タンスがあった。見るからに上質そうな桐で作られていて、漆塗りの落ち着く色合い、これぞ上物という印象だった。金属の取っ手部分にも錆びはなく、引き出しは全部で六段、一番上が二列になっている。高さは僕の背丈より少し低いくらいか。シンプルだがタンスとはかくあるべしという佇まいをしていて、僕は思わず「いいタンスだ」と溢した。しかし、手ぶらで無縁塚に仕入れに来ている今の僕には、これを運ぶ手段がなかった。リヤカーを持ってこない時に限って掘り出し物が見つかる。よくあることだが、やはりげんなりとしてしまう。
一旦帰って、明日また来ることにしよう。いくら僕の眼鏡にかなう良質な代物とはいえ、この大きさだ。墓荒らしがいたとしてもすぐには盗まれないだろう。
そう思って日を跨いだのが甘かった。次の日、その桐のタンスは倍に増えていたのだ。
いったいこれはどうしたのだろう。夫婦茶碗というのはあるが、タンスにも適応されるなどという伝承は聞いたこともない。文字通り持て余すだろう。何か特別な力があるのかもしれないと思い、僕の目でもう一度よく見てみたが、やはりいいタンスだと思うばかりであった。
持ち帰るのが急に面倒に思えてきたので、今日のところは諦めて他の商品になりそうなものを拾うことにした。もしかすると、このタンス自体が夫婦だとか兄弟のようなもので、そういった職人の意向があるのかもしれない。
それから一週間ほど経った。雨が一度だけ降ったので、タンスがだめになっていないかを確認しようと思い、ふらりと立ち寄ったのだが、驚くべきことにまたしてもタンスが増えていた。これで三棹である。互いに背を向けていて、摩訶不思議な三角形をつくりだしていた。
「これは外の世界で失われつつある技術が詰まった特別な逸品なのかもしれない」
僕は早速タンスを調べてみた。どれもまったく同じ形をしていて、不審な点は見当たらないように思えたが、三棹あるうちのひとつ、その四段目の引き出しだけが開いていた。のぞき込んでみても何もない。そういえば良いタンスはその気密性ゆえに引き出しを閉めると別の引き出しが飛び出てくるという。とりあえず開いていた四段目を押し込んでみた。
「おや、僕の目が曇っていたか」
するりと引っかかることなく戻ったが、他の引き出しが動く様子はない。となるとこれは良いタンスではないことになる。そう思ってがっかりしながら右隣のタンスをちらと見てみると、一番下の引き出しが開いていた。
「もしや」
僕は飛び出ている引き出しを押し込んだ。すると今度はまた別のタンスの三段目が開いた。それを閉めると今度は別のところが開いた。僕は三棹のタンスを順繰りとまわり、何度も試した。そのたびに同じことが起きた。法則性はわからないが僕は確信した。このタンスは三位一体であり、特別な用途を付与されているのだ。
ならば第一発見者である僕が保護するべきだ。
すぐに香霖堂に戻ってリヤカーを持ってきた。リヤカーの端をタンスの側面に寄せ、なんとか倒しながら乗せた。もう一棹くらい積めないかと試しにリヤカーを引っ張ってみたが、かなりの重労働であった。腕の筋肉が常に引き締まり、足もひとたび止まればそのまま地面に根を張ってしまいそうだ。しかし非力さを嘆いても仕方がない。落ちないように縄で南京結びをして固定し、香霖堂まで運んだ。
数時間かけて往復を三度繰り返した。歩幅は徐々に狭くなりペースも明らかに落ちていた。足取りが重くなっていったのは単に筋疲労だけではないだろう。運搬中、筋肉痛に苛まれる予感がなんどもよぎったが、それでもこれは今日中にやらなければいけない仕事のような気がしていた。
すべてを運び終えたころにはとっぷりと日が暮れてしまった。改めて横に三棹並べてみると圧巻である。右端の一番右下の引き出しが開いていて、そこだけが間抜けに思えた。いくつか試してみたいこともあったが、さすがに体力が尽きてしまった。今日はぐっすりと眠れるだろう。タンスは店の中には入りそうにないので、郵便受けの隣に放置し、僕は寝室へ向かった。
後日、冷やかしに来た魔理沙にいきさつを話した。何度か引き出しを開け閉めした後に「ふうん、魔法って感じでもないな、体感」と言った。どうやらそこまで興味をひかれなかったらしい。
「しかし、いいタンスだ。私でもわかる」
「だろう。きっと職人が相当な思いを込めて作ったに違いない」
「でもさ、三つも使わないだろ、持ち腐れだ」
「いや、実は三棹あることに意味があるんだ」
持ち帰ってからいろいろと試してみて、わかったことがあった。まずこのタンスは必ずどこかの引き出しが開き放しになる。説明するために僕は懐にあった羽ペンを一本、右下の開き放しの引き出しの中に置き、勢いよくしめた。すると真ん中のタンスの左角の引き出しが飛び出してきた。そしてそこには先ほどの羽ペンが入っていた。
「へえ、転移式か」
どうやらこのタンスの内部は亜空間につながっており、三棹がその空間を共有しているらしいのだ。
なぜこのようなことが起きるのか、少し考えてみて僕はこう結論付けた。まずタンスは棹と数えるが、それは昔のタンスは今よりも断然小さく、上部に棒がついていたからである。駕籠のように、衣類などを持ち運びするものだったのだ。さらに本来の棹という道具は水をかき、船を動かすために用いる。タンスが運搬の役割を持つのは、歴史に倣えばごく自然なのだ。しかも、棹という言葉は灯篭などの柱の部分を指す場合にも用いるから、三棹のタンス、つまりは三柱と見立てるわけだが、これはひとつの世界を示している。天照大神、月夜見、須佐之男命などもそうだが、三本の柱はこの世界における支柱として存在しているのだ。外の世界の言い方をするならば三次元と言えばわかりやすいだろうか。ゆえに三棹揃うことによって、亜空間を形成するのである。
