何千年と地球を顧みずに開拓を進めた人類は結果として地球から壮大なしっぺ返しを食らったのが約数百年前。これは教科書の知識だ。
数百年前までは人口が増えすぎたことによる地球環境の汚染から得た有用な気付きも喉元を過ぎれば云々、滔々と流れる時間に揺蕩いながら随分と遥か向こう側に消えていった。理由の一つとしては、価値観の変化と地球の人口が物理的に減ったことにより解決してしまったからだ。そのことを始めて授業で聞いたとき、私は思わず「なんじゃそりゃ」と心中で呟いた。
私が勝手に命名している「地球からのしっぺ返し」こと異常気象及び地殻変動について祖父母は「本当に世界が終わるのかと思った」と言っていたのを幼いながら覚えている。そんな当時の過酷な状況を紡ぐ語り部も今となっては0と1が支配するデータへと転身を進めている。
私の祖母の時代に考案された理論的な地球規模での人口調整は上手くいっているようで、私が産まれる頃には既に一般常識と化していた。それでも思春期を迎えた私は「私の誕生日は製造番号ではない」とよく母親にぷつぷつと文句を言っていたこと思い出した。
あの頃は青かった。物理的に、主に思考が。
そんなことを思いながら、波風の代わりに星々が騒がしい黒い海に浮かぶ故郷の惑星を月面都市から眺める。
私は大学の夏休みを利用して、地球と月面を繋ぐ寝台ロケット「あけぼの」に乗り込み、初めの無重力に翻弄されながら目的地である月面都市の日本地区へ向かった。窓から眺める砂糖菓子を散りばめたような星の海をかき分けながらぐんぐんと月に向かって行く光景に、私は思わず胸が高鳴った。
そうして二日間の渡航を終えて月面都市に到着した瞬間に感じたのは人工重力の無粋さで、慣れ親しんだ世界の重さを再度堪能することとなった。
月にも人が住み始めて約三百年。初めは研究者、もしくは莫大な大金持ちの移民場所であったが、流通システムとスペースデブリの迎撃の安定がきっかけとなり、今では観光地として名高く、人口約一億人が住む賑やかな惑星となっている。
私が月面都市に訪れた理由は二つある。一つは単純に来たかったから、もう一つは「マエリベリー・ハーン」という文通相手に会うためだ。
文通相手に会うということは、この世界で定められた禁忌の一つである。
それは互いに理解しながらも、私たちは何十年も文字で紡がれて来た関係を少しだけ変えたかったのだ。
○
四月二十日
拝啓。
この「拝啓」という言葉の意味すら分からない頃から「拝啓」を書き続けてもう数十年になりますね。そりゃあ小学生から大学生にもなるわけだ。
手紙の返信が遅れてごめんなさい。前の手紙に書いてあった通り、私は未だに自動車が使われている片田舎の東京を脱出して、見事京都に引っ越して大学生になりました。メリーはちゃんと手紙が届くか心配していたけれど、京都にばっちり届いています。ぱーぺきです。(ぱーぺきというのは私のお母さんの口癖であるパーフェクトと完璧を混ぜた言葉です)
それはそうと、メリーは以前から小学生の頃に書いた手紙の内容に触れようとしていますが、かなり稚拙だった故、あまり思い出したくないことが多すぎので話題に出すのはやめましょう。
それはともかく私も遂に大学生です。メリーも大学生になるって書いていたけれど、私のように無事になれましたか? 万が一何かしらの手違いで大学生になれていなければ、慰めてあげるから京都に来てください。偉大なる大学生の私が慰めてあげます。
京都はとても良い所です。滔々と流れる鴨川を眺めながら土手を散歩するだけで心に心地良い風が吹き込み、下鴨神社の糺の森の空気はどこか澄んでいてベンチに腰かけているだけで和やかな気分になる。青々とした山々の尾根は眺めていて気持ちが良いし、少し歩けば四条木屋町界隈という歴史ある飲み屋街にも足を運べるの。しかも四条木屋町界隈には京都でしか飲めない幻のお酒があるそうなので一度探ってみようかと思ってる。もし見つけたら写真も一緒に同封するから楽しみにしていてね。
私の通い始めた京都の大学は立派な時計台と巨大な楠が有名で、それはもう長い歴史があるみたい。一部の校舎や大学生寮は何百年の歴史あるみたい。しかも現在も使われているから驚きね。まぁ修繕はされているんでしょうけど、一度見に行ってみたいと思います。
