業風吹き荒び地は赤錆に荒れ果て、高さを競うが如く無秩序に赤黒く禍々しい天上へと摩天楼の伸びる、不健全な光と饐えた血腥さに満ち溢れた畜生界中枢の巨大都市。土地を奪い合うように粗末な造りの露店が道に張り出し、ぐっと幅の狭くなった路地を、生暖かく湿った風に吹かれながら一人の男が歩いていた。
骨と皮しか見当たらぬ痩せこけた風体が背の高さと相まって七節を彷彿とさせる、胼胝だらけの骨ばった手ばかりが異様に目立つ男であった。見窄らしく褪せたカーキ色の帽子と外套に身を包み、街を営む血気と活力に満ち溢れた獣達の視線から逃れるような項垂れた姿勢と鎖を繋がれた囚人のような足取りで当て所無く彷徨っている。
男は元は霊長園に生息する凡庸な人間霊の内の一匹であった。彼もまた、例に漏れる事無く強大なる畜生に対して抵抗する術を持たず、奴隷として過酷な労役を科せられ、畜生界のヒエラルキー最下層として味気の無い腐り果てた日々を過ごしていた。転機は霊長園に造形神が降臨した事である。神自身は畜生の奇策により倒されたものの、祈りによりここまでの事態を引き起こした人間霊の評価は見直され、つい先日、霊長園の一部は解放される事となったのであった。
最早動物霊に力で抑えつけられ、牛馬の如くに扱き使われる事は無いという吉報に、霊長園は異様な熱気と万雷の喝采に包まれ、男もまた熱気に浮かされるように自由を取り戻さんと市街へ繰り出した。
だが、毳々しく下品なネオンサインと俗悪な色で塗り立てた看板が所狭しと路地に並ぶ渾沌そのものの都市の中、記憶の奥底を探ろうとも、出てくるのは従事した労働と男を顎で使う驕傲な獣の顔貌ばかり。洒落た店の在り処の一つも知らず、男はただ奴隷として道具に徹していた己の知識の貧しさ、そして人生の空虚さに愕然とせざるを得なかった。
皆揃ってビカビカと過剰に主張する広告群は却ってその個性を損い騒がしいばかりの背景と化しており、香辛料の刺激臭と石油の匂い、そして噎せ返るような獣臭がツンと鼻を刺し、喧しい客寄せの音楽と動物霊の甲高い喧騒が頭上を飛び交うメトロポリス。海牛、骨歯鳥、蝦蛄、鱘に雷竜、果ては真田虫までも、ネオンに照らされ行き交う獣はいずれもギラギラと覇気と熱意の籠った力強い眼差しをして所作も堂々たるもので。何処へと惹き付けられる事もなく抜け殻同然に水気を含んだアスファルトの路地を漂うばかりの男には、活力に満ち溢れた玉虫色に黒く輝く都市の姿はひどく疎外感を募らせるものだった。
ズカズカと肩で風を切り大股で路地を進む剛毅な獣の群衆に押し流されるように男が漂着したのは、果たして地味な一軒の酒場。仄暗い店内を照らす暖色のランタンの柔らかな光でぼうと獣の獰悪な輪郭が浮き出し、カラコロと男が鳴らしたドアベルに鋭く耳が欹てられる。そそくさとカウンターに座り、酒の良し悪しも判らぬ男は適当な安酒を頼んだ。店内に垂れ流される音楽に混じり、コントラバスの音色を思わせる低い声の侃々諤々とした獣の会話が店に響く。聴けば、その話の話題は何れも社会や仕事に関するもの。この場に居る全ての畜生が己の役割を持ち、都市の営みを支えている事を目の当たりにした男は自問する。
今の己の姿はどうか。漸く手にした自由で何をした? ただ自由を与えられても持て余すばかりだ。何の役にも立たず、世界の事を何も知らず、都市の何処にも居場所のない惨めな有様。覇気も無く草臥れた己に対し、何を為すべきかきちんと心得ている動物霊のなんと力強い事か。己はこのままで良いのだろうか、否、良い筈がない。己の役割を持たなければ。生き甲斐を手にしなければ。それすら無い者の生きる価値とは一体何なのか。
俄に、男の褪せた瞳が輝きを取り戻した。最早目的も無く揺蕩うだけの瘋癲では無くなった。グラスに注がれた鼈甲色の液体をぐいと一息に飲み干して席を立つ。勘定を済ませ店を出て、自らの意思で以って喧騒に包まれた通りを歩く男の背中は、先程までより大きく見えた。