僕はそのことを魔理沙に説明した。それを踏まえて魔理沙はこんなふうに言い切った。
「あんまり役には立たなそうだな」
事実その通りである。活用方法も考えないではなかった。例えば新聞を届けてもらうとして、ひとつを印刷所に置いたとする。そうすれば新聞屋は僕の所へ来ずとも渡すことができるし、窓ガラスも割られずに済むだろう。しかしだ、そのためにはこの大きなタンスを山まで運ばないといけないわけで、僕には無理だ。いくら天狗が怪力だとはいえ、文だって嫌がるだろう。そもそもそれだけのために使うには場所を取りすぎてしまう。ではお得意様の紅魔館への宅配便にするならどうだろう。それも労力に見合っていない。ティーカップや皿などの小物なら良いが、紅魔館は巨大なベッドや柱時計なんかも買っていくから、結局は意味がないのだ。
三棹あるというのも厄介で、確実に狙った場所にものを移動できるわけではないから、どうしても手間が増えてしまう。法則性でもあればもう少しうまく使いこなせそうだが、今のところわからない。これではタンスが肥やしになってしまう。せっかく良いタンスなのだから、なんとかその意義をまっとうさせたいと思うのは古道具屋の性である。
とりあえず僕はこのタンスを外に置いておくことにした。何か思いついたら存分に使ってみようではないか。
タンスが郵便受けの前に陣取って一週間が過ぎた。
その間、一度霊夢が来たが「いいタンスね」という感想を得られた以外に進展はなかった。たまに妖精が来て、開け閉めして遊んでいるようだが、僕はというと、その摩訶不思議な現象に対する興味が失せていた。ただ職人への敬意を示して、毎日傷や変形がないかを点検している。おかげで三棹のタンスは初めて見たときと変わらず、強い存在感を放っていた。昨日は雨が降ったので、タンスが風雨にさらされないように無縁塚で拾ってきたビニールシートをかぶせていた。これがなかなかに優れもので、なんと雨傘のごとく水をはじくのである。しかし、この色は落ち着かない。まるで青い壁である。外の世界では普通なのかもしれないが、自然に溶け込んでいないので異物感が三割増しである。せめて緑とかのほうが良いのではないか。今日はからりと晴れたので、そんなことを考えながらビニールシートを外した。
増えていた。四棹だ。しかもはじめて見たときのように、互いに背を向け、円環を成している。僕は首をかしげて「ん」という素っ頓狂な声を出した。
分裂するのか、もしかしたら。すでに妖怪の類になり果ててしまったのか、それとも外の技術はこれほどまでに進歩しているのか、考えてもわからない。僕は半ば無意識に四棹のタンスを行き来し、いたずらに引き出しを開け閉めしていた。
現象は特に変わらない。ひとつ開いて、ひとつ閉まる、それだけだ。ただタンスが増えただけで特に変わりはない。そう思って、前と同じように使い古した愛用の羽ペンを中に入れてみる。閉める。ことりと開く。出てきたペンは妙に小綺麗になっていた。
「え」
これはまずい、とそう思った。理屈より先に、まずい、と思った。この僕がである。普通、そういう危機感のような、そういうものが理屈に先行しない僕が、まずいと感じたのだから、おそらく誰だってそう感じるに決まっている。改めて僕の目でタンスを見た。名称は桐箪笥、用途は箪笥であること。普通だ。なのにこのどうしようもない恐れは消えてくれなかった。
不安の正体を確かめるべく、僕はこの店のことを記した歴史書を入れた。そして裏側のタンスから取り出し、ページを開いてみる。そこには僕の経験していないことが僕の字体で書かれていた。
「今日は羽振りの良い客が多かった。朝には魔理沙がやって来て一冊の本を買っていったし、昼頃には霊夢が茶器を購入していった。最近は経済が流行っているらしく、金を払うのがブームなのだとか。意味がわからない。が、まあおそらく気まぐれなのだろう。経済が流行ってくれるなら商売人にしてみれば僥倖である。外はもちろん雨だが、今日は僕のハレの日かもしれない。午後には宇佐見君がアクセサリーを買いに来たし、夜には茨歌仙がペット用の小皿などを買っていった。この二人に関しては普通に支払いをするから珍しいというわけでもないが」
帳簿はちゃんとつけていないが、僕の記憶にある限り、霊夢と魔理沙が同日に金銭を払ったことはない。そもそもこんなに商品が売れた日は流石に帳簿をつけるから、忘れるはずもない。
……僕の想像では今のタンス亜空間は時空がねじれている。そうだ確かこの世界は四つの像に支えられていて、無限を象徴する輪が覆っているという与太話を聞いたことがある。確かその輪の正体は蛇だ。そしてこの郷における蛇は龍神様である。四棹がその像を表すとして、この互いに背を向けた円環が龍を示すならば、完成した小さな世界はその内部に無限を包括している……このタンスに宿った悠久の時を生きる龍は、僕たちのように時の制約に縛られておらず、いわゆる四次元を支配していると考えれば、過去や未来への跳躍も不可能ではないのだろうか……だめだ、思考がまとまらない。
僕は部屋に戻り、そのまま布団に潜り込んだ。灯りを消して、ただ考えた。タンスとはなんぞや、実はあの四棹こそが真の姿なのだろうか。人は八百万の神々が引き起こした現象に名前をつけることで、それを道具として使役してきた。だとすれば僕の目の前で起きた現象はおそらく自然のあるべき姿で、人間はそのほんのわずかな用途だけを抜き取って、形を作り、それにタンスと名付けたのだ。ということはつまり、あの四棹、いや四柱は本来の形に近いのだろう。道具から変容し、神に還りつつあるのだ。祠を建て、正しく崇め奉れば、きっと益をもたらしてくれる。しかし、その益とは如何なるものか、次元を超える龍の力なのだから、やり方次第ではこの郷を支配することさえ可能かもしれない。たとえば僕の歴史書を入れたら、未来予知ができるかもしれないわけで、うまく利用すれば――いや、難しいか、もっと実益のある、たとえばさっきの羽ペンのように消耗品を新品に戻して、商品に加えるとか、いや確実性がない。壊れてしまうかもしれない。……それにそんな超常の力なら誰かが奪う、もしくは止めるだろう。争いの火種になりかねない。持て余した幸福は、容易く破滅をもたらすものだ。正直、僕はこれを扱う自信がない。道具ではなくなってしまうのだから当然だ。霧雨の剣とは違う。この店は古道具屋だ。生物、ましてや神など、取り扱えるはずもない。しかし、これほどの逸品を手放すのはいささか、口惜しい――