どことなく憧れていた大学生活ですが、同回生から感じるのは「稚拙」の一言です。まだ高校生気分が抜けてないのかしら。
そちらの大学についても色々教えてほしいな。楽しみに待っています。
地球の大学生 宇佐見蓮子
月の大学生 マエリベリー・ハーン様
〇
五月十五日
拝啓。
大学生おめでとうございます。ちゃんとメリーは大学生になれたのね。おめでとうございます。
そちらの大学もこちらとあまり変わらないみたいね。やっぱり人間は何処に行っても同じなのかも。
確かに月の都市は歴史的に見えれば間もないから敢えて風格を出すために古く作るのは何となく分かるけど、なんか風情がない感じがする。私からすれば月の都市なんて、どこもかしこも最先端技術が詰まっているイメージだからわざわざ歴史を前に出す必要性なんてないのにね。みんな意地っ張りなのかしら。
無重力水泳、圧縮加工飲料研究会、反重力珈琲喫茶なんて面白そうなサークルに勧誘されるなんて良いじゃない。そんなサークルこっちにはないから見学だけでもしちゃえば良いのに。私だったら物見遊山でサークルを覗きに行くわ。
まぁでも、私はメリーと一緒に「秘封倶楽部」に所属しているから他には興味なんてないけど。
それはそうと、私が昔に送った手紙を引用しないでよ。恥ずかしいから。
小学生の頃は自意識が非常にあやふやで、もしかしたらまだ私ではなかったかも知れない。だから授業の一環で「月にある小学校に手紙を送ろう」というイベントが一世一代の出来事に思えたの。
深い夜の向こう側。見上げても見上げ足りない、飛び跳ねても手の届かない遠いところにある、ただ白い輪郭だけを描く月に私の書いた手紙が届くのかと思うと、当時の私には想像もつかないような、とても壮大で、素敵なことだって感じてね。当時の記憶はあやふやだけで、その感情だけは今でも覚えているわ。全国の中で選ばれし非常に幸運な小学生であることを信じて疑わなかった。中学生ぐらいの時に手紙を送ること催しは全国の小学校でやっているありふれた行事の一つだと発覚したときは割とショックだったけれど。
あと当時のことで覚えていることと言えば、メリーから手紙の返事が届いたときかな。本当に私の手紙が月に届いて、しかも返事を書いてくれる人がいるなんて、当時の純粋無垢な私にはかなり大きな衝撃だったわ。
そういえば近頃バイトを始めようかと思っています。親の口座に直結しているICはあるけど、それなりに気を使うのよね。サークルに入る気もないし、勉強もしているけれど割と空き時間が多いから、月に行く旅費を稼ぎのために頑張ろうって感じ。
面白そうな場所がいくつかあるから、試しにバイトの申し込みをしてみます。始めてだから少し緊張するけれど上手くいけば良いな。
メリーはバイトとか考えてる? それともお金なんて考えなくて良いほどの大金持ちなのかしら。
また次回のお手紙でバイト先が見つかったか報告します。乞うご期待。
草々
貧乏学生 宇佐見蓮子
月の富豪 マエリベリー・ハーン様
〇
六月四日
拝啓。
手紙を読んでビックリした、メリーのご実家って骨董屋さんだったの?
どういった経緯で骨董屋が月に移住するのか分からないけれど、確かに実家のお仕事を手伝っているなら実質働いているようなものだから遠慮なくICも使えるわね。
月には色々な国籍の人が身近に住んでいるから、日本の骨董がよく売れるのは良いことね。日本の骨董市で仕入れたものを月で売るなんて想像したこともなかったわ。やっぱりメリーのおうちって富豪なんじゃないの?
中学生の頃に秘封倶楽部を結成してからもう随分と経つわね。当時は色々多感な時期だったら秘封倶楽部なんて名付けちゃったけど、正直今でも気に入ってる。ちゃんと活動はしたことないけれど、いつか出来るって信じてる。
ところで、なんで今回も私が昔書いた手紙を引用しているのかしら。
メリーからすれば何ともないかも知れないし「別に可愛らしいから良いじゃない」なんて貴方は書いてるけど、こちらからすると全然良くないのよ。気恥ずかしいってば。というか、こんな長文乱文書いてたの? ちょっと誇張してない?
