他人に貸すか家賃の支払いを折半しているようで、普段は人間の夫婦が住んでいるらしい。
「……まあ、元々どこふらついてるかわからないような人だからね」
と、長屋町を後にしながら弁々は言った。
「この失踪と羽衣の件にしたところで、関係があるのかどうか……」
「ふーん、単純に、惚れ抜いちまった竜宮の使いさんと、駆け落ちしただけとか?」
「その可能性もあるわね。だってさ、竜宮の使いさんも羽衣を無くして、元いた世界との縁が切れちゃったわけでしょ? 羽目を外すにはいい機会だったのよ。それで、山奥に隠れて、田舎暮らしでもしてるんじゃない?(「この人里だってじゅうぶんに田舎だけどね」という八橋の指摘が挟まる)そこにちっちゃな家を建てて、たまには里に下りて必需品の売り買いくらいはするけれど、もっぱら自分たちのぶんだけの田畑を拓いて、毎日汗しながらのんびり。それでたまには……そう、たまには二人でジョイントでも吸いながら……」
「急に話の方向性が変わったわね?」
「……ま、冗談はさておき(「一般良識のない冗談だわ」という八橋の合いの手)、一般良識的な善悪はともかく、そんな人生だってありえるわけでしょ。そうご大層な失踪でなくても、数日間だけ世間からふらりといなくなって、好いた人と三日三晩ぐちゃぐちゃやるだけ、みたいな事をやってみたい衝動が、私にだって無くはないもの」
(……なんだかとんでもない告白をされたようね)
と、雨の中で相方と肩を並べて歩きながら八橋は思った。
天子は、なぜかあのままプリズムリバー邸に逗留している。
(小人さんは帰っていったのに、あんたは帰らんのかい)といった三姉妹の視線すら気にせず、天子はそこらへんでごろごろして、飯も食わせてもらって、ときどき姉妹たちに話しかけていた――堀川雷鼓の普段の素行について、永江衣玖はあんたらからはどんな女に見えたか、そんなところを。
「いや、というのもね」と天子の方から三姉妹に説明する気になったのは、二日三日ほど経ってからの事だった。事態は未だになんの進展も見せていない。「竜宮の使いっていうのは足が早いのよ」
三姉妹が謎かけでもされたように顔を見合わせるので、天子はもっとやさしい言い回しをしてやらなければならなかった。
「……つまり、すぐ腐っちゃうの。あんたらには、あいつが真面目でおとなしい締まり屋に見えたかもしれないけれど、あんなもの、きっかけさえあればすぐ堕落する種族よ。しかも、墜ちる時は徹底的に」
「……それはなにも竜宮の使いさんに限った事じゃないと思うわ」
ルナサが姉妹をなんとなく代表して言った。
「きっかけなんて事を言ってしまえば、誰だってそうなる可能性がある」
「まあ、言ってしまえばそうなんだけどさ」天子も別に議論を戦わせたいわけではない。ぽりぽりと頭を掻きながら言った。「まあ、あいつらそういうところあるわよ。気をつけときな。……ところで、あんたらはリーダーがいなくなって大丈夫なの?」
「あの人がうちらのリーダーかどうかはさておいて」これはリリカが言った。「これからのコンサートはどうしようかしらね」
「別に、昔に戻るだけなんじゃ?」メルランが言った。「もともとあの人はうちらのグループにいなかったわけなんだからさ」
「だがスキャンダルの種にはなるかもしれない」ルナサの言い分は、今ふと思いついたようなものではなく、ずっと懸念としてあったもののように響いている。「幻想郷でいちばんいかしている楽団のメンバーと、天界の下級女官様の駆け落ちよ」
「……姉さん割とそういうゴシップ好きよね?」
メルランの指摘。その横で、リリカも考え込んでしまった。
「うちら、どんなふうに書き立てられるかしら」
とも想像してみる。幻想郷に存在している様々な報道機関の名前が、彼女たちの頭に浮かんだ。
「ろくな事になりそうな気がしない……!」
「とりあえず、月例会のコンサートがこの前終わったばかりなのは幸運だったわね。他のイベントはいない顔があろうが知らん顔でやるとして、あれはそういうわけにもいかないでしょ。終わっているからまだ二、三週は猶予がある」
「そういえばあの人、その他いろんなイベントの運営や主催もやってたでしょ。あれどうなってんの?」
「知らないわよもう、仕事投げ出した色ボケ太鼓女とそれを誘惑した色ボケ天女が悪い」
「うわあついに悪口言い出した」
「……じゃあ私、帰るわ」
三姉妹の騒ぎを尻目に、天子は言う。
「……でも悪いアイデアではないかもしれない」とも言い足した。「なんの話かっていうと、報道を利用するって部分ね。ちょっとした醜聞を流してやれば――まああんたらの評判に多少の尾鰭とか傷がつくかもしれないけど――あいつらだって慌てて姿を現すと思うわ。きっとね」
そのまま、天子が鴉天狗のブン屋あたりに話を売り込みにいきそうな素振りすら見せたので、プリズムリバー三姉妹は寄ってたかって彼女を監禁するしかなかった。
その日、ブン屋のスケジュール帳に書かれていた予定は、紅魔館でバンドへのインタビューと写真撮影。
それらの予定を終えた後で、主人のお茶に付き合いながら次のような事を言われた。
「正直、めちゃくちゃまともな仕事ぶりでびっくりしてるんだけど……」
鴉天狗のブン屋にしては、非常にまっとうなインタビューだったという事だ。
「……最近では、天狗の新聞記者の報道合戦も、いいかげんなコタツ記事なんかやるよか、もういっそ真面目に取材した方が逆に新しくて面白いというフェーズに入っていましてね。こっちの社会では、たまーにあるんですよね。四半世紀のうち半年間くらい」
「業界の正常化すら流行り廃りのサイクルに組み込まれてしまっているとは、もはや絶望的な腐敗ね」
と皮肉っぽく指摘したのは、主人の横で静かに茶をしばいている魔女の友人だった。
「それでも私たちにとっては間が良かったわけよね。ただのカメラマンにしてはいいインタビューをしてくれたし」
「新聞記者です。……それはそれとして、大事な事ですよ。間が良いというのは」
「ですが私たちのようなアマチュアバンドでも、腕のいいカメラマンの方にアー写を撮っていただけるというのは、嬉しい事ですわ」
そんな事を言って、いつの間にかメイドがいる。その言い様を面白がって、主人らもブン屋に言ってやった。
「ありがとうカメラマンの方!」
「すっごくよかったと思うわカメラマンの方!」
「……まあいいや。ともかく、あなたがたのバンドの永続と発展を願っていますよ」
「どうだか」魔女が鼻で笑う。「どうせ、うちのこの人の思いつきに過ぎないんだし、永続は望むべくもないでしょう。……発展に関しては良い事ばかりとは言えないかもしれない」
「良くない発展?」
「メンバーの色恋沙汰とかね」
「あー……そういう?」
と納得の声を上げたのは、ブン屋だけではなかった。主人とメイドが、ミュージシャンの色恋沙汰という事象について、どこか直近の出来事に参照元を持っていたかのように声を揃えて漏らしたのだった。さすがのもので、ブン屋はこの微妙な空気を嗅ぎ取った。彼女は新聞記者だったから。
そこでこの後も、ブン屋は口上手く紅魔館の方々に接して、色々の事を聞いた。堀川雷鼓をドラムの講師に招いていた事、その彼女が、どうも近頃、天界の竜宮の使いである永江衣玖を連れ回している(!)らしい事、雷鼓が衣玖の羽衣を盗ったらしい事、雷鼓はそれを否定しているが、衣玖は別になんでも構わなさそうであった事、そしてなにより、自分たちも詳しくは知らないが、二人の関係は手を繋いで駆け出したくなるような類のものであるらしい事。……またそれから数日後、付喪神の九十九姉妹が雷鼓の消息をそれとなく尋ねるような感じで、紅魔館を訪れてきた事も。
「……それにしてもあなた、カメラマンのくせに詮索好きなんですね」
「新聞記者だつってんだろ、いじめか?」
そのような経緯で文々。新聞が堀川雷鼓と永江衣玖のゴシップを書き立てるに及んだので、三姉妹による天子の監禁は結局長くは続かなかった。
「私たちの負けよ」
と、ルナサは天子を縛り上げて詰め込んでいる洋服箪笥を開けて、彼女を解放しながら言った。しゅんとしている加害者三人を順繰りに眺めてから、被害者はきっぱりと言う。
「……とりあえず各人一発ずつ殴らせなさい」
「ごめんなさい、顔だけはやめて」
「じゃあけつ向けな」
そのまま三姉妹を壁の前に並べて手をつかせて、お尻をつんと突き出させた煽情的な光景に、天子自身は別段なんの欲情も感じないまま、三秒ごとに左から右へ、三人の尻を順繰りに思いきり蹴り上げた。一・四・七拍目にアクセントがある感じの三拍子で、姉妹たちはかち上げられ、うめき声をあげ、腰を抜かして壁にすがるようにへたり込む。全体の流れとしては十秒かからなかった。
「……これで許しておいてやるわ。それで、どうなったのよ?」
「さすがに羽衣が付喪神化して云々の推論までは書いてないけれど、私たちの知る限りが、同じように書かれている」
ルナサは痛みの余韻に喘ぎながら言って、新聞記事を見せた。
「あのブン屋さん、ここ一世紀を数えても最高の取材能力を発揮しやがったのよ」
とぼやきながら、ひりつくお尻をまだ撫でているメルラン。
「あの、ごめん、ちょっと、私立てないんだけど」
これは騒霊のくせに臀部に神経障害性疼痛を発症したリリカ。
「……ともかく、これでなにかしら事態は動くでしょう」
「悪い方に動くかもしれないけどね」
妹に肩を貸してなんとか立たせてやりながら、ルナサがシニカルに言った。
「あの色ボケ、戻ってきたら三人でけつ喰らわせてやりましょ」
「そんなもん、今この時だって、もう一人の色ボケさんにやられてるかもしれないのよ」
「笑えない冗談ね……」
好き勝手言いながら足を引きずって、部屋を出ていく三姉妹。天子はふらふらの彼女たちの背中とゴシップ記事とを、交互に眺めた末、紙面をくしゃくしゃに丸めて放り捨てた。
「帰るわ!」
天子が数日ぶりに外に出た時、少なくともひとつは良い事があった。雨が上がっている。
そのまま天界に戻る途中、天子は意外な顔と再会した。人里外れと妖怪の山との間のあたりに、今はもう使われてもなさそうな方丈庵があるのだが、そのそばを通りかかったところで、九十九姉妹と出会ったのだ。
「なにしてんのあんたたち」
「いや、それがねえ……」
彼女たちは、あれからも何の成果も上がらないのがばかばかしくなってしまい、雷鼓の捜索を放棄して、三日ほど世を捨てて、二人きりで引き籠っていたのだ。そんなわけなので、彼女たちはくだんのゴシップの事などつゆ知らず、天子の口からそれを教えてもらってようやく知った。またこの報道によって、良かれ悪しかれ事態が動きそうな事を喜びもした。この件でプリズムリバー楽団が被るであろう迷惑など、まったく考えていない(考えてやる義理があるだろうか?)。
「しかしまあ、じゅうぶんゆっくり休んだから、雷鼓さんを探すのも再開するわ」と弁々が言った。「なんだかんだ言っても、お世話になった人だから」
