これは、幻想郷の新暦で第五季(明治二十三年、西暦1890年)の頃の話である。
妖怪の山。夏が終わり、紅葉の神は北側に面している木を使って葉に塗る色の試作を作っていた。
そんな山の峰を若い牛が一頭歩く。山の他の道がそうであるように、この経路もいつもは山童くらいしか使わない、道とは言い難い道だ。牛を通す二日前に白狼天狗達が太刀で木と藪をなぎ倒して開拓はしたが、どのくらいに整備された道なら楽に歩けるのかということについて天狗の想像力はいささか欠如していて(彼女達は空を飛べるが故に、道の重要さを正しくは理解していない)、牛は乱雑に放置された小枝を踏み上げては舞い散る木の皮に顔をしかめた。
牛に鼻輪をかけて引く若い天狗は、牛の苦悩にまったくもって同情を示すことはなかった。気分は若干滅入っていたが、それは牛の気持ちが伝染したのではなく、もう少し丁寧に道をならすべきだったという後悔を牛とは独立に抱いてのことだった。それと、自分を護衛している鴉天狗(そういう名目で大天狗がよこした)は悪路を使わず自分の頭上をのうのうと飛んでいるということへの嫉妬。
道の終わりで、牛がもっと苦悩せねばならないことを彼女は知っている。牛は食用に屠殺されるために山を登っている。しかしそちらの方は彼女にとってはむしろ苦役に対する救いだった。
†
ある種当たり前の話ではあるが、幻想郷の妖怪は明治以前から普通に肉を食べていた。精進料理やそれに類するものだけで腹を満たそうという仏教的価値観に溢れる妖怪は異端中の異端だった。
ただ、人と家畜の食用については、大結界成立以前からむやみに食べてはならないという緩やかな決まりが存在していた。結界以前より、幻想郷は山奥の田舎の街だった。そのような場所で人口を破壊するようなことがあっては取り返しのつかない災厄となる。暴食も災厄のうちだ。家畜も人の生活を土台から支えているから規制の対象となった。それに、家畜は五人、六人、七人、八人といる家族に牛か馬が一頭という割合だったから、人よりむしろ家畜の方が少なく貴重だった。
家畜は(ついでに人も)、人に恐怖を与えるという目的で狩るのが許されることが不定期にあった。人間側に予測されては意味をなさないのでいつ殺していいのかは決して人間側には知らされない。更に言うと実のところ妖怪側に管理者のうちの誰かが「狩猟解禁」を通告するということもなく、しばらく家畜が襲われていなかったら数頭狩るのが許され、狩りすぎると人間側から刺客が放たれ出過ぎた杭が打たれて終わるという運用だった。他に、「事故死か病死して人間に即座に回収されなかった家畜の腐肉は食べてもいい」という決まりもあったので事故に見せかけて家畜を攫おうということに知恵を絞る妖怪もいなくはなかった。
ただ結局、家畜の狩猟に関する決まり事は煩雑かつ窮屈だったので面倒な家畜よりも狩りやすい野生動物を狩ってときどき人肉を食べる、という妖怪が大半だった(数の差から、人間は家畜よりも頻繁に狩るのが許されていた)。
日本という国家において数百年続いた徳川の幕府が崩壊する頃までは。
†
「牛肉を食べたくないか?」
鴉天狗の大将、大天狗の飯綱丸龍の誘いを、部下の射命丸文は右から左に聞き流した。この上司は二、三百年くらいは同じようなことを提案し続けている。一々まっとうな受け答えをしていたら、今までの間に総計一日分以上の時間を浪費していたに違いないと文は考えている。
当時から変わらず、龍は阿蘭陀
製の遠眼鏡を磨きながら話しかけてくる。昔「よく飽きませんね」と返したら「飽きるも何も、これは数年前に出島に来た蘭人が持ち込んだ最新型だ。これだから素人は駄目だ。もっとよく見ろ」と望遠鏡話に一刻は時間を取られる羽目になり、別種の面倒が発生するのだと文は学んだ。今でもよく飽きないなこいつという思いはあるが、それは心の中に秘めておくことにしている。
当時と今で何か違いがあるとすれば、龍という西洋かぶれの大天狗の言がここ最近は輪をかけてやかましくなったということだろう。理由は間違いなく明治直前から起こった近代化の波だった。黒船来航以来、この国の価値観はひっくり返り、科学や合理性などという考え方は妖怪の存続すら危うくするものだった(だから数年前に博霊大結界によりこの地は外界から隔離された)。だが、結界という防壁があってなお津波は幻想郷内部をも飲み込み、妖怪の中にすら自身の存在を消し去りかねないという負の側面があってなお、便利なもの良いものはあると外国文化を積極的に取り込まんとする者がいた。龍もその一人だ。
一方文は、西洋にそこまで関心がない。既にある風潮に乗るのではなく風は自分で起こすというのが文の信条だったが、近代化によってもたらされたあれやこれやに時流を作る価値があるのかどうかというのには未だ懐疑的だった。これまでも特定作家の浮世絵や算額が幻想郷で流行ったことがあったが、その全てに文が乗ったわけではない。流行りそうだから乗るのではなく、あくまで面白いと思ったものを耳触りがよいように広めるのが文なのだ。
「じゃあ家畜小屋から攫ってくればいいじゃないですか。確かそろそろ狩ってもいい頃合いでしたよね?」
家畜を料理して食べるという行為、西洋派からはやけにもてはやされているが、妖怪はずっと肉を食べてきたではないかと、文は刺さらない派だった。そのことで上司がやかましいというのが面白くないという方向に大幅に針を振っているという面は否めないが。
「里の牛は役畜だ。四六時中重労働しているしどれも老いてるから食肉用の家畜としては二流だよ。最初から食べるために太らせて、二年か二年半かしたら〆て食べる。それこそが至高なのだ。なあ?」
「可哀想に、射命丸殿はステーキの味すら知らないのです」
龍の手下の管狐まで龍の味方として出張ってきた。管狐とは種族単位で美食家であるからにして、それが自慢するのだからさぞ美味いのだろうとは文も思う。が、牛が美味いのは当然のことで、なぜ龍がそこまで鼻息荒く牛を食べようと誘うのかがやっぱり分からない。あとステーキとやらの味の良しあしは別として、この一々神経を逆なでする喋り方をする子狐は、龍の目が届かない場面だったら間違いなく一発ぶん殴っていたところだった。
「別に里の牛だって最初から大人ではないんですから、子牛のうちのものを攫えばいいじゃないですか。私は仕事があるので」
文の仕事とは新聞作りだ。元々木版印刷で刷ってはいたが、最近西洋式の活字印刷が妖怪の山にも入ってそれで刷ることができるようになった。これは文が受容した西洋文化だ。良しあしを都度自分で判断するというだけで文は別に反西洋ではない。便利なものは便利なのだった。
「まあ待て。お前の仕事とは新聞だろ? 新聞は書くのにネタがいる。牛肉を食べないかというのは新聞のネタになるんじゃないかというのもあっての提案なのだが」
「妖怪が牛を食べるということに今更なんの新規性があるんですか。せいぜい見開きの内側の日常生活の欄を数行埋めるだけですよ」
「牛ではない。牛肉だ。生肉を腸から食らうとかいう獣じみた食べ方ではなく、文明人として牛を屠殺し、文明人として牛を切り分け、文明人として調理して食べる。その全てを儀式的に行う」
「なるほど。それなら紙面の賑やかしにはなるでしょう。が、人間ごっこ、という誹り
は受けませんかね。正直私はそう感じずにはいられませんが」
「今回私はうつけ扱いだろうね。しかし五年後には逆に儀式にする価値もない日常になるだろう。そのくらい牛肉とは素晴らしい食材なのだ。で、五年後には逆に過度な攘夷志向の連中が老害行きさ。聡明なお前なら勘づくだろ? 儀式として牛肉を食べるというアイデアは文明への寛容さを測る踏み絵という意味もあるのだ」
「大鴉は口角を上げて意地悪く笑った」と、文はこの日の日記にそう書き残している。
†
山の七合目あたりの地点にある広場には百人近い天狗が集まっているだろうか。
龍による牛肉の誘いが(主に誘われた側の根負けにより)収まってから半年くらい。龍自身が言っていたが、牛が産まれてから育つまでに二年はかかる。半年ではできない。つまり龍はこの企画が賛同を得られるかどうか分からない、根回しをするより前に牛を育て始めていたということになる。文とて無知ではない。獣が数年育つのにもかなりの量の餌と敷地面積が必要になる。龍の口ぶりとその性格からして、牧畜を産業としてしようとしている可能性があり、そうであるならば育てている牛は一頭二頭ではないかもしれない。
「厄介な人に権力と金を集めたものよね」
文は今回の行事については消極的支持の立場をとっていた。本題の牛肉を食べるということの魅力を図りかねたのでまずは権力闘争の一幕として見ることにしていた。龍の積極的な文化運動は天狗社会の権力者層を動かしうる。もし龍が馬脚を現すようなら裏切って勝ち馬についてやろうかと考えていた。実現すれば一番楽しいことになっていただろう。
しかし、その可能性は低そうだ。龍の持つ政治力から逆算するに、その対立派閥の影響力は推して測るべきだ。文は正直面白みに欠けると失望した。
広場の中央には牛を吊るすための組木が二頭分ある。
「今日は二頭食べるんですか?」
文は龍に尋ねた。
「いや、一頭だ」
「じゃあどうして二頭分用意したんですか」
