ある晴れた日の昼なか。
茂みを抜けてしばらく歩くと、歩き慣れた道が見えてきた。
路に沿うように流れる小川のせせらぎが耳朶を打つ。
自宅のある川上に向かって歩を進める。
今日も樹海は普段通りの平穏さで人っ子一人いない。
滅多にないことだけど、ここには時折人間が迷い込んでくることもあるのでこうして定期的に様子を見に来ている。
というのも、木立の中はこれといった目印がないためとても迷いやすい。
かと言って上を見ても、無数に張り巡らされた枝葉がまるで天蓋のように歩行者の視界を著しく制限する。
一度遭難すれば脱出は非常に困難だ。
しかも、ここからしばらく川上の方角に登っていくと天狗の縄張りに足を踏み入れることになる。
誤って侵入すれば最悪、生きては帰れないだろう。
繰り返し行っているこの巡回に果たして意味があるのかは分からない。
勿論、誰に言われたわけでもない。
ただ、私は人間が好きだから。
厄神である以上こちらから近づくことは出来ないけど、それでもいい。
人生を幸せに過ごせる人が一人でも増えてくれれば、それが私にとっての幸福だから。
側を流れる河で水音と同時に川魚が一匹宙を舞った。
飛んできた水滴を拭い、前方に視線を戻す。
すると今度は何やら丸い、器のような形状の物体が目に入った。
それは川上からゆらゆら蛇行しながら流れてくる。
近付いてくるとそれがお椀であることに気付く。
こんなに大きなお椀、一体誰の物だろう。
まさか巨人でも引っ越してきたのだろうか。
妙に興味が湧いたので川岸の方に寄っていくと、中には小さな子どもが荷物袋と一緒に横たわっている。
気を失っているのかぴくりとも動かない。
服が濡れるけど、仕方がない。
急いで川に入ると、脛と膝の間の高さまで足が沈んだ。
思ったよりも深い。
この背丈の子どもが溺れたら間違いなく助からない。
背筋を冷やしながら流れてくるお椀を受け止め、抱え上げる。
思いのほか軽いことに安堵しつつも、水を吸ったワンピースに足を取られないように注意して側道まで戻った。
お椀をそっと下ろし、耳を近づけると呼吸音が微かに聞こえてきた。
期待を込めて声をかけてみるも反応はない。
それにしても、本当に小さい。
多分、私の脛ぐらいまでしかない。
この子は一体何者なのだろうか。
家に着くとすぐに暖炉に火を点け、服を乾かす。
部屋着に着替えてからリビングに戻ってくると、ソファに横たえた少女はまだ目を覚ましていなかった。
彼女を拾い上げてから帰ってくるまでの間真っ先に頭を過ったのは、棄児。
悲しいことだけど、無責任にも自分の子どもを捨てる親がいることは事実。
この狭い幻想郷の樹海の奥地に子どもが一人でいること自体、普通ならまずない。
だからこの子も、と最初は考えたけどどうもそうではない気がする。
顔つきこそ人里で寺子屋に通い始めたぐらいの年の子だけど、背丈が不自然に小さい。
それに身に付けている着物は随分高価な物で、少なくとも生活苦を理由に捨てられたような子どもには見えない。
そんなことを思料していると蚊の鳴くような声とともに、少女が目を覚ました。
「ん……じゃ、どこ……」
よく聞き取れなかったけど、誰かの名前だろうか。
「大丈夫?」
「……貴女、だあれ?」
突然知らない人が目の前にいて動揺するのではと、内心心配していたけどそれは杞憂に終わった。
少女は目をぱちくりさせながら興味深そうにこちらをまじまじと見つめてきた。
「私は鍵山雛、厄神よ」
「厄神……神様?」
ゆっくりと頷いて続ける。
「貴女が気を失ったまま川を流れてきたから拾い上げてきたの」
「川!?」
少女はソファからぴょんと跳ね起き、とてとてと窓から外を見に行った。
私の家は河原の傍にあるので小川がよく見える。
辺りを一通り見渡した後、彼女は驚いた表情をこちらに向けて言った。