「最早人間霊が奴隷のように働く必要はありません。埴安神袿姫様の御手によって創り出された我ら埴輪が貴方達に代わって病みも疲れも知らぬ働き手となるのですから」
判を押したような変わり映えの無い灰色の無機質な建物が果てしなく広がり、寒々しい光が画一的に紋様を描く霊長園。生き甲斐を探しに戻ってきた男を迎えた光景は、およそ漲る生命、滾る血脈、そのような有機的なものの発生する余地の一切を排除された土と水で造られた埴輪の園であった。男に応対する埴輪の完璧な美を象って創られたセラミックス製の硬質な顔貌が、生身の人間と寸分違わぬ所作で人間に好感を持たれるのに最も効率の良い笑顔の形へと歪む。辺りに働くは全てが埴輪であり、遊びの無い動作で人間より遥かに素早く正確に各々のタスクを黙々と熟している。
堅固にして人間を遥かに上回る効率での作業を可能とする埴輪達が息の詰まる様な密度でびっしりと聳えるビルの中で四六時中最大効率で働き続ける霊長園の社会の一体何処に、病み、疲れもする脆弱にして蝸牛の如く遅々とし完璧なる合理性からはかけ離れたパフォーマンスしか持たない肉の塊である男が入り込む余地が存在するだろうか。最早霊長園の中に於いて、男が居ようと居まいと何ら変わるものなど無かった。ただ男が果たす事を許された役割は、埴輪の齎す莫大なる恩恵をただただ無為に享受し、貪り、家畜の様に生かされ続ける事だけであった。
最早自分は誰にも必要とされず、気にも留められる事が無いという事を思い知った男は失意のどん底へと叩き落された。奴隷の身分すら剥奪され偶像により肥え太らされる一方の未来に希望を持つ事などできなかった。再び目から輝きを失い、燃焼し尽くした灰のように頽れる男に対し、埴輪は人間と全く見分けのつかない心配の表情を顔に貼り付ける。
全てが与えられ何をする必要も無い楽園を装う緩慢な絶望の園の只中に在って、男の全ての意気はまるで空虚に意味を失い空回る。その絶望の深さと大きさを示すが如くに、突如として霊長園を立つことすら儘ならない程の激甚なる地鳴りが襲った。男も埴輪もデスクもコンピュータも、ビル内の物全てが例外なく玩具のように軽々と転がり振り回される。黒い頑強な壁面にすら大きな亀裂が入り、凄まじい崩壊音と共に土煙を上げ崩れ去った建物の残骸の中から男が見た光景は、己の眼を疑う程に巨大な怪物が圧倒的なる力を以て霊長園を蹂躙する地獄絵図であった。
煙を上げ燃え盛る火の海と化した地平に沈む瓦礫の山に君臨する凌雲の巨躯の身じろぎ一つが天を揺るがし地を戦慄かせ、文明の象徴たる摩天楼が彼の大魍魎の一挙一動でいとも容易く崩れ去る。霊長園に顕現せし大焦熱の赫々たる獄炎より尚紅く、底無しの欲望を湛え悪魔じみた横長の瞳が炯々と眼光を放ち、喰らう怨念と同じ深紅の色彩に染まりし捻れ大角が天を衝く。ファインセラミックスの重装甲を麩菓子の如くに噛み砕く顎門には如何なる猛獣をも凌駕する鋭利で貪欲なる白亜の刃がずらりと生え揃い、その様正に浮世の全てを喰らい尽くす獣の王。遍く獣を統べ畜生界の頂に立つは──
「饕餮ッッ‼ 鬼傑も勁牙も霊長園を開放し空白となった此処の全てを手中に収める腹積もりかッッ‼」
瓦礫を吹き飛ばし埴輪が咆える。地平を埋め尽くす無尽無数の兵団が迎え撃つ神の造形術により瞬く間に生み出され、古今無双なる欲望と暴食の大神獣と畏れ敬われ崇められし救い垂らす旧き造物主との霊長の命運を賭けた頂上決戦の火蓋が切られた。爆音満天下に轟き渡り、破壊の怒涛が忽ちにして街区画の悉くを灰燼と帰す。