「前に言ったが、今回の行事は踏み絵でもある。絵を踏みたがらない輩はどうにかして妨害をするだろう」
「つまり牛が来ないかもしれないと」
「どうだろう。仮にそうなったら私は大失敗なわけだが、当然護衛はつけているし、牛を引いてる天狗も若いながら戦闘面では実力者だからな。襲撃は失敗するものと信じている。が、それで諦めるタマではないだろうから次の手を打つものとは予見しなければならない。つまるところ、高確率で牛は二頭来る。稀な確率でゼロ。正しく一頭だけ来るとはもとより考えておらん」
古来より偽物に化けて人を騙す、偽物を渡すというのは天狗の常套手段。自らの敵対者が伝統主義者である以上、そこは原則通りに来るだろうと龍は読んでいる。そもそも牛をごまかすには牛の数を足すか本物を除くかしかなく、後者が護衛の手により無理なら必然的に前者になる。
短気な天狗が牛はまだかと急かし始めたあたりで、龍の読み通り牛が二頭広場に入ってきた。
「ここで屠殺を一頭づつしかできない準備だったらどっちが正しい牛か見分ける格付けが始まってたわけだ」
「飯綱丸様ならそのくらいわけないことなのでは」
「いやあ、大天狗とまではいかなくともそれなりの格の天狗も向こう側にはいる。私といえども骨が折れる。最初から二頭分の用意をしておけば勝負する必要すらないからな」
二頭の牛は逆さ吊りに吊るされて、天狗の持つ太刀による絶命を待つばかりとなった。
「糞だな」
その様子を見ていた龍が唐突にそうつぶやき、文はこの場にも、一応淑女であるという龍の属性にも似つかわしくないその発言にぎょっとした。
「なんですいきなり」
「いや、偽物の牛を作るのにも皮の下に詰め物がいるだろ? で、一頭づつ吊るすという想定をするなら、一頭目に偽物を私が選んだ場合に二頭目を切れる状況ではなくなる、そういうものを詰め物には選ぶはずだ。私はそれを糞と読んだね。お前はどう思う? 一つ賭けとでも洒落込もうじゃないか」
「じゃあ私は石と賭けましょう」
二人の天狗は牛の首に向かってほぼ同時に太刀を斬りつけたが、龍と文から見て左側の牛がガキッという耳障りな音を立てて石を太刀の切れ目から大量に吐き出した。天狗は折れた太刀を手にしたままざわめきの中しばし呆然としていたが、これも偽物、ふと我に帰って背筋を伸ばしたかと思うと一匹の狸に姿を変じて逃げ去っていった。それを見た典は露骨に舌打ちをする。
「私の勘も鈍ったかな。まあ賭けはお前の勝ちだ。お代は金でも酒でも構わん。最近外来の瓶が手に入ってな」
「灘ですか」
「伏見だ。最近戊辰の戦乱からようやく復興したそうでな」
「それは重畳ですね。もっとも今の我々にはもはや関係のないことですが。まあ賭けの支払いをどうしてもらうかはもう少し考えておきます」
龍と文が即興の賭けの結果について話していると、鼻高天狗の大天狗が割り込んできた。
「あれは反対派の策謀かな」
「でしょうね」
「あいつらが用意した牛ですからね。お望み通り石の鍋でも食わせてやりましょうか」
この鼻高天狗は天狗内でも評判な皮肉屋なのだった。
「やめとけ。食器と燃料の無駄だ。こちとら牛肉を食べるのに忙しい」
「そうですよ。下賤な狸なんぞの手を借りなければ一手とて打てない零落した雑魚に労力を割くなど誠に無利益」
典があからさまな個人的な好き嫌いで龍に同調した。飄々として人を誑かすいつもの姿は欠片もない。
「そういう意味で言ったんじゃないんだがな……」
結局、解体場が広くて別に邪魔にならないこともあり石牛は適当に放置されて、本物の牛の解体だけが順調に進んでいった。肉が食えるならなんでもいいという賛同者の中でも一番蛮族なのは、地面に落ちた血が勿体ない、酒に混ぜて飲ませろなどと騒いでいた。止めに入ったのかはたまた賛同しにいったのか、鼻高天狗の大天狗は騒ぎの群れへと消えていった。
「ちっせえよな」
「血を飲ませろと騒いでる天狗がですか?」
龍が脈絡なく毒づいたのを聞いた文がその主語を尋ねる。
「我々の邪魔をすべく偽物の牛を混ぜた奴らが。本物を排除できなかったのは仕方ないにしても混ぜるのが一頭だけってなんだ。私が同じ立場だったら百頭用意するね。そもそもの発想のスケールが小さいんだよ」
「そうですよ。だから所詮あいつらは崇高なる狐も使えず狸野郎(かとうせいぶつ)に頼るしかないつまらん奴らでしかないんです」
「典よ。これには狐も狸もない。平凡な発想しかできなくなった奴はそれに見合った地位に収束していくという一般論だ。嘘もだよ。小さな嘘はより大きな嘘で覆い隠すことができる」
「詐欺師に悪知恵を与えるとか飯綱丸様も危ない橋を渡りますねえ。破滅しても知りませんよ」
「案ずるな。どうせ釈迦に説法だろうよ」
牛は皮を剥がされていた。皮は誰も食わないし他で使った方が有意義だと皆知っているので争いにはならない。次に内臓の摘出があり、ここで捨てるななんだという喧騒がまた訪れるのだろう。
「他愛ないな」
「他愛なくしたのは飯綱丸様でしょうに。私の知る限り、西洋文化を受け入れるか否かは天狗内でも賛否両論のはずでした。だから単に祭りを開いただけではここまで賛同者ばかりになるはずがないんですよ。大天狗なんて全員こっち来てるじゃないですか」
「まあ根回しはしたよね。とはいえちょっと『権限』を使って外の世界の料亭で接待したら大天狗組は全員こっち側についた。いいものはいい。美味いものは美味い。これは思想を超えた真理だよ」
「一応聞きますが天魔様は……?」
「牛肉は奉納した。ありがたく受け取ってもらえたよ。が、あのお方はコロンブス以前から大地が球体であることと新大陸の存在を知っていたようなお方だ。我々が今更何かすることでもないのだろう」
文は話を聞いていてとんだ八百長試合だと思った。お上が意思統一してしまっている時点で天狗という厳格な身分社会において上に反対するような意見が勝てる道理はない。ここまで圧倒的だと、前日まで飯綱丸様がコケたらそれを見た瞬間裏切ってやろうなどという想定をしていた自分が信じられない。
しかし、客観的には明らかに勝ちが確定しているのに飯綱丸様は余裕の表情ではなく、妙に引き締まった緊張した表情を見せている。それが文には気になっていた。
†
「やぁやぁやぁ」
牛から腸
が出てきたタイミングでまた外野がやかましくなった。が、その原因は予想されていたものとは異なる。先ほどまでこの場にいなかった天狗が増えたのだ。
乱入した天狗達は自分達の濡羽色の羽と対極をなす白色を基調とした和服の装束で統一していた。そこまではいいのだが、「攘夷」と大きく墨書されたのぼりを何本も掲げていた。文はその様子に痛々しさすら覚えた。
乱入者は彼女らが言うところの「伝統的装備」である日本刀で武装していたが、鬨
の声をあげて会場に一歩足を踏み入れた瞬間、自分達の三倍の兵数の警備兵に取り囲まれたとなってはそれを抜くことも叶わず。
「待って待って。私達は戦を仕掛けに来たわけじゃない」
と狼狽した声で弁明するばかりだった。
「戦でないとしたらなんだ、降伏か? そうであるならば幸いだ。命と生活は保証してやろう」
龍は龍で余裕の啖呵を切っているように見せているが、その顔は引きつった表情筋を無理やり動かしたかのような笑顔だった。
「話し合いよ。剣や銃ではなく弁論によってこの問題に雌雄をつける」
「面白い。どうしようもない脳筋共とばかり思ってたが中々見るべきところがあるじゃないか」
「当たり前よ。私達を誰だと思っていて」
文は彼女達に見覚えがあった。天狗内で発行されている最大手の新聞の編集グループ。確かに剣よりも筆が似合う連中だ。
そして、飯綱丸様が彼我の戦力差を考えれば不自然なほどに神経を尖らせていた理由も分かった。相手には大天狗はいない。競技という側面もある新聞発行は名目上は政治とは分離しているということになっているからである。しかし最大手ともなるとその代表はもはや大天狗と同格ともいえる権力を有している。政治からの分離という名目はどこへやら。天狗における第一の情報源とは第一にこの新聞になっているので一つ一つの事件に対する立場が非常に大きな影響力を持つ。しかもこの権力や影響力は大天狗とは別に、である。この点は名目を無視して大天狗の部下に収まっていないといけない文のような個人新聞主とは異なる。
乱入者は広場に持ち込んだ組み立て式の長机と椅子を並べた。掃除前の乱入だったせいで獣の血と消化しかけの内容物の臭いが残っているが、彼女達は全く意に介す様子もない。
龍は「野蛮人が……」と小声で悪態をついたが、すぐにこの様子は滑稽だと、典に命じて箱のような形の機械を持ってこさせた。
「やめなさい。そんなものを人に向けて」
新聞社の編集長が怒った。機械には黒目のない大きな一つ目が正面についていて、それが彼女の方を向いていた。
「銃じゃないんだから構わないだろ。この様子は記録すべきだ」
「私がカメラも知らない野蛮人だと思っていて? 誰が好き好んで魂を抜かれようとするっていうの」
「そういうところが野蛮人なんだろ」
龍はため息をついて鞄から銀製の板を取り出した。典に撮らせた自分の写真である。
「ほらこんなにイケメンに写る」
「はいはい美人美人。そんなこと言われたって私は写りませんからね」