一晩経っても考えは整理できず、歴史書を入れては出す行為を何度も繰り返した。そのたびにページには知らない情報が消えては書き足されていった。紙とインクに戻ったこともあった。わかったことと言えば、未来は幾重にも分岐していて、不確定であるということ。ゆえにこれは確実な予言書には成り得ないということである。いくつか抜粋しよう。
1
『どうやらこのタンスが紅魔館の主の目に留まったらしい。咲夜がやってきて取引を持ち掛けてきた。「なるほど、素晴らしいタンスですわ」と言いながら何度も引き出しを開け閉めし、質を吟味しているようだった。このタンスが時空を司る道具だとはまだ知られていないはずだが、時間を操る彼女ならば、そして運命を操るレミリアならばこのタンスを制御できるかもしれない。僕は簡潔に説明し売り払うことにした。価格はだいぶ抑えたが、代わりに何か変わったことがあれば教えてもらうよう頼んだ。
――魔理沙たちから連絡があった。紅魔館が亜空に飲み込まれたらしい。なんでも実験的にこのタンスを館の東西南北に配置し、四棹同時に引き出しを開けた瞬間、館が消滅したそうだ。時空間の位相が重なったことによる対消滅ではないかとパチュリーが考察していた。発生したエネルギーは爆発し、辺り一帯を消し飛ばした。パチュリーの防護魔法によって住民は無事だったそうだが、かつて紅魔館のあった場所は時空間が不安定になっており、咲夜の力によってなんとか彼女らは現世に留まっているものの、身動きがとれないらしい。また一般人が不用意に近づけば別の次元に飛ばされてしまうそうだ。今、英雄たちが対策を練っている。……僕は判断を誤ってしまった』
2
『河童たちがタンスの原理を解明した。移動現象に再現性があるということも確認された。今ではタンスワープ航法が発明され、幻想郷のいたるところに瞬時に移動できるようになった。僕ももちろん利用している。商品の仕入れや配送が苦でなくなったことは実に喜ばしい。この技術革新は間違いなく僕たちの生活を豊かにした。が、一方で猜疑を抱いてもいた。どうにも、なんと言えばいいのか、これは感覚的な部分なのだが、直感のようなものが鈍くなっている気がする。それがどうというわけでもないのだけれども、商人としての勘が働かないのだ。
――ワープの弊害が証明された。どうやらなんとなく感じていた感覚が鈍るというのは間違いではなかったらしい。ワープの際に亜空間を通るのだが、そこは時空が歪んでいるため操作を誤ると別の次元に飛ばされてしまうリスクがある。それを防ぐために河童たちは時空間座標の指定を賢者の知恵を借りて緻密に計算し、セーフティを取り付けていたそうだ。だから行方不明になったという記録はない。そのあたりの事故が起きていないのは河童たちの努力の賜物だろう。ただし、このセーフティは肉体の体内時計を強制的に修正する。亜空間を潜り抜ける際にたとえそれが須臾の間であろうとも人が持つ正常な時間の感覚は狂ってしまうからだ。だが数回ならともかく、何度も外部からの修正を受けていると肉体の恒常性は結局劣化していく。すなわち感覚が鈍くなるというわけである。僕も時計を見ない限り、今が夜なのか昼なのかわからなくなっていた。
――ある日、八意女史が見解を出した。曰くこれも進化の形だから心配することはないそうだ。蓬莱人の時間感覚に近づいているのだとも。
安堵はしたがかといってこの状態にまったく忌避感を覚えないかと言われたら嘘になる。食事はいつ摂ったのか、最後に寝たのはいつだったのか、わからない。時計を見ればわかるはずだが、万が一このオフィスの時計が狂っていたら、誰かが操作していたら、僕は決して気づけないだろう。
オフィスの外は青い。ビル群の光が月明かりの下で青く輝いている。だから普通に考えて今は夜のはずだった。なのにまったく眠くならないし、今が夜なのかどうかさえ疑わしい』
3
『予言が当たってしまった。このタンスのおかげである。吹聴する気はなかったのだが、占いブームに乗って気まぐれにこれから起こる異変を言い当てたら、いつの間にか噂が広まってしまったのだから仕方がない。タロットや手相なんかも少しかじって披露したところ、ずいぶんと人気が出てしまった。今では占いの収益のほうが多いくらいだ。もちろん素人の占いの精度なんてたかが知れている。当たらぬも八卦というし、いずれブームは去るだろう。それまで少しくらい稼いでもばちは当たらないはずだ。
――僕は神になっていた。予言者としての地位を築いた僕は、いつの間にか神格を得ていた。信者たちは救済を求めて数を増やしている。どうしてこうなったのだろうか。霊夢に「いつか痛い目を見るわ」と釘を刺された。肝に銘じようと思う。
――僕のタンス予言の的中率は百パーセントになっていた。理由は単純で、信者たちが予言の内容を実行するからである。雷が落ちると言えば、竜宮の使いを探し出しては交渉、あるいは脅しをかけ、日照りで小さな村が滅びると言えば地底の奥底から地獄鴉を引き連れてきてしまう。過去の予言やちょっとした占いですら、曲解や歴史修正によって当たっていたことにされてしまった。裏では稗田家や慧音が脅されたという。もはや僕にはどうすることもできない。誰に謝れば許してもらえるのだろうか。予言書には書かれていない。