「それに竜宮の使いさんの羽衣もね」八橋も言った。「あと、それについて。ちょっと気に留めておいて欲しいんだけど……」
「なに?」
「付喪神のなりっていうのは、人のかたちと道具そのままのかたち、二通りほどの可能性があるから、気をつけてねって事」
天子は相手の言葉を聞いて、目をぱちくりさせた。
「……あー、そうか。私、真っ赤なビラビラつけてる、発情した一反木綿の事しか考えていなかったわ」
「どういう言い様よそれは」
天子は彼女たちと別れたが、一連のばかばかしい騒動のせいで、完全にやる気が萎えていた。
そのままふらふら天界に帰る。三姉妹はひどく無理のある拘束をしてくれた。鉄のように頑健な彼女だって、変な体勢で奇妙に硬直してしまった体というのは気分が悪い。さっさと自分の家に転がり込んでひと眠りしたい気分で、ふと、気まぐれに、衣玖の住所を訪ねてみようかなとも思ったのだが、やめた。
自分は自分で、いつぶりの帰省になっているのだろう。実家に戻って、家人が眉を顰めるのもかまわず、寝た。
一刻ほど横になっていたつもりが、一日じゅう寝ていたらしい。体を起こしてからも、なんだかぼんやりしたくなる半日が過ぎて、それからようやく動く気になった。
今日こそは衣玖の棲み処に行ってみた。天人は下々のゴシップなんざ鼻にもかけないだろうが、それでも詮索好きの天狗のパパラッチなんかが押しかけてやしないかと気になったのだ。衣玖の棲み処は天界でも雲の中の方にある。
が、そのあたりにやってきても、のんびりしたものだ。そのままぶらついていると、永江衣玖その人にもあっさりと出会ってしまった。思わず「あっれぇ?」と声を上げてしまう。
「……なんですか総領娘様、出会い頭に」
そう言った衣玖は、羽衣を――天帝に仕える竜宮の使いの服装規程に従って――しっかりと身につけていた。
半日ほど時間が遡る。
天子が昏々と眠っているうちに、地上の方の地上的な(というより痴情的な)騒動は、渦中の人である堀川雷鼓の出現によって、恐ろしく手早い収拾が図られていた。
「まず、話の基本線として。私たちは失踪していない。紅魔館でのドラムのレッスン後、私たちはプリズムリバー邸に戻って、その日のうちに衣玖の羽衣を発見して、彼女は天界に帰った。私はそのまましばらくプリズムリバー邸に泊まっていた。そういう事にしましょう」
あと数十分で、プリズムリバー楽団の公式会見が始まるというところだ。その控室に、九十九姉妹らと共に現われた雷鼓は、そう断じた。
「なに言ってんのあなた」
ルナサが相手の身勝手さに怒鳴りそうになったが、二人の妹が案外と冷静に押し留めた。
「待ちなよ姉さん。それで事が収まるなら、それに越したことはないじゃん?」
「そうだって。――でも雷鼓さん、全ての弁明はあなたがやってちょうだい。私たち、なにも事情を知らないもの……それと、口裏合わせはそれだけで充分なの?」
「大筋では、そうね。あとは余計な口を挟まないでもらえれば、それでいいわ。それともう一つ……」
「もう一つ?」
「私が会見場に現われる時、いい感じのBGMをぶつけてやってちょうだい。みんな性根が単純だからね。それだけでこのクソ会見は舞台になるわ」
結局、雷鼓の言う通りになった。彼女は結構なエンターテイナーで、なんらかの謝罪や弁明すらも自らのステージとしてしまう才能があったし、その弁には一切の詰まりも無かった。認めるところは認め、はぐらかすところははぐらかし、はっきりしている部分ばかりを補強していけば、それで話は全てになってしまう。
九十九姉妹は会見場の後方からその手管を心底感心して眺めつつ、天人様や小人などの口止めをしていない事に気がついていたが、もうどうにでもなれという思いだった。
「私、あの人たちの邸宅に泊まってたの、一晩だけですよ。それですぐに羽衣が見つかって、天界に帰ったんです」
衣玖は、そういう弁明を天子に対してやった。なんなら、近所の竜宮の使いにも尋ねて回っていいとも請け合った。このあけすけさだと、こいつはきっと嘘をついていないのだろうと天子は直感する。アリバイは完璧だった。間違いなく、衣玖は羽衣を発見して、すぐさま天界に帰ったに違いない。
そうして数日も経てば、世間もこのスキャンダルの種を、まるきり忘れてしまっていた。
「……ほんと、衣玖の件はなんだったのかしら」
「……あ? それ、もう終わった話だよ」
地上をふらつきながら、天子がつるんでいる相手はまたしても小人だった。小さな友人は、天子の帽子の飾りについている桃の果実によりかかりながら、そんなつまらん蒸し返しをする奴だとは思わんかったわという口調だった。
「他の世間様が代替案の筋書きに納得してしまったら、私たちだけが事実を知っていたところで、どうにもならないじゃん。なによりどうでもいい話」
「そう、他人の色恋沙汰。どうでもいい……」
ぼそ、ぼそ、と天子は言った。
「……私さぁ、どうもそういうの、しゃらくさくてわかんないのよねえ」
「ま、人それぞれだってぇ」
言ってしまえばそうなのだが、なんだか気に食わない。天子のスカートの上では、青みの強いグレーの曇り空が滑っている。
「向こうにも色々、事情あんだろうしさ」
……なにより引っかかるのは、この小人野郎はいちはやく事実を察していて、それでそっとしておいてやれと、そうほのめかしているようなところが感じられる事だった。
(衣玖がすぐさま羽衣を見つけて、天界に戻る事ができたのは、嘘じゃないんだろう――もっとも、誰かをともなって戻ったのかもしれないけど)
そこまでは推理できる。そこから先の事が異様だ。あの二人の行動には明らかに秘密が含まれているのだが、それが何なのか、天子にはいまいちピンとこない。そこに自分のいらだちがある事もわかっている。それさえわかれば、あんな奴らの惚れた腫れたなんて、ほったらかしにしていていいのだ。
のちに、天子も事の真相に至る。それは彼女が自らの王宮での短い午睡から覚めて、昼下がりのきつい日差しのもと、今しがた見たはずの夢をぼんやり反芻しながら(そうする事で、夢特有のひどく入り組んだ筋を単純化して、意味のない、ナンセンスなものにしていきながら)突如思い浮かんだ答えだったが、その時にはもうあまりに昔すぎ、終わってしまった話の、しかも単純すぎるほどの答えだったので、彼女も苦笑いするほかなかった。
(そうか! そうだわ!)と侍従たちに聞こえない程度の小声で、鋭く、痛快そうに天子は叫んだ。(あのふたり“できちゃった”んだ!)
羽衣が今でもおぼえているその時の光景は、今にも雨が降りそうな大気がけぶっている、湖のほとりだった。羽衣は、あのほこりっぽい、掃除の行き届いていない幽霊屋敷を脱け出して、ふらふらと夜空を舞い、やがて明け方になり昼過ぎになっても、世界をゆらめいて遊んでいたのだった。飛ぶために与えられたものは、いまや自由に飛ぶことを与えられていた。
しかし、自由に飛ぼうとするには、本日は少々お天気がよろしくない。だからこいつはもっぱら雲の中をさまようようにしており、ときどき妖精が同じように雲間に漂っていたり、厄介な乱気流に飛び込む度胸試しなどして騒いでいるのを、うすべったくなって目立たぬようやり過ごしていた。意外にシャイな羽衣だった。
が、そうして雲の低層を潜航しているうち、羽衣はやわやわした雲の底を踏み割ってしまう。眼下には湖と、そのほとりにあるお屋敷が見えた。単なる羽衣として、衣玖につき従っていた頃から知っている場所だ。この羽衣はいつも衣玖のおそばにいた――もっとも、持ち主から大事にされていたという実感が当の羽衣にはない。それどころか、時々得物代わりに振り回されたりしていたが。
その衣玖が、湖のほとりで女と一緒にいる。そこに居合わせてしまった。二人はせいせいしたように曇り空を仰いで笑っていて、そのために、灰色の世界に異様に映える紅白の布を、たやすく発見してしまった。
地面を蹴って追いかけてきたのは、衣玖だった。もう一人――雷鼓の方は、一拍遅れてついてくる感じだったと記憶している。
しかし妙にのんびりした追いかけっこで、衣玖は(やってやれない事はないが)羽衣なしに空を飛ぶのに慣れていないし、雷鼓だって特別速いわけではない。当事者たちの中で一番空を飛ぶのが上手かったのは間違いなく羽衣で、だからこいつはそのままぶっちぎって逃走してしまう事も可能だった。
だが、羽衣は衣玖や雷鼓とたわむれる事を選んだ。二人を手玉に取ってもてあそんだと言い換えてもいいが、やがては挟み撃ちにあって、布の両端は衣玖と雷鼓、それぞれ二人の指にかかり、両側からたぐり寄せられ――その実、少女たちは羽衣以上にお互いをたぐり寄せあっているのだった。彼女たちは羽衣のちょうどまん中あたりでぶつかって、くしゃくしゃになって、雲の中にぼすりと飛び込んだ。
「発情期の一反木綿みたいな見た目しやがって」
「色ボケの太鼓さんがなんか言ってますね」
色ボケの竜宮の使いが相手の耳元で囁く。ひどく楽しそうな声で、もうその場でなにか始まりそうで、やがてそのとおり二人の電気的関係が始まると、摩擦による放電が発生して、雲の中はびかびかと光りはじめる。近場で遊んでいた妖精たちはみな逃げ出してしまった。
羽衣は雲の中の彼女たちを取り巻くように浮かんでいる。
「責任取るわ」
雷鼓がそう言ったのは、衣玖に誘われて、天界にある彼女の棲み処に連れ込まれた後の事だった。
「……責任、とは」
衣玖は首を傾げた。羽衣は手元に戻ってきたのだ。もう、なにも問題ないではないかと、実際に相手にもそう言った。
「でも全部元通りとはいかないでしょ。というより、全て変わっちゃった」
と、衣玖の羽衣を指して言った。
「特にそいつ」
「……これって付喪神化しているんですかね?」
「わかんないけど、そんな気がする」
「あなたの影響で?」
「わかんないけど、そんな気がする。……逆に、君は他に思い当たる出来事があったりするの?」
「まったくありません。認知してください」
「わかったわ。認知する」
あまりの即答に、衣玖は噴き出してしまった。
「……そうだ。あなたも私になにかを迫っておいた方がいいと思いますよ」
「……そうなの、かな?」
「別に、こっちがお腹を痛めてこの子を産んだわけでもありませんしね。この羽衣は、もちろん私が所有権を有していて、これに身分を保証してもらっているとも言っていいくらいの、大切な持ち物ですが、私にとってはあくまでただの持ち物です。ですが、あなたの力の影響を受けてこうなったのなら、むしろ親権としてはそちらの方が強いのではないでしょうか……」
「じゃあ承認して。その、あなたの大事な持ち物でもある、飛ぶために与えられたくせに、ふわふわ好き勝手舞い上がりそうなやつは、私にもなにがしかの親権がある」
「承認します」
すぐさま、なんらかの契約が交わされた後で、二人はくすくす笑った。
「変な関係」
「まったくですね」
「ところでさ」