「寝てる間にこんなところに来てたんだ……ええと、ありがとう」
彼女はそう言ってぺこりと頭を下げる。
それよりも予想もしていなかった言葉に私は思わず聞き返した。
「……寝てた?」
「うん、正邪が昼寝して構ってくれないから私もお椀の中で横になってたんだけどいつの間にか寝ちゃってたんだと思う」
その正邪が彼女の保護者なのだろうか。
「……貴女、あのまま流されてたらきっと溺れていたわよ」
「う……ごめんなさい」
彼女も自分の背丈で川に落ちればどうなるかということは流石に分かっているようだ。
「その正邪は、貴女の親?」
「ううん、正邪は親じゃないよ。私の友達」
その友達も、彼女のように小さいのだろうか。
もう一つの疑問をぶつけてみる。
「貴女、人里の子どもじゃないよね。名前は?」
「少名針妙丸、だよ」
頬を緩めて嬉しそうに答えるその顔にはどこか確かな気品が感じられた。
それから私は針妙丸といくつか話をした。
正邪という人物がいつも彼女を守っていて、この世界についても色々と教えてくれること。
そして、彼女が今や絶滅寸前の種族であること。
正直、小人については又聞きの又聞きぐらいの知識しかないし特別に思うところがあるわけでもない。
今のところ、身体が小さい以外は普通の子どもにしか見えない。
「貴女、小人だったのね」
「うん、雛は神様なんだよね。私、初めて会っちゃった」
私が神様だと知った人間は皆例外なく驚きの表情を浮かべる。
それだけに針妙丸の素朴な反応はなんだか新鮮だ。
「じゃあ、初めて見た神様の感想は?」
「えっとねえ……綺麗! ねえねえ、そのお洋服もしかして自分で作ったの?」
「ええ、裁縫は長いことやってるからね」
「すごい、いいなあ。リボンも可愛い」
人間の幼子が友達の新しい服を自分もと欲しがるような羨望の眼差し。
おべっかを使っているようには見えないし、悪い気はしない。
思えば近くに住む知り合い以外と顔を合わせる機会もなくなり、こうした会話をするの自体久しぶりな気がする。
「貴女のその服も、結構いい物に見えるけど」
「えへへ、これ私が自分で仕立てたんだよ」
彼女はそう言って胸を張り、和服の模様を指でなぞる。
そう言えば、お椀に一緒に乗っていた荷物袋には裁縫道具もあった。
他には予備の服や食器、それにやたらと豪華な装飾が施された小槌もあった気がする。
「服を作るのって、時間を忘れちゃうのよね」
「そうそう、私もよく作業に熱中して正邪に怒られちゃうんだよね」
共通の話題に屈託のない笑みを浮かべる。
それから私達はしばらく裁縫の話に花を咲かせた。
「ねえ、それなあに?」
「うん?」
針妙丸が指差す先を見る。
そこには棚に並んだ紙の人形。
雛祭りで飾られるお雛様をデフォルメしたような形。
小さいながら顔と髪も描かれ、微笑を浮かべている。
ああ、懐かしい。
これを最後に使ったのはいつぶりだろうか。
「あれは流し雛よ、もうずっと使っていないけど」
「流し雛?」
首を傾げる彼女に当時を思い返しながら応える。
「おまじないのような物ね」
神本人がこんな曖昧な言い方をするのも正直、どうかと思う。
とはいえ本当に厄が憑いている人間は私自身が祓う必要がある。
この紙人形自体に特別な力が込められているわけではない。
***
今よりずっと昔、危険だから駄目だと言ってもここまでお祈りにやってくる人間が一定数いた。
私は神と言っても特定の寺院や祠に祀られているわけではない。
会えるかどうかも分からないのに、ただ私にお礼を言うためにこの樹海を訪れるのだ。
特に、ある若い夫婦と齢十にも満たない小さな女の子の三人家族は定期的にここにやって来た。
ただ、ある時突然女の子が一人でここを訪ねてきたことがある。
嫌な予感とともに両親は今日はいないのかと聞くと、里から離れた地から戻ってくる途中で何者かに命を奪われたらしい。