望む景色全てを覆う無量茫漠の大軍勢が鬨の声を上げ神器を振るい、破竹の侵攻怖れを知らず。鏑矢驟雨となりて降り注ぎ数多なる剣の輝き鮮烈に迸り、巨影の大質量に勝る幾百万の物量の神の軍隊が大廈を呑む埴輪の大津波となりて巨獣を飲み込み強襲を掛ける。しかし抜山蓋世の大怪獣、猛烈なる攻勢に晒されながらも毫も怯まず顎を開き、街を貪り地盤を噛み砕き幾千の神兵を一口に喰らう無極無限の健啖と、山嶺を砕きて更地と還し大地を抉りて谷と割り開く驚天動地の膂力を以って、霊長園の街並みを諸共に一帯の軍団を塵芥の如くに粉砕する。手勢が千体喰われようとも埴安神が彫刻刀を握る創造の御手をひとたび振るえば千五百の尽きぬ増援を創り出し、千の傷を負わされようとも饕餮が喰らう埴輪を血肉と代えれば須臾の間隙にて塞がり癒えて、戦えど戦えど両者の暴威は一向衰える事がない。
雄大なる神々の恐るべき大戦争の足元で、男を始めとした矮小なる人間霊共は虫螻の様に逃げ惑う他に為す術などあろう筈も無かった。空中に数多の光条を曳いて四方八方より誘導弾が饕餮の高楼に匹敵する巨体に殺到して空を赤く染め上げる爆炎を上げ、半ばから圧し折られた高層ビルが錐揉み回転しながら宙を舞い、戦闘の衝撃波で巻き上げられた地盤と瓦礫が天より雨となって降り注ぎ、底も見えない地割れが広がり奈落の底へと街が崩れ落ちていく未曾有の天変地異の中、男ら人間霊はなんとか埴輪達の指示に従って、命からがら装甲に守られた地下壕へと逃げ込む事が出来た。ひどく無機質で硬質な壁が、今はなんとも頼もしい。
決して狭くはないシェルターの中は大勢の避難民が犇めき合い、息苦しい人いきれに満ちていた。不安と恐怖が表情に現れていない者は一人もおらず、男もまたその内の一人である。外の激戦を物語る世界が終わるのではないかと錯覚する程の激烈な震動と耳をつんざく轟音が引いては押し寄せる波濤さながらに繰り返し繰り返し襲い掛かり、人混みにのしかかる重苦しい緊張の質量は時と共に弥増していく。
さめざめと絶望の嗚咽が静けさに消えるだけであった焼き物の箱の中で、一人の老人の嗄れた敬虔な祈りの声が訥々と天へと昇っていった。祈りの声は次第に増える。かつて造形神に捧げたのと同じ、心底よりの救世主を求める健気で純粋な信仰は、いつしか部屋中に広まった。埴安神を崇める祝詞の厳かな斉唱が幾度も反響し、いよいよ男一人を除いた全員が、神に助力する祈祷を捧げる。
救いを求める思念は温かく輝く光芒となって渦巻き、霊験を増す信仰として神の許へと昇りゆく。しかし蒼く深き原初の神秘を宿したその光景の中に於いてすら、男は埴輪を創りし造形神に祈る事は出来なかった。破壊の限りを尽くす饕餮の姿の、なんと壮麗にして荘厳な事か! 彼女が埴安神を打倒した暁には、男を含む人間霊は労働力として扱われる事だろう。斯様に偉大なる獣の下で働かされるという事が、つまりは男に大きな役割を与え、ひいては人生に大きな意義を齎すものだと、彼は盲信してやまなかった。
男の信仰とも言える畏怖がふと埴安神を離れ饕餮に注がれた瞬間、隕石の落下を思わせる先刻までとは比較にもならぬ衝撃が地を穿ち、土壕の内にすらドッと重心を失う程の震動が押し寄せ、身の毛もよだつ咆哮がビリビリと耳朶を打った。肚裡の臓腑を揺さぶる跫音は時を追う毎にこちらに近付き、暴力的なまでの振動が嫌が応にも神の力が魔獣の威力の前に敗れた事を悟らせる。己等の祈りの非力さを悔いる人間霊の中にあって、男は己の不信心こそがこの決戦の勝敗を分けたのだと、饕餮に勝るとも劣らぬ大神たる埴安神の敗因に唯一真に迫った当を付ける事が出来た。
男などには手出しの出来ない次元の巨大な戦いの行方を信心一つで左右した事が何かを為す事に執着する男の琴線に触れたのだろうか、或いは饕餮の元にて労役に服せられる事への喜びか。百人の人間を一度に掴み上げすらできよう白く大きな手が規格外の剛力で厚さ十数尺の装甲を紙切れも同然に捲り上げ、頭上にギラリギラリと紅き瞳をどす黒く輝かせ歯を剥き出しにした笑みを湛える凶相が現れた時、男は他の人間霊と同様に恐れ慄き震えながらも、その顔貌の口角は、僅かに挙上されていた。
