その庭では一年を通して泉水に撓垂れ掛るようにして白い花が咲いていた。深い門の奥で銀色の水面は静かに浮んでいた。時折その上に落ちた花弁が風に押し流されて鈍い波を作った。
泥濘の上で童達が古い凧に風を切らせて騒いでいた。鈴の音がさざめきながら街路を下って来た。新春の辻では、花売の狂女が甲高い声を張上げて歌っていた。人々はそれを笑いながら花を買った。花売はもとは商家の主人の妾である。彼女の幼い娘が井戸に落ちて死んだ数日の後に、この青白い影のような女は毒を仰いだ。憐れんだ主人は彼女に今もなお銭を届けさせている。その銭を使って、花売は今日も花屋から匂の強い花ばかりを集めて来ては売り歌うのだ。お花を配つてあるく女は、しろ布縫うて娘を待ちて……。狂女は今、抱える花を井戸に落した。
丁度その時花園に面した部屋では壁を覆って白い布が病蚕のように爛れていた。その中では祝福に充たされて、既にその名を阿斗と定められた一人の児女が生れ出ようとしていた。母親は産の直後に死んだ。彼女は神事の絢爛な準備の傍でそそくさと地面に埋められた。嬰児は白い部屋の中で乳母に抱かれながら、不思議そうな眼で埋められる母を眺めていた。
神事の朝に邸の縁側で烏が死んだ。烏は泉水に沈められた。腐り始める前に、水底の強い流れがそれを押し流した。貸本屋の前の水路で流れ着いた屍体を見つけた狂女は、純潔な百合の花で以てそれを瀆した。彼女は粉飾された死に接吻しかけると身震いを一つして、暗い水面を虚ろな目で見下ろしながら口を濯いだ。見ていた近くの商店の息子が彼女を打った。水面はどんよりと淀んでいた。
神事の祝宴は神社の境内で華々しく行われた。宴席は夜の降りて来る頃になるとやにわに活気づいた。この時期の神々は永遠を思わせて沈む遠い海面の黄昏を酷く愛した。まだ年若い巫女は強い酒を飲むと入日のように紅くなって亂れた。最後の魔女となった日陰の少女は本を閉じ、吸血鬼の背で遥かな過去を思うて微睡んだ。鏡を持った少女は物憂げに高く舞う雪の切片を眺めた。山の端の沈む影に混ざった風神は、遠く稗田の児を物珍しげに見ながら控えめな酒を飲んだ。夜、秘神は扉の向こうに星のない夜を創って戯れた。幻想の境界はその中に一枚の花弁を降らせた。冥界の乙女がそれを見て咲った。御阿礼の子は、庭から折り取られて来た白い花に包まれて眠っていた。
散った桜が漿液のように道々を流れて新緑の頃になると、部屋には運び込まれた多くの書が列を作って山になった。幼子はそのうちの一つを手に取るとすぐに抛擲して、再び玲瓏として冷やかな白瑪瑙の珠を掌の中で弄び出した。使用人達は一斉に顔を見合わせた。彼等が言葉を尽くす度に、児の瞳は白痴のように唯だ微笑を零すばかりであった。
夏が来ると花園の外は俄に騒がしくなった。かの商家の娘が月の無い夜、里の外の川辺で妖と契って殺された。かねてから浸潤された肺に臥せっていた母親は、数日後に血を吐いて死んだ。主人は気丈にもその品位を保ち、身辺の処理を行った後に身を投げて死んだ。今や街路で遊ぶ童子は見られなくなった。ある日花売への迫害が始まった。それを匿った白髪の少女が自警団の男に殴られ、半妖の女とともに里から消えた。
児は白痴であった。眠ることの少ない彼女は画を描くことを何よりも好んだ。しかし視界にあって彼女の描きうるところのものは、白い布と白い花ばかりであった。それでも幼子は数日に一度、かつて彼女自身が遺した歴史を窃かに取り出して眺めることがあった。そのような時、庭の泉水のように深い彼女の眼は決まって暗く揺らぎ出した。彼女の沈み込んだ体温は夜になると発熱に変わり、口元にあてがわれた漿果の果液には蒼白な呼気が滲み続けた。