遺体の惨たらしさからおそらく妖怪の犠牲になったのだ、とも。
不幸中の幸いと言うべきか、父方の親戚の家に預かってもらっているので生活には困っていないらしい。
ただ、彼女の顔色は病人のように青白い。
以前は光が宿っていた眸も今は黒く澱み、文字通り人形のそれのように動きを止めていた。
普段は決してしないことだが、彼女を家まで連れて行きそっと抱きしめる。
予想通り、体内に溜まった厄が流れ込んでくる。
いつもなら事前に相手に説明をしてから厄を祓う。
そうしなかったのは今の彼女に「貴女は厄に憑りつかれている」と説明する気になれなかったからだ。
顔にようやく生気が戻ってきたところで、少女はぽつぽつと呟くように現状について語り始めた。
親戚のおじさんとおばさんは自分を可愛がってくれる。
ただ、時々自分のいないところで内容は分からないけどひそひそ話をされている。
先生はなにかと自分を気遣ってくれるし、なにかあればいつでも自分の家に来ていいと言ってくれている。
ただ、寺子屋で今まで遠慮なく接していた友達が自分から距離を置いているように感じられる。
普通に話はするけど、どこか遠慮されている。
あの日まではしばしば話題に上がっていた人を襲う妖怪のことについて、誰一人として口にしなくなった。
自分が何かしたわけではないけど、周りが明らかに変わってしまった。
その原因は私がここにいるから。
私のせいだ、と。
彼女がそこまで言ったところで「それは違う、貴女は何も悪くない」と懸命に言葉をかける。
実際のところ、本当の意味で彼女を救うのは容易なことではない。
私に出来るのはあくまで、厄を祓ってあげることだけ。
だからこれは本当に、ただのおまじないでしかないけれど。
「これが、貴女の代わりに痛みを受け止めてくれるわ」
彼女に渡したのが、今針妙丸が指差している紙人形。
以後、彼女がここを訪れることはなかった。
***
紙人形を一つ手に取り、針妙丸に見せる。
「この人形の、自分が痛みを感じている場所に傷をつけて川に流すの。
そうすれば、この子が代わりに痛みを引き受けてくれるわ」
腕ならここ、足ならここ。
そして痛んでいるのが心なら、と説明している最中彼女が言葉を挟む。
「……でも、かわいそうだよ。このお人形、可愛いのに」
針妙丸は紙人形を私から受け取り、大事そうに両手で持っている。
黙ってその姿を見ていると、玄関の方から声がした。
「姫! 大丈夫ですか!」
聞き覚えのない声。
しかし針妙丸には覚えがあったのかすぐに玄関の方を振り向く。
「正邪!」
玄関に向かうと三和土に見慣れない妖怪がいた。
頭には包帯が巻かれ、メッシュの入った黒髪の大部分を覆い隠している。
表情はにこやかで人懐っこい笑みを浮かべている。
でも、何故だろうか。
私の心は何故かしきりに黄色信号を出している。
どちら様ですか、と尋ねようとしたところで目の前の妖怪が淀みなく喋り始める。
「貴女が姫を助けてくださったんですね、本当にありがとうございます。
私、付き人をしております鬼人正邪と申します」
「付き人?」
「はい、彼女は今や絶滅寸前と言われている小人族の末裔なのです。
私はただのしがない木っ端妖怪ですが、縁あってお仕えしております」
背丈は私と大差ないし、彼女と小人族の関わりはよく分からない。
頭に巻かれた包帯からして、怪我をしているのだろうか。
「頭の怪我、大丈夫ですか?」
「ああ、これは大分前にしたものです。ご心配ありがとうございます」
それまで私と正邪のやり取りを見守っていた針妙丸が顔を出す。
「正邪!」
「ああ姫、ご無事でなによりです。さあ、戻りましょう」
「あ、うん。えっと……」
針妙丸がおどおどしながらこちらを見上げてくる。
ふと思いついて私は言った。
「少し休んで行ってください。今お茶を入れます」