――宗教戦争が起きていた。僕は殺されるだろう。まったく知らない恨みを買いすぎている。購うにはこの命を差し出す以外にない。けれども予言を見る限り、どうやら僕は復活してしまう。信者たちが何らかの手段で反魂の儀を執り行うのだろう。どう転んでも針のむしろのようなこの状況から逃げ出すことはできない。誰か、どうか、僕を救ってはくれないだろうか』
4
『いつからだろう、数を数えるのも億劫になってしまった。今や香霖堂の周りはタンスで埋め尽くされている。はじめは四棹だったのが五、六、七と増えていき、いつの間にかねずみ算式に増えはじめた。どこかで式が変わったのだ。異常性に気づいたころには手遅れだった。幾度となく廃棄を試みても、増える速度に追いつく前に僕の体力の限界がきた。疲れて店で眠ってしまい、起きたときには外はタンスの海と化していた。玄関も塞がれてしまい、状況を知ることも叶わない。魔理沙たちも最近来ていないが、このタンスの海に飲まれてしまったのかもしれない。みしみしと建物が悲鳴をあげている。もしかするとすでに幻想郷全土が……だとすればどうしようもない。いずれこの世界は、地獄や浄土も含めてタンスに埋め尽くされてしまうだろう。僕にできることと言えば自戒の文章を書き連ね、そして祈ることくらいだ』
もちろん、これらは不確定の未来である。必ずしも大事に至るとは限らない。この四つは極端な例で、基本的には平和的な未来のほうが多い。
だが僕は道具屋としての使命をまっとうすることに決めた。このタンスは世の理を乱すものだ。道具に罪はない。無論、製作者も。だから見つけた僕が責を背負うべきなのだ。管理者や悪党の手に渡る前に、そして僕が使い方を誤る前に、敬意をもって処分しようではないか。もちろん迷いはある。もしもこのタンスが神であるならば、僕の行いは神殺しという非常に不敬なものだ。けれども僕の目で見る限り、まだこのタンスの名称は桐箪笥だ。だから最後まで道具として扱おうと思う。
タンスたちを少しだけ移動させた。本当は無縁塚まで運ぼうと思ったのだが、重すぎたので裏の畑で妥協した。そして大槌と火打石、水を張った桶を三つと、そして霧雨の剣を用意した。準備しただけで昼になってしまったが、まあ仕方がない。
額の汗をぬぐって一息ついていると、魔理沙がやってきた。
「おーい、なんだ珍しく畑仕事か、雨でも降るんじゃないか」
結構なことだ。雨が降ってくれるなら火を消す手間が省ける。僕は魔理沙に経緯を端折って説明した。
「これからこのタンスを壊して、それから燃やすんだ。桐は燃えにくいからね。僕なりの供養というわけだよ、畑の栄養にもなるし」
「そういうことか、なんかもったいないな」
「僕の手に余る代物だったということさ。しかし、慣れないことはするもんじゃないね、もうへとへとだ」
僕がそう言うと、魔理沙は少しだけ考えるように口元に手を当ててから、ミニ八卦炉を構えた。
「じゃあさ、せっかくだし手間省いてやるよ。そんかわりツケを減らすってことで」
「あ」
僕が言葉を発する前に、彼女は特大の火砲を放った。確かに八卦炉の火力なら壊さずとも燃やせるだろう。ちゃんと店と反対側に向けて放ったから引火することもない。最初から頼めばよかったか。
白い煙を空に向かって吐きながら、火は轟々と燃えている。
「これじゃお焚き上げというよりキャンプファイヤーだな、マイムマイムって歌うんだぜ、知ってるか」
「ああ、外界での儀式だろう」
外の世界の雑誌で見た。巨大な焚火の前で大勢が踊るのだ。炎の前で舞うのは日本に限らず、どこの国にもある儀式なのだろう。そういえばこれほどの迫力のある炎を見るのは久しぶりだ。僕が起こす火など、ストーブと小さい焚火くらいのものだ。巨大な炎はまさに圧巻の一言で、美しいと思うと同時に、修業時代に見た里での火事を重ねてしまい、何とも言えない複雑な気持ちになった。あの火事はひどかった。どこまでも続く赤、肌を焦がす熱、そして何よりにおいがひどかった。人の焼けたにおいを、僕の鼻は妖怪でありながら拒んでいた。火消したちが何人集まっても決して敵わないと。
そんな昔の思い出が頭をよぎると、それと同時に、すべてを燃やし尽くしてしまうのではないかというそんな妄想じみた幼い恐れが湧いてきた。僕はある懸念を抱いた。このタンスはまだタンスの形を成している以上、その性質を失っていない。つまり僕の予想が正しいとして、四次元的に、それこそ無尽蔵な時間に、八卦の炎を灯したとすれば――
僕はすぐさま桶の水をかけた。
「き、消えない!」
まずい、この程度の水で消えるはずがない。当たり前じゃないか! 水が、もっと膨大な水がないと。雨、雨がいる! 僕は剣を手に取った。これしかない――
「ぐっ」
お、重い! 持つだけで精いっぱいだ。武器なんて持ったことない。ああ、それじゃだめだ。剣が僕を選んだのならば、できない道理はないはずだ。声を出せ、絞り出せば応えてくれるはずだ。
「うおおおお!」
僕は剣を振り回した。あらん限りの力で。雨よ、頼むからあのときのように降ってくれ。この剣が僕の手に入った日のように燦々と。祈りを込めて雄々しく、さながら日本武尊が憑依したような感覚で振るった。すぐに腕がみしみしという悲鳴を上げ、重さに引っ張られて足がよたよたとあちこちにもつれる。踏ん張りがきかないが、こけないように必死で地を捉えた。ほんの一瞬で肺がからになったような疲弊に陥ったが、声を出してもう一度剣で宙を切った。
それでも空はからりと晴れている。僕は今日、だめになるかもしれない。息切れの最中、助けを求める気持ちで魔理沙のほうを見やった。
「へんな踊りだな! これがほんとのきりきり舞いってか、あはは!」
彼女は大口を開けて笑っていた。