骨と皮しか見当たらぬ痩せこけた風体が背の高さと相まって七節を彷彿とさせる、胼胝だらけの骨ばった手ばかりが異様に目立つ男であった。見窄らしく褪せたカーキ色の帽子と外套に身を包み、街を営む血気と活力に満ち溢れた獣達の視線から逃れるような項垂れた姿勢と鎖を繋がれた囚人のような足取りで当て所無く彷徨っている。
男は元は霊長園に生息する凡庸な人間霊の内の一匹であった。彼もまた、例に漏れる事無く強大なる畜生に対して抵抗する術を持たず、奴隷として過酷な労役を科せられ、畜生界のヒエラルキー最下層として味気の無い腐り果てた日々を過ごしていた。転機は霊長園に造形神が降臨した事である。神自身は畜生の奇策により倒されたものの、祈りによりここまでの事態を引き起こした人間霊の評価は見直され、つい先日、霊長園の一部は解放される事となったのであった。
最早動物霊に力で抑えつけられ、牛馬の如くに扱き使われる事は無いという吉報に、霊長園は異様な熱気と万雷の喝采に包まれ、男もまた熱気に浮かされるように自由を取り戻さんと市街へ繰り出した。
だが、毳々しく下品なネオンサインと俗悪な色で塗り立てた看板が所狭しと路地に並ぶ渾沌そのものの都市の中、記憶の奥底を探ろうとも、出てくるのは従事した労働と男を顎で使う驕傲な獣の顔貌ばかり。洒落た店の在り処の一つも知らず、男はただ奴隷として道具に徹していた己の知識の貧しさ、そして人生の空虚さに愕然とせざるを得なかった。
皆揃ってビカビカと過剰に主張する広告群は却ってその個性を損い騒がしいばかりの背景と化しており、香辛料の刺激臭と石油の匂い、そして噎せ返るような獣臭がツンと鼻を刺し、喧しい客寄せの音楽と動物霊の甲高い喧騒が頭上を飛び交うメトロポリス。海牛、骨歯鳥、蝦蛄、鱘に雷竜、果ては真田虫までも、ネオンに照らされ行き交う獣はいずれもギラギラと覇気と熱意の籠った力強い眼差しをして所作も堂々たるもので。何処へと惹き付けられる事もなく抜け殻同然に水気を含んだアスファルトの路地を漂うばかりの男には、活力に満ち溢れた玉虫色に黒く輝く都市の姿はひどく疎外感を募らせるものだった。
ズカズカと肩で風を切り大股で路地を進む剛毅な獣の群衆に押し流されるように男が漂着したのは、果たして地味な一軒の酒場。仄暗い店内を照らす暖色のランタンの柔らかな光でぼうと獣の獰悪な輪郭が浮き出し、カラコロと男が鳴らしたドアベルに鋭く耳が欹てられる。そそくさとカウンターに座り、酒の良し悪しも判らぬ男は適当な安酒を頼んだ。店内に垂れ流される音楽に混じり、コントラバスの音色を思わせる低い声の侃々諤々とした獣の会話が店に響く。聴けば、その話の話題は何れも社会や仕事に関するもの。この場に居る全ての畜生が己の役割を持ち、都市の営みを支えている事を目の当たりにした男は自問する。
今の己の姿はどうか。漸く手にした自由で何をした? ただ自由を与えられても持て余すばかりだ。何の役にも立たず、世界の事を何も知らず、都市の何処にも居場所のない惨めな有様。覇気も無く草臥れた己に対し、何を為すべきかきちんと心得ている動物霊のなんと力強い事か。己はこのままで良いのだろうか、否、良い筈がない。己の役割を持たなければ。生き甲斐を手にしなければ。それすら無い者の生きる価値とは一体何なのか。
俄に、男の褪せた瞳が輝きを取り戻した。最早目的も無く揺蕩うだけの瘋癲では無くなった。グラスに注がれた鼈甲色の液体をぐいと一息に飲み干して席を立つ。勘定を済ませ店を出て、自らの意思で以って喧騒に包まれた通りを歩く男の背中は、先程までより大きく見えた。