編集長が高速飛行して挑発まで始めたので龍も渋い顔をして妥協せざるを得なかった。結局、写真機は机の新聞社側に、龍だけが写る配置で置かれることになった。
写真機の置き場所を決めるので自然に双方の関係者が着席したので、そのままなし崩しに議論が始まった。
「まず率直に、君達の要求はなんだ」
「今回の祭りの中止と、これ以上夷人
……外国の文化を導入することを止めることね」
「ではそれがなされなければ」
「私達は新聞発行を無期限に停止する。傘下の新聞や記者の派遣も含めて」
「到底飲めるものではないな。これは確かに交渉が必要だ。しかし、君達も牛を含む肉はこれまでも食べてきただろう? 食べ方一つでここまで非難する意図が分かりかねるね」
「これは牛を食べる食べないの話ではないということは貴方が一番よく分かっておられるはずよ。この場の主眼は、少なくとも貴方にとっての最大の目的は西洋人文化の示威的な紹介。貴方は伝統的な天狗のあり方を得体の知れぬ異物で上書きしようとしている」
「最近の新聞は活字印刷になったという理解なのだが。自分達は西洋文化の恩恵を受けておきながら他人のそれは否定するというのは二律背反ではないかね」
「活字印刷は主流でなかったというだけで、この国にも常に存在し続けていたわ」
「ではやはり、我々は今までも肉を食べ続けてきたではないかと主張せざるを得ないな」
「私達は伝統文化を守るという目的を達成する手段として技術を使う。貴方は手段そのものが目的と化している」
「誤解、というのは流石に情報専門の君達に言うのは失礼か。杞憂、というべきだね。西洋化は必ずしも妖怪の絶滅にはつながらない。私は英語を勉強するときに外国の小説を読んだ。吸血鬼という強大な妖怪にまつわる本だったが、それが書かれた時代のエゲレスは既に今の日本よりも遥かに工業化も科学信仰も浸透していた」
「その小説というのが問題なんでしょうよ。科学は人間に物事を説明する言語を与え、その言語は非文明社会では信じられないような速度で信じられないような範囲にまで伝播する。少し前まで実在してた妖怪が架空の物語の産物にまで堕ちる。このままだと我々の世界すらも実在しない小説の文字列に変質する、というのは決して杞憂ではないはずよ」
「人間
五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻
の如くなり。貴方の懸念よりももっと急進的な、この世界は特定個人の脳が見ている夢にすぎないという仮説すら世の中には存在する。しかし、仮に作り物だとしても、世界を構成するにあたって存在が期待される諸要素の全てがある以上、ここもまた我々の主観では正しく存在する世界だ。客観で見たときに現実か小説かというのは実は大した問題ではない」
「世界とは不安定なものよ。事実、人間の思考の変化で私達妖怪が消える危険があったから世界を結界で二つに分けた。近代化とは人間を太平の眠りから覚ます鐘の音のようなもの。それをよりにもよって私達の中で鳴らそうなんて正気の沙汰じゃない」
†
「ちょいと出かけますね」
文は議論勃発からずっと、机から少しだけ離れた場所でメモを取り続けていたが、おもむろに龍のもとへと近づいてそう告げた。
「帰るのか?」
龍は悲しそうな顔をした。
「いえいえ。しばらくしたら戻りますよ」
「そのしばらくがどのくらいかが問題なんだよ」
「それは交渉次第なんで。ただまあ、おかげさまでそんなに時間かからないと思います」
「何がおかげさまかは分からんが、そういうことなら。議論をして牛の解体が終わるまで多分三時間もかからない。牛の解体は記事にする上でも一つの見せ場だろうから……」
言い終わる前に文は飛び去った。
「あれが貴方の部下ですか。随分とそそっかしいですね。上司の統率力が見える」
「鴉天狗だからといって無条件に私の支配下にあるわけじゃないよ。天狗ってのは元来自由なものだ。それは他でもない鴉天狗のお前達が一番よく分かってることだろうよ」
文が飛び去った後も話し合いは続けられたが、互いに歩み寄る意志は見せることなく、その意志通りの結果に落ちていった。
「遺憾ながら両者の溝は埋まりそうにないわね。我々は宣言通り、職務の無期限停止を宣言します」
編集長は椅子から立って、部下に命じて机を片付けさせ始めた。龍もむしろもっと早く会議が瓦解に終わるものと思っていたので、しばらく前から机は撤収されるものと卓上には紙切れ一つ置いていなかった。
「遺憾ながら、はこちらの台詞なのだがね」
今日という一日も気が付けば三分の二が終わっていた。初秋とはいえ標高の高い妖怪の山は夕方になるとだいぶ気温が下がる。冷たい風が編集長と龍の間にも吹いた。
「本当に残念だよ。黙って時代の流れに従ってさえいれば地位も守れただろうに」
「『時代の流れ』ではなく『貴方が作った流れ』でしょうが。我々はその傲慢に鉄槌を下すのです」
「時代の流れとは星の巡りだ。その分野で私に楯突こうなどと千年早い」
「貴方の流れに従っていれば千年どころか百年も経たず天狗族は滅亡ですよ。貴方がそれまでに改心して我々を元の地位に戻してくださることを期待しています。では、御機嫌よう」
乱入者達は北風に乗って去っていった。後には黒く長い鳥の羽が数本だけ残った。
祭りの参加者達はその瞬間だけは静かにざわめいていたが、すぐに先ほどまでのことが歴史上存在しなかったかのように、牛の見物やら雑談やらに戻っていった。
「あやや。会議はもう終わってましたか」
それからおよそ三十分後、文は机がなくなった広場に、拍子抜けした顔で降りてきた。
「そりゃもうお前が去ったときの状態から進展のしようもないからなあ。この分だと長く、五年くらいは対立が続くかね。まあ予想通りのことではあったし、改革には痛みを伴うものとは覚悟していたつもりだが、なんだかんだで胃は痛いよ」
「ふふん」
「なんだよ気味悪い」
「もう一回賭けをしません? 私は三年もすれば収まるものと思ってます」
「賭けには乗らない。その様子だと、何か仕込みをしたな? 出かけたのは仕込みのためだ」
龍は眉間に皺を寄せた。
「流石にバレますよねえ」
「何をした?」
「河童のところに。実はあいつらの耳が最近やたらと早くなって気になってたんですよ。案の定新しい通信手段を持ってやがりました。『デンシン』って言うらしいです。言葉の響きから察するに、神を伝書鳩みたいに使って通信するんでしょう」
「その理解は色々と間違えてる」
「原理が分からずとも使い道と使い方が分かれば用をなすのですよ。原理なんてものはそれこそ河童にでも食わせておけばよいのです」
「お前はそういうところがなんというか小賢しいんだよ。で、河童を脅して電信を使わせたと」
「いやいや。私が腕っぷしを使ったのはデンシンの存在を引き出すところまです。使用許可をあいつらから引き出すためならこれの力を使った方が早いですもん」
文は片手で金のサインを作った。
「それはそうだな。しかしお前、河童組織一つ動かせるほど裕福だったか?」
「心配は無用です。請求書の名義は全部飯綱丸様にしたので」
「はあ!?!?!?」
「先の賭けの支払いはこれということで。お酒は大丈夫です」
「こっちが大丈夫じゃないよ」
龍は味方がとんでもない狂人だったと頭が痛くなった。というより、最早ここまでくると味方かどうかすら怪しい。
「お前実はあの新聞社とグルじゃないのか? 私を経済的に追い詰めて弱体化させようという」
「心外ですよ。まさか私がそんな管狐みたいな下衆なことをするわけないじゃないですか」
「外道な天狗には言われたくないね」
典が横から抗議の声を挙げる。
「いやいや。私だって独立した新聞記者としての誇りがありますから。私なりにこの問題を解決しようとしているのです」
「ほう。日和見という意味で烏だと思っていたが」
「烏とは決して日和見ではなく賢い鳥なのです。まず前提として、あの新聞社のような旧態依然とした体制は確実に朽ち果てる木です。これは飯綱丸様も分かっておられることでしょう」
「そうだな」
「飯綱丸様は待っていれば木が折れることが分かっているから、それを最低五年と見積もって待つ方針にすることにした。しかしですね、どうせ折れるのが分かっているのならとっとと新しいものに変えてしまうべきでしょう」
「それがお前の積極策か。……前近代の情報伝達体制を河童の電信網を利用して置き換える。……更にはこれで河童との結びつきを強め、利用できるものがあれば他の技術も輸入する」
「流石ですね。一を聞いて十を知るとはまさにこのこと。私は自分なりに判断して、情報に関する技術はむしろどんどん受け入れて情報を加速させるべきと考えましたよ。そうすればあんな旧態依然とした新聞組織は一瞬で価値を失って、新しい新聞体制はなし崩しに、混乱もなく構築されます。個人的には版木を手彫りするのも活字を一個一個並べるのも両方面倒くさいんで次はそれを自動化できないものかなと」
文が龍の理解力に感嘆の表情を見せるのに対して、龍は背中に寒けを覚えた。部下が自分の金に無断で手を付けたと知ったときの比ではない。
「……それが、天狗を破滅させる危険性を妊む、崖の両端に張った縄の上で曲芸をするような行為だということは、一瞬でも考えなかったのか?」