一旦帰って、明日また来ることにしよう。いくら僕の眼鏡にかなう良質な代物とはいえ、この大きさだ。墓荒らしがいたとしてもすぐには盗まれないだろう。
そう思って日を跨いだのが甘かった。次の日、その桐のタンスは倍に増えていたのだ。
いったいこれはどうしたのだろう。夫婦茶碗というのはあるが、タンスにも適応されるなどという伝承は聞いたこともない。文字通り持て余すだろう。何か特別な力があるのかもしれないと思い、僕の目でもう一度よく見てみたが、やはりいいタンスだと思うばかりであった。
持ち帰るのが急に面倒に思えてきたので、今日のところは諦めて他の商品になりそうなものを拾うことにした。もしかすると、このタンス自体が夫婦だとか兄弟のようなもので、そういった職人の意向があるのかもしれない。
それから一週間ほど経った。雨が一度だけ降ったので、タンスがだめになっていないかを確認しようと思い、ふらりと立ち寄ったのだが、驚くべきことにまたしてもタンスが増えていた。これで三棹である。互いに背を向けていて、摩訶不思議な三角形をつくりだしていた。
「これは外の世界で失われつつある技術が詰まった特別な逸品なのかもしれない」
僕は早速タンスを調べてみた。どれもまったく同じ形をしていて、不審な点は見当たらないように思えたが、三棹あるうちのひとつ、その四段目の引き出しだけが開いていた。のぞき込んでみても何もない。そういえば良いタンスはその気密性ゆえに引き出しを閉めると別の引き出しが飛び出てくるという。とりあえず開いていた四段目を押し込んでみた。
「おや、僕の目が曇っていたか」
するりと引っかかることなく戻ったが、他の引き出しが動く様子はない。となるとこれは良いタンスではないことになる。そう思ってがっかりしながら右隣のタンスをちらと見てみると、一番下の引き出しが開いていた。
「もしや」
僕は飛び出ている引き出しを押し込んだ。すると今度はまた別のタンスの三段目が開いた。それを閉めると今度は別のところが開いた。僕は三棹のタンスを順繰りとまわり、何度も試した。そのたびに同じことが起きた。法則性はわからないが僕は確信した。このタンスは三位一体であり、特別な用途を付与されているのだ。
ならば第一発見者である僕が保護するべきだ。
すぐに香霖堂に戻ってリヤカーを持ってきた。リヤカーの端をタンスの側面に寄せ、なんとか倒しながら乗せた。もう一棹くらい積めないかと試しにリヤカーを引っ張ってみたが、かなりの重労働であった。腕の筋肉が常に引き締まり、足もひとたび止まればそのまま地面に根を張ってしまいそうだ。しかし非力さを嘆いても仕方がない。落ちないように縄で南京結びをして固定し、香霖堂まで運んだ。
数時間かけて往復を三度繰り返した。歩幅は徐々に狭くなりペースも明らかに落ちていた。足取りが重くなっていったのは単に筋疲労だけではないだろう。運搬中、筋肉痛に苛まれる予感がなんどもよぎったが、それでもこれは今日中にやらなければいけない仕事のような気がしていた。
すべてを運び終えたころにはとっぷりと日が暮れてしまった。改めて横に三棹並べてみると圧巻である。右端の一番右下の引き出しが開いていて、そこだけが間抜けに思えた。いくつか試してみたいこともあったが、さすがに体力が尽きてしまった。今日はぐっすりと眠れるだろう。タンスは店の中には入りそうにないので、郵便受けの隣に放置し、僕は寝室へ向かった。
後日、冷やかしに来た魔理沙にいきさつを話した。何度か引き出しを開け閉めした後に「ふうん、魔法って感じでもないな、体感」と言った。どうやらそこまで興味をひかれなかったらしい。
「しかし、いいタンスだ。私でもわかる」
「だろう。きっと職人が相当な思いを込めて作ったに違いない」
「でもさ、三つも使わないだろ、持ち腐れだ」
「いや、実は三棹あることに意味があるんだ」
持ち帰ってからいろいろと試してみて、わかったことがあった。まずこのタンスは必ずどこかの引き出しが開き放しになる。説明するために僕は懐にあった羽ペンを一本、右下の開き放しの引き出しの中に置き、勢いよくしめた。すると真ん中のタンスの左角の引き出しが飛び出してきた。そしてそこには先ほどの羽ペンが入っていた。
「へえ、転移式か」
どうやらこのタンスの内部は亜空間につながっており、三棹がその空間を共有しているらしいのだ。
なぜこのようなことが起きるのか、少し考えてみて僕はこう結論付けた。まずタンスは棹と数えるが、それは昔のタンスは今よりも断然小さく、上部に棒がついていたからである。駕籠のように、衣類などを持ち運びするものだったのだ。さらに本来の棹という道具は水をかき、船を動かすために用いる。タンスが運搬の役割を持つのは、歴史に倣えばごく自然なのだ。しかも、棹という言葉は灯篭などの柱の部分を指す場合にも用いるから、三棹のタンス、つまりは三柱と見立てるわけだが、これはひとつの世界を示している。天照大神、月夜見、須佐之男命などもそうだが、三本の柱はこの世界における支柱として存在しているのだ。外の世界の言い方をするならば三次元と言えばわかりやすいだろうか。ゆえに三棹揃うことによって、亜空間を形成するのである。
僕はそのことを魔理沙に説明した。それを踏まえて魔理沙はこんなふうに言い切った。
「あんまり役には立たなそうだな」
事実その通りである。活用方法も考えないではなかった。例えば新聞を届けてもらうとして、ひとつを印刷所に置いたとする。そうすれば新聞屋は僕の所へ来ずとも渡すことができるし、窓ガラスも割られずに済むだろう。しかしだ、そのためにはこの大きなタンスを山まで運ばないといけないわけで、僕には無理だ。いくら天狗が怪力だとはいえ、文だって嫌がるだろう。そもそもそれだけのために使うには場所を取りすぎてしまう。ではお得意様の紅魔館への宅配便にするならどうだろう。それも労力に見合っていない。ティーカップや皿などの小物なら良いが、紅魔館は巨大なベッドや柱時計なんかも買っていくから、結局は意味がないのだ。