「最早人間霊が奴隷のように働く必要はありません。埴安神袿姫様の御手によって創り出された我ら埴輪が貴方達に代わって病みも疲れも知らぬ働き手となるのですから」
判を押したような変わり映えの無い灰色の無機質な建物が果てしなく広がり、寒々しい光が画一的に紋様を描く霊長園。生き甲斐を探しに戻ってきた男を迎えた光景は、およそ漲る生命、滾る血脈、そのような有機的なものの発生する余地の一切を排除された土と水で造られた埴輪の園であった。男に応対する埴輪の完璧な美を象って創られたセラミックス製の硬質な顔貌が、生身の人間と寸分違わぬ所作で人間に好感を持たれるのに最も効率の良い笑顔の形へと歪む。辺りに働くは全てが埴輪であり、遊びの無い動作で人間より遥かに素早く正確に各々のタスクを黙々と熟している。
堅固にして人間を遥かに上回る効率での作業を可能とする埴輪達が息の詰まる様な密度でびっしりと聳えるビルの中で四六時中最大効率で働き続ける霊長園の社会の一体何処に、病み、疲れもする脆弱にして蝸牛の如く遅々とし完璧なる合理性からはかけ離れたパフォーマンスしか持たない肉の塊である男が入り込む余地が存在するだろうか。最早霊長園の中に於いて、男が居ようと居まいと何ら変わるものなど無かった。ただ男が果たす事を許された役割は、埴輪の齎す莫大なる恩恵をただただ無為に享受し、貪り、家畜の様に生かされ続ける事だけであった。
最早自分は誰にも必要とされず、気にも留められる事が無いという事を思い知った男は失意のどん底へと叩き落された。奴隷の身分すら剥奪され偶像により肥え太らされる一方の未来に希望を持つ事などできなかった。再び目から輝きを失い、燃焼し尽くした灰のように頽れる男に対し、埴輪は人間と全く見分けのつかない心配の表情を顔に貼り付ける。
全てが与えられ何をする必要も無い楽園を装う緩慢な絶望の園の只中に在って、男の全ての意気はまるで空虚に意味を失い空回る。その絶望の深さと大きさを示すが如くに、突如として霊長園を立つことすら儘ならない程の激甚なる地鳴りが襲った。男も埴輪もデスクもコンピュータも、ビル内の物全てが例外なく玩具のように軽々と転がり振り回される。黒い頑強な壁面にすら大きな亀裂が入り、凄まじい崩壊音と共に土煙を上げ崩れ去った建物の残骸の中から男が見た光景は、己の眼を疑う程に巨大な怪物が圧倒的なる力を以て霊長園を蹂躙する地獄絵図であった。
煙を上げ燃え盛る火の海と化した地平に沈む瓦礫の山に君臨する凌雲の巨躯の身じろぎ一つが天を揺るがし地を戦慄かせ、文明の象徴たる摩天楼が彼の大魍魎の一挙一動でいとも容易く崩れ去る。霊長園に顕現せし大焦熱の赫々たる獄炎より尚紅く、底無しの欲望を湛え悪魔じみた横長の瞳が炯々と眼光を放ち、喰らう怨念と同じ深紅の色彩に染まりし捻れ大角が天を衝く。ファインセラミックスの重装甲を麩菓子の如くに噛み砕く顎門には如何なる猛獣をも凌駕する鋭利で貪欲なる白亜の刃がずらりと生え揃い、その様正に浮世の全てを喰らい尽くす獣の王。遍く獣を統べ畜生界の頂に立つは──
「饕餮ッッ‼ 鬼傑も勁牙も霊長園を開放し空白となった此処の全てを手中に収める腹積もりかッッ‼」
瓦礫を吹き飛ばし埴輪が咆える。地平を埋め尽くす無尽無数の兵団が迎え撃つ神の造形術により瞬く間に生み出され、古今無双なる欲望と暴食の大神獣と畏れ敬われ崇められし救い垂らす旧き造物主との霊長の命運を賭けた頂上決戦の火蓋が切られた。爆音満天下に轟き渡り、破壊の怒涛が忽ちにして街区画の悉くを灰燼と帰す。