ある夜、雷鼓は尋ねた。
「あのとき“一つの物を捨てれば、一人の人を得る事ができる事も、ある”なんて言ったくせに、速攻で羽衣を捕まえに行ったよね、自分」
衣玖は相手の下に二つ折りにされて、ぐいぐい体重を載せられている。日課のストレッチがあるので手伝ってください、とせがんだのは衣玖だったが、雷鼓はここぞとばかりに自分の乳房を押しつけてきて、熱い息を吹きかけてくる。
「だって、“見つかって悪い事はない”んでしょ?」
「まあそうだ」
「それに私、実は欲張りなんですよ」
「まあ、そうなんだろうなと思うわ」
それはここ数日でいっそう実感している。
衣玖が身を起こすと、もう朝だ。寝具代わりにしていた薄布が肩から落ちた。
「おはよ」
と声をかけられるので寝ぼけまなこでそちらに頭を振ると、雷鼓が肌着姿でプッシュアップトレーニングをしているので、笑って話しかけた。
「最近は楽器の付喪神さんも鍛えなきゃいけないんですかね?」と、からかうように尋ねた後で、「……いや、もちろん鍛えるに越したことはないんでしょうけどね。なんせ週に何日何晩も演奏して、それでいてお昼もしゃっきりしていなきゃいけないんでしょう?」と、長ったらしい言い訳めいた弁明か理解を示す。
「正直、日中にしゃっきりしてない事も多いけどね」と、腕立て伏せの姿勢からヨガめいたなめらかな動きでゆっくりと(不安定な姿勢を維持しようとする全身の力学を意識しながら)立ち上がる雷鼓。「――よし」
「ちょっと腰浮いてましたよ」
「あ、ほんと?」
そのまま体の使い方の指導が始まってしまった。雷鼓はもう一度体を沈めさせられ、腰のところに手をそえられて「……ほら、ここ。この体勢になった時、力学的な拮抗関係が変化するので、腰が浮き気味になるんですよ(と恥骨のあたりをこね回される)。もっと内股の、この部分に、力を入れるよう意識するんです」といった事を、体中撫でまわされながらやった。
「ありがたいけど、ストレッチのインストラクターのお返しに、ドラムの講師でもやってあげようか?」
「最終的に胸なんか揉まれながら“あの、ドラムの練習ってこんな事も必要なんですか?”って聞く羽目になりそうですけどね」
そういえば、明日はちょっと用事があります、と衣玖が言った。
「ご近所付き合いでね」
「いいよー。そういうの大事だしね」
衣玖の住んでいるあたりが、天界の中でもあまり豊かといえない身分が集まっている区域だという事は、ここ数日の間にもちょくちょく説明を受けている。治安が悪いというほどではないのだが、少なくとも外部の人がうろつき回るのはあまり良くないとも言われた。
「それに、昔はもっとひどかったです。私も小さい頃、近所のちょっと不良なお姉さんグループに“友達の弟役”をやらされたりしましたからね。今でもそういう人たちの事、嫌いですけど。ほんと、あいつら私のどこに野郎っぽさを感じたのやら」
ここで衣玖がいう野郎っぽさ――年長の竜宮の使いたちが求めていたのは、男性的な力強さとか骨太な面ではなく、普段ははにかみながらころころ笑っているのに、自分の気に食わないものには頑固に抗っていく、あの少年的な向こうっ気を指したのだろう、と雷鼓は思った。
翌朝、衣玖は地域清掃を兼ねた集会――こうしたご近所付き合いによって、地域の治安が保たれている面もあるようだ――に外出して、昼前にはおみやげに清酒を貰って帰ってきた。
「いいね。飲んで体を清めようか」
「あなたはよごれだらけですからね」
衣玖はからかうのだが、半分本気でもある。外から戻ってきて今更気がついたが、家の中の甘ったるい女くささときたら、ちょっと眉をひそめたくなるくらいだったのだ。
酒はよく飲んだ。酔って二人でくたくたになって、そのままなにも起こらないといった有り様も、嫌いではなかった。
「ねぇー、風邪ひきますよー」
衣玖は雷鼓に声をかけた。雷鼓は「うん」と素直に返事をして、はいはいで寝所に向かおうとしたが、実は声かけした衣玖の方が深酔いしていた。彼女はもはや這う事すらできず、ごろごろのたうち回るように寝床に滑り込んだのだ。
この布団も、もうここ数日ずっと出しっぱなしだ。
そうしてなんやかんやとぐちゃぐちゃやっていたら、長居しすぎた。
「いっけね」
「ずっと一緒に絡んでいた私が言うのもなんですが、他人の迷惑は考えた方がいいです」
「まったくね。……しばらく下界に戻るよ。なんかごたついてそうな予感がするし」
「ごたついてるんですか?」
「わからないけど、プリズムリバーのお三方は、近頃こうしたスキャンダルには敏感だろうなという気がする」
雷鼓はほのめかすように言った。
「あいつらだって、こっちの騒ぎのついでで探られたくない腹の、ひとつやふたつくらいあるだろうからさ。ただの直感だけど」
その直感、もうちょっと早く働けばよかったのにね、と衣玖は思い、それが表情にも現れた。雷鼓はそれに苦笑いを返す。
「こういうとこが私のエンターテイメント性らしい」
「そのうち三姉妹ちゃんたちに“けつ喰らえ”されますよ」
「喰らわせてくるのは君だけにして欲しいもんだけど」
雷鼓はそうぼやきつつ、ぼんやり、別の事を考えている。衣玖の腰の後ろに手を回して、桃のかたちをした肉付きの溝をなぞっていたが、やがてはたと止めた。
「……君は地上で一晩過ごしたけど、翌日の終わりにはすぐ羽衣が見つかっていて、それで天界に戻った。羽衣が付喪神になったなんて――そう予想できるやつはいるかもしれないけれど――誰も知らないし、きっと証明できない。そういう話でどう?」
「いいですね。基本的に全然嘘じゃありませんし」
「それにしても、あっという間に何日も経っていたのね……天界って、時間の流れが変だったりするの?」
「少なくとも、私の家はちょっとみすぼらしいですが、あなたの竜宮城なんでしょう」
衣玖はにっこり笑って、雷鼓を送り出した。
「そしてまた帰ってきてよい竜宮城です」
雷鼓もほほえみを返して、それからまた羽衣をちょっと撫でてやってから、このあたりの竜宮の使いしか知らないような裏道を衣玖に教えてもらって、地上に下った。
それからも、雷鼓は衣玖のところにちょくちょく通うようになっている。そういう日は、周囲の雲が必ず雷雲の底の方のように黒く渦巻き、空気中の静電気がよくぱちぱちはぜるのだが、誰もそうした事の相関を知らないし、気に留めたりはしない。
逆に、地上で音楽活動を続けている雷鼓の元に、衣玖の方から遊ぶ事も多い。特にダンスミュージック系のイベントが雷鼓の主催で行われると、彼女は必ず羽衣をまとってフロアに顔を出して、人で埋まったそこを、誰にもぶつからず器用に泳ぎわたり、雷鼓に話しかけた。
ようするに、最初にちょっとした騒動があった割には、その後は彼女たちなりの平凡さで、無難に、この奇妙な通い婚の関係は続いた。
そう、二人の関係はおそらく通い婚だったのだろう。少なくとも当人らはそのように振る舞っていた。
しかしながら、これは果たして婚姻と言えるような性質のものだろうか、とも羽衣は考える。事実上は単に自分(羽衣)を媒介とした二人(衣玖・雷鼓)による権利の共有があるだけで、彼女たちはその程度のものを、なんらかの特別な関係と錯覚しているだけなのではないかなどこの付喪神もむつかしいことをこねまわしてかんがえたくなるとしごろになってきているのだがもっかのところひとつやねのしたのふたりのいちゃつきがうるさいのだけがじじつ。
「今夜も衣玖の家らへんはごろごろさんが鳴ってるわねぇ……」と、近所に住んでいる天子はぼやいた。
<了>
「……ずぶ濡れになっちゃいましたね」
そう言う少女は顔をびっしょり濡らしていて、声を出して喉が震えるたび、笑みを浮かべる顎先から水滴がぼたぼた滴り落ちた。
「うん。とんだ雨宿りになっちゃった」
もう一人も、困ったように笑う。
濡れるのを厭う事はとうに諦めて、二人はステージの最前面に腰かけながら言葉を交わしている。
濡れそぼってブラウスが貼りついた肢体を、ふわふわ取り巻いて浮かんでいる羽衣。それだけは水をはじいてさらさらの表面を指でなぞりながら、もう一方の少女は言った。
「こいつは濡れないのね」
「飛ぶために与えられたものですから」
「でもあんたはずぶ濡れ」
そう言いながら、濡れ濡れて普段より更に濃い赤になった自分の髪の毛を後ろに撫でつけた。雨は止みかけているが、雷が遠くなっていく黒い雲の中でのたうち回っているのがまだ聞こえる。
「……シャワーくらいは浴びたいだろ?」
今しがたの通り雨にやられたからシャワーを貸して欲しいと、堀川雷鼓が自分たちの館に女連れで上がり込んで、小一時間ほどが経つ。
「雷鼓さんが連れ込んできた人、れこかもね」
とルナサが小指を立てて、古風な言い回しを使う。彼女は、服が濡れてしまった来客たちのために衣装棚をひっくり返して、適当な替え着を見繕ってやっていた。
それを手伝わされているリリカは、「かもねえ」と生返事しながらそっぽを向き、床に置いてある琺瑯鍋の底面を雨漏りが叩く音に耳を傾けている。さっきの雨は確かにすごかった。あの鍋だって、なみなみいっぱいになったのを、二度三度は捨てているはずだ。崩壊しかけている廃洋館にはこういう雨漏り対策の容器がそこここに設置してあるので、雨の後になるとあっちの部屋でぱちん、こっちの廊下でぽちゃん、階段脇の手すりの上ではぱたぱたぱた、つき当たりの暗がりでもぽーんという変に音楽的な謎の金属音が響いていて、自分たち抜きでも騒がしい。
「ま、あの人がどんなに男や女とぐちゃぐちゃ遊んでいようが、こっちの活動のお邪魔にならない限りは知らないけど」
と言いながら、ルナサはリリカの腕に、取り出した衣服の一式を押しつけた。
「……うん、そうだね……って、なにこれ?」
「あんた、こっちの仕事をなにひとつ手伝わなかったでしょ。脱衣所に持っていって、置いてくるくらいの事はしてよ」
「はいー」
リリカも、姉の態度のわずかなとげとげしさには敏感だったので、特に口ごたえはせず雑用に従う。ルナサは、己の不機嫌さを己の有利なように使うところもある姉であった。
脱衣所に向かうと、もう一人の姉が外の廊下で奇行に勤しんでいた。メルランはコップ――すんなりとした形で、薄手のガラスでできている――を壁につけて耳を寄せ、壁一枚向こうのシャワー室の音を拾おうとしているが、当人のしゃっくりのようなクスクス笑いの方が目立つ。
(なにしてんの)と声に出して問い詰めるのもばからしくて、無視して脱衣所に入ろうとした。
「なにしてんの」
こちらがあえて言うまいとしていた問いかけを相手にそっくりそのままされると、なんだか腹が立つ。なおも無視して脱衣所に入ろうとすると、リリカが手にしている着替えの意味に、即座に気がついた(そういうところを察せない姉ではないのだ)。
「なるほど、それにかこつけて忍び込むの。考えたわね」