秋の初めに博麗の巫女が死んだ。彼女は虚空に舞い、翅を折られた蝶のように墜ちたのである。処女の血漿は清潔に岩壁の表面に散った。光線を集める砕けた硝子のように、全ての色彩が沈黙の裡に傾き始めていた。晩秋、嘗ての御阿礼の子は不義の子として二度目の春を待たずに縊り殺される事に極った。児の母の墓標からは捧げられていた花々が消えた。或る旧家から十四の娘が新妻に取られる事になった。そして死すべき白痴の児は、部屋中に敷かれた白い花の中で笑っていた。遠くから花売の叫び声が聞こえた。彼女の死んだ娘の名前が呼ばれ、続いて鈍い水音がした。それで全てが静かになった。無常の風に誘われるように花が散り、泉水の水面を覆い隠した。その冬の初雪の朝であった。夜、美しい星空を眺めながら境界の妖怪は消えた。
幻想が畢った朝、花を腐す泉水の縁で御阿礼の子は眠っていた。死神は彼女を抱き上げると、その眼をじっと見つめた。「行くのかえ」と彼女は問うた。最後の少女は嬉しそうに頷いた。川原では燃えるように赤い彼岸花が咲き亂れて川を沈めていた。岸に打ち寄せる泡沫が美しい。「まァ、深い深い淵を行くんだねえ。どれほどの業をこの児が背負っているものか」。水面を辷る船の上で幼子は眠り続ける。全ての記憶を留めて。
泥濘の上で童達が古い凧に風を切らせて騒いでいた。鈴の音がさざめきながら街路を下って来た。新春の辻では、花売の狂女が甲高い声を張上げて歌っていた。人々はそれを笑いながら花を買った。花売はもとは商家の主人の妾である。彼女の幼い娘が井戸に落ちて死んだ数日の後に、この青白い影のような女は毒を仰いだ。憐れんだ主人は彼女に今もなお銭を届けさせている。その銭を使って、花売は今日も花屋から匂の強い花ばかりを集めて来ては売り歌うのだ。お花を配つてあるく女は、しろ布縫うて娘を待ちて……。狂女は今、抱える花を井戸に落した。
丁度その時花園に面した部屋では壁を覆って白い布が病蚕のように爛れていた。その中では祝福に充たされて、既にその名を阿斗と定められた一人の児女が生れ出ようとしていた。母親は産の直後に死んだ。彼女は神事の絢爛な準備の傍でそそくさと地面に埋められた。嬰児は白い部屋の中で乳母に抱かれながら、不思議そうな眼で埋められる母を眺めていた。
神事の朝に邸の縁側で烏が死んだ。烏は泉水に沈められた。腐り始める前に、水底の強い流れがそれを押し流した。貸本屋の前の水路で流れ着いた屍体を見つけた狂女は、純潔な百合の花で以てそれを瀆した。彼女は粉飾された死に接吻しかけると身震いを一つして、暗い水面を虚ろな目で見下ろしながら口を濯いだ。見ていた近くの商店の息子が彼女を打った。水面はどんよりと淀んでいた。
神事の祝宴は神社の境内で華々しく行われた。宴席は夜の降りて来る頃になるとやにわに活気づいた。この時期の神々は永遠を思わせて沈む遠い海面の黄昏を酷く愛した。まだ年若い巫女は強い酒を飲むと入日のように紅くなって亂れた。最後の魔女となった日陰の少女は本を閉じ、吸血鬼の背で遥かな過去を思うて微睡んだ。鏡を持った少女は物憂げに高く舞う雪の切片を眺めた。山の端の沈む影に混ざった風神は、遠く稗田の児を物珍しげに見ながら控えめな酒を飲んだ。夜、秘神は扉の向こうに星のない夜を創って戯れた。幻想の境界はその中に一枚の花弁を降らせた。冥界の乙女がそれを見て咲った。御阿礼の子は、庭から折り取られて来た白い花に包まれて眠っていた。