三棹あるというのも厄介で、確実に狙った場所にものを移動できるわけではないから、どうしても手間が増えてしまう。法則性でもあればもう少しうまく使いこなせそうだが、今のところわからない。これではタンスが肥やしになってしまう。せっかく良いタンスなのだから、なんとかその意義をまっとうさせたいと思うのは古道具屋の性である。
とりあえず僕はこのタンスを外に置いておくことにした。何か思いついたら存分に使ってみようではないか。
タンスが郵便受けの前に陣取って一週間が過ぎた。
その間、一度霊夢が来たが「いいタンスね」という感想を得られた以外に進展はなかった。たまに妖精が来て、開け閉めして遊んでいるようだが、僕はというと、その摩訶不思議な現象に対する興味が失せていた。ただ職人への敬意を示して、毎日傷や変形がないかを点検している。おかげで三棹のタンスは初めて見たときと変わらず、強い存在感を放っていた。昨日は雨が降ったので、タンスが風雨にさらされないように無縁塚で拾ってきたビニールシートをかぶせていた。これがなかなかに優れもので、なんと雨傘のごとく水をはじくのである。しかし、この色は落ち着かない。まるで青い壁である。外の世界では普通なのかもしれないが、自然に溶け込んでいないので異物感が三割増しである。せめて緑とかのほうが良いのではないか。今日はからりと晴れたので、そんなことを考えながらビニールシートを外した。
増えていた。四棹だ。しかもはじめて見たときのように、互いに背を向け、円環を成している。僕は首をかしげて「ん」という素っ頓狂な声を出した。
分裂するのか、もしかしたら。すでに妖怪の類になり果ててしまったのか、それとも外の技術はこれほどまでに進歩しているのか、考えてもわからない。僕は半ば無意識に四棹のタンスを行き来し、いたずらに引き出しを開け閉めしていた。
現象は特に変わらない。ひとつ開いて、ひとつ閉まる、それだけだ。ただタンスが増えただけで特に変わりはない。そう思って、前と同じように使い古した愛用の羽ペンを中に入れてみる。閉める。ことりと開く。出てきたペンは妙に小綺麗になっていた。
「え」
これはまずい、とそう思った。理屈より先に、まずい、と思った。この僕がである。普通、そういう危機感のような、そういうものが理屈に先行しない僕が、まずいと感じたのだから、おそらく誰だってそう感じるに決まっている。改めて僕の目でタンスを見た。名称は桐箪笥、用途は箪笥であること。普通だ。なのにこのどうしようもない恐れは消えてくれなかった。
不安の正体を確かめるべく、僕はこの店のことを記した歴史書を入れた。そして裏側のタンスから取り出し、ページを開いてみる。そこには僕の経験していないことが僕の字体で書かれていた。
「今日は羽振りの良い客が多かった。朝には魔理沙がやって来て一冊の本を買っていったし、昼頃には霊夢が茶器を購入していった。最近は経済が流行っているらしく、金を払うのがブームなのだとか。意味がわからない。が、まあおそらく気まぐれなのだろう。経済が流行ってくれるなら商売人にしてみれば僥倖である。外はもちろん雨だが、今日は僕のハレの日かもしれない。午後には宇佐見君がアクセサリーを買いに来たし、夜には茨歌仙がペット用の小皿などを買っていった。この二人に関しては普通に支払いをするから珍しいというわけでもないが」
帳簿はちゃんとつけていないが、僕の記憶にある限り、霊夢と魔理沙が同日に金銭を払ったことはない。そもそもこんなに商品が売れた日は流石に帳簿をつけるから、忘れるはずもない。
……僕の想像では今のタンス亜空間は時空がねじれている。そうだ確かこの世界は四つの像に支えられていて、無限を象徴する輪が覆っているという与太話を聞いたことがある。確かその輪の正体は蛇だ。そしてこの郷における蛇は龍神様である。四棹がその像を表すとして、この互いに背を向けた円環が龍を示すならば、完成した小さな世界はその内部に無限を包括している……このタンスに宿った悠久の時を生きる龍は、僕たちのように時の制約に縛られておらず、いわゆる四次元を支配していると考えれば、過去や未来への跳躍も不可能ではないのだろうか……だめだ、思考がまとまらない。
僕は部屋に戻り、そのまま布団に潜り込んだ。灯りを消して、ただ考えた。タンスとはなんぞや、実はあの四棹こそが真の姿なのだろうか。人は八百万の神々が引き起こした現象に名前をつけることで、それを道具として使役してきた。だとすれば僕の目の前で起きた現象はおそらく自然のあるべき姿で、人間はそのほんのわずかな用途だけを抜き取って、形を作り、それにタンスと名付けたのだ。ということはつまり、あの四棹、いや四柱は本来の形に近いのだろう。道具から変容し、神に還りつつあるのだ。祠を建て、正しく崇め奉れば、きっと益をもたらしてくれる。しかし、その益とは如何なるものか、次元を超える龍の力なのだから、やり方次第ではこの郷を支配することさえ可能かもしれない。たとえば僕の歴史書を入れたら、未来予知ができるかもしれないわけで、うまく利用すれば――いや、難しいか、もっと実益のある、たとえばさっきの羽ペンのように消耗品を新品に戻して、商品に加えるとか、いや確実性がない。壊れてしまうかもしれない。……それにそんな超常の力なら誰かが奪う、もしくは止めるだろう。争いの火種になりかねない。持て余した幸福は、容易く破滅をもたらすものだ。正直、僕はこれを扱う自信がない。道具ではなくなってしまうのだから当然だ。霧雨の剣とは違う。この店は古道具屋だ。生物、ましてや神など、取り扱えるはずもない。しかし、これほどの逸品を手放すのはいささか、口惜しい――