世の中姉さんみたいなスケベばかりじゃないし……と呆れつつもやっぱり次姉を無視して脱衣所の扉を開けると、シャワーの順番待ちなのか、生まれたままの姿で(ところで、この言い回しは付喪神にも適用され得るのだろうか?)部屋の隅にある籐の椅子にくつろいでいる雷鼓と鉢合わせてしまう。
(……ええ、そりゃあ、普通に考えればシャワーを使うのも一人ずつでしょうね。メルラン姉さんみたいなスケベ心を持っていなければ)
「あ、着替え用意してくれたの? ありがとー、そこ置いといて」
恥じらいひとつなく言い渡した雷鼓だが、その彼女が手にしている、ふわふわとした一反の布がリリカの目を引く。羽衣だった。
「彼女の持ち物よ」
「あの人、天女様なんだぁ」
これはメルランが言った。リリカが脱衣所に入るついでに押しかけてきていたのだった。
「本人によれば正確には竜宮の使いらしいけど……まあ分類なんてなんでもいいか。じゃあ天女って事で」
なにもかもがいい加減な決めつけをしながら、雷鼓は女の持ち物を手慰みにしている。
「この羽衣、大事な官給品らしいんだけど、不用心な事よね。盗んで、どこかに隠してやろうかしら。天女って、それだけで天界に戻れなくなるんでしょ」
「ものにしたいんだ」メルランがうきうきと言った。「どこで引っかけてきたのよ」
「さっき、雨宿りした時に出会ったばっかりよ」
雷鼓は即座に答えてから、少し記憶を探るように言った。
「……いや、以前から顔は知っていたか。ちょっと前に、この館のホールでクラブイベントやった時があったじゃん」
「最終的にビール瓶投げ大会になった、あれ」
リリカにもおぼえはあったが、あまり記憶が確かではない。とにかくめちゃくちゃなイベントで、片付けは翌日、重い体を引きずりながらだったという記憶だけがある。
「そうそう。あれにも来てくれていて……あの子はフロアで結構目立ってたんだよ。踊りが上手くて、ハットをちょい崩した被り方してた。そこで声をかけた事があって……でもそれくらいか」
「……ものにしたいというより、こっちがやられてるねありゃ」
リリカが用事を済ませて、それと共に脱衣所から退散したメルランは、今は妙に落ち着いたトーンになって呟いた。
そんな天女様の――永江衣玖の羽衣が消えたのを三姉妹が知ったのは、それから数時間ほど後の事、食堂で晩餐している時だった。
(雷鼓でしょ)
(雷鼓だろうね)
(絶対雷鼓だ……)
「いや……本当に無いのよ」
雷鼓の表情は伏し目がちで、三姉妹の感情も察しているようだった。
「あの子――今は部屋に引き籠ってるけど――私が盗ったと思ってる」
(そりゃあ思うでしょうよ)
リリカはワインに口をつける。ワインは先日の月例会でファンから差し入れされたものだが、後味は渋みが溶けた蝋のようで、舌に固まってまとわりつく感じだった。
「バチギレよ」
「……まあ、見つけて彼女さんに返して差し上げるしか、機嫌を直す方法はなさそうね」
「しかしどこにいったのかしら」
常識的な方針を提示するルナサと、常識的な疑問を口にするメルラン。
「雷鼓さんを信じるなら、勝手にどっか行ったんじゃない?」
突拍子もない事を言って、その他から完全に無視されるリリカ。
まあとにかく……と雷鼓は三人に頭を下げた。「無くしたのは間違いなくこの家だから、あなたたちも、ちょっとは気にしといて。そのへんからひょっこり出てくる可能性も、ないことはないわけだしね」
それくらいの事を言って「とにかく機嫌を直してもらわなきゃ」と雷鼓は食堂を後にする。三姉妹は顔を見合わせてから、またその去り行く背中を眺めた。
堀川雷鼓は、プリズムリバー邸の階段を軋ませながら階上に向かっている。段は五歩目のあたりが特に軋みがひどくって、妙に心地良いアクセントになっている。この邸宅はそこいらじゅうがたぴしして、頼りないくらいだが、それが不思議と騒霊の棲み処として相性が良いらしく、音楽的でもあった。
「――あの?」
と客室のドアをノックした時も、その響きの良さにいちいち考えさせられる。そうしてよくよく気にしてみると、一枚板ではなく、端材を何ピースか貼り合わせて成形したようなドアなのだが、元々の材質の良さが多少の不格好さを覆い隠していた。
「入って、いい?」
ノックした音に、いつまでもうっとりしているわけにはいかない。
「開いてますよ」
内から言われた通り、鍵は空いていた。衣玖はプリズムリバー三姉妹に貸してもらった世紀末ウィーン調のモーダルなワンピースに身を包み、ベッドの上に三角座りをしている。
「……姉妹ちゃんたちも、羽衣がどこにあるのかわからないって。ごめん」
「そうですか」
衣玖の怒りが多少沈静しているのは明らかだった。
「……まあ、でも、いずれどっかから出てくるんじゃないですかね」
雷鼓は、衣玖のそういう執行猶予的な赦しを待つしかなく、その間は客室の中をぼんやり眺めるしかない。室内は家主らのいいかげんさがそこここに見て取れて、客人用の部屋だというのに三姉妹の私物が取り残されていたりした。机の上のポケット文庫、キャビネットの上のソーイングセット、ベッドのサイドテーブルに置かれたキャンディーの空き缶(たぶんヘアピン入れかなにか)、など。
「なくなったものはしょうがないですもんね」
「――あの、その間は、天界に戻れないわけ?」
「そりゃ戻ろうと思えば戻れない事もないわけですが、羽衣を持っていなければ、どうせまともな扱いは受けませんよ」衣玖は口元を尖らせながら言う。「あれはただ飛ぶために与えられただけのものではないので」
「身分証みたいな――」
「ろくでもない身分ですが、無くって天人どものおもちゃにされるよりはね」
雷鼓は頭を掻いた。
「……この家の姉妹は、ちょっとおかしいところもあるけれど、気のいい子たちよ。しばらくは泊めてくれると思うわ」
「あなたが養ってくれはしないんですか?」
「とりあえずこの家の中を探すのがいいと思うし……」
「甲斐性なし」
と吐き捨てられたが、言葉ほどの当たりの強さを相手に感じさせないよう、衣玖が気をつかってくれているのは、雷鼓にもわかる。
「私をものにしたかったんじゃないんですか?」
それぞれ手にしたガラスコップを廊下の壁に当て、一枚向こうのやりとりを盗み聞きしようとする、プリズムリバー三姉妹。
翌朝、衣玖の羽衣の捜索は、プリズムリバー邸をひっくり返すような調子で始まった。脱衣所は物をすべて動かして、浴室も排水溝をほじくり返し、その他――廊下、客室、トイレ、大広間、食堂などを総ざらえして、ルナサは客室の戸棚の後ろからヤモリの死骸がひっくり返っているのを得た。メルランは食堂の陰でネズミが少なくとも数年くらい干からびたままなのを見つけたし、リリカはというと脱衣所の隅で大きなクモが足を奇妙に綺麗に並べて己の寿命を受け入れて全休止している事に気がついた。これらの生き物はそれぞれ庭の外れにそれなりの葬り方をしたからいいとして、当初の目的にかなう成果はなかった。
「本当にどこにいったのよ!」
もちろん雷鼓も捜索を手伝っているが、午後にはあいにくと予定が入っていた。
「まあまあ、見つからないものに八つ当たりしてもしょうがありませんよ。……ところで、午後はなにがあるんです?」
と衣玖が雷鼓に尋ねたのは、パンとスープの軽い昼食を摂りながらだった。本日の給食当番はリリカ。香草や川魚の切り身を、鍋の底で炒めた後、砕いたトマト、昨晩のワインの残りを加えて煮込み、その酒っぽさがあらかた飛んできたところで溶いた卵白を投入。それが固まったところに汚れやアクがついていくので、取り除いて清澄。どうせかっちりした料理ではないので適当でいい。あとはもう、いい感じに味を調えて完成。ここで胡椒を大量に入れすぎたらしい。
「……ちょっと胡椒っ気が強すぎるかな」
とルナサが会食の一同を代表して指摘してくれたが、この家の料理は万事がいいかげんだ。ルナサにしたところで――別に料理下手ではないのだが――全てのレシピが酒肴の延長線上でしかないし、メルランなどはもっとひどくて、先日の残り物のポークパイといったものをシチューに投入して、とろけるまで煮込むのをとろみ付けのテクニックと言い張るような調子だ。
「ドラムのレッスンの約束があるの」
そもかく、雷鼓が衣玖にひそひそ声で説明した。ちょうど隣り合った席だったので、会話はやりやすかったのだ。
「ドラムのレッスン」
衣玖はおうむ返しに呟く。雷鼓は声を更に潜めて、プリズムリバー三姉妹も知っている事なのに、まるで自分たち二人だけの秘密のように言った。
「こないだから湖のほとりのお屋敷に雇われてるからね。いい教授料になんのよ」
「面白そうですね」
と言いながら、衣玖は家主の三人姉妹にちょっと遠慮がちに視線を向けた。姉妹らは口々に、まあいい気分転換になるんじゃない、こっちも大掃除のついでのつもりだしね、正直家の中ひっかき回して出てくる気がしないもの……と、それぞれ好き勝手な事を言って、相手の勝手を許した。
「……ついてくるなら、お昼はあまり食べない方がいいよ。あそこティータイムあるから」
雷鼓がぼそりと言った。
紅魔館の大宴会場は、フロアの真ん中にぽつんと置かれているテーブル一つを除いて、すべてのものがはけられていた。このテーブルの上には三段のケーキスタンドと紅茶が用意されていて、雷鼓と衣玖はそれに手をつけながら、ステージ上で淡々と叩かれる八分の六拍子に耳を傾けている。
「正直、特に教えるような事もないのよね」
雷鼓はサンドイッチを口に運びながら言った。
「もともと器用なんでしょうね。ドラムの正しいメンテナンス方法、悪いクセの指摘とそのちょっとした直し方、音の粒立ちの揃え方……なんてものくらいはアドバイスしてあげたけど」
「門番さん、門の前にいなかったので、ついに解雇されたのかと思っていましたが……」
そんなふうに衣玖が言葉をかけた相手は、雷鼓ではない。いつの間にか傍にきていて給仕をやってくれている、館のメイドに対してだった。
「どうしてあの方がドラムを叩くように?」
「ちょっと前、理由があって、この館の住人が所有している楽器類の目録を作成する必要に迫られましたの。私物と備品とを問わずね」メイドはそう言うと、宴会場の端から端を掃くように指し示して、「そうしたら、出てくるわ出てくるわで、この空間いっぱいになるくらい、楽器や機材が集まったのよ。エレキギターに、ベースに、キーボードに、アンプ。それにもちろん……(ステージ上への身振り)ドラムセット。そこからはお嬢様の、いつもの思いつき」
「あんたらロックバンドにでもなるつもりかい……」
雷鼓は少し笑ってから、それでも金持ちの道楽としては悪い選択ではないなとも思う。
「知ろうとも思わなかったあんたらの事情だけれども、ちょっと愉快ね」
「知らなかったんです?」
「全然。ここの主人に、ちょっとドラム教えてあげてって頼まれて、そのまま」
雷鼓と衣玖のやりとりを聞きながら、メイドはクスクスと笑った。
「――ところでお二人は、どうして一緒に?」