龍の声は震えていた。
「はて? 私は飯綱丸様ほど察しよくはありませんので」
「端的に言うとだ、お前は情報の主導権を河童に譲り渡そうとしている。河童がもし電信網を封鎖したらどうなる? 河童が人間に情報を伝達するようになって『風の噂』が『水の噂』になったら? 我々の存在意義が丸々一つ消滅するんだぞ」
「誤解しておられますね。主導権は未だ我々の側。手段の一部において河童と共同することはあるでしょうが、仮に不都合があれば、こちらが情報を出さなければあいつらは干上がるのです。今回も速報で山の注意をこちらに向けさせ、しかる後にわ
た
し
の新聞を撒く、そういう計画の補助として河童を使ったまでです。逆に考えてもみてください。あれだけの技術を持っていてそれで少なくとも情報分野に関しては完全に我々に劣後しているのは、そもそもあいつらに情報を使ってどうこうという意思も知恵もないからです。これは種族の優劣の問題なので、多少我々が手を加えたところで変わるものでもない」
「ううむ。結局のところ賭けなのではないかと思わずにはいられないな」
「おや、賭けはお嫌いで?」
「私が賭けるのは負けたときの損害が個人で及ぶ範囲だけだ。組織としては確実に勝てるように準備から入念に手を打つ。今日だってそうだ。まあ、今日で個人的な賭けも控えた方がいいのかと思い始めたが……」
「私のいないうちに何か酷い目にでも遭いましたか?」
「あのなあ……」
龍は文を説教しようとしたが、白狼天狗に声をかけられ、祭りの方を放置していたことを思い出した。全く気が付かなかったが「とっとと肉を食わせろ」という怒号も聞こえてくる。
龍は牛の解体の指示をしに向かった。そして「写真映えするから」と文を連れていき、「これがロースでばら肉はこの位置から……」などと説教の代わりにねちっこく講釈をして文を辟易とさせたのだった。
†
広場の至るところに七輪が置かれ、それぞれが木炭の煙を細く上げていた。龍はそのうちの一つに、横に文を座らせて陣取った。まだ七輪に火をつけただけで上に置く鍋の用意は途中だが、既に龍は酒瓶の一本目に手を付け始めていた。
「残酷なことだが、ただ存在するだけで妖怪は人間に恐怖を与えることができる、そんな時代はもう終わったんだ。結界があったとしても、人間が進歩することは完全には止めることはできない」
「飯綱丸様の行動原理が焦りなのだろうとはおぼろげながら分かってきました。しかし、いくらか悲観的すぎやしませんか? 人が鳥を弓で射る時代から銃で撃つ時代に移ってなお、制空権は我々の側にあり続けています」
「そうした驕りが破滅を生みかねないのだ。人間とて、魔法や科学の翼をいつ得たものか分かったもんじゃない。というか既に一部では得ているのだから、あとはそれが全体に普及するかしないか。ここの部分における人間の早さはお前も知ってるだろう。私が悲観的なのはそうかもしれないが、私の立場ともなると判断一つで我々全体が繁栄するか絶滅するかの分かれ道を作りかねないのだよ。だから」
「だから?」
「少なくとも、牛肉の味が旨いことを一番よく知ってるのは我々天狗でなければならない」
龍が鼻息を荒くするのに、文はため息をついた。
「結局それに行き着くんですね。まあそれはいいとして、これはなんです?」
文の言う「これ」は二人の近くに机を置き、ネギのざく切りを作り続けていた。既に大きな半球の器三つがネギで埋まっていたが、その倍か三倍のネギが棒のまま残っている。
「人に向かってこれとは失礼ね。それよりめぐむん、ネギを切る担当もう一人増やしてよ」
「失礼なのは貴方ですよ。失礼な空気感を出してるからこっちも丁重に扱おうという気が失せるんじゃないですか。誰ですめぐむんって」
「めぐむんは私だ」
龍は苦笑した。
「こいつは新人の天狗でな。名を姫海棠はたてと言う。姫海棠の親から私が教育を任されたので『今風に』したのだが」
文は「教育をした結果がこれですか」と言いかけたが、まだ素面だったので言ったら失礼にあたるなという理性が辛うじて上回った。
「見ての通り、いささかリベラルに育てすぎた」
「私の性格なんて今はどうでもいいじゃない。今の問題は山積みされたネギの加工よ。ちょうどそこに暇してるカラスが一羽いるんだからさあ」
「はたてや、ネギを斜め切りにするだけなんてそう手間でもなかろう。面倒くさがらずにやる!!」
「もっと他に教育すべきところがあると思うんですけれど。性格とか」
結局文は失礼を選んだ。
「既にできた性格はそう簡単に変わるものではないよ。お前が一番よく分かってるだろうに」
「ねー」
「よってたかって酷い。こんなに公明正大な天狗、他にいないってのに」
「それ、本気で言ってるなら逆に尊敬ものだな」
「いや、だから今は性格の話よりもネギを切るのが」
「無問題無問題。どうせ調味料も運ばないといけないんだ。今から手の空いてる天狗に蔵まで取りにいかせて、戻って来るころには丁度終わる計算だ」
「んまあ、そういうことならいいか」
「いいんかい」
「というわけで」
「はい?」
龍に顔を向けられた意図を数秒文は理解しかねた。時間差で得た結論は「手の空いてる天狗」とは自分のことらしいということで、遺憾なことにその結論で合ってたらしかった。
天狗社会において上司とは概ね横暴だ。仮にこれを指摘したとして、持っている権力を行使しているだけ、相応の責任も負っているといったお決まりの回答が返って来るだけだろう。しかし横暴は横暴と断定せざるをえないと、文は樽に詰まった味噌を抱えて空を飛びながら小声で愚痴をこぼす。
今回がまだ不平等でないところは、材料の用意が完了したら後の作業をするのはどの鍋でも上司側だというところだ。至極当然な前提として、宴会の料理になる「牛鍋」なるものの作り方を普通の天狗は知らない。
龍は味噌と醤油と酒と砂糖をそれぞれ同量ずつ混ぜたものを作った。これが鍋の味になるようだが、隣の鍋では明らかに酒の量が多いものが作られていた。それを作っている天狗は既に大量の酒が入って赤ら顔になっている。
肉も、牛の体から塊を切り分けるときはロースがどうバラがどうと言っていたのに、それが皿に乗った状態で来てからこの肉の部位はなんですかと聞いても、牛肉ならなんでもいいじゃないかと返される。どうも牛鍋という料理は適当なものらしかった。
鍋は浅い鉄鍋だ。それに油を敷き、厚板をぶつ切りにしたような肉(この切り方もまた適当なのだ)を並べ、上にネギと混ぜていた調味料を置く。
あとは一度肉をひっくり返して両面に火を通しつつ、蓋をして煮ると完成とのことだった。ただ、確かに蓋をされた鉄鍋からはグツグツという音がするとはいえ、鍋というには水が少ない気がする。「焼き」という名称を入れる方が実態に即しているのではないかと文が問うと、そうかもしれないと龍は答えた。どこまでいっても適当だ。牛肉を調理するという行為には人を適当にする作用があるのかもしれない。
龍は牛肉食に関して天狗が最も先進的であるべきだと主張していて、今回の席は啓蒙という目的があるはずだ。しかし、その割に、鍋の主導権はどの席でも龍のような、元々牛肉料理を食べ慣れている上司側が握っているような気がしてならない。これが文の感想だった。
牛鍋が多くの天狗にとって見慣れぬ料理とはいえ材料から味の予想はでき、当然肉とネギでは肉の方が美味いだろうから、鍋を駆け回る箸は肉を取り合う戦いを演じることになる。龍は「その肉はまだ煮えていない」「生肉を食べるようでは野蛮な獣と変わらない」などと部下の箸を牽制しつつ、自分の箸ではまだほのかに赤みの残る肉を攫っていた。
文はこの様子は、柿の木に群がる猿のようだと思った。暇なときにたまに猿の観察をすると、柿にしろ他の果実にしろ、一番熟れた美味しい実は大体親の猿の口に入る。力も知恵も子よりも親の方が強いのでやむを得ないのだろう。ただ五個に一個くらいの割合で、子供も実を拾うのに成功して、猿の親とて子供が持った実を横取りするほど意地汚くはないようである。
龍もまた、部下が牽制を越えて肉を拾うことに関しては無頓着だった。親猿のごとし。
しかし天狗と猿との違いとして、今龍の周りで同じ鍋を囲んでいる面々は誰も血縁関係にはないのだった。龍がはたての教育者だが、血の繋がりとしては赤の他人で、本能的に母性が刺激されることはない。親子や家族の愛という本能に頼らずにこの場の秩序は形成されている。
天狗は猿より進化している。文は、今度の記事はそう結論づけようと決めてフレーズを手帖に書き込んだ。
妖怪の山。夏が終わり、紅葉の神は北側に面している木を使って葉に塗る色の試作を作っていた。
そんな山の峰を若い牛が一頭歩く。山の他の道がそうであるように、この経路もいつもは山童くらいしか使わない、道とは言い難い道だ。牛を通す二日前に白狼天狗達が太刀で木と藪をなぎ倒して開拓はしたが、どのくらいに整備された道なら楽に歩けるのかということについて天狗の想像力はいささか欠如していて(彼女達は空を飛べるが故に、道の重要さを正しくは理解していない)、牛は乱雑に放置された小枝を踏み上げては舞い散る木の皮に顔をしかめた。