私の提案に正邪は初めて難色を示した。
しかし針妙丸の後押しもあり最終的には家に上がる運びとなった。
リビングに案内したところ、正邪の視線が一番に向いたのは針妙丸の荷物袋だった。
「姫、道具は失くしていませんか」
「うん、大丈夫。雛が拾ってくれたの」
「そうですか、本当にありがとうございます」
正邪が私に向けて深々と、たっぷり五秒間は頭を垂れる。
「いえ、そんなに大切な物なんですか」
「うん、えっとね」
針妙丸が口を挟もうとしたところを正邪が割り込むように言った。
「ええ、どれも粗末な道具ばかりですが定住地のない私達にとっては大切な物なんです。
今後はこんなことがないよう休憩する場所には十分に注意します」
正邪が会話を早く切り上げ、ここから立ち去ろうとしているのは明らかだ。
針妙丸は状況が分かっていないのかしきりに首を傾げている。
出した焼き菓子を口いっぱいに頬張りながら。
それから四半刻ほど、私は正邪に質問をしたが針妙丸の言葉と矛盾するものは見当たらなかった。
一方の針妙丸はようやく手に取った焼き菓子の一枚目を食べ切った。
これ以上引き止めるのは無理があるし、そもそも自分は何故わざわざこんなことをしているのか。
そんなことを思量していると正邪がゆっくりと席を立ち言った。
「鍵山雛さん、この度は姫を助けてくださり本当にありがとうございました。
いつかお礼をしに参りたいと思いますので、本日のところはそろそろお暇させて頂きます」
「いえ、どうかお気になさらず」
先刻玄関で顔を会わせた時以上にはっきりと私の心は警報を鳴らしている。
でも、笑顔を浮かべたまま正邪に付いて行く針妙丸の表情がそれに結びつかない。
正邪が自分に背を向けてリビングを出た隙に、針妙丸の道具袋に紙人形を素早く一枚入れる。
後ろを着いて出て行こうとしていた針妙丸にそれを手渡す。
目を丸くしている彼女に顔を近づけ、人差し指を立てて「秘密」と呟く。
大人が小さな子に言い聞かせるように。
「一緒に連れて行ってあげて。もう貴女が川に落ちないように、ね?」
「姫、行きますよ」
「はーい!」
針妙丸は正邪の声に返事をしながら、こくりと頷いた。
「じゃあね雛、また会おうね!」
「うん、またね」
小さく手を振って、彼女と別れる。
今度はもう少しゆっくり、裁縫やお料理について話してみたい。
でもなんとなく、もう会えないような気がしていた。
理屈は分からない。
職業柄と言うべきか、私の嫌な予感は妙によく当たる。
そう言えば前に同じ紙人形を渡した少女も、同じことを言っていた。
「……でも、かわいそうだよ。このお人形、可愛いのに」と。
何もなければそれでいい。
でも、あの正邪という妖怪が纏う雰囲気は私の中にずっと妙な違和感を抱かせている。
***
数日後、後に輝針城異変と呼ばれる大規模な異変が起こる。
そして私は知ることになる。
その首謀者が彼女達二人であること、正邪に対して本能的に抱いていた危機感の正体を。
あの妖怪は人を騙し陥れることを生き甲斐とする、天邪鬼だった。
きっとあの子は今、泣いている。
手には棚に残っていた紙人形の一人。
針妙丸に預けたあの子はどうなっただろう。
ポケットに入れてきた鋏を手に取る。
痛みの根源が目に見えない物からであったなら。
少女の時も、針妙丸の時も。
貴女の白い胸に切れ込みを入れれば、ほんの少しでもなにかは変わるのだろうか。
否、きっと何も変わらない。
一度心に付いた傷を癒すことが出来るのは、時間しかない。
時間が少しずつ、痛みの存在を和らげていくのだ。
そして私に出来ることはいつだって、同じ。
今日も樹海の最奥で一人、目を閉じ祈りを捧げる。
もしもう一度会えたら、新しい服についてでも話そう。
来た道を引き返していると、側を流れる小川で水音と同時に川魚が一匹宙を舞った。
茂みを抜けてしばらく歩くと、歩き慣れた道が見えてきた。