それは――と雷鼓が言いかけたところで、衣玖が後の先を取った。
「この人に羽衣を奪われたんですよ」
穏やかに、微笑みながら言った。
「……と、少なくとも私は思っていて」
「悪い女ね、あなた」
メイドは軽やかにからかって、雷鼓の弁明も聞かずに消えてしまっている。
「……私の悪評を振りまいていくつもりかい?」
「既成事実というやつかもしれません」
衣玖は大きく息を吸いながら、スタンドに置かれた小さな一口大のケーキに手を伸ばす。
「私をものにしたいんでしょ?」
「今となっては、君が私をものにしたいんじゃない?」
「もはやその二つに大差なんて無いんじゃないでしょうか……それよりレッスン中です」衣玖は紅茶に口をつけた後で、雷鼓に言った。「延々叩かせておくのもかわいそうですよ。なにか、生徒に気のきいたアドバイスとか言ってやれないんですか?」
雷鼓もステージの上に視線を向ける。時機を窺っていたのか、視線の先の門番もドラムを叩くのを止めた。
「……うっかりドラムスティックをすっとばしちゃってスペアを取り出す時、音数を減らさせないように演奏に復帰する方法でも伝授してやろうかしら」
そう言って、雷鼓が席を立ちあがってステージに歩み寄っていくのに、衣玖もついていく。
「ひっじょーに実用的なテクニックですね」
「お嬢さんには地味に聞こえるかもしれないけれどね。これがけっこう応用も効くんだよ。熟練すれば、二本以上のドラムスティックでジャグリングしつつ、リズムキープしたまま演奏する事も可能」
「雑技団でもやらせるんです?」
門番さんには、ライブ向きのテクニックと同時に、実用的だったり総論的だったりするアドバイスも、いくつか教えてやった。共演者とのアイコンタクトも大事だが、演奏中にもっとも注目しておくべきは、自然とリズムを取っているであろうフロントマンたちの腰つきや足元だという事。演奏の安定感は音楽家としてもちろん求めた方がよいものだが、同時にどこか、壊れやすさと破綻しかねないスリルも匂わせておく事。悪いクセは修正しなければならないが、良いクセはどんどん誇張していくべきだという事。……などなど。
どれも金を取って教えるにふさわしいアドバイスだった、と思う。
「やっと授業料分働いた気がするわ」
雷鼓はアンプの上に置いてあるティーカップに手を伸ばす。門番はもういない。レッスンが終わって、使用後の楽器のメンテナンスを一通り終えたら、講師をほったらかしにして、さっさと帰っていく図太さがあの女にはあった。
かわりにドラムスローンに腰かけ、ドラムセットに向かっているのは、衣玖だ。ただし座っているだけ。ドラムスティックを手でもてあそぶまではするが、正しいやり方を知らない事への気おくれがある。叩いてみる素振りにまでは至らない。
「叩き方、教えてあげるよ」
ティーカップを置いて、座っている衣玖の背後に身を屈めた。そんな雷鼓に対して、衣玖はちょっと体をすくめる。
「私、授業料払いませんよ」
「個人的にちょっと教えるだけよ」
雷鼓はそのまま、後ろから相手に抱きつくような格好のまま、手に手を這わせて体を押しつける。相手の耳元に言葉を流し込むように囁いた。
「ダンスがうまい子は体の使い方がうまいからね……こういう楽器も身につくのが早いんだよ……」
「うまかありませんよ。嫌いではないですけどね」
衣玖はするりと、流れるような動きで――こういう人あしらいに慣れているのかもしれない――雷鼓の腕の中から脱出して、ドラムセットの席を立った。
「……ちょっと、冗談にしてもやりすぎでしたよ。ほれ」
残念そうにしている雷鼓の背後に回り込み、後押ししてスローンに座らせた。それから、まだ自分が手にしていたドラムスティックを、押しつけるように渡す。
「帰ります」
「……ごめんよ、私も一緒に」
「あの姉妹の方々には、あなたからお礼を言っておいてあげてください。私は天界に帰ります」
一瞬、雷鼓はその意味が呑みこめず、あっけにとられた。
「大丈夫なの? 羽衣がなくて、その……」
「大丈夫じゃないかもしれませんが、どのみち一緒じゃないでしょうか。天界で天人様のおもちゃにされるのも、地上であなたのおもちゃにされるのも」
困ったことに、反論しようのないロジックだった――少なくとも雷鼓には反論のしようがない。
「私があなたのものにならなくて悔しいでしょう?」
相手の表情が眉を寄せて唇を噛んだのを見て、衣玖はねっちりと言った。
「悔しいなら、その悔しさをそこにあるドラムにぶつけてみるのもいいかもしれないですね――それを昇華と言います。私にぶつけたかったものを、ドラムに叩きつけてみてくださいよ」
「……そりゃワタクシの世界では八つ当たりって言うんだよ」
「ふうん、私もそう思いますね……でも上手く叩いて、それが私の心に響くものなら、私からも面白い反応が返ってくるかもしれない」
こうした誘いのみならず、衣玖はそのまま踵を返して、さっさと帰ろうとする素振りさえみせた。だが、直後にやってきた痺れるような衝撃は、彼女が履いているブーツの裏から体の芯までを震わせた。本当に感電してしまったように、お尻の肉付きが反射的に収縮して、ぴょんと跳び上がってしまったくらい、雷鼓が衝動的に――当人の言葉通り、八つ当たりに踏み込んだバスドラムの音は、まさに雷鳴さながらで、大宴会場のみならず、紅魔館そのものを痺れさせるに足るものだった。
が、その一発だけでは、ただの衝動の暴発だったはずなのだ。しかし跳び上がった衣玖のブーツが右、一瞬あとで左と着地する時、靴底の音が二拍目とゴーストノートとして、妙に響き良く鳴ってしまっている。雷鼓がそれを聞き逃さず、その拍子を真似て反復させていけば、跳ねたディスコテークなリズムパターンはあっという間に洗練されて、金物の刻みが装飾を添えた。
この演奏がどうやら悲しい一人遊びに終わらなかったようだと雷鼓が知ったのは、自分の頭に他人の帽子――衣玖の長ったらしい装飾付きのハットが、乱暴にかぶされた時だった。その後も、ずっと座っている肩に手を置かれて、体を揺さぶられている。彼女は――衣玖はばね足になったようにリズムに魅せられて、ぴょんぴょんと垂直跳びしているらしい。
「楽しい?」と言葉で尋ねるのは野暮だと思ったので、相手に背を預けるような格好で身を反らした。相手の乳房に頭が埋まったが、相手も覆いかぶさるようにして押しつけてくる。そのまま反る上体も押し返されて、逆に潰されるようにのしかかられるじゃれ合いもやがては終わり(そうしたちょっかいの間も、ドラムは叩き続けられている)、帽子も取り上げられた。明快になった雷鼓の視界の端では袖がはためいていて、強いビートに合わせた舞いを軽々踊っている衣玖が見える。あれでダンスが上手くないだなんて、天界にいる踊り子はよほど層が厚いのでしょうね。
衣玖のなまめかしい腰つきを眺めながら、雷鼓は次の展開を考える。ここまで、いかにもものすごいドラムを叩いているようだが、実態は恐ろしく少ない音数の、ゆえに特徴ばかりが誇張されているシンプルなビートしか雷鼓は叩いていない。そこを、ただ強弱と音の粒立ちだけでニュアンスを変えているにすぎない。なにか音を足そうか、派手な変化をつけようか、そうした事で相手を戸惑わせやしないか……。
なにかを変える機会を上目遣いで窺っていると、その雷鼓の視線は、さらに見上げるようなものになった。衣玖が、バスドラムの上に足をかけて登ってきたからだ。
あんたこれ人様んちのドラムだよ……と雷鼓が思う間もなく、衣玖はドラムセット前面のごちゃごちゃした構造物から、とんでもない平衡感覚でもって身を乗り出してきて、雷鼓の胸元に手を伸ばした。
彼女が指を絡めたのは雷鼓のネクタイ。それをぐいと引っ張るので、本人の首もついていくしかない。そのようにして顔をたぐり寄せられて、雷鼓は衣玖の唇を目の前にしていた。
二階のテラスで喫茶をしながら、紅魔館の主人はさっきうるさいほどに鳴り響いていたドラムに対して感想を漏らした。
「あいつ、急にすっごくドラム上手くなったわね……と思ったらそこにいるのかよ」
「叩いてるの、私じゃないですよ」
いつの間にか同じテーブルの席について、図々しく茶を飲んでいる門番。
「ドラムの先生が遊びで叩いてたんでしょう」
と、中国風の、包子風に仕立てられたペイストリーをひと齧りしながら、彼女は推測した。次の瞬間、包子は口の中で八倍くらいに増えていて、門番は窒息している。
「お客様がお帰りになられていますわ」
神出鬼没のメイド長は門番にちょっかいをかけてから、館の庭園をテラスから見下ろして言った。
「……走っています」
「走っています?」
主人は従者の言い様に、十五度ほど首を傾げた。
「互いの手を取り合って」
「互いの手を取り合って?」
吸血鬼の首の角度が、もう三〇度ほど傾ぐ。
二人が駆け出して紅魔館を飛び出したのは、ほとんど衝動のようなものだった。別に、アクロバティックな遊びの末にこの家のドラムセットをぶっ壊してしまって、逃走しているわけではない。ただ、気分としてはそういう感じだった。なにか二人で悪い事をやらかして、罪を共有して、逃げ出すふりをしてみた。してみたかった。
メイド妖精たちさえ怪訝な顔で見送った、そんな視線も感じつつ、雷鼓と衣玖は霧の湖の、腰を下ろすとお尻のあたりがみるみる湿り気と泥で汚れていきそう(そして事実そうだった)な湖畔にへたり込んだ。
「……もう羽衣なんてどうでもいいです」
衣玖が言った。
「だからあの三姉妹ちゃんのお屋敷に戻らなくてもいいです」
「怖い事を言うね」
雷鼓は耳元の毛をかき上げながら言った。そこに、湖の方から波のように軽い雨が舞い降りてきた。その雨はやがて水の粒を大きくして、みるみるその服を濡らしていく。昨日ぶり二日連続のずぶ濡れ。
「見つかって悪い事はないだろ?」
「飛ぶために与えられただけですよ、あんなもの」
衣玖はニヤリと笑って、雷鼓の顔を見つめた。
「それにね、一つの物を捨てれば、一人の人を得る事ができる事も、あるんですよ」
大掃除をしようとして余計に家を散らかしてしまうという性質の人がたまにいるが、プリズムリバー三姉妹は間違いなくそうした性格に位置づけられる人々だった。そもそもが無計画に手をつけ始めるメルラン、引っ張り出した本や画集などにすぐ夢中になってしまうリリカは論外としても、神経質な傾向のあるルナサですらそうで、彼女は一応の計画性を持って掃除に臨むものの、ちょっとした見通し違いや自分の見積もりの甘さに気がつくと、あっという間に気分が萎えてしまうのだった。
動かしかけた巨大な洋服箪笥が壁に対して中途半端な角度のまま、その中から引きずり出した衣装に埋もれて、彼女たちは完全にやる気を失っていた。
「……そういえばあの人たち帰って来ないわ」
「よろしくやってんじゃないの」
「かもねー」
からっぽの箪笥にもたれかかって、三人は前に投げ出した六本の足と、そこにからみつくとりどりの衣装を見つめている。そこで、メルランがぽつりと口を開く。