自分の文を読み返して思い出したけど、この時分からメリーって呼んでたのね。正直に白状すると、実はメリーって呼び始めた理由って当時の私はマエリベリー・ハーンって名前が書きにくかったからなのよね。子供がやったことだから怒らないでね。
それはさておき、ついにアルバイトを始めました。
色々候補はあったんだけど、出町商店街っていう前の手紙で話した鴨川の近くにある古い商店街の中にある「柳座」っていう一階は本屋さんと喫茶店、二階が映画というが下町的複合施設が結構面白かったので試しに申し込んでみたら見事採用されたので、先週から講義終わりに働いています。
本屋さんって結構フィジカルが必要なのね、働き始めるまで知らなかったわ。色々大変だけど、珈琲の香りは良いし、沢山の本に囲まれて働くのは結構良いかも。建物も古いみたいで、重厚な木の枠にハマった硝子戸、本棚に囲まれた喫茶スペースにある飴色のカウンター席、二階から漏れて来る映画の音、商店街のタイル地の通りが見える大きな窓硝子。実家の東京にあるような建物で結構落ち着くのよね。戻りたいとは思っていないけど、無意識的に実家が恋しいのかも。
そんなわけで加古さんっていう気さくな店長の元でせっせと働いています。
ところでメリーは去年の約束、覚えているかしら?
先月の手紙にヒントがあります。忘れていたら読み返してみてください。覚えていたら返答をお願いします。
梅雨の時期が近づくにつれて、どことなく湿気が漂い始めてちょっと嫌な感じ。「京都は盆地だから夏と冬は大変だぞ」って加古さんが言っていたから覚悟しなければ。あと鴨川の北の方にある糺の森の馬場で咲く紫陽花が綺麗というのも加古さんから教えて貰ったから楽しみにしてる。
それじゃあまた。答えを教えてね。
地球の働き蟻 宇佐見蓮子
月の骨董屋次期店主候補 マエリベリー・ハーン様
〇
七月十七日
拝啓。
同封されていた天の川の写真見ました。毎年思うけど月からだとそんなに綺麗に見えるのね。こっちでも星が綺麗にみられる場所が幾つかあるんだけど、結構遠いしお金もかかるから行けないのよね。
毎回のことなんだけど今回の便箋もとっても素敵ね。このフリルの形と色は紫陽花にかけているの? 私も便箋とか封筒にこだわりたいと思うけど、いざ雑貨屋とか文房具売り場に行くとなんだか気恥ずかしくて断念しちゃう。自分がしたいことを素直に実行できるメリーの行動力って素直に尊敬するわ。それと今回から万年筆で書き始めたみたいね、慣れるまで書きにくいと思うけど頑張って。コツさえ分かれば私みたいにすらすら書けるようになれるから。
地球の季節は月のように管理されてないから羨ましいって書いてあるけど、私からするとそっちの方が羨ましいわ。日にちごとに天気が決められていたら色々予定が組みやすいじゃない。こっちは気まぐれな天気や季節に左右されまくって、着る服に迷うこともしばしばあるわ。特に夏と冬は自由過ぎて困っちゃう。
約束の答えですが、大正解。というかメリーから言い始めたことだから忘れるわけないよね。昔は途方もないお金がないと月には行けなかったみたいだけど、本当に技術の進歩には感謝しなくっちゃ。
住所と待ち合わせ場所には十二時ぐらいに到着するかもしれないけど、万が一遅れたりしたら連絡するから電話番号を教えて欲しいな。私の電話番号は文末に書いておくから見てね。
柳座でのお仕事は順調です。加古さんも良い人だし、本は表紙を見ているだけでも楽しいし、暇だと持ち込んだ本を読めるから自由で良い。少しだけ筋肉がついてきたのか、本の品出しや位置替えがスムーズになってきた。もしかするとそっちに行くときには筋肉隆々になっているかもしれないから楽しみに待っていて。
正直なところ、今回の旅行は楽しみなのと不安が丁度半分ずつあるの。
ロケットも月の都市も初めてなのもあるけど、こうして文字だけでやり取りしてきたメリーと実際会うのは結構緊張してる。メリーとはこうして手紙で何度も会っているはずなのにね。メリーがイメージしている私と、実際に会った時の私の印象が違ってたらどうしよう、なんてどうでも良いことを考えちゃう。もし会った時に私が全身カチコチ緊張状態だったら笑い飛ばしてね。
前の手紙で言ってた糺の森に咲いていた紫陽花の写真と糺の森の奥にある下鴨神社で買った絵ハガキを同封するからご覧あれ。そういえばそっちには絵ハガキなんてあるのかしら?
夏休みが楽しみです。メリーも同じ思いなら嬉しいな。
旅人 宇佐見蓮子
月の主 マエリベリー・ハーン様
〇
八月十四日
拝啓。
地球はもう既に夏になりましたか? 盆地の暑さは想像を絶すると何かの小説で読んだことがあるから、蓮子が京都で蒸し焼きになってないか非常に心配よ。
月にある日本地区も地上の季節に合わせて、夏となり非常に暑いです。そのおかげで月にある人口の海には連日スペースデブリと見間違うほどの人で溢れています。温度管理なんて自由自在なのだから、ずっと平温なままで良いのにね。前にも言ったけれど、エアコンのように季節が切り替えられるのは、あまり風情を感じられません。それなら地球みたいに自由奔放の方が楽しくて良いわ。
さて、これが届くころには蓮子はもう夏休みのはず。一応出発日までに間に合うように手紙を出したけれど、もし届いていなかったら気合で見つけるわ。どうしても見つからなかったら街の放送機能を使って呼び出してあげる。まぁ筋肉隆々の女子大学生は目立ちそうだからすぐわかるかもしれないけど。
万年筆の扱いには正直苦戦してる。この子、見た目は良いのに結構気分屋さんなのね。何枚も便箋を駄目にされたわ。便箋はまぁまぁ高いんだからいい加減にして欲しい。蓮子のように自由自在に手懐けられるように頑張ります。
私だって本当は少し緊張してる。蓮子の言うとおり、手紙では何度も貴方の輪郭と出会って来たけれど、実際に会うのは初めてだもん。お互いのこと結構知ってるはずなのに、気恥ずかしいやら不安やら、でも楽しみに思っている感情もあって頭が沸騰しそう。
でもね、こんなに繋がれる時代なのに手紙だけで何十年も繋がれるなんて、互いの相性が良くないと不可能だと思うの。上手く言えないけれど、きっと大丈夫よ。むしろ実際に会ってみて、多少想像していた印象と違ったぐらいで関係が終わるわけないでしょ? 実は蓮子が男性だったとかならちょっと考えるけど。
考えても仕方ないことは考えない方が良いわよ。それに、もし全身カチコチ緊張状態ならちゃんと笑ってあげるから安心してね。
絵ハガキと写真みました。とっても素敵ね。私も京都に行きたい、ズルいわよ蓮子だけ。あとこっちには絵ハガキはだぶんないかな。意識して探したことがないから分からないけれど。
実を言うと語学留学先の選択肢に日本があるの。それも京都の大学がね。だから上手いことやれば、私もそっちに行けるかもしれない。今回は私が月の都市を案内してあげるから、もし私が京都に行けることになった蓮子に案内してもらいたいな。貴方のバイトしているお店も気になるし。
詳しいことは直接会って話しましょう。それじゃあね。
月の案内人 マエリベリー・ハーン
京都の観光大使 宇佐見蓮子様
追記。私の電話番号です。
〇
私はロケットの発着場である第二静海月面空港から出ると、ガラス張りの天井には深海のような宇宙が広がっているのがみえた。地上の光に遮られ、普段は見えない星が私の目に圧縮したように入り込む。そして私が幼少期の頃から持つ「星を見れば時間が、月を見れば場所が分かる能力」が機能するか確かめると、ちゃんと機能したことに驚いた。
月面でも発動するのだな。そんなことを思いながら、地球と同等の重力を感じながら月面都市行きのモノレールに乗り込んだ。地球とあまり変わらない駅構内の慌ただしさは、月に居る特別感を薄ませる。しかし、漆黒の空に瞬く星、月面都市の奥に見える荒涼とした月面、その奥に浮かぶサファイアのような故郷を眺めると、改めて月面に来たことを実感せざるを得なかった。
彼女のことは手紙を受け取る度に文字の癖から、文章から、便箋から、切手から、封筒から、私は未だ出会ったことのない親友であるメリーの輪郭をなぞり続けた。だが実際にはブロンドの髪であることと、舌を嚙みそうな名前だということしか知らない。
雑踏を越えて駅から出ると地球を模したモニュメントが空中で自転しているのがみえた。その中央にある時計に目をやると丁度待ち合わせ時間であった。
さて、何処に居るのか。ちゃんと見つけられるか。電話した方が良いのか。
期待と焦りに似た感情が胸で渦巻く。しかしそれは、直ぐに杞憂だと知る。
見知らぬ土地で私の呼ぶ声が聞こえた。
目の前から肩まで伸びた緩やかな曲線を描くブロンドの髪、白いレースで編まれた上着、その下で揺れる朝顔のようなワンピースが揺れる。瞳は髪と同じ金色をしていて、顔は私が想像していた以上に大人びており、私の鼓動がせわしなくなるのを感じた。
幼い頃に私の出した手紙は偶然地球と月の間にある周回軌道に乗った。そして私とメリーの他愛のない手紙は数十年間一ヶ月に一度、絶やすことなく月と地上の間を行き来した。そこには0と1が割り込む隙間もなく、膨大な知識が眠るインターネットの海もこの手紙の内容は二人にしか分からない。
私たちが紡いだ手紙は長い年月を経て、ついに私たちを結びつける。
数百年前までは人口が増えすぎたことによる地球環境の汚染から得た有用な気付きも喉元を過ぎれば云々、滔々と流れる時間に揺蕩いながら随分と遥か向こう側に消えていった。理由の一つとしては、価値観の変化と地球の人口が物理的に減ったことにより解決してしまったからだ。そのことを始めて授業で聞いたとき、私は思わず「なんじゃそりゃ」と心中で呟いた。
私が勝手に命名している「地球からのしっぺ返し」こと異常気象及び地殻変動について祖父母は「本当に世界が終わるのかと思った」と言っていたのを幼いながら覚えている。そんな当時の過酷な状況を紡ぐ語り部も今となっては0と1が支配するデータへと転身を進めている。
私の祖母の時代に考案された理論的な地球規模での人口調整は上手くいっているようで、私が産まれる頃には既に一般常識と化していた。それでも思春期を迎えた私は「私の誕生日は製造番号ではない」とよく母親にぷつぷつと文句を言っていたこと思い出した。
あの頃は青かった。物理的に、主に思考が。
そんなことを思いながら、波風の代わりに星々が騒がしい黒い海に浮かぶ故郷の惑星を月面都市から眺める。
私は大学の夏休みを利用して、地球と月面を繋ぐ寝台ロケット「あけぼの」に乗り込み、初めの無重力に翻弄されながら目的地である月面都市の日本地区へ向かった。窓から眺める砂糖菓子を散りばめたような星の海をかき分けながらぐんぐんと月に向かって行く光景に、私は思わず胸が高鳴った。
そうして二日間の渡航を終えて月面都市に到着した瞬間に感じたのは人工重力の無粋さで、慣れ親しんだ世界の重さを再度堪能することとなった。
月にも人が住み始めて約三百年。初めは研究者、もしくは莫大な大金持ちの移民場所であったが、流通システムとスペースデブリの迎撃の安定がきっかけとなり、今では観光地として名高く、人口約一億人が住む賑やかな惑星となっている。
私が月面都市に訪れた理由は二つある。一つは単純に来たかったから、もう一つは「マエリベリー・ハーン」という文通相手に会うためだ。
文通相手に会うということは、この世界で定められた禁忌の一つである。
それは互いに理解しながらも、私たちは何十年も文字で紡がれて来た関係を少しだけ変えたかったのだ。
○
四月二十日
拝啓。
この「拝啓」という言葉の意味すら分からない頃から「拝啓」を書き続けてもう数十年になりますね。そりゃあ小学生から大学生にもなるわけだ。
手紙の返信が遅れてごめんなさい。前の手紙に書いてあった通り、私は未だに自動車が使われている片田舎の東京を脱出して、見事京都に引っ越して大学生になりました。メリーはちゃんと手紙が届くか心配していたけれど、京都にばっちり届いています。ぱーぺきです。(ぱーぺきというのは私のお母さんの口癖であるパーフェクトと完璧を混ぜた言葉です)
それはそうと、メリーは以前から小学生の頃に書いた手紙の内容に触れようとしていますが、かなり稚拙だった故、あまり思い出したくないことが多すぎので話題に出すのはやめましょう。
それはともかく私も遂に大学生です。メリーも大学生になるって書いていたけれど、私のように無事になれましたか? 万が一何かしらの手違いで大学生になれていなければ、慰めてあげるから京都に来てください。偉大なる大学生の私が慰めてあげます。
京都はとても良い所です。滔々と流れる鴨川を眺めながら土手を散歩するだけで心に心地良い風が吹き込み、下鴨神社の糺の森の空気はどこか澄んでいてベンチに腰かけているだけで和やかな気分になる。青々とした山々の尾根は眺めていて気持ちが良いし、少し歩けば四条木屋町界隈という歴史ある飲み屋街にも足を運べるの。しかも四条木屋町界隈には京都でしか飲めない幻のお酒があるそうなので一度探ってみようかと思ってる。もし見つけたら写真も一緒に同封するから楽しみにしていてね。
私の通い始めた京都の大学は立派な時計台と巨大な楠が有名で、それはもう長い歴史があるみたい。一部の校舎や大学生寮は何百年の歴史あるみたい。しかも現在も使われているから驚きね。まぁ修繕はされているんでしょうけど、一度見に行ってみたいと思います。
どことなく憧れていた大学生活ですが、同回生から感じるのは「稚拙」の一言です。まだ高校生気分が抜けてないのかしら。
そちらの大学についても色々教えてほしいな。楽しみに待っています。
地球の大学生 宇佐見蓮子
月の大学生 マエリベリー・ハーン様
〇
五月十五日
拝啓。
大学生おめでとうございます。ちゃんとメリーは大学生になれたのね。おめでとうございます。
そちらの大学もこちらとあまり変わらないみたいね。やっぱり人間は何処に行っても同じなのかも。
確かに月の都市は歴史的に見えれば間もないから敢えて風格を出すために古く作るのは何となく分かるけど、なんか風情がない感じがする。私からすれば月の都市なんて、どこもかしこも最先端技術が詰まっているイメージだからわざわざ歴史を前に出す必要性なんてないのにね。みんな意地っ張りなのかしら。
無重力水泳、圧縮加工飲料研究会、反重力珈琲喫茶なんて面白そうなサークルに勧誘されるなんて良いじゃない。そんなサークルこっちにはないから見学だけでもしちゃえば良いのに。私だったら物見遊山でサークルを覗きに行くわ。
まぁでも、私はメリーと一緒に「秘封倶楽部」に所属しているから他には興味なんてないけど。
それはそうと、私が昔に送った手紙を引用しないでよ。恥ずかしいから。
小学生の頃は自意識が非常にあやふやで、もしかしたらまだ私ではなかったかも知れない。だから授業の一環で「月にある小学校に手紙を送ろう」というイベントが一世一代の出来事に思えたの。
深い夜の向こう側。見上げても見上げ足りない、飛び跳ねても手の届かない遠いところにある、ただ白い輪郭だけを描く月に私の書いた手紙が届くのかと思うと、当時の私には想像もつかないような、とても壮大で、素敵なことだって感じてね。当時の記憶はあやふやだけで、その感情だけは今でも覚えているわ。全国の中で選ばれし非常に幸運な小学生であることを信じて疑わなかった。中学生ぐらいの時に手紙を送ること催しは全国の小学校でやっているありふれた行事の一つだと発覚したときは割とショックだったけれど。
あと当時のことで覚えていることと言えば、メリーから手紙の返事が届いたときかな。本当に私の手紙が月に届いて、しかも返事を書いてくれる人がいるなんて、当時の純粋無垢な私にはかなり大きな衝撃だったわ。
そういえば近頃バイトを始めようかと思っています。親の口座に直結しているICはあるけど、それなりに気を使うのよね。サークルに入る気もないし、勉強もしているけれど割と空き時間が多いから、月に行く旅費を稼ぎのために頑張ろうって感じ。
面白そうな場所がいくつかあるから、試しにバイトの申し込みをしてみます。始めてだから少し緊張するけれど上手くいけば良いな。
メリーはバイトとか考えてる? それともお金なんて考えなくて良いほどの大金持ちなのかしら。
また次回のお手紙でバイト先が見つかったか報告します。乞うご期待。
草々
貧乏学生 宇佐見蓮子
月の富豪 マエリベリー・ハーン様
〇
六月四日
拝啓。
手紙を読んでビックリした、メリーのご実家って骨董屋さんだったの?
どういった経緯で骨董屋が月に移住するのか分からないけれど、確かに実家のお仕事を手伝っているなら実質働いているようなものだから遠慮なくICも使えるわね。
月には色々な国籍の人が身近に住んでいるから、日本の骨董がよく売れるのは良いことね。日本の骨董市で仕入れたものを月で売るなんて想像したこともなかったわ。やっぱりメリーのおうちって富豪なんじゃないの?
中学生の頃に秘封倶楽部を結成してからもう随分と経つわね。当時は色々多感な時期だったら秘封倶楽部なんて名付けちゃったけど、正直今でも気に入ってる。ちゃんと活動はしたことないけれど、いつか出来るって信じてる。
ところで、なんで今回も私が昔書いた手紙を引用しているのかしら。
メリーからすれば何ともないかも知れないし「別に可愛らしいから良いじゃない」なんて貴方は書いてるけど、こちらからすると全然良くないのよ。気恥ずかしいってば。というか、こんな長文乱文書いてたの? ちょっと誇張してない?
自分の文を読み返して思い出したけど、この時分からメリーって呼んでたのね。正直に白状すると、実はメリーって呼び始めた理由って当時の私はマエリベリー・ハーンって名前が書きにくかったからなのよね。子供がやったことだから怒らないでね。
それはさておき、ついにアルバイトを始めました。
色々候補はあったんだけど、出町商店街っていう前の手紙で話した鴨川の近くにある古い商店街の中にある「柳座」っていう一階は本屋さんと喫茶店、二階が映画というが下町的複合施設が結構面白かったので試しに申し込んでみたら見事採用されたので、先週から講義終わりに働いています。
本屋さんって結構フィジカルが必要なのね、働き始めるまで知らなかったわ。色々大変だけど、珈琲の香りは良いし、沢山の本に囲まれて働くのは結構良いかも。建物も古いみたいで、重厚な木の枠にハマった硝子戸、本棚に囲まれた喫茶スペースにある飴色のカウンター席、二階から漏れて来る映画の音、商店街のタイル地の通りが見える大きな窓硝子。実家の東京にあるような建物で結構落ち着くのよね。戻りたいとは思っていないけど、無意識的に実家が恋しいのかも。
そんなわけで加古さんっていう気さくな店長の元でせっせと働いています。
ところでメリーは去年の約束、覚えているかしら?
先月の手紙にヒントがあります。忘れていたら読み返してみてください。覚えていたら返答をお願いします。
梅雨の時期が近づくにつれて、どことなく湿気が漂い始めてちょっと嫌な感じ。「京都は盆地だから夏と冬は大変だぞ」って加古さんが言っていたから覚悟しなければ。あと鴨川の北の方にある糺の森の馬場で咲く紫陽花が綺麗というのも加古さんから教えて貰ったから楽しみにしてる。
それじゃあまた。答えを教えてね。
地球の働き蟻 宇佐見蓮子
月の骨董屋次期店主候補 マエリベリー・ハーン様
〇
七月十七日
拝啓。
同封されていた天の川の写真見ました。毎年思うけど月からだとそんなに綺麗に見えるのね。こっちでも星が綺麗にみられる場所が幾つかあるんだけど、結構遠いしお金もかかるから行けないのよね。
毎回のことなんだけど今回の便箋もとっても素敵ね。このフリルの形と色は紫陽花にかけているの? 私も便箋とか封筒にこだわりたいと思うけど、いざ雑貨屋とか文房具売り場に行くとなんだか気恥ずかしくて断念しちゃう。自分がしたいことを素直に実行できるメリーの行動力って素直に尊敬するわ。それと今回から万年筆で書き始めたみたいね、慣れるまで書きにくいと思うけど頑張って。コツさえ分かれば私みたいにすらすら書けるようになれるから。
地球の季節は月のように管理されてないから羨ましいって書いてあるけど、私からするとそっちの方が羨ましいわ。日にちごとに天気が決められていたら色々予定が組みやすいじゃない。こっちは気まぐれな天気や季節に左右されまくって、着る服に迷うこともしばしばあるわ。特に夏と冬は自由過ぎて困っちゃう。
約束の答えですが、大正解。というかメリーから言い始めたことだから忘れるわけないよね。昔は途方もないお金がないと月には行けなかったみたいだけど、本当に技術の進歩には感謝しなくっちゃ。
住所と待ち合わせ場所には十二時ぐらいに到着するかもしれないけど、万が一遅れたりしたら連絡するから電話番号を教えて欲しいな。私の電話番号は文末に書いておくから見てね。
柳座でのお仕事は順調です。加古さんも良い人だし、本は表紙を見ているだけでも楽しいし、暇だと持ち込んだ本を読めるから自由で良い。少しだけ筋肉がついてきたのか、本の品出しや位置替えがスムーズになってきた。もしかするとそっちに行くときには筋肉隆々になっているかもしれないから楽しみに待っていて。
正直なところ、今回の旅行は楽しみなのと不安が丁度半分ずつあるの。
ロケットも月の都市も初めてなのもあるけど、こうして文字だけでやり取りしてきたメリーと実際会うのは結構緊張してる。メリーとはこうして手紙で何度も会っているはずなのにね。メリーがイメージしている私と、実際に会った時の私の印象が違ってたらどうしよう、なんてどうでも良いことを考えちゃう。もし会った時に私が全身カチコチ緊張状態だったら笑い飛ばしてね。
前の手紙で言ってた糺の森に咲いていた紫陽花の写真と糺の森の奥にある下鴨神社で買った絵ハガキを同封するからご覧あれ。そういえばそっちには絵ハガキなんてあるのかしら?
夏休みが楽しみです。メリーも同じ思いなら嬉しいな。
旅人 宇佐見蓮子
月の主 マエリベリー・ハーン様
〇
八月十四日
拝啓。
地球はもう既に夏になりましたか? 盆地の暑さは想像を絶すると何かの小説で読んだことがあるから、蓮子が京都で蒸し焼きになってないか非常に心配よ。
月にある日本地区も地上の季節に合わせて、夏となり非常に暑いです。そのおかげで月にある人口の海には連日スペースデブリと見間違うほどの人で溢れています。温度管理なんて自由自在なのだから、ずっと平温なままで良いのにね。前にも言ったけれど、エアコンのように季節が切り替えられるのは、あまり風情を感じられません。それなら地球みたいに自由奔放の方が楽しくて良いわ。
さて、これが届くころには蓮子はもう夏休みのはず。一応出発日までに間に合うように手紙を出したけれど、もし届いていなかったら気合で見つけるわ。どうしても見つからなかったら街の放送機能を使って呼び出してあげる。まぁ筋肉隆々の女子大学生は目立ちそうだからすぐわかるかもしれないけど。
万年筆の扱いには正直苦戦してる。この子、見た目は良いのに結構気分屋さんなのね。何枚も便箋を駄目にされたわ。便箋はまぁまぁ高いんだからいい加減にして欲しい。蓮子のように自由自在に手懐けられるように頑張ります。
私だって本当は少し緊張してる。蓮子の言うとおり、手紙では何度も貴方の輪郭と出会って来たけれど、実際に会うのは初めてだもん。お互いのこと結構知ってるはずなのに、気恥ずかしいやら不安やら、でも楽しみに思っている感情もあって頭が沸騰しそう。
でもね、こんなに繋がれる時代なのに手紙だけで何十年も繋がれるなんて、互いの相性が良くないと不可能だと思うの。上手く言えないけれど、きっと大丈夫よ。むしろ実際に会ってみて、多少想像していた印象と違ったぐらいで関係が終わるわけないでしょ? 実は蓮子が男性だったとかならちょっと考えるけど。
考えても仕方ないことは考えない方が良いわよ。それに、もし全身カチコチ緊張状態ならちゃんと笑ってあげるから安心してね。
絵ハガキと写真みました。とっても素敵ね。私も京都に行きたい、ズルいわよ蓮子だけ。あとこっちには絵ハガキはだぶんないかな。意識して探したことがないから分からないけれど。
実を言うと語学留学先の選択肢に日本があるの。それも京都の大学がね。だから上手いことやれば、私もそっちに行けるかもしれない。今回は私が月の都市を案内してあげるから、もし私が京都に行けることになった蓮子に案内してもらいたいな。貴方のバイトしているお店も気になるし。
詳しいことは直接会って話しましょう。それじゃあね。
月の案内人 マエリベリー・ハーン
京都の観光大使 宇佐見蓮子様
追記。私の電話番号です。
〇
私はロケットの発着場である第二静海月面空港から出ると、ガラス張りの天井には深海のような宇宙が広がっているのがみえた。地上の光に遮られ、普段は見えない星が私の目に圧縮したように入り込む。そして私が幼少期の頃から持つ「星を見れば時間が、月を見れば場所が分かる能力」が機能するか確かめると、ちゃんと機能したことに驚いた。
月面でも発動するのだな。そんなことを思いながら、地球と同等の重力を感じながら月面都市行きのモノレールに乗り込んだ。地球とあまり変わらない駅構内の慌ただしさは、月に居る特別感を薄ませる。しかし、漆黒の空に瞬く星、月面都市の奥に見える荒涼とした月面、その奥に浮かぶサファイアのような故郷を眺めると、改めて月面に来たことを実感せざるを得なかった。
彼女のことは手紙を受け取る度に文字の癖から、文章から、便箋から、切手から、封筒から、私は未だ出会ったことのない親友であるメリーの輪郭をなぞり続けた。だが実際にはブロンドの髪であることと、舌を嚙みそうな名前だということしか知らない。
雑踏を越えて駅から出ると地球を模したモニュメントが空中で自転しているのがみえた。その中央にある時計に目をやると丁度待ち合わせ時間であった。
さて、何処に居るのか。ちゃんと見つけられるか。電話した方が良いのか。
期待と焦りに似た感情が胸で渦巻く。しかしそれは、直ぐに杞憂だと知る。
見知らぬ土地で私の呼ぶ声が聞こえた。
目の前から肩まで伸びた緩やかな曲線を描くブロンドの髪、白いレースで編まれた上着、その下で揺れる朝顔のようなワンピースが揺れる。瞳は髪と同じ金色をしていて、顔は私が想像していた以上に大人びており、私の鼓動がせわしなくなるのを感じた。
幼い頃に私の出した手紙は偶然地球と月の間にある周回軌道に乗った。そして私とメリーの他愛のない手紙は数十年間一ヶ月に一度、絶やすことなく月と地上の間を行き来した。そこには0と1が割り込む隙間もなく、膨大な知識が眠るインターネットの海もこの手紙の内容は二人にしか分からない。
私たちが紡いだ手紙は長い年月を経て、ついに私たちを結びつける。
「メリー」がAIやおじさんとかじゃなくて本当によかったです
冒頭の地球のしっぺ返しのくだりがあまり文通部分と接続していないように見えて、少し余計だったのかも……と思いつつ、壮大なSF世界の雰囲気もよかったです
また私の読解不足なのかもしれないのですが、文通相手に会うことが禁忌とされている理由が回収されていないようにみえて少し悩んでしまいました。
しかし面白かったです。
そうではなかったのでホッとしました。
二人の軽快なやり取りがよかったです。