路に沿うように流れる小川のせせらぎが耳朶を打つ。
自宅のある川上に向かって歩を進める。
今日も樹海は普段通りの平穏さで人っ子一人いない。
滅多にないことだけど、ここには時折人間が迷い込んでくることもあるのでこうして定期的に様子を見に来ている。
というのも、木立の中はこれといった目印がないためとても迷いやすい。
かと言って上を見ても、無数に張り巡らされた枝葉がまるで天蓋のように歩行者の視界を著しく制限する。
一度遭難すれば脱出は非常に困難だ。
しかも、ここからしばらく川上の方角に登っていくと天狗の縄張りに足を踏み入れることになる。
誤って侵入すれば最悪、生きては帰れないだろう。
繰り返し行っているこの巡回に果たして意味があるのかは分からない。
勿論、誰に言われたわけでもない。
ただ、私は人間が好きだから。
厄神である以上こちらから近づくことは出来ないけど、それでもいい。
人生を幸せに過ごせる人が一人でも増えてくれれば、それが私にとっての幸福だから。
側を流れる河で水音と同時に川魚が一匹宙を舞った。
飛んできた水滴を拭い、前方に視線を戻す。
すると今度は何やら丸い、器のような形状の物体が目に入った。
それは川上からゆらゆら蛇行しながら流れてくる。
近付いてくるとそれがお椀であることに気付く。
こんなに大きなお椀、一体誰の物だろう。
まさか巨人でも引っ越してきたのだろうか。
妙に興味が湧いたので川岸の方に寄っていくと、中には小さな子どもが荷物袋と一緒に横たわっている。
気を失っているのかぴくりとも動かない。
服が濡れるけど、仕方がない。
急いで川に入ると、脛と膝の間の高さまで足が沈んだ。
思ったよりも深い。
この背丈の子どもが溺れたら間違いなく助からない。
背筋を冷やしながら流れてくるお椀を受け止め、抱え上げる。
思いのほか軽いことに安堵しつつも、水を吸ったワンピースに足を取られないように注意して側道まで戻った。
お椀をそっと下ろし、耳を近づけると呼吸音が微かに聞こえてきた。
期待を込めて声をかけてみるも反応はない。
それにしても、本当に小さい。
多分、私の脛ぐらいまでしかない。
この子は一体何者なのだろうか。
家に着くとすぐに暖炉に火を点け、服を乾かす。
部屋着に着替えてからリビングに戻ってくると、ソファに横たえた少女はまだ目を覚ましていなかった。
彼女を拾い上げてから帰ってくるまでの間真っ先に頭を過ったのは、棄児。
悲しいことだけど、無責任にも自分の子どもを捨てる親がいることは事実。
この狭い幻想郷の樹海の奥地に子どもが一人でいること自体、普通ならまずない。
だからこの子も、と最初は考えたけどどうもそうではない気がする。
顔つきこそ人里で寺子屋に通い始めたぐらいの年の子だけど、背丈が不自然に小さい。
それに身に付けている着物は随分高価な物で、少なくとも生活苦を理由に捨てられたような子どもには見えない。
そんなことを思料していると蚊の鳴くような声とともに、少女が目を覚ました。
「ん……じゃ、どこ……」
よく聞き取れなかったけど、誰かの名前だろうか。
「大丈夫?」
「……貴女、だあれ?」
突然知らない人が目の前にいて動揺するのではと、内心心配していたけどそれは杞憂に終わった。
少女は目をぱちくりさせながら興味深そうにこちらをまじまじと見つめてきた。
「私は鍵山雛、厄神よ」
「厄神……神様?」
ゆっくりと頷いて続ける。
「貴女が気を失ったまま川を流れてきたから拾い上げてきたの」
「川!?」
少女はソファからぴょんと跳ね起き、とてとてと窓から外を見に行った。
私の家は河原の傍にあるので小川がよく見える。
辺りを一通り見渡した後、彼女は驚いた表情をこちらに向けて言った。
「寝てる間にこんなところに来てたんだ……ええと、ありがとう」
彼女はそう言ってぺこりと頭を下げる。
それよりも予想もしていなかった言葉に私は思わず聞き返した。
「……寝てた?」
「うん、正邪が昼寝して構ってくれないから私もお椀の中で横になってたんだけどいつの間にか寝ちゃってたんだと思う」
その正邪が彼女の保護者なのだろうか。
「……貴女、あのまま流されてたらきっと溺れていたわよ」
「う……ごめんなさい」
彼女も自分の背丈で川に落ちればどうなるかということは流石に分かっているようだ。
「その正邪は、貴女の親?」
「ううん、正邪は親じゃないよ。私の友達」
その友達も、彼女のように小さいのだろうか。
もう一つの疑問をぶつけてみる。
「貴女、人里の子どもじゃないよね。名前は?」
「少名針妙丸、だよ」
頬を緩めて嬉しそうに答えるその顔にはどこか確かな気品が感じられた。
それから私は針妙丸といくつか話をした。
正邪という人物がいつも彼女を守っていて、この世界についても色々と教えてくれること。
そして、彼女が今や絶滅寸前の種族であること。
正直、小人については又聞きの又聞きぐらいの知識しかないし特別に思うところがあるわけでもない。
今のところ、身体が小さい以外は普通の子どもにしか見えない。
「貴女、小人だったのね」
「うん、雛は神様なんだよね。私、初めて会っちゃった」
私が神様だと知った人間は皆例外なく驚きの表情を浮かべる。
それだけに針妙丸の素朴な反応はなんだか新鮮だ。
「じゃあ、初めて見た神様の感想は?」
「えっとねえ……綺麗! ねえねえ、そのお洋服もしかして自分で作ったの?」
「ええ、裁縫は長いことやってるからね」
「すごい、いいなあ。リボンも可愛い」
人間の幼子が友達の新しい服を自分もと欲しがるような羨望の眼差し。
おべっかを使っているようには見えないし、悪い気はしない。
思えば近くに住む知り合い以外と顔を合わせる機会もなくなり、こうした会話をするの自体久しぶりな気がする。
「貴女のその服も、結構いい物に見えるけど」
「えへへ、これ私が自分で仕立てたんだよ」
彼女はそう言って胸を張り、和服の模様を指でなぞる。
そう言えば、お椀に一緒に乗っていた荷物袋には裁縫道具もあった。
他には予備の服や食器、それにやたらと豪華な装飾が施された小槌もあった気がする。
「服を作るのって、時間を忘れちゃうのよね」
「そうそう、私もよく作業に熱中して正邪に怒られちゃうんだよね」
共通の話題に屈託のない笑みを浮かべる。
それから私達はしばらく裁縫の話に花を咲かせた。
「ねえ、それなあに?」
「うん?」
針妙丸が指差す先を見る。
そこには棚に並んだ紙の人形。
雛祭りで飾られるお雛様をデフォルメしたような形。
小さいながら顔と髪も描かれ、微笑を浮かべている。
ああ、懐かしい。
これを最後に使ったのはいつぶりだろうか。
「あれは流し雛よ、もうずっと使っていないけど」
「流し雛?」
首を傾げる彼女に当時を思い返しながら応える。
「おまじないのような物ね」
神本人がこんな曖昧な言い方をするのも正直、どうかと思う。
とはいえ本当に厄が憑いている人間は私自身が祓う必要がある。
この紙人形自体に特別な力が込められているわけではない。
***
今よりずっと昔、危険だから駄目だと言ってもここまでお祈りにやってくる人間が一定数いた。
私は神と言っても特定の寺院や祠に祀られているわけではない。
会えるかどうかも分からないのに、ただ私にお礼を言うためにこの樹海を訪れるのだ。
特に、ある若い夫婦と齢十にも満たない小さな女の子の三人家族は定期的にここにやって来た。
ただ、ある時突然女の子が一人でここを訪ねてきたことがある。
嫌な予感とともに両親は今日はいないのかと聞くと、里から離れた地から戻ってくる途中で何者かに命を奪われたらしい。
遺体の惨たらしさからおそらく妖怪の犠牲になったのだ、とも。
不幸中の幸いと言うべきか、父方の親戚の家に預かってもらっているので生活には困っていないらしい。
ただ、彼女の顔色は病人のように青白い。
以前は光が宿っていた眸も今は黒く澱み、文字通り人形のそれのように動きを止めていた。
普段は決してしないことだが、彼女を家まで連れて行きそっと抱きしめる。
予想通り、体内に溜まった厄が流れ込んでくる。
いつもなら事前に相手に説明をしてから厄を祓う。
そうしなかったのは今の彼女に「貴女は厄に憑りつかれている」と説明する気になれなかったからだ。
顔にようやく生気が戻ってきたところで、少女はぽつぽつと呟くように現状について語り始めた。
親戚のおじさんとおばさんは自分を可愛がってくれる。
ただ、時々自分のいないところで内容は分からないけどひそひそ話をされている。
先生はなにかと自分を気遣ってくれるし、なにかあればいつでも自分の家に来ていいと言ってくれている。
ただ、寺子屋で今まで遠慮なく接していた友達が自分から距離を置いているように感じられる。
普通に話はするけど、どこか遠慮されている。
あの日まではしばしば話題に上がっていた人を襲う妖怪のことについて、誰一人として口にしなくなった。
自分が何かしたわけではないけど、周りが明らかに変わってしまった。
その原因は私がここにいるから。
私のせいだ、と。
彼女がそこまで言ったところで「それは違う、貴女は何も悪くない」と懸命に言葉をかける。
実際のところ、本当の意味で彼女を救うのは容易なことではない。
私に出来るのはあくまで、厄を祓ってあげることだけ。
だからこれは本当に、ただのおまじないでしかないけれど。
「これが、貴女の代わりに痛みを受け止めてくれるわ」
彼女に渡したのが、今針妙丸が指差している紙人形。
以後、彼女がここを訪れることはなかった。
***
紙人形を一つ手に取り、針妙丸に見せる。
「この人形の、自分が痛みを感じている場所に傷をつけて川に流すの。
そうすれば、この子が代わりに痛みを引き受けてくれるわ」
腕ならここ、足ならここ。
そして痛んでいるのが心なら、と説明している最中彼女が言葉を挟む。
「……でも、かわいそうだよ。このお人形、可愛いのに」
針妙丸は紙人形を私から受け取り、大事そうに両手で持っている。
黙ってその姿を見ていると、玄関の方から声がした。
「姫! 大丈夫ですか!」
聞き覚えのない声。
しかし針妙丸には覚えがあったのかすぐに玄関の方を振り向く。
「正邪!」
玄関に向かうと三和土に見慣れない妖怪がいた。
頭には包帯が巻かれ、メッシュの入った黒髪の大部分を覆い隠している。
表情はにこやかで人懐っこい笑みを浮かべている。
でも、何故だろうか。
私の心は何故かしきりに黄色信号を出している。
どちら様ですか、と尋ねようとしたところで目の前の妖怪が淀みなく喋り始める。
「貴女が姫を助けてくださったんですね、本当にありがとうございます。
私、付き人をしております鬼人正邪と申します」
「付き人?」
「はい、彼女は今や絶滅寸前と言われている小人族の末裔なのです。
私はただのしがない木っ端妖怪ですが、縁あってお仕えしております」
背丈は私と大差ないし、彼女と小人族の関わりはよく分からない。
頭に巻かれた包帯からして、怪我をしているのだろうか。
「頭の怪我、大丈夫ですか?」
「ああ、これは大分前にしたものです。ご心配ありがとうございます」
それまで私と正邪のやり取りを見守っていた針妙丸が顔を出す。
「正邪!」
「ああ姫、ご無事でなによりです。さあ、戻りましょう」
「あ、うん。えっと……」
針妙丸がおどおどしながらこちらを見上げてくる。
ふと思いついて私は言った。
「少し休んで行ってください。今お茶を入れます」
私の提案に正邪は初めて難色を示した。
しかし針妙丸の後押しもあり最終的には家に上がる運びとなった。
リビングに案内したところ、正邪の視線が一番に向いたのは針妙丸の荷物袋だった。
「姫、道具は失くしていませんか」
「うん、大丈夫。雛が拾ってくれたの」
「そうですか、本当にありがとうございます」
正邪が私に向けて深々と、たっぷり五秒間は頭を垂れる。
「いえ、そんなに大切な物なんですか」
「うん、えっとね」
針妙丸が口を挟もうとしたところを正邪が割り込むように言った。
「ええ、どれも粗末な道具ばかりですが定住地のない私達にとっては大切な物なんです。
今後はこんなことがないよう休憩する場所には十分に注意します」
正邪が会話を早く切り上げ、ここから立ち去ろうとしているのは明らかだ。
針妙丸は状況が分かっていないのかしきりに首を傾げている。
出した焼き菓子を口いっぱいに頬張りながら。
それから四半刻ほど、私は正邪に質問をしたが針妙丸の言葉と矛盾するものは見当たらなかった。
一方の針妙丸はようやく手に取った焼き菓子の一枚目を食べ切った。
これ以上引き止めるのは無理があるし、そもそも自分は何故わざわざこんなことをしているのか。
そんなことを思量していると正邪がゆっくりと席を立ち言った。
「鍵山雛さん、この度は姫を助けてくださり本当にありがとうございました。
いつかお礼をしに参りたいと思いますので、本日のところはそろそろお暇させて頂きます」
「いえ、どうかお気になさらず」
先刻玄関で顔を会わせた時以上にはっきりと私の心は警報を鳴らしている。
でも、笑顔を浮かべたまま正邪に付いて行く針妙丸の表情がそれに結びつかない。
正邪が自分に背を向けてリビングを出た隙に、針妙丸の道具袋に紙人形を素早く一枚入れる。
後ろを着いて出て行こうとしていた針妙丸にそれを手渡す。
目を丸くしている彼女に顔を近づけ、人差し指を立てて「秘密」と呟く。
大人が小さな子に言い聞かせるように。
「一緒に連れて行ってあげて。もう貴女が川に落ちないように、ね?」
「姫、行きますよ」
「はーい!」
針妙丸は正邪の声に返事をしながら、こくりと頷いた。
「じゃあね雛、また会おうね!」
「うん、またね」
小さく手を振って、彼女と別れる。
今度はもう少しゆっくり、裁縫やお料理について話してみたい。
でもなんとなく、もう会えないような気がしていた。
理屈は分からない。
職業柄と言うべきか、私の嫌な予感は妙によく当たる。
そう言えば前に同じ紙人形を渡した少女も、同じことを言っていた。
「……でも、かわいそうだよ。このお人形、可愛いのに」と。
何もなければそれでいい。
でも、あの正邪という妖怪が纏う雰囲気は私の中にずっと妙な違和感を抱かせている。
***
数日後、後に輝針城異変と呼ばれる大規模な異変が起こる。
そして私は知ることになる。
その首謀者が彼女達二人であること、正邪に対して本能的に抱いていた危機感の正体を。
あの妖怪は人を騙し陥れることを生き甲斐とする、天邪鬼だった。
きっとあの子は今、泣いている。
手には棚に残っていた紙人形の一人。
針妙丸に預けたあの子はどうなっただろう。
ポケットに入れてきた鋏を手に取る。
痛みの根源が目に見えない物からであったなら。
少女の時も、針妙丸の時も。
貴女の白い胸に切れ込みを入れれば、ほんの少しでもなにかは変わるのだろうか。
否、きっと何も変わらない。
一度心に付いた傷を癒すことが出来るのは、時間しかない。
時間が少しずつ、痛みの存在を和らげていくのだ。
そして私に出来ることはいつだって、同じ。
今日も樹海の最奥で一人、目を閉じ祈りを捧げる。
もしもう一度会えたら、新しい服についてでも話そう。
来た道を引き返していると、側を流れる小川で水音と同時に川魚が一匹宙を舞った。
雛も針妙丸もかわいらしかったです
余計なことをしゃべらせまいとする正邪もよかったです