「言っちゃえばさ、雷鼓さんがあの人をものにしちまえば、見つからなくたって特に問題ないでしょ……」
「そりゃそうなんだけど、だからって私たちの家で失せ物されたままなのは居心地悪いわ」
「その事だけどさ、もしかしてうちの中に無いんじゃないの?」
ルナサの弁に対して、リリカは昨日から、ずっと考え続けていた事を言った。姉二人はようやくその意見に耳を傾ける。
「……なんてよ?」
「きっと、羽衣が勝手に動き出して、逃げ出したのよ」
数日来続いている雨の中を歩いて、プリズムリバー邸への来客がやってきた。しかしその客が扉を開けると、屋内でもまだ雨が降っていて、うるさいほどの雨漏り。そんなありさまに客が心底呆れていると、家主の姉妹たちが出てくる。
「――ああ、いらっしゃい。って、どうして天人様もついてきてるの」
「このお二人が私の知り合いに相談していて、それがうちの知り合いに関係のある事だとも小耳に挟んだからね」
天子が、背後の二人――弁々と八橋の存在を示しながら、すぐさま自分の事を話し始める。
「それとも有識者の方だけ欲しかった? 有識者は――ねえ、ちょっと出てきなさいよ」
「もう出てきてるよ」
そう言った小人が天人の帽子にぶら下がっている。
「なりは小さいのに存在感が大きすぎると損だね。こんなに視界の端でぷらぷらしているのに、出てきているのか隠れているのかも、わかんなくなっちゃうんだ」
「……以前、衣玖となんらかの音楽イベントで遊びに来た事があるけど、こんなぼろっちい屋敷だとは思わなかった」
天子はエントランスホールの天井を見上げながら呟く。
「いつか崩壊するんじゃないの?」
「崩壊しそうな建物って崩壊するまでは崩壊していないんですよ」
「むちゃくちゃ言うとる」
ともかく立ち話もなんなのでと一行は食堂に向かい、そこで茶を出しながら――針妙丸専用の、ドールハウスのカップやひときわちいさく作った菓子なども出して――、さっさと本題に入った。
「羽衣は付喪神になるか?」
針妙丸は質問を聞いて、ちょっと首を傾げてから、答えた。
「……まあ、なるんじゃない? 知らんけど」
「とんだ有識者だったわ」
「……おおかたあなたたち、昔の異変で私が色々やったから、なにかしらの知識があると思ってるんだろうけど」
と、針妙丸は同席している弁々と八橋の顔をちらと見ながら言った。
「たしかにあの時、私は打ち出の小槌を使った。その小槌の魔力の影響でなんやかんやあって、そのへんの方々のような、強力な付喪神も生まれた。でもそれ以上の事は、なんにも知らないも同然なのよ」
「雷鼓さんは騒動の後、その魔力が元通りに回収されて失われるのを防いで、そのコントロールも自分の物にしていた」
と弁々。八橋も頷く。
「でもって、三姉妹の話を聞くに、羽衣を紛失する前、雷鼓さんはそれにちょっかいをかけていたらしい。なにかが起こったとすれば、おそらくそれがきっかけだったんじゃないか、と」
「……うん、まあ、筋は通ってるよね。じゃあそれでいいんじゃないの?」
「なんつうテキトーな……」
「こっちだって急に呼び出されたんだしぃ。……ただ、ひとつの可能性があって、それが起きたんじゃないかという状況があって、みんなその説明で納得しかけているのなら、それはもう実際起きたも同然なんじゃない?」
針妙丸の言葉の後の数秒間ほど、食堂は雨音が騒がしい以外、なんの音もなかった。ところで……と天子はきょろきょろした。
「その、問題の渦中の、衣玖と、衣玖のこれ(情人を意味する身振り)は?」
「消息不明」
「ほぇ?」
「もうかれこれ数日。少なくともプリズムリバー邸には帰ってきていない」
元来、堀川雷鼓には住所がない。知人宅や友人の棲み処を転々として、それで拠点としているような調子だ。
「……だからって、私たちだってあの人の交友関係を全部知っているわけじゃないのよ?」
と八橋は愚痴をこぼしながら、人里の長屋町のぐちゃぐちゃした足元の泥土――数日来の雨に流されてどろどろになっていて、彼女たちの足指の股を侵している――を、気持ち悪いもののように思っている。
「それでもいないものは探さなきゃいけないでしょ」
弁々が傘を畳みながら言った。遮りを失った肩に、長屋の軒から垂れてくる雨水が当たってきて、みるみる濡らしていく。
結論から言うと、この長屋にも雷鼓はいなかった。ただ部屋を他人に貸すか家賃の支払いを折半しているようで、普段は人間の夫婦が住んでいるらしい。
「……まあ、元々どこふらついてるかわからないような人だからね」
と、長屋町を後にしながら弁々は言った。
「この失踪と羽衣の件にしたところで、関係があるのかどうか……」
「ふーん、単純に、惚れ抜いちまった竜宮の使いさんと、駆け落ちしただけとか?」
「その可能性もあるわね。だってさ、竜宮の使いさんも羽衣を無くして、元いた世界との縁が切れちゃったわけでしょ? 羽目を外すにはいい機会だったのよ。それで、山奥に隠れて、田舎暮らしでもしてるんじゃない?(「この人里だってじゅうぶんに田舎だけどね」という八橋の指摘が挟まる)そこにちっちゃな家を建てて、たまには里に下りて必需品の売り買いくらいはするけれど、もっぱら自分たちのぶんだけの田畑を拓いて、毎日汗しながらのんびり。それでたまには……そう、たまには二人でジョイントでも吸いながら……」
「急に話の方向性が変わったわね?」
「……ま、冗談はさておき(「一般良識のない冗談だわ」という八橋の合いの手)、一般良識的な善悪はともかく、そんな人生だってありえるわけでしょ。そうご大層な失踪でなくても、数日間だけ世間からふらりといなくなって、好いた人と三日三晩ぐちゃぐちゃやるだけ、みたいな事をやってみたい衝動が、私にだって無くはないもの」
(……なんだかとんでもない告白をされたようね)
と、雨の中で相方と肩を並べて歩きながら八橋は思った。
天子は、なぜかあのままプリズムリバー邸に逗留している。
(小人さんは帰っていったのに、あんたは帰らんのかい)といった三姉妹の視線すら気にせず、天子はそこらへんでごろごろして、飯も食わせてもらって、ときどき姉妹たちに話しかけていた――堀川雷鼓の普段の素行について、永江衣玖はあんたらからはどんな女に見えたか、そんなところを。
「いや、というのもね」と天子の方から三姉妹に説明する気になったのは、二日三日ほど経ってからの事だった。事態は未だになんの進展も見せていない。「竜宮の使いっていうのは足が早いのよ」
三姉妹が謎かけでもされたように顔を見合わせるので、天子はもっとやさしい言い回しをしてやらなければならなかった。
「……つまり、すぐ腐っちゃうの。あんたらには、あいつが真面目でおとなしい締まり屋に見えたかもしれないけれど、あんなもの、きっかけさえあればすぐ堕落する種族よ。しかも、墜ちる時は徹底的に」
「……それはなにも竜宮の使いさんに限った事じゃないと思うわ」
ルナサが姉妹をなんとなく代表して言った。
「きっかけなんて事を言ってしまえば、誰だってそうなる可能性がある」
「まあ、言ってしまえばそうなんだけどさ」天子も別に議論を戦わせたいわけではない。ぽりぽりと頭を掻きながら言った。「まあ、あいつらそういうところあるわよ。気をつけときな。……ところで、あんたらはリーダーがいなくなって大丈夫なの?」
「あの人がうちらのリーダーかどうかはさておいて」これはリリカが言った。「これからのコンサートはどうしようかしらね」
「別に、昔に戻るだけなんじゃ?」メルランが言った。「もともとあの人はうちらのグループにいなかったわけなんだからさ」
「だがスキャンダルの種にはなるかもしれない」ルナサの言い分は、今ふと思いついたようなものではなく、ずっと懸念としてあったもののように響いている。「幻想郷でいちばんいかしている楽団のメンバーと、天界の下級女官様の駆け落ちよ」
「……姉さん割とそういうゴシップ好きよね?」
メルランの指摘。その横で、リリカも考え込んでしまった。
「うちら、どんなふうに書き立てられるかしら」
とも想像してみる。幻想郷に存在している様々な報道機関の名前が、彼女たちの頭に浮かんだ。
「ろくな事になりそうな気がしない……!」
「とりあえず、月例会のコンサートがこの前終わったばかりなのは幸運だったわね。他のイベントはいない顔があろうが知らん顔でやるとして、あれはそういうわけにもいかないでしょ。終わっているからまだ二、三週は猶予がある」
「そういえばあの人、その他いろんなイベントの運営や主催もやってたでしょ。あれどうなってんの?」
「知らないわよもう、仕事投げ出した色ボケ太鼓女とそれを誘惑した色ボケ天女が悪い」
「うわあついに悪口言い出した」
「……じゃあ私、帰るわ」
三姉妹の騒ぎを尻目に、天子は言う。
「……でも悪いアイデアではないかもしれない」とも言い足した。「なんの話かっていうと、報道を利用するって部分ね。ちょっとした醜聞を流してやれば――まああんたらの評判に多少の尾鰭とか傷がつくかもしれないけど――あいつらだって慌てて姿を現すと思うわ。きっとね」
そのまま、天子が鴉天狗のブン屋あたりに話を売り込みにいきそうな素振りすら見せたので、プリズムリバー三姉妹は寄ってたかって彼女を監禁するしかなかった。
その日、ブン屋のスケジュール帳に書かれていた予定は、紅魔館でバンドへのインタビューと写真撮影。
それらの予定を終えた後で、主人のお茶に付き合いながら次のような事を言われた。
「正直、めちゃくちゃまともな仕事ぶりでびっくりしてるんだけど……」
鴉天狗のブン屋にしては、非常にまっとうなインタビューだったという事だ。
「……最近では、天狗の新聞記者の報道合戦も、いいかげんなコタツ記事なんかやるよか、もういっそ真面目に取材した方が逆に新しくて面白いというフェーズに入っていましてね。こっちの社会では、たまーにあるんですよね。四半世紀のうち半年間くらい」
「業界の正常化すら流行り廃りのサイクルに組み込まれてしまっているとは、もはや絶望的な腐敗ね」
と皮肉っぽく指摘したのは、主人の横で静かに茶をしばいている魔女の友人だった。
「それでも私たちにとっては間が良かったわけよね。ただのカメラマンにしてはいいインタビューをしてくれたし」
「新聞記者です。……それはそれとして、大事な事ですよ。間が良いというのは」
「ですが私たちのようなアマチュアバンドでも、腕のいいカメラマンの方にアー写を撮っていただけるというのは、嬉しい事ですわ」
そんな事を言って、いつの間にかメイドがいる。その言い様を面白がって、主人らもブン屋に言ってやった。
「ありがとうカメラマンの方!」
「すっごくよかったと思うわカメラマンの方!」
「……まあいいや。ともかく、あなたがたのバンドの永続と発展を願っていますよ」