牛に鼻輪をかけて引く若い天狗は、牛の苦悩にまったくもって同情を示すことはなかった。気分は若干滅入っていたが、それは牛の気持ちが伝染したのではなく、もう少し丁寧に道をならすべきだったという後悔を牛とは独立に抱いてのことだった。それと、自分を護衛している鴉天狗(そういう名目で大天狗がよこした)は悪路を使わず自分の頭上をのうのうと飛んでいるということへの嫉妬。
道の終わりで、牛がもっと苦悩せねばならないことを彼女は知っている。牛は食用に屠殺されるために山を登っている。しかしそちらの方は彼女にとってはむしろ苦役に対する救いだった。
†
ある種当たり前の話ではあるが、幻想郷の妖怪は明治以前から普通に肉を食べていた。精進料理やそれに類するものだけで腹を満たそうという仏教的価値観に溢れる妖怪は異端中の異端だった。
ただ、人と家畜の食用については、大結界成立以前からむやみに食べてはならないという緩やかな決まりが存在していた。結界以前より、幻想郷は山奥の田舎の街だった。そのような場所で人口を破壊するようなことがあっては取り返しのつかない災厄となる。暴食も災厄のうちだ。家畜も人の生活を土台から支えているから規制の対象となった。それに、家畜は五人、六人、七人、八人といる家族に牛か馬が一頭という割合だったから、人よりむしろ家畜の方が少なく貴重だった。
家畜は(ついでに人も)、人に恐怖を与えるという目的で狩るのが許されることが不定期にあった。人間側に予測されては意味をなさないのでいつ殺していいのかは決して人間側には知らされない。更に言うと実のところ妖怪側に管理者のうちの誰かが「狩猟解禁」を通告するということもなく、しばらく家畜が襲われていなかったら数頭狩るのが許され、狩りすぎると人間側から刺客が放たれ出過ぎた杭が打たれて終わるという運用だった。他に、「事故死か病死して人間に即座に回収されなかった家畜の腐肉は食べてもいい」という決まりもあったので事故に見せかけて家畜を攫おうということに知恵を絞る妖怪もいなくはなかった。
ただ結局、家畜の狩猟に関する決まり事は煩雑かつ窮屈だったので面倒な家畜よりも狩りやすい野生動物を狩ってときどき人肉を食べる、という妖怪が大半だった(数の差から、人間は家畜よりも頻繁に狩るのが許されていた)。
日本という国家において数百年続いた徳川の幕府が崩壊する頃までは。
†
「牛肉を食べたくないか?」
鴉天狗の大将、大天狗の飯綱丸龍の誘いを、部下の射命丸文は右から左に聞き流した。この上司は二、三百年くらいは同じようなことを提案し続けている。一々まっとうな受け答えをしていたら、今までの間に総計一日分以上の時間を浪費していたに違いないと文は考えている。
当時から変わらず、龍は阿蘭陀
製の遠眼鏡を磨きながら話しかけてくる。昔「よく飽きませんね」と返したら「飽きるも何も、これは数年前に出島に来た蘭人が持ち込んだ最新型だ。これだから素人は駄目だ。もっとよく見ろ」と望遠鏡話に一刻は時間を取られる羽目になり、別種の面倒が発生するのだと文は学んだ。今でもよく飽きないなこいつという思いはあるが、それは心の中に秘めておくことにしている。
当時と今で何か違いがあるとすれば、龍という西洋かぶれの大天狗の言がここ最近は輪をかけてやかましくなったということだろう。理由は間違いなく明治直前から起こった近代化の波だった。黒船来航以来、この国の価値観はひっくり返り、科学や合理性などという考え方は妖怪の存続すら危うくするものだった(だから数年前に博霊大結界によりこの地は外界から隔離された)。だが、結界という防壁があってなお津波は幻想郷内部をも飲み込み、妖怪の中にすら自身の存在を消し去りかねないという負の側面があってなお、便利なもの良いものはあると外国文化を積極的に取り込まんとする者がいた。龍もその一人だ。
一方文は、西洋にそこまで関心がない。既にある風潮に乗るのではなく風は自分で起こすというのが文の信条だったが、近代化によってもたらされたあれやこれやに時流を作る価値があるのかどうかというのには未だ懐疑的だった。これまでも特定作家の浮世絵や算額が幻想郷で流行ったことがあったが、その全てに文が乗ったわけではない。流行りそうだから乗るのではなく、あくまで面白いと思ったものを耳触りがよいように広めるのが文なのだ。
「じゃあ家畜小屋から攫ってくればいいじゃないですか。確かそろそろ狩ってもいい頃合いでしたよね?」
家畜を料理して食べるという行為、西洋派からはやけにもてはやされているが、妖怪はずっと肉を食べてきたではないかと、文は刺さらない派だった。そのことで上司がやかましいというのが面白くないという方向に大幅に針を振っているという面は否めないが。
「里の牛は役畜だ。四六時中重労働しているしどれも老いてるから食肉用の家畜としては二流だよ。最初から食べるために太らせて、二年か二年半かしたら〆て食べる。それこそが至高なのだ。なあ?」
「可哀想に、射命丸殿はステーキの味すら知らないのです」
龍の手下の管狐まで龍の味方として出張ってきた。管狐とは種族単位で美食家であるからにして、それが自慢するのだからさぞ美味いのだろうとは文も思う。が、牛が美味いのは当然のことで、なぜ龍がそこまで鼻息荒く牛を食べようと誘うのかがやっぱり分からない。あとステーキとやらの味の良しあしは別として、この一々神経を逆なでする喋り方をする子狐は、龍の目が届かない場面だったら間違いなく一発ぶん殴っていたところだった。
「別に里の牛だって最初から大人ではないんですから、子牛のうちのものを攫えばいいじゃないですか。私は仕事があるので」
文の仕事とは新聞作りだ。元々木版印刷で刷ってはいたが、最近西洋式の活字印刷が妖怪の山にも入ってそれで刷ることができるようになった。これは文が受容した西洋文化だ。良しあしを都度自分で判断するというだけで文は別に反西洋ではない。便利なものは便利なのだった。
「まあ待て。お前の仕事とは新聞だろ? 新聞は書くのにネタがいる。牛肉を食べないかというのは新聞のネタになるんじゃないかというのもあっての提案なのだが」
「妖怪が牛を食べるということに今更なんの新規性があるんですか。せいぜい見開きの内側の日常生活の欄を数行埋めるだけですよ」
「牛ではない。牛肉だ。生肉を腸から食らうとかいう獣じみた食べ方ではなく、文明人として牛を屠殺し、文明人として牛を切り分け、文明人として調理して食べる。その全てを儀式的に行う」
「なるほど。それなら紙面の賑やかしにはなるでしょう。が、人間ごっこ、という誹り
は受けませんかね。正直私はそう感じずにはいられませんが」
「今回私はうつけ扱いだろうね。しかし五年後には逆に儀式にする価値もない日常になるだろう。そのくらい牛肉とは素晴らしい食材なのだ。で、五年後には逆に過度な攘夷志向の連中が老害行きさ。聡明なお前なら勘づくだろ? 儀式として牛肉を食べるというアイデアは文明への寛容さを測る踏み絵という意味もあるのだ」
「大鴉は口角を上げて意地悪く笑った」と、文はこの日の日記にそう書き残している。
†
山の七合目あたりの地点にある広場には百人近い天狗が集まっているだろうか。
龍による牛肉の誘いが(主に誘われた側の根負けにより)収まってから半年くらい。龍自身が言っていたが、牛が産まれてから育つまでに二年はかかる。半年ではできない。つまり龍はこの企画が賛同を得られるかどうか分からない、根回しをするより前に牛を育て始めていたということになる。文とて無知ではない。獣が数年育つのにもかなりの量の餌と敷地面積が必要になる。龍の口ぶりとその性格からして、牧畜を産業としてしようとしている可能性があり、そうであるならば育てている牛は一頭二頭ではないかもしれない。
「厄介な人に権力と金を集めたものよね」
文は今回の行事については消極的支持の立場をとっていた。本題の牛肉を食べるということの魅力を図りかねたのでまずは権力闘争の一幕として見ることにしていた。龍の積極的な文化運動は天狗社会の権力者層を動かしうる。もし龍が馬脚を現すようなら裏切って勝ち馬についてやろうかと考えていた。実現すれば一番楽しいことになっていただろう。
しかし、その可能性は低そうだ。龍の持つ政治力から逆算するに、その対立派閥の影響力は推して測るべきだ。文は正直面白みに欠けると失望した。
広場の中央には牛を吊るすための組木が二頭分ある。
「今日は二頭食べるんですか?」
文は龍に尋ねた。
「いや、一頭だ」
「じゃあどうして二頭分用意したんですか」
「前に言ったが、今回の行事は踏み絵でもある。絵を踏みたがらない輩はどうにかして妨害をするだろう」
「つまり牛が来ないかもしれないと」
「どうだろう。仮にそうなったら私は大失敗なわけだが、当然護衛はつけているし、牛を引いてる天狗も若いながら戦闘面では実力者だからな。襲撃は失敗するものと信じている。が、それで諦めるタマではないだろうから次の手を打つものとは予見しなければならない。つまるところ、高確率で牛は二頭来る。稀な確率でゼロ。正しく一頭だけ来るとはもとより考えておらん」
古来より偽物に化けて人を騙す、偽物を渡すというのは天狗の常套手段。自らの敵対者が伝統主義者である以上、そこは原則通りに来るだろうと龍は読んでいる。そもそも牛をごまかすには牛の数を足すか本物を除くかしかなく、後者が護衛の手により無理なら必然的に前者になる。