一晩経っても考えは整理できず、歴史書を入れては出す行為を何度も繰り返した。そのたびにページには知らない情報が消えては書き足されていった。紙とインクに戻ったこともあった。わかったことと言えば、未来は幾重にも分岐していて、不確定であるということ。ゆえにこれは確実な予言書には成り得ないということである。いくつか抜粋しよう。
1
『どうやらこのタンスが紅魔館の主の目に留まったらしい。咲夜がやってきて取引を持ち掛けてきた。「なるほど、素晴らしいタンスですわ」と言いながら何度も引き出しを開け閉めし、質を吟味しているようだった。このタンスが時空を司る道具だとはまだ知られていないはずだが、時間を操る彼女ならば、そして運命を操るレミリアならばこのタンスを制御できるかもしれない。僕は簡潔に説明し売り払うことにした。価格はだいぶ抑えたが、代わりに何か変わったことがあれば教えてもらうよう頼んだ。
――魔理沙たちから連絡があった。紅魔館が亜空に飲み込まれたらしい。なんでも実験的にこのタンスを館の東西南北に配置し、四棹同時に引き出しを開けた瞬間、館が消滅したそうだ。時空間の位相が重なったことによる対消滅ではないかとパチュリーが考察していた。発生したエネルギーは爆発し、辺り一帯を消し飛ばした。パチュリーの防護魔法によって住民は無事だったそうだが、かつて紅魔館のあった場所は時空間が不安定になっており、咲夜の力によってなんとか彼女らは現世に留まっているものの、身動きがとれないらしい。また一般人が不用意に近づけば別の次元に飛ばされてしまうそうだ。今、英雄たちが対策を練っている。……僕は判断を誤ってしまった』
2
『河童たちがタンスの原理を解明した。移動現象に再現性があるということも確認された。今ではタンスワープ航法が発明され、幻想郷のいたるところに瞬時に移動できるようになった。僕ももちろん利用している。商品の仕入れや配送が苦でなくなったことは実に喜ばしい。この技術革新は間違いなく僕たちの生活を豊かにした。が、一方で猜疑を抱いてもいた。どうにも、なんと言えばいいのか、これは感覚的な部分なのだが、直感のようなものが鈍くなっている気がする。それがどうというわけでもないのだけれども、商人としての勘が働かないのだ。
――ワープの弊害が証明された。どうやらなんとなく感じていた感覚が鈍るというのは間違いではなかったらしい。ワープの際に亜空間を通るのだが、そこは時空が歪んでいるため操作を誤ると別の次元に飛ばされてしまうリスクがある。それを防ぐために河童たちは時空間座標の指定を賢者の知恵を借りて緻密に計算し、セーフティを取り付けていたそうだ。だから行方不明になったという記録はない。そのあたりの事故が起きていないのは河童たちの努力の賜物だろう。ただし、このセーフティは肉体の体内時計を強制的に修正する。亜空間を潜り抜ける際にたとえそれが須臾の間であろうとも人が持つ正常な時間の感覚は狂ってしまうからだ。だが数回ならともかく、何度も外部からの修正を受けていると肉体の恒常性は結局劣化していく。すなわち感覚が鈍くなるというわけである。僕も時計を見ない限り、今が夜なのか昼なのかわからなくなっていた。
――ある日、八意女史が見解を出した。曰くこれも進化の形だから心配することはないそうだ。蓬莱人の時間感覚に近づいているのだとも。
安堵はしたがかといってこの状態にまったく忌避感を覚えないかと言われたら嘘になる。食事はいつ摂ったのか、最後に寝たのはいつだったのか、わからない。時計を見ればわかるはずだが、万が一このオフィスの時計が狂っていたら、誰かが操作していたら、僕は決して気づけないだろう。
オフィスの外は青い。ビル群の光が月明かりの下で青く輝いている。だから普通に考えて今は夜のはずだった。なのにまったく眠くならないし、今が夜なのかどうかさえ疑わしい』
3
『予言が当たってしまった。このタンスのおかげである。吹聴する気はなかったのだが、占いブームに乗って気まぐれにこれから起こる異変を言い当てたら、いつの間にか噂が広まってしまったのだから仕方がない。タロットや手相なんかも少しかじって披露したところ、ずいぶんと人気が出てしまった。今では占いの収益のほうが多いくらいだ。もちろん素人の占いの精度なんてたかが知れている。当たらぬも八卦というし、いずれブームは去るだろう。それまで少しくらい稼いでもばちは当たらないはずだ。
――僕は神になっていた。予言者としての地位を築いた僕は、いつの間にか神格を得ていた。信者たちは救済を求めて数を増やしている。どうしてこうなったのだろうか。霊夢に「いつか痛い目を見るわ」と釘を刺された。肝に銘じようと思う。
――僕のタンス予言の的中率は百パーセントになっていた。理由は単純で、信者たちが予言の内容を実行するからである。雷が落ちると言えば、竜宮の使いを探し出しては交渉、あるいは脅しをかけ、日照りで小さな村が滅びると言えば地底の奥底から地獄鴉を引き連れてきてしまう。過去の予言やちょっとした占いですら、曲解や歴史修正によって当たっていたことにされてしまった。裏では稗田家や慧音が脅されたという。もはや僕にはどうすることもできない。誰に謝れば許してもらえるのだろうか。予言書には書かれていない。
――宗教戦争が起きていた。僕は殺されるだろう。まったく知らない恨みを買いすぎている。購うにはこの命を差し出す以外にない。けれども予言を見る限り、どうやら僕は復活してしまう。信者たちが何らかの手段で反魂の儀を執り行うのだろう。どう転んでも針のむしろのようなこの状況から逃げ出すことはできない。誰か、どうか、僕を救ってはくれないだろうか』
4