「どうだか」魔女が鼻で笑う。「どうせ、うちのこの人の思いつきに過ぎないんだし、永続は望むべくもないでしょう。……発展に関しては良い事ばかりとは言えないかもしれない」
「良くない発展?」
「メンバーの色恋沙汰とかね」
「あー……そういう?」
と納得の声を上げたのは、ブン屋だけではなかった。主人とメイドが、ミュージシャンの色恋沙汰という事象について、どこか直近の出来事に参照元を持っていたかのように声を揃えて漏らしたのだった。さすがのもので、ブン屋はこの微妙な空気を嗅ぎ取った。彼女は新聞記者だったから。
そこでこの後も、ブン屋は口上手く紅魔館の方々に接して、色々の事を聞いた。堀川雷鼓をドラムの講師に招いていた事、その彼女が、どうも近頃、天界の竜宮の使いである永江衣玖を連れ回している(!)らしい事、雷鼓が衣玖の羽衣を盗ったらしい事、雷鼓はそれを否定しているが、衣玖は別になんでも構わなさそうであった事、そしてなにより、自分たちも詳しくは知らないが、二人の関係は手を繋いで駆け出したくなるような類のものであるらしい事。……またそれから数日後、付喪神の九十九姉妹が雷鼓の消息をそれとなく尋ねるような感じで、紅魔館を訪れてきた事も。
「……それにしてもあなた、カメラマンのくせに詮索好きなんですね」
「新聞記者だつってんだろ、いじめか?」
そのような経緯で文々。新聞が堀川雷鼓と永江衣玖のゴシップを書き立てるに及んだので、三姉妹による天子の監禁は結局長くは続かなかった。
「私たちの負けよ」
と、ルナサは天子を縛り上げて詰め込んでいる洋服箪笥を開けて、彼女を解放しながら言った。しゅんとしている加害者三人を順繰りに眺めてから、被害者はきっぱりと言う。
「……とりあえず各人一発ずつ殴らせなさい」
「ごめんなさい、顔だけはやめて」
「じゃあけつ向けな」
そのまま三姉妹を壁の前に並べて手をつかせて、お尻をつんと突き出させた煽情的な光景に、天子自身は別段なんの欲情も感じないまま、三秒ごとに左から右へ、三人の尻を順繰りに思いきり蹴り上げた。一・四・七拍目にアクセントがある感じの三拍子で、姉妹たちはかち上げられ、うめき声をあげ、腰を抜かして壁にすがるようにへたり込む。全体の流れとしては十秒かからなかった。
「……これで許しておいてやるわ。それで、どうなったのよ?」
「さすがに羽衣が付喪神化して云々の推論までは書いてないけれど、私たちの知る限りが、同じように書かれている」
ルナサは痛みの余韻に喘ぎながら言って、新聞記事を見せた。
「あのブン屋さん、ここ一世紀を数えても最高の取材能力を発揮しやがったのよ」
とぼやきながら、ひりつくお尻をまだ撫でているメルラン。
「あの、ごめん、ちょっと、私立てないんだけど」
これは騒霊のくせに臀部に神経障害性疼痛を発症したリリカ。
「……ともかく、これでなにかしら事態は動くでしょう」
「悪い方に動くかもしれないけどね」
妹に肩を貸してなんとか立たせてやりながら、ルナサがシニカルに言った。
「あの色ボケ、戻ってきたら三人でけつ喰らわせてやりましょ」
「そんなもん、今この時だって、もう一人の色ボケさんにやられてるかもしれないのよ」
「笑えない冗談ね……」
好き勝手言いながら足を引きずって、部屋を出ていく三姉妹。天子はふらふらの彼女たちの背中とゴシップ記事とを、交互に眺めた末、紙面をくしゃくしゃに丸めて放り捨てた。
「帰るわ!」
天子が数日ぶりに外に出た時、少なくともひとつは良い事があった。雨が上がっている。
そのまま天界に戻る途中、天子は意外な顔と再会した。人里外れと妖怪の山との間のあたりに、今はもう使われてもなさそうな方丈庵があるのだが、そのそばを通りかかったところで、九十九姉妹と出会ったのだ。
「なにしてんのあんたたち」
「いや、それがねえ……」
彼女たちは、あれからも何の成果も上がらないのがばかばかしくなってしまい、雷鼓の捜索を放棄して、三日ほど世を捨てて、二人きりで引き籠っていたのだ。そんなわけなので、彼女たちはくだんのゴシップの事などつゆ知らず、天子の口からそれを教えてもらってようやく知った。またこの報道によって、良かれ悪しかれ事態が動きそうな事を喜びもした。この件でプリズムリバー楽団が被るであろう迷惑など、まったく考えていない(考えてやる義理があるだろうか?)。
「しかしまあ、じゅうぶんゆっくり休んだから、雷鼓さんを探すのも再開するわ」と弁々が言った。「なんだかんだ言っても、お世話になった人だから」
「それに竜宮の使いさんの羽衣もね」八橋も言った。「あと、それについて。ちょっと気に留めておいて欲しいんだけど……」
「なに?」
「付喪神のなりっていうのは、人のかたちと道具そのままのかたち、二通りほどの可能性があるから、気をつけてねって事」
天子は相手の言葉を聞いて、目をぱちくりさせた。
「……あー、そうか。私、真っ赤なビラビラつけてる、発情した一反木綿の事しか考えていなかったわ」
「どういう言い様よそれは」
天子は彼女たちと別れたが、一連のばかばかしい騒動のせいで、完全にやる気が萎えていた。
そのままふらふら天界に帰る。三姉妹はひどく無理のある拘束をしてくれた。鉄のように頑健な彼女だって、変な体勢で奇妙に硬直してしまった体というのは気分が悪い。さっさと自分の家に転がり込んでひと眠りしたい気分で、ふと、気まぐれに、衣玖の住所を訪ねてみようかなとも思ったのだが、やめた。
自分は自分で、いつぶりの帰省になっているのだろう。実家に戻って、家人が眉を顰めるのもかまわず、寝た。
一刻ほど横になっていたつもりが、一日じゅう寝ていたらしい。体を起こしてからも、なんだかぼんやりしたくなる半日が過ぎて、それからようやく動く気になった。
今日こそは衣玖の棲み処に行ってみた。天人は下々のゴシップなんざ鼻にもかけないだろうが、それでも詮索好きの天狗のパパラッチなんかが押しかけてやしないかと気になったのだ。衣玖の棲み処は天界でも雲の中の方にある。
が、そのあたりにやってきても、のんびりしたものだ。そのままぶらついていると、永江衣玖その人にもあっさりと出会ってしまった。思わず「あっれぇ?」と声を上げてしまう。
「……なんですか総領娘様、出会い頭に」
そう言った衣玖は、羽衣を――天帝に仕える竜宮の使いの服装規程に従って――しっかりと身につけていた。
半日ほど時間が遡る。
天子が昏々と眠っているうちに、地上の方の地上的な(というより痴情的な)騒動は、渦中の人である堀川雷鼓の出現によって、恐ろしく手早い収拾が図られていた。
「まず、話の基本線として。私たちは失踪していない。紅魔館でのドラムのレッスン後、私たちはプリズムリバー邸に戻って、その日のうちに衣玖の羽衣を発見して、彼女は天界に帰った。私はそのまましばらくプリズムリバー邸に泊まっていた。そういう事にしましょう」
あと数十分で、プリズムリバー楽団の公式会見が始まるというところだ。その控室に、九十九姉妹らと共に現われた雷鼓は、そう断じた。
「なに言ってんのあなた」
ルナサが相手の身勝手さに怒鳴りそうになったが、二人の妹が案外と冷静に押し留めた。
「待ちなよ姉さん。それで事が収まるなら、それに越したことはないじゃん?」
「そうだって。――でも雷鼓さん、全ての弁明はあなたがやってちょうだい。私たち、なにも事情を知らないもの……それと、口裏合わせはそれだけで充分なの?」
「大筋では、そうね。あとは余計な口を挟まないでもらえれば、それでいいわ。それともう一つ……」
「もう一つ?」
「私が会見場に現われる時、いい感じのBGMをぶつけてやってちょうだい。みんな性根が単純だからね。それだけでこのクソ会見は舞台になるわ」
結局、雷鼓の言う通りになった。彼女は結構なエンターテイナーで、なんらかの謝罪や弁明すらも自らのステージとしてしまう才能があったし、その弁には一切の詰まりも無かった。認めるところは認め、はぐらかすところははぐらかし、はっきりしている部分ばかりを補強していけば、それで話は全てになってしまう。
九十九姉妹は会見場の後方からその手管を心底感心して眺めつつ、天人様や小人などの口止めをしていない事に気がついていたが、もうどうにでもなれという思いだった。
「私、あの人たちの邸宅に泊まってたの、一晩だけですよ。それですぐに羽衣が見つかって、天界に帰ったんです」
衣玖は、そういう弁明を天子に対してやった。なんなら、近所の竜宮の使いにも尋ねて回っていいとも請け合った。このあけすけさだと、こいつはきっと嘘をついていないのだろうと天子は直感する。アリバイは完璧だった。間違いなく、衣玖は羽衣を発見して、すぐさま天界に帰ったに違いない。
そうして数日も経てば、世間もこのスキャンダルの種を、まるきり忘れてしまっていた。
「……ほんと、衣玖の件はなんだったのかしら」
「……あ? それ、もう終わった話だよ」
地上をふらつきながら、天子がつるんでいる相手はまたしても小人だった。小さな友人は、天子の帽子の飾りについている桃の果実によりかかりながら、そんなつまらん蒸し返しをする奴だとは思わんかったわという口調だった。
「他の世間様が代替案の筋書きに納得してしまったら、私たちだけが事実を知っていたところで、どうにもならないじゃん。なによりどうでもいい話」
「そう、他人の色恋沙汰。どうでもいい……」
ぼそ、ぼそ、と天子は言った。
「……私さぁ、どうもそういうの、しゃらくさくてわかんないのよねえ」
「ま、人それぞれだってぇ」
言ってしまえばそうなのだが、なんだか気に食わない。天子のスカートの上では、青みの強いグレーの曇り空が滑っている。
「向こうにも色々、事情あんだろうしさ」
……なにより引っかかるのは、この小人野郎はいちはやく事実を察していて、それでそっとしておいてやれと、そうほのめかしているようなところが感じられる事だった。
(衣玖がすぐさま羽衣を見つけて、天界に戻る事ができたのは、嘘じゃないんだろう――もっとも、誰かをともなって戻ったのかもしれないけど)
そこまでは推理できる。そこから先の事が異様だ。あの二人の行動には明らかに秘密が含まれているのだが、それが何なのか、天子にはいまいちピンとこない。そこに自分のいらだちがある事もわかっている。それさえわかれば、あんな奴らの惚れた腫れたなんて、ほったらかしにしていていいのだ。
のちに、天子も事の真相に至る。それは彼女が自らの王宮での短い午睡から覚めて、昼下がりのきつい日差しのもと、今しがた見たはずの夢をぼんやり反芻しながら(そうする事で、夢特有のひどく入り組んだ筋を単純化して、意味のない、ナンセンスなものにしていきながら)突如思い浮かんだ答えだったが、その時にはもうあまりに昔すぎ、終わってしまった話の、しかも単純すぎるほどの答えだったので、彼女も苦笑いするほかなかった。
(そうか! そうだわ!)と侍従たちに聞こえない程度の小声で、鋭く、痛快そうに天子は叫んだ。(あのふたり“できちゃった”んだ!)