短気な天狗が牛はまだかと急かし始めたあたりで、龍の読み通り牛が二頭広場に入ってきた。
「ここで屠殺を一頭づつしかできない準備だったらどっちが正しい牛か見分ける格付けが始まってたわけだ」
「飯綱丸様ならそのくらいわけないことなのでは」
「いやあ、大天狗とまではいかなくともそれなりの格の天狗も向こう側にはいる。私といえども骨が折れる。最初から二頭分の用意をしておけば勝負する必要すらないからな」
二頭の牛は逆さ吊りに吊るされて、天狗の持つ太刀による絶命を待つばかりとなった。
「糞だな」
その様子を見ていた龍が唐突にそうつぶやき、文はこの場にも、一応淑女であるという龍の属性にも似つかわしくないその発言にぎょっとした。
「なんですいきなり」
「いや、偽物の牛を作るのにも皮の下に詰め物がいるだろ? で、一頭づつ吊るすという想定をするなら、一頭目に偽物を私が選んだ場合に二頭目を切れる状況ではなくなる、そういうものを詰め物には選ぶはずだ。私はそれを糞と読んだね。お前はどう思う? 一つ賭けとでも洒落込もうじゃないか」
「じゃあ私は石と賭けましょう」
二人の天狗は牛の首に向かってほぼ同時に太刀を斬りつけたが、龍と文から見て左側の牛がガキッという耳障りな音を立てて石を太刀の切れ目から大量に吐き出した。天狗は折れた太刀を手にしたままざわめきの中しばし呆然としていたが、これも偽物、ふと我に帰って背筋を伸ばしたかと思うと一匹の狸に姿を変じて逃げ去っていった。それを見た典は露骨に舌打ちをする。
「私の勘も鈍ったかな。まあ賭けはお前の勝ちだ。お代は金でも酒でも構わん。最近外来の瓶が手に入ってな」
「灘ですか」
「伏見だ。最近戊辰の戦乱からようやく復興したそうでな」
「それは重畳ですね。もっとも今の我々にはもはや関係のないことですが。まあ賭けの支払いをどうしてもらうかはもう少し考えておきます」
龍と文が即興の賭けの結果について話していると、鼻高天狗の大天狗が割り込んできた。
「あれは反対派の策謀かな」
「でしょうね」
「あいつらが用意した牛ですからね。お望み通り石の鍋でも食わせてやりましょうか」
この鼻高天狗は天狗内でも評判な皮肉屋なのだった。
「やめとけ。食器と燃料の無駄だ。こちとら牛肉を食べるのに忙しい」
「そうですよ。下賤な狸なんぞの手を借りなければ一手とて打てない零落した雑魚に労力を割くなど誠に無利益」
典があからさまな個人的な好き嫌いで龍に同調した。飄々として人を誑かすいつもの姿は欠片もない。
「そういう意味で言ったんじゃないんだがな……」
結局、解体場が広くて別に邪魔にならないこともあり石牛は適当に放置されて、本物の牛の解体だけが順調に進んでいった。肉が食えるならなんでもいいという賛同者の中でも一番蛮族なのは、地面に落ちた血が勿体ない、酒に混ぜて飲ませろなどと騒いでいた。止めに入ったのかはたまた賛同しにいったのか、鼻高天狗の大天狗は騒ぎの群れへと消えていった。
「ちっせえよな」
「血を飲ませろと騒いでる天狗がですか?」
龍が脈絡なく毒づいたのを聞いた文がその主語を尋ねる。
「我々の邪魔をすべく偽物の牛を混ぜた奴らが。本物を排除できなかったのは仕方ないにしても混ぜるのが一頭だけってなんだ。私が同じ立場だったら百頭用意するね。そもそもの発想のスケールが小さいんだよ」
「そうですよ。だから所詮あいつらは崇高なる狐も使えず狸野郎(かとうせいぶつ)に頼るしかないつまらん奴らでしかないんです」
「典よ。これには狐も狸もない。平凡な発想しかできなくなった奴はそれに見合った地位に収束していくという一般論だ。嘘もだよ。小さな嘘はより大きな嘘で覆い隠すことができる」
「詐欺師に悪知恵を与えるとか飯綱丸様も危ない橋を渡りますねえ。破滅しても知りませんよ」
「案ずるな。どうせ釈迦に説法だろうよ」
牛は皮を剥がされていた。皮は誰も食わないし他で使った方が有意義だと皆知っているので争いにはならない。次に内臓の摘出があり、ここで捨てるななんだという喧騒がまた訪れるのだろう。
「他愛ないな」
「他愛なくしたのは飯綱丸様でしょうに。私の知る限り、西洋文化を受け入れるか否かは天狗内でも賛否両論のはずでした。だから単に祭りを開いただけではここまで賛同者ばかりになるはずがないんですよ。大天狗なんて全員こっち来てるじゃないですか」
「まあ根回しはしたよね。とはいえちょっと『権限』を使って外の世界の料亭で接待したら大天狗組は全員こっち側についた。いいものはいい。美味いものは美味い。これは思想を超えた真理だよ」
「一応聞きますが天魔様は……?」
「牛肉は奉納した。ありがたく受け取ってもらえたよ。が、あのお方はコロンブス以前から大地が球体であることと新大陸の存在を知っていたようなお方だ。我々が今更何かすることでもないのだろう」
文は話を聞いていてとんだ八百長試合だと思った。お上が意思統一してしまっている時点で天狗という厳格な身分社会において上に反対するような意見が勝てる道理はない。ここまで圧倒的だと、前日まで飯綱丸様がコケたらそれを見た瞬間裏切ってやろうなどという想定をしていた自分が信じられない。
しかし、客観的には明らかに勝ちが確定しているのに飯綱丸様は余裕の表情ではなく、妙に引き締まった緊張した表情を見せている。それが文には気になっていた。
†
「やぁやぁやぁ」
牛から腸
が出てきたタイミングでまた外野がやかましくなった。が、その原因は予想されていたものとは異なる。先ほどまでこの場にいなかった天狗が増えたのだ。
乱入した天狗達は自分達の濡羽色の羽と対極をなす白色を基調とした和服の装束で統一していた。そこまではいいのだが、「攘夷」と大きく墨書されたのぼりを何本も掲げていた。文はその様子に痛々しさすら覚えた。
乱入者は彼女らが言うところの「伝統的装備」である日本刀で武装していたが、鬨
の声をあげて会場に一歩足を踏み入れた瞬間、自分達の三倍の兵数の警備兵に取り囲まれたとなってはそれを抜くことも叶わず。
「待って待って。私達は戦を仕掛けに来たわけじゃない」
と狼狽した声で弁明するばかりだった。
「戦でないとしたらなんだ、降伏か? そうであるならば幸いだ。命と生活は保証してやろう」
龍は龍で余裕の啖呵を切っているように見せているが、その顔は引きつった表情筋を無理やり動かしたかのような笑顔だった。
「話し合いよ。剣や銃ではなく弁論によってこの問題に雌雄をつける」
「面白い。どうしようもない脳筋共とばかり思ってたが中々見るべきところがあるじゃないか」
「当たり前よ。私達を誰だと思っていて」
文は彼女達に見覚えがあった。天狗内で発行されている最大手の新聞の編集グループ。確かに剣よりも筆が似合う連中だ。
そして、飯綱丸様が彼我の戦力差を考えれば不自然なほどに神経を尖らせていた理由も分かった。相手には大天狗はいない。競技という側面もある新聞発行は名目上は政治とは分離しているということになっているからである。しかし最大手ともなるとその代表はもはや大天狗と同格ともいえる権力を有している。政治からの分離という名目はどこへやら。天狗における第一の情報源とは第一にこの新聞になっているので一つ一つの事件に対する立場が非常に大きな影響力を持つ。しかもこの権力や影響力は大天狗とは別に、である。この点は名目を無視して大天狗の部下に収まっていないといけない文のような個人新聞主とは異なる。
乱入者は広場に持ち込んだ組み立て式の長机と椅子を並べた。掃除前の乱入だったせいで獣の血と消化しかけの内容物の臭いが残っているが、彼女達は全く意に介す様子もない。
龍は「野蛮人が……」と小声で悪態をついたが、すぐにこの様子は滑稽だと、典に命じて箱のような形の機械を持ってこさせた。
「やめなさい。そんなものを人に向けて」
新聞社の編集長が怒った。機械には黒目のない大きな一つ目が正面についていて、それが彼女の方を向いていた。
「銃じゃないんだから構わないだろ。この様子は記録すべきだ」
「私がカメラも知らない野蛮人だと思っていて? 誰が好き好んで魂を抜かれようとするっていうの」
「そういうところが野蛮人なんだろ」
龍はため息をついて鞄から銀製の板を取り出した。典に撮らせた自分の写真である。
「ほらこんなにイケメンに写る」
「はいはい美人美人。そんなこと言われたって私は写りませんからね」
編集長が高速飛行して挑発まで始めたので龍も渋い顔をして妥協せざるを得なかった。結局、写真機は机の新聞社側に、龍だけが写る配置で置かれることになった。
写真機の置き場所を決めるので自然に双方の関係者が着席したので、そのままなし崩しに議論が始まった。
「まず率直に、君達の要求はなんだ」
「今回の祭りの中止と、これ以上夷人
……外国の文化を導入することを止めることね」
「ではそれがなされなければ」
「私達は新聞発行を無期限に停止する。傘下の新聞や記者の派遣も含めて」
「到底飲めるものではないな。これは確かに交渉が必要だ。しかし、君達も牛を含む肉はこれまでも食べてきただろう? 食べ方一つでここまで非難する意図が分かりかねるね」