望む景色全てを覆う無量茫漠の大軍勢が鬨の声を上げ神器を振るい、破竹の侵攻怖れを知らず。鏑矢驟雨となりて降り注ぎ数多なる剣の輝き鮮烈に迸り、巨影の大質量に勝る幾百万の物量の神の軍隊が大廈を呑む埴輪の大津波となりて巨獣を飲み込み強襲を掛ける。しかし抜山蓋世の大怪獣、猛烈なる攻勢に晒されながらも毫も怯まず顎を開き、街を貪り地盤を噛み砕き幾千の神兵を一口に喰らう無極無限の健啖と、山嶺を砕きて更地と還し大地を抉りて谷と割り開く驚天動地の膂力を以って、霊長園の街並みを諸共に一帯の軍団を塵芥の如くに粉砕する。手勢が千体喰われようとも埴安神が彫刻刀を握る創造の御手をひとたび振るえば千五百の尽きぬ増援を創り出し、千の傷を負わされようとも饕餮が喰らう埴輪を血肉と代えれば須臾の間隙にて塞がり癒えて、戦えど戦えど両者の暴威は一向衰える事がない。
雄大なる神々の恐るべき大戦争の足元で、男を始めとした矮小なる人間霊共は虫螻の様に逃げ惑う他に為す術などあろう筈も無かった。空中に数多の光条を曳いて四方八方より誘導弾が饕餮の高楼に匹敵する巨体に殺到して空を赤く染め上げる爆炎を上げ、半ばから圧し折られた高層ビルが錐揉み回転しながら宙を舞い、戦闘の衝撃波で巻き上げられた地盤と瓦礫が天より雨となって降り注ぎ、底も見えない地割れが広がり奈落の底へと街が崩れ落ちていく未曾有の天変地異の中、男ら人間霊はなんとか埴輪達の指示に従って、命からがら装甲に守られた地下壕へと逃げ込む事が出来た。ひどく無機質で硬質な壁が、今はなんとも頼もしい。
決して狭くはないシェルターの中は大勢の避難民が犇めき合い、息苦しい人いきれに満ちていた。不安と恐怖が表情に現れていない者は一人もおらず、男もまたその内の一人である。外の激戦を物語る世界が終わるのではないかと錯覚する程の激烈な震動と耳をつんざく轟音が引いては押し寄せる波濤さながらに繰り返し繰り返し襲い掛かり、人混みにのしかかる重苦しい緊張の質量は時と共に弥増していく。
さめざめと絶望の嗚咽が静けさに消えるだけであった焼き物の箱の中で、一人の老人の嗄れた敬虔な祈りの声が訥々と天へと昇っていった。祈りの声は次第に増える。かつて造形神に捧げたのと同じ、心底よりの救世主を求める健気で純粋な信仰は、いつしか部屋中に広まった。埴安神を崇める祝詞の厳かな斉唱が幾度も反響し、いよいよ男一人を除いた全員が、神に助力する祈祷を捧げる。
救いを求める思念は温かく輝く光芒となって渦巻き、霊験を増す信仰として神の許へと昇りゆく。しかし蒼く深き原初の神秘を宿したその光景の中に於いてすら、男は埴輪を創りし造形神に祈る事は出来なかった。破壊の限りを尽くす饕餮の姿の、なんと壮麗にして荘厳な事か! 彼女が埴安神を打倒した暁には、男を含む人間霊は労働力として扱われる事だろう。斯様に偉大なる獣の下で働かされるという事が、つまりは男に大きな役割を与え、ひいては人生に大きな意義を齎すものだと、彼は盲信してやまなかった。
男の信仰とも言える畏怖がふと埴安神を離れ饕餮に注がれた瞬間、隕石の落下を思わせる先刻までとは比較にもならぬ衝撃が地を穿ち、土壕の内にすらドッと重心を失う程の震動が押し寄せ、身の毛もよだつ咆哮がビリビリと耳朶を打った。肚裡の臓腑を揺さぶる跫音は時を追う毎にこちらに近付き、暴力的なまでの振動が嫌が応にも神の力が魔獣の威力の前に敗れた事を悟らせる。己等の祈りの非力さを悔いる人間霊の中にあって、男は己の不信心こそがこの決戦の勝敗を分けたのだと、饕餮に勝るとも劣らぬ大神たる埴安神の敗因に唯一真に迫った当を付ける事が出来た。
男などには手出しの出来ない次元の巨大な戦いの行方を信心一つで左右した事が何かを為す事に執着する男の琴線に触れたのだろうか、或いは饕餮の元にて労役に服せられる事への喜びか。百人の人間を一度に掴み上げすらできよう白く大きな手が規格外の剛力で厚さ十数尺の装甲を紙切れも同然に捲り上げ、頭上にギラリギラリと紅き瞳をどす黒く輝かせ歯を剥き出しにした笑みを湛える凶相が現れた時、男は他の人間霊と同様に恐れ慄き震えながらも、その顔貌の口角は、僅かに挙上されていた。