『いつからだろう、数を数えるのも億劫になってしまった。今や香霖堂の周りはタンスで埋め尽くされている。はじめは四棹だったのが五、六、七と増えていき、いつの間にかねずみ算式に増えはじめた。どこかで式が変わったのだ。異常性に気づいたころには手遅れだった。幾度となく廃棄を試みても、増える速度に追いつく前に僕の体力の限界がきた。疲れて店で眠ってしまい、起きたときには外はタンスの海と化していた。玄関も塞がれてしまい、状況を知ることも叶わない。魔理沙たちも最近来ていないが、このタンスの海に飲まれてしまったのかもしれない。みしみしと建物が悲鳴をあげている。もしかするとすでに幻想郷全土が……だとすればどうしようもない。いずれこの世界は、地獄や浄土も含めてタンスに埋め尽くされてしまうだろう。僕にできることと言えば自戒の文章を書き連ね、そして祈ることくらいだ』
もちろん、これらは不確定の未来である。必ずしも大事に至るとは限らない。この四つは極端な例で、基本的には平和的な未来のほうが多い。
だが僕は道具屋としての使命をまっとうすることに決めた。このタンスは世の理を乱すものだ。道具に罪はない。無論、製作者も。だから見つけた僕が責を背負うべきなのだ。管理者や悪党の手に渡る前に、そして僕が使い方を誤る前に、敬意をもって処分しようではないか。もちろん迷いはある。もしもこのタンスが神であるならば、僕の行いは神殺しという非常に不敬なものだ。けれども僕の目で見る限り、まだこのタンスの名称は桐箪笥だ。だから最後まで道具として扱おうと思う。
タンスたちを少しだけ移動させた。本当は無縁塚まで運ぼうと思ったのだが、重すぎたので裏の畑で妥協した。そして大槌と火打石、水を張った桶を三つと、そして霧雨の剣を用意した。準備しただけで昼になってしまったが、まあ仕方がない。
額の汗をぬぐって一息ついていると、魔理沙がやってきた。
「おーい、なんだ珍しく畑仕事か、雨でも降るんじゃないか」
結構なことだ。雨が降ってくれるなら火を消す手間が省ける。僕は魔理沙に経緯を端折って説明した。
「これからこのタンスを壊して、それから燃やすんだ。桐は燃えにくいからね。僕なりの供養というわけだよ、畑の栄養にもなるし」
「そういうことか、なんかもったいないな」
「僕の手に余る代物だったということさ。しかし、慣れないことはするもんじゃないね、もうへとへとだ」
僕がそう言うと、魔理沙は少しだけ考えるように口元に手を当ててから、ミニ八卦炉を構えた。
「じゃあさ、せっかくだし手間省いてやるよ。そんかわりツケを減らすってことで」
「あ」
僕が言葉を発する前に、彼女は特大の火砲を放った。確かに八卦炉の火力なら壊さずとも燃やせるだろう。ちゃんと店と反対側に向けて放ったから引火することもない。最初から頼めばよかったか。
白い煙を空に向かって吐きながら、火は轟々と燃えている。
「これじゃお焚き上げというよりキャンプファイヤーだな、マイムマイムって歌うんだぜ、知ってるか」
「ああ、外界での儀式だろう」
外の世界の雑誌で見た。巨大な焚火の前で大勢が踊るのだ。炎の前で舞うのは日本に限らず、どこの国にもある儀式なのだろう。そういえばこれほどの迫力のある炎を見るのは久しぶりだ。僕が起こす火など、ストーブと小さい焚火くらいのものだ。巨大な炎はまさに圧巻の一言で、美しいと思うと同時に、修業時代に見た里での火事を重ねてしまい、何とも言えない複雑な気持ちになった。あの火事はひどかった。どこまでも続く赤、肌を焦がす熱、そして何よりにおいがひどかった。人の焼けたにおいを、僕の鼻は妖怪でありながら拒んでいた。火消したちが何人集まっても決して敵わないと。
そんな昔の思い出が頭をよぎると、それと同時に、すべてを燃やし尽くしてしまうのではないかというそんな妄想じみた幼い恐れが湧いてきた。僕はある懸念を抱いた。このタンスはまだタンスの形を成している以上、その性質を失っていない。つまり僕の予想が正しいとして、四次元的に、それこそ無尽蔵な時間に、八卦の炎を灯したとすれば――
僕はすぐさま桶の水をかけた。
「き、消えない!」
まずい、この程度の水で消えるはずがない。当たり前じゃないか! 水が、もっと膨大な水がないと。雨、雨がいる! 僕は剣を手に取った。これしかない――
「ぐっ」
お、重い! 持つだけで精いっぱいだ。武器なんて持ったことない。ああ、それじゃだめだ。剣が僕を選んだのならば、できない道理はないはずだ。声を出せ、絞り出せば応えてくれるはずだ。
「うおおおお!」
僕は剣を振り回した。あらん限りの力で。雨よ、頼むからあのときのように降ってくれ。この剣が僕の手に入った日のように燦々と。祈りを込めて雄々しく、さながら日本武尊が憑依したような感覚で振るった。すぐに腕がみしみしという悲鳴を上げ、重さに引っ張られて足がよたよたとあちこちにもつれる。踏ん張りがきかないが、こけないように必死で地を捉えた。ほんの一瞬で肺がからになったような疲弊に陥ったが、声を出してもう一度剣で宙を切った。
それでも空はからりと晴れている。僕は今日、だめになるかもしれない。息切れの最中、助けを求める気持ちで魔理沙のほうを見やった。
「へんな踊りだな! これがほんとのきりきり舞いってか、あはは!」
彼女は大口を開けて笑っていた。
「くっだらねぇなんだよそれバカバカしい!」 を褒め言葉として使っても良いですか?
可哀想な紅魔館一党
しかし何という力業解決
霖之助がタンスとその製作者に対してきちんと敬意を払った上で
最後はきちんと自分で壊して供養するのがよかったです。
当たり前のように消失する紅魔館が不憫でした
なんだこのタンスは
ただの与太から興味深い話への移り変わりがお見事でした
最後がなげっぱなのも味わい深くて好き
一つくらい春樹成分が潜んでいるだろうかと思って読んでいて見つけられませんでしたが、そういえば一人称が僕だった