「これは牛を食べる食べないの話ではないということは貴方が一番よく分かっておられるはずよ。この場の主眼は、少なくとも貴方にとっての最大の目的は西洋人文化の示威的な紹介。貴方は伝統的な天狗のあり方を得体の知れぬ異物で上書きしようとしている」
「最近の新聞は活字印刷になったという理解なのだが。自分達は西洋文化の恩恵を受けておきながら他人のそれは否定するというのは二律背反ではないかね」
「活字印刷は主流でなかったというだけで、この国にも常に存在し続けていたわ」
「ではやはり、我々は今までも肉を食べ続けてきたではないかと主張せざるを得ないな」
「私達は伝統文化を守るという目的を達成する手段として技術を使う。貴方は手段そのものが目的と化している」
「誤解、というのは流石に情報専門の君達に言うのは失礼か。杞憂、というべきだね。西洋化は必ずしも妖怪の絶滅にはつながらない。私は英語を勉強するときに外国の小説を読んだ。吸血鬼という強大な妖怪にまつわる本だったが、それが書かれた時代のエゲレスは既に今の日本よりも遥かに工業化も科学信仰も浸透していた」
「その小説というのが問題なんでしょうよ。科学は人間に物事を説明する言語を与え、その言語は非文明社会では信じられないような速度で信じられないような範囲にまで伝播する。少し前まで実在してた妖怪が架空の物語の産物にまで堕ちる。このままだと我々の世界すらも実在しない小説の文字列に変質する、というのは決して杞憂ではないはずよ」
「人間
五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻
の如くなり。貴方の懸念よりももっと急進的な、この世界は特定個人の脳が見ている夢にすぎないという仮説すら世の中には存在する。しかし、仮に作り物だとしても、世界を構成するにあたって存在が期待される諸要素の全てがある以上、ここもまた我々の主観では正しく存在する世界だ。客観で見たときに現実か小説かというのは実は大した問題ではない」
「世界とは不安定なものよ。事実、人間の思考の変化で私達妖怪が消える危険があったから世界を結界で二つに分けた。近代化とは人間を太平の眠りから覚ます鐘の音のようなもの。それをよりにもよって私達の中で鳴らそうなんて正気の沙汰じゃない」
†
「ちょいと出かけますね」
文は議論勃発からずっと、机から少しだけ離れた場所でメモを取り続けていたが、おもむろに龍のもとへと近づいてそう告げた。
「帰るのか?」
龍は悲しそうな顔をした。
「いえいえ。しばらくしたら戻りますよ」
「そのしばらくがどのくらいかが問題なんだよ」
「それは交渉次第なんで。ただまあ、おかげさまでそんなに時間かからないと思います」
「何がおかげさまかは分からんが、そういうことなら。議論をして牛の解体が終わるまで多分三時間もかからない。牛の解体は記事にする上でも一つの見せ場だろうから……」
言い終わる前に文は飛び去った。
「あれが貴方の部下ですか。随分とそそっかしいですね。上司の統率力が見える」
「鴉天狗だからといって無条件に私の支配下にあるわけじゃないよ。天狗ってのは元来自由なものだ。それは他でもない鴉天狗のお前達が一番よく分かってることだろうよ」
文が飛び去った後も話し合いは続けられたが、互いに歩み寄る意志は見せることなく、その意志通りの結果に落ちていった。
「遺憾ながら両者の溝は埋まりそうにないわね。我々は宣言通り、職務の無期限停止を宣言します」
編集長は椅子から立って、部下に命じて机を片付けさせ始めた。龍もむしろもっと早く会議が瓦解に終わるものと思っていたので、しばらく前から机は撤収されるものと卓上には紙切れ一つ置いていなかった。
「遺憾ながら、はこちらの台詞なのだがね」
今日という一日も気が付けば三分の二が終わっていた。初秋とはいえ標高の高い妖怪の山は夕方になるとだいぶ気温が下がる。冷たい風が編集長と龍の間にも吹いた。
「本当に残念だよ。黙って時代の流れに従ってさえいれば地位も守れただろうに」
「『時代の流れ』ではなく『貴方が作った流れ』でしょうが。我々はその傲慢に鉄槌を下すのです」
「時代の流れとは星の巡りだ。その分野で私に楯突こうなどと千年早い」
「貴方の流れに従っていれば千年どころか百年も経たず天狗族は滅亡ですよ。貴方がそれまでに改心して我々を元の地位に戻してくださることを期待しています。では、御機嫌よう」
乱入者達は北風に乗って去っていった。後には黒く長い鳥の羽が数本だけ残った。
祭りの参加者達はその瞬間だけは静かにざわめいていたが、すぐに先ほどまでのことが歴史上存在しなかったかのように、牛の見物やら雑談やらに戻っていった。
「あやや。会議はもう終わってましたか」
それからおよそ三十分後、文は机がなくなった広場に、拍子抜けした顔で降りてきた。
「そりゃもうお前が去ったときの状態から進展のしようもないからなあ。この分だと長く、五年くらいは対立が続くかね。まあ予想通りのことではあったし、改革には痛みを伴うものとは覚悟していたつもりだが、なんだかんだで胃は痛いよ」
「ふふん」
「なんだよ気味悪い」
「もう一回賭けをしません? 私は三年もすれば収まるものと思ってます」
「賭けには乗らない。その様子だと、何か仕込みをしたな? 出かけたのは仕込みのためだ」
龍は眉間に皺を寄せた。
「流石にバレますよねえ」
「何をした?」
「河童のところに。実はあいつらの耳が最近やたらと早くなって気になってたんですよ。案の定新しい通信手段を持ってやがりました。『デンシン』って言うらしいです。言葉の響きから察するに、神を伝書鳩みたいに使って通信するんでしょう」
「その理解は色々と間違えてる」
「原理が分からずとも使い道と使い方が分かれば用をなすのですよ。原理なんてものはそれこそ河童にでも食わせておけばよいのです」
「お前はそういうところがなんというか小賢しいんだよ。で、河童を脅して電信を使わせたと」
「いやいや。私が腕っぷしを使ったのはデンシンの存在を引き出すところまです。使用許可をあいつらから引き出すためならこれの力を使った方が早いですもん」
文は片手で金のサインを作った。
「それはそうだな。しかしお前、河童組織一つ動かせるほど裕福だったか?」
「心配は無用です。請求書の名義は全部飯綱丸様にしたので」
「はあ!?!?!?」
「先の賭けの支払いはこれということで。お酒は大丈夫です」
「こっちが大丈夫じゃないよ」
龍は味方がとんでもない狂人だったと頭が痛くなった。というより、最早ここまでくると味方かどうかすら怪しい。
「お前実はあの新聞社とグルじゃないのか? 私を経済的に追い詰めて弱体化させようという」
「心外ですよ。まさか私がそんな管狐みたいな下衆なことをするわけないじゃないですか」
「外道な天狗には言われたくないね」
典が横から抗議の声を挙げる。
「いやいや。私だって独立した新聞記者としての誇りがありますから。私なりにこの問題を解決しようとしているのです」
「ほう。日和見という意味で烏だと思っていたが」
「烏とは決して日和見ではなく賢い鳥なのです。まず前提として、あの新聞社のような旧態依然とした体制は確実に朽ち果てる木です。これは飯綱丸様も分かっておられることでしょう」
「そうだな」
「飯綱丸様は待っていれば木が折れることが分かっているから、それを最低五年と見積もって待つ方針にすることにした。しかしですね、どうせ折れるのが分かっているのならとっとと新しいものに変えてしまうべきでしょう」
「それがお前の積極策か。……前近代の情報伝達体制を河童の電信網を利用して置き換える。……更にはこれで河童との結びつきを強め、利用できるものがあれば他の技術も輸入する」
「流石ですね。一を聞いて十を知るとはまさにこのこと。私は自分なりに判断して、情報に関する技術はむしろどんどん受け入れて情報を加速させるべきと考えましたよ。そうすればあんな旧態依然とした新聞組織は一瞬で価値を失って、新しい新聞体制はなし崩しに、混乱もなく構築されます。個人的には版木を手彫りするのも活字を一個一個並べるのも両方面倒くさいんで次はそれを自動化できないものかなと」
文が龍の理解力に感嘆の表情を見せるのに対して、龍は背中に寒けを覚えた。部下が自分の金に無断で手を付けたと知ったときの比ではない。
「……それが、天狗を破滅させる危険性を妊む、崖の両端に張った縄の上で曲芸をするような行為だということは、一瞬でも考えなかったのか?」
龍の声は震えていた。
「はて? 私は飯綱丸様ほど察しよくはありませんので」
「端的に言うとだ、お前は情報の主導権を河童に譲り渡そうとしている。河童がもし電信網を封鎖したらどうなる? 河童が人間に情報を伝達するようになって『風の噂』が『水の噂』になったら? 我々の存在意義が丸々一つ消滅するんだぞ」
「誤解しておられますね。主導権は未だ我々の側。手段の一部において河童と共同することはあるでしょうが、仮に不都合があれば、こちらが情報を出さなければあいつらは干上がるのです。今回も速報で山の注意をこちらに向けさせ、しかる後にわ