羽衣が今でもおぼえているその時の光景は、今にも雨が降りそうな大気がけぶっている、湖のほとりだった。羽衣は、あのほこりっぽい、掃除の行き届いていない幽霊屋敷を脱け出して、ふらふらと夜空を舞い、やがて明け方になり昼過ぎになっても、世界をゆらめいて遊んでいたのだった。飛ぶために与えられたものは、いまや自由に飛ぶことを与えられていた。
しかし、自由に飛ぼうとするには、本日は少々お天気がよろしくない。だからこいつはもっぱら雲の中をさまようようにしており、ときどき妖精が同じように雲間に漂っていたり、厄介な乱気流に飛び込む度胸試しなどして騒いでいるのを、うすべったくなって目立たぬようやり過ごしていた。意外にシャイな羽衣だった。
が、そうして雲の低層を潜航しているうち、羽衣はやわやわした雲の底を踏み割ってしまう。眼下には湖と、そのほとりにあるお屋敷が見えた。単なる羽衣として、衣玖につき従っていた頃から知っている場所だ。この羽衣はいつも衣玖のおそばにいた――もっとも、持ち主から大事にされていたという実感が当の羽衣にはない。それどころか、時々得物代わりに振り回されたりしていたが。
その衣玖が、湖のほとりで女と一緒にいる。そこに居合わせてしまった。二人はせいせいしたように曇り空を仰いで笑っていて、そのために、灰色の世界に異様に映える紅白の布を、たやすく発見してしまった。
地面を蹴って追いかけてきたのは、衣玖だった。もう一人――雷鼓の方は、一拍遅れてついてくる感じだったと記憶している。
しかし妙にのんびりした追いかけっこで、衣玖は(やってやれない事はないが)羽衣なしに空を飛ぶのに慣れていないし、雷鼓だって特別速いわけではない。当事者たちの中で一番空を飛ぶのが上手かったのは間違いなく羽衣で、だからこいつはそのままぶっちぎって逃走してしまう事も可能だった。
だが、羽衣は衣玖や雷鼓とたわむれる事を選んだ。二人を手玉に取ってもてあそんだと言い換えてもいいが、やがては挟み撃ちにあって、布の両端は衣玖と雷鼓、それぞれ二人の指にかかり、両側からたぐり寄せられ――その実、少女たちは羽衣以上にお互いをたぐり寄せあっているのだった。彼女たちは羽衣のちょうどまん中あたりでぶつかって、くしゃくしゃになって、雲の中にぼすりと飛び込んだ。
「発情期の一反木綿みたいな見た目しやがって」
「色ボケの太鼓さんがなんか言ってますね」
色ボケの竜宮の使いが相手の耳元で囁く。ひどく楽しそうな声で、もうその場でなにか始まりそうで、やがてそのとおり二人の電気的関係が始まると、摩擦による放電が発生して、雲の中はびかびかと光りはじめる。近場で遊んでいた妖精たちはみな逃げ出してしまった。
羽衣は雲の中の彼女たちを取り巻くように浮かんでいる。
「責任取るわ」
雷鼓がそう言ったのは、衣玖に誘われて、天界にある彼女の棲み処に連れ込まれた後の事だった。
「……責任、とは」
衣玖は首を傾げた。羽衣は手元に戻ってきたのだ。もう、なにも問題ないではないかと、実際に相手にもそう言った。
「でも全部元通りとはいかないでしょ。というより、全て変わっちゃった」
と、衣玖の羽衣を指して言った。
「特にそいつ」
「……これって付喪神化しているんですかね?」
「わかんないけど、そんな気がする」
「あなたの影響で?」
「わかんないけど、そんな気がする。……逆に、君は他に思い当たる出来事があったりするの?」
「まったくありません。認知してください」
「わかったわ。認知する」
あまりの即答に、衣玖は噴き出してしまった。
「……そうだ。あなたも私になにかを迫っておいた方がいいと思いますよ」
「……そうなの、かな?」
「別に、こっちがお腹を痛めてこの子を産んだわけでもありませんしね。この羽衣は、もちろん私が所有権を有していて、これに身分を保証してもらっているとも言っていいくらいの、大切な持ち物ですが、私にとってはあくまでただの持ち物です。ですが、あなたの力の影響を受けてこうなったのなら、むしろ親権としてはそちらの方が強いのではないでしょうか……」
「じゃあ承認して。その、あなたの大事な持ち物でもある、飛ぶために与えられたくせに、ふわふわ好き勝手舞い上がりそうなやつは、私にもなにがしかの親権がある」
「承認します」
すぐさま、なんらかの契約が交わされた後で、二人はくすくす笑った。
「変な関係」
「まったくですね」
「ところでさ」
ある夜、雷鼓は尋ねた。
「あのとき“一つの物を捨てれば、一人の人を得る事ができる事も、ある”なんて言ったくせに、速攻で羽衣を捕まえに行ったよね、自分」
衣玖は相手の下に二つ折りにされて、ぐいぐい体重を載せられている。日課のストレッチがあるので手伝ってください、とせがんだのは衣玖だったが、雷鼓はここぞとばかりに自分の乳房を押しつけてきて、熱い息を吹きかけてくる。
「だって、“見つかって悪い事はない”んでしょ?」
「まあそうだ」
「それに私、実は欲張りなんですよ」
「まあ、そうなんだろうなと思うわ」
それはここ数日でいっそう実感している。
衣玖が身を起こすと、もう朝だ。寝具代わりにしていた薄布が肩から落ちた。
「おはよ」
と声をかけられるので寝ぼけまなこでそちらに頭を振ると、雷鼓が肌着姿でプッシュアップトレーニングをしているので、笑って話しかけた。
「最近は楽器の付喪神さんも鍛えなきゃいけないんですかね?」と、からかうように尋ねた後で、「……いや、もちろん鍛えるに越したことはないんでしょうけどね。なんせ週に何日何晩も演奏して、それでいてお昼もしゃっきりしていなきゃいけないんでしょう?」と、長ったらしい言い訳めいた弁明か理解を示す。
「正直、日中にしゃっきりしてない事も多いけどね」と、腕立て伏せの姿勢からヨガめいたなめらかな動きでゆっくりと(不安定な姿勢を維持しようとする全身の力学を意識しながら)立ち上がる雷鼓。「――よし」
「ちょっと腰浮いてましたよ」
「あ、ほんと?」
そのまま体の使い方の指導が始まってしまった。雷鼓はもう一度体を沈めさせられ、腰のところに手をそえられて「……ほら、ここ。この体勢になった時、力学的な拮抗関係が変化するので、腰が浮き気味になるんですよ(と恥骨のあたりをこね回される)。もっと内股の、この部分に、力を入れるよう意識するんです」といった事を、体中撫でまわされながらやった。
「ありがたいけど、ストレッチのインストラクターのお返しに、ドラムの講師でもやってあげようか?」
「最終的に胸なんか揉まれながら“あの、ドラムの練習ってこんな事も必要なんですか?”って聞く羽目になりそうですけどね」
そういえば、明日はちょっと用事があります、と衣玖が言った。
「ご近所付き合いでね」
「いいよー。そういうの大事だしね」
衣玖の住んでいるあたりが、天界の中でもあまり豊かといえない身分が集まっている区域だという事は、ここ数日の間にもちょくちょく説明を受けている。治安が悪いというほどではないのだが、少なくとも外部の人がうろつき回るのはあまり良くないとも言われた。
「それに、昔はもっとひどかったです。私も小さい頃、近所のちょっと不良なお姉さんグループに“友達の弟役”をやらされたりしましたからね。今でもそういう人たちの事、嫌いですけど。ほんと、あいつら私のどこに野郎っぽさを感じたのやら」
ここで衣玖がいう野郎っぽさ――年長の竜宮の使いたちが求めていたのは、男性的な力強さとか骨太な面ではなく、普段ははにかみながらころころ笑っているのに、自分の気に食わないものには頑固に抗っていく、あの少年的な向こうっ気を指したのだろう、と雷鼓は思った。
翌朝、衣玖は地域清掃を兼ねた集会――こうしたご近所付き合いによって、地域の治安が保たれている面もあるようだ――に外出して、昼前にはおみやげに清酒を貰って帰ってきた。
「いいね。飲んで体を清めようか」
「あなたはよごれだらけですからね」
衣玖はからかうのだが、半分本気でもある。外から戻ってきて今更気がついたが、家の中の甘ったるい女くささときたら、ちょっと眉をひそめたくなるくらいだったのだ。
酒はよく飲んだ。酔って二人でくたくたになって、そのままなにも起こらないといった有り様も、嫌いではなかった。
「ねぇー、風邪ひきますよー」
衣玖は雷鼓に声をかけた。雷鼓は「うん」と素直に返事をして、はいはいで寝所に向かおうとしたが、実は声かけした衣玖の方が深酔いしていた。彼女はもはや這う事すらできず、ごろごろのたうち回るように寝床に滑り込んだのだ。
この布団も、もうここ数日ずっと出しっぱなしだ。
そうしてなんやかんやとぐちゃぐちゃやっていたら、長居しすぎた。
「いっけね」
「ずっと一緒に絡んでいた私が言うのもなんですが、他人の迷惑は考えた方がいいです」
「まったくね。……しばらく下界に戻るよ。なんかごたついてそうな予感がするし」
「ごたついてるんですか?」
「わからないけど、プリズムリバーのお三方は、近頃こうしたスキャンダルには敏感だろうなという気がする」
雷鼓はほのめかすように言った。
「あいつらだって、こっちの騒ぎのついでで探られたくない腹の、ひとつやふたつくらいあるだろうからさ。ただの直感だけど」
その直感、もうちょっと早く働けばよかったのにね、と衣玖は思い、それが表情にも現れた。雷鼓はそれに苦笑いを返す。
「こういうとこが私のエンターテイメント性らしい」
「そのうち三姉妹ちゃんたちに“けつ喰らえ”されますよ」
「喰らわせてくるのは君だけにして欲しいもんだけど」
雷鼓はそうぼやきつつ、ぼんやり、別の事を考えている。衣玖の腰の後ろに手を回して、桃のかたちをした肉付きの溝をなぞっていたが、やがてはたと止めた。
「……君は地上で一晩過ごしたけど、翌日の終わりにはすぐ羽衣が見つかっていて、それで天界に戻った。羽衣が付喪神になったなんて――そう予想できるやつはいるかもしれないけれど――誰も知らないし、きっと証明できない。そういう話でどう?」
「いいですね。基本的に全然嘘じゃありませんし」
「それにしても、あっという間に何日も経っていたのね……天界って、時間の流れが変だったりするの?」
「少なくとも、私の家はちょっとみすぼらしいですが、あなたの竜宮城なんでしょう」
衣玖はにっこり笑って、雷鼓を送り出した。
「そしてまた帰ってきてよい竜宮城です」
雷鼓もほほえみを返して、それからまた羽衣をちょっと撫でてやってから、このあたりの竜宮の使いしか知らないような裏道を衣玖に教えてもらって、地上に下った。
それからも、雷鼓は衣玖のところにちょくちょく通うようになっている。そういう日は、周囲の雲が必ず雷雲の底の方のように黒く渦巻き、空気中の静電気がよくぱちぱちはぜるのだが、誰もそうした事の相関を知らないし、気に留めたりはしない。
逆に、地上で音楽活動を続けている雷鼓の元に、衣玖の方から遊ぶ事も多い。特にダンスミュージック系のイベントが雷鼓の主催で行われると、彼女は必ず羽衣をまとってフロアに顔を出して、人で埋まったそこを、誰にもぶつからず器用に泳ぎわたり、雷鼓に話しかけた。
ようするに、最初にちょっとした騒動があった割には、その後は彼女たちなりの平凡さで、無難に、この奇妙な通い婚の関係は続いた。
そう、二人の関係はおそらく通い婚だったのだろう。少なくとも当人らはそのように振る舞っていた。
しかしながら、これは果たして婚姻と言えるような性質のものだろうか、とも羽衣は考える。事実上は単に自分(羽衣)を媒介とした二人(衣玖・雷鼓)による権利の共有があるだけで、彼女たちはその程度のものを、なんらかの特別な関係と錯覚しているだけなのではないかなどこの付喪神もむつかしいことをこねまわしてかんがえたくなるとしごろになってきているのだがもっかのところひとつやねのしたのふたりのいちゃつきがうるさいのだけがじじつ。
「今夜も衣玖の家らへんはごろごろさんが鳴ってるわねぇ……」と、近所に住んでいる天子はぼやいた。
<了>
一応……恋愛?カプ?とかそういうジャンルに入ると思うのですが、当人たちの周りにここまで焦点を当てる書き方は個人的には少し新鮮に思いました。話のピークが(作者様の中でではなく)自分の中でイマイチ見つからなかったけど、逆に言えばなんかずっと面白いなーって思って読めました
天人縛りつける三姉妹強い
雷鼓がヒモ気質なのが解釈一致でした
みんなどこか刹那的で情熱的な感じでとてもよかったです