散った桜が漿液のように道々を流れて新緑の頃になると、部屋には運び込まれた多くの書が列を作って山になった。幼子はそのうちの一つを手に取るとすぐに抛擲して、再び玲瓏として冷やかな白瑪瑙の珠を掌の中で弄び出した。使用人達は一斉に顔を見合わせた。彼等が言葉を尽くす度に、児の瞳は白痴のように唯だ微笑を零すばかりであった。
夏が来ると花園の外は俄に騒がしくなった。かの商家の娘が月の無い夜、里の外の川辺で妖と契って殺された。かねてから浸潤された肺に臥せっていた母親は、数日後に血を吐いて死んだ。主人は気丈にもその品位を保ち、身辺の処理を行った後に身を投げて死んだ。今や街路で遊ぶ童子は見られなくなった。ある日花売への迫害が始まった。それを匿った白髪の少女が自警団の男に殴られ、半妖の女とともに里から消えた。
児は白痴であった。眠ることの少ない彼女は画を描くことを何よりも好んだ。しかし視界にあって彼女の描きうるところのものは、白い布と白い花ばかりであった。それでも幼子は数日に一度、かつて彼女自身が遺した歴史を窃かに取り出して眺めることがあった。そのような時、庭の泉水のように深い彼女の眼は決まって暗く揺らぎ出した。彼女の沈み込んだ体温は夜になると発熱に変わり、口元にあてがわれた漿果の果液には蒼白な呼気が滲み続けた。
秋の初めに博麗の巫女が死んだ。彼女は虚空に舞い、翅を折られた蝶のように墜ちたのである。処女の血漿は清潔に岩壁の表面に散った。光線を集める砕けた硝子のように、全ての色彩が沈黙の裡に傾き始めていた。晩秋、嘗ての御阿礼の子は不義の子として二度目の春を待たずに縊り殺される事に極った。児の母の墓標からは捧げられていた花々が消えた。或る旧家から十四の娘が新妻に取られる事になった。そして死すべき白痴の児は、部屋中に敷かれた白い花の中で笑っていた。遠くから花売の叫び声が聞こえた。彼女の死んだ娘の名前が呼ばれ、続いて鈍い水音がした。それで全てが静かになった。無常の風に誘われるように花が散り、泉水の水面を覆い隠した。その冬の初雪の朝であった。夜、美しい星空を眺めながら境界の妖怪は消えた。
幻想が畢った朝、花を腐す泉水の縁で御阿礼の子は眠っていた。死神は彼女を抱き上げると、その眼をじっと見つめた。「行くのかえ」と彼女は問うた。最後の少女は嬉しそうに頷いた。川原では燃えるように赤い彼岸花が咲き亂れて川を沈めていた。岸に打ち寄せる泡沫が美しい。「まァ、深い深い淵を行くんだねえ。どれほどの業をこの児が背負っているものか」。水面を辷る船の上で幼子は眠り続ける。全ての記憶を留めて。
凝った文体を選んでいるためか、一部の文章には正直ぎこちなさを感じてしまいました。ただこの難解さが起こっていることの悲惨さになんだか神秘的な雰囲気をもたらしているはずなので、語彙レベルはそのままに、一文一文のリズムを何度も検討するともっと読みやすくなるのではないかと思いました。
「散った桜が漿液のように道々を流れて新緑の頃になると」や秋の初めに~の段落の言葉遣いが非常に好みでした。個人的にはこのまま言語感覚を突き詰めていっていただけると嬉しいです。
全編にわたって終わりの始まりから終わりの終わりまでを描いた重々しい物語でしたが、
御阿礼の子の誕生パーティーにしれっと参加してるレミリアに笑いました。
ピンポイントにそこだけ雰囲気が明るい気がしてとてもよかったです
淡々とした語りが終末観を引き立てていて素晴らしかったです