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の新聞を撒く、そういう計画の補助として河童を使ったまでです。逆に考えてもみてください。あれだけの技術を持っていてそれで少なくとも情報分野に関しては完全に我々に劣後しているのは、そもそもあいつらに情報を使ってどうこうという意思も知恵もないからです。これは種族の優劣の問題なので、多少我々が手を加えたところで変わるものでもない」
「ううむ。結局のところ賭けなのではないかと思わずにはいられないな」
「おや、賭けはお嫌いで?」
「私が賭けるのは負けたときの損害が個人で及ぶ範囲だけだ。組織としては確実に勝てるように準備から入念に手を打つ。今日だってそうだ。まあ、今日で個人的な賭けも控えた方がいいのかと思い始めたが……」
「私のいないうちに何か酷い目にでも遭いましたか?」
「あのなあ……」
龍は文を説教しようとしたが、白狼天狗に声をかけられ、祭りの方を放置していたことを思い出した。全く気が付かなかったが「とっとと肉を食わせろ」という怒号も聞こえてくる。
龍は牛の解体の指示をしに向かった。そして「写真映えするから」と文を連れていき、「これがロースでばら肉はこの位置から……」などと説教の代わりにねちっこく講釈をして文を辟易とさせたのだった。
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広場の至るところに七輪が置かれ、それぞれが木炭の煙を細く上げていた。龍はそのうちの一つに、横に文を座らせて陣取った。まだ七輪に火をつけただけで上に置く鍋の用意は途中だが、既に龍は酒瓶の一本目に手を付け始めていた。
「残酷なことだが、ただ存在するだけで妖怪は人間に恐怖を与えることができる、そんな時代はもう終わったんだ。結界があったとしても、人間が進歩することは完全には止めることはできない」
「飯綱丸様の行動原理が焦りなのだろうとはおぼろげながら分かってきました。しかし、いくらか悲観的すぎやしませんか? 人が鳥を弓で射る時代から銃で撃つ時代に移ってなお、制空権は我々の側にあり続けています」
「そうした驕りが破滅を生みかねないのだ。人間とて、魔法や科学の翼をいつ得たものか分かったもんじゃない。というか既に一部では得ているのだから、あとはそれが全体に普及するかしないか。ここの部分における人間の早さはお前も知ってるだろう。私が悲観的なのはそうかもしれないが、私の立場ともなると判断一つで我々全体が繁栄するか絶滅するかの分かれ道を作りかねないのだよ。だから」
「だから?」
「少なくとも、牛肉の味が旨いことを一番よく知ってるのは我々天狗でなければならない」
龍が鼻息を荒くするのに、文はため息をついた。
「結局それに行き着くんですね。まあそれはいいとして、これはなんです?」
文の言う「これ」は二人の近くに机を置き、ネギのざく切りを作り続けていた。既に大きな半球の器三つがネギで埋まっていたが、その倍か三倍のネギが棒のまま残っている。
「人に向かってこれとは失礼ね。それよりめぐむん、ネギを切る担当もう一人増やしてよ」
「失礼なのは貴方ですよ。失礼な空気感を出してるからこっちも丁重に扱おうという気が失せるんじゃないですか。誰ですめぐむんって」
「めぐむんは私だ」
龍は苦笑した。
「こいつは新人の天狗でな。名を姫海棠はたてと言う。姫海棠の親から私が教育を任されたので『今風に』したのだが」
文は「教育をした結果がこれですか」と言いかけたが、まだ素面だったので言ったら失礼にあたるなという理性が辛うじて上回った。
「見ての通り、いささかリベラルに育てすぎた」
「私の性格なんて今はどうでもいいじゃない。今の問題は山積みされたネギの加工よ。ちょうどそこに暇してるカラスが一羽いるんだからさあ」
「はたてや、ネギを斜め切りにするだけなんてそう手間でもなかろう。面倒くさがらずにやる!!」
「もっと他に教育すべきところがあると思うんですけれど。性格とか」
結局文は失礼を選んだ。
「既にできた性格はそう簡単に変わるものではないよ。お前が一番よく分かってるだろうに」
「ねー」
「よってたかって酷い。こんなに公明正大な天狗、他にいないってのに」
「それ、本気で言ってるなら逆に尊敬ものだな」
「いや、だから今は性格の話よりもネギを切るのが」
「無問題無問題。どうせ調味料も運ばないといけないんだ。今から手の空いてる天狗に蔵まで取りにいかせて、戻って来るころには丁度終わる計算だ」
「んまあ、そういうことならいいか」
「いいんかい」
「というわけで」
「はい?」
龍に顔を向けられた意図を数秒文は理解しかねた。時間差で得た結論は「手の空いてる天狗」とは自分のことらしいということで、遺憾なことにその結論で合ってたらしかった。
天狗社会において上司とは概ね横暴だ。仮にこれを指摘したとして、持っている権力を行使しているだけ、相応の責任も負っているといったお決まりの回答が返って来るだけだろう。しかし横暴は横暴と断定せざるをえないと、文は樽に詰まった味噌を抱えて空を飛びながら小声で愚痴をこぼす。
今回がまだ不平等でないところは、材料の用意が完了したら後の作業をするのはどの鍋でも上司側だというところだ。至極当然な前提として、宴会の料理になる「牛鍋」なるものの作り方を普通の天狗は知らない。
龍は味噌と醤油と酒と砂糖をそれぞれ同量ずつ混ぜたものを作った。これが鍋の味になるようだが、隣の鍋では明らかに酒の量が多いものが作られていた。それを作っている天狗は既に大量の酒が入って赤ら顔になっている。
肉も、牛の体から塊を切り分けるときはロースがどうバラがどうと言っていたのに、それが皿に乗った状態で来てからこの肉の部位はなんですかと聞いても、牛肉ならなんでもいいじゃないかと返される。どうも牛鍋という料理は適当なものらしかった。
鍋は浅い鉄鍋だ。それに油を敷き、厚板をぶつ切りにしたような肉(この切り方もまた適当なのだ)を並べ、上にネギと混ぜていた調味料を置く。
あとは一度肉をひっくり返して両面に火を通しつつ、蓋をして煮ると完成とのことだった。ただ、確かに蓋をされた鉄鍋からはグツグツという音がするとはいえ、鍋というには水が少ない気がする。「焼き」という名称を入れる方が実態に即しているのではないかと文が問うと、そうかもしれないと龍は答えた。どこまでいっても適当だ。牛肉を調理するという行為には人を適当にする作用があるのかもしれない。
龍は牛肉食に関して天狗が最も先進的であるべきだと主張していて、今回の席は啓蒙という目的があるはずだ。しかし、その割に、鍋の主導権はどの席でも龍のような、元々牛肉料理を食べ慣れている上司側が握っているような気がしてならない。これが文の感想だった。
牛鍋が多くの天狗にとって見慣れぬ料理とはいえ材料から味の予想はでき、当然肉とネギでは肉の方が美味いだろうから、鍋を駆け回る箸は肉を取り合う戦いを演じることになる。龍は「その肉はまだ煮えていない」「生肉を食べるようでは野蛮な獣と変わらない」などと部下の箸を牽制しつつ、自分の箸ではまだほのかに赤みの残る肉を攫っていた。
文はこの様子は、柿の木に群がる猿のようだと思った。暇なときにたまに猿の観察をすると、柿にしろ他の果実にしろ、一番熟れた美味しい実は大体親の猿の口に入る。力も知恵も子よりも親の方が強いのでやむを得ないのだろう。ただ五個に一個くらいの割合で、子供も実を拾うのに成功して、猿の親とて子供が持った実を横取りするほど意地汚くはないようである。
龍もまた、部下が牽制を越えて肉を拾うことに関しては無頓着だった。親猿のごとし。
しかし天狗と猿との違いとして、今龍の周りで同じ鍋を囲んでいる面々は誰も血縁関係にはないのだった。龍がはたての教育者だが、血の繋がりとしては赤の他人で、本能的に母性が刺激されることはない。親子や家族の愛という本能に頼らずにこの場の秩序は形成されている。
天狗は猿より進化している。文は、今度の記事はそう結論づけようと決めてフレーズを手帖に書き込んだ。
作者様の意図するところを読み取れていなかったり、こちらの認識に誤りがあるかもしれませんが、旧体制派も言っていることそれ自体、『近代化による妖怪の絶滅危機』については現代の外が実際にそれを証明しており、しかしそれを押しとどめようとするという手段が現実的ではない。それに対して、受け入れたうえで自らも変わっていくという飯綱丸の方針が現代の幻想郷の在り方であり、今後その結果として生き延びるか滅びていくのかはこれからという点では、まだ正解がどちらかは断定ができないのかなと(どちらが誤っているかはともかく)。
文のように近代文明に対して使い道と使い方が分かればいいという考えが多いのだとすると、やっぱり私達の霖之助さんは役に立たないなあと飛び火しつつ、文明の発達の話を散々した後に『猿より進化している』で締めるのは相変わらずのセンス。楽しめました。
牛肉を食べたいだけの話かと思ったらそれが文化の変化を推し進めるかどうかの意思表示とするなんてすばらしい発想だと思いました
電信についても広まったら一発で常識が変わりそうな気がしますが、結局人間の後追いにしかなっていないところに妖怪たちの